ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

ざくっとシチリアの歴史を概観する … 地中海の文明の十字路となった島 ・ シチリア島への旅 1

2014年08月23日 | 西欧旅行…シチリアへの旅

[ 文明の十字路となった島 ]

 イタリア半島の「つま先」の、その先に横たわる島。

 その大きさは、四国と岡山県を合わせた程度だという。それでも、地中海では最大の島だ。

 古代から開け、その3千年の歴史を通じて、様々な民族と文明がこの島にやってきた。それらはあるときは激しくぶつかり合い、あるときは豊かに融け合った。まさに「文明の十字路」の島である。

 

(紅山雪夫『シチリア・南イタリアとマルタ』から)

 この5月中旬、全8日間でこの島を訪ねた。気候が良く、空は晴れ、海はのどかで、楽しかった。以下は、その記録である。

  まずは、この島の歴史の概略を記す。

[ ギリシャ人が植民市を建設 ]

 先住民も先住渡来人もいたが、紀元前の8世紀ごろからギリシャ人が盛んにやってきて、東海岸や南海岸に植民市を建設した。ギリシャ人は海洋民であり、交易の民である。

  ( 丘の上のギリシャ人の神殿 )

  

  ( 海に臨むギリシャ神殿の廃墟 )

 地図を見ると、「つま先」の「先」の、さらに「その先」には、海を隔てて、とは言え、まあ目と鼻の先に、北アフリカのチュニジア共和国がある。チュニジア … そこには、かつてカルタゴという地中海の覇権を握る海運・海軍国があった。フェニキア人の建設した強大な都市国家である。

 ギリシャ人に先行して地中海に乗り出していたフェニキア人は、後発のギリシャ人に対してことごとく敵対する。

 シチリアに根を張ろうとしたギリシャ系植民都市も、当時最強の都市国家カルタゴとしばしば戦い、滅ぼされることになる。 

[ パクス・ロマーナの穀倉となる ]

 時代は下って、第三の勢力が登場する。 イタリア半島で成長・発展した新興国ローマが、シチリア島の権益をめぐって、地中海の覇権国カルタゴと激突したのだ …

 第一次ポエニ戦役(BC264~241)、第二次ポエニ戦役(BC218~201)、第三次ポエニ戦役(BC149~146)。 この戦いを通じて、カルタゴは滅び、地中海は「ローマの海」になった。

 倭の国がまだ静かに眠っていた紀元前の時代、もちろんフランスやドイツやイギリスもまだ未開の状態にあったのだが、地中海においては、既にこうした文明の衝突が、何世紀にも渡って激しく繰り返されていた。人類の歴史の遥けさに、ただただため息が出るばかりである。

 ともかく、シチリア島はローマの傘下に入り、パクス・ロマーナの下、ローマの穀倉地帯として、その後600年の平和を享受する。

   ( 緑美しい5月のシチリア )

[ ビザンチン帝国下のシチリア ]

 AD476年、西ローマ帝国滅亡。

 シチリア島も、ゲルマンの一族であるヴァンダル族、続いて東ゴード族に占領され、荒らされた。

 AD535年、ビザンチン帝国(東ローマ帝国)のユスティニアヌス帝が、ゲルマンの無法からイタリア半島とシチリア島を奪還。以後300年間、シチリア島はビザンチンの支配下に入る。…  ただ、大土地所有制や不在地主制、そして、繰り返される北アフリカからの海賊(サラセン人)の襲来によって、かつては地中海の穀倉と言われたシチリアの農業は荒廃していった。

[ イスラム文化がやってきた ]

  AD827年、北アフリカからイスラム勢(サラセン人)がシチリア島の西海岸に侵入し、次第にビザンチン勢力を排除していった。

   そして、925年、シラクサが陥落し、全シチリアがイスラムの支配下に入った。彼らは首都をパレルモに置く。

 イスラム勢は、効率的な行政と税制、農地や灌漑施設の改善、柑橘類の栽培、絹織物の生産、交易の興隆、ヨーロッパの水準を超える医学、薬学、化学などの学問・知識の導入、信仰の自由などによって、シチリアに活気と大地の恵みを取り戻させた。

[ 果実実るノルマン・シチリア王国 ]    

  AD1130年、ノルマン・シチリア王国が誕生した。またまたシチリアに新しい文明がやってきたのだ。

 ノルマン人は、フランスのノルマンジー地方からやってきた男たち。先祖はバイキングである。 100年も前にフランス北部に定着し、フランス王はその首領をノルマンジー公として取り立てた (強くて、追い出せなかった)。彼らはフランスの貴族・騎士となり、フランス語を覚え、フランス宮廷文化を身に付けた。

 が、100年も経つと、またまた血が騒ぎ出し、その一部はノルマンジーからドーバー海峡を渡ってあっという間にイギリスを征服した。強い!! 現在のイギリスの王(女王)や貴族は、元フランスのノルマン人、遡れば北方バイキングということになる。英語、英語と、英語の先生は威張るけど、現在の英語の3分の1はこの時に入ったフランス語。まだ不完全で、未成熟で、非論理的な言語なのだ。

 そして、もう一部(うだつのあがらない騎士階級の次男や三男たちなど)は、自分の領土を求めてジブラルタル海峡を通過し、地中海に入って、南イタリアとシチリア島を征服した。少数のノルマンの騎士たちが先頭に立ち、地元の豪族・人民を従えて、多数のイスラム軍を次々撃破したのだ。

 もっとも、彼らは人口的にはごく少数。ゆえに、自分たちの文化であるゲルマン文化+フランス・ラテン文化(カトリック) だけでなく、イスラム勢力がやってくる以前にシチリアを支配していたビザンチン文化(ギリシャ正教)も、さらには自分たちのすぐ前にこの地を支配していたイスラム文化・イスラム教も、その全てを尊重し、完全な信仰の自由を認めたのである。

 ゆえに、国内で使われる言語、いや公用語だけでも数か国語という、多文化・多文明のノルマン・シチリア文化の華が開いた。

  ( ノルマン・シチリア王国の王宮 )

[ 後進地帯へ ] 

 その後、シチリアは、オートヴィル家、ホーエンシュタウフェン家から、非ノルマン系のアンジュー家、アラゴン家、スペインブルボン家へと王統が変遷し、両シチリア王国、ナポリ王国と国名も変わっていった。特にスペイン・ブルボン家による統治の時代になると、小作制や不在地主制によって農村は荒廃し、商業も振るわず、シチリアは後進地帯に転落していく。

 1861年、ガリバルディとこれに呼応したシチリアの農民、民衆軍によって外国勢力は排除され、イタリアの国家統一を実現する原動力となったが、シチリアの経済は沈んだままで、あのマフィアが跋扈する時代へとなっていく。

      ( イオニア海の夜明け )

※ この項は、またまた紅山雪夫氏の著書を参考に記述しました。紅山雪夫 『 シチリア・南イタリアとマルタ 』 (トラベルジャーナル) です。 (続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

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旅の始まり … 地中海の文明の十字路となった島・シチリア島への旅2

2014年08月13日 | 西欧旅行…シチリアへの旅

  [ シチリア・ワインのこと ]

 シチリアでワインを買って帰った。「マルサーラ」。

 ワインのことには無知だが、安かった。

 安いということは、シチリア・ワインは、あまり有名でない (ブランドでない) ということだろうか? 

 マルサーラとは、シチリア島の西海岸にある小さな町のことだ。ガリバルディ率いる千人隊(赤シャツ隊)が上陸した町として、歴史に残る。つまり、今あるイタリアという統一国家は、シチリアのこの小さな町から、その第一歩が始まったと言っていい。日本の明治維新と、時間的に大差はない。

 だが、今、この町は、「香り高いワインの産地」となっている。

   『地球の歩き方…南イタリアとマルタ』に、「酒精強化ワインのマルサーラMarsalaも、ぜひ味わいたいもの。醸造の途中に、ブドウから造られたアルコールや糖分を添加してアルコール度数を上げ、土地の木樽で熟成させた。辛口セッコSeccoは食前酒」とある。

 辛口が良いと、マルサーラのセッコを1本買って、帰国後、食前酒として、夕方になると氷で割って飲んだ。ブランデーに似て、甘みが濃く、美味しい。度数は18度。

 たちまち1本、飲んでしまったので、インターネットで 「マルサーラ / セッコ」で調べたら、あった。さすが日本には、何でもある。少々、お高くなるが、取り寄せて、飲んでいる。

      ( パレルモのホテルの窓から )

     ★   ★   ★

 [ なぜシチリアへ? ]

 なぜシチリアに行ってみようと思ったのか?

 確かに、さまざまな民族がやって来て、衝突した、文明の十字路の島である。

 しかし、だからと言って、シチリアがヨーロッパの歴史の主役であったことは、ない。

 外交的にも、政治的にも、文化的にも、ローカルである。教皇様のいらっしゃるイタリア半島の、長靴のつま先の、その先にある島に過ぎない。

 自然の景観もそう。

 ナイヤガラのような空前絶後の滝があるわけでもないし、草原をライオンやカンガルーが闊歩しているわけでもない。都会も、高原も、田園も、瀟洒でロマンチックな西ヨーロッパの中で、いささか「草深い島」という印象は免れない。

 なんでわざわざ行く気になったのでしょうと、自分でも思う。

 だが、きっかけは、ある。

 塩野七生 『皇帝フリードリッヒ二世の生涯上・下』 (新潮社) を読み始めていた。

 皇帝フリードリッヒⅡ世については、以前、藤沢道郎 『物語 イタリアの歴史』 (中公新書)の中の 「第四話 皇帝フェデリーコの物語」を読んで、感動した。これはすごい人だと、思った。

 だから、塩野七生がそのエッセイのなかで何度か、「私はもう一人、書きたい人がいる」と書いているのを読んで、フリードリッヒⅡ世に違いないと確信していた。

 その本が出版され、読み始めていた。

 

 シチリアの歴史の中で、この人物だけは、ローカルとは言えない。

 シチリア生まれ、シチリア育ちであるが、何しろ父からは神聖ローマ帝国皇帝、母からはノルマン・シチリア王国国王の地位を受け継いだ。在位は1210年から1250年。十字軍の時代である。   

 神聖ローマ帝国皇帝としてドイツ諸侯を統治したが、その56年の生涯のうち、ドイツにいたのは8年だけであった。寒い北方の風土を好まず、母から受け継いだ果実実る南イタリアとシチリアをこよなく愛した。

 イタリア流に言うと、フェデリーコ二世。

 だが、シチリアを訪問しても、皇帝フェデリーコの「事績」を示す文化遺産が、目に見える形で残っているわけではない。彼は君主であって、芸術家ではないのだから。

 しかし、少年のころのフェデリーコが、飽くことなく歩いたというパレルモの町は、その当時とは違うにしても、面影は残っているはずだ。

 フェデリーコは4歳のときに父、相次いで母を病気で喪い、以後、全てを自分の器量で切り開いていかなければいけない境遇となる。誰かが、皇帝位や王位を金庫にしまって、時来たらば、これがお父上、お母上のかたみです、と言って出してくれるわけではない。

 彼の家庭教師は、おそろしく頭が良く、早熟で、歴史、哲学、神学、天文学、数学、植物学などに強い好奇心をもつこの少年に驚き、このような少年が、将来、この国の君主になることに大きな希望を抱いた。そして、最低限の勉強時間以外の勉強について、賢明にも、本人の自由に委ねた。

 フェデリーコは毎日のように王宮を出て、パレルモの町を歩き回り、パレルモの町の人々から学んだ。

 カソリックの絶対的な権威が支配していた当時の西ヨーロッパ社会では考えられないことだが、ノルマン時代のパレルモでは信教の自由があり、イスラム教徒が医者や教師や商人や国王の兵士として生活していたし、イスラムの前の時代を支配していたビザンチン文化も色濃く残り、ギリシャ正教の教会もあった。しかも、カソリックの総本山、ローマは目と鼻の先にあり、今、この島を支配しているのは北方ゲルマン系のノルマン人であった。

 この時代のパレルモは、多民族・多文化が共存する国際的な雰囲気をもった都市であったのだ。 

 フェデリーコ少年は、そのような街の中で話される各種の言語を自分で吸収していった。言語は文化の核をなす。

 当時の知識人の言語であるラテン語、庶民の言語であるイタリア語のほか、哲学や文学を学ぶのに必要なギリシャ語、聖書のヘブライ語、さらにはイスラム教のアラビア語まで、読み・書きの両方ができる言語だけでも7か国語、あったという。

 このような「精神世界」に生きるフェデリーコのような時代に先んじた開明的な人が、成人したあかつきに、神の権威を振りかざし十字軍を叫ぶ教皇や教会勢力、中世的な既得権益勢力と激突しないはずがない……。

 実際、彼は第5次十字軍を率いてエルサレムに遠征した。そして、あざやかに、即ち、一滴の血も流さずに、エルサレムを奪還してみせた。ただし、イスラム教徒の権利も認めた。時の皇帝と、時のスルタンは、がっちりと握手したのである。21世紀にもできないことを、あざやかにやってのけた。傑出した2人がいてできたことだが、十字軍から帰ってきた皇帝・フェデリーコは、教皇を先頭とするキリスト教世界から総攻撃される。イスラムの血を一滴も流さずに帰ってくるとは何事だ!!  

