ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

ボスニア・ヘルツェゴビナの悲しみ……アドリア海紀行(9)

2016年01月23日 | 西欧旅行…アドリア海紀行

   ( 共生と和解を象徴する橋 )

11月30日 

 昨夜はこの旅の最後の夜。「晩餐」のためにホテルのレストランに集まった一行の皆さん、そろって小奇麗な服に着替えておられ、自分一人が、相変わらずの薄汚れたシャツにダウンのチョッキ。少々気恥ずかしい思いをする。偶然なのか?? それとも、日本人ツアーの新しいマナーなのだろうか?? …… あのまま街に残って、街角の和食レストランで、行き交う人々を眺めながら、気ままにワインを傾けるべきだった…。                              

 それでも、まあ、こうしてツアーに入ると、一応、行く先々の土地の料理が出され、何より味が日本人向けにアレンジされていて、量も少なめで、日々、かなり完食できた。

 そのせいもあってか、旅を通じて元気だった。一番良く歩いたのはプリトビチェ湖国立公園のハイキングで、約15000歩。しかし、参加者の年齢が高く、ゆっくりゆっくりしたペースだったから、腰痛も翌日に持ち越さなかった

 ただ、こういうツアーの唯一・最大の欠点は、几帳の奥の姫君を、几帳の隙間からちらっと垣間見るような感じで、次々と連れまわされる旅であるということだ。姫君にお目通りしたことがあるとか、姫君を存じ上げている、と言うには、多少とも、姫君と顔を合わせ、言葉を交わしたことがある …… という程度の、主体的な何か……「経験」が必要であるように思う。 … それは、「体験」を取り入れたツアーなどということではなく…… 「経験」とは、一人一人の心の中に起き、対象との心の対話によって成立し、大なり小なり個人を変えるものである。

         ★

つ目の国へ国境を越える >

 今日は国境を越える。

 ドゥブロブニクを出発して、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国のモスタルへ約140キロ、3時間。モスタルで昼食と簡単な観光の後、首都サラエボまでも約140キロ、2時間30分。サラエボの街を簡単に観光して、夜、サラエボ空港から、イスタンブール行きに搭乗。深夜、イスタンブールで、関空行きに乗り継ぐ。

         ★

 いつもより30分ほど早く、7時半にホテルを出発した。

 いいお天気だ。旅行の間ずっと、お天気に恵まれた。気温も、旅の期間を通じて想定していたより10℃ほど高く、大阪の秋と変わらなかった。

 バスは、しばらく、一昨日来た道を、アドリア海に沿って北上する。

 秋の朝、太陽の位置はまだ低く、空気が澄み、光は斜光となって陰影をつくる。青空を映す紺碧の入江。深い入江をつくる延びた半島。そして、小さな島々…。

      ( 車窓風景 : アドリア海の美しい入江 )

 やがて、ボスニア・ヘルツェゴビナ領がアドリア海に達している箇所 (ネウム)まで来て、スーパーマーケットでトイレ休憩。

 バスは、その先、クロアチア領のプロチェで道を右折した。アドリア海と別れ、内陸部へ向かう。

 これでアドリア海ともお別れである

  ( 車窓風景 : さらば!! アドリア海 )

 野や畑や山あいの道となる。

   ( 丘の上の墓地のある教会 )

 やがて、道路が山間部に入って、ボスニア・ヘルツェゴビナとの国境の検問所に着いた。

 多少の緊張を覚える。

 我々の前に観光バスが1台停められていて、降りて様子を聞きに行った運転手と添乗員が言うには、随分時間がかかっているらしい。しかし、そのバスがスタートすると、我々のパスポートを一括して検問所に持って行った運転手と添乗員は、すぐに検査を終えニコニコして帰ってきた

 3つ目の国の国境を越えた。

 …… バスの車窓から見るボスニア・ヘルツェゴビナの山村風景、農村風景は、心なしか、スロヴェニアやクロアチアよりも貧しいように思う。

 山は、灌木がまばらに生えただけで、麓の村にはモスク (イスラム教の寺院) の塔が、まるで発射台のロケットのように見える。

    ( 車窓風景 : 山並み )

 道路の横をずっと川が流れている。あるときは村の中を。あるときは原野を。そしてあるときは山峡を、川が流れ、バスは川に沿いながら走る。

 そう言えば、アドリア海岸から国境までも、バスはおおむね川沿いを走っていた。同じ川が、ボスニア・ヘルツェゴビナ領に入っても、ずっと続いているのだろうか??

