ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

旅の終わりに…早春のイタリア紀行(19)

2021年06月05日 | 西欧旅行…早春のイタリアの旅

 (ライトアップされたポポロ広場)

       ★

<ローマのミニバス>

 サン・ピエトロ大聖堂の見学の後、広場の横のバス停からミニバスに乗って、ホテルの近くのサン・シルヴェストロ広場まで帰った。ローマ3日目にして、やっとミニバスを乗りこなせた。

 ローマの初日にローマのタクシーに驚かされたが、ミニバスはもっとすごかった。ミニとはいえバスだから、タクシーより図体は大きい。それが、ショップやレストランが並び、人通りの多い路地から路地を走り抜けた。

 今回のイタリア旅行で驚いたことの第1位は路地を疾走するローマのミニバス。第2位は同じくローマのタクシー

 ホテルに戻ってひと休みした。疲れた

 (ローマのショーウィンドウ)

 ホテルの部屋の窓から、下の路地の商店街を見下ろせる。一番近くの店は女性用下着の店だった。イタリアはセクシーなのだ。今シーズンは紫いろが流行らしい。

       ★

<ポポロ広場へ >

 午後遅くホテルを出て、コルソ通りで軽い昼食をとり、ローマの初日にデモで埋まって見学できなかったポポロ広場へ向かった。サン・シルヴェストロ広場からミニバスに乗る。

 ヴェネト通りの北でバスを降りて、ローマ帝国時代の城壁門のピンチアーナ門の辺りをちょっと歩いてみた。

 AD3世紀の後半に、蛮族の侵入に備えて19㎞に及ぶアウレリアヌスの城壁が巡らされた。ピンチアーナ門はその城門の一つで、1700年以上を経た今も、古びてはいるが堂々とそびえていた。

 門の北はボルゲーゼ公園。ボルゲーゼ家はローマの名門貴族だった。公園を奥まで行けばボルゲーゼ美術館がある。だが、今回は無視。手が回らない。

 再びミニバスに乗り、ポポロ広場へ向かった。

 やって来たミニバスは混んでいた。

 満員の車内の前に立つおじさんの手が上着のポケットの辺りに触れてきた。人の好さそうなおじさんだが。どうも仲間らしい男もいる。

 次のバス停で素早く下車し、バス停一駅だから歩いて広場へ向かった。

 ローマはふつうの古都ではない。世界中から観光客を集める世界のローマだ。結果として、両腕を広げ、スリたちも迎えて抱擁する。

       ★

<永遠の都ローマ>

 デモで埋まっていた一昨日と違い、今日のポポロ広場はいかにもローマの広場らしいたたずまい。敷きつめられた石畳も周囲の建物もすでに日陰になっていたが、見上げる空はなお明るい。ヨーロッパの夕刻の空の色は本当に美しい。

 広場の北側のポポロ門はローマ市の北の入口。ここを出れば古代ローマ時代、フラミニア街道が始まった。

 広場の南側にはやや小ぶりの双子のような教会がある。オシャレで、絵のようだ。

  (双子の教会)

 この双子の教会の間から、フラミニア街道を引き継ぐコルソ通りが、ローマ市の中を南へと延びている。

 北側のポポロ門に隣接して、サンタ・マリア・デル・ポポロ教会がある。映画『天使と悪魔』の舞台の1つになった。

 サン・ピエトロ大聖堂などと比べると小さな教会だが、中へ入ってみた。

 「ポポロ」は市民の意。11世紀にこの聖堂を建てるとき、この辺りの住民が建設費を出し合ったそうだ。

 (主祭壇の絵)

 主祭壇の絵はイコン風で、「マドンナ・デル・ポポロ」(市民のマドンナ)。名前がいい。

 聖堂を出ると、夕日はローマの西に沈んでいた。広場の横のピンチョの丘の途中まで上がってみる。急いで上ったので、息が切れた。旅の疲れがたまっている。

 丘の中腹からライトアップされたポポロ広場を見下ろすことができた。

 その向こうにサン・ピエトロ大聖堂の青いクーポラも見える。ちょっと遠いが、良く見えた。

(遠くにミケランジェロのクーポラ)

 今回のローマで、幾つかの高所からローマ市街を眺望した。

 ここもその一つだが、その中では、サンタンジェロ城からの眺望が一番良かったように思う。

 「花の都」はパリ。「音楽の都」はウイーン。ローマは、「永遠の都ローマ」と形容されるそうだ。

      ★

<モンテチトーリオ広場のホテル>

 ミニバスでコルソ通りのコロンナ広場まで帰り、旅の終わりに一昨日の賑やかなレストランでよく冷えたワインを飲んだ。生ハムをはさんだメロンが美味しい。口髭の陽気なウエイターは、生きていることを楽しんでいるという感じだった。

 (モンテチトーリオ広場の下院)

 ホテルの前のモンテチトーリオ広場も、地味だが風情のある広場だ。広場に面してイタリア議会の下院の建物があるので、ホテルの前の治安は誠に良い。ただし、そのためにタクシーは入れない。ホテルのフロントのお兄さんもお姉さんも、明るくて感じが良かった。

 ユーラシア大陸の東の果てから遥々とやって来た異国の旅人にとって、ホテルの良し悪しの半分はフロント係の態度・雰囲気で決まる。冷たい感じの人、イライラして怒りっぽい人が、たまにいる。そういうフロント係がいると、ホテルのオーナーの能力を疑いたくなる。

 明るい雰囲気の人、優しく丁寧な人、何といっても笑顔のステキな人、てきぱきして良い意味でビジネスライクな人に出会うとうれしい。

      ★   

3月16日。 

 ホテルのフロントに頼んでおいたタクシーで、朝、フィウミチーノ空港へ。感じの良い運転手だった。ローマの3日間で、ローマのタクシーのイメージが少し変わった。ガイドブックの記述がいつも正しいとは限らない。国も、都市も、世界から観光客を迎えることができるよう、それぞれに日々努力をし、変化していく。

 ルフトハンザ航空でヨーロッパ・アルプスを越えて、フランクフルトへ

 フランクフルト空港で、乗り継ぎのために関空行の搭乗ホールに行くと、急に日本人ばかりになった。

 ここはほとんど日本だ。帰って来たなという気がした。

  ★   ★   ★

<スタンダール症候群>

 帰国してずっと後のことだが、ウイキペディアの「サン・ピエトロ大聖堂」の項を読んでいたら、こんな文章に出くわして、思わず笑ってしまった。わかるぅ

 「サン・ピエトロ大聖堂を含むイタリアを訪れた観光客がかかる『スタンダール症候群』という病気を、1979年にフィレンツェの精神科医師ガジェッラ・マゲリーニが指摘した。

 これは、膨大な芸術作品群をできる限り多く見て回ろうとする強迫観念が、観光を楽しむ余裕を奪い、頭痛などの症状を発するものである。(以下略)」

      ★

 イタリア旅行に出かけようとガイドブックを見ていると、各地に、歴史も、見どころも、魅力もある、ローカルな小都市がいくらでもある。今回の旅ではアッシジを訪ねただけだった。

 中都市のヴェネツィアやフィレンツェはイタリア旅行の華だが、3日や4日ではとても見て回れないほど多くの見どころがある。街そのものの雰囲気がいい。

 饗庭孝男氏が「短くとも長くとも一つの町の滞在は、『見る』という可視的な行為であるとともに、その町の歴史や過去を、可視的なものを通して想像することでもある。そしてつまるところそれは自分に戻ってくる」(『ヨーロッパの四季1』)と書いているが、「その町の歴史や過去を、可視的なものを通して想像する」には、ヴェネツィアもフィレンツェも、しばらくの間暮らすように過ごしてみるのが一番なのだろう。或いは、何度も訪問する。

 ヨーロッパ旅行をはじめた頃、思い入れがあり、何度かヴェネツィアを訪ねた。今回のブログの初めの数回は、そういうヴェネツィアの旅の思い出を書くのに費やしてしまった。今、思えば、ヴェネツィアだけで1まとまりのブログにしても良かった。

 大都市ローマはルネッサンスからバロックの時代に再生した街だ。だが、その下には古代ローマという分厚い古層がある。さらに、その少し上には、初期キリスト教の歴史を残す古い聖堂が残る。

      ★

 そういうわけで、真面目な性格の人が本気でイタリア旅行に出発して、スタンダール症候群にかかるのはよくわかる。

 しかしながら、思うに自分はどうもスタンダール症候群にはかかりそうにない。

 旅の計画を立てるとき、例えばフィレンツェを日程に組み入れるとすると、これが見たい!! というフィレンツェの目標を1つに絞る。それに、プラスアルファとして2つか3つを加える。

 目標である1つを見学することができたら、フィレンツェ見学はもう60点を獲得だ。60点は合格点である。あとはカフェでコーヒーを飲んでいてもいい。プラスアルファも見学できたら100点満点だ。さらにプラスして、何かを見たり経験できたら100点越えである。

 だから、たいてい100点越えする。

 減点方式ではなく、加点式である。

 旅は本来、加点式である。私のような人間にとって、旅に出ること自体が、人生の幸せである。

   ★   ★   ★

<終わりに>

 この旅は、2010年3月の旅で、出発してから帰国するまで10日間の旅だった。それでも雪のヴェネツィアから始まり、春めいたローマへと季節も変化した。

 コロナ禍のもと、昔の旅を記録に残しておこうと思い、軽い気持ちで第1回を投稿したのが2020年10月4日。今回の最終回が19回目で、2021年のもう6月である。

 自分でも、よくもまあ延々と書いたものだとあきれる。

 読んで(眺めて)いただいた皆様、本当にありがとうございました

 しかし、このブログは ── ちょっとひと息入れた後 ── テーマを改めてまだまだ続きます

 とりあえずワクチンを2回接種する日までは、コロナを上手にかいくぐり、笑顔で生きて行きましょう。

 コロナは風邪ではありませんが、ペストでもありません。

 お昼のワイドショウやネットの世界は、人々の不安感、怒りの感情に火を付け、煽っていますね。その方が視聴率が増え、それが広告収入につながるからでしょう。人々はだんだんとネクラになり、怒りっぽくなり、鬱になっていきます。

 どうかコロナ及びコロナ症候群にならないよう、心の健康にも気を付けてください。笑顔で乗り切りましょう

 

 

 

 

 

 

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教皇の大聖堂…早春のイタリア紀行(18)

2021年05月30日 | 西欧旅行…早春のイタリアの旅

   (大聖堂のクーポラを見上げる)

       ★

<バロックの巨匠ベルニーニの広場>

 カトリックの総本山サン・ピエトロ大聖堂前の広場は、30万人を収容できるそうだ。

 人々を迎え抱擁するように、円柱の列が広場を囲んで建つ。

 この広場の設計者はバロックの巨匠ベルニーニ。1667年に完成した。

 (サン・ピエトロ大聖堂前の広場から) 

 広場の中心に立つオベリスクは、ローマ皇帝カリグラが造った戦車競技場の中央分離帯の飾りとして、エジプトから運ばれて置かれたものだ。その競技場はここよりもう少し南にあったらしい。オベリスクも、その後、もう一度ここへ移動した。

 皇帝ネロのとき、その競技場でキリスト教徒が処刑された。伝承によれば、使徒ペテロもそのとき十字架に架けられた。亡骸は、信者たちの手によって競技場の北にあった墓地に葬られたという。

 ローマ市内の少し高い所に立てばどこからでも見える大聖堂の青いクーポラは、地上から132.5mの高さ。直径は42.5mある。ミケランジェロのクーポラだ。

 エレベーターと階段で上がることができる。1997年のイタリア旅行のときには、上まで上がった。ローマの街が一望できた。しかし、もう一度あそこまで上がる気は起こらない。

 クーポラの下、ファーサードの屋上には、キリストと洗礼者ヨハネ、ペテロを除く11使徒の像が並ぶ。小さく見えるが、1体の高さは5.7mもある。

 その下には5つのバルコニー。中央のバルコニーから教皇が大群衆を祝福するニュース映像を見ることがある。教皇の祝福を受けようと、30万人の人々が集まってくる。

 「祝福」とは、「神への賛美や信仰の共有を前提に、神の恵みを他者にとりなすこと」(ウイキペディア)。なにしろ「天の国の鍵」を授かっているお方だ。

 柱廊には丸柱と角柱が並び、5つの扉口。さらにその下には広々とした前階段がある。肌を露出せず普通の服装であれば、誰でも自由に入ることができる。

      ★ 

<ミケランジェロの2つのピエタ像>

 前階段を上がって扉口を入ると、右手に、十字架から降ろされたイエスを抱く聖母像、「ピエタ」の像がある。ピエタは「哀しみ、悲哀」の意。

 今は分厚い防弾ガラスの中に置かれている。かつて、この像を鉄槌で壊そうとした男がいたらしい。実際、一部が壊され、修復されたそうだ。

 (ピエタ像)

 ミケランジェロ、25歳の時の作品。精緻を極めて美しい。

 おそらく、古代から中世を経てルネッサンスまで、キリスト教世界で描かれてきた、或いは、彫られてきた数多のピエタ像を一気に凌駕した作品だろう。それを若干25歳の若者が、1個の大きな大理石の中から彫り出してみせたのだ。これほどまでに精緻を極めた美しいピエタ像はなかった。

 彼自身、同じフィレンツェの彫刻家の大先輩ドナテッロや、当時、天才の評判高かったレオナルド・ダ・ヴィンチを超えたと思ったに違いない。傷つきやすく、それゆえ、傍若無人に人を傷つける彼の自負心は、このとき宇宙を満たすほどに大きくなっていたかもしれない。

 だが、私には、30歳を過ぎた息子イエスの亡骸を抱えるマリアの顔が、若く、美女過ぎるように思え、共感できなかった。25歳のミケランジェロは、わが息子を亡くした母親の悲嘆をわかっていたのだろうか??

   同じように感じた人たちが、当時もいたらしい。そういう声を耳にしたミケランジェロは、「きみは知らないのか?? 純潔の聖母は、年を取らないのだ」と言ったそうだ。25歳のミケランジェロにとって、美しいマリアは、何があろうと美しいままなのだ。

 晩年、ミケランジェロはピエタ像を3回も手がけた。だが、いずれも未完成に終わっている。

 最後の作品はミラノにある「ロンダニーニのピエタ」。残念ながら写真を見るだけで、本物を見たことはない。

 ミケランジェロは84歳になっていた。84歳の老人の鑿を手にする腕の力は弱く、視力も衰えて手探りで彫ったと言う。

 死の直前まで彫りつづけ、ついに未完に終わった作品は、まだ全体の輪郭もイエスとマリアの顔立ちもぼんやりして、現代彫刻の抽象的な作品のようにも見える。

 不思議な構図になっている。十字架から降ろされたばかりのイエスは、まだ地面に横たえらる前の身体を起こして立った姿勢で、母マリアが後ろからイエスの肩を抱いて支えている。イエスを後ろから抱擁するように支える母マリア。だが、イエスの亡骸は、まるで衰えた母を背負おうとしているようにも見える。

 作品にはただ一つの感情が漂っている。それは、悲哀。

 もし84歳のミケランジェロに「あなたは自分をどんな存在だと思いますか」と聞いたならば、「自分は1本の葦よりもはかなく、小さな小さな存在に過ぎない」と答えるのではないかと私には思われた。

 私からの賛辞。サン・ピエトロのピエタに対しては、「25歳にしてこんなに見事な彫刻!! 天才って、いるんですね」。

 ロンダニーニのピエタには、「25歳のあの精緻な美しい像は、老いた今のあなたには絶対に彫れないでしょう。でも、これはほんもののピエタです。私にはそう思えます」。

      ★

<殉教した聖人を祀る大聖堂>

 中は奥行きが211.5m。身廊と4つの側廊があり、柱も壁も床も最高級の大理石で覆われて、贅を尽くし、しかも気品がある。

  (身 廊)

 キリスト教が迫害されていた時代、キリスト教徒たちは殉教した教父の墓にささやかな祠(霊廟)を建てた。そこには遠くからも人々がやってきて、生前や死後のご利益を祈る聖地になっていった。

 4世紀、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世はキリスト教を公認し、さらにこれまでにない巨大な大聖堂を建てて献堂した。この地に建てられた聖堂は、使徒ペテロの墓の真上に祭壇がくるように設計されたと言われる。 

 キリスト教が国教となってから数世紀がたち、中世ヨーロッパ社会は農業生産力が急上昇した。各地の司教や大修道院は、余裕ができた農民や都市商工業者の経済力を引き出し、初めにロマネスク、次にゴシックの、石積みの大聖堂を建設していった。それらの多くは、殉教した聖人の墓或いは祠と言い伝えられた跡を地下霊廟とし、その上に荘厳な大聖堂を建立したのである。大聖堂は、多くの場合、聖母マリアに捧げられた。中世の大聖堂建設の時代は、聖母マリア信仰と、大巡礼時代とが重なり合っていた。

 例えば、当ブログの「フランス・ロマネスクの旅」の中の「ブルゴーニュ公国の都ディジョン」にそういう例を書いている。

 ただし、地下霊廟に葬られている遺骨が、本当に言い伝えらてきた聖人のものかどうかはわからないし、その聖人の伝承そのものが本当なのかどうかもよく分からない。

 例えば、キリスト教の巡礼地として、エルサレム、ローマに次ぐスペインのサンチャゴ・デ・コンポステーラ大聖堂は、聖ヤコブの遺骸を祀る大聖堂である。

  (サンチャゴ・デ・コンポステーラ大聖堂)

 (身廊の奥に聖ヤコブを祀る祭壇)

 使徒ヤコブはエルサレムで殉教した。

 伝承によると、エルサレム教会の信徒たちは遺体を小舟に乗せて海に流した。小舟は東地中海の東海岸から地中海を西へ西へと漂い流れ、ジブラルタル海峡を経て大西洋に出て、イベリア半島の北西海岸のガリシア地方まで流れ着いた。そして、その地の人々によって葬られた。

 その約800年後、レコンキスタ(イベリア半島を支配していたイスラム教徒から領土を奪還する運動)の最中に、「ヤコブの墓」は発見された。やがてその上に大聖堂が建てられ、一大巡礼地となった。

 今も、多くの人々が、遠くフランスやドイツからも、徒歩で巡礼路をたどっている。

 サンチャゴ・デ・コンポステーラ大聖堂に、本当にエルサレムで死んだ使徒ヤコブの遺骸があるのだろうか??

 カトリックは、それが神の御心であれば、きっとあるでしょう … と答えるだろう。だが、現代の巡礼者はそういうことにこだわらず、ただ由緒ある巡礼路を「歩く」ことに意味を見出して歩く。若い人。中年になって。初老の人。それぞれに、自分探しの旅、自分を見つめ直す旅、と答える人が多い。  

 サン・ピエトロ大聖堂の話に戻る。

 バチカンは20世紀の半ば、考古学者のチームに大聖堂の地下の学術調査を依頼した。

 地下にはコンスタンティヌス1世の大聖堂の遺構が見つかり、その詳細が実証的に明らかになった。さらにその下から墓地群が発見された。そのうちの1つの墓には墓碑と祭壇の一部が残り、その周囲からは、当時墓参に訪れた人々の残した落書きや願い事が見つかった。

 さらに、そこから、埋葬された男性の遺骨も発掘された。60歳ぐらいの大柄の体格だという。

 1968年、時の教皇は、その男性の遺骨が、「納得できる方法」によって、聖ペテロのものだと確認されたと公表した。

 このように、カトリックの信仰は、さまざまな伝承(古文書)、各地の聖堂に祀られている聖遺物やバチカンによって「聖人」とされた人の遺骨、過去から現在に至るバチカン認定の聖なる奇跡の地、さまざまな伝承を視覚化した美術品の数々、或いは、旅の途中で大聖堂のミサに参列したことがあるが、パイプオルガンの荘厳な響き、男性司祭たちの美しい歌声、時に少年合唱団の讃美歌等々 …… そういう信仰の分厚い層の上に成り立っている。

   (内 陣)

 内陣の中央には、「聖ペテロの椅子」がある。使徒ペテロがローマの「司教」であったときに使用していたという粗末な椅子である。

 17世紀に、ベルニーニによってバロック調のけばけばしい金ピカ装飾が施され、さらにその上はブロンズの天蓋で覆われた。

     ★

 大聖堂の中を一巡して外に出ると、広場は明るい陽光に満たされ、多くの人々で賑わっていた。

 紅山雪夫さんは、『イタリアものしり紀行』のサン・ピエトロ大聖堂の説明の終わりに、「この大聖堂を見てどう感じるかは、人によって大差がある。絢爛豪華ですばらしいと思う人もいれば、宗教建築として贅沢趣味が勝ち過ぎていて、しっくりしないと思う人もいるだろう。各人が抱いている自分の美意識に照らして判断するしかない」と書かれている。

 紅山さんが観光案内の本にこういう文章を書かれるのは珍しい。こういうことをわざわざ書き加えられたのは、多分、「宗教建築として贅沢趣味が勝ち過ぎていて、しっくりしない」と思われたからだろうと想像する。

 私は、ベルニーニの「聖ペテロの椅子」などを除けば、壁面も柱も最高級の大理石を使い、カネに糸目をつけずに造られているにもかかわらず、全体として落ち着いて美的センスが良いと思った。

 この旅の後、何回も、ヨーロッパの大聖堂を見る機会があった。

 その中には、全体がベルニーニの「聖ペテロの椅子」のような金ピカの大聖堂もあった。

 だが、印象に残っているのは、例えば「フランス・ロマネスクの旅」。この旅で、中世の時代の野のかおりのするような素朴な石積みの大聖堂を見て回った。大聖堂に入ると、柱頭にはケルトの民話にでも出てきそうな素朴な妖怪が装飾され、大聖堂の石積みはすっかり古くなっていて、石もこのように老いるのだとその旅で初めて知った。

 また、「フランス・ゴシック大聖堂の旅」。聖堂の中に入ると、林立する石柱の深い森の中のようで、窓には、まるで宝石を無数にばら撒いたようにステンドグラスが美しく輝いていた。

 それらと比べると、サン・ピエトロ大聖堂は確かに贅沢趣味が勝ち過ぎ、「野のユリを見よ」「心貧しき者は幸いなり」と説いたイエスの言葉からかけ離れているかもしれないと思う。全世界のカトリック教会の上に君臨する大聖堂、教皇の大聖堂という印象はぬぐい切れないかもしれない。

 

 

 

 

 

 

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ルネッサンスの教皇たちがつくった美術館…早春のイタリア紀行(17)

2021年05月26日 | 西欧旅行…早春のイタリアの旅

 フランスの画家ジョルジュ・ルオー(1871~1958)の描いたイエス・キリストの顔。

 ルオーはパリの国立美術学校で学んだ。師はギュスタープ・モローで、同期にマティスがいる。同期の2人の画風は全く異なるが、友として生涯、互いに敬愛しつづけた。

 バチカン美術館にあるこの絵は、ルオーという画家が思い描いたイエス・キリストの顔である。もしレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロがこの絵を見たらどう評価するだろうかと思う。ひょっとしたら酷評するかもしれないが、私には中世、ルネッサンスのどの宗教画よりも、この絵に福音書のイエスを感じる。不純物 ── カトリックの教義だとか、個々の画家自身の野心だとか ── そういうものを取り去って、「野のユリを見よ」と語った福音書のイエスに思いを致せば、このような絵になるのではないだろうか。

 そう言えば、ルネッサンス初期の画家でただ1人、この絵を評価するかもしれない人がいる。フィレンツェのサン・マルコ修道院の「受胎告知」を描いたフラ・アンジェリコ … 。

  ★   ★   ★

<バチカン美術館の起源>

 バチカン美術館は、サン・ピエトロ大聖堂の北側に隣接する。もともとは、教皇の公邸であるバチカン宮殿だった。現在、宮殿として使用されているのは、サン・ピエトロ大聖堂に隣接する一角だけのようだ。

 

  (バチカン美術館付近)

 タクシーで着くと、美術館のチケット売り場には行列ができていた。入口付近も時間待ちする観光客で賑わっている。そういう人々の中に、例の「赤ちゃん」を抱いた女性もいた。落ち着かない目つきの男もうろうろと歩いている。

 日本でネット予約していたから、チケット売り場に並ぶ必要はない。この人ごみの中にぼんやりと立っているのはまずいと思い、近くのバールでティータイムにした。

      ★

 バチカン美術館の起源は、サン・ピエトロ大聖堂の再建を号令した剛腕の教皇ユリウス2世(在位1503~1513)に遡る。なにしろこの教皇は、イタリア中部にあった「教皇領」に盤踞していた豪族貴族を蹴散らして、教皇王国を確立するため、自ら軍を率いて出陣した人である。

 時は、古代の復興が謳われたルネッサンスの盛期。

 そのユリウス2世のもとに、ローマ市のブドウ畑から古代の彫像群「ラオコーン」が発掘されたという情報が入った。教皇はミケランジェロらに確認に行かせ、大枚のカネを払ってこれを引き取った。そして、新築のバチカン宮殿の「ベルヴェデーレの中庭」に置いた。また、それまでに買い集めていた古代彫刻もそこに並べて展示した。

 以後、歴代の教皇はカネに糸目をつけず古代エジプトから古代ギリシャ・ローマの美術品を収集し、また、同時代のルネッサンスの美術家には宮殿の天井画や壁画を描かせた。

 その後も、近現代に至るまで、多くの美術品が寄贈されたり、収集されたりする。

 歴代の教皇はそれらの美術品を、教皇宮殿の敷地に次々建て増した美術館や回廊や邸宅に並べた。

 こうしてできあがったのがバチカン美術館である。今や、世界有数の大美術館である。

 美術館の中は迷路のような複雑さ。全行程を歩けば7㎞になるそうだ。モデルコースが設定され、色分けされているから、要所要所で色の目印を確認しながら進路を取れば良い。一番短いコースで1.5時間、いちばん長いコースは5時間である。

      ★

<ミケランジェロの「天地創造」と「最後の審判」>

 1997年の「初めてのイタリア旅行」のとき、ローマの最終日はフリーだった。早朝、一緒にツアーに参加していた友人と2人で郊外のホテルを出発し、列車と地下鉄を乗り継いで、開館1時間前のバチカン美術館のチケット売り場に並んだ。

 『ローマの休日』のローマも自分の足で歩いてみたかったから、バチカン美術館の見学は午前中と決めていた。それで、いちばん短い1.5時間コースを歩くことにした。

 目標もシスティーナ礼拝堂にしぼった。バチカン美術館の最高傑作とされるミケランジェロの天井画「天地創造」と祭壇壁画「最後の審判」はぜひ見たい。あとはいいと、わりきった。

 迷路のようなコースを、大勢の見学者の間をすり抜けながらひたすら歩いた。そしてついにシスティーナ礼拝堂の扉の前に到達したときは、胸が高鳴った。

 しかし、中に入って、頭上遥かに天井画を見上げたとき、自分でも意外だったが、「えっ!! これは、日本の劇画だ!!」 と思った。美術史上最大の芸術家に対して誠に不遜極まる感想である。

 天井画はコマ組になっているから、余計、漫画のように感じたのかもしれない。それにしても、天地を創造し人間を創造した「神」までが裸で、しかも不自然なほどにマッチョなのだ。この絵を見て、キリスト教徒は本当に「神」を感じるのだろうか??

