ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

ホテルの窓からテージョ川を見る… ユーラシア大陸の最西端ポルトガルへの旅 3

2016年11月28日 | 西欧旅行……ポルトガル紀行

 ホテルの窓を開けると、目の前の小さな公園に1本の大きな木があり、明るい紫色の花が咲き乱れていた。日本ではあまり見かけない花のようだが、何の花だろう。

    ★   ★   ★

 今回の旅の行程は、以下のようである。

< 9月26日 (月) > 

 朝、KLMオランダ航空で出発。アムステルダムで乗り継ぎ、リスボンに現地時間20時05分到着。 (リスボン泊)

< 9月27日 (火) > 

 現地オプショナルツアー「リスボン近郊ツアー」に参加。リスボンのベレン地区 → シントラ → ロカ岬観光(リスボン泊)

< 9月28日 (水) > 

 現地オプショナルツアー「リスボン近郊ツアー」に参加。ファティマ → バターリヤ → ナザレ → オピドス観光(リスボン泊)

< 9月29日 (木) > リスボン市街地を観光。 (リスボン泊)    

< 9月30日 (金) > 

 リスボンから特急と鈍行でラゴスへ。ラゴス駅からタクシーでサグレスへ。サグレス 岬とサン・ヴィセンテ岬観光(サグレス泊)   

< 10月1日 (土) > 

 サグレスからタクシーでラゴス駅。ラゴスから鈍行と特急を乗り継いでリスボンへ。リスボンからさらに鈍行を乗り継いでトマールへ。トマール観光。 (トマール泊)

< 10月2日(日) > 

 トマールから鈍行と特急を乗り継いでポルトへ。 ポルト観光(ポルト泊)

< 10月3日 (月) > ポルト観光(ポルト泊) 

< 10月4日 (火) > 

 朝、ポルト出発。アムステルダムで乗り継いで、 

< 10月5日 (水) >  朝、関空到着。

                        ★

   日本からポルトガルへの直行便はない。

 前回のブログで、大手旅行社の企画するポルトガルツアーは、ルフトハンザ・ドイツ航空を使っていると書いた。ルフトハンザでポルトガルに向かえば、フランクフルトで5、6時間も乗り継ぎ待ちをしなければならず、ポルトガルの空港に着くのは夜中だ。

 そのうえ、復路は、早朝6時発の飛行機に乗らねばならない。

 今回は自力の旅。深夜、知らない異国の空港に大きなスーツケースを持って降り立ち、空港からタクシーに乗って夜更けの見知らぬ大都会を走って、明かりを落としたホテルのフロントに着くのは、できたら避けたい。

 ネットでいろいろ調べているうちに、KLMオランダ航空の月曜日出発便に乗れば、アムステルダムで3時間弱の乗り継ぎ時間、その結果、リスボンにも現地時間の午後8時に到着することを発見した。午後8時なら、ヨーロッパでは宵の口である。

 復路も、ポルトからのアムステルダム行きは、8時40分発だ。

 往復とも、ルフトハンザよりずっと楽で、これなら最終日も、夜までゆっくりとポルトの夜景を楽しむことができる。

 自力の旅の最初の一歩は、ダイヤを調べて乗る飛行機を決めること。往路復路が決まらなければ、計画は立たない。そして、調べれば、ツアーより楽な飛行機が見つかることもよくある。

 KLMオランダ航空には、最近、お世話になる。ルフトハンザやエールフランスよりも少しだけ安いのもありがたい。

    ★   ★   ★  

< 9月26日 >

 10時25分発、KLMオランダ航空で関空を発った。

 以前は、関空からの最初の12時間のフライトが苦痛だった。緊張し、窮屈な座席で腰痛となり、昼間から映画を観ていると頭痛がし、すぐに映画にも飽きて心が倦んだ。ビジネスクラスにも乗ってみたが、休日の一日を朝から晩まで自宅のソファでゴロゴロしているのと同じで、かえって疲労感がたまり、エコノミーの席で姿勢正しく過ごした方がましかもしれないと思った。

 ところが、最近、なぜか、この12時間があまり苦にならなくなった。結構、心も体も元気で、アムステルダム・スキポール空港に降り立つようになったから不思議だ。旅慣れて緊張しなくなったせいもあろうが、年とともに、時間が経つのが速くなったのかもしれない。

        ★

 高度を下げ、着陸態勢に入った飛行機の窓から、オランダの風景が見える。

  (アムステルダム近郊の風景)

 上空から見ると、オランダは本当に水の国である。世界の土地は神が創造したが、オランダの土地はオランダの女たちがつくった、と言われるそうだ。男が生業に携わっている間、女たちは毎日、土方仕事をした。堤防を造り、海を埋め立て、オランダの土地を広げていった。オランダの国土は海面より低い。

 オランダも、フランスも、緑豊かな農業国だ。

 それにひきかえ、スペインは土壌が貧しい。(たぶん、スイスもそうだろう)。

   スペインの大地は荒涼としている。土は大地の表面に薄く貼り付いているだけだ。しかも、そこに無数の石ころがゴロゴロしている。スペインを旅しながら、なるほどこれではオリーブしか育たないと思った。(当ブログ「アンダルシアへの旅」2、4)。

 同じイベリア半島のこと、ポルトガルもそうなのだろうか ……??

         ★ 

 ポルトガルは遠い。

 アムステルダムで乗り継いで、いっそう狭くなった機内に閉じ込められ、さらに3時間。隣に相撲取りのような体型の白人が座り、この3時間は苦しかった。

 日の暮れたリスボン空港に着いたときは、ほっとした。

        ★

 ヨーロッパ旅行の旅の情報は、ひと昔前までは『地球の歩き方』ぐらいしかなかった。今は、ネットをさがせば、生き生きした役に立つ情報が手に入る。

 リスボン空港で待機しているタクシーには乗るな、というのが、リスボン在住の日本人が作成しているブログ、その他からの一致した意見である。

 大なり小なり、ヨーロッパのタクシーに、そういう傾向はある。かつてチェコの首都プラハのタクシーもひどかった。評判を耳にしたチェコの大統領が、試しに空港からタクシーに乗ったら、やはりぼったくられた。国の玄関口で何をするか。激怒した大統領は、徹底的な撲滅を指示し、ぼったくりタクシーは壊滅した。

 リスボンの空港に話を戻し、この空港に慣れた人は、飛行機を降りて、到着ロビー (地上階) に出たあと、そこに待機しているタクシーに乗らず、出発階である2階に上がって、リスボン市内から客を乗せてきたタクシーを拾うそうだ。(ナルホド! すご技! )。

 しかし、一般的な日本人旅行者へのアドバイスとしては、到着ロビーのツーリストインフォメーションに行けば、インフォメーションが契約しているタクシーを呼んでくれる、というのである。市内まで一律料金で、少々高くなるが、ホテルの玄関まできちんと送ってくれて、安心だという。

 もちろん、そのようにした。リスボン到着早々、いやな思いはしたくない。

 インフォメーションのアフリカ系の女性は優しく、長旅に疲れた年配の東洋人旅行者へのいたわりが感じられた。ポルトガルで、最初に出会ったポルトガル人である。その場で料金を払って領収書をもらうと、すぐにタクシーの運転手が迎えに来てくれた。運転手は、終始、穏やかで丁寧であった。 

 リスボンという町は、丘陵にひらけた坂の多い街で、一番低いところをテージョ川が流れている。

 タクシーは、夜の街の大通りを、緩斜面のゲレンデを直滑降で滑るように、川へ向かって下っていく。

 街灯の灯りで、ガイドブックにあったリベルダーデ通りの鬱蒼とした並木が見えたとき、とうとうリスボンまでやって来た … と思った。

         ★

 翌朝、目がさめて、部屋の窓を開けると、テージョ川があった。まるで海を見るように広く、貨物船がゆっくりと動いていた。

 多くの帆船が ── あのフランシスコ・ザヴィエルを乗せた船も ── ここから大航海の旅に出た。東方へ。インドへ。まだ見ぬジパングへ。織田信長に見せてやりたいものだ。

        ★

 「チバングは、東のかた、大陸から1500マイルの大洋中にある、とても大きな島である。住民は皮膚の色が白く礼節の正しい優雅な偶像教徒であって、独立国をなし、自己の国王をいただいている。この国ではいたる所に黄金が見つかるものだから、国人は誰でも莫大な黄金を所有している」。(「東方見聞録」)。

 「そなたの前には、時至らねば現れぬかもしれないが、海のはてに日本がある。清き白金を生み、神の光に照らされているその島が」。(ポルトガルで最も尊敬されている大航海時代の詩人・カモンイスの詩の一節)。

 いずれも、『南蛮の道Ⅱ』(司馬遼太郎)からのまた引きである。

    

  (ホテルの窓から、朝のテージョ川)

 

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旅の初めに (その2) … ユーラシア大陸の最西端の国ポルトガルへの旅 2

2016年11月24日 | 西欧旅行……ポルトガル紀行

(ジェロニモス修道院とポニーテールの女性馭者)

 ジェロニモス修道院は、エンリケ航海王子とヴァスコ・ダ・ガマの偉業 (1498年、カルカッタ到達) を讃えて、1502年から1世紀をかけて建設された。リスボンのテージョ川に開けたベレン地区にある。世界遺産。

         ★

< 旅のもう一つの目的は、エンリケ航海王子のサグレス岬 >

 ユーラシア大陸の最西端の岬は、ロカ岬である。

   従って、「ユーラシア大陸の最西端ポルトガルへの旅」の一つ目の目的地は、ロカ岬である。

 リスボンから西へ、列車で40分のところに、シントラという王家の宮殿が残る美しい町がある。そこを見学してから、シントラ駅でバスに乗り、さらに西へ40分行くと、ロカ岬に達する。2カ所合わせて、リスボンから1日の観光コースである。

 日本の旅行社のポルトガルツアーに参加して、ロカ岬に行かないツアーはない。どこの国からの観光客であろうと、ポルトガルに行けばたいてい訪れる定番のコースである。

 ポルトガルへ行こうと決めてから、旅行社のツアーに申し込もうかと、何度も考えた。ヨーロッパとはいえ、初めて行く、日本からみれば地の果てのような国ポルトガルのことである。遠い。

 ところが、旅行社のツアーの行程表を見ると、フランクフルト空港でなんと5、6時間も乗り継ぎ待ちをして、リスボンに着くのは深夜である。帰りの飛行機も、早朝6時ごろの飛行機に乗るから、その日はホテルを朝3、4時に出発することになる。

 もっと便利な飛行便はないのだろうか??

 南北に細長く、しかも、鉄道網が張り巡らされているとはいえないポルトガルを観光するには、ツアーに入って観光バスで回る方が明らかに効率的だろう。

 だが ……、私には、ロカ岬以外にもう一つ、どんなツアーも行かない、およそ「観光地」の要件を満たさない、荒涼とした、ある岬へのあこがれがあった。

 サグレス岬

 ユーラシア大陸の最西端はロカ岬だが、最西南端は、サグレス岬である。

 そこは、荒涼とした地で、今はほとんど何も残っていないが、15世紀、エンリケ航海王子が世界最初の航海学校(研究所)をつくり、世界の果てに思い馳せた岬である。

 岬の遥か先には、アフリカ大陸の北端がある。そのアフリカ大陸の西岸を進みに進んで行けば、いつかは大陸の南端を回り、インドに行きつくに違いない

 「ユーラシア大陸の最西端ポルトガルへの旅」の二つ目の目的地は、エンリケ王子のサグレス岬である。

 サグレス岬へ行くとしたら、…… 自力で行くしかない。

 迷った末、自力の旅を選んだ。

        ★

< 110点の旅でした >

 今回の旅を評価すれば、この二つの岬に行けたから、それだけで十分満足の80点。

 その他は、プラスアルファで、減点法ではなく、加点法。その他の中では、トマールとポルトがとても良かったから、20点×2で、満点をオーバーして120点。

 それ以外にも、現地の日帰りツアーに入って主な名所・旧跡を回ったし、もちろんリスボン市内も、1日を当てて散策できたから、それらを合わせて、さらにプラス20点。

 ただし、…… リスボンのチンチン電車の中で、ロマのおばさんにスマホをスリ盗られたから (えっ、疲れていて、すっかり油断した!! 悔しい )、 これは減点でマイナス30点。 

 それでも、差し引き110点の、満足すべき旅でした。

 (スマホには黒い皮のカバーを付けていたから、感触からして財布だと思ったに違いない。お互いにがっかりだ)。

 

   (リスボン名物の路面電車)

 ヨーロッパの多くの都市は、環境保護の観点からトラムを復活させ、その瀟洒な姿が街並みに溶け込んでステキである。だが、貧しいリスボンは昔ながらの路面電車。でも、それがかえって人気を呼び、観光客でいつも満員になる。すなわち、スリの活躍の場となる。 

         ★

エンリケ航海王子のこと >

 エンリケ (英語ではヘンリー) 航海王子については、何も知らなかった。遥か昔、高校の世界史で習ったのかもしれない。しかし、ヴァスコ・ダ・ガマは覚えているが、エンリケは知らない。

 知ったのは、司馬遼太郎 『街道をゆく 南蛮の道Ⅱ』 を読んだときである。読んで、エンリケという人に、強く心惹かれた。孤独を愛する、ストイックな男子なら、誰でも彼に心惹かれるだろう。

 今まで、このブログで、司馬遼太郎の文章を何度も引用した。話題が一致すれば、私のつたない文章より、国民的大作家の、簡潔にして豊かな文章力にゆだねたほうが良い。

 だが、今回の旅は、旅の動機そのものが、司馬遼太郎の著作に発する。故に、今回の旅のうち、リスボン及びサグレス岬への旅の部分は、自ずから司馬遼太郎の旅の追体験でもあった。

         ★    

 以下、司馬遼太郎 『南蛮の道Ⅱ』 から。 ※ ただし、(年数) は、ブログ筆者が付けた。 

 「私がポルトガルにきたのは、信じがたいほどの勇気をもって、それまでただむなしく水をたたえていた海洋というものを世界史に組み入れてしまった人々の跡を見るためであったが、この大膨張をただ一人に象徴させるとすれば、エンリケ (1394~1460) 以外にない。かれの死後、艦隊をひきいてインド洋に出て行った (カルカッタ到達 1498年) ヴァスコ・ダ・ガマは、エンリケの結果にすぎない。

 ガマの大航海の結果がやがては日本に対する鉄砲の伝来となり(1543年)、つづいてフランシスコ・ザヴィエルの渡来になる(1549年)。また日本に南蛮文化の時代を招来し、そのうえ南蛮風の築城法が加味された大坂城 (1589年) が出現する契機ともなった。瀬戸内海をへてその奥座敷ともいうべき大坂湾に入ってくる南蛮船に対し、貿易家である秀吉が日本の国家的威容を見せようとしたのが、巨大建造物の造営の一目的だったことは、たれもが想像できる。

 それより前、秀吉以上に南蛮文化の正確な受けとめ手であった織田信長は、近江の安土城 (1576年) にあって大坂の地を欲し、石山本願寺に退去を命じ、これと激しく戦った。ようやくその湾頭の地を手に入れたものの、ほどなく非業にたおれた (1582年)。

   大坂に出るべくあれほどに固執した信長の意図は、想像するに、ポルトガル人たちから、リスボンの立地条件についてきいていたからであろう。リスボンは首都にして港湾を兼ね、世界中の珍貨が、居ながらにして集まるようにできている。信長にすれば、『首都はそうあらねばならない』と思ったにちがいなく、その思想を秀吉がひきうつしに相続した」。

         ★

   「残されている晩年のエンリケの肖像は、山林の修行僧のように内面的な顔をしている。面長で、頬は削げ、手入れした形跡のない口ひげがまばらに生え、眉もうすい。両眼は、どこを見ているわけでもない。偏執的とまでいかなくても、ただ一つのことに集中できる性格をあらわしている。服装は粗末で、つば広の黒い帽子をかぶり、僧が日常着る法衣 (ロープ) のようなものを着ているが、その服装どおり、かれは生涯妻をめとらず、女性と無縁だった。

 (サグレス岬に立つエンリケ航海王子)

   ちなみに、エンリケは航海王子とのちによばれながら、海洋経験は若いころに2度ばかりアフリカに渡っただけのことで、みずから操船したことは一度もなかった。かれは海洋教育の設計者であり、航海策の立案者であり、推進者であった。かれの偉大さは、むしろ海に出なかった、"航海者"であるというところにある」。

          ★

 ふーむ。その気質は、昔、映画で観たイギリス人「アラビアのローレンス」を思わせる。エンリケの母はイギリスの王族で、父である若きポルトガル王に輿入れしてきた。(続く)

  

 

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旅の初めに (その1 ) …… ユーラシア大陸の最西端の国ポルトガルへの旅 1

2016年11月20日 | 西欧旅行……ポルトガル紀行

 3か月近く更新しなかったにもかかわらず、その間も見捨てることなく、多くの方々がこのブログを開いて見てくださいました。心からお礼申しあげます。

 また、これから、ゆっくりとですが、がんばりますので、今後ともよろしくお願いいたします

 さて、9月26日に出発し、10月5日に帰国するという10日間の日程で、ポルトガルに行ってきました。ブログ再開の最初は、「ユーラシア大陸の最西端の国ポルトガルへの旅」です。

       ★

 旅の動機・目的は二つ。

 ヨーロッパのどこかの国から、日本への帰国便に乗る。機内で一夜を過ごし、早朝に窓から日本列島が見えてきたとき、いつもある感慨がわいてくる。…… 私たちのすむ島国は、広大なユーラシア大陸の東の果て、さらにそこから幾ばくかの波濤を超えて、もうこの先には海しかないというところに位置しているのだ、という実感である。いとおしい思いとともに。

        ★

 ユーラシア大陸の西の端にあって、日本と同じように小さな国々の集まりであるヨーロッパ。

 しかも、それぞれが、私たちの国にまさるとも劣らない長い歴史と文化をもち、今も先進国であり続けるヨーロッパ。

 ヨーロッパとは何かを自分なりにきわめたくて、何度も旅するようになった。

 フランス、イタリア、ドイツなどは幾度も、さらにスペイン、オーストリア、チェコ、ハンガリー、スイス、スロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナなどなど …… 。

 旅を重ねていくうちに、日本はユーラシア大陸の最東端の国。それなら、ユーラシア大陸の最西端の国にぜひとも行ってみたいと思うようになった。しかも、その国・ポルトガルの、大西洋の波濤がうち寄せる最西端の岬の断崖の上に立ってみたいと。

 旅の心は、遥けさなのである。

 これが今回の旅の動機の一つである。

       ★

 2012年の冬、「冬のサンチャゴ・デ・コンポステーラ紀行」の旅をした。

 サンチャゴ・デ・コンポステーラはキリスト教の三大巡礼地の一つであるが、もちろん、徒歩による巡礼の旅をしたわけではない。飛行機と列車を乗り継いだのだが、それでも遥々と遠かった。スペインの北西部、ガリシア地方にあり、大西洋に近い。

 連泊して、大西洋が見たくて、フィステリアという漁村まで行ってみた。そこは、スペインの最西端、大西洋に臨む断崖がある地である。

聖ヤコブ大聖堂

  (スペイン/巡礼の地・聖ヤコブ大聖堂)

 

  (スペイン/大西洋に臨むガリシア地方の漁村)

 (スペイン/フィステリアの灯台と大西洋)

  (スペイン/地の果てに立つ)

 冬の大西洋は迫力があり、遥々と、ユーラシア大陸の果てまできた、という感慨がわいた。

 だが、フィステリアは、ユーラシア大陸の北西端ではあっても、最西端ではない。本当の最西端に立ちたければ、ポルトガルに行く必要がある。

       ★

 司馬遼太郎『南蛮の道Ⅱ』の中に、次のような文章がある。

 「私は、パリでカトリーヌ・カドウ嬢に会った夜のことを思い出している。ポルトガル人とスペイン人は似ているか、ときいたとき、

 『性格?』。

 彼女はかぶりをふった。

 『ちがっている。顔も。── ポルトガル人の顔は』。

 彼女は自分の顔に手をそえて、『海にむかっていて、悲しげです』。」 

       ★ 

 今回、ポルトガルを旅していて、「日本人か?」と質問され、「日本人が好きだ」と言われた。

 「いま、いっぱい中国人が観光に来ているが、日本人との違いはわかる。…… 日本語の語感も好きだ。英語は好きでない。『サン・キュー』よりも、『アリガトウ』が好きだ」。

  日本人が「海に向かって、悲しげである」とは思わない。だが、多分、シャイなところ、厚かましくないところは、ポルトガル人と似ているのだと思う。そこが、ポルトガル人と日本人の似ているところで、スペイン人や中国人と違うところかもしれない。

 ちなみに、ポルトガル語の「ありがとう」は、「オブリガード」(男)、「オブリガーダ」(女)。私には、旅の間中、「アリガトウ」と言っているように聞こえた。

        ★

 ユーラシア大陸の最西端、大西洋を望む岬のある国の人々は、ユーラシア大陸の最東端、黒潮洗う国からやって来た旅人に、どこかなつかしさをおぼえてくれるに違いない。  

 ユーラシア大陸の最西端の岬に立ちたい、というのが、この旅の動機の一つ目である。  

 

 

  

 

 

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