ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

フランスの至宝・シャルトルの大聖堂…フランス・ゴシック大聖堂をめぐる旅8

2014年01月25日 | 西欧旅行…フランス・ゴシックの旅

     ( シャルトルの薔薇窓 )

加藤周一『続羊の歌…わが回想 』 (岩波新書) から

  「東京でフランスの美術を考えた私が、まっ先に思い浮かべていたのは、19世紀の絵画であった。 …… しかし、フランスに暮しはじめて間もなく、12、3世紀の建築・彫刻・ステンドグラスがくらべものにならぬほどの重みをもって感じられるようになった。…… もしイタリアが文芸復興期の国であるとすれば、フランスはゴティックの中世の国である」。

   「塔はあるときには、夕暮れの遠い地平線に細い錐のように現れ、あるときには吹雪の空に高くそびえてゆるがず、またあるときには群青の空にのどかな鐘の音をまきちらしていた。そして教会の外には聖者の彫像が、内にはステンドグラスの窓があった」。

         ★

   「群青の空にのどかな鐘の音をまきちらしていた」

 この美しいフレーズも、シャルトルの大聖堂を下絵にして書かれた文に違いない。誰しもが認めることだが、数あるフランス・ゴシック大聖堂の頂点に立つのは、シャルトルの大聖堂をおいて他にない。

            ★   ★   ★              

 アミアンから急行に乗り、パリ北駅へ。1時間20分。

 タクシーで、北駅からパリ・モンパルナス駅へ移動。

 若いアラブ系のタクシーの運転手は、車と歩行者で混雑するパリの雑踏の中を、或いは車間距離を思い切り詰め、或いは罵り、或いは1秒を争うかのごとく激しく競り合い、また追い抜き(ガッツ‼)、ついにモンパルナス駅にたどり着く。

 ヨーロッパのタクシーは、そのスピード、前後の車との車間距離の取り方、追い抜き方など、気にしだしたら後部座席でカラダが固まってしまうから、車窓風景を楽しみ、道行く人々を眺め、身を任せることにしている。

 それでも、この運転手の荒っぽさと不機嫌さはいささか怖い。カネを払うとき、どんな要求をされるかと思いつつ(過去の旅でいろいろあった)、車から降りた。

 ところが意外にシャイでおとなしい青年だった。少しチップをプラスして料金を渡すと、恥じらいを浮かべつつ、丁寧に感謝し、見送ってくれた。…… 洋の東西を変えず、車の運転は人を変えますぞ。気をつけましょう。

                        ★         

 パリ・モンパルナス駅から鈍行で1時間。

 シャルトルへ行くのは、もう何回目だろう。16年前は、ツアーに入らない、初めての列車の一人旅だった。

 モンパルナス駅の窓口で、シャルトルまでの往復切符を、緊張しながら買った。とても綺麗で、優しい、窓口のパリジェンヌが、切符の文字を指さしながら、英語で丁寧に説明してくれ、「ボンボヤージュ」と笑顔で送ってくれた。

 大きな駅の構内に入ると、出発のホームを見つけるのが難しかった。やっと列車に乗り込んだときも、小学生が夏休みに田舎のおじいちゃんの所へ初めて一人で行くときみたいに緊張していた。全感覚が研ぎ澄まされ、じかに異国と触れ合っていた。どこにも、頼るべき「日本」はなかった。

 発車のアナウンスも、ベルもなく、列車が静かにホームを滑り出した時、これがヨーロッパだと、感動した。

         ★

 さて、今回の旅の話に戻る。ヴェルサイユを過ぎてボース平野に入ると、いつも森や畑が深い霧に閉ざされるが、今日は霧に加えて雨も降ってきた。

 シャルトルは雨。

 ボース平野の中の、人口わずか4万人の小さな町である。

 駅を出ると、雨の中に、街並みを圧するようにシャルトルの大聖堂がそびえていた。

   ( 街を圧するシャルトルの大聖堂 )