  …… フェデリーコのパレルモは、今はない。しかし、今のシチリア島の風土に触れ、パレルモに残された文化遺産を目にすれば、本に書いてあるフェデリーコのことが、さらに生き生きとわかるのではなかろうか。

 よし、行ってみよう‼

 これがシチリア旅行の動機である。

 (パレルモの王宮…今はシチリア議会)

      ★   ★   ★

 [ ツアーに参加する ]

 シチリアに行ってみようと決めて、まずは一番便利な飛行機はオランダ航空と見当をつけ、次に、順次、見学しながら島を1周するプランを立てていて、行きづまった。

 「足」が不便なのだ。列車、長距離バス、タクシーが「足」で、一番頼りになるのはバスなのだが、例えばA→B→Cと見学し、その日はCで泊まりたい。ところが、AとB、AとCはバスで接続しているが、BとCはつながっていないのだ。方法は、Aに連泊して、Aから出ている一日現地ツアーのバスで、A→B→C→Aと回るしかない。

 あれこれ考えて、うまくいかず、それなら、最初からツアーに参加しよう … ということになった。

 いつもではないが、できるだけツアーに入らず、自力で旅をしてきた。

 なぜ、自力で行くかと言えば、ツアーでは、観光バスの中は「日本」だからである。 添乗員に案内されて街を歩いている、そのグループの「中」は、「日本」である。 ちょうど、南紀白浜のアドベンチャーワールドのライオンやシマウマを、安全な車の窓から見ているのと同じだ。

 しかも、日本の添乗員は、「お客様は神様です」と、客を大切にしてくれるから、下手すると、国内の温泉旅行と同じ気分になる。実際、昔、参加したツアーで、そういう気分で添乗員に苦情を言う客がいた。おっちゃん、おばちゃんだけではない。大学生のお嬢さんたちまでが、国内温泉旅行の気分で文句を言ったりする。パスポートだけが頼り、「主権」を持たない外国旅行という緊張感がまるでない。

 「個」になり、緊張して、ピーンと神経が張りつめたとき、初めて、鋭敏になった心に、異国の風景や人々の心、異国の空気が、鋭く感じられるようになってくる。

 しかし、今回はツアーにした。

 ツアーに決めた途端に、ほっとして、気が楽になった。たまにはいいだろう。                                                              (続く)

 

  

 

 

 

 

 

            

 

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パレルモへ … 地中海の文明の十字路・シチリア島への旅3

2014年08月09日 | 西欧旅行…シチリアへの旅

        ( シチリアの白い雲 )

[ 日 程 ]

 8日間の日程は、以下のようなものであった。

第1日> 関空 ── ローマ ── パレルモ

                      (パレルモ泊)

第2日> パレルモ ── チェファルー(見学)  

 ── パレルモ(見学)   (パレルモ泊)

第3日>  パレルモ ── モンレアーレ(見学) 

 ── セリヌンテ(見学)  ── 

                             (アグリジェント泊)

第4日> アグリジェント(見学)  ──

   アルメリーナ・ カザーレ荘(見学)

    ── カルタジローネ(見学) 

                               ── (ラグーサ泊)

第5日> ラグーサ(見学) ── シラクサ(見学)

  ── (タオルミーナ泊)

第6日> タオルミーナ(見学)

                    (タオルミーナ泊)

第7日> タオルミーナ ── 空港 ── 

     ローマ ──

第8日> ─── 関空

      ★   ★   ★ 

[ ちょっと、旅のありようといったことについて、考えた ]

   出発前に旅行会社から送られてきた「旅のしおり」を見ながら、旅を終えた今、上の日程を書き写した。

   書き写しながら、

   シチリアの青い海や、

   海を見下ろす丘の上の古代の遺跡や、

   樹木のない険しい山や、

 山の山頂部につくられた町や、

 野の花々や、

 小鳥のさえずりや、

 教会を飾るモザイク画を思い出した。

 ローカルな旅であったが、心楽しい旅であった。

  ( 車窓から … シチリアの海 )

 同時に、今回久しぶりにツアーに参加して、改めて、「旅のありよう」といったことを、考えた。

          ★

 2日目、3日目、そして、6日目は、とても印象的だった。 

 もう一度行って、あの「景色」を眺めてみたいと思う。

 だが、もう一度行くとしたら、パレルモも、チェファルーも、モンレアーレも、今度は自分の足で、気ままに歩いてみたい、と思う。 ツアー旅行に対する小さな不満足感が心の底に沈殿している。

 パレルモやその周辺には、ビザンチン文化やイスラム文化の影響を受けて、シチリア・ノルマン文化と呼ばれる華が開いた。その意味で、パレルモは、「文明の十字路・シチリア」 を象徴する町である。ならば、そういうことを肌で感じられるような旅をしたい。

 旅程に制限があるから、パレルモの町の文化遺産のあれもこれも見て回ることはできないだろう。

 だが、遥々とここまでやって来た以上、最低限、これは見逃したくないという2つ、3つはあり、それらを素通りされるとやはり心残りで、もう一度自分の足で歩いてみたいという気持ちは残る。

          ★

 もちろん、ツアーの長所もある。 

 夜遅く、初めて降り立った空港で、緊張してタクシーをさがし、真っ暗な道路を疾走する運転手の後部座席で不安に駆られながら座っていなくても、空港にはお迎えの観光バスが明々と車内燈を点けてちゃんと待っていて、ホテルに着けばポーターがスーツケースを部屋まで運んでくれる。

 翌日から、観光バスは1日に何100キロも走って、次から次へと、「観光」させてくれる。

 毎回、食事のたびに、わからないメニューをにらみながら、何を食べようかと悩まなくても、上げ膳、据え膳、テーブルに着けば食事が出る。

 だが、例えば、この行程で言えば、4日目、5日目。

 帰国後に自分で写した写真を見ても、どこを写した写真なのか、思い出せない。

 なにしろ4日目は3か所も見て回っている。

 その上、3か所目のカルタジローネと5日目のラグーサは、よく似たバロックの町である。世界遺産かもしれないが、この街並みのどこがどうバロックなのかという説明を、自分のような者にわかるようにしてほしかった。しかし、そもそもシチリアでバロックを見る意味があるのだろうか?

 一方、シラクサは、紀元前の時代からギリシャ人が入植した、シチリア最大、最強の都市国家であった。カルタゴと戦い、ローマとも戦った。パレルモ以前のシチリアの雄である。さっと「観光」して、通り過ぎるのは残念である。

 こういう町は、せめ1泊して、その遥かな歴史を五感で感じなければ、旅をしたことにはならない。

          ★    

 旅の終わりに、タオルミーナに2泊したが、これは最高に好かった。

 小さなこの町で、観光というと丘の上の古代の劇場と、断崖を横に削り取ってつくったようなウンベルト通りくらいである。オシャレで可愛い店が並ぶこの通りは、所々で遥かに青い海を見下ろすことができる。

 添乗員にこの2つを案内してもらい、あとは解散、自由時間になった。この、解散、自由時間がいい。旅は、そこから始まる。

 ウンベルト通りのお土産屋さんをのぞきながら歩いていたら、今、流行りのクルーズ・ツアーから上陸した大勢の観光客が、陽気に楽しそうに歩いてきた。フランス人のツアーのようだ。

 この人たちは、ほんの何時間か、こうしてこの町を観光して、また船に戻って、次の港へ向かう。夜は、基本的には船の船室に泊まる。

 船旅を楽しむのも、旅の楽しみである。ただ、昼間、何時間か上陸しても、タオルミーナがわかるとは思えない。

 夜明け … 眼下のイオニア海がピンクに染まって、一日が始まる。

 早朝 … 朝の澄んだ空気の透明感。見上げれば、驚くほど切り立った山。その一角にある古代の劇場が印象的。真下には真っ青な海岸線。林の中から小鳥たちのさえずり。シチリアの小鳥たちも、こんなに良い声で鳴くのだ

 明るい昼 … イソラ・ベッラの海辺に降りて、カフェテラスで、リゾート気分の一杯のワイン。イオニア海の水を掬って、茫々とした歴史を思う。

 たそがれ時 … 開放的なテラス席に座って夕食のひととき。周りの客たちもどこかウキウキと、ゴッホの絵のようだ。

 帰り道で見た暮れなずむ海の深いブルー …。

   ( 暮れなずむイオニア海 )

   こういうものすべてが、タオルミーナ。

          ★

 西ヨーロッパの旅も、自力で行けるところはだいたい行き、この先、トルコとか、ギリシャの島々とか … 個人では行きにくいところが残ってきている。ツアーに頼らざるを得なくなりそうだが、まずツアーで行って、強く印象に残ったところだけ、再度、自力でゆっくり訪れるという手もある。                 

     ★   ★   ★

[ パレルモへ ]

 関空から12時間少々、ローマ空港に到着。

   ( ローマ空港へ向けて高度を下げる )

 ローマ空港(レオナルド・ダ・ヴィンチ空港)は、関空と同じように海のそばにつくられた空港だ。ヨーロッパの5月は、午後7時でも、十分に明るい。

         ★

 パレルモへの乗り継ぎ便は30分遅れで出発。午後9時を回って、さすがにとっぷりと暮れ、1日かけて、遥々と遠くまで来たという感慨。日本はもう午前4時だ。

  パレルモはローマから、真南の方角。ティレニア海の上を飛ぶ。

 いつの間にか進行方向やや東に満月。月光が翼を濡らす。眼下、ティレニア海は漆黒の闇。

  パレルモ空港から迎えのバスに乗り、海沿いのホテルへ。午後11時半ホテル到着。

          ★              

 スーツケースを開け、明日の用意をし、 風呂に入る。

 床に就いたのは午前1時半。

 少しうとうとしたと思ったら、稲光。窓ガラスにビシ、ビシと何かが当たる音。雹だ。

 とにかく寝よう。( 続 く )

                         

 

 

 

 

 

 

 

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金色のモザイク画のチェファルー大聖堂 … 文明の十字路・シチリア島への旅 4

2014年08月03日 | 西欧旅行…シチリアへの旅

        ( 岩山とチェファルーの町 )

 シチリア観光の第1日目午前は、チェファルー。

 チェファルーは、州都パレルモから東へ66キロ。美しいビーチがあり、漁港もあって、魚が美味しく、今はリゾートとしても人気があるそうだ。

      ( チェファルーの町と大聖堂 )

 BC1500年ごろにイタリア半島からやってきた、シクリ人という先住民がいたらしい。シチリア各地に住み着いたが、ティレニア海に臨むこのチェファルーの、岩山の上にも城塞の町を築いた。これがこの小さな町の起源という。気の遠くなるような遥かな過去だ。

