ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

黄金のアウグスブルグと牧場の奇跡 … ロマンチック街道と南ドイツの旅(8)

2020年05月27日 | 西欧旅行…南ドイツの旅

 (車窓から…雨のロマンチック街道)

<アウグスブルグへ>

   午後、アウグスブルグを目指した。

 朝から曇り空だったが、ついに雨模様の天気になった。バスの窓も雨に濡れる。

 「もうすぐドナウ川を越えます」という案内があった。

 一瞬で通り過ぎた。この辺りはまだ大河というには遠く、「ドナウ川」の風格はない。

 それでも、ドナウの水運で開けたドナウヴェルトという中世の町が近くにあるはずだ。

※  この2年後、「ドナウ川の旅」に出かけた。ツアーではなく個人旅行だったからいっそう心に残った。その旅のことはまだブログに書いていない。このブログを始めたのは、もう少し後の2012年である。ただ、その旅を記念して、私のブログのタイトルは「ドナウ川の白い雲」とした。

 ネルトリンゲンから約70キロ。バスは小雨降るアウグスブルグの町に入った。

 田舎の風景が一変し、瀟洒なトラムが走っている。木組みの家はなく、石造りの大きな建物が並ぶ。

 久しぶりに都会にやって来たという感じだ。路面が雨に濡れている。

      ★ 

<皇帝マクシミリアン1世のこと>

 (雨のマクシミリアン大通り)

 マクシミリアン大通りの名は、ハプスブルグ家の皇帝・マクシミリアン1世(在位1493~1519)に由来する。

 若き日のマクシミリアンは「最後の騎士」と称えられる凛々しい青年だったらしい。

 父も長く皇帝位にあったが、実態は尾花打ち枯らした小領主だった。当時、選帝侯たちは、力のない皇帝を好都合と考えていたのだ。

 青年マクシミリアンは、ブルゴーニュ公国の美しい姫と見合いをし、結婚した。ブルゴーニュ公国は、ネーデルランドの商業都市も支配していた豊かな国で、見合いはしたが、両家のあまりの財力差に、一旦話は立ち消えになった。だが、跡継ぎは姫一人だったから、姫の父は、あの凛々しい若者を忘れられなかったのだ。

 お似合いのカップルで、夫婦仲も良かった。二人の間にできた男女の子どもたちは、後にスペイン王家の男女の子どもたちと結婚し、孫はスペイン王としてはカルロス1世、神聖ローマ帝国皇帝としてはカールⅤ世 (在位1519年~1556年)となった。

 皇帝マクシミリアン1世はアウグスブルグが好きで、しばしばこの地を訪れ、帝国議会も開催した。皇帝が来てくれれば町のPRにもなり、商売も繁盛するから、市民たちは大歓迎したのだろう。

      ★

<町の起源はローマに遡る>

 ここまでの旅で立ち寄ったおとぎ話に出てくるような町は、いずれも民族大移動期の混乱が治まりつつあった10世紀頃を起源とする中世都市だった。

 アウグスブルグも同じ時期に再スタートした町であるが、町のそもそもの起源はローマ時代に遡る。

 紀元前1世紀のローマは、ユリウス・カエサルに率いられた軍団がライン川流域をほぼ制圧し、ローマの東の防衛線をライン川とした。しかし、北の防衛線とすべきドナウ川流域は未だ「蛮地」のままだった。

 後を継いだ初代皇帝アウグストゥス(在位BC27~AD14) のBC15年頃、ローマ軍はドナウ川への前進基地として、この地に駐屯地を築いた。

 その後、さらに前進したローマ軍は、AD10~30年頃、かつての駐屯地を後方支援の町として植民した(退役したローマ兵が土地の女性と結婚して住み着く)。町の名は、皇帝アウグストゥスの名に因んでアウグスタ・ウィンデリコルムと名付けられた。ドイツでは2番目に古い町だそうだ。

 もちろん、アウグスタ・ウィンデリコルムは、アルプスを越え、首都ローマに通じるローマの街道網に組み込まれた。

 ちなみに、ドイツの南西部の森に発したドナウ川は、東へと流れていき、レーゲンスブルグ、パッサウ、オーストリアに入ってリンツ、ウィーン、方向を南へ変えつつハンガリーのブタペスト、さらにブルガリアとルーマニアの国境を流れて、黒海に流れ込む。この間の各都市、レーゲンスブルグもウィーンもブタペストも、ローマ帝国の北辺を守るローマ軍団の駐屯地を起源とする。

        ★

<大聖堂(ドーム)に入る>

 私たちがバスで走ってきた「ロマンチック街道」は、アウグスブルグの町の中に入ると、町の真ん中を、北から南へと貫く大路となる。その一部が「マクシミリアン大通り」である。

 もともと、この道は、古代ローマの街道だった。中世から近世に到るアウグスブルグの繁栄は、このローマ時代の街道がもたらしたものである。

 民族大移動の混乱期のあと、アウグスブルグが再び甦ろうとする8世紀には、いち早く司教座が置かれた。ヴュルツブルグと同様、アウグスブルグも司教都市として発展したのだ。 

 アウグスブルグの大聖堂(ドーム)は、町を南北に貫く大通りに沿って、町のやや北の位置に建っている。 

     (大聖堂)

 ローマ時代のアウグスブルグはこのあたりが町の中心で、中央広場があったらしい。

 10世紀にマジャール人の騎馬軍団が侵攻したとき、司教は神聖ローマ帝国の初代皇帝オットー1世と共に町を防衛した。

   大聖堂の前に像がある。真ん中の像は、馬に乗って指揮する司教である。

   (馬上の司教)

 この大聖堂は9~12世紀にかけて建造されたが、その当時のロマネスク様式の部分と、その後、14世紀に改築されたゴシック様式の部分が混じっているそうだ。 

  (身廊)

 写真では狭く見えるが、堂内は堂々たる5廊式で、写真はその身廊部である。この両サイドに2列の列柱が並んで、それぞれに2側廊がある。

 ステンドグラスは、ドイツでは最古のものらしい。

 中世の大聖堂らしい趣があった。

  (ステンドグラス)

      ★

<黄金のアウグスブルグとフッガー家 

 ローテンブルグの項で、木村尚三郎先生の『西欧文明の原像』の一文を引用したが、アウグスブルグの中世も同様である。

 司教の保護と支配を受けながら経済活動をはじめた商人・手工業者たちは、次第に力を持つようになり、司教の支配に抗するようになる。

 そして、13世紀後半に、市民の自治が前進して、遠くの皇帝権力と結びつき、帝国自由都市となった。

 アウグスブルグの全盛期は15~17世紀で、「黄金のアウグスブルグ」と謳われたそうだ。豪商フッガー家やウェルザー家などが登場し、その活動は全ヨーロッパから新大陸にまで及んだ。

 フッガー家の全盛期は、コロンブスが「アメリカを発見」し(1492年)、バスコ・ダ・ガマがインド到達(1498年)した大航海時代と重なっている。

 フッガー家はヴェネツィアとの交易で財を成したあと、その金を元手にローマ教皇庁に食い込んだ。教皇庁を中心に全ヨーロッパに広がる教会組織網は、キリスト教会から集まる献金、所領から集まる税金、免罪符の販売収入など、扱う金は膨大だ。金融業のフッガー家はその金を取り扱い、「フッガーの代理人が、免罪符を売る僧侶にくっついて歩いた」と言われる。

 ハプスブルグ家の皇帝カール5世は、神聖ローマ皇帝の選挙をめぐってフランス王フランソワ1世と激しく競り合った。そのとき、カールは、フッガー家から莫大な金を借りて選帝侯たちを買収した。カール5世に宛てた手紙が残っているそうだ。「私がご用立てしなければ、陛下は皇帝にお成りになれなかったでしょう」。

 一方で、フッガー家は、生活困窮者のための世界最初の住宅団地を造っている。16世紀に建てられたその住宅群は今も健在で、市当局の管理下にあり、家賃は当時のままの1ユーロだそうだ。

 後に、スペイン王室が破産状態になったとき、フッガー家は巨額の貸し付け金が回収不能となって没落した。ただ、不動産が多く残り、家名を維持することはできたそうだ。(以上は、紅山雪夫『ドイツものしり紀行』と、谷克二、武田和彦『ドイツ・バイエルン州』を参考にした)

       ★

<窓から天使が見下ろす市庁舎>

 市庁舎は町の真ん中あたりに位置し、マクシミリアン大通りの通る一画に建っている。

 17世紀の初めに、ルネッサンス様式で建てられた。

     (市庁舎)

 建物の最頂部には、帝国自由都市の象徴である双頭の鷲の紋章が見える。

 手前の泉に立つ彫像は、古代ローマ帝国初代皇帝アウグストスの像である。

 この市庁舎のイベントが、NHK・BSの『世界で一番美しい瞬間(とき)』に取り上げられた。

 市庁舎の下の広場は、12月に入ると、クリスマス市で賑わうのだが、クリスマスの夜、選ばれた町の幼い少女たち数人が、天使に扮して、市庁舎の高い窓に登場する。ファンタジックで、美しい行事である。

       ★

<その後のアウグスブルグ>

 1806年、神聖ローマ帝国は解体し、アウグスブルグもバイエルン王国に編入された。

 ただ、近世以降、アウグスブルグは、ローテンブルグやディンケルスビュールとは異なる歩みをたどる。

 後者は、近世以降に発展が止まり、人口1~2万人のままで、中世風のメルヘンチックな姿を今に残している。

 一方、アウグスブルグは発展を続け、産業革命を経て近代化・工業化が進んだが、そのため第二次世界大戦では、空襲と戦闘によって町の50%が破壊された。

 「ロマンチック街道」と名付けられたヴュルツブルグからフュッセンまでの間で、唯一、旅人を半分ほど現実世界に呼び戻してくれるような町である。

   ★   ★   ★

<牧場の奇跡・ヴィース教会>

 アウグスブルグから南へ80キロほど走った。「ロマンチック街道」もほぼ終わりである。

 フュッセンに着く前、今日の最後の訪問地、世界遺産のヴィース教会に寄った。

 バスは牧歌的な風景に入り、緑のやわらかい起伏が美しい。小雨に濡れた牧場には牛が放牧されている。ヴィースとは、牧草地という意味らしい。 

  (緑の起伏が美しい牧場)

 緑の中に、白亜の小さな教会があった。

  (ヴィース教会)

 以下は、18世紀の奇跡の話である。

 当地の農家の女性が、修道院で埃をかぶっていた「鞭打たれるキリスト」の木像をもらい受け、牧草地の中にあった小さな礼拝堂に安置した。

 ところが、毎朝、木像の頬に水滴があふれ出ていた。鞭打たれたキリストが泣いていらっしゃる。「これは奇跡だ!! 」。噂が広まり、各地から人々が礼拝堂を訪れるようになった。

 これを聞いた修道院長は自らの不明を恥じ、資金を集めて、野中の小さな礼拝堂の代わりに、立派な「巡礼教会」を建てた。

 キリスト教世界では、農業改革で人々に少しゆとりができ始めた12世紀頃から、聖遺物のある教会や奇跡のあった地へ巡礼する人々が増えていった。それは一種の社会現象となり、該当する教会は巡礼者のために立派な聖堂を建て、また、巡礼者の落とす金でさらに立派な聖堂に成長していった。

       ★

 牧場の中の小径をたどり、緑の中にたたずむ教会の中へ入った。入った途端、思わず小さな声が出た。「えーっ!! 何だ、これは!! 」。

 (ヴィース教会の内部)

 ニュールンベルグの「美しの泉」の金ぴかの塔も、ヴュルツブルグの司教が自分のために建てたレジデンツも、その装飾過多や豪華絢爛さに辟易となったが、この教会の内部空間は、まわりの牧歌的な風景に比して、あまりにも違和感がありすぎた。

 美術史上では、後期バロックにロココ調が加味された様式ということらしい。

 正面祭壇の下部に、「鞭打たれるキリスト」の木像が納められているようだが、よくは見えない。

 木彫りのキリストは、名もない修道士が刻んだのだろうか??

 田園にふさわしい素朴なキリストの木像が、「こんな贅を尽くした、けばけばしい祭壇に飾られるのはイヤだ」と、きっと泣いていらっしゃるに違いない、と思った。「ここは私の住まいではない!! あの小さな礼拝堂の素朴な祭壇へ戻してくれ」。

 新約聖書の福音書に描かれたイエスは、そういう青年であると思う。ヨーロッパ人の感性が、時々わからなくなる。

 その夜は、せせらぎの流れるフュッセンのホテルに泊まった。

 

 

 

 

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城壁に囲まれた二つの小さな町 … ロマンチック街道と南ドイツの旅(7)

2020年05月18日 | 西欧旅行…南ドイツの旅

  上の写真は、ディンケルスビュールの城壁の外。ヴェルニッツ川の分流を自然の堀としている。メルヘンチックな景色だった。

       ★

 10月10日。2泊したローテンブルグを、朝、出発した。

 今日は、ロマンチック街道を南へ。畑や、牧場や、森や、村の風景の中を、終点のフュッセンまで走る。 

  (バスの車窓から)

 フュッセンに行く途中、午前中に、ディンケルスビュールとネルドリンゲンに立ち寄った。珠玉のような中世の小さな町だ。

       ★

<交通の要衝の「市」が発展したディンケルスビュール>

 以前、高校時代の友人から、ロマンチック街道を旅行したときの話を聞き、写真を見せてもらった。仕事の関係で知り合ったドイツ人が自家用車で案内してくれたそうだ。

 話を聞きながら、そういう旅をしてみたいものだとあこがれた。のどかなロマンチック街道ならレンタカーを自分で運転できるのでは、という誘惑にかられた。しかし、その頃のドイツ車にはナビがなく、そもそもドイツ語のロードマップを見ながら運転するのは大変だ。もちろん、左ハンドルの右側通行。

 もう少し若ければ …。

 友人曰く、「ローテンブルグは比較的大きな町で、観光客が多く、華やか。それにひきかえ、ディンケルスビュールは小さな町で、公共の交通機関がないから観光客も少なく、何と言ってもローテンブルグ以上に中世の姿が残っていて、私は好きだ」。

 私の今回の旅はツアーだから、ディンケルスビュールも、ネルトリンゲンも、過ごす時間は1時間足らずだ。それでも、ローテンブルグに立ち寄った後、アウトバーンをフュッセンまでぶっ飛ばすツアーと比べたら、随分マシなのである。

       ★

 ディンケルスビュールの城壁の外のパーキングでバスを降り、ローテンブルグ門から城壁の中へ入っていった。

   (ローテンブルグ門)

 城門の壁に紋章がある。こういう紋章のデザインにも、中世ヨーロッパを感じる。

 上の写真の紋章の右側は帝国自由都市を示す双頭の鷲。左は市の紋章で、この地方の豊かな穀物の実りを表す3本の小麦の絵柄だ。鷲と比べると、いかにも素朴な紋章である。

  (左右が市の紋章)

 紅山雪夫さんの『ドイツものしり紀行』(新潮文庫)によると、町の周囲を城壁で囲むディンケルスビュールには、東西南北に4つの塔門がある。

   今入ってきた北のローテンブルグ門は、ローテンブルグへ通じる門だ。その街道をさらに北へ北へとどんどん進めば、バルト海に達する。

 反対側のネルトリンゲン門を出れば、このあと訪れるネルトリンゲン、その先にアウグスブルグがある。さらに進めば、オーストリアのインスブルックを経て、ブレンナー峠でアルプス越えし、イタリアに入る。「全ての道はローマに通じる」。古代ローマ時代からの街道だ。

 西の門を西へ進めば水運の盛んなライン川に到り、東の門を出て東に進めば、チェコのプラハを経て、ポーランドのクラクフに到るという。

 ディンケルスビュールはこういう交通の要衝に位置し、10世紀頃に市場町として町が形成されていったらしい。

 13世紀に第一次城壁が築かれ、14世紀に町の規模が大きくなって、現在の城壁に囲まれた町になった。 

       ★ 

 (ドイッチェス・ハウス)

 写真はディンケルスビュールの中心部で、左から2軒目の赤い花を飾る家は「ドイッチェス・ハウス(ドイツ館)」と呼ばれる。

 15世紀に建てられたドイツでも指折りの豪華な木組みの家。もとは豪商の館だったが、今はホテル・レストランとして使われている。

 紅山雪夫さんは、「建物は国宝級なのに、料理の値段はごく普通なのがうれしい」と書いている。

 ドイツの木組みの家と日本の木造家屋との根本的な違いは、日本の家屋が柱と梁によって支えられているのに対し、ドイツの家屋は壁で支えられている点だ。だから、日本家屋は各階を貫く柱が通っているが、ドイツの木組みの家は上へ上へと箱を積み重ねた構造らしい。地震が少ないドイツでは、積み重ねるだけで大丈夫なのだそうだ。良く見ると、1階の柱と2階の柱はつながっていない。

 通りを挟んで、ドイッチェス・ハウスの前には聖ゲオルグ教会がある。

 各自、自由に、中世にタイムスプリットしたような街の中を歩いて、再びバスに戻った。

 30年戦争でも、第二次世界大戦でも被害を受けなかった町は、アウトバーンからも鉄道からも外れて、今は静かに眠っているようだ。

 軒を連ねる店にも、客は少なかった。そういう1軒のショーウィンドウで、青銅製の読書する小さな少女像を見つけて、衝動買いした。帰国後、妹にプレゼントしたが、気に入っているようだ。

 (城門の橋を渡る)

 門を出て、堀に架かる橋を渡り、パーキングの方へ行くと、冒頭の写真のような景色がある。

 友人も同じような写真を撮っていた。川(堀)と、木々と、城壁と、赤い屋根の塔 … この雰囲気がこの町を印象づけている。

    ★   ★   ★

<隕石の衝突でできた盆地の中の町・ネルトリンゲン>

 ネルトリンゲンはディンケルスビュールから近い。30キロほど南へ走った位置にある。

 1500万年も前の話だが、巨大な隕石が激突して、直径25キロのくぼ地をつくった。そのくぼ地は今はリース盆地と呼ばれるが、隕石によってできた痕がこれほどはっきりしている地形は世界でも珍しいそうだ。

 リース盆地は豊かな緑に覆われ、ネルトリンゲンの町はその中にある。

 紀元1~2世紀、ローマ帝国は、アルプスの麓の森に発して南から北へ流れるライン川を東の防衛線とし、東から西へ流れるドナウ川を北の防衛線とした。

 だが、両河の上流部の深い森は、ゲルマン民族の得意とするゲリラ戦に向いている。

 そこで、ライン川とドナウ川とを斜めに結ぶ長い城壁を築いた。リーメスと呼ばれる。

 リーメスには要所に監視所や砦を築いた。その後方に縦横に道路を巡らせ、監視バックアップ用の軍の分屯所を置いた。さらにその後方には、幾つもの分屯所を援護する軍団基地を築いた。ローマの生命線は、軍団が迅速に移動できる道路網だった。

 ネルトリンゲンの町は、そういうローマ軍の分屯所が起源ではないかと考えられている。ローマ兵が1個中隊もいれば、彼らは規則どおりに周囲を堀と防壁で囲む。そこから道路は四方に通じているから、商人たちがやって来て町になる。

 しかし、3世紀の半ばにはゲルマン系のアレマン族に侵入され、ローマ軍は後方のドナウ川まで押し戻されていたらしい。

 バスを降り、ネギ坊主型の屋根のついた塔門をくぐって、町に入った。 

 

 (町のメイン通りに通じる門)

 西ローマ帝国が崩壊し、既にフランク王国の時代になった10世紀頃から、ネルトリンゲンはディンケルスビュール同様、街道上の市場町として再び頭角を現してきたらしい。

 13世紀に帝国自由都市となり、その頃には、第1次城壁が築かれた。

 町は拡張して、14世紀には全長3キロの壁で囲まれた現在の町になる。

       ★

 マルクト広場があり、市庁舎があり、聖ゲオルク教会が建つ。教会にはダニエルの塔と呼ばれる高さ90mの塔がある。

 短い自由見学時間は、この塔に上ると決めていた。

 入場料を払って、塔の中に入り、350段の階段を上がった。

 螺旋階段ではなく、直線的に上がって20段ぐらいで折り返すしっかりした石の階段だったから、汗をかいたが安心して上れた。

 螺旋階段は、ステップの中心側の幅が狭くなって怖い。上りの人と下りの人がすれ違わねばならないような場合は、高度恐怖症気味の私は知らず知らずに緊張する。すると、翌日は筋肉痛になる。過去にフィレンツェのドゥオーモの塔で経験して以来、そういう階段は上がらないことにしている。

 塔上には夜警の小さな部屋があり、部屋を出ると展望が広がって、そよ風が吹いていた。

 (ネルトリンゲンの家並み)

 赤い家並のはずれの位置に、さっきくぐった城門の塔が聳えている。その先には、ローカルな鉄道が通っているのが見える。この町には、本数は少ないが、列車がやってくるのだ。

 (リース盆地)

 家並みのはずれの赤い線は、城壁の屋根だ。城壁の向こうにも少し家並みがあり、その向こうは緑のリース盆地である。

 真下を見ると、小さな町の小さな広場で市が開かれている。

 (小さな町の市民の市)

 塔上には、今でも毎晩、夜警が階段を上がってきて、勤務する。

 谷克二、武田和彦『ドイツ・バイエルン州』(旅名人ブックス)によると、夜警は夜の10時から12時まで30分ごとに、下方の家並みに向かって、「ゾー・ゲゼル・ゾー」と叫ぶそうだ。

 だが、中世の方言らしく、もう誰にも意味が分からない。たぶん、「火の用心」という意味だろうという。

 この町に1泊して、塔から降ってくるその声を聞いてみたいものだ。

 

 

 

 

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ロマンチック街道の出発点ヴュルツブルグ … ロマンチック街道と南ドイツの旅(6)

2020年05月11日 | 西欧旅行…南ドイツの旅

 (マリエンベルク要塞─バスの車窓から)

<隣のレジは、早い> 

 「延立寺は …… 門前に …… 『隣のレジは、早い』と書いて評判を呼んだ。自分の並ぶレジは回転が遅いと思いがちだが、そうして心を乱すことを戒めている。…… お隣の韓国や中国、台湾は一足先に事態を落ち着かせた。日本のレジは遅いが、スマホの個人情報も供出させず、強権的な都市封鎖もとらず、重症者の手当てに集中して収束を目指している。延立寺はこの2か月、『大丈夫』の3文字を貼っている」(讀賣新聞5/2夕刊「よみうり寸評」から)。

   韓国や台湾では、感染すると、当局にスマホやカードを差し出さねばならない。監視カメラも総動員して人との接触を調べられ、行動が丸裸にされる。

 中国は、感染しようとしまいと、全て習近平をトップとした監視社会だ。個人情報が守られるのはただ一人。ナンバー2でも、誰と、いつ、どこで会ったか、いつでも調べることができる。こうなると、謀反はムリだ。

 韓国社会も、そうならないよう気を付けた方が良い。あの政権の、あの時が第一歩だったと、後悔したときにはもう遅い。

 さて、武漢からの第1撃に対し、日本は何とかしのいだ。

 SarsやMersのときは対岸の火事だった割りには、ここまでまずまずの出来だった。

 あのダイヤモンド・プリンセス号の船内の処置も、「NHKスペシャル 調査報告─クルーズ船 … 」を見ると、思っていたとおりだった。

 当時、多くのマスコミは、国(厚生省)の対応に問題があって、船内で感染がどんどん広がっているように報道した。マスコミの報道ぶりは尋常ではなく、人々の不安を煽った。だが、船内に感染が広がったのは、横浜入港前だった。

 船長は、香港で下船した客が感染者であったという連絡を受けていた。にもかかわらず、横浜港入港まで何の対策も取らず、毎日の3回の食事はレストランでビュッフェ形式のままだったし、毎晩のようにダンスパーティやショーが開かれ、巨大な屋形船、或いは、ライブハウス状態になっていた。

 横浜入港後、厚生省が入って、初めて乗客は各自の船室に隔離された。だが、このとき、既に多くの人が感染していたのだ。そして、14日間の繋留中に次々と発症していったのである。感染と発症の間に潜伏期間があり、14日間は国内にウイルスを持ち込ませないために必要な措置だった。

 横浜港繋留後、遅れて、新たに感染・発症したのは乗務員だった。彼らは、厚生省から支給された貴重な防護用のマスクや手袋をきちんと着用せず、互いに感染させ合ったのだ。

 クルーズ船の乗客・乗員合わせて約3700人。うち感染者は約700人。感染者に対する死亡率は1%台。乗客の多くが中高齢者だったにもかかわらず、この死亡率は、その後の日本や韓国、その他のどの国と比べても、群を抜いて低い。疑い深い人がPCR検査が足りなかったというなら、死亡率はもっと低くなる。

 外国人はそれぞれの国へ帰し、日本人の感染者は収容された病院で、一人一人が陰性になったことが見届けられた。文字通り水際でくい止められ、クルーズ船からの国内への感染はゼロだった。

 あのとき騒ぎ立てたマスコミ、「有識者」、コメンテイターたちは、何も反省せず、今も不信感を煽り続けている。

 ただ、クルーズ船の取り組みでわかったことがある。新型コロナウイルスが、どこで、どのように感染し、どのように重症化させるか、そのイヤらしい性質が、初めてわかってきたのだ。一方で、PCR検査能力が足りず、病院のベッド数がすぐに満杯になってしまうこともわかった。

 そこへ、思いがけずもヨーロッパから第2撃がきた。この第2撃にうまく対処できなかった。なぜ?? ヒトやモノが不足しているのだ。

 古今のいかなる戦いも、戦場に着くまでは「補給」が、戦場に着いてからは「指揮官」が勝負を決める

 今、日本が苦戦しているのは、病院、医療者、ベッド数、集中治療室やエクモの数、保健所の能力、PCR検査能力、そして、日本版CDCや法律(ロックダウン法)など、危機への「備え」や「補給」が足りず、当初からやりくりを強いられているのだ。

 太平洋戦争の戦況が深まる中、日本は空母を失い、ゼロ戦を消耗していき、何よりも百戦錬磨のパイロットを失って、最後は戦争における「医療崩壊」状態だった。必要なヒト、モノがなければ、戦いにならない。

 しかし、それでも、今回、「補給」が十分だと報じられたドイツよりも、CDCという強大な組織を持ち、かつ、第1撃を免れて日本より準備期間が長かったアメリカよりも、もっと遥かに準備期間が長かったロシアよりも、日本はずっとうまくやっている。死者数の桁が違う。

 ドイツは、PCR検査も、集中治療室も、エクモも充実していると報じられたが、7000人を超える死者を出している。一体、あの医療施設や機器は何に使われたのだろう??

 スウェーデンは明らかに戦い方を間違えた。英国は途中から戦術を変えたが、既に時遅く、多大の被害を出している。イタリアやスペインやベルギーなどの状況は言うまでもない。

 ヨーロッパには、日本などよりもずっと中国資本が進出していて、春節ともなれば大変な数の中国人が押し寄せる。イタリア北部はその代表的な地だ。EUの中国への警戒感は薄い。日本もアメリカも、ヨーロッパ経由のウイルスに苦しめられている。

 ともあれ、わが国は、相対的にはうまくやってきた。不満を探せば、キリがない。

 ただし、今は、感染者数の「オーバーシュート」も心配だが、倒産件数の「オーバーシュート」も心配である。

 倒産件数が、じりじりと増えている。経済の専門家によると、その右肩上がりのグラフが、ある日、突然、オーバーシュートする。倒産件数が爆発的に増え、「何であんな優良企業が!!」 というような倒産が続く。日本経済が崩壊する。

 テレビのコメンテイターは「経済より、命が大切」などと言う。それは恵まれている人のセリフだ。仕事がなくなった人に、どのように命をつないでいけと言うのだろう。

 そうならないよう、2つの相反するオーバーシュートのグラフを見ながら、収束へ向けてきわどいかじ取りをする。今、日本が直面しているのは、そういう微妙な事態である。

 危機になると、マッチョなことを言い、或いは、大盤振る舞いを主張するポピュリスム(大衆迎合)が台頭しやすい。こういうとき、声の大きいヤツには、注意が必要だ。耳を貸すなら、静かに話す人に。

       ★

<「医療のゆとり」の難しさ>

   平時において、国民皆保険の下、私たちは安価で、しかも、かなり良質の医療を享受してきた。しかし、それはムダを削り、徹底的に合理化した結果であって、非常時に対処する「ゆとり」はない。今回、そういうことがよくわかった。

 明治維新は列強が迫っているという「非常時」の意識によって生まれ、近代化を急いだ。ある時期からはそういう意識が強くなりすぎて、進路を誤ったと言えるかもしれない。

 戦後は、70年間、日本人の頭の中に「非常時」という言葉はなかった。「人に迷惑かけなければ、どう生きようと私の勝手でしょ」という生き方だ。政治家の中に、「非常時」について考えた人もいたが、それを受けとめる空気はなかった。

 仮に、突然、どこかの国が攻めてきたら、自衛隊は第1撃を果敢に防ぐだろう。しかし、第2戦は ── 第1戦で弾を撃ち尽くしていて、防ぎきれず、悲惨な「医療崩壊」に陥る。GDP1%の軍事費では、第2撃を防ぎきれない。

 感染症についても、同じである。

 コロナ収束後、私たちは、医師や検査技師やベッドや高度の医療機器や保健所にゆとりをもたせるため、健康保険料を2倍にするのだろうか、或いは、ドイツ並みに消費税を20%超にするのだろうか?? 国民一人当たりの労働生産性も、ドイツ並みに上げなければならない。

 近年、感染症は日本海を飛び越えて、畜産農家に打撃を与えてきた。だが ── 私たちは先に、獣医師会の既得権益の強固さを目の当たりにした。

 今回のコロナの経験の後でも、日本医師会がやすやすと医師の数を増やすことに同意するとは思えない。それに対して、あえて体を張る首相が、この後に出てくるとも思えない。

 それでは、このままでいくのか??

   いずれにしろ、この世のことは、善か悪かの単純な二元論では決まらない。

 よりマシな解決法を求めていくしかない。

    ★   ★   ★

<ロマンチック街道の出発点ヴュルツブルグ>

   南ドイツを北から南へ走る「ロマンチック街道」 ── その北の起点が、人口約13万人のヴュルツブルグだ。南のゴールはドイツアルプスの麓の町フュッセンで、山の向こう側はオーストリアである。

 だから、「ロマンチック街道」をバスで走るこの旅も、本当は起点のヴュルツブルグからスタートしたら、気分はさらに盛り上がるところだ。

        ★

<「司教領主」の町ビュルツブルグ>

 ビュルツブルグの旧市街の西側に沿って、マイン川が流れている。川に架かるアルテ・マイン橋を渡れば丘があり、丘にマリエンベルク要塞がある。要塞の存在感は圧倒的で、まるで眼下の町を威圧するかのようだ(冒頭の写真)。

 この城塞の城主、言い換えれば、ヴュルツブルグを含むこのあたりの領主に当たる人は、… なんと!! カソリックの司教さまだった。

   西ローマ帝国が滅亡(476年)する前から、本格的な民族移動の混乱の時代に入っていた。このあたりにはゲルマン民族の一部族、フランク族が入ってきた。

 その後、ゲルマン諸族を平定して、フランク王国ができる。

 800年には、フランク王国のカール1世が、教皇から西ローマ皇帝の帝冠を受けた。

 その少し前だが、ローマはヴュルツブルグに司教座を置いた。

 小さな町であったヴュルツブルグにはこれというリーダーがいなかったから、もめ事を裁いたり、必要な税を集めたり、町の防衛の音頭を取ったりしたのは司教さまだった。こうして、司教の元に行政組織がつくられていった。

 そして、またもや赤ひげ皇帝フリードリヒ1世が登場する。彼は、ビュルツブルグで結婚式を挙げ、さらに1168年、ヴュルツブルグにおいて帝国議会を開催した。そして、実質的なこの地方の行政者であった司教を「司教領主」とし、フランケン公の称号を与えたのだ。

 こうして、バイエルン王国に併合されるまで、司教さまが君臨する町になった。

      ★

<マルクト広場へ>

 バスを降り、マイン川を渡って、ヴュルツブルグの町に入る。

 マイン川は、ドイツの東部から流れてきて、フランケン地方を通り、フランクフルトを経てライン川に合流する。

 マイン川に架かる橋の名はアルテ・マイン橋。アルテは確か古いという意味だから、マイン川の古い橋ということか。橋の欄干には12体の聖人像が立っていた。

 この橋はマリエンベルグ要塞とマルクト広場とを結ぶ橋だから、多くの観光客が行き来している。

   (アルテ・マイン橋)

 橋を渡ると、すぐにマルクト広場に出た。広場の周りに、市庁舎や大聖堂が建つ。

 大聖堂をさらに進めば、この町の第一の観光スポットである、世界遺産のレジデンツに到る。

 だから、要塞からレジデンツのわずかな距離の間に、ヴュルツブルグの観光の粋が集まっている。

 街路にはレストランのテラス席が並んで、観光客がビールやワインを飲みながら、食事をしていた。

  (テラス席)

 我々もその中の1軒に入って、昼食を取った。

 ちなみにヴュルツブルグは、みずみずしい白ワイン、フランケンワインの本場である。少し甘みがあって、ひと口目は美味だが、私のような酒飲みには飽きがくる。 

 聖キリアン大聖堂のファーサードには、青い尖がり帽子のついた鉛筆のような2つの塔がある。

  (大聖堂)

 パリのサン・ジェルマン・デ・プレ教会と似ていて、11、12世紀の古いロマネスク様式だが、第二次世界大戦後に再建された建物である。

 例によって、中には入らなかった。

       ★

<レジデンツを見学する>

 歴代の大司教は、13世紀からマリエンベルク要塞を居城とした。

 だが、要塞は、堅固ではあっても不便なことこの上ない。ついに、丘を下りることにしたのは、18世紀になってからである。

 街の真ん中に絢爛豪華なレジデンツ(宮殿)が建てられた。バラの花が美しい庭園も造られる。そして、1720年から住まわれるようになる。

 ドイツ・バロック様式を代表する建造物である。

  (レジデンツ)

 中に入って見学した。

 大理石の大階段や、天井画があり、豪華な部屋の装飾は金ぴかのロココ調だった。

 世界遺産ということで、ヴュルツブルグで唯一、このツアーの見学場所として選ばれたのだが、ニュールンベルグの泉の塔と同様、多分、日本人の多くはあまり感動しないだろう。そんなことを思いながら説明を聞いた。美にはさまざまあり、好みもあるが、絢爛豪華さを競うだけのものなら、ヴェルサイユ宮殿を見てしまうと、もうそれ以上のものはない。

 (20世紀に建て替えられたとはいえ)、12世紀のロマネスク様式のあの大聖堂のような装飾過多ではない素朴さに、私たちは親しみを感じる。

 外に出ると、レジデンツ前の広場を、女の子がスケートに乗って、というか、石畳みの道を押して、下校していた。服装といい、背負ったバッグといい、自由で良い。

(ヴュルツブルグの小学生)

       ★

<魔女裁判が行われた町>

 魔女裁判などというものは暗黒の中世のことだと思っていたが、そうではないらしい。

 西洋史ではふつう、西ローマ帝国が滅亡した476年から、コンスタンティノープルが陥落し東ローマ帝国(ビザンチン帝国)が滅亡する1543年までを中世とする。

 中世においては、教皇をトップとするカソリックが、組織的に「異端裁判」を行った。ショーン・コネリー主演で映画化された『薔薇の名前』にも出てくる。

 しかし、「魔女裁判」は、もっとローカルなレベルで行われた。

 魔女裁判が最も多発したのは16世紀から17世紀にかけてで、既に近世に入っていた。ある地方においてカソリックの司教が主導したケースもあるが、異端裁判のように教皇を中心とした組織的なものではなく、また、プロテスタントの支配的な地域でも同様に起こっている。

 研究者によると、ヨーロッパ各地で行われた魔女裁判で、推定4万人から6万人の人々が残虐な拷問を受け「魔女」として火あぶりにされた。

 ヴュルツブルグでは、1582年にヴュルツブルグ大学が創設されている(その大学の出身者にシーボルトがいる)が、そのような町でも、1626年から1630年の間に激しい魔女狩りが行われた。

 この間に、司教区全体では900人以上、ヴュルツブルグ市だけで200人もの人が、拷問の末に火刑にされた。

 「魔女」という言葉は必ずしも適切な日本語訳ではないようだ。「悪魔」に魂を売ったとされて、男性もたくさん処刑されている。魔女裁判に批判的だった市の有力者や有識者までが、「魔女」として処刑された。

 なぜこのような嵐が、ヨーロッパの各地に起こったのだろうか??

 昨年、高橋義人先生(京都大学名誉教授)の講演を聴いた。

 魔女をめぐるヨーロッパ人の意識の古層の話だった。

 ローマ以前、ヨーロッパ各地にケルト人が住んでいた。彼らの多くはローマ化したが、英国の一部とか、スペインのガルシアとか、アイルランドに、その文化や宗教的なものが残った。日本に永住したラフカディオ・ハーンも、そういう一人だった。彼は多神教的な日本に安住の地を見出したのだ。

 時代が下って、ローマの支配地にゲルマン民族が入ってきたが、彼らもキリスト教化される前、彼らの宗教や文化・習俗をもっていた。

 キリスト教が汎ヨーロッパ的に広がったと思われる中世において、都市には司教がいたが、農村部の教会の司祭の教養レベルや神学理解は必ずしも高くはなく、一般の農民は文字を読めなかった。そういう農民たちの意識の中には、もやっとしたキリスト教理解と同時に、ケルト的なものや、ゲルマン的な教えや文化が混じり合って残った。

 例えば、ハロウィンは今も残る非キリスト教的な祭りである。冬の悪霊を追い出し、母なる大地(地母神信仰)に春を迎えようとする行事だ。冬の悪霊に打ち勝つために自分たちも奇怪な面をかぶった。(日本のナマハゲや節分なども同じような行事だ)。

 このような祭りは、一神教のキリスト教から見れば、忌むべき異教的習俗である。ゲルマン民族の集落に布教に入った初期キリスト教の司祭は、これらを「悪魔信仰」として否定した。彼らは初めて「悪魔」という言葉を知った。

 ちなみに、悪霊と悪魔は違う。将門の悪霊も、道真の悪霊も、人々の祈りによって「善霊」に変わった。悪魔は、絶対悪だ。

 キリスト教は年月を経て農民の中に浸透していったが、土着的な信仰や文化の一部はキリスト教化しつつ残り(サンタクロースの話)、また、ハロウィンのように異教的なまま残った。

 たとえ表面上は消えてしまっても、農民たちの意識の底には、キリスト教信仰とまじりあいながら、土着的なものが残っていったというのである。

 だが、この説明では、人々の意識の古層にある「魔女」という存在は何となく説明できるが、近世になって、なぜそのように激しい「魔女狩り」がヨーロッパ各地に起きたのかという理由は、わからない。

 魔女狩りとは何であったのか?? まだまだ十分に解明はされていないようである。

 ただ、広い意味での「魔女狩り」は古代からあり、現代にもある。ヨーロッパではユダヤ人が、アメリカでは黒人がその対象となったことは、広く知られている。

 近世において、「魔女」の多くは、隣人、知人の密告、告発から始まったらしい。そして、魔女裁判を行う側には、自分たちは「神の側」「正義」という思い込みがあった。

 現代日本社会において、匿名をもって批判・非難・攻撃するネットの世界は、まさに「魔女狩り」の土壌である。「密告」とか「告発」に相当するのは、週刊誌の新聞広告や電車の吊り看板だろう。それに火をつけるのは、テレビのワイドショー。

 私は箒に乗って空を飛ぶおばあさんが好きである。

 多くの場合、叩く側にデモーニッシュなものを感じる。

                         ★

<その後のヴュルツブルグ>

 1945年、英空軍による17分間の爆撃で、ヴュルツブルグの5000人以上が犠牲となり、町の中心部の90%近くが破壊された。

 しかし、この町の住民たちも、焼け跡の中から立ち上がり、窮乏の中、自分たちの居住区や大聖堂を、破壊前と同じように再建した。

       ★

 バスは、ヴュルツブルグから、日の傾いた「ロマンチック街道」を、今夜の宿のローテンブルグへと走った。

 明日は、ローテンブルグから終点のフュッセンまで走る。

 

 

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カール4世とニュールンベルグ … ロマンチック街道と南ドイツの旅(5)

2020年05月02日 | 西欧旅行…南ドイツの旅

 (ペグニッツ川に架かるムゼウム橋から)

 今回のブログのニュールンベルグに関す記述は、谷克二、武田和秀著『ドイツ・バイエルン州 ─ 中世に開花した南ドイツの都市物語 ─ 』(旅名人ブックス)の中の「ニュールンベルグ」の章が大変詳しく、参考にさせていただきました。お礼を申し上げます。

    ★   ★   ★

<町の起こり>

 この日(2009、10、9)はローテンブルグに滞在して、バスでニュールンベルグとヴュルツブルグを観光した。

 ニュールンベルグの今の人口は50万人強。南ドイツ(バイエルン州)ではミュンヘンに次ぐ第2の都市である。

 南ドイツを東西に走る「古城街道」の東の起点で、さらに東へ、国境を越えて街道を進めば、チェコの首都プラハに到る。

 地理的には、東方貿易によって栄えた海洋都市国家ヴェネツィアと西欧とを結ぶ交易路に位置していた。神聖ローマ帝国の皇帝たちが300回もこの町にやって来たのも、東方貿易による富が運ばれてきていたからだ。

 1050年ごろ、現在の町の北の丘に、通商路を守るため小さな城と望楼が築かれた。

 城ができると安全が担保される。商工業者が次々とやって来て住み着き、城の丘から南の方向へ扇状に町は広がっていった。

 そして、1180年、ローテンブルグと同様に、赤ひげ皇帝・フリードリヒ1世が城塞を拡張・完成させた。

 神聖ローマ帝国の皇帝は、(自領を持つ有力領主であったが)、首都を置かなかった。臣下や従者を引き連れて帝国内を移動し、行く先々で議会を開いたり、争いの裁定をしたりしながら、この世俗世界を治めたのである。子分を引き連れ、肩で風切って町を歩く親分に似ていなくもない。

       ★

<ペグニッツ川を経て中央広場へ>

 北から南へと発展したニュールンベルグの町の真ん中を、東から西へペグニッツ川が流れている。

 我々はバスを降りて、町の南の大きな城門をくぐり、北へ向かってぶらぶらと歩いて行った。

 町は全長約5キロに渡る、高くて頑丈な城壁で囲まれ、いくつかの城門が聳えている。

 冒頭の写真は、町の中央部を流れるペグニッツ川に架かる橋からの光景である。写真スポットで、誰でも絵葉書のような写真が撮れるのだそうだ。

 橋を渡ると、中央広場=ハウプト・マルクトに出る。

 中近世には、この広場で、エジプトや中東、シルクロード、インド、遠くは中国からヴェネツィアを経て運ばれてきた商品が、高価な値段で取引された。

 今は、市民のための食料市場である。

 下の写真の左端に見えている大きな建物は、皇帝カール4世が建てた聖母教会だ。

  (中央広場=ハウプト・マルクト)

 広場のテントの下には、みずみずしい野菜や果物や花が並んで、色鮮やかだ。

       ★

<仕掛け時計とカール4世のこと>

 広場の一角にある聖母教会のファーサードには仕掛け時計があり、定時になると皇帝カール4世の人形が7人の選帝侯とともに現れる。

 

 (聖母教会の仕掛け時計)

 この年の1月に、冬のプラハに行った。街路の隅には雪の塊が残っていて、覚悟していたとおり寒かったが、「百塔のプラハ」と言われるにふさわしい中世的な美しい町だった。

 カールは、チェコ語ではカレル。ボヘミア(現在のチェコ)の王家に生まれた。皇太子時代に聖ヴィート大聖堂を建てた。この大聖堂の壊れたステンドグラスの一画は、チェコの画家ミュシャ(1860~1939)による補修で、実に美しい。

 カールはボヘミア王になると(在位1346~1378)、プラハ大学を創設した。アルプスより北、ライン川より東にできた最初の大学である。プラハの旧市街から王宮へ向かうとき、ヴルタヴァ川を渡る。そこに架けられた美しい橋は、この皇帝の名を冠して「カレル橋」と呼ばれる。

 1355年に、神聖ローマ帝国の皇帝カール4世となった。戦いよりも文人皇帝の誉れが高い。今でもチェコでは国民から最も崇敬を受ける「偉人」である。

 そのカール4世とニュールンベルグの関係は、今回、調べるまで知らなかった。

 歴史上、カール4世と言えば、金印勅書を公布した皇帝である。

 その場所が、ここ、ニュールンベルグだった。

 勅書の趣旨は、以後、皇帝は世襲の7選帝侯の選挙によって選ばれるとしたことだ。さらに、選ばれた皇帝は、第1回の帝国議会をニュールンベルグで開催することとなっていた。ということで、歴代皇帝のこの町の訪問は、通算すると300回にも及ぶらしい。

 この仕掛け時計のある聖母教会も、カール4世が建てさせた教会である。

 そういうわけで、この町にとって、カール4世は非常に縁の深い皇帝なのだ。

       ★

<美しの泉の金の塔>

 広場には泉がある。

 「美しの泉」と呼ばれ、八角形の水盤があり、高さ19mの金ぴかの塔が建っている。14世紀に造られた塔で、4段になり、40もの浮彫の像や文様で飾り立てられている。

  (美しの泉の塔)

 ニュールンベルグの富の象徴でもあるが、日本人の感覚ではいささか成金趣味と思える。秀吉も金の茶室を造らせたが、金の茶室は豪華であっても、もう少しシンプルでシックなものだったに違いない。

 ただし、秀吉の茶の師匠の利休は、そういう秀吉の趣味をきらった。定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけれ」や世阿弥の「秘すれば花」という美意識は、現代の日本人の感性の中に息づいている。

 塔を囲う鉄格子に小さな金の輪がはめ込まれている。添乗員によると、その輪を3回回しながら願い事を唱えれば、願いが成就するという。なぜ輪がそこにあるのかというちょっとした悲恋物語も説明された。金の輪の前には欧米の観光客の列ができていて、そこに日本人の観光客も並ぶ。何百年も人々に触られた金の輪は、ピカピカに光っていた。

 触って願いを唱えれば願いが成就するという類いの話は、ヨーロッパを観光していると、あちこちにある。一神教の世界も、相当に迷信好きなのだ。

       ★

<強固な城壁を巡らせた町>

 ニュールンベルグは皇帝たちが300回も訪れ、帝国議会も開かれた。皇帝が訪れたときの居城は、丘の上のカイザー・ブルグだ。

 皇帝が不在のとき、城の管理は町に委ねられた。町が自由に使って良いとされたのだ。

 丘を登り、城塞の門をくぐって城門の中に入り、城内の説明を受けたが、これというほどのものはなかった。城は洋の東西を問わず、あっけらかんとしている。

  (城塞の門)

 ただ、深さ60mという井戸はすごかつた。ガイドが水を落とすと、数秒もたってから音がする。敵に包囲されたとき、この井戸の水は、命の水だった。

 城塞の丘からの眺望は良かった。

    (城塞から)

 もう一度、バスの駐車場へと町の西側を、南へ向かって散策しながら歩いた。

   屋根の下に、箒(モップ??)にまたがって空を飛ぶ魔女がいた。面白い!!

  (空を飛ぶ魔女)

 出窓は富の象徴として、裕福な家で造られたそうだ。

    (出窓は富の象徴)

 外から見ると、出窓というより、飾り立てられたカプセルに見える。

 だが、室内の出窓のあたりは、やわらかい日差しが差し込む心地よい空間で、主人が読書したり、瞑想したり、娘がまだ見ぬ貴公子を夢見たりしたのかも知れない。

 市民たちの富は、町を囲う城壁にも注ぎ込まれた。税を納め、一旦急あれば、自ら町の防衛に当たるのが「市民」である。

 領主(貴族)連合の7千の軍勢の攻撃を受けたことが2度もあるが、市民たちは撃退した。

 17世紀の前半の、ドイツ全土を荒廃させた30年戦争のときも、ニュールンベルグは戦禍の外にあった。

 富を惜しまず、頑丈な城壁を築いてきたお陰である。

 しかし、19世紀初め、ナポレオン戦争の後、ローテンブルグ同様に、ニュールンベルグもバイエルン王国に併合され、都市国家の時代は終わった。

       ★

<その後のニュールンベルグ … 廃墟の中から>

 第二次世界大戦のとき、ニュールンベルグは連合軍の絨毯爆撃によって町の9割が破壊された。ナチス党がこの町で第1回党大会を開催したから、見せしめにされたのである。

 「ニュールンベルグ裁判」も行われ、「東京裁判」へと続いた。

 破壊されたのはニュールンベルグだけではない。ドイツの多くの都市が、旧市街の6割とか、7割とかを破壊されている。ドイツを旅していると、行く先々でそういう話を聞く。

 驚くのは、そういう廃墟の中から、市民たち(「おかみ」ではない)が、いち早く立ち上がり、街並みを復元させていったことだ。ニュールンベルグにおいても、周囲5キロの城壁の中は中世の街並みを取り戻した。

 フランスは第二次大戦のとき、ドイツによって防衛線が粉砕されたあと、侵攻してきたドイツ軍にあっさり降伏した。その後、連合軍が上陸して、ドイツ軍との戦闘もあったが、幸いにもパリは燃えず、地方の都市も大規模な破壊には至らなかった。

※ ヨーロッパでは、第一次世界大戦(日本はほとんど参戦していない)における若者の戦死傷者のあまりの多さと悲惨さに深い反省があった。だから、ヨーロッパにおける第二次世界大戦の戦死傷者は、第一次世界大戦の約10分の1である。フランスの早い降伏には、そういう事情もある。

 一方、ドイツは最後まで降伏せず、首都ベルリンまで攻め込まれ、市街戦を演じ、最後はヒトラーの自殺で終焉を迎えた。その結果、各都市は壊滅し、「国家」そのものも崩壊して、国土の東半分をソ連、西半分を米、英、仏によって分割統治された。

 国土が焦土と化したのは日本も同じである。

 だが、ドイツでは、市民が、壊滅した市街 ── 15世紀、16世紀、17世紀の街並み ── を、記憶を呼び起こし、残された写真を見ながら、大聖堂などの歴史的文化財に至っては可能な限り焼け跡に残された元の石材を集め、時には古い時代の不透明なガラスまで製造して、忠実に、再現・再興したのである。こうして市民たちは、今見る伝統的な街並みを取り戻した。

 それは、ドイツだけではない。ナチスドイツによって破壊されたポーランドの町においても同様だった。

 スクラップ・アンド・ビルドで済ましてはいけないものもある。

 市民たちは「自分の町」 … 言い換えれば、その歴史と文化を継承しようと力を合わせたのだ。そこが、すごい。

 私がヨーロッパを旅する動機の一つである。

 本来、根っこのない「個人」など存在しない。過去から伝えられたものがあり、未来への責務もある。

    ★   ★   ★

 かなり駆け足で、ニュールンベルグを見たあと、ヴュルツブルグへ向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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