 右は106m、ロマネスク様式の旧塔。左は115m、刺繍のように装飾の多いゴシック様式の新塔。

 彫刻家ロダンは、「装飾は銀である。だが、装飾のない方は金である」と、素朴な右側の塔を称賛したという。確かに、この塔にかぎらず、素朴なロマネスク様式は好ましい。

 予約していたホテルは、今回の旅で泊まったどのホテルよりも料金が安い。それもかなり安い。 にもかかわらず、大聖堂から最も近い、一等地のホテルである。何しろ、大聖堂付属の修道院だった建物なのだから。部屋に飾り気はまったくないが、広々としていて、この辺りは高台だから、窓からの眺めも最高に好い。この値段で申し訳ないようなホテルだった。

   (宿泊したホテル)

   (部屋の窓からの眺め)

        ★

 シャルトルの大聖堂は、1155年にロマネスク様式の集大成として、また、新しく興ったゴシック様式を取り入れた大聖堂として建設された。が、1192年6月の大火で、西正面部を残して全て焼け落ちてしまう。

 歴史家は、そのあとに起こったことは、まるで奇跡のようであったと言う。

 この大聖堂を再建するために、財ある者は私財を投げ打ち、財なき者も石切場から石を切り出し、材木を運び、ボース平野に大聖堂再建の十字軍が起こったような光景が現出した。そして、大火からわずか36年目の1220年、当時としては最大のスケールをもつ新様式の大聖堂が完成したのである。

 暗黒の中世と言われるが、12世紀の西欧は農業生産力が増し、商業も興り、人々は豊かになり、余裕ができた。余裕ができると精神の世界も広がり、それが「最高の大聖堂を建設しよう!!」という形で表現されたのであろう。

 それに、何よりもマリア信仰。この時代、マリア信仰が大ブームとなっていたという背景がある。当時のゴシック大聖堂は、すべて、聖母マリアに捧げられたものである。ゴシック建築様式とマリア信仰は、この時代の気分を象徴する事象である。

 しかも、シャルトルには、何と!! マリアの聖遺物、「聖母マリアの衣」があったのだ。「聖母マリアの衣」を持つシャルトルは超特別なのである。シャルトルは、キリスト教徒の重要な巡礼地の一つとなっていた。

 そして、あの大火のとき、マリアの衣はクリプトに安置されていたため、無傷だった。聖母の衣が焼失しなかった!! このことが、民衆の心に火を点じたのである。

 かくして、シャルトル大聖堂再建のときに、他の大聖堂にまして、巨大なエネルギーが沸き起こったのである。

 今も、パリ大学の学生は、年に1回、シャルトルまで徒歩の巡礼をする。

 須賀敦子の短編 「大聖堂まで」 には、1950年代、筆者も含むパリの高校生、大学生3万人が、食料や寝袋を持ち、シャルトルに巡礼に行った様子が描かれている。

        ★            

 この大聖堂は、このような経緯をもつ。ゆえに、この大聖堂の、特に西正面の聖者の彫像群や、西正面の扉口から入って振り返ると目にとびこむステンドグラスは、大火のときに焼け残った、現存する最も古い、初期ゴシックの素晴らしい文化遺産なのである。

 そればかりではない。再建された北や南の袖廊の門を飾る聖者の彫像や、堂内に入って南、北、東の窓を飾るステンドグラスは、盛期ゴシックを代表する最高の傑作とされる作品群と言われている。 

   ( 北袖廊の中央扉口 ) 

 上の写真は、北袖廊の中央扉口。

 上部の半円のティンパニムに聖母がイエスから冠をいただいている彫像、その下には聖母の死と聖母被昇天の像、その下の中央柱には、何と、幼な子キリストを抱くマリアではなく、マリアの母アンナが幼な子の聖母マリアを抱いている像が彫られている。

 これほどにマリアが称えられている大聖堂は、他にない。

        ★

 「教会の外には聖者の彫像が、内にはステンドグラスの窓があった」(同上)。

 「シャルトルほど素晴らしいステンドグラスをもつ大聖堂はほかにない。それは、質・量、両面で、最高のステンドグラスの輝きに満たされている。それらは、太陽の動きや雲の動きとともに、微妙な色彩の変化を見せる。これほどまでに感動的空間があろうか」 (馬杉宗夫 『大聖堂のコスモロジー』 講談社現代新書 )