 「文明の十字路」とは、異民族の衝突の場であったということ。ヨーロッパはどこもそうだが、特にシチリア島を巡っていると、海に臨む急峻な岩山の上の町をよく見かける。岩山の上に町を築かなければ、安心できなかった。

 さて、小さな港町チェファルーは、BC394年に、シチリア島最強の都市国家のシラクサ軍によって征服され、ギリシャ人の町になった。

 以後、ローマ、ビザンチン、イスラムの時代を経て、AD1130年代、ノルマンのルッジェーロⅡ世がこの町の戦略的価値に目を付け、岩山の上に住んでいた人々を地上に下ろして、今あるような町づくりをし、周囲に堅固な城塞を築いた。

 ルッジェーロⅡ世は、南イタリア及びシチリアに進出してきたノルマン人の第2世代で、伯父と父の両方の地位と領土を受け継ぎ、1130年にノルマン・シチリア王国の初代の王となったシチリアの英雄である。 

 彼は、町づくりとともに、岩山の麓に大聖堂(司教座)を建設した。パレルモから66キロしか離れていないこの町にもう一つの大聖堂を造ったのは、パレルモ大司教の影響を嫌ったからである。世俗の権力と宗教権威とは、たえず衝突する。

 彼はこの大聖堂を王家の霊廟にしたかったのだが、パレルモの大司教の反対にあって実現しなかった。

        ★

  ( チェファルーの大聖堂の正面 ) 

 観光バスを降りて、チェファルーの町を歩いているうちに、雨になった。

 海からの雨に服が濡れた。だが、小さな街なので、すぐに大聖堂に着く。 

  大聖堂の建物はロマネスク様式で、当然、後のゴシック様式の大伽藍などと比べると遥かに小さく、かつ、素朴である。野の花の香りがする。

 ただ、ここはシチリアである。アーチの形などにイスラム建築の影響が色濃く出ており、腕利きのアラブ系の建築職人が工事に参加したことがうかがわれる。

 堂内に入ると三廊式の身廊の、いちばん奥の内陣部が金色のモザイク画で飾られて、そこだけが明るく輝いているように見える。ノルマン・ビザンチン式モザイク画の最高傑作の一つとされる。

     ( 3廊式の身廊部 )      

 この絵は、カソリックのものではない。ビザンチン様式の絵画である。

   (内陣部のモザイク画) 

 キリストの下には、天使たち。その下に十二使徒の像が描かれている。

   ( 天使と12使徒 )

 モザイク画は古代ローマ時代からあり、この旅でも、第3日目に行くピアッツァアルメリーナのカザーレ荘でローマ時代のモザイク画を見るが、その技法はビザンチン文明に受け継がれた。

 西ローマ帝国滅亡後、イタリア半島もシチリア島も、一時、ゲルマン諸族によって席巻されるが、のち、東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスによって解放、統治される。故に、シチリアでは、ギリシャ語が公用語となり、ギリシャ正教の教会が建てられ、ビザンチン文明が花開いた。

 その後、この地を支配したイスラム教徒はイスラムへの改宗を強要せず(信仰の自由を認めたわけではない。コーランでは人民から徴税をしてはならないことになっている。キリスト教徒は人民のうちには入らない。キリスト教徒でいてくれたら、徴税できるというわけ)、さらにそのあとこの地を支配したローマカソリック教徒であるノルマン人も異文化を尊重したから、ビザンチン文明を代表する黄金のモザイク画が、カソリック教会に燦然と輝くことになったのである。

 モザイク画の素材には、色石、色ガラス、貝殻、釉をかけた陶片などが用いられた。

 聖堂のモザイク画に欠かせない金色は、無色のガラスの間に金箔を挟んだもので、当時にあって、金箔は言うまでもなく、ガラスも高価なものであった。  

 しかし、絵と違って、モザイク画はいつまでも退色することがなく、破損することも少ない。剥落しても、修理は容易だ。色つやが悪くなっても、埃を拭えば、また綺麗になる。

 モザイク画に描かれた宗教画にも、特色がある。

 イスラム教では偶像崇拝は厳しく否定されたから、建築物(例えば、アルハンブラ宮殿)の中に、聖人像は言うまでもなく、動物の形なども描かれることはない。

 

 ( アルハンブラ宮殿の装飾 )      

 ギリシャ正教でも偶像禁止の考えがあり、聖像を立体的に描くことを認めず、平面的に描いた像しか認めなかった。

 平面的なビザンチン様式の絵は、なかなかいい。

 西欧では、ルネッサンスを経て、遠近法や、人間の肉体の解剖学的研究が行われ、これ以上ないと思える立体的なリアリズムの絵が描かれるようになったが、近代になって、セザンヌもゴッホもマチスも、ピカソも、絵を形と色の二次元の芸術に戻した。

 絵は、形と色の芸術である。( 続く ) 

 

 

 

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ノルマン王宮礼拝堂のモザイク画 … 文明の十字路・シチリア島への旅5

2014年07月31日 | 西欧旅行…シチリアへの旅

       ( パレルモの王宮 )

 チェファルーからバスで戻り、昼食後、パレルモの街を徒歩で観光した。

        ★

紅山雪夫『シチリア・南イタリアとマルタ』(トラベルジャーナル)から

 「パレルモに新しい時代をもたらしたのはアラブ人で、831年にビザンチン軍を撃破してこの町を占領し、シチリア支配の本拠とした。

 それまで、ギリシャ時代、ローマ時代、ビザンチン時代を通じて、シチリアの中心をなす都市はずっと東海岸のシラクーサだったのが、このとき初めて西北海岸のパレルモに移った」。

 アラブ人は、ギリシャ正教からの改宗を要求せず、イベリア半島の場合と同じように、各自の信仰は各自の勝手にまかせた。

 ビザンチン時代のシチリアの農業は荒廃していた。遠く離れて税だけ取り立てる大土地所有が、シチリアの農業を疲弊させていた。力のおとろえたビザンチン帝国は、税は取り立てるが、北アフリカからやってくる海賊に対しては全く無力だった。

  「アラブ人は乾燥地帯で鍛え上げた灌漑技術を持ち込み、パレルモの周辺を果物や野菜を豊富に産する沃野に仕立て上げた。

 この沃野はまわりの山地から見下ろすと帆立貝のような形をしているので、コンカ・ドーロ(黄金の帆立貝)と呼ばれ、今もなお、オレンジやレモンなどの果樹園がどこまでも続いている。これらの柑橘類もまたアラブ人がもたらしたものだ」 。(同上)

 

   ( 屋台のお土産屋さん )

   「オレンジ・ジュース1.5ユーロ」と書いてある。オレンジ1個をそのまま使って、目の前で生ジュースを作ってくれる。シチリアに限らず、イタリアのオレンジの身は赤い。赤いオレンジジュースだ。のどの渇きをいやして、爽やかで甘い。

        ★

 アラブ人が持ち込んだのは、農業の刷新ばかりではない。

  「アラブ時代にパレルモは繁栄を極め、壮麗なモスク、学校 (イスラム法のほか、医学、薬学、化学、数学、天文学などを教えた)、隊商宿、市場、公衆浴場、水を引き込んだ美しい庭園をもつアラブ風邸宅などが多数造られ、その見事さは訪れる人々を感嘆させた」。(同上)

 同時期のスペインのコルドバやセビーリャと同じような状況が現出していたのである。

 このようなアラブ人の支配が、ノルマン人の支配に移ったのは1072年である。

 南イタリアそしてシチリア島へ。フランスのノルマンディー地方からやってきたヴァイキングの末裔たちは、十字軍やスペインのレコンキスタのように異教徒と戦う聖戦のために来たのではない。彼らは貴族の家の次男坊、三男坊たちで、いわば一攫千金を求め、新天地を求めてやってきたのだ。

 その中で、兄とともに頭角を現したのがオートヴィル家のルッジェーロ(Ⅰ世)である。

 事の起こりは、シチリアにおけるアラブ人の頭領同士の争いであった。一方の側から応援を頼まれたルッジェーロ率いるノルマン人たちは、いわば傭兵として戦いに参加したのだ。ところが、その頭領が殺されてしまった。そこで、ルッジェーロは、頭領の部下や、協力を申し出るアラブ人の戦士たちをみな味方に引き入れて (なにしろノルマン人の数は少ないのだ!)、進撃し、ついには首都パレルモを陥落させた。ただし、最後はアラブ市民の既得権を尊重するという条件付きの無血開城だった。

 こうして、ルッジェーロⅠ世・シチリア伯が誕生した。一方、兄は南イタリアを征服し,公爵となった。

 ノルマン人自身はローマカソリック教徒であったが、このような経緯からも、アラブ系イスラム教徒に対して、或いはそれ以前のギリシャ正教徒たちに対しても、その生活や信仰に干渉することをしなかった。

 早い話、ノルマンの軍隊には数千人のイスラム教徒の兵士がいて、そのためローマ教皇の怒りを買っていたらしい。

 伯父と父から南イタリアとシチリアを継承したルッジェーロⅡ世のころには、3つの文化が融合し、ノルマン・シチリア王国は豊かな発展を遂げたのである。

 だが、異文化に対して寛容であったオートヴィル家、続く皇帝フリードリヒⅡ世のホーエンシュタウフェン家が断絶し、その遠縁にあたるスペインのアラゴン家が入ってくると、事態は一変する。スペインにおけるイスラム教徒との長い戦いを経てきた彼らは、いわばキリスト教原理主義者で、イスラム教や異教的なものに対して異常な敵愾心を持った。そしてローマ教皇のバックアップのもとに、イスラム時代の学校も、アラブ風の邸宅も、大浴場も、ことごとく破壊してしまったのである。文化破壊である。

 今、シチリアにイスラム風の建造物は何も残っていない。ただ、ノルマン時代の建造物にその影響を見るのみである。

    ★   ★   ★

 パレルモの旧市街のはずれにあるノルマン王宮は、今は州議会堂として使われているが、その2階にある王宮礼拝堂(パラティーナ礼拝堂)は、いつでも観光できる。

 ルッジェーロⅡ世が1132年に着工し、ほぼ創建時の姿のままで、パレルモ観光の花となっている。

 

   ( 内陣正面 )

   中に入ると、いきなり金色に包まれたイエス像が目にとびこんでくる。内陣正面の「聖ペテロと聖パウロを従えた玉座のキリスト」像である。

 その天井はビザンチン風にドームになっていて、「天使に囲まれた全知全能の神キリスト」、その下にはダビデやソロモン王など旧約聖書に出てくるイエスの祖先や洗礼者ヨハネの像が、荘厳無比な金色で描かれている。

    ( 内陣の右手 )

 さらに、チェファルーの大聖堂と違って、この礼拝堂は、柱頭より上、周囲の壁面のすべてに聖書の各場面を描いたモザイク画が施してある。

 また、大理石の床も、踏まれてもよい色石で装飾的な模様が描かれていた。

 

 ( アブラハムがわが子イサクを捧げる )

 フランス・ゴシック時代の天を衝く大伽藍や光のステンドグラスの輝きと比べると、ロマネスク時代の聖堂は小さく、その絵も鄙びて、好ましい。

 ノルマン王宮の3階のルッジェーロ王の間には、狩りの場面やギリシャ神話の場面など、宗教画でない華麗なモザイク画があるということだが、素通りしてしまったのは残念である。

         ★

  

     ( パレルモのカテドラル )

  ノルマン時代に建てられた大聖堂(カテドラル)は、その後何度も改築され、内部もすっかり新しくなって、上の写真のあたりが一番建設当時の名残を留めているとか。

 内部にはノルマン王朝の霊廟があり、皇帝フリードリッヒⅡ世が少年のころ、自分が死んだらあの棺に入る、と言っていた古代ローマ時代の石棺もあるというが、素通りしてしまった。

   ( パレルモの市場 )

 夕食を食べに入ったレストランのすぐそばにはヨットハーバー。

 現代の大型船が停泊する港はもっと北に広がっているが、古代、中世のころ、ガレー船が寄港したのは、この一角である。   

   ( ヨットハーバー )

( 続 く )

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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モンレアーレ大聖堂と、ヴェネツィア、ラヴェンナのモザイク画 … 文明の十字路・シチリアへの旅 6

2014年07月27日 | 西欧旅行…シチリアへの旅

< モンレアーレへ >

 シチリアの第2日目は、州都パレルモに別れを告げて、観光バスでモンレアーレとセリヌンテを見学し、アグリジェントまで行く。

 モンレアーレは、パレルモから西南へ8キロ。アラブ人による農業改革で生まれたコンカ・ドーロの沃野を見下ろす海抜300mの丘の上の小さな町だ。

 ノルマン人が日常使っていたフランス語で、モン・レアルは「王の山」の意。

 この小さな山の町に何があるのか?

