ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

木の神様を祀る伊太祁曽(イタキソ)神社…西国三社めぐりの旅(3)

2024年06月15日 | 国内旅行…心に残る杜と社

  (「伊太祈曽」駅)

<伊太祁曽(イタキソ)神社と五十猛命(イタケルノミコト)>

 「伊太祈曽」駅は、貴志川線に乗って「和歌山」駅から8つ目、「竈山」駅からは4つ目。この駅から先、行き違いのできる設備がないので、上下列車の交換はこの駅で行われるそうだ。

 駅に案内掲示板があった。

 (伊太祈曽駅の案内掲示)

 あれっ!! 駅名と神社名 … 漢字が違うようだ。読み方も、清音と濁音の違いがある。

 「祈」への駅名の変更は、南海電鉄から和歌山電鐵へ譲渡されたときに行われたらしい。

 「祁」は読みにくい。ふつう、まあ、誰も知らない漢字だ。それで、音が通じる別の漢字にしようと検討し、そうはいっても神社への遠慮もあって、「祈」という敬虔な感じの文字を選んだ、ということだったのかな??

 「祈」と「祁」は音は通じるが、意味はどうなのだろうと、念のために漢和辞典で調べてみた。

 ぜんぜん違う。「祁」は「大いに、さかんに」の意。

 伊太祁曽神社の祭神は、スサノオの子の五十猛(イタケル)命。さらに、その妹の大屋津比売(オオヤツヒメ)命と都麻津比売(トマツヒメ)命を祀っている。

 小学館刊の『日本書紀』の頭注によると、「五十猛(イタケル)」の「五十」はイと訓み、多数の意。「猛」はタケルと訓み、「武」と同じで、勇猛の意とある。さらに、「伊太祁曽神社」の「伊太祁」(イタキ)は、「五十猛(イタケル)」と同義であろう、とあった。「大いに勇猛なる」神様を祀る神社である。

 高天原では暴れん坊で姉のアマテラスを苦しめたスサノオの子らしい名だが、『日本書紀』が伝える神話によると、イタケルは名前のイメージからはちょっと想像できない神様だった(後述)。

      ★

<木の神様に参拝する>

 駅から神社までは徒歩5分。近い。

 小さな流れの和田川を渡ると、一の鳥居があり、神社の参道に入る。

 (石の一の鳥居)

 進んで行くと、木の鳥居があり、その向こうに門が見えた。

   (白木の鳥居)

      (木祭りの幟)

 黄色い幟(ノボリ)が立てられている。「木祭り」は毎年、4月の第1日曜日に行なわれ、全国の木材関係者をはじめ、一般の崇敬者も集って、樹木の恩恵に感謝する祭りのようだ。

 お堀の赤い橋を渡ると手水舎がある。

 石段を上がって門をくぐると、拝殿があった。

 (拝殿)

 ここも、日前宮とともに、紀伊国の一の宮である。

 境内の一角に、木祭りのために奉納された、チェーンソーで作ったというアートが陳列されていた。

      ★

<木の神様のこと>

司馬遼太郎『街道をゆく32』から再掲 

 「『きい、紀伊は、もと木の国と書きたるを、和銅年間に好字を撰み、二字を用ゐさせられしよりかく書くなり。伊は紀の音の響きなり』と、まことに簡潔に説く。なぜ木の国なのか、については神話があるが、要するに木が多かったからであろう」。

 その神話である。

 初代の天皇である神武天皇よりざっと180万年も昔(このことについては前回、書いた)に、神武天皇の曽祖父のニニギノミコトが高天原から地上に降りてきた。そのニニギノミコトよりも遥かに古い神代の時代 ……

 …… アマテラスの弟のスサノオは、高天原で乱暴狼藉をした挙句、神々によって高天原から追放された。

 だが、地上に降りてきてからのスサノオは実にカッコいい。八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治して、その尾から出てきた草薙の剣を天上のアマテラスに献上する。そして、美しい奇稲田(クシイナダ)姫と幸せな結婚をした。スサノオの歌、

  八雲たつ 出雲八重垣 妻ごめに 八重垣作る その八重垣を

 以上は、よく知られた話である。

 ところが、『日本書紀』には、スサノオの話に限らないのだが、一つのお話のあとに、「一書(アルフミ)に曰く」として、別の異なる伝承も紹介されている。

 スサノオに関しても、オロチ退治の話を基本にしながら、別の異なる5つの伝承が、「一書に曰く」、「一書に曰く」として付記されている。

 その4番目と5番目に、スサノオの子の五十猛(イタケル)が登場する。

 4番目の「一書に曰く」では、高天原から追放されたスサノオとともに、スサノオの子のイタケルも地上に降りてきた。そのとき、イタケルは、高天原から多くの樹木の種を持ってきていた。それで、その樹木の種を、筑紫から始めて、順次、全国に蒔いていき、国土を青山に変えた。そのため、イタケルは「有功の神」と称えられた。

 「即ち、紀伊国にまします大神、これなり」。

 5番目の「一書に曰く」は少し異なる。

 地上に降りてきたスサノオは、この国の子孫のために、自分のあちこちの体毛を抜いて、その毛を孫悟空みたいに??吹いて、船の材料になるようスギとクス、また、宮を建てる材木になるようにヒノキ、また、棺をつくるためにとマキに変えて、この国に植えられた。また、食料にすべき木の実の種も蒔いて植えた。

 さらに、スサノオの子のイタケルと、その妹のオオヤツヒメと、二女のツマツヒメは、それ以外の樹木の種を国中に蒔いて回った。

 そこでこの三兄妹神を紀伊国に迎えて祀ることになった、とある。

 伝承に少々の違いはあるが、日本列島の緑の木々や果物のなる木は、スサノオと、その子のイタケルら3兄妹が植えたのだというお話である。

 素朴で、いい話である。

 勝手な想像だが、もともと紀の国に古くから伝わる、或いは、紀氏に伝わる伝承を、『日本書紀』が採録したように、私には思える。 

 前回の「閑話」の話に戻れば、津田左右吉博士は、記紀の「神話」の記述は6世紀の宮廷官人たちが造作(創作)したものだという。

 そういう考えに立つと、スサノオが地上に降りてきてからの話について、宮廷の官人たちは計6つの異なる話を頭をひねって創作し、歴史(神話)の捏造をしたということになる。そこまでやる必要があるのだろうか???