 その中でも、入り口を入って振り返った高所にある、もっとも初期のステンドグラス、「シャルトルのブルー」 と呼ばれるステンドグラスは、本当に美しい。

 ロダンがロマネスク様式の塔を称賛したように、ステンドグラスも初期のものがいちばん美しい。

 一方、例えば北袖廊の13世紀のステンドグラスは、もう少し華やかな彩がある。

 

      ( シャルトルのブルー )

 

      ( 北袖廊のステンドグラス )

        ★

 夜、大聖堂のそばのレストランで食べたフォアグラとラム肉は、あっさりして美味しかった。

 外は風雨がやまず、殊に大聖堂のそばは突風が吹き抜け、寒さが厳しかった。

 

    ( 風雨のシャルトル大聖堂 )

        ★

 翌日は大聖堂の丘を少し下った、ウール川の川辺を散策した。

         ( ウール川川べり )

    (ウール側から大聖堂を望む)

 川べりには、フランスでは珍しく、赤い紅葉の樹木があった。

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日々、生き抜くことを選んだ不撓不屈の人…小野田さん逝く

2014年01月20日 | エッセイ

(写真は、内容と関係ありません)

  小野田寛郎さんが亡くなった。91歳。

  偉人でも、英雄でもない。が、偉い人であったと思う。

  一人の、凛とした日本人であった。 今や、老人の中にも、このような人は滅多にいない。

                   ☆

  30年をジャングルに過ごし、平和を謳歌し、高度経済成長に浮かれる日本に帰ってきた。

   一部政治勢力やマスコミの中には、眉をひそめたり、時代錯誤と憐れんだりする人もいた。「軍国主義(者)」というレッテル貼りが好きな勢力である。

  「私は 『軍国主義の権化』 か、『軍国主義の亡霊』 かのどちらかに色分けされていた。 私はそのどちらでもないと思っていた。 私は平凡で、小さな男である。 命じられるまま戦って、死に残った一人の敗軍の兵である。 私はただ、少し遅れて帰ってきただけの男である」。

  背筋を伸ばし、相手に対してはいつも正対して、謙虚に、しかし、しっかりと応答する人であった。

 (佐原・舟めぐり)

 (川べりに飾られた雛人形)

                   ☆

  自分の生涯と生き方を語っても、明快であった。

  「 後ろを振り向いても仕方ないんですね。 ルバング島はルバング島でそれで終わり。 苦しかろうと何だろうと、その分いろいろな教訓を得ました。 今度は、それを上手く利用していく。あのときはどうしたのこうしたのと、後ろは絶対に振り向かない。 牧場をつくるときは必死で牧場をつくる。 牧場が何とかここまでできたから、次は日本の子供たちのために何か役立ちたいと思って、そのことを懸命にやる 」。

                   ☆

  ブラジルで牧場経営をやっているころの小野田さんを取材した番組があった。

  牧場には水が必要であるが、小野田さんは水源を見つける名人である。 特別な勉強をしたわけではない。 しっかり地形を読めばわかる、と言う。

 周りの人がその地形の読み方を聞くが、わからない。

 30年間もジャングルで生き延びた力は、現代に生きる誰でもが持っている力ではない、と思った。

                    ☆ 

  小野田さんが最も好んだ言葉は、「不撓不屈」。

  今どきの日本人には、重たすぎる言葉である。

  だが、精神力だけではなかろう。 水源の話からもわかるように、注意深い観察力、そして、的確な判断力や、創意工夫する力、それらを束ねているのが、不撓不屈の心だ。

  「 地図ばかり見ていると、迷い子になってしまう 」。

  「 コンパスは方向を教えてくれる。でも、川や谷の越え方は教えてくれない」。

  「今日は食べられなくても、明日も食べられなくても、明後日には何とかなる。 死にはしない」。 

  「戦いは相手次第。 生き方は自分次第」。

  やはり、すごい人だ。

                  ☆

   不撓不屈は、立派なのだ。

  映画『ラストサムライ』で、騎馬の侍たちは大砲の待ち構える政府軍に向かって疾走し、全滅した。 全滅するとわかっていながらの、はかなくも美しい自殺行為である。 「これぞ、サムライの美学」と言いたかったのであろうが、すぐに玉砕し、自決したがる 「サムライ」 像は、平和ボケした江戸時代につくられた「美学」である。