 ノルマン王朝の全盛時代の12世紀の後半に、ルッジェーロⅡ世の孫のグリエルモⅡ世が造らせた大聖堂である。 

 大聖堂(司教座の置かれる聖堂)は、もともとノルマン王国の首都パレルモにあった。そのうえ、ルッジェーロⅡ世が海岸の町チェファルーに造らせた大聖堂があり、昨日、見学したばかりだ。

  さらに、パレルモからわずか8キロしか離れていないここにも…?

        ★

 < 教権との戦い >

   中世のこの時代、教権と王権の争いは激しかった。

   キリスト教は、古代、中世ばかりでなく、近世、近代に至るまで、歴史の評価や文学作品の価値判断まで含めて、学問、芸術を含むこの世のあれこれに強い影響力をもってきた。西欧社会がキリスト教(宗教)の世俗的影響力を克服するようになってきたのは、近年のことと言ってよい。

   1077年、教皇グレゴリウスⅦ世(在位1073~85)は神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒⅣ世を破門し、その結果、皇帝は諸侯たちに見放され、カノッサ城にいる教皇に対して、門前で雪の降る中3日間、素足で立って許しを乞わねばならなかった。有名な「カノッサの屈辱」である。

   教皇権の絶頂期を実現したインノケンティウスⅢ世(在位1198~1216)は、「教皇は太陽、皇帝はそれを受けて光る月」 と言ってのけた。

   ノルマン王朝につながる皇帝フリードリッヒⅡ世(在位1212~50)の生涯も、結局は教皇権との戦いの生涯であったと言える。フリードリッヒ(イタリアではフェデリーコ)が皇帝として、或いはノルマン王家の王としてやったことの数々は、200年後のルネッサンスを先取りするような開明的な事柄であったが、それらはことごとく教皇との対立の火種となった。教皇は何度も彼を破門したが、彼の直属の部下たちも、兵士たちも、民衆でさえ、天国へ行けなくなることを恐れず、フェデリーコから離れることはなかった。彼の教皇への反論は、「神のものは神へ。カエサルのものはカエサルへ」 (新約聖書のイエスの言葉) ということに過ぎない。人の魂のことは教皇であるあなたが、この世の政治のことは皇帝である私が、ということである。(参照: 塩野七生『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』)。

   しかし、フェデリーコの死後、ノルマン王朝につながるホーエンシュタウフェン家の一族は、教皇の策謀のもと、次々に攻め滅ぼされ、断絶してしまう。

 フェデリーコに先立って、ルッジェーロⅡ世 (在位1125~1130) がチェファルーに、その孫グリエルモⅡ世 (在位1166~1189) がモンレアーレに大聖堂を建てたのは、シチリア王権の上に君臨しようとするパレルモの大司教の力を削ぐためであった。

         ★

< モンレアーレ大聖堂のモザイク画 >

   駐車場から坂道を上がって行くと、ほどなくヤシの木の繁る大聖堂の広場に出る。

 

     ( モンレアーレ大聖堂 )

   広場側から見た大聖堂は、いかにもノルマンらしい、素朴でいかつい造りである。

   堂内に入ると、金色に輝く内陣の上方にキリスト像。その下に聖母子像、天使、預言者、聖人たち。

    ( 身廊と金色の内陣 ) 

 下の絵は、「キリストから王冠を授けられるグリエルモⅡ世」。言葉どおり王権神授説で、王権はキリストから与えられる。教皇や大司教によって王の地位が与えられるわけではない、ということか。

     

 この大聖堂は、柱頭より上の壁面の全てに金色燦然たるモザイク画が施されており、身廊には旧約聖書の創世記の物語が、天地創造から始まって壁面を二巡して描かれている。

 また、側廊の壁面には、新約聖書の物語が描かれている。

 下の写真の、上はイブの誘惑。下は、アブラハムがわが子を生贄にする場面。

  

         ★

 堂内のモザイク画の総面積は6340㎡で、壁面がモザイク画で埋め尽くされているヴェネツィアのサンマルコ大聖堂でさえ4500㎡というから、モンレアーレの大聖堂の規模に驚く。

 ヴェネツィアのサンマルコ大聖堂に初めて入ったとき、黄金色の絵の美しさというものを初めて知ったように思う。

 

  ( サンマルコ大聖堂の金色のモザイク画 )

 金色の美しさは日本の絵画にもある。中でも俵屋宗達の金泥の絵は素晴らしく、宗達の絵に、本阿弥光悦が書を書いたものは、雅やかである。

 (芥川)

 

 (風神雷神図屏風の風神)

        ★ 

< ラヴェンナの初期キリスト教会 >

 2002年6月、もう12年も前だが、ヴェネツィアに3泊したことがある。折しも、アフリカのサハラ砂漠を起源とするシロッコと呼ばれる南風が吹き、この風は地中海を越える際に高温湿潤の風になって、日本の梅雨を超えるような蒸し暑さで、時差による寝不足も加わ、苦しい観光をしたことがある。

 それでも、1日、鈍行列車を乗り継いで、ラヴェンナへ行った。

 ラヴェンナは、ヴェネツィアから西南へ150キロ。アドリア海に面した、人口15万人の中都市だが、馬杉宗夫『大聖堂のコスモロジー』(講談社現代新書) によると、初期キリスト教の聖堂を当時のままに見ることができるのは、この町を置いて他にはないそうだ。

 それは、402年に、西ローマ帝国が首都をラヴェンナに移したからである。

 首都を移してみても、既に瀕死の巨像である西ローマ帝国を支える展望はなく、人々はひたすらキリスト教に帰依するほかなかったから、新しい都には聖堂だけが建てられていった。

 476年、西ローマ帝国はついに滅亡。しかし、イタリア半島に侵入してきた東ゴードの王テオドリックもまた、ラヴェンナを首都とし、自らもキリスト教に改宗して、ラヴェンナに美しい聖堂を建てた。

 553年、東ローマ帝国皇帝のユスティニアヌスが東ゴード王国を攻撃、滅亡させ、イタリアは東ローマ帝国領となる。しかし、それも束の間、ユスティニアヌス帝が崩御すると、再び異民族の侵入を許し、都はローマに戻って、ラヴェンナの黄金期は幕を閉じた。

 その結果、皮肉にも歴史から取り残されたラヴェンナの初期キリスト教の建造物は、破壊されることなく、今に残されたのである。

 『大聖堂のコスモロジー』を読んで、我々がよく知るロマネスクやゴシック建築とは規模も趣も違う、初期キリスト教の鄙びた聖堂をぜひ見たいと思うようになった。

 そして、12年前の旅で初めて、素朴な初期キリスト教聖堂の中にひっそりと輝くモザイク画の数々に出会ったのである。

        ★

< ラヴェンナのモザイク画 >

 サン・ヴィターレ聖堂は、6世紀半ば、東ローマ帝国領となって建てられた初期キリスト教聖堂である。

 外観は素朴なレンガ造りの正八角形集中方式の建物で、おそろしく蒸し暑い日であったが、中に入るとクーラーの部屋入ったようにひんやりして涼しかった。

 後陣の正面のモザイク画は、「天使に囲まれ玉座に座るキリスト」像。

 だが、それよりも、その左右の、「ユスティニアヌス帝とその随臣たち」と「皇妃テオドーラと女官たち」が強く印象に残った。

 後陣部に、キリストやマリア、天使、新旧約聖書の人物ではなく、世俗の人であるビザンチン帝国の皇帝と妃が描かれるのは珍しい。

 全員正面を向いている絵に古拙の趣があり、その色調が多彩で美しく、近代絵画にまさるとも劣らないと思った。

  ( 皇妃テオドーラと女官たち )

 テオドーラは昔、身分の低い踊り子だったが、ユスティニアヌスに見初められて、妻に迎えられる。やがて、ユスティニアヌスは皇帝となり、蛮族と戦って、東ローマ帝国の版図を最大にして、大帝と呼ばれるようになるが、彼が弱気になったとき、テオドーラは叱咤激励して励ましたと言う。

 絵で見ると、美女の踊り子だった時代の面影はなく、なかなか気が強そうで、それより女官の二人目、金色のショールをまとった女性が、若く気品があって、美しい。

         ★

 サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂はラヴェンナの郊外にあって、徒歩ではムリ。しかし、かねてグラビア誌で見たモザイク画をぜひ見たくて、タクシーで行った。行って、やはり感動した。

 東ゴード時代の末期、549年に完成したパリジカ様式の赤茶けた聖堂に入ると、身廊の後陣正面上のドームいっぱいに、目指すモザイク画が広がっていた。

 柔らかい色調の緑の草原に、樹木や灌木、野の花。両手を広げた牧者と12匹の羊たち。

 磔刑のキリストに代表されるキリスト教美術の暗さ、おぞましさがなく、牧歌的で、メルヘンチックと言ってもいい、優しい、穏やかさが画面に満ちあふれていて、見飽きなかった。こういうキリスト教なら好きになれそうだ

         ★

 シチリアの旅は続くが、中世のモザイク画との出会いはこれでおしまいで、このあとバスは、遥かに遠く紀元前の古代へと向かう。(続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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牧歌的な古代遺跡セリヌンテ … 文明の十字路・シチリアへの旅7

2014年07月24日 | 西欧旅行…シチリアへの旅

    ( セリヌンテの古代遺跡 )

 朝、シチリア島の北海岸に位置する州都パレルモを出発し、パレルモ郊外のモンレアーレの大聖堂を見学したあと、バスは内陸部に入った。

 シチリア島を縦断し、南海岸のセリヌンテ遺跡を目指す。

 南海岸と言っても、セリヌンテはシチリア島の西端に近く、ローカルなシチリア島の中でも最もローカルな所である。

      ( シチリア島の内陸部の車窓風景 )

   個人旅行で訪れるとなると、パレルモからセリヌンテ遺跡の近くの町まで長距離バスが行っているが、そこからまた田舎の路線バスに乗り継いで、遺跡に向かうことになる。しかも、宿泊施設もないから、個人旅行で訪れるのはなかなか面倒だ。

 セリヌンテの遺跡は、青い海原を見下ろす丘の茫々とした野っ原にあった。

 野っ原に、倒れた巨大な円柱がごろごろと横たわり、白、黄、赤の野の花が咲いている。それが、セリヌンテだった。

     ★   ★   ★

 (以下、紅山雪夫『シチリア・南イタリアとマルタ』を参考に記述した。)

 セリヌンテにギリシャ人がやって来て植民市を築いたのは、遠い遠い昔、BC651年であった。

 南側が地中海に面した丘で、丘の両側にも海が入り江となって入り込んでいて (今はすっかり土で埋まって陸続きのようになっているが)、防御のためにも、交易の港としても、絶好の地であった。

 海に面した丘の高台には、海から見上げることができるように、ギリシャの神々に捧げられた5つの神殿があり、「アクロポリスの丘」となっている。居住地区は、神殿の丘の北側に広がっていたらしい。

 さらに、「アクロポリスの丘」の東側の高台にも、入り江を隔てて、3つの神殿群が建てられていた。

   港を出入りする古代の船は、両岸の丘に高くそびえる神殿群を見上げながら入港することになる。それは、セリヌンテの市民にとっては誇り、他国から交易に訪れた船乗りや商人たちには、セリヌンテの威容と繁栄を教えるものであった。