 ずっと後に、自分のその時の印象も一概に否定されるべきではないのかもしれないと知った。美術史上では、マニエリスムというそうだ。以下、「コトババンク」からの要約。

 マニエリスムは、「ルネッサンスからバロックへ移行する過渡期に」、「ローマやフィレンツェを中心に起こり、西洋全体に及んでいった芸術様式」。「盛期ルネッサンスとりわけミケランジェロにその萌芽を見ることができる」。宗教改革や政治的動乱による「不安な世相」が背景にある。「調和・均衡・安定を重んじる規範的理想美に対する反発から」生まれ、「……その特色は人体表現において顕著で、誇張された肉付け …… 派手な色彩などが認められる」。

 均整の取れた古典的な美であるルネッサンス芸術に反発して、バロックはわざと調和を乱し、激しい動きを表現し、見る者に動的・劇的な訴えかけをしようとした。美術史的には、そういうバロックへの第一歩目がミケランジェロだったのではないかと思う。もちろん、本人の意図したことではないだろうが。

      ★

<ラファエロの「アテネの学堂」>

 時間になり、係員にバウチャーを見せると中へ入れてもらえた。チケットブースでチケットに代えてもらう。

 今回は3.5時間の『地球の歩き方』オリジナルコースを歩いてみることにした。『地球の歩き方』のマップを手に、迷路のようなコースを自分で歩いて行く。

 それでも、目標は1つに決めた。「新回廊」の「プリマポルタのアウグストゥス帝」の像。

 アウグストゥスは初代のローマ皇帝(在位BC27~AD14)としてパクス・ロマーナをつくり出し、当時としては高齢の75歳まで生きた。この像は、兵士たちを前にスピーチする比較的若い時代の姿だという。

 19世紀、フラミニア街道沿いのプリマポルタという地で、アウグストゥス帝の妻リヴィアのヴィラと思われる邸宅跡が発見された。2000年も前の遺跡だ。その邸宅跡にアウグストゥス帝の像があった。

 皇帝の死後、老妻が大切に手元に置いていた若き日のアウグストゥスはどのような男だったのか、それを見たいと思った。

 中庭から入り、最初の「エジプト美術館」は、古代エジプトの発掘品の数々が展示されて興味深かった。

 「キアラモンティ美術館」は、古代ギリシャ・ローマ時代の1000体もの彫刻が並んで、楽しく鑑賞できた。古代ギリシャ・ローマの古代彫刻は、端正で、しかも、どこか古拙の味わいを感じる。

 肝心のアウグストゥス像のある「新回廊」は、なんと工事中で閉鎖されていた。かなりがっかりした。

 「ピオ・クレメンティーノ美術館」も、例のラオコーン像をはじめ、古代ギリシャ・ローマ時代の教科書に出てくるような彫像の数々が陳列されていた。

 続く5つのギャラリーは、若干の強弱をつけながらもほぼ素通りした。

 今回の収穫は、続く「ラファエロの間」だ。

 私の幼稚なラファエロの絵のイメージは、貴族のお姫様のような聖母像を描く画家だった。

 だが、ここに展示されている大作の数々、中でも「アテネの学堂」は、構成も大きく、色彩も美しかった。何よりも宗教的なくさみがなく、人間の知性が描かれているのがいい。

  (ラファエロ「アテネの学堂」)

 階段の中央に並んで会話しながら降りようとするプラトンとアリストテレスの雰囲気がいい。互いにリスペクトし合う両者の知性と品格を感じる。白髭のプラトンの顔は、ラファエロが最も尊敬したレオナルド・ダ・ヴィンチをモデルにしているそうだ。

 階段の途中、左側に頬杖をついて自分の世界に閉じこもっているヘラクレイトスは、ラファエロがこの絵を描いている時、システィーナ礼拝堂の天井画を描いていたライバルのミケランジェロがモデルだという。敬意を表して、最後にここに描き加えたそうだ。

 ラファエロの間からさらに歩いて、システィーナ礼拝堂へ。この部屋の中で、教皇選出のコンクラーベが行われる。そう思うと興味深かった。

 出口も間近な部屋には、まるでその他大勢というように、ゴッホ、マチス、ルオー、シャガールなどの近代絵画の名作が数多く架けられていた。

 ルオーの絵も何点かあった。

  (ルオーの絵)

 「塔、樹木、月かもしれぬ太陽、夜かもしれぬ夕暮れ …… 。ルオーによる福音書では、キリストの説話は、ほとんど一つしかないようだ。キリストと貧しい人たちとの会話である」(柳宗元)。

   話ながら道を歩いてくる白い服の人が、イエスかもしれない。

       ★

<スイス人衛兵>

 バチカン美術館を出て、サン・ピエトロ大聖堂へ。

 ここはカトリックの2大巡礼地の1つ。もう1つはエルサレムの聖墳墓教会。

 3大巡礼地と言えば、イベリア半島の北西の果て、大西洋もま近な地に建つサンチャゴ・デ・コンポステーラ大聖堂。

 要所に、制服姿のスイス兵が警護に当たっている。

 (スイス兵)

 バチカンには教皇の護衛としてスイス人衛兵が常駐している。

 スイスは今は豊かな国だが、昔は貧しく、次男や三男は国外へ出稼ぎに出た。傭兵のスイス兵は強く、しかも、忠誠心があるとされた。

 特に、フランス王家やバチカンの傭兵として働いた。フランス革命の時には、王宮の中に押し寄せた革命派の民衆によって多くのスイス兵が無抵抗のまま殺された。王から、発砲するな、抵抗するなと命じられていたから、命令を守ったのである。そのとき死んだ兵士たちを悼んで、スイスのルツェルンに「瀕死のライオン像」が作られている。この頃からフランス革命は暴走を始めた。

 そういう伝統を受け継ぐバチカンのスイス人衛兵は、スイス国内のカトリック教会から推薦を受けた人で、カトリック信徒のスイス人男性であることが条件だそうだ。

(次回は、「サン・ピエトロ大聖堂」です)。

 

 

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ローマにて、人間の歴史を想う…早春のイタリア紀行(16)

2021年05月13日 | 西欧旅行…早春のイタリアの旅

   (サン・ピエトロ大聖堂)

     ★   ★   ★

<「あなたに天国の鍵を授ける」>

 新約聖書の「マタイによる福音書」16章18、19節によると、イエスが弟子たちに自分を何者と思うかと聞いたとき、弟子たちのリーダー格だったペテロが答えた。「あなたはメシア、生ける神の子です」。その答えに対してイエスは言った。

 「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。 …… わたしも言っておく。あなたはペテロ(岩)。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天井でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。

 ペテロの本名はシモン。同じマタイ伝の中で、「ペテロと呼ばれるシモン」と紹介されている。

 「ペテロ」は岩の意。シモンは体が大きく頑丈だった。ペテロの名は、キリスト教圏でよく子どもの名に付けられる。現代の言語では、英語でピーター、フランス語はピエール、イタリア語ではピエトロ(「サン・ピエトロ大聖堂」はイタリア語読み)、ドイツ語ではペーター、スペイン、ポルトガル語ではペドロ、ロシア語ではピョートルである。

 ペテロは最も早くイエスの弟子となった1人。弟子の中では年長で、何事も積極的だったから、年の若いヨハネとともにイエスに愛された。

 福音書には、次のような「人間ペテロ」のエピソードも記されている。

 このあと、イエスが捕らえられたとき、弟子たちは逃げた。ペテロは役人にイエスのことを問われ、その人のことは知らないと3度も答えた。そして、イエスが「あなたは鶏が鳴く前に3度私を知らないと言うだろう」と言った言葉を思い出して、泣いた。

 イエスの死後、弟子たちはそれぞれ、当時のローマ帝国の各地に宣教に赴く。新約聖書の「使徒言行録」によると、ペテロも、初期キリスト教界の指導者として、初めエルサレムに教会組織をつくった。その後は、パレスチナ各地の教会を巡っている。

 だが、それ以後の彼の足跡については書かれていない。

 イエスの死後、キリスト教は長く迫害を受けたが、AD313年のコンスタンティヌス1世のミラノ勅令によって信仰の自由が認められ、キリスト教は公認となった。

 塩野七生さんも『ローマ人の物語』に書いているが、もともとローマは宗教に寛容で、信仰の自由は認められていた。改めて信仰の自由を布告する必要などなかったのである。この勅令は、キリスト教を公認するためだった。ではなぜキリスト教は迫害されてきたのか。それは、キリスト教が自らを絶対として、他の神々を否定し、異教の神々と共生しようとしなかったからである。その頑なさが人々の反発を招き、その浸透力の強さがローマ市民の中に不安を広げた。

 コンスタンティヌス1世以後、キリスト教は宮廷にも役人の世界にも浸透し、権力を握っていき、4世紀末のテオドシウス帝はついにキリスト教を国教化した。国教化とは、キリスト教以外の全ての宗教が弾圧される社会になったということ。中世ヨーロッパは、宗教に関してはほとんど多様性がなく、キリスト教一色の世界だった。

 それはともかく、キリスト教を公認したコンスタンティヌス1世は、ローマ帝国の各地にキリスト教の大聖堂を建設して寄進した。それまで個人の邸宅や小さな集会所に集っていたキリスト教徒にとって、それは驚天動地の大聖堂だった。ローマ皇帝のサイズの大聖堂が生まれたのである。

 「聖地エルサレムにはキリストの聖墳墓教会、帝国の首都ローマには『すべての教会の頭にして母なる』サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ聖堂、それを範にして聖ペテロの墓の上に建てられたサン・ピエトロ聖堂(324年)、聖パウロの墓の上に建てられたサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ聖堂などがそれである」(馬杉宗夫『大聖堂のコスモロジー』講談社現代新書)。

 コンスタンティヌス1世の時代には、キリスト教徒の間に、ペテロはローマで殉教し、その墓はローマのバチカンの地にあるという話がひとつの確信として伝えられていたようだ。

 そういう伝承を伝える文書も存在する。

 新約聖書には、イエスの生前を直接に知る弟子たちが書いたイエス伝(「福音書」)、イエス死後の使徒たちの宣教活動を記した「使徒言行録」、使徒たちが各地の教会へ送った「書簡」、そして、終末を予言した「黙示録」の27書が収録されている。それらはおよそAD50年~150年頃には存在していたとされる古い写本文書の中から選ばれたもので、最終的にはAD397年のカルタゴ司教会議において承認され、今、新約聖書となっている。

 プロテスタントでは、教皇や、教皇の下の教会組織に信を置かず、神の言葉としての聖書にのみ信仰の根拠を置く。

 一方、カトリックでは、27書から漏れた文書の中にも、正典に劣らぬ重要な文書もあるとし、それらを「外典」として伝えてきた。

 その外典の一つに、その後のペテロの活動を伝える「ペテロ行伝」がある。それによると、…… 。

 ペテロはその後、宣教のためにローマ帝国の首都ローマに行き、首都ローマにおけるキリスト教布教の中心となった。その間、皇帝のお膝元で迫害も受けた。そして、情勢がひっ迫し、皇帝ネロによる弾圧の近いことを心配した信者たちの勧めで、ペテロはローマを脱出する。旅の途中、一人の男が街道を行くペテロとすれ違った。ペテロは瞬時に、主イエス・キリストだと察し、振り返って、「クォ・ヴァディス・ドミネ(主よ、何処へ行きたまふ)」と呼びかけた。イエスは振り返り、お前が多くの信者をローマに残して逃げるから、私がもう一度十字架に架かりに行くのだと答えた。ペテロは恥じ、踵を返してローマに戻り、多くの信者たちと共に、自ら逆さ十字架に架けられて殉教した。AD67年、場所はローマのテヴェレ川の西、バチカンの地にあったローマの競技場という。

 競技場のすぐ北には墓地があった。信者たちはそこに密かにペテロの墓を造り、墓の上に小さな祠を建てた。

 この「ペテロ行伝」の中身が、歴史的文書として事実であると証明されたことはない。

 だが、カトリックの教えは、ペテロがローマ宣教の中心となり(即ちローマの司教となり)、ローマで殉教したという伝承の上に立脚する。

 福音書はイエスの言葉として、「この岩の上にわたしの教会を建てる」、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」と伝えている。ならば、ペテロの殉教の上に建てられたローマの教会の継承者こそ、この地上における神の代理人である、とカトリックは主張してきた。

 今も、コンクラーベで選ばれた教皇は、即、ローマ司教を兼ねることになっている。

 ルネッサンスの教皇の中には、「天の鍵」を授けられているのだから、免罪符をどんどん印刷して「天国」と引き換えに「献金」を集める権限もあるだろう、と考える教皇も出た。とにかくカネがなければ、ガタビシしてきたサン・ピエトロ大聖堂の再建も、荒廃の極みになっているローマ市(教皇領)の再建もできないではないか。

 こういう教皇の在り方に抵抗して、プロテスタントが生まれた。

       ★

 マタイによる福音書16章について、異なる解釈も示されている。キリスト教には東方正教会もプロテスタントもあるのだから。

 「この岩の上にわたしの教会を建てる」という「この岩」とは、ペテロという一人の「人間」を指しているのではない。「この岩」とは、その前のペテロの信仰告白「あなたはメシア、生ける神の子です」という言葉を受けているのだ。イエスは、イエスをキリスト(救い主)とし、神の子であるとする信仰告白の上に、キリスト教徒の「家」を建てようと言ったのである …… そう解釈すべきだという考えもまた、理にかなっているように思われる。

 キリスト教(カトリック)美術の中には、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」という福音書の言葉を受けて、イエスが大きなカギをペテロに授けている場面を描いた絵もある。しかし、イエスが言う「天国の鍵」とは、そういう物質としてのカギであろうはずはなく、「天国の鍵」とは福音のこと。「メシアがこの世に来られた」という福音を、お前が先頭に立って、ここにいる皆で世界の人々に知らせなさい、という意味であるという解釈も成り立つ。

 イエスの言葉をどう解釈するのか。これもまた、2千年の人間の歴史の一部である。

 それらを包含して、「人間」の歴史はある。

    ★   ★   ★

3月15日。晴れ。

 今日は「早春のイタリア旅行」の最終日。

 今日の目的は、バチカン美術館、そしてサン・ピエトロ大聖堂の見学。そのあとは …… そのとき考えよう。

 ホテルを出て、コルソ通りを渡り、市バスの発着所サン・シルヴェストロ広場からタクシーに乗って、バチカン美術館へ向かった。

 感じの良い運転手だった。

        ★

<カトリックの総本山バチカン>

 カトリックの総本山のバチカン(バチカン市国)は、ローマ市の中にある。国土面積は世界最小で、東京ディズニーランドと同じぐらいだそうだ。それでも、独立国家。国家元首は教皇。

 テヴェレ川を渡ったローマ市の西の一画に、「ヴァティカヌスの丘」と呼ばれる地があった。これが「バチカン」という名の由来だ。紀元前、即ち、キリスト教以前から聖なる地と考えられ、ローマ人の共同墓地があった。

 ローマ帝国時代に競技場がつくられ、皇帝ネロの時代にここでキリスト教徒が処刑された。

 4世紀には、コンスタンティヌス1世によって、ペテロの墓の上にサン・ピエトロ大聖堂が創建された。

 ただし、その後の教皇が、ここ(ペテロ=岩の墓の上)に教皇座を置いたわけではない。

 コンスタンティヌス1世は、帝国の首都ローマに「すべての教会の頭にして母なる」サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ聖堂を建設し、また、同じ規格で聖ペテロの墓の上にサン・ピエトロ聖堂を建設した。

 つまり、歴代の教皇は、バチカンではなく、ローマ市内南部にあったサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂を総本山とし、千年に渡って、そこを教皇の教会及び居所があったのである。

 教皇が今のようにバチカンの地を総本山にしたのは、14世紀にアヴィニヨン幽囚から帰還してからである。何代かの教皇がアヴィニヨンにいた間に、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂が2度も火災に遭った。そのため、やむをえずサン・ピエトロ大聖堂を本拠とすることにしたのである。

 コンスタンティヌス1世の4世紀の大聖堂は、壮大な五廊式で、平面の大きさは現在の大聖堂と同じぐらいあったらしい。

 しかし、その大聖堂も古くなり、相当に傷みが激しくなっていた。また、ここにはもともと教皇用の宮殿はなかった。

 そこで、剛腕の教皇ユリウス2世(在位1503~1513)は、ここに教皇にふさわしい宮殿を建てる。中庭があり、華麗な回廊で結ばれた宮殿である。現在のバチカン美術館の基礎となった。

 さらに、教皇ユリウス2世は、1506年、建築家ブラマンテに、コンスタンティヌス1世の大聖堂を全部取り壊し、新しく大聖堂を建設するように命じた。

 その後、教皇は代替わりし、新大聖堂の建設主任もたびたび代わって、そのたびに設計も変えられた。

 1546年、教皇パウルス3世は、すでに72歳になっていたミケランジェロをくどきおとして設計主任とした。ミケランジェロは最初のブラマンテの設計に戻り、その中央に巨大なクーポラを乗せる計画を立てて、さまざまな意見を押し切って強引に建設を進めていった。

 こうして、新大聖堂は、88歳で死去したミケランジェロの死後の1596年に完成した。

 ちなみに、マルティン・ルターが「95か条の提題」を発表したのは1517年。すでに宗教改革の嵐は当のルターを吹き飛ばしてヨーロッパ世界に吹き荒れ、反宗教改革の激しい動きも起こっていた。

(つづく)

 

 

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「ローマ」を歩く … 早春のイタリア紀行(15)

2021年05月03日 | 西欧旅行…早春のイタリアの旅

  (テヴェレ川とサンタンジェロ城)

      ★

(つづき)

 アヴェンティーノの丘から北へ向かう。とりあえず目指すはナヴォーナ広場だが、朝から歩きづめだ。この辺り、遺跡はあるが、ひと休みできそうな手頃なバールやレストランがない。

 「真実の口」や古代劇場の廃墟を経て、毎朝市が立つカンポ・デ・フィオーリ広場(花の広場)へ。やっとレストランに入って、遅い昼食をとった。

 ナヴォーナ広場はすぐ先だ。

※ カンポ・デ・フィオーリ広場については、当ブログの2012,10,12付の投稿「ローマの街角で … ヨーロッパを旅する若者たち2」もご覧ください。

       ★

<ローマ時代は競技場だったナヴォーナ広場>

 ローマの王政時代(BC753~BC509)に、7つの丘を取り込んだ「セルヴィウスの城壁」が築かれた。城壁の外側、テヴェレ川に至る市の北東部は広々とした原っぱで、ローマ軍の練兵場として使われていた。

 王政ローマはおよそ250年続いたあと共和政に移行し、地中海の覇権国家カルタゴとの戦いなどを経て、ローマは大発展していった。(BC509~BC27)。

 属州・属国を統治するようになった大ローマは、帝政に移行する(BC27~)。

 ローマの発展とともに、ローマ市の人口も膨張していった。「セルヴィウスの城壁」は撤去され、かつて練兵場として使われていた原っぱは新開地として開発されていく。人家が広がり、新たにフォロ(広場)ができ、フォロには神殿や柱廊が造られ、大浴場や競技場などの公共建造物も続々と建造されていった。

 だが、パクス・ロマーナも、やがて「蛮族」の襲来と略奪・破壊に苦しむようになり、西ローマ帝国は滅亡(~AD476)する。さらに続く不安定な王国の支配と戦争によって、ローマの市街は破壊され、人口は激減し、かつて中心であったセルヴィウスの城壁の中には人が住まなくなった。残った人々も、テヴェレ川に近いかつての「新開地」の地域で細々と暮らすようになる。

 ローマが再生されていくのは、遥か後のルネッサンスからバロックの時期だが、それもローマの北の地域、テヴェレ川に近い「新開地」の地域だった。

 午前中はかつてのセルヴィウスの城壁の中の遺跡を見学した。そして、てくてくと歩いて、かつての「新開地」の地域までやってきた。

 スペイン階段も、トレヴィの泉も、わがホテルや下院のあるコロンナ広場も、ナヴォーナ広場も、今、ローマの中心となっている地域は、かつてローマの発祥の地であったフォロロマーノなどの地域よりも北側である。

 昼食を終え、少し元気を取り戻して、カンポ・ディ・フィオーリ広場から、少し先のナヴォーナ広場へと歩いた。

 (ナヴォーナ広場と「ムーア人の泉」)

 ナヴォーナ広場は歩行者天国になっている。まだ観光シーズンではないが、ここはさすがに観光客が多い。楽器を演奏する人、手品師、さまざまな芸を見せる人。絵かきもいる。広場を囲む建物には、レストランやカフェやオシャレなショップが軒を連ね、テラス席も設けられて賑わっている。

   ここは、もともと、皇帝ドミティアヌス(在位AD81年~96年)が建造させた屋外競技場だった。

 楕円形の縦は275m。幅は観客席も含めて106m。中央のアレーナの幅は50m。

 競技に使われていた真ん中の楕円形は、そのまま広場になった。

 周囲の観覧席にあたる部分は、ローマ帝国滅亡後の長い中世の時代に人々が住みついていき、今、1階部分はレストランやショップとして1等地、上階部分は広場を見下ろす最高級のマンションである。

 広場も広場らしく装われ、南に「ムーア人の噴水」、広場の中央にオベリスクと「四大大河の噴水」、北には「ネプチューンの噴水」が造られている。「四大大河の噴水」は、教皇イノケンティウス10世の依頼を受け、1651年にバロックの巨匠ベルニーニが完成させた。

  (ナヴォーナ広場)

  広場の西側のサンタ・ニューゼ・イン・アゴーネ教会やパンフィーリ宮の建物が印象的だが、これら周囲の建物や3つの泉も含めて、まさにバロックの広場である。

       ★

<ハドリアヌス帝のパンテオン>

 ここから路地を少したどるとパンテオンがある。

 「古代ローマ時代のままで現代に遺る唯一の建造物」。そう、塩野七生が『ローマ人の物語Ⅸ 賢帝の世紀』に書いている。

 前回のイタリア旅行のとき、ローマで一番感銘を受けたのがここ。中に入ったとき、あっ、これは今まで見て来たキリスト教の聖堂とは全く違う、と思った。杜に囲まれ、小鳥の囀りが聞こえる日本の神社と同質のものを感じた。晴朗。キリスト教の聖堂の中や仏教寺院の中とは全く異なり、暗い建物の中も、晴朗なのだ。