 大伴氏とか物部氏とか中臣氏とか、そして紀氏とか、各氏族はそれぞれに家に伝わる一族の伝承を持っていた。天武天皇のとき、国の正史を編纂しようと、官人たちの中から学力の高い編纂メンバーを選び、各氏族が持っていた伝承を提出させた。編纂者たちはそれらを読み込み、吟味し、国の正史に入れるべきか判断し採録していったと考える方が、創作説よりも合理的であろう。もちろん、その際、国家や天皇家に都合の良いように、取捨選択、加工もされたことを否定するつもりはない。

 『日本書紀』には、「一書に曰く」だけでなく、百済の歴史書や中国の歴史書も注に引用されている。

 そもそも「紀」の編纂に携わった官人たちのメンバーには、中国や朝鮮半島からの渡来人たちも多く選ばれており、「紀」は漢文で書かれている。滅亡した百済の歴史は韓国にも残っておらず、『日本書紀』に引用された部分だけが残っているそうだ。

 (岩橋古墳)

 境内を歩いていると、古墳があった。岩橋古墳群の一つである。彼らこそ、この伝承を伝えた人々かも知れない。

      ★

 夜、ホテルのフロントに聞いて、すぐ近くの「よっさん」という小さな和食の店の暖簾をくぐった。何にしようかとメニューを眺めていると、「よっさん」らしき料理人の主(アルジ)が出てきて、「うちは朝、漁港の市で仕入れてきた新鮮な魚がウリです」と言う。「では、3品ほど、おまかせで」と頼んだ。

 時間をおきながら新鮮な魚料理が出て、燗酒が美味しかった。

 和歌山は古代から漁の名人のいる国でもある。

 ホテルに帰って歩数計を見ると、朝から1万1千歩、歩いていた。

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

早春の薬師寺へ(その2)

2024年04月19日 | 国内旅行…心に残る杜と社

 (東塔)

<1300年前からここにある塔>

 白鳳伽藍を見てまわりながら、私は、復興された薬師寺の伽藍を今日まで自分が見ていなかったことに、やっと気づいた。北隣の唐招提寺は何度か訪ねたのに、薬師寺の方は … 多分?? 学生時代に訪れてから、一度も来ていない … 気がする。

 理由はいろいろある。先に唐招提寺を訪ねて十分に満腹してしまって、薬師寺に寄らずに帰ってしまったとか、復興の工事が行われている薬師寺を敬遠したとか。

 ところが、入江泰吉さんの写真集で見たり、薬師寺の年中行事の1コマをテレビニュースの映像で見たりして、いつの間にか自分の目で見たつもりになっていたのだ。

 学生時代以来だとすると、幾星霜である。

 以下の引用は亀井勝一郎の『大和古寺風物誌』の一節であるが、書かれたのは太平洋戦争中の昭和18(1943)年。だが、私が訪れた復興前の昭和40(1965)年頃の様子も、これとたいして変わらなかったはずだ。

 「薬師寺は由緒深い寺であるにもかかわらず、法隆寺などと比べて荒廃の感がふかい。…… 金堂内部の背後の壁は崩れたままになっているし、講堂にいたっては更に腐朽が甚だしい。…… 周囲にめぐらした土塀も崩れ、山門も傾き、そこに蔦がからみついて蒼然たる落魄(ラクハク)の有様である」。

 「西塔はすでに崩壊して、わずかに土壇と礎(イシズエ)を残すのみであるが、東塔はよく千二百年の風雨に耐えて、白鳳の壮麗をいまに伝えている」。

 1300年前の金堂、講堂、西塔などは、或いは台風によって打ち壊れ、或いは兵火によって焼け落ちて、歴史の彼方に失われてしまった。亀井勝一郎氏が見た崩れた金堂や講堂は、ずっと後の時代に仮に建てられた建造物である。

 ところが、ただ一つ、東塔のみが白鳳時代のままの姿を保って、1300年間、ずっとここに立ちつづけたのだ。

 学生時代、私たちは、何かで読んで、西塔の跡の礎石の窪みに溜まった小さな雨水に東塔の姿が映るのを見て、廃墟・無常の感慨を抱いたりしたのである。ただ一つ残った塔は、1300年の歳月に思いを馳せる滅びの美学の象徴であったのかもしれない。

  (東塔)

 塔はヨーロッパにも中国にもある。しかし、このような様式 ─ 五重塔とか三重塔 ─ は、日本独自のものと言われる。唐や百済の技術者グループの手を借りながらも、古代日本の美意識が創り出した塔である。

 薬師寺の塔は各層に裳階(モコシ)をつけて六層に見えるが、実は三重塔。

 はるか上空に水煙があり、飛天が笛を吹いていたが、残念ながら1300年の歳月に耐えられず、水煙だけは新しいものに取り換えられた。

 フェノロサが最初に言ったとか、それ以前からある普遍的な言葉だったとか、諸説があるが、とにかく多くの人がこの塔を見上げて、「凍れる音楽」という形容を思い浮かべたのである。

      ★

<閑話1 ─ 1300年前の石の建造物>

 よく、ヨーロッパは石の文化だから残り、日本は木の文化だから残らない、と言われる。

 しかし、ヨーロッパに、1300年前の建築物が、ほぼ完全な形で、どれほど生きた姿をとどめているだろう。薬師寺の東塔は、薬師寺という寺の一部として今も生きており、ピラミッドや秦の始皇帝の陵墓のような考古学の対象ではない。

 1300年前と言えば、西洋はフランク王国のまだメロヴィング朝の時代だった。その時代につくられた建造物で何が残っているだろう?私たちがヨーロッパ旅行に行って見るロマネスクやゴシックの大聖堂は11世紀以降のものだ。

 フランスの地方のロマネスクの大聖堂を訪ねた時、聖堂の壁の石材が古びて、もろくなり、一部がぼろぼろと剥落しているのを目にして、驚いたことがある。このことは、井上靖の小説『化石』の中にも出てくる。石材も、千年もすれば朽ちることがあるのだ。

 (トゥルニュの修道院)

 1300年前と言えば、西アジアではイスラム教が生まれ、東へ西へ猛烈な勢いで膨張していた。アフリカ北岸を西へ西へと進んだ一派は、さらに地中海を渡ってイベリア半島を征服し、ピレネー山脈を隔ててフランク王国と対峙した。

 遥かに遠い古代ギリシャの石の文化は、今は巨大な石柱がゴロゴロと草花の中に転がっているばかり。立っているのは、近代になって、往時の姿を復元してみようと、組み立てられたものだ。

 それでも、シチリアの海に臨む丘の上のセリヌンテの遺跡は美しかった。地中海から吹く風が頬をなで、廃墟の美があった。

 (シチリアのセリヌンテの神殿)

 今もほぼ完全な姿で残っているのは、古代ローマの建造物である。例えば、ローマのパンテオン、或いは、サンタンジェロ城。サンタンジェロ城は中世に改造され教皇のための要塞になった。しかし、元はローマの5賢帝の一人、ハドリアヌス帝が、皇帝の霊廟として造ったものだ。後世に城塞として使われるほどに、頑丈そのものである。

 (ローマのサンタンジェロ城)

 ローマ帝国の建造物が堅固なのは、石というよりもコンクリート製だから。そういう意味では、ローマ帝国というのはたいしたものなのだ。しかし、もちろん、今も当時のままに息づいているわけではない。