 だが、この地は、彼らギリシャ人と敵対するフェニキア人の、地中海最強の都市国家・カルタゴ  が、アフリカ側とはいえ、海を隔てて目と鼻の先にあり、頼りとするシチリア最大の都市国家シラクサはずっと遠かった。

   だから、長年に渡ってセリヌンテは、カルタゴと友好関係を保つよう懸命の努力をしてきたのである。

 しかし、セリヌンテが発展するにつれて関係は悪化していき、ついにBC409年、カルタゴの10万の大軍に攻撃された。この戦いで、1万5千人の市民が殺されて、セリヌンテは滅亡してしまった。

 それでもセリヌンテは、カルタゴ領の小さな町となって細々と生きてきたのだ。

 だが、BC250年、カルタゴが新興国ローマと激突したポエニ戦争のとき、足手まといになると全住民が移転させられ、セリヌンテは廃墟の町になってしまった。

 廃墟の町になっても、巨大な神殿や人々が暮らした居住区の建物は残っていたらしい。だが、それも、大地震で倒壊してしまって、歳月は流れ、また流れ、いつしか人々はここに町があったことさえ忘れてしまった。

 さて、時は一挙にAD15、6世紀に跳び、ヨーロッパはルネッサンスを迎える。つまり、キリスト教の神がこの地上の人々を支配した中世という時代の前、古代ギリシャ、ローマの時代を見直す運動が起こったのだ。その運動の中で、1人の人文学者が、奇妙な巨岩が積み重なっている所があるという農民の話を聞き、そこが古代史に登場するセリヌンテだと推測した。彼は、その場所と農民の話を記録に書き留めた。

 さらに300年も後の1822年になって、ルネッサンスの人文学者の記録が手がかりとなり、この地の発掘調査が始まったのである。

         ★

 日本の神社がそれぞれに祭神をもつように、ギリシャ、ローマの神殿も祭神をもつ。

 東側の3つの神殿群の祭神は判明しており、一つは知の神・アテナを祭ったアテナ神殿、最も巨大な神殿の遺跡が神の中の王ゼウスの神殿、そして、1957~8年に元の石材を積み重ねて、唯一、再建されたのが、ゼウスの妻ヘラに捧げられたヘラ神殿である。

 野っ原のなかの遺跡だけを見ているときはそうは思わないが、遺跡の付近に人がいると、石の柱や石の建造物の圧倒的な巨大さを実感する。

 

          ( 再建されたヘラ神殿 )

  ( 神殿の陰で憩う親子づれ ) 

 電気カートに乗って、1キロ先のアクロポリスの丘に向かった。

 こちらは、海の眺めが良い。だが、ヘラ神殿のように、再建されたものはない。

 

   ( アクロポリスの丘の廃墟 )

 

  ( 遠くに望むヘラ神殿 )  

  ( アクロポリスから地中海を望む )

         ★

      ( 傍らのポピーのような赤い花 )

 お天気も良く、地中海からそよそよと風が吹き、のどかだった。 

 「さても義臣すぐってこの城にこもり、功名一時の叢(クサムラ)となる。『国破れて、山河あり、城春にして草青みたり』……。

     夏草や / 兵 (ツワモノ) どもが / 夢のあと」

は、芭蕉が平泉を訪ねたときの感慨であるが、2500年も前の古代ギリシャ時代の話なのだから、「国破れて、山河あり」というほど、悲壮な感慨がわくわけではではない。

 何か、もっと今の心に合う歌があったと、さきほどから一生懸命に思い出そうとする、その歌が、ひょいと浮かんできた。確か小諸の懐古園に石碑があったはずだ。

    かたはらに / 秋草の花 / 語るらく /

        滅びしものは / なつかしきかな                 

                (若山牧水)

   遥かに遠い昔、10万の軍勢に対する凄絶な戦いがあったという歴史も、海と空と草花がすっぽりと包み込んで、何でもないよ、と言ってくれているような、とても安らかな気分にしてくれる、そういう場所であった。

   遥かな歴史もあり、牧歌的で、いつまでもいたくなるような、この全行程の中でも最も忘れられないシチリアの景色であった。

        ★

 その夜は、シチリアを代表する古代遺跡のある町、アグリジェントに宿泊した。

 

 

 

 

 

 

 

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もう一つの古代遺跡「神殿の谷」を見る … 文明の十字路・シチリアへの旅 8

2014年07月21日 | 西欧旅行…シチリアへの旅

 シチリアの旅の第3日目。曇り。時に小雨。

 旅ごころ身に付く。

 今日の日程はあわただしい。 世界遺産に認定された古代の遺跡群・アグリジェントはシチリア観光のハイライトの一つ。

 それからバスで1時間50分のビアッツァアルメリーナへ。ここも人気抜群で、古代ローマ時代の有力者(副帝)の邸宅跡を見学する。

 それからまた、バスで45分走って、バスに乗っている間に1700年ばかり歴史を前進させて、世界遺産のバロックの町カルタジローネを見学する。

 最後にもう一頑張りして、バスで1時間半のラグーサという、やはりバロックの世界遺産の町まで行って、宿泊する。

     ★   ★   ★

   アグリジェントは、セリヌンテから海岸沿いに走って100キロ強。パレルモから直行するなら、内陸部を縦断する列車の便もバスの便もあって約2時間。

 南海岸の中心をなす町で、県庁所在地。と言っても、旧市街と新市街を合わせても人口はわずか5万人の町である。

 昨日のセリヌンテよりもっと大規模な古代ギリシャの神殿群の跡があり、世界遺産にも認定されているから、シチリア旅行のハイライトの一つである。その分、観光客は多く、牧歌的とは言えない。

          ★

 旧市街は、丘の上に広がっていた。

 古代、やはりこの丘もアクロポリスの丘であった。丘の最も高い所、今はキリスト教の大聖堂が建つが、かつてそこには最高神ゼウスに捧げられた神殿が海を見下ろしていたという。

 旧市街の下に広がる広大な地域が「神殿の谷」と呼ばれる考古学地区で、その遺跡はアーモンドが栽培される緑の農園と共存している。

 ( 旧市街のある丘とアーモンドの谷 ) 

 広大な範囲に広がる遺跡群のほんのサワリを、多くの観光客にまじって見学した。 

 「神殿の谷」と呼ばれているが、実際は「谷」とは言いがたく、一帯は丘の中腹にあたり、そこから地中海を一望することができる。

 NHK・BSプレミアムに「世界で一番美しいとき」という番組がある。その第1回目の放送は、アーモンド栽培に携わるシチリアの農家の一家を取材したものだった。アーモンドは春、桜に似たピンクの花を咲かせ、あたり一面が満開になると、匂うように美しい。

         ★

 アグリジェントは、昨日見学したセリヌンテに少し遅れて、ギリシャ人によって建設された。最盛期のBC5世紀には、丘の上のアクロポリス (今の旧市街) から神殿の谷 (アーモンドの広がる中腹一帯) を含めて、ぐるっと城壁で囲まれ、その人口は20万人に達したと言う。シチリア島の南海岸を制する、堂々たる一大勢力であった。            

  (「神殿の谷」から地中海を望む )

   その後の運命は、セリヌンテに似ている。

   というよりも、地中海の雄・カルタゴが主敵としたのは都市国家アグリジェントで、セリヌンテを巻き込んだかたちで、カルタゴによって滅ぼされたのである。

 それでも、アグリジェントの町そのものは、かろうじて生き残っていたのだが、ポエニ戦争で再び壊滅する。ただ、セリヌンテのように、人っ子一人もいないという完全な廃墟になってしまうことはなく、キリスト教が入って来て、中世には大聖堂も建てられ、現在に至った。

 南海岸を代表する町であり、県庁所在地であるが、人口は5万人に過ぎない。紀元前5世紀の人口の4分の1である。

 ユーラシア大陸の東の果てから、さらに海を隔てた島国に棲むわれわれ日本人は、歴史はいろいろあっても発展するものと思っているところがある。だが、地中海の歴史は、「衰亡」或いは「滅亡」ということがあることを教えてくれる。それは、単に驕れる平家一族の命運のことではない。 共同体全体、民族、国家そのものの衰亡、消滅ということである。

         ★

 ヘラ神殿はBC470年ごろに建設された。カルタゴ軍に破壊された後、ローマ時代に元の石材を積み直して再建されたが、後に大地震で倒壊してしまったとか…。

    ( ヘラ神殿 )

   ( コンコルディア神殿 )

   コンコルディア神殿はほぼ当時の姿を留め、これだけ完全に原形を留めているギリシャ神殿は、地中海世界でも珍しいそうだ。

   カルタゴ軍によってアグリジェントが滅ぼされたとき、この神殿だけは、なぜか破壊されずに残った。

   時は移りAD6世紀。世はキリスト教の世界で、コンコルディア神殿は聖ペテロ・パウロ教会として衣替えした。その際、柱と柱の間に切り石を積み上げて石壁にしたから、その後の大地震にも持ちこたえ、倒壊しなかったと言う。

 1784年、後世の付加部分が取り除かれ、再び古代の姿を記念する遺跡に戻された。

        ★

   しかし、コンコルディア神殿を含めこの遺跡群について、別の説もあることを紅山雪夫さんは紹介している。(参照『シチリア・南イタリアとマルタ』)

   ポエニ戦争でカルタゴを破ったローマは、征く先々で異教の神々とその文化を尊重し、パクスロマーナを築いた人々である。

   ましてや、自分たちと同じ神々を祀るギリシャ人の神殿を壊すようなことはなく、むしろ傷んでいた神殿については大規模な修復工事もした。

 ローマの著名な文筆家キケロは、ローマがこの地にやって来たとき、アグリジェントの神殿群は健在だった、と書き残しているそうだ。これを信じれば、カルタゴ軍がアグリジェントの神殿群を破壊したにせよ、それはごく一部で、大部分はローマに引き継がれていたことになる。

 では、その後、だれが破壊したのか?それは、2段階に分けられる。

   「激変が起こったのは、4世紀末 (注:393年) にキリスト教がローマ帝国の国教とされ、異教が禁止されてからだ。帝国の官憲のあと押しを得て、キリスト教の司教が信者たちを引き連れて、『ご当地一番の神殿』に押しかけ、これ見よがしにぶち壊して、その跡地にキリスト教の司教座聖堂すなわち大聖堂を建てたのである。アグリジェントでゼウス神殿が壊されて、跡地に大聖堂ができたのはその一例だ」。

   ローマ帝国の晩期、帝国内のあちこちで、アクロポリスの丘の神殿が、キリスト教徒によって破壊されていった。アグリジェントでも同様であったことは、丘の上の変貌が物語っている。

 この時代のキリスト教によるギリシャ、ローマ文化の破壊については、辻邦生の名作『背教者ユリアヌス』に生き生きと描かれている。古代が見直されるのは、ルネッサンスを待たねばならない。

  では、アグリジェントの、アクロポリスの丘の下、「神殿の谷」の神殿群を破壊したのは、だれか?