   「サムライ」 は武人、戦う人であって、殿様ではない。 炎の中に消えた「信長様」とは、立場が違う。 大阪夏の陣で、八千人を率いた一軍の長・真田幸村は、最期まで、力尽きるまで戦い抜いたと言われる。

  クリント・イーストウッド監督の 『硫黄島からの手紙』 には、赴任した栗林中将と参謀たちとの対立が描かれている。

  参謀たちは、これまでの日本軍の戦い方どおりに、玉砕を前提とした水際上陸阻止作戦を主張し、司令官に反抗した。 これを行えば、3日で玉砕する。

  合理主義者の栗林中将は、岩山の洞窟に籠っての徹底抗戦を命じる。

  硫黄島は圧倒的な米軍の前に立ちふさがる、国と国民を守る最後の砦である。 彼我の力関係は如何ともしがたく、わが軍は全滅するだろうが、一日長く持たせれば、祖国を一日、長く守ることができる。 うまくいけば、多分、どこかで探られている和平交渉が、多少とも日本に有利な形で成るかもしれない。 「東京」に時間を与えるためにも、一日でも長く戦い続ける。 玉砕はしない、自決は許さない。

   栗林中将が子供宛に色鉛筆で絵を描いた、心優しい手紙が残っている。

  小説 『永遠のゼロ』 の主人公も同じ。 身を焦がす日々の中でも、生き抜き、戦い抜こうとした。 妻子のために。

  妻子のためにも、国民のためにも、結局は同じである。

                 ☆ 

  小野田さんには硫黄島のように、自決を迫る上官はいなかった。

  しかし、30年である。 心折れること、絶望すること、自棄になり、死んでしまおうと思うこともあるであろう。

  だが、小野田さんは、注意深い観察力と、的確な判断力と、創意工夫の力を発揮し続け、不撓不屈に生き抜いた。

  帰国しても、立派に牧場をつくり、晩年は日本の子供たちのために尽力した。

  英雄でも、偉人でもなく、平凡な人かもしれない。 だが、凛として生きた、偉い人である。

 

                (御嶽山遠望)

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フランスで一番大きなアミアン大聖堂へ … フランス・ゴシック大聖堂の旅7

2014年01月11日 | 西欧旅行…フランス・ゴシックの旅

  ( ランス駅前の小雨降る公園 )

 期待したが、今日もお天気は良くない。フランスは、秋がなく、夏から一気に冬になるという。お天気が悪く、寒い。

   今日は、ランスからアミアンへ向かう。

 フランス鉄道は、今はTGVと呼ばれる新幹線が中心で、パリと地方都市を結ぶ列車は充実している。だが、地方から地方へ移動するには、1日数本しかないTirと呼ばれる在来線に乗ることになる。日本で言えば、急行、快速、鈍行列車の世界だ。

 ランスからアミアンへは、2時間少々かけて、いくつもの駅に停車しながら、これはこれで楽しい汽車旅を過ごした。

    ( 車窓風景 )

    ★   ★   ★

   日本でネットを通してホテルを予約した際、「バスタブのある部屋は用意できないが、大聖堂ビューの部屋を用意できる」 ということだったので、喜んでOKした。

 フロントにはパリッとスーツを着た若いアフリカ系の女性がいて、にこやかに、かつ、てきぱきっと受付をしてくれる。我々のような遠い異国からの心細い旅行者には、フロントにいる人の好感度性、ホスピタリティが、ホテル評価の半分以上を占める。

 部屋に入ると、小さなベランダがあり、青空を背景に、大聖堂があった。 この旅でただ一日の、青空と白い雲の午後であった。

 ( ベランダからアミアン大聖堂を望む )