       ★

  (西塔)

 西塔は新しい。創建当初のように鮮やかな丹と金色の飾り金具に彩られて、白鳳の美はこのようであったのかと、よくわかる。

  (回廊の外から写す)

      ★

<東院堂の仏たち>

 回廊の外、東塔の東側に東院堂がある。吉備内親王が元明天皇(女帝)の冥福を祈って発願し建立させた。

 今、遺っている建物は鎌倉時代に再建されたものだが、国宝となっている。

 また、本尊の聖観音菩薩も、白鳳時代の国宝。この菩薩様は、写真家の入江泰吉氏の写真集をめくっていて、薬師寺の仏様の中で最も美しいお顔かも知れないと思った。特に横顔が端正である。

 本尊の菩薩を囲むように立つ四天王像は、鎌倉時代の重文。私は、如来像や菩薩像よりも、四天王像 (持国天、増長天、広目天、多聞天) や風雪を耐えた個性的な高僧のお顔や姿が好きである。

      ★

<踏切のある休ケ岡八幡宮>

 南門を出ると、休ケ岡八幡宮がある。薬師寺を守る神社であった。

 (休ケ岡八幡宮)

 この神社の神像は魅力的だが、今は博物館に納められている。

 参拝して、鳥居を出ると、踏切があった。

 遮断機が降り、近鉄電車がごとごとと通り過ぎて行った。

 踏切を渡って振り返ると、踏切越しの神社の杜もなかなか趣があってよい。少なくとも、高速道路や新幹線が走る高架などよりは、のどかでいい。

  ★   ★   ★

<閑話2 ─ 白鳳伽藍の復興のこと>

 薬師寺のホームページを見ると、昭和43(1968)年、管主の高田好胤和上が「物で栄えて心で滅ぶ高度経済成長の時代だからこそ、精神性の伴った伽藍の復興を」と訴え、単に寄付を求めるのではなく、写経して1巻千円の納経料を寄付するという取り組みを始められ、百万巻を目指して全国を行脚された。その精力的な活動の結果、昭和51(1976)年に目標を達成して、金堂が落慶された。

 さらに志は引き継がれて、西塔、中門、回廊、大講堂、食堂と、白鳳伽藍の主要な堂塔が復興され、白鳳の美が蘇った。

上野誠『万葉びとの奈良』から 

 「薬師寺で私が見てほしいのは、復興された伽藍の景観である。われわれは、奈良時代の寺院が朱塗りの華やかな建物群であったことをつい忘れてしまっているからだ。そういう目で、白鳳伽藍の東塔と1981年に再建された西塔を見比べてほしい。平城京の時代の人なら、東塔の方に違和感を持つだろう」。

      ★

<閑話3 ─ 内裏や貴族の邸宅は純和風>

 平城京の中がすべて、薬師寺の白鳳伽藍のような色彩で彩られていたわけではない。

 当時の官寺は唐風建築。中国に新興の宗教である仏教が入ってきたとき、建物をどうするかということで、当時の役所の様式が使われ、そのまま受け継がれた。当時、最も立派な建築物は行政府の建物だったから。

 一方、わが国において、帝が日常に居住し政(マツリゴト)を行う内裏の建物や貴族の邸宅などは、飛鳥時代以来、奈良時代、平安時代を通じて、純和風だった。その様式は、平安時代の10世紀頃 (藤原道長や紫式部の頃) に一つの完成形をみた。学校の歴史で習う「寝殿造り」である。

 出家した人の世界である寺は、唐風で、瓦葺き、朱塗りの柱、壁と土間があった。

 一方、藤原摂関家の東三条殿や、道長が婿入りした左大臣家の土御門殿は、敷地面積が120m四方。北の対、東の対、西の対、そして中心に寝殿と呼ばれる部分があり、寝殿の南側は庭。遣り水が引かれ、池があり、池の中には島があって、長い廊下でつながる釣り殿があった。

 唐風寺院建築に対して、和風建築の特徴は、屋根は檜皮葺き(ヒワダブキ)だった。檜皮葺きの屋根は日本にしかないそうだ。柱は白木壁はなく、土間もなく、高床式である。

 壁がないから、外界との隔てとして、格子に板張りした上下2枚の蔀(シトミ。)があった。しかし、ふだんは下は取り外していることが多く、上は昼間は上げていた。ゆえに冬は相当に寒い。あとは御簾(ミス)や几帳などの建具しかなかった。ちなみに冬の暖房器具は、炭を熾した火鉢のみ。

 この和風様式は江戸時代まで続く。江戸時代の途中から、檜皮葺きは高価で贅沢。贅沢はやめようという将軍様のお触れで瓦葺きになった。それでも、今も、神社で見ることができる。博物館の展示や史跡としてではなく、今日まで生きた姿で存在し続けている。

      ★

<閑話4 ─ ルネッサンスの教皇たち>

 話は飛躍する。薬師寺と直接には関係ない話だ。ただ、─ 檀家などない薬師寺が、幾百万の人々の写経・納経による寄進によって、白鳳伽藍を再建し、奈良の一画に美しい空間を再生させた。人々の写経は金堂の上層の納経蔵に納められている ─ そういう薬師寺の復興という今の世の出来事から、ヨーロッパのルネッサンス期の教皇たちのことを連想した。

 私はオンラインの文化講座で、東大助教の藤原衛先生の「西洋中世史」のお話を2年間に渡って聴講し、この3月で終了した。その最終回は「ルネサンスとルネサンス教皇」。

 教会大分裂(1378~1417)を経て、やっと教皇庁がローマに帰ってきた時、ローマの町はすっかり荒廃し、古代ローマ時代には100万都市と言われた人口も、2~3万人に減っていたという。廃墟と化した古代ローマの残骸に雑草が生い茂り、放牧が行われていた。今のローマからは想像できない。

 そこに、悪名高き10人の教皇が次々に就任する。

 ある教皇は子が9人もいたという。教皇様に隠し子が9人もいたと聞くと、私も驚き、思わず笑ってしまった。また、ある教皇は教皇庁の領土を守るために、自ら甲冑を身に付け軍隊を指揮して戦場に出たという。

 そして、何と言っても悪名高きは、贖宥状(免罪符)の発行。贖宥状を売って民衆から膨大なカネを集め、自らは贅沢三昧の暮らしをしたと、遠い昔、世界史で習ったような …。

 だが、藤原衛先生のお話は少し違う。その一方でルネッサンス教皇たちは、古代ローマ時代の道路や橋、人々に水を供給するローマ水道を蘇らせ、城壁 (いつの時代でも、人民にとっても、安全保障は大切なのだ) を修復し、今日のローマの原型を築いたという。教皇様が帰ってきて、安全であれば、人々も帰ってきて、物作りを再生し、商売も盛んになってくる。

