ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

(付録) 桜花咲き初むる和歌山城… 西国3社めぐりの旅(4/4)

2024年06月23日 | 国内旅行…紀伊・熊野へ

  (堀に映じる天守閣)

<和歌山城の桜>

 これを書いているのは6月だが、この旅は4月1日、2日。思いがけなくも和歌山城の桜に出会った。

 近年、桜の開花は早い。温暖化の影響だろう。

 今年、桜を見あてにあちこちへ旅の計画を立てた人は、満開になるのは3月下旬と予想したのではないか。

 だから、私のこの小さな旅も、桜に出会おうとは思っていなかった。桜には遅すぎるに違いない。

 ところが、今年の桜はなかなか開花しなかった。テレビの気象予報士までがヤキモキした。

 3月も終わりになってやっと開花し、開花したと思ったら、和歌山城の桜は一気に5~7分まで開いた。

 そして、私も、思いもかけず、少し早いお城の桜を見ることができた。

 (堀の石垣の桜)

      ★ 

<地名「和歌山」のはじまり> 

 以前、一度だけ和歌山城を訪ねたことがある。和歌山市内で開催された会議に出席した帰り、ラッシュの時間にならないうちにと駅へ向かう途中、通りすがりのようにして、城壁の中を歩いてみた。

 今回は、旅の目的である西国三社めぐりも終え、気分ものんびりと午前のお城の中を歩いた。

 言うまでもなく、和歌山城は徳川御三家の一つである紀州徳川家のお城。紀伊国に、伊勢国の一部と大和国の一部が組み込まれて、55万5千石。8代将軍吉宗も出した。

 それ以前のこの国のことについて、私たち県の外の者は、あまり知らない。

 そこで、司馬遼太郎『街道をゆく32 紀ノ川流域』から。

 「中世、いまの和歌山市一帯は、『サイカ(雑賀)』とよばれて、農業生産の高さや、鍛冶などの家内工業の殷賑を誇っていた。

 戦国期になると、雑賀党とよばれる地侍たちが連合(一揆)を組み、根来衆とならんで鉄砲で武装したことは、よく知られている。かれらは、大名の隷下に入ることを好まず、自立していたかったのである」。

 「2、3の大名なら、雑賀・根来の徒と戦ってとても勝ち目がなかったが、織田信長という統一勢力が出てくると、分が悪くなった。

 雑賀衆は、信長と戦い、ついで秀吉と戦って、ついに紀ノ川下流平野をあけわたすことになる。

 それ以後が、和歌山である。秀吉は平定のあと、紀州1国を鎮めるための巨城をつくるべく藤堂高虎(1556~1630)らに普請奉行を命じた。このとき秀吉がこの城山のことを、『若山』とよんだのが、地名和歌山のはじまりだという。和歌山という表記は、文献の上では、秀吉の書簡(天正13年7月2日付)によってはじまるから、秀吉が命名者でないにしても、それに近いといわねばならない」。

 その後、関ヶ原の戦いのあと、徳川の世となり、浅野幸長が紀州37万6千石を領して入城。二の丸、西の丸屋敷が造営され、城と城下町の形が造られた。やがて浅野氏は広島に移封。家康の第10子頼宣が入城して、55万5千石の紀州徳川家となったそうだ。

      ★

<鶴の渓(タニ)>

   ホテルを出発して国道沿いに歩き、城の南西側の追廻門を目指した。

   (追廻門)

 追廻門は石垣にはさまれた門で、櫓はない。城には珍しく朱塗りで、屋根は瓦葺き。

 門をくぐって城郭の中に入り、北へ歩くと、「鶴の渓(タニ)」に出た。  

  (鶴の渓)

 司馬遼太郎が気に入った一郭だ。

 「和歌山城は、石垣がおもしろい。

 とくに城内の、『鶴の渓(タニ)』というあたりの石垣が、青さびていて、いい」。

 「石垣が、古風な野面(ノヅラ)積みであることも結構といわれねばならない。傾斜などもゆるやかで大きく、"渓"とよばれる道を歩いていると、古人に遭うおもいがする」。

 「このあたりの積み方のふるさからみて、藤堂高虎の設計(ナワバリ)のまま穴太(アノウ)衆が石を積んだとしか思えない」。

         ★

<近江の人、藤堂高虎について>

 藤堂高虎は、司馬さん好みの人である。司馬さんは実際的な人、世にあって確かな技術をもち、或いは、知識を応用的に使うことができる人が好きなのだ。

 「和歌山城の普請奉行だった近江人藤堂高虎(1556~1630)は、物の手練れ(テダレ)だった。

 若いころ近江の浅井氏につかえ、また尾張の織田信澄につかえたりしたが、のち秀長に仕えた。1万石の家老でもあった。

 高虎は、土木家として日本土木史上、屈指のひとりといっていい。のち秀吉の大名になり、伊予の宇和島で8万3千石を領した。宇和島城はまったくのかれの作品だった」。

 「そういう高虎の初期の作品が、秀長時代の和歌山城といえるのではないか」。

 「徳川の世になると、功によって伊勢・伊賀32万3千石という大大名になり、官位は従四位下の左少将、徳川一門に準ずるという待遇をうけた」。

      ★

<御橋廊下と天守閣のビュースポット> 

 そのまま北へ歩き、市庁舎側で一旦曲輪の外へ出、今度は東へ歩いてゆくと、目指す景色に出会った。

 前景が堀に架かる御橋廊下。背景は大天守とそれを囲む多門櫓というビュースポットである。※ 冒頭の写真も参照。

  (御橋廊下と天守閣)

 御橋廊下は平成18年に復元された。二の丸(大奥エリア)と西の丸との間の堀に架けられた橋で、橋は屋根と壁に囲われて廊下になり、ここを行く殿様やお付きの者の姿が外から隠される。

 内部を見学することもできるが、今回はパス。だが、写真で見ると、御殿らしい立派な廊下である。

 カメラの絞りが御橋廊下にあるため、天守の方は明るくトンでいるが、大天守の手前には小天守があり、そこから多門櫓が乾櫓へと続いていて、なかなか立派な天守閣である。

      ★

<遊覧船に乗って堀をゆく>

 さらに東へ歩くと堀に架かる一の橋があり、橋を渡れば城の正門である大手門。急に観光客が多くなる。

  (一の橋と大手門)

 橋の下の堀を、客を乗せた和船が行く。

  (遊覧船)

 お城の天守閣や御橋廊下へ入場しない代わりに、あれに乗ろう。 

 天守閣には上がらない。日本の城もヨーロッパの城もよく昇ったが、得た結論は、お城は離れて見てこそ美しい。

 特に日本の城の天守閣は、階段は狭く急で、一段、一段、やっとの思いで上がっても、最上階の空間は殺風景なもの。外の眺望も、江戸時代なら良かったのだろうが、ビルの建つ今の時代、期待するほどの絶景はない。

 大手門から入って二の丸庭園の横をゆくと、船乗り場はすぐに見つかった。

  (船からの眺め)

 水の高さから眺める城郭もいいものだ。

      ★

<和歌山城の復興のこと>

 下船して、坂道をゆっくりと上り、本丸御殿跡に到る。

 天守閣を眺めるには、ここからが最高のビュースポットだ。

 (本丸御殿跡から天守閣)

 (本丸御殿跡から天守閣)

 大天守。その右に小さな小天守。三層の屋根がなかなかかっこいい。

 また、司馬さんの説明を拝借。

 「明治6年1月、政府の手で、城門、本丸、二ノ丸などの建造物がこわされた。ただ、天守閣と小天守は明治初年の破却 (太政官の命令で全国144の城がこわされた) をまぬかれて、その後国宝に指定される幸運をえたものの、昭和20年7月9日、米軍の空襲で喪失した。

 城内に『沿革』と書かれた掲示がある。

 『現在の建物は 昭和20年(1945)戦火焼失に伴い 昭和33年市民の浄財によって 国宝建造であった戦前の姿に復元したものである』

とあるように、外観はことごとく旧に復していて、楠門の白亜の櫓(ヤグラ)と、小天守、大天守が連立しあっている姿は、ことにうつくしい」。

      ★

<地形を生かした西の丸庭園>

 西の丸庭園は、国の名勝に指定されている。

  (西の丸庭園)

 紅葉渓(モミジダニ)庭園とも呼ばれ、紅葉の時季が特に美しいそうだ。

 和歌山城は虎伏山に建造された城郭だから、庭園も、急峻な山容の地形を生かした池泉回遊式。内堀の水を池に見立てて作庭されているのも趣がある。

 (桜の開花)

      ★

<短い旅の終わりに>

 ひとめぐりして、結構、楽しいウォーキングになった。

 岡口門から出た。

 (岡口門)

 この門は白塗りの櫓があり、石垣に挟まれて、城塞の門の厳しさがある。それが周囲の緑に映えて、桜も花を添え、いい雰囲気の城門だ。

 江戸初期の造りで、国の重要文化財になっている。

      ★

 これで、西国三社めぐりの旅は終わった。

 旅に出ると、自ずから歩く。歩くのは健康に良い。お天気も良く、桜の開花にも出会うことができ、良い旅だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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イツセノミコトと竈山(カマヤマ)神社 … 西国三社めぐりの旅(2)

2024年06月06日 | 国内旅行…紀伊・熊野へ

       (貴志川線の「たま電車」)

 竈山神社は、神武天皇の兄の五瀬(イツセ)命(ミコト)を祀っている。

    和歌山駅から貴志川線に乗って4つめの駅が「竈山(カマヤマ)」で、「日前宮(ニチゼングウ)」からは2つ目である。

 三社のうちでは、駅から一番離れていて、片道10分以上歩く。

      ★

<東征の途中、無念の最期を遂げたイツセノミコト>

 大和盆地の東南部で最初の王となった人の名を、『古事記』『日本書紀』(「記紀」)はカムヤマトイハレビコとする。

 神武天皇という名はずっと後の時代に付けられた漢風の諡(オクリナ)で、国風の諡は『日本書紀』では神日本磐余彦 (カムヤマト イハレビコ)の 天皇 (スメラミコト)。『古事記』でも漢字表記は違うが、やはりカムヤマトイハレビコである。(以下、本文ではイハレビコと短く呼ぶこともある)。

 イハレビコは九州の日向(ヒムカ)に生まれ育ったが、東方に美しい国があると知り、『古事記』では兄の五瀬命(イツセノミコト)と、『日本書紀』では彦五瀬命(ヒコイツセノミコト)を長兄とする4人兄弟の末の弟として、軍船を仕立て出発した。

    ところで、『日本書紀』によると、イハレビコの3代前は、神々の国である高天原から、九州の日向に、天孫として降臨してきたニニギノミコトである。

 (ニニギノミコトを祀る鹿児島県の霧島神社)

 そのニニギノミコトが天孫降臨してから、曾孫のイハレビコが東征に出発するまでに、179万2470余年が経ったと『日本書紀』は書いている。どこからそういう数字が出て来たのか分からないが、それはつまり、東征より前の話は遥かに遠い遠い昔話であり、「神話」ですよ、ここからが実際の歴史ですよと、『紀』の編纂者は言っているのであろう。

 さて、日向を出発した一行は、瀬戸内海を経て、難波の渡りを通り、生駒山脈の西麓の草香(日下)に上陸する。そして、日下から大和の地へ入るために生駒山を越えようとするが、待ち構えていたナガスネヒコの軍勢に急襲され、激戦の末、劣勢となって、退却せざるを得なくなった。このとき、兄のイツセは肘に流れ矢を受けた。

 一行は生駒越えを断念し、方向転換して紀伊半島を大きく迂回しようと熊野を目指して航行する。途中、紀伊国の男之水門(オノミナト)に入ったとき、兄のイツセの矢傷がひどく悪化した。イツセは激痛に耐え、無念の雄叫びを挙げたと記されている。

 「進みて、紀の国の竈山(カマヤマ)に到りて、五瀬(イツセノ)命、軍に(イクサニ)(軍中で)薨(カムサ)りましぬ。よりて竈山に葬(ハブ)りまつる」(『紀』)。

 「竈山」は、カムヤマトイハレビコの兄のイツセノミコトを葬った所として「記紀」に登場する古い地名なのだ。

 このあと、再び海上に出た一行は、暴風雨に遭い、二人の兄たちも次々に喪った。

 それでもイハレビコは紀伊半島の南端の新宮に上陸し、そこから北上して大和に入り、大和の地を平定して、王となった。

  (熊野速玉大社) 

 イハレビコが上陸したとされる地には、今、熊野速玉(ハヤタマ)大社がある。朱の美しいあでやかな神社である。

      ★ 

<五瀬命(イツセノミコト)を祀る竈山神社へ>

 伝説の神武天皇の兄である五瀬(イツセノ)命を祀る神社を目指して、竈山駅から南の方角へ、てくてく歩いた。

 参拝を終えたら、どこかで昼食をとらねばならない。だが、駅前にも、竈山神社に向かう途中にも、商店はあるが、カフェとかレストラン、食堂らしき店は見当たらなかった。

 イハレビコも、その日の食をどうしようかと思いながら進んだ日もあったことだろう

 (橋を渡ると石の大鳥居)

 やがてこんもりした森のある角に出た。この森にちがいない。

 (竈山神社の森)

 森の北東の角から入り、正面の鳥居へ回って、参道を行く。

 立派な神門があった。

    (神門)

 神門をくぐると、拝殿があった。

  (拝殿)

 参拝に訪れている人は、子づれの若いお母さんとか、ごくわずかだ。早春らしいのどかな空気のなか、静かに参拝した。

 本殿は拝殿の奥だが、森の樹木の中にすっぽりと囲まれている。

 拝殿からは見えないが、本殿に祀られているのは祭神の彦五瀬の命(ヒコイツセノミコト)。

 左脇殿には神武天皇を含む五瀬命の3人の弟神が祀られ、右脇殿には神武東征に従ったとされる随身たち ─ 物部氏の祖、中臣氏の祖、大伴氏の祖、久米氏の祖、賀茂氏の祖らが祀られているそうだ。

 イツセノミコトは、「記紀」全体の中では脇役であるが、脇役の伝承を踏まえた神社であるというところに興趣があった。

 「延喜式神名帳」(927年)に記載された歴史ある式内社だが、豊臣秀吉の紀州征伐で、他の多くの社寺と同様に没落した。

 江戸時代、紀州藩主によって再建されたが、社領もなく(収入もなく)衰微した。

 明治になって、国家神道のもと、初め村社となり、のち、官幣大社に昇格した。

 本殿の後ろに、五瀬命の陵墓とされる円墳(竈山墓)があった。

 (竈山墓)

 五瀬命の陵墓の所在地は、既に江戸時代から学者たちが探してきたのだが、不明とされていた。だが、宮内庁はここを伝説の五瀬命の陵墓とした。

 私としては、そのことに特に異議はない。少なくとも、ライン川のローレライの岩よりは、遥かに信ぴょう性が高い。

      ★

 歩き疲れ、のども渇き、お腹も空いた。

 竈山駅近くに戻って、一軒のスナックが営業しているのを見つけた。スナックが開くには早すぎると思いつつのぞいてみると、年配のママさんがいて、どうやら昼は近所の人たちが昼食を食べにくる店らしい。席に座ると、バラ寿司があると言う。私は、ラーメンやカレーより、その方がのどを通りやすい。

 手作りのバラ寿司もお汁も美味しく、疲れがいやされた

   ★   ★   ★

<閑話神武東征伝承について>

 『古事記』が成立したのは712年、『日本書紀』の成立は720年、8世紀の初頭である。

 どちらも、神話に続いて、第1代神武天皇から始まる歴代の天皇の歴史が叙述されている。

 現代の歴史学は、第1代神武天皇については、その東征の話も、神武天皇の存在そのものについても、否定的である。このような「東征」があったことを証拠づけるような同時代の文献資料も、神武天皇の存在を証明するような考古学上の発見もない。

 文献学者は、実在の可能性がある最初の天皇は第10代の崇神天皇とし、最近では、11代の垂仁天皇、12代の景行天皇も実在が有力視されるようになっている。

 司馬遼太郎は『街道をゆく32』の中で、 

 「神武天皇が実在したかどうかはべつとして、そういう伝承があって『古事記』『日本書紀』の撰者が採録したのにちがいない」

 「その伝説の神武天皇は "東方に美(ヨ)き地(クニ)がある" ということで、日向を発して東征をおこない、ついに難波(ナニワ)に上陸し、大和に入ろうとして長髄彦(ナガスネヒコ)と戦って敗れる。

 退いてふたたび大阪湾にうかび、紀伊半島南端から北上して大和に入るべく、海路、熊野にむかった。途中、紀ノ川流域の野に入るのである」と書いている。

 司馬さんはここで、「そういう伝承があって『古事記』『日本書紀』の撰者が採録した」としておられる。

 ところが、戦前の著名な記紀研究者であった津田左右吉博士は、『古事記』『日本書紀』(記紀)が編纂された当時、神武東征などの伝承はなかったとして、次のような説を述べ、戦後の古代史研究に大きな影響を与えた。(まとめるにあたり、ウィキペディアの記述を参考にした)。

① 記紀の「神話」の部分は、6世紀の宮廷官人が、上古より天皇が国土を治めていたことを説くために造作したものである。

② 初代天皇である神武天皇は、大和王朝の起源を説明するために創作された人物であって、史実ではない。

③ 神武天皇から9代目の開花天皇までは、7、8世紀の記紀編纂時に創作された人物である。

④ 15代の応神天皇より前の天皇も、また、神功皇后も、創作された非実在の人物である。

 つまり、津田博士は、記紀の「神話」の記述から、第15代の応神天皇の前までの叙述は、朝廷の官人たちが政治的目的のために「造作」したものであって、7、8世紀の記紀編纂当時、応神天皇より前のことは「伝承」も存在しなかった、としたのである。つまり、官人たちが創り出した「創作」、架空の話、フィクション、歴史の捏造であったというのだ。

 そして、戦後の古代史研究は、戦前の皇国史観への反動もあって、この津田博士の学説を出発点としたから、津田学説は戦後も長く通説として扱われてきた。

 しかしながら、戦後の考古学、特に古墳研究の進展や、埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文などからも、津田学説に批判的な発見や研究の成果も発表されるようになっている。              

      ★

 そこで、そのような研究者の一人である塚口義信先生の説を紹介したい。(先生の著書はこの項の終わりに記す)。

 塚口先生は、「伝説というものは、はじめに何か核となるもの、祖型となるものがあって、それが、"かくあってほしい"と願う伝承加担者の思い入れや時代の要請に応じて、雪だるま式に形作られてゆく場合が多いのではないか」とした上で、例えば、津田左右吉博士が記紀編纂者の創作であると断じた神功皇后の話についても、「私も、7、8世紀に (つまり「記紀」編纂時に)、かなり手が加えられているのではないかと思います。しかし、7、8世紀に物語のすべてが机上で述作されたのではなく、何かもととなった伝説があり、それが7、8世紀に潤色・変改されて姿を変えた、と理解しています」とされている。

 つまり、① 8世紀初頭に編纂された記紀は、伝説・伝承を踏まえて叙述されたものである。

 ② 伝説・伝承というものは固定されたものではなく、一度形成されたものが、時代を経る中で、その時々の人々(グループ、集団)の願望や都合によって変容されていくものである。記紀編纂時にさえも、時の朝廷にとって都合よく、潤色・変容された可能性はある。

 ③ しかし、記紀の内容は、朝廷の官人によって創作・虚構されたものではない。また、創作ではなく、伝説・伝承されたものである以上、そこに歴史的な事実の反映もあることは否定できない。

     ★

 それでは、「神武東征伝承」について、塚口先生はどのように説明されているだろうか??

 塚口先生は、「私自身は、建国神話は、ヤマト王権が(大和盆地の東南部に)誕生した遅くとも3世紀には存在したと思っている」とする。

 しかし、建国神話の主人公が、九州の日向を出発して、生駒山西麓の日下に上陸するというシナリオになったのは、5世紀の前半であろうとされる。

 3世紀に作られていただろう建国神話の中身が、5世紀の前半に変容したというのである。

 それでは5世紀前半とはどのような時代であったのか??

 それは「ヤマト王権」が河内に進出し、河内に大王家を営んだ応神天皇やその子の仁徳天皇の時代であった。この時代に、超巨大な前方後円墳が築かれたことはよく知られている。

 この時代、応神天皇にも、その子の仁徳天皇にも、九州の日向の豪族がお妃を入れ、皇子や皇女も生まれて、河内の日下の地に「日下の宮」が営まれた。

 また同じ頃、日向地方、今の宮崎県の西都原古墳群が巨大化し、九州で最大規模の前方後円墳である女狭穂塚(メサホツカ)古墳が築かれている。

 つまり、この時代は、(葛城氏系とともに)、「日向系の一族が隆盛を極め、大王家と深い関係をもった」時代であった。

 この時代に、建国神話の主人公(神武天皇)は、もともと九州の日向に生まれた天孫であって、その昔、日向の若者たちを率いて東征し、「日下の宮」のある地に上陸して、ナガスネヒコと戦ったのだ、というストーリーが新たに加えられ、それが8世紀に編纂された記紀の「神武東征」の話になったとするのである。

 それではなぜ、5世紀前半に日向系の一族が隆盛を極めるようになったのか。それは、4世紀末にあったヤマト王権内の内乱を契機にしている。

 記紀の神功皇后伝説では、── 北九州に(さらに朝鮮半島に)出征していた神功皇后が、北九州の地で誉田別 (ホムダワケ のちの応神天皇)を出産した。このことを知った大和の誉田別(ホムダワケ)の異母兄である忍熊王(オシクマノキミ)らは、皇位を奪われることをおそれて軍をおこした。これに対して神功皇后の側も、日向の諸族の支援を得て、九州から大和へ向けて進軍し、葛城氏らの応援も得て、忍熊王(オシクマノキミ)の軍勢を打ち破って滅ぼした、── としている。

 神功皇后伝説をどこまで歴史的事実と認めるかは別にして、塚口先生は、ヤマト王権内部でこうした内乱があったことは事実であろうと考えておられる。この内乱で最も功績を挙げたのは、大和の葛城氏と日向系の豪族であった。

 成長した誉田別は大王となり、大和から河内に出て、大きな力を持つようになった。

 そのとき、日向系豪族は、姫たちを輿入れさせ、隆盛を極めた。

 こうして5世紀に、ヤマト王権の建国の大王は、実はもともと日向の地に降臨されていた天孫の子孫で、日向の軍勢を率いて東征し、大和盆地において大王になられたのだ、という風に、建国神話は変容したと、塚口先生は説明される。

 私は、塚口先生の説にかなり納得している。

 なお、今、蛇行剣を出土したことで話題になっている富雄丸山古墳。86mの大きな古墳で、出土品も一級品なのに、墳型が前方後円墳ではなく、なぜか円墳である。この古墳について、塚口先生は早くから4世紀末の内乱で滅亡した忍熊王(オシクマノキミ)の墓ではないかと言っておられる。

※ 塚口義信先生の著書

 〇 『三輪山と卑弥呼・神武天皇』(学生社) ── この中の「 "神武伝説と日向" の再検討」

 〇 『ヤマト王権の謎をとく』(学生社)

 〇 『邪馬台国と初期ヤマト政権の謎を探る』(原書房)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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森(杜)の中の日前宮 … 西国三社めぐりの旅(1)

2024年05月19日 | 国内旅行…紀伊・熊野へ

    (日前宮の森)

<もとは「木の国」だった>

司馬遼太郎『街道をゆく32』から

 「和歌山県は、旧分国のよびかたでは、紀伊・紀州・紀の国という。

 古くは『木の国』といわれた。

 18世紀成立の『和訓栞』に、『きい、紀伊は、もと木の国と書きたるを、和銅年間に好字を撰み、二字を用ゐさせられしよりかく書くなり。伊は紀の音の響きなり』と、まことに簡潔に説く。

 なぜ木の国なのか、については神話があるが、要するに木が多かったからであろう」。

 「紀」という漢字を漢和辞典で調べると、「糸を分けて整理すること。はじめ、もとい、きまり、しるす、筋道をたてて書き記す」などの意がある。『日本書紀』の「書紀」の意味も納得できた。

 確かに、「木の国」には、素朴、粗野、未開の風も感じられ、それよりも「紀伊の国」の方に文明の香りがあるとしたのであろう。「好字を撰」んだ和銅という年号の時代は、平城京に遷都し、古事記、日本書紀、風土記などを作成して、新しい文明国家づくりが行われた時代であった。文明とは即ち、儒教的礼節の秩序が整う世のことである。「やまと(のくに)」も、「大倭(国)」から「大和(国)」と表記されるようになった。「倭」よりも「和」という漢字を良しとしたのだ。

 だが、「大和」は良いとして、私的には「木の国」にも捨てがたい懐かしさを感じる。

  ★   ★   ★

<和歌山電鐵 (鉄)貴志川線と紀の国の「三社参り」>

 和歌山市周辺では、初詣のとき、「西国三社参り」をするらしい。その三社のうちの二社は紀の国の一の宮だという。

 そういうことを、いつ、何によって知ったのか忘れてしまったが、ずっと三社参りをしてみたいと思っていた。

 三社は和歌山電鐵 (今も「鐵」という字だ) の貴志川線というローカル鉄道の沿線にあるらしい。

 お天気の良い早春のころ、コトコトと走るローカル鉄道に乗り、駅からは軽いウォーキングで、まだ見ぬ神の森を訪ねて回る。大和国の歴史ある大寺もよいが、ローカル線に乗って神社巡りをするのもなかなかよいではないか

 それに、司馬遼太郎『街道をゆく32』の「紀ノ川流域」に、三社のうちの一つである日前宮のことが出てくる。

 和歌山電鐵の貴志川線は、JRの和歌山駅と紀の川市の貴志駅の間14.3キロを、14駅、30分少々でつなぐのどかな鉄道である。ワンマンカーで、駅の多くも無人駅のようだ。

 南海電鉄から赤字路線として切り離され、県や市の助成と、地域住民の協力、そして何よりも経営努力があって、今日まで運営されてきた。少しずつ増益してきたが、それでも黒字になったことはないそうだ

 北陸新幹線が開通したとニュースで見ても、乗ってみたいとは思わない。年を取ると、速いだけの新幹線よりも、貴志川線のようなローカル鉄道に乗って、少しでも地域を応援したくなる。

 鉄道の話はこれぐらいにして、西国三社とは、和歌山駅を出発して2つ目の駅で降りる日前宮(ニチゼングウ)、4つ目の駅で降りる竈山(カマヤマ)神社、そして8番目の駅で降りる伊太祁曽(イタキソ)神社のことである。漢字も難しいしが、読むのも厄介だ。ただ、遠いいにしえから吹いてくる風を感じる。

 三社を回るのに日帰りでは気持ちがあわただしい。それで、和歌山市内のホテルに1泊し、翌日の午前は和歌山城を歩いてみることにした。

 あとは2週間天気予報をにらんで、ウィークデイの4月1日、2日と決め、お城近くのホテルを予約した。

      ★

<神々は森(杜)に遊ぶ>

  天王寺からJR阪和線に乗って和歌山駅へ。駅前のコインロッカーに荷物を預け、乗り降り自由の1日券を買って、貴志川線のホームへ上がった。 

 (和歌山駅の貴志川線ホーム)

 ホームには「いちご電車」が入っていた。

  (車 内)

 車内は、木の国らしく、木造り感がある。

 発車して2駅目。わずか5分で、「日前宮」駅に到着した。

 神社はすぐ目の前だ。

 日前宮のことは司馬遼太郎『街道をゆく32』の「紀ノ川流域」の中に、「森の神々」というタイトルで登場する。私がこの神宮を訪ねたいと思うようになった動機の一つは司馬さんのこの文章。ゆえに、ここでは司馬さんの文章をもっぱら引用したい。

 「伊勢神宮は内宮(ナイクウ)と外宮(ゲクウ)の一対で一つの神宮をなしている。

 ここも対の宮である。

 ヒノクマノミヤ(日前宮)

 クニカカスノミヤ(国懸宮)

 あわせて、『日前国懸 (ヒノクマ クニカカス) 神宮』というのだが、土地のひとたちは"ひのくま"という訓みがわずらわしいのか、"にちぜんぐう"とよんでいる。

 付近を南海電気(※司馬さんの当時)貴志川線が通っているが、その駅名も『日前宮(ニチゼングウ)』である」。

 駅を出て少しゆくと、一の鳥居があった。大きな石の鳥居で、その横の石標に、かつての社格を表した神宮の名が刻まれていた。

  (一の鳥居)

 鳥居をくぐって参道をゆくと、高い樹木が生い茂る森の中の道になる。 

  (日前宮の森)

 「信じがたいことだが、これだけの原生林が、和歌山の市内にある」。「おそらく伝説の神代から手つかずの原生林にちがいない」。

 「古語でいう"森(杜)"は、神がよりつく樹々が高くむらがる場所のことなのである。つまりは、森は神の場(ニワ)だった」。

 ちなみに国語辞典でも古語辞典でも、「森(杜)」には意味が①②と二つ書かれている。

 例えば、『言泉』(小学館)には、「①樹木が多くこんもり茂った所。②神社などのある神域で、神霊の寄りつく樹木が高く群がり立った所」とある。

 古代の人々は、神々は、建物の中ではなく、樹木が高く群がる所に降臨すると考えてきた。そうであれば、境内の樹木を伐採してしまったら、もはや、そこは神社でなくなってしまう。

 「古代、紀ノ川下流で稲作を展開したひとびとは、神々の憑代(ヨリシロ)の森をあちこちにのこして神の場(ニワ)とした。

 そのうち、紀ノ国ぜんたいの神の場としてこの森をのこし、木綿(ユウ)や幣(ヌサ)などをかけて斎(イツ)きまつったのである。

 古神道を知るには、書物を読むよりもこの森にくるといい」。

 「木綿(ユウ)や幣(ヌサ)などをかけて斎(イツ)きまつった」とある。

 古代、「ゆう」に「木綿」の字を当てたが、「木綿(モメン)」ではない。モメンが伝わってくるのはずっと後世のことで、それ以前は、麻を主としつつ、様々な植物を利用して糸をより布を織った。

 万葉集のよく知られた歌、

 多摩川に さらす手作り さらさらに なにぞこの子の ここだかなしき(万・東歌・相聞・巻14の3373)

   どうしてあの娘への思いが日々募り、こんなに愛しく思えるのだろう

 「多摩川に さらす手作り 」は「さらさら」を導く序詞で、「さらさら」は川瀬の音と、「さらに」という副詞を掛けている。娘たちが家族の着る布を織るために、麻を川にさらす作業をしている。この娘たちの中の誰かを恋しく思っているのだ。古代において、衣食住の全ては自給自足。衣を作るにも、大変な労働、手間暇が必要だった。 

 ゆう(木綿)は、楮(コウゾ)の木の皮を剥いで、蒸し、水にさらして白色にした繊維のこと。祭祀に際しては、幣帛(ヘイハク)として神に供えた。

 「幣(ヌサ)」は幣帛(ヘイハク)で、神前に供える紙や、麻、木綿(ユウ)などの糸や布を指す。

 森の中、ゆう(木綿)で斎(イツ)けば、そこは神域となり、即ち「神社」となった。社は必要としない。

司馬遼太郎『この国のかたち5』から

 「神道に、教祖も教義もない。たとえばこの島々にいた古代人たちは、地面に顔を出した岩の露頭ひとつにも底つ磐根(イワネ)の大きさをおもい、奇異を感じた。畏れを覚えればすぐ、そのまわりを清め、みだりに足を踏み入れてけがさぬようにした。それが、神道だった。

 むろん、社殿は必要としない。社殿は、はるかな後世、仏教が伝わってくると、それを見習ってできた風である」。

 「古神道というのは、真水のようにすっきりとして平明である。教義などはなく、ただその一角を清らかにしておけば、すでにそこに神が在す(オワス)」。 

 私たちは神社神道に慣れ、さらに国家神道の一時期も経験した。改めて日本人の心の原初に戻ってみるのも良いことと思う。 

 神社にお参りに行って、手水舎で身と心を浄め、拝殿で手を合わせるとき、私は拝殿の後ろの本殿に神(神々)を意識することはない。神社でも、寺でも、教会でも、人間が造った、狭く、窮屈で、うす暗い建造物の中に、どうして神(神々)が閉じこもっていなければならないのだろう?? 「社殿は、はるかな後世、仏教が伝わってくると、それを見習って」造られたものである。

 私が神社を好きなのは、屋内ではなく、外の自然の空気の中で、晴朗な気分で手を合わせることができるからである。

 拝殿の前で目を閉じ、手を合わせれば、森の気配を感じる。鳥の鳴き声、せせらぎの音、頬をなでる風、樹々の梢の揺らめき、木漏れ日 … 。そこに神(神々)はおわす。

 その一角を、鳥居や注連縄(シメナワ)で標をつけ、清らかにしておけば、すでにそこに神は在すのである。森(杜)こそが神社である。

 拝殿で手を合わせても、祭神の名を唱えることはない。「遠い昔よりここにいらっしゃる神様」に手を合わせる。神に名はない。今、伝わっている神の名は、社殿同様に、人間が歴史的に作ったもので、神がそう名乗ったわけではない。さらに言えば、歴史上、非業の死を遂げた人(菅原道真とか平将門とか)とか英雄(徳川家康とか)が、その森の神であろうはずがない。

 神は森羅万象の中におわす。アニミズムではない。あえて言えば汎神論。

 ただし、個々の神社に伝わる御由緒(祭神の話)は、この列島に住み、暮らしてきた人々が語り伝えてきた民俗的伝承であるから、大切にする。

 人はそれぞれに思い、信じる。以上のことも、私一個の思いに過ぎないので、念のため。

      ★

<鏡は二度、鋳された>

 日前神宮は左へ、國懸神宮は右への案内が立っていた。

 左へ進み、まず日前(ヒノクマ)神宮に参拝する。

 続いて、また森の中をゆき、國懸(クニカカス)神宮に参拝した。

    (國懸神宮)

 二つの社は同形だった。

 「御由緒」によれば、日前神宮は日前大神(ヒノクマノオオカミ)を主祭神とし、日像(ヒガタノ)鏡をご神体とする。また、国懸神宮は国懸(クニカカスノ)大神を主祭神とし、日矛(ヒボコノ)鏡をご神体とする。

 伊勢神宮が、天照大神を祀り、ご神体を八咫(ヤタノ)鏡とするのに相似している。

 …… そもそもは神代の時代の話である。古事記と日本書紀で細部が異なるのだが、ミックスして要約すれば、次のようなお話。 

 高天原で、アマテラスは、弟のスサノオのあまりの乱暴狼藉に怒り、岩屋の中に隠れ籠った。そのため世界は闇夜になる。

 八百万の神々は集まり相談した。

 まず大きな鏡を鋳造した。次に岩屋の前で焚火をし、桶を伏せた台の上でアメノウズメがセクシーダンスを踊る。神々はやんやの拍手喝采。

 何事かとアマテラスが岩戸を少し開け外をのぞいた時、アメノウズメは踊りながら「あなたより素敵な神が現れたから、みなで喜んでいるのです」と言う。その間に、二人の神が岩戸の左右から大鏡を差し出した。アマテラスは鏡に映った自分の姿を見て驚く。すかさず、タジカラヲが岩屋の岩戸を引き開けて、アマテラスの腕をつかんで引っ張り出した。別の神々が岩戸を封印してしまう。

 私たちの世代は、子どもの頃に夜伽話に聞いた話だ。

 このときの鏡が八咫(ヤタノ)鏡。後に、天孫のニニギノミコトが地上に降りてくるとき、アマテラスの形見として持たされた。天皇家を継承する三種の神器のうちでも、最も大切なものとされる。

 ところが、日前宮にはこれを補足する伝承があるというのだ。

 高天原で、イシコリドメという鏡作りが鏡を鋳造したとき、一度目にできた鏡に納得がいかず、もう一度作り直して、八咫(ヤタノ)鏡ができた。

 そのとき、最初にできた鏡が、日像(ヒガタノ)鏡と日矛(ヒボコノ)鏡なのだという。ニニギノミコトの天孫降臨のとき、八咫(ヤタノ)鏡とともに地上におりてきたそうだ。

 こういうわけで、日前宮は、伊勢神宮に相似した神宮として、ずっと尊崇されてきた。 

      ★

<最古の家系のひとつ、紀氏のこと>

 『街道をゆく32』に戻る。司馬さんはこの紀行で、日前宮の宮司さんを訪ねられ、宮司家について書かれている。

 「宮司は、紀氏である。

 『紀』という家系の祖は、はるかに遠い。日本でもっとも古い家系は天皇家と出雲大社の千家氏とそれに紀州日前宮の紀氏であるとされる。

 紀氏の遠祖は神武東征のときに従った天道根(アメノミチネノ)命であるといい、またその家系に伝説の武内宿禰(タケウチノスクネ)が入るといわれたりする。私にはせんさくの能力はない」。

 ムムムッ!!

    私が知る紀氏と言えば、『古今和歌集』の撰者であった紀貫之や紀友則。だが、その時代(平安時代)、藤原氏が圧倒的に勢力を増し、紀氏は中級貴族に過ぎなかった。

 しかし、紀氏の家系図を見れば、飛鳥、奈良時代、大臣までは届かないものの、大納言や参議を出した名門貴族であった。

 垣間見るように歴史に登場する紀氏の姫がいる。紀諸人(モロヒト)の娘の橡(トチ)姫は、天智天皇の子・志貴皇子と結ばれた。天武系の天皇の時代だったから、天智の子である志貴皇子は重んじられることもなく、また、それゆえ、大津皇子のような不幸にも巻き込まれることなく、皇族の一人として静かな一生を送ったらしい。

 石(イハ)そそく 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも(万・巻8・1418)

 岩の上を走り流れる滝のほとりに、なんとわらびが萌え出ているよ。いつの間にか春になったのだなあ。

 この清冽な叙景歌には、志貴皇子の人柄が表れているようにも思われる。

 だが、その後、天武系の有力な継承者が絶え、志貴皇子と橡(トチ)姫の間に生まれ、その有能さのゆえに重宝されて、ただ実直に職務を果たし既に齢も60を過ぎていた大納言が、突如、天皇に担ぎ上げられた。光仁天皇である。光仁天皇の子が、平安遷都した桓武天皇で、現在の皇統につながっている。

 もっと遥かに遡れば、紀氏は、武をもって大王に仕えた名門氏族だったと、何かで読んだことがある。

 「樹間に小さな神々の祠がある。『古事記』『日本書紀』に出てくる神々の名もある。…… しかしこの森でしか見ることのない神名もある。…… 森の中に、そういう神々の宮居が、八十余もある。いずれも小さく、すべて苔むしている」。

    こういうところも、伊勢神宮に似ている。

    そして、そういう中に、天道根(アメノミチネノ)命を祀る小さな摂社もあった。

  (天道根命社)

 この神宮と神宮の森を守ってきた宮司の遥かな祖、伝説の大王であるカムヤマトイハレビコ(神武天皇)と同時代を生きたとも言われるアメノミチネを祀る杜と社である。

 「この森から東方へ二キロほどさかのぼると、… 岩橋(イワセ)丘陵が盛り上がっており、そこに巨大な古墳がある。むかしから、『岩橋千塚』とよばれて、古墳時代の前期から後期にまで及び、その総数は六百基をこえるというが、その主たるものは、紀氏のものであったろう」。 

 「ともかくも、紀氏の先祖は、この森を斎きつつ紀ノ川下流平野を統べていた古代首長であったことはまぎれもない」。

 その古墳群は、今は、和歌山県によって「紀伊風土記の丘」として整備されている。

 「七世紀のはじめのことである。そのころ大和政権が大きく成長して、諸国に割拠してそれぞれ君臨していた大豪族の王権を停止した。その代償として、国造の称号と実質をあたえたのである。つまりは、世襲制の地方長官だった」。

 古代史の研究は日進月歩で、いわゆる国造制の始まりについても未だ不明のことも多く、確定的なことは言えないようである。しかし、もう少し早い時期から、例えば6世紀初めごろから、全国一斉にではなく、西日本の方、やがて東日本の方へと、一律にではなく置かれていったと考えた方が良いようである。

 「国造制は … 七世紀半ばの『大化の改新』によって廃止され、かわって中央官僚が赴任してくる国司の制になった

 国造の廃止にあたって、二国だけ例外が設けられた。出雲の千家氏と紀伊の紀氏である。

 この両国が独立性の高い文化をもち、国造家の権力が強大であったということもあったであろう。しかし、そういうことよりも、祭祀権につながることかもしれない。諸国に国造があったころ、その国でのすべての神社の祭祀権は国造にゆだねられていたが、出雲における千家氏、紀伊における紀氏はとくにそういう(神聖首長といもいうべき)性格が濃厚であったため、この二つを例外として存続させたと考えていい」。

 「ついでながら、江戸期、紀家は中納言もしくは大納言だった。地上を統べる紀州徳川家の当主もまた中納言もしくは大納言だったから、国主と同格の官位なのである。このあたり、徳川幕府の政治的感覚は味なものといえまいか」。

  ★   ★   ★

<鎮守の森とふるさとの森づくり>

 『街道をゆく32』の中で、司馬さんは日前宮の宮司さんを訪ね歓談されている。

 「当代の紀俊武氏は、かつて阪神間で中学教師をしておられた。教育が好きでたまらず、それだけに、紀家伝統の職をつぐのがいやだったという。

 なんといっても、森の保護と社殿の補修という、やっかいなことを背負い込むことになるのである。

 『父君もどうだったのでしょう。お悩みがなかったように見受けられましたが』『そうじゃないんです。父も若いころは教師で、私と同じように教師が好きで、相続をいやがったそうです』。

 私が会ったころの俊嗣翁は、覚悟のほぞを決めてしまわれたあとだったのだろう。

 三代前は、紀俊という人で、大正五年、神宮に伝わる古記録を非売品で刊行されたことで知られているが、この祖父君もまた他のことをやりたかった人のようである。

 そのあたりが、まことにいい。こういう世襲職に好んでなりたがるのは、かえって俗気があって不適当なのではあるまいか。当代をふくめ、覚悟のほぞをきめた歴世のひとびとが、こんにちまでこの森の清浄を守ってきたのである」。

 三代前の方が、この神宮に伝わる古記録を非売品で刊行されたという。そこに、上に記した鏡の伝承のことなども書かれているのであろうか

 それはともかく、宮司さんは、「紀家伝統の職をつぐのがいやだった」「なんといっても、森の保護と社殿の補修という、やっかいなことを背負い込むことになる」から、と言っておられる。

 観光客でいつも賑わう一部の裕福な神社やお寺は別格として、全国津津浦浦の神社やお寺の経営はどうなっているのだろう?? その後継者のことも私は心配する。

 生態学の世界で国際的に活躍された宮脇昭博士(1928~2021)は、その著『鎮守の森』(新潮文庫)の中で、「私は、単に神社の森だけでなく、ひろく地霊をまつった森という意味で『鎮守の森』という言葉をつかっている」。「『鎮守の森』という言葉は、今、植生学、植物生態学の世界で(学術用語として)、国際的にも通用している」とおっしゃっている。

 だが、かつて「神奈川県教育委員会の依頼で(調査したら)、高木、亜高木、低木、下草がそろった、すなわち最低限の森の生態系が維持されているような『鎮守の森』は、たった40であった。かつては2850あった『鎮守の森』が、戦後わずか30年足らずで激減した」とも書いておられる。

 以下は、宮脇博士の著『鎮守の森』の中の対談から、適宜、抜き出したものである。対談の相手は、曹洞宗の大管首であられた板橋興宗禅師。曹洞宗の大本山の總持寺は、当時、宮脇先生の協力を得て、寺とその寺域に千年の森をつくるという事業を展開されていた。

<宮脇博士>鎮守の森は、いわば『ふるさとの木によるふるさとの森』。森の主役となる、その土地に合った木を植える必要があるんです。スギやマツは用材をつくるためによく植えられるようになっただけで、それで森をつくっても長くはもたない。常に人の手による管理が必要で、鎮守の森、千年の森にはならんのです。浜離宮のタブノキの森や白金の自然教育園のシイの森を見ていただけるとわかりやすいのですが、あの200年以上前に植えられた木々は、火事にも地震にも台風にも、戦時中の焼夷弾にも耐えて今でも生き残っているわけですから」。

<板橋禅師>「(明治神宮の森について) 昭和20年の東京大空襲ではきっと焼夷弾の被害に遭ったはずです。100発ぐらいは落っこちたんじゃないですか。明治神宮がスギやマツばかりの森だったら、もう薪小屋へ火をつけたようによく燃えますよ。スギやマツというのは、マッチを擦って火をつけるのは難しいけれども、一度燃え始めたら、もう手がつけられなくなる」。「本殿や社務所の方はやはり空襲の被害に遭ったそうです」。

<宮脇博士>「焼夷弾に耐えたのは、シイ、タブ、カシ、クスといった常緑広葉樹でしょう」。

<板橋禅師>「先生がおっしゃられるように、森の主木が高くて立派になると、その森全体に活気が出てくる。崇高な雰囲気が出てくるんですな。主木がしっかりしているお宮さんやお寺さんは、森全体が『社』を成していて栄えるはずですよ。しかし、逆に言うと、森が廃れれば日本人の宗教心も廃れることになる」。

<宮脇博士>「(外国の教会やモスクと違って) 日本の神社やお寺では、自然の中にさらに木を植えて森閑としたものを求めた。鎮守の森をつくっているんです。これはすごいことですよ。今でも都会の中で唯一残っている森が神社だったりするわけですから」。

<板橋禅師>「もう一つ興味深いのは、寺で住職がいなくなると、すぐに廃れていってしまう。何年か経つとあばら家になる。でもお宮さんは違うのです。神職のいないところは本当に多い。兼務で30社ぐらい持っているなんてザラですからね」。

<宮脇博士>「全国を植生調査でまわったとき、私も神主不在の神社や小さな祠(ホコラ)はよく見ました。しかも管理する人がいないはずなのに、意外に手入れが行き届いている。誰かが当番で補修や掃除をしているんでしょうね」。

<板橋禅師>「心のよりどころである氏神の森を『社』と形容して、そこに神が宿っているという、そういう日本人の信仰があるのです。神様の神ではなく、カタカナで書いた『カミ』。明治以降の神道ではなくて、古代から続くカミへの信仰ですな」。

<宮脇博士>「この国では、自然と宗教は切っても切り離せない関係にある。だからこそ、『鎮守の森』の減少は大問題なのです」。

      ★

    国や地方自治体は特定の宗教組織に肩入れすることはできない。政教分離なのだから当然である。

 それはそうなのだが、そこにある国宝や重文の文化財は、もはや半分ぐらいは「公」のものと言ってよいだろう。それらはもはや、一宮司や一住職、或いは、特定宗教組織の「私物」ではない。「公」は、それらを保護し、後世に残していく責務がある。

 同じことが、鎮守の森についても言える。

 生態系の整った森は、災害の被害を防ぐのにも大いに役立つと宮脇先生は別の著書の中で仰っている。大樹1本は、消防車1台だと。ふるさとの木によるふるさとの森を保護し継承し、或いは、新たに育てていくことは、各地方の自治体の責務の一つである。

 パリでは個人の邸宅内の樹木であっても、勝手に伐採してはいけないと条例に定めているという。何でも、「私権」が優先するのではない。民主主義は私権と公権のバランス、ほどよい調和の上に成り立つ。

 「鎮守の森」は、国の宝、地域の宝、継承していくべき歴史的な文化遺産。それらを個々の宮司さんや住職さんに丸投げし、市場経済の中に放置するようでは、日本における「公」の精神が問われるというものである。

 政治が、山野の樹木を伐採して無機質なソーラーパネルを一面に張り巡らすことを善しとするのなら、せめて「鎮守の森」を保護するための法律を与野党協力して作って、美しい日本を後世に継承してほしい。これはかねてからの私の意見である。

 この項の終わりに、ささやかな私ごと。

 私は、かつて、神社やお寺にお参りに行ったとき、財布の中の1円玉、5円玉、10円玉を探して賽銭箱に投げ込んでいた。そうするものだと思っていた。それは一種の儀礼の行為であると。しかし、「鎮守の森」のことを知ってから、100円硬貨にするようになった。時に、お願い事がかなった時などには、お札を入れることも。

 亡き父がまだ元気だったころ、初詣のとき、私の横で賽銭箱にお札を入れていて、びっくりしたことがある。あるとき、ふとそのことを思い出した。私ももう父の年齢は超えた。

 また、時に、たまたま参詣した神社仏閣が補修の費用のために募金を募っているような時には、もとより氏子でも檀家でもないけれど、貧者の一灯も捧げるようになった。

 

 

 

 

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茫々とした歴史のかなた … 紀伊・熊野の旅 7(完)

2012年09月27日 | 国内旅行…紀伊・熊野へ

             ( 熊野の山々 )

   神名を問うなど、余計なことであるが、熊野本宮大社に祀られている神様について、あるいは、この社の由緒について、少しばかり思いを馳せたい。

 神名を詮索することが目的ではなく、歴史学者(考古学者)によってもまだ究明されていない、そして今後も明らかにされることはないであろう、この列島の茫々とした遠い昔を、わずかに覗いてみたいからである。卑弥呼を遡ることさらに遠い日本列島の姿。それは、神々の時代と言ってもよい。

         ★

< 熊野本宮大社の主祭神はスサノオノミコトか?? >

 熊野本宮大社の神様を阿弥陀如来とする神仏習合の考え方は、現代人としては、論外とするほかない。

 ここに祀られている神様は、スサノオノミコトだとする説がある。

 しかし、日本の神々を、全て記紀的神話世界の中に秩序づけようとする意図の一環なら、意図そのものが無理というものであろう。

 もともと、日本の神々は、四季の変化が豊かな日本列島のなかの、山、山中の巌、淵、滝、川の合流点、樹木の梢、岬の突端、海の上・中・底などにいらっしゃって、それぞれの地で、それを感ずる人々によって祀られてきたのである。

 だが、スサノオ説、或いは、出雲系説を一概に退けられないのは、島根県・出雲の国にも熊野大社があり、しかも、この神社は、あの出雲大社と並立して出雲の国の一の宮とされ、出雲大社よりも古いこと、さらに、紀伊の国の熊野本宮大社は、この出雲の国の熊野大社から勧請されたのだという説があることである。

 熊野本宮大社のファンである私は、まさか、出雲の熊野大社の後塵を拝するようなことがあるはずがないと思ってきた。

 しかし、この夏、出雲を旅し、山深い出雲の国の熊野大社に詣でたとき、或いはそうかもしれないと感じた。それほど古拙の趣のある社であった。そして、仮にそうであっても、両社に対する崇敬の念は変わらないと思った。

                ( 出雲の熊野大社 )

 もしそうなら、本来は出雲の神々であったスサノオが、紀伊の国に祀られていても、おかしくはないのである。 

 余談だが、『古事記』によると、少年のころのオオクニヌシは兄たちに何度も命をねらわれ、一度などは殺されかけて瀕死状態になったこともあり、母は、熊野の神々を頼れとオオクニヌシを逃がす。ところが、兄たちは執拗に熊野まで追って来て、熊野の神々の機転で危うく救われた。熊野の神々はオオクニヌシに言う。もう私たちにあなたの命を守り切れません。あなたを助けられるのは、今は隠棲されている出雲のスサノオノミコトだけです。そこへ逃げなさい。

 こうして、スサノオの所に逃れたオオクニヌシは、その娘・スセリヒメと結婚し、誰にも負けない強い青年として成長するのである。

 だが …… この「出雲=スサノオ説」は、棚上げする。

         ★ 

< 熊野本宮大社の主祭神は、木々か、太陽か、水か?? >

 以上の他に、有力な説が三つある。

 第一は、神名の「家都美御子大神」( ケツノミミコノオオカミ )の国語学的解釈。

 「ケ」は「木」。「ツ」は格助詞の「の」。「美(ミ)」は美称。故に、「木の御子の大神」となる。もともと「紀伊の国」とは、「木の国」のことである。

 この説、鬱蒼と繁る大木の杜(モリ)の中に鎮座する社の神にふさわしい。

 他に、熊野本宮大社が、太陽の神の使いとされるヤタガラスを祀ることから、主祭神を太陽神とする説があり、また、もともとこの神社が川の中洲に鎮座していたことから、水の神とする説もある。

 ヤタガラスはサッカー日本代表のシンボルマークであるが、もちろん『古事記』の「神武東征」に登場する鳥である。なお、ヤタガラス伝説は、東アジア全域にある。

         ★

< 熊野本宮大社の起源と「神武東征」伝説 >                    

 『五重塔はなぜ倒れないか』で有名な建築学者・上田篤氏は、近著『庭と日本人』(新潮新書)のなかで、熊野本宮大社の起源について、概略、以下のように書いておられる。

 熊野本宮大社の創建は、第10代崇神天皇(多くの歴史学者が、最も遡ることのできる実在の天皇とする)のときと言われるが、なぜこんな辺鄙な所に、初代の天皇と言われる崇神天皇は、神を祀ったのだろうか。

 思いつくのは、『古事記』に描かれた神武 (カムヤマトイハレビコ) 東征伝説である。

 上田氏は、それを、弥生時代、2世紀の末と想定する。

 『古事記』に描かれた神武東征物語によると、九州を出発したイハレビコは、瀬戸内海を通って河内に上陸しようとしたが、土地の豪族ナガスネヒコに撃退された。そこで、紀伊半島を大迂回して、熊野に回航する。そして、新宮に上陸して、北上し、紀伊の勢力を圧服しつつ、ヤタガラスに導かれ、十津川を経て、五條、宇陀を降し、大和に入った。

 さて、この間、今でも鬱蒼とした紀伊半島の真ん中を、イハレビコはどのように北上したのか? 熊野は海まで山が迫る険しい山国である。襲いかかるのは、敵だけでなく、毒虫、風土病などの危険もあり、前進は容易ではない。(実際、『古事記』によると、新宮に上陸してまもなく、大きな熊が現れ、その毒にあたって、全軍が気を失って倒れたとある。何らかの病に倒れたのであろう)。

 そこで、彼らは舟で、熊野川を遡ったはずだ。野営地も、川中島や砂洲を選択した。水を垣としたのである。

 その最後の野営地が、元熊野本宮大社があった大斎原( オオユノハラ )であった。ここから先は急流のため舟で進めず、徒歩で大和へ行軍する。

 その宿営の最後の日に、イハレビコは、この川中島を聖地として清め、土地の神々を祀って、過ぎし方への感謝と、行く末の行軍の安全を祈願した。

 それから9代あとの崇神天皇は、伝えられてきた祖先イハレビコの労苦を思い、そこに社殿を建てて整えた。

   ( 現在の大斎原 )

 熊野本宮大社の起源は、このように考えられないかというのが、上田篤説である。

 一言、私風に付け加えれば、イハレビコが、大斎原で祀った神々は、すでに土地の人々に祀られていた神々であり、それは、多分、「木の神」であった。

         ★ 

< 茫々とした歴史のかなたの神武東征伝説 >

 戦後の歴史教科書で学んできた我々は、著名な建築学者が、神武天皇の実在や、神武東征を信じるのか、と疑問を抱く。

 確かに、『古事記』に書かれている一つ一つの東征エピソードは、口伝されているうちに、事実からどんどん遠ざかっていった「物語」であろう。 『古事記』 の伝える年数も、実際とはもちろん違う。「イハレビコ」という人名も、違うものであったかもしれない。

 しかし、ギリシャ神話の『ユリシーズ』に夢中になったH.シュリーマンは、「伝説のトロイ」を探し求め、ついにその発掘に成功したのである。

 もっと身近なところに、思いがけない学術的発見の話がある。

 神武東征よりも、さらに遡る、「神代」の話のことだ。

 『古事記』は、大きなスペースを割いて、「出雲神話」を記述している。スサノオのヤマタノオロチ退治、オオクニヌシのさまざまな話、そして、天孫族への国譲りの話など。

 歴史学者 (考古学者) たちは、戦前も戦後も、北九州と大和の二大文化圏を ( 銅剣・銅矛文化圏と銅鐸文化圏などと言って ) 認めていたが、出雲などは一笑に付していた。あれは神話だ、と。何の証拠もない。 

 ところが、1980年代になって、出雲からぞくぞくと銅剣、銅鉾、銅鐸が出土したのである。

 弥生時代、ここに巨大なクニがあった! 出雲を本拠にして、おそらく日本海側の北九州から、越前・越中・越後、さらに諏訪地方にまで、影響力をもっていたクニである。

 しからば、大和連合との間に、戦争による併合でなければ、「国譲り」もあったかも知れない。

          ★

 トロイ伝説によると、トロイ戦争は、3人の女神たちが、「このなかで誰が一番美しいか」と、論じ合うことから起こった。そんな荒唐無稽な話は信じられないとして、トロイの存在を一笑に付していた学者たちは、結果的に、学者として基本的態度が間違っていたことになる。

 神話・伝説を頭から信じるのもおかしいが、頭から否定してしまうのも、非科学的な傲慢である。

 『古事記』や『日本書紀』をバカにしてはいけない。文字の普及していない時代に、長年、口伝で伝承されてきた遠い先祖の歴史。それが仮に荒唐無稽な神話的姿になっていたとしても、頭から否定するのは、学問的な態度とはいえないのである。

 古墳時代の幕開けに登場する邪馬台国(もちろん、大和国)の卑弥呼(ヒメミコ)の祖先は、弥生時代に、九州のどこかから、大和へ東征してきたのではないか、と、私も想像したりしている。

   (近所の寺の枝垂桜)

 (「紀伊・熊野の旅」は終わります)

 

 

 

 

 

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熊野本宮大社、そして融通無碍な日本の神々 … 紀伊・熊野の旅 6

2012年09月22日 | 国内旅行…紀伊・熊野へ

 温泉宿に一日くすぶっているわけにもいかず、昨日は熊野那智大社と熊野速玉大社を巡った。

 こうなったら熊野三山すべてにと、今日は熊野本宮大社へ向かう。

 新宮までは、昨日走った太平洋に沿う国道42号線。その先は、熊野川に沿って、上流へ上流へと、国道168号線を走った。

 十津川を越えて奈良県に出ようというダンプカーが多く、彼らには慣れた道だがこちらは初めて。川沿いのカーブの多い対向1車線の道路を、結構追い上げられながら走る。 

 平安時代から鎌倉時代にかけて、院や、貴族や、宮廷女官、或いは平氏一族らが、紀伊田辺から中辺路を経て熊野本宮大社まで歩き、そのあと、この熊野川を舟で下って、熊野速玉大社、そして熊野那智大社を参詣した。

 山深く、豊かな川幅である。

 瀞峡への道と分かれて、新宮から約1時間車を走らせると、本宮町に入った。

 国道の脇は静かな門前町のようになり、やがてこんもりした山の麓に鳥居が見えた。熊野本宮大社である。

         ★

 白木の大きな鳥居の前に立つと、両側には高く茂った樹木。

 その間を、石段がまっすぐに上へと伸びている。白地に黒々と「熊野大権現」と書かれた幟(ノ ボリ )が並ぶ。

 石段の中央は神様の通る路。参詣者は、上りは右端、下りは左端を歩くと、作法の貼り紙があった。

            ( 熊野本宮大社の鳥居 )

 しんとした静謐な空気。時折、木々の梢を見上げて一呼吸し、そこから差し込む木漏れ日の陰影を踏みながら、158段の石段をゆっくりと登っていった。

 少し息切れし、脚に疲労を感じ出したころに、手水舎がある。

 そこを少し上がると、ヤタガラスの幟や、高々と伸びた枝垂桜の古木があり、その横の門をくぐると、…… 砂利を敷き詰めた空間の正面に、第1殿から第4殿までの社殿が、どっしりと連なっていた。

 19世紀初期に造られた社殿だが、その様式は古くから伝えられてきたものだという。「更新」による「継続」は、日本の文化の特徴である。

               ( 本 殿 )

 昨日の二社と異なり、朱はなく、白木である。それ故、前二社の華やかさや、みやびやかさはない。しかし、いかにも熊野の山奥にしんと鎮まって、鄙びて、静謐の風情がある。

 堂々と並んだ社殿の背景の杜の巨木が、ここが神々の在す神域であることを表しているかのようだ。

司馬遼太郎『この国のかたち五』から。

 「神々は論じない」。

 「感ずる人にだけ、隠喩(メタファ)をもって示す」。                          

          ★

 平安末期に「熊野御幸」が繰り返されたのは、末法思想や浄土信仰の隆盛による。

 それが神仏習合の考え方と溶け合った。

 仏教が伝来するより前の時代から、人々に崇敬されてきた日本の神々は、実は仏や菩薩が仮に形を変えて日本に顕現したものである、ということにした。仏や菩薩の仮の姿が権現( ゴンゲン )である。

 熊野本宮大社の主祭神・家都美御子大神( ケツミミコノオオカミ )に形を変えて現れていたのは、阿弥陀如来であり、それがすなわち熊野大権現である、という。

 こうした神仏習合の考え方は、明治政府によって、神仏分離・廃仏毀釈が行われるまで続いた。 

 いかにもご都合主義の教義のようだが、新しく入ってきた仏教を徐々に日本化しながら、神道と一つものとして受け入れたのは、それがこの列島にすむ人々にとって、自然な心情であったからに違いない。

 今でも、七五三や結婚式は神道で、お葬式は仏教で行うことが多い。年の暮れには除夜の鐘を聞き、新年には神社へ初詣に行く。

 フランシスコ・ザビエルは敬意をもって迎えられ、人々の中にキリスト教の小さな芽も出たが、結局、表層のロマンチックな異国情緒の部分だけが受け入れられ、「クリスマス」や「サンタクロース」が俳句の季語になったが、「天にましまして」、「神を信ずる者(善)か、信じぬ者(悪)か」の二元論をふりかざす唯一絶対神は、敬して遠ざけられた。

 キリスト教より遥かに早く入ってきた儒教についても、同様である。各時代に渡って、日本の知識階級は儒学の書物を山のように輸入し、(日本語化して)これを読んだが、それは学問・教養としての儒学であって、ついに宗教・習俗としての儒教の国にはならなかった。

 「神道には、哲学もなければ、道徳律も、抽象理論もない」(ラフカディオ・ハーン『日本の面影』) 。

   「空気のように捕らえることのできない神道」(同) は、融通無碍である。融通無碍が、日本の文化の基盤にある。

 この列島では、神は高き天にあって人間を裁く神ではなく、山や、谷や、木々や、川のせせらぎや、風や、目を閉じれば、どこにでも存在する。田にも、竈にさえも。死を思う人には阿弥陀如来となって心に安らぎを与え、生きることをともに喜び、死は父祖の土に帰ることである。神は多にして一、一にして多。人に寄り添い、人とともに生きる。

 ユーラシア大陸の東の果てのこの列島に、西から、北から、南から、あらゆる雑多な文明・文化が、人をも伴って、黒潮とともに流れ着いた。そこには、山や、谷や、森や、川や、海に、融通無碍な神々がおわして、すべてを受け入れ、長い歳月をかけて、この列島の風土に合うものにしていった。 

 これが旧石器時代以来数千年の、この列島の歴史である。

          ★

 話は熊野本宮大社に戻る。

 今、参拝した社殿は、この地が移されて、まだ120年ほどにしかならない。1889年(明治22年)の洪水で流されるまで、本宮大社の杜と社は、熊野川の中洲にあった。

 国道を横切り、川のほうへ下っていくと、中州があり、畑が作られている。その畑の向こうに、天を衝く鳥居と、こんもりした杜が見える。

  ( 桜と大斎原の大鳥居 )

   訪れるなら、春がいい。

 菜の花畑の向こうの黒っぽい大鳥居は、日本一の高さを誇って印象的である。

 その大鳥居の先のこんもりした大きな木々のなかに、原っぱがある。

 その昔、ここに社殿があった。「大斎原」( オオユノハラ )と呼ばれる。原っぱのあたりにも桜が幾本かあり、石祠があって、いかにも「神域」という感じがする。

 洪水による流出を免れた4つの社殿は、ここから、先ほどの山の杜に移された。

        ★

 車で山の中の道路を少々下ると、湯の峰温泉がある。素朴な湯宿が何軒かあり、湧出する湯の温度は90度を超える。

 その一軒に泊まって、木々に囲まれた露天風呂に入ると、ここもまた神域のような気がし、神々の里に抱かれているような安らぎを覚えた。

 2004年の旅のことを書いてきたが、以後、熊野本宮大社と湯の峰温泉には、毎年、桜の春、蝉の夏、うっすらと雪景色になる冬と、多いときには年3回も訪れるようになった。(この稿、もう1回つづく)。

 

 

 

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「元宮」のご神体の下層から …… 紀伊・熊野の旅 5

2012年09月16日 | 国内旅行…紀伊・熊野へ

    (朱塗りの美しい熊野速玉大社)

 熊野那智大社から勝浦の町へ戻り、国道42号線を新宮方面へ向けて、北上する。

 所々に太平洋の海原が広がり、海岸線を走る楽しいドライブだ。

 やがて新宮の町並みに入った。

 「古事記」によると、大阪湾の日下で行く手を阻まれたカムヤマトイハレビコ (神武天皇) は、紀伊半島を大迂回して、現在の新宮市に再上陸したとされる。

   新宮の街を横断して、熊野川の河口近くに架かる橋の手前を山側に入ると、熊野速玉大社があった。そのまま県境の熊野川を越えれば三重県になる。

 速玉大社は、山間部に分け入る那智大社と違って、海に近い神社であるが、周囲はこんもりしていた。その木漏れ日のなか、丹塗りの社殿が麗しく、瀟洒で、みやびやかな趣があった。

      ( 鳥居をくぐった神門の先に本殿が見える )

   熊野那智大社と比べると、人は少なく、明るく、清々しい。

 境内に樹齢千年のナギの巨木がある。天然記念物とか。

 

    ( 社殿 )

 主祭神は、熊野速玉大神とされる。聞きなれない神様で、『古事記』や『日本書紀』の「神代記」にも登場しない。

ラフカディオ・ハーン『新編 日本の面影』 から

 「神道の計り知れない悠久の歴史を考えれば、『古事記』などは、(現代の言葉からはほど遠い古語で書かれているとはいえ、) ごく最近の出来事の記録集にしかすぎないであろう」。

 「神道を解明するのが難しいのは、‥‥ その拠り所を文献にのみ頼るからである。つまり、神道の歴史を著した書物や 『古事記』『日本紀』、あるいは「祝詞」、あるいは偉大な国学者である本居 (宣長) や平田 (篤胤) の注釈本などに依拠しすぎたせいである。ところが、神道の真髄は、書物の中にあるのでもなければ、儀式や戒律の中にあるのでもない。むしろ国民の心の中に生きているのであり、‥‥

        ★

白洲正子 『西国巡礼』 から

 「(熊野速玉)神社は、神倉山を背に建っており、宮司さんのお話では、新宮という名称は、本宮に対する新宮ではなく、神倉山からわかれた、新しい社の意味で、(熊野) 本宮 (大社) の方は、河口から川上へのぼるという古代の信仰に則って、のちに造られたものであるという」。

 熊野速玉大社の起源は、神倉山 (標高120m) の頂上にある磐座 (イワクラ) にしめ縄を張って祀っていたことによる。いつのころからか、現在地に社殿を建てて、祀るようになった。それは、熊野那智大社が、もとは那智の滝にしめ縄を張って、聖域としたのが始まりであったのと同じである。

 神倉山を元宮と言い、現在の社殿の方を新宮と言う。新宮市という行政市の名にもなった。

 神倉神社は今は熊野速玉神社の摂社であるが、鎌倉積みの急こう配の石段538段を登れば、そこ、神倉山の頂上に、今も巨岩があり、古代のままに祀られているそうだ。

 しかも、その岩の下層からは、銅鐸片などが出土したという。弥生時代、卑弥呼より100年以上古く、2世紀前半のものだろうか?

         ★

 大変だと聞いていたから、麓の鳥居まで行って、そこでニ礼二拍して引き上げるつもりだったが、少しだけと思って、ついつい登りはじめ、とうとう神倉山の山頂まで行ってしまった。「胸突八丁」という言葉があるが、言葉どおり「胸を突く」ような急こう配で、石段の一段一段も高くて、バランスを崩さないよう、両手も使って登り、怖いほどだった。

     ( 神倉神社の磐座 )

 磐座の下に立ち、岩の大きさを実感した。磐座の下の岩の上で、磐座をバックにして、バレリーナの上野水香が「ボレロ」を踊れば、アメノウズメになる。古代の神々の世界は、そのように大らかで、楽しい。

 新宮の街が一望できた。

   『日本書紀』にいわく、「(イハレビコは)、遂に狭野 (サノ) を越え、而して熊野の神邑 (ミワノムラ) に到り、また天磐盾 (アマノイハタテ) に登り、よりて軍を引き漸に進む」。

 神邑 (ミワノムラ) = 「神」とは、熊野速玉神社を指す。

 天磐盾 (アマノイハタテ) = 通説では、神倉山。「磐盾」は盾の形をした岩。

           ★   ★   ★

 熊野速玉大社の境内の一隅に、小ぶりな住居建築があり、目を引く。

 佐藤春夫記念館である。丹塗りの社のみやびやかな美しさとよく似合って、瀟洒である。

 佐藤春夫は、新宮市の出身。

 東京・文京区にあった旧宅を復元したものとか。

    願 ひ       佐藤春夫

 大ざっぱで無意味で

 その場かぎりで

 しかし本当の

 飛びきり本当の唄をひとつ

 いつか書きたい

 神さまが雲をおつくりなされた気持ちが

 今わかる

        ★

 ふと、高校生のころに好きだった佐藤春夫の詩を思い出した。

 

 

 

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那智の滝に古神道を思う … 紀伊・熊野の旅 4

2012年09月14日 | 国内旅行…紀伊・熊野へ

          ( 那智の滝 )

 2004年の旅の思い出を書いている。車で灯台めぐりをしながら、勝浦温泉にやってきた。(前3回のブログ参照)。

 そして、那智湾に面した温泉宿に、湯治気分で3泊した。

 しかし、湯治気分といっても、1日、旅館でごろごろというわけにもいかない。

 朝湯に入り、朝食を食べれば、もう、なすことがない。畳に寝転がってばかりでは、かえって肩も凝り、腰痛になる。腹も減らず、体重が増える。

 そこで、「三重塔と滝」の写真で有名な熊野那智大社に行ってみることにした。時間があれば、さらに足を延ばして、熊野速玉大社に回っても良い。何しろこの年 (2004年) は、「紀伊山地の霊場と参詣道」がユネスコの世界遺産に登録された年だった。

        ★

 熊野那智大社は、宿と同じ那智勝浦町の行政区内にある。だが、海抜ゼロメートルの勝浦温泉からは、かなり深山に入る。

   ( 勝浦漁港と熊野の山々 )

 車のなかった時代の人々にとっては、ひたすら山奥へと分け入る趣であったろう、と車を走らせながら思う。

 表参道へ入り、土産物店の並ぶ一角に車を置く。観光バスもやってきて、観光地の匂い。

 それはそれでよい。観光・行楽気分で神社を訪れる人々も、日本人ならば、鳥居をくぐると、心静かに柏手を打ち、手を合わせる。また、お賽銭を入れて、結果的に神社の存続を助け、神々の杜と社を後世に伝えてくれるのである。 

司馬遼太郎『この国のかたち5』から

 「明治23年 (1890年)、出雲にやってきたハーン ( 注 : ラフカディオ・ハーン ) は、神々がいささかも抑圧されていないことを知り、よろこんだ。美しい丘には必ずそこに鎮まる神がいて、宮居まで備わり、しかもそれぞれ物語ももっていたのである 」。

 キリスト教の絶対的な人格神になじめず、子供のころから自然の中に妖精を見ていたハーンは、『古事記』を読んで感動し、日本にやってきた。そして、恋人にめぐり合った人のように、日本に恋をするのである。

        ★

 パーキングからさらに上へ上へと汗ばみながら登り、ようやく朱塗りの鳥居をくぐって拝殿に到着する。隣に青岸渡寺。周囲は那智原生林である。

   ( 熊野那智大社の朱塗りの鳥居 )

 本殿には上五社が並ぶが、正殿は第四社。そこに祭られている主祭神は、熊野夫須美大神 ( クマノフスミノオオカミ )。これがどういう神様かについて、いろいろ古文書があり、諸説もあるようだ。

     ( 熊野那智大社本殿 )

 いずれにしろ、今はこのように山の上に社殿があるが、もとは、ここよりずっと下方の谷、那智の滝がご神体で、社殿もそちらにあったらしい。

 山がご神体という。また、滝をご神体という。日本人は何でも神にして拝むというが、しかし、もともと山や滝そのものを神としたわけではない。その山、その滝が、聖なる「場」であるという意味である。

司馬遼太郎 『この国のかたち5』から

 「畏れを覚えればすぐ、そのまわりを清め、みだりに足を踏み入れてけがさぬようにした。それが、神道だった」。

 滝のある谷へ下って行く。

 途中、三重塔に立ち寄って、塔の横に遠く那智の滝を配した、定番の写真を撮る。

         

     ( 三重塔とご神体の滝 )

 滝壺に下り立つと、そこは鳥居が立ち、注連縄 (シメナワ) で 斎(イツ) かれていた。見上げると、133メートルを轟音を立てて落ちてくる滝と、濡れた岩肌の様を見ることができる。

   ( 那智の滝 ) 

司馬遼太郎 『この国のかたち5』から

 「 何事のおはしますをば知らねどもかたじけなさの涙こぼるる

という彼 (注: 西行) の歌は、いかにも古神道の風韻をつたえている。その空間が清浄にされ、よく斎 ( イツ ) かれていれば、すでに神がおわすということである。神名を問うなど、余計なことであった」。

                     ★ 

 西行は、あの伊勢神宮に参拝して、「何事のおはしますをば知らねども」と歌ったのである。やはり偉い男である。

 神の名が云々される遥か以前、もちろん文字などもなかった時代から、人々はこの奥深い滝の下に立って、神を感じ、注連縄を張って、聖なる場所としたのである。所詮、その後の人が作ったに過ぎない神名を、古文書を尋ねて、あれこれ詮索するなど、余計なことであるに違いない。

 

 

 

 

 

 

 

                                

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メルヘンチックな梶取崎 (カントリザキ) 灯台 … 紀伊・熊野の旅3

2012年09月10日 | 国内旅行…紀伊・熊野へ

 潮岬灯台、樫野崎灯台を経て、紀伊半島の東海岸に出、国道42号線を走る。

 車窓に橋杭岩の奇岩を見、やがて太平洋を東に突き出した太地の半島に入った。

 うららかな日差しの下、寝静まったようにのどかな集落の細い道路をゆっくり走り、集落が切れて、しばらくは小暗い、南国的な樹林の下を走ると、梶取崎 ( カントリザキ ) に出た。

 潅木の前の草の上に車を停めて、降りると、原っぱがあった。

 原っぱの向こうのはしに、白い灯台が立っている。

 のどかな冬の日差し。青い空と、ぽっかり浮かぶ白い雲。

 聞こえるのは、灯台の向こうの断崖の遥か下に、打ち寄せては返すドドーンという波濤の音のみである。

  

                (梶取崎灯台)

 人けのない原っぱの端まで歩くと、断崖があった。

 原っぱの一角の、こんもり樹木の茂る下にブランコがあり、小さな女の子と若い母親が、ブランコに乗って、静かに遊んでいた。

 ぽかぽかと日が照り、波濤の音以外に何も聞こえず、時が止まったようであった。

 梶取崎灯台は、前の2つの有名な灯台と比べると、鄙びて、メルヘンチックである。

 砕ける波の音を聞きながら、冬の日差しの下、灯台の草むらをそぞろ歩いていると、心が安らぎ、生かされているという幸せ感がわいてくる。

         ★

 灯台から2キロ先の燈明崎は、名前のとおり、江戸時代に灯台があった。そばに、小さな番屋の跡があり、風雨の夜の困難な任務をしのばせた。

 捕鯨用の展望台も再現されている。看板があり、説明が書かれていた。

 捕鯨の際、この展望台に長 ( オサ ) が立つ。クジラがやって来ると狼煙を上げ、遥か絶壁の下、眼下の海の、和船の船団に対して、指図をした。船団は、断崖の上の展望台に立つ長 (オサ) の振る旗に従って、クジラを包囲し、追い込んで、次々に銛を撃って仕留めた。

 展望台に上って見ると、ここからの狼煙や旗に合わせて、遥か眼下の海原で繰り広げられた、当時の勇壮な鯨漁の様子が、目に浮かぶようであった。

                               

   

 

 

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樫野崎 (カシノザキ) 灯台、そしてトルコとの友情 … 紀伊・熊野の旅 2

2012年09月06日 | 国内旅行…紀伊・熊野へ

      ( 紀伊の海 )

 大きな紀伊半島のとん先に、ちょこんと突き出した潮岬。遥かな昔は島だった。その岬に潮岬灯台がある。

 潮岬灯台のそばに立って、太平洋の波濤を眺め、すぐそばの杜のなかにある潮御崎神社に参詣してから、車を北へ走らせた。

 まもなく東側に見えてくるのが紀伊大島。大島というが、大きな紀伊半島のとん先にある小島である。島の東端に樫野崎 (カシノザキ) 灯台がある。

 30年前に来たときは、車を置き、船で渡った。渡船場はどこだったかと、海沿いに車を走らせていると、思いがけずも、島に向かって、海を跨ぐ架橋が現れた。…  30年もたつと、こういう変化もある。

 橋を渡り、島の東端へ車を走らせる。

 そして、パーキングに車を置いて、南国的な樹林の中の道を、潮の風と香りを感じながら、灯台へ向かって歩く。

 トルコ海軍遭難碑とその記念館があり、トルコの民芸品らしきものを売る土産屋もある。ここはちょっとした異文化の風のある観光地なのだ。

 島の先端の原っぱに立つ灯台の周囲も、観光客でにぎわっていた。

    ☆  ☆  ☆

 以下は、30年前ここに来て、記念館に入り、初めて知った話である。

 1890年 (明治23年)、トルコ皇帝の特使を乗せた軍艦エルトゥール号が、日本までの長い航海を終え、天皇に拝謁し、再び帰国の途に着いた。しかし、串本沖で暴風雨に遭遇。軍艦は座礁し、乗員は夜の荒れ狂う海に投げ出され、518名の犠牲者を出した。が、69名は息も絶え絶え大島に泳ぎ着いた。

 深夜、この事態を知った島民たちは、夜を徹し、その後の数日間、救助・救護に当たった。彼らを家に担ぎ込み、緊急時に備えて飼っていた鶏をつぶして食べさせ、漂着した遺体を丁寧に埋葬し、遺品を保管した。

 交通も通信手段もない時代。誰に命令され、指示されたわけでもなく、紀伊半島のとん先の小さな島の漁村で、貧しい村人たちが、なすべきことを懸命になしたのである。

 その後、明治天皇の命により、救助された人々は日本の軍艦でトルコに送り届けられた。

 また、山田寅太郎という人が、遭難者とその家族のために日本で集めた義捐金を持って渡航。トルコ皇帝から厚い感謝の言葉を受け、皇帝の要請でそのままトルコに留まり、両国の友好親善に努めた。

 この話は、トルコの教科書に掲載された。

 以上が、記念館のパネルで知った事柄である。ただ、この出来事がトルコの教科書に載ったということについて、しっかりと腑に落ちたわけではなかった。

       ☆

 後日譚がある。

 時代は遥かに下がる。なにしろ、30年前に私がこの灯台を訪れた、そのあと、1985年の出来事である。

 当時、このエピソードがテレビ、新聞で報道されたのかどうか、知らない。

 この事実を知ったのは、さらにずっと後、テレビで、このエピソードがドキュメンタリー風に紹介され(NHKの「プロジェクトX」)、それを偶然に見て、知ったのである。

 事が起こったのは、イラン・イラク戦争 (1980~1988) のさ中である。

 1985年3月17日、制空権を握っていたイラクは、48時間後の19日午後8時30分以後、イラン上空を飛ぶ全ての航空機を撃墜すると宣言した。これより先、すでにイラン政府は、安全のため国内にいる外国人すべての退去を求めていた。

 欧米各国は、テヘランに残留していた自国民救出のために、脱出用の航空機を確保・派遣した。

 だが、日本政府は日本航空に打診するも、労働組合が「危険」を理由に反対

 自衛隊機の派遣については、憲法9条違反の自衛隊機を海外に派遣するなどもってものほか、と、当時の社会党などが反対した。こうして、テヘランにいる日本国民は、なすすべなく見捨てられた。(崇高なる憲法と、平和を愛する国民によって)。

 事情を知った当時のトルコ首相( のち、大統領) が決断し、トルコ航空に働きかける。

 トルコ航空で、パイロットたちに、日本人救出のための志願者を募ったところ、全員が手を挙げたという。

 2機の航空機が飛び立ち、現地で給油の後、1機目が193名の日本人を乗せて、トルコに向かった。2機目がさらに残っていた17名を乗せて、ぎりぎりの時間にテヘランを飛び立った。

 窓のシャッターが閉じられた2機目の機内で、緊張し、固唾を呑む乗客たちに、パイロットからの機内放送が流れたのは、まさにタイムリミットの午後8時30分だった。

 「日本人の乗客の皆様、今、本機は、国境を越えてトルコに入りました。ようこそトルコへ」。機内に拍手と歓声が沸き起こったという。

 元駐日トルコ大使ネジアティ・ウトカン氏の言葉。

 「エルトゥール号事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今も、トルコの人たちは忘れていません。私も、小学校のころ、歴史教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥール号のことを知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです」。

       ☆

 世界に、日本を好きな国や、人々は多い。

 それだけのことを、日本国と日本人は、地道に、時には献身的に、恩着せがましくなく、してきている。戦前も、戦後も。

 日本人は、自分たちの歴史に、もう少しだけ自信をもってもよいと思う。そして、そういうことを学べる、楽しい歴史教科書を作ってほしい。

       ☆

 灯台めぐりのドライブは、まだ続く。

 

 

 

 

 

 

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紀伊・熊野の旅 1 …… 島々を、波を、岬を

2012年09月04日 | 国内旅行…紀伊・熊野へ

 熊野本宮大社への参拝は2004年から。多いときには春、夏、冬と年3回訪ねているから、かれこれもう20回近くになるだろうか。

 しかし、上には上がいる。NHK大河ドラマ「平清盛」に登場した鳥羽上皇は21回、後白河上皇はにいたっては34回も参詣している。

 しかも、当時 (もしかしたら今も)、道中は徒歩でないと功徳がないとされたから、京都から延々と歩いて、中辺路 (紀伊田辺から山へ入る) を通り、本宮大社へ詣でた。ついで、舟で熊野川を下って熊野速玉大社、さらに熊野那智大社に参詣した。往復1か月の難行の旅であったから、私のように車で行って、湯の峰温泉に1泊して帰るという参詣とは全然違う。

 初めて熊野本宮大社を訪ねたのは、2004年の暮れであった。このとき初めて三山を巡ったので、その旅のことを書き留めておきたい。

    ☆        ☆  ☆

 旅の動機は、温泉でのんびりと湯治の真似事でもしてみたいという願望の実現にあった。人生、2度目のご奉公に入っていたから、心身の金属疲労があっても不思議でない。

 「温泉博士」の松田忠徳先生が「お湯は最高」と折り紙を付けた那智勝浦温泉の宿「海のホテル一の滝」に3泊した。高級旅館というにはほど遠い風情の、温泉街からははずれ、那智湾に臨んだ1軒宿である。

 朝、奈良の自宅を車で出る間際に、スマトラ島沖大地震と大津波で多くの犠牲者が出たとのニュース。あわただしく家を出たが、車を運転しながらも、遠い異国の被害のことが気になった。

 あちこち立ち寄って、夕方、宿に着き、1階の自分の部屋の窓を開けると、海がひたひたと目のすぐ下に迫っていた。ひとごとではない。もし津波があれば、最初の犠牲者である。でも、なかなかいいムードだった。

 夜は、月光が、暗い海面に一筋の光を漂わせた。

       ☆

 この旅のもう一つの目的は、紀伊半島の岬めぐりである。岬には灯台がある。

 道中、冬晴れの下、有名な潮岬灯台、それから樫野崎 (カシノザキ) 灯台に立ち寄り、太平洋の海を見ながらドライブして、宿を目指す。

 阪和道のみなべICを出たあとは、国道42号線をひたすら走った。

 椿温泉のあたりから海沿いを走ることが多くなり、対向一車線、カーブを繰り返す。その海沿いのカーブを、スピードを緩めることなく飛ばす車は地元車だ。軽(ケイ)といえども、速い。

 陸の黒島、沖の黒島という二つの島を見下し、遥か太平洋の行き交う船を見晴らせる岬の高台の食堂で昼食。ここは恋人岬というらしい。

 紀伊半島のとん先、本州最南端にある潮岬の、さらに最先端にある灯台が、潮岬灯台である。

 日差しは暖かいが、風が強く、コートを着て灯台に行く。確か30年ほども前に訪れたことがある。      

       ☆

   のちのおもひに 

                   立原道造   

   夢はいつもかへって行った 山の麓のさびしい村に

 水引草に風が立ち

 草ひばりのうたひやまない

 しづまりかへった午さがりの林道を

 

 うららかに青い空には陽がてり 火山は眠ってゐた

 ─── そして私は

 見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を

 だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた …… (以下、略)

       ☆

 立原道造という詩人の文庫本を手にしたのは、大学生時代である。

 陽光きらめく紀伊半島の一人旅の間も、私の想いはいつもあの少女と出会った軽井沢の村にかえっていった。しかし、旅からかえっても、そこに少女はいない。ただむなしいばかりである ……。喪失 (失恋) の悲哀を歌った詩である。

 喪失の暗さに対して、一瞬、対照的に、陽光がきらめくのが、第二連の5行目。

 「 (見て来たものを、)  島々を / 波を / 岬を / 日光月光を、(だれも聞いていないと知りながら / 語り続けた )」。

 この「島々を / 波を / 岬を / 日光月光を」というイメージが好きで、若いころ、太平洋に臨み、黒潮が洗う、紀伊半島にあこがれた。

 陽光きらめく半島の岬めぐりの旅は、恋人のもとに帰って、すぐに、目を輝かせて、語って聞かせるにふさわしい ……。

             ( 紀伊の海 )

                  ☆

 立原道造は、東大建築科卒。室生犀星や堀辰雄に兄事し、雑誌 『四季』 に詩を発表。結核のため、26歳で夭折した。長身・痩躯。スケッチブックと色鉛筆を持って信州の高原を歩く姿がふしぎに似合う青年であったようだ。

 この詩もそうだが、西洋詩のソネット形式を日本語に移植させた。知的で、ナイーブな青年だったのだろう。

        ☆ 

  冬とはいえ、明るい日差しに照らされた太平洋の、岬の灯台をめぐるドライブの旅は心楽しかった。 

 

 

 

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