ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

雨のケーニヒ湖 … ロマンチック街道と南ドイツの旅(12/12)

2020年07月16日 | 西欧旅行…南ドイツの旅

     (聖バルトロメー礼拝堂) 

 10月12日。今日はミュンヘンの2日目。

 明日は帰国の途に就く。

 この日は、「アルペン街道」を東へ東へと走り、オーストリアとの国境近く、バイエルン・アルプスの岩峰に囲まれた深山幽谷の湖を訪ねた。

      ★

<深山幽谷の湖をゆく>

 ベルヒスガーデンはバイエルン・アルプスの保養の町である。列車なら、ミュンヘンから乗り継いで2時間半という。

 我々のツアーバスは、朝、ミュンヘンのホテルを出発し、アルペン街道を快調に走って、ベルヒスガーデンに着いた。

 町というべきか、村というべきか、「リゾート」というよりは、やはり「保養の町」だ。

 バスはベルヒスガーデンの閑散とした街路を抜けて、湖畔の村にたどり着いた。

 ケーニヒ湖。ドイツで最も美しい湖だという。

 天気は良くない。朝、ミュンヘンのホテルを出発したときから空はどんよりとした雲に覆われ、いつ降り出してもおかしくないような空模様だった。

 そして、ついに降りだした。

 大雨ではない。日本の時雨に似て、寒い。冷え込む。

 上着の上に綿の入ったコート。さらにマフラーも出した。あるだけ全部だ。傘も用意する。

 晴れていて、青空の下に見たらどんなに美しい景色だろう。

 だが、ヨーロッパの秋は短い。

 人々が愛する夏が終わると、短い秋のあと、長い冬がやってくる。朝はなかなか日が昇らず、沈むのは早い。どんよりと曇った空から青空がのぞくこともあるが、日に何度も冷たい小雨が降る。

 このあたりは美しいバイエルン・アルプスに囲まれて、夏には、人々が、太陽と森と湖を満喫するのだろう。

 だが、気象も風景も、まるで、「今日から冬に入ります」と言っているかのようだった。 

       ★

 遊覧船が待っていた。このツアー専用だ。屋根もあり、窓もある。寒さを防ぎ、雨に濡れないのは、ありがたい。

 今日はもう一艘が運航しており、途中ですれ違うそうだ。

 船はほとんど音を立てることなく、雨の湖を進んでいった。

 「この清冽な湖をいささかなりとも汚すことがないように、すべて手漕ぎ、または、バッテリーによる電動式になっている」そうだ。(紅山雪夫『ドイツものしり紀行』)。

 両岸は高い岩峰に囲まれ、深山幽谷の静寂の中を、奥へ奥へと進んでいく。

 太古に、巨大な氷河が岩峰の裾をえぐりながら移動していった。そのあとが湖になった。だから、奥へ奥へと、奥深い。岩峰には雪が残っている。最近降ったのだろうか。

 両岸に人工の道路はないから、太古のままの静寂が支配している。

 船は40分ほど進み、遠くに赤い屋根の小さな礼拝堂が見えてきた。

 聖バルトロメー僧院である。

       ★

 僧院の湖岸に降り立った。小雨模様の中、付近を少し歩いてみる。

 玉ねぎ型のドームをもつ礼拝堂と修道僧の住居。そのそばには牧場があった。 

 「この礼拝堂は、かつてベルヒスガーデンにあった修道院の分院であった」。

 「修道士たちは、このあたりの湖岸にわずかに広がっている扇状地を切り開いて、畑や牧草地にし、羊や山羊を飼って暮らしていた」(『ドイツものしり紀行』)。

 シーズン中なら、ここから船を乗り換えて、さらに湖の最奥部まで行くことができる。

 最奥部で船を降りて、「船着場から森の中の道を10分ほど歩くと、『上の湖』が現れる。「湖は『悪魔の角々(ツノヅノ)』と呼ばれる岩峰群に囲まれ、黒々とした森の影を浮かべて静まり返っている」(同)そうだ。

 今日はここで折り返す。

 遊覧船は静寂の中、再び出発点の船着場に向かって進んでいった。

 途中、遠くから、トランペットの音が聞こえてきた。

 もう1艘の船の船頭が、2艘の遊覧船の観光客のために吹いているのだそうだ。

 音は岩壁に跳ね返り、エコーとなって聞こえてきた。この深山幽谷にふさわしい音色だった。

 曲が終わると、自然はまたもとの静寂に戻った。

      ★

 ドイツ人やスイス人の環境保護の意識は高い。観光のためにも、自然を大切にし、環境保護を徹底する。その方が、より多くの良質なリピーターを得ることができる。使い捨て文化は、文化ではない。

 かつて、まだ若かった頃の夏、私は毎年、信州の山や高原に行っていた。

 縄文の遺跡が残る車山高原近くの森に囲まれた湖に行くと、湖畔の土産物店が大音量で演歌を流し、観光バスが何台もやってきて、バスからはこの湖にふさわしいとは思われない大量の団体客が降りてきた。

 高度経済成長の時代、日本の「観光地」はどこもそのようであった。国の象徴である富士山も、旅館や土産物店が並んだ富士五湖周辺の景観は見苦しく、山中にはゴミが散乱していた。

 「お客様は神様」は松下幸之助の言葉だが、高度経済成長からバブルの時代、多くの国民がこの言葉を口にしたものだ。

 松下幸之助ご本人がどういうつもりで言ったのかは知らない。しかし、この言葉を口にしていた当時の国民の理解は、「お客様はおカネの神様」という意味だったろう。

 そういう喧騒の歳月を経て、「失われた20年」も経験して、日本人もやっと、本来の感性を取り戻しつつあるようだ。

 まずおカネではなく、まずホンモノの自然や、ホンモノの景観や、ホンモノの文化伝統を。本当の価値を大切にしていかなければ、日本の未来はない。

 バスでベルヒスガーデンの小さな町に戻った。

       ★ 

<雨のベルヒスガーデン>

 予定では、ベルヒスガーデンからヒットラーの山荘「ケールシュタインハウス」へ行くことになっていた。ケーブルカーも使って上がる山頂からの景色は絶景らしい。だが、中止になった。今日の天気ではただ白い雲の中に入るだけで、何も見えないということだ。

 絶景かもしれないが、ヒットラーの山荘でヒットラーと同じ景色を楽しむというのは、少々悪趣味ではないかという気もする。

 予定がなくなって、ベルヒスガーデンの町で自由時間ということになった。

 ツアーのガイドは、すぐ近くにお勧めの所があると言う。かつての塩坑がテーマパークになって、年間40万人の観光客が訪れるそうだ。

 このあたり一帯に、かつての「白い黄金」の岩塩層が広がっているのだ。ザルツブルグも、ここから直線距離で30キロほどである。

 しかし、雨の中のこの寒さ。塩坑にはどうも興味をそそられなかった。

 それで、時間まで、閑散とした小さな町の中をぶらぶらと歩いた。

 しかし、見学するほどのものは何もなく、時間をもてあました。町の中を2筋の通りが通っていて、小さな土産物屋やペンションや大衆的なレストランが並んでいた。

 土産物屋の軒先では、岩塩をきれいに包んで、お土産として売っていた。

 雨は降ったりやんだりして、とにかく寒かった。ペンションは閉じている。カフェやレストランも開いていなかった。

 今日は、静まり返ったケーニヒ湖を遊覧船で奥へ奥へと進んだことを思い出としよう。

   ★   ★   ★

 翌10月13日。ミュンヘン空港を飛び立ち、フランクフルト空港で日本行きのルフトハンザに乗り換えた。

 10月14日。朝、関空に到着。

 わずか8日間の旅だったが、古城街道、ロマンチック街道、アルペン街道を堪能した。

 あえて心残りを言えば、ローテンブルグの町の中で、1日、ゆっくり過ごしたかったかな。

 

※ 今回は、2009年の旅のことを書いた。

 この当時、旅の前後に、ドイツの歴史を書いた2~3の新書を読もうとしたが、ただ、ややこしく、少しも頭に入らず、投げ出した。

 10年たって、少しはドイツの中世がわかってきたという気がする。細々した知識はどうでもいい。ざくっとイメージができたら良いのだから。

 書き始めは写真を中心にした簡単なものにしようと思っていたが、また、長いブログになってしまった。いつも、この長さを気にしています

   (この項、終わり) 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バイエルン王国の都ミュンヘン … ロマンチック街道と南ドイツの旅(11)

2020年07月09日 | 西欧旅行…南ドイツの旅

  (ミュンヘンの街のオシャレな看板)

<バイエルン王家の夏の離宮、ニンフェンブルグ宮殿>

   ミュンヘンの中心部から北西へ約10キロほどのところに、バイエルン王国を統治したヴィッテルスバッハ家の夏の離宮、ニンフェンブルグ宮殿がある。

 夏の離宮と言ってもアルプスの麓ではない。首都の郊外である。

 ハプスブルグ家の夏の離宮であるシェーンブルン宮殿も、ウィーンの都心を少し外れただけの郊外だった。避暑しなければならないほどむし暑い夏ではないのだろう。

 このツアーでは、宮殿内の見学はなし。広大な庭園を歩いた。

 観光資源としてのこの離宮は、バイエルン州の中ではノイシュヴァンシュタイン城に次いで多くの観光客が訪れるらしい。欧米系の観光客にとって、バイエルン王家の宮殿や庭園は興味深いのであろう。

 ちなみに、所有者は今もヴィッテルスバッハ家の当主だそうだ。

 今日は日曜日。時刻は夕方である。この時間は、観光客だけでなく、若いミュンヘン市民のデートの場であり、子ども連れの家族の憩いの場にもなっているようだった。

      ★

<イーザル川のほとりの小さな修道院>

 紅山雪夫さんの『ドイツものしり紀行』(新潮文庫)によると、「バイエルン」という名の起源は、ゲルマン民族の1部族、『バイウァリイ族』に由来するそうだ。

 ゲルマン民族の大移動のときにこの地方に定着した。

 7世紀の末頃までには、フランク王国の傘下に組み込まれていた。

 「ゲルマンの諸部族を支配下におさめようとするフランク王国の動きは、片や軍事力の行使、片やキリスト教の布教という2つの政策が車の両輪のようにして推し進められ、『ゲルマンの使徒』と呼ばれたボニファティウスなどがフランク王国の意を受けて布教に活躍した」 (同上)。

 フランク王国は、新たに支配した地方の要所に、信頼できる部下を「伯(爵)」として配置した。或いはまた、司教領主を置いてその地を統治させた。

 この旅で訪ねた幾つかの都市は、司教領主を起源としていた。彼らは軍事力をもち、異教徒(異民族)の襲来があれば自ら兵を率いて戦い、徴税権も与えられていた。

 「ボニファティウス」??

 ウィキペディアで「聖ボニファティウス」を調べてみた。百科事典を引くように調べることができる。まことに便利な世の中だ。

 719年にローマ教皇からゲルマニアへの伝道と教会整備の任を与えられた。主に、ゲルマニアのキリスト教化を進めたが、754年に北海沿岸のフリースラントで宣教中、在地の部族に殺された。死後、聖人とされ、「ドイツの守護聖人」となった。

 ゲルマニアにおける彼の活動は、フランク王国、特にカロリング家の助力が大きかったらしい。

 例えば、トゥール・ポワティエの戦いで歴史上有名なカール・マルテルは、740年にフライジング、レーゲンスブルグ、パッサウ、ザルツブルグに4つの司教座を建ててボニファティウスに寄進し、彼を全ゲルマニアの大司教としている。

 このうち、レーゲンスブルグ、パッサウ、ザルツブルグは、2012年に「ドナウ川の旅」で訪ねたが、まだブログに書いていない。

 それはさておき、カール・マルテルが寄進した4つの司教座のうちの最初のフライジング大聖堂のある町は、ミュンヘンからイーザル川沿いに北へ30キロほど行った、ミュンヘン空港のあたりにある。ただし、その頃、ミュンヘンはまだ影も形もないのだが。

 聖ボニファティウスは、このフライジングを基点にして、バイエルンの各地に修道院を建てていった。

 その修道院の分院が、フライジングから南へ約30キロ、イザール川の急流の河畔、即ち、今のミュンヘンの地に建てられた。分院のそばには、ごく小さな集落が門前町のように存在していただろう。

 「そのころ、ミュンヘン一帯は、鬱蒼たる森林に僧院が立つ教会領であった」(『旅名人ブックス ドイツ・バイエルン州』)。

 ミュンヘンの名は『Monchen 修道士たち』に由来する。

 今もミュンヘン市の紋章は、「ミュンヘンの小坊主」である。かわいい僧衣の少年が、両手を広げ、左手には聖書らしきものを掲げている。一方、右手は何かを指さしているように見えるが、現代のミュンヘン市民は「あらっ。見えないの?? ビールを持っているのよ!!」と言うそうだ。

 この8世紀の小さな教会と集落が、今では人口123万人の大都市ミュンヘンに発展した。

 その礎を築いたのは ── ハインリッヒ獅子公という人物だった。

 話は一挙に400年も進んで、12世紀後半、あの「赤ひげ(バルバロッサ)皇帝」フリードリッヒ1世の時代だった。

 ロマンチック街道を旅して訪ねた中世の町で、何度も「赤ひげ皇帝」の名が出てきた。12世紀という時代は、「赤ひげ皇帝」やハインリッヒ獅子公を必要とする時代だったのだろう。

 少し本筋をそれる。

 「赤ひげ」と聞くと、髭むじゃののやたらに強い大男を想像するが、どうも少しイメージが違うようだ。

 菊池良生『神聖ローマ帝国』(講談社現代新書)によると、古い伝記に、「四肢は均整が取れ、胸板は力強く、身体は締まり、男らしかった」とあるが、続いて、「 顔は整い、物静かな表情で、どんな激しい感情の動きのなかでも傍から見ると微笑んでいるように見えた」とあり、さらに「波打つ頭髪と髭は赤みがかったブロンドで、目は明るく輝き」となる。

 感情的にならず、物静かで、しかも、明るく、男らしかったのだ。最近の「歴女」が好む信長や土方歳三のようなどこか陰のあるタイプではない。あえて言えば、伊達政宗に近いかも。

 話は12世紀に戻る。当時、フライジングの司教領主は、イーザル川に橋を架け、橋に関所を作り、ここを通る塩、その他の商品に通行税を掛けて多大の収入を得ていた。

 この時代、塩は「白い黄金」と呼ばれる貴重品だった。食卓の味付けだけでなく、肉、魚、その他の食材の保存のために大量に使われ、高値で取引された。

 南ドイツのアルプス山麓から良質な岩塩が採掘された。ミュンヘンからそう遠くないオーストリアのザルツブルグ。「ザルツ」は「ソールト」で塩のことだ。塩の集積地として発展した町である。ここも、司教領主だ。

 採掘された岩塩は製塩され、荷馬車や筏に積み込まれて、陸路や水路で北上し、ドイツの各地に売られていった。

 ドイツ北方のザクセンに領地をもつヴェルフ家のハインリッヒ獅子公は、「赤ひげ皇帝」の母方の従兄弟だった。ただし、ヴェルフ家と、「赤ひげ」のシュタウフェン家は、皇帝位をめぐって宿敵の関係でもあった。

 しかし、「赤ひげ皇帝」は、南のバイエルンを、もともとの領主だった従兄弟のハインリッヒ獅子公に返還されるよう取り計らった。その結果、ハインリッヒ獅子公は、ザクセンとバイエルンを領土として持つ大貴族となった。

 当時の皇帝は、ドイツ王で、かつ、イタリア王だ。ドイツの諸貴族たちも、ローマの教皇も、赤ひげ皇帝に敬意を払ったが、(教皇権からの独立は重要なのだ)、ミラノを中心とした北イタリアのロンバルディア都市同盟だけが皇帝に従順でなかった。そのため、赤ひげはドイツの領主たちに大号令をかけ、大軍を率いて、何回も遠征した。しかし、都市国家同盟はねばり強く、不屈だった。

 領地を安どされる代わりに皇帝の命あるときには馳せ参じる。それが、封建関係である。大貴族のハインリッヒ獅子公も皇帝の下に馳せ参じ、遠征に加わった。2人はそういう関係だったのだ。

 ハインリッヒ獅子公は時代を先んじた男で、赤ひげ皇帝のお蔭でバイエルンの領主になると、塩に目を付けた。

 彼は軍を差し向けて、フライジング司教の橋を壊してしまった。

 (司教)「何をする!! 罰当たりめ!! 司教座の橋だぞ」。(獅子公)「イザール川は、皇帝が認めたオレの領地を流れる川だ!!」…… まあ、そういう言い争いぐらいはあったかも知れない。橋は誰のものか?? 川は誰のものか?? まさにそういう争いがヨーロッパ中世である。 