 Pantheonは、すべての神々を祀る神殿。

 5賢帝の1人ハドリアヌス帝がAD118年に造らせた。上半分は半球。下半分は円筒だが、円筒部の高さは半球の高さと同じ。つまり直径43.3mの球がすっぽりと収まる形になっている。「真円を考えついたときのハドリアヌスは、それこそとびあがる想いではなかったか、と思ってしまう。自分は天才だ、と思ったのではないか」(塩野七生・同上)。

 半球の頂上には直径9mの天窓が空に向けて開かれ、太陽の光の束が暗い室内の一カ所に当たって、時間とともに移動していく。

 円筒形の内部に序列はない。ここでは、ローマ帝国内のどの民族の神々も同等に尊重された。絶対神のキリスト教やイスラム教やユダヤ教では、ありえないことだ。神々の神殿なのだ。

 最初、初代皇帝アウグストゥスの生涯の盟友であったアグリッパが建設した(BC15年頃)。しかし、AD80年に焼失した。石造りといっても多くの木材が使われているらしい。そのことは、近年のパリのノートル・ダム大聖堂の火災を見てもわかる

 これをハドリアヌス帝が再建した。だが、アグリッパのパンテオンは四角形だったらしい。球体を基本にした神殿の構想はハドリアヌスであった。しかし、建物の正面にはアグリッパに敬意を表して、アグリッパの建造と刻まれている。

 「パンテオンは、後々の時代まで多くの建築家に影響を与えつづけることになる」(同上)。ルネッサンスの最初の金字塔となったフィレンツェの「花の聖母大聖堂」の大円蓋も、カソリックの本拠サン・ピエトロ大聖堂のミケランジェロの大円蓋も、パンテオンを学ぶところから築かれた。

       ★

<皇帝の墓所だったサンタンジェロ城>

   わがホテルはナヴォーナ広場から近い。戻ってひと休みした。

 午後もおそい時間になると、日差しは強いまま斜めになり、暖色系の色を帯びて、建物や樹木の陰影が濃くなる。それは日本でもそうかも知れないが、日本ではそういう時間になると、太陽の光がやさしくなり、力を弱め、静かに夕刻へと移動していく。ヨーロッパでは、自然も、人間の文化も、くっきりして、自己主張が強い。

 ホテルの窓から外を見て、今日の残りの時間も多くないことを知り、一日の見学の締めくくりにサンタンジェロ城へ向かった。

 サンタンジェロ城はローマ皇帝の霊廟として建造され、後世にはローマ教皇の城塞になった。

 あまりツアーでは行かない見学先をコースに入れたのは、ほとんど何も残っていないだろうが、元は皇帝の霊廟として造られたその雰囲気を少しでも感じとりたかったから。

 また、上階のテラスからのローマの街の眺めは素晴らしいとガイドブックにあった。帰りには、テヴェレ川越しにライトアップされたサンタンジェロ城を撮りたい。

 タクシーで向かった。今のところ、ぼったくられたりしていないし、そういう心配をしなければ、ローマのタクシー料金は安い。

 サンタンジェロ橋の手前で降り、テヴェレ川に架かるサンタンジェロ橋を渡る。

 (サンタンジェロ橋とサンタンジェロ城)

 映画『ローマの休日』の中では、この橋の下の川の上に設えたダンスパーティー会場で、王妃を連れ戻そうとする某国の男たちと逃げる2人のどんちゃん騒ぎがあった。

 この橋も、ハドリアヌス帝の霊廟へ行くために架けられた。

 中世の時代に修復され、17世紀に教皇クレメンス9世の命を受けて、ベルニーニが天使像で装飾した。今はバロック然とした橋である。

 サンタンジェロ城は、今は「サンタンジェロ城国立博物館」ということらしい。チケット売り場を見つけてチケットを買い、入場する。

 とりあえずは上へ。階段はなく、勾配の緩やかな通路が、らせん状になって上へ上へと上がって行く。多分、この通路は、ローマ皇帝の霊廟時代の名残だ。ほの暗く、飾り気は何もなく、静謐感があり、ここが皇帝の墓所として造られたことを感じながら昇って行った。

 ハドリアヌス帝のときには、初代アウグストゥス帝以下の皇帝墓所がいっぱいになっていた。ハドリアヌスが新たに建設を始め、次のアントニウス・ピウス帝のときに完成した(AD139年)。ハドリアヌス帝以下、マルクス・アウレリウス帝など、カラカラ帝までの墓所となっている。

 当時は「Hadrianeum(アドリアネウム)」と呼ばれたらしい。

 今見るような厳つい城塞の姿ではなかった。円形部分は円柱や彫像で飾られ、壁面には白大理石が貼られて、「白亜の神殿」というたたずまいだった。屋上には、4頭立て2輪戦車を引くハドリアヌス帝の彫像が立っていた。

 だが、ローマ帝国の末期に、ローマの防衛のために「アウレリアヌスの城壁」の一部に組み込まれ要塞化された。

 ローマはキリスト教を国教とするようになり、AD476年に西ローマ帝国は滅亡した。

 6世紀の終わりのランゴバルド王国のとき、イタリア全土をペストが襲い、多くの人々が亡くなった。ある日、この建物の上に大天使ミカエルが現れてペストの終焉を告げたという。それを見たのは、時の教皇とその一行である。ペストは終焉した。

 これ以後、ローマ皇帝の墓所の名は「Castel Sant' Angelo(聖天使城)となった。屋上には、ハドリアヌス帝の雄姿に代わって、剣をもつ大天使ミカエルのブロンズ像が設置された。

 10世紀には、バチカンの要塞 ── いざというときの教皇の避難場所 ── として整備され、13世紀にはバチカンと直結する避難通路ができた。15世紀には堡塁が増強される。

 大河ドラマ「麒麟がゆく」にも出てくるが、室町幕府の最後の将軍足利義昭は、織田信長を倒すよう全国の大名に手紙を送り続けた。16世紀の教皇クレメンス7世も同様である。神聖ローマ皇帝兼スペイン王のカール5世の力を怖れ、フランス王をはじめ諸侯にカールを倒せと手紙を送りまくった。もともとカール5世はカソリックの擁護者だったが、さすがに腹に据えかねて、教皇軍が防衛するローマを攻撃させた。ところが、ローマを包囲していた神聖ローマ皇帝軍には新教徒が多く、しかも緒戦で司令官が戦死して統率を失っていたから、歴史に言う「ローマ劫掠(ゴウリャク)」が起こってしまう。ローマは破壊され、人々は虐殺され、金品は強奪された。このとき、教皇クレメンス7世は堅固なサンタンジェロ城に避難して命拾いした。

 16世紀後半には、函館の五稜郭のように、星形の城壁がサンタンジェロ城を囲った。

 映画「天使と悪魔」に登場する教皇庁とサンタンジェロ城とを結ぶ秘密の通路もあるらしい。夏の期間、不定期だが、博物館の秘密の通路を歩くツアーもあるという。

 博物館として展示物のある部屋もあったが、日本語であってもあまり読まないのに、イタリア語と英語ではパスするしかない。牢獄として使われた部屋もある。教皇が暮らせるように整えられ、絵画、調度で飾られた部屋もあった。

 城の上には剣をもつ天使ミカエルの像が立っていた。

 今は、すっかりキリスト教化された元教皇の城塞の歴史遺産である。訪れる観光客も、そういうことに興味をもつ欧米系の人たちのようだ。「ローマ」ファンである私は、ローマ皇帝の眠る墓所の静謐感をほんの少し感じることができて良しとした。

 上階のテラスからの眺めは絶景だった。

 太陽はサン・ピエトロ大聖堂のクーポラの向こうに落ちて、なお世界は明るく、眼下にはテヴェレ川の流れとサンタンジェロ橋をはじめ、橋、橋、橋が続いている。

 斜光となった日の光。暖色が濃い。 

 

 (サンタンジェロ橋)

   (テヴェレ川の橋)

 空の色は濃紺となり、風は冷たい。ローマの街に灯が広がっていく。

  (サン・ピエトロ大聖堂)

 寒くなり、テラスの一角にあるカフェで温かいカプチーノを飲みながら、ライトアップの時間を待った。

 やがて、これ以上ないと言うくらい美しい空の濃紺もすっかり失せて、闇のとばりが降りた。

 サン・ピエトロ大聖堂の青い天蓋の屋根がライトアップされて印象的だ。ミケランジェロのクーポラである。

 (ミケランジェロの青い円蓋)

 すっかり暗くなった城内から出て、幾体もの天使像が見下ろすサンタンジェロ橋を渡り、テヴェレ川の上流の方へ歩いて行った。

   (サンタンジェロ城と橋)

    (サンタンジェロ城と橋)

 金色に輝くサンタンジェロ。改めて「ローマはすごいな」と思う。

 人間の歴史を「進歩」とみる見方は、単純にすぎる。

  (サン・ピエトロ大聖堂)

 明日は、この旅の最終日。バチカンへ行く。

 よく歩いた。疲れ果てて、ナヴォーナ広場に帰ってくる。

 (レストランのテラス席)

  透明なガラス(或いはビニール)で覆い、バーナーの火が焚かれるテラス席で食事した。

 もう午後8時だ。長い1日の活動を終えた。

 

 

 

 

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「ローマ人」のローマ…早春のイタリア紀行(14)

2021年04月23日 | 西欧旅行…早春のイタリアの旅

  (カンピドーリオの丘から望むフォロ・ロマーノ)

<ローマ人のローマ>

 伝説によると …… テヴェレ川の上流から籠が流れついた。籠には双子の赤ちゃんが入っていた。なんと牝狼に乳を与えられて生き延びた。土地の羊飼いに拾われ、若者に成長し、3千人の若い羊飼いたちのリーダーとなった。双子のうちの1人のロムレスが王となる。「クニ」の名は王の名をとってローマと呼ばれた。BC753年のことだとされる。

 彼らは、イタリア半島のなかでも、ラテン語を話すラテン人だった。文明の遅れた小さな勢力だった。

 クニをつくった地は未開の地だった。というのも、古代ローマの遺跡のさらに下の層からはほとんど何も出土しないから。

 そこには7つの小さな丘があった。丘に囲まれた谷間は湿地だった。彼らは最初、パラティーノの丘に住み、次第に他の丘にも居住地を広げていったらしい。丘に囲まれた谷間が交流や交易の場となった。

 5代目の王のタルクィニウス(在位BC616~579)が、丘に囲まれた谷間の湿地の水を、近くのテヴェレ川に流す排水工事をやり遂げた。そのときは掘割式だったが、のち、大国に成長した共和制の時代のBC1世紀には、石造りのアーチで立派に覆われた。それが21世紀においても現役として使われているというのだから驚く。

 灌漑された土地が、フォロ・ロマーナに発展する。フォロは広場。

 「ローマ人の考える『フォルム化』とは、四辺のうちの一辺には神殿を建て、残りの三辺のすべてを列柱回廊で囲むということである」(塩野七生『ローマ人の物語Ⅷ 危機と克服』から)。

 ここは、大国ローマの中心となったフォロだから、最初は市が立ち、店も開かれただろうが、やがて北西側のカンピドーリオの丘には最高神ユピテルを祀る神殿が建てられ、列柱回廊の奥には元老院の建物や市民集会のためのパジリカ、神殿、凱旋門などが建てられていった。

 なお、タルクィニウス王はラテン人ではなかった。父は、ラテン人より遥かに文明度が高かった北部イタリアに住むエトルリア人、母は、南部の沿岸地方に植民していたギリシャ人だった。王に立候補して、当選したのだ。この灌漑工事では、エトルリアの進んだ土木技術を取り入れたらしい。

 ローマは王制としてスタートしたが、ロムレスの王国はアジア的専制国家とはイメージが違う。王は終身制だが、市民集会で選ばれて王となる。重要案件は市民集会に諮って決めなければならない。王の顧問組織として元老院があり、有力一族の長老が元老院議員になった。元老院は顧問に過ぎないとはいえ、王の部下というわけではない。

 小さなクニのままでは、いずれ大国に滅ぼされる。ローマは周辺のクニグニと戦い、勝利し、併合していった。ローマが他のクニと違ったのは、戦いに勝利した後、併合してもそのクニの有力者を元老院に迎え入れたことである。能力さえあれば、その子孫は王にもなれた。ユリウス・カエサルのユリウス家も、その祖先は王制時代に戦いに敗れてローマに併合されたクニの有力者だった。こういうローマのやり方は帝国時代になっても変わらなかった。

 6代目の王セルヴィウス(在位BC575~535)は、7つの丘を囲うように城壁を築いた。「セルヴィウスの城壁」と呼ばれる。今は一部分しか残っていないが、全周は11㌔。地図で見ると、北東を天辺に、南西に向けて斜めに置かれた、やや細長いさつま芋の形をしている。7つの丘がそのような配置だった。

   現代のローマ市域は大きく、セルヴィウスの城壁をすっぽりと含む。だが、町の中心はローマの遺跡が広がる南の地域よりもっと北西の側に移動している。  

 その後、悪王が出て、BC509年に王制は廃止され、共和制になった。

 共和制の終わりはBC1世紀。その頃にはローマは、バルカン半島、今のフランス、イベリア半島、エジプトなどを版図とする超大国に成長していた。

 共和制の最後に登場したユリウス・カエサルは、セルヴィウスの城壁を壊してしまう。

 直接的な理由は、人口が膨張した首都ローマの都市づくりのためには、城壁が邪魔になっていたからだ。

 もう一つの理由。カエサルが思い描いていたのは、ライン川、ドナウ川、チグリス・ユウフラテス川、サハラ砂漠を防衛線とする多民族国家だった。辺境をしっかり防衛し、その内側は城壁など必要としない、平和で、交易の盛んな、相互に自由に行き来できる、豊かなローマ帝国だった。

 元老院議員の既得権益にしがみつく若い貴族たちによって、カエサルは暗殺される。しかし、後を継いだアウグストゥス(在位BC27~AD14)の下で、ローマは帝制に移行し、パクス・ロマーナを実現する。その中心の地は、やはり7つの丘に囲まれたフォロ・ロマーノだった。

 だが、300年の平和の後、首都ローマは再び城壁で囲まれた。軍人皇帝アウレリアヌスによってAD271年に着工し、6年後に完成する。やむを得ない措置だった。

 新城壁は今も残っていて、「アウレリアヌスの城壁」と呼ばれる。7つの丘を囲んだ「セルヴィウスの城壁」の跡地はその中にすっぽりと含まれる。城壁の周囲は19㌔。高さ6m。厚さ3.5m。城門18カ所。要所に砦がある。我々がローマ見物するとき、テヴェレ川の向こうのヴァチカン市国を除けば、ほとんどの見学地はこの城壁の中にある。 

 この時代、「蛮族」の騎馬軍団の軍勢がローマ帝国の防衛線(ライン川、ドナウ川)をくぐりぬけてローマ帝国内に侵入し、殺りく・略奪の限りを尽くす事件が頻発した。ローマ帝国の軍隊は辺境地域にしか配置されていない。中はガランドウだったから、防衛線をうまくくぐり抜ければあとは無人の荒野をいくようなものだ。ローマ軍が気づいて追跡し、彼らを捕捉できるのは、彼らが殺りく・略奪の限りを尽くして引き上げる途中であった。当然、戦場はローマ帝国内となる。しかも、彼らの侵入はしだいに帝国の奥深く、帝国の本拠地イタリア半島に及び、首都ローマも安閑としておれなくなっていたのだ。こうして、豊かであったローマの農業生産力は落ち込み、交易もままならず、ローマ帝国の衰退が進んでいった。 

    ★   ★   ★

<カンピドーリオの丘とミケランジェロ>

3月14日。晴れ。

 雪のヴェネツィアでスタートしたこの旅だったが、3月中旬のローマは、朝晩の冷え込みはあるものの、日中はすっかり春めいている。

 ホテルの屋上の朝食用のテラス席からは、ローマの家並を眺めることができた。雑然としていて、フランスのパリやドイツの都市のような整然とした街並みとは比べようもない。

 だが、街を歩けば、何でもない街角に遥かに古い遺跡があり、石畳の路地の奥のちょっとした店のショウウインドは、感覚的で洗練されている。やはり魅力的な街である。

 8時半にホテルを出発。

 今日も歩く、また歩く。ゆっくり、あせらず、自分のペースで。観光バスで横づけし、ちょこっと見学して、また次へ ── 個人旅行ではそういう風にはいかないのだ。

 午前中は、フォロ・ロマーノとコロッセオ。午後は、ナヴォーナ広場とパンテオン、そしてサンタンジェロ城へ。

 まずコルソ通りを南へと歩く。綺麗なショップが並び、車が行き交う。だが、この通りの歴史は古い。ローマ時代、北からフラミニア街道を旅して首都ローマの北の門のフラミニア門を入ると、その門とローマの中心カンピドーリオの丘とを一直線に結んでいたのがこの通りである。

 7、800mも歩くと、車の行き交う広々としたヴェネツィア広場へ出た。

 どんと広場に聳える白亜の巨大な建造物はヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂。無名戦士が眠り、巨大な騎馬像の下に衛兵が2人立っている。その衛兵と比べると建造物の大きさがわかる。

   (ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂)

 しかし、こんなバカでかい建造物は古い歴史の町ローマにそぐわないと、ローマ市民には人気がないらしい。確かに、これはベルリンの街的だ。

 イタリアが国家として統一されたのは日本の明治維新と同じ頃。オーストリア(ハプスブルグ)、フランス、スペインなど周囲の大国の大軍に何度も侵入された近世イタリアにとって、統一国家は心ある人々の長年の念願だった。統一のために功績大であったのがサヴォイア家のヴィットリオ・エマヌエーレ2世。この人を国王として、イタリア王国ができあがった。

 第一次世界大戦の後、ファシストのムッソリーニが国民の支持を得て伸長し、ヒトラーと同盟した。第二次世界大戦後、ファシストのムッソリーニと手を組んだとして、王制の廃止が国民投票にかけられた。投票の結果は僅差だったが、王制は廃止される。もともと、王制を否定し、共和制こそ「正義」という人々の勢力があった。だが、戦後75年。イタリアの共和制はあまり機能しているようには見えず、国家財政は破綻状態で、若者は大学を出ても職がない。

 記念堂を回り込むように行くと、ゆったりとした広い石造りの階段があった。その階段を上がると、カンピドーリオ広場。

 この一画は、教皇パウルス3世(在位AD1534~49)の依頼で、あのミケランジェロが設計した区画だ。

 

        (カンピドーリオ広場)

 もともとここは、ローマ時代、7つの丘の中でもローマ人が最も大切にしたカンピドーリオの丘の上だ。

 今はこの丘は北西向きで、ミケランジェロが造った北西側の階段から上がる。

 だが、遠い昔、この階段の側は崖で、裏の南東の側が表だった。丘の上にはユピテル神殿があり、神殿の下がフォロ・ロマーノである。

    今も、正面の建物(市庁舎)の裏に回れば、古代ローマの中心だったフォロ・ロマーノを一望できる(最初の写真)。

 共和制ローマの時代のBC4世紀、強いローマがケルト人の攻勢に敗北し、セルウィルスの城壁も破られ、ローマの市街まで占拠されたことがあった。生き残ったローマ人が最後に立て籠もったのがこの丘だった。カンピドーリオの丘は3方が高い崖で要塞化していて、ここだけは敵の手に陥ちなかったのだ。

 その後、ローマは発展し、ユピテル神殿に向かってコの字型にフォロ・ロマーノが築かれた。

 「凱旋してきた将軍たちの行列も、街中を練りまわした最後にカンピトリーノの丘に登り、そこにあるユピテルの神殿で、ローマの守護神に勝利の報告をするのが通例だった」(塩野七生『黄金のローマ』)。

 しかし、西ローマ帝国の末期には、ヴァンダル族が襲来し、2週間に渡って首都ローマを徹底的に略奪した。

 6世紀の前半の東ゴード族の王トティラの時代には、ローマは3度戦場になって、さらに破壊が進んだ。

 西ローマ帝国崩壊後、約千年の間、ローマの町は治安の極度に悪い、人の住まない、さびれた地方都市となった。

 ローマを荒廃させたのは、実は古代の「蛮族」だけではなかった。中世の時代、ローマ教皇や中世貴族たちがローマの遺跡から石材を運び去り、自分たちの教会や宮殿、城塞の資材として使った。

 ローマの町を再建させようという動きが起こったのは、ルネッサンス時代になってからである。

 このカンピドーリオの丘について、塩野七生は『黄金色のローマ』の中で、登場人物にこのように語らせている。物語はミケランジェロの時代設定である。 

 「まず、カンピドリオへの登り口を、これまでのような南からではなく、北からに変えます。南側には、古代ローマ時代の政治の中心であったフォロ・ロマーノの遺跡があって、とてもだが手をつけるわけにはいかない。それで、かつては崖で囲まれていた、そして今ではそれが崩れ果てて単なる瓦礫の山に変わっている北側に正面をもってくるというわけです。ミケランジェロはカンピドリオとその下を、ゆるやかな勾配の広い石段で結ぼうと考えている。石の階段は、ヴェネツィア宮殿の前の広場に降りることになります。

 ローマは、時代によって都市の中心が少しずつ北に移動している。だから、カンピドリオへの登り口を南から北に180度移すのは、今ではそこより北に都心の移っているローマの街に、よりふさわしい変更になる。背中を向けていたのを、こちらに顔を向かせるのです」。

 こうして、丘の上にルネッサンスの広場が造られた。

 広場の中央には、ミケランジェロの構想によって、古代ローマ時代に制作された5賢帝の1人、マルクス・アウレリウスの騎馬像(今はコピー)が置かれている。

 「帝国崩壊時でさえ、記録によれば、皇帝たちのブロンズの騎馬像は22体あったということです。それが、キリスト教徒たちによって、あるものは壊され、あるものは溶解されて何か別の目的のために使われて失われてしまい、1体だけが残されたのです」。

 「残された騎馬像は、マルクス・アウレリウス帝のものですが、ローマ帝国崩壊後のキリスト教徒たちは、この皇帝が哲学者でもあったので破壊から救ったのではない。コンスタンティヌス大帝とまちがえたからです」。「キリスト教を国教と認めたコンスタンティヌス大帝とまちがわれたがゆえに生き残ったのがマルクス・アウレリウスの騎馬像」(『黄金色のローマ』)だったのだ。

 丘の上から望む古代ローマの遺跡群の眺望は、まことに「晴朗」だった。

      ★

<ローマ発祥の地フォロ・ロマーノ>

 カンピドーリオ広場から、市庁舎の建物の裏の階段を下って、フォーリ・インぺリア通りに出た。今日は日曜日で、歩行者天国だった。

    (フォーリ・インぺリア通り)

 観光バスも来ている。大変な人出だ。フォロ・ロマーノもあるが、その先のコロッセウムが世界からやってきた観光客たちのお目当て。ガイドブックに、例の赤ちゃんを抱いた女スリ、それに、子どものスリグループ、さらに、古代ローマ兵の扮装をして一緒に写真を撮らせてカネをぼったくる輩が出没するから気を付けるよう書いてある。だが、観光はローマ市の第一の収入源。しかも今日は日曜日とあって、通りは警察官だらけだ。確かにローマ兵の姿をした男たちもいるが、手書きの看板に書いた定額料金でニコニコと一緒に写真におさまっている。

 道路の左手はクィリナーレの丘の麓にあたり、5賢帝の1人のトラヤヌス帝(在位AD98~117)が開発した一画だ。帝政時代になると、フォロ・ロマーノには、新しい広場や建造物を建てるスペースがなくなり、その近くを再開発した。

 トラヤヌスの記念柱が立ち、フォロ・トライアーノのうしろにトラヤヌスのマーケットが立派に残っている。

  (トラヤヌスのマーケット)

 半円形にカーブした3階建てで、屋根付きの回廊があり、商店や食べ物屋が入っていたらしい。古代の百貨店、或いは、スーパーマーケットだ。

 ローマは一つ一つ見学していたら、1、2週間は滞在しなければならなくなるから、眺めるだけで良しとしなければならない。

 そして、道路の右手がフォロ・ロマーノだ。

 入口で入場券を買って入場し、遺跡の中を歩いた。

 フォロの北はユピテル神殿があったカンピドーリオの丘。西は皇帝の邸宅跡の石積みが残るパラティーノの丘で、双子の赤ちゃんが狼に育てられたというローマ建国の伝説発祥の地。

  

  (フォロ・ロマーノ)

 一つ一つの遺跡については記述を割愛。真っ青な空と、陰影の濃い松の木が、廃墟の広がりのなかに印象的だった。

(コンスタンティヌスの凱旋門とコロッセウム)

 「東のローマ」、コンスタンティノープルを建設したコンスタンティヌス帝の凱旋門、その先にコロッセウムがある。

          ★

<15階建てのビルに相当するコロッセウム> 

   フォロ・ロマーノを出ると、コロッセオの巨大さに圧倒される。

 1997年春のツアー旅行のときは、安いツアーだったからコロッセウムには入場せず、観光バスを降りて芝生のような所に坐って、しばらくの間コロッセウムを眺めた。車がハイスピードで行き交う道路の向こうに、2千年前の巨大な廃墟の建造物があって、眺めているだけで感動した。

 皇帝ヴェスパシアヌス(在位AD69~79)のときに着工し、皇帝ティトゥス(在位AD79~81)のときに一応の完成をみた。

  (コロッセウム)

 入口は入場券を買う長蛇の列ができている。ローマ観光で最も人気のある見学地の一つなのだ。だが、コロッセウムほど人気のないフォロ・ロマーノへ先に入って、コロッセウムとの共通券を買っていたので、並ばずにすいっと改札へ。これも事前研究の成果。ヨーロッパ人にとって、ローマはちょっと遠い国内旅行のようなものだ。こちらは遥々とユーラシア大陸を越えてやって来た。並んで時を過ごすのはもったいない。

 以下は、遠野七生『ローマ人の物語Ⅷ 危機と克服』を参照或いは引用する。

 円形競技場はローマ帝国内の各地にあるが、首都ローマに建設された円形競技場は「コロッセウム(コロッセオ)」と呼ばれた。

 野球であろうとサッカーであろうと陸上競技であろうと、現代の競技場は、陽光や雨から観客を守る設備とともに、全てコロッセウムのヴァリエーションである。つまり、「このような様式の野外競技場は、まったくのローマ人の創案である」。 

 「美的にも技術的にも最高の傑作」と言っていい。

 形は楕円形。長径は188m。短径は151m。高さは57m。この高さは、現代の15階建てのビルに相当する。収容能力は座席が約45000人、立見席が5000人。

   「地上部に使われた柱は重厚なドーリア式、2階部の柱はすっきりしたイオニア式、3階部の柱は繊細なコリント式と、階ごとに柱のスタイルを変えることによって、重苦しく単調になるのから救っている」。

 「観客をローマの強い陽射しから守るために、観客席の上部を帆に使う布で広くおおうやり方も行われていた」。

 「開けられた出入口の巧妙な配置によって、事故でも起これば15分で観客全員を外に出すことができた」。

 観客席上部から見ると、剣士が闘ったアリーナは意外に狭く見えた。フロアーは失われている。

 (アリーナ部分)

  「われわれが見るコロッセウムは、ローマ帝国時代のそれの3分の1でしかない。キリスト教が支配するようになってからのローマの公共建築物は、格好の石材提供場に変わってしまう。おかげで、取りはずせるものはすべて持ち去られてしまった。アーチごとに置かれていた数多の立像も、壁面をおおっていた大理石板も、すべてが奪い取られた後に残った「骨格」が、今日のコロッセウムとしても誤りではない」。

 大理石を持ち去られ骨格だけのむき出しの壁面や柱のそばに立つ現代人の姿が、蟻のように小さく見えた。

 (コロッセウムの柱と壁)

       ★ 

<映画「ベン・ハー」のチルコ・マッシモ>

 コロッセウムを出て、パラティーノの丘とその西のアヴェンティーノの丘の間の道を、テヴェレ川の方へテクテくと歩いた。アヴェンティーノの丘へ向かう道路は、やや上りになって、しんどい。横の広い道路を車が猛スピードで走り抜ける。ヒッチハイクしたい気持ちだ。

 しかし、車で走り抜けるのはもったいない。道路の東側の野っ原は、映画『ベン・ハー』の戦車競走のシーンで有名なチルコ・マッシモ(戦車競技場)の跡だ。

 長さ620m、幅120m。観客席は30万人を収容したという。まさにツワモノどもが夢の跡だ。

 今は、子供たちが遊んだり、犬を散歩させたり、アベックがお弁当を食べたり、のどかな風景だ。

 映画『ベン・ハー』の映画監督はウイリアム・ワイラー。この作品で史上最多のアカデミー賞を受賞した。チャールトン・ヘストンの戦車競走の壮絶なシーンだけでも名作と言える。

 だが、製作費から言えば、その何十分の1かもしれない『ローマの休日』も、監督はウイリアム・ワイラー。映画というエンターテイメントの魅力、作り方を知り尽くした人なのであろう。

 (チルコ・マッシモとパラティーノの丘の遺跡)

 チルコ・マッシモの向こうは、パラティーノの丘。ローマの皇帝やその家族の邸宅や庭園などの跡が、廃墟のパノラマとなって広がっている。

 道路を上りつめたオレンジの実るサヴェロ公園のあたりは、アヴェンティーノの丘の一角だ。

   (オレンジの実るサヴェロ公園)

   公園の展望台から、テヴェレ川と、その向こうのヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂の大円蓋を眺望することができた。ミケランジェロの設計したクーポラである。

 近くにヨハネ騎士団団長の邸宅もあった。邸宅の門の鍵穴をのぞくと、ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂のクーポラがすっぽりと鍵穴の枠の中に入って見える。そう何かに書いてあったのが印象に残って、覗いてみたが本当だった。偶然ということはないだろう。意図的に造らせたに違いない。ローマにはいろんなものがあると感心した。

(この項、続く)

 

 

 

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バロックの都市(マチ)ローマ … 早春のイタリア紀行(13)

2021年04月09日 | 西欧旅行…早春のイタリアの旅

  ライトアップされたトレヴィの泉

   夜、宮殿を抜け出し、この泉の前のベンチで眠ってしまった王女を、通りかかったアメリカ人の新聞記者が助ける。オードリー・ヘップバーンとグレゴリー・ペックの出会いのシーンはここ。

 映画『ローマの休日』では、夜のトレヴィの泉のあたりは人通りがほとんどなく、うら若い女性をほおっておけなかった。

 今は、夜でも観光客で大変な賑わいだ。 

   ★   ★   ★

<スペイン階段と『ローマの休日』>

 地下鉄で、ポポロ広場からスペイン広場へやって来た。

 スペイン階段は、世界からやってきた若者たちで占領されている。みんな心から楽しそうだ。

 アイスクリームを片手に映画の中の王女のように階段を降りてみたい、そう思ってやってきたオシャレな若い女性も、これだけ人で埋まっていたらちょっとムリ。それに、ここでは、その類の飲食は禁じられてしまった。

 映画『ローマの休日』は1953年の作品。70年近くも前の白黒映画。

 実は今回のイタリア旅行の前に、ヴェネツィアを舞台にした『旅情』と、ローマを舞台にした『ローマの休日』をもう一度観た。

 オードリー・ヘップバーンは映像の中で今も輝き、新鮮で美しい。相手役のグレゴリー・ペックはずっと「大根役者」の評が付いて回ったが、『ローマの休日』のヘップバーンの相手役は彼しかいないと改めて思った。

 ふと、ここにいる若者たちは、あの映画を観て、感動して、ここにやって来たのだろうか?? と思った。もしかしたら私の勝手な思いで、『ローマの休日』もまた歴史の彼方なのかもしれない。

 (スペイン階段)

 スペイン階段は18世紀の初めに造られたそうだ。それ以前は崖だった。階段が造られることによって、丘の上の2つの塔をもつトリニタ・ディ・モンテ教会とスペイン広場が一幅の絵になった。

 写真に小さな噴水口が写っている。周囲に水が湛えられているが、「バルカッチャの泉」と呼ばれている。残念ながら泉の全体を撮影しなかった。

 泉を制作したのはピエトロ・ベルニーニ。スペイン階段より1世紀ほど前、教皇ウルバヌス8世の依頼を受けて、制作した。

 紅山雪夫さんの『イタリアものしり紀行』によると、「バルカッチャ」とは、破船のこと。石造りの水盤は船の形をしていて、舳(ヘサキ)と艫(トモ)の部分を出し、中心部が水没している。その水没した水の中に、この噴水口がある。まことに奇抜な構図である。

 現代のローマは日本と同じように水道水が各家庭に送られている。ただし、慣れない日本人は生で飲まない方がいいらしい。水道水が各家庭に送られるようになったのは、近代になってからだ。それまでは日本でも井戸水や川の水が使われていた。

 この泉の水は、BC1世紀、初代ローマ皇帝アウグストゥスのとき、ローマ市民の飲料として、野を越え川を越えて20㌔先から引いてきた。その水道は「乙女の水道」と呼ばれ、「バルカッチャの泉」だけでなく、「トレヴィの泉」も、ナヴォーナ広場の「四大河の泉」も、「乙女の水道」の水を引いた泉である。

 その泉が17、8世紀に、このように飾られ、街の装飾となった。

 だが、17、8世紀の時代にも、これらの泉は地域の人々の大切な飲み水であり、生活用水として使われていたのだ。ローマは滅亡しても、水道を残した。

 いや、過去形ではない。塩野七生さんのエッセイを読んでいると、古代ローマの下水道は、今もローマの下水道として使われていると書いてあった。

 ところで、この泉の制作者のピエトロは、教皇に制作を依頼されたときに困った。「乙女の水道」と、この場所との高低差がほとんどなく、モーターのない時代、高低差がないと噴水の形にならないからだ。

 そこでピエトロは、広場の地面を掘り下げて少しでも落差が増えるようにし、舟がそこに半ば沈んでいるという奇抜な形の泉を考え出したのだ。

 それにしても、バロックらしい奇抜な発想である。

 以上は、紅山雪夫さんの『イタリアものしり紀行』からの要約である。紅山さんの文章は雑多な知識の断片の提供ではなく、また、奇を衒った話の紹介でもなく、ローマやイタリアの歴史を重層的に感じさせてくれる。本当のもの識りの書いた本だと感心する。

      ★

<スリにねらわれる>

 アメリカ大使館やブランド・ショップが並ぶ華やかなヴェネト通りの「カフェ・ド・パリ」のテラス席で休憩した。

 このカフェは、イタリアの上流社会を描いた映画『甘い生活』の舞台(ロケ地)として使われた。テーブルクロスが本格的で、グラスワインも上等でよく冷え、歩き疲れた身体にしみとおった。もちろん席に着く前に値段は見た

 共和国広場まで1駅だが、地下鉄に乗った。

 ホームに入ってきた車両は混んでいて、何とかドアの中に入り込んだ。そのとき、若い女たちが3人、走ってきて、後ろから強引に乗り込んできた。発車してしばらくすると、前に密着して立った3人組のうちの1人の女の指がコートの胸の辺りに触ってきた。その手をピシッと叩いたら、手を出さなくなった。乗客をはさんで向こう向きに立つ女は、肩からかけた白布で赤ちゃんに見立てた箱を抱いている。「赤ちゃん」の下から手を伸ばすのだ。「私はスリです」という制服のような格好だ。

 満員の車両に強引に後ろから乗り込んできたのは、日本人と見たからだろう。 カモと思ったのだ。だが、ローマの地下鉄で、内ポケットに財布を入れたりしない。

 日が暮れてきた。ホテルに帰ってひと休みしようと、共和国広場からタクシーに乗った。タクシーはモンテチトーリオ広場に入れないから、手前で降ろされる。

 気軽に降りたが、自分が広場の東西南北のどこにいるのかわからなかった。この界隈は賑やかな路地が錯綜して、どこも同じように見える。

 カンで歩き始めたが迷いに迷い、テヴェレ川に出て、やっと自分の位置がわかった。異郷の旅は、誠に疲れる。

      ★

<バロック様式のトレヴィの泉>

 ホテルでひと休みしたあと、夕食を食べるためにホテルを出た。

 途中、ライトアップされたトレヴィの泉に寄る。

 夜になっても観光客で賑わって、泉に近づけないほどだった。

  (トレヴィの泉)

 上の写真の、泉の後ろは宮殿。その壁面も利用した、巨大で劇的なバロック様式の彫刻だ。

 海神ネプチューン(ポセイドン)が、海馬の引く貝殻の戦車に乗って、今、建物から走り出ようというシーン。左右に立つのは豊穣の女神と健康の女神。左の海馬は横向きに狂奔。右の海馬は前に向かって駆け、クツワを取るトリトーネ(ネプチューンの息子)はほら貝を吹き鳴らしている。

 全てがばらばらだ。噴水の形も、円とか四角ではなく、湾曲し、のたうっている。

 ローマ帝国の滅亡後、「蛮族の侵入」によってローマの街は破壊され、千年の時が流れた。

 今、私たちが見るローマの街並みは、中世の荒廃の後、ルネッサンスの時代からバロックの時代に再開発され、飾られていった街並である。その意味で、ローマの街はヴェネツィアやフィレンツェよりもやや新しい。

 この泉は、バロックの大家ベルニーニが残したデザインに基づき、18世紀になって、コンクールで抜擢された無名の新人が完成させた。

 バロックとは何だろう?? というときは、紅山雪夫さんの『ヨーロッパものしり紀行』の『建築・美術工芸編』を見る。

 「バロックの語源はポルトガル語のbarroca(歪んだ真珠)だろうと考えられている。ルネッサンス式の『整然と調和のとれた美しさ』が飽きられたとき、『わざと調和を乱し、激しい動きを表し、見る者に動的な訴えかけをしよう』として出現したのがバロック式だ」。

 確かに、ルネッサンスの建築物は整然として幾何学的で、我々日本人の目にももの足りなさを感じることがある。ただ、日本人がルネッサンス建築にもの足りなさを感じる感性は、バロックの美術家とは相当に違うと思う。

 たぶん、西洋人は幾何学的な図形に「創造主の意志」を感じる。しかし、日本人はそれを「人工的」と感じる。草や木や山や川に幾何学があるだろうか?? 神々は「自然」の中に存し、日本人はほのかにでも自然や四季を感じさせるものに美を感じる。

 バロック式は、ルネッサンス様式以上に「人工的」だ。私には、バロックは、ルネッサンスのある面を強調していった結果に思える。  

 ともかく、バロック式はルネッサンスに続いてイタリアに現れ、17世紀に本格的に開花した。そのあと西ヨーロッパ全域に広がる。ドイツの教会を訪ねると、バロック様式が多い。

 だが、「18世紀の後半になると……『バロック式は余りに仰々しく、悪趣味で、品がない。もっと典雅な、古典的な美しさに返るべきだ』という考え方が、フランスで主流を占めるようになり、クラッシック式が起こったのである。クラッシック式は、ある意味ではルネッサンス式の復活であった」。

 紅山さんの説明は本当によくわかる

 さて、前回の旅でトレヴィの泉で後ろ向きにコインを投げたお陰で、今回、またローマにやってくることができた。

 今回もコインを投げたが、大勢の人々の後ろから人に当たらないように投げるのは難しい。後ろ向きに投げるのはムリだった。ローマ訪問は今回で終わりかもしれない??

 しかし、私は神社仏閣には参詣するが、この種の縁起はかつがない。ヨーロッパを旅していると、ヨーロッパ人は至る所にこういう縁起かつぎの場所がある。一神教の世界と思えない。日本人のおみくじ好きにどこか通じて面白い。

 すでに9時になった。路地を歩いて、入りやすそうなレストランを探した。

 (ホテル近くの路地)

   上の写真の通りの左側は、レストランのテラス席。夜になり冷え込むので、ストーブ(バーナー)を焚いて暖をとっている。みんな、暖房のきいた室内より、少々冷えてもテラス席を好む。それは私も同じだ。

 まだ宵の口という感じで賑わっているテラス席で食事をとった。陽気なお兄さんが注文を聞き、料理を運んできた。

 生ハムをはさんだメロンとワインが、美味しかった。パスタも最高に旨かった。 

   (ホテルの前のモンテチトーリ広場)

 明日は、「古代ローマ」の面影を求めてローマの街を歩く予定だ。

 

 

 

 

 

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ローマの街のタクシーとデモ … 早春のイタリア紀行(12)

2021年04月04日 | 西欧旅行…早春のイタリアの旅

   ポポロ広場の中央に立つオベリスクは、BC1200年頃にエジプトで造られたものという。高さ36.5m。ローマに運ばれ、戦車競技場であったチルコ・マッシモに置かれた。

 1589年、教皇シクストゥス5世のとき、北からやって来る巡礼者の道標としてここに設置された。

   ★   ★   ★

 3月13日。晴れ。

 アッシジからローカル線に乗って2時間余り。のどかなイタリア鉄道の旅だった。天気が良く、イタリアの野の風景はすっかり春めいていた

<ローマの街のタクシー>

 ローマ・テルミニ駅に到着。人が多い。のどかなアッシジからやって来ると、まるでお上りさんだ。改めて気もちを引きしめた。

 前年の冬、パリの凱旋門の地下道でバッグからカメラを抜き盗られた。後で考えるに、4人組の若者の役割分担とチームワークは見事だった。それでも、身に付けていた財布は盗られなかったし、旅行保険に入っていたから帰国後、カメラも新しく購入できた。だが、深夜のパリの警察署で盗難届を作ってもらうのは大変だった

 ローマのホテルは日本でネット予約。ナヴォーナ広場の近くだ。

 友人Iくんと参加した1997年のイタリア・ツアーのとき、ローマではまる1日、自由時間があった。朝、ヴァチカン美術館を見学し、午後はローマの街をてくてくと歩いた。

 そのとき、もう一度ゆっくりローマを訪れることができたなら、このあたりに泊まって朝夕、街の雰囲気を味わいたいと思った。2路線しかないローマの地下鉄の駅から少し離れている。しかし、ナヴォーナ広場の界隈は、ローマの歴史の積み重なりと、今のローマのもつ庶民的な雰囲気とをあわせて感じさせる一角のように思えた。

 さて、駅前からタクシーでホテルへ向かった。

 たいていのガイドブックに、ローマのタクシーはわざと大回りしたり、料金をぼったくったりすることがあるから気を付けろと書いてある。生き馬の目を抜く街だ。だが、気を付けろとあるが、どう気を付けたらよいのかは書いてない。世界から集まった観光客で賑わう石畳の道路を、大きなスーツケースを引っ張って延々とホテルまで歩くというわけにはいかない。旅はいつもなにがしかのリスクがあり、冒険である。

 しばらく大通りを走っていたタクシーは、途中から狭い横道に入った。

 中世の時代には馬車がすれ違えればよかった道路だったのだろう。そういう路地が迷路のように交錯している。道路の両側には、オシャレな商店やレストランやバールが軒を連ね、その前の道にはみ出してテラス席が設けられている。そこを世界からやって来た観光客の群れが楽し気に歩き、或いは、テラス席に座って食事をして、大変な賑わいだ。

 その賑わいの中へ、タクシーは突っ込んで行った。後ろの座席から、ムリっ!! と叫んだが、運転手は全く意に介さず、たいしてスピードも緩めず、観光客の群れの中を平然と進んで行く。

 古い街路はまっすぐではない。湾曲して見通しがきかない箇所も、道幅狭く直角に曲がる建物の角も、車体をこするでもなく、すいすいと進み、後部座席で思わず目を閉じ、足を踏ん張る。もし日本人が車でこんな道路に入ってしまったら、たちまち立往生して、前にも後ろにも進めなくなるだろう。少なくとも我々には、遠慮とか、車で入って申し訳ないなとか、この群集を怒らせて取り囲まれたら怖いだろうなとか、そういう気持ちがある。

 「ホテルはこの先を左だが、車は入れない」。多分、そう言われ、ぼったくられるどころか、料金が思いのほか安かったので、敬意をこめてチップとともに渡した。礼を言われた。

       ★

<警察官のたむろする広場>

 「コロンナ・パレス・ホテル」は、モンテチトーリオ広場に面して建つ。

 広場のすぐ東側には、ひと続きのようにコロンナ広場がある。その東側を、コルソ通りが南北に通っている。コルソ通りは、旧市街の北の端のポポロ広場と、古代ローマの中心・カンピドーリオの丘を一直線に結んでいる。

 広場を西へ歩けば、すぐにナヴォーナ広場に出る。そのすぐ南には2千年の時を経て建つパンテオン。さらに西へ歩けば、テヴェレ川だ。

  (オベリスクの塔の向こうがホテル)

 モンテチトーリオ広場も、なかなか風格のある広場だ。

 石柱が立っている。ローマの初代皇帝アウグストゥスが、クレオパトラのエジプトから運ばせたという。BC6世紀にエジプトで造られたオベリスクだ。上の写真のオベリスクの向こうの黄色い建物が、これから3泊するホテル。

 ホテルの向かい側には、モンテチトーリオ宮がある。この宮殿は、今はイタリアの下院で、日本で言えば衆議院だ。従って、この広場は警察車両と特別許可の車両以外の侵入は禁止。だから、さっきタクシーから降ろされた。

 宮殿の入口付近は、早朝も、深夜も、24時間、警察官がたむろしていた。日本と違うのは「たむろしている」のである。たむろして、いつも、おしゃべりしている。たまに誰もいなくなるのは、カプチーノでも飲みに行ったのか?? ともかくそのお陰で、この広場にはスリもカッパライも近づかない。

 3泊しているうちに、そういうことがだんだんとわかってきた。

 ネットでこのホテルを選んだのは、ナヴォーナ広場に近いという立地と、それなりの設備、それに、何とか折り合いが付く料金。とにかく、アッシジなどとと比べると、ローマのホテルの料金は高い。

 ちなみに、映画『ローマの休日』のラストシーン。王女が記者会見を開いてさりげなく別れを告げる感動の場面。あのシーンの撮影は、この近くのコロンナ宮殿で撮られたそうだ。

 ローマはいろいろと、わくわくする街である。

         ★

<デモで埋まるポポロ広場>

   ホテルにチェックインしてひと休みしたあと、見学に出た。

 まず、ローマの北の出入口、ポポロ門のあるポポロ広場へ向かう。

 すべての道はローマに通ず。

 古代ローマ時代。ここにあった門から北へフラミニア街道が出ていた。軍団を率いてルビコン川を渡ったユリウス・カエサルも、この門からローマに入ったはずだ。

 中世。ヨーロッパはキリスト教の世界となり、ローマはエルサレムと並ぶ聖地となった。10世紀頃になると世の中は次第に落ち着き、経済的にゆとりもでき、十字軍遠征などで視野も広がり、ヨーロッパの各地から巡礼者が聖地ローマにやって来るようになった。ポポロ広場は、長い道のりを歩いてきた巡礼者たちを迎える聖都ローマの玄関口だった。

 広場の東にピンチョの丘があり、この丘から望むローマの景色、特に夕日が沈む時間は素晴らしいと、ローマの紀行に書いてある。

 ホテルの受付で、市内バスの最寄りの停留所がコルソ通り沿いのサン・シルヴェストロ広場だと聞く。

 隣のコロンナ広場を抜け、コルソ通りを渡って、サン・シルヴェストロ広場へ。だが、広場のどこからポポロ広場行きのバスが出ているかわからず、結局、タクシーに乗った。異邦人が市内バスを乗りこなすのは難しい。

 ところが、タクシーはスペイン広場近くで、デモ隊に遭遇して前へ進めなくなった。あきらめて車を降り、デモ隊の後ろを北へと歩いて行った。

 デモ隊の終点はポポロ広場だった。広場はデモの群集で埋まっていた。

 一昨日のイタリア鉄道のストライキと言い、今日のデモと言い、日本の「春闘」にあたる季節なのだろうか?? 赤地に槌と鎌の旗を持つ人もいる。

 (ポポロ広場の双子教会の前で)

 観光はあきらめ、地下鉄に乗って、スペイン広場に戻った。

 

(この日の記録は次回に続く)       

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丘の上の聖者の町アッシジ…早春のイタリア紀行(11)

2021年03月21日 | 西欧旅行…早春のイタリアの旅

      (春の午後の立ち話)

藤沢道郎『物語イタリアの歴史』(中公新書)から 

 「アッシジは静かな聖堂の町である。… 市庁舎横の望楼からは、絵のように美しいウンブリアの野の景色が一望に見渡せる」。

 「…… やがて日が傾き晩鐘の時刻が来て、数多い聖堂の鐘がいっせいに鳴り始める。

 胸の底まで響くように低音で鳴るのは、この広場のすぐ近くにあるサン・ルフィーノ大聖堂の鐘である。

    歌うように清らかな高音を響かせるのは、これも近くのサンタ・キアーラ聖堂、すなわちあの聖女キアーラの名を冠した聖堂の鐘だ。

 耳を澄ますと夕日の沈みゆく方角から、サン・フランチェスコ聖堂の鐘の音が何事か語りかけるように静かに響いてくるのを、聞き分けることができるだろう」。

   ★   ★   ★

<アッシジへ>

 3月12日。晴れ。

 朝、フィレンツェのホテルで、7時に朝食。

 今日はイタリア鉄道のストライキを避けて、早い列車に乗ってアッシジまで行かねばならない。

 8時7分発のR(日本で言えば、快速、或いは各駅停車の列車)は、時間どおりにフィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェラ駅のホームを滑り出た。もう安心だ。あとは2時間半ののどかな汽車旅である ……。

       ★

 列車もすいていたが、ウンブリア州のローカルな駅「アッシジ」で降りた人も少なかった。

 駅の構内で、翌朝のローマ行きのチケットを購入しておく。

 券売機の操作がうまくいかず困っていたら、日本人の青年がやって来て「この機械、自分も困ったんですけど」と言いながら、一緒にやってくれた。

 イタリアのこんなローカルな駅で、日本人の若者に出会うとは思いもよらなかった。

 聞けは、イタリアの2部リーグのサッカーチームに所属し、オファーがあってセリエAのチームのテストを受けに行く途中だという。こんな所にも、たった独りで頑張っている日本の若者がいる

 「幸運を 」と心から願った。

 タクシーで、ウンブリアの野の丘の町・アッシジへ。

  (丘の町アッシジ)

 「アッシジは高い丘の斜面に築かれた城塞都市だ。どの方面から行っても、緑野のかなたに盛り上がるように高い丘が現れ、その最高地点に城塞が見えてくる。ロッカ・マッジョーレだ」(紅山雪夫『イタリアものしり紀行』)。

 もともとアッシジは城壁に囲まれた城塞都市だった。ローマ帝国時代初期には城塞が築かれていた。いまは周辺部を合わせて人口1万8千人の小さな町である。

       ★

<ウンブリアの春>

 ホテル「SUBASIO」は小さな三ツ星ホテルだが、立地は100点満点だ。

 (ホテル「SUBASIO」とウンブリアの野)

 2階建てのホテルの屋上テラスに出ると、ウンブリアの野の眺望が素晴らしい。

 (ホテルのテラスからウンブリアの野)

 早春のイタリアの旅に出て、初めてお天気は晴れ。ぽかぽかと暖かい早春の日差しに、ウンブリアの野はやや春霞にけむって長閑かである。しばらくはベンチに座って、異国にいることも忘れ、陶然となる。

 ホテルは、アッシジの丘の西端に建つサン・フランチェスコ聖堂のすぐ横。世界遺産の聖堂を見学するのに、これ以上の立地はない。もともと巡礼者の宿だったのかもしれない。居ながらにして聖堂が見え、玄関を出て数歩歩けば、そこはすでに「境内」だ。

 (サン・フランチェスコ聖堂)

     ★

<聖フランチェスコのこと>

 聖フランチェスコは、12世紀の終わりごろ、中世自治都市アッシジの豊かな商人の家に生まれた(1182~1226)。フィレンツェがルネッサンスの最盛期を迎えるより200年ほど前のことである。

 普通の快活な青年だったが、突然、神の啓示を受け、父親の反対や友人たちの説得も聞き入れず、全ての私物を捨てて、修道生活に入った。

 西ヨーロッパでは、11世紀には一般民衆も含めてほぼキリスト教化がなされたと言われる。民衆の中にもマリア信仰や聖人崇敬が興り、聖遺物を求めて聖地への巡礼も盛んになり、遺言によって死後、全財産を教会に寄進するという人々も増えていった。

 信仰が深まり、純粋化していくと、福音書の中のイエス・キリストや使徒行伝に描かれた弟子たちのように生きたいという希求も生まれてくる。

 修道院は既に古代末期に設立され、中世の時代を通じてカソリックの権威の一つであった。修道院では私有財産を共有し、日々(ラテン語で書かれた)聖書を読解・研究し、瞑想と思索と労働の規律ある生活の中から神の啓示を得ようとした。

 フランチェスコの新しさは、そういう権威主義的な修道生活ではなく、いきなり1着の僧衣と数枚の下着、1本の帯縄以外の全ての私物を他者に与え、ただキリストを模範とし、日々、キリストのように生きることを目指すというラジカルさにあった。

 歴史家の中には、13世紀の聖フランチェスコの考え方、生き方こそ、ルネッサンス的なものの最初だと言う人もいる。意識せずにではあるが、一人の青年が、中世的・カソリック的な権威を打破したのである。

 彼のあまりの純粋さに最初は戸惑っていた人々の中から次第に共感が生まれ、フランチェスコとともに生きようという人々によって修道会が生まれた。その会員は年々ふくらんでいき、ついに5千人の組織になる。組織ができれば対立が起き、あれこれの宗教論争も生じる。

 彼は自分の修道会を離れ、孤独な隠棲生活に入った。

 「ウンブリアの山や森の中の洞窟や小屋を転々と移動しながら、彼はしだいに自然の中にのめり込んでいった。… 弟子たちは、彼が小鳥に説教しているのを見た。小鳥たちは木の枝から地上に下りてきて、さえずりを止めて彼の言葉に聞き入り、祝福を与えてもらうまで動かなかった」(藤沢道郎『物語イタリアの歴史』)。

 1226年にフランチェスコが死去すると、その2年後、バチカンは彼を「聖人」として聖別した。彼のような行動は、100年前なら、バチカンは異端裁判にかけた。聖別は一種の大衆迎合である。

 フランチェスコ修道会も、同年、「開祖が生きていたら決して承認しなかったであろう事業に着手した」(同)。フランチェスコを慕って西欧各地からやってくる巡礼者たちのために、彼の名を冠した大伽藍建立に着手したのである。

 聖堂の献堂式は1253年に行われた。

 こうしてフランチェスコ修道会はキリスト教界を代表する修道会に発展し、ローマ教皇も出すようになる。

 なお、映画『薔薇の名前』のショーン・コネリーが演じた主人公も、フランチェスコ会の修道士である。

<閑 話>

 キリスト教という一神教の教えをつき詰めていけば、結局、フランチェスコのような生き方になっていくのだろう。私も、「野の百合を見よ」という30歳の青年イエスが好きだ。

 だが、思想の純粋化は、原理主義となり、思想の先鋭化は、排他主義につながる。

 フランチェスコのような生き方からすれば、この世のあらゆるもの、科学技術も、政治も、経済活動も、美術、音楽、文学なども、人間の社会と歴史、人間存在そのものも、すべてが不純となり、非キリスト的となる。

 私は「人間」として旅をしている。聖なる大伽藍は人間が作った偉大な文化遺産であり、キリスト教の絵画や彫刻は言うまでもなく偶像であり、聖フランチェスコという人も含めて、すべてが人間の営みの一環、人間の歴史、人間の文化の一部であって、そう思うからこそ、すべてがいとおしく、美しい。

 融通無碍がこの世の真実である。

 Let it Be。

      ★

<サン・フランチェスコ聖堂を見学する>

 ひととき、ホテルのテラスのベンチに腰掛けて、ウンブリアの春のぬくもりに浸ったあと、見学に出た。まずは、目の前のサン・フランチェスコ聖堂である。

 聖堂は丘の西端の傾斜地を利用して建てられ、上の聖堂と下の聖堂の2層構造になっている。どちらからでも入れるが、ホテルの前の石畳の道は下の聖堂の回廊に囲まれた広場に続いていて、その先に下の聖堂の扉口がある。

  (下の聖堂の入口)

 入口を入ると、窓が少なく、暗く、ここが地下聖堂であることがわかる。

 身廊の周辺には幾つもの礼拝堂が並び、ほのかな明かりが灯されている。そのほの暗さの中、天井も、壁面も、フレスコ画で覆いつくされていた。イエスの受難、聖フランチェスコの生涯などの連作で、色彩はなお鮮やかである。

 身廊の奥の内陣も、袖廊も、フレスコ画の饗宴で、あたりの暗さと絵画の宗教的な重々しさで、圧迫感があり、少々息苦しい。

 身廊の中ほどに、さらに地下に降りる階段があった。そこを降りると、聖フランチェスコの遺骸を納めた石櫃がある。石櫃は頑丈な鉄格子で守られている。中世の時代、聖遺物の奪取はよくあることだ。イエスやマリアや12使徒にかかわる聖遺物は、十字軍が異郷の地から奪ってきた物だ。

 (身廊の礼拝堂)

 ありがたさより、不気味さが勝り、もとの身廊に戻って、さらに翼廊の階段を上がると、上の聖堂の内陣脇に出た。

 上の聖堂は、天井が高く、窓が大きく、採光はずっと良い。

 身廊の壁面には一面に、聖フランチェスコの生涯を描いたジョットのフレスコ画が並んでいる。1290年から95年にかけて制作されたと言われ、色彩が豊かで、清澄で、美しい。この絵を見るために、古来、多くの巡礼者が訪れ、今も世界中からキリスト教徒たちがアッシジにやってくる。

 ジョットの30歳頃の最初の大仕事とされてきたが、最近はジョットの作品ではないという説もある。

 ジョット(1267?~1337)はフィレンツェの生まれ。イタリア各地で仕事をし、その後、故郷のフィレンツェに工房を開いた。「花の聖母大聖堂」に付属する「ジョットの鐘塔」は、まちがいなく彼の晩年の作である。ゴシックの終わりごろ~ルネッサンスの前夜に活躍した人である。

 上の聖堂から外へ出ると、広々とした緑の広場だ。ファーサードが清々しい。

  (上の聖堂のファーサード)

       ★

<アッシジの町を散策する>

 石造りの建物の洞窟のようなレストランに入って、昼食をとった。テーブルに色ランブが置かれ、ちょっとロマンチックなレストランだった。

 ヨーロッパの人は、こういう穴倉風のレストランを好む。しかし、私は外気を感じ、青空を見るテラス席が好きだ。

 聖堂の見学を終えると、もう、これを見なければいけないというほどの特別な文化遺産はない。ただ、アッシジの旧市街の雰囲気を感じようと、メイン通りであるサン・フランチェスコ通りを東へ歩いた。

 マップを見ると、小さなアッシジの旧市街の中で、サン・フランチェスコ聖堂は西の端にある。メイン通りを東へ進めば、町の中ほどに旧市街の中心・コムーネ広場。そこをさらに東へ歩けば、サン・ルフィーノ大聖堂やサンタ・キアーラ教会があって、その先は、東の城門になる。

 (サン・フランチェスコ通り)

   メイン通りと言っても、車がぎりぎりすれ違えるぐらいの狭い石畳の道だ。カーブしたり、登り坂・下り坂になったり、車社会を予想して造られた街並みではない。

 建物の下のアーチをくぐる所もある。

 あちこちの石の壁には、聖人の彫像や絵がはめ込まれている。

 瀟洒なショウウインドウの小さな土産物店は、十字架や小さな天使や馬小屋と聖母の人形など、クリスマスに家庭で使うような品ぞろえだ。

 表通りから一歩横道に入ると、ローマ風のレンガに漆喰の壁が古びて、時間が止まったよう。

 丘の町だから、坂道が多く、石段もある。そうした家並みの中に立派な庭があったりする。

 (静かな横道)

 コムーネ広場は、古代ローマ時代にはフォロ(公共広場)だった所だ。

 (コムーネ広場)

 13世紀のポポロの塔が建つ。その向こうは、かつての中世自治都市であった時代の高官の邸宅。

 そして、塔のこちら側は、古代ローマ帝国初期に建てられたミネルヴァの神殿の跡。

(ミネルヴァの神殿)

 古代ギリシャ・ローマ時代の石柱の太さには、いつも圧倒される。

 広場からさらに東へ、一層狭くなった道をたどると、サン・ルフィーノ大聖堂がある。この町の司教様の聖堂だが、サン・フランチェスコ聖堂と比べるとはるかに小さい。この町は、13世紀の初めに出た聖フランチェスコのよって一変したのだ。ただ、それは本人の意図したところでは全くない。

 サンタ・キアーラ聖堂にも行ってみた。

 聖キアーラはアッシジの名門の娘で美人の誉れ高かったが、フランチェスコの生き方に共鳴し、周囲の反対を押し切って修道女となった。女子修道会をつくり、生涯、信仰と清貧と隣人愛に生きた。

 白とピンクの大理石で建てられた瀟洒な聖堂は、聖女を記念する聖堂にふさわしい。地下には聖キアーラの遺骸が納められ、翼廊にはフレスコ画「聖女キアーラの生涯」が描かれている。

       ★

 夕食の帰り、ライトアップされたサン・フランチェスコ聖堂を撮影した。

  (ライトアップされた聖堂)

   ★   ★   ★

3月13日。晴れ。

 気持よく眠り、爽やかな朝を迎えた。

 ホテルの屋上テラスに出ると、ウンブリアの野は今日の晴天を約束するかのように一面に春霞がかかっていた。

 (朝霞にけむるウンブリアの野)

 早朝の観光客のいないサン・フランチェスコ聖堂へもう一度行ってみた。 

 (下の聖堂の扉の前で)

 上の聖堂のステンドグラスやジョットの絵を静かに鑑賞。

 (聖堂へ向かう神職)

 朝の陽ざしを受けて、石造りの街は陰影が濃く、すがすがしい。

 こうして1泊してみないと、その町の雰囲気はわからないものだ。

      ★

 昨日、頼んでおいたタクシーが来た。

 アッシジ駅ではなく、「Foligno(フォリーニョ??)」という駅まで行ってもらった。ここから10時16分発の鈍行に乗れば、乗り換えなしで、ローマへ行ける。これは日本出発前の研究の成果だ。

 ローマ・テルミニ駅には12時23分に到着の予定。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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アルノ川は流れる(フィレンツェ2)…早春のイタリア紀行(10)

2021年03月14日 | 西欧旅行…早春のイタリアの旅

     (花の聖母大聖堂) 

   「フィレンツェの象徴、赤い屋根に白い稜線の走る、花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)の優雅でかつ堂々とした大円蓋(クーポラ)が、周辺を圧倒するかのようにそびえ立つ。そのかたわらには、ジョットーの鐘楼が美しく花をそえ、さらに左に視線をめぐらせば、……」(塩野七生『銀色のフィレンツェ』から)

 ホテルの4階の朝食ルームからは、大聖堂の大円蓋(クーポラ)が良く見えた。この眺望のために、このホテルを選んだ。

   ★   ★   ★

   3月11日。曇り、時々小雨。

 今日の1日は、前回のイタリア・ツアーで回らなかったフィレンツェの文化遺産を巡り歩く。だが、その数は多く、一つ一つの絵や彫刻を確かめながら見て回ったら何日もかかってしまうだろう。だから、主な聖堂や邸宅をざっと見て回ることに主眼を置いた。

       ★

<参考資料 ── フィレンツェ・ルネッサンス期の人々>

ブルネレッスキ    (1377~1446)

ドナテッロ      (1386~1466)

コジモ・デ・メディチ(1389~1464) 銀行家    

フラ・アンジェリコ  (1390?~1455)

マザッチオ      (1401~1428)

フィリッポ・リッピ  (1406~1469)

ベノッツォ・ゴッツォリ (1421~1497)

ポッティチェリ    (1445~1510)

ロレンツォ・デ・メディチ(1449~1492) コジモの孫 

ダ・ヴィンチ     (1452~1519)

サヴォナローラ   (1452~1498)修道士

ミケランジェロ    (1475~1564)

      ★

<サン・マルコ寺院とコジモ・デ・メディチ      

 町の北西にあるサン・マルコ修道院(今はサン・マルコ美術館)からスタートした。

 2つの扉がある。左側の入口はサン・マルコ教会。右側の入口はサン・マルコ修道院で、今はフラ・アンジェリコの美術館になっている。

 このドメニコ派の修道院から2人の著名な修道士が出た。

 1人は15世紀前半の画僧でフラ・アンジェリコ(~1455)。

 もう1人は、15世紀後半、メディチ家と対決し、ルネッサンスのギリシャ的な人間中心主義を、異教的・反キリスト的・享楽主義と批判して、「終わりの日は近い。神の声を聞け」と叫んだ修道院長のサヴォナローラ(1452~1498)。彼に洗脳された少年・少女隊は、夜な夜なフィレンツェ市民の邸宅に押し入り、数々の美術作品や新思潮を伝える書籍や贅沢品などを没収して広場で燃やした。

 さて、修道院(美術館)に入り、狭い階段を上がっていたとき、その絵との出会いがあった。2階へ上がる途中の踊り場で階段の向きが変わったとき、目の前の壁にフラ・アンジェリコの「受胎告知」が架けられていたのだ。写真で見て、フィレンツェに行くからにはぜひ本物を見たいと思っていた絵である。

 構成も、色合いも、マリアの表情も良い。貴族のお姫様のような美女ではない。かといって、粗野でたくましいだけの女でもない。純朴にして静謐。キリスト教徒でなくても、マリアはこういう女性だったのだと納得できる。

 私はイタリア・ルネッサンスのいかなる絵画よりも、サン・マルコ修道院の質素な壁に架けられたフラ・アンジェリコの野の花のような絵、なかんずく「受胎告知」が好きだ。

 2階は石造りの冷たく狭い廊下をはさんで、修道士たちのための小さな房が並んでいる。開いている扉があり、覗いてみると、石の壁に囲まれた質素で孤独な部屋だった。冬の冷え込みをどのように凌いだのだろう。

 階段を上がった所からまっすぐ伸びる廊下は突き当りで鍵型に曲がり、左右に計14室。一番奥が院長室で、15世紀末に修道院長だったサヴォナローラの遺品が置かれていた。彼は結局、最後はシニョーリア広場で火刑にされた。

 階段を上がった所から右へ行く廊下には左右に計10室。その一番奥は、コジモ・デ・メディチが時々籠ったという房で、いつか引退してこの修道院で晩年を静かに過ごしたいと願っていたという。

藤沢道郎『物語イタリアの歴史』から

 「コジモは学問の分野でも美術の分野でも、新しい潮流(=ルネッサンス)を積極的に擁護し、理解し、後援した。彼の後援でプラトン・アカデミーがフィレンツェに設立され、すでに内容が時世に合わなくなりつつあった大学に代わって、学術研究の中心となった。…… コジモはまた、その時代で最大の愛書家であったニッコロ・ニッコリに財政援助してギリシャ語のテキストを収集させ、死後はその蔵書800冊を大枚6000フィオリー二で買い上げ、サン・マルコ修道院の図書館に寄贈した」。

 コンスタンティノープルの陥落(1453年)前後、多くのギリシャ語の書籍群が西欧世界に流出してきて、ルネッサンスの土壌のひとつとなった。

 800冊の書籍を収納する図書館もブルネレスキの弟子のミケロッティに設計・制作させた。それは、「アンジェリコの絵がそのまま建築と化した観がある」。

 「コジモは隠居した後この修道院に住むつもりで、そのための僧房まで用意したが、結局そんな平安は彼には許されなかった。

 ブルネレッスキ(1377~1446)にはサン・ロレンツォ聖堂の工事を引き続き任せ、ドナテッロ(1386~1466)とは終生の親友となって絶えず仕事を与え、経済的援助を惜しまず、アンジェリコにはサン・マルコ修道院の壁画連作を依頼し、破戒修道士の画家フィリッポ・リッピ(1406~1469)を庇護して創作を続けさせたが、ゴシック美術には振り向きもしなかった」。

 ルネッサンスと言えば、偉大な美術家、或いは、天才として、ダ・ヴィンチ(1452~1519)やミケランジェロ(1475~1564)の名が挙がる。だが、私は彼らよりも半世紀前の、ルネッサンス前期の芸術家たち、そして、彼らを庇護し、「祖国の父」と呼ばれた銀行家のコジモ・ド・メディチに心惹かれる。

 大金持ちなら、現代のアメリカにもサウジアラビアなどにも、或いは今の中国にも、当時のコジモ・デ・メディチなど問題にならないような巨万のカネをもつ人はいくらでもいるだろう。だが、コジモは単なる大銀行家でも、フィレンツェの政治家でもない。その教養や見識、人間性の深さに私は心惹かれる。

 サン・マルコ修道院の静謐感、コジモの僧房、それらの雰囲気にふさわしいフラ・アンジェリコの野の花のような絵画の数々に接し、感動して表に出た。

 その感動のまま、すぐ南にあるアカデミア美術館はパスした。ミケランジェロのダビデ像の本物を安置して人気が高い。だが、それを見ても、立派だとは思うだろうが、感動はしないだろう。これは個人の感性、好みの問題である。

      ★

<メディチ家の邸宅とサン・ロレンツォ教会>

 さらに南へ歩いて、メディチ・リカルディ宮へ。

 コジモ・デ・メディが造らせたメディチ家の邸宅で、1459年に完成した。100年以上のちに、リカルディ家に譲渡されたから、メディチ・リカルディ宮と二つの名が付く。

 メディチ家の本流は1537年に断絶する。

 1569年に傍系のコジモ1世がトスカーナ大公となり、フィレンツェを含むトスカーナ地方の専制領主になった。彼はその後、住まいをアルノ川の南のパラッツォ・ピッティに移し、元の邸宅はリカルディ家に譲渡した。

 外観は石造りで、ごつごつとして厳つい。

 (メディチ・リッカルディ宮の中庭)

 だが、中庭に入ると、洗練されて優雅。1階は中庭を囲むように回廊があり、その上階に居住室がある。こういう中庭は地中海世界に独特なもので、ドイツやフランスなどの北方ゲルマン系建築には見られない。

 中庭の階段から直接に2階に上がれば礼拝堂があり、ゴッツォリのフレスコ画「ベツレヘムへ向かう東方の3賢人」がある。色彩豊かで、メディチ家の人々の顔や画家本人の顔も、登場人物として描き込まれている。

 ベノッツォ・ゴッツォリ(1421~1497)は、若い頃、フラ・アンジェリコの弟子で助手だった。コジモ・デ・メディチやその息子のピエロ・デ・メディチに援助され、ルネッサンス芸術の一角を彩った芸術家の一人である。

 メディチ・リカルディ宮を出て、そのすぐ南、露天が並ぶ下町の雰囲気のある広場を前に、大きなピンクのクーポラをもつサン・ロレンツォ教会がある。

 入口付近に高校生の遠足のような一群が、順番待ちなのか、群れていた。イタリアの高校生らは日本の高校生よりわかりやすい。これから見る見学の対象はそっちのけで、ガヤガヤと騒がしいのは日本と同じだが、明らかに特定の女子に関心のある男子や、その逆もいる。秘めたる恋はないようだ。

 この教会は、メディチ家の代々の菩提寺でもある。ドゥオーモ(花の聖母教会)、サンタ・クローチェ、サンタ・マリア・ノヴェッラとともに、フィレンツェの4大教会の一つ。

 (サン・ロレンツォ教会)

 もともと4世紀末にできた教会だが、今、目にする建物は3代目。ブルネッレスキの最初の作品とされる。

 紅山雪夫氏によると、ファーサードとは「顔を付ける」という意味合いをもつそうで、教会建築では最後に造られるらしい。このサン・ロレンツォ教会のファーサードは未完成のままで、レンガの芯積みが露出している。だから、我々観光客には、どこが正面入口かわからない。

 別の入口から入るメディチ家の礼拝堂には、ミケランジェロ設計の新聖具室があった。 

      ★

 昼食後、明日、予定されている鉄道ストの情報がないか、日本のツアー会社のフィレンツェ支店に電話してみた。だが、何の情報も得られなかった。日本で得ていた情報では、外国人観光客に迷惑をかけないよう、新幹線のストは回避し、ローカル線のみで行うことになっていた。だが、それは困る。明朝、ローカル線に乗ってアッシジへ行く予定なのだ。

 駅に行って、ストに入るかもしれないという時間より少し早い8時7分発の乗車券を買った。あとは出たとこ勝負だ。      

      (ドゥオーモ)

<バルジェッロ国立博物館とドナテッロのダヴィデ像>

 そのあと、さらに南へ。ドゥオーモを通り越して、バルジェッロ国立博物館へ行く。

 建物は13世紀末の建造で、中世的で、厳めしい。16世紀には、司法長官バルジェッロの役所兼邸宅として使われた。犯罪者を連行し拘留するための威圧感は十分だ。

 ただ、今は博物館として使われ、多くの文化財が陳列されている。

 (バルジェッロ国立博物館の中庭)

 メディチ・リカルディ宮と同様、一歩中に入ると、柱廊をめぐらせた中庭には彫像が置かれ、壁面には石板が飾られて、趣があった。2階の展示室には、中庭から直接に上がる石の階段がある。

 多くの展示品がある中、私が目指していたのはドナテッロ作の「ダヴィデ像」。

 シニョーリア広場に置かれた(今はアカデミア美術館)ミケランジェロのダヴィデ像は、ドナテッロのダヴィデ像が作られてから70年後の作品である。

 ミケランジェロのダヴィデ像は、巨大な石造りで、圧倒的に大きい。巨人ゴリアテに目を注ぎ、今まさに戦いに入ろうとする緊迫した若者の姿。贅肉のない引き締まった体に、無敵の巨人を倒す隆々とした筋肉が付く。

 一方、ドナテッロのダヴィデ像はずっと小さく、160cmばかりのブロンズ像である。石(巨岩)とブロンズの素材の違いは大きい。

 ドナテッロのダヴィデ像は、既に巨人ゴリアテを倒し、力を抜いて無造作に立っているように見える。剣を握った右腕はだらりと下げられ、左手は勝ち誇るがごとくわずかに腰に当てられて、やや裸体をくねらせている。

 だが、その足元を見ると、裸体のくねりの理由がわかる。左足は切り落としたゴリアテの岩のような頭を無造作に踏みつけているのだ。

 裸体だが、靴を履き、頭には月桂樹飾りの付いた兜。それは花飾りの付いた麦藁帽子のようにも見え、一瞬、少女の姿のようにも思える。しかも、その顔にはわずかに笑みが浮かんでいるようにも見える。こんな大男、何でもないよ、というような。

 ニヒルというか、倒錯的というか、耽美的というか。

 力任せの正攻法のミケランジェロよりも、私にはずっと魅力的である。

 もっとも、以上の描写は私の受けとめ方であって、ドナテッロの意図(モチーフ)がそうであったかどうかは知らない。

      ★

<サンタ・クローチェ教会> 

 冷たい小雨が降りはじめた。傘をさし、街の南西、アルノ川のこちらに建つサンタ・クローチェ教会へ向かう。

 (サンタ・クローチェ教会のファーサード)

 華やかなドゥオーモやシニョーリア広場から少し外れ、どこか庶民的で鄙びた趣のある地域だ。

 サン・フランチェスコ会修道院の聖堂として、14世紀にゴシック様式で建てられた。ただし、白大理石に色大理石を配したフィレンツェ風のファーサードは19世紀。

 堂内には、ダンテの記念碑、ミケランジェロやマキァベリやガリレオらの墓があった。高野山の奥の院みたいだ。

       ★

<アルノ川の流れ>

 この日の見学の終わりに、ブルネレッスキやドナテッロと同世代の夭逝した天才画家マザッチオ(1401~1428)の絵を見たくて、アルノ川を南へ渡ったサンタ・マリア・デル・カルミネ教会のブランカッチ礼拝堂へ向かった。

 だが、ヴェッキオ橋を渡ってから道に迷って、さ迷った結果、川下のカッライヤ橋へ出てしまった。

 朝からずっと歩きづめで、疲れて、マップを読む力も衰えている。橋の上で、今回のフィレンツェ見学はこれでおしまいにしよう、と決めた。

 (カッライヤ橋からアルノ川)

 カッライヤ橋の上から上流を見ると、トリニタ橋、その向こうは屋根付きのヴェッキオ橋。

 アルノ川は静かに流れている。

 「下を流れるアルノ川は、上流と下流の2カ所でせきとめてあるためか、湖面のような静かさをたたえて流れる」(塩野七生『銀色のフィレンツェ』から)。

 よく歩いたが、フィレンツェの見どころのほんの一部を回っただけだ。

      ★ 

饗庭孝男『ヨーロッパの四季1』(東京書籍)から

 「たとえばローマは私にとって大きすぎる。

 またミラノは何カ所かを除くと暗い町で、小雨がよく降り、霧が立つ。それなりにいいのだが、何か寂しい。

 だが、このフィレンツェは地勢がいい。真ん中に、京都の鴨川のようにアルノ河が流れ、その向こうにサン・ミニアート・アル・モンテ教会を包む丘 (注= 昨日、フィレンツェの夕景を見たミケランジェロ広場がある丘) が続いている。調和がとれていて、私には落ち着くのである」。

 明日は、アッシジへ行く。

 

 

 

 

 

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花の女神フローラの町・フィレンツェ … 早春のイタリア紀行(9)

2021年03月07日 | 西欧旅行…早春のイタリアの旅

  (アルノ川とポンテ・ヴェッキオ橋の夕景)

※ これは、2010年の旅の記録です。

    ★   ★   ★

<フィレンツェの町の起こりとルネッサンス>

 以下の歴史は例によって、紅山雪夫『イタリアものしり紀行』(新潮文庫)からの要約である。

 トスカーナ州はイタリア中西部に位置し、アペニン山脈より西、アドリア海に臨む緑豊かな地方である。州都はフィレンツェ。アルノ川が、アペニン山脈に発し、フィレンツェを流れて、アドリア海に注いでいる。 

 遠い昔、アルノ川は沼地が多く、渡りにくかったらしい。だが、現在のフィレンツェのポンテ・ヴェッキオ橋(上の写真)のあたりだけ沼地がなく、川幅が狭まり、渡りやすかった。そのため、古くから交通の要衝となった。

 初めは渡し舟だったろう。やがて、橋が架けられた。洪水のため、橋は何度も架け替えられたが、新しくなっても、ずっと「古い橋(ポンテ・ヴェッキオ)」と呼ばれてきた。

 今、我々が見るポンテ・ヴェッキオは1333年の大洪水の後に架けられたものだ。橋には屋根があり、橋上の両側には貴金属店が並んでいるから、橋の真ん中あたりの店が途切れた箇所へ行くまでは、橋の上を歩いていると思えない。

 遥かな昔、BC8世紀頃には、この地方には高度の文明をもつエトルリア人が住んでいた。BC3世紀になると、ローマが進出してくる。

 BC59年、ユリウス・カエサルが軍団の退役兵士たちにこの土地を与え、植民させた。ローマ兵たちは百戦錬磨の兵士であっただけでなく、土木や建築の優秀な技術者でもあった。彼らは、当時のローマ軍の規格に則って、東西約400m、南北約300mの碁盤目状の町をつくった。

 町の名は、花の女神フローラの町という意味で、フロレンティアと名づけられた。これがフィレンツェの名の起源である。

 彼らはそれぞれ土地の女性たちと結婚して、土着した。今もフィレンツェの町の中心部に、碁盤目状の街並みが残っている。

   その後、西ローマ帝国が滅亡し(476)、「蛮族」の侵入の時代となって、フィレンツェも一度は荒廃した。

 しかし、世の中が落ち着いてきた11世紀、12世紀になると、地の利の良いフィレンツェは、商業や手工業、特に織物業などで躍進し、北部のミラノと張り合う中世自治都市を形成するようになった。

 自他都市と言っても、内部の争いが絶えず、しばしばクーデターや血で血を洗う争いも起こった。銀行家のメディチ家、特にコジモ・デ・メディチ、その子のピエロ、孫のロレンツォの3代がフィレンツェの政治を巧みに治め、14世紀、この自治都市にヨーロッパ最初のルネッサンスが花開いた。

 下の写真の左の塔はフィレンツェの政庁であったヴェッキオ宮(今は市庁舎)。写真の右には、ドゥオーモ (サンタ・マリア・デル・フィオーレ=花の聖マリア大聖堂) とジョットの鐘楼。鐘楼の左にのぞく赤い円蓋は、メディチ家の菩提寺でもあったサン・ロレンツォ教会である。

 (フィレンツェの中心部)

 フィレンツェのドゥオーモ(大聖堂)は、13世紀にゴシック様式で設計・着工された。本堂は白大理石に緑と赤の大理石が配されて美しい。本堂の奥行きは153mある。後にローマのサン・ピエトロ、ロンドンのセイント・ポール大聖堂に抜かれるまで、当時、最大のキリスト教の聖堂だった。

 14世紀には、ジョットの設計で、本堂付属の鐘楼が完成された。鐘楼の高さは82m。414段の階段を上がれば、本堂も、フィレンツェの街並みも眺めることができる。

藤沢道郎『物語イタリアの歴史』(中公新書)から

 「あとは円蓋を制作して取り付けるだけだったが、何しろ直径50mもの大円蓋を石材で作るのは大変な難事であり、それを地上100mの高さに取り付けるのは、当時の技術では不可能と信じられていた」。

 だが、「ミラノが新しい大聖堂を無数の尖塔のそそり立つゴシック様式で建立するなら、フィレンツェ大聖堂の工事を再開し、反ミラノ・反ゴシックの象徴のような円蓋を取り付けて見せねばならぬ。それも、ミラノのように宮廷の御用美術家に任せるのでなく、市民の間から設計を募集し、市民の代表の審査によって建築家を選ぶのだ」。

 こうして、1418年に開かれたコンクールでブルネレスキが選ばれて、1420年に工事が開始、1461年に完成する。「反ミラノ、反ゴシック」のクーポラは、ヨーロッパのルネッサンスの開花であった。

      ★

 3月10日。ヴェネツィアは雪。フィレンツェは曇り、時々小雨。

   雪のサンタ・ルチア駅を出発した特急列車は、いくつもの小さな駅の積雪のホームを通過し、山懐に入って積雪は深くなり、やがて長いトンネルを過ぎると、雪のない世界に一変した。ただ、大地は早春の冷たい雨に濡れていた。

 フィレンツェの鉄道駅はサンタ・マリア・ノヴェッラ駅。ヨーロッパの駅のホームは低く、その分、列車の床面との段差が大きくて、スーツケースを降ろすのに力がいる。

 スリがいるかも知れない駅前の雑踏を避け、予習していたとおりに地下道を通って「グランドホテル・バリオーニ」へ。

 ホテルの前の小広場の向かいには、駅名になったサンタ・マリア・ノヴェッラ教会の壮麗なファーサードがそびえていた。

       ★

<花の聖母マリア大聖堂>

 ホテルの部屋にスーツケースを置いて、早速、旧市街の中を南東の方向へ400mほども歩くと、ドゥオーモに出た。ルネッサンス発祥の都市、フィレンツェを象徴する大聖堂だ。

  (ドゥオーモ)

 フィレンツェの(大)司教座聖堂(ドゥオーモ)は、「サンタ・マリア・デル・フィオーレ」と呼ばれる。「花の聖母マリア」の意。

 上の写真のファーサードが13世紀の本堂。歩く人間と比べると、大きさがわかる。左上に15世紀の赤いクーポラが少しのぞいている。

 本堂の右にのぞくのは、14世紀のジョットの鐘楼。

 右手前の建物はサン・ジョヴァンニ洗礼堂。サン・ジョバンニは洗礼者ヨハネのこと。

 イタリアでは、本堂、鐘楼、洗礼堂の3つがセットになって大聖堂となる。

 洗礼堂では、人々の頭越しにギベルディ作の扉の浮彫を見、壮大なドゥオーモに入ってウッチェルノ作の騎馬像を見た。

 1996年にイタリア・ツアーに参加したときは、午後半日の自由時間にドゥオーモの約500段の階段を上がった。身をかがめなければならない窮屈な階段や、下りの人とすれ違わねばならない危うい個所もあり、思ったより大変だった。

 だが、上りつめたクーポラの上からの眺めは、フィレンツェの赤い屋根の街並みが広がって、汗ばんだ顔に風が心地よかった。しかし、2日後、ローマで筋肉痛になった。

      ★

<政庁ヴェッキオ宮とウフィツィ美術館>

 ドゥオーモから南へ400mほど、かつてローマの退役兵たちが造った道をアルノ川の方へ歩くと、フィレンツェの政治的中心となったシニョーリア広場に出る。

 石畳の広々とした中世的な広場だ。中央に、コジモ1世の騎馬像。

  (ヴェツキオ宮)

 厳つい城塞のような建物は、14世紀初頭にゴシック様式で建てられたフィレンツェの政庁・ヴェッキオ宮。ヴェネツィアのドゥカーレ宮の瀟洒な建物とは全く対照的だ。

 入り口の上には、ドナテッロ作の楯に前足をかけた獅子の像。建物の前には、ミケランジェロ作のダビデ像(コピー。本物はアカデミア美術館)が立つ。

 時間は午後4時前。予約していないが、この時間帯ならウフィツィ美術館はあまり並ばずに入れるのではないか。そう思って行ってみると、すいっと切符を買って入ることができた。

 前回、ツアーで訪ねたときは、美術館を1周するぐらいの大行列ができていて、しかもそのほとんどが日本人のツアー客。ペアや家族でやってきた欧米の観光客があきれて引き返していた。自分もその日本人ツアーの一人だったが、こんなことをしていたら日本人は嫌われるに違いないと思った。高度経済成長でにわかに豊かになった日本人が、旅行社のツアーに入ってヨーロッパに押しかけた時代だった。

 ウフィツィ美術館の建物は、専制君主としてトスカーナ大公国を支配するようになったコジモ1世(1519~1574)が、公邸であるヴェッキオ宮の横に、メディチ家とフィレンツェ公国の事務を司る役所として建てさせた総合庁舎。ウフィツィとはオフィスの意らしい。

 『地球の歩き方』のウィッツィ美術館の見どころに沿って、3階の45室の展示をさっと一巡した。ボッティチェリの「春」「ヴィーナス誕生」はやはり美しい。

 (絵葉書から「ヴィーナス誕生」)

 ポッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロらは、ブルネレスキやドナテッロらより若い世代。この世代を庇護したメディチ家の当主は、ゴジモ・デ・メディチの孫のロレンツォ・デ・メディチ(1440~1492)。ロレンツォ・イル・マニーフィコ=偉大なるロレンツォと呼ばれた。

 昔、読んだ辻邦生『春の戴冠』は、ポッティチェリを主人公に、ダ・ヴィンチやロレンツォ、さらに修道士サヴォナローラが登場し、フィレンツェの「春」とその落日を描いた長編小説だった。サヴォナローラは、ルネッサンスを異教的・背徳的とし、「神の声を聞け!! 終わりの日は近い!!」と叫ぶ。「終わりの日は近い」 ── 終末論は形を変え、キリスト教からも離れて、しかし今もヨーロッパ人には根強い。

 2度目の見学なので、ざっと鑑賞して、そのあと、美術館のカフェでグラスワインを飲んだ。窓からヴェッキオ宮の塔が間近に眺められた。

      ★

<ミケランジェロ広場からのフィレンツェの夕景>

 ここまでは、前回のツアー旅行で一度見学していたフィレンツェ観光のお決まりコースだ。

 今回の旅の目的の一つは、アルノ川の対岸の丘のミケランジェロ広場から眺めるフィレンツェの夕景・夜景の写真撮影である。こういう望みは、ツアーではなかなかかなえられない。

 グラツィエ橋に出て、13番のバスでミケランジェロ広場へ。

 広場のテラスから、眼下にアルノ川、そしてフィレンツェの街並みが一望できた。

 日が暮れなづんでいくにつれ、しんしんと冷えてきた。ダウンコートでも冷気がしみる。何しろヴェネツィアは雪だった。寒さに耐えながらライトアップを待った。

 治安が気になったが、広場に観光客はちらほらで、少ない。これでは、スリやかっぱらいも出動しないだろうと思うことにした。

(アルノ川とヴェッキオ橋)

  (ドゥオーモ)

 次々とライトが灯り、ルネッサンスの街が浮かび上がってくる。

 上の写真の左がヴェッキオ宮、右がドゥオーモ。山並みの一部が白く見えるのは積雪だろう。

 (ドゥオーモとサンタ・クローチェ教会)

 上の写真のドゥオーモの右手前は、サンタ・クローチェ教会だ。

 寒さに震えながら写真を撮った。

      ★

 帰りは、逆方向に回るバスに乗る。バスに乗り鉄道駅へ向かったが、間違えて1つ手前で降車してしまった。ホテルは鉄道駅のそばだから、ここからそう遠くないはずだ。だが、東西南北がわからない。ほとんど日の暮れた街角の街灯の下でガイドブックのマップを見ていると、日本語で声をかけられた。さっきウイッツィ美術館で日本人観光客をガイドしていた中年の日本人女性だ。フィレンツェに住んで、ガイドをされているのだろう。私も同じ方角へ行くからと、駅まで一緒に歩いてくれた。助かった。方位磁石はめったに使わないが、いざというとき、必要になる。

 駅前のスーパーで買い物をして、ホテルに帰った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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雪のヴェネツィア … 早春のイタリア紀行(8)

2020年12月06日 | 西欧旅行…早春のイタリアの旅

<雪のヴェネツィア> 

 2010年3月10日。

   今日はヴェネツィアから特急列車でフィレンツェへ移動する。フィレンツェでは2泊し、今日の午後と明日1日を見学にあてている。

 昨夜、夜半、眠りながら窓を打つ突風の音を聞いた。

 朝、ホテルをチェック・アウトし、玄関を出て、驚いた。雪!! 積雪だ。

 10センチ以上も雪が積もっていた。

 雪道をスーツケースを引いて歩く。とりあえず水上バスの「カ・ドーロ」駅へ。水上バスは動いているだろうか??

 見上げると、雪はまだ降り続け、無数の雪片が建物の間の空から舞い降りてくる。寒い。

 水上バスが乗客を乗せて霧の中から現れ、ほっとした。… しかし安心はできない。フィレンツェ行きの特急列車は、大幅に遅れるかも …。

 水上バスのテラスに出て、寒風の吹く中、写真を撮った。

  (水上バスから雪の大運河を撮影)

 風は冷たく、雪が舞い、手が凍えた。欧米人の乗客は誰も写真を撮ろうとしない。だが、ヴェネツィアの大運河と雪の組合せは、めったにないシャッターチャンスだ。

 大運河に臨む「サンタ・ルチア」駅の前も、一面の雪景色だった。

 

  (雪の「サンタ・ルチア」駅前)

 ヨーロッパの鉄道駅はホームが横にずらっと並び、自由に入ることができる。改札は車内で行われる。

 終着駅「サンタ・ルチア」駅のホームは10列近くもあるだろうか。何本かの列車が雪に濡れて停まっていた。

 フィレンツェ、ローマ方面に行く特急はどのホームから出発するのだろう??

 電光掲示板の表示に注意した。

 フィレンツェ行きはなかなか表示されない。雪のため遅れているのだろう。気になって、ホームを歩き、停車している列車の行き先を確認して回った。

 時間になっても、何の表示も出ない。飛行機なら「delay」の表示ぐらい出るところだ。

 切符売り場に行って聞くと、もう出発したと言う。ええっ!!

 日本で購入した電子チケットを見せると、これは正規料金だから、少しの手数料で1時間後の列車に乗ることができると言う。

 旅は、いろいろ起きる。それでも、時間どおりに出発しているなら、何よりだ。最低、今日中にフィレンツェの宿に着ければいい。

 1時間後の列車でフィレンツェに向かった。イタリア鉄道の誇る特急は、2時間でフィレンツェに着く。

   ★   ★   ★

   「早春のイタリア紀行」と題しながら、ここまでずっと「ヴェネツィア紀行」だった。今思えば、「ヴェネツィア紀行」としてまとめるべきだった。しかし、書いているなかで、話が広がっていくこともある。

 最後に、ヴェネツィアを愛した3人の文学者・作家の文章を紹介して、この拙いヴェネツィア紀行の掉尾としたい。

<饗庭孝男 … 空と水の間に>

 「かつてこの町に来たクロード・モネはもっと早く来るべきだと嘆いたという。反映と動き、空と水の間にあるこの「印象派」そのもののような町にいれば、モネならずとも、この美しい幻惑と影深い魅力に心を奪われるに違いない」(『ヨーロッパの四季』東京書籍)。

       ★

<須賀敦子 … 街自体が「劇場」>

 「年月とともに、私は、ヴェネツィアという島=町が、それまで私が訪れたヨーロッパの他のどの都市とも基本的に異質であると思うようになっていた。そして、その原因の一つとして私が確信するようになったのが、この都市自体に組み込まれた演劇性だったのである。ヴェネツィアという島全体が、絶えず興行中の一つの大きな演劇空間に他ならないのだ。16世紀に生きたコルナーロはヴェネツィアに大劇場を設置することを夢見たが、近代にいたって外に向かって成長することをしなくなったヴェネツィアは、自分自身を劇場化し、虚構化してしまったのではないだろうか。サン・マルコ寺院のきらびやかなモザイク、夕陽に輝く潟のさざ波、橋のたもとで囀るようにしゃべる女たち、リアルト橋の上で澱んだ水を眺める若い男女たち、これらはみな世界劇場の舞台装置なのではないか。ヴェネツィアを訪れる観光客は、サンタ・ルチアの終着駅に着いたとたんに、この芝居に組み込まれてしまう。自分たちは見物しているつもりでも、実は彼らはヴェネツィアに見られているのかもしれない。かつて、私がヴェネツィアのほんとうの顔を求めたのは、誤りだった。仮面こそ、この町にふさわしい、ほんとうの顔なのだ」(『ミラノ 霧の風景』白水社から)。

 ヴェネツィアはそれ自体が「劇場」だとはよく言われる。

 ヴェネツィアが本格的に妖艶な美女に変身していったのは、16世紀以後である。

 それまでのヴェネツィアは … やはり、勇壮な海洋都市国家だったと言っていい。フィレンツェなどと違って、共同体としてのまとまり、「意思」があった。

 しかし、大航海時代が始まると、地中海貿易では食っていけなくなる。ポルトガルやスペインが、続いてオランダやイギリスが、新大陸へと帆船を乗り出して行ったのだ。

 元老院はヴェネツィアの将来について、知恵をしぼった。例えば、技術と技術者を呼び込み、ものづくりをはじめてみた。今も土産物として売られるヴェネツィアン・グラスはその名残りである。織物業などにも取り組んだが、結局、ヨーロッパの他の地方の安い労働力に勝てなかった。有り余る労働力があるわけではない。

 ヴェネツィアで培われたヴェネツィアの資源、魅力・売りは何か??

 貴族、市民が一体となって取り組んだのが観光業だった。

 所有する商船や軍船、それに船乗りとしてやってきた経験・知識・技術を活用して、警護付きの聖地エルサレム巡礼ツアーを企画したのだ。これは相当にヒットした。ヨーロッパ世界も少し裕福になっていたから、異なる世界を見たいという旅への欲求があった。それに加えて、12世紀以来の巡礼願望 …… 教皇庁はエルサレムに巡礼すればこれまでの全ての罪が免罪されるとしていた(それ以後の罪は、また、別ですぞ!! )。イスラム圏も、十字軍ではなく、カネを落としてくれる観光客なら一応の安全は保障してくれる。旅行業の元祖はヴェネツィアなのだ。ツアーに参加するために、多くのヨーロッパ人がヴェネツィアを訪れるようになった。とりわけ多かったのは英国人だったようだ。

 当然のことながら、お客さまに、もっと長くヴェネツィアに滞在し、もっとヴェネツィアにおカネを落としてもらいたい。

 幸いなことに、教皇庁の免罪条件には「対象」(聖地・聖遺物)ごとのランク付けがあって、免罪の点数が決められていた。現代のミシュランのランク付けのようなものだ。サン・マルコ寺院の聖マルコの遺骸への参拝は相当に点数が高く、参拝すれば何年分かの罪が帳消しになる。自分の死後、天国に近づくのだ。その他にも、ヴェネツィアの街角ごとに建つ古いキリスト教聖堂には、海外雄飛の過程で集められた聖遺物がある。ペテロが処刑されたときの十字架の木材の破片とか、マグダラのマリアのドレスの切れ端とか … 。それらを巡れば、こつこつと免罪点を稼ぐことができる。それに、たいていの聖堂にはルネッサンス以後の巨匠の描いた素晴らしい宗教画もある。

 ヴェネツィアは、ヴェネツィアの街巡りの魅力をアピールしたのだ。例えば観光客・巡礼の中で貴族やお金持ちと見るや、ヴェネツィア貴族や豪商たちが私邸を宿舎として提供し、接待し、自ら街をガイドするというふうに、街を挙げて取り組んだ。

 建築家を招いて、改めて都市美を造りだしていった。街そのものを華麗にドラマティックに装っていったのだ。

 それに加え、種々のカーニバル、仮面舞踏会、カジノ、オペラ、そして高級コールガールも生み出していった。こうしてヴェネツィアは、仮面の似合う、どこか謎めいた、耽美的で、妖艶な美女に変貌していったのだ。(この項は塩野七生『海の都の物語』を参照した)。

        ★

<饗庭孝男 … 「仮面」の街>

 「夜、サン・マルコ広場の、たとえばカフェ『クァードリ』にすわり、陽気に盛り上がるバンドの音楽を聴いているとき、私の脳裡をかすめるのは、ヴェネツィアのこのような歴史である。かつて中世の頃、この壮麗な古代的広場で、遠く黒海沿岸から連れられてきた奴隷市が開かれていたのであった。ビザンチンの禁欲的な書割りの中で、嘆かわしい売買が公然と行われていたのである。この町はローマ教皇の命に背いてキリスト教徒の奴隷も売り、禁じられていたイスラムとの交易にも精を出した。ヴェネツィア自身が「仮面」だったのである。しかも街角によく見かける聖母マリア像への崇拝とそれは決して矛盾することもなく存在していた」(『ヨーロッパの四季』から)。

 饗庭孝男氏はここで、現代の価値観でヴェネツィアの歴史を裁いているわけではない。背徳的なものも含んだヴェネツィアという街の耽美的な世界に思いをめぐらせているのだ。

 ヴェネツィアにまだ活力があったころ、彼らが運ぶ商品の一つに奴隷もいた。西ヨーロッパ世界では、スラブ系の若い女性の美しさは神秘的だった。

 ローマ教皇は、キリスト教徒を奴隷売買してはいけないと言い、また、ヴェネツィアがイスラム教徒と交易することを非難した。

 そして、西ヨーロッパ世界に十字軍の結成を呼びかけた。聖地エルサレムを奪還せよ、かの地に行き異教徒を殺し、異教徒から奪い、異教徒を犯せ。そう神は望んでおられる。

 啓蒙的な皇帝フリードリッヒ2世は、やはり啓蒙的なスルタンと交渉し握手して、1滴の血も流さずエルサレムを(平和裏に)「奪還」し凱旋した。現代でもできないことをやってのけたのだが、ローマ教皇はフリードリッヒ2世をキリスト教から破門した。なぜ異教徒の血を1滴も流さず帰って来たのかと。

 巨悪は、仮面など必要とせず、「正義」を振りかざす。

 7つの海に乗り出した英国商人は、部族抗争を繰り返すアフリカに武器を運んで売り、部族戦争の結果生じた大量の捕虜を買い取った。大量の奴隷たちが新大陸へ運ばれて売られ、奴隷たちの過酷な労働によって綿花畑が経営された。彼らの過酷な労働なくして、今のアメリカ合衆国の繁栄はなかったとも言える。

 人は誰しも罪深い存在だから「仮面」なしでは生きられない。だが、巨悪は、仮面など必要としない。 

       ★

<須賀敦子 … 冬のヴェネツィアの女たち>

  先のブログに、12月の終わりのヴェネツィアの旅のことを書いた。

 時差で眠れず早く目が覚め、朝食には早すぎ、小さなホテルの1階の窓から、カーテン越しにホテルの前の小さな広場を眺めていた。すると、高い所に鳩が巣を作る向かいの古い教会の壁の横から、1人、2人と、人が出てきた。あんな所に路地があるんだと初めて気づいた。男も女も一様に急ぎ足で、観光客とは違う雰囲気があった。その光景が不思議に今も脳裏に残っている。

 次は、ヴェネツィアを描いた須賀敦子の文章の中でも、いちばん好きな文章である。

 「ある年の12月、もう年の暮れも近いころにある会合があって、ヴェネツィアを訪れた。観光客のいない季節のヴェネツィアははじめてだった。参加者は朝8時半に会場に着くように指示されていた。8時すぎ、ホテルを出たところで、私は不思議な光景に出くわした。それはとりわけ底冷えのする朝で、凍りつくような空気の中に濃い霧がしっとりと立ち込め、つい目の前の家具店のショーウィンドウが、霧の中で見え隠れしていた。だが、私を驚かせたのは霧ではなかった。

 ホテルと隣の建物の間には、人と人がやっと擦れ違うことのできるくらいの狭い路地があって、それを通り抜けると、大運河の水上バスの船着場に出るはずだった。その路地に入ろうとしたとき、向こうから誰か人が出てきた。一人、また一人、それは、出勤途上の男女らしく、みな、せわしげにホテルの前の広場を過ぎていった。私を驚かせたのは、その一群の中の女たちが、一様に口を閉ざして、視線を石畳に落として、足早に歩いていたことだ。夏の日に耳をくすぐったあの甲高い笑いさざめきは、もう、どこにもなかった。そして、その服装。大半が、黒、あるいは濃い緑色の裾の長いマントを着て、膝までのブーツを履いていた。私は数年前のルチッラ(須賀の女友だち。ヴェネツィア出身)の服装を思い出した。あのとき、少々芝居がかっていると思った彼女の服装は、ヴェネツィアの女たちが、この冷たい冬の気候から身を守るために考え出した武装だったのだ。芝居の季節はとっくに過ぎていたが、彼女たちは、登場人物であることを忘れず、しゃんと背筋をのばして、ひとりひとりが、それぞれ振り当たられた舞台の場所をめざすかのように、黙々と足早に歩き去っていった。それは、なぜか心を打たれる光景だった。冬のヴェネツィアの女たちに魅せられて、私は立ちつくした」(ミラノ 霧の風景』から)。

        ★

<塩野七生 …  ヴェネツィア共和国の終焉>

 最後に、わが愛するヴェネツィア共和国の終焉についても書いておきたい。

 国民一人一人が国家というものを軽んじていると、国家といえども次第に衰えていき、ある日、突然、終焉がやって来る。その結果、自分が「世界市民」などという美しいものになれるわけではない、ということをぜひ知っておきたい。

 国力衰えた末期のヴェネツィア共和国は、かつての経済力のみか、貴族も市民も気概を失って、陸軍を維持することができず、非武装・非同盟政策を取っていた。それでも、海賊対策として、海軍は残していた。(海賊はこの時代にも活躍していた。英国海軍の源が海賊だったとはよく言われることである。)。

 フランスの若い将軍であったナポレオンが大軍を率いて、ヴェネツィアの本土側領土を横切って敗走するオーストリア軍を追ってやってきた。

 だが、「自国内でのオーストリア、フランス両軍の勝手な振舞いに対するに、ヴェネツィアは、言葉しか持っていなかった」。

 ヴェネツィアの元老院は、老練な貴族外交官を使者としてナポレオンのもとに送ったが、年下のナポレオンによって鼻で冷淡にあしらわれただけだった。

   「彼の説明する非武装中立は、法を尊重してくれる相手とでなくては成り立たない」のだった。

 それは、今も、南シナ海において、フィリピンやヴェトナムの海域を力で占拠していく中国の振舞いを見ればわかることだ。かねてからオーストラリアにも浸透して行っている。オバマは言葉で非難しただけだった。軍事費を膨張させる中国に対して、オバマの8年間はひたすら軍事予算を削る8年間だった。中国の防衛線は、台湾の東の太平洋上である。その意思は固い。

 ヴェネツィア議会は右往左往しながら、一度は再軍備を決議したのだ。

 「だが、遅すぎたのである。金も兵も集めることができても、それを駆使するに足る数の人間が不足していた。100年の平安は、ヴェネツィア共和国から、そのようなことのできる人間を、知らず知らずの間に、駆逐していたのである」。

 徴税をし、徴兵をして、さて、どこを防衛線として断固、戦い抜くのか?? もちろん、大軍を相手にこちらから挑む必要はない。ここは守り抜くぞという戦略と態度が大切なのだ。古来、潟がヴェネツィアの自然の城壁だった。茫々と広がる潟の中の本島に閉じこもれば、フランス海軍に対して、ヴェネツィアはまだ死闘を繰り広げることができる。その覚悟を示すことが必要だった。

 だが、この時代、ヴェネツィアは本土側にも領土を広げ、元老院議員(貴族)たちは本土に農園をもつ領主になっていた。

 どこを死守するのか、ヴェネツィアはその防衛線すら一致点を見いだせなかった。

 果敢に決断し、断固とした戦略を立て、全軍を団結させて戦い抜く、肝のすわった層としてのリーダーたちが、この時代のヴェネツィアにはいなかったのだ。

 ヴェネツィアが右往左往しているうちに、遂にナポレオンは宣戦布告を発してきた。

 慌てふためきただ追い詰められた共和国評議会は降伏する。降伏を決定するため、最後の議会がドゥカーレ宮殿で開かれた。

 塩野七生の『海の都の物語』は、そのときの一つのエピソードを紹介している。

 「聖マルコの船着場では、抗戦するなら給料なしでも参加すると申し出たにもかかわらず、故国へ帰るように言い渡されたスキアヴォーニたち(ヴェネツィア船に雇われていたアドリア海沿岸の船乗りたち)が、用意された船に乗り始めていた。

 会議場では、無抵抗で降伏するヴェネツィア共和国の、自国の市民に対する布告文の是非が評決中であった。その時、時ならぬ銃砲の音がひびいた。議員たちは肝をつぶし、われ先にと逃げようとした。フランス軍の来襲かと思ったのである。数名の議員の、『惨めな振舞いは、いい加減にされたがよかろう!!』の声に、やむをえず自席にもどったものの、鉄砲の音が、去り行く船上に整列したスキアヴォーニたちが、別名をスキアヴォーニの岸とも呼ばれる聖マルコの船着場にひるがえるヴェネツィア共和国の国旗に向かって、最後の礼砲を撃ったものであるとわかるまでは、安心しきれなかったのである。

 投票の結果は、賛成512、反対20、不明5である。

   ヴェネツィア共和国は、これで死んだ」。

 「1797年5月16日、4千のフランス兵、ヴェネツィアに進駐。一度たりとも武装した外国兵を入れたことのなかったヴェネツィア(本島)に上陸したフランス軍は、聖マルコ広場の中央に、『自由、平等、博愛』と記した札を立てることを命じた。フランス占領のはじまりである。

 同1797年10月18日、カンポ・フォルミオの条約によって、ヴェネツィア共和国領は、オーストリアとフランスの間で分割され、本土の大部分とギリシアの島々はフランスに、本土の一部とヴェネツィアの町、そして、イストリア、ダルマツィア地方は、オーストリア帝国領下に入る。

 翌19日、去るフランス軍に代わって、オーストリア軍進駐。

 1805年12月26日、皇帝ナポレオン、ヴぅネツィアを、自分の支配下のイタリア王国の一部に編入。

 1814年5月30日、ナポレオンの失脚により、ヴェネツィア、再びオーストリアの占領下に入る。

 1866年8月26日、オーストリア、ヴェネツィアをフランスに譲渡。

 同1866年10月4日、統一されたイタリアに編入」。(『海の都の物語』から)。

 「非武装・非同盟」などというと美しく聞こえるが、いざというとき、それがいかに醜く悲惨なものであるかを、塩野七生のヴェネツィア800年の物語は、最後に教えてくれる。

 

 ※ 以上で、ヴェネツィアの話は終わりとします。

 

 

 

 

 

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春まだ遠いヴェネツィア … 早春のイタリア紀行(7)

2020年11月29日 | 西欧旅行…早春のイタリアの旅

(スキアヴォーニ河岸とドゥカーレ宮殿と鐘楼)

 遥々とイスタンブール、黒海から帰ってきた商船も、エジプトのアレキサンドリアでモーロ人を相手に商取引をしてきた商船も、船上から感無量の思いでこの美しい都を眺め、サン・ザッカーリアの港に入港したことだろう。

 私たち現代の観光客も、水上バス(ヴァポレット)の駅「サン・ザッカーリア」で下船する。たとえ「水上バス」であろうと、観光客は海からサン・ザッカーリアの埠頭に上陸して、観光を始めるべきなのだ。なぜならここがヴェネツィアの正門なのだから。

 下船して、対岸のサン・ジョルジョ・マジョーレ島の一幅の絵のような景色をカメラに写し、スキアヴォーニ河岸をしばらく歩くと、水際に2本の石柱が聳えている。そこを右に入ればピアツェッタ (サン・マルコの小広場)。この小広場がヴェネツィアの玄関口に当たる。

 (ピアツェッタ = サン・マルコの小広場 )

 小広場に入れば、右に華麗なドゥカーレ宮殿があり、左前方にはレンガ造りのサン・マルコの鐘楼。そして、その先に、「世界で最も美しい広場」と言われるサン・マルコ広場が現れる。

 この石畳を敷きつめた広場がヴェネツィアの表座敷・客間である。

 ヴェネツィア共和国の政治の中心であるドゥカーレ宮も、宗教的権威であるサン・マルコ寺院もここに並び建っている。

        ★

 3月9日。終日、ヴェネツィアを見学。

 春の訪れにはまだ少々日数がかかりそうな、曇天の寒々としたヴェネツィアだった。

 ホテルから歩いて5、6分の「カ・ドーロ」駅から水上バスに乗船。何はともあれサン・マルコ広場へと向かう。今回は4回目のヴェネツィアだから、もうあれやこれやと見て回ることはしない。「アドリア海の女王」に再会・謁見できたら、それでよいのだ。

 「サン・ザッカーリア」で下船する。

          ★

<共和国政治の中心・ドゥカーレ宮殿>

 「大聖堂の隣にそびえ建つゴシック様式の壮麗な建物は総督府、…… ヴェネツィア共和国の権力はここに集中している」。

 「国家元首に当たる総督(ドージェ)の権威は絶対化され神秘化され、その地位は象徴化されて、フィレンツェの正義の旗手のようにあれこれのボスに顎で使われることはない」。

 (だが、)実権は …… 元老院が、外交、内政、通商、国防に関するいっさいの問題を取り仕切り、その下に置かれた政府諸機関 …… 中でも『十人委員会』と称する公安・情報組織は強力だった。」(藤沢道郎『物語イタリアの歴史』中公新書)。

 ちなみに元首(ドージェ)は、元老院と大評議会の投票によって選出された。若い頃から才覚を発揮し、元老院に所属するさまざまな政府機関を歴任して、内政、軍事に活躍。長い経歴の中では、戦いの指揮官として修羅場をくぐり、或いは、在オスマン帝国ヴェネツィア大使として、かの国のスルタンや宰相と渡り合うなどの経験も積んできた。つまり、ヴェネツィアの国益のために長年尽くしてきたヴェネツィアの顔ともいうべき人物が選ばれた。任期は終身。残りの人生を元首として、このドゥカーレ宮殿に住み、元老院や十人委員会を運営。諸外国の大使に謁見もし、町中を挙げての祭の主役も務めた。

  (船上から見るドゥカーレ宮殿)

 ドゥカーレ宮殿 (パラッツォ・ドゥカーレ) の開館は9時。少し時間があったから、サン・マルコ広場の周辺を歩く。

 ゴンドラ乗り場のあるオルセオロ運河に行くと、大学生くらいの年齢の中国人の女子たちが大きな声ではしゃぎながらゴンドラに乗り込んでいた。ヴェネツィアも様変わりし、中国人観光客が押し寄せる時代になったようだ。

 9時になり、ドゥカーレ宮殿へ。

 中庭から入り、「黄金階段」を上がって、4階から下の階へと見学しながら進んで行った。

 広大な大評議会の部屋や歴代ドージェの肖像画が並ぶ部屋などに、ティントレット、ティツィアーノ、ヴェロネーゼなどルネッサンス以後のヴェネツィア派の巨匠の描いたヴェネツィアの歴史を語る大壁画や宗教的な天井画があり、抑制された豪華さがあった。

 今回は、初めて溜息橋を渡り、政治犯を幽閉したという石牢にも行ってみた。

        ★

<聖マルコの遺骸を納めるサン・マルコ寺院> 

 ヴェネツィアに来た以上はと、ヨーロッパ最古のカフェ「カフェ・フローリアン」に入ってひと休みし、温かいコーヒーを飲んで暖をとる。

 そのあと、サン・マルコ寺院へ。

 ヴェネツィアの政治の中心がドゥカーレ宮殿なら、宗教の中心はその北に隣接するサン・マルコ寺院(パジリカ・ディ・サン・マルコ)である。

 「もともと総督の私設礼拝堂として誕生したもので、アレキサンドリアからこっそり盗み出した聖マルコの遺骸をここに運び、守護聖人を祀る、街の宗教中心とした」。

 「ローマの法王庁とつながるカテドラルは、街の東側のカステッロ地区のはずれにあるサン・ピエトロ教会に追いやられていた」。

 「こうして政治的にばかりか、宗教的にもヴェネツィア共和国の自由と独立が獲得されたのである」(以上、陣内秀信『ヴェネツィア ─ 水上の迷宮都市』講談社現代新書)。

 過去のヴェネツィアへの旅では、サン・マルコ寺院は日曜のミサの最中で入場できなかったり、観光客でいっぱいで落ち着いて見学できなかったりした。今日、初めて丁寧に見て回ることができた。それだけでもヴェネツィアを再訪した甲斐がある。

 上に引用した「アレキサンドリアからこっそり盗み出した聖マルコの遺骸をここに運び、守護聖人を祀る、街の宗教中心とした」とは、どういうことか??

 ── 初期キリスト教の中心地は、ローマとエジプトのアレキサンドリアだった。第1回公会議で、イエスは神か人かを論争した神学者のアリウスとアタナシウスも、アレキサンドリアの神職だった。

 しかし、7世紀の初めにアラビア半島で興ったイスラム教は、燎原の火のように中東からアフリカ大陸北岸の地中海世界を席巻していき、アレキサンドリアもたちまちイスラム勢力の支配下に置かれた。

 828年、2人のヴェネツィア商人が船を仕立ててアレキサンドリアに商売にやって来た。2人は街で、スルタンが宮殿を拡張するため周辺の建物とともに聖マルコの遺骸が安置されているキリスト教の教会も取り壊そうとしているという情報を耳にした。

 聖マルコは新約聖書の「マルコによる福音書」の記者で、カソリック世界では12使徒に匹敵する聖人中の聖人である。

 2人は教会の僧たちを説得して、遺骸を譲り受けた。しかし、港では役人たちの検査がある。2人は聖マルコの遺骸の上に、イスラム教徒が忌み嫌う豚肉の塩漬けを山のように置き、一番上には茹でた豚の頭を乗せて運んだ。港の役人たちは、中身が船旅の食料となる豚肉と聞き、ろくに調べもしないで船に乗せることを許可した。

 カソリックの国では、各都市も、各同業組合も、各家も、それぞれ自分たちの守護聖人を祀っている。敗戦後、日本人は八百万の神を拝むとバカにした欧米人や西洋かぶれした日本人がたくさんいたが、カソリック圏を旅すると、何だ、おまえたちこそ、八百万の神々ではないかと言いたくなるほど、行く先々で聖人を祀り、今日は○○聖人の日、明日は△△聖人の日と、カレンダーは埋め尽くされている。

 それはともかく、…… 聖マルコは聖人中の聖人である。ヴェネツィアでは、この2人の英雄を歓呼で迎えた。

 そして、これまでヴェネツィアの守護聖人であった聖テオドーロはナンバー2に格下げされ、聖マルコが第一守護聖人となった。

 その聖マルコの遺骸を納めるために建てられた聖堂が、サン・マルコ寺院である。バチカン立でも国立でもない。もともと、時のドージェ(元首)が私費を費やして建てたパジリカである。

 かくして聖マルコを表徴する有翼のライオンはヴェネツィア共和国の国章となり、国旗に描かれ、ヴェネツィアの全ての商船や軍船の上に翻るようになった。ヴェネツィアの船が行く港々にも、大使館にも、有翼のライオン旗が翻る。

 こういうわけで、聖マルコの遺骸を祀るサン・マルコ寺院は、ローマ教皇派遣の司教がいるカテドラルなどよりも人々の信仰を集めたのだ。その結果、ヴェネツィア人はカソリック教徒であったが、教皇様の下知よりも、まずはドージェや元老院の決定の方を優先したのである。

 ヴァチカンが異端としたガリレオの主張もヴェネツィアでは自由に印刷・販売された。魔女狩り裁判がヨーロッパを席巻した時代もあったが、ヴェネツィアで魔女として処刑された人は1人もいない。

 ── さて、サン・マルコ寺院でいちばん大切な所は、聖マルコの遺体が納められているという中央祭壇である。「うん。ここか… 」。もちろん敬意をもって対するが、そこに本当に聖マルコの遺骸があるのかどうか、不信心の私は心に確信はもてないでいる。

 入場料を払って、その光背を飾るパラ・ドーロも拝観した。ビザンティンの職人たちを呼び寄せて作らせたビザンティン美術の傑作で、1927個の大きな宝石を散りばめた宝物は、決してけばけばしくなく、気品があった。

 入場料を払って、2階にも上がって見学した。

 4頭の青銅の馬は、第4次十字軍のとき、コンスタンティノープルの古代競馬場にあったものを、ドージェのダンドロが持ち帰ったもので、BC2~4世紀頃の作品だという。

    (4頭の馬のブロンズ像)

 馬の彫像は難しいと言われる。まことに生きた馬のようで、古代美術の傑作であろう。

 2階からは、天井や壁のモザイク画がよく見えた。総面積4000㎡というモザイク画の金泥地に描かれた赤や青の色彩は豪華で美しい。

 (壁面を飾るモザイク画)

 ゲルマン民族が侵攻し、西ローマ帝国が滅んだ後の中世前期(5~11世紀)の西ヨーロッパは、経済力も、文明・文化の上でも停滞・後退の時代だった。東ローマ(ビザンティン)帝国やイスラム圏の方が、科学技術、学問、文化の水準において圧倒していた。西ヨーロッパに大きな変革が起きるのは12世紀である。

 ヴェネツィアは商取引の上でビザンティン帝国(その後はオスマン帝国)との関係が深く、早くからビザンティン文化やイスラム文化に触れていた。

 5つのドームのあるサン・マルコ寺院の建築様式も、内部を飾るモザイク画をはじめとする装飾の数々も、すべてビザンティン風である。 

       ★

<サン・マルコ寺院のバルコニーから>

 サン・マルコ寺院の2階のバルコニーからの眺望は素晴らしい。

 サン・マルコ広場が見下ろせた。

 写真は「カフェ・フローリアン」に向き合う「カフェ・クアードリ」の側だ。

 石を敷きつめた広場にはテラス席が並べられ、数百羽の鳩が舞い上がり、舞い降りる。しかし、この日、早春のヴェネツィアの空は曇り、気温は低く、カフェ・テラスに人影はない。

    (サン・マルコ広場)

 「列柱の巡る回廊形式の広場というのは、ルネサンスになると各地に登場するが、この時代(12世紀)のヨーロッパには他に類例がなかった」。

 「アーチのある回廊状の広場は、考えてみると、イスラム都市のモスクやキャラバンサライの中庭のつくり方ともよく似ている。…… 路地が複雑に入り組んだ迷路状の商業空間から、幾何学的に造形された輝くサン・マルコ広場に入る空間体験そのものが、迷路状のバザールから見事な幾何学的秩序をもつモスクなどの中庭空間に入るときの体験と、実によく似ているのである。建築の様式のみか、空間の形式がオリエンタルなのだ」(陣内秀信『ヴェネツィア─水上の迷宮都市』)

 バルコニーから、ヴェネツィアの玄関口であるピアツェッタ (サン・マルコ小広場) も見えた。

 小広場の水際には、12世紀にギリシャから運ばれてきた2本の石柱が聳えている。その石柱の上には、ヴェネツィアの守護聖人である聖マルコを表徴する有翼の獅子の像。もう一本にはヴェネツィアの第2聖人である聖テオドーロの像。

 (サン・マルコ小広場の2本の巨柱)

           ★

<サン・ジョルジョ・マジョーレ島の鐘楼>

 ジューデッカ運河に臨むザッテレのレストランで昼食。

 食事の後、水上バスでサン・ジョルジョ・マジョーレ島に渡った。

 サン・マルコ側から見るサン・ジョルジョ・マジョーレ島の風景は、ヴェネツィアには欠かせない景観である。

 (サン・ジョルジョ・マジョーレ島)

 サン・ジョルジョ・マジョーレ教会に入る。

 内部は晴朗で、すがすがしい。ルネッサンス的である。明るく、開放的だが、キリスト教会としての品格を少しも損なうものではない。

 フランスのロマネスクやゴシックの大聖堂の中に入ったときの、外界から遮断された、暗く、宗教的・瞑想的な空間とは、全く対照的であると感じた。

 敷き詰められた小石を踏み、杜の中に小鳥の囀りを聞き、頭上の葉のそよぎに微かな風を感じる、日本の神社の清々しさに似ていると思った。

 あちらこちらにヴェネツィア派の巨匠ティントレットの絵が掲げられている。

 エレベータで鐘楼に上がることができた。

 イタリアでは、なぜか、礼拝堂と、鐘楼と、洗礼堂とが別々の建物として造られる。

 鐘楼の上からは、対岸のドゥカーレ宮殿、サンマルコ広場とその鐘楼、そして、ヴェネツィアを構成する小さな島々などが、潟の広がりとともに180度の展望で見渡せた。

(ジューデッカ運河と大運河が合流して広がる)

  (ジューデッカ運河)

 西ローマ帝国の滅亡後、452年にアッティラに率いられたフン族がヨーロッパを荒らした。この辺りにすむ一部の人々は海へ逃げ込んだ。そこは、潮位が上がると水面すれすれになる低湿地で、草が茫々と生えていた。

 危機が去った後、人々はそこに無数の丸太を打ち込み、その上に石を敷いて小島を造り、その土台の上に、広場や教会や家々を造って一つのコミュニティとした。

 アッティラ以後も、人々の移住は約200年に渡り、何回にも分かれて行われた。島々は、寄せ木細工のように広がっていった。

 8年前にヴェネツィアを訪れたときは、運河を隔てた向かいのサンマルコ広場の鐘楼に上がった。6月のヴェネツィアは日差しが強く、水がきらめき、広大な潟の中にサン・ジョルジョ・マジョーレ島が小さく見下ろせた。

 今日、春にはまだ遠いヴェネツィアの塔の上は、風が強く、寒くて、長く眺望を楽しむことはできなかった。

        ★

<装飾的に変貌したリアルト橋>

 再び水上バスに乗り、ジューデッカ運河回りでローマ広場まで行った。ジューデッカ運河は大運河(カナル・グランデ)より広々として、家並みは庶民的になり、景観に鄙びた趣がある。

 ローマ広場からは、大運河を下り、リアルト橋へ向かった。

 リアルト橋は、壮麗な大理石の太鼓橋である。

 かつては跳ね橋で、下を商船が通過していた。しかし、商船が大型化して大運河に入って来なくなり、16世紀の終わりにはこの街を飾る大理石の石橋に変貌した。ヴェネツィアは徐々に観光の街に変貌していった。

 橋の上に店が並んでいる。中世の昔はこういう橋が普通だったらしい。

 (リアルト橋を渡る)

 今もこのようなスタイルを残す橋は、フィレンツェのヴェッキオ橋とドイツのクレーマー橋だけだそうだ。

 橋を渡ると魚市場と青物市場がある。

 リアルト橋の上から、大理石の欄干にもたれて大運河を眺める。

   (大運河を望む)

 「大運河沿いには商人貴族の夢のように美しい館が立ち並び、まるで魔法の国に来たかのような幻覚を旅人に与える。華奢な螺旋円柱、薔薇窓を背にした優雅なバルコニー、対に並んだ可愛い小窓 …… ビザンティン、ゴシックの2大様式がここでは完璧に融合し、たぐい稀な美しさをたたえている」(藤沢道郎『物語イタリアの歴史』)。

 これらの邸宅を眺めるには、大運河を行く水上バスに乗ればよい。まるでパノラマを見るようだ。しかも、朝に、昼に、夕に、光線の加減で趣を異にする。ヴェネツィア観光は、サン・マルコ広場の辺りをじっくり見学したら、あとは水上バスに乗って景色を楽しみ、写真を写す。1日券を買っておけばとても安上がりだ。

        ★

<邸宅と商館を兼ねたカ・ドーロ>

 そういう邸宅の一つを見学しようと、リアルト橋から路地をたどってカ・ドーロへ。宿泊のホテルからも近い。

 「カ・ドーロ」とは、金の館の意らしい。その昔、ファーサードの装飾に金泥が用いられていたので、こう呼ばれていた。名門コンタリーニ家の邸宅兼商館として、15世紀に建てられた。

 この種の邸宅を「パラッツォ」と呼ぶこともあるが、本来パラッツォ(宮殿)は、ドージェの宮殿である「ドゥカーレ宮殿」のことを指す。貴族らの邸宅は「カ」である。

 その当時、このような館の表口は大運河側で、横付けされた商船から、積み荷は中央ホールを通って中庭に運ばれた。そこで荷は解かれて仕分けされ、中庭の奥の倉庫に納められたそうだ。

 1階には、そのほか、商談や事務に使われる部屋か幾つかあった。

 特別に大切な客は2階、3階に通された。

 上階には中央ホールがあり、その左右に家人の使用する部屋があった。

 「いちばん見事な建築空間は、2階の中央ホールから大運河側に出た所にあるロッジア(柱廊)だ。…… 主人と来客たちはここで大運河を行く船を眺めながら、歓談したり商談を進めたりしたのであろう」(紅山雪夫『イタリアものしり紀行』(新潮文庫)。

  (カ・ドーロのロッジア)

 大運河を行く船からも、さまざまな意匠を凝らした華麗な邸宅を眺め、邸宅のロッジアからも通り過ぎる商船の積み荷や貴族・豪商の乗ったゴンドラが行き来するのを眺めることができた。

 この街は、そのようにつくられているのだ。

       ★

 その夜は、ホテルでお勧めのレストランを聞いて、近所のバーカリに行った。日本の刺身に似た一品が出され、白ワインが美味しかった。

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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早春のイタリアへ…早春のイタリア紀行(6)

2020年11月17日 | 西欧旅行…早春のイタリアの旅

 フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母堂)とジョットの鐘楼。

 ブルネレスキの造った直径50mの大円蓋は、地上100mの高さに取り付けられている。宿泊したホテルの朝食会場から、間近に眺めることができた。

     ★   ★   ★

<ヨーロッパのホテルのことなど> 

 1996年のイタリア旅行(旅行社のツアー旅行)の後、ヴェネツィアには2回行き自分の足で歩いた。異国の空気を肌で感じるには、思い切って自分の足で歩いてみるのが一番だ。

 だが、フィレンツェやローマはツアーで回っただけ。自分の足でもう一度じっくり歩いてみたい。── これが、2010年の「早春のイタリア紀行」の動機である。

 今回は、航空券も列車のチケットもホテルも、自分でネットを通じて手配した。もちろん、旅行計画そのものも、自分でプランニングした。

 ネットの時代は、飛行機の座席も、空いている席なら好みの座席を選んで予約できる。

 列車は、イタリア鉄道のHPから購入しようとしたが、うまくいかなかった。

  ネットの中で、多くの人がうまくいかないと投稿していた。中に、VISAではなく、マスターカードにしたらうまくいったという報告もある。しかし、マスターカードでやってもうまくいかないという声も。日本で発効したVISAとかマスターカードなどのクレジットカードがイタリア鉄道のHPとうまくフィットしないのではないかという意見が多かった。とにかく、ネット世代の若い人たちがこんなに苦戦を強いられているのだから自分には到底ムリとあきらめ、「ヨーロッパ鉄道」というネットの中間業者を介した。そのためイタリア鉄道の格安チケットをゲットしそこねたが、高く付いたというわけではない。(これは2010年当時の話である)。

 ホテルは、観光に便利な旧市街の3つ星ホテルor4つ星ホテルから選んだ。

 ネットの時代になって、ホテルの場所(マップ)も、料金、部屋のランクや広さ、ホテルからの眺望、設備・備品、口コミの評価、それに写真も見ながら選ぶことができる。本当に便利だ。自分の旅行プランに合ったホテルを探すのも、旅の楽しみの一つである。

 旅行社企画のツアー旅行で泊まるのは、たいてい郊外のホテルだ。部屋の設備や備品などについて「お客さま」からあれこれ苦情が出ないようにするには、鉄筋コンクリート建ての近代的、コスモポリタンの大型ホテルが画一的で無難なのだ。

 旧市街は、街並み自体が保存地区だから、鉄筋コンクリートの大きなビルを建てることはできない。

 旧市街の伝統的なヨーロピアン式ホテルは、貴族の邸宅の内部を資金をかけてリフォームした5つ星ホテルでもない限り、エレベータも年代物の2人乗りの大きさで、ガタピシと音を立てて昇降する。部屋のドアの鍵も開けにくく、初心者はまたフロントに降りて行って、片言英語で訴えなければならない。そういうとき、フロントのお兄さんはさっと階段を駆け上がり、一瞬にして開けてくれる。そして、手振りでコツを教えてくれる。

 中に入ると、部屋も家具も、新しくはない。

 掃除されているが、日本ほどピカピカに磨いているわけではない。それは、アメリカン式の大型ホテルでも同じこどだ。

 バスにお湯をはろうとして、栓がない!! フロントに申し出ると、宿のご主人が探し回る。もうシャワーだけでいいかとあきらめかけた頃に、「ありました」と持ってくる。欧米人は普段、シャワーしか使わないから、栓はいつの間にかなくなってしまうこともある。

 バスの栓を抜いてお湯を流していたら、なぜか床にお湯があふれてきて洪水になり、バスタオルを何度も絞って拭いたこともある。

 ただし、いつもそういうことが起きるわけではない。それぞれ1回だけだ。ただ、そういうことも思い出に残る。そういうことも含めて、ヨーロッパである。ヨーロッパを旅するなら、まず、ヨーロッパ風のホテルに泊まるべきだ。

 今までも旅行社企画のツアー旅行に参加したし、これからも参加するだろう。鉄道が発達していないトルコとかバルカン諸国など、青春の放浪の旅でもない限り、個人旅行で回るのは大変である。沢木幸太郎の『深夜特急』のように、夜行バスで一晩かけて次の町へ移動するなど、年を取ってする旅行ではない。

 個人旅行は、旅に出てしまえば頼るのは自分の足と判断だけ。不安と緊張感はあるが、しかしその分、直に異国の空気に触れている実感がある。

 旅行社のツアーの中は、「日本」である。旅の始まりから終わりまでずっと、1日24時間、30人近くの日本人と過ごすことになる。いろんな人がいる。しかし、「個」になるところから、旅は始まる。

 ホテルは、バスとトイレとベッドがあれば結構である。私には、リッチさよりも、立地が優先する。

 ハンガリーのブタペストでは、上階の窓からドナウ川を見下ろし、ライトアップされたくさり橋と対岸の王宮の丘が見える部屋に泊まった。ネットで調べた範囲では、ブタペストでこの夜景が見えるのはこのホテルしかない。せっかくの旅行だから、こうして多少の贅沢をすることもある。ただし、五つ星ホテルだったら、やめていた。

 ポルトガルの有名な修道院兼城塞があるローカルな町の旧市街に泊まった時は、エレベータはなく、木造の階段はぎしびしと音を立て、部屋は古く、床は確かに傾いていて、多分、ボールを床に置けば徐々に転がっていくだろうと思った。それでも、ご主人は気さくで、料金は申し訳ないぐらい安かった。

 窓から中世の通りが見下ろせた。たまたま何かのお祭りで、衣装を着けた子どもたちの行列が通った。ホテルの玄関の横の壁には年代物のアスレージョが貼られている。夜、表に出ると、小さな街並みの外れの丘に巨大な修道院兼城塞がライトアップされて浮かび上がっていた。

 少し郊外の方へ歩いて行けば近代的な大型ホテルが1軒あったが、あえて街中の「旅籠」のようなホテルを選んだ。何を求めて旅するかである。

 旧市街のど真ん中に泊まれば、朝に夕に居ながらにして街の雰囲気を感じとることもできる。一日観光して、夜、食事した後も、ライトアップされた街並みを散策し、街角のカフェで一杯のワインを飲むこともできる。街並みこそが文化である。

 さて、2010年のの旅であるが、行程は、[ ヴェネツィア(2泊) → フィレンツェ(2泊) → アッシジ(1泊) → ローマ(3泊) ]とした。

   ★   ★   ★

<早春のヴェネツィアへ>

 2010年3月8日。関空11時発。ルフトハンザ航空でフランクフルトへ向かった。

 上空から見ると、早春の日本列島の山岳地帯は、まだ深々と雪に覆われていた。

  (日本アルプスの峰々)

 富山の辺りから日本海へ出た。

 ユーラシア大陸の上を延々と飛び、フランクフルトでヴェネツィア行きの小さな飛行機に乗り換えた。

 ヴェネツィアの上空はまだ明るさが残り、飛行機が大きく旋回しながら高度を下げていくと、空から潟の広がりと、サン・マルコ広場の鐘楼が見えた。8年ぶりのヴェネツィアだ。

 マルコ・ポーロ空港には現地時間の午後6時前に着いた。

 内陸部の空港から、タクシーでヴェネツィア本島の入口・ローマ広場へ。

 そこからヴァポレット(水上バス)に乗る。乗船券は明後日の朝まで使える48時間券を買った。

 ヴェネツィアの旅行者の「足」は、自分の足か、ヴァポレット(水上バス)。自動車はない。そもそも車が走れるような道路がない。

 ヴェネツィアのタクシーはモーターボートだが、料金はかなり高い。

 サイレンを鳴らして走るパトカーも救急車も、モーターボート。彼らが通ると大波が立ち、岸に水がチャボチャボ当たる。優雅なゴンドラも、モーターボートが通るとゆらゆら揺れる。

 欧米の有名映画俳優のようなリッチなカップルなら、空港から直接、タクシー(モーターボート)に乗って、広々とした潟を疾走し、カナル・グランテ(大運河)に入って少しスピードを落として、そのままホテルに乗り付ける。そういう旅行者の泊まるホテルは、昔、有名な貴族の邸宅だったという高級ホテルだ。船着場もある。

 15世紀のヴェネツィアなら、リッチな貴族や市民は、漕ぎ手付きのゴンドラを持っていた。商談へ行くのも、夜のパーティー会場に行くのも、ゴンドラが足だった。

   カナル・グランデ(大運河)。左端にヴァポレット(水上バス)が見える。真ん中にモーターボート。右に係留されたゴンドラ。

 ただ、貴族がみんな金持ちというわけではなかったようだ。事業に失敗して、乞食に身を落とすことだってある。乞食でも、身分は貴族だ。ただ、官邸に願い出れば、頭巾で顔を隠すことを許されたらしい。その頃のヴェネツィアは商才次第。小金を貯めて、商船の積み荷に投資すれば、10倍、100倍になって返ってくることもある。誰でも挽回可能なのだ。

 「カ・ドーロ」で下船する。

 3月初めのストラーダ・ノーバ通り(ヴェネツィアのメイン通り)は、まだ閑散として寒風に紙屑が舞っていた。少し路地を入ったホテルに2泊する。

 明日は1日、8年ぶりのヴェネツィアを歩く。 

 

 

 

 

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古都ラヴェンナへ行く(2002)その2 … 早春のイタリア紀行(5)

2020年11月09日 | 西欧旅行…早春のイタリアの旅

< 皇帝ユスティニアヌスと皇后テオドーラのモザイク画>

 ガラ・ブラキディア廟と同じ敷地内にサン・ヴィターレ聖堂がある。

 東ゴート王国のテオドリックの時代に着工され(527年)、ビザンティン帝国のユスティニアヌス皇帝の時代に完成した(547年)。

 サン・ヴィターレは、この地で殉教した聖人の名。

 八角形の建物で、集中式の聖堂である。

 なぜ八角形なのか?? 『大聖堂のコスモロジー』によると、神はこの世を創造し、7日目に休んだ。8という数字は、新しい始まりであり、復活と新生を意味するのだそうだ。

  (サン・ヴィターレ聖堂)

 今日も、アフリカの砂漠に発生し、途中で地中海の海水をたっぷり吸収した熱風がイタリア半島にやってきて、非常にむし暑い。今回、ヴェネツィアに来た時から、この暑さに苦しめられている。日本の夏でも経験しないようなむし暑さだ。シャツも汗に濡れている。

 だが、思ったより広い聖堂の中は、空気がひんやりして心地よかった。中高年の見学者はみんなほっとしてベンチに腰掛け、坐ったまま遠くのモザイク画を見上げている。でも、ベンチからは遠すぎる。

 モザイク画はどれも美しかった。その中でも、2枚の向き合ったモザイク画に目がとまった。

 聖なる内陣の壁の中央の絵は、イエス・キリストを真ん中に、天使と殉教者のサン・ヴィターレが描かれている。

 その絵の下の段の横に、ユスティニアヌス大帝の一群と、皇后テオドーラの一群が、向き合った位置に描かれていた。西欧カソリックの世界では、俗人である皇帝や皇后が内陣に描かれることはないだろう。ここは東ローマ(ビザンティン)帝国の影響下の世界なのだ。

 全員が正面を向いて、一列で立っている。だが、立体的に描いてみせたルネッサンスの絵画よりも、私にはこういう絵の方が好ましい。

 絵とは二次元世界に形と色彩で構成した美術である。マチスもピカソも、結局、二次元的な形と色の世界に戻った。

 (ユスティニアヌス帝と廷臣たち)

 この2枚の絵について、後に、NHK文化センターの講義で解説を聞くことができた。

 皇帝ユスティニアヌスが手に持っているのは聖杯。皇帝のすぐ左側の人物がイタリア半島を東ローマ世界に取り戻した将軍のベリサリウス。皇帝のすぐ右には、後で付け加えて描かせたもう1人の将軍が覗いているが、それ以外、右側は聖職者だ。皇帝の横の聖職者は新任の大司教。何と!! 自分の上に自分の名を書かせている。前の聖職者の絵を塗りつぶして自分を描かせたことが、修復のときにわかった。

 向かい合ったもう1枚のモザイク画は「テオドーラ皇后と女官たち」。

 (テオドーラ皇后と女官たち)

 皇后テオドーラはサーカスの踊子だったという。ユスティニアヌスに見染められ、相当の身分違いだが、后に迎えられた。

 皇帝がまだ若い頃、首都コンスタンティノープルで、些細なことから民衆の大暴動が起きた。軍隊を出動させても止めようがなく、皇帝はもう駄目だとあきらめ逃げ出そうとした。そのとき、テオドーラは夫を叱咤し、激励して、そのため皇帝は踏みとどまり、ついに暴動を鎮圧した。そのとき逃げ出していたら、後に「大帝」と呼ばれ、歴史に名を残す皇帝にはなれなかっただろう。

 そう思いながら眺めると、なるほど、少々きつそうな顔をしている。

 それよりも、テオドーラから右に2人目の女性が美しい。どういう人なのか、ずっとわからなかったが、NHK文化センターの講義で知ることができた。皇后のすぐ右隣の女性は、将軍ベリサリウスの妻のアントニア。美しい人は、その娘のヨアンニナ。左手の指が隣の母に触れているのは、母娘関係を表すそうだ。

        ★

<街で出会った日本人留学生>

 サン・ヴィターレ聖堂を出て、街を歩いた。自分の位置が地図上のどこかわからなくなっていた。道を行く人は、観光客も、夕食の買い出しに出たマダムたちも、みんな建物の日陰になった片側を歩いている。とにかく暑く、体力を消耗した。

 道の脇に小さな広場があり、建物の日陰になった石段に、観光客が三々五々、坐って休んでいた。その中に、この街で初めてだが、東洋系の若い女性がいるのが目についた。とにかくひと休みし、何よりも地図をじっくり見たい。「日本人ですか??」と声をかけたら、そうだと言う。横に坐らせてもらった。

 それから、思いがけずも1時間ほど、涼しい日陰で話をした。

 数日ぶりの日本語の会話はなつかしかった。意識していないが、たまたま日本人がいて日本語で話をすると、日本語に飢えていた自分に気づく。この感じは、異国で一人旅をしてみないとわからない。

 彼女にとっては本当に久しぶりの母国語での会話で、本人は意識していないだろうが、ほとんど彼女がしゃべり、私は聞いていた。

 日本で建築事務所に勤めていたが、これからの日本は、30年でスクラップし建て替えるという使い捨て型の持ち家制度の時代は終わるだろうと思った。良い家を建て、リフォームしながら長く住む時代になるに違いない。リフォームの文化は日本にはあまりない。それで、イタリアに行って勉強しようと考えた。

 留学するなら、ローマやミラノのような大都市ではなく、あまり知られていない、しかも文化の香りのある町にしたいと思って、ラヴェンナの語学学校を選んだ。学校から、モザイク画などの工房に入ることもできる。

 節約するため、1部屋をカーテンで仕切って4人でシェアしている。みんな、国籍が違うけど、コミュニケーションはみんな頑張ってイタリア語。夏休みには誰かの家に遊びに行くつもりだ。多分、スイスになりそうだ。

 ラヴェンナには、調べたけど、日本人は1人も住んでいない。

 午後、自分の授業があるので、出てきて、途中で昼食のピザを買って、今、ここで食べたところだ。

 そんな話だった。

 日本にもこういう若い女性が育っていることに感銘を受けた。自分のような世代と違って、若い彼女は軽々と日本海とユーラシア大陸を跳躍し、単身、異国で勉強している。日本の未来も捨てたものではない。

 授業は1コマだから、終わったらモザイクの美しい教会を案内して回りますよと言ってくれたが、夜にならないうちにヴェネツィアに帰りたいからと断った。

 駅まで連れて行ってもらって、彼女は学校へ、私はタクシーで郊外のサンタ・ポリナーレ教会へ向かった。

         ★

<大聖堂の心和む牧歌的なモザイク画>

 海外旅行でどこかの町を訪れたとき、もちろん効率的な回り方も考えるが、基本は見たいものから見て回ることにしている。一番見たいものを後回しにして、その結果、後悔するようなことにはなりたくない。他で思わぬ時間をとってしまい、閉館時間に間に合わなかったとか、観光の途中でパスポートをスラれて、観光を中止して警察署に行かねばならなくなったとか。異国の警察署の体験も悪くはないが(2度も経験しました)、一番見たいものを見ずに帰るのは、やはり残念である。

 ラヴェンナの3番目は、郊外のサンタポッリナーレ・イン・クラッセ聖堂。

 駅前からバスもあるのだろうが、知らない土地のバスの路線はわかりにくい。その路線の停留所は駅前のどこにあるのかとか、何という名の停留所で降りるのかとか、乗り越してしまったらどうしようとか。

 多分、5、6キロの距離だから、タクシー代はたいしたことはない。ただ、ガイドブックには、イタリアのタクシーのなかにはぼったくりをする運転手がいるから気を付けてと書いてある。

 しかし、駅前から乗ったタクシーの運転手は感じの良い青年で、大聖堂に着くと、ちょっと昼寝するから見学が終わるまで待つよと言ってくれ、駅前に帰ったときに、待ち時間なしの往復の料金しか請求しなかった。それで、降りるとき、こちらもチップをはずんだら、「ありがとう。いい旅を」と握手を求められた。

 サンタアポリナーレは、ラヴェンナに初めてキリスト教を広め、殉教した聖人らしい。その墓の上に最初は小さな礼拝堂が造られ、6世紀前半に現在の大聖堂が建てられた。

 中に入ると、身廊と側廊を隔てる石柱が奥へ向かってずらっと並ぶパジリカ様式の聖堂だった。装飾らしい装飾はない。その奥の内陣の半円球の壁面に、目指すモザイク画があった。グラビアの写真を見て、いつか、ぜひとも実物を見たいと思っていた。

(サンタポッリナーレ・イン・クラッセ聖堂)

 聖アポリナーレを中心に、野の花と、樹木と、羊。牧歌的な緑の大地が描かれている。

 多分、ガッラ・プラチーディア廟のモザイク画も、このようなメルヘンチックなトーンなのだろう。磔刑のキリストや、貴婦人のようなマリア像と比べて、異教徒でも心がやすらぎ、いつまでも見ていたいと思う絵だった。

       ★

<壁面の奥行きを使った長い行列のモザイク画>

 タクシーで駅前に戻り、帰りの列車までに十分、時間があったので、サンタポッリナーレ・ヌォーヴォ聖堂へ行った。駅前からの行き方は、さっきの留学生の女性に教えてもらっていた。

 この聖堂は、東ゴード王国をつくったテオドリクス王の宮廷聖堂として、504年に完成し、奉献された。

 「パジリカ式聖堂は、入口から、半円で突出する祭室に向かう、水平的方向性が強調された空間構成であることがわかる」(馬杉宗夫『大聖堂のコスモロジー』)。

 聖堂の中に入ると、身廊と側廊を隔てる22本の円柱が正面の祭室に向かってずらっと並び、奥行きが深い。

 圧倒的なのは、円柱列の上の壁面を飾るモザイク画だ。

 右側の壁面には、26人の殉教者の長い列が、奥の玉座のキリストに向かって進んでいる。1人1人は、似ているが、みな違う。

 そして、左側の壁面には22人の殉教聖女たちの長い列が、奥の祭室方向に進んでいるように描かれている。

 聖女たちの上の壁には、イエスの誕生を祝うためにベツレヘムを訪れた東方3博士。

   (サンタポッリナーレ・ヌォーヴォ聖堂)

   この聖堂の中に一歩入って起きる感動は、その絵画的構成力がもたらすものである。

 ラヴェンナの最後に、もう一つ、良い絵に出合った。旅先で見る絵も、一期一会である。

       ★

 充実した1日だった。列車を乗り継いでヴェネツィアのサンタ・ルチア駅に帰ると、橙色の雲の向こうにちょうど太陽が沈んだ。

 今夜もホテルの近くのリオ(小運河)のそばのレストランで、3夜続けて、晩飯を食べた。レストランのマスターとも、今夜でお別れだ。

 最初はお互いに言葉が通じなくて困った。メニューを見てもわからなかった。それでも面倒くさがらず、丁寧に応対してくれた。「トマト」だけは通じて、お互いにっこりした。指さされた箇所を見ると、トマトと書いてある。ローマ字だ。トマトを使った料理だった。2日目は、他の客の料理を運びながら、「また来てくれたの」という風にさりげなくウインクしてくれた。

 旅は一期一会。物静かな良い人だ。

 日中、体中の汗が出た。ビールを飲んでも渇きは治まらなかったが、冷えた白ワインは命の水にように渇きを癒してくれた。

         ★   

<ヴェネツィアからパリへ>

 ヴェネツィアに魅せられて、今回は3度目の訪問だった。

 3度目のヴェネツィアで3、4日も過ごすと、15.16世紀の閉ざされた空間にだんだんに息苦しさを感じるようになった。この街は化石のような町。或いは、テーマパークのような町と言ってもいい。16世紀の仮想現実の空間である。

 それに、6月のヴェネツィアは、広場や路地に欧米や中東からやって来た観光客があふれ、若者や少年がリオ(小運河)で花火をしたりして夜遅くまで騒ぐのも、気もちをしんどくさせた。

 飛行機でパリに移動し、セーヌ川の橋の上に立ったとき、空が広いと感じた。

   パリの街角で聞こえてくるアコーデオン弾きのおじさんのシャンソンの音色が軽やかで、心地良かった。このとき初めてパリを美しいと感じた。

 これでヴェネツィアから卒業だなと思った

   

 

 

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