 さらに教皇は、サンタンジェロ城を要塞化し、教皇宮殿やサン・ピエトロ大聖堂を建て、図書館を大改造して今も貴重な書籍を収集し、ルネッサンス画家たちのパトロンになってシスティーナ礼拝堂を美しく飾らせた。フラ・アンジェリコ、ボッティチェリ、ミケランジェロ、ラファエロらに活動の場を与え、また、多数の人文主義者を登用して今の教皇庁の原型となる行政事務局をつくり上げた。

 (サン・ピエトロ大聖堂)

 私も、かつて、ヴァチカン宮殿の美術館に入って、1日や2日ではとても見切れない名画や美術品を見て回り、ただ圧倒されるばかりであったことを覚えている。

 (ヴァチカン美術館のラファエロの絵)

 そういえば、あの歴史作家の塩野七海さんも、30代の前半に『神の代理人』という傑作を書いていた。この本の中で、塩野さんもまた、ルネッサンス教皇を擁護、弁明している。

 隠し子が9人もいると聞いたら思わず笑ってしまうが、品行方正、清廉潔白だけでは、危機下のリーダーは務まらないのだ。

 ルネッサンス教皇たちは、彼らの大事業の資金として、確かに贖宥状(免罪符)を発行して、人々から喜捨を集めた。

 人生の中で誰しも償いきれない罪を犯す。法に触れるような罪ではなく、心の罪だ。年とともにそれが思い出され、心が痛む。人々は自分の罪を償うために巡礼に出、或いは断食して、神に祈った。だが、働き盛りで一家を養わねばならぬ人、さらに病人や老人には、巡礼も断食もままならない。

 そこで、神の代理人(教皇)の代理人である神父の前で、告解し改悛することをセットにして、喜捨を受け、贖宥状を出した。ただカネを得るために贖宥状という紙切れを売りつけたわけではない。これは、教会法に則った正当な行為であったと、藤原先生はおっしゃる。

 しかるにドイツでは、マインツ大司教が、大道芸人のような奇抜な歌と踊りを見せものにして人々を集めさせ、告解・改悛なしに贖宥状を売りまくって、私腹を肥やした。

 その結果、1517年、ルターの宗教改革が起こった。宗教改革はドイツ圏に起こり、フランスやイタリアやスペインでは起きていない。

 悪名高きルネッサンス教皇は、とてつもなくタフでエネルギッシュで、ルネッサンスからバロックの時代を創り出し、ローマを再生させ、時代を前へ進めた。

 歴史の中の出来事や、歴史に登場するリーダーたちを、品行方正とか清廉潔白などという基準で善悪に分け、裁いていては、人間も、人間の営みがつくり出す歴史というものも、見えてこない。

 そういうことを藤原衛先生や作家の塩野七海さんから教えられた。

 廃墟だったローマに人々が戻ってきた。キリスト教世界からはじき出された(当時は特にスペインから)ユダヤ人に、ローマに住むことを許したのもルネッサンス教皇だった。病気になったら、ユダヤ人の医師に診てもらっていたという。人々の祭りが蘇った。その山車のために、教皇様はいつも金一封を出して、どうも教皇庁の窓から祭りをのぞき、楽しんでいらっしゃるみたいだ、そう人々はうわさし合った。

   (了)  

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

早春の薬師寺へ (その1)

2024年04月17日 | 国内旅行…心に残る杜と社

 (薬師寺の金堂と二つの塔)

<早春の西の京へ>

 東大寺二月堂のお水取り(3月1日~14日)の頃、薬師寺では平山郁夫画伯が描いた「大唐西域壁画」の特別公開がある。今年こそはと思って出かけた。

 ウィークデイの良いお天気で、大和路の春も間近と感じさせる日和だった。 

 近鉄の大和西大寺駅で乗り換える。近くに、南都七大寺の一つ、律宗の西大寺がある。少し歩けば、復元された平城宮の大極殿もある。

 乗り換えて近鉄橿原線で南下し、西ノ京駅で降りると、薬師寺は駅のすぐ前の広い一画だ。

 駅名のように、このあたりは「西の京」だった。

 「天子は南面する」という。昔、中国において、天子は北極星に喩えられ、南面して座した。臣下は北面して拝礼する。

 今から1300年の前、唐の長安をモデルとして造られた平城京も、帝が居て政(マツリゴト)を行う平城宮は都の北端の中央にあり、宮殿の南門である朱雀門から、朱雀大路が南へ一直線に通って、平城京の正門である羅城門に到った。

       (高御座 タカミクラ)

  (復元された朱雀門)

 帝が高御座に座して南面すると、朱雀大路の左側が東(若草山の方)、右側が西(生駒山の方)になる。「西の京」である。

 法相宗薬師寺は、西の京の、一条、二条と南へ進んだ六条に建造された(藤原京から移された)。やがて、すぐ北隣に、律宗を伝えた鑑真和上の唐招提寺も造られる。

 今、薬師寺は、回廊に囲まれた二つの区画があり、北の区画は玄奘三蔵院伽藍、南の区画は白鳳伽藍。

 金堂や大講堂、国宝の東塔や西塔などが建つのは白鳳伽藍。

 白鳳 (白鳳時代或いは白鳳文化) は、乙巳(イッシ)の変(645)のあと、天智天皇から、天武天皇、持統女帝を経て、元明女帝の平城遷都(710)までの時代と文化を言う。都は飛鳥京や藤原京に置かれた。

    平城京遷都のあとは、天平時代或いは天平文化と呼ばれる。

 薬師寺は、藤原京の時代に建立され、平城遷都とともに平城京に移ってきた。基礎は白鳳の時代につくられたので、お寺の側も白鳳文化としている。

 今日の目当ては「大唐西域壁画」だから、先に玄奘三蔵院伽藍へ向かった。

      ★

<遥かなる西域への旅路>

 ウィークデイの午前のこと、観光客の少ない清浄な雰囲気の境内を行くと、やがて回廊を巡らせた玄奘三蔵伽藍が見えてくる。

   (玄奘三蔵院伽藍)

 回廊の門の正面から回廊の中をのぞくと、小ぶりだが品のある玄奘塔が見えた。

  (玄奘塔)

 回廊の門の脇にある受付から中へ入った。

 玄奘塔の後ろに、大唐西域壁画殿がある。

 (玄奘塔と大唐西域壁画殿) 

 この一画は、平成3(1991)年に整備・建立された新しい建物群だ。

 玄奘塔は、唐僧の玄奘三蔵を祀る。

 大唐西域壁画殿は、玄奘三蔵の遥かな旅路を描いた壁画を納める建物。壁画を描いたのは、現代日本画の大家である平山郁夫さんである。

 ここは、玄奘三蔵を記念して造られた一画なのだ。

 『西遊記』の話はよく知られている。孫悟空、猪八戒、沙悟浄が、三蔵法師を守って、魑魅魍魎や妖怪と戦いながら、インドへと旅する冒険譚だ。

 その玄奘三蔵は実在した唐代初めの僧侶(602~664)である。27歳のとき、隋が滅び新王朝が興ったばかりの混乱の中で鎖国状態だった唐を密出国した。そして、灼熱のタクラマカン砂漠や極寒の天山山脈を越え、ついにインドのナーランダ寺院に到って、修学した。その後、再び長い旅路を経て、多くの経典や仏像などを唐へ持ち帰った。唐を出てから17年の歳月が流れていた。

 帰国後は唐の皇帝の全面的な支援の下、全国から集められた優秀な若い弟子たちと共に、持ち帰った1335巻の経典の翻訳作業に生涯を捧げ、また、地理的な記録である「大唐西域記」を著した。今、私たちが耳にするお寺のお坊さんのお経にも、玄奘三蔵の訳があるそうだ。

 玄奘三蔵の教えは弟子の慈恩大師によって「法相宗」として大成する。

 さて、当時の日本、…… 乙巳の変のあとの653年、遣唐僧として入唐した道昭(629~700)は、まだ健在であった玄奘三蔵に師事し、帰国に当たって玄奘三蔵の翻訳した経典とともに「法相宗」の教えを持ち帰った。

 南都七大寺のうち、この法相宗の教えを伝える寺が薬師寺と興福寺である。薬師寺にとって、玄奘三蔵は開祖と言っても良い存在なのだ。

 平山郁夫画伯の「大唐西域壁画」は、玄奘三蔵がインドへの旅の途中で見たであろう景色を、7場面、13枚に描いた、全長49mの大壁画である。画伯自身が玄奘三蔵が旅した地に取材し、17年の取材の旅を経て描いた大作である。

 写真撮影はできないから、絵は紹介できない。

 私は、花鳥風月を描いた日本画や美人画などはともかくとして、東山魁夷と平山郁夫の絵は、セザンヌやマチスやシャガールなどの西洋絵画以上に好きである。(好みの話で、優劣の話ではない)。東山魁夷はヨーロッパを、平山郁夫はシルクロードを日本画の中に内包して、瞑想と、静謐さ、そして、ロマンを感じさせる。

  (画集)

   ★   ★   ★

<食堂(ジキドウ)のもう一つの旅路>

 玄奘三蔵院伽藍を出て、本来の順路とは逆になったが、後ろ側の受付から白鳳伽藍に入った。

 薬師寺の見学の本来の順路は、南から南門を入り、さらに回廊の中門をくぐる。

 回廊の中へ入ると、一瞬に視界が広々と開ける。正面には金堂。右に東塔、左に西塔が建つ。金堂の後ろに大講堂 (さらに後ろには食堂) が配置されている。一寺に2塔は薬師寺が初めてとか。「薬師寺式伽藍配置」 ─ 遠い昔、日本史で習ったような気もする。

 今回は後ろから入ったから、最初に出会った白鳳の建造物は食堂(ジキドウ)だった。

  (食堂)

 約300人の僧侶が一堂に会する規模だという。

 それにしても、東大寺や法隆寺など、奈良の古くて落ち着いた、枯淡の趣のある寺々を見慣れた目には、いきなりの華やかな色彩。だが、派手過ぎるということではなく、落ち着いた色調が印象的だった。このような色彩が、1300年前の平城京の中にあった。

 堂の中には、田渕俊夫画伯が描いた14面、50mに渡る壁画「仏教伝来の道と薬師寺」が公開されていた。

 平山郁夫の大唐西域壁画は、玄奘三蔵のインドへの遥かな旅路を描いたもの。

 それ対して、こちらは、中国に伝えられた教えが、遣唐使船による命がけの旅の結果、入唐僧によって日本に伝えられ、飛鳥京から藤原京、平城京へとうつりつつ、仏教文化の花を咲かせた旅路が描かれている。

 もし当時も食堂にこのような壁画があったならば、食堂で食事をとる学僧たちも遥かなロマンの思いを抱いたことであろう。

      ★

<大講堂 … 官寺は今の国立大学>

 奈良の古い寺には講堂がある。

   薬師寺で最も大きい建造物は大講堂。数多くの学僧が法相教学を学び、また、議論した。その伽藍の姿は雄大で美しく、眺めていて心が落ち着く。

   (大講堂)

上野誠『万葉びとの奈良』(新潮選書)から

 万葉学者の上野誠さんは、「官寺は、寺院といっても、学問所であり、今日でいえば国立大学に当たる」と書いておられる。

 明治政府が西洋文明を取り入れるために、次々に帝国大学を設立していったのに似ている。

 中世ヨーロッパにおいても、ゲルマンの王権が確立していく過程で、滅亡したローマ帝国時代のラテン語を受け継いでいるカソリック教会や修道院が学問の府となった。

 「各寺院には、それぞれに得意な研究分野があり、寺院ごとに学派を形成した。東大寺は華厳経の経典研究を中心とした学派を形成したし、薬師寺や興福寺は法相教学の学派を形成したのである。これは、今日の『宗派』とはまったく異なるものであり、僧侶はそれぞれの寺院に赴いて、それぞれの学派の師から自由に学ぶことができた。この気風というものは、今日にも受け継がれていて、南都の僧侶は、宗派に関係なく互いに学び合う気風がある」。

 大講堂には、国宝の仏足石と仏足跡歌がある。

      ★

<壮麗な姿で建つ金堂>

 大講堂を表側に出ると、視界が広々として、後ろ姿であるが金堂と二つの塔がカメラの広角の範囲に収まった。(冒頭の写真)。

 金堂は、言うまでもなく薬師寺の中で最も大切な伽藍で、昭和51(1976)年、最初に再建された建造物である。裳階(モコシ)が付けられ、早春の空へのびやかに建ち、気品があって美しい。

 再建に当たっては、宮大工の西岡常一さんを棟梁とし、伝統的な工法を使って創建当時の姿を再現した。

  (前から見た金堂)

 上層部分には納経蔵があり、薬師寺の伽藍再建のために浄財を寄付して写経・納経した百万巻のお経が納められている。

 堂に入ると、正面に薬師寺の本尊が祀られていた。白鳳時代の作とされ、国宝。中央に薬師如来、両脇に日光菩薩と月光菩薩が立つ。

 上野誠さんは、「私は薬師像を見るたびに …… ほんとうに人を救うことができるのは、こういう自らに対する自信と安らぎが満ちあふれた顔をもった人物であるだろうと(思う)」と述べておられる (『万葉びとの奈良』)。

