ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

日本の街並み 1 (金沢、奈良、鎌倉、軽井沢 )

2012年10月28日 | 国内旅行…街並み

 そこに住んで、休みの日に散歩したくなるような、楽しい日本の街はどこだろう。                                   

金 沢

 加賀百万石の城下町・金沢は、歴史を感じさせる、情緒のある町だ。

 室生犀星が愛した犀川の、川音が大きい。犀川の岸辺を散策していると、音が耳につく。川原になごり雪がある季節もいい。

  金沢城址から兼六園のあたり、浅野川の岸辺のひがし茶屋街、武家屋敷街、寺町街など、散策コースが多彩だ。

 九谷焼や伝統工芸品、銘菓の土産店を見て歩くのも楽しい。日本の文化を感じることができる。

 寒い冬の夜は、郷土料理の治部煮で熱燗を。

           ★ 

奈良 … 旧志賀直哉邸付近

 旧志賀直哉邸を拝観できる。「自我」の作家といわれるが、自分よりも子どもや妻を優先した間取りがいい。

 多分、志賀直哉が毎日のように散歩したであろう界隈は、北側に馬酔木の森があり、春日大社や、興福寺、東大寺へと続く。

             ( 春日大社 )

 

  (興福寺の五重塔)

     (興福寺界隈)

 ひっそり鄙びた住宅街から、春には馬酔木や桜、秋には桜や柿の葉の紅葉・黄葉を愛でながら、崩れた土塀の細道をたどって行くと、猿沢の池や三条通りに到る。

        ( 奈良・三条通り )

 いくらでも足を伸ばせるところがあるのが、いい。

 冬、旧志賀直哉邸のお隣の和風レストランの2階の畳の間で、志賀直哉邸を見下ろしながら、昼間からお酒をいただいた。突然、雪が激しく舞い出し、思わず見とれてしまった。

          ★

鎌 倉

 ここも住んでみたい町だ。

 円覚寺や東慶寺などの禅寺のある北鎌倉、少し華やかな鶴岡八幡宮から鎌倉幕府跡、さらに、江ノ島電鉄の極楽寺駅付近は、中井貴一と小泉今日子のドラマ「終わりから二番目の恋」の舞台になった閑静な住宅街だ。

          (江ノ島電鉄と御霊神社)

 戦前、戦後、川端康成、小林秀雄ら多くの作家、文人が住んだ街でもある。アンチーク店があったり、お洒落なカフェがあったり、塩辛の旨い飲み屋もある。

 しかし、何といっても鎌倉武士の街である。

        ( 雨の日の鎌倉 )

 頼朝、政子が初めて武士の政権を創った街であり、足利、新田軍を防ぎきれず、北条側数千人が討ち死にしたり自害した、その血のしみこんだ地でもある。

 鶴岡八幡宮の朱の鳥居や拝殿を見るたびに、武士の街だと思う。そこが、いい。

 

       ( 鶴岡八幡宮の舞殿 )

                           ★

軽井沢

 街並みとは言えない。避暑地であり、高級別荘地であり、森の散歩道である。

 別荘を持つことを思えば、ずっと経済的だと、思い切って老舗の名ホテルに泊まった。

 夏の喧騒は避ける。5月の連休が終わったころが良い。

 白樺や落葉松の芽吹きが美しい。

          ( 白樺の林 )

 青空も、緑が雨に濡れた日も、いい。

 静かな森の中の、どこへ続くとも知れぬ小道は、散歩にもってこいである。

 浅間山がいい。日本の名風景には、必ずその土地の山がある。ここには、浅間山。名山である。

  

      (軽井沢 森の教会)

( 続 く )

 

 

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日本の景観には日本の心 … 「パリの街並み」考 2

2012年10月26日 | 西欧旅行…街並み

もう一度、美しい景観を >

 幕末から明治時代にやってきた西洋人たちは、将軍のいる江戸の街並みにも、地方の城下町にも、田園風景にも、自分たちの文化とは異なる美しさがあることに、感動した。

 大正、昭和と、近代化が進むにつれて、日本独自の風景の美しさは少しずつ失われていったが、赤レンガの東京駅にしろ、倉敷の紡績工場にしろ、西洋化を上手に取り入れて、なお美しい。

 袴に靴、黒髪にはリボンという、大正デモクラシーのころの女学校の女生徒は、その和洋折衷がまことにオシャレである。

  戦後の復興の過程から、高度経済成長、バブルの時代にかけて、日本の大都市は雑居ビルのようになり、地方の中小都市までがケバケバしいネオンの街となっていった。日本中に、「〇〇銀座」という通りがつくられた。

 里山は削られ、川は水量を失い、田畑の景観も荒廃し、海も汚れた。

 いま、やっと、失われた日本の景観が、少しずつだが、取り戻されてきている。

           ★

 かつて、オーストリアでは、ドナウ川のたび重なる氾濫を防ぐため、全流域に渡ってコンクリートの護岸工事を施した。川は大きな用水路と化し、人々が自然や歴史を感じ取る景観は失われた。

 こういうライフスタイルはよくない、という反省が起こった。

 全流域のコンクリートを撤去し、もう一度魚や貝の棲める川岸に戻す大工事が行われた。それは、大事業だった。日本が高度経済成長をし、鼻息の荒かったころのことである。

         ( ドナウ川の流れ )

 今、ドナウ川は、都市の中や田園の中をゆったりと流れ、美しく、歴史ある景観は、世界各地から多くの観光客を呼び寄せている。

 日本も、都市と、田園と、山と川の景観を、さらに美しくしていく取り組みが必要である。

 公共事業は必要である。ローマの豊かさ、繁栄と、平和は、絶えざるインフラのメンテナンスによって維持された。

 さて、その際、電線はできるだけ地下に埋設し、景観を損ねる電柱は除去したい。

 寒色系の蛍光灯はやめて、人の心を和ませる色合いの街灯に入れ替え、ネオンはすべて禁止する。( 私は非喫煙者ですが 、ネオン禁止は、屋外喫煙の禁止などより、優先順位は上位です )。 

 錆びた鉄骨があらわになったビニールハウスはきちんと整備し、景観に配慮した田園風景をつくる。

 「反原発」は結構だが、あの低周波の騒音を撒き散らす巨大で無機質な風車を、里山から里山へと林立させたり、黒々とした太陽光パネルを、谷から谷へと休耕田に敷きつめるのはやめてほしい。

 「反原発」は、一見、美しく見える。だが、近年のグローバリズムの中で有り余る資本を手にした新興資本が、「反原発」を利用して、貪欲にも、日本の基幹産業であるエネルギー産業を、解体・奪取したがっていることに、もっと注意が必要だ。民進党のような政党は、簡単に取り込まれてしまう。

 「日本列島改造論」は、昭和版も平成版も、ご免である。

 緑の山や、谷や、川や、田畑があってこその日本列島である。

 文化とは、街並みであり、緑豊かな農村の風景であり、山や川のたたずまいである。

          ★

日本の心と日本の美 >

 話は変わる。

 2キロを貫くシャンゼリゼ大通りの景観や、ショイヨー宮からのエッフェル塔とマルス公園の景観を見て、日本はなんと貧弱なんだ、ヨーロッパはすごい、と嘆く向きがある。

 中国に行けば、万里の長城や兵馬俑に圧倒されて、日本は卑小だと嘆く。

 しかし、2キロを貫くシャンゼリゼ大通りも、豪華絢爛のヴェルサイユ宮殿も、それがあるということは、かつて圧倒的な専制権力が君臨していたということだ。

 立ち退かない住民を力づくで追い出し、一方で、重税を徴収する。そういうことをしないで、どうやってシャンゼリゼ大通りができるだろう?

     ( ヴェルサイユ宮殿 )

 前田百万石の殿様の前田利家が、金沢にお城を築くとき、労働してもらった民・百姓には相応の賃金を払っているし、自らもモッコを担いで人足仕事をし、奥方のおまつさんはたすき掛けで炊き出しをした。そういう殿様でなければ、日本では民衆は付いてこない。

 戦国大名は、暴れ川の氾濫を防ぐために堤防を築き、大規模な灌漑をして米の増産に努め、城下町を整備して商工業者を招いたが、中国や西欧のように、贅を尽くした大宮殿は造らなかった。

 江戸の火災で焼けた江戸城の天守閣を、歴代将軍はついに再建しなかった。

 利休は、朝鮮半島の農民が日常使っていた茶碗を褒めて、これは良いと、自らの茶道に取り入れた。そういう茶道具を、大名、権力者の間に流行らせた。そう言われて見れば、なるほどその茶碗はなかなかの味わいがある。そこが利休のすごさである。天才とは、そういうものだ。

 書院造りの陰影を美しいと思い、狭い茶室の柱の竹筒に投げ入れられた1輪の椿に感動する。

 それが、この島国が育み、洗練させてきた美意識である。茶道の心得はなくても、日本人なら、そういう美意識を誰でももっている。

 「伝統というものは、経験の結晶として、一人一人の具体的な人間の全体の中に体現されているのである」。

          ★

 派手なヴェルサイユ宮殿は日本にないが、木々の繁る杜の中の簡素な社がある。

 縄文時代からの杜 (モリ) は今も残され、そこには、それぞれの神様がおわして、人々は今も、お正月だ、七五三だ、お受験だ、出産だと、お参りに行く。秋には神輿や山車の太鼓の音も聞こえてくる。

 しかも、その社は、建て替えられ建て替えられして、千年も、二千年もよみがえりを繰り返しながら存続する、古い古い文化遺産である。

 ピラミッドも、アクロポリスの丘の神殿も、万里の長城も、大聖堂までもが、今は石の廃墟に過ぎない。

   

               (村の神社)

 そういう民族性、国柄、文化を誇りとして、シャンゼリゼ大通りを楽しもうではありませんか。                    

                                             

 

 

 

 

 

 

 

 

  

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文化は、街並み …… 「パリの街並み」考 1

2012年10月25日 | 西欧旅行…街並み

 オルセー美術館は、展示されている絵画ももちろん素晴らしいが、絵の鑑賞に倦んだら、屋上からパリの景色を眺めるのも格別である。

 眼下をセーヌ川が流れ、その向こう岸の緑はチュイルリー公園。視線を上げれば、遠くにモンマルトルの丘があり、サクレ・クール寺院は丘を圧するように建っている。その上の白い雲もいい。

     ★    ★    ★

パリの美しさは端正な美 >

 パリは、美しい街である。

 その美しさの特徴を一言で言い表せば、端整な美 !!

 セーヌ川沿いに、サン・ルイ島、シテ島、ルーブル宮殿を経て、エッフェル塔まで散歩すると、パリがいかに整った、端整な街であるかがよくわかる。

   この約5キロのセーヌ川沿いの景観は、早々に世界文化遺産に登録されたが、それも当然だと思える。

 私にとって、ルーブルは、美術館であるよりも、左岸からセーヌ越しに見るパリの景観の一つだ。

        ( オルセーから眺めるルーブル宮殿 )

          ★

 水上バスか、遊覧船で (ほぼ同じコースを運行する) 、セーヌ川の水上から、風に吹かれながら、頭上に架かる橋や、美しい建築物の数々や、川岸を散歩する人々を見るのは、楽しい。日常とはちょっと違う角度から見るパリの姿は、…… シャンソンが流れてくるようで、やはり、美しい。

  

   (水上バスから見上げた芸術橋) 

 水上バスからエッフェル塔が見え始めると、この鉄の塔が、パリの街並みにすっかり溶け込んで、欠かせない「風景」になっているのが納得できる。午後の斜光の中に建つエッフェル塔に、詩情がある。

 

   ( 水上バスから見上げるエッフェル塔)

 船を降りて、ショイヨー宮のテラスから、セーヌ川越しにエッフェル塔を眺めれば、その先のマルス公園まで構図に入れて、街が整然と造られていることがわかる。── 日本にも、世界にも、高い塔があるが、塔は高さを競えばよい、というものではない。

     ( ショイヨー宮のテラスとエッフェル塔 )

          ★

辻邦生『時の果実』(朝日新聞社)から。

 「それはある晴れた日の夕方で、地下鉄がトンネルを出て、セーヌにかかる橋に、いきなり出たときだった。私は一瞬の間に、エトワールからモンマルトルの家並みの高まりとその上にたつ白いサクレ・クールをはさんでエッフェル塔にいたる夕日に照らされた灰暗色の屋根の拡がりを見たのだった。それはすでに何度も見知った風景だったにもかかわらず、夕日の効果からか、また別の理由からか、ある特殊な感覚で私をつらぬいた。

 これをどう説明したらよいのだろう。たとえば、それは、一挙にすべてを理解するとでもいうべき光が、私の内面を走りぬけたといおうか、私はそこにただ町の外観のみをみたのではなく、町を形成し、町を支えつづけている精神的な気品、高貴な秩序を目ざす意志、高いものへのぼろうとする人間の魂を、はっきりと見出だしたのである。そこには、自然発生的な、怠惰な、与えられているものによりかかるという態度はなかった。そこには、何かある冷静な思慮、不屈な意図、注意深い観察とでもいうべきものが、鋭い町の輪郭のなかにひそんでいた。自然の所与を精神に従え、それを人間的にこえようとする意欲があった。

 ある意味で、その瞬間こそが、私にとって、おそらく西欧の光にふれた最初の機会だったかもしれない」。

      ★    ★    ★

街並みこそ、文化である >

 絵や、彫刻や、音楽や、文学は、1本の樹木に例えれば、太い幹から出た枝の、枝分かれしたその先に咲く花みたいなものだ。いかに花を説明してみても、その木を説明したことにはならない。

 文化が、その土地の風土のなかで耕され、その土地の暮らしの中で洗練されたものであるとするなら、それは美術や、音楽や、演劇や、文学よりも、まず、街並みではなかろうか。

 町や村のたたずまいも、それらを囲む、田園や、川や、森や、山の景観も、文化であり、文化遺産である。

 文化は、人々のライフスタイルにある。

 西欧では、ごく当たり前のように、おっちゃん、おばちゃん、じいさま、ばあさまが、「この町は美しい」「私の村は素敵だろう」と言う。 ── そういう土地に暮らしていたら、人生は、きっと幸せに違いない。

         ★

 明治維新前後に日本を訪れた多くの西洋人が、一様に、江戸 (東京)  の街並みの美しさ、日本の田園風景の美しさについて、故郷への手紙や、日記、報告書に書き残している。 

 つまり、江戸には、文化があったということだ。

 粋な黒塀に見越しの松。川端柳。掘割を行く船や、武家屋敷 …。

 そこに日本髪の美女が歩いていれば、これはもう立派な文化である。

      ( 大分県・杵築の町で )

        ★

 若き日の永井荷風は、パリに留学して、パリの街並みの壮麗さに圧倒され、打ちひしがれて、帰国した。石の文化にはかなわねえ。

 帰国してからは、もっぱら墨田川の江戸情緒に遊んだ。

 

 

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セーヌ河畔で …… ヨーロッパを旅するヨーロッパの若者 3

2012年10月21日 | 西欧旅行…旅の若者たち

パリの空の下セーヌは流れる >

 ミラボー橋の下をセーヌは流れ / われらの恋が流れる /

 わたしは思い出す / 悩みのあとには楽しみが来ると /

 日も暮れよ、鐘も鳴れ / 月日は流れ、わたしは残る

  アポリネールの詩 「ミラボー橋」は、「月日は流れ、わたしは残る」 というリフレーンが、セーヌ川の滔々とした流れと響きあい、橋の上からセーヌの流れを眺める孤独な詩人のイメージが形象化されて、印象的である。

 黄昏どき、軽やかな鐘の音も花びらのように流れてくる ……。

         ★ 

 ヨーロッパの町のなかでも、パリは格別である。

 空が広い、と感じる。

 例えばヴェネツィアで2、3日を過ごして、飛行機でパリに移動して、シャルル・ド・ゴール空港から地下鉄に乗りシャトレで降りて、地上に出たとたん、街並みや、セーヌに架かる橋や、道行く人々が、なぜか心を明るくし、心に開放感が広がってくる。

 シャンソンはもう流行らないが、アコーデオンが奏でる、ちょっと哀愁を帯びたシャンソンの音色が似合う街だ。 

 カフェのテラス席で、行き交う人々を眺めながら、一杯のグラスワインを傾ける。

   ( セーヌの遊覧船、遠くにモンマルトルの丘 )

         ★

< 「カフェ・ド・マゴ」の青春 >

 パリに、好きな景色がある。

 観光にも飽きて、朝から、或いは夕方、「カフェ・ド・マゴ」のテラス席に座り、広場越しに、サンジェルマン・デ・プレ教会の蔦の絡んだ瀟洒な塔をぼんやりと眺める。

 隣の席でも、髪が薄くなったムッシュが、静かな眼差しを教会の塔の方へ向けて、コーヒーカップをテーブルに置いたまま、時を過ごしている。

 「カフェ・ド・マゴ」には、なぜかムッシュのイメージが似合い、マダムの影は薄い。

 かつて実存哲学者のサルトルやヴォーボワールが、盛んに議論したり、執筆したりしたという伝説のカフェだが、今は観光客のための少々スノッブなカフェになった。だから、もう、カルチェ・ラタンの学生が日常的に利用するカフェではない。もちろん、サルトルやヴォーボワールはもうこの世にいない。彼らがまだ壮年で、世界の思想界に名をとどろかせ、若者をわくわくさせた、その若者の世代が、今、髪の薄くなったムッシュであり、私の世代である。

 青春は思想であった。

 「カフェ・ド・マゴ」に女性客も多いが、マダムは年を取って、そのような青春の日の感傷のために、わざわざ歴史的カフェを訪れたりはしないものだ。

  日が傾いてきた。ライトアップされたノートルダム大聖堂を、上流の左岸から写真に撮るために、セーヌ川へ向かう。

         ★

< ノートルダム大聖堂とヨーロッパの若者たち >

 少し早すぎた。もうそろそろ午後9時だというのに、空に明るさが残り、ライトアップには、まだ間がありそうだ。

 昼間の賑わいが嘘のようなライトアップされたルーブル宮殿の撮影や、セーヌ川の暗い川面に映るオルセー美術館の撮影がそうであったように、暗闇の中からの、ちょっと孤独な撮影になると思っていた。パリの街を、夜、三脚を持って歩いている人は、まず、いない。

 しかし、…… トゥールネル橋のたもとは川岸が広くなり、石畳が敷きつめられ、まるで広場のようになっていて、そこに高校生、大学生ぐらいの男女の若者たちが三々五々と座り込み、あたり一帯が歩きにくいほど一杯で、楽しそうにさんざめいていた。どうやら、ノートルダム大聖堂のライトアップを待ちわびている若い旅行者たちの群れのようだ。

         ★

  前2回、旅先で見かけた一人旅の若者のことを書いたが、実は高校生のグループ、大学生のグループなど、チームでヨーロッパの文化遺産を訪ねて旅する若者がとても多い。

 必ずリーダーがいる。年長の若者の場合が多いが、時には教授風の人であったりする。

 彼らの行き先は、夫婦連れ、家族連れの一般観光客とは自ずからやや趣を異にする。例えば、彼らを最も多く見かけるのは、国ではイタリアだろう。なぜなら、そこは、ヨーロッパの文明・文化の水源の地だから。

 ヴァチカンのあるローマは、さすがにさまざまな世代の旅行者であふれているが、ルネッサンス発祥の地フィレンツェとなると、若者グループの比率がかなり高いはずだ。

 ローマ帝国末期に都の置かれたローカルな町・ラヴェンナに行ったときも、道が分からなくなると、マップをもって街を颯爽と歩いている若者のグループに付いて行った。すると、ちゃんと、目当ての初期キリスト教の聖堂にたどり着く。ただし、一般旅行者より歩く速度はかなり速くて、そこがしんどい。

          ★

 夕暮れのセーヌ川の様子に話を戻す。 

 電飾を点けた観光遊覧船が行き交って、夜になっても、セーヌの川面は賑わっている。

 紳士、淑女にディナーを提供するやや高級な遊覧船もあれば、若者ばかりを乗せた遊覧船も通る。

 若者たちの遊覧船が通ると、そのたびに川岸にいる若者たちが、「オー」と喚声を上げて、手を振る。それに呼応して、船のほうからも歓声が起きる。若者の船が通るたびに、エールの交換が繰り返される。

 暗くなったセーヌ川の空間に、突然、灯りがともり、対岸のノートルダム大聖堂の威容が、群青色の空を背景に浮かび上がった。

 若者たちの大歓声と拍手が沸き起こる。

   (ライトアップされた大聖堂)

 ヨーロッパの文化遺産のすべてがそうであるように、ノートルダム大聖堂もまた、遠い昔の化石化した文化遺産ではなく、次の世代が、" ヨーロッパとは何か " を考え、" うちなるヨーロッパ" を自分の中に形成するため、生きた教材となっているのである。

 ヨーロッパの若者たち、そして、遠くアメリカやカナダの若者たちも、遥々と祖父の地に旅をしてやってきて、" 自分とは何か? 何ものなのか?" " 私のアイデンティティは?"と問いかける。

 学校教育でも、ヨーロッパ史については、みっちりと教える。誇りにするに足るヨーロッパを。

  (ライトアップされた大聖堂の正面)

          ★

< うちなる日本を >

 奈良や京都への修学旅行が減って、久しい。小学生や中学生に、奈良や京都を見せても、たいして喜ばないだろうと。

 しかし、そのとき深くはわからなくても、小学校、中学校のときに行った奈良や京都が、自分の自己形成において自ずから役に立っている。

 「意味」のない修学旅行なら、先生たちの大変な負担も考えて、廃止すべきである。海を見たこともないという明治時代の山の小学校ではないのだから。

 やるなら、「修学」にふさわしい旅行を考えていただきたい。

  国語も、数学も、理科も、社会も、音楽も、美術も、家庭科も、外国語も、すべて学校で教える事柄は、人間の文化遺産である。そのなかには、世界普遍的なものとともに、国語や日本史のように、日本独自のものもある。そこもしっかり教えてほしい。そして、高校生や大学生になったら、「うちなる日本」を探しに旅立つように、本当の教養を身につけさせてほしい。

 文部科学省の皆さん、英語や、アメリカ式のディベートを教えても、「うちなる日本」を語れないような青年に、世界と太刀打ちすることはできませんよ。

          ★

森有正『遥かなノートル・ダム』(筑摩書房)から

 「伝統というものは、経験の結晶として、一人一人の具体的な人間の全体の中に体現されているのである」。 

  

 

 

 

 

 

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酒はしづかに

2012年10月15日 | 随想…文化

 ヨーロッパ旅行に行っても、グルメ嗜好で星付きレストランへ行こう、などということはない。まず、その町に和食レストランがあれば、そこへ行く。

 なければ、庶民的なレストランのテラス席で、できるだけ簡素に済ませる。イタリアなら前菜 (or メインディッシュ) にパスタ。あと野菜サラダは必ず。時にデザートとコーヒー。

 アメリカ人やオーストラリア人も含めて西洋人の、年齢とともに横へ横へと広がった肥満体を見ると、彼らの食生活の不健全さを思わざるを得ない。

 とは言え、2千年、3千年の歴史をもつ主食の小麦。この小麦の食べ方を工夫し、文化にまで高めたフランスパンや、イタリアのパスタは、さすがに美味しく、2500年の伝統のある日本のご飯に勝るとも劣らない。これに野菜l料理がプラスされれば、それで十分なのでは、と思う。ただし、欠かすことができないのはワインの一杯だ。

         ★

  寿司は、いまや、世界の料理になった。かつては日本人旅行者や現地駐在員を目当てにしていたフランスやドイツの和食レストランも、いまや西欧人の客ばかりで、ご夫婦で箸を上手に使って寿司を食べ、熱燗を傾けているといった景色が当たり前になった。

 日本酒も、欧米で、広まってきている。

 にもかかわらず、日本の居酒屋で、いつのころからか、洋風居酒屋なるものが多くなった。メニューに、韓国料理やベトナム料理やイタリア料理が含まれているのは結構だ。問題なのは、砂糖菓子のように甘い味付けだったり、奇妙に甘酸っぱい味の国籍不明の料理を出すことだ。そういえば、有名回転寿司の寿司も、甘い。ネタの悪さを、砂糖や酢を多めに入れた濃い味付けでごまかしているのだ。

 戦後、日本が貧しかった時代、西洋はあこがれであった。その「西洋風」の名のもとに、安価に大量生産され、テレビで宣伝され、家庭に入ってきたソースやケチャップ。その異様な味で育つと、こういう味が好みとなるのかも。

          ★

 秋の夜長、愚痴はよそう。

 

 さんま、さんま

 そが上に青き蜜柑の酸をしたたらせて

 さんまを食ふはその男がふる里のならひなり。

              佐藤 春夫

 

 白玉の/歯にしみとほる/秋の夜の

     酒はしづかに/飲むべかりけり

              若山 牧水

 

  

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ローマの街角で … ヨーロッパを旅するヨーロッパの若者たち 2 

2012年10月12日 | 西欧旅行…旅の若者たち

    ( 観光客でいっぱいのスペイン階段 ) 

 街を歩いているだけで、心楽しい。そういう気分になるのは、パリを除けば、ローマだろう。

 ローマは、バロックの街だと言われる。

 ミュージシャンがパフォーマンスするナヴォーナ広場も、ライトアップされたトレビの泉も、オードリー・ヘップバーンが降りてくるスペイン階段も、とにかく劇的な空間で、欧米をはじめ世界からやって来た旅行者たちが、ウキウキと歩いている。オシャレなアンティークのお店があり、ジェラードの名店があり、広場にはレストランのテラス席が並ぶ。

   ( ライトアップのトレビの泉 )

 と思えば、フォロ・ロマーノや、コロッセオや、チルコ・マッシモや、それにパンテオンなど、古代ローマ帝国の遺跡が街の中にゴロゴロとある。テヴェレ川の対岸のサンタンジェロ城も、本来はローマの皇帝たちの墓所である。

 そして、その隣には、カソリックの総本山、バチカンが、今も多くの信者や観光客を集めている。

           ★

 市民からネズミ出没の苦情が出て、ローマ市議会がてんやわんや。下水道を掃除したのはいつなのか? 調べてみたら、清掃したという最も新しい記録が、ローマ帝国末期! 古代ローマが建設した下水道を、掃除もせず使い続けてきた町でもある。 ( 塩野七生 『イタリアからの手紙』新潮文庫から )。

         ★

 ヴァチカンから、ローマの街を横断して、スペイン広場まで、石畳の道をてくてく歩いた。

 途中、ナヴォーナ広場を目指していて、道に迷う。地図はあるが、自分の位置がわからなければ、どうしようもない。

         ( ローマの競技場の跡、ナヴォーナ広場)

 知らない広場に迷い込んだ。庶民的な雰囲気の広場で、テントが張られ、花屋、肉屋、八百屋などの市が立っていた。近所のマダムたちが、朝の買い物のために集まっている。

 誰かに道を尋ねようと思って見渡すと、小さなリュックザックを背負った長身の女の子が、石造りの建物の角にたたずんでいた。一人旅の女子高校生か?

 おぼつかない英語で、「エクスキューズ・ミー。道に迷いました。ナヴォーナ広場に行きたいのです。行き方を教えてください」。

 すると、「私にはわかりません。何となれば (Because) 、私も旅行者ですから」 と、英文法どおりの律儀な答えが、緊張した顔で返ってきた。

 「ありがとう」。

 もちろんアメリカ人やイギリス人の英語ではない。英語圏以外。ドイツかな??

 振り返ると、相変わらず、市の様子をじっと眺めている。一人旅だからこその鋭敏になった感受性で、何かを感じ、考えているのだろう。

 旅は心を成長させる。

 日本の高校生、大学生諸君。旅に出て、自分一人の足でしっかり立つ、その感覚を身につけよう。 

 小さな 「グループ」 にとにかく所属して、その中で、傷つかないよう、傷つけないよう、気を使ってばかりの青春なんて、若者の生き方ではない。

 「グループ」に依存しないこと。群れないこと。「グループ」に友情なんか生まれない。友情が生まれるとしたら、何かを成し遂げようとする「チーム」だ。

          ★

 あとで、カンポ・ディ・フィオーリ広場 (花の広場) という綺麗な名の広場だと知った。

 リュックザックを背負った一人旅の女子高生の姿が、印象に残った旅であった。

 

 

 

 

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シャルトル行きの列車の中で … ヨーロッパを旅するヨーロッパの若者たち 1

2012年10月10日 | 西欧旅行…旅の若者たち

      (シャルトルの街)

 パリから列車で1時間少々。

 地平線まで広がる小麦畑。ボーズ平野の中に、シャルトルという小さな感じの良い町があり、そこにシャルトルの大聖堂が建つ。

 井上靖の小説 『化石』 の中で、主人公がこの町の大聖堂を訪れる場面があった。

 ロダンが褒め称えた様式の異なる二つの塔。

 ファーサードには飛鳥仏を連想させる聖人たちの古風な彫像。

 そして、大聖堂の中に一歩入れば、暗闇の中に、宝石箱をひっくり返したように輝くステンドグラスの光の交響楽。

 この大聖堂と静かなシャルトルの町並みをゆっくり味わいたいと、一人、パリのモンパルナス駅から列車に乗った。

   

   ( シャルトルの大聖堂 )

          ★

 アナウンスも、発車のベルもなく、時間になると、列車は静かにホームを滑り出す。ヨーロッパの鉄道の旅の、心ときめく瞬間である。

 レンヌ行きの列車は、ヴェルサイユ宮殿のある駅や、現在は大統領の夏の避暑地として使われるランブイエ城のある駅などに停車しながら、畑や、牧草地や、せせらぎの流れる林の中を、シャルトルへと走る。

 昼過ぎの1等の車両には、自分を含めて4人だけ。少し離れたボックスに中年の上品な夫妻。奥さんは、エリザベス・テイラーに似た美しい人だ。

 通路をはさんだ隣のボックスには、「良い家庭でまっすぐに育った」という感じの、色の白い、ほっそりした少年が、一人で、座っている。

 中学生くらいだろうか? 先ほどから、トーマス・クックの分厚い時刻表を膝に乗せ、その上にノートを開いて、一心不乱という感じで、筆記している。

 やがて列車はヴェルサイユ駅に着き、他の車両から降りた人々に混じって、その少年も、出口のほうに歩いて行った。今日はヴェルサイユ宮殿を見学するのであろう。 

 少年の一人旅。

 フランスのどこかから、もしかしたらEU圏のどこかの国から、列車の旅をしてやってきたのだろう。文化遺産を訪ねて歩く。途中、旅の行動や費用、そして印象を、忘れないうちに書き留める。

 群れることなく、一人、自分の足で立つ。その訓練の旅でもある。

 一人旅では、自分の知識・判断力・意志力・感受性が、鋭敏に、生き生きと活動する。

 かつて日本でも見かけた、なつかしい少年の姿であった。

 

 

  

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塩野七生と、 『ローマ人の物語』 のこと

2012年10月05日 | 随想…読書

 ドナウ川沿いに、ローマの最前線基地であった町レーゲンスブルグからパッサウへ向かう列車の中のことである。

      ( レーゲンスブルグとドナウ川 )

 初夏の車窓風景は明るく、ぼんやり眺めていると、横に座っていた、定年退職後ヨーロッパを自転車で回っているというマッチョな白人男性が、すっかり日焼けしたたくましい顔に悪戯っぽい笑いを浮かべて、「あの丘陵の向こうは、バーバリアン(蛮族)の地だよ」と、教えてくれた。

 ── でも、私たち東アジア人には、あなたもゲルマンに見えますよ (笑)。

 地図を開くと、田園の彼方の丘陵の向こうはチェコのようだ。冬のプラハに二度、行った。ヴルタヴァ川の流れる美しい都が、スメタナの 「我が祖国」 の感動的な曲とともに浮かんでくる。

 男性の言うバーバリアンの蠢動が始まったのはAD2世紀。ローマ帝国の防衛線であるドナウ川を越えて、蛮族の大規模な侵入が繰り返された。5賢帝の最後の皇帝、哲人皇帝と呼ばれたマルクス・アウレリウスは、皇帝に選ばれた者の責務として、病身を顧みず、寒く遠い、当時ローマ軍団の基地のあったウィーンに赴き、総司令官として戦いを指揮する。が、そのままかの地で病に倒れ、死去。(ハリウッド映画では、息子に殺されることになっているが、全く史実に反する)。

 西ローマ帝国の滅亡は5世紀だが、塩野七生は5賢帝の最後・マルクス・アウレリウスからを、ローマの「終わりのはじまり」とした。

        ( ローマが防衛線としたドナウ川 )

          ★

 15年以上も前のことだ。たまたまテレビをつけると、塩野七生というおばさまが画面に映っていた。

 「おばさま」とは、このような女性を言う言葉であろう。

塩野七生 『 男たちへ 』(文春文庫)から                             

 「ほんとうの女は、男と同等になろうなどというケチなことに、必要以上に固執しないものである。必要、というのは、法律面に属する事柄である。それよりも、男を越えることのほうに情熱を燃やすものだ。同等や平等よりも、越えるほうが、よほど刺激的ではないですか」。

 「アレクサンダーもそうだったが、シーザーも、かわいいだけが取り得の女に惚れていない。シーザーの場合は典型だが、クレオパトラのような、男に伍しても立派にやっていける女を愛している。これは、異性の才能に敬意を抱くのが普通の環境に育った、男の特色ではないだろうか。なかなかのできの母親を見なれているものだから、なかなかのできの女に、抵抗感をいだかないのである」。

 「日本でスタイルと言うと、あの人はスタイルがいい、とか、スタイルが悪い、とか使われることが多い。…… 私の考えるスタイルは、スタイルがあるか、またはないか、の問題なのである。…… どちらの用法が、英語のスタイルという言葉の用法に近いかというと、残念ながら、私のほうに軍配をあげるしかない。また、そのほうが、ずっとステキだ。若い女の子も、『あの人、スタイルがある』なんて言ってみてはいかが? 

         ★

 とにかく、カッコいいおばさまだと思う。すでに、イタリアを舞台にした血湧き肉踊る歴史小説を書いていたが、ついに1年に1冊のペースで、ローマ史を書き始めたのである。

 大ローマ帝国史ですぞ!! 快挙である!!

 なにしろ近代日本では長い間、文学といえば私小説か、教科書に登場する「舞姫」「こころ」「山月記」など、インテリ青年の傷つきやすい屈折した自我の話だった。

 で、このたび、『ローマ人の物語』第Ⅳ巻、第Ⅴ巻までが上梓され、テレビインタビューとなった。第4巻、第5巻は、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)の物語である。

 このときの塩野おばさまの話は、インパクトがあった。

 「ヨーロッパはカエサルが創った」。

 「ローマ史上最高の先見性、構想力、実行力をもった、男たちのなかの男であるカエサルが、女たちにとっても最高に魅力のある男であったことは当然だろう。当時、カエサルを愛した女たちは、マダムからマドモアゼルまで、列をなしてお行儀よく順番を待つほどであった」。(→ちょっと信じがたい!)。

 「しかし、私は、それらのどの女よりも、ユリウス・カエサルという男のことをよく知っている」。

 「直接にカエサルと逢い引きしていた2000年前のどの女よりも、私は、ユリウス・カエサルという男のことをよく知っている」。

 テレビカメラの前で臆面もなくこう言い切る塩野おばさまの自信と思い入れに圧倒され、第Ⅳ、Ⅴ巻だけは読もうと思い立った。

 読んで、第Ⅰ巻~第Ⅲ巻に戻り、以後、毎年1冊、心待ちし、わくわくしながら15巻を読み通した。真の文学は、読者をわくわくさせるものだ。

         ★ 

 欧米の子どもたちは、ギボンの「ローマ帝国衰亡史」などのローマ史を、わくわくしながら読んで成長すると言う。学校で持たせる歴史教科書も、日本の歴史教科書の何倍も分厚く、面白い読み物になっていて、興味のある子はどんどん先へ読み進めることができるようになっている。

 イタリアの高校の国語の教科書には、カエサルの簡潔、的確な文章がいまだに模範文として掲載されている。

 外交や、企業活動や、国際ボランティア活動などを通して、世界で出会う欧米人が、西ヨーロッパから中東、北アフリカに至る大ローマ帝国の、外交戦略や、戦争の仕方や、講和の仕方や、征服と統治のやり方や、国家への忠誠心や、政争と反乱のこと、そしてパクス・ロマーナについて、子どものころから学んで成長した人たちであるということを、知っておくことは大切なことであろう。EUも、ローマの昔に戻しただけともいえる。彼らは長けているのだ。

          ( フォロ・ロマーノ )

         ★

 塩野七生の文体は、日本の男性作家の誰よりも、骨太で、凛として力強い。このおばさまの文章に対抗できるのは、司馬遼太郎ぐらいかな。

 自分たちの既得権益を守ろうとする守旧派・元老院に対して、ついにカエサルは、国法を犯し、軍を率いてルビコン川を渡る、かの有名な場面である。

「ローマ人の物語」(第Ⅳ巻の終わり)から                            

 「ルビコン川の岸に立ったカエサルは、それをすぐに渡ろうとはしなかった。しばらくの間、無言で川岸に立ちつくしていた。従う第十三軍団の兵士たちも、無言で彼らの最高司令官の背を見つめる。ようやく振り返ったカエサルは、近くに控える幕僚たちに言った。

 『ここを越えれば、人間世界の悲惨。越えなければ、わが破滅』

 そしてすぐ、自分を見つめる兵士たちに向かい、迷いを振り切るかのように大声で叫んだ。

 『進もう、神々の待つところへ、われわれを侮辱した敵の待つところへ、賽は投げられた!』

 兵士たちも、いっせいの雄叫びで応じた。そして、先頭で馬を駆るカエサルにつづいて、一団となってルビコンを渡った。紀元前49年1月12日、カエサル、50歳と6月の朝であった。                            

 「‥‥一団となってルビコンを渡った」。カッコいいですねえ。

  今は、文庫本がある。

 私見を言えば、第Ⅺ巻「終わりのはじまり」まででよい。このあと、ローマは衰退へと進んでいくのみ。

 衰退へと進んでいくローマ帝国内で、キリスト教がアメーバーのように増殖し、民衆のなかだけでなく、元老院のなかにも浸透し、非キリスト教徒の政治家は次々罪状を負わされて処刑され、親キリストでなければ生きられなくなる。

 そのあたりを描いたものとしては、辻邦生の『背教者ユリアヌス (3巻) 』(中公文庫)が素晴らしい。辻邦生の最高傑作と言ってよい。

              ( コロッセオ )

 

 

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