 早速、大聖堂へ。ホテルから徒歩5分。空が晴れると、街並みも美しく見える。

 

      ( 美しい民家と大聖堂 )

 

   ( 大聖堂の西正面の広場から )

   大聖堂前の広場は、久しぶりの青空で、心地よかった。

 アミアンの大聖堂は、フランス・ゴシック大聖堂の盛期に建てられた、フランス最大の大聖堂である。もちろん世界遺産。 天井の高さは42.5m、尖塔の高さは112.7mあり、パリのノートルダム大聖堂の2倍の大きさだと言う。

 上部、真ん中にある円型はバラ窓。その下の彫像群は、「王のギャラリー」と呼ばれ、22人のフランス王が並んでいる。

    ( 中央扉口 )

 中央扉口の上部には最後の審判のキリストが君臨し、一方、中央柱のキリスト像は慈愛と福音を語って盛期ゴシック彫像の頂点に立つ作品とのこと。

 アミアン大聖堂で注目されるものの一つは、中央柱のキリスト像の横に聖人像が並んでいるが、その聖人像群の下、石壁の一番低い腰石部分。

 文字の読めない庶民のために12の美徳と12の悪徳の絵が彫られ、また、「月々の仕事 (12か月の月ごとに行うべき農作業)」の絵が彫られている。

 というのも、キリスト教では、「楽園」 を追われたアダムとイブの子孫は、日々、苦しい労働をしなければ生きていけなくなったのだ。

 庶民が登場する素朴な絵で、なかなか面白いが、どうも 「無知な農民どもよ。このように月ごとの農作業をしっかりやらなければ、収穫はないぞ (税金も納められなくなるぞ)」 と、上から目線の教訓を垂れているようにも感じる。

 日本神話では、天照大御神は自ら田植えを行い、機織りをした。それは今も今上天皇の農作業、皇后陛下の機織り作業として伝えられている。上下、心を一つにするのが日本的統治である。

 絶対者としての唯一神、その権威を着る教会と聖職者及び王侯貴族に対して、日本の八百万の神々は、山や、海や、樹木や、岩や、田んぼや、台所にあり、常に人々とともにいる。そういう文化・風土のほうが、なつかしくて、いい。

 

   ( 簡素なステンドグラス )

               ★   ★   ★

 大聖堂を出て、町をそぞろ歩きする。

 ピカデリー地方の中心都市アミアンは、第一次世界大戦でも、第二次世界大戦でも大きな被害を受け、大聖堂だけが残って、街並みはすっかり新しくなったそうだ。

 小さな運河が流れる橋の上から、フランスで一番大きい大聖堂の姿が見えた。全長は145m。街の他の建物と比べると、その巨大さがわかる。

 

   ( サン・ルー地区の橋から大聖堂 )

 運河が流れ、緑が多くなり、枯れ葉散る晩秋の光の中を、若者たちが操る競技用のボートが行きかう。

    ( サン・ルー地区 )

 

    ( 運河で練習するボート )

   ホテルに戻り、ベランダに出ると、飛行機雲があった。快晴である。

    ( アミアン大聖堂と飛行機雲 )

 夜、ライトアップされた大聖堂も印象的だった。

  ( アミアン大聖堂のライトアップ )

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歴代の王の戴冠式が行われたランス大聖堂へ…フランス・ゴシック大聖堂をめぐる旅 6

2014年01月07日 | 西欧旅行…フランス・ゴシックの旅

    ( シャガールのステンドグラス )

( *は、今回訪問した大聖堂 )

<初期ゴシック大聖堂>

*1122年起工 サン・ドニ修道院    

                      (歴代フランス王の墓所)  

1150年  ノワヨン大聖堂 

                              堂宇の高さ22m

1160年  ラン大聖堂

                          高さ24m     

*1163年  パリ・ノートルダム大聖堂

               高さ35m

*1176年  ストラスブール大聖

<盛期ゴシック大聖堂>

*1194年  シャルトル大聖堂 

                                    高さ36.6m 

*1211年  ランス大聖堂    

                                        高さ38.0m

                  (歴代フランス王戴冠式式場) 

*1220年  アミアン大聖堂 

                            高さ42.3m

( 馬杉宗夫『大聖堂のコスモロジー』による)

        ★

ゴシック建築の誕生 >

 ゴシック様式は12世紀の前半、歴代フランス王の墓所でもあるサン・ドニ修道院の拡張・改築のときに始まった。当時のサン・ドニ修道院長・シュゼールのビジョンによる。この人は、今なら、美学と数学の天才であった。傑出した人物である。

 シュゼールのビジョンは、光への願望、そして、高さへの志向である。

 それは、まず、積み重ねた石の柱が天に向かって伸びていく空前絶後の空間であった。しかも、その高い天井を支える石壁を可能な限り取っ払って窓を開け、そこにステンドグラスを嵌め込んで光の殿堂にするというものである。限りなく高く、しかも、その高さを支える壁をくり抜いてできる限り窓にするという、相矛盾する要求を実現化した聖堂が、シュゼールのビジョンであった。

 パリ近郊のサン・ドニにはこの旅の終わりのほうで行くが、それは見事に実現された。

 フランス国王の墓所でもある修道院で始まったこの新様式は、国王の所領地に広がっていく。パリ、シャルトル、ランス、アミアンなど、初期,盛期のゴシック様式の傑作とされる大聖堂は、みな北フランスの国王領に集中していた。

 やがて、それは国王領の境界を越え、フランス全土(諸侯領)、さらにドイツ、イギリス、フランドル、北イタリア、イベリア半島へと、全ヨーロッパを席巻していった。

 ただ、ついにこの様式を受けつけなかった地域がある。イタリア中部以南である。

 ゴシック様式がスタートして300年後の15世紀、イタリア中部の商業都市フィレンツェにおいて、中世を打ち破る文化運動の烽火が上がった。ルネッサンスの始まりである。建築で言えば、ブルネレスキの「サンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母マリア)大聖堂」の大ドームの建設をその始まりとする。

 イタリア・ルネッサンスの建築家たちは、古代ローマの建築技術を徹底的に研究し、ゴシックのもつ重々しく、幻想的で、装飾過多の建築思想を排して、ルネッサンスの精神である合理的、明快、簡素な建築美を造り出した。その美学はたちまちアルプスを越えて、全ヨーロッパに広まる。

 ゴシックという名を付けたのは、ルネッサンスを起こしたイタリア人の一人、ヴァザーリという美術家だったらしい。

 「あれは北方の野蛮人ゴード族の様式だ。いたずらにゴテゴテして醜悪極まりない。本当の建築美は、もっと明快で調和のとれた形の中にある」。

 gothic = 「ゴード風の」。

 ゴードは、西ゴード、東ゴード。ローマ帝国末期、イタリア半島になだれ込んで、破壊、略奪の限りを尽くしたゲルマンの一族だ。

 しかし、語源がどうであれ、今では、「ゴシック様式」は、立派な美術史上の用語である。 

 ( 以上、紅山雪夫『ヨーロッパものしり紀行』による )

       ★

ゲルマンの感性とラテンの感性 >

 確かにゴシック大聖堂の中に入ると、高い樹木が鬱蒼と林立する北の森の中に入ったようで、ヨーロッパ北部のゲルマン的なものを感じさせる。

 それにしても、「陰鬱で暗い森の民」と、「底抜けに明るい地中海の民」。ヨーロッパは決して一つではない。

 ドイツ人ゲーテの青春文学「若きウェルテルの悩み」は、高校時代に愛読したが、今、考えてみれば、題そのものがすでに陰鬱である。ルターやカルヴィンは、いかにも真面目で厳格で、ストイックで、王侯を凌ぐ栄華に溺れているように見える教皇を批判し続けた。…… 神の救いは、教皇や教会の権威を必要とせず、ただ神の言葉である聖書の中にのみある。

 一方、南の民は、人間は欠点だらけの弱い存在だから、やさしさと威厳に満ちた教皇様のお姿や、時には教皇様や司教様もバルコニーからご覧になる町を挙げての華やかなお祭りや、天にそびえる大聖堂や、聖書に登場する人物を生き生きと象った彫刻や絵画の数々、美しい宗教音楽など、「人間的な感覚」をとおして、はじめて神を感じるのであり、北方からの批判は息が詰まる、と毛嫌いした。

 今も、イタリアやギリシャの人々は、東ドイツ出身のメルケル女史の、ダサい服装や、厳格極まりない超緊縮予算の押しつけに反発し、「カネは天下の回りもの。命短し、恋せよ乙女。皆で今日を楽しめば、ウイン、ウインの経済になる」と思っている。

    ★   ★   ★

孤独な老人のごとし…サン・レミ・パジリカ >

 

 ストラスブールからTGBに乗り、昼ごろにランスに着いた。

 タクシーを頼むほどの距離ではないと思ってごろごろと石畳の道路をバッグを押して歩いたが、結構しんどい。年齢不相応。中途半端な所にホテルをとってしまった。観光する前に疲れて、どうする?

 ランスの見どころは、大聖堂以外には、トー宮殿(司教の宮殿)、それに、サン・レミ・パジリカ聖堂。この3つが世界遺産として登録されている。

 ホテルから大聖堂まで徒歩で15分。

 大聖堂の前にある観光案内所の親切なマダムにタクシーを呼んでもらい、まずは町はずれのサン・レミ・パジリカへ行った。

 

  ( サン・レミ・パジリカ )

 いかにも古い。建物の素材の石が古びて摩耗している。1007年に着工した。もともとロマネスク様式。その後、ゴシック様式も加えられた。旧市街から離れ、孤独な老人のように、もう千年もこの地に建ち続けている。

   西ローマ帝国滅亡後の大混乱の中、5世紀末のガリア(現在のフランス)に、メロヴィング朝フランク王国が、クロヴィス(481~511)によって樹立された。フランスの初代国王である。

 フランク族は、ライン川の北西部に住む小部族に過ぎなかったが、クロヴィスの時代に勢力を広げた。

 その過程で、彼はキリスト教ニカイア派からアタナシウス派(カソリック)に改宗した。西ゴードもヴァンダル族もアリウス派であったから、ゲルマン諸王のなかで初めてのカソリックへの改宗であった。

 アリウス派は、イエスを優れた預言者だったとする。

 アタナシウス派は、イエスを神の子とする。三位一体、イエスは神。

 当時、ガリア(フランス)の住民の多くはカソリックであったから、クロヴィスの改宗はガリアのローマ系市民との絆を強めた。498年、クロヴィスはフランク王国国王として、ランスにおいて戴冠式を行った

 その後、ブルグンド王国、西ゴード王国を破り、首都をパリに定め、フランスの基礎をつくった。死後は、サン・ドニ聖に埋葬された

 以後、たとえ王朝は代わろうとも、フランス王たる者、国民とともにカソリックを信奉し、ランスにおいて戴冠式を挙げ、死後はサン・ドニに葬られなければならない。

 イギリスとの百年戦争のさなか、窮地に陥ったフランス国王を救い出し、ランスに連れていき、ランス大聖堂で戴冠式を挙げさせたのは、あのジャンヌ・ダルクであった。

 さて、このクロヴィスにカソリックの洗礼を施したのが、レミという神職である。フランスにとっても、その後のカソリックの発展にとっても、これは大変なお手柄というものだ。レミは教皇によって聖人に列せられた。聖(サン)・レミである。

 サン・レミ・パジリカは、サン・レミの遺体を安置する教会である。

 西正面の門は閉じられており、左袖廊の門が開いていた。そこから勝手に入る。

 入った瞬間、道路や、行き交う車や、住宅街などの世界から、全く別の異様な空間に身を置く。

 暗い。人の気配も全くない。暗闇に静かな音楽が流れ、高い所にステンドグラスが輝き、遺体を置く聖なる空間があった。

 

 

 広い堂内を歩くが、暗くて足元もおぼつかない。世界遺産にもかかわらず、旧市街から離れているせいか、訪問者は一人もない。自分以外に存在するのは、伝説のような昔の一遺体のみである。最初の感動から、徐々に不気味さが心を占め、気持が落ち着かなかった。あわてて外へ出た。

    ★   ★   ★

微笑みの天使とシャガール >

 ランスはシャンパーニュ地方の県都。あのシャンペンの本場だ。

 第一次世界大戦で町の8割が破壊されたという。

 大聖堂も、天井が落ち、ステンドグラスのほとんどが崩れ落ちた。わずかに残ったのは、西正面(ファーサード)の盛期ゴシック彫刻群のみ。

 その、当時のままの西正面は、今、網で覆われ、修復中だった。

      ( ランス大聖堂 )

  ( 微笑みの天使像 )

 だが、「微笑みの天使」はばっちり見えた。なぜ笑っているのだろう? しかし、キリスト教の天使のイメージを破って、明るく、たくましい。頼りになるおばちゃんの笑顔。右腕の形もカッコよく、元気が出てくる像である。こういう彫像を見ていると、中世が暗黒の時代だったとは、到底思えない。

 こういった中世の彫刻と、例えばルネッサンスのミケランジェロだとか、近代になってロダンだとか……、どちらが優れているかではなく、どちらに心ひかれるかと問われれば、美術史家は怒るかもしれないが、「はい。中世です」と答えたくなる。

   堂内はもちろん、第一次世界大戦から久しいわけで修復されている。だが、かつての盛期ゴシックのステンドグラスはなく、代わりに模様のない半透明の白いガラスが嵌められている。ただ、正面の内陣中央部の祭室に青いステンドグラスが見えた。

 画家のシャガールが寄進したものである。 中世の腕利きの職人たちとは一味違って、深い青を基調にし、赤、緑、白の色合いが美しく、静謐である。

 愛の画家と言われるシャガールは、ユダヤ人だが、キリスト教に改宗した。

  ( シャガールのステンドグラス )

       ★   ★   ★

ヨーロッパにおいて第二次世界大戦とは?? >

 ヨーロッパで「大戦」と言えば、「第一次世界大戦」のことである。

   総力戦が戦われ、ある会戦での1日の戦いで死傷者が1万人、その翌日は1万5千人……、 司令官たちは、惜しげもなく人命を消耗させた。大戦後、五体健全な若者はいなかったと言われるほどだったらしい。その前の大きな戦争、日露戦争の203高地における日本軍の戦いを、各国の参謀士官として観戦していた世代が司令官になっていた。

 日本は、第一次世界大戦をほとんど戦っていないから、そこから学ばず、第二次世界大戦において、ヨーロッパが第一次世界大戦でやったと同じような、惜しげもない人命の消耗戦・総力戦をやった。

 あんな戦争を二度と繰り返してはいけない。ヨーロッパでは、ヒトラーの電撃的な侵攻に対して、降伏するのも早かった。ヨーロッパの第二次世界大戦における死傷者数は、第一次世界大戦の1割に過ぎない。

 では、ヨーロッパにおける第二次世界大戦とは、何か? 

 「アウシュビッツ」である。1民族を、この世から文字どおり抹消するために、近代的な大量殺人工場を造って、ヨーロッパ中からユダヤ人を狩り集めて、システィマチックに彼らを殺し続けたという事実が、あろうことか、このヨーロッパにおいて、起こった。

 戦争そのものなら、ドイツがもう一度戦争せざるを得ないようなところに追い込んだ責任は、連合国側にもある。第一次世界大戦の後の戦勝国がドイツに課した賠償金の額はあまりに過酷で、立場が逆なら、フランスもまた、同じようにリターンマッチをしたかもしれない。

 戦争については、それぞれに言い分はある。ドイツ国民にも言い分はあった。

 しかし、ユダヤ民族抹殺は、戦争とは何の関係もない。

 当時、日本はドイツと結んでいたが、ユダヤ人にビザを発給して助けた日本人外交官の話は有名である。

 しかし、そればかりではない。日本の関東軍は、遥々とシベリアを通って逃げてきた多くのユダヤ人を助け、日本を経由して、希望するアメリカに亡命させている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする