
(毛越寺の夕月)
高館橋の上から北上川の流れを見たあと、毛越寺へ向かった。疲れていたが、毛越寺で今日一日の予定は終了する。
東北本線の線路を渡り、持続可能にして精一杯の早足で歩いた。
日が傾いて、毛越寺の閉館時間が気になる。入場はできるだろうが、時間に追われてゆっくり見学できなくなるのではないか。
向こうから下校途中の小学生の女子グループが歩いてきた。「あのー。ちょっと教えてください」。「毛越寺へ行きたいと思っているのですが、この道でいいでしょうか??」。背が高く賢そうな女子が代表して答えてくれた。「この道を行くと、〇〇があります。そこをもっと行って△△のある角を曲がったら、毛越寺の入り口が見えます」。どんな目印かまで丁寧に教えてくれる。平泉の子どもたちは、優しくて、とても丁寧だ。傾いた日の光を浴びて、子どもたちの影が重なって道に映っていた。
毛越寺のお隣り、観自在王院の入り口があった。ここまで来れば安心だ。
(観自在王院跡)
第二代藤原基衡の妻が建立した。基衡の妻であり、三代秀衡の母である人は、前九年の戦いを起こした安倍頼時の嫡子・宗任の娘である。乱後、宗任は四国伊予に配流され、その地で声望が生まれてきたため、さらに筑前の宗像氏のもとへ移された。宗像氏の下では、日朝、日宋貿易に携わっていたという。墓は宗像市大島の安昌院にある。首相を辞められた後、安倍晋三さんがお参りに来たそうだ。
時間がないので、ここの見学は省略する。
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(毛越寺拝観入口)
「もうえつじ」かと思っていた。入り口でもらったリーフレットを見ると、「もうつうじ」と読むそうだ。「もうおつじ→もうつじ→もうつうじ」と変化したとある。
初代清衡は平泉の北端、関山の丘陵上に中尊寺を建立した。毛越寺は奥大道が平泉に入る南の入り口に当たる、中尊寺と南北に相呼応する位置に建立された。
以下、ちくま新書『古代史講義』の中の第15講「 平泉と奥州藤原氏」(大平聡)の記述から。
「柳之御所遺跡の調査と併行するように、平泉町のメインストリート、平泉駅と毛越寺を結ぶ通称毛越寺通り周辺の整備のための調査が行われた」。
「その結果、道路北側に、毛越寺、観自在王院に並ぶように屋敷地の区画が発見され、計画的街区の存在が明らかとなった。また、道路の南側からは大規模な掘立柱の跡が発見され、大型の倉庫群の存在が確認された」。
清衡に続いて三代秀衡は北上川の段丘上から西へかけて都市整備を行い、基衡は平泉の南から北へ都市整備を行った。
藤原三代の頃、平泉は人口10万人の都市であったという。陸路と、河川交通路の結節点の要衝であった。
その頃の毛越寺は、堂塔40、僧坊500を数え、中尊寺をしのぐ規模だったという。毛越寺はその総称である。
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目の前に広い池がある。大泉が池という。向こう岸も遠い (90m) が、左右に長い (180m) 楕円形。池の周りを周遊できるように整備されている。池畔の林の木立が高く、所々に紅葉が映え、それらが鏡のような水面に映っていた。
池が広々としているから、空が大きくて高い。秋気が澄んで、高い空に夕月がかかり、どう表現したらよいのか、ひと言で言えば、清澄 … 。
(毛越寺庭園)
池のこちらの岸、左右に広がる岸辺の真ん中あたりに、12個の礎石が残っている。南大門の跡とか。当時、両側には仁王像が立ち、門の左右には築地塀が巡らされていた。この南大門が浄土の入り口である。
礎石の位置からすると、南大門はほとんど水際に建っていた。門をくぐると、いきなり目の前に池が広がっていたことになる。
門の前、池の中に、勾玉の形をした中島がある。
南大門から中島へ渡ることができるよう、美しい反り橋が架けられていた。さらに、中島から対岸にも反り橋が架かっていた。
対岸は、彼岸である。此岸から、二つの橋を渡った向こうに美しい金堂(円隆寺)を望むことができた。基衡が万宝を尽くして建立したという毛越寺の中でも最も大切なお堂だった。
金堂の左右からは廊が出て、それぞれ池の方に向かって折れ、廊の先、池の岸辺に、左に経蔵、右に鐘楼があった。
さらに、金堂の左手には講堂、さらに左手に嘉祥寺。金堂の右手には常行堂、法華堂があった。
それらは、今は、ない。
「園地を介して南門と金堂を結ぶ架け橋の構図は、明らかに浄土形式をとる庭園である」(日本庭園学の権威・浅野二郎氏)。
対岸奥の林の中から池へ向かって、遣水(ヤリミズ)が蛇行しながら流れ、池に注いでいる。
(左手前から池へ向かって遣水が流れる)
水底には玉石が敷かれ、水切り石や水越し石も配されて、11世紀後半に書かれたとされる「作庭記」の技法を見ることができるという。
(遣 水)
「おそらくわが国において現実に私たちが実見できる唯一の、そして最もすばらしい遣水の作例といってよいであろう」(浅野二郎氏)。
初代清衡の中尊寺で、唯一、当時のまま残る遺構は金色堂だが、二代基衡の毛越寺で、創建当時の姿を遺す唯一の遺構はこの遣水である。
紅葉が美しい。
(紅 葉)
鐘楼と経蔵が復元されていた。夕暮れの鐘の音を聴きたい。
(鐘楼と経蔵)
(舟遊び用の舟)
ゆっくりと反時計回りで池を1周した。
30年前、毛越寺を訪ねたときは、考古学的な発掘調査の結果を見学したという印象しか残らなかった。今回、しんとして静かな秋の日がつるべ落としの斜光となり、あたりの景色の所々がほのかに赤みを帯びて、美しいものを観賞したという感じで満たされた。
最後に、本堂で、平安時代作とされる本尊薬師如来に感謝の思いを込めて手を合わせた。
初代清衡は釈迦如来を本尊とする中尊寺、二代基衡は薬師如来を本尊とする毛越寺、三代秀衡は阿弥陀如来を本尊とする無量光院を建立した。過去釈迦、現世薬師、未来阿弥陀を本尊とする三寺院の建立は、清衡の強い願いであったという。
二代基衡、三代秀衡も偉いが、初代清衡は、人として、大きな人物だと感じた。誕生したのは前九年の合戦のさ中で、戦いが終わった時、父は殺された。20代には後三年の戦いで同族相争い、妻子も殺された。30歳ごろまでの間に、彼はこれ以上ないような人生の悲惨を味わい、そこから父祖の地の地歩を固める努力を懸命にした。50歳になってやっと中央政権にも承認され、それから20年をかけて、二つの戦さで死んでいった人々を敵味方なく鎮魂するために、そして生きとし生けるものの幸せを願って、中尊寺を建立していった。さらに、子や孫の世代をも動かして、このような平泉文化をつくり上げた。歴史的な意味でなく、文学的な意味で(苦悩を生きたという意味で)、大きな人だと思う。
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門を出ると、1台だけタクシーが待機していた。ありがたい。平泉駅まで戻らなければタクシーに乗れないと思っていた。
今日の歩数は14000歩。私としては5日分くらい歩いた。
こちらから聞いたわけではないが、安倍元首相が安倍氏の史跡を求めて岩手に来られたという話を、運転手から聞いた。そのようなことは、この旅に出るまで知らなかった。「蝦夷」と言われ、いわば「朝敵」として滅ぼされた安倍氏に、同じ姓をもつ者として、何か縁を感じておられたのであろうか。
運転手からは、岩手県と言えば今は大谷翔平です、という話も聞いた。ドジャースの大谷は、岩手県の大谷でもある。
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