  それは 「6世紀、ビザンチン時代。憎むべき異教の神殿だというわけで、狂信的なキリスト教徒が壊してしまったのだ。その時点ですでにキリスト教の教会に転用されていたコンコルディア神殿を除いて」。

   この説明で、カルタゴ軍が、多くの神殿のなか、コンコルディア神殿だけを破壊せず残したという、割り切れない謎も解ける。カルタゴ軍は、基本的に神殿の破壊をしていなかったのだ。

 ただし、「いずれにせよ6世紀から9世紀までのあいだに大地震が起こって、破壊に追い打ちがかかったことは確か」だそうだ。やはり自然の猛威はすごい。

         ★

 西欧諸国からの観光客にまじって、あわただしく見学を終え、小雨の降るなか、バスに乗って、次の見学地・ピアッツァアルメリーナへ向かった。

 考古学的には立派な遺跡群で、だから世界文化遺産にも認定されたのであろうが、昨日のセリヌンテの、海と、青空と、雲と、訪ねる人も少ない丘の野っ原の野の花と牧歌的な遺跡群が、なつかしく思われた。 ( 続く )

               

 

 

 

 

 

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ビキニ姿のモザイク画、そして花の大階段……文明の十字路・シチリアへの旅 9

2014年07月14日 | 西欧旅行…シチリアへの旅

     ( カルタジローネのスカーラ )

 小雨降る中をバスは走る。

 車窓の緑は生き生きと潤い、ブドウ畑が続くかと思えば、オリーブ畑になり、或いはアーモンド畑となって、あちらこちらに赤、黄、白の野の花が咲き、マロニエの木が白い花を付けて小雨に濡れている。

 

    ( シチリア内陸部の車窓風景 )

   ピアッツァ・アルメリーナは、シチリア島の真ん中あたり、南海岸寄りの内陸部に位置する。そこからさらに西へ6キロのカザーレという小さな集落に、ローマ帝国時代のヴィラ (宏大な農園を伴った別荘) の遺跡がある。世界文化遺産である。

  ヴィラが発見されたとき、建造物は埋もれ、ほとんど朽ち果てていたが、大小合わせて40室もある部屋の床面が健在だった。その床の全面に、さまざまなモザイク画が施されていたのである。

  ヴィラができたのは帝政晩期の4世紀の初めごろ。ヴィラの主人はマクシミアヌス。

  皇帝ディオクレティアヌスは、AD293年、帝国を4つの区域に分け、東西それぞれに正帝と副帝を置いて、侵入する蛮族に即応しようとした。そのとき、西の副帝に任じられたのがマクシミアヌスである。アフリカ出身の軍人皇帝だった。

        ★

 見学者は、床よりずっと高い所に張り渡された通路から、床のモザイク画を見下ろしながら見学する。人気の観光スポットだから、狭い見学通路は数珠つなぎだ。 立ち止まって写真を撮っているうちに追いつけなくなったりして、ツアーの一行もばらばらになってしまった。

   ( 賓客を迎える天蓋の広間 )

       ( ガレー船 )

  ( 子供部屋の2頭立て戦車 )

   床のモザイク画は人が踏むから、ガラスなど壊れやすい材料は使えない。ゆえに、すべて石の粒であるが、高価な赤や緑の石もふんだんに使われていて、主人の権勢を示しているそうだ。

   このヴィラのモザイク画が現代人にこれほどに人気があるのは、下のビキニ姿で運動する娘たちの絵のゆえであろう。

                                                    

 こういう絵を見ると、まるで現代の若い女性を描いているようで、或いは21世紀の人間の感性はローマ時代に戻っていっているのかもしれない。

     ★   ★   ★

 再びバスに乗って移動する。

 時代はローマ帝国晩期から一気に進んで1693年。シチリアに大地震が起こり、島の南東部の多くの町が壊滅した。

 そのとき、折しもバロックの時代で、一人のバロックの建築家が復興の声をあげ、後期バロック様式で統一した町づくりが進められた。

 こうして生まれ変わった町々が、これから見学するカルタジローネ、今夜宿泊するラグーザ、パレルモとともに空港のある東部の中心都市カターニアである。大地震からバロック様式で復興した町として、一括して世界遺産に認定されている。

   これから行くカルタジローネは、バロックの街並みとともに、イスラム時代に伝えられ、町の産業となっている陶器づくりでも有名である。

        ★

 

   ( カルタジローネの町 )

 ここもまた丘の上の町だった。

 バスを降り、最近、ヨーロッパの観光で、どこの町でもよく見かけるようになったミニ・トレインに乗って、ざっと町を巡る。

 公園の塀が陶器で飾られていたり、バロックらしい装飾的な建物もある。

 しかし、バロックの町と言えば、やはりローマ。

 例えば、古代の戦車競技場の跡を派手なバロック様式の建物で囲み、豪華な噴水などを配したナヴォーナ広場や、背景の壁の全面を劇的なギリシャ神話の彫刻で飾ったトレヴィの泉などと比べると、申し訳ないが、こちらは貧弱である。

 この町の見どころはスカーラである。

 市庁舎広場からサンタ・マリア・デル・モンテ教会まで、一直線に伸びる142段の大階段。広場から花で飾られたこの階段を見上げたときは、だれしもが 「綺麗!」と絶句する。ローマのスペイン階段の劇的な趣とは違って、しかし、美しい。

                               

            ( スカーラ )

 階段に置かれているゼラニウムの赤い花も、階段に彩を添えるマヨルカ焼の装飾も美しい。

 階段の途中には、両サイドにオシャレなショップが並ぶ。

 

   ( 階段の途中のショップ )  

 そして、階段を登りきると、サンタ・マリア・デル・モンテ教会があり、その中も洗練されているが、それよりも階段の上からの町の眺めが好かった。  

  

  ( 階段の上からの眺め )

 もう一度階段を下りて、市庁舎のカフェでコーヒーを飲む。

 そして、再びバスに乗って、今夜の宿泊地ラグーサへ向かった。( 続く )

 

 

 

 

 

 

 

 

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バロックのラグーサと古都シラクサ … 文明の十字路・シチリアへの旅 10

2014年07月02日 | 西欧旅行…シチリアへの旅

   ( ラグーサの丘の上の「下の町」 )

 シチリアの4日目。曇り。

 今日は、バロックの町ラグーサを徒歩で観光し、その後、バスで東海岸のシラクサへ行く。古都シラクサ見学後は、この旅の最後の宿泊地タオルミーナへ。

         ★

< 大震災の後、バロック様式で町を再建したラグーサ >

 ラグーサは、17世紀末の大地震の後、碁盤目状の都市計画で再生させた「上の町」と、そこから東へ下っていく「下の町」とに分かれている。「下の町」はイブラ地区と言い、迷路のような中世の街並みを残しながら、そこにバロック様式の建物を建てて再建した。ただ、「上の町」とか「下の町」とかいっても、全体として丘の上の町であるのは、シチリアの他の町と同じである。

 宿泊したのは「上の町」。ホテルから徒歩で、奇抜な彫刻のある建物や、バロック様式の大聖堂を見て歩く。

 

       ( 店の外で小さな朝市 ) 

  ( 上の町の大聖堂 )

   ラグーサで一番の絶景ポイントはここ。「上の町」の東端から、「下の町」のイブラ地区が一望できる。

 

   ( イブラ地区を見下ろす )

   イブラ地区へ降りていく途中には、磨崖仏ならぬ磨崖のマリア像も。

 

   ( 洞窟のマリア )

 下の写真は茶系統の色合いと構図が良い (自画自賛)。ただ、点景として、階段の奥から、赤、或いは青の服の美女(らしき女性) がこちらへ降りて来ていたら、もっとよい。赤い風船を持った少女とそのパパなら、さらによい。

 

 ( 中世の趣の濃いイブラ地区 )

 「下の町」は、サン・ジョルジョ大聖堂のあたりが一番賑やかな所。

 この三層からなる大聖堂を設計したのはガリアルディという建築家で、大震災の後、被災・倒壊してしまったいくつかの都市の市民たちに、バロックの町として再生させようと、運動の中心になった人だ。

 

  ( イブラ地区の大聖堂 )

 震災の後、民主主義で、わいわいがやがやと、各自が自分の利ばかりを言っているうちは、何も起こらないし、良い結果は生まれない。誰かプロフェショナルな人を中心に据えて、わが町の「誇り」を再生しようと、みんなが心を一つにすることが大切なのだ。

  歴史を下部構造から説明したがる学者もいる。間違っているわけではないが、誰かがいないと大きなことは起こらない。その誰かが大切なのだ。坂本龍馬を歴史教科書から削除したい歴史家は、本当には歴史というものがわかっていないのだ。

      ★   ★   ★

< シチリアの古都シラクサへ >

   ラグーサから、バスで1時間半ばかり。シチリア島の東海岸に出て、古都シラクサへ。

 シチリア島において、パレルモが東京なら、シラクサは千年の都・京都である。ただし、時は気が遠くなるほどさかのぼるが …。

 BC734年、シラクサはギリシャの植民市として建設された。

 BC4世紀に、地中海の雄カルタゴが大攻撃をかけてきたときには、セリヌンテもアグリジェントも滅ぼされたが、シラクサだけは持ちこたえた。

 その後、人口も50万人に達し、地中海世界の最大の都市となる。

 BC264年、シチリア島の争奪がきっかけで、地中海の雄・カルタゴと新興国ローマが激突した。戦いは20数年に及び、ローマが勝利して、シチリアはローマ世界の一員となる。(第1次ポエニ戦争 BC264~241)。

 ところが、20年後。カルタゴの将軍ハンニバルは、スペインで兵を養い、アルプスを越えて、北部イタリアに侵入してきた。ホームグランドでこれを迎え撃ったローマだが、2回の会戦のいずれにも壊滅的大敗北を期する。

 ローマの元老院は、この大敗の事実を市民に伝え、全市民が3日間だけ喪に服したあと、国家総動員令を発して、引退していた老雄ファビウスに総司令官を委任する。(第2次ポエニ戦争 BC218~201)。

 老雄ファビウスの取った戦術は、天才ハンニバルとは戦わないという作戦であった。「金魚の糞作戦」と言ってもよいし、「ヒット・アンド・アウェー戦法」と言ってもよい。 国家総動員令で招集された決死のローマ軍は、金魚の糞のように、ハンニバル軍2万数千人の後ろに付いて行軍し、ハンニバル軍が向き直ると、… 逃げる。ハンニバル軍がイタリアの町の一つを落としても、彼が他の町へ移動すれば、たちまちその町を奪還する。怖いのはハンニバル1人で、本来、ローマ市民軍は強いのだ。

 こうして、ローマは、10数年間に渡ってイタリア半島からハンニバルを追い出すことができなかったが、ハンニバル軍がイタリア半島を制圧することも許さなかったのだ。わずか2万数千人のハンニバルの軍勢では、2度の会戦の圧倒的な勝利にもローマが屈せず、次の手の各個撃破も阻止されたら、如何ともしがたい。見事な、老ファビウスの勝利である。ローマの結束がそれだけ固かったとも言える。

 この歳月の間に、1人の若者が成長する。スキピオと言う。父も、ハンニバルとの戦いで戦死している。

 若者は、アレキサンダーやハンニバルのような天才ではないが、秀才だった。どうしたらハンニバルに勝てるか研究し続け、ハンニバルの戦法を徹底的に分析し、学習し、マスターしたのだ。師は知らなかったが、言わばハンニバルの第一の弟子がローマ側に生まれたのである。

 国や企業の衰亡の要因の一つは、情勢の変化にもかかわらず、自らの成功体験に固執し続けることにある。

 勝てないけれども負けないという「金魚の糞作戦」で成功し続けていたファビウスと元老院は、1人の若造の主張をバカにする。これに対する青年スキピオの演説が、私は好きである。

 「私の考えでは、これまでに成功してきたことも、必要となれば変えなければならないということである。私は、今がその時であると考える」。…… 今こそ決戦の時、私に軍を与えよ!!

 こうして若きスキピオはハンニバルに決戦を挑む。スペインで、また、アフリカで。

 同じ戦法を駆使する者同士なら、敵国の地で心休まる時もなく、既に10数年間も戦い続けてきたハンニバルとその兵士よりも、若く、新鮮なスキピオ軍の方が強い。ローマは圧倒的に勝利し、以後、カルタゴの名は地中海世界から消えた。

 さて、この第2次ポエニ戦争の過程で、シラクサは、連戦連勝していたカルタゴ側に組するのである。

 だが、ローマは強い。ハンニバルがいないところでは、断固、攻勢に出る。ローマに背いたシラクサを包囲し、2年間に渡る攻城戦の末、シラクサを陥落させた。

 このときのシラクサ市民のなかに、あの「アルキメデスの原理」で有名なアルキメデスもいた。 伝説では、彼は次々と新兵器を発明して、ローマ軍を悩ませたと言う。

  シラクサ陥落の時、ローマ軍の司令官は彼を助けるよう命令していたのだが、結局、混乱の中でローマ兵によって殺されてしまう。

 だが、今、町には、アルキメデスの名を付けた立派な広場がある。当然のことだが、シラクサの町の誇りなのだ。

 さて、その後もシラクサは、ローマ時代、ビザンチン時代と、シチリアの州都であり続けるが、9世紀のアラブ人の侵入に対して徹底的に抗戦したため、州都はパレルモに遷され、県都でさえもなくなり、小さな一地方都市として細々と生きた。

  シラクサが再びシチリア島の東海岸の中心都市になるのは、19世紀のイタリア統一後である。ただ、東海岸の中心都市と言っても、現在の人口は12万人。古代の50万人には遠く及ばない。

         ★

シラクサ散策 >

 シラクサはもともとオルティージャ島という島に築かれた町であった。ただし、島と言っても、本土との間はヴェネツィアの運河程度の幅しかなく、2つの良港があった。ごく小さな島だから、周囲を分厚い城壁で囲めば、ローマ軍でさえ悩まされる難攻不落の町になった。

 海岸の岸壁に立ち、この海をローマのガレー船が埋め尽くし、城壁の中からは、アルキメデスの考案した新兵器も使って激しい抵抗が続けられた、遠い歴史を想像してみる。人間の歴史が茫々と霞んでくる。

 ( かつてローマ軍に包囲されたシラクサの海 )

 周囲を海に囲まれたごく小さな島なのに、なぜか清水がこんこんと湧き出て、籠城しても水に困ることはない。

 アレトゥーザの泉も、海岸から数メートルしか離れていないのに、真水が沸き出している。それで、古代ギリシャ人の伝説もあるのだが、パピルスが茂っていることでも有名である。

 この島の中心は大聖堂。夜はライトアップされ、海岸沿いのプロムナードと並んで、今ではこの辺りも、オシャレなカフェやレストランで賑わうそうだ。

  

   ( シラクサの大聖堂 )

 大聖堂の西正面はバロック様式。

 だが、堂内に入ると、古代ギリシャ時代の巨大な石柱が並んでいて、この大聖堂がもとは古代ギリシャ神殿であったことをうかがわせる。

 BC5世紀に建てられたアテネ神殿を、AD7世紀のビザンチン時代にキリスト教の聖堂に転用し、17世紀の大震災後に西正面をバロック様式で再建した。

 それにしても、ビザンチン時代の柱と比べるとき、古代神殿の柱の巨大さに驚かされる。これがBC5世紀の柱かと、手で触ってみた。

 

 ( ビザンチン時代の柱と壁 )

  ( 古代ギリシャ時代の柱 )

         ★

   人口が50万人にも達した古代のシラクサは、当然、島の外へと発展していった。

   島を出て、丘の方へ上がって行くと、古代ギリシャの野外劇場、ローマの円形闘技場、「天国の石切場」などがある。

   ギリシャ時代の野外劇場は、BC470年ごろに造られた。座席や階段は、すべて岩盤を彫り整えたもので、直径138m、15000人が収容できるという。客席の上の方からは、シラクサ市街と港が望めたそうだ。

 

          ( ギリシャの野外劇場 ) 

   イタリアには各地にこのような遺跡があり、夏になると、遺跡を利用して演劇やコンサートの催しがある。

   今、ここでもその準備で、今風の装置が置かれているのは、観光客にとって少々興ざめだ。だが、星空を見ながら、風に吹かれて鑑賞する演劇やコンサートは素晴らしいに違いない。 古代人がうらやましいくらいだ。 

 「天国の石切場」は、古代の採石場の跡である。そのうちの「ディオニュシオスの耳」と名付けられた石切り場跡が観光ポイントになっている。

  良質の石材が得られるところばかりを選んで掘り進んだため、深い洞窟になっており、洞窟内の反響がすばらしく、洞窟のてっぺんの小さな穴から、洞窟内の話し声がよく聞こえるという。ディオニュシオスは古代の僭主の名。政治犯をこの洞窟に閉じ込めて、彼らの内緒話を聞いたという伝説を受けて、このような命名をされた。

   ( ディオニュシオスの耳 )

 洞窟の前に100人くらいの小学生が遠足?に来ていた。引率の男の先生が、「中に入ったら、皆で声を合わせて大声で叫ぶんだ」 と言って、子供たちに声を合わせて叫ぶ練習をさせている。

 そのフレーズの中の1つ。「皇帝フェデリーコⅡ世

 シラクサの若い女性ガイドに聞いてみた。

 「皇帝フェデリーコⅡ世は、今、シチリアの人々に愛されているのですか?」

 彼女はうれしそうに答えた。「はい。とても」。

 こちらもうれしくなって、笑った。

 ここは、カソリックの国だ。フェデリーコは、その先進性のゆえに、ローマ教皇と対立し、戦い、キリスト教から破門された。彼が生きているうちはまだよかったが、死ぬと、その後継ぎたちは、教皇の意を受けた勢力に攻め滅ぼされた。

 それでも、シチリアの人々は、フェデリーコを自慢している。

 フェデリーコがやったことのなかでもすごいのは、時の教皇の再三の要請を断り切れずにだが、神聖ローマ帝国皇帝として第6次十字軍を率いて出征し、イスラム教徒のスルタンと話し合って、一滴の血も流さず、エルサレムを回復したことだ。もちろん、イスラム教徒のエルサレムにおける権利は認める。

 もっとも、教皇は、怒り狂った。イスラム教徒の血を一滴も流さずに講和を結んで帰ったことが許せないのだ。第1回を除いて、これ以前も、これ以後も、唯一、成功した十字軍だというのにだ。「反対の声は常に高く、賛成の声は常に低い」 (塩野七生『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』から)。

 それにしても、時のスルタンも偉かった。開明的なリアリストだと思う。

 教皇には内緒だが、それ以後……、いや、既に出征するまでに、キリスト教徒の世俗界のリーダーである皇帝フェデリーコと、イスラム教徒の世俗界のリーダーであるスルタンが、肝胆相照らす仲になっていたことは確かだ。

 21世紀にもできないことをやってのけたのだから、偉い人たちと言うほかはない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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シチリアの珠玉・タオルミーナ……文明の十字路・シチリアへの旅 11

2014年06月24日 | 西欧旅行…シチリアへの旅

   ( 「4月9日広場」の宗教イベント )

< 旅の心は遥かであり…

 シチリア島は、縦長の二等辺三角形を左に倒したような形をしている。

 北海岸はティレニア海に臨み、州都パレルモを中心にして、チェファルー、モンレアーレなどノルマン時代のモザイク画が見どころだった。

 南海岸は地中海を隔ててアフリカ大陸のチュニジア (古代においてはカルタゴ) に対し、セリヌンテ、アグリジェントなど、古代ギリシャ神殿の遺跡がゆかしい。

 東海岸はイオニア海に臨んで、南端近くには古都シラクサ、北端にはメッシーナがある。

 初め、シチリアへの個人旅行を考えた時、漠然とメッシーナ海峡を渡るものだと思っていた。

 ローマから列車に乗って、延々と車窓の風景を眺め、眺めることにも飽き、疲れが滓のようにたまったころ、やっと「長靴のつま先」に着き、そこからさらにフェリーに乗ってメッシーナ海峡を渡る …。

 「旅の心は遥かであり、この遥けさが旅を旅にするのである」 ( 三木清 )。

 ところが、今、シチリアに行くイタリア人もヨーロッパ人も、そんなに時間のかかる旅をする人は少ない。ローマ空港から、シチリアのパレルモ、或いは、カターニャまで、頻繁に飛び発つ飛行機でひとっ飛びなのだから。

 また、多少とも旅情を求め、或いは、飛行機とは違った効率を求める人のためには、ナポリから、夜、フェリーも出ている。ホテル替わりの船室で一晩過ごせば、早朝にはパレルモだ。

 かくして、メッシーナは、遥かに遠い遠い港町になってしまった。

 そのメッシーナから、列車或いは車で1時間少々南下した東海岸に、タオルミーナはある。

 さらに南下すればカターニヤがあり、カターニヤ空港からもローマ行きの飛行機が頻繁に出ているから、明日はカターニヤ発、ローマ経由で日本に帰ることになる。

        ★

< 散策して心楽しくなる街 >

 何度訪れても、旅人を引き付け、町を歩いているだけで、旅人の心をうきうきと幸せな気分にしてくれる街がある。歩き疲れれば広場や街角のカフェで、美しい街並みや行きかう人々を眺めながら、一杯のワインを楽しむ。

 パリのセーヌ川のあたりは、そういう景観だ。

 ローマの、パンテオンのあたりも、楽しい。

 このタオルミーナという町もそうである。小さいが、珠玉のように美しく、魅力がある。

 青い海と、青い空と、そびえる岩山と、木々の繁みからたえず聞こえてくる小鳥のさえずりと、遥かに時間をさかのぼる遺跡と、そして小さくてもオシャレな街並みと。

 だから、ここはヨーロッパ人にとって、あこがれのリゾート地の一つである。

 今回、2泊したホテルも、周りに樹木が繁り、くつろげる庭があり、早朝から小鳥のさえずりが聞こえ、眼下にイオニア海が望めた。

    ( ホテルの庭から朝の海 )

        ★

< イオニア海と、古代の劇場と、ウンベルト通り >

 シチリアの5日目。晴天。

 午前中は、添乗員の案内で、古代のギリシャ劇場及びウンベルト通りをめぐり、午後は自由時間だ。

   イオニア海からせりあがるモンテ・タウロという岩山がある。標高は398mだが、海からそそり立ってかなり高く見える。

   その岩山の急斜面の中腹にできた町がタオルミーナである。町に入るには、海岸近くの国道から、急斜面を何度もカーブしながら上がっていく。道幅が狭いから、大型バスは途中までしか入らない。

  

  ( 町はモンテ・タウロの急斜面にある )

 またもや紀元前の4世紀。シチリア各地に攻勢をかけたカルタゴが、このモンテ・タウロの中腹に、岩棚のように平坦な部分があることに目を付けて、そこに小さな城塞町を築いた。

 実際、街並みは、岩山が海へ落ちていく途中、傾斜がやや緩やかになったあたりに、へばりつくように、広がっている。

 カルタゴはまもなく東海岸から撤退したので、町はシラクサの支配下に入り、古代のギリシャ人たちはモンテ・タウロの山頂をアクロポリスの丘にした。

 今、山頂には、10世紀のアラブ時代に造られた小さな古城がある。城と言うより、砦と言った方がよい。よくあんな急峻な岩山の上に城塞を造ったものだと感心する。

  ( 砦と聖堂 )

 目を凝らすと、さらにその隣の少しだけ低い峰の頂上に、聖堂がある。マドンナ・デッラ・ロッカ (岩の聖母マリア) で、岩をくりぬいて造られたマリア聖堂である。

 断崖の中腹に横に広がる町の、一番の中心街はウンベルト通りだ。町の上部を、等高線に沿って、横に800mほど貫いたメイン通りで、両サイドには城門がある。

  ( ウンベルト通りの城門 )

 州都パレルモをはじめ、今まで見てきたシチリアの街並みは、過去の繁栄の面影をわずかに残し、今は古びて、貧しげでもある。だが、このウンベルト通りは、西洋各地からの観光客やリゾート客を迎え、綺麗で、オシャレで、ウインドショップも楽しそうである。

  

    ( 賑わいのウンベルト通り )

 通りの中ほどに、「4月9日広場」がある。

 広場の一方は、眺望が海に向かって開け、遥か眼下に美しい海岸線が見下ろせる。

 

  ( 広場のテラスから見下ろす海 )

 反対方向をふり仰げば、城塞のあるあのタウロ山。

 

    ( 「4月9日広場」とタウロ山 )

 広場に面して、15世紀の小さな教会もあり、何もかもロマンチックである。

   ( サンタゴスティーノ教会 )

 青い空と、青い海。海に開けた開放感が、通りを歩いてきた人々の気分を幸せにし、子どもたちも楽しそうに広場のひとときを過ごしている。

 しかし、タオルミーナの魅力を決定的にしているのは、その海を見下ろす高台の一角に、古代ギリシャの野外劇場の遺跡があることだ。

 BC3世紀に造られたものだそうだが、シラクサの古代劇場よりやや小さくて、直径は109m。

 だが、何といっても素晴らしいのは、観客席からの眺めだ。残念ながらこの日は見えなかったが、シチリアを代表する山、エトナ山も見える。3369m、いつも噴煙を上げている活火山が、舞台の借景になっているのだ。

 そして、その横には、紺碧の海。

 このような劇場を造った古代の人々の感性に感嘆する。

 

   ( 野外劇場 )

         ★

< 午後のグラスワイン、黄昏のタオルミーナ >

 昼食後は自由時間。旅行中、親しくなった一組のご夫妻と、岩山頂上のさらに奥の村を訪ねたり、ロープウエイでイオニア海の海岸に下りたり、夕食を共にしたりして、旅の終わりの半日を楽しんだ。

 ネットで、モンテ・タウロ山へタクシーで行くことができるという情報を得ていたので、タクシー乗り場で運転手と交渉する。「近いから、ダメ。カステルモーラなら往復40ユーロ」。OKする。

 カステルモーラは、394mのタウロ山のさらに奥へ5キロの所にある村で、標高は529m。ワイン造りを主たる生業とする。以前、日本のタレントがこの村を訪れ1泊するという番組をみた記憶がある。

 タクシーは、すごい傾斜の七曲りの道を、慣れたもので、悠々迫らず運転して、頂上へと向かう。

 村が見えてきた。天空の村の風情だ。 

 

  ( カステルモーラ遠望 ) 

 村に着くと、タクシーには待ってもらって、しばらく散策する。午睡しているような小さな村だが、ペンション風の宿泊施設やレストラン、お土産を売る店などもある。

   ( カステルモーラの聖堂前広場 ) 

 村のはずれのテラスからの眺望は最高だった。ただ、この日はお天気が良すぎて、午後でもあり、カメラ写りはは今一つ。

 海に突き出た小さな半島のように見えるのは、イソラ・ベッラの小島だ。

  ( イソラ・ベッラが見えた )

   帰路、運転手は、砦のあるマウロ山の横にあるもう一つの峰、マドンナ・デッラ・ロッカ (岩の聖母マリア) に寄ってくれた。

 そこから、午前に見学したギリシャの野外劇場が、横にたなびく薄い雲の下、青い海を背景にして、丘の上に見え、感動的だった。

 まさに、天空の野外劇場である。

   ( 遥かにギリシャ野外劇場を望む )

 

     ( 望遠レンズで )

   ウンベルト通りに帰った。タクシーを降り、通りの突き当りを少し下ると、ロープウエイ乗り場がある。ここから一気に下って、マッツァーロ海岸へ。そこから花々に縁どられた海岸を歩いて、イソラ・ベッラへ。

 イソラ・ベッラは、映画「グラン・ブルー」のロケにも使われた静かな入り江で、小さな緑の小島があり、島までは浜辺から一筋の砂の道でつながっていて、まるで細長い半島のようだ。

 西洋人の子供や男女が、水遊びしたり、日光浴したりしている。

  

    (イソラ・ベッラの海岸)

 遥々とイオニア海までやってきた…。その実感を得るために、潮水をなめてみる。

 ヴェネツィアのリド島の先のアドリア海でも、日本列島と一続きのハワイの海でも、オーストラリアの西海岸のインド洋でも、こうして潮水に浸した指をなめてみた。が、いつも想像を超えて塩っ辛い。

 ご夫妻と、海辺のカフェで、潮風に吹かれながら、しばしグラスワインを楽しむ。時よ、止まれ! 

  夕方には、ご夫人の方がネットで調べたというレストランのテラス席で、楽しい食事の時間をもった。

 その帰り道で見た黄昏のイオニア海も、魅力的だった。

 

       ( 黄昏のイオニア海 )

        ★

< 帰国の朝 >

 翌朝早く、耳につくほどの小鳥のさえずりに囲まれながら、散歩した。

 よく晴れ、朝の空気は澄んで透明感があった。静かな市民公園の森の中の小径を歩き、まだ人通りの少ないウンベルト通りを経て、「4月9日広場」までやって来た。テラスから紺碧の海を見下ろすと、エトナ山の裾野が霞んで見えた。

 シチリアの空と海は、美しかった…。

  ( 小鳥のさえずりに囲まれて )

( 続 く ) 

 

 

 

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旅の終わりに ── 「人のためにもならず、学問の進歩にも役立たず」 … 文明の十字路・シチリアへの旅12

2014年06月19日 | 西欧旅行…シチリアへの旅

          ( セリヌンテの神殿跡 )

 大手旅行業者の企画したシチリア・ツアー。 「出発確定」に指定された日への参加だが、参加者はわずか10名。なにしろ、行先がローカルなのだ。

 1組のご夫婦を除いて、皆さん、どうも60歳以上の高齢者。季節は好いのだが、現役で働いている人に5月の海外旅行はむずかしい。

 それにしても、こんなローカルな企画に参加してくる人たちだから、聞くともなく話を聞いていると、ありふれたヨーロッパツアーなどとっくに卒業してしまったという感じである。

 アフリカの草原でライオンを間近に見たときは感動したとか、ナスカの地上絵をセスナ機から見たとか、南米のウニタ塩湖で、夜、自分の頭上を超えて彼方へ流れる天の川が、湖面に映じて、また自分の足元へ流れてくる光景に言葉を失ったとか …。

 とにかく、旅行業者の企画するほとんどのツアーを制覇する勢いで、言葉どおり世界を股にかけていらっしゃる。

   私の場合、大自然の生み出した絶景や、人類の造りだした奇観を、とにかく 「 何でも見てやろう」、という旅行はしていない。

   それで、残りの人生、手を広げずに、西欧にしぼって、その歴史と文化を知りたいと思って、旅をしてきた、と言ったら、1組のご夫婦から、ヨーロッパは所詮、斜陽だ。日本はとっくに追いつき、追い越している。「クール・ジャパン」を知らないのか?と言われた。さらに、中国、韓国に行ったかと聞くから、韓国には行ったと答えたら、白い目で見られた。

 最近、中国、韓国の「反日」大合唱に対する反動で、日本のなかでもナショナリズムの気分が台頭してきている。気持はよくわかるが、しかし、中国、韓国と同じレベルの「偏狭な愛国心」の行きつく先を、日本人はすでに歴史のなかで経験している。

 そもそも、「クール・ジャパン」は、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」 などとは言わないものだ。

 それに、今、世界の中で、国民一人当たりの生産性が高く、豊かなライフスタイルをつくりだしている国は、いろいろあっても、やはり北欧諸国やオランダ、ドイツ、オーストリアなどで、西欧の懐の深さを侮ってはいけない。 

          ★

 明治維新以後、日本は、西欧をモデルにして、日本の近代化のために、必死で学習してきた。 

 しかし、今は21世紀。西欧の歴史と文化を知りたいという私の旅のテーマは、明治日本の、西欧をモデルにし、西欧に追いつき追い越せという学習動機とは、全く異質のものである。

 例えば、鎌倉時代について、学校で勉強した以上のことを知りたいと思って、本を読んだり、フィールドワークの旅をしたりする人は、今の日本よりも鎌倉時代の方が優れていると考え、鎌倉時代に追いつき、追い越そうと考えているわけではない。

 知りたいから、知ろうとして、本を読み、旅をする。それが人間というものだ。

 もちろん、鎌倉時代について、なぜ学校で勉強する以上のことを知りたいのかと言えば、鎌倉時代に何か心ひかれるものがあるからに違いない。広い意味で何かリスペクトしたくなるような、或いは、ロマンを感じるようなものがあるから、知りたいと思うのだ。

 同じように、もともと西欧の文明と文化にロマンを感じ、敬意をもっているから、西欧をもっと知りたいと思うのである。

 だからと言って、現代社会が鎌倉時代より劣っているなどとと考えているわけではないのと同じように、西欧文明の全てが、日本より優れていると考えているわけではない。

 逆に、鎌倉時代を深く知れば、そのことを通して、現代日本のものの感じ方や生き方について改めて気づくこともあり、現代日本についての理解が深まるということもある。

 同じように、西欧文明を知れば知るほど、日本について振り返って考えるようになり、日本の歴史や文化を、以前よりもずっと深く理解できるようになったし、愛情をもてるようになった。

 一方、西欧文明について深く知れば、西欧文明の中にひそむ醜い一面もリアルに見えるようになり、当然、批判的な見方もまた、生じてくるのである。

 西欧かぶれも良くないが、だからといって、日本かぶれが良い、というわけでもない。贔屓の引き倒しは、誤った愛国心である。

 韓国に旅行したのは、今の韓国に何かを学ぼうと思ったわけでも、併合時代のことを詫びる気持ちからでもない。今の隣国を、報道や本だけでなく、自分自身の目で見ておきたいということ、それに、遥かな昔、伽耶国や百済や新羅や高句麗と日本との関係に興味があり、その舞台となった韓国の地理・風土に触れたかったからである。 

         ★

 というような動機をもって旅をしているから、できるだけ自分の足で歩き、自分の目で見、空気を肌で感じ、自分のペースで行動したい。計画の段階から、見たいもの、行きたい所、泊まりたい町を、自分で決めたい。

 それでも、自力では行きにくいところ、一人では不安に思うところだけ、旅行業者の企画するツアーを利用する。ツアーに参加して、どうしても気になる町があれば、そこへはもう一度、今度は自分で計画を立てて行ってみる。

 それが私の西欧旅行のやり方である。

         ★ 

 理屈を述べたが、早い話、高校生に、「海外旅行へ行くとして、アジア、ヨーロッパ、アフリカ、北米、南米、オセアニアの、どこへ行きたいですか?」 というアンケート調査すると、8割以上の高校生が 「ヨーロッパ!」 と答える。これは、いつの時代でも、同じだ。

 牧歌的なスイスの高原も、海の都のヴェネツィアも、シャンソンが空に広がるようなセーヌ河畔も、「ロマンチック街道」のお伽の町もお城も … ヨーロッパは、抒情的で、物語的で、美しく、魅力的なのだ。これは理屈ではない。

 だから、私の本当の旅の目的は、高校時代からの夢・あこがれを実現したい、ということに過ぎないのかもしれない。

 青年、沢木耕太郎は、たった一人で、カネもなく、バスを乗り継ぎ、安宿に泊まり、遥々とユーラシア大陸を越える旅をした。彼は言う、「およそ酔狂な奴でなくてはしそうにないことを、やりたかったのだ」と。有名な『深夜特急』の中の一節である。

 私の旅は、沢木青年の文章の前半部分があてはまる。

 私の旅は ──「人のためにもならず、学問の進歩に役立つわけでもなく、記録を作るものでもなく、血沸き肉躍る冒険大活劇でもなく、まるで何の意味もなく、誰にでも可能」な旅である。

 だが、他人にとって、既に何度も行った、何の変哲もない行先であっても、肌の色も違い、言葉も通じない異郷への旅は、私一個にとって、心ときめく「未知」への旅である。「未知」への旅である以上、それは心躍る「冒険」でもある。

 脚力も、体力も、年々、衰え、腰痛持ちで、最近は不眠症で、12時間以上の空の旅に耐え、遥々とユーラシア大陸を越えて、もし旅の途中、異郷の地で倒れたら…と、最近は旅に出る前に思わぬでもないが、「野ざらしを 心に風の しむ身かな」の芭蕉と違って、いざというときは、最後の力をふりしぼってでも、愛する日本には帰ってくる。

 「もう、良かろう」と、あきらめるようになったら、いよいよ老境である。

 もう少し、がんばってみよう。[  了  ]

 

       ( ローマ空港付近 )

 

 

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