ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

できるだけ長く (安倍さんに期待する 2)

2012年12月30日 | エッセイ

 先日の読売新聞の世論調査によると、安倍内閣の支持率は65%だった。十分である。

 調査では、麻生さんの起用に賛否が分かれ、谷垣さんの起用に否定は少なく、石破さんには大賛成となっている。

 石破さんは、今が旬の政治家。私も大いに期待しているが、まだ首相の品格はない。安倍さんあっての石破さんである。吹く風に惑わされることなく、幹事長として、しっかりやりきってほしい。

 麻生さんの人事は、私は、◎(二重丸)。超ベテランだが、精神が若々しいし、さわやかである。 自民党最後の首相だったが、あのときは自民党そのものの退潮が著しく、持ちこたえられなかった。彼に何の失政もない。国民は、彼を、というよりも自民党を一旦捨てたが、その後の民主党の首相、鳩山、菅、野田と比べてみればよい。器の違いは歴然だ。

 野党時代の自民党を支えた谷垣さんを入閣させたのは、安倍さんの温かさ。「あなたのお蔭で自民党はここまで来られたのだから、ぜひもう少し一緒にやってほしい」という心だ。石原ジュニアに裏切られ(敗れ)、力衰えた今の谷垣さんをつぶすのは簡単だ。だが、先輩を大切にする。それが、真のリーダーというものだ。人間としての器の問題である。これから企業その他の組織でリーダーになろうかという人は、ぜひ、こういう人事を見習ってほしい。

 世論調査では、日米関係は改善方向と見ている。しっかり改善してほしい。

 戦前なら日英同盟。このお蔭でロシアにも負けなかった。その後、ドイツと結んで、日本はおかしくなった。戦後は、日米同盟。アングロ・サクソンとしっかり手をつなぐことだ。

 日中関係の改善は、期待薄である。

 朝貢外交でもやらなければ、誰が首相でも改善しない。

 仮に、関係改善しても、2、3年もすれば、必ず中国はまた反日暴動を意図的に引き起こすだろう。暴動或いは他の手で、進出した日本企業を追い出し、ヒト(技術を与え育てた)、モノ、カネを奪い取る。それが戦前からの彼らのやり口である。中国に行かなくても、いくらでも中国から儲けるやり方はある。多くの賢い日本企業は、今回、そのことを学んで、中国から撤収した。これも、イノベーションである。

 ただし、安倍さんは、硬軟両方の戦術を使い分けるだろう。首相は硬派を演じるが、軟派役もちゃんと配置している。そういうところが、民主党の、真面目なだけのやり方と違うところだ。あれでは舐められる。

 世論調査で一番の注目点は、「安倍内閣にどのくらい続けてほしいか」に対して、「できるだけ長く」が57%。「2年か3年」が23%ある。党派を超えて、8割の国民が、今までのように1年で終わってほしくないと願っている。

 安倍さん、健康に気をつけて、頑張ってほしい。でも、あなたは、今度は、死んでも良いぐらいの気持ちで臨んでいるでしょう。あなたをテレビで見ていると、わかります。

 今、日本には、あなたしかいないのだから、ながーくやってほしい。最低、5年。小泉さんぐらい。

 そうすれば、日本も、光が見えてきて、次のリーダーも、出てくるでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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今、日本を建て直すことのできる唯一の政治家 (安倍さんに期待する 1)

2012年12月29日 | エッセイ

 本当は、このブログで、政治のことに触れたくない。

 もとから自民党支持者であったわけではない。「支持政党なし」の時代もあったし、選挙にさえ行かなかった時期もあった。

 だが、‥‥ 高度経済成長の時代なら、だれがやっても、そこそこ首相は務まった。

 中国が人民服を着て内ゲバをやっている間は、アメリカの庇護のもと、のんびりと内向きに暮らし、平和ボケしていたらよかった。

 しかし、日本国がこれだけ政治的・経済的に疲弊し、一方で隣国・中華人民共和国が社会帝国主義的意図を隠さなくなった今、真にしっかりした政党と首相を選ばなければ、10年後のこの国は危うい、と思う。

 (今回の選挙の結果、選ばれた政治家は自分とせいぜい同世代、多くは年下になったので、以下、「さん」付けで書く。)

 さて、そう思って、自民党、維新の会、みんなの党から、民主党、社民党、日本共産党まで、ぐるっと政界を見回してみる。日本国の首相にふさわしい人物として、だれがいるだろう? 

 結論を言えば、今、日本国の首相としての品格と識見と覚悟をもった政治家は、安倍さん以外にはいない。候補者として誰と誰、ではない。安倍さんが一人、突出し、他にはいない。人生をそれなりに生きてきて、政治に関する考えもいろいろ変わったが、今は、本当にそう思う。

 故に、安倍さんの長期政権を期待する。もう、コロコロ首相が代わるのは、ごめんこうむりたい。アメリカの大統領は8年、中国の身内で選ぶ「お手盛りボス」の任期は10年だ。

 だから、それぐらい長くやってほしい。大臣の失言だとか事務所費がどうとか、或いは、奥さんが居酒屋を始めただとか、そんなことは、日本国にとってどうでもよいことだ。

 くり返すが、安倍さん以外に、今、日本国の首相になる器量をもった人物は、存在しない。

         ☆

 「維新」の橋下さんは、若いが、賢い人だ。突然政治家になった彼は、不勉強のため、自分に一国をリードする国家観や歴史認識がないことを自覚している。だから、トップに安倍さんを担ぎ出そうとし、次善の策として石原さんを担ぎ出した。石原さんと一緒になったのを、損をした、選挙で得をしなかったと言う人もいるが、彼は、国家観や歴史観をもつ人を必要としたのだ。いずれ落ち着いて、ゆっくり勉強できるときも持てるだろう。きちんと自己認識をもてる彼に、改めてその将来を期待したい。だから、「脱原発」などということを、軽々しく言ってはいけない。

 「みんなの党」の渡辺さん。その自己認識において、橋下さんに劣る。まず、「アジェンダ」という耳障りな言葉をやめてほしい。「船中八策」のほうが、ましだ。第二に、ヘアスタイルを変えなさい。橋下さんは、知事選に立候補するに当たって、茶髪を黒くした。渡辺さんのそういう自意識過剰は、言い換えれば、日本国のために命をかけるという覚悟ができていない、ということだ。人気を気にし、若者に媚びる自意識過剰な人物には、首相はおろか、大臣すら任せることはできない。

 民主党の岡田さん、野田さん、前原さんらは、一国を預けるには、幼すぎる。懐の深さがない。これではアメリカや、ロシアや、中国のトップと渡り合うことは、到底ムリ。ただ真面目なだけだ。

 原口や枝野には、その真面目さすら感じられない。口だけ達者。その口先だけで勝負できていると思っているところが、薄い。

  日教組や公務員労組をバックに当選した議員が幅を利かすような政党に、国政は任せられない。この際、学校や役所に帰って、子どもや市民を相手に、まじめに仕事をしなさい。給料もらって、組合活動や選挙運動ばかりやるのは、もうやめることだ。輿石さん、あなたもです。

  日本共産党。かつてこの党は、ソ連共産党、中国共産党と真っ向から闘った。あの気概は今いずこ? 世界を視野に入れる大局観や戦略において、すっかり時代遅れになってしまった。

         ☆ 

  今は、とにかく安倍さんしかいないのだから、この国と、この国の歴史と、この国の文化を愛する私は、安倍さんを支持します。(続く)

 

 

 

 

 

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「甘え」の政治家は退場せよ。

2012年12月27日 | エッセイ

 嘉田滋賀県知事のことである。

 彼女は、「「日本未来の党」という政党づくりに参画し、国政選挙においてその党首として国民に支持を訴えたばかりである。

 その舌の根も乾かぬうちに、けろっとして、自らの党を分裂させると言う。では、あの選挙はいったい何だったのか? 政治家として、責任をもって答えてもらいたいものだ。

 私は、小澤一郎も、嘉田のおばさんも、「未来の党」も、政治家としての彼らを頭から信用していないし、どうせこうなることもわかっていた。しかし、「アブク」なら、いい。嘉田氏が今後も政治家として生きていくだろうから、この「甘え」の構造は、許すことはできない。

 党首が、選挙が終わって1か月もたたないうちに、自らの党そのものを否定するということは、その政党に投票した人に対してはいうまでもなく、投票していない国民に対しても、結果的に大嘘をついたことになる。国民を愚弄する政治家である。

 意図的ではないにしても、政治家がこれほど明確に国民をはぐらかす政治的大嘘をついて、国民の判断を得ることなく、勝手に「党を、きれいに、分けます」などと言うのは、この人の頭の中の構造が、実はそこらへんの単なるおばさん程度で、党首はおろか、県知事などという大役を、責任をもって担う人物でないことを如実に示しているといえる。

 小澤とともに、手に手を取って、さっさと退場してほしいものである。

 

 

 

 

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レオン王国の古都を歩く … 冬のサンチャゴ・デ・コンポステーラ紀行 3

2012年12月24日 | 西欧旅行…サンチャゴ・デ・コンポステーラ

< 第4日 ── 列車に乗って古都レオンへ

  サンチャゴ・デ・コンポステーラのケルト的な冬の雰囲気にふれ、さらに、(計画には入っていなかったが、幸運にも )、「陸の終わる地」であるフィステッラ岬にも立つことができ、この旅の目的は十分に達成した。

 この旅を計画したとき、難しかったのは、マドリッドからKLオランダ航空で帰国するとして、遠いサンチャゴ・デ・コンポステーラからマドリッドまで、どういうルートで帰るかということであった。

 サンチャゴ・デ・コンポステーラから首都マドリッドへ直接に行く列車は、1日に2本しかない。1本は、午後に出て、夜おそくマドリッドに着く。 マドリッドの治安はあまりよくないし、不案内な大都会に夜おそく着くのは、できたら避けたい。もう1本は夜行列車だから、これはもっと避けたい。

 いろいろ調べて、結局、レオンに1泊し、古都レオンを観光することにした。

 サンチャゴ・デ・コンポステーラからレオン、レオンからマドリッドは、それぞれ1日に何本かずつ列車があり、選択肢が増える。

 こうして、12月17日は、サンチャゴ・デ・コンポステーラ発8時42分の特急に乗り、途中、一度乗り換えて、レオンに13時7分に到着した。翌日、昼ごろのマドリッド行きに乗れば、レオンでまる1日、観光もできる。

       ★ 

< ガリシア地方を思う >

 サンチャゴ・デ・コンポステーラ駅のホームの入り口付近で、手荷物のX線検査を受けた。イラク戦争中の2004年、マドリッド付近で大規模な鉄道テロがあり、191人が死亡し、2000人以上が負傷した。それ以後の措置である。これも、また、ヨーロッパの現実である。

 列車に乗り込み、自分の座席を見つけて座ると、やっと気持ちが落ち着いた。

 列車がホームを滑り出すと、あとは車窓風景を眺めるだけだ。

 列車は東へ東へと、ガリシヤ地方の内陸部へ入っていく。その景色を眺めていると、ガリシヤ地方の異質さが、異邦人の目にも少し理解できるような気がしてくる。

 今まで見てきた西ヨーロッパの風景は、フランスでも、ドイツでも、一面のブドウ畑や麦畑、黒っぽい休耕地や、緑の牧草地が、果てしなく広がり、小さな林があり、起伏のない平野をゆったりと川が流れる。夕方ともなれば、夕日が地平線近くの村の教会の尖塔を赤く染めながら、その向こうに沈んでいった。

 それが、西ヨーロッパだ。牧歌的で、豊かで、美しい。

 一方、ガリシヤを走る列車は山の中が多く、谷は深く、緑が濃く、小川が流れている。人の手はあまり入っていない。

 朝の太陽が山にさえぎられて、午前の光が射しこまない斜面もある。

 耕地は少なく、貧しい。

 この風土は、まるで日本だ。

 

 昨日見た大西洋の海岸線は、入り組んで、海まで低山が迫っていた。

  Jose さんの朴訥な人柄。彼が案内してくれた古い村の教会や、ネズミよけの穀物倉。いかにも民俗学的な世界だ。日本なら柳田國男の世界。

 そして、独自の言語。 

 小雨降るサンチャゴ・デ・コンポステーラと聖ヤコブの重厚なカテドラル。

 そういうものが自分の中で一つに溶け合った。 

 ガリシヤは、イスパニアと異なるというより、西ヨーロッパと異なるのだ。

 西ヨーロッパの中に、そういう地方も、あってよい。

 二度訪れることはないだろうが、もう一度訪ねたくなる、なつかしさがある。

        ★

< 旅に出る前に調べたスペインの歴史 >

 今回の旅まで、スペインの歴史について、何も知らなかった。大航海時代に輝き、ハブスブルグ時代に最大の版図となって、遥か東方の信長や秀吉にまで刺激を与えたが、今はEUの中で、(サッカーを除けば)、主役になれないローカルな国だ。 

   スペインの前史は長い。なにしろ、あのアルタミラの洞窟がある国である。

 アルタミラは、ガリシヤ地方の東方で、レオンの北方に当たり、ビスケー湾に臨むカンタブリア地方にある。

 あのカルタゴの名将・ハンニバルは、イベリア半島で兵を整え、アルプスを越えて、イタリア半島に攻め込んだが、結局、ローマがカルタゴに勝利し、イベリア半島も制圧した。

 その後は、パクス・ロマーナの下、西ローマ帝国が滅亡する AD476年まで、イベリア半島はローマそのものだった。五賢帝のうちの2人、トラヤヌスとハドリアヌスもスペイン出身である。

 ガリシヤ語は、スペインの支配的な言語であるカスティーリャ語とは違う。違うとはいえ、元は同じラテン語である。異質性を主張して独立したがっているバルセロナ(カタルーニャ地方)も、元はといえば同じラテン語で、ラテン文化圏だ。言語も文化も違うのは、バスクのみ。新興都市のマドリッドなどを除けば、スペインの大部分の町は、ローマ時代につくられたか、それ以前からあって、ローマ化されたローマの町である。

 5世紀のローマ滅亡後、イベリア半島に流入し、支配したのは、ゲルマンの一族である西ゴード族。王国となり、首都はトレドに置かれた。

 一方、610年ごろにマホメットが興したイスラム教は、破竹の勢いで勢力を拡張し、かつてのローマの支配圏であった北アフリカを西へ西へと進んで、わずか100年後にはジブラルタル海峡まで進出する。

 そして711年、イスラム勢力は地中海を越えてキリスト教徒の西ゴード王国と決戦し、圧倒的な勝利を得て、コルドバに都を置いた。

 西ゴード王国の残存勢力が態勢を立て直したのは、イベリア半島の北方、グアダラマ山脈の向こう側まで退いてからである。

 その地に建設されたのがレオン王国。その首都がレオン。その後のキリスト教徒のレコンキスタ (国土回復運動) の発祥の地となる。

 のち、レオン王国は家来筋のカスティーリャに併合され、レオン・カスティーリア王国となり、南へ南へとレコンキスタを進めていった。

 9世紀に聖ヤコブ(サンチャゴ)の墓が発見され、サンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼が始まったのは、キリスト教勢力のレコンキスタ (国土回復運動) と宗教的に呼応していた。

 サンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路は、イスラム勢力の支配地域を避けた、イベリア半島の北方を通る道であり、首都レオンはその要衝となったのである。 

 もう一つ、レコンキスタの勢力があった。732年、イスラム勢力は東に侵出して、ピレネー山脈を越え、フランク王国と激突して、撃退された。フランク王国はピレネーを西に越え、その地に伯爵領を置いた。

 この勢力が成長して、アラゴン・カタルーニャ王国となり、西へ西へとレコンキスタを進めた。

 そして、レオン・カスティーリア王国の跡取り王女と、アラゴン・カタルーニャ王国の跡取り王子が結婚して、できたのが、今のスペインの原型である。

 バルセロナを中心とするカタルーニャは、ピレネー山脈をはさんでフランク王国と縁が深く、今になって、西ゴード王国の流れをくむカスティーリアから分離・独立をしたがっているのである。

 ともかく、1492年、グラナダ攻略をもって、800年かけて戦われたレコンキスタは終了する。

 首都でなくなった後のレオンは、今は、人口は14万人。スペイン北部のローカルな中都市である。

        ★

< 今はパラドールとして使われているサン・マルコ修道院 > 

 今回の旅の前、レオンという町について、全く知らなかった。

 レオン王国の王都として栄えたのは、10世紀~12世紀。ベルネスガ川のほとりに開けた町で、川は北へ流れ、、ビスケー湾に流入する。

 旧市街の見所は3か所。

 11世紀に、ロマネスク様式で着工した聖イシドロ教会。

 13~14世紀に、ゴシック様式で建てられたカテドラル (大聖堂)。この町の中心である。

 そして、16~17世紀に、ルネッサンス様式で建てられたサン・マルコス修道院。サンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼者のために、病院兼宿泊施設として建てられた。今は、半官半民の高級ホテル・パラドールとして運営されている。パラドールの建物の多くは、由緒正しいは歴史的建造物で、2泊したサンチャゴ・デ・コンポステーラの五つ星ホテルも、パラドールだった。

 聖イシドロ教会に近い今夜のホテルに荷物を置いて、一番遠いサン・マルコス修道院 (パラドール) から見学を始めた。ベルネスガ川のほとりに建っていた。

 修道院を兼ねて、巡礼者を保護する病院・宿泊施設として建てたのは、資金豊富なサンチャゴ騎士団である。外観は、左右対称、ルネッサンス様式の、壮麗な建築物だ。

 (パラドールのサン・マルコス修道院)

  中に入って、昼下がりのレストランで、グラスワインを飲んだ。柱も、壁も、床も、調度類も、クラッシックで格調の高いものばかりだった。

 外に出ると、巡礼者らしき像が柱にもたれ、修道院の建物を見上げていた。

 

 あたりの写真を撮っているうちに、さっき通り過ぎたお嬢ちゃんが、引き返してきていた。巡礼者の像が気になるらしい。

 「おそくなったよ。早く帰りましょう」。きれいなママでした。

     ( サン・マルコ修道院の前で )  

         ★

< 町の中心はゴシックの大聖堂 (カテドラル) >

 旧市街の中心部に引き返し、大聖堂の前の広場に立って、ゴシック大聖堂の威容に圧倒された。広場の端に寄って広角レンズを構えても、なかなかうまく全貌が収まらない。さすが、スペインを代表する、かつての王都の大聖堂である。 

  

       ( 大聖堂のファーサード )

  中に入ると、建物の柱や壁や床の石はかなり古びて、修復が追い付いていないといった感じがあった。どこの国でも、文化遺産を保護・補修する予算は、少ない。レオンという、すっかりローカルになった町にとって、この大聖堂は荷が重すぎるのかもしれない。

 それでも、スペインで最も美しいと言われるステンドグラスは、本当に美しく輝いていた。これを見るためだけに、遠くからやって来る人もいるという。

 

         ( バラ窓のステンドグラス )

 (側面の窓を飾るステンドグラス)

 内陣の奥の飾り衝立に描かれた絵も、色彩感がすばらしかった。

( 内陣の飾り衝立とステンドグラス )

 回廊と美術館はガイド付き見学だが、手が離せないということで、自由に見て回ることができた。ガイドの説明を聞いてもどうせわからないから、その方がありがたかった。

 見事な空間だった。ただ、これほどのものなのに、見学する人がほとんどなく、ガランとしていた。

 

 大佛次郎の小説に、『帰郷』という有名な作品がある。外国で亡命生活をしていた主人公は、焦土と化した敗戦後の日本に帰国し、戦災の被害に遭っていない京都・奈良を訪ねて、寺社や庭園を巡りながら感動するのだが、同時に、このような感想を抱く。

 「恭吾が見てきたフランス、イタリアの古い寺院は、現代でも庶民の生活とともに生きていた。薄暗い堂内に跪いて付近の男女が、祈っている姿はいくらでも眺められたし、信仰に冷淡な観光客でもその人たちを煩わさぬように心をつかって、帽子も入り口で脱ぎ、靴の音を立てない用意があった。拝観と名だけものものしくて、国宝となっている仏像を保存し陳列してあるだけの場所ではない。… 奈良でも京都でも、それが案外であった。… 夏の日ざかりに大きな空き家に入ったような感じで、埃や湿気がにおい、寂寞としていた … 」。 

   戦後、70年。フランスでもイタリアでもスペインでも、「拝観と名だけものものしくて、国宝となっている仏像を保存し陳列してあるだけの場所」が、すっかり多くなった。この大聖堂の回廊も、中庭も、柱の聖人像も、ガランとして、まるで博物館にいるような感じだった。

 今は、日本の神社などの方が、まだ、現代に生きている、と思うことがある。日本では観光で訪れた人も、柏手を打ち、手を合わせている。欧米人までが、そのようにしている。

                 ★

< 素朴なロマネスクの聖イシドロ教会

 大聖堂から歩いて10分のところに、聖イシドロ教会はある。

 旧市街を歩いていると、ガウディが設計したという建築物があった。ガイドブックによると、4隅に尖塔があるのが、ガウディの特徴なのだそうだ。

            ( ガウディの設計 )

 聖イシドロ教会は、11世紀にロマネスク様式で着工した。

 ロマネスク様式の教会は、素朴で、温かみがある。特に、青い屋根の塔がいい。

 聖イシドロという日とセビーリャの大司教で、死後、聖人に列せられた。この教会は、聖イシドロに捧げられ、聖人の名を冠している。だが、建てられた目的は、レオン王国 (914年~1109年) の歴代国王や王の一族を埋葬する霊廟としてである。

 ここは、厳格に、ガイドツアーで見学する。入場料を払い、ガイド料金も要するということは、今は博物館化しているということだ。それでも、歴史的文化遺産として遺してほしい。

 霊廟 (パンテオン) の低い丸天井には、色鮮やかに、素朴なフレスコ画が描かれ、床には石棺が置かれていた。

            ( 聖イシドロ教会 )

 今日、宿泊するホテルも、元は聖イシドロ教会の敷地内の僧院で、門を入り、庭を歩いて、その先の建物に入ると、フロントがあった。

 驚くほど宿泊料は安く、申し訳ないぐらいだ。

 部屋の窓を開けると、僧院の中庭を見下ろすことができ、向かいの建物の上には、聖イシドロ教会の青い塔ものぞいていた。

 夕食のレストランも、元僧院の食堂で、周囲の壁もテーブルや椅子も、がっしりして、古び、中世的な僧院の雰囲気があった。

 グラスワインを注文したら、ボトルを1本出された。こんなに飲めない、と言ったら、好きなだけ飲めと言う。周りの宿泊客を見たら、みんなボトルを1本置いて、食事をしていた。

   

(塔がのぞく、ホテルの中庭)

               ★

 夜、大聖堂まで歩いてみた。人通りは少なかったが、表通りは不安を感じるような街ではない。

 昨日までの、大西洋側の温暖な気候と比べて、この地方の夜は、空気がピーンと冷たく、ダウンのコートを着ていても、しんしんと冷えた。

 カテドラルは盛大なライトアップだ。

   ( ライトアップされた大聖堂 )  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

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首都マドリッドで … 冬のサンチャゴ・デ・コンポステーラ紀行 4

2012年12月13日 | 西欧旅行…サンチャゴ・デ・コンポステーラ

     ( 雨に煙るマドリッドの王宮 )

< 第5日~第6日 ── 首都マドリッドで>

 レオン12時45分発の新幹線に乗って、快適な旅をし、首都マドリッドには15時46分に着いた。

 マドリッドで体調をくずしたが、それでも、その日と翌日、休み休み、首都マドリッドを歩いた。

         ★

 マドリッドは、人口312万人。 海抜650mの台地にある。

 その歴史は、スペインの都市の中では例外的に新しい。 

 イスラム勢がイベリア半島を支配していた9世紀に、後ウマイヤ王朝 (イスラム教徒) が、ここに砦を造った。マドリッドの出発点は、ローカルな砦であった。

 1492年、キリスト教勢力のレコンキスタが完了し、それから60年後、ハプスブルグの血も引くフェリペ2世が、スペイン王として君臨した。

 それまで、スペインの王は首都を置かず、各地を巡回しながら政務を行うのを常としていたが、1561年、フェリペ2世はマドリッドを首都と定めた。マドリッドに決めた理由は、そこがイベリア半島の真ん中に位置するからだった。

 1700年、スペインのハブスブルグ家は、跡取りがなくなって断絶する。これを受けて、ハプスブルグ家とブルボン家が王位継承戦争を戦い、結局、スペイン王家の血を引くブルボン王家の王子がスペイン国王となった。

 それまで、スペイン王家は、質素・質実を旨とする家風だったが、ブルボン王家は少し違う。1734年に、王宮が火災に遭ったのを契機に、このブルボン家からやってきた王は、ルイ14世のベルサイユ宮殿を真似て、豪華な王宮を再建した。

 それが現在の王宮である。

  ( スペイン王宮 )

 王宮は特別の行事がなければ内部見学もできるが、所詮、フランスのベルサイユ宮殿や、ウィーンのシェーンブルン宮殿には及ばないだろうと思って、外観だけ見て、満足した。

 近くの店で、お土産にリアドロの磁器人形を買った。

       ★

 マドリッドに、これというほどの歴史的な遺産はない。

 ぜひ行ってみたかったのは、プラド美術館である。

 プラド美術館は、美しい前庭をもつ、端正な建物だった。

 

   ( プラド美術館前の広場のモニュメント )

   ( プラド美術館前の正面入り口 )

   入館すると、まっすぐにゴヤの「裸のマハ」の部屋へ行った。

 遠い昔、中学校の美術の時間に、美術史を教わった。美術の先生は、世界美術全集や日本美術全集の写真を見せながら、紀元前の時代から近代にいたる、世界と日本の美術史を説明してくれた。

 そのとき以来、ずっと見たいと思っていた絵が、ゴヤの「裸のマハ」である。

 初めて見た本物は、美術書の写真で見るより何倍も素晴らしい、と思った。

 こうして見てみると、遥か昔の美術の先生の解説には、特に「着衣のマハ」について、まちがいもあった。

 敗戦国となり、国土が焦土と化した日本が、そこからようやく立ち上がって、しかし、まだ貧しい時代であった時代、先生も、実際に自分の目で見た作品など、ほとんどなかったに違いない。

 だが、それでも、先生の美術史の話は興味深かった。一つ一つの作品の説明をするとき、相手が中学生であるにもかかわらず、一人の絵描きとしての自身の意見や感動が込められ、ミロのヴィーナスやマハについても、もの言いは率直だった。

 1人の中学生が、美術の授業の先生の話をずっと覚えていて、それが唯一の動機で、数十年後の海外旅行の折にその絵を訪ね、自分の目で見て、改めて、良い絵だと感動した。教育とは、かくあるべきと思う。

 私は、西洋絵画の女性の裸体画を好きではない。美しいと思えないし、色香も感じない。

 ただ一点、例外を挙げれば、フィレンツェのウッフィツィイ美術館にある、ポッティチェッリの「ヴィーナス誕生」である。

 今回、例外の一つとして、ゴヤの「裸のマハ」を付け加えた。

 他に、ベラスケスの「ラス・メニーナス (官女たち) 」が良いと思った。

 正面に立つ幼い王女や官女たちが、一斉に「こちら」を見ている。絵の端っこで、画架を立て、絵筆を握って、王女を描いていた画家も、「こちら」を見ている。小さな鏡があり、そこに写る姿から、部屋に入ってきたのが国王だとわかる。国王が部屋に入ってきたので、皆が驚いて、入り口の王の方を見たのだ。

 そのときの画家自身の表情が、すばらしい。

 芸術家らしい、不敵なものをもった顔である。

 その男(ベラスケス自身)が、「こちら」に、敬愛の眼差しを向けている。それは、ずっと年の離れた弟が、父親代わりに育ててくれた長兄を見るような眼差しだ。この人にだけは頭が上がらない、といった人間的な敬愛の心が、絵に表現されている。そこが良い。 

 美術館の館内は広く、数限りなく壁に掛けられたキリスト教の宗教画や、王室関係者の肖像画などには、全く興味がわかず、駆け足で通り過ぎた。

         ★

 マドリッドの中心、プエルタ・デル・ソル (太陽の門広場) から、マヨール広場にかけて、ホテルにも近かったから何度か歩いたが、昼も夜もたいへんな人ごみだった。

   ただ、パリやローマと比べると、洗練されていないというか、これなら大阪の「南」で十分だなと思った。

          ( ソル付近の賑わい )

   ( マヨール広場のクリスマス市 )                             

         ★

< 第7日~第8日 ── 帰国の途に >  

 帰国の途につく。

 マドリッド10時30分発で、アムステルダムへ。

 飛行機で隣り合わせた、たくましい日本の青年は、聞くと、まだ高校3年生だった。

 「サッカーでしょう?」。「はい、そうです」。( すぐに、サッカー青年だと感じた )。

 卒業を前にした2学期の定期考査あけ、マドリッドのサッカークラブに、1週間だけ留学させたもらったのだそうだ。進路はまだ未定。

 「彼らは体格も大きく、強くて、なかなか強敵でしょう?」

 「その上、技術も、優れていました」。

 「言葉は?」

 「まったくわからないけど、練習には付いていけました」。

 アムステルダムのスキポール空港で別れて、彼は成田行きのホールへ向かった。

 外国人ばかりの空港を一人で歩く姿も落ち着いていて、なかなか堂々としていた。

 頑張れ! 高校生! 活躍を祈る。 

  (アムステルダムのスキポール空港)

        ★

 アムステルダムを立つと、飛行機は夜に向かって飛び、急速に夜となり、1万メートルの上空を、星空の下、東へ東へと進んだ。

                                                     

 長く窮屈な夜を過ごし、疲労がたまり、北京の辺りを過ぎると、小さな飛行機の窓の外は、太陽を迎えに行く空になった。日出づる国へ。

 

 日本海を越え、山々ばかりの本土を縦断し、やがて、明石海峡大橋や、海に浮かぶ関空が見えてくる。

 なかなか美しい空港だと思う。

 (終わり)

 

 

 

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熊野本宮大社 … 心に残る社と杜 2

2012年12月11日 | 国内旅行…心に残る杜と社

  ( 熊野本宮大社/主祭神を祭る第三殿)

 熊野本宮大社については、当ブログの9月22日と27日に、「紀伊・熊野の旅6、7」で詳しく書いた。

 今回は、遅ればせながら写真を掲載。

          ★

 朱はない。白木である。その故か、熊野那智大社、熊野速玉大社の華やかさはない。鄙びて、かつ、静謐の趣が満ちている。

 堂々と並んだ社殿の背景の杜の巨木が、ここが神々のおわす神域であることを表しているかのようである。

          ★

 

   ( 大鳥居 )

 大きな鳥居の前に立つと、両側に高く繁った樹木。その間を石段がまっすぐ上へと伸びている。白地に黒々と「熊野大権現」と書かれた幟がならぶ。

 「石段の中央は神様の通る路。参詣者は、上りは右端、下りは左端を歩く」と、作法の貼り紙がある。

 静謐な空気のなか、時折、木々の梢を見上げて一呼吸し、そこから差し込む木漏れ日の陰影を踏みしめながら、158段の石段をゆっくり登っていく。                            

          ★

  ( 大斎原の大鳥居 )

 熊野本宮大社の社地が、現在の山の上に移されて、まだ120年ほどにしかならない。1889年(明治22年)の洪水のときまで、本宮大社の杜と社は、熊野川の中洲にあった。平安末期、上皇、貴族、女官、そして平清盛らが遥々と参詣した社は、今は跡地のみだ。

 大斎原を訪れるなら、春がいい。

 菜の花畑の向こうの桜の大鳥居は、日本一の高さを誇って、印象的である。

 大鳥居をくぐり、巨木の繁る参道を歩く。

 その昔、社殿のあった一画は、今は「大斎原 ( オオユノハラ )」と呼ばれ、こんもりと樹木に囲まれた原っぱになっている。

 人気のないしんとした静寂の中に、木々の若葉が芽吹き、大きな桜の古木も幾本かあって、ひっそりと咲いている。原っぱに石祠もあり、清々しい。

 

        ( 大斎原  オオユノハラ )

 

 

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心に残る社と杜1 … 厳島神社

2012年12月09日 | 国内旅行…心に残る杜と社

          ( 海に立つ鳥居 )

 島まで船で10分。宮島桟橋で下船した。

 旅館に旅のカバンを置いて、早速、厳島神社へ行く。

 旅館から社への商店街は、観光客でたいへんな賑わいだった。

 日本三景の一つとされ、さらに世界遺産となった神社であるが、この時刻は干潮で、浜に海草が露出して横たわり、海上に立つ鳥居も、いささか殺風景の感があった。

 そのあと、宮島の町を、ひとわたり散策した。

    ( 宮島の街 )

           ★

  ( 旅館の窓から瀬戸の海 )

 夜、月夜の満潮に、遊覧船に乗って鳥居をくぐり、参拝した。 

 「しまなみ海道」の生口島に、「平山郁夫美術館」がある。平山郁夫のふるさとに建てられたこの美術館に、しずかに月光を浴びる厳島神社の神々しい姿を描いた大作がある。名作である。

 その神々しさを体感するような光景であった。

 

   ( 月夜、海から参拝する )

           ★

 早起きして、朝、もう一度、神社に向かうと、鳥居は海の中に立ち、ひたひたと押し寄せる海水が、社の廊下や、能舞台の板を、浸さんばかりで、迫力があった。

 

  ( 満潮の厳島神社 )

 旅はいずれもそうであろうが、ここは特に、観た、食べた、次へ、という駆け足ツアーでは絶対に損をする。

 満潮の海水に浸された社に立ち、また、満月の夜、船で鳥居を潜って参拝してこそ、世界遺産を体験できる。

           ★

 午前、ロープウェイと、その先は徒歩で、霊峰弥山の山頂へ向かった。

 厳島神社は、もともと海人たちが海から拝んだ、海の男たちの神である。ご神体は、島そのもの、特に島にそびえる弥山である。鳥居も、海上から山に向かって拝むように建てられている。

 ロープウェイを降り、山頂に向かって歩くにつれ、神域に入っていることをひりひりと感じた。太古から、神は、感じるものにのみ感じられる。

 頂上には、巨岩がいくつもあった。磐座である。

   ( 山頂から )

           ★

 神名を問うなど余計なことではあるが、厳島神社は、宗像三女神を祀る。タゴリヒメ、タギツヒメ、イチキシマヒメである。

 卑弥呼などよりももっと昔、福岡の玄界灘一帯に勢力をもった海人たちがいた。その中に宗像氏と言う一族がいた。三女神は、その一族が祀った氏神である。男たちは、胸と肩に、竜の子孫であることを示す「三つ鱗」の刺青をしていた。

 今も、その地に宗像大社があるが、まだ訪れていない。

 辺津宮、中津宮、沖津宮の三社からなり、沖津宮のある沖の島は、海の正倉院と言われる。ただし、一般人は入れない。中津宮のある大島の北岸の遥拝所から、遥かに拝むだけである。

 宗像氏とともに、海の民として活躍した一族に安曇氏がいた。最初、本拠地にしたのは、金印が出土した志賀島一帯。

 海人族は、黒潮の民として、中国の遼東半島、山東半島、朝鮮半島の西海岸、南海岸、済州島、沖縄、九州、瀬戸内海に跋扈した。

           ★

 安曇氏は、応神朝のころに、大王に招かれて大阪南部に勢力を伸ばした。住吉大社は彼らの氏神である。祭神は、底筒男、中筒男、表筒男の三神。

 宗像氏が漁民的性格が強く、日本各地の岩礁のある所、彼らの漁法の技が繰り広げられていくが、安曇氏は軍事的・海軍的性格をもつ。白村江の戦いで安曇比羅夫が戦死したころから、志賀島を離れ、その一部は遠く信州安曇野まで進出した。

 

 

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「第三の男」 のウィーン …… 遥けきウィーン 3 

2012年12月01日 | 西欧旅行…遥けきウィーン

   ( ホーエンザルツブルグ城からの眺望 )

       ★   ★   ★ 

 今まで観た映画の私的トップ5を挙げるとすれば、

 その1つは絶対に、「サウンド・オブ・ミュージック」

 1938年に、旧オーストリア=ハンガリー帝国は、ナチスドイツに併合される ( = 併合を受け入れた。なお、「併合」と「植民地」は違う。ドイツの「植民地」になったわけではない )が、物語はその直前の時代を背景に、トラップ一家と修道女だったマリアの愛が、ザルツブルグの中世的な街並みと、ザルツカンマーグートの美しい自然のなかに楽しく描かれる。

       ( ザルッブルグの大聖堂 )

 ジュリー・アンドリュースが、ステキでしたね。

  ただし、全世界で大ヒットした映画だが、物語の舞台となったオーストリアでは、人気がなかった。

 それはそうだ。映画の最後で、反ナチスのトラップ大佐は、かっこよく、一家を率いてアルプス越えをし(アメリカに亡命して)、ハッピーエンド。

 一方、オーストリア国民は、そのあと、ナチスドイツとともに、連合軍を相手に戦った。あげく、敗戦国となり、戦後の一時期はベルリンと同じように、米、英、仏、ソに占領統治され、暗い時代を生きのびた。生きて来た心の道のりが、トラップ大佐や、映画をつくったアメリカ人とは違う。

 苦い歴史も、黙って自分なりに整理し、心に受け止め続けてこそ、国民というものだ。

           ★

 その敗戦直後のウィーンを舞台にした映画が、「第三の男」。

 日本で公開されたのが1952年だから、映画としては、「サウンド・オブ・ミュージック」よりずっと古い。なにしろ白黒の映画だ。

 白黒の映像美が素晴らしい。

 物語はあえて分類すれば、ハードボイルド。原作者のグレアム・グリーンはそういう作家だ。実存主義哲学を文学化した作家の系列に分類・評価されたりする。

 空襲によるガレキが、片づけられないままに残るウィーン。人々は貧しく、飢え、4か国によって分断統治されている。

 夜は街灯も少なく、ガレキの残る広場は暗闇だ。周囲の石造りのアバルトマンの窓から、わずかに明かりが漏れる。磨り減った石畳の微妙な陰影。長く伸びたシルエット。ツィターによる「第三の男」の旋律とともに、人影が浮かび上がる。

  寒々とした「カフェ・モーツアルト」のテーブルには、主人公がおとりとなって、かつての友であり、今は極悪犯ハリー・ライムを待っている。暗闇に潜むイギリス人将校と兵士。

 名監督と言われたキャロル・リードの代表作の一つ。アントン・カラスの演奏する主題曲も大ヒットした。

 何よりも評判を呼んだのは、大舞台俳優オーソン・ウェルズが、悪役(第三の男)として登場していることだ。おかげで、主人公を演じたジョセフ・コットンは、映画評論家からすっかり大根役者扱いされた。

 確かに、オーソン・ウェルズに迫力と凄みがあった。特に、今も観光名所になっているプラーターの大観覧車の中で、友人である主人公を脅す場面。にもかかわらず、どこか愛嬌を感じさせる複雑な微笑みは、なかなかでした。

 しかし、ヒロイン役のアリダ・ヴァリという女優も綺麗で、それに、オーソン・ウェルズを追いつめていくイギリス軍少佐(4か国統治下で、各国の軍がウィーン警察の任務を遂行している)のトレヴァー・ハワードが好きでした。

 私にとってのウィーンは、何と言っても、「第三の男」のウィーン

 今のウィーンは、清潔でオシャレである。治安も良く、西欧でも最も安心して歩ける都市だ。「カフェ・モーツアルト」も、そばに王宮やオペラ座がある最高にリッチな界隈で、ガレキのウィーンは想像できない。

 それでも、オーストリアツアーに参加し、ウィーンでの自由な1日に、初めて「カフェ・モーツアルト」に座って、コーヒーを飲んだときは、感動した。

 「遥けきウィーン」である。

      ( 「CAFE  Mozart」 )

       ★   ★   ★

< 遥けきウィーン・付録 >

 敗戦後、フランスに留学した若き日の加藤周一は、夏、イタリア旅行をし、フィレンツェで出会った旅の娘と恋をした。文通が続き、冬、彼女に逢うために、パリから彼女の故郷であるウィーンへ行く列車に乗る。

 もちろん、SLの時代である。列車はフランスの大地を走り、遥々とスイスを経て、四カ国統治下のウィーンへ向かう。

加藤周一『続 羊の歌』」(岩波新書)の「冬の旅」から。

 「 窓外の風景は、スイスの山々の壮観とは微妙にちがうものになりはじめていた。急な山肌が線路に迫り、雪に蔽われた針葉樹の森や、小川や、橋や、点在する農家が、たちまちあらわれては、たちまち後方に飛び去ってゆく。登山家の山でも、観光客の山でもない、遠い鄙びた山村の面影。私はその風景に魅せられて、眼を閉じることができず、硝子窓に顔をよせていた 」。

 「 英国の占領地域をしばらく走るかと思ううちに、突然列車がとまった。そこには停車場もなく、町もなかった。車掌が回って来て、窓の日除けをおろした。『 両側に自動小銃をもった兵士が並ぶのだ 』と向かいの男が、半ば連れの女に、半ば私に向かって説明するようにいって、しばらくすると、二人の赤軍の兵士が車室に入ってきた。私が赤軍の兵士に出会ったのは、そのときがはじめてである」。

 「 私が旅券をさし出すと、その頁をくって見ていたが、まえの男女に返したようにすぐには返さない。その間、誰も一言もいわずにながい時が経ち、さらにながい時がたった。旅券に不備のあるはずがない、と私は自分にいいきかせていたが、兵士は突然、旅券から眼をあげると、ロシア語で何かいいはじめた。『 国籍を訊いている 』と向かいの男がフランス語で説明した。『 日本人 』と私はフランス語でいったが、通じない。現地の言葉がドイツ語であったことを想い出し、つづけてドイツ語で同じことをくり返したが、旅券を手にした兵士と、その傍に黙って立っていた兵士と、その二人の顔には、全く何の反応もあらわれなかった。フランス人が『 日本人 』とロシア語でいい、兵士はまた旅券の頁をくりはじめた。私はいくらか不安を感じ、しかしそれ以上に事の馬鹿馬鹿しさに苛立ってもきた。旅券は百科事典ではない。そう沢山のことが書いてあるわけではなかろう、と私は思った。3分で解らなければ、3時間かけても解らぬだろう。5分経ち、10分経ち、ついにその兵士は、黙って旅券を私に返し、そのまま車室を出て行った。私はほっとしたが、汗をかいていた」。

 「 列車はヴィーンに近づいていた。そこではひとりの娘のほかに、私は誰も知らない。その国の言葉は私の耳に疎く、風習は予測するのに手がかりがなかった。雪につつまれた野の涯に、やがて一つの都会があらわれるであろうということさえも信じ難いほどであった。異郷、(depaysement)、幾山川、(au bout du monde) …… 私は日本語とフランス語を混ぜて、それらの言葉の全体が示唆する一種の心理的状態をみずから形容しようとしていた」。

          ★

 ( ウィーンのシュテファン寺院付近 )

 雪の野に、列車は突然停車させられる。

 車室の日除けが下ろされ、外では、赤軍兵士が自動小銃をもって列車を囲む。

 そのようにして始まる検査。戦勝国のフランス人はともかく、日本人は、ポツダム宣言受諾直後にソビエット軍の侵攻を受けた。条約を破って一方的に侵攻してきたのはソビエットだが、それでも敵国の民だ。

 それに、すでに冷戦は始まっていた。

 遥けきウィーンである。異郷、幾山川‥‥。

 私のウィーンは、若い日に読んだ加藤周一のウィーンだと、今、思う。

  

  

 

 

 

  

 

 

 

 

 

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