 地図を見ると、ネレトヴァ川。ボスニア・ヘルツェゴビナを代表する河川の一つで、アドリア海へ注ぐ。これから行くモスタルの町を流れる川も、この川だ。

 

     ( 車窓風景 : ネレトヴァ川 )

                       ★

< ボスニア・ヘルツェゴビナの悲哀 >

 外務省のホームページ等を参照にし記述すれば、ボスニア・ヘルツェゴビナの歴史はおおよそ次のようである。

 古代ローマ時代は端折る。

 14世紀、南スラブ民族の一派が、ハンガリー王国から独立する形でボスニア王国をつくった。

 1463年、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)を滅亡させたオスマン帝国が、ボスニアを征服。以後、1878年にオーストリア・ハンガリー帝国の支配下に入るまで、400年以上もこの地はオスマン帝国領であった。

 なお、ボスニアには、カソリックから異端とされ、激しい迫害に遭ってきた人たちがいた。オスマン帝国が侵略してきたとき、この人たちは、キリスト教徒になるよりもイスラム教に改宗した方がマシだと考えて、ムスリム(イスラム教徒)になった。今、ボシュニャックと呼ばれる人たちである。

 第一次世界大戦後、敗戦国となったオーストリア・ハンガリー帝国から独立して、セルビア人、クロアチア人、スロベニア人によるスラブ民族の王国ができた。この国は、その後、第二次世界大戦を経て、ユーゴスラビア社会主義連邦になる。ただ、この間、スラブ民族による統合とは言え、セルビア人の支配が強いことに対する不満が、他の民族のなかに、常時、底流としてあった。

 1991年にスロベニア、クロアチアが独立宣言をしたのに続いて、ボスニア・ヘルツェゴビナにおいても独立を求める声が多数となり、92年、内戦に突入した。

 スロベニアは、ほとんどの住民がカソリック系のスロベニア人だったから、あっさり独立してしまった。

 クロアチアでは、多数のクロアチア人に対して少数 (人口の25%) のセルビア人(正教系)が抵抗し、そのセルビア人をユーゴスラビア軍(セルビア軍)が助けたため内戦は激化、双方に虐殺や暴力事件が起こった ( 当ブログ「アドリア海紀行 4」参照 )。

 ボスニア・ヘルツェゴビナにおいては、事態はさらに複雑で、深刻であった。

 内戦勃発時における、ボスニア・ヘルツェゴビナの人口は430万人。その民族構成は、ボシュニャック (イスラム教徒) 系44%、セルビア系33%、クロアチア系17%であった。3つの民族のうち、独立を目指したのはボシュニャックとクロアチア系で、独立を阻止しようとしたのはセルビア系住民とこれを応援するユーゴスラビア軍(セルビア軍)であった。

 内戦は3年半に渡り、3つの民族が全土で覇権を争って戦闘を繰り広げた。その結果、死者数20万人、難民200万人という、大戦後の欧州で最悪の悲惨となった。

 1995年に和平合意成立。

 その内容は、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国は、ボシュニャックとクロアチア系住民が中心の「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」とセルビア系住民が中心の「スルプスカ共和国」という二つの主体から構成される一つの国家である、というものであった。

 今も、例えば、元首について言えば、3つの民族から選出された3名による大統領評議会メンバーが、8か月ごとの交代制で議長を務めることになっている。

        ★

< 「スレブレニツァの女たち」 > 

 昨年(2015年)、BSで、「スレブレニツァの女たち…虐殺の町・遺族の20年…」というレポートが放映された。

 ボスニア・ヘルツェゴビナの東部にある小さな町・スレブレニツァは、キリスト教の教会 (正教)とモスクが仲よく並んで建つ平和な町であった。住民の7割はボシュニャック (イスラム教徒)、3割が正教徒で、互いに同じ職場に勤めて仲よく働き、家族的な交流もあった。

 そこへ内戦が勃発。国の東部はセルビア系が支配したから、ムスリムの多いスレブレニツァは孤立した。国連平和維持軍が町に入って守っていたが、セルビア軍はかまわず侵攻し、国連軍は町を明け渡して、撤退した。

 侵攻してきたセルビア軍は、女性と子供を支配地域から追い出し、男性は皆殺しにした。虐殺された人数は、8千人と言われる。

  今、町に共同墓地がある。墓地には6千の墓標が並ぶ。 

 しかし、今も、女たちは月に1回、写真を掲げてデモをする。内戦が終結してすでに20年、まだ発見されていない私の夫や息子の遺骨を早く見つけてほしいと、当局に訴えるデモだ。

 ある高齢の女性は言う。「夫の遺骨は10年前に見つかり、墓地に埋葬できたが、夫の横に埋めてやりたい息子の遺骨は未だに発見されない。私の今の人生は、そのためだけにある。もう20年も待ち続けている。20年よ!!」。「息子は25歳だった。私たちが避難先へ向かうとき、男は全員殺されるという情報が入って、落ち合う場所を決め、息子とはここで別れた。息子は何度も振り返りながら、森の中へ消えた。彼は優しい子で、少年時代から詩を書いていた。内戦には参加していないし、武器も手にしていない。森の中で殺されたという情報があるが、未だに遺骨は発見されていない」。

 発見しにくいのは、虐殺を隠すため、セルビア軍が無数の地雷を敷設したからだ。遺骨を探すということは、地雷を一つ一つ除去していく、という作業なのだ。まさに、1センチずつしか進めない。遺骨を発見できても、DNA鑑定のために、長い年月がかかる。

 「当局」の中にはセルビア人もいる。彼は言う。「セルビア人も、この町で3千人が殺された。まだ、遺骨が発見されていない遺族もいる。なぜあなた方の息子だけが『虐殺された』被害者として世界から同情され、優先されるのか!!」。

 こうして、人口1万人のこの小さな町で、今も2つの民族は憎しみを克服できず、対立し、住み分けて暮らしている。小学校の授業も、歴史の時間だけは分かれて行う。

                          ★

< EUの亀裂、ロシアの思惑、アメリカの力の低下 >

 ボスニア・ヘルツェゴビナのNATO、EUへの参加は、まだ認められていない。多民族の共生を謳うヨーロッパ共同体への参加は、ボスニア・ヘルツェゴビナの宿願とされている。しかし、昨年 (2015年) の暮れに放送された「NHKスペシャル・シリーズ  激動の世界」の第2回「大国復活の野望…プーチンの賭け」を見ると、その行方は、必ずしも明るいとは言えない。

 まず、EU自身、「ヨーロッパ共同体」という理念に、亀裂を生じている。

 EUの中で、貧富の差が広がっている。金持ちの国 (ドイツ) は一人勝ちし、いくつかの国 (イタリア、スペイン、ギリシャなど) の財政基盤は脆弱となっている。最貧国・ギリシャに対する持てる国ドイツ・メルケルの措置は非情で、もはや「共同体」とは言えない。

 難民受け入れ問題でも、ヨーロッパの世論は真っ二つである。「右翼政党」が政権を握ったハンガリーは、難民受け入れ拒否の柵を国境に張り巡らした。フランスでも受け入れ反対とEU離脱を訴える「右翼政党」が選挙で大勝した。ドイツでも、メルケルの難民受け入れ大風呂敷に、各地で反対の声が上がっている。一番多く難民が流入してきているのは、ギリシャである。国民も飢え、難民も飢えている。

 (ドイツの地域住民の、「静かな地域共同体が壊される」「増大する難民を全部受け入れるなんて無理な話だ」、という当然の不安に対して、頭から「それはナチズムだ」「極右」と決めつける人権派の住民の感情的な非難にも、疑問を覚える。戦前、戦中に、「お前はアカだ」という非難の仕方をした人たちと同じである。黒か白かの二元論しかない世界は怖い。世の中の多くのことは、日本の梅雨の時期の木々の緑のように、同じ緑と言っても微妙な色調と濃淡にけむり、多元的であるはずだ)。

 当然のことながら、ロシアは、自国の国境線までNATO、EUに迫られることを良しとしていない。 EUかロシアかというウクライナ内部を二分した対立は、NATO、EUとロシアとの間のウクライナ争奪戦に発展した。ロシアは決してクリミア半島や東ウクライナから手を引かないだろう。

 バルカン半島の旧ユーゴスラビア地域には、まだNATO、EUに加盟していない国がある。その一つがボスニア・ヘルツェゴビナ共和国である。

 そこには、不満を募らせる少数派のセルビア人がいる。セルビアは、伝統的にロシアに親近感をもつ。「ロシアと連帯し、セルビア人の独立した国家を!!」━━━ こういう政治的動きが、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国内のセルビア人住民の間に広がりつつあり、その後ろにプーチンの影がある、というのである。

 以上は、公平中立を旨とするNHKが取材・報道した内容の紹介である。ただし、(    )の中は、報道内容に私的意見を入れた。

 冷戦が終結したころの一時代は終わった。あのころ(ベルリンの壁が壊れたとき)、東欧諸国のどの国も、EUに入ることに未来の夢をつないだ。ヨーロッパという、民族を超えた「共同体」に参加したいと思ったのだ。

 しかし、今、そのEUにも、亀裂が生じてきている。

 一方、中国も、ロシアも、国民のナショナリズムに火を点けて、勢力圏を拡げようとしている。

 アメリカにおいても、大統領候補者たちのスピーチは、一様に排外主義的で、国民のナショナリズムを煽り、大衆迎合に走っている。

 アメリカの力が弱まって行くにつれて、世界は互いにエゴとエゴをぶつけ合い、混迷の度を深めていく。

 我々日本人も、もう一度、全員で世界の情勢をよく見て、その上で、さて、日本をどうするか、考えた方がよい。

         ★

 < 世界遺産のスタリ・モストと旧市街を見学する >

 サッカー日本代表監督ヴァヒド・ハリルホジッチは、モスタルで高校生活を送り、才能を認められて、18歳でモスタルのプロチームに入り、プロサッカー選手としてのスタートをきった。

 選手生活を引退した後、モスタルに帰って、古巣のチームの監督もしたが、そのとき内戦が勃発。自身、銃撃戦に巻き込まれ、重傷を負い、全ての資産を失ってフランスに亡命した。今はフランス国籍である。

 バスがモスタルの町に入り、バスを降りた所は、何の変哲もない地方都市だった。

 が、しばらく歩くと、突然、異文化の世界が出現した。イスラム圏のバザールのように、道の両脇に、スカーフ、カバン、金属細工の様々な装身具類、陶磁器などを売る小さなショップが並び、飲食店もあり、その向こうにイスラム教のドームやミナレットが見えた。

              ( モスタルのバザール )

 やがて、スタリ・モストと呼ばれる石橋があり、橋の先にも、しばらくショッピングエリアは続く。

 スタリ・モストとは、「古い橋」という意味らしい。

          ( ネレトヴァ川とモスタリ・モスト )

 橋の幅は4m、全長30m、川面からの高さは24m。橋を守るために、要塞化された塔(モスタリ)が両側に配置されている。モスタリとは「橋の護衛者」という意味で、モスタルという町の名は、ここに由来するそうだ。

 オスマンの旅行者は、「橋は一方の崖から他の崖へと延び、空まで舞い上がる虹のようだ」と書いた。

   ( スタリ・モストから川下の橋を見る )

 ボスニア・ヘルツェゴビナの「ヘルツェゴビナ」とは、ボスニア地方の南隣にあるヘルツェゴビナ地方のことだが、その語源は、「公爵」(ヘルツェグ)らしい。つまり、ヘルツェゴビナとは、「公爵領」というほどの意味合いをもつ。

 1440年代に、スチェパン・ヴクチッチという公爵の爵位をもつヘルツェゴビナの領主が、ここに木製の橋と2つの塔を築いた。

 しかし、1468年、この地は、侵攻してきたオスマン帝国の支配下に入る。

 ごくごく小さな村だったモスタルは、オスマン帝国の下で、アドリア海への交易ルートの中継地として発展していく。

 1566年には、スタリ・モストは、ネレトゥヴァ川を渡る重要な橋として、石橋に架け替えられた。命じたのは、オスマン帝国の英雄・スレイマン1世である。当時において、最も高い技術による建造物だった。

 橋の両側には「旧市街」が発展し、人口は1万人に及び、ヘルツェゴビナ地方の行政の中心地となっていった。

 1992年からの内戦のとき、ユーゴスラビア軍はこの町のモスクやカソリック系の教会を破壊した。そのあと、町に入ったクロアチア軍は正教会の建物を破壊した。93年、クロアチアの民族主義的民兵によって、スタリ・モストとその周辺の旧市街は破壊された。

 司令官は、今、虐殺の罪も含めて国際法廷で裁かれ、服役している。

 紛争終結後、スタリ・モストと旧市街の復興が進められた。橋はユネスコの支援を受けたトルコの企業により、当時のままの技法で再建され、2004年に完成した。

 2005年、スタリ・モストとその周辺は、ユネスコの世界遺産に認定される。認定に当たっては、再建を経ることによって、多民族・多文化の共生と和解の象徴になった、という側面も評価された。

  (次回、サラエヴォへ続く)

 

 

 

 

 

 

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アドリア海の真珠と称えられたドゥブロヴニク … アドリア海紀行(8)

2016年01月10日 | 西欧旅行…アドリア海紀行

 10月29日

 海のほとりの眺めの良いホテルに2泊し、今日は一日かけて、ドゥブロヴニクを観光する。しかも、午後は自由時間 …… 旅はかくあるべし。気持ちもゆったりし、街の歴史・文化、空気を感じることができる。

         ★

< 「アドリア海の真珠」と称えられたドゥブロヴニク >

 ドゥブロヴニクが海洋貿易で活躍し、多くの富を集めて最も輝いたのは、15、16世紀のころである。ヴェネツィアが 「アドリア海の女王」 と称えられたのに対して、ドゥブロヴニクは 「アドリア海の真珠」 と称賛された。17世紀の大地震で、城壁とスポンザ宮殿を除いて街は一度崩壊するが、その後、再建された。

 城壁に囲まれ、海に臨む、中世そのままの美しい街並みは、今、クロアチア旅行の人気ナンバーワンである。

 1979年に世界遺産に登録された。

 しかし、1991年の内戦時には、セルビア軍によって70日間包囲され、数千発の砲弾が撃ち込まれたともいう。

 95年の内戦終結後、ユネスコの支援によって世界中から各分野の専門家がボランティアで集まり、街の修復に取り組んだ。その結果、98年には街は元通りに修復され、「アドリア海の真珠」は再びその美しさを取り戻した。

         ★

< ドゥブロヴニクは、クロアチア共和国の「飛び地」である >

 ドゥブロヴニクは、クロアチア共和国の最南端にある。すぐ南に国境があり、国境の先はモンテネグロ共和国。国境を越えると、東ローマ(ビザンチン)帝国の文化圏である正教の国になる。

 ドゥブロヴニクには、北側にも国境がある。

  昨日、スプリットから、アドリア海の海岸線をドゥブロヴニクへ向かう途中、1カ所、ボスニア・ヘルツェゴビナ領を横切った。ここだけ、ボスニア・ヘルツェゴビナ領が西に伸びてきて、アドリア海に達している。その海岸線の巾は約20キロ。だから、クロアチア共和国の最南端のドゥブロヴニク一帯は、飛び地なのである

 前回の記述で、この奇妙な国境線は内戦によるものであろうと軽々しく推測したが、違っていた。この奇妙な国境線のいわれは、もっと歴史的なものだ。

 現在のボスニア・ヘルツェゴビナ共和国は、かつてはそっくりオスマン帝国領として組み込まれていた。オスマン帝国領が、今見るような形で、アドリア海に突き出ていたのである。

 その時代、その北側のアドリア海沿岸の諸都市 = スプリット、トゥロギール、シベニクなど = は、「アドリア海の女王」と呼ばれたヴェネツィア共和国の傘下にあって、超大国・オスマン帝国と対峙していた。ヴェネツィアは都市国家だったが、頑張っていた。

 1571年、西欧キリスト教国とオスマン帝国の海軍、双方合わせて20万人が激突したというレパントの海戦において、キリスト教国側の軍船の半分はヴェネツィアの艦隊であったが、このとき、ダルマチア地方出身の海の男たちも多数、参戦していて、ヴェネツィアと運命を共にしたのである。(塩野七生『レパントの海戦』)。  

 このころ、ドゥブロヴニクは、ラグーサと言い、ヴェネツィアの傘下を出て独立し、海洋国家として羽ばたいた。オスマン帝国に対しては、いわば朝貢関係にあった。ラグーサ共和国なりのリアリズムである。ヴェネツィアの勢力圏とラグーサ共和国との間に割って入る形で、オスマン帝国領があったのである。

        ★ 

< ドゥブロヴニクは、歴史上、「ラグーサ共和国」として登場する >

 ダルマチア地方は、早くから古代ローマの一部であった。

 西ローマ帝国滅亡後は、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の版図となるが、東ローマ帝国の力は弱く、7世紀ごろからスラブ系民族が侵入し、10世紀にはクロアチア王国を立てた。そのクロアチア王国も、やがて、ハンガリー王国に組み込まれる。

 ただ、アドリア海の海岸沿いの港々は、そもそもの起こりが、古代ローマ時代にラテン人が築いた町であった。

 故に、10世紀、ヴェネツィアが海洋貿易に乗り出したとき、その傘下に入って共に戦い、それまで多大の被害を被って来たスラブの海賊を、アドリア海やダルマチア地方の川筋、谷筋から、追い出した。

 これらの町の呼称も、シベニクは、当時はイタリア語でセベニーコであった。スプリットはスプラート、そして、今はスラブ語 (クロアチア語) でドゥブロヴニクと呼ばれるようになっているが、この港町が「中世の博物館」のような町になる前、海洋貿易によって活況を呈していた中世の時代には、イタリア語でラグーサと呼ばれていた。ラグーサ共和国である。

 ヴェネツィアはやがて、アドリア海の女王から東地中海の女王へと飛躍していく。このヴェネツィアに対して、東方貿易の市場を争って、150年の間に4度の竜虎相打つ戦いをしたのが、ジェノヴァであった。

 特に第四次ジェノヴァ戦争 (1378年) は、ひどかった。東の陸地からはハンガリー王国に攻められて、ダルマチア沿岸の港町は全て取られてしまう。ハンガリー王は、これらのヴェネツィアの基地の利用をジェノヴァに許し、ジェノヴァ海軍はアドリア海の奥深く攻め入ってきたのである。さらに、西の陸地からはパドヴァ軍が攻め入る。3方から攻め込まれ、ヴェネツィアは、リド島の内側に籠って、孤立無援の戦いを戦ったのである。

 結局は、ヴェネツィアの不屈の戦いが起死回生の勝利を生むのであるが、このころ、ラグーサはハンガリー王国に付き、やがて、ラグーサ共和国として独立し、オスマン帝国が侵攻してきたときにはこれに貢納する形で、名を捨てて実を取り、小さいながらも海洋貿易国家として全盛期を迎えるのである。

 なお、この頃には、ドゥブロブニクは、流入してきたスラブ系民族であるクロアチア人(カソリック)を受け入れ、二つの民族が共存するようになった。

         ★

< ロープウェイでスルジ山へ上がる > 

 朝、混まないうちにと、いきなりロープウエイ駅に案内され、スルジ山に上る。

 スルジ山はドゥブロヴニクの背後にある標高412mの山。繁栄したラグーサ共和国の水源の山である。

   ( スルジ山のロープウェイ )

 なにしろ、ドゥブロヴニクはクロアチア観光のハイライトだから、朝からツァーの観光客が方々のホテルから湧きだしてくる。われらが添乗員は、ベテランでかつ賢い女性だから、いち早くロープウェイ乗り場に導き、陣取りして、たいした待ち時間もなく頂上へ。

 頂上の展望台に立つと、ガイドブックやパンフレットの写真でよく見る、城壁に囲まれた旧市街の全貌が見えた。

 城壁の長さは、全長約2キロ。要所には要塞や塔があり、高い所では海から25mの高さがある。

 城壁の上を歩いて1周することができ、その眺めは素晴らしいとガイドブックにある。午後の自由時間の最大の期待である。

 町の東側 (写真の左側) には、聖イヴァン要塞と聖ルカ要塞に守られた旧港がある。

 

  ( スルジ山から見下ろした旧港 )

   港に臨む大きな建物は、手前からドミニコ会修道院 (今は美術館)、スポンザ宮殿 (かつての税関、今は古文書館)、総督邸 (元老院などの機関も並置されていた) である。

 この港から遊覧船に乗り、紺碧の海からこの街を眺めることもできると、『地球』に書いてある。午後の自由時間の二つ目の楽しみである。

         ★

< ドゥブロヴニクの街を歩く >

  城壁の中の旧市街には、旧港の反対側・町の西を守るピレ門から入る。門の上には、この町の守護聖人である聖ヴラボの像が立つ。

 

                ( ピレ門 )

 ピレ門の脇の城壁はいかにも高い。上にはクロアチア国旗が翻っている。

(城壁の上にたなびくクロアチア国旗)

 ピレ門をくぐると、メインストリートのプラツァ通り。

     ( プラツァ通り )

 門のすぐ左手にフランシスコ会の修道院があるが、ここには1391年に開業したというヨーロッパで3番目に古い薬局がある。一行のおばさんたちが早速、ハンドクリームなどを買っていた。(そういうことは午後の自由時間にやってほしいものである … とは決して言わない)。

 ヴェネツィアが都市国家であるように、小なりとはいえ、ドゥブロヴニクも共和国であるから、城壁の中ですべてが完結するように町は整備されている。スルジ山から引かれた水は、ピレ門を入った所の広場の噴水となり、上下水道も完備している。ペストなど伝染病が発生したときのための隔離病棟、養老院や孤児院も整備され、成文法によって統治されていた。

 石畳が美しい。これは、ドゥブロヴニクだけでなく、クロアチアに来て、ずっと感じていたことである。

   ( 市街地 )

 プラツァ通りを300mほども進むと、もう反対側の城壁近くのルジャ広場に出る。

   正面に立つのはバロック様式の聖ヴラホ教会。ドゥブロヴニクの守護聖人を祀る。

 街全体がバロックでてきている感じだ。バロックの街として最高に素晴らしいのはやはりローマであるが、ここも小なりとはいえ、美しい町である。

 ただ、ドイツの多くの教会などもそうだが、教会の中に入ると、バロック様式やロココ様式の内部装飾には辟易する。昨年、フランスのゴシック大聖堂を見て回り、この春、ブルゴーニュ地方のロマネスク大聖堂を見て回った目には、それらのもつ清らかな美しさや鄙びた美しさと比べて、バロックの装飾過多は、かなりしんどい。これは、個人の感じ方であるが、同時に、応仁の乱以後に形成された日本人の美意識でもあると思う。金箔で飾られた寺院や仏像よりも、古色を帯びた寺や、寺の跡に心惹かれ、白木のままの神社のたたずまいにゆかしさを感じる。そして、20世紀に入って、西欧諸国においても、人々の感性に大きな変化が起こった。豪華絢爛や成熟の美よりも、古拙の美や鄙びたものの美しさ、簡素なもののもつ美を好む感性が主流となってきた。人は感性においても、不変ではない。

 午前の観光の最後に、旧港のそばのレストランで昼食をとった。この時間には、小さな旧市街の中は、世界からやって来た観光客であふれ、とりわけ中国人の団体客の多さには驚く。

   ( 旧港の船着き場)

         ★

< 紺碧のアドリア海から、ドゥブロヴニクを遠望する >

  天気は良いが、風が強く、波が高い。

 船酔いしたら苦しいだろうと、ちょっとためらったが、思い切って海上遊覧に参加に手を挙げた。添乗員のSさんがレストランの主人に掛け合ってくれる。レストラン経営に加え、遊覧船も経営しているようだ。海が荒れて、客が減り、午後は出航しないつもりだったらしい。

 大丈夫かな? と思われるような小型の船に、参加者はわずかに6名。接岸している岸辺ですら、船は激しく揺れている。カメラをしっかり手にし、出航する。

 

          ( 出 港 )

 船の進む前方は見ない。遠ざかる街の方へカメラを構える。

 揺れが大きく立っていられないから、床に腰を下ろして、ファインダーの狙いを定める。

 船は、横波を食らわないよう、波に対して直角に進む。

 大波に直角に当たり、乗り上げる。前方を見ていないから、不意打ちである。

 体全体が跳ねとばされるように持ち上がる。

 波だけが写っている。

 船酔いするような、優雅な航海ではない。

 

    ( 海の中にいる!! )

 それにしても、紺碧のアドリア海に、不沈戦艦のように浮かぶラグーサ共和国の大城壁と赤い屋根の家並み。カッコいい。遥々と来たかいがあった。

          ( ラグーサ共和国だ!! )

 さらに街から遠ざかり、波頭に浮かぶドゥブロヴニク。そして、スルジ山。

 この辺りから船は引き返した。 

 

 (波頭に浮かぶドゥブロヴニクとスルジ山)

  出航して約1時間。無事、港に帰ってきた。ただただ、感動 みなさん、参加すれば良かったのにネ。

 よく見ると、こんな荒れた海で、突堤から魚を釣っている人がいる!! 西欧人も、もの好きだ。

 

    ( 旧港に帰る )

        ★

< 城壁を歩く >

 城壁の上は、守備側の兵士たちの戦いの場。そこは要塞の一部である。

 ヴェネツィアのように広大な潟で守られた水の上の都ではないから、城壁を破られ、町に攻め込まれたら、どうしようもない。ここは最後の防衛線なのだ。それにしても、これだけのものを造るのは、並大抵ではなかろう。

( 城壁の上は守備兵たちの戦いの場 )

 城壁の上からは、街並みや、教会のたたずまいもよく見える。

 下の写真は、メインストリートのプラッツァ通り。通りの左側の建物は、薬局のあるフランシスコ会修道院だ。

( メインストリートのプラッツァ通り )

  空は晴れ、風は心地よく、海に臨んで開放感があり、赤い屋根の街並みはエキゾチックで美しい。ルンルン気分で歩く

  城壁の外に、小さな谷を隔てて、ロヴリイェナツ要塞があり、街を守護している。

 

  ( 右側にロヴリイェナツ要塞が見える )

 

       ( 大砲と、ロヴリイェナツ要塞)

  ( ロヴリイェナツ要塞遠望 )

 今は快適な散歩道となった城壁の道を行き、途中、カフェがあって、コーヒーを飲んだ。トイレも借りる。

 旧港付近まで来て、聖イヴァン要塞の辺りから、旧港を写す。

   ( 旧港の風景 )

 海の反対側までやって来た。赤い屋根が続き、所々に教会の円い塔があり、遠くに港が見え、海には島が見える。

 アドリア海は島だらけだ。だから良港ができ、海賊も隠れやすい。

 そういえば、ドゥブロブニクは「魔女の宅急便」や「紅の豚」の舞台として使われたという。

  ( 小さな島がちらばる )

  1周して、城壁を降りると、日が傾き、もう集合時間だった。

 満足した。

 このままこの町のテラス席で、ワインを傾けながら夕食を食べ、やがて夕暮れとなり、ライトアップされたこの街を少し歩いて、それからタクシーで海辺のホテルまで帰っても良かったが、そうした方が、もっと街の空気を感じることができると思ったが、添乗員はそうしてもよいと言ってくれたのだが、本当は一緒に帰ってほしそうだったので、行動を共にした。

        ★

 この旅も、明日で終わる。

 明日は、バスで、ボスニア・ヘルツェゴビナに入り、夜、首都サラエボから飛行機に乗って、イスタンブール経由で、明後日の夕方に関空へ着く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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