
(啄木歌碑と岩手山)
<石川啄木のこと>
石川啄木は満26歳で早世したから、小説を書きたいと思いながら書けなかった。残されている作品は未だ習作の域を出ない。
初め、与謝野鉄幹・晶子が主催した雑誌『明星』に寄稿し、当時、流行っていた空想的、浪漫的な新体詩や短歌を発表していた。才能ある新人として注目されたようだ。
やがてこのような詩歌に飽き足らなくなり、明治30年代後半から台頭した自然主義の小説を自分も書きたいと思うようになる。当時、島崎藤村が「破戒」「春」「家」、田山花袋が「蒲団」「田舎教師」などを上梓して、作家として認められるようになっていた。彼らは啄木よりも14、5歳も年上で、それらは30代の半ばから40歳にかけて書いた作品群である。小説というジャンルは詩歌や評論と違って、ある程度の経験を積み成熟しなければ、それなりに完成した作品を書くことは難しい ── と私は思う。啄木は天性の詩人(歌人)であって小説家には向かないという人もいるが、私は彼がもっと長生きしていれば、いい小説を書いたに違いないと思っている。
24歳のとき、歌集『一握の砂』を刊行している。1首を3行で分かち書きし、口語表現で、今までの短歌の概念を打ち破って親しみやすかった。内容も、感傷的に過ぎると感じる人もあるだろうが (私も同感するが)、古い花鳥風月の歌や、西欧的ロマンティシズムから脱皮して、日々の生活の中から生じた嘘偽りのない清新な抒情が歌われていた。
第2歌集の歌稿は、死の直前に「一握の砂以後」として友人の土岐哀果に託された。没後、土岐哀果は友のために、『悲しき玩具』と命名して刊行した。
私自身がまだ20代の前半だった頃のこと。手にした『石川啄木集』(講談社版日本現代文学全集)の巻末の岩城之徳氏による啄木の年譜を目で追っていたのだが、年譜の明治41年(22歳)6月の項で、先に読み進めなくなった。
啄木という早世した明治の若者のもつ才能、さらに敷衍すれば、特別の人間に与えられた天賦の才能というものについて、そういう才能が存在することを改めて思い知らされたのである。
「(6月)4日 森鷗外邸を訪れて出版社への紹介を乞う。このころようやく創作生活のゆきづまりを自覚し、激しい焦燥と幻滅の悲哀に呻吟。川上眉山の自殺や国木田独歩の病死にも衝動を受け、苦悩の日々を送る。6月23日夜、歌興とみに湧き、この夜から暁にかけて55首、24日午前50首、翌25日141首と多くの歌を作った」。
「創作生活のゆきづまり」とは、小説が書けないということである。22歳の啄木には既に妻子があり、失職した父と母と妹がいた。彼らの生活が22歳の啄木の肩にかかっていた。啄木はその状況を小説を書くことによって乗り超えようとした。だが、そうたやすく小説は書けない。自らを恃む気持ちが大きい分、焦燥、幻滅、悲哀、呻吟は深い。
啄木自身が「食らふべき詩」の中にこう書いている。
「私は小説を書きたかった。いな、書くつもりであった。また実際書いてみた。さうして遂に書けなかった。その時、ちょうど夫婦喧嘩をして妻に負けた夫が、理由もなく子供を叱ったりいじめたりするような一種の快感を、私は勝手気ままに短歌といふ一つの詩形を虐使することに発見した」。
深夜、小説が書けぬまま、手元の原稿用紙に、手慰みとして (「悲しき玩具」として) 心に湧き出る思いを歌に書き留めていった。三行書きも、字余りの破調も、口語表現も、「詩形の虐使」だった。
歌は泉から水が湧き出るようにあふれ出てきた。わずか3日間で141首。言葉があふれ、自ずから紡がれていく。天才である。
こうして、彼は、自身がそれまで『明星』などに発表してきた空想的で浪漫的な、ちょっと気取った新体詩や短歌を一気に乗り超えていったのである。
貧困と失意の中、不治の病に臥せ、ほとんど無名で、26歳の若さで、明治という年号の終わりの年に、世を去った。だが、彼の死後、大正から昭和へ、彼の歌は無名の若者たちの中で静かに共感を呼び、読み継がれていった。
紀貫之や藤原定家や近代で言えば斎藤茂吉のような、才能にプラスして、膨大な知識・教養を積み上げつつ作歌した、近づきがたいような歌人(ウタビト)ではない。啄木には大家の風格はない。だが、親しみやすい。和歌に関する教養や注釈書などがなくても、文字が読める人なら誰でも親しむことができる。それでいて、薫りがある。ことばの天才である。
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私の好みで言えば、『一握の砂』の中の、北海道時代を詠んだ「忘れがたき人人」所収の歌群が好きである。
故郷の渋民村を「石をもて追はるるごとくに」出た啄木は、北海道に渡って、函館の代用教員、さらに職を求めて札幌、小樽を転々とし、ついに最果ての町釧路へと流れていく。
「みぞれ降る/石狩の野の汽車に読みし/ツルゲエネフの物語かな」
「忘れ来し煙草を思ふ/ゆけどゆけど/山なほ遠き雪の野の汽車」
「いたく汽車に疲れてなほも/きれぎれに思ふは/我のいとしさなりき」
「遠くより/笛ながながとひびかせて/汽車今とある森林に入る」
冬の北海道の大地をゆく汽車の旅を詠んだ一連の歌は、旅の抒情歌として、私の中では金メダルである。
やがて東京に出て、病で倒れるまでの4年間を東京で暮らす。貧困と焦燥の都会生活。その中で、啄木の心はいつも「石をもて追はるる」ように出た渋民村へ帰っていく。啄木ほど、故郷のことを数多く詠んだ歌人はいないだろう。
「旅の子の/ふるさとに来て眠るがに/げに静かにも冬の来しかな」
「ふるさとの訛(ナマ)りなつかし/停車場の人ごみの中に/そを聴きにゆく」
また、生活にゆきづまったとき、ほのかに人を想う歌も残している。函館の代用教員時代に同僚だった人のことだろうか。
「かの時に言ひそびれたる/大切の言葉は今も/胸にのこれど」
「山の子の/山を思ふがごとくにも/かなしき時は君を思へり」
「石狩の都の外の/君が家/林檎の花の散りてやあらむ」
このみずみずしさは、天才としか言いようがない。
(盛岡行きの車窓風景)
遠い昔のことだが、盛岡駅から、列車と貸自転車で、渋民村を訪ねたことがある。
それから遥かな歳月を経て、今回、岩手県へ旅することになったので、もう一度、青春の渋民村を訪ねてみたいと思って旅の行程に入れた。
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<奥六郡へローカル列車の旅>
今日は列車で盛岡へ行き、盛岡駅前から路線バスに乗って啄木の故郷「渋民村」を訪ねる。宿は盛岡駅近くのビジネスホテルに2泊で予約済み。近くを北上川が流れているので、そこにした。
平泉駅から、10時23分発の東北本線「盛岡行き」に乗った。終点の盛岡駅に着くのは11時46分。途中17駅に停まる。
地図を見ると、列車は北上川と併行しながら、平泉町→奥州市→北上市→花巻市→紫波(シワ)町を経て、盛岡市に入る。前九年の戦いで滅びた安倍氏、その後継者となった藤原三代がバックグラウンドとした「奥六郡」へのローカル列車の旅である。
(盛岡行きの車窓風景)
平泉を出てしばらく走ると、まもなく奥州市の江刺のあたりにさしかかる。この辺りは、私たちの高校時代によく歌った「北上夜曲」の故郷である。ブームの発端は、多分、東京・新宿の歌声喫茶「ともしび
」。やがて、ダークダックスやマヒナスターズの歌でレコードになった。
歌が作られたのは1940年、太平洋戦争の前である。作詞は水沢農学校の生徒、作曲は旧制八戸中学校の生徒。二人は同じ下宿の仲間で、通学のとき毎日のように北上川を眺めたのだろう。清純な北上川の恋の歌は、戦中もひそやかに歌い継がれ、戦後、若者たちの間で全国に広がっていった。私の北上川のイメージはこの歌によると言っていい。
天気が良く、車窓から見る奥六郡の景色は、山が遠く、田野が広々と広がり、トンネルがない。
奈良、平安時代の昔から、奥六郡は豊かな地だったのだろう。森や川では獣や魚が獲れ、田畑はどんどん広がっていき、そのうえ、金が採掘され、都の上流貴族たちにとって貴重品だった馬の産地でもあった。
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<盛岡駅前の啄木歌碑>
盛岡は、啄木が、盛岡中学校時代 (明治31~35年) と、新婚時代 (明治38) を過ごした町である。
駅前広場に、ポツンと啄木の歌碑が建っていた。
「ふるさとの山に向ひて/言ふことなし/ふるさとの山はありがたきかな」。
(盛岡駅前の啄木碑)
立ち止まって見る人はいない。しかし、立派な歌碑である。文字は啄木の自筆が使われている。
『一握の砂』の「煙ニ」には、故郷を想う歌54首が並んでいる。その54首目、掉尾を飾る歌である。
自然な、まことに清々しい歌である。この歌の前ではいかなる歌論も歌の作法もむなしい。天才である。
駅前から岩手北バスに乗る。啄木の「渋民村」は今は盛岡市に併合され、盛岡市玉山区渋民字渋民という住所になっている。しかし、盛岡市内だが遠い。バスで40分ほどもかかる。
計画段階で、いわて銀河鉄道+レンタサイクルで行くか、バスで行くか、迷った。昔、訪ねたときは、列車+貸自転車だった。渋民駅までの列車の車窓風景が心に残ったが、渋谷駅からの自転車は意外に遠かった。それで今回はバスにした。
盛岡駅を出たときは混み合っていた車内も、市街地を外れる頃には乗客は減り、「啄木記念館」のバス停で降りる人はいなかった。ウィークデイとはいえ、渋民村を訪ねる人がいないのはちょっと寂しい気がした。
停留所からしばらく歩いた。
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<啄木が育った宝徳寺>
まず宝徳寺へ向かった。
啄木は、明治19(1886)年、南岩手郡日戸村に生まれた。翌年、住職だった父が隣村渋民村の宝徳寺に転任したため、一家で転住した。
(宝徳寺)
住職の息子として、啄木は幼少年期をこの寺で育った。建物は平成12年に建て替えられている。啄木が過ごした部屋も復元されているようだが、ひっそりしていて、見学は遠慮した。
啄木というペンネームは、この寺の境内の樹林をたたく啄木鳥(キツツキ)から生まれた。
「ふるさとの寺の畔(ホトリ)の/ひばの木の/いただきに来て啼きし閑古鳥!!」
「ふるさとを出でて五年(イツトセ)、/病をえて、/かの閑古鳥を夢にきけるかな」
いずれも病床で詠まれた終期の作品。子どもの頃の思い出を夢にみたのである。
門を出ると、正面に、やや霞んだ岩手山があった。
(岩手山)
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<啄木の母校、そして、代用教員時代の借家>
宝徳寺から少し歩いて啄木記念館へ。記念館はリニューアル工事中で長期の閉館中。
その敷地に、旧渋民尋常小学校が移転されている。
(旧渋民尋常小学校)
啄木は明治24(1891)年、この小学校に入学し、11年後には代用教員として教壇に立った。
「その昔/小学校の柾(マサ)屋根に我が投げし毬(マリ)/いかにかなりけむ」
説明板によると、旧渋民尋常小学校は明治17(1884)年、村民の寄付によって建てられた、とある。
木造二階建ての、今から見れば小さくて、のどかな校舎だ。
明治新政府は国民皆学の近代国家をめざし、全国を7学区に分けて、大学、その下に中学校、さらにその下に小学校をつくるという「学制」を、明治5年に発令した。小学校に関しては全国津津浦浦に5万3千校の建設をめざした。校舎だけのことではない。教える教員の養成、教育内容の統一、教材の選定など、あらゆることが必要であった。当時、産業と言えば農業しかない貧しい国の政府(「おかみ」)を待っていては、物事は進ままい。上からだけでなく、自らのこととして下からも進めていかなければ何事もならない。「村民の寄付によって」というのは、そういう事情であろう。「坂の上の雲」の時代である。
大正2(1913)年に、この小さな校舎は分教場として移転され、昭和42(1907)年に老朽化により取り壊されることになった。しかし、啄木の母校で、代用教員時代に教鞭をとったゆかりの校舎であることから、石川啄木記念館の敷地に移築保存されることになった。
啄木が毬を投げ上げた柾(マサ)屋根や連子(レンジ)格子など、明治期の面影が残り、県内で最も古い建築物の一つであると記されている。
(旧斎藤家住宅)
代用教員時代の明治39年3月から1年少々、啄木一家が住んだ借家も尋常小学校の隣に移転されている。説明版には、この建物は旧藩時代の宿場の民家としても貴重と記されていた。
日本一の代用教員をめざしつつ、この2階で小説「雲は天才である」等を習作した。
しかし、結局、啄木は石を持て追われるように村を出、北海道へ旅立った。
「あはれかの我の教へし/子等もまた/やがてふるさとを棄てて出づるらむ」
自分の教え子たちも、いつか自分と同じように村を出て苦難の生活を送るであろうと、貧しい故郷の現実に思いを馳せている。
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<思い出の山、思い出の川>
渋民公園まで、10分ほど歩いた。
途中、現在の渋民小学校があった。明るく、近代的な校舎だ。啄木の「渋民村」は遠い彼方である。
(現在の渋民小学校)
渋谷公園はその小学校の運動場の向こう側の丘だった。
岩手山を望んで歌碑がある。ふり返れば姫神山。北上川は丘の下を流れている。
(啄木の歌碑と岩手山)
背が高く、野武士のように素朴な歌碑の表には、「やはらかに柳あをめる/北上の岸辺目に見ゆ/泣けとごとくに」と活字体で刻まれている。
啄木の歌碑は岩手県のほか北海道の各地や東京にもあるが、これが最初のものだという。大正11(1922)年、啄木没後の10年目の命日の日に、渋民村の青年たちによって建立された。碑には「無名青年の徒之を建つ」と刻まれている。
歌碑の向こうに、どっしりと大きな岩手山(標高2083m)がある。頂の辺りに雲がたなびいていた。
ふり返ると、現在の渋民小学校の校庭の向こうに、姫神山(標高1124m)の優美な姿を望むことができた。
(姫神山)
「目になれし山にはあれど/秋来れば/神や住まむとかしこみて見る」
丘の下に北上川の流れ。
(北上川と鶴飼橋)
「水源は、岩手県二戸郡の西岳である。そのあたりの細流をあつめて渋民村あたりではすでに一人前の河川になり、……」(司馬遼太郎)
向こうに自動車用の橋があり、眼下の橋は、人しか渡れない橋である。
(鶴飼橋)
啄木の時代の鶴飼橋は、人が歩くとゆらゆら揺れる吊り橋だったそうだ。
その頃、「渋民駅」はまだなく、盛岡や東京や出るには「好摩駅」まで歩いて汽車に乗った。帰郷する時も、「好摩駅」から渋民村まで歩いた。行きも帰りも、吊り橋の鶴飼橋を渡った。
「汽車の窓/はるかに北にふるさとの山見え来れば/襟を正すも」
「かにかくに渋民村は恋しかり/おもひでの山/おもひでの川」
橋の上に立って北上川を眺めた。
(北上川)
なるほど、「やはらかに柳あをめる」季節は、美しいだろうなと想像した。やはり青春の歌人である。そして、エリートに愛される歌人ではなく、無名青年たちの歌人である。この地に来て、改めて、そう思った。
★
バスで盛岡駅まで戻った。午後4時を回ると、秋の日は落ちるに早く、既に夕暮れである。
(盛岡駅)
夜、食事をするために盛岡の街に出た。
(盛岡を流れる北上川)
「…そのあたりの細流をあつめて渋民村あたりですでに一人前の河川になり、南流して岩手県の首邑である盛岡をうるおしている。…」(司馬遼太郎)。
渋民村よりわずかに下流だが、既に堂々とした川である。
今日は11000歩。意外によく歩いた。
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