    薬師寺の歴史を紐解けば、680年、天武天皇が皇后の鵜野讃良(ウノノササラノ)皇女(ヒメミコ)、(後の持統女帝)の病い平癒を祈って発願された。后(キサキ)の病いはまもなく平癒するが、天武天皇は薬師寺の完成を待たずに崩御。天武のあとを継いだ持統天皇の697年に本尊の薬師如来の開眼が行われ、さらに次の文武天皇のときに堂宇が完成した。実に3代に渡った大事業だった。

 710年、元明女帝のときに平城遷都が行われ、薬師寺も平城京の右京に移された。このとき、薬師寺が解体され、仏像とともに平城京に運ばれたのか、平城京に新しく造られたのか、意見が分かれるようだ。

 本尊が置かれた台座の模様も興味深かった。写真撮影は許されないが、食堂のそばの建物にレプリカがあった。

 大陸の遥か彼方から流れ流れて、さらに海を渡り、このユーラシア大陸の果ての島国に伝えられてきた文明の「実」を感じることができる。「実」は椰子の実の「実」である。

 

 台座の框(カマチ)には、ギリシャ由来の葡萄唐草模様やペルシャ由来の蓮華模様が描かれ、四面の北に玄武、東に青龍、西に白虎、南に朱雀。その四神の上には、窓の枠の中に裸形の異人。白虎も龍のようにデフォルメされて表現されている。(その2へ続く)

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

靖国神社 … 心に残る杜と社 4

2013年02月24日 | 国内旅行…心に残る杜と社

       (皇居から)

  小泉首相の靖国神社参拝が、近隣国から大バッシングされていたころの、ある若い知人との会話。

  「 靖国神社に行かれたことがありますか?」

  「 ない。きみはあるの?」

  「 右翼の街宣車が何台も来ていて、すごいボリュームでがなり立てて、やっぱり異様なところだと感じました 」

  「 ふーん。でも、右翼は、本来、静かに参拝する人たちの邪魔をしたくないのでは? 『靖国神社反対』の左翼や外国人のグループが拡声器で叫んだり、ビラを配ったり、デモしたりするから、対抗して彼らも出動したのでは?」

  「 ええ、まあ、とにかく騒然としていました。それに、神社の中に遊就館という施設があるんです。そこには太平洋戦争当時の日本軍の戦闘機や人間魚雷が展示されていて、軍歌が流されて、『軍国主義復活!』 という強烈なメッセージが感じられて、すごく違和感を覚えました」。

  「へー。そうなの …」

  それから数年後のある日、テレビの討論番組を見ていたら、田嶋陽子氏が、遊就館の展示はひどい!やっぱり靖国神社は軍国主義復活の神社だ。靖国反対!と叫んでいた。

  一方、故三宅久之さんは、遊就館には、女性を知らないまま戦死した若者のお母さんが供えた、白無垢の花嫁人形が展示されている。あれを見ると、私は涙が出る、と声をつまらせていた。

 人によって、こんなに感じ方が違うものなのだろうか?

             ★

 話題一転。

 65歳になっても70歳になっても、自分はまだまだ元気だ、元気のある間は、ばりばり働きたい、と考える人は多い。

 しかし、‥‥人生において仕事は大切だ。だが、すでに十分、働いた。やってきた仕事に十分満足している。 残りの人生まで、「宮仕え」に燃焼したくない、と考える人間もいる。

 ステータスとなるポストも、高給も要らない。その代わり、自分の興味と関心のあることだけをやって、残りの人生を悠々と全うしたいと。 

 勉強だとか、自分を高めようとか、まして、何かに役立てようとか、そういうことは全く考えない。自分の興味と関心のおもむくままの、自由な日々である。

 ただし、自由には、精神の自立が必要となる。「宮仕え」していないと、日々をもてあまして不安だという人には、向かない。

             ★

 2010年12月。2泊3日で東京へ行った。

 東京は、遥か昔、大学の4年間を過ごした町である。

 その後も、出張で、何度も行く機会があった。だが、当時は全身が仕事に向いていて、今振り返ると、いつも、心あわただしかった。

  まだ一度も、皇居の堀を渡ったことがない。日本国に生まれて、まだ一度も、国政の議論される国会議事堂に入ったことがない。 あれほど大騒ぎされた靖国神社に参拝したこともない。

 あの有名な六本木ヒルズも見ていないし、表参道や原宿も知らない。

 よし、行ってみよう、と思えるのは、「宮仕え」などしていないからである。心のおもむくままに、 自由なのである。

             ★

  1 日目は、インターネットで事前に申し込んでおいた皇居に行き、宮内庁の職員に誘導されて皇居の堀を渡った。

 そのあと、国会議事堂に行って、当日申込みで、議事堂内を案内してもらった。ついでに、遠くからではあるが、首相官邸も見た。

 2日目の朝、一番に、靖国神社へ行った。

 地下鉄を出てしばらく歩き、大鳥居を見て、来て良かった、と思った。

 この大都会の中にあって、しんとした静寂感がいい。

 

  静寂ではあるが、ゴシック大聖堂のごつごつと厳しく、天にそびえ立つ姿と比べて、神社のたたずまいはいかにも晴朗である。樹木に囲まれているのも、いい。

  参道を、大村益次郎さんの像を見ながら行き、手水舎できよめて、第二鳥居をくぐる。

  回りの参拝者のなかには、先の大戦で戦死した人々とつながりのある人たちも沢山いるであろう。私の縁者も祀られている。

  拝殿で、心しずかに参拝した。

  神池庭園を拝観したあと、問題の遊就館に入った。

  戊辰戦争の展示からはじめて、最後に太平洋戦争の零戦や回天の展示も見た。そして、思わず心の中で笑ってしまった。

  70 年以上も前の兵器である。

 当時、これで、多くの将兵が戦い、死んでいったにしろ、今では、これは玩具の兵器だ。 零戦のなんと小さいことか。こんな兵器では、今、どんな貧しい国の軍隊と戦っても、負けてしまうだろう。

 大阪城の天守閣の博物館に展示されている刀剣や鎧と同じである。これは、どこの国にもある戦史・武器博物館の一つに過ぎない。

  この程度の兵器の展示を見て、「軍国主義復活!」とは、やっぱり平和ボケと言うしかあるまい。

  中華人民共和国の各地にある同種の博物館、なかんずく「南京大虐殺記念館」などの、事実の捏造、嘘、デフォルメ、愛国的宣伝臭などと比べると、遥かにマシである。

            ★ 

  塩野七生に、「靖国へ行ってきました」というエッセイがある。( 『日本人へ‥‥国家と歴史篇 』文春新書 ) 。そのエッセイの中で、塩野は、遊就館について、以下のように書いている。

  「 その感想を簡単に言えば、遊就館の展示とは日本側の歴史認識を示したものである、ということだった。つまり、追い込まれてやむなく起ったのが日本にとっての第二次世界大戦であった、と主張するのが目的なのだ。この「目的」のための「手段」である展示の内容だが、なかなかに良く出来ていた。過度に感情的ではなかったし、感傷というか想い入れも、許容範囲に留まっていると思う。勝っていたのが負けに転じた時点の記述も、意外なくらいに冷静になされていた 」。