 ハインリッヒ獅子公は、自分の所領内の小さな修道院のあるイーザル川に目を付けていたのだ。そこに、しっかりした新しい橋を架け、イーザル川に架かる残りの橋も全部壊してしまった。

 それで、アルプス山麓で産出された岩塩はみな、「小坊主」こと、ミュンヘンに架けられた橋を通って、ドイツ各地に向かうことになった。

 彼は橋のたもとに関所を設け、倉庫群を作り、通行税や倉庫税を徴税したが、それだけでなく、塩の仲買人や商人、手工業者も呼び寄せて、市を開設し、町をつくっていったのだ。

 領主間に法はない。力がものを言う時代だ。ただ、本当に力のある皇帝は、秩序を作ろうと調停に入る。

 赤ひげ皇帝は、フライジングの司教に税金の一部を渡すことを引換えに、ハインリッヒ獅子公に徴税権や貨幣鋳造権を認めてやった。獅子公はかつて司教が得ていた税金分ぐらいは十分に出してやっただろう。

 ミュンヘンを通る塩は3日間、ミュンヘンの倉庫に保管され、まずミュンヘンで取引しなければならないと定めたから、商人や仲買人たちが競ってミュンヘンに集まった。

 町の形はどんどん整えられ、やがて城壁で囲まれた都市となった。

 ハインリッヒ獅子公は、北ドイツのザクセン公としてはハンザ都市リューベックを建設している。

 ミュンヘンとリューベックという後世に大発展を遂げた都市を建設した上、さらに領土も広げ、ついに赤ひげ皇帝と対立するようになり、最後は皇帝に追放された。イギリスで亡命生活を送ったらしい。

 なかなかの男と思って目をかけてやったのに、皇帝もつらい仕事なのだ。

 ただ、イタリア大遠征を繰り返す赤ひげ皇帝についていけず、オレがロンバルディア都市同盟を相手にしたらもっとうまくやるよと、商売上手な獅子公は考えたかもしれない。

 しかし、ドイツ史において、赤ひげ皇帝が皇帝らしい皇帝であったこともまちがいない。(中国の専制皇帝とは意味が違う)。

 1180年、赤ひげ皇帝はハインリッヒ獅子公のあと、ヴィッテルスバッハ家をバイエルン大公に封じた。

 以後、バイエルンは、1806年に大公国から王国となり、第1次大戦後の1918年に王制が廃止されるまで、700年余りをヴィッテルスバッハ家が統治した。

 なお、赤ひげ皇帝・フリードリッヒ1世の孫がフリードリッヒ2世。

 フリードリッヒ2世 (イタリアでは、フェデリーコ2世) については、当ブログ「シチリアへの旅」の2「なぜ、シチリアへ」、10の「シラクサ散策」などに書いた。早く生まれ過ぎた皇帝、ルネッサンスを先取りした皇帝と言われる。

        ★ 

<ミュンヘンの夜>

 日の暮れかけた時間に、やっとバイエルン王国の都ミュンヘンに入った。

 マクシミリアン・ヨーゼフ広場でバスを降りる。

 立派な広場にはマクシミリアン・ヨーゼフ像がある。バイエルン王国の初代国王である。

 (マクシミリアン・ヨーゼフ広場)

 旧市街の中心はマリーエン広場。黄昏の時刻を過ぎ、バイエルン王国の都はライトアップされて、そぞろ歩く人も多い。

 その広場を圧するように聳えているのが新市庁舎だ。中世風に見えるのはネオ・ゴシック様式だから。19世紀末から20世紀初頭にかけて造られた見た目より新しい建物である。

    (新市庁舎)

 新市庁舎の正面には高い塔があり、見上げると、ドイツ最大の仕掛け人形がある。

 マリーエン広場一帯は歩行者天国で、ミュンヘンでいちばんのオシャレなショッピング街だ。行き来する老若男女の群れも、心なしかうきうきとしているようで、ロマンチック街道の牧歌的な風景が遠い夢の中のような気がする。

 (オシャレな街にトラムも)

 旧市庁舎は第二次大戦の爆撃で完全に破壊された。

 再建され、今はおもちゃ博物館になっている。 

  (旧市庁舎)

 このあたりが、900年ほど前には鬱蒼とした森で、イーザル川の急流のほとりに小さな僧院があるだけだったとは、想像すらできない。

      ★

 ホフブロイショーを見ながらの遅い夕食だった。

 まあ、バイエルン風の歌声ビアホールだ。ステージの歌手たちに合わせて、大ジョッキを飲み干しながら歌を歌う。だが、日本の皆さんも私も疲れ切って、そういう気分にはなれず、とても乗れなかった。早くホテルへ帰って、湯舟につかりたい。     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アルペン街道をゆく … ロマンチック街道と南ドイツの旅(10)

2020年06月14日 | 西欧旅行…南ドイツの旅

 (アルペン街道をゆく … 車窓から)

 ノイシュヴァンシュタイン城から、ルートヴィヒ2世の2番目の城、リンダーホーフ城までは約50キロである。

 バスに乗って新白鳥城から野の方へ下っていくと、城のテラスから見た赤い屋根の小さな教会があった。玉ねぎ型の青いキャップをかぶった白い塔が寄り添っている。

 相当な数の人々が教会の周辺に集まっているが、いったい何事だろう?? そう言えば、今日は日曜日である。

 絵に描いたような牧歌的な光景だった。 

 (日曜日の小さな教会)

 『地球の歩き方』に、読者の投稿としてこの教会が紹介されていた。聖コロマン教会という名らしい。投稿した旅人も、新白鳥城とは一味違う牧歌的な野の教会が印象に残ったのだろう。

   バスはアルペン街道をゆく。

 険しくそそり立つ岩山があり、小さな集落があり、小さな教会がある。

        ★

<リンダ-ホ-フ城と王の孤独>

 リンダーホーフ城は、城というよりも王の別邸という感じだ。「△△城」という名にこだわりがあったのだろうか?? 「城」のもつ戦い、或いは、防御のイメージとは無縁で、こじんまりした優美なたたずまいである。

 ノイシュヴァンシュタイン城に遅れて竣工し、4年後に完成した。ルートヴィヒ2世が生きている間に完成した唯一の城で、実際にしばしば滞在したそうだ。 

 (リンダーホーフ城)

 庭園は、アルプスの山々や森を借景に取り入れつつ、あくまでヨーロッパ的である。

 邸宅の前には32mの高さに水を噴き上げる海神ネプチューンの泉があり、風の向きによって霧状の水が飛んできた。

 前方と後方に展望用の丘が造られ、写真は前の丘のテラスから撮影したもの。邸宅の後ろにも緑の丘があり、鳥籠のような形の緑のテラスが見える。

 敷地内には、「ヴィーナスの洞窟」や「ムーアのキオスク」など、ワーグナーのオペラに登場する伝奇的な施設もあるようだが、ルートヴィヒの奇怪好みにはついて行けないので、ゆっくり庭園を散歩した。しかし、同行の皆さんの半分以上は、何でも見てやろうと見学に行っていたようだ。

   ドイツ語のルートヴィヒは、フランス語ではルイ。

 彼は、ルイ14世を偉大な王として尊敬していた。食事は、深夜に、一人でとることが日常になっていたが、しばしばルイ14世らを食事に招いて、目の前にいるかのように挨拶をし、語りながら食事をしたという。好きな時に招待し、好きな時にお引き取り願えるから、このやり方がいいと言っていたそうだ。

 給仕人は入れない。完全に一人で食事ができるよう、調理室からテーブルをせり上げる装置が造られていた。

 孤独な人である。

      ★

<オーバーアマガウのメルヘンの壁画>

 リンダーホーフ城のあと、またバスに乗り、オーバーアマガウへ向かった。

 オーバーアマガウは人口5千人ほどの小さな町だが、町はずれの民家のメルヘンの壁画が有名なのだ。

 近くの路上にバスを停めて、遠慮がちに短時間、見学した。

 そういえば、このあたりの民家から抗議の声が上がっていると何かで読んだことがある。観光バスで大勢の外国人観光客が民家の周りに押し寄せ困っているというのである。

 この旅の2009年当時、観光バスで押し寄せるのは日本人しかいない。欧米人は基本的に個人旅行だ。中国人が日本やヨーロッパに押し寄せるようになるのは、もう少し後である。

 日本の海外ツアーは、高度経済成長時代の「〇〇会社」や「△△農協」の国内温泉旅行が発展したもので、多分に殿様気分の物見遊山のツアーとしてスタートした。

 わが一行のおばさんたちの中には、庭に入り込んで写真を撮っている人たちもいた。

 日本の週刊誌に一言。個人主義とは、プライベートを尊重し、人の家の中を覗かないということだ。仮に見ても、見ざる、聞かざる、言わざるが人間としての品性というもの。

 

 (赤ずきんちゃんの壁画)

  民家の外壁に描かれた壁画は、南ドイツ、オーストリア、スイス、イタリアの北部などアルプス地方に見られるそうだ。

 紅山雪夫さんの『ドイツものしり紀行』に、ガイドブックなどでこれらの民家の壁画を「フレスコ画」としているが、それはまちがいだとある。「セッコ」という絵画らしい。実際、『地球の歩き方』も、このツアーの「旅のしおり」にもフレスコ画となっていた。

 フレスコ画は漆喰が乾かないうちに一気に仕上げる必要があり、一度描いた箇所は修正がきかない。だから、フレスコ画を描く画家は相当高度な技術の持ち主で、制作に当たっては何度も下絵を描き、事前のトレーニングをして臨む。セッコは、乾いた壁に塗り、上塗りの修正もできるそうだ。

 この町を有名にしているものがもう一つある。以前、テレビで見た。

 10年に1回、町を挙げて、キリスト受難劇を行うのだ。最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、エルサレム入城、十字架刑上の死、そして復活。

 1632年のペストの大流行のとき、この村は奇跡的に被害を免れた。それ以来、10年ごとに、30年戦争の最中にも絶えることなく続けられてきたという。

 出演者は町の全員。開催の年は年間102回の公演がある。1回の公演は5時間半。仕事を休むことも意に介さない。

 観客は、全世界からやって来る。

 主役のイエスの役に選ばれたいと思った若者は、10年後を目指して、ヒゲを伸ばし、髪も伸ばし、節制して痩せ、相貌がだんだんとイエスに似てくる。もちろん12使徒や母マリアも花形だ。そういう町の様子をとらえたテレビ番組だった。

         ★

 日が少し傾いた午後、バスはミュンヘン郊外のバイエルン王家の夏の離宮を目指して走った。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ノイシュヴァンシュタイン城とルートヴィヒ2世 … ロマンチック街道と南ドイツの旅(9)

2020年06月10日 | 西欧旅行…南ドイツの旅

  ( この項も、紅山雪夫さんの『ドイツものしり紀行』を大いに参考にさせていただきました。紅山さんの本は、私の知的好奇心にこたえ、とても面白くてよくわかる。ヨーロッパを旅する人にとって、最良の手引書です。感謝!!)。

       ★

<アルペン街道を走る>

 10月11日、フュッセンのホテルを8時に出発。

 今日の一日も、盛り沢山である。

 まず、この旅のハイライトであるノイシュヴァンシュタイン城を見学。

 そのあと、同じルートヴィヒ2世が建てたリンダーホーフ城へ。

 さらに、オーバーアマガウで、民家の壁画を見る。

 そこから州都ミュンヘンの郊外へと北上し、バイエルン王国の夏の離宮を見学する。

 その後、ミュンヘンに入り、旧市街の中心部を歩く。

 以上、5カ所の見学を終えると、さらに夜の8時からホフブロイショーを見ながらの夕食である。

 毎日、何も考えずにバスに乗り、つまみ食いするように次々と見学しながら移動。盛り沢山で何となく満腹感だけは残る。

 そして、最終日には「まだまだ素敵な企画が沢山ありますから、別のツアーにもご参加くださいね、またお目にかかりましょう」と、まあ旅行社の企画ツアーはこんな感じだ。

       ★   

 2日間かけて走ったロマンチック街道は、ヴュルツブルグから南下してバイエルンアルプスの山懐の町フュッセンに到る街道である。アルプスが国境となり、その向こうはオーストリアだ。

 そのロマンチック街道を、レンタカーを借り、おとぎ話のような町を訪ねながらやって来た人も、自転車で走破した若者も、終点のフュッセンまでやって来て、ここで旅は終わりと思う人はいない。

 フュッセンの町からもう少しだけバイエルンアルプスに分け入った山塊に、ひっそりとそびえる白亜の城ノイシュヴァンシュタイン城がある。この美しい城を見たいと思って、人々はロマンチック街道を南下してくる。ロマンチック街道の本当の終点はノイシュヴァンシュタイン城なのだ。

 そして、そこはもう、「ドイツ・アルペン街道」に位置している。

 「アルペン街道」は、ドイツとオーストリアを分ける北東アルプス山脈のドイツ側を、西から東へと、岩塊や、湖や、牧草地や、童話的な小さな町を縫いながら450キロを走る街道で、北から南下してきた「ロマンチック街道」とはフュッセンで交わっている。

 ということで、このツアーの最後の2日間は、「ドイツ・アルペン街道」の旅である。

   ★   ★   ★

<白鳥の騎士とノイシュヴァンシュタイン城>

 フュッセンのホテルを出るとすぐに樹間の上り道となり、バスは少しずつ高度を上げながら、山懐深くへ入っていく。

 すると、牛の群れが草を食む緑の野と、その上に聳える峩々たる岩峰が現れ、その中に白亜の城が見えた。突然で、こういう形でこのお城と出会うとは思わなかった。

  (白亜のノイシュヴァンシュタイン城) 

 城の立地する地は一見緑に覆われた丘に見えるが、ここもまた屹立する岩塊の上である。

 「ノイ」は新しい。「シュヴァーン」は白鳥。「シュタイン」は石(城のこと)。「新白鳥城」である。そう思ってみれば、優雅な白鳥の姿も連想させる城のたたずまいである。

   よく知られるように、新白鳥城はバイエルン王ルートヴィヒ2世が19世紀に建てた城である。

 もちろん彼は、歴史学に興味があって、中世の城をリアルに再現しようとしたわけではない。また、ただ白鳥のように美しい城をつくりたいと思ったのでもないようだ。

 この城は中世の伝説上の英雄・白鳥の騎士ローエングリンの話をイメージして、長い歳月をかけて建設された。王がここに実現したのは中世の「伝説の世界」であり、王自身の「夢の世界」の現実化であった。

 騎士ローエングリンの父は、アーサー王の円卓の騎士の一人である。アーサー王も、円卓の騎士も、中世というより、さらに茫々とした歴史の彼方のケルト神話に登場する伝説上の英雄たちである。

 ローエングリン伝説には沢山のパターンがあるようだが、例えば、白鳥に引かせた小舟に乗って騎士ローエングリンがやって来る。そして、苦境にある姫を助け、悪人を倒して姫と結婚する。ただ、結婚に際して、自分がどこの何者であるかを尋ねないという約束があった。二人の幸福な時間は過ぎ、やがて姫はその約束を破って尋ねる。ローエングリンは自分の素性を明かして、姫の許を去っていく、という話が一般的である。

 日本の民話「夕鶴」(鶴の恩返し)に少し似ている。鶴と白鳥。約束とその破棄と、その結果としての別れ。

 また、フランスの文学者は、日本神話の英雄ヤマトタケルが伊吹山で死んだ後、白鳥となって故郷の大和へ向けて飛び去った話を提示しつつ、遠い昔のユーラシア大陸に共通する「白鳥伝説」の存在を想定した。

 19世紀、ドイツの音楽家ワーグナーは、この伝説を素材としてオペラ『ローエングリン』を作った。(ちなみに、かつて結婚式などでよく演奏された「結婚行進曲」は、ローエングリンと姫との結婚式の時の曲である)。

 青年ルートヴィヒ2世は、ワーグナーを生涯、敬愛した。

       ★  

<ロマン主義思潮の高揚と中世へのあこがれ>

 観光バスを降りて、乗り合いの小型バスに乗り換える。

 小型バスは欧米系の観光客らとともに、樹林の急峻な山道を上って行った。

 もうこれ以上、車では行けないという終点で降り、そこからさらに徒歩で山道を分け入る。

 その先に、深い峡谷に架けられた橋があった。マリエン橋である。

 橋はノイシュバンシュタイン城をドローンで眺望するような位置に架けられていた。

 これぞ、ノイシュヴァンシュタイン城!

 カレンダーやガイドブックの写真でお馴染みの新白鳥城の絶景ポイントだ。

 しばらくこの美しい景色に見とれ、写真を撮った。

 城のこちら側は残念ながら修理中のようだ。それでも、黄葉のまじる緑の中に聳える新白鳥城は、まさに一幅の絵である。こうして見ると、この城が岩山の頂に建てられた城であることがよくわかる。ディズニーの映画『シンデレラ姫』のモデルになったと言われる。ディズニーはドイツ系アメリカ人である。

 新白鳥城の向こう、バイエルンアルプス地方の緑の野や湖も素晴らしい。この背景があってこその新白鳥城である。

 雪の日の写真を見たことがある。四季を通じて、美しい。

 復路は、小型バスに乗らず、三々五々、欧米系の観光客らと相前後しながら、樹林の中を歩いて下った。20分も歩くと、自ずから城の入口にたどり着いた。

       ★

 ノイシュバンシュタイン城の入場は、時間を決めた予約制だ。夏の観光シーズンは終わり、すでに秋も深まっているが、この名城を訪れる観光客は絶えることがない。夏には長蛇の列になるという。予約時間になるまで、城の入口のテラスで待った。

 テラスからの眺望も素晴らしく、飽きることがなかった。城内の見学はいいから、ずっとここにいたいと思った。

 先ほど、この城の全景を俯瞰した峡谷に架かるマリエン橋も遠望できた。あのような危うい所に立って、夢中になって写真を撮っていたのだ。

( 城のテラスから望むマリエン橋)

 テラスを移動して、別の方角を眺めると、峰々の間から立ち上る霧が晴れて、遥か下方にホーエンシュヴァーンガウ城が見えた。

 あの城の下あたりから、小型バスに乗り換えて、樹間の山道を上ってきた。

 (ホーエンシュヴァーンガウ城)

 ルートヴィヒ2世の父マクシミリアン2世によって再建された古城だ。

 城内の壁にはローエングリンをはじめとする中世の伝説を題材にした壁画が描かれていて、ルートヴィヒ2世は幼少の頃からそういう絵画を見て、想像の世界の中で育ったらしい。

 紅山雪夫さんの『ドイツものしり紀行』によると、こうした中世の城の再建は、18世紀の後半に始まったロマン主義思潮が背景にあるという。

 ロマン主義については、遠い昔、学生の頃に勉強した。この新しい文芸思潮を明治の日本に紹介したのは北村透谷。ロマン主義を実際の作品として結実させたのは、島崎藤村の詩集「若菜集」、与謝野晶子の歌集「みだれ髪」。

 「浪漫的」とは、現実でないものにあこがれる心情。

 実利的な現実世界よりも、凛々しい騎士が美しい姫を助ける騎士道物語にあこがれる心情。煩わしいこの地よりも、「山のあなたの空遠く」にあこがれる心情。孤独な放浪の旅にあっては、「兎追ひしあの山、小鮒釣りしかの川」を恋しく思う心情。そういう心情は、忘れられようとする民話や伝説、民俗的な音楽や舞踊、野の花のような工芸品などを発掘し、他民族に支配された地域では滅びかけているわが民族の言語を発掘しようとする取り組みにもなっていった。

 紅山氏は、19世紀になって、ドイツの各地で中世の城を修復したり、歴史的な城の址に新しく中世的な城を造ったりするようになったのは、こういうロマン主義の思潮が背景にあったというのである。

 そういう心情は、ドイツやチェコやハンガリーでは、ドイツ民族、チェコ民族、ハンガリー民族としての民族意識の高揚となり、ドイツでは祖国の統一、チェコやハンガリーでは民族の独立を願う思想へと発展していく。

 ドイツの場合、皇帝といっても今は名ばかりで、中世的な領国支配と都市国家が割拠していたため、近代的な国民国家となったフランスのナポレオンが率いる大軍に攻め入られたとき、ひとたまりもなく制圧されてしまった。

 こうして、ドイツの再統一を求める歴史的なうねりが起きている中、父の死によってわずか18歳のルートヴィヒ2世は王位に就いたのである(在位1864~86)。

 王位に就いても、ルートヴィヒ2世は中世的な空想の世界を夢に見ている若者であった。敬愛するワグナーを招き、惜しげもなく財政的援助を与え続けた。

 そして、人里離れた岩山の上に自分のためだけの城 ── この世のものならぬ中世的な夢の城 ── を造り始めたのである。

 ノイシュバンシュタイン城は着工から8分どおりの完成までに、実に17年間を要した。切り立った断崖の上に城を築くのは大変な難工事で、莫大な工費がかかった。

 にもかかわらず、彼は、王室財政を破綻の淵に追い込むほどの財力を傾けて、その生涯で、新白鳥城を含む3つの城を相次いで建造しようとした。

       ★

<ドイツ統一とルートヴィヒ2世の死>

 入場を待つ間、城の高いテラスから見た牧歌的な景色は素晴らしかった。

 緑の野が広がり、その中を径が行き交い、集落があって、その先に湖と山並みがひらけていた。

 赤い屋根に白壁の小さな教会も見えた。ささやかな塔があって、教会であることがわかる。

 教会の周りに大勢の人々が集まっているのが、芥子粒のように見えた。

 程なく順番が来て、城の中に入り、ガイドの説明を聞きながら、見学した。

 「玉座の大広間」をはじめ、王の日常生活のためのいくつかの部屋。そういう部屋には中世の伝説を題材にした壁画が描かれている。伝説の中に登場するという人工の鍾乳洞の部屋などもあった。

 それだけのものであった。

 外観の美しさに比して、内側の世界は、少々異常で奇妙な世界であった。

 それだけに、テラスから眺めたアルプス山麓の美しい景観が心に残った。

       ★

 若い日のルートヴィヒ2世は、身長が192cmもあり、颯爽とした姿だったという。

 だが、21歳の時に、婚約していた美しい姫との結婚式を直前にして、突如、婚約を破棄してしまった。お似合いだっただけに、臣下たちも民衆も驚いたが、「そんなに急いで結婚しなくても、あんなにカッコいい王様だから、これからいくらでも良縁があるよ」と、みんな鷹揚に受け止め、意に介さなかったらしい。

 しかし、その頃、すでに彼の行動は異常になっていたようだ。

 紅山雪夫氏の『ドイツものしり紀行』によると、死後に遺されていた王の日記から、彼が同性愛者であり、そのことに対する罪の意識と王にあるまじきという自己嫌悪感に苦しんでいたことがわかるという。

 そういうことがあるとすれば、その後の彼の人格の崩壊も納得できるように思う。単に、狂気の王、では痛ましい。

 王は次第にミュンヘンの王宮にも寄り付かなくなり、大事なセレモニーもすっぽかし、アルプス山麓地方に引きこもるようになっていった。

 1866年、ルートヴィヒ2世が20歳の時には、ドイツ統一の主導権をめぐって、プロイセンとオーストリア(ハプスブルグ家)が戦争した(普墺戦争)。バイエルン王国は縁の深かったオーストリアの側に立ったが、プロイセンが完勝した。

 ちなみにオーストリア王妃のエリーザベトはバイエルン王家の出身で、ルートヴィヒより7歳年上。2人は幼馴染で、ルートヴィヒが、生涯を通じてただ一人心を許して話せる人だったという。

 2人ともそれぞれの王家の中で不幸な生涯を送り、不幸な死に方をした。

 1870年、ルートヴィヒ2世が24歳の時、プロイセンと、ドイツの統一を阻止しようとするフランスとの間に普仏戦争が起きた。このときバイエルンは、大軍を送ってプロイセン軍を助けた。

 1871年、この戦争に勝利したプロイセンのヴィルヘルム1世が、ドイツの23の君主国、3つの自由都市を連邦とするドイツ帝国の皇帝となった。日本の明治維新の3年後である。普仏戦争に大軍を送ったバイエルンは皇帝位を交代制にしようと持ち掛けたが、鉄血宰相ビスマルクに一蹴された。プロイセンは鉄と血のリアリズムによってドイツの統一を成し遂げたのだ。

 ルートヴィヒはノイシュバンシュタイン城の建設にかかってから5年目に、並行して、第2の城、リンダーホーフ城の建設を始めた。

 さらにその4年後には、第3の城、ヘレンキームゼー城の建設を始める。ヘレンキームゼー城は、ルイ14世のヴェルサイユ宮殿と庭園を真似しようとしたもので、その工費はノイシュバンシュタイン城の3倍以上が見込まれた。

 ルートヴィヒは昼夜が逆転し、日没後に起きて真夜中に昼食を取るようになっていた。食事の後は、夏は金ぴかの馬車、冬は金ぴかの橇に乗り、夜の田舎道を疾駆したらしい。

 ただ、農民たちとは気さくに話をする良き王であったという。

 40歳になったころの王は、もはや若い頃の姿はなく、太って、歯も抜け、言語不明瞭で、なおも城の建設に国家財政を傾けていた。

 首相以下は決断し、王を拘束し、シュタルンベルク湖のそばのベルク城に連行した。

 王は朝、散歩に出たいと言った。お付きの医師の他に、見え隠れに警備兵が付いた。夕食前にまた散歩を希望し、今回は周囲は安心して医師一人だけが付いて出た。雨が降っていた。夜8時半になっても王は帰らず、大騒ぎとなり、捜索が始まった。午後10時過ぎ、医師が湖畔に倒れた状態で発見された。引っかき傷やあざができ、首を絞められて死んでいた。さらに捜索して王は湖上に遺体となって発見された。解剖の結果、溺死ではなく、急病死と発表された。

 事故死説、自殺説、他殺説がある。

 私は首相以下の謀殺ではないかと直感的に考えたが、紅山雪夫氏は他殺説は根拠に乏しいとする。実際、次の王の予定者は王家の中から既に準備されており、引退、必要なら幽閉すればよく、殺害する必要はない。

 王が自殺を考えた形跡はあるが、彼は泳げるから、入水自殺を企図したとは考えにくいと言う。

 事故死説では、王は逃走しようとしたのかもしれないと、氏は言う。長年の不摂生で不健康な体であり、偶発的とはいえ医師と争って死なせてしまったショック。冷たい雨と湖水。

 この夜、ルートヴィヒがただ一人信頼する幼馴染の王妃エリザベートが、湖畔のホテルに滞在していたのは確かだそうだ。オーストリア、或いはハンガリー、またはスイスへ、亡命させたかったのかもしれない。

 とにかく、ルートヴィヒ2世は、国家財政を傾けるほどの散財をした。その結果、ディズニーの『シンデレラ姫』のモデルとなる美しい城を遺した。

 この白鳥城を見るために、今では世界中から観光客が押し寄せる。普段でも1日に2千人。夏のシーズンには1万人を超えるそうだ。バイエルン地方に落とされるカネはいかほどであろう。

 歴史とは皮肉なものである。一生懸命、民のために善政を施そうとした王が、後世から見て、必ずしも良き王であったとは限らない。ルートヴィヒ2世がバイエルンのために図らずも大きな財産を遺したことは確かである。

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黄金のアウグスブルグと牧場の奇跡 … ロマンチック街道と南ドイツの旅(8)

2020年05月27日 | 西欧旅行…南ドイツの旅

 (車窓から…雨のロマンチック街道)

<アウグスブルグへ>

   午後、アウグスブルグを目指した。

 朝から曇り空だったが、ついに雨模様の天気になった。バスの窓も雨に濡れる。

 「もうすぐドナウ川を越えます」という案内があった。

 一瞬で通り過ぎた。この辺りはまだ大河というには遠く、「ドナウ川」の風格はない。

 それでも、ドナウの水運で開けたドナウヴェルトという中世の町が近くにあるはずだ。

※  この2年後、「ドナウ川の旅」に出かけた。ツアーではなく個人旅行だったからいっそう心に残った。その旅のことはまだブログに書いていない。このブログを始めたのは、もう少し後の2012年である。ただ、その旅を記念して、私のブログのタイトルは「ドナウ川の白い雲」とした。

 ネルトリンゲンから約70キロ。バスは小雨降るアウグスブルグの町に入った。

 田舎の風景が一変し、瀟洒なトラムが走っている。木組みの家はなく、石造りの大きな建物が並ぶ。

 久しぶりに都会にやって来たという感じだ。路面が雨に濡れている。

      ★ 

<皇帝マクシミリアン1世のこと>

 (雨のマクシミリアン大通り)

 マクシミリアン大通りの名は、ハプスブルグ家の皇帝・マクシミリアン1世(在位1493~1519)に由来する。

 若き日のマクシミリアンは「最後の騎士」と称えられる凛々しい青年だったらしい。

 父も長く皇帝位にあったが、実態は尾花打ち枯らした小領主だった。当時、選帝侯たちは、力のない皇帝を好都合と考えていたのだ。

 青年マクシミリアンは、ブルゴーニュ公国の美しい姫と見合いをし、結婚した。ブルゴーニュ公国は、ネーデルランドの商業都市も支配していた豊かな国で、見合いはしたが、両家のあまりの財力差に、一旦話は立ち消えになった。だが、跡継ぎは姫一人だったから、姫の父は、あの凛々しい若者を忘れられなかったのだ。

 お似合いのカップルで、夫婦仲も良かった。二人の間にできた男女の子どもたちは、後にスペイン王家の男女の子どもたちと結婚し、孫はスペイン王としてはカルロス1世、神聖ローマ帝国皇帝としてはカールⅤ世 (在位1519年~1556年)となった。

 皇帝マクシミリアン1世はアウグスブルグが好きで、しばしばこの地を訪れ、帝国議会も開催した。皇帝が来てくれれば町のPRにもなり、商売も繁盛するから、市民たちは大歓迎したのだろう。

      ★

<町の起源はローマに遡る>

 ここまでの旅で立ち寄ったおとぎ話に出てくるような町は、いずれも民族大移動期の混乱が治まりつつあった10世紀頃を起源とする中世都市だった。

 アウグスブルグも同じ時期に再スタートした町であるが、町のそもそもの起源はローマ時代に遡る。

 紀元前1世紀のローマは、ユリウス・カエサルに率いられた軍団がライン川流域をほぼ制圧し、ローマの東の防衛線をライン川とした。しかし、北の防衛線とすべきドナウ川流域は未だ「蛮地」のままだった。

 後を継いだ初代皇帝アウグストゥス(在位BC27~AD14) のBC15年頃、ローマ軍はドナウ川への前進基地として、この地に駐屯地を築いた。

 その後、さらに前進したローマ軍は、AD10~30年頃、かつての駐屯地を後方支援の町として植民した(退役したローマ兵が土地の女性と結婚して住み着く)。町の名は、皇帝アウグストゥスの名に因んでアウグスタ・ウィンデリコルムと名付けられた。ドイツでは2番目に古い町だそうだ。

 もちろん、アウグスタ・ウィンデリコルムは、アルプスを越え、首都ローマに通じるローマの街道網に組み込まれた。

 ちなみに、ドイツの南西部の森に発したドナウ川は、東へと流れていき、レーゲンスブルグ、パッサウ、オーストリアに入ってリンツ、ウィーン、方向を南へ変えつつハンガリーのブタペスト、さらにブルガリアとルーマニアの国境を流れて、黒海に流れ込む。この間の各都市、レーゲンスブルグもウィーンもブタペストも、ローマ帝国の北辺を守るローマ軍団の駐屯地を起源とする。

        ★

<大聖堂(ドーム)に入る>

 私たちがバスで走ってきた「ロマンチック街道」は、アウグスブルグの町の中に入ると、町の真ん中を、北から南へと貫く大路となる。その一部が「マクシミリアン大通り」である。

 もともと、この道は、古代ローマの街道だった。中世から近世に到るアウグスブルグの繁栄は、このローマ時代の街道がもたらしたものである。

 民族大移動の混乱期のあと、アウグスブルグが再び甦ろうとする8世紀には、いち早く司教座が置かれた。ヴュルツブルグと同様、アウグスブルグも司教都市として発展したのだ。 

 アウグスブルグの大聖堂(ドーム)は、町を南北に貫く大通りに沿って、町のやや北の位置に建っている。 

     (大聖堂)

 ローマ時代のアウグスブルグはこのあたりが町の中心で、中央広場があったらしい。

 10世紀にマジャール人の騎馬軍団が侵攻したとき、司教は神聖ローマ帝国の初代皇帝オットー1世と共に町を防衛した。

   大聖堂の前に像がある。真ん中の像は、馬に乗って指揮する司教である。

   (馬上の司教)

 この大聖堂は9~12世紀にかけて建造されたが、その当時のロマネスク様式の部分と、その後、14世紀に改築されたゴシック様式の部分が混じっているそうだ。 

  (身廊)

 写真では狭く見えるが、堂内は堂々たる5廊式で、写真はその身廊部である。この両サイドに2列の列柱が並んで、それぞれに2側廊がある。

 ステンドグラスは、ドイツでは最古のものらしい。

 中世の大聖堂らしい趣があった。

  (ステンドグラス)

      ★

<黄金のアウグスブルグとフッガー家 

 ローテンブルグの項で、木村尚三郎先生の『西欧文明の原像』の一文を引用したが、アウグスブルグの中世も同様である。

 司教の保護と支配を受けながら経済活動をはじめた商人・手工業者たちは、次第に力を持つようになり、司教の支配に抗するようになる。

 そして、13世紀後半に、市民の自治が前進して、遠くの皇帝権力と結びつき、帝国自由都市となった。

 アウグスブルグの全盛期は15~17世紀で、「黄金のアウグスブルグ」と謳われたそうだ。豪商フッガー家やウェルザー家などが登場し、その活動は全ヨーロッパから新大陸にまで及んだ。

 フッガー家の全盛期は、コロンブスが「アメリカを発見」し(1492年)、バスコ・ダ・ガマがインド到達(1498年)した大航海時代と重なっている。

 フッガー家はヴェネツィアとの交易で財を成したあと、その金を元手にローマ教皇庁に食い込んだ。教皇庁を中心に全ヨーロッパに広がる教会組織網は、キリスト教会から集まる献金、所領から集まる税金、免罪符の販売収入など、扱う金は膨大だ。金融業のフッガー家はその金を取り扱い、「フッガーの代理人が、免罪符を売る僧侶にくっついて歩いた」と言われる。

 ハプスブルグ家の皇帝カール5世は、神聖ローマ皇帝の選挙をめぐってフランス王フランソワ1世と激しく競り合った。そのとき、カールは、フッガー家から莫大な金を借りて選帝侯たちを買収した。カール5世に宛てた手紙が残っているそうだ。「私がご用立てしなければ、陛下は皇帝にお成りになれなかったでしょう」。

 一方で、フッガー家は、生活困窮者のための世界最初の住宅団地を造っている。16世紀に建てられたその住宅群は今も健在で、市当局の管理下にあり、家賃は当時のままの1ユーロだそうだ。

 後に、スペイン王室が破産状態になったとき、フッガー家は巨額の貸し付け金が回収不能となって没落した。ただ、不動産が多く残り、家名を維持することはできたそうだ。(以上は、紅山雪夫『ドイツものしり紀行』と、谷克二、武田和彦『ドイツ・バイエルン州』を参考にした)

       ★

<窓から天使が見下ろす市庁舎>

 市庁舎は町の真ん中あたりに位置し、マクシミリアン大通りの通る一画に建っている。

 17世紀の初めに、ルネッサンス様式で建てられた。

     (市庁舎)

 建物の最頂部には、帝国自由都市の象徴である双頭の鷲の紋章が見える。

 手前の泉に立つ彫像は、古代ローマ帝国初代皇帝アウグストスの像である。

 この市庁舎のイベントが、NHK・BSの『世界で一番美しい瞬間(とき)』に取り上げられた。

 市庁舎の下の広場は、12月に入ると、クリスマス市で賑わうのだが、クリスマスの夜、選ばれた町の幼い少女たち数人が、天使に扮して、市庁舎の高い窓に登場する。ファンタジックで、美しい行事である。

       ★

<その後のアウグスブルグ>

 1806年、神聖ローマ帝国は解体し、アウグスブルグもバイエルン王国に編入された。

 ただ、近世以降、アウグスブルグは、ローテンブルグやディンケルスビュールとは異なる歩みをたどる。

 後者は、近世以降に発展が止まり、人口1~2万人のままで、中世風のメルヘンチックな姿を今に残している。

 一方、アウグスブルグは発展を続け、産業革命を経て近代化・工業化が進んだが、そのため第二次世界大戦では、空襲と戦闘によって町の50%が破壊された。

 「ロマンチック街道」と名付けられたヴュルツブルグからフュッセンまでの間で、唯一、旅人を半分ほど現実世界に呼び戻してくれるような町である。

   ★   ★   ★

<牧場の奇跡・ヴィース教会>

 アウグスブルグから南へ80キロほど走った。「ロマンチック街道」もほぼ終わりである。

 フュッセンに着く前、今日の最後の訪問地、世界遺産のヴィース教会に寄った。

 バスは牧歌的な風景に入り、緑のやわらかい起伏が美しい。小雨に濡れた牧場には牛が放牧されている。ヴィースとは、牧草地という意味らしい。 

  (緑の起伏が美しい牧場)

 緑の中に、白亜の小さな教会があった。

  (ヴィース教会)

 以下は、18世紀の奇跡の話である。

 当地の農家の女性が、修道院で埃をかぶっていた「鞭打たれるキリスト」の木像をもらい受け、牧草地の中にあった小さな礼拝堂に安置した。

 ところが、毎朝、木像の頬に水滴があふれ出ていた。鞭打たれたキリストが泣いていらっしゃる。「これは奇跡だ!! 」。噂が広まり、各地から人々が礼拝堂を訪れるようになった。

 これを聞いた修道院長は自らの不明を恥じ、資金を集めて、野中の小さな礼拝堂の代わりに、立派な「巡礼教会」を建てた。

 キリスト教世界では、農業改革で人々に少しゆとりができ始めた12世紀頃から、聖遺物のある教会や奇跡のあった地へ巡礼する人々が増えていった。それは一種の社会現象となり、該当する教会は巡礼者のために立派な聖堂を建て、また、巡礼者の落とす金でさらに立派な聖堂に成長していった。

       ★

 牧場の中の小径をたどり、緑の中にたたずむ教会の中へ入った。入った途端、思わず小さな声が出た。「えーっ!! 何だ、これは!! 」。

 (ヴィース教会の内部)

 ニュールンベルグの「美しの泉」の金ぴかの塔も、ヴュルツブルグの司教が自分のために建てたレジデンツも、その装飾過多や豪華絢爛さに辟易となったが、この教会の内部空間は、まわりの牧歌的な風景に比して、あまりにも違和感がありすぎた。

 美術史上では、後期バロックにロココ調が加味された様式ということらしい。

 正面祭壇の下部に、「鞭打たれるキリスト」の木像が納められているようだが、よくは見えない。

 木彫りのキリストは、名もない修道士が刻んだのだろうか??

 田園にふさわしい素朴なキリストの木像が、「こんな贅を尽くした、けばけばしい祭壇に飾られるのはイヤだ」と、きっと泣いていらっしゃるに違いない、と思った。「ここは私の住まいではない!! あの小さな礼拝堂の素朴な祭壇へ戻してくれ」。

 新約聖書の福音書に描かれたイエスは、そういう青年であると思う。ヨーロッパ人の感性が、時々わからなくなる。

 その夜は、せせらぎの流れるフュッセンのホテルに泊まった。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

城壁に囲まれた二つの小さな町 … ロマンチック街道と南ドイツの旅(7)

2020年05月18日 | 西欧旅行…南ドイツの旅

  上の写真は、ディンケルスビュールの城壁の外。ヴェルニッツ川の分流を自然の堀としている。メルヘンチックな景色だった。

       ★

 10月10日。2泊したローテンブルグを、朝、出発した。

 今日は、ロマンチック街道を南へ。畑や、牧場や、森や、村の風景の中を、終点のフュッセンまで走る。 

  (バスの車窓から)

 フュッセンに行く途中、午前中に、ディンケルスビュールとネルドリンゲンに立ち寄った。珠玉のような中世の小さな町だ。

       ★

<交通の要衝の「市」が発展したディンケルスビュール>

 以前、高校時代の友人から、ロマンチック街道を旅行したときの話を聞き、写真を見せてもらった。仕事の関係で知り合ったドイツ人が自家用車で案内してくれたそうだ。

 話を聞きながら、そういう旅をしてみたいものだとあこがれた。のどかなロマンチック街道ならレンタカーを自分で運転できるのでは、という誘惑にかられた。しかし、その頃のドイツ車にはナビがなく、そもそもドイツ語のロードマップを見ながら運転するのは大変だ。もちろん、左ハンドルの右側通行。

 もう少し若ければ …。

 友人曰く、「ローテンブルグは比較的大きな町で、観光客が多く、華やか。それにひきかえ、ディンケルスビュールは小さな町で、公共の交通機関がないから観光客も少なく、何と言ってもローテンブルグ以上に中世の姿が残っていて、私は好きだ」。

 私の今回の旅はツアーだから、ディンケルスビュールも、ネルトリンゲンも、過ごす時間は1時間足らずだ。それでも、ローテンブルグに立ち寄った後、アウトバーンをフュッセンまでぶっ飛ばすツアーと比べたら、随分マシなのである。

       ★

 ディンケルスビュールの城壁の外のパーキングでバスを降り、ローテンブルグ門から城壁の中へ入っていった。

   (ローテンブルグ門)

 城門の壁に紋章がある。こういう紋章のデザインにも、中世ヨーロッパを感じる。

 上の写真の紋章の右側は帝国自由都市を示す双頭の鷲。左は市の紋章で、この地方の豊かな穀物の実りを表す3本の小麦の絵柄だ。鷲と比べると、いかにも素朴な紋章である。

  (左右が市の紋章)

 紅山雪夫さんの『ドイツものしり紀行』(新潮文庫)によると、町の周囲を城壁で囲むディンケルスビュールには、東西南北に4つの塔門がある。

   今入ってきた北のローテンブルグ門は、ローテンブルグへ通じる門だ。その街道をさらに北へ北へとどんどん進めば、バルト海に達する。

 反対側のネルトリンゲン門を出れば、このあと訪れるネルトリンゲン、その先にアウグスブルグがある。さらに進めば、オーストリアのインスブルックを経て、ブレンナー峠でアルプス越えし、イタリアに入る。「全ての道はローマに通じる」。古代ローマ時代からの街道だ。

 西の門を西へ進めば水運の盛んなライン川に到り、東の門を出て東に進めば、チェコのプラハを経て、ポーランドのクラクフに到るという。

 ディンケルスビュールはこういう交通の要衝に位置し、10世紀頃に市場町として町が形成されていったらしい。

 13世紀に第一次城壁が築かれ、14世紀に町の規模が大きくなって、現在の城壁に囲まれた町になった。 

       ★ 

 (ドイッチェス・ハウス)

 写真はディンケルスビュールの中心部で、左から2軒目の赤い花を飾る家は「ドイッチェス・ハウス(ドイツ館)」と呼ばれる。

 15世紀に建てられたドイツでも指折りの豪華な木組みの家。もとは豪商の館だったが、今はホテル・レストランとして使われている。

 紅山雪夫さんは、「建物は国宝級なのに、料理の値段はごく普通なのがうれしい」と書いている。

 ドイツの木組みの家と日本の木造家屋との根本的な違いは、日本の家屋が柱と梁によって支えられているのに対し、ドイツの家屋は壁で支えられている点だ。だから、日本家屋は各階を貫く柱が通っているが、ドイツの木組みの家は上へ上へと箱を積み重ねた構造らしい。地震が少ないドイツでは、積み重ねるだけで大丈夫なのだそうだ。良く見ると、1階の柱と2階の柱はつながっていない。

 通りを挟んで、ドイッチェス・ハウスの前には聖ゲオルグ教会がある。

 各自、自由に、中世にタイムスプリットしたような街の中を歩いて、再びバスに戻った。

 30年戦争でも、第二次世界大戦でも被害を受けなかった町は、アウトバーンからも鉄道からも外れて、今は静かに眠っているようだ。

 軒を連ねる店にも、客は少なかった。そういう1軒のショーウィンドウで、青銅製の読書する小さな少女像を見つけて、衝動買いした。帰国後、妹にプレゼントしたが、気に入っているようだ。

 (城門の橋を渡る)

 門を出て、堀に架かる橋を渡り、パーキングの方へ行くと、冒頭の写真のような景色がある。

 友人も同じような写真を撮っていた。川(堀)と、木々と、城壁と、赤い屋根の塔 … この雰囲気がこの町を印象づけている。

    ★   ★   ★

<隕石の衝突でできた盆地の中の町・ネルトリンゲン>

 ネルトリンゲンはディンケルスビュールから近い。30キロほど南へ走った位置にある。

 1500万年も前の話だが、巨大な隕石が激突して、直径25キロのくぼ地をつくった。そのくぼ地は今はリース盆地と呼ばれるが、隕石によってできた痕がこれほどはっきりしている地形は世界でも珍しいそうだ。

 リース盆地は豊かな緑に覆われ、ネルトリンゲンの町はその中にある。

 紀元1~2世紀、ローマ帝国は、アルプスの麓の森に発して南から北へ流れるライン川を東の防衛線とし、東から西へ流れるドナウ川を北の防衛線とした。

 だが、両河の上流部の深い森は、ゲルマン民族の得意とするゲリラ戦に向いている。

 そこで、ライン川とドナウ川とを斜めに結ぶ長い城壁を築いた。リーメスと呼ばれる。

 リーメスには要所に監視所や砦を築いた。その後方に縦横に道路を巡らせ、監視バックアップ用の軍の分屯所を置いた。さらにその後方には、幾つもの分屯所を援護する軍団基地を築いた。ローマの生命線は、軍団が迅速に移動できる道路網だった。

 ネルトリンゲンの町は、そういうローマ軍の分屯所が起源ではないかと考えられている。ローマ兵が1個中隊もいれば、彼らは規則どおりに周囲を堀と防壁で囲む。そこから道路は四方に通じているから、商人たちがやって来て町になる。

 しかし、3世紀の半ばにはゲルマン系のアレマン族に侵入され、ローマ軍は後方のドナウ川まで押し戻されていたらしい。

 バスを降り、ネギ坊主型の屋根のついた塔門をくぐって、町に入った。 

 

 (町のメイン通りに通じる門)

 西ローマ帝国が崩壊し、既にフランク王国の時代になった10世紀頃から、ネルトリンゲンはディンケルスビュール同様、街道上の市場町として再び頭角を現してきたらしい。

 13世紀に帝国自由都市となり、その頃には、第1次城壁が築かれた。

 町は拡張して、14世紀には全長3キロの壁で囲まれた現在の町になる。

       ★

 マルクト広場があり、市庁舎があり、聖ゲオルク教会が建つ。教会にはダニエルの塔と呼ばれる高さ90mの塔がある。

 短い自由見学時間は、この塔に上ると決めていた。

 入場料を払って、塔の中に入り、350段の階段を上がった。

 螺旋階段ではなく、直線的に上がって20段ぐらいで折り返すしっかりした石の階段だったから、汗をかいたが安心して上れた。

 螺旋階段は、ステップの中心側の幅が狭くなって怖い。上りの人と下りの人がすれ違わねばならないような場合は、高度恐怖症気味の私は知らず知らずに緊張する。すると、翌日は筋肉痛になる。過去にフィレンツェのドゥオーモの塔で経験して以来、そういう階段は上がらないことにしている。

 塔上には夜警の小さな部屋があり、部屋を出ると展望が広がって、そよ風が吹いていた。

 (ネルトリンゲンの家並み)

 赤い家並のはずれの位置に、さっきくぐった城門の塔が聳えている。その先には、ローカルな鉄道が通っているのが見える。この町には、本数は少ないが、列車がやってくるのだ。

 (リース盆地)

 家並みのはずれの赤い線は、城壁の屋根だ。城壁の向こうにも少し家並みがあり、その向こうは緑のリース盆地である。

 真下を見ると、小さな町の小さな広場で市が開かれている。

 (小さな町の市民の市)

 塔上には、今でも毎晩、夜警が階段を上がってきて、勤務する。

 谷克二、武田和彦『ドイツ・バイエルン州』(旅名人ブックス)によると、夜警は夜の10時から12時まで30分ごとに、下方の家並みに向かって、「ゾー・ゲゼル・ゾー」と叫ぶそうだ。

 だが、中世の方言らしく、もう誰にも意味が分からない。たぶん、「火の用心」という意味だろうという。

 この町に1泊して、塔から降ってくるその声を聞いてみたいものだ。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ロマンチック街道の出発点ヴュルツブルグ … ロマンチック街道と南ドイツの旅(6)

2020年05月11日 | 西欧旅行…南ドイツの旅

 (マリエンベルク要塞─バスの車窓から)

<隣のレジは、早い> 

 「延立寺は …… 門前に …… 『隣のレジは、早い』と書いて評判を呼んだ。自分の並ぶレジは回転が遅いと思いがちだが、そうして心を乱すことを戒めている。…… お隣の韓国や中国、台湾は一足先に事態を落ち着かせた。日本のレジは遅いが、スマホの個人情報も供出させず、強権的な都市封鎖もとらず、重症者の手当てに集中して収束を目指している。延立寺はこの2か月、『大丈夫』の3文字を貼っている」(讀賣新聞5/2夕刊「よみうり寸評」から)。

   韓国や台湾では、感染すると、当局にスマホやカードを差し出さねばならない。監視カメラも総動員して人との接触を調べられ、行動が丸裸にされる。

 中国は、感染しようとしまいと、全て習近平をトップとした監視社会だ。個人情報が守られるのはただ一人。ナンバー2でも、誰と、いつ、どこで会ったか、いつでも調べることができる。こうなると、謀反はムリだ。

 韓国社会も、そうならないよう気を付けた方が良い。あの政権の、あの時が第一歩だったと、後悔したときにはもう遅い。

 さて、武漢からの第1撃に対し、日本は何とかしのいだ。

 SarsやMersのときは対岸の火事だった割りには、ここまでまずまずの出来だった。

 あのダイヤモンド・プリンセス号の船内の処置も、「NHKスペシャル 調査報告─クルーズ船 … 」を見ると、思っていたとおりだった。

 当時、多くのマスコミは、国(厚生省)の対応に問題があって、船内で感染がどんどん広がっているように報道した。マスコミの報道ぶりは尋常ではなく、人々の不安を煽った。だが、船内に感染が広がったのは、横浜入港前だった。

 船長は、香港で下船した客が感染者であったという連絡を受けていた。にもかかわらず、横浜港入港まで何の対策も取らず、毎日の3回の食事はレストランでビュッフェ形式のままだったし、毎晩のようにダンスパーティやショーが開かれ、巨大な屋形船、或いは、ライブハウス状態になっていた。

 横浜入港後、厚生省が入って、初めて乗客は各自の船室に隔離された。だが、このとき、既に多くの人が感染していたのだ。そして、14日間の繋留中に次々と発症していったのである。感染と発症の間に潜伏期間があり、14日間は国内にウイルスを持ち込ませないために必要な措置だった。

 横浜港繋留後、遅れて、新たに感染・発症したのは乗務員だった。彼らは、厚生省から支給された貴重な防護用のマスクや手袋をきちんと着用せず、互いに感染させ合ったのだ。

 クルーズ船の乗客・乗員合わせて約3700人。うち感染者は約700人。感染者に対する死亡率は1%台。乗客の多くが中高齢者だったにもかかわらず、この死亡率は、その後の日本や韓国、その他のどの国と比べても、群を抜いて低い。疑い深い人がPCR検査が足りなかったというなら、死亡率はもっと低くなる。

 外国人はそれぞれの国へ帰し、日本人の感染者は収容された病院で、一人一人が陰性になったことが見届けられた。文字通り水際でくい止められ、クルーズ船からの国内への感染はゼロだった。

 あのとき騒ぎ立てたマスコミ、「有識者」、コメンテイターたちは、何も反省せず、今も不信感を煽り続けている。

 ただ、クルーズ船の取り組みでわかったことがある。新型コロナウイルスが、どこで、どのように感染し、どのように重症化させるか、そのイヤらしい性質が、初めてわかってきたのだ。一方で、PCR検査能力が足りず、病院のベッド数がすぐに満杯になってしまうこともわかった。

 そこへ、思いがけずもヨーロッパから第2撃がきた。この第2撃にうまく対処できなかった。なぜ?? ヒトやモノが不足しているのだ。

 古今のいかなる戦いも、戦場に着くまでは「補給」が、戦場に着いてからは「指揮官」が勝負を決める

 今、日本が苦戦しているのは、病院、医療者、ベッド数、集中治療室やエクモの数、保健所の能力、PCR検査能力、そして、日本版CDCや法律(ロックダウン法)など、危機への「備え」や「補給」が足りず、当初からやりくりを強いられているのだ。

 太平洋戦争の戦況が深まる中、日本は空母を失い、ゼロ戦を消耗していき、何よりも百戦錬磨のパイロットを失って、最後は戦争における「医療崩壊」状態だった。必要なヒト、モノがなければ、戦いにならない。

 しかし、それでも、今回、「補給」が十分だと報じられたドイツよりも、CDCという強大な組織を持ち、かつ、第1撃を免れて日本より準備期間が長かったアメリカよりも、もっと遥かに準備期間が長かったロシアよりも、日本はずっとうまくやっている。死者数の桁が違う。

 ドイツは、PCR検査も、集中治療室も、エクモも充実していると報じられたが、7000人を超える死者を出している。一体、あの医療施設や機器は何に使われたのだろう??

 スウェーデンは明らかに戦い方を間違えた。英国は途中から戦術を変えたが、既に時遅く、多大の被害を出している。イタリアやスペインやベルギーなどの状況は言うまでもない。

 ヨーロッパには、日本などよりもずっと中国資本が進出していて、春節ともなれば大変な数の中国人が押し寄せる。イタリア北部はその代表的な地だ。EUの中国への警戒感は薄い。日本もアメリカも、ヨーロッパ経由のウイルスに苦しめられている。

 ともあれ、わが国は、相対的にはうまくやってきた。不満を探せば、キリがない。

 ただし、今は、感染者数の「オーバーシュート」も心配だが、倒産件数の「オーバーシュート」も心配である。

 倒産件数が、じりじりと増えている。経済の専門家によると、その右肩上がりのグラフが、ある日、突然、オーバーシュートする。倒産件数が爆発的に増え、「何であんな優良企業が!!」 というような倒産が続く。日本経済が崩壊する。

 テレビのコメンテイターは「経済より、命が大切」などと言う。それは恵まれている人のセリフだ。仕事がなくなった人に、どのように命をつないでいけと言うのだろう。

 そうならないよう、2つの相反するオーバーシュートのグラフを見ながら、収束へ向けてきわどいかじ取りをする。今、日本が直面しているのは、そういう微妙な事態である。

 危機になると、マッチョなことを言い、或いは、大盤振る舞いを主張するポピュリスム(大衆迎合)が台頭しやすい。こういうとき、声の大きいヤツには、注意が必要だ。耳を貸すなら、静かに話す人に。

       ★

<「医療のゆとり」の難しさ>

   平時において、国民皆保険の下、私たちは安価で、しかも、かなり良質の医療を享受してきた。しかし、それはムダを削り、徹底的に合理化した結果であって、非常時に対処する「ゆとり」はない。今回、そういうことがよくわかった。

 明治維新は列強が迫っているという「非常時」の意識によって生まれ、近代化を急いだ。ある時期からはそういう意識が強くなりすぎて、進路を誤ったと言えるかもしれない。

 戦後は、70年間、日本人の頭の中に「非常時」という言葉はなかった。「人に迷惑かけなければ、どう生きようと私の勝手でしょ」という生き方だ。政治家の中に、「非常時」について考えた人もいたが、それを受けとめる空気はなかった。

 仮に、突然、どこかの国が攻めてきたら、自衛隊は第1撃を果敢に防ぐだろう。しかし、第2戦は ── 第1戦で弾を撃ち尽くしていて、防ぎきれず、悲惨な「医療崩壊」に陥る。GDP1%の軍事費では、第2撃を防ぎきれない。

 感染症についても、同じである。

 コロナ収束後、私たちは、医師や検査技師やベッドや高度の医療機器や保健所にゆとりをもたせるため、健康保険料を2倍にするのだろうか、或いは、ドイツ並みに消費税を20%超にするのだろうか?? 国民一人当たりの労働生産性も、ドイツ並みに上げなければならない。

 近年、感染症は日本海を飛び越えて、畜産農家に打撃を与えてきた。だが ── 私たちは先に、獣医師会の既得権益の強固さを目の当たりにした。

 今回のコロナの経験の後でも、日本医師会がやすやすと医師の数を増やすことに同意するとは思えない。それに対して、あえて体を張る首相が、この後に出てくるとも思えない。

 それでは、このままでいくのか??

   いずれにしろ、この世のことは、善か悪かの単純な二元論では決まらない。

 よりマシな解決法を求めていくしかない。

    ★   ★   ★

<ロマンチック街道の出発点ヴュルツブルグ>

   南ドイツを北から南へ走る「ロマンチック街道」 ── その北の起点が、人口約13万人のヴュルツブルグだ。南のゴールはドイツアルプスの麓の町フュッセンで、山の向こう側はオーストリアである。

 だから、「ロマンチック街道」をバスで走るこの旅も、本当は起点のヴュルツブルグからスタートしたら、気分はさらに盛り上がるところだ。

        ★

<「司教領主」の町ビュルツブルグ>

 ビュルツブルグの旧市街の西側に沿って、マイン川が流れている。川に架かるアルテ・マイン橋を渡れば丘があり、丘にマリエンベルク要塞がある。要塞の存在感は圧倒的で、まるで眼下の町を威圧するかのようだ(冒頭の写真)。

 この城塞の城主、言い換えれば、ヴュルツブルグを含むこのあたりの領主に当たる人は、… なんと!! カソリックの司教さまだった。

   西ローマ帝国が滅亡(476年)する前から、本格的な民族移動の混乱の時代に入っていた。このあたりにはゲルマン民族の一部族、フランク族が入ってきた。

 その後、ゲルマン諸族を平定して、フランク王国ができる。

 800年には、フランク王国のカール1世が、教皇から西ローマ皇帝の帝冠を受けた。

 その少し前だが、ローマはヴュルツブルグに司教座を置いた。

 小さな町であったヴュルツブルグにはこれというリーダーがいなかったから、もめ事を裁いたり、必要な税を集めたり、町の防衛の音頭を取ったりしたのは司教さまだった。こうして、司教の元に行政組織がつくられていった。

 そして、またもや赤ひげ皇帝フリードリヒ1世が登場する。彼は、ビュルツブルグで結婚式を挙げ、さらに1168年、ヴュルツブルグにおいて帝国議会を開催した。そして、実質的なこの地方の行政者であった司教を「司教領主」とし、フランケン公の称号を与えたのだ。

 こうして、バイエルン王国に併合されるまで、司教さまが君臨する町になった。

      ★

<マルクト広場へ>

 バスを降り、マイン川を渡って、ヴュルツブルグの町に入る。

 マイン川は、ドイツの東部から流れてきて、フランケン地方を通り、フランクフルトを経てライン川に合流する。

 マイン川に架かる橋の名はアルテ・マイン橋。アルテは確か古いという意味だから、マイン川の古い橋ということか。橋の欄干には12体の聖人像が立っていた。

 この橋はマリエンベルグ要塞とマルクト広場とを結ぶ橋だから、多くの観光客が行き来している。

   (アルテ・マイン橋)

 橋を渡ると、すぐにマルクト広場に出た。広場の周りに、市庁舎や大聖堂が建つ。

 大聖堂をさらに進めば、この町の第一の観光スポットである、世界遺産のレジデンツに到る。

 だから、要塞からレジデンツのわずかな距離の間に、ヴュルツブルグの観光の粋が集まっている。

 街路にはレストランのテラス席が並んで、観光客がビールやワインを飲みながら、食事をしていた。

  (テラス席)

 我々もその中の1軒に入って、昼食を取った。

 ちなみにヴュルツブルグは、みずみずしい白ワイン、フランケンワインの本場である。少し甘みがあって、ひと口目は美味だが、私のような酒飲みには飽きがくる。 

 聖キリアン大聖堂のファーサードには、青い尖がり帽子のついた鉛筆のような2つの塔がある。

  (大聖堂)

 パリのサン・ジェルマン・デ・プレ教会と似ていて、11、12世紀の古いロマネスク様式だが、第二次世界大戦後に再建された建物である。

 例によって、中には入らなかった。

       ★

<レジデンツを見学する>

 歴代の大司教は、13世紀からマリエンベルク要塞を居城とした。

 だが、要塞は、堅固ではあっても不便なことこの上ない。ついに、丘を下りることにしたのは、18世紀になってからである。

 街の真ん中に絢爛豪華なレジデンツ(宮殿)が建てられた。バラの花が美しい庭園も造られる。そして、1720年から住まわれるようになる。

 ドイツ・バロック様式を代表する建造物である。

  (レジデンツ)

 中に入って見学した。

 大理石の大階段や、天井画があり、豪華な部屋の装飾は金ぴかのロココ調だった。

 世界遺産ということで、ヴュルツブルグで唯一、このツアーの見学場所として選ばれたのだが、ニュールンベルグの泉の塔と同様、多分、日本人の多くはあまり感動しないだろう。そんなことを思いながら説明を聞いた。美にはさまざまあり、好みもあるが、絢爛豪華さを競うだけのものなら、ヴェルサイユ宮殿を見てしまうと、もうそれ以上のものはない。

 (20世紀に建て替えられたとはいえ)、12世紀のロマネスク様式のあの大聖堂のような装飾過多ではない素朴さに、私たちは親しみを感じる。

 外に出ると、レジデンツ前の広場を、女の子がスケートに乗って、というか、石畳みの道を押して、下校していた。服装といい、背負ったバッグといい、自由で良い。

(ヴュルツブルグの小学生)

       ★

<魔女裁判が行われた町>

 魔女裁判などというものは暗黒の中世のことだと思っていたが、そうではないらしい。

 西洋史ではふつう、西ローマ帝国が滅亡した476年から、コンスタンティノープルが陥落し東ローマ帝国(ビザンチン帝国)が滅亡する1543年までを中世とする。

 中世においては、教皇をトップとするカソリックが、組織的に「異端裁判」を行った。ショーン・コネリー主演で映画化された『薔薇の名前』にも出てくる。

 しかし、「魔女裁判」は、もっとローカルなレベルで行われた。

 魔女裁判が最も多発したのは16世紀から17世紀にかけてで、既に近世に入っていた。ある地方においてカソリックの司教が主導したケースもあるが、異端裁判のように教皇を中心とした組織的なものではなく、また、プロテスタントの支配的な地域でも同様に起こっている。

 研究者によると、ヨーロッパ各地で行われた魔女裁判で、推定4万人から6万人の人々が残虐な拷問を受け「魔女」として火あぶりにされた。

 ヴュルツブルグでは、1582年にヴュルツブルグ大学が創設されている(その大学の出身者にシーボルトがいる)が、そのような町でも、1626年から1630年の間に激しい魔女狩りが行われた。

 この間に、司教区全体では900人以上、ヴュルツブルグ市だけで200人もの人が、拷問の末に火刑にされた。

 「魔女」という言葉は必ずしも適切な日本語訳ではないようだ。「悪魔」に魂を売ったとされて、男性もたくさん処刑されている。魔女裁判に批判的だった市の有力者や有識者までが、「魔女」として処刑された。

 なぜこのような嵐が、ヨーロッパの各地に起こったのだろうか??

 昨年、高橋義人先生(京都大学名誉教授)の講演を聴いた。

 魔女をめぐるヨーロッパ人の意識の古層の話だった。

 ローマ以前、ヨーロッパ各地にケルト人が住んでいた。彼らの多くはローマ化したが、英国の一部とか、スペインのガルシアとか、アイルランドに、その文化や宗教的なものが残った。日本に永住したラフカディオ・ハーンも、そういう一人だった。彼は多神教的な日本に安住の地を見出したのだ。

 時代が下って、ローマの支配地にゲルマン民族が入ってきたが、彼らもキリスト教化される前、彼らの宗教や文化・習俗をもっていた。

 キリスト教が汎ヨーロッパ的に広がったと思われる中世において、都市には司教がいたが、農村部の教会の司祭の教養レベルや神学理解は必ずしも高くはなく、一般の農民は文字を読めなかった。そういう農民たちの意識の中には、もやっとしたキリスト教理解と同時に、ケルト的なものや、ゲルマン的な教えや文化が混じり合って残った。

 例えば、ハロウィンは今も残る非キリスト教的な祭りである。冬の悪霊を追い出し、母なる大地(地母神信仰)に春を迎えようとする行事だ。冬の悪霊に打ち勝つために自分たちも奇怪な面をかぶった。(日本のナマハゲや節分なども同じような行事だ)。

 このような祭りは、一神教のキリスト教から見れば、忌むべき異教的習俗である。ゲルマン民族の集落に布教に入った初期キリスト教の司祭は、これらを「悪魔信仰」として否定した。彼らは初めて「悪魔」という言葉を知った。

 ちなみに、悪霊と悪魔は違う。将門の悪霊も、道真の悪霊も、人々の祈りによって「善霊」に変わった。悪魔は、絶対悪だ。

 キリスト教は年月を経て農民の中に浸透していったが、土着的な信仰や文化の一部はキリスト教化しつつ残り(サンタクロースの話)、また、ハロウィンのように異教的なまま残った。

 たとえ表面上は消えてしまっても、農民たちの意識の底には、キリスト教信仰とまじりあいながら、土着的なものが残っていったというのである。

 だが、この説明では、人々の意識の古層にある「魔女」という存在は何となく説明できるが、近世になって、なぜそのように激しい「魔女狩り」がヨーロッパ各地に起きたのかという理由は、わからない。

 魔女狩りとは何であったのか?? まだまだ十分に解明はされていないようである。

 ただ、広い意味での「魔女狩り」は古代からあり、現代にもある。ヨーロッパではユダヤ人が、アメリカでは黒人がその対象となったことは、広く知られている。

 近世において、「魔女」の多くは、隣人、知人の密告、告発から始まったらしい。そして、魔女裁判を行う側には、自分たちは「神の側」「正義」という思い込みがあった。

 現代日本社会において、匿名をもって批判・非難・攻撃するネットの世界は、まさに「魔女狩り」の土壌である。「密告」とか「告発」に相当するのは、週刊誌の新聞広告や電車の吊り看板だろう。それに火をつけるのは、テレビのワイドショー。

 私は箒に乗って空を飛ぶおばあさんが好きである。

 多くの場合、叩く側にデモーニッシュなものを感じる。

                         ★

<その後のヴュルツブルグ>

 1945年、英空軍による17分間の爆撃で、ヴュルツブルグの5000人以上が犠牲となり、町の中心部の90%近くが破壊された。

 しかし、この町の住民たちも、焼け跡の中から立ち上がり、窮乏の中、自分たちの居住区や大聖堂を、破壊前と同じように再建した。

       ★

 バスは、ヴュルツブルグから、日の傾いた「ロマンチック街道」を、今夜の宿のローテンブルグへと走った。

 明日は、ローテンブルグから終点のフュッセンまで走る。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カール4世とニュールンベルグ … ロマンチック街道と南ドイツの旅(5)

2020年05月02日 | 西欧旅行…南ドイツの旅

 (ペグニッツ川に架かるムゼウム橋から)

 今回のブログのニュールンベルグに関す記述は、谷克二、武田和秀著『ドイツ・バイエルン州 ─ 中世に開花した南ドイツの都市物語 ─ 』(旅名人ブックス)の中の「ニュールンベルグ」の章が大変詳しく、参考にさせていただきました。お礼を申し上げます。

    ★   ★   ★

<町の起こり>

 この日(2009、10、9)はローテンブルグに滞在して、バスでニュールンベルグとヴュルツブルグを観光した。

 ニュールンベルグの今の人口は50万人強。南ドイツ(バイエルン州)ではミュンヘンに次ぐ第2の都市である。

 南ドイツを東西に走る「古城街道」の東の起点で、さらに東へ、国境を越えて街道を進めば、チェコの首都プラハに到る。

 地理的には、東方貿易によって栄えた海洋都市国家ヴェネツィアと西欧とを結ぶ交易路に位置していた。神聖ローマ帝国の皇帝たちが300回もこの町にやって来たのも、東方貿易による富が運ばれてきていたからだ。

 1050年ごろ、現在の町の北の丘に、通商路を守るため小さな城と望楼が築かれた。

 城ができると安全が担保される。商工業者が次々とやって来て住み着き、城の丘から南の方向へ扇状に町は広がっていった。

 そして、1180年、ローテンブルグと同様に、赤ひげ皇帝・フリードリヒ1世が城塞を拡張・完成させた。

 神聖ローマ帝国の皇帝は、(自領を持つ有力領主であったが)、首都を置かなかった。臣下や従者を引き連れて帝国内を移動し、行く先々で議会を開いたり、争いの裁定をしたりしながら、この世俗世界を治めたのである。子分を引き連れ、肩で風切って町を歩く親分に似ていなくもない。

       ★

<ペグニッツ川を経て中央広場へ>

 北から南へと発展したニュールンベルグの町の真ん中を、東から西へペグニッツ川が流れている。

 我々はバスを降りて、町の南の大きな城門をくぐり、北へ向かってぶらぶらと歩いて行った。

 町は全長約5キロに渡る、高くて頑丈な城壁で囲まれ、いくつかの城門が聳えている。

 冒頭の写真は、町の中央部を流れるペグニッツ川に架かる橋からの光景である。写真スポットで、誰でも絵葉書のような写真が撮れるのだそうだ。

 橋を渡ると、中央広場=ハウプト・マルクトに出る。

 中近世には、この広場で、エジプトや中東、シルクロード、インド、遠くは中国からヴェネツィアを経て運ばれてきた商品が、高価な値段で取引された。

 今は、市民のための食料市場である。

 下の写真の左端に見えている大きな建物は、皇帝カール4世が建てた聖母教会だ。

  (中央広場=ハウプト・マルクト)

 広場のテントの下には、みずみずしい野菜や果物や花が並んで、色鮮やかだ。

       ★

<仕掛け時計とカール4世のこと>

 広場の一角にある聖母教会のファーサードには仕掛け時計があり、定時になると皇帝カール4世の人形が7人の選帝侯とともに現れる。

 

 (聖母教会の仕掛け時計)

 この年の1月に、冬のプラハに行った。街路の隅には雪の塊が残っていて、覚悟していたとおり寒かったが、「百塔のプラハ」と言われるにふさわしい中世的な美しい町だった。

 カールは、チェコ語ではカレル。ボヘミア(現在のチェコ)の王家に生まれた。皇太子時代に聖ヴィート大聖堂を建てた。この大聖堂の壊れたステンドグラスの一画は、チェコの画家ミュシャ(1860~1939)による補修で、実に美しい。

 カールはボヘミア王になると(在位1346~1378)、プラハ大学を創設した。アルプスより北、ライン川より東にできた最初の大学である。プラハの旧市街から王宮へ向かうとき、ヴルタヴァ川を渡る。そこに架けられた美しい橋は、この皇帝の名を冠して「カレル橋」と呼ばれる。

 1355年に、神聖ローマ帝国の皇帝カール4世となった。戦いよりも文人皇帝の誉れが高い。今でもチェコでは国民から最も崇敬を受ける「偉人」である。

 そのカール4世とニュールンベルグの関係は、今回、調べるまで知らなかった。

 歴史上、カール4世と言えば、金印勅書を公布した皇帝である。

 その場所が、ここ、ニュールンベルグだった。

 勅書の趣旨は、以後、皇帝は世襲の7選帝侯の選挙によって選ばれるとしたことだ。さらに、選ばれた皇帝は、第1回の帝国議会をニュールンベルグで開催することとなっていた。ということで、歴代皇帝のこの町の訪問は、通算すると300回にも及ぶらしい。

 この仕掛け時計のある聖母教会も、カール4世が建てさせた教会である。

 そういうわけで、この町にとって、カール4世は非常に縁の深い皇帝なのだ。

       ★

<美しの泉の金の塔>

 広場には泉がある。

 「美しの泉」と呼ばれ、八角形の水盤があり、高さ19mの金ぴかの塔が建っている。14世紀に造られた塔で、4段になり、40もの浮彫の像や文様で飾り立てられている。

  (美しの泉の塔)

 ニュールンベルグの富の象徴でもあるが、日本人の感覚ではいささか成金趣味と思える。秀吉も金の茶室を造らせたが、金の茶室は豪華であっても、もう少しシンプルでシックなものだったに違いない。

 ただし、秀吉の茶の師匠の利休は、そういう秀吉の趣味をきらった。定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけれ」や世阿弥の「秘すれば花」という美意識は、現代の日本人の感性の中に息づいている。

 塔を囲う鉄格子に小さな金の輪がはめ込まれている。添乗員によると、その輪を3回回しながら願い事を唱えれば、願いが成就するという。なぜ輪がそこにあるのかというちょっとした悲恋物語も説明された。金の輪の前には欧米の観光客の列ができていて、そこに日本人の観光客も並ぶ。何百年も人々に触られた金の輪は、ピカピカに光っていた。

 触って願いを唱えれば願いが成就するという類いの話は、ヨーロッパを観光していると、あちこちにある。一神教の世界も、相当に迷信好きなのだ。

       ★

<強固な城壁を巡らせた町>

 ニュールンベルグは皇帝たちが300回も訪れ、帝国議会も開かれた。皇帝が訪れたときの居城は、丘の上のカイザー・ブルグだ。

 皇帝が不在のとき、城の管理は町に委ねられた。町が自由に使って良いとされたのだ。

 丘を登り、城塞の門をくぐって城門の中に入り、城内の説明を受けたが、これというほどのものはなかった。城は洋の東西を問わず、あっけらかんとしている。

  (城塞の門)

 ただ、深さ60mという井戸はすごかつた。ガイドが水を落とすと、数秒もたってから音がする。敵に包囲されたとき、この井戸の水は、命の水だった。

 城塞の丘からの眺望は良かった。

    (城塞から)

 もう一度、バスの駐車場へと町の西側を、南へ向かって散策しながら歩いた。

   屋根の下に、箒(モップ??)にまたがって空を飛ぶ魔女がいた。面白い!!

  (空を飛ぶ魔女)

 出窓は富の象徴として、裕福な家で造られたそうだ。

    (出窓は富の象徴)

 外から見ると、出窓というより、飾り立てられたカプセルに見える。

 だが、室内の出窓のあたりは、やわらかい日差しが差し込む心地よい空間で、主人が読書したり、瞑想したり、娘がまだ見ぬ貴公子を夢見たりしたのかも知れない。

 市民たちの富は、町を囲う城壁にも注ぎ込まれた。税を納め、一旦急あれば、自ら町の防衛に当たるのが「市民」である。

 領主(貴族)連合の7千の軍勢の攻撃を受けたことが2度もあるが、市民たちは撃退した。

 17世紀の前半の、ドイツ全土を荒廃させた30年戦争のときも、ニュールンベルグは戦禍の外にあった。

 富を惜しまず、頑丈な城壁を築いてきたお陰である。

 しかし、19世紀初め、ナポレオン戦争の後、ローテンブルグ同様に、ニュールンベルグもバイエルン王国に併合され、都市国家の時代は終わった。

       ★

<その後のニュールンベルグ … 廃墟の中から>

 第二次世界大戦のとき、ニュールンベルグは連合軍の絨毯爆撃によって町の9割が破壊された。ナチス党がこの町で第1回党大会を開催したから、見せしめにされたのである。

 「ニュールンベルグ裁判」も行われ、「東京裁判」へと続いた。

 破壊されたのはニュールンベルグだけではない。ドイツの多くの都市が、旧市街の6割とか、7割とかを破壊されている。ドイツを旅していると、行く先々でそういう話を聞く。

 驚くのは、そういう廃墟の中から、市民たち(「おかみ」ではない)が、いち早く立ち上がり、街並みを復元させていったことだ。ニュールンベルグにおいても、周囲5キロの城壁の中は中世の街並みを取り戻した。

 フランスは第二次大戦のとき、ドイツによって防衛線が粉砕されたあと、侵攻してきたドイツ軍にあっさり降伏した。その後、連合軍が上陸して、ドイツ軍との戦闘もあったが、幸いにもパリは燃えず、地方の都市も大規模な破壊には至らなかった。

※ ヨーロッパでは、第一次世界大戦(日本はほとんど参戦していない)における若者の戦死傷者のあまりの多さと悲惨さに深い反省があった。だから、ヨーロッパにおける第二次世界大戦の戦死傷者は、第一次世界大戦の約10分の1である。フランスの早い降伏には、そういう事情もある。

 一方、ドイツは最後まで降伏せず、首都ベルリンまで攻め込まれ、市街戦を演じ、最後はヒトラーの自殺で終焉を迎えた。その結果、各都市は壊滅し、「国家」そのものも崩壊して、国土の東半分をソ連、西半分を米、英、仏によって分割統治された。

 国土が焦土と化したのは日本も同じである。

 だが、ドイツでは、市民が、壊滅した市街 ── 15世紀、16世紀、17世紀の街並み ── を、記憶を呼び起こし、残された写真を見ながら、大聖堂などの歴史的文化財に至っては可能な限り焼け跡に残された元の石材を集め、時には古い時代の不透明なガラスまで製造して、忠実に、再現・再興したのである。こうして市民たちは、今見る伝統的な街並みを取り戻した。

 それは、ドイツだけではない。ナチスドイツによって破壊されたポーランドの町においても同様だった。

 スクラップ・アンド・ビルドで済ましてはいけないものもある。

 市民たちは「自分の町」 … 言い換えれば、その歴史と文化を継承しようと力を合わせたのだ。そこが、すごい。

 私がヨーロッパを旅する動機の一つである。

 本来、根っこのない「個人」など存在しない。過去から伝えられたものがあり、未来への責務もある。

    ★   ★   ★

 かなり駆け足で、ニュールンベルグを見たあと、ヴュルツブルグへ向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中世そのままの町・ローテンブルグ … ロマンチック街道と南ドイツの旅(4)

2020年04月11日 | 西欧旅行…南ドイツの旅

       (ローテンブルグの町)

 お伽の国のようなローテンブルグの町と、ロマンティックなノイシュバンシュタイン城(白鳥城)。この2つが今回の旅の目的である。

 今朝、ハイデルベルグを見学し、バスで古城街道を走った。途中、2カ所に寄って、午後4時過ぎ、タイムスリップしたような中世の町・ローテンブルグにやって来た。

 2度目である。

 最初の訪問は10数年の前。視察研修旅行中の日曜日で、心あわただしく訪れ、ただ感動した。その感動をもう一度確かめたくて、このツアーに参加した。

 日差しはやや赤みを帯びて斜光となっていたが、この時期のドイツの日暮れは遅い。まだ見学時間はある。

 ホテルに荷物を置いたあと、添乗員の引率でマルクト広場や聖ヤコブ教会などを見学。そのあと、夕食までの時間がフリータイムになった。

 (鍛鉄製の看板)

       ★

 今回のブログ(ロマンチック街道と南ドイツの旅(4))の記述の多くは、紅山雪夫『ドイツものしり紀行』(新潮文庫)の受け売りである。この本の最初の項が「ローテンブルグ」で、ローテンブルグという町の歴史や見どころが非常によくわかるように書かれている。私は傑作だと思う。

 もう少し大きく、ヨーロッパの中世とはどんな世界だったのかという点については、木村尚三郎氏(元東大名誉教授・西洋史学)の『西欧文明の原像』(講談社学術文庫)を読んで、頭の中にすっきりとイメージができた。

 広大な森がある。森は人間を寄せ付けない。

 悪代官の手を逃れ森の中に逃げ込んだ人々。そのリーダーとなって悪代官と戦ったのが、十字軍から帰って来た騎士ロビンフッドである。

 森にはいろんな動物が棲んでいる。クマもいるが、人間にとって森の王者はやはりオオカミだ。赤頭巾ちゃんの話にも悪役として登場する。満月の夜にオオカミに変身する男もいる。

 そのような森が切り開かれて、畑や牧場があった。川の流れがあり、村があり、領主の館もある。

 村と村との間は、深い森が隔てていた。そんな森をヘンゼルとグレーテルはさまよった。

 村から森の中へと続く一筋の道をたどるのは商人で、彼らは有力な領主の城のある所に集まって居住するようになる。こうして町ができるが、最初はせいぜい数百人規模の町だったろう。 

    町は商工業者が開いたから、その中心はマルクト広場である。マルクトはマーケット。市が立つ広場である。市は定期的に立ち、遠近からやって来た商工業者たちが取引をした。取引は公正でルールに則ったものでなければならないから、いわば公設の市となり、広場に面して市庁舎が建てられた。また、広場の一角か、広場の近くには、その町の中心となる教会があった。町が大きくなると、司教座が置かれる教会になった。

 下の写真の左手に少し見えるのがローテンブルグ市の市庁舎。その横にのぞく塔は、聖ヤコブ教会。ヤコブはこの町の守護聖人である。

 写真の正面の建物は市参事宴会館。三角形の破風の部分に仕掛け時計が見える。 

   (マルクト広場)

 ローテンブルグは神聖ローマ帝国皇帝によって認められた帝国自由都市だった。つまり、近辺の封建領主の支配する領土と同様に、いわば一つの国家として、自治が行われた。

 都市の行財政や防衛などを仕切ったのは、市の参事会である。

 市参事は町の有力大商人から選ばれ、市長もその中から選ばれた。

 市長と市参事の本拠となった建物が市庁舎だ。領主や王の館と同じだから、当然、それは町を代表する建築物でなければならない。ヨーロッパを旅すると、例えばウィーンの市庁舎は、オーストリアの国会議事堂よりも大きく、華麗である。そして、今でも、年に一度、市民が集まって大舞踏会が催され、ワルツが踊られる。

 写真正面の市参事宴会館は市庁舎に付属する建物で、市長や参事は特権としてここで宴会や舞踏会を開くことができた。この当時、一般市民には開かれていない。彼らは無給だったから、これが彼らの唯一、最高の晴れやかな特権だったのだ。

       ★

 ツアーの一行はマルクト広場で解散し、夕食まで自由時間になった。そこで、予定していたとおり、ブルグ公園へ向かった。

  (ブルグ門をくぐる)

 メルヘンチックな街を抜け、町の西のブルグ門を出ると、「ブルグ公園」がある。ベンチがあり、城壁の跡があって、その向こうに黄葉したタウバー渓谷が広がっていた。 

   (ブルク公園)

 ローテンブルグの全体図を見ると、左を向いた人の顔(頭から首にかけて)に似ている。ただし、鼻が高い。天狗の鼻である。

 ブルグ門を出た「ブルグ公園」が、その鼻の部分に当たる。つまりここは、タウバー渓谷に半島のように突き出した丘なのだ。公園のベンチから見える向こうの家並みは、渓谷を隔てたローテンブルグの町だ。

 10世紀、ローテンブルグ伯がこの鼻の部分に当たる、タウバー渓谷を見下ろす丘の上に城を築いた。三方が谷なので、東側だけ塞げばよい。さっきくぐったブルグ門が東側を防ぐ城の城門だ。ブルグは城のこと。当時は堀があり、跳ね橋が架けられていたが、今は、城はなくなって公園となり、ただブルグ門のみが残る。この城がローテンブルグの町の起こりであり、また、町の名の由来でもある。

 ブルグ門を出て東へ、マルクト広場へ通じる300mほどの道があるが、ヘルンガッセという。今もローテンブルグのメイン・ストリートである。城ができた当時、この道は野中の一本道だったが、何かあれば城内に逃げ込むことができるから、各地から商工業者たちがやって来て住み着き、道沿いに商店を開いて城下町をつくった。最初にヘルンガッセ沿いに店を開いた商人たちは、その後、町が拡張していくにつれて、町を牛耳る大商人になっていく。商工業者たち=市民たちから見れば、ローテンブルグの発祥の地はローテンブルグ城ではなく、このヘルンガッセであったということもできる。「ヘル」とはもともと「偉いさん」という意味らしい。「大旦那通り」である。

 12世紀になると、市民たちは町を囲む(第一次)城壁を築いた。この時代のローテンブルグの城壁の長さは周囲約1.5キロ。左を向いた顔の、頭や首を除いた、正味の顔の部分に相当する小さな町だった。

 最初に城を築いたローテンブルグ伯家は12世紀に断絶し、城はドイツの有力な貴族(領主)シュタウフェン家のものとなった。

 シュタウフェン家の最初の城主になったのは、まだ8歳の子どもだった。のちの皇帝フリードリッヒ1世(赤ひげ・バルバロッサ 在位1152年~90年)である。日本でいえば、源平合戦から鎌倉幕府ができる頃だ。その後代々、皇帝の居城の一つであったが、やがてシュタウフェン家も断絶し、地震で城は倒壊した。

 以後、商工業者の町として発展したローテンブルグは、1274年に当時の皇帝から帝国自由都市の名を得る。封建領主と同じように、自治が認められたのである。

 この頃、第一次城壁の中は狭すぎて人家が城壁の外に大きく広がっていた。そこで、城壁の大拡張が行われる。顔の部分だけだった町が、頭部全体の大きさになり、城壁の全周は約2.7キロになった。

 15世紀に入って、城壁はさらに南の方に拡張された。横顔の首の部分である。

 こうして、現在見る中世都市ローテンブルグができあがった。

 木村尚三郎氏は、『西欧文明の原像』(講談社学術文庫)の中で、このように述べている。ローテンブルグの歩みが、ヨーロッパの中世都市の発展と軌を一にしていることがわかる。 

 「まず城ができ、商人・手工業者たちが、敵の来襲に際してすぐ城中に逃げ込めるよう、城の近辺に移り住み、封建貴族の保護と支配を受けながら経済活動をはじめ」、

 「やがて彼らの人数が多くなるとみずから居住部分を城壁で囲むようになる」。

 「こうして成立した都市は、やがて貴族の支配から脱して遠くの中央権力(国王、皇帝)と結び、これから特許状を付与されて(12、13世紀)、新たにその保護と支配をうけ、(近辺の)封建貴族とは対立関係に入り、ことに14、15世紀以降は、貴族権力を弱めつつ発展をとげてゆく」。

 ただし、ドイツは皇帝権が弱く、19世紀の初めまで(ナポレオン戦争まで)、封建諸侯や帝国自由都市が300以上もあり、それぞれが独立国のようであった。これらがナポレオン戦争を経て統合されていき、ローテンブルグはバイエルン王国に併合された。

       ★

  (タウバー渓谷と石橋)

  (渓谷を隔てて見る城壁と塔)

 タウバー渓谷を城壁沿いに歩いて散策し、コーボルツェラー門からもう一度城内に入ると、ローテンブルグ第一の撮影スポットの「ブレーンライン」(小広場)に出た。

   (プレーンライン)

 分かれ道になっていて、それぞれの先に塔門があり、それぞれが街道に通じている。全ての道はローテンブルグに通じる、である。

 引き返して、メイン・ストリートのヘルンガッセをマルクト広場の先へどんどん行くと、町の東の門であるレーダー門に到る。

 (レーダー門を出た所から)

 この道をさらに東へ歩くと、「ローテンブルグ駅」に到る。個人旅行の観光客だけが利用するローカルな駅だ。

 そういうことで、レーダー門がローテンブルグの正門の役割をしている。 

 レーダー門のわきから、城壁の上に上がることができた。

 「武者走り」を少し歩いてみる。城外に向かっては矢狭間(ヤザマ)や鉄砲狭間が開けられ、内側は家々の赤い屋根が連なって見えた。   

    (城壁)

 この城壁は第二次世界大戦のとき連合軍の爆撃で破壊され、長い歳月で傷んだ部分も多く、修復・保存のために1m間隔で基金を募った。その結果、この町を愛する世界の人々から募金が集まった。今は、修復された壁に、基金に応じてくれた企業名や個人名を刻んだプレートが1m間隔で嵌め込まれている。日本の企業名を刻んだプレートもあった。 

        ★

 夕食後、もう一度、日の暮れたマルクト広場へ行ってみた。

  (マルクト広場へ )

 商店はとっくに閉まっていたが、広場の建物はライトアップされ、観光客がそぞろに散歩を楽しんでいた。

 (ライトアップされたマルクト広場)

 黒いマントの男は、「中世の夜回り」である。観光客とともに、火の用心の夜回りをする。学生アルバイトだろうから、もちろんチップは必要だ。

 市参事宴会館の仕掛け時計が8時を示した。定時である。

   (仕掛け人形)

 左の窓からはティリー将軍、右の窓からは市長のヌッシュの人形が現れ、ヌッシュ市長が巨大なワインジョッキのワインを一気飲みする。三十年戦争の時の一場面である。

 時は17世紀。戦いに明け暮れた中世ヨーロッパのいかなる戦争をも超える悲惨な戦争だった。戦争は新教(プロテスタント)側と旧教(カソリック)側との戦いとして始まった。

 ローテンブルグ市民は新教側に付き、旧教派軍の包囲戦に耐え抜いた。しかし、ついに刀折れ矢尽きて開城する。

 自らの軍隊の消耗も激しかった旧教軍を率いるティリー将軍は、「市参事は全て斬首。全市は兵士たちの略奪に任せたあと、焼き払う」と宣言した。

 町中の女子供がマルクト広場に集まり、ティリー将軍の前にひざまづいて嘆願したが、無駄だった。

 参事たちは将軍にワインを飲ませ、ほろ酔い機嫌になったところでヌッシュ市長が進み出て、3.25リットル入りの大ジョッキにワインを注ぎ、これを一気飲みして見せると言う。「できるものか」と言う将軍に対して、「もし飲み干せたら町を焼かずに助けてほしい」と言う。ほろ酔いの将軍は約束してしまった。ヌッシュ市長は大ジョッキを抱え、ぐびぐびと10分間かけて一気飲みし、飲み干して倒れ気を失った。

 こうして町は救われ、今も毎年10月30日には、この事件を記念して、町中の老若男女の市民たちが敵味方に分かれ、当時のいでたちに扮装して、劇として再現する。

   ★   ★   ★

<閑話 … ウイルスとたたかうフランスとイタリア>

 毎日、新コロナウイルスのことが報道される。武漢に続いて西ヨーロッパの悲惨な状況を映像で見、また、テレビやネットに批判と不平不満が氾濫する日本の現状を見聞きするにつけ、気分が鬱状態になる。それで、お天気の良い日にはウォーキングに出て、春景色を楽しんでいる。体も大切だが、桜を愛で、ウグイスの声に耳を傾ける心の余裕も大切だと、つくづく思うこの頃である。

       ★  

 ところで、ヤフーニュースによると、パリ在住の作家・辻仁成氏が、4月6日、現地の様子を日本テレビでリポートしたそうだ。ニュースの中に、辻仁成氏は、「何より驚いているのは、徹底した個人主義のフランス国民が、みんなで一丸になって頑張ろう、という気持ちになり、政府の言いつけを守っていることだ」と述べた、と書かれている。

 ムムムッ。この言い方はちょっとおかしい。中世都市について書いたついでに、少し触れておきたい。

 辻氏は、本来、フランス国民は政府の言うことに従わない「反政府」の国民であり、それは彼らが「徹底した個人主義」の国民だからだと考えているようだ。

 敗戦後の日本に、「人に迷惑をかけなければ、何をしようと個人の勝手。それが民主主義というものだ」という風潮があった。それを突き詰めると、「もしどこかの国が攻めてきたら逃げますね。国とか社会とかより、個人が大切でしょう」ということになる。

 辻氏は、こうした自身の中ある価値観を、フランス国民という鏡に反映させて、自分を映して見ているのだ。

 ヨーロッパの中世都市国家は封建領主から自由を勝ち取ったが、勝ち取った自由を守り抜くのは、また市民たち自身である。市民たちは自らに納税の義務と防衛の義務を課した。自分たちのカネと力を合わせて、「わが町」を城壁で囲み、家族と隣人と「わが町」を守ろうとした。でなければ、いったい誰が守ってくれるだろう??

 そういう「市民精神」の気概の上に、西洋の「個人主義」はある。「市民精神」とは、簡単に言えば、みんなは一人のために、一人はみんなのために、という精神である。その前提の上に、各自の家の中のことは各自の勝手、というのが、西欧の「個人主義」である。

 パリの街を歩けば、杖を突いた老人や障害者が信号を渡ろうとするとき、そばを歩いている誰かが当たり前のように腕を取り、一緒に渡る光景を目にする。

 パリの街で、ベランダや窓に洗濯物を干した光景を見ることはない。美しい街並みを維持するために、洗濯物を外に干すことは、法律で禁じられているのだ。

 リスボンやヴェネツィアでは、小道をはさんだ向かいの窓からこちらの窓へと、色とりどりの洗濯物が風になびいて、それはそれで風物詩になっている。

 ただ、パリっ子は「パリは、世界一、美しいパリでなければならない」と考え、この法律を支持し、「私権を侵すから反対」などと言わないのだ。時に、「私」よりもパリ(「全体」)が優先する。それがパリであり、ヨーロッパだ。

 (ポルトガルのポルト)

                      ★

 4月7日付の讀賣新聞に、ウイルスと苦闘するイタリアからのレポートがあった。ジャーナリストの内田洋子氏の寄稿である。その一部を引用する。

 「(イタリアの)農協の調査によれば、外出禁止になってから小麦粉の売り上げが2倍に伸びたという。朝起きたら、母親が焼いたビスケットがある。ハート形だ。父親と一緒に粉から作るピッツァは世界一おいしい。バリカンで自分の髪をカットしてくれる高校生の姉に、小学生の弟は『失敗しても気にしないで。髪はまた生えてくるから』と、礼を言う。

 皆がバルコニーに出て歌ったのは、単にイタリア人が陽気だからではない。独りにさせない。隣人を気遣い、安否を確認し合う。泣かないために笑う、からなのだ。

 『生きていたら、経済のどん底からも必ず立ち直れる。物事の重要さの順位を肝に銘じ、弱い人を守り、他人への責任を果たしましょう』

 大統領と首相のこの言葉を受けて自宅待機を続ける国民が今、ウイルスに侵されてなるものか、と一生懸命に守ろうとしているものは、人としての品格ではないか」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古城街道を走る … ロマンチック街道と南ドイツの旅(3)

2020年03月26日 | 西欧旅行…南ドイツの旅

         (古城街道をゆく…車窓から)

< ロマネスク様式のシュパイヤー大聖堂 >

 ハイデルベルグを出発し、バスは一旦、西へ。ライン川のほとりの町シュパイヤーへ向かった。ここには、世界文化遺産のシュパイヤー大聖堂がある。

 シュパイヤー大聖堂は、1030年に神聖ローマ帝国皇帝コンラート2世の命によって起工され、1061年にハインリッヒ4世によって献堂された。ロマネスク様式の聖堂で、地下には皇帝や妃や司教らの棺があるそうだ。ただし、今はプロテスタントの教会である。

 なお、ハインリッヒ4世とは、あの「カノッサの屈辱」の皇帝である。強くなる教皇権とたたかった皇帝だ。

 (大聖堂への森の小径)

 樹木の繁った森林公園の中を、大聖堂へ向かって歩く。秋の落ち葉の道に、バイオリンを弾く人がいた。

 大聖堂は、奥行きが133mあり、ロマネスク様式の教会としては世界最大規模とされる。塔に特徴がある。 

 (大聖堂の西正面)

    フランスのルイ14世の軍に攻撃されて焼かれたりしたが、修復された。ふつう、修復される過程で、ゴシック様式とかルネッサンス様式とか、その時代、時代の新しい様式で補修される場合が多い。しかし、この大聖堂は純粋なロマネスク様式を今にとどめているそうだ。

  (ティンパヌムの彫刻)

 中には入らなかったから、印象は薄い。

 団体ツアーでこういう宗教施設を訪れても、中には入らない。入っても、ちょっと覗いてすぐに出てしまう。添乗員も、今も信者が通う生きた教会に、異教徒の群れを引き連れてぞろぞろと入っていくのは気が引けるだろう。それに、ヨーロッパはどこも、外国人の添乗員が自国の文化遺産について、勝手に説明することを法で禁じている。ガイドできるのは、勉強して、その国のガイド試験を受けて合格した、プロのガイドだけだ。

 そういうわけで、本当に西洋文化の深層に少しでも触れる旅をしたければ、個人で旅するしかない。

 日本の寺や神社は、今、中国人らの団体が押し掛け、傍若無人に大声でしゃべり、自撮り写真を撮り合い、一度も手も合わせることなく去っていく。彼らにとって、寺や神社はたいして面白くもない「観光施設」で、興味の対象は別にある。しかも、隣国の添乗員が反日的な説明をしても、とがめることができない。

 日本の寺や神社を回る欧米の観光客は少ないが、彼らはほとんど個人旅行者で、寺や神社でのマナーはおおむね良い。日本人よりおくゆかしい人もいる。

 日本も、団体客に対するプロの日本人ガイド制を創設するべきだと思う。大量に押し寄せる近隣国の観光客に対して、マナーを守らせること、そして、日本の文化を誇りをもって伝えること。そのためには外国人添乗員のガイドを無法状態にしておいてはいけない。

 (遠足の子ら)

 小学生の高学年か、中学生か、遠足で大聖堂に来ていた。見ていると、女の子もなかなか活発だ。

         ★   

ネッカー川沿いに古城街道をゆく

 ここから、東へと向かう。今日の最終目的地はローテンブルグだ。

 「古城街道」は、ドイツの南部地方を東西に走る観光ルートである。

 西の出発点(到達点)は、ネッカー川がライン川に合流する町マンハイム。

 マンハイムからネッカー川に沿って東(上流の方)へ走ると、ハイデルベルグに至る。

 さらに、所々に現れる河沿いの丘の上の古城を見ながら走り、しばらくして南へ遡るネッカー川と別れて、街道をさらに東へと進む。

   (古城街道をゆく) 

 やがて、「古城街道」はドイツの南部地方を南北に走る「ロマンチック街道」と交差する。交差するところにある町が、城壁で囲まれ中世そのままの趣を残す町ローテンブルグである。

 (古城)街道は、ローテンブルグからさらに東へ進んで、ニュールンベルグが東の終点(出発点)になる。

 ただし、ニュールンベルグからさらに東へと街道は伸び、国境を越えてチェコに入り、やがてプラハに達する。

 プラハまでを想定すると、遥かなる旅であり、ロマンを感じる。

 「古城街道」といい、「ロマンチック街道」といい、ドイツ観光局の見事なネーミングで、言葉は言霊(コトダマ)となって、世界から観光客を呼び寄せた。特に日本人には、中世のお城や騎士やお姫様や魔法使いが大好きだから、人気が高い。

 ヨーロッパと比べると、日本の観光戦略は立ち遅れており、まだ後進国である。

 バスの車窓から、所々に小さな城を見ながら、ネッカー川沿いの道を走った。

        ★

< 城塞都市バード・ヴィンブフェン >

 列車だとハイデルベルグから1時間の所にバード・ヴィンプフェンがある。ネッカー川の谷と丘の上にできた町だ。この町に立ち寄り、昼食をとった。

 町の起こりは古代ローマ時代に遡る。ゲルマンの侵攻に備えて、ネッカー川の谷に城塞が築かれ、ローマ軍の分遣隊が駐屯した。

 ローマが滅び、フランク王国の時代になると、防御しやすい丘の上に城塞が築かれた。

 1182年、シュタウフェン家の皇帝フリードリヒ・バルバロッサはこの地が気に入り、居城地の一つとした。そのお陰で町は発展し、帝国自由都市となる。

 勇将バルバロッサは、第3回十字軍の総司令官としてエルサレムに向けて進軍したが、途上、事故死する。そのあとは、イギリスの獅子心王リチャードが十字軍の指揮を執り、イスラムの王にして知者サラディンと戦った。  

  (町のシンボルの青い塔)

 旧市街には木骨組の家々が建ち並び、町のどこからでも、町のシンボルの青い塔が見えた。この塔に上れば、眼下に旧市街とネッカー川の絶景が見えるそうだ。

 昼食後は、ローテンブルグに向かって、バスは走った。

 

  (古城街道をゆく)

           (続く)    

※ これは、2009年10月7日~14日のツアー旅行の記録です。

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青春のハイデルベルグ…ロマンチック街道と南ドイツの旅(2)

2019年09月26日 | 西欧旅行…南ドイツの旅

ハイデルベルグの古城 >

 ハイデルベルグは大学町である。

 だが、この町を訪れる旅行者は、大学よりも、ネッカー川の流れ、橋、川沿いに細長く伸びる旧市街、そして丘の上の古城、これらによって構成された美しい景観に感動する。

 ハイデルベルグの歴史をたずねれば、一番古い住民はホモ・ハイデルベルゲンシス。ヨーロッパで発見された最古の原人であるが、これは異次元の話。

 BC500年ごろ、このあたりには、土器と青銅器をもつケルト人の村があったようだ。彼らは川向うから侵攻してくるゲルマン人に備えて、二重の壁を巡らしていたらしい。

 AD1世紀にはローマ軍がライン川を越えてネッカー川まで侵出し、ネッカー川に橋を架け、その先に城塞を築いて、ゲルマン人に備えた。そこには、たぶん、ローマ軍と共存するケルト系の軍隊もいただろう。

 西ローマ帝国が滅び(476年)、ゲルマン人の各部族が西ヨーロッパに侵入してカオスの状態が生じた。やがてフランク族が勢力を増し、このあたりも制圧した。

 フランク王国はキリスト教化し、今のフランス、ドイツ(神聖ローマ帝国)、イタリアの原型をつくった。

 12世紀に、神聖ローマ帝国の皇帝が、ライン川一帯を統治するプファルツ伯(ライン宮中伯)を置いた。

 13世紀以後、ヴィッテルスバッハ家がプファルツ伯となってこの一帯を統治し、ネッカー川を見下ろす丘の上に本格的な城塞を築いた。そしてその麓には、城壁で囲った町がつくられる。ただし、この時代のヨーロッパの町は、ヴェネツィア、ミラノ、フィレンツェ、パリなどを除けば、せいぜい人口2~5千人規模であったらしい。町とは、もちろん、商工業活動の行われる区域であり、そこの主は、商人たちである。

 ( ハイデルベルグ城址 )

 1356年にプファルツ伯は6選帝侯の1人となり、1386年には神聖ローマ帝国で3番目の大学を創設した。現在のドイツで、最古の大学である。

 大学ができると、町は急速に発展した。それで町の拡張が行われ(城壁が広がって)、現在の旧市街の範囲になった。

 17世紀の後半、プファルツ選帝伯のヴィッテルスバッハ家が断絶し、その相続権を主張してフランスのルイ14世が大軍を派遣したため、プファルツ継承戦争が起こった。時代はすでに大砲の時代だったから、フランス軍によって城は破壊されてしまった。フランス軍が去った後、城の修復が行われたが、山の上の城は居住性が悪い上に、大砲の時代には無用の長物で、結局、廃城となった。

 大学は19世紀に再建された。

 また、そのころ起こったドイツ・ロマン主義の運動の中で、廃城と美しいネッカー川の絵のような景観が愛され、多くの著名な詩人・文学者が訪れる町になった。 

       ★

ハイデルベルグ城址に上る >

 ハイデルベルグ城は山城である。歴史好きなら、そこに至る険峻なルートを登ってみるべきなのだが、山の裏側からケーブルカーで簡単に上がった。

 ケーブルカーを降りると、そこは城の裏手で、城山公園である。  

 広場を横切り、ネッカー川の谷に向かってかろうじて残っている城の建物の中を抜けると、テラスに出た。そこから、ハイデルベルグの町とネッカー川が一望できた。

 ハイデルベルグとは、すなわちこの城のテラスからの眺めであろう。そう言って良いほどの美しい景色である。(→冒頭の写真)。

 

  ( アルテ橋 )

 旧市街の中心部と対岸との間に架かる橋は「アルテ橋」。古い橋の意だが、ドイツ語の「アルテ」は単に古いというだけでなく、ニュアンスとして懐旧の想いが込められているそうだ。

  学生時代に文学部の授業で、ロマンチシズム・浪漫主義、ロマン風、ロマンチックとは、現実でないものにあこがれる気持ちをいう、とならった。

 懐旧の念もそうだが、例えば、山のあなたの空遠くの異郷にあこがれる気持ち。逆に、異郷にある旅人が遠い故郷を思う気持ち。現実にはありえないような美しい恋にあこがれる気持ち。古代、或いは中世の歴史にあこがれる気持ち。民族に伝わる伝説・伝承への遥かなる思い …… 小説はノベル、物語はロマンス。

 対岸の邸宅風の家々も美しい。

 1995年の旅のとき、あの中の1軒は、当時の女子テニスの世界チャンピオン、シュテフィ・グラフ選手の別荘だと教えられた。やはり、億万長者の邸宅なのだ。  

        ★

旧市街を歩く

 ドイツで最も由緒ある大学・ハイデルベルグ大学 … と言われれば、日本人なら誰しも、樹木の繁る林があり、ロマンチックな時計塔や校舎のある、広くて美しいキャンパスを想像する。だから、「これがハイデルベルグ大学の建物です」と言われて指さされた建物を見れば、相当にがっかりする。

 旧市街の商店街の中に、ちょっとした邸宅風の建物が2棟、向かい合って建っているだけだ。学生たちが建物の門から中に入り、また、出てくる。

 立派な建物であることに違いはないが、森も、背の高い古木に囲まれたグランドも、マリア像の立つロマンチックな校舎も、時計塔の聳える図書館もない。平凡すぎて、写真の撮りようもないくらいだ。

 この2つの校舎以外にも、ハイデルベルグの町の中のあちこちに校舎があり、この2棟が大学のシンボル的な建物だそうだ。

 何だ!! タコ足大学じゃないか、と思う。だが、西洋の伝統のある大学はこういうものらしい。

 ヨーロッパにも、東京帝大とか、京都帝大とか、北海道大学とか、早稲田大学とか、同志社大学とか、ああいう立派なキャンバスをもった大学もあるが、それはずっと後に創立された新興大学なのだそうだ。

 

  ( 旧市街遠望 )

 歩行者天国の通りから大学の建物を見たら、あとはもうあまり興味をもつようなものはない。

 ガイドは、2、3の大きな建物や、学生牢や、学生酒場の前で説明する。丘の上のお城では、拷問道具の説明やら、ワインの大樽の説明もあった。そういう話を観光客は喜ぶのかもしれないが、私にはどうでもよいことのように思える。

 学生牢は、街の中の小屋のような小さな建物で、机や壁には所狭しと自分の名前や、家紋や、自画像などの落書きが書かれていた。酔っ払って街の中で暴れたり、学生同士で決闘したりしてここに入れられたが、そういう若き日のヤンチャは、学生としての誇り、家門の誉れだったようだ。勇気、騎士的・貴族的精神、バンカラで放埓の気風が支配していたのだろう。青春を謳歌していたのだ。バンカラは、浪漫主義の一種である。

 私の生まれた岡山市には、第六高等学校(六高)があった。旧制高等学校(今の大学・教養課程)の生徒は、破れて(わざと破いて)生卵でテカテカ光らせた学生帽、腰には汚れた手拭いをぶら下げ、高下駄を履いて、手には哲学書を持ち、放吟して歩いた。しかし、彼らも大学(帝大)に入ると、帽子は角帽もりりしく、学生服はいつも清潔で、ズボンには折り目がつき、態度も話し方もジェントルマンになったそうだ。庶民は、そういう生徒・学生をわが町の誇りとして受け入れていた。

 旧市街をざっと歩いて、計2時間ほどでハイデルベルグ観光は終わった。これから、途中で2カ所に寄りながら、ローテンブルグへと向かう。

 まさにピンポイント観光で、はい、次へ、はい、次へと、次から次へと案内し、満腹感をもって帰ってもらうのが、旅行社企画のツアーのやり方である。参加者も、「ハイデルベルグ? 行ったよ」。「ローテンブルグ? 行ったよ」、「フランス? 行ったよ」、「スペイン? 行ったよ」と自慢げである。

 本当は少なくとも1日、ここで過ごしたい。そして、アルテ橋を渡り、その向こう岸から、ネッカー川の流れとアルテ橋を手前に、その後ろに旧市街、その上にハイデルベルグ城を配した写真を撮りたい。

 橋を渡った向こう岸の山の中腹に散歩道がある。「哲学者の径」と言われ、多くの文人、哲学者に愛された。その小道を歩いて、ネッカー川の美しい景観を眺めたい。

 半日、ネッカー川の遊覧船に乗って川を遡り、両岸の美しい秋色の景色を味わいたい。

 そして、夜は、ライトアップされたハイデルベルグ城の写真を撮りたい。

 最低限、そういうことを経験して、「ハイデルベルグに行きました」と言えるのではないだろうかと思う。

 とまあ、そういう思いを残しながら、観光バスに乗った。  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

森の国ドイツへ … ロマンチック街道と南ドイツの旅(1)

2019年09月19日 | 西欧旅行…南ドイツの旅

はじめに … これは10年前の旅です >

 今回の旅行記「ロマンチック街道と南ドイツの旅」は、2009年10月に参加したツアー旅行の記録である。

 ブログ『ドナウ川の白い雲』を書き始めたのが2012年だから、それよりも前の旅ということになる。

 その頃、私の旅に同行していたカメラは、アナログの35ミリ1眼レフだった。

 そのカメラがデジタルカメラに替わるには、ちょっとした事件があった。

 2009年の1月、「冬のプラハとパリ」に出かけたとき、パリの凱旋門の下の地下道で、数名のグループの巧妙な手口によってカメラを盗られてしまったのだ。

 カメラがないと旅行する意味が半減する。それで、デジタル1眼レフを新調した。世の中はとっくにデジタルの時代になっていたが、それまでなかなか吹っ切れないでいた。

 というわけで、2009年以前の写真はアルバムとフィルムしか残っていないが、デジタルカメラに変えた2009年以降の写真はパソコンの中に残っている。

 そこで、この際、2009年~2012年の旅の記録もブログに残そうと思い立った。

 というわけで、題材となっている旅は、もう10年も前のことであることを初めにおことわりしておきたい。

 その頃の自分の写真を改めて見ると、まだまだ若くて、驚いてしまいます。

     ★   ★   ★

 < 森の国ドイツへの旅 >

 2009年のツアー旅行で回ったのは、ドイツ観光局が観光用にネーミングした「ロマンチック街道」と「アルペン街道」のほぼ全部、それに「古城街道」の一部である。「南ドイツ」と言って良い範囲だ。

 私のヨーロッパ旅行は、それよりさらに10年以上も前の1995年の秋にはじまる。

 最初は、ドイツ・フランスへの視察研修旅行だった。観光旅行ではないから、私的な観光が許されるのは研修のない土曜日の午後と日曜日だけだった。

 ドイツに着き、フランクフルトに滞在した最初の土曜日にハイデルベルグへ、翌日の日曜日にはローテンブルグへ、一行の人たちとともに行った。視察旅行の添乗員のはからいで、観光バスをチャーターしてもらったのだ。もちろん、費用は自分たちもちである。

 車窓から見る秋色の南ドイツの風景はすばらしく、ハイデルベルグもローテンブルグも、ロマンチックというか、メルヘンチックというべきか、夢のような国だと思った。

 そして、いつの日か、「ロマンチック街道」と名付けられた全行程を走ってみたいものだと思った。

 次は、その1995年の旅の記録の一部である。

初めての異国 ドイツ、スイス、フランス紀行』から (1995、11、10~11、25 自著)

 「ドイツは森の国である。アウトバーンも森の中を通り抜ける。

 ナラ、ブナ、白樺などの落葉樹が黄色、きみどり色、茶色に色づき、森の土は落葉で深々とおおわれている。それらが小雨に煙る風情はすぱらしい。

 森が尽きると、目の覚めるような緑の牧草地や黒っぽい耕作地があらわれ、赤い屋根と白い壁と出窓が印象的な村が見え、やがてまた、森に入る。

 ドイツ人は余暇を自然の中で過ごす。日曜日には家族でキノコ狩りを楽しみ、長期休暇に入ると高校生たちはワンダーフォーゲルの旅に出る。ゴルフは流行らず、ディズニーランドもできなかった。

 彼らは森の民である」。        

 2009年のツアー旅行は、点と点を結んで途中は高速道路をすっ飛ばすというツアーではなく、「ロマンチック街道」の田舎の道を全行程を忠実に走るというツアーを選んだ。

 ツアーゆえのもの足りなさは随所にあったが、城壁で囲まれた中世そのままの小さな町や、ディズニー映画の中に出てくるような美しいお城に感動した。そして、森や、畑や、牧場や、村や、小さな教会や、墓地を、車窓から眺めながら走るバスの旅そのものが楽しく、心に残る旅になった。

     ★   ★   ★

「青春のハイデルベルグ」へ … 2009年10月7日>

 朝、ルフトハンザ航空で関空を出発。

 現地時間の午後3時半、フランクフルトに到着した。

 観光バスに乗り換えて約90キロ走り、夕方、ハイデルベルグのホテルに到着する。

 外はまだ十分に明るく、ホテルの近くのビスマルク広場の商店街を歩いてみたり、ネッカー川の岸辺を散策した。  

 美しい風景の中、学生たちがカッターを漕いでいた。

        ★

 ハイデルベルグは、大学の町である。

 ハイデルベルグ大学の創立は1386年。

 当時、ドイツという国はまだなく、神聖ローマ帝国内では、プラハ大学、ウィーン大学に次いで3番目にできた大学だった。

 もちろん今もドイツの名門大学で、多くのノーベル賞受賞者も輩出している。

 例えば、饗庭孝男は『ヨーロッパの四季』の中で、このように書いている。

 「ハイデルベルグはパリからだと1日1回、朝、直行の汽車があり、あとはマンハイムで乗り換えとなる。

 南の方から入るときはミュンヘン経由だし、北からだとフランクフルトから1時間で、途中森や林を通りぬけてくる。

 町はネッカル河の出口にあたり、平野を走ってこの町に近づいてくると、私の歓びは倍加してくるのであった。

 駅はなお南のはずれにあるから、河や森は見えない。駅で降り、案内所で宿をとったのち、タクシーで町へゆく頃から、河の両側にある森と山が見えてくる。河沿いの道を走り、『アルテ・ブリッゲ』の近くで上がって宿へゆく。

  ( アルテ橋 )

 この河沿いの道から、森にあふれた町のたたずまいを眺めていると、私は懐かしい思いでいっぱいになるのであった。

 この『懐かしさ』というのは、前世からの、といってもよい。

 昔、学生の頃、哲学であればこのハイデルベルグ大学へ勉強しにきたいと思っていた。その意に反して結局は文学を選び、パリ大学へ行ったのである。

 しかし私が昔からその本に馴れ親しんでいた『京都学派』の人たちの多くがここに留学したこと、それに京都の『哲学の径』を歩くと、この町の左側、山の中腹につながる『哲学者の径』を思い出し、いつしか何度もこの町に来るようになったのである」。

 「両岸を見ると、夏草の間をさわやかな風を受け、サイクリングをしている若い人たちがいる。太陽のかがやき、草いきれ、まさに<青春>がそこを駆け抜けていく感がする。子供の頃、よく父が私に大きくなったら「ワンダーフォーゲル」のように旅に出したい、といっていたことを思い出す」。

        ★

 明日は、ハイデルベルグを観光し、そのあとローテンブルグへ向かう。

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする