ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

日本統治時代の「記憶」を記述した台湾の教科書…友人Tさんからのメール

2015年03月26日 | 手紙

 前回、「しばらくブログをお休みすることになるでしょう」と書いたら、友人のTさんからメールをいただいた。一別以来の、最近のブログに対する心のこもった感想である。持つべきは友である。

 私は、西欧の歴史と文化を知りたくて、リタイア以来、わが興味・関心を充たさんと楽しんできた。しかし、所詮はアマチュアである。と言うのは、Tさんは実は西洋史が専門。Tさんと酒を酌み交わしながら、話がその方面に及ぶと、Tさんの口から何気なく出る言葉に思わず耳を傾けることがある。面白い。西欧への旅行歴は私の方がずっと多いのだが、きちんと勉強したことのある人は、やはり違うのである。

 さて、そのTさんのメールのなかに、私のブログ 「台湾の『記憶』、台湾の心…台湾映画 『海の向こうの甲子園』 を観て」 ( 3/12, エッセイ ) に触れて、次のようなことが書かれていた。以下、Tさんのメールの要約である。

                   ★

             

 10年ほど前のこと、あるメンバーで台湾旅行に行った。そのグルーブでは、旅行を有意義なものにするため、参加者一人一人が台湾に関することを何か事前に勉強してきて、旅行中に発表するということになっていた。

 それで、私も近所の国会図書館の出張所に出かけて、台湾に関する文献を調べた。すると、台湾で今、使われている小学校の教科書の日本語訳を見つけた。

 そのなかに、貴兄 (私のこと) がブログに書いていた八田與一と、彼が造った農業用の大ダムのこと、そこから引いた水路で台湾一の広大な耕作地が開かれたことが紹介されており、さらに、日本の植民地時代、台湾に近代的な制度が作られ、法治観念が育成されたことは、日本時代の恩恵であると書かれていた。

 私も驚いたが、発表すると、旅行メンバーも皆、大変驚いた。台湾が親日になるのは、こういう教育があるのだと思い、感動した。

 私たち日本人は、台湾に対して、もう少し思い入れをもってよいと思った。

 ( Tさんのメールには、もう一つ、エピソードが添えられていた )。

 その旅行中、宿泊したホテルに、財布を忘れてしまった。( 笑い: Tさん、昔、飲み屋で財布と一緒に大切な物を落として、始末書を書いたこともありましたよ )。

 しかし、財布は、次に泊まるホテルに届けられていた。ベッドメイクの係りの人が、見つけてくれたらしい。

 海外旅行で財布を落とすと、まず帰って来ないと聞くが、台湾は日本と似ていますね。

 ( これを読んだ後、台湾旅行に行かれる方は、気を緩めないでください。日本でも同じです。ホ テルに問い合わせ、ホテル側から「お部屋も探しましたが、ありませんでした」とか、「届いていません」と言われたら、どうしようもありません。)

                     ★

 Tさんのメールには、天安門事件のあった翌年の1990年に、中国に旅行し、天安門広場に行ったときの印象も書かれていた。

 前年、何万という学生や人民が自由を求めて広場を埋め尽くしていた。それを包囲するようにやってきた戦車が銃弾を浴びせた。

 広場に立つと、あの天安門事件の痕跡は跡形もなかった。全てがきれいに「消去」「削除」されていた。

 中国共産党にとって都合の悪いことは「削除」して、人民の目から隠し、反日・愛国宣伝に使える日本との戦争の傷跡は、かぎりなく「デフォルメ」して教える。それが彼らの「歴史」である。

 そういうことも、Tさんのメールには書かれていた。

                 ★

 「私たち日本人は、台湾に対して、もう少し思い入れをもってよいと思った」。

 本当にそうですね。かつて日本領として統治した(植民地にした)台湾が幸せになることに、私たちは多少とも責任があると思います。

 とても難しいことですが、今も表向きの国名である「中華民国」という呼称を捨てて、例えば「台湾」という国名で、いつの日か国連に復帰する日のあることを、私は心から願います。

 (短期間、お休みに入ります)

 

  

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国東半島から日本の未来を見る(2/2)…国東半島の旅続編

2015年03月23日 | 国内旅行…国東半島の旅

 「アキ工作社」の話から導き出される3つ目の教訓は、これからの事業経営者は、人々の多様な働き方を許容し、これを生かしながら、最大限、「生産性」を上げるよう、大胆な改革を進めていかなければならないということである。

 「アキ工作社」では、総労働時間はそのままだが、週休3日制を導入して、今までより生産性を上げることができた。固定観念に囚われず、おそらくは女性の比率の高い従業員の家庭生活や、農作業、或いは地域活動参加に配慮した労働時間を設定したのだ。

 今、日本は人手不足に見舞われている。アベノミクスによって雇用が増えたという側面もあるかもしれないが、何より、新卒の若者の数より、退職する高齢者の数の方が多いのだ。特に、地方で、そして、冨山氏の言う「ローカル産業」(サービス産業の分野)で、人手不足は深刻なのである。

 そもそも、少子・高齢化、人口減の進んでいく日本にあって、経済力を維持し、さらに質の高い豊かな社会をつくっていくには、移民を大量に受け入れるか、そうでなければ高齢者と女性の労働参加率をどんどん高めるしか方法はない。そして、日本では、女性の労働参加率は極めて低いのである。

        ★

 東大や京大を出た、頭脳明晰で、やり手の女性は、今や男の中にいる程度の比率でいる。体力の衰えてきた部長さんや課長さんよりパワーのある女性もいる。普通の男程度の女は、普通にいる。

 かつて、職場の女性が子どもを産んで産休を取ったり、子育てのために育児時間を取ると、周りの男たちは顔をしかめて、「だから女はダメだ」と言ったものだ。

 しかし、今や、あのユニクロの柳井氏が、産休を取得し、さらに育児のために時短勤務する女性も、有能な人は、子育てが終わったら昇進できる環境を整える、とした。また、グループの執行役員も、今、女性は1割だが、将来は5割以上にしたいと言った。

 子どもを産み、育てることは、仕事の能力とは別のことだ。そもそも子どもを産み、育てることは、私的なことであると同時に、社会にとって必要欠くべからざることなのだ。

 早い話、「だから女はダメだ」と言ったおじさんの退職後の年金を払うのは、次の世代である。次の世代がいなければ、年金の払い手はいない。子どもは、そのおじさんの未来にとって、欠かせない存在なのだ。

 とにかく、少子・高齢化の日本社会では、アマテラスを拝むように、出産・育児の時期の女性を大切にしなければならない。

        ★                                           

  

 もう一翼をになうのは高齢者。 

 今の日本人は、体力仕事を除けば、ふつう、70歳まで働けると思う。

 ただし、仕事だけが人生ではない。まだ体力のあるうちに、仕事以外で、やってみたいことがある人もいるだろう。

 私の場合、西欧の歴史・文化を知りたかった。知ってどうするわけでもないが、西欧を知ることによって、日本とは何かということを、或いは、日本人としての自分のアイデンティティをつかみたかったのかもしれない。

 見聞を深めるための海外旅行をするには、それなりの体力・知力がいる。それを失ってからでは、おそい。オーナーからはもう少し働いてほしいと慰留されたが、固辞した。

 もし、年間30日の年休を認めようという契約でもしてくれれば、給料はどうでもいい、私は、もう少し仕事を続けたろう。通常の年休+10日間である。30日あれば、年2回、ヨーロッパを旅することができる。そして、仕事は仕事で、やりがいがある。

 P,F,ドラッカーは、「仕事オンリーでは、組織だけが人生であるために、組織にしがみつく。 空虚な世界へ移るという恐ろしい退職の日を延ばすために、若い人たちの成長の妨げとなってでも、自らを不可欠な存在にしようとする」と述べて、仕事オンリーの生き方に警告を与えている。

 しかし、また、「人は皆同じように老いるのではない。エネルギッシュに働くことはできなくても、判断力に狂いがなく、20年前よりも優れた意思決定を行う人がいる」と言って、高齢者の処遇に配慮するよう、忠告を与えている。

 私の場合、当時、仕事への「挑戦」の意欲はあったし、意思決定において深みを増している自分を感じてはいたが、仕事にキリをつけた。そのことを後悔はしていない。

 その後の、もう一つの「挑戦」は、組織のためではなく、自分の満足を求めての人生の旅だったが、楽しかった。その旅も、関心が向かうところ、だんだんと、西欧が「従」に、日本が「主」になってきている。そして、ますます面白い。

        ★

 職場に、当たり前のように、出産、育児期の女性(或いは、その夫)がいる。

 高齢者も働いている。

 もしかしたら、優秀な頭脳をもった外国人も、日本の企業にやってきて働くかもしれない (いわゆる「移民」ではない)。彼等は、妻子を伴ってやってくるだろう。外国では、妻も自分を生かしたいと思って働く。その権利を保障することも必要だ。

 職場は、単純・画一的ではなくなってくる。多様性を帯びてくる。

 しかも、人手は足りない。

 そうなると、「生涯雇用・定年制 ⇒ 年功序列賃金 ⇒ 長時間労働 (残業 / サービス残業 ) ⇒ 男社会」という、19、20世紀型の働き方は崩れてくる。

 8時間労働の人以外に、6時間労働の人、職種によっては夜勤の人、週休2日の人、週休3日の人、産休休暇を取る人、高齢者研修休暇を取る人、さらに、時間に縛られず、採用労働制で働く人もいるかもしれない。

 そうなると、それらを調整しながら、しかも、今まで以上の利益を生み出す、優れた事業経営者やマネージャーが必要になってくる。彼らの能力が、組織の命運をにぎるようになる。

 それは、プロ野球の監督に似ていなくもない。

 投手も、今では、先発、中継ぎ、抑えで構成される。さらに、それぞれの投手のカテゴリーの中に、能力の違いがあり、個性の違う選手がいる。

 野手も、レギュラーと、レギュラーに故障あればいつでもこれに代わることができる厚い選手層が必要となる。さらに、チャンスに登場する勝負強い代打、確実にバンドし、或いは、一発で盗塁を決める選手、それに守備固めの選手もいる。外国人のホームランバッターもいる。

 こうした選手を、重層的に抱えているチーム、言い換えれば、選手層の厚いチームが、長い1年間を戦い抜き、優勝する。

 そういう多様な選手層の中心にいて、求心力となり、チームワークをつくり、彼等を使いこなす監督が、名監督になる。

 現代野球とは、そういうものだ。

 もちろん、企業戦士型の働き方、即ち、「⇒ 長時間労働  (残業 / サービス残業 ) ⇒ 男社会 」 は、もう古い。未だに、そういうやり方が「日本文化」だと主張する人がいるが、日本の長時間労働は世界のなかで突出しており、一方、1人当たりの労働生産性は、先進国の中で最低である。

 疲れた男たちが、来る日も来る日も残業して、効率は悪く、家族そろって晩ご飯を食べることはほとんどなく、妻はいらいらし、子どもは不登校になり、そして、人口は減るばかりだ。世界はもっとスマートに、もっと先を行っている。

 「 すべての人が、働き方を見直し、生産性を高め、ワーク・ライフ・バランス ( 仕事と生活の調和 ) を実現すべきだ 」 (2/7 讀賣・八代尚宏東京基督教大学教授)。

 「アキ工作社」の週休3日制は、そういう試みの第一歩である。

    ★   ★   ★

 若きスキピオが、並み居るベテランの議員を前にして、ローマ元老院で行った演説は、歴史的に何かを変えようと志す人に、勇気を与える。

 「私の考えでは、これまでに成功してきたことも、必要となれば変えなければならないということである。私は、今がその時であると考える」

 今までやってきたことが間違いだったというのではない。

 しかし、時の流れの中で、発想を変えなければならない時(節目)がある。

 そのとき変えることができなければ、これまでは立派な会社と尊敬されていた企業も、評価の高かった大学や病院も、ローマのような覇権国家でさえも、衰亡に向かって転げ落ちていく。一度、落ち始めると、そのスピードは、現代になるほど、速い。

 社会や組織が発想を変えられないのは、過去の成功体験が邪魔するからである。過去の成功体験を主張して、現状を守ろうとする既得権益集団の力が大きすぎて、彼らに改革をつぶされるのである。(完)

 

 ちょっと、書き尽くし感があります。それに、私も、多少は、やらなくてはいけない仕事もあり、よって、このブログの執筆は、しばらく途切れることになるでしょう。   

 でも、B型体質ですから、いつ復活するかはわかりません。どうかお見捨てなく、のんびりと待ちながらも、時折は開いて、確かめていただけたら、ありがたいです。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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国東半島から日本の未来を見る(1/2)…国東半島の旅続編

2015年03月21日 | 国内旅行…国東半島の旅

 先の旅で、神と仏の里・国東半島のローカルで民俗的な文化遺産を訪ね、また、小さな気品のある城下町を歩いて、このような村や町がずっと健在であってほしいと心から願った。

 だが、今、日本の地方都市にはシャッター街が増え、農村でも「限界集落」と言われる村が増え続けているという。

 だからと言って、大都市圏に住む人々の暮らしが豊かになっているわけではない。

 日本の経済は、右肩下がりでどんどん縮んできた。そこへ少子・高齢化、人口減が拍車をかけている。

 国会は揚げ足取りの議論ばかりで、日本経済再生のための国家戦略を立て、断固としてこれをやり抜こうという政治家は長く出なかった。

 こうして、「失われた20年」が続く間に、韓国も中国も伸びた。つい15年ほど前に、「中国が日本に追いつくなんて、100年早い。その間に中国も民主化されるよ」などと、多くの「識者」と言われる人が楽観的なことを言っていた。

 もう待ったなしである。後世の歴史家から、「失われた20年とは、発展の条件を蓄積した20年であった」と言われるようにしたいものである。そして、その芽は、政治にも、企業のなかにも、農村にも、若者の意識のなかにも、生まれてきているように思う。

 ただし、そのためには、日本も、少なからず変わらなければならない。

 「国東半島の旅」を書いている間に、国東市の小さな企業の話が新聞に載った。読売新聞の「職の風景」という連載の第7回目(1月10日)である。以下、全文を引用する。

        ★

 大分県国東市の山あいにある「アキ工作社」は、切り出した段ボールを組み立て、オブジェを作るためのキットを売る会社だ。社屋は廃校になった小学校校舎を改造した。

 「パソコンで立体イメージを作り、細密レーザーで段ボールを部品の形に正確にカットする。こんなに精巧なものを作れるのは、ウチぐらいでしょう

 地元出身で、美術大卒の松岡勇樹社長(52)は話す。国内外にファンが広がり、売上げの2割を海外が占めるまでになった

 ユニークなのは仕事だけではない。週休3日制をとっている。社員13人の勤務は1日10時間で、月曜日から木曜日まで。無駄な会議はやめ、社員のやる気は上がった。2013年6月の導入以来、休みが増えたのに、売上高は3割近く伸びた。

 「都会時間と同じ働き方では、地方での暮らしは成立しない。効率化や時短を進め、その分、地域活動や育児に充ててもらう

 地方ならではの働き方はないか。その答えが「週休3日」だった。

        ★

 国東市の山あいにあるという、従業員13人の「アキ工作社」の話に、いくつかの教訓を見出すことができる。教訓と言っても、それはごく当たり前のことだが、「アキ工作社」は、そのごく当たり前のことを、行動に移しているから偉いのである。

 一つ目は、販路を海外に求める、ということである。

 人口がどんどん減っていく日本で、顧客を日本に限定していたら、「縮んでいく」だけである。一方で、世界はグローバル化の時代だ。

 従業員わずか13人という日本の片田舎のローカルな企業が世界に打って出て成功しているのだから、やればできるのだと思う。小さくても、「モノ」づくりの世界で生きていく以上、今の時代、戦いの舞台はグローバル世界なのだ。

        ★

  

 二つ目は、販路を世界に求めるためにも、「アキ工作社」が「こんなに精巧なものを作れるのは、ウチぐらいでしょう」というように、他に真似のできない商品を作ることである。

 1時期と比べると、今、驚くほどの円安である。1商品当たりの利益が大きい。輸出企業にとって、チャンスである。こういうとき、昔の日本の企業なら、値下げをした。値下げをして、外国企業との競争に勝とうとした。

 今、日本の多くの企業は、円安でも値下げしない。なぜか?? 韓国にも中国にも作れないモノを作って、売っているからだ。他に真似のできない商品に特化しているなら、値下げする必要はない。

 商売で大切なのは、安売り競争よりも、ブランド化競争である。

 今、韓国の企業が猛烈な安売り競争に打って出て、かえって苦戦している。安売りで日本企業を追い上げるつもりが、逆に、待ってましたとばかりに、中国企業に追い上げられているのである。

 欧米で、トヨタ(日本車)を買う人は多いが、安いから買っているわけではない。欧米車と比べても、燃費が良く、何よりも故障が少ないからだ。

 今、冨山和彦『なぜローカル経済から日本は甦るのか』(PHP新書) を読んでいる。冨山氏によると、かつて、日本は、「モノ」づくりをする大企業と、その下請けの中小企業に、ヒト・モノ・カネが集積されていた。しかし、周りを見回してください。「モノ」づくりの大企業・中小企業で働いている人が周囲にどれだけいますか ? と、冨山氏は言う。

 今、日本人の7割は、「ヒト」を相手にする産業(サービス産業)で働いて、暮しを立てている。それを冨山氏は「ローカル産業」と言う。従業員が1万人いるチェーン店でも、地方銀行でも、バス会社でも、地域に密着し、「ヒト」を相手にしている産業は、「ローカル産業」である。地味だし、ビル・ゲイツのような世界的な大金持ちにはなれないが、国体の県代表にでもなれば、もうりっぱな優良企業である。

 他方、「モノ」づくりの世界は、そうはいかない。「モノ」づくりの世界は、グローバル経済のただ中にある。大企業であろうと、中小企業であろうと、「モノ」づくりの世界でやっていくということは、オリンピックに出場するようなものだ。ただ、オリンピックと言っても、花形の100m走もあれば、もっと地味で競争相手の少ない種目もある。しかし、いずれにしろ、出場する以上、メダルを取るぐらいでないと、生き残れない。世界20位ならたいしたものだと思えるが、その分野で世界20位の企業は、生きているのが不思議なくらいの会社である。いつ吸収合併されてもおかしくない。下手をすれば、吸収合併してくれる相手もなく、倒産の日が迫っていることに気づいていないだけかもしれない。

 以上は、冨山氏の著書の内容の一部だが、「アキ工作社」も「モノ」づくりで生きている以上、グローバル世界に打って出ている。韓国、中国あたりから、いつライバル企業が出てくるかわからないが、「こんなに精巧なものを作れるのは、ウチぐらいでしょう 」という会社だけが、生き延びるのである。

 ローカルな地にある、立派なグローバル企業である。( 続く )

 

 

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台湾の「記憶」、台湾の心 … 台湾映画 『海の向こうの甲子園』を観て

2015年03月12日 | エッセイ

 台湾の映画を初めて観た。『 KANO 1931 海の向こうの甲子園 』。

 戦前の台湾の中等学校野球を描いた、汗と涙の青春ドラマである。

 当時、台湾は日本領だったから、台湾の地方大会を勝ち抜いた1校も、甲子園に出場した。 

 「KANO」とは、台湾州立嘉義農林学校 ( 通称: 嘉農 ) のこと。1919年に創立された中等教育学校である。現在は昇格して国立嘉義大学となり、今も台湾大学野球の強豪校だそうだ。

 しかし、もともとKANO野球部は、台湾の地方大会で1勝もしたことのない弱小チームだった。

 1930年、そのチームに、近藤兵太郎が監督として就任する。

 古武士のようにもの静かな人だが、心に傷を抱いていた。かつて本土で、中等学校野球の強豪校の若き指導者であったとき、指導に失敗してチームを投げ出してしまったという過去を持つ。今、妻とともに台湾に来て職を得ているが、二度と野球にかかわるつもりはなかった。

 ある日、林に囲まれ打ち捨てられたようなグランドで、指導者もいないのに、泥まみれになって、ひた向きに練習するKANO野球部員の姿を見る。その (旧制) 中学生たちの姿に心を打たれた。

 この弱小チームの指導者になって、もう一度甲子園を目指そう。近藤兵太郎の心に火が付いたところから物語は始まる。

 ドラマには描かれていないが、近藤は、彼らのひたむきさに加えて、このチームの部員たちの身体能力の高さやセンスの良さを見抜いたのだと思う。彼らなら、きちんと教え、鍛えれば、彼が良く知っている内地の甲子園に出場するチームにも、決して劣らないようなチームになるだろうと。

 近藤監督は、就任するといきなり「甲子園に行く」と宣言し、以後、絶えず口にする。

 選手たちも口にするが、親や町の人たちは笑っている。まさか?! それより、家の仕事を手伝え。

 監督を信頼し、監督の教えどおりに必死で練習に取り組む選手たちだが、実は彼らも甲子園に行けるとは思っていない。尊敬する監督の手前、そう言えないだけだ。選手たちは、それよりも、練習試合で一度も勝ったことがなく、高見から見下している隣の学校の野球部に勝ちたいのだ。

 かくして、KANO野球部は、日本人監督の下、守備の上手い日本人生徒、強打の漢人生徒、俊足好打の先住民生徒たちが、何の分け隔てもなく一つになって、激しい練習をし、翌1931年、台湾予選を次々に勝ち抜いていくのである。

 1勝するたびに選手は輝きだし、エースはマウンドを守り抜く真のエースとなり、俊足の1、2番は塁を走り回り、それを中心バッターが強打で返し、ピンチになれば球際に強い守備力で守り抜いた。

 KANOが勝ち進むにつれ、町の人々も驚きと喜びに沸き、ラジオの実況放送に集まってくる。

 そして、ついに、台湾予選の決勝戦にも勝ち、1931年の夏の甲子園に、台湾代表として出場するのである。

 舞台は甲子園へ。

 強豪チームの周りにマスコミは集まったが、KANOに注目す記者は誰もいなかった。漢人ばかりか、先住民もいるチームに、差別的な質問を浴びせた記者もいた … これに対しては、日ごろ無口な近藤監督がきちんと反論する。

 最初、誰にも注目されていなかった嘉農だが、当時流行りだした姑息な戦法は取らず、1球たりともおろそかにしない、真摯で、気迫のある、力強いプレーで、次々に強豪チームを倒していく。その姿が、次第に甲子園の野球ファンの共感と感動を呼び、ついにKANOは決勝戦に進む。

 決勝戦では、指に血豆ができ、血を流しながら投げるエースの呉明捷投の奮闘もむなしく、激闘の末、中京商業に敗れる。たが、あの差別的な質問をした記者も、多くの甲子園ファンも、このチームを「天下の嘉農」と呼んで称賛した。

 本当にあった、あつーい野球青春ドラマである。

 映画の終わりの字幕によれば、この映画のもう一人の主人公と言ってもいいチームのエース・呉明捷投手は、その後、早稲田大学野球部で活躍した。そのほかのメンバーも、台湾野球の指導者になったり、学校の先生になっている。

 その後、近藤兵太郎監督に率いられた嘉農野球部は、春、夏併せて計5回、甲子園に出場した。彼らの後輩・呉昌征選手は、のち日本のプロ野球に入り、巨人、阪神でも活躍して、野球殿堂入りしている。

        ★

 金美麗さんによると、台湾では、先年、八田與一(ヨイチ)を描いた映画もつくられた。

 また、最近は、旧制高等学校時代の青春をノスタルジックに描いた映画もヒットしたと聞く。

 『KANO 1931 海の向こうの甲子園』にも登場する八田與一は、土木技術者として台湾に派遣され、東洋一のダムと、総延長距離が万里の長城より遥かに長い水路を張り巡らせて、嘉南平野を大穀倉地帯にした人物である。夫婦の墓は今もダムの畔にあり、土地の台湾人によって、毎年、慰霊祭が行われている。

 注) 司馬遼太郎の『街道をゆく』シリーズのなかで、司馬の思いがあふれ、私がいちばん感動したのは『台湾紀行』である。八田與一のことも書かれている。それに、何よりも、司馬遼太郎と李登輝さんの交流がいい。君子の交わりとはこのようなものかと、感動する。まだ読まれていない方は、ぜひご一読を。

         ★

 それで、『台湾紀行』をパラパラと読み直していたら、嘉義農林学校野球部の、一人の先住民選手のことが書かれていた。以下、その抜粋。

 「台東の野にいる。

 むかしからプユマ族が耕している野である。この野から、むかし、嘉義農林の名選手が出た。

 日本統治時代の名を上松耕一といい、明治38年(1905)にうまれた。いま生きていれば、80代後半になる。

 台東のプユマの社 ( ムラ ) からはるかな嘉義農林に進学したのは、運動能力が抜群だったからに相違ない。(※これは多分、司馬さんの間違い? )

 昭和6年(1931)、上松少年の嘉義農林は甲子園に出場し、勝ち進んで準優勝になった。少年は遊撃手だった。

 卒業後は、横浜専門学校(現神奈川大学)に入り、卒業してから嘉義の自動車会社に入社した。かたわら母校の嘉義農林にたのまれて野球部の指導をした。

 上松耕一は、結婚後、台東にもどって山地人のための学校を多く建てた。戦後、陳耕元という名になった。

 (司馬さんが、泊まったホテルの荷物運びの老人に、「上松さんを知っていますか」 と聞くと、その人は「ああ、『校長先生』のことでしょう」 と答えた。)

 …… ともかくも、昭和初年の甲子園の名選手が、いまなお台東の山野で『校長先生』の名でもってその存在が語り継がれているというのは、すばらしいことだった。

        ★    

 日本統治時代、当時の日本政府は、(台湾でも、韓国でも)、全土を測量して地図を作り、道路をつくり橋を架け、水力発電を起こし、工場を建て、或いは病院をつくって風土病と戦い、全国津々浦々に小学校を建てて義務教育を普及し、交番や郵便局を開設し、中等教育学校を整備し、さらには旧制高等学校や帝国大学もつくった。台北に設けられた帝大は、名古屋や大阪より古い。(韓国・ソウルの帝大は、さらに古い)。

 台湾人の「記憶」のなかで、甲子園を目指した青春の熱気や、弊衣破帽で友と哲学を論じ合った旧制高等学校時代のほのかな恋心が、美しい思い出として、今も郷愁をもって語り継がれるのは、自然の理である。

        ★

 長く会わなかった人から、きみ、忘れたのかい、子どものころ、きみのうちに遊びに行ったとき、裏山に桜の木があって、みんなで花見をしたよ、と言われて、あっ、そうか、そうだね。そうだったねと言って、思わず手を握る。

 日本人は忘れかけているが、台湾人にとって日本時代の記憶は、時に、なつかしい。

 東日本大震災の折、世界でいちばんたくさんカンパを集めてくれたのは、台湾の人たちであった。

 「記憶」は、語り継がれて、歴史になる。

 日本統治時代よりも前の、中国から「化外の地」と言われた時代の「記憶」、日本が去り、入れ替わるように入ってきた蒋介石軍に支配された戦後の「記憶」 … 台湾には台湾の歴史物語がある。

        ★

 映画の最後のシーンは、台湾に帰る船の狭い甲板で、選手たちが草野球をして遊ぶ場面だった。

 その海の上のシーンを見ながら、旅客機のない時代、台湾までの船旅の遠さを思った。… 彼らは甲子園に出場するために、いったい何日かけて、やってきたのだろう

   

    ★   ★   ★

 もう一つの国、韓国でも、日本が戦争に負けて去って行くとき、多くの民衆は、日本について、良い「記憶」を持っていた。少なくとも、李氏朝鮮時代に戻りたいと思っていた人は、一部の両班階級を除いては、あまりいなかったろう。

 今の韓国の反日感情は、戦前の日本の統治の結果ではなく、戦後の「韓国国民」づくりの結果である。

 学校で「日帝の悪」を教え込まれた子どもたちは、家に帰ってそれを話す。母や、祖母が、「日本の統治時代に、そんなことはなかったよ」と言うと、子どもは「先生が教えてくれることに間違いない」と反発する。親たちは、「学校で教えられること」 に対しては、黙って受け入れるしかない。そういう時代になったのだと。

 こうして、韓国人の記憶の中から、甲子園の記憶も、旧制高等学校の思い出も、日本人の子も韓国人の子も差別もなく教えてくれた小学校の日本人教師の記憶も、お隣に住んでいて仲よくしていた日本人一家の思い出も、炎天下、日本人技師に付いて全土を測量し地図を作った記憶も、初めて近代的な橋を架け、ビルを建てた記憶も、交番制度ができ土地の若者が巡査になった記憶も、すべてが消えていった。

 歴史は「修正」される。

 同じ「記憶」をもつはずなのに、一方にとって、それはなつかしい「記憶」、他方にとっては、憎悪の「記憶」。

     ★   ★   ★ 

 終わりに、司馬遼太郎『台湾紀行』から、そのいくつかの文章を書き写す。

 「以下は、ごく最近にきいた話である。大蔵省の造幣局の幹部のひとが、1980年前後、大蔵省から派遣され、財団法人交流協会台北事務所の一員として滞台した。

 仮に、Aさんとする。滞台中、一人で東部の山中を車で駆けていたとき、大雨に遭った。路傍の木陰に、山地人の老人とその孫娘が雨を凌いでいたので、乗せた。

 乗ってきた老人にとって、戦後、日本人に会うのがはじめてだったらしい。このため、話が大ぶりになった。

 『日本人は、その後、しっかりやっているか』

 といったぐあいに、なたで薪を割るような物言いで言う。

 『はい、日本はお国に戦争に敗けたあと、はじめは虚脱状態だったのですが、その後 … 』

 『お国とはどこの国のことだ』

 『あなたの中華民国のことです』

 『いっておくが、日本は中華民国に敗けたんじゃない』

 『敗けたんです』

 変な話になった。

 この老人も、日本が連合国に降伏したということは、知っているはずである。その連合国のなかに、中華民国が入っていた。

 『いや、敗けとりゃせん』

 と老人がいうのは、区々たる史実よりも、スピリットのことをいっているらしい。

 降りるとき、この『元日本人』は、若い日本人に、『日本人の魂を忘れるな』といった。

 孫娘もきれいな標準語をつかっていたそうで、山中と言い、大雨と言い、民話のような話である。

                        ★

 (巻末の司馬遼太郎と李登輝の対談から)

 李登輝)  「司馬さんと話をするとき、どんなテーマがいいかなと家内に話したら、『台湾人に生まれた悲哀』といいました。それから二人で「旧約聖書」の「出エジプト記」の話をしたんです」。

                        ★

 「300年も独力でひとびとが暮しつづけてきたこの孤島を、かつて日本がその領土としたことがまちがっていたように、人間の尊厳という場からいえば、既存のどの国も海を越えてこの島を領有しにくるべきではないとおもった。

 当然のことだが、この島のぬしは、この島を生死の地としてきた無数の百姓(ヒャクセイ)たちなのである。

           ★    ★   ★

 中華人民共和国は、今、中国の歴史上、最大の版図を有し、まさに「帝国」である。抑えつけられた民族の悲鳴が聞こえる。これ以上、不幸を広げることに、反対する。 

 そして、いつの日か、国連が、新しい加盟国として、「台湾国」を承認する日が来ることを、願う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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塩野七生とともに、日本への応援歌

2015年03月03日 | エッセイ

 遠く離れたローマに、私と同じような思いで、日本にエールを送っている人がいる。

 以下、塩野七生 『日本人へ…危機からの脱出編』 (文春新書) の中の「ラストチャンス」から引用する。

    ★   ★   ★

 「短期の滞在の後で成田を発ったのは、参院選の当日だった。 だから選挙の結果は、ローマのスペイン広場に行って買った、一日遅れの日本の新聞で知った。 良かった、と心の底から思った。 これで久しぶりに日本も、安定した政治にもどれるのだと」。

       

(テヴェレ川とサンタンジェロ城/塩野さんのお宅はこの近く)

 「帰国中にはいつものことだが、日本の地方のニュースに注意するようにしている。 それらを見ながら抱く思いは、こうも懸命に生きている日本人一人一人の努力を無駄に終わらせないためにも、政治の安定が必要なのだという一事に尽きる」。

 「新聞の論調を読んでみると、今こそ正念場、ということでは各紙とも同意見のようである。 また、正念場というのが次の選挙までの3年間、ということでも各紙は一致しているらしい。

 だが私は『正念場』には同意しても、それが『次の選挙までの3年間』、というのには同意しない。3年なんて、すぐに経ってしまう。再浮上にとっての絶好のチャンスなのだから、3年なんてケチなことを言わず、10年先まで視野に入れてはどうだろう。そして、その10年だが、安倍プラス石破で小泉につなぐ10年間。この10年で浮上に成功すれば、その後は苦労少なく安定飛行に移行できる。という意味でも、どうしても10年はほしい。10年後には私はもう生きていないにちがいないが、日本は安定飛行に向けて着実に浮上している、と思いながら死ぬのならば悪くない」。   

 「経済力の浮上が最優先と言うと、大新聞あたりからイデオロギー不足などと批判されるかもしれないが、そのような論調は無視してかまわない。明治維新が成功したのは、維新の志士たちも反対側にいた勝海舟もイデオロギー不在であったからだと、私は思っている。それはそうでしょう。 昨日まで攘夷と叫んでいたのが一転して開国になったのだから、終始一貫ということならば彼らの多くが落第である。

 彼らを動かしたのは、危機意識であった。 すぐ隣で起こった阿片戦争によって巻き起こった強烈な危機意識が、彼らを駆り立てた真の力であったと思う。イデオロギーは人々を分裂させるが、危機意識は団結させるのだから。 

    ★   ★   ★ 

 塩野七生は言う。「帰国中にはいつものことだが、日本の地方のニュースに注意するようにしている。それらを見ながら抱く思いは、こうも懸命に生きている日本人一人一人の努力を無駄に終わらせないためにも、政治の安定が必要なのだという一事に尽きる と」。

 私もまた、「国東半島石仏の旅」の間、ずっとそのことを考えていた。

 「私は『正念場』には同意しても、それが『次の選挙までの3年間』、というのには同意しない」。

 新聞やテレビや週刊誌は、つまらないこと(例えば首相のヤジ)を取り上げ、鬼の首でも取ったかのごとく大騒ぎして足を引っ張る。「権力の番人」などとうまいことを言うが、実は発行部数を増やし、或いは視聴率を上げて儲けたいという資本主義的欲求からである。戦前もそういう動機から、政党政治をたたき、軍部の台頭に拍手を送って、日本の針路を誤らせた。戦前、日本に軍国主義を招じ入れたのは、マスコミである。大衆迎合(ポピュリズム)が専制を招き寄せる。

 もちろん、「失われた20年」を取り戻すのに、3年くらいではどうにもならない。アメリカの大統領は8年、中国は10年。3年で賞味期限切れにしていたら、他国に侮られるだけだ。

        ★

 「明治維新が成功したのは、維新の志士たちも反対側にいた勝海舟もイデオロギー不在であったからだと、私は思っている」。

 「国東半島石仏の旅 8」に、「世間は生きている。理屈は死んでいる」という勝海舟の言葉が刻まれた中学校の卒業記念の石碑を紹介し、「これが本当にわかるようになるには、相当の勉強と、経験が必要である」と書いた。

 私も、若いころはイデオロギーに心酔した左翼青年だった。やがて働き盛りになり、政治や思想に興味を失っていった。

 それが大きく変わったのは、日本がデフレに陥って右肩下がりに「縮小」していき、一方で、中国共産党下の中華人民共和国が、天安門事件を契機に社会主義をかなぐり捨て、愛国主義宣伝( =反日宣伝 ) をしながら、すさまじい勢いで経済的・軍事的「膨張」をはじめたからである。中国共産党の、中国共産党による、中国共産党のための政治を、国境を越えて膨張されては、隣国としてはたまらない。それが、私の危機意識である。

 例えば仮に、お隣がEUであって、そのEUがどんどん膨張するのであれば、私は何も心配しない。日本経済が「縮小」していく一方なら、誇りを捨ててEUの庇護下に入ればいいだけだ。しかし、EUと中華人民共和国とでは、全然違う。世界の幸せのためにも、かの国の軍事的膨張はよくない。

 戦後、日本は、「アメリカの力」の蔭で、子どものように平和なときを過ごした。それを、憲法9条のお蔭と言うのは、イデオロギーでしかものを見ない人たちである。

 しかし、世界は変化し、日本を取り巻く状況は本来の姿に戻ってしまった。本来の姿とは、司馬遼太郎が言うように、アメリカと、ロシアと、中国という、覇権国家、或いは、覇権国家を目指す巨大な3つの滝があって、その滝に囲まれた滝壺に、日本という一艘の舟が浮かんでいる、という危うい景色のことである。

 ただ、その危機意識は、今、台湾や、フィリピンや、ベトナムや、インドネシアや、シンガポールや、オーストラリアや、インドと共有している。 アメリカとは、同盟がある。「イデオロギーは人々を分裂させるが、危機意識は団結させる」のである。 

 私は、塩野七生より少し若いが、そろそろ生の終わりを考えてよい年齢になった。大した人生ではなかったが、「親にもらった体一つで」良く生きたと少しは自分を誉めて、死を迎えても良い。

 だが、個人の命と、国の命とは違う。国の衰亡は、断じて受け入れがたい。

 「失われた20年」を終わらせて、もう一度しっかりと前を向いて歩いて行く。多少とも、右肩上がりで。そのためのラストチャンスが今なら、これに賭けるしかない。

  

         (厳島神社で)

 

 

 

 

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首相のヤジについて

2015年03月01日 | エッセイ

 私は、とっくに第一線をリタイアし、社会の片隅でひっそりて生きている人間である。それでも、一寸の虫にも五分の魂という。主権者の一人として、世の中に向かって、ストレートに (つまり、紀行文の形など取らずに) ものを言いたくなることもある。

 ただ、私は政治家でも、エコノミストでも、企業経営者でも、労働組合や農協の役員でもない。故に、難しいことはわからない。それに、私が何を言っても、世の中が1センチでも動くわけではない。

 ですから、安心して、読み捨てていただきたい。

                  ★

 「首相がヤジをとばすなど初めて見た 」と、テレビで悲憤慷慨する複数の政治評論家たちを見た。「… 大平首相は偉かった。反対意見にも耳を傾け、受け入れていた」… そうだ。

 大平さんについて思い出すことは一つ。国会での答弁や記者会見での質問で、「あーあー。うーうー」の連発。長々と時間をかけて、結局、ショート・センテンス一つだけということもしばしばあった。

 憎めないし、老獪だとは思ったが、あれを見て、心に決めた。自分がいつか「一隅のリーダー」になったときには、物事を明快、かつ簡潔に話す、自分の言葉をもったリーダーになりたいと。

 もちろん、一隅であろうとトップに立てば、言えないこと、言ってはいけないこともある。言えないことは、「それは言えません」と言い切ればいいのである。そうすれば、聞いた方も、大概、こういうことは聞いてはいけないことなんだな、と気づく。それを、誤魔化そうとするから、執拗に追及される。

 国際社会で、「もみ手外交の日本人」「いつもあいまいな日本人」「何を考えているのかわからない日本人」と言われていた時代だ。日本的老獪さが、世界に通用するわけではない。

 だが、ヤジや、「あーあー。うーうー」 ぐらいで驚いてはいけない。今では政治評論家諸氏から名宰相であったと評価の高い吉田茂首相は、記者会見のとき、「馬鹿野郎」と言って記者席にお茶をぶっかけた。プライドが高く、短気で、傲慢、孤高の政治家であった。

 でもまあ、それもこれも……、もともと政治や経済は、現実的でなまぐさいもの。道徳の時間ではありませぬ。要は、国民のため、国益のため、現実にどういう利益をもたらしてくれるのか、です。いかにお人柄や風貌が聖人・大夫然としていても、無能であっては困るのです。

 1年ごとにコロコロ代わって機能しなかった日本の政治が、やっと落ち着き、戦略をもって行動し始めたところである。つまらん非難で足を引っ張るポピュリズムはご免、3年や5年は、気長に待ちましょう、と一人で思っている。

 と思っていたら、新聞報道によると、「われ、未だ木鶏たりえず」と、安倍さん、神妙に反省されたとか。吉田茂などより、かなりお上品です。

 でも、時に、ヤジをとばす首相、良いと思いますよ。ただし、正確に的を射て、ね。

 

 

 

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