 歴史を善悪二元論で語るのは、全くまちがいである。第二次世界大戦における日本について、当然、日本には日本の言い分があった。だが、それを、今、声高に言えば、煎じ詰めれば、また戦争をしなくてはならなくなる。それに、実際、日本にも、非は大いにあった。だから、声高に言えば良いというものではない。だからと言って、日本の非ばかり言うことが正しいわけではないし、それでは死者も浮かばれない。

 大切なのは、歴史的事実である。日本人がどのような思いで戦場に赴いたのかという事実である。そのことを記録にとどめ、鎮魂することである。(その意味で、『永遠のゼロ』は名著である)。

 塩野によれば、彼女の書く作品の性質上、過去の歴史的な戦争の武器や戦術をなどを知りたくて、ヨーロッパから中近東、北アフリカにかけての、この手の博物館を観て回ることがあるが(どこの国にも戦争博物館はあるが)、それらの展示は、「思わず笑ってしまうくらいに」、どの国も、誇らしげで、非客観的で、非中立的であるそうだ。

 そういう博物館を見て回ったことはないが、それらと比べて、遊就館の展示の仕方はもの静かなのだと思う。

 悲劇的で、鎮魂的で、この国のために死んでいった人たちに改めて想いをはせるが、それはこの国に生まれてきた人間として当たり前のことで、別に軍国的に煽られたとは思わない。

 それとも田嶋さんは、「南京大虐殺記念館 」 を観た中国の児童・生徒が反日になるように、この展示を観て、「鬼畜米英!きっと敵を討つぞ」 という気分にさせられたとでも言うのであろうか?

           ★

  2泊3日の東京旅行は、良かった。

  何よりも、靖国神社に行って、すっきりした気分になった。

  「日本の軍国主義復活」などというより、隣の大国の軍備拡張と覇権主義こそ、目の前の現実である。

 時代錯誤の観念論ばかりで「世界」を見ていると、世界の現実が見えなくなる。

           ★

 ただし、日本古来の神道を再び国家神道化することには反対である。現在の神社神道が、夢よ、もう一度と、その未来を保守政治家との結びつきに託することには、神道のためにも、保守政治家のためにも、反対である。

 日本は融通無碍な神々の国であって、アマテラスの国ではない。「古事記」「日本書紀」は、神道の経典ではない。                                       

  

 

 

  

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金刀比羅宮 … 心に残る杜と社 3

2013年02月18日 | 国内旅行…心に残る杜と社

   (金刀比羅宮から讃岐平野を見る)

 

 金刀比羅宮、ことひらぐう。こんぴらさん。

 「世俗的」というイメージがあり、長い間、足が向かなかった。

           ★

 縄文・弥生の昔から、海上を行く海人たちは、目印になる、印象的な岬の突端や山を、神のおわすところとして崇敬した。

 先に書いた厳島神社(その後ろの霊峰・弥山)もその代表的な例であるが、日本列島の海岸線には、数え切れないぐらい鳥居があり、その奥の森の中に社があり、さらにその上にこんもりした神体山がある。

 そのなかでも、特に船乗りたちの厚い崇敬を集め、全国の金刀比羅神社の総本山になっているのが、讃岐の象頭山(琴平山)である。その中腹に金刀比羅宮はある。

  ( 神社は象頭山の中腹にある )

 祭神は、海の彼方から波間を照らして現れた神とされる、大物主命。

 それが中世に、本地垂迹説で、仏教の金毘羅さんと習合する。

 コンピラはインドの神様で、釈迦を守った十二神将の一人、クンビーラ。彼はガンジス川のワニの化身だそうで、それが日本に入ってくると龍神に見立てられた。龍と言えば、古来から雨乞いの神である。

 かくして、船乗りや漁民だけでなく、たちまち農民の信仰も得るようになる。

 そのこんぴらさんが全国の庶民の間に爆発的に人気を広げたのは、世も治まった江戸時代の中期のこと。

 西ヨーロッパでも、近世になると、聖地・聖物巡礼を兼ねた「旅行」が盛んになり、旅行業が生まれ、ツアーが組まれるようになるが、日本でも、江戸時代、伊勢神宮参拝やこんぴらさん参りが盛んになり、庶民の間で講が組まれた。

 「こんぴら船船‥‥」という民謡が歌われ、江戸や大阪から「こんぴら船」が出されて、年間500万人が参拝したという。大変な賑わいである。

 かくして、架空の人物であるが、あの森の石松も、清水の次郎長親分の名代で、こんぴら詣でをすることになる。

           ★

 そういう繁栄と賑わいが、ご利益主義とも重なって、俗っぽいイメージを形成したのであろう。

 まあ、一生のうち一度は、「こんぴらさん」というちょっと得体の知れない信仰の地に行ってみるのも悪くないと、墓参で四国に行ったついでに寄ってみることにした。

 「こんぴらさん」のもう一つのイメージは、階段。

 若いころならともかく、… とにかく運動靴を履き、ホテルの玄関で勧められて杖を借り、「精神一到」の意気込みをもって、朝、宿を出た。

 

      (大門)

 大門までは駕籠もあるそうだが、ここから神域に入る。これ以後は、茶店もない。すでに365段。

 本宮までの階段は785段。

 西欧の大聖堂の塔に昇るような、急で、連続したらせん階段をひたすら昇るというようなことはなく、… 山の中の木立に囲まれ、10段か20段も昇れば、平坦な道を歩き、そのうちまた石段があるという感じで、樹木の中を道は曲がり、そこここに小さな社があり … 杖を突き、足元を見つめ、一段ずつ、一歩ずつ昇っていく。

 時々、立ち止まって一息入れ、汗を拭く。

 

    ( 本 殿 )

 ついに本殿に着いた。

 大門をくぐって以来、世俗的なものは全くなく、山に深く分け入った分、晴朗にして、神聖な地にやってきたという感じがして、すがすがしい。

 風が吹き、讃岐平野が一望に見渡せた。

    (神官と巫女)

 先ほど渡殿を歩いていた神官と巫女が、縦一列に並んで、向こうから地面を歩いて来た。

 列の最後尾を歩く若い、小柄な巫女二人の歩き方を見て、前を行く神官のおじさんたちと違って、これはアスリートの歩き方だ!と直感した。

 地上から本殿までの785段、いや奥社までの1368段を、日に何度も、走りあがり、走り降りているような?鍛えられた歩き方だった。

            ★

 下りで、一休みしている80歳のおじさんと話した。苦しそうだった。

 しかし、そのおじさんが先ほど立ち話をしていた二人の老人は、このおじさんより、さらに年上だったと言う。自分より年上なのに、自分よりずっと元気に昇って行ったと、感心していた。

 二人とも、かつて海軍兵学校の生徒だったと言っていたそうだ。毎年、二人で参拝に来るとも、言っていたそうだ。

            ★

 この社と杜は、古来から、船乗りたちの信仰の対象だった。

 戦前には、帝国海軍の慰霊祭が行われ、戦後も海上自衛隊の殉職者の慰霊祭が行われると言う。

 ご利益主義の世俗的な神様と思っていたのは、どうやら先入観・偏見であった。

 今も、あの大戦中、遥かな海原で亡くなった先輩や上官の慰霊のため、この神社に参拝する老いた男たちがいる。多分、足腰が立たなくなるか、病に倒れるまで、あと何年か、あの老人たちは参拝をし続けるのであろう。

 心の礼儀のあるところに、神はおわす。

  

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

熊野本宮大社 … 心に残る社と杜 2

2012年12月11日 | 国内旅行…心に残る杜と社

  ( 熊野本宮大社/主祭神を祭る第三殿)

 熊野本宮大社については、当ブログの9月22日と27日に、「紀伊・熊野の旅6、7」で詳しく書いた。

 今回は、遅ればせながら写真を掲載。

          ★

 朱はない。白木である。その故か、熊野那智大社、熊野速玉大社の華やかさはない。鄙びて、かつ、静謐の趣が満ちている。

 堂々と並んだ社殿の背景の杜の巨木が、ここが神々のおわす神域であることを表しているかのようである。

          ★

 

   ( 大鳥居 )

 大きな鳥居の前に立つと、両側に高く繁った樹木。その間を石段がまっすぐ上へと伸びている。白地に黒々と「熊野大権現」と書かれた幟がならぶ。

 「石段の中央は神様の通る路。参詣者は、上りは右端、下りは左端を歩く」と、作法の貼り紙がある。

 静謐な空気のなか、時折、木々の梢を見上げて一呼吸し、そこから差し込む木漏れ日の陰影を踏みしめながら、158段の石段をゆっくり登っていく。                            

          ★

  ( 大斎原の大鳥居 )

 熊野本宮大社の社地が、現在の山の上に移されて、まだ120年ほどにしかならない。1889年(明治22年)の洪水のときまで、本宮大社の杜と社は、熊野川の中洲にあった。平安末期、上皇、貴族、女官、そして平清盛らが遥々と参詣した社は、今は跡地のみだ。

 大斎原を訪れるなら、春がいい。

 菜の花畑の向こうの桜の大鳥居は、日本一の高さを誇って、印象的である。

 大鳥居をくぐり、巨木の繁る参道を歩く。

 その昔、社殿のあった一画は、今は「大斎原 ( オオユノハラ )」と呼ばれ、こんもりと樹木に囲まれた原っぱになっている。

 人気のないしんとした静寂の中に、木々の若葉が芽吹き、大きな桜の古木も幾本かあって、ひっそりと咲いている。原っぱに石祠もあり、清々しい。

 

        ( 大斎原  オオユノハラ )

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

心に残る社と杜1 … 厳島神社

2012年12月09日 | 国内旅行…心に残る杜と社

          ( 海に立つ鳥居 )

 島まで船で10分。宮島桟橋で下船した。

 旅館に旅のカバンを置いて、早速、厳島神社へ行く。

 旅館から社への商店街は、観光客でたいへんな賑わいだった。

 日本三景の一つとされ、さらに世界遺産となった神社であるが、この時刻は干潮で、浜に海草が露出して横たわり、海上に立つ鳥居も、いささか殺風景の感があった。

 そのあと、宮島の町を、ひとわたり散策した。

    ( 宮島の街 )

           ★

  ( 旅館の窓から瀬戸の海 )

 夜、月夜の満潮に、遊覧船に乗って鳥居をくぐり、参拝した。 

 「しまなみ海道」の生口島に、「平山郁夫美術館」がある。平山郁夫のふるさとに建てられたこの美術館に、しずかに月光を浴びる厳島神社の神々しい姿を描いた大作がある。名作である。

 その神々しさを体感するような光景であった。

 

   ( 月夜、海から参拝する )

           ★

 早起きして、朝、もう一度、神社に向かうと、鳥居は海の中に立ち、ひたひたと押し寄せる海水が、社の廊下や、能舞台の板を、浸さんばかりで、迫力があった。

 

  ( 満潮の厳島神社 )

 旅はいずれもそうであろうが、ここは特に、観た、食べた、次へ、という駆け足ツアーでは絶対に損をする。

 満潮の海水に浸された社に立ち、また、満月の夜、船で鳥居を潜って参拝してこそ、世界遺産を体験できる。

           ★

 午前、ロープウェイと、その先は徒歩で、霊峰弥山の山頂へ向かった。

 厳島神社は、もともと海人たちが海から拝んだ、海の男たちの神である。ご神体は、島そのもの、特に島にそびえる弥山である。鳥居も、海上から山に向かって拝むように建てられている。

 ロープウェイを降り、山頂に向かって歩くにつれ、神域に入っていることをひりひりと感じた。太古から、神は、感じるものにのみ感じられる。

 頂上には、巨岩がいくつもあった。磐座である。

   ( 山頂から )

           ★

 神名を問うなど余計なことではあるが、厳島神社は、宗像三女神を祀る。タゴリヒメ、タギツヒメ、イチキシマヒメである。

 卑弥呼などよりももっと昔、福岡の玄界灘一帯に勢力をもった海人たちがいた。その中に宗像氏と言う一族がいた。三女神は、その一族が祀った氏神である。男たちは、胸と肩に、竜の子孫であることを示す「三つ鱗」の刺青をしていた。

 今も、その地に宗像大社があるが、まだ訪れていない。

 辺津宮、中津宮、沖津宮の三社からなり、沖津宮のある沖の島は、海の正倉院と言われる。ただし、一般人は入れない。中津宮のある大島の北岸の遥拝所から、遥かに拝むだけである。

 宗像氏とともに、海の民として活躍した一族に安曇氏がいた。最初、本拠地にしたのは、金印が出土した志賀島一帯。

 海人族は、黒潮の民として、中国の遼東半島、山東半島、朝鮮半島の西海岸、南海岸、済州島、沖縄、九州、瀬戸内海に跋扈した。

           ★

 安曇氏は、応神朝のころに、大王に招かれて大阪南部に勢力を伸ばした。住吉大社は彼らの氏神である。祭神は、底筒男、中筒男、表筒男の三神。

 宗像氏が漁民的性格が強く、日本各地の岩礁のある所、彼らの漁法の技が繰り広げられていくが、安曇氏は軍事的・海軍的性格をもつ。白村江の戦いで安曇比羅夫が戦死したころから、志賀島を離れ、その一部は遠く信州安曇野まで進出した。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする