ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

アテネにて (旅の終わりに) … わがエーゲ海の旅 (15/15)

2019年08月29日 | 西欧旅行 … エーゲ海の旅

< ロードス島からアテネへ >

 5月19日(日) 

 ロードス空港へ向かうため、朝、8時、ホテルの前でタクシーを待ったが、来ない。

 日本からネットでホテルを予約したとき、同時にタクシーの予約もしたつもりだった。

 往路はロードス空港にちゃんと迎えに来てくれていた。

 だが、どうも帰路の予約ができていなかったようだ ── なにしろ英語のネット画面を見ながらの作業。飛行機やホテルの予約と違って、つい雑になったようだ。

 結局、ホテルのフロントで呼んでもらった。往路だったら、ローカルな空港に降りてタクシーがなく、ちょっと途方に暮れたかもしれない。

        ★

 ロードス空港を9時50分発の飛行機に乗り、1時間のフライトでアテネ空港に着いた。窓からエーゲ海の島々が見えた。

 アテネ空港のインフォメーションで、明日乗るミュンヘン経由関空行の飛行機のチェックインの場所を調べてもらう。

 ── レベル1(2階)の140番から147番の間です。

   過去の旅で、帰国の時、大勢の団体客が行列をつくる空港のどこに並べばよいか、戸惑ったことが何度かあった。提携するローカルな航空会社のデスクでチェックインする場合もある。とにかくこれで安心だ。

 空港バスに乗って、シンタグマ広場へ。

 明朝は早いので、降りたバス停の窓口で、明朝のバスの時刻表を写す。午前5時20分発のバスに乗れば、多少何かあっても余裕があるだろう。

 これで明日の段取りはついた。ホテルへ向かう。前と同じホテルだ。

        ★ 

ミトロボリオス大聖堂の前の広場 >

 

 少しばかりお土産を買ったあとは、もう行きたい所もなく、街の中をぶらぶら歩く。

 屋台のパン屋のおじさんが、今日も同じ場所で店を開いている。

 

 アレオス通りに出ると、アクロポリスの丘が見えた。紀元前の昔には、麓の町のどこからでも、こうして聖なる丘を仰ぎ見ることができたのだろう。右前方の丘の下が、当時、人々が集った古代アゴラだ。 

村上春樹『遠い太鼓』(講談社文庫)から

 「アテネといえば人口300万を数えるギリシャ随一の都会 (これは実にギリシャの総人口の三分の一近くに相当する) ではあるけれど、観光客が通常 動きまわるエリアに限って言えば、それほど大きな町ではない」。

 「この街は大昔のポリスのまわりに、まるで磁石に鉄屑がくっつくように近郊住宅地が付着して、そのまま無定見にぼわぼわと発展したような都市だから、観光客にとって興味のある場所ははっきりと中心部に限られている。だって近郊住宅地部分なんか見に行ったってしかたないから、…… 普通の人はアクロポリスに登って、プラーカでレッツィーナを飲んでムサカを食べて、町をぶらぶら歩いて、土産物屋をのぞいて、シンタグマ広場でお茶を飲んで、リカヴィトス山からアテネの夜景を見て、その後時間と興味のある人は国立考古学博物館を見学して、それでおしまいである」。

  アクロポリスも国立考古学博物館も行った。リカヴィトス山にはまだ行っていないが、億劫だ。

 海に臨むロードス島で、聖ヨハネ騎士団長の居城や病院、空堀の向こうに連なる城壁と城門、それからマンドラキ港の満月、リンドスの群青の海の上のアクロポリスの遺跡、「ママ・ソフィア」の海の幸など … それらと比べると、アテネの街は観光客ばかりで、スリに気を使い、雑然として、風情がない。パリやイスタンブールのような美しい街ではない。

 そのアテネの街のお気に入りの一角。

 ミトロボリオス大聖堂の前の緑の木蔭の広場へ行って、時を過ごそう。

 『地球の歩き方』に、「アテネいちの大聖堂だけあって、重厚な趣がある。古代の乾いた遺跡を見慣れた目には、久しぶりの生きた見どころ」とあるが、… 確かに、遺跡だけでなく、街もそうだし、バルカン半島の風土そのものが乾いている感じだ。

 そんな街の中で、この一角だけ、樹木がこんもりと木蔭をつくり、涼しさが通りぬける。

 それに、大聖堂と隣り合わせたアギオス・エレフテリオス教会が、野の花のようで可愛い。

 「カフェ・メトロポール」の木蔭のテラス席でギリシャコーヒーを飲んだ。

 コーヒーを飲んでいると、周囲からギリシャ語が聞こえてくる。何をしゃべっているのか全くわからないが、男も女も早口で、まるで小鳥の囀りのようだ。いくら母国語でも、こんな早口でしゃべり合って、よく聞き分けられるものだと思う。

        ★

旅の最後の夜 >

 今日は日曜日。日曜の夜、このホテルでは、最上階の一面ガラス張りのフロアが、宿泊客以外も利用できるバー・コーナーになるようだ。

 一杯の白ワインを飲みながら、アクロポリスの丘のパルテノン神殿のライトアップを楽しんだ。漆黒の夜空に浮かび上がって、古代の遺跡は印象的だった。

    ★   ★   ★

アテネ空港から関空へ >

 5月20日(月) 

 夜明け前のシンタグマ広場からバスに乗った。

 アテネ空港では、セキュリティ検査のフロアーでも、搭乗前も、何人かの警察官と空港職員の眼が一人一人の顔に注がれた。重要犯の国外脱出を見張っているのだろうか??

   8時35分、アテネ出発。

 ミュンヘンには現地時間10時20分に到着(時差あり)。

 アテネは快晴だったが、ミュンヘンは雨。天気予報を見ると、これから先、数日、ミュンヘンは雨模様のお天気だ。

 2時間の待ち時間だが、あとは関空行に搭乗するだけ。ここまで帰れば、ほとんど日本に帰ったようなほっとした感がある。

 ミュンヘン空港でも、警察官と空港係員が乗客の顔を一人一人確認していた。テロの情報があるのだろうか。

 12時15分に出発。

 飛行機が飛び立ち、まだ地上と雲との間を飛んでいるとき、窓から下界を眺めると、赤い屋根に白い壁のメルヘンチックな家々が小さく見え、その先には区画された黒っぽい土と緑の畑が広がり、その向こうに森がある。

 何とみずみずしく潤いのある風景だろうと思う。ギリシャとは、風土がこんなに違う。白っぽい岩だらけのギリシャと、黒っぽい土と緑が広がるドイツ。

 これから東へ東へと飛び、地球は西へ回る。やがて、夜明けを迎えに行くように飛んで、日本時間の朝6時過ぎには、関空に着く。

    ★   ★   ★

旅の終わりに >

 おだやかで、心楽しい、とてもいい旅だった。

 この頃、海外旅行のことでネットを見ると、例えば、ギリシャの人気観光スポットのランキングとか、アテネの人気レストランのランキングとか、ランキング流行りだ。参考になることもある。

 それで、今回の「エーゲ海の旅」の中から、私の「良かった!! 印象度ランキング」をつくってみた。旅の思い出として残しておこう。

<第1位> リンドスの群青の海と、海から聳えるアクロポリスの丘。丘の上の古代遺跡や聖ヨハネ騎士団の城壁 …… それに白い街も。リンドスまでの船旅も良かった。とにかくリンドスは印象的でした。 

        ★

< 第2位 > ロードスの聖ヨハネ騎士団団長の居城、病院(考古学博物館)、空堀と城壁・城門 …… この旅のメインテーマ。『ロードス島攻防記』の舞台を実際に目で見て、感じることができました。

           ★

< 第3位 > ロードスのマンドラキ港の巨像が立っていた場所という2頭の鹿の像、風車、セント・ニコラス要塞、そして満月 …… ロードス島滞在中、毎日、見た絵葉書のような景色。心に残る風景、私のエーゲ海です。

        ★

< 第4位 > ロードスの旧市街の黄色い石積みの家々とレストラン「ママ・ソフィア」…… ソティリスさんの日本語による温かいもてなしと新鮮な魚介料理。心に残りました。この旅の画龍点睛です。

        ★

< 第5位 > アテネのアクロポリスの丘 …… パルテノン神殿よりもエレクティオン。そして丘の上から見下ろした遺跡の数々も印象に残りました。ホテルの最上階から見た丘も、良かったです。

                    ★

< 第6位 > アテネの国立考古学博物館とロードスの考古学博物館 …… 国立考古学博物館には、教科書に出てくるような彫刻がたくさんありました。また、「ロードスのビーナス」も気に入りましたね。私は、ミケランジェロやロダンより、古代ギリシャ・ローマ時代の彫刻の方がすっきりして好きです。

          ★

< 第7位 > サロニコス諸島一日クルーズ …… 現地ツアーに参加して、のんびりした1日でした。

        ★

< 第8位 > 聖ヨハネ騎士団の出先の城塞があるコス島 …… 結局、地震でクローズでしたが、この日もお天気で、のどかなエーゲ海の1日を過ごしました。 

        ★

< 第9位 > ロードスのアクロポリス …… 目立たない遺跡でしたが、ここが古代ロードスの中心だったのだと、感慨がありました。「滅びしものはなつかしきかな」。

        ★

< 第10位 > 名前がわからないがロードスの旧市街の大樹の木蔭のカフェ … 地元の人も集う、素朴で、涼しく、心地よいカフェでした。疲れが癒されました。

        ★

< 第11位 > アテネのミトロボリオス大聖堂の前の広場と「カフェ・メトロポール」 … 私にとって心落ち着かないアテネの街の中のオアシスでした。アギオス・エレフテリオス教会は野の花のようで、「カフェ・メトロポール」はアテネの名カフェです。

 以上です。なかなか順位をつけるのは難しい。

        ★

※ 帰宅して、このブログを書きながら、ツタヤで借りたギリシャ映画『タッチ・オブ・スパイス』をみました。テッサロニケ国際映画祭で作品賞、監督賞以下、数々の受賞に輝いた作品です。

 キプロス紛争下のギリシャとトルコ、国と国との厳しい対立を背景にして、アテネとイスタンブールの町を舞台に、トルコ人の祖父とギリシャ人の孫の愛情、そして、幼い日に別れた初恋の人との再会と別れが、ちょっとコミカルに、でも、ちょっと切なく描かれて、見終わった後、とても美しい映画をみたという印象が残りました。機会があれば、ご覧ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ロードスのアクロポリスへ … わがエーゲ海の旅 (14)

2019年08月25日 | 西欧旅行 … エーゲ海の旅

 BC10世紀ごろというから、ほとんど神話的な時代のことだが、ドーリア人がロードス島に侵攻してきて、初めにリンドスを建設した。

 ロードス市の建設はBC5世紀ごろで、古代においては新興都市であった。

 ロードス島の中心はリンドスからロードスへ移っていき、ヘレニズム時代に最も栄えた。「世界7不思議」の1つの巨像もつくられる。

 ローマ時代には、「アテネと並び称された哲学の最高学府があり、キケロもカエサルもブルータスも、そして二代目の皇帝になったティベリウスも、若い頃にここに学びに訪れた」 (『ロードス島攻防記』) という。

 古代のロードス市の中心は、今の「旧市街」ではない。世界遺産になっている現代の「旧市街」は、聖ヨハネ騎士団の時代の「中世都市」である。

 古代ロードスのアクロポリスは、『地球の歩き方』の小さなマップを見ると、旧市街から南西方向へ、新市街のさらに向こうの郊外の丘(山)である。

 『地球の歩き方』には、「スミス山 ─ 古代ロードスのアクロポリス」という表題で、わずか数行の説明があるだけだ。 

 「ロードスに残るわずかな古代遺跡」。

 「馬蹄形をした古代スタジアム小さな古代劇場、そしてアポロン神殿がある」。

 「敷地内にアクロポリス資料館があり、…… 頂上からは島の先端やエーゲ海が見渡せ、美しい夕日が見られることでも有名」とある。

  だが、この時期、日没は午後8時頃。昼間でも行きにくい人里離れた遺跡の丘へ、そんな時間に行くのはムリと、「夕日」は早々にあきらめた。

 それにしても、なぜ「スミス山」などという無粋な名が付けられたのだろう。この遺跡の発見者の名だろうか??

 ネットで調べても、ウィキペディアも含め、この遺跡についての学術的な説明はほとんどない。

     ★   ★   ★   

ロードスのアクロポリスを歩く >

 『地球の歩き方』には路線バスもあるように書いてあるが、期待できない。たぶん、地震で「アクロポリス資料館」はクローズ。ゆえにバス路線もそこを通っていない。

 旧市街から歩くと30分という情報もあった。それは道を知っている若く元気な人の場合だろう。

 歩くとしたら、帰路。往路で土地勘もでき、それに、帰りは下りの道だから多少は楽。往路はタクシーにしよう。

 タクシーが住宅街を抜けると交差点はなくなり、ただ一本の道路が、木々と雑草の生い茂る中を蛇行しながら斜面を上がっていく。

 「この左手のあたりだよ」と、運転手は車を止めた。道路の左手は、樹木の生えた草むらがあるばかり。道を尋ねても、運転手も詳しいことは知らないようだ。

 来る途中、「帰りが大変だよ。待っていようか」としきりに誘われたが、「歩いて帰る」と断った。

 草深い丘(山)の上の遺跡で、どれくらい時間を要するか、見当がつかない。それでも、せっかく訪ねたのだから、そこがどういう所かということは見て、納得してから帰りたい。待たれていると、気持ちが落ちつかない。

 「徒然草」に、石清水八幡宮に参詣に行って、山上に本宮があるとは知らず、麓の寺社だけ参拝して帰った仁和寺の法師の話がある。帰ってから、周りの人に、「話に聞いていたより尊く立派な神社だった」と言ったという。── わざわざ日本からやってきたのだから、仁和寺の法師にはなりたくない。

 車を降りた所は、草山の中腹の上部で、人けもなく躊躇したが、とにかく草の中に細い道があったので、分け入った。

 するとほどなく小高い所に出て、下を高校生ぐらいの生徒たちが歩いていた。歴史学習だろうか?? 

 目の前にあるのは、石の観客席だ。

 アテネのアクロポリスの丘から眼下に古代の劇場(音楽堂)を見下ろしたが、あの劇場を小ぶりにしたような施設だ。これが「小さな古代劇場」だろう。

 そして、古代劇場のすぐ下、生徒たちが歩いているところが「馬蹄形をした古代スタジアム」だ。

   両方ともなかなかしっかりした遺跡である。ギリシャ時代のものだろうか?? ローマ時代のものかもしれない。

 そこまで降りてみようかと思ったが、それは帰りでよいと考えて、もう少し上へ上がってみた。

 登りの斜面の草むらの中を1人、或いは、2、3人連れで歩いている見学者もいる。人のことは言えないが、もの好きな歴史愛好者はどこにでもいるものだ。

 すぐに見晴らしの良い所に出た。 

 「小さな古代劇場」と「馬蹄形のスタジアム」の先には、オリーブや樫の木のこんもりした原っぱが続き、その向こうに町があり、さらにその向こうは海と空。

 古代の人々は、こういう海を望む丘の劇場で、観劇を楽しんだのだ。

 その後、西欧を支配したキリスト教的な世界観・人生観からは生まれてこない文明の姿だ。

 さらに登ると、奇妙な塔のようなものが立ち、礎石がまわりに広がっていた。

 ここが、「アポロン神殿」の跡だろう。リンドスのアクロポリスほどに海に屹立しているのではないが、ここもまた、海を望むアクロポリスの神殿である。

 塔のように見えたのは、幾本かの神殿の石の柱だ。

 柱を囲っている鉄骨状のものは、工事用ではない。石柱が倒れないように、こうして支えているのだ。遠くない過去に、地震で崩壊しそうになり、人工的に支えているのだ。

 イスタンブール(コンスタンティノープル)のアヤ・ソフィアがそうだった。夢枕獏の『シナン』を読んで、「神を感じることのできる場所」を期待して行ったアヤ・ソフィアだったが、側廊の半分近くが鉄骨の骨組みによって支えられていて、正直、がっかりした。

 アヤ・ソフィアはともかく、長い時間のなか、かろうじて残ったアポロン神殿の2、3本の石柱を、こうまでして立たせておかねばならないのだろうか、と思った。これでは、古代の神殿の威厳というものが全く感じられない。

 倒れて草むした石をそっと撫でてあげる方が、古代の神殿にふさわしい遇し方ではないだろうか。

   アテネの遺跡のことであるが、饗庭孝男は『石と光の思想』(勁草書房)にこのように書いている。

 「アクロポリスの丘の上には、タンポポの黄色い花が、廃墟の白い石柱の崩れた破片の蔭に咲き乱れ、その花のあいだを褐色の小さな蝶が飛び交い、パルテノン神殿の壮大な世界の上には、限りなく広い空が拡がっていた

 私はまた、ゼウスの神殿の前の青草に寝て、絶望的なほどにまで青くみえる空を眺め、カミュが、自然の世界はつねに歴史に勝つことに終わると述べた言葉を思い出していた。… 」。 

 「廃墟に白い花のごとく見える神殿の石柱の破片を今もなお人間の意志のあらわれと見ることができるだろうか?

 それらは半ばもはや自然の中に帰り、人間の痕跡を目に見えない形で風化させてゆく時間の歩みに埋没してしまっている。

 はるかな歴史の遠近法の中では、これらは死者の意味をもつよりも、もはや自然の意志 ── 人間の痕跡の奥にひそみかくれていた永遠ともいうべき ── のあらわれのようにさえ思われた。

 にもかかわらず、石の表面に、今はおぼろげにしかうかがわれない模様が私の魂をとらえて離さないのである。」(同上)  

         ★

 この丘に残る3つの遺跡を全部見ることができたので、海のそばの「中世の町」まで歩いて帰ることにする。

 「小さな古代劇場」の横を降りると、「馬蹄形をした古代スタジアム」に降り立つ。

 ローマのチルコ・マッシモやトルコのアフロディシアス遺跡の古代スタジアムなどと比べると、小ぶりで、「ベン・ハー」の戦車競技を行うのは無理かもしれない。しかし、人間のランナーが走るトラックとしてなら、現代の競技場としても遜色ない。観客席もある。

 スタジアムの下は、オリーブの木が植えられた原っぱだ。  

 遺跡のある場所にはオリーブの木を植えて、開発不可の公有地であることを示すのが、ギリシャのやり方のようだ。

 それにしても、人工の痕をとどめた石がごろごろと置かれているだけで、このあたり一帯にどのような建物が並んでいたのか、今は想像することもできない。

 一番高い所に神殿があり、その下に市民が集う劇場やスタジアムがあり、さらにその下に人々の住む街があって、海に臨む一つの都市を形成していたのだろう。

 ユリウス・カエサルも、ティベリウス皇帝も、若い日にこの町を訪れた。だが、それは遠い昔のことであり、今は茫々とした廃墟である。

 「かたはらに 秋草の花 語るらく 滅びしものは なつかしきかな」(若山牧水)

 古代ギリシャやローマの廃墟を見るたびに感じる感覚を、散文として書き表せば饗庭孝男の『石と光の思想』になるし、それを1行で言い表せば若山牧水の歌になる。

 日本列島に生まれた私たちにとって、山も、川も、樹木も、そしてまた、人間も、大きな「自然」の中のごく小さな一部に過ぎない。私たちは、「自然に(自ずから)~なった」という表現をする。全ては「自然」から生まれ、「自然」に帰していく。 

 緑のある遺跡の原っぱは心地よかったが、やがて原っぱが尽き、住宅街の中の道路を延々と歩くことになった。暑い日差しの中を歩きながら、これは年不相応の過酷なウォーキングだと思った。だが、他に手段はなく、ただ歩いた。

 途中、ご近所のおばあさんに、旧市街はこっちの方向でいいか聞いてみた。おばあさんは、とても丁寧で、やさしかった。土地の人々は、一般的な日本人と比べて貧しげだったが、秋草の花のようにやさしかった。

 旧市街の南側の、外城壁と外堀の外周道路にたどりつき、もう一度、旧市街の城門をくぐって、街の中へ入った。

         ★

木陰のカフェで微風に >

 世界遺産の町とはいえ、騎士団長の居城やメインストリートのある町の北の賑わいと比べると、町の南の路地はさびれている。シーズンに入れば、もっと賑やかになり、店々も繁盛するのだろうか??

 イスラム教のモスクの手洗い場だったと思われる井戸の付近に、大きな樹木が生い茂って、涼しげな木陰をつくる広場があった。

 

 そこに、カフェ・レストランがあった。ここでひと休みしよう。

 「街の中では、どんな小路(コウジ)でも、いつもさわやかな微風が吹きかよう。汗をかいても、そうと気づく前に乾いてしまうのだった」(『ロードス島攻防記』)。

 この小さな広場の大きな木陰は、そういう場所だった。

 古びた黄色っぽい石積みの建物が、ロードスの旧市街の特徴だ。

 その建物の中がレストランだが、誰も屋内に入らない。

 それはそうだ。木陰のテラス席は本当に快適で気持ちがいい。時が過ぎるのを忘れるぐらいだ。

 もしわが家の近くにこんな気持ちの良い木陰のカフェがあれば、毎日、そこまでウォーキングして、1杯のギリシャコーヒーを注文し、1時間はうとうとと微風にあたっているだろう。仕事をしていた頃は仕事が面白かったが、今は、そういう生もあると思う。

 

 頑固そうなご主人が一人でテーブルクロスを替え、テーブル上に皿やさじを置いていく。にもかかわらず、小肥りの奥さんは椅子にでんと座って、…… 本を読んでいるのだろうか、スマホを見ているのだろうか? 手元から目を離さない。

 しかし、遠くからちゃんとお客に気を配っていて、追加の注文やお勘定や建物の中のトイレに行くときには、客の素振りだけでちゃんと反応する。プロフェショナルなのだ。

 1時間ものんびりと時間を過ごし、汗もすっかりひいた。

        ★

ママ・ソフィアで夕食を >

 ほど良い時間になり、一昨夜の「ママ・ソフィア」で夕食を食べた。 

 今夕も、ソティリスさんの暖かいもてなしを受け、料理も美味しかった。

 店の名の「ソフィア」はおばあさんの名前。祖父母が店を開いたときは、ごくごく小さなタベルナだったそうだ。2人は懸命に働き、店を大きくしていった。

 2人の息子たちのうち長兄が跡を継いだが、弟も一緒にこの店をもりたてた。一族経営でやってきたのだ。

 年配のおじさんが愛想よく注文を聞き、料理を運んでいるが、この人がソティリスさんの伯父さんらしい。

 3代目世代の中では、一番年長のソティリスさんが跡継ぎのマスターである。「私が跡継ぎです」と、そのときだけはちょっと誇らしげだった。

 「奥さんが日本人なんですね」「はい。1年、日本に留学して、そのとき引っかけられました」(笑い)。

 奥さんの顔を見ないが、来る前に見た他の人のブログでは、奥さんもとても感じの良い人らしい。

 「日本人の方は、ロードス島にはあまり来られません」。「ツアーではなく、個人でやってきて、このお店にも寄るような日本人は、私もそうなのですが、塩野七生という作家の『ロードス島攻防記』を読んでやってきた人たちが多いと思いますよ」。「そうなんですか。知りませんでした」。

 「明日はアテネに戻り、明後日の飛行機で日本に帰ります。今までヨーロッパをあちこち旅してきましたが、こんなに美味しいと思ったレストランはありません。… もう年ですから、ロードス島に来ることはないでしょう。どうかお元気でお店を繁盛させてください」。「そんなことおっしゃらないで、また、お元気なお顔を見せてください。お待ちしていますから」。

 「ママ・ソフィア」を目指してロードス島にやってくる日本人のリピーターもいるようだ。こんなに親しく迎えられ、しかも美味しいのだから、遠い日本からのリピーターがいるのもわかる気がする。

 今日も、美しいお辞儀で見送られた。この薔薇の花咲く島へ、そして、「ママ・ソフィア」へ、もう一度来れたらいいなあ、と心の中で思った。 

 

      ★

今宵もまた月の海 >

 旧市街の北の城門を見ながら、今日もまた海沿いに歩いてホテルへ向かった。

 黄昏の時間帯の空は、今宵も美しい。

 あれっ!! 今日も満月だ。エーゲ海の満月は3日も続くのだろうか??

   少女が2人、家族から離れて、ウサギのように月に戯れている。

 西欧の若い女性は、すでにこの年齢で、動作の1つ1つがモデルみたいだ。写真を撮るときなども、どういう角度で、どういうポーズをとったら自分が魅力的かをよく知っていて、すっとポーズをとる。そういうとき、テレとかハニカミはない。

 読売俳壇の選者の正木ゆう子さんの句から

  「水の地球 すこしはなれた 春の月」

   私も、真似をして駄作を。

  「ビーナスの 生まれし海に 春の月」

       ★

 明日はアテネまで戻り、明後日の早朝の飛行機に乗って、ミュンヘン経由で帰国する。

 今日はよく歩いた。なんと2万2千歩!! しかも腰痛も膝痛もほとんどなく、なかなかである。   

 

 

 

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『ロードス島攻防記』の舞台を歩く②(古戦場) … わがエーゲ海の旅(13)

2019年08月19日 | 西欧旅行 … エーゲ海の旅

  ( 城門を出る )

 騎士団長の居城を出て、昼食をどうしようかと思っていたら、レストランの呼込みのマダムに声をかけられた。

 ついて行ったら、ご主人らしい人が待っていて、ソクラトゥス通りを見下ろす良い雰囲気の席に案内された。

 白ワインでのどの渇きをいやし、オムレツを食べた。

        ★

城壁の外、古戦場を巡る > 

 聖ヨハネ騎士団は、オスマン帝国との決戦に備えて、現在の旧市街の周囲を、内城壁 ─ 内堀 ─ 外城壁 ─ 外堀と、二重の城壁と堀で囲っていた。

 堀は空堀だが、城壁は10mの厚さがあり、また、広い外堀の中には各国騎士団の砦もあって、敵の砲弾や地雷攻撃や総攻撃に耐えられるよう頑強に造られていた。

 騎士団が予想したとおり、オスマン帝国軍は海側(軍港側)からの攻撃を避けた。よって、ロードス島攻防戦の主戦場となったのは、町の西側と南側の全面、南側から回った東側の一部、即ち陸側だった。

 そのあたりを歩いてみよう。

 騎士団長の居城の西、旧市街の北西の角から、2つの城門と堀に架かる2つの橋を渡って、旧市街の外周を巡る道路に出た。

 10万の大軍でロードスの町を包囲したオスマン帝国軍は、1522年の8月1日に戦端を切った。

 その日以後、連日、町の西と南の外堀の向こうから、外城壁に向けて、大砲と臼砲と地雷による物量にまかせた、すさまじい攻撃が繰り返された。

 写真は、町の西側の外堀と外城壁の一部である。その向こうに騎士団長の居城がそびえている。

 大砲は空堀のこちら側に並べられ、10mの幅のある外城壁を崩そうと、直径20~30センチの石の砲丸が撃ち込まれた。

 さらに、空堀の下をくぐって坑道が掘られ、外城壁の下に地雷が仕掛けられた。坑道が掘られている地点がわかれば、計算して逆方向から坑道を掘り地雷を仕掛けて敵の坑道をつぶす。だが、人海戦術で掘る坑道の数が多くなると、その発見も対応も困難になった。

 大砲と地雷攻撃の間隙を縫って、オスマンの軍勢が殺到し、城壁に取り付き、攀じ登ってきた。

 そうした攻撃が毎日繰り返され、1か月半近くになった頃のことを、『ロードス島攻防記』は次のように描いている。

 「9月も半ばとなると、トルコ軍の撃ってくる砲丸は日に100発を越え、臼砲は、1日平均12砲が、イタリア、プロヴァンス、イギリス、アラゴンの各城壁に落下する。防衛軍の死傷者の数も、トルコに比べれば少ないにしても、じわじわと数を増しつつあった。アラゴンとイギリス城壁前の外壁の破損はとくにひどく、もはやそこに守りの兵をおくことは不可能になっていた」。(同)

 イタリア、プロヴァンスの守備位置は、商港 (コマーシャル・ハーバー)に続く町の東側から南側にかけてのあたり、イギリス、アラゴンの守備位置は、それに続く町の南側と西側の一帯だ。このあたりが一番の主戦場となった。

 

 「それでも堀の中に張り出している砦は5つとも健在で、城壁にとりつこうとする敵兵を、騎士団独特の新兵器を駆使してそぎ落とす。新兵器とは、… 原始的な火炎放射器と言ってよいものだった。」。(同)

 9月も下旬に差し掛かったころ、敵の攻撃は一挙に激しさを増した。

 「あの夜から始まった3日間、ロードスの城壁は、これまでついぞ見なかったほどの、砲弾と地雷を浴びることになったのである」

   「コス島とポドルㇺの基地を守っていた騎士たちも、船を駆って様子を見に来た。海上から眺めると、ロードスは、まるで海の上に突如あらわれた火山ででもあるかのように、煙と爆音でおおわれていた、と彼らは言った。この3日間を通して、1500発の弾丸が撃ち込まれ、12の地雷が爆発した。

 誰もが、砲撃の終わった後に襲ってくる、トルコ軍の総攻撃を予想した」。

 「西欧最強の君主とされるカルロスでさえ、投入できる戦力が2万という時代、10万を軽く集められるトルコの主として、はじめて可能な戦法であった」。(同)

 カルロスとは、神聖ローマ帝国皇帝カール5世、スペイン国王としてはカルロス1世である。大航海時代の真っただ中、新大陸からアジアにまたがる帝国を築き、「太陽の沈まない国」と称せられた。

 9月24日、総攻撃は、非正規軍団(オスマン帝国支配下のキリスト教徒の軍勢)の総攻撃に始まり、これを撃退すると、休む間もなくオスマン帝国の正規軍団5万の攻撃を迎え撃たねばならなかった。

 この戦いで、ついに砦や城壁上の白兵戦となり、イギリス砦とスペイン砦の一帯の防衛が崩れ始めた。

 とみるや、オスマン帝国の最精鋭部隊である1万5千のイェニチェリ軍団が投じられた。

 「その日の戦闘は、6時間がすぎてようやく終わった。ロードスの城壁は、ついに持ちこたえたのである。敵兵が引き上げた後の堀は、死体で埋まっていた。トルコ軍の損失は、死者だけでも1万といわれる。防衛側は、死者350、負傷者は500に達した。

 まだ陽光を浴びている堀の中では、トルコ兵たちが、死者や負傷者を運び出す作業をはじめていた。防衛側からは、それに対し、矢一本射られなかった。城壁の上でも砦の上でも、激闘を終えたばかりの騎士や兵たちが、死んだように横たわったままの姿で動こうとしなかった。その中の誰一人、勝利の喜びを叫ぶ者はいなかった」。(同)

 だが、スレイマンにとって、これは想定外の結果だった。

 用意周到に計算された2か月に渡る連日の攻撃と、その上での3波の総攻撃によって決着がつくはずだった。だが、そうはならなかったのだ。

 それでも、スレイマンは、不退転の意志を持って、その後も一層激しい攻撃を続けた。

 砲丸は夜の間もさく裂しつづけ、城壁の修復を行うことは不可能になってきていた。さらに地雷も爆発した。

 2回目、3回目と総攻撃も繰り返され、もはやその回数は、騎士団の誰も覚えられないほどになった。人海戦術によって外堀は埋められ、砲丸や地雷によって外城壁は破壊されつづけた。

 「アントニオ(主人公の騎士)は傷も治り、11月のはじめにはすでに戦線に復帰していた。戦線にもどった若者の見たものは、いまや半ば崩れた外壁に陣どって、そこから砲撃を加えてくるようになった敵であった」。(同)

 11月には外城壁も制圧され、そこに大砲が据えられていたのだ。

 それでも、聖ヨハネ騎士団の騎士たちとその配下の兵士、そしてギリシャ人の志願兵たちは不屈に戦い続け、町の住民たちも町の防衛のために働いた。

 攻撃開始から5か月目の12月に入ると、スレイマンから、最初はギリシャ人住民に向けて降伏せよとの脅しの矢文があり、次には騎士団長あてに再三に渡って降伏要請の文書が届けられ、使者が送られてきた。

 騎士団長は拒否を貫いたが、12月の下旬になって、島民代表も入れた騎士団幹部の会議を開き、ついに降伏を決定した。

 このとき、騎士600人中、生き残っていた騎士は180人だったといわれる。

 しかし、何よりも島民は今の有利な条件による降伏を望んだ。守る側は時間とともに消耗していき、戦いに希望はなく、特に異教徒との戦いの最後は、残虐な殺りくと奴隷として売られる運命が待つのがこの時代のならいであった。

 過去のオスマン帝国との戦いで、敗者の側がこれほど有利な条件で降伏したことはなかっただろう。 

 「スレイマンは、開城するならば、次の条件厳守を約束する、と言ってきたのである。

1 騎士団は、持って出たいと思うものすべてを、聖遺物も軍旗も聖像もすべて、島外にもち出す権利を有する。(「ヨハネ騎士団」という組織の保障)

2 騎士たちは、自らの武具と所持品ともども、島外に退去する権利を有する。(武装解除せず名誉ある撤退)

3 これらの運搬に騎士団所有の船だけでは不足の場合、トルコ海軍は、必要なだけの船を提供する。(退去に必要な援助の申し出)

4 島外退去の準備期間として、12日間を認める。(休戦)

5   その期間中、トルコ全軍は、戦線より1マイル(1609m)後退することを約束する。(安全の保障)

6   この期間中、ロードス以外の騎士団の基地をすべて、開城する。(コス島等の出先の扱い)

7   ロードス住民の中で、島を去りたいと希望する者には、向こう3年間に限り、自由に退去を許す。(住民の生命・進退の自由保障)

8  反対に残留を決めたものには、向こう5年間にわたって、トルコ領下の非トルコ人の義務となっている、年貢金支払いを免除する。(住民に与える優遇措置)

9 島に残るキリスト教徒には、完全な信教の自由を保障する。」 (住民の信教の自由の保障)

 降伏文書の調印は12月25日に行われた。

 翌年1月1日、生き残った騎士たちは、島を脱出することを望んだ5千人のギリシャ人とともに、島を去った。

 このあと、オスマン帝国による統治と、それに続くイタリア支配からロードス島が解放されるのは、400年以上のちの1947年のことであった。

※ エーゲ海の小さな島の城塞に立て籠もって、当時最強の帝国の大軍を迎え撃った遠い昔のロードス島の戦いのことを書きながら、頭の片隅で、香港市民の闘いがずっと気になった。香港に自由を。そして、台湾に独立を。 

        ★

城壁の中・旧市街に戻る >

 歩き疲れ、町の南側の門をくぐって、 もう一度、旧市街の中に戻った。

  

 

 どこか涼しいカフェでひと休みして、美味しいギリシャコーヒーを飲み、元気を取り戻したら、ロードスのアクロポリスに行ってみよう。

 

 ( つづく )

 

 

 

 

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『ロードス島攻防記』の舞台を歩く ① … わがエーゲ海の旅(12) 

2019年08月16日 | 西欧旅行 … エーゲ海の旅

   ( 聖ヨハネ騎士団長居城 )

5月18日(土)

 ロードスに滞在していながら、リンドス観光やコス島行きが先になってしまった。

 今日は土曜日。まる1日かけて、ロードスのヨハネ騎士団の要塞やアクロポリスを見学する。

聖ヨハネ騎士団の病院 >

 旧市街の北側の一帯は、騎士団長の居城、各国騎士団の館、騎士団の経営する病院などが並んで、イスラム圏のバザールのように商店やタベルナがぎっしりと身を寄せ合う旧市街の中では、西欧の風が感じられる一角である。

 そのとっかかりに考古学博物館がある。ここが今日の見学の出発点だ。今は博物館だが、もとは聖ヨハネ騎士団の病院だった建物である。

 「医療事業は、聖ヨハネ騎士団の看板である。ロードス島にととのえられた病院も、騎士団長居城に次いで立派なつくりで、… 」(塩野七生『ロードス島攻防記』)

 …… というわけで、私としては展示品よりも、聖ヨハネ病院騎士団の病院として、建物やその内部の様子に興味があった。 

 入口から見る建物は、古めかしく、頑丈そうで、中世的だった。

 13世紀末に、西欧のキリスト教勢はパレスチナの地から一掃される。

 だが、しばらくすると、エルサレムへの聖地巡礼は再開された。イスラム教徒のほうも、巡礼の落とすカネに無関心でいられなかったのだ。

 だが、西欧各地からの巡礼の途中、遠い異郷の地で大ケガをしたり、病に倒れる巡礼者も出てくる。

 そのような巡礼者にとって、イスラム圏からわずか20キロの距離にあるロードス島の病院は、いざというとき最も安全で、しかも、最も高度な治療を期待できる施設であった。

 この時代の南欧風の邸宅がみな、そうであったように、門を入ると中庭があり、中庭から2階の回廊へと直接に上がる階段がある。

 そのわきには、オスマン帝国軍の大砲の丸い石の砲弾が無造作に置かれていた。

 中庭を見下ろす2階の回廊も、質実にして静謐の趣がある。

 この雰囲気は、キリスト教の修道院のそれに似ている。

 聖ヨハネ騎士団の騎士には、修道院の僧と同じ規律が課せられていた。病院の建物も自ずから僧院の趣があるのだろう。

 病人が収容され、治療を受けた大部屋がある。

 「専属の医師団は、内科医2人と外科医4人で構成され、看護人は、1週に1日の病院勤務を義務付けられている騎士たちが受けもつ」。(同)

 「天井が高く広々した大部屋には、個人ベッドが並び、100人まで収容することができた。各ベッドのまわりには、カーテンを引けるようになっている」。

 「治療費は、患者の貧富に関係なくすべて無料で、個室でも部屋代はとられない。食事も、これまた全員平等で、しかも無料で、白パンに、葡萄酒もつく肉料理に、煮た野菜というコースで、当時ではなかなか豪勢なものであった。そのうえ、麻の敷布と銀製の食器も使える。これらは死去した騎士たちの遺物なので、敷布も銀食器も、西欧有数の名家の紋章で飾られている」。(同)

 聖ヨハネ騎士団は、西欧貴族の子弟によって構成されている。息子を騎士団に送った親は、息子を気遣って多額の寄進をする。親ばかりではない。劣勢であった対イスラムの最前線に立って戦う貴族の子弟に感動し、多くの貴族が多額の寄進をした。

 騎士団は金融業者にその資金の運用を委ねたから、彼らの資金は王もうらやむほどに豊かだった。

 21世紀の今も聖ヨハネ騎士団には8千人が所属し、国土なき国家として国連のオブザーバー国にもなっている。ただし、「聖戦」はやっていない。その豊富な資金を使って、今も医療行為や医療研究が行われている。

 大部屋の壁には小さな出入口が連なり、その中は小部屋になっていた。墓室のようだった。

 博物館としては、絵画、陶器、彫刻、墓碑などいろいろの展示品があったが、この博物館の一番の人気は通称「ロードスのビーナス」と呼ばれるビーナス像だ。

 

 

 英語版の説明によると、「アフロディーテの沐浴の小さな像」とある。

 BC3世紀の彫刻家Doidalsasの作品をBC1世紀に複製したものらしい。複製されたのはローマの共和制の時代である。このようなやや小型の彫刻は個人の邸宅に置かれたと書かれている。

  美の女神アフロディーテ(ビーナス)の像として最も有名なのは、エーゲ海のミロ島で発見された「ミロのビーナス」だろう。今、パリのルーブル美術館にある。

 だが、ミロのビーナスは端正すぎて、私などには面白みがない。私がこれは美しいと感動したのは、彫刻ではなく絵画だが、フィレンツェのウフィツィ美術館にあるボッティチェリの「ビーナス誕生」だ。美人でなく、美女。エレガンスな女性像である。

 「ロードスのビーナス」は、可愛い。ロードスのビーナスか、ミロのビーナスか、どちらかを差し上げましょう、と言われたら、躊躇なくロードスの方をいただいて、わが邸宅に飾りましょう。

 回復してきた病人が2階にある病室からそのまま足を運べるよう、趣の異なる小さな庭園もあった。

        ★

< 改めて、聖ヨハネ騎士団の略歴 >

 「いまだイェルサレムが、イスラム教徒の支配下にあった9世紀の中頃、イタリアの海洋都市国家アマルフィ、ピサ、ジェノヴァ、ヴェネツィアの中で、最も早く地中海世界で活躍し始めていたアマルフィの富裕な商人マウロが、イェルサレムを訪ねる西欧からの聖地巡礼者のために、病院も兼ねた宿泊所を建てた。

 その後聖ヨハネ騎士団の紋章になり、現代でも使われている8つの尖角をもつ変形十字は、もとはといえばアマルフィの紋章であったのである」。

 その後、1099年、第一次十字軍が、艱難辛苦の末にエルサレムを陥落させて、「エルサレム王国」を建設する。その激戦の過程で、アマルフィの商人の病院は、西欧貴族の子弟による軍事組織に変質していった。

 1103年、時の法王はこの組織を「宗教と軍事と病人治療に奉仕する宗教団体として認可した。これより、『聖ヨハネ病院騎士団』と称されるようになる」。(同)

 「聖ヨハネ病院騎士団」が正式名称。その後、法王から赤字に白の十字架を縫いとりした軍旗を授けられる。どこの国王にも貴族にも大教会にも所属しない、法王直属の自治的な組織であった。

 だが、「エルサレム王国」はイスラム勢の攻勢によって次第に追い詰められ、建国200年後の1291年に、最後まで戦い続けた聖ヨハネ騎士団も含めて、パレスチナの地から地中海へ追い落とされた。

 1308年、聖ヨハネ病院騎士団は、弱体化していたビザンチン帝国からロードス島を奪取して、ここを本拠とした。小アジアからわずか20キロ弱の距離で、キリスト教徒の対イスラムの最前線であった。

 イスラム圏ではオスマン・トルコが勢力を増し、スルタン・メフメット2世の1453年にはビザンチン帝国を滅亡させる。このあとメフメット2世は、ロードス島に10万の大軍を送って聖ヨハネ騎士団をせん滅しようとしたが、聖ヨハネ騎士団は3か月の籠城戦の末これを撃退した。

 1522年、オスマン帝国は最盛期を迎えようとしていた。若きスルタン・スレイマンは再び10万の大軍をもって自ら出陣し、ロードスを包囲する。 

       ★

騎士通りから騎士団長居城へ

 聖ヨハネ騎士団の病院を出て、西へ、小石を敷きつめたゆるやかな登り坂を行く。騎士団長の居城に向かう通りで、いつの頃からか「騎士通り」と呼ばれていた。

 

 「騎士通り」と呼ばれるのは、「イタリアとドイツ、そして普通はフランスとだけ呼ばれるイル・ド・フランス、それにアラゴンとカスティーリアが同居しているスペイン、最後にプロヴァンスと、各国の騎士館が道の両側に並び建っているからである」。

 「他に、病院の正面と対しているイギリス騎士館と、造船所に近いオーヴェルニュ騎士館があるが、2つともひどく離れたところにあるわけではなく、ために、市街では最も高所に建つ騎士団長の居城を中心としたこの一帯に、騎士団の主要建物が集中しているといえた」。(同)

 人気のない「騎士通り」のゆるやかな坂道を登りきると、騎士団長の居城の正面に出た。

 騎士団長は、騎士による選挙によって選ばれた。選ばれた歴代の騎士団長は、百戦錬磨、年齢とともに騎士たちの信望を集めるようになったベテラン騎士である。騎士たちの選挙によって選んだが、選んだあとは、騎士団長が下す判断、命令には絶対的に服従した。「服従」は騎士団の3つの徳目のなかの1つであった。

 居城の前の広場に立って、騎士団長居城の正面を見上げれば、その威容に圧倒されるばかりである。

 建物最上部には胸間城壁を備え、正門は堂々たる2つの円筒櫓によって守られている。      

 「この門をくぐりぬけると、一隊が丸ごと収容できそうな玄関になっており、その向こうに明るい陽光のふりそそぐ広い中庭が眺められた」。

 中庭から建物の中に入ると、有名な大階段がある。騎士たちが報告や連絡のために、ここを上り降りしたのであろう。また、各国騎士団の長らを集めて会議が開かれた大部屋もあり、さらに、それに続く各部屋も、置かれている調度類も、絢爛豪華であった。 

 

   ただし、この居城も、ロードス島のイタリア統治時代に修復され、ムッソリーニが別荘にしたという。皇帝気取りだったのだろう。

 だから、少なくとも、今、見ることのできる内装や調度品は、聖ヨハネ騎士団長の居城をそのまま伝えているとは言えない。

      ★

 各室をざっと見て回って、外に出ると、5月の明るい太陽がふりそそぐ旧市街があった。

 商店やタベルナが連なる街並みは観光地そのもので、騎士の鎧や兜や大槍も、今はコマーシャルベースである。

  世界のどこの観光地でも、土産屋にはその類のミニチュアの玩具が並んでいる。

 パリに行けばエッフェル塔のミニチュアが店頭に並び、奈良に行けば五重塔や鹿のミニチュアがあり、京都に行けば新選組の衣装のミニチュアがショーウインドーを飾っている。

 さて、次の行動の前に、とりあえず、どこかで昼食を食べなければならない。

 ( ②へ つづく )

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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フェリーに乗ってコス島へ … わがエーゲ海の旅(11)

2019年08月11日 | 西欧旅行 … エーゲ海の旅

  ( コス島の聖ヨハネ騎士団の城壁 )

塩野七生『ロードス島攻防記』から

 「コスはレロスよりよほど大きな島だが、この島の守りもロードス島同様、島の端にある港に接した城塞に集中している。

 このコス島の港から対岸に迫る小アジアの西端までは、わずか10キロの距離しかない。だが、この10キロの間に横たわる海こそ、コンスタンティノープルからエジプトやシリアへ向かう船が、よほどの大船でもないかぎり、絶対に通らざるを得ない海峡なのだった」。

 ロードス島とその出先のコス島は、「イスラム教徒にとっては、蛇のねぐらであった。この『蛇たち』を、つまり海賊化した騎士たちを、古代からの伝統であった航海術によって助けたのが、ロードス原住のギリシャ人である」。

        ★

ドデカニサ諸島のこと >

 時代は下って18世紀以後 …… オスマン帝国下のギリシャに、新市場を求めてヨーロッパの商人たちがやってくるようになる。交易をすれば大きな富を蓄えるギリシャ人も出てくる。古代からギリシャの国民性は海上交易を得意とした。富を蓄え豊かになったギリシャの貿易商たちは、やがて「反オスマン帝国」で立ち上がっていった。

 海上貿易で巨万の富を得たサロニコス諸島のイドラの商人たちも、自分たちの持ち船を武装させて、1821年に始まったギリシャ独立戦争に参戦した。(「エーゲ海1日クルーズ」の項参照)。

 1830年、オスマン帝国の弱体化をねらう列強国の介入もあって、ギリシャは建国する。

 しかし、オスマン帝国の支配下に取り残された地域も多く、しかも、弱体化していくオスマン帝国の領土をねらうロシア、イギリス、フランスなど列強の思惑もあって、ギリシャの内政は混乱し続けた。

 1908年には、小アジアからわずか10キロ少々の距離で南北に連なる「ドデカニサ諸島」も、オスマン帝国に反旗を翻して立ち上がった。

 「ドデカニサ」とは、12の島という意味らしい。ドデカニサ諸島の一番南に位置する大きな島がロードス島である。島はもっとたくさんあるのだが、オスマン帝国に反旗を翻した島々が12島であったから、こう呼ばれるようになった。

 だが、オスマン帝国の支配の後も、列強の思惑もあってドデカニサ諸島はイタリアに支配された。

 ロードス島を含むドデカニサ諸島がギリシャに返還されたのは、12の島が立ち上がって約40年後の1947年のことである。

         ★

聖ヨハネ騎士団のコス島へ >

 ドデカニサ諸島を巡る定期便は、1日1便、一番南に位置するロードス島から出ている。運営しているのは「Dodekanisos Seaways」という船会社である。

 ロードスのコマーシャル・ハーバーを朝8時30分に出航し、シミ島、コス島などを経て、パトモス島まで行く。パトモスで折り返した船は、同じ港に寄港しながら再びロードスまで帰ってくる。ロードスに帰り着くのは午後6時30分だ。

 折り返しのパトモス港を含め、それぞれの港での寄港時間はわずか5分。だから、どの港であろうと、一度船を降りたら、戻ってくる船を待つしかない。

 パトモス島は昨年の「トルコ紀行」にも書いたが、12使徒のうちイエスの最も若い弟子ヨハネが「黙示録」を書いたという島である。ちょっと心ひかれる島だが、観光するには1泊しなければ無理である。

 それで、今回の旅の本来のテーマに戻って、聖ヨハネ騎士団の出先の城塞があるコス島へ行ってみることにした。

 ロードスを8時30分に出て、シミ島を経てコス島には10時55分に着く。

 帰りの船がコス島に着くのは、午後4時だから、その間の5時間をコス島で過ごすことになる。

 「Dodekanisos Seaways」には、ネットで予約した。

 一昔前なら大手の旅行業者に頼んでも断られたかもしれないエーゲ海のローカルな島の船会社に、個人で簡単に予約できてしまうのだから、世界のグローバル化の勢いはすさまじい。 

     ★   ★   ★

フェリーに乗る >

 今日は、5月17日(金)。

 8時30分出航だから、昨日より早い。しかも、北のマンドラキ港ではなく、南のコマーシャル・ハーバーからだから、少し早起きしてホテルを出た。

 今日も朝からいいお天気だ。   

   コマーシャル・ハーバーの船会社のオフィスで予約を確認してもらい、繋留していた船に乗船する。

 船はフェリーで、車もすでに2、3台載っていた。

 昨日のリンドス行の船は、ロードス島の海岸に沿って東海岸のリンドスまで行くツアーボートだったが、今日は島から島へと言わば外洋を行く定期便だから、昨日の船よりかなり大きい。

 船室も広々としていた。

 とりあえず船室に坐って、出航を待った。

 フェリーは動き出した途端、上下に激しく揺れた。こんな調子でコス島まで行くのかと驚いたが、すぐに静かに進みだし、ロードスの街を離れていく。

 

 船室の座席数と比べて、乗客はかなり少なかった。5月はエーゲ海の島々にとって、やっとシーズンインしたばかりなのだ。

 観光客だけでなく、ロードス島に働きに来て、1週間ぶりに故郷の島に帰るといった感じのジャンパーを着た体格のいいおじさんたちも乗っていた。

                ★

美しいパステルカラーのシミ島 > 

 ロードスから北へ約24キロ。1時間足らずでシミ島に着いた。 

 船上から眺めるシミ・タウンは、パステルカラーの美しい街だった。

 一昨日、マンドラキ港を歩いていたとき、リンドス行のツアーボートの予約を受付るテーブルを見つけたが、同じようにシミ島行きのツアーボートの予約をとっているテーブルもあった。

 こんなに美しい街なら、ツアーボートが出ていても不思議でない。

 ただ、シミ島は、リンドスのアクロポリスのような観光すべき遺跡があるわけではなく、この小さな港町を出ると、あとは透明度の高い入り江や素朴な漁村しかないらしい。

 フェリーの観光客は、みんなデッキに出て、夢中になってこの美しい街を撮影していた。

        ★

聖ヨハネ騎士団の城塞 >

 ロードスから2時間半。コス島の埠頭に着いた。

 10数人ばかりの観光客と、労働者風の地元の人も降りた。

 エーゲ海の中でも、ローカルなロードス島よりさらに田舎のコス島にやってくるのは、何が目的??

   訪れる人々の多くは、西欧系のリゾート客だ。今はまだ訪れる人は少ないが、夏のシーズンに入れば、船の着くコス・タウンと各ビーチの間を頻繁にバスが行き来するらしい。自然のままのエーゲ海が魅力なのだ。

 ただ、コス島にも規模はごく小さいが、古代ギリシャ時代の遺跡も残っている。

 コス・タウンのすぐそばに、「古代アゴラ」の跡がある。古代のコスの町の中心街の跡だ。

 また、この島は、「西洋医学の父」と呼ばれるヒポクラテスが生まれた島だ。お医者さんなら誰でもその名は知っているのだろうが、BC5~4世紀ごろの人である。

 今回行くつもりはないが、コス・タウンから4キロほど奥に入ると、「アスクレピオンの遺跡」がある。そこはヒポクラテスが創建した病院兼医学校があった所とされ、また、医療の神アスクレピオスを祀った神殿や柱廊の遺跡がわずかだが残っているそうだ。アスクレピオスを祀った神殿は、昨年訪ねたトルコのベルガモにもあった。

 そして、コス島の3つ目の魅力が、聖ヨハネ騎士団の城塞である。

 フェリーが着いた埠頭のすぐ目の前に、城壁が続いていた。

 この島に城塞が築かれたのはビザンティン帝国時代で、オスマン帝国への脅威からだった。

 しかし、オスマン帝国は、1453年にビザンティン帝国の首都コンスタンティノープルを陥落させ、さらにビザンティン帝国を構成していた諸国を制圧していった。

 1480年にはロードス島にも、10万の大軍が遠征してきたが、聖ヨハネ騎士団は3か月に渡る攻防戦の末に撃退した。

 オスマン帝国がこのまま引き下がるとは思えず、騎士団はロードスの城塞を大砲の時代にふさわしく近代化し、また、コス島の城壁の外側に、より頑丈な外壁をめぐらせて二重の城壁にした。

 1517年には、オスマン帝国はエジプトを征服し、その結果、イスタンブールとエジプトを結ぶ商航路がつくられる。それは、オスマン帝国が東地中海をわが内海にすることでもあった。

 この商航路に立ちふさがったのが、ロードスとその出先のコスに根城を置くいわば海賊化した聖ヨハネ騎士団だった。 

        ★

 城壁の中に入れば、少し高い所から海や街を望むことができるらしい。まずは、城壁の中に入りたいと思って、城壁に沿っててくてくと歩くが、入場口が見つからない。

 コス・タウンの観光案内所に行って尋ねてみようと思ったが、案内所もまだオフシーズンで、閉鎖されているようだ。

 歩き疲れ、どうしたものかと思っていると、にぎやかなコス・タウンの道路わきから観光トレインが発車しようとしていた。

 とりあえず、これに乗って、町の主な見どころを一巡りしてみよう。

 何か興味をひくものがあれば、あとでもう一度見学にきたらよいと思ったのだが …… 観光トレインから見るコスの町の景色は、ローカルな商店街や住宅街ばかり。住宅街の一角に小さな遺跡があったりするが、いずれも雑草の中に礎石や大きな石がごろごろと置かれているだけで、よほどのマニアでない限りわざわざ見学に来るような所ではなかった。

 30分ほどかけて町をトコトコ走り、コス・タウンに戻ったとき、車掌の女性に騎士団の城塞の入口はどこかと聞いてみた。

 すると、2017年の地震で崩れて、危険なのでクローズになっている、という答え。

 ギリシャもトルコも地震の多い国なのだ。ロードスのあの巨像も地震で倒れた。

 日本で見たネットでも、ローカルなエーゲ海の小島の情報は少なく、こういう状況になっていようとは全く知らなかった。

   さっきフェリーが着いた埠頭から、入り江になってコス・タウンの港があるが、繋留されている船はあっても、出入りしている船は全くない。この港もクローズ状態なのかもしれない。

        ★

 やむをえず、観光客で賑わっているコス・タウンのタベルナに入って、おそい昼食をとった。

 ウエイターの若者との会話。

 どこから来たの?? ── 日本から。

 日本はすごいね。ドイツと並んで、世界のトップクラスの技術立国だ ── いや、今では中国や韓国に追いつかれているよ。

 そんなことはない。日本の自動車や電気製品は素晴らしい。まだ追いつかれていないよ。料理はこの店が一番だけどね。(笑い)

 華やかなサントリーニ島などと違って、ローカルなロードス島や、さらにローカルなコス島には、中国人観光客も押し寄せて来ない。

 しかし、ギリシャが世界に誇ったアテネのピレウス港は、既に中国の国有企業に買い取られている。ヨーロッパを席巻しているサムスンの製品は、この若者も知っているだろう。

 日本びいきなのかもしれない???

        ★

コス島散策 >

 昼食後、コス・タウンの周辺を散策してみることにした。 

  歩いていると、「ヒポクラテスの木」があった。

 プラタナスの年老いた巨木だが、昔、この木の下で「西洋医学の父」と言われるヒポクラテスが人々に医学を説いたのだという。

 ちなみにヒポクラテスはBC460年ごろに生まれたとされるから、そうなると、この木の樹齢は2500年以上になる!!??

 その真偽はともかく、日本の著名な大学の医学部や大学病院などにも、この木の子孫が植えられているそうだ。医学の世界では、伝説上の木なのだろう。

 ヒポクラテスという人は、初めて医術を迷信や呪術から切り離して、臨床と観察を重んじた人らしい。また、弟子たちに「ヒポクラテスの誓い」をさせた。そこには、医療に当たって自由人と奴隷とを差別してはいけないとか、往診した家で知った秘密を他に漏らしてはいけないなどという医師の倫理が書かれている。

 しかし、ヒポクラテスの前にヒポクラテスはないのだが、ヒポクラテスの後にもヒポクラテスはなかったらしい。つまり、中世を過ぎ、ルネッサンスに至らなければ、ヨーロッパにヒポクラテスの医学を継承する者は出なかった。

 ただし、それはヨーロッパ世界のことで、ヒポクラテスの医学を含め、古代ギリシャ・ローマ文明を継承したのは、イスラム圏であった。

木村尚三郎『西欧文明の現像』(講談社学術文庫)から

 「ギリシャ・ローマ文化と西欧世界との間には、本来きわめて深い断絶があった」。

 「西ヨーロッパがプラトンやアリストテレスの著作を知ったのは、12世紀のことであり、それもイスラム教徒を介してのことだった。

 すなわち、8世紀のはじめから10世紀はじめまで、ヨーロッパで最も高い文化をきずきあげていたのは、イスラム教徒によるスペインの後ウマイヤ朝であった」。

 「… 首都コルドバは人口50万から80万、…… 図書館数70にのぼったといわれる。そしてカリフ図書館の蔵書数40万~60万巻、蔵書目録だけでも44巻もあった。

 当時のコルドバは、もちろんヨーロッパ一の大都会であり、道路は舗装され、夜は街灯がともっていたという」。

         ★

 ヒポクラテスの木から、「古代アゴラ」と呼ばれる遺跡のある一角へ入った。

 『歩き方』には、ヘラクレスの神殿の跡とかアフロディテの祭壇の跡があると書いてある。

 

 しかし、見る人が見れば面白いのだろうが、素人にはいささか殺風景な遺跡だった。英語の説明版もあったが、ちょっと読めない。

 「古代アゴラ」の一角を抜けると、ピンクのドームと白い壁のギリシャ正教の教会があった。説明版があったから、何か由緒のある教会なのだろう。

 ギリシャに来て思うのは、イタリアやフランスの聖堂と比べると、こちらの方がずっと小さいことである。

 オスマン帝国の支配の下、キリスト教信仰は許されてはいても、西欧圏のカソリックのような巨大な権力・財力を持つことは到底許されなかったのだろう。

 だが、オスマン帝国からの独立戦争を戦うアイデンティティの一つとなったのはギリシャ正教である。今、ギリシャ正教は国教で、国民の98%が信者である。

 カソリックやプロテスタントと違って、教義に「原罪」はないらしい。人はみな善なる存在として生まれてくるのだそうだ。オスマン帝国の圧政に加えて、教会からも「お前たちは罪びとだ」などと責められたら、人々は救われようがない。

 教会の先は、道路を隔てて、海。

 たいして見学する所もないので、エーゲ海のほとりでのんびり時間を過ごした。

 海岸で遊んでいる家族がいた。子どもはよく日焼けしていた。 

 ドデカニサ諸島の中でも、ここはトルコとの距離が最も近い島の1つである。向こうに見えるのは、トルコかもしれない。

 見るべき何もない島で、半日、のんびり過ごした。ツアーの場合は言うまでもないのだが、個人の旅でも、私も日本人だから、対象はしぼりつつも結構、見学して歩く。

 海外旅行に来てこんなにのんびりしたことはないが、これはこれで楽しかった。── ここはエーゲ海なのだから。

         ★   ★   ★

 マンドラキ港と月 >

 午後6時半、コマーシャル・ハーバーの岸壁に着いた。

 海沿いの道を歩いて、マンドラキ港の北の端まで帰る。

 黄昏時のマンドラキ港の景観は印象的だった。

 鹿の像とセント・ニコラス要塞、海の色、空の色、すべてが絵のようだ。 

 風車の上空に、今日も月がかかっている。今日が満月なのかもしれない。或いは、十六夜の月だろうか。

 

 やがて太陽も完全に沈み、セント・ニコラス要塞の灯台が明かりを灯した。

 いつまでも去りがたい景色だった。

        ★

 今日は、コス島の中を散策したから14000歩。

 明日は、ロードス島最後の1日だ。1日かけて、ロードス・タウンの旧市街と聖ヨハネ騎士団の要塞を見学する。

 時間があれば、ロードスのアクロポリスにも行ってみたい。そこも、コスの遺跡と同じように、寂れて、ほとんど顧みられなくなった遺跡なのだが、中世の前には、古代があった。古代はロードス・タウンの外である。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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旧市街と「ママ・ソフィア」と満月

2019年08月03日 | 西欧旅行 … エーゲ海の旅

世界遺産の旧市街 >

 マンドラキ港から海沿いの道を歩いて旧市街に入った。海と海沿いの城壁の間をたどる気持ちの良い道だ。

 城壁で囲まれた旧市街は、中世ヨーロッパ都市の例証として世界遺産になっている。

 だが、我々が想像するようなヨーロッパ風の街 ──  例えばドイツのローテンブルグのようなメルヘンチックな街 ── ではない。

 小店舗が並んだ街並みとその雰囲気は、イスラム圏のバザールに似ている。

 大阪でいえば、「北」ではなく「南」、「南」というより通天閣界隈の庶民的な雰囲気に近いかもしれない。

 ただし、海に囲まれた世界遺産の小さな町だから、昭和40年代の通天閣界隈のように「こわい」お兄さんに話しかけられたり、いかがわしい店があるわけではない。

           ★

時計塔へ上がる > 

  メイン・ストリートのソクラトゥス通りを歩き、その先の時計塔に上がってみた。

 

 通りから狭くて急な階段を上がると、喫茶風のテラスになっていて、さらにその上に時計塔が建っていた。

 入場料に喫茶代も入っているというので、グラスワインを注文した。快い疲れと、お腹もすいていて、ほんのりとほろ酔い気分になった。今日は、中身の濃い充実した1日だった。遥々とやって来た甲斐がある。

 時計塔の階段は高くはないが、窮屈で、緊張した。もともと物見の人が昇っていた階段だろう。小さな窓からカメラを構えるのも容易ではなかった。

 聖ヨハネ騎士団の城塞の向こうに薄く見える山並みは、小アジア、即ちトルコ共和国に違いない。

 時計塔のそばにあるスレイマン・モスクは、今は使われていない。国旗の青と白の十字が示すように、この国はギリシャ正教の国である。それが、オスマン帝国から独立するときのアイデンティティの一つだった。

        ★

タベルナ「ママ・ソフィア」

 『地球の歩き方』は重宝しているが、本に掲載されているレストランに行くことはない。そもそも『歩き方』のレストラン情報は古い。

 ただ、『ギリシャ』編のロードス島の項に載っている「タベルナ・ママ・ソフィア」は、ネットのブログにも登場する。家族経営の奥さんが日本人で歓待してもらったとか、生ウニがとても美味しかったとか … とても評判がいい。とにかく新鮮な海の幸が食べたくて、行ってみた。

 ちなみに『地球の歩き方』には、「ママ・ソフィア」についてこんな風に書かれている。

 「時計塔の真向かいにある1967年創業の老舗タベルナ。現在は創業者ソフィアさんの息子と孫が中心になって営業している。孫のソティリスさんは日本留学経験もあり、妻の智子さんもいるので日本語もOK。毎年通っているファンも多く、味は定評がある」。

  2世代の家族が働いていた。そのなかのソティリスさんだろうか? 40歳ぐらいの男性が、流ちょうな日本語で丁寧に話しかけてくれた。

 それで、年とともに少食になって、レストランの食事の量の多さにいつも困っている。申し訳ないが量を少なくしてほしいと言ってみた。すると、よくわかります。料理を注文していただいたら、量は私の方で調整します、と言ってくれた。それで、メニューを見ながら、2、3の注文をした。

 グラスワインを注文すると、それは、「私からのサービス」にさせていただきますと言う。「店」ではなく、「私」だった。

 まるで一族の中の年配者に対するように親しみと敬意をもって接してくれているのがわかる。 

 料理は、本当に美味しかった!! 何度もヨーロッパの旅をしてきて、こんなに「美味しい!!」と思ったことはない。

 レモンをしぼって食べた生貝の皿は、最高だった。これだけでも、この店に来た甲斐があった。

 料理の量も腹8分目。個人旅行でヨーロッパのレストランに入って、こんなに完食して満足したことはない。

 最後にメニューを見ながらデザートを注文しようとすると、デザートも私からのプレゼントとして用意していますから、おまかせくださいと言う。そして、幾種類ものジェラードやケーキを美しく盛り合わせた皿が出された。

 ギリシャコーヒーも美味しかった。

 サービスしてもらった分は、チップをプラスした。それでも、驚くほどリーズナブルだった。

 最後に、美しいお辞儀とともに送り出されたが、本当に気持ちの良い接待だった。「明後日、もう一度来ます」と言って別れた。

 入った時にはほとんどだれもいなかったテラス席も、食事が終わるころにはほぼ満席になっていた。        

        ★

ロードス島の満月 >

 時刻は黄昏時。ますます賑わう通りに出て、さてホテルに帰るには右か左かと、一瞬、方向感覚がわからなくなって立っていたら、西洋系の上品なマダムに突然、話しかけられて驚いた。誰だっけ??

 笑顔で、顔を上に向け、指さして、こちらに何か言っている。

 あっ、満月だ。ちょうど、我々の立つ位置から見ると、暮れる前の美しい濃紺の空をホリゾントにして、モスクの尖塔の真上に満月がかかっていた。

 歩いていたマダムはそれに気づき、感動して思わず立ち止まり、たまたま横にぼっと立っていた私に教えたのだ。

 満月を見ながら海辺の道を帰った。

  ホテルのテラスから月は見えなかったが、すっかり暗くなった夜空に、黒い海と教会の塔が見えた。暗くて無理かと思いつつ、昨日と同じ角度でシャッターを押したら、何とか写っていた。立派なカメラなのだ。

 教会の塔が、アニメのお化けの顔みたいだ。

 今日の歩数は10000歩。適度な運動だ。

 ただし、船の中はのんびりしたが、汗をかいて丘を登り、最後は駆けるように丘を下った。

 明日はロードス島を出る。コス島まで、また、日帰りの船の旅だ。 

 

 

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つづき> リンドスのアクロポリスと群青の海② … わがエーゲ海の旅(9)

2019年08月01日 | 西欧旅行 … エーゲ海の旅

 オスマン帝国がロードス島に大軍を侵攻させる直前、聖ヨハネ騎士団長は、出先であるコス島の砦に決戦前の最後の指令を伝える軍船を派遣した。

 派遣されたアントニオ、オルシーニら若い騎士たちは、コス島を守備する同僚たちとの打合せを終え、ロードス島への帰路についた。

 「アントニオとオルシーニを乗せた快速ガレー船は、帰途も終わりまぢかになって漕ぎ手も勢いづいたのであろう。西の水平線に姿をあらわしたロードス島が、ぐんぐんと大きさを増す。

 船はアントニオも聴いて知っているリンドスの神殿跡を望む頃には、舵を北に切った。このままロードス島の沿岸を航行して首都の港に入るのが、東からくる船の常の航路になっている。

 リンドスの丘の上に白く輝く古代ギリシャの円柱の下には、騎士団の城塞があるが、そこで勤務することは自分にはもうなさそうだと思いながら、アントニオはそれを見上げるのだった」 (塩野七生『ロードス島攻防記』から)。

     ★   ★   ★

古代遺跡と群青の海 >

 白い家々の中の道を抜け、岩場に造られた石の階段を上がっていくと、アクロポリスの丘の「入場口」があった。入場料を払い、いよいよ丘の上へと登っていく。

 しばらく行くと、狭い階段の横の岩壁に彫られた三段櫂船のレリーフがあった。

 

   エーゲ海の北端の島、サモトラケ島から出土した「サモトラケのニケ像」と同じ作者が刻んだものではないかと言われている。

 ニケは、現代オリンピックのメダルの表側に描かれる勝利の女神である。スポーツ用品店の会社「ナイキ」も、ニケのことだ。

 「サモトラケのニケ像」は、今は、パリのルーブル美術館にある。

 個人的好みでいえば、ルーブル美術館の中で、「ミロのヴィーナス像」よりも、ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」よりも、この作品がいい。

 2階から1階へ階段を降りていると、サモトラケのニケ像は、まるでスター登場というふうに、少し離れた中2階のテラスに姿を見せる。1階のフロアからも、大勢の人たちがこの「スター」を見上げている。

 像の高さは2.75m。台座の三段櫂船が2.01m。土台が0.36m。テラスに一人立つ姿は、圧巻である。

 多くの研究者は、「サモトラケのニケ像」の船と土台部分がロードス産の大理石で、ロードス島で制作されたと考えている。だが、ざくっと彫られた船の部分と違い、繊細な衣の襞を含む女神像も、ロードス島の同一の制作者によるものなのかどうか、その確証がないらしい。

        ★

 アクロポリスの丘を囲む城壁が現れ、岩場に造られた階段を上っていく。

 天気は極めて良く、ひと休みしたいが、その陰もない。

 まもなくアクロポリスの丘の上に出た。

 さらに、石の大階段を上がって、丘の上の一段高い所、これより上は空という所まで上がった。

 この礎石や石柱群によって囲われた一角が、BC300年ごろに建設されたアテーナ・リンディアの神殿の趾であろう。かつて神殿の中にはアテーナ女神像が祀られていた。

 アテーナ神殿の位置からも、群青の海が見える。

 

 神殿から石の大階段を降りると、海を見下ろす柱廊がある。見学者たちが列柱の下、遺跡の石の上に一列に腰かけて、海を眺めて休んでいた。

 振り返ると、降りてきた大階段があって、アテーナ神殿へと導かれるようになっている。

 海面から116m。そそり立つ岩山の上に造られた聖なる古代空間である。

 エーゲ海の昼の日差しは明るく、遺跡群と、遺跡の下に広がる青い海は、時の流れの中にできたエアポケットに封じ込められたように静かだった。

 丘の上には、他にも神殿の趾や、廃屋となった中世のキリスト教教会や、聖ヨハネ騎士団の城塞の一部などがあった。

 

 城壁の角から見下ろすと、入り江がハート形になっているのが見える。それで、人気の撮影スポットのようだが、無理な姿勢で撮影しようとすると、危ない。 

 ロードス島は、オスマン帝国の400年に渡る支配の後、1912年から45年にかけて、イタリアに支配された時期がある。ムッソリーニの時代とも重なる。

 このとき、リンドスのアクロポリスの復元作業が行われた。アテーナ・リンディア神殿もこの時に復元された。今、建っている柱廊や柱も、多くはその時に復元されたものだ。

 だが、ウィキペディアに、「現代の基準からすると、この復元は出土したものに関する十分な検証もせずに行われており、損害を与える結果になっている。近年、ギリシャ文化省の監督の下で、国際的な考古学チームが正しい復元と保護のために働いている」とある。

 イタリアは、向こうの遺跡の石をこっちの石とつなぎ合わせたり、コンクリートを使って復元作業をしたりしたという。

 そのころのイタリアは、ローマ帝国の後継者を夢見ていたのかもしれない。

 ゆえに、今の神殿の姿や柱廊の姿が、ギリシャ時代、ヘレニズム時代、ローマ帝国時代の本当に正確な再現だと思って見ない方がいい。

 ただ、私のような見学者は、考古学上の興味があるわけではなく、これがA神殿の趾、ここがローマ時代のB遺跡などと、いちいち確認したいわけでも、こと細かな細部に興味があるわけでもない。

 ただ、ここに、悠久の人間の歴史のあとを感じ取ることができれば十分である。

 だから、遺跡の一部を復元することによって、太古の姿を生き生きとイメージできるようになったのはうれしいが、それは象徴的な「遺跡の一部」だけでよい。

 たとえ、できうる限りの検証をしたうえであっても、埋もれた礎石を掘り起こし、倒れて遥かな歳月を経た石の柱をもう一度立たせることにどれほどの意味があるだろう。「復元」が、考古学の最終目的であるのはおかしい。

 「シチリアへの旅」の「牧歌的な古代遺跡セリヌンテ」にも引用したが、

 かたはらに/秋草の花/語るらく/

  滅びしものは/なつかしきかな

   (若山牧水)

である。

 ひとしきり丘の上を歩いているうちに、エーゲ海の風に吹かれて汗も引いた。

 船に戻る前に昼食を取らねばならない。それに … 体内の水分は汗で出てしまったとはいえ、トイレにも行っておきたい。

 丘を少し下りかけると、かつては丘を囲繞していた聖ヨハネ騎士団の城壁が現れて、壮観だった。

 来るときは白い家々の中の道をたどったが、帰りは海を見下ろしながら歩く海側の道を下った。

 海側の道は、野の道である。   

 野の道は、ロバが歩く道でもあるようだ。海とともに絵になる。

 おシャレなレストランがあったので、ここでおそい昼食をとることにした。

 海を見下ろすテラスのテーブルには、可憐な野の花が一輪。

 鄙(ヒナ)には稀なハイカラなレストランだと思ったが、メニューはギリシャ語だけで全くわからなかった。

 注文を聞きに来た若者と片言の英語で話しても、全く通じない。

 やむを得ず、隣のテーブルの人が食べているものと同じものをと頼んだが、それもなかなか通じなかった。

 待っても、なかなか料理が出てこない。通じているのかどうか心配になる。出航時間が迫ってきて、焦った。

 あわただしく食べ、急ぎ足で下って、なんとか出航の時間に間に合った。 

   行きの家々の白い壁の間を抜ける小道も良かったが、帰りの野の道は、また違った趣があって、楽しかった。

      ★

ロードス・タウンへ >

  

 船はリンドスの埠頭を離れた。ロードス・タウンへと進路を北へ取る。

 遠ざかって行くアクロポリスの丘。

 その下の白い家並みの左端の建物が、食事をしたレストランだ。

 遺跡として、アテネのアクロポリスほどには整備されていないが、その分、リンドスの丘の方が遥かな歴史の趣のようなものを感じることができた。

 何といっても、遺跡群から海を見下ろすところがいい。 

        ★

 途中、2カ所の海岸で短時間、停泊した。

 そのうちの1つの小島の断崖は、映画「ナバロンの要塞」のロケ地であったという。そういえば、嵐の夜、海から岩壁をよじ登る場面があったが、それにしては規模が小さいと感じた。

 海岸近くで、船から梯子が下ろされ、待ちかねたように、船中の男女が海で泳いた。

 ヨーロッパの人たちは、太陽の光や海が大好きなのだ。

 船には更衣室も、シャワーもない。船に上がると、椅子に腰かけて、塩水の付いた肌を水着ごと乾かしている。

     ★   ★   ★

 ロードスの城塞が見え、船はマンドラキ港の、朝、繋留していた場所に戻った。

 まだ、午後5時半。

 日没は8時だ。ホテルに帰るには早すぎる。旧市街に行ってみよう。

 ( このあと、次回へ )

 

 

 

 

 

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