ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

遥かなる歴史の旅・トルコ (その2) … トルコ紀行(ダイジェスト版②)

2018年10月23日 | 西欧旅行…トルコ紀行

    ( カッパドキア地方の村 )

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 遥かなるカッパドキア >

 11世紀後半、衰退するビザンチン帝国のアナトリア地方に、イスラム化したテュルク系遊牧民(テュルク語を話す中央アジアの遊牧民)が侵入し、支配するようになる。やがて彼らは、ルーム・セルジューク朝を打ち立てた。大セルジューク朝の地方政権で、ルームはローマ。都をコンヤに置いた。

 カッパドキアに行く途中、コンヤを見学し、一泊した。草原の風のなかから興った文化も宗教も素朴で、イスラム教・メヴレヴィ教団の祖メヴラーナの遺した書や遺品には、村夫子風情を感じた。

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 旅の6日目。トルコツアーで人気のカッパドキアに入る。

 アナトリア地方の中央部にあたり、山岳・高原地帯で、夏と冬の寒暖差が大きい内陸型気候。そこに大奇岩地帯が広がっている。

 カッパドキアのこの景観は、エルジェス山(3916m)やハサン山(3268m)の噴火によって噴出された火山灰や熔岩が、地学的な年月を経て凝灰岩や熔岩層となり、洪水、風、雨、雪などによって浸食・風化されて、固い凝灰岩のみが奇怪な形象として残ったものである。

 そこに、4世紀ごろから12、13世紀ごろにかけて、迫害を避けて逃げ込み、洞窟教会や洞窟住居をつくって暮らしたキリスト教の修道士や信徒たちがいた。

 彼らが残した遺跡を含めて、この大奇岩地帯はユネスコ文化遺産に登録されている。

 カッパドキア地方の人間の歴史は、様々な民族が交差したトルコの歴史そのものである。

 中央アナトリアに本拠を置いたBC15~12世紀のヒッタイト王国は、人類史上初めて鉄で武装した国である。

 BC6世紀には、東方に興ったペルシャの1州となった。

 アレキサンダー大王の東征のあと、独立王国も建てられたが、AD17年にはローマ帝国の属州として併合される。ローマの分裂後は、東ローマ帝国領となった。

 4世紀の初期キリスト教の時代、迫害を逃れて地下洞窟に人が隠れ住むようになる。

 その後、キリスト教は国教化されるが、11世紀の後半、東ローマ帝国がセルジューク朝との戦いに敗れ、イスラム教徒の遊牧民が多数入ってきてアナトリアを支配するようになると、それから13世紀にかけて、再びキリスト教徒たちがこの荒涼とした大奇岩地帯に逃げ込んで暮らした。

 現在のカッパドキア地方には大小の町や村が点在しているが、荒涼とした土壌の上、冬は寒さが厳しく、夏は乾燥して、農業には向かない。わずかにワイン用のブドウ栽培が行われるだけ。

 収入源はもっぱら牧畜、そして、羊毛を使った絨毯づくり。トルコと言えば絨毯だが、カッパドキアはその本場である。

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アザーンの声で目を覚ます >

 旅の8日目。カッパドキアを出て、サフランボルに着く。

 その翌朝、午前3時半ごろ、突然、ホテルの部屋の外から、マイクを通した大音声が聞こえて、目が覚めた。独特の抑揚は、近くのモスクが祈りの時間を知らせるアザーンだ。

 イスラム教の祈りの時間は日に5回。最初の祈りの時間は夜が明ける時刻だから、いくら何でもまだ早い!!

 今はラマダーンだ。この1か月間、夜明けから日没まで、絶食しなければならない。だから、早く起きて、暗いうちに朝食を済ませ、そのあとモスクに来て、夜明けの祈りをせよ、というのだろうか

 それにしても、傍若無人。住宅街で、こんな時間にこんな音を出せば、日本では許してもらえないだろう。1年に1度の除夜の鐘さえ、うるさいと文句を言うクレーマー住民がいる。

 一度目覚めると、もう眠れない。

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ボスポラス海峡に臨むテラスで >

 旅の9日目。サフランボルを出て、この旅の出発地であり目的地でもあるイスタンブールに午後おそく着く。トルコを半周して、走行距離は約3500キロ。

 久しぶりの和食に感動した。

 夕刻、散歩に出て、ボスポラス海峡に臨むテラス席でトルココーヒーを飲む。コクがあって美味。

 行き交う船や対岸のアジア側の街を眺めて、しばらくは時の流れに身を任せた。トルコ旅行に来た目的が、この時間に果たされたと感じた。

 波の上に、ブルーモスク、聖ソフィア、トプカピ宮殿が並んで見える。

夢枕獏『シナン』から

 「イスタンブール ── コンスタンティノープルは、このボスポラス海峡のヨーロッパ側を中心にして、アジア側にもまたがって発展してきた都市である。

 古代シルクロードの東の端に、人口100万人の都長安があるなら、西への入口にこのコンスタンチノープルがあったのである。

 東と西の文化、人種、宗教、文物がこの街で混然として一体になっていた。

 混沌(カオス)の都市である」。

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あこがれの聖(アヤ)ソフィアで >

 旅の10日目は、旧市街を見学して回った。

 新市街と旧市街の間に金角湾がある。金角湾に架かる橋がガラタ橋。

 橋の上に立てば、旧市街の景色を一望できるから、世界からやって来た観光客でいつも賑わっている。東方からの旅人には言うまでもないが、西洋からの旅人にとってもやはりエキゾチックな風景であろう。

 橋の上に並んで、日がな一日、釣り糸を垂らすおじさんたちも、イスタンブールの風物詩の一つだ。

 金角湾越しに眺める旧市街の景色のなかでひときわ存在感を示しているのは、オスマン帝国最高の建築家とされるシナンの建てたスレイマニエ・ジャーミー。あそこに行きたいが、ツアーの行程表には入っていない。

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夢枕獏『シナン』から

 『聖(アヤ)ソフィアこそ、人が造り出した、最も神がよく見える場所なのだよ』『本当に?』 

  『見れば、その瞬間に、それがわかる』

  『見れば?』 『ああ』。

 だが、聖ソフィアは、21世紀の観光客の目にはガランとして、空虚で、感動はうすかった。ここでは、誰も、神を見ることはないだろう。

 理由は、ここが、「アヤソフィア博物館」になっているからだ。

 例えば、上賀茂神社にしろ清水寺にしろ、国内ばかりか今や世界からやってくる観光客で賑わっているが、しかし、そういう日常性の世界とは別の世界で、神官や僧侶による生きた宗教活動や修行が日々行われ、また、訪れた以上はきちんと手を合わせる多くの名もない日本人の姿があるから、今も日本の文化の一つとして生きているのである。それを見て、見よう見まねであっても作法どおりに参拝する西洋人も多い。

 文化というものの「幹」は、過去から連続する「人々」の日々の生の営み、願い、祈りである。その幹から、枝が出て、花が咲く。「幹」が死んで、押し花を見ても、感銘は薄い。

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 「神を何かに似せるとしたら、それは、宇宙に似せなければならない」…… というシナンの、或いは夢枕獏の想像するシナンの思想は、一神教というより、汎神論に近い。

 そこまで考えを進めるなら、もう一歩進めて ──

 本当は巨大な大聖堂も、大モスクも、大寺院も必要ないのではないか。どうして、そこに神がいるというのだろう??

 山、霧、風、岩、滝、樹木、そして岬 …… そこに神の存在を感じる人に、神はこたえる。

 古神道の心である。本来、社(建物)は必要としない。

 注連縄で囲って、ここは聖なる空間とした境内には、太古の杜(森)がある。杜は自然。その気に包まれ、人は神を感じる。神社の杜は、神々の気配で満ち、宇宙につながっている。

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ボスボラス海峡クルーズ >

 旅の最終日。第11日目の午前中は、ボスポラス海峡クルーズ。

 新市街のはずれのオシャレな地域・オルタキョイの桟橋から船は出港した。

 オルタキョイ・メジディエ・ジャーミィは、19世紀にバロック様式の影響を受けて造られた。白い瀟洒なモスクがボスポラス海峡に臨んで、一幅の絵になっている。

 19世紀のモスクは、15~16世紀のモスクの権威主義的な大きさや重々しさがなく、まるでこの界隈のプリンセスのようだ。 

 

  クルーズ船が出港すると、海上から眺めるオルタキョイ・ジャーミィは物語の中の絵のように美しい。風景の中のモスクの美しさを初めて知る。 

 黒海の方向へ遡った船は、ルーメリ・ヒサールを越えた先の地点でUターンする。ボスポラス海峡30キロの半分あたりの地点だ。これが一般的なボスポラス海峡クルーズのコース。

 

 このまま進めば黒海へ到達する。1日1本だけ、黒海の入口まで行く遊覧船がある。もし個人旅行で来ていれば、往復6時間ののんびりした船旅ができた。

 かつてヴェネツィアの商船は、イスタンブールをさらに遡って、ボスポラス海峡を抜けて黒海に出、黒海各地の港に寄って貿易をした。黒海の各港も定期でやってくるヴェネツィア商船を待っていた。

 ここまで来た以上、黒海の入口まで行ってみたい。

 そこは、人間の目にはただ茫々と広がる大海だろうが、それでも船からその光景を眺めてみたい、と思った。旅は、時々、心を残して終わる。

 宿泊したリッツカールトンが見え、手前にはサッカー場があり、汀にはドルマバフチェ・ジャーミィが佇んで、風情がある。

 金角湾のガラタ橋からUターンして、出港桟橋のオルタキョイへ向かった。

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旅の終わりに >

 この旅で良かったところは??と、問われれば、一番はボスポラス海峡クルーズと答えるだろう。汀のカフェで飲んだトルココーヒーも、美味しかった。

 セーヌ川の遊覧船から、いくつもの橋をくぐりながら見上げたパリの街並みは、端正で、気品があって、しかも哀愁があった。今はもう流行らないが、パリにはシャンソンがよく似合う。

 ヴェネツィアのサンタルチア駅から水上バスに乗ってホテルへ向かったとき、まるで劇場のように海の上に展開する水の都の華麗さに感動した。ハトの群がるサンマルコ広場の楽団の演奏も心楽しかった。

 岸辺のすべての建物が海峡に向かって微笑んでいるようなボスポラス海峡クルーズも、人生を楽しくさせてくれるひとときの旅だった。

 パリのセーヌ川も、ヴェネツィアの運河も、イスタンブールのボスポラス海峡も、歴史と豊かな水のある街並みは印象的である。

 ボスポラス海峡以外で良かったのは??

   旅の初めに見て回ったエーゲ海地方の古代都市遺跡も印象的だった。真っ青に晴れ渡った空と、その下に眠る遺跡。崩れた遺跡の石の間には赤い野の花が咲いていた。

 それらは、明らかに、セルジューク朝、オスマン朝、そして、現代のトルコとは異質の文明である。

 だが、それはそれとして、この旅で心を残した風景もある。

 他えば、オスマン帝国の大軍を防いだテオドシウスの城壁の跡は見ていない。そのどこか、1枚で良いから写真に収めたかった。

 イスタンブールにあるシナン作の2、3のモスクを訪ねたかった。

 黒海の出口まで、ボスポラス海峡を遡りたい。

 聖ソフィアは、もう一度、個人で、ゆっくりと見学したい。

 夕日が沈むころ、ガラタ橋から旧市街を眺めてみたい。

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 観光バスに乗って、朝から日が暮れるまで、あれもこれもと駆け足で見て回る。そういう旅は感動が薄い。

 旅の楽しみは、あれもこれもと見て回るのではなく、日常性を脱し、新鮮な目でものを見、感じるところにある。途中、漂泊感を感じたら、旅らしい旅である。

 「歳月は人を深くする。旅もまた、人を深くする」。(夢枕獏『シナン』から)

 

 

 

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遥かなる歴史の旅・トルコ(その1) … トルコ紀行(ダイジェスト版①)

2018年10月20日 | 西欧旅行…トルコ紀行

 ( ダータネルス海峡からエーゲ海を望む )

ダータネルス海峡を渡ってエーゲ海地方へ

   トルコ共和国は中東の国々の一つに分類されるが、国土の北の一部はヨーロッパにある。

 アジア側とヨーロッパ側との境には、黒海、トルコの内海といわれるマルマラ海、そして二つの海峡がある。

 ボスポラス海峡は、黒海の西南端から流れ出る。「流れ出る」というのはおかしいが、黒海にはドナウ川をはじめ大河が流れ込んでいるから、黒海から地中海(エーゲ海)へ向けて、川のような流れがあるらしい。

 ボスポラス海峡はマルマラ海の東に流れ込み、マルマラ海の西から再びダータネルス海峡となってエーゲ海に出る。

 古来から、ボスポラス海峡→マルマラ海→ダータネルス海峡が、アジアとヨーロッパを分ける境とされてきた。

 旅の2日目の朝、ヨーロッパとアジアにまたがる大都市イスタンブールの郊外のホテルを出て、マルマラ海の北岸、続いてダータネルス海峡の北岸(ヨーロッパ側)をひたすら走った。そして、もうすぐ大地が終わってエーゲ海になるという手前でフェリーに乗った。バスごと乗船したが、要するにダータネルス海峡をアジア側に渡る渡し船である。

 船上から望むと、対岸のアジア側の街は遠くに見えるが、来し方のマルマラ海の方も、反対のエーゲ海の方も、ただ茫々と広がる海だった。

 狭い海峡だから、約1時間で対岸に着く。

 対岸へ渡ると、南へ南へと、エーゲ海地方を南下する。ここは、ヨーロッパ文明の発祥の地である。陽光輝く太陽の下、これから3日間は古代都市遺跡をめぐる旅となる。

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今は何もない廃墟のトロイ >

 そのとっかかりはダータネルス海峡がエーゲ海に出たすぐの地。古代海上交通の要衝の地に、遥かに遠い昔に栄えて滅びたトロイの遺跡がある。

  ( トロイの城塞の廃墟 )

 シュリーマン(1822~1890)がトロイの発掘をして、すでに相当の歳月が過ぎた。

 シュリーマンの死後も引き継がれている発掘調査によると、トロイには9層にも渡る遺跡が重なっていた。

 シュリーマンが「ついに発見した」と思って発掘したのはその第2層で、「BC2500年~BC2200年ごろのトロイ」だった。

 彼が目ざしていた「ホメロスのトロイ」は第7層のもので、BC1200年代のものだった。その第7層は、2層まで掘り進める過程で、シュリーマンによって破壊されてしまっていた。シュリーマンの想像をも超える茫々たる人間の歴史である。

 発掘された「トロイの財宝」はシュリーマンによって持ち出され、今、ここで見ることができるのはトロイの城塞の廃墟の一部だけである。

 古びた瓦礫の石の間に赤い野の花が咲いていた。

 それでも、ここがあの「トロイのヘレン」のトロイかと、歴史のかなたに思いを馳せることはできた。

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古代都市遺跡エフェソスを歩く >

 旅の3日目は、ヘレニズム時代~ローマ時代の遺跡であるベルガマを見学し、午後は同じ時代に栄えたエーゲ海地方の最大の古代都市遺跡エフェソスへ行く。

 エフェソスの遺跡に入る前に、その郊外の山中に、「聖母マリアの家」を訪ねた。 

 エーゲ海沿岸の地は早くからキリスト教が伝えられ、使徒時代のキリスト教会の動向を知るうえで必須の地である。そのなかでも、古代都市エフェソスは、12弟子の一人である使徒ヨハネが担当した教区とされる。イエスに最も愛された弟子ヨハネのそばには、イオスの母マリアもいたはず、…  と福音書からは読み取れる。

 バチカンから贈られた「聖夜」の像の横の石段を上がれば、聖母マリアが晩年を過ごしたという小さな石造りの家があって、「聖地」の一つに指定されている。

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  ( エフェソスの都市遺跡 )

 石造りの建物の廃墟が並ぶクレテス通りを下っていく。やがて、ケルスス図書館の廃墟に出会った。

 ローマ帝国のアジア州の執政官だったケルススの死後、その息子が父の墓室の上に記念に築いた図書館だという。12000冊の蔵書があり、当時、アレキサンドリア、ベルガモンと並ぶ3大図書館の1つとされた。

 「廃墟の美」という言葉がある。壮麗な古代建築が今は廃墟となって、古びた大理石のやわらかい色合いと、その陰影が、圧倒的に迫ってくる。

 正面の大理石の柱の間に、知恵、運命、学問、美徳を象徴する女性像が置かれて、美しい。

 図書館からまた少し歩くと、古代の大劇場があった。

 直径154m、高さ38mで、2万4千人を収容できた。演劇の上演のほか、全市民集会にも利用されたらしい。

 エーゲ海の青空の下、しばらく石の席に座り、古代の夢でも見ていたい気分だった。

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古代都市アフロディシアスを歩く >

 旅の4日目に訪ねたアフロディシアスも、BC2世紀~AD6世紀に栄えた古代都市だ。名のとおり愛と美の女神アフロディーテ(ヴィーナス)に捧げられた町である。

 遺跡は広々とした野っ原の中にあった。昨日のエフェソス遺跡のように古代都市遺跡として凝縮しておらず、広々として、のどかで、気持ちが良い。

 今日もエーゲ海地方は晴天で、湿度は低いが、日差しは日本の真夏のようだ。さえぎる木陰も建物もない。

 昔、このあたりには壮麗なアフロディーテ神殿があった。今は、神殿の庭の入口の門・テトラビロンが残るのみ。

   気持のよい野原の小道をたどって行くと、野の花が咲く草むらのそこここに遺跡や遺構が残っている。まだまだ発掘中で、いつまでかかるか、わからないという。

 やがて、古代の競技場の遺跡に出た。ローマ式のスタジアムである。長さ262m、幅59m、3万人の観客を収容する階段状の客席が残っている。

 現代のローマにもフォロ・ロマーノの向こう側に広大な馬蹄形の競技場が残っていて、映画『ベン・ハー』を思わせるが、この競技場のように客席まできちんと残っているのは珍しいそうだ。

 競技場を飾っていた数々の彫像も付属の博物館にあり、整備し直せば古代ローマ式スタジアムが再現できるほどに、全体の保存状態は良いそうだ。

 ただし、再現するより、今のままの方がいい。再現したら、ディズニーランドか、ハリウッド映画のセットのようになってしまう。それは興覚めだ。 

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トルコの田園風景 >

 3日間、エーゲ海地方のヘレニズム時代からローマ時代の遺跡を見て回った。基盤が遊牧民文化である現代のトルコ共和国とは、直接にはつながらない文化である。現実世界とはかけ離れた、遠い古代都市の廃墟を見てまわって、堪能した。エーゲ海地方の青空も、古代遺跡も、心に残った。

 旅の5日目。エーゲ海地方を後にして、豊かなアナトリア地方の高速道路を、東へ東へと、丘を越え野を越えて走った。

 トルコの国土について触れる。

 最盛期のオスマン帝国(スレイマン大帝時代)の領土は、昔日の東ローマ帝国の領土に重なるほどに広がっていた。

 その後、第2次ウイーン包囲の大敗北の後、ハプスブルグに押し戻され、ロシアに圧迫され、第一次世界大戦において決定的な敗戦国となり、その都度、領土を失っていった。

 それでも、今、日本の国土の約2倍の広さがある。

 現在のトルコ共和国は、イスタンブールを中心とした小さなヨーロッパ側と、その南に広がる広大なアジア側に分けられる。

 トルコの国土の大部分を占めるアジア側は、東西に長い四角形の形をしたアナトリア半島である。古くは「アジア」と呼ばれていたが、アジアはさらに東へと広大な大地が広がることがわかり、「小アジア」と呼ばれるようになった。

 「アナトリア」とも呼ばれるが、これは、東ローマ帝国時代に、エーゲ海に面した西岸地方に軍管区が置かれ、「アナトリコン」と名付けられたことに由来する。「アナトリコン」とは、日出る所という意味だそうだ。

 このアナトリア半島は、北を黒海とマルマラ海(二つの海峡によって結ばれている)、西をエーゲ海、南西は地中海に囲まれていて、地続きは南東と東だけである。 

 これを更に分ければ、6つの地域になる。

 ①エーゲ海地方と、その南の②地中海地方は、風土も文明も想像がつく。ヨーロッパ的だ。

 それに、③中央アナトリア地方、④イラク、シリアと国境を接する南東アナトリア地方、⑤ジョージア(グルジア)、アルメニア、イランと国境を接する東アナトリア地方、⑥緑豊かな黒海の南岸地方 となる。

 このツアーは、①→③→⑥の一部、そしてイスタンブールを回る。④⑤、特に④は、外務省が危険レベル4(退去してください)や3(渡航はやめてください)としている地域を含んで、ふつう、旅行社の企画するツアーは行かない。

 イスタンブールも安全というわけではない。レベル1(十分注意してください)である。日本のツアーは、レベル1なら、注意しながら行く。

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 車窓の景色は豊かな田園風景で、緑が目にやわらかく、見飽きることがない。 

 ケシの花畑がある。一面に白いケシの花が咲く光景は清楚で、ピンクの花の咲くケシ畑はロマンチックである。

 途中の休憩では、蜂蜜入りのヤギのヨーグルトを食べてみた。チャイとよく合って、とても美味であった。

(「遥かなる歴史の旅・トルコ(その2)」に続く)

 

 

 

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