(マリエンベルク要塞─バスの車窓から)
<隣のレジは、早い>
「延立寺は …… 門前に …… 『隣のレジは、早い』と書いて評判を呼んだ。自分の並ぶレジは回転が遅いと思いがちだが、そうして心を乱すことを戒めている。…… お隣の韓国や中国、台湾は一足先に事態を落ち着かせた。日本のレジは遅いが、スマホの個人情報も供出させず、強権的な都市封鎖もとらず、重症者の手当てに集中して収束を目指している。延立寺はこの2か月、『大丈夫』の3文字を貼っている」(讀賣新聞5/2夕刊「よみうり寸評」から)。
韓国や台湾では、感染すると、当局にスマホやカードを差し出さねばならない。監視カメラも総動員して人との接触を調べられ、行動が丸裸にされる。
中国は、感染しようとしまいと、全て習近平をトップとした監視社会だ。個人情報が守られるのはただ一人。ナンバー2でも、誰と、いつ、どこで会ったか、いつでも調べることができる。こうなると、謀反はムリだ。
韓国社会も、そうならないよう気を付けた方が良い。あの政権の、あの時が第一歩だったと、後悔したときにはもう遅い。
さて、武漢からの第1撃に対し、日本は何とかしのいだ。
SarsやMersのときは対岸の火事だった割りには、ここまでまずまずの出来だった。
あのダイヤモンド・プリンセス号の船内の処置も、「NHKスペシャル 調査報告─クルーズ船 … 」を見ると、思っていたとおりだった。
当時、多くのマスコミは、国(厚生省)の対応に問題があって、船内で感染がどんどん広がっているように報道した。マスコミの報道ぶりは尋常ではなく、人々の不安を煽った。だが、船内に感染が広がったのは、横浜入港前だった。
船長は、香港で下船した客が感染者であったという連絡を受けていた。にもかかわらず、横浜港入港まで何の対策も取らず、毎日の3回の食事はレストランでビュッフェ形式のままだったし、毎晩のようにダンスパーティやショーが開かれ、巨大な屋形船、或いは、ライブハウス状態になっていた。
横浜入港後、厚生省が入って、初めて乗客は各自の船室に隔離された。だが、このとき、既に多くの人が感染していたのだ。そして、14日間の繋留中に次々と発症していったのである。感染と発症の間に潜伏期間があり、14日間は国内にウイルスを持ち込ませないために必要な措置だった。
横浜港繋留後、遅れて、新たに感染・発症したのは乗務員だった。彼らは、厚生省から支給された貴重な防護用のマスクや手袋をきちんと着用せず、互いに感染させ合ったのだ。
クルーズ船の乗客・乗員合わせて約3700人。うち感染者は約700人。感染者に対する死亡率は1%台。乗客の多くが中高齢者だったにもかかわらず、この死亡率は、その後の日本や韓国、その他のどの国と比べても、群を抜いて低い。疑い深い人がPCR検査が足りなかったというなら、死亡率はもっと低くなる。
外国人はそれぞれの国へ帰し、日本人の感染者は収容された病院で、一人一人が陰性になったことが見届けられた。文字通り水際でくい止められ、クルーズ船からの国内への感染はゼロだった。
あのとき騒ぎ立てたマスコミ、「有識者」、コメンテイターたちは、何も反省せず、今も不信感を煽り続けている。
ただ、クルーズ船の取り組みでわかったことがある。新型コロナウイルスが、どこで、どのように感染し、どのように重症化させるか、そのイヤらしい性質が、初めてわかってきたのだ。一方で、PCR検査能力が足りず、病院のベッド数がすぐに満杯になってしまうこともわかった。
そこへ、思いがけずもヨーロッパから第2撃がきた。この第2撃にうまく対処できなかった。なぜ?? ヒトやモノが不足しているのだ。
古今のいかなる戦いも、戦場に着くまでは「補給」が、戦場に着いてからは「指揮官」が勝負を決める。
今、日本が苦戦しているのは、病院、医療者、ベッド数、集中治療室やエクモの数、保健所の能力、PCR検査能力、そして、日本版CDCや法律(ロックダウン法)など、危機への「備え」や「補給」が足りず、当初からやりくりを強いられているのだ。
太平洋戦争の戦況が深まる中、日本は空母を失い、ゼロ戦を消耗していき、何よりも百戦錬磨のパイロットを失って、最後は戦争における「医療崩壊」状態だった。必要なヒト、モノがなければ、戦いにならない。
しかし、それでも、今回、「補給」が十分だと報じられたドイツよりも、CDCという強大な組織を持ち、かつ、第1撃を免れて日本より準備期間が長かったアメリカよりも、もっと遥かに準備期間が長かったロシアよりも、日本はずっとうまくやっている。死者数の桁が違う。
ドイツは、PCR検査も、集中治療室も、エクモも充実していると報じられたが、7000人を超える死者を出している。一体、あの医療施設や機器は何に使われたのだろう??
スウェーデンは明らかに戦い方を間違えた。英国は途中から戦術を変えたが、既に時遅く、多大の被害を出している。イタリアやスペインやベルギーなどの状況は言うまでもない。
ヨーロッパには、日本などよりもずっと中国資本が進出していて、春節ともなれば大変な数の中国人が押し寄せる。イタリア北部はその代表的な地だ。EUの中国への警戒感は薄い。日本もアメリカも、ヨーロッパ経由のウイルスに苦しめられている。
ともあれ、わが国は、相対的にはうまくやってきた。不満を探せば、キリがない。
ただし、今は、感染者数の「オーバーシュート」も心配だが、倒産件数の「オーバーシュート」も心配である。
倒産件数が、じりじりと増えている。経済の専門家によると、その右肩上がりのグラフが、ある日、突然、オーバーシュートする。倒産件数が爆発的に増え、「何であんな優良企業が!!」 というような倒産が続く。日本経済が崩壊する。
テレビのコメンテイターは「経済より、命が大切」などと言う。それは恵まれている人のセリフだ。仕事がなくなった人に、どのように命をつないでいけと言うのだろう。
そうならないよう、2つの相反するオーバーシュートのグラフを見ながら、収束へ向けてきわどいかじ取りをする。今、日本が直面しているのは、そういう微妙な事態である。
危機になると、マッチョなことを言い、或いは、大盤振る舞いを主張するポピュリスム(大衆迎合)が台頭しやすい。こういうとき、声の大きいヤツには、注意が必要だ。耳を貸すなら、静かに話す人に。
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<「医療のゆとり」の難しさ>
平時において、国民皆保険の下、私たちは安価で、しかも、かなり良質の医療を享受してきた。しかし、それはムダを削り、徹底的に合理化した結果であって、非常時に対処する「ゆとり」はない。今回、そういうことがよくわかった。
明治維新は列強が迫っているという「非常時」の意識によって生まれ、近代化を急いだ。ある時期からはそういう意識が強くなりすぎて、進路を誤ったと言えるかもしれない。
戦後は、70年間、日本人の頭の中に「非常時」という言葉はなかった。「人に迷惑かけなければ、どう生きようと私の勝手でしょ」という生き方だ。政治家の中に、「非常時」について考えた人もいたが、それを受けとめる空気はなかった。
仮に、突然、どこかの国が攻めてきたら、自衛隊は第1撃を果敢に防ぐだろう。しかし、第2戦は ── 第1戦で弾を撃ち尽くしていて、防ぎきれず、悲惨な「医療崩壊」に陥る。GDP1%の軍事費では、第2撃を防ぎきれない。
感染症についても、同じである。
コロナ収束後、私たちは、医師や検査技師やベッドや高度の医療機器や保健所にゆとりをもたせるため、健康保険料を2倍にするのだろうか、或いは、ドイツ並みに消費税を20%超にするのだろうか?? 国民一人当たりの労働生産性も、ドイツ並みに上げなければならない。
近年、感染症は日本海を飛び越えて、畜産農家に打撃を与えてきた。だが ── 私たちは先に、獣医師会の既得権益の強固さを目の当たりにした。
今回のコロナの経験の後でも、日本医師会がやすやすと医師の数を増やすことに同意するとは思えない。それに対して、あえて体を張る首相が、この後に出てくるとも思えない。
それでは、このままでいくのか??
いずれにしろ、この世のことは、善か悪かの単純な二元論では決まらない。
よりマシな解決法を求めていくしかない。
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<ロマンチック街道の出発点ヴュルツブルグ>
南ドイツを北から南へ走る「ロマンチック街道」 ── その北の起点が、人口約13万人のヴュルツブルグだ。南のゴールはドイツアルプスの麓の町フュッセンで、山の向こう側はオーストリアである。
だから、「ロマンチック街道」をバスで走るこの旅も、本当は起点のヴュルツブルグからスタートしたら、気分はさらに盛り上がるところだ。
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<「司教領主」の町ビュルツブルグ>
ビュルツブルグの旧市街の西側に沿って、マイン川が流れている。川に架かるアルテ・マイン橋を渡れば丘があり、丘にマリエンベルク要塞がある。要塞の存在感は圧倒的で、まるで眼下の町を威圧するかのようだ(冒頭の写真)。
この城塞の城主、言い換えれば、ヴュルツブルグを含むこのあたりの領主に当たる人は、… なんと!! カソリックの司教さまだった。
西ローマ帝国が滅亡(476年)する前から、本格的な民族移動の混乱の時代に入っていた。このあたりにはゲルマン民族の一部族、フランク族が入ってきた。
その後、ゲルマン諸族を平定して、フランク王国ができる。
800年には、フランク王国のカール1世が、教皇から西ローマ皇帝の帝冠を受けた。
その少し前だが、ローマはヴュルツブルグに司教座を置いた。
小さな町であったヴュルツブルグにはこれというリーダーがいなかったから、もめ事を裁いたり、必要な税を集めたり、町の防衛の音頭を取ったりしたのは司教さまだった。こうして、司教の元に行政組織がつくられていった。
そして、またもや赤ひげ皇帝フリードリヒ1世が登場する。彼は、ビュルツブルグで結婚式を挙げ、さらに1168年、ヴュルツブルグにおいて帝国議会を開催した。そして、実質的なこの地方の行政者であった司教を「司教領主」とし、フランケン公の称号を与えたのだ。
こうして、バイエルン王国に併合されるまで、司教さまが君臨する町になった。
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<マルクト広場へ>
バスを降り、マイン川を渡って、ヴュルツブルグの町に入る。
マイン川は、ドイツの東部から流れてきて、フランケン地方を通り、フランクフルトを経てライン川に合流する。
マイン川に架かる橋の名はアルテ・マイン橋。アルテは確か古いという意味だから、マイン川の古い橋ということか。橋の欄干には12体の聖人像が立っていた。
この橋はマリエンベルグ要塞とマルクト広場とを結ぶ橋だから、多くの観光客が行き来している。
(アルテ・マイン橋)
橋を渡ると、すぐにマルクト広場に出た。広場の周りに、市庁舎や大聖堂が建つ。
大聖堂をさらに進めば、この町の第一の観光スポットである、世界遺産のレジデンツに到る。
だから、要塞からレジデンツのわずかな距離の間に、ヴュルツブルグの観光の粋が集まっている。
街路にはレストランのテラス席が並んで、観光客がビールやワインを飲みながら、食事をしていた。
(テラス席)
我々もその中の1軒に入って、昼食を取った。
ちなみにヴュルツブルグは、みずみずしい白ワイン、フランケンワインの本場である。少し甘みがあって、ひと口目は美味だが、私のような酒飲みには飽きがくる。
聖キリアン大聖堂のファーサードには、青い尖がり帽子のついた鉛筆のような2つの塔がある。
(大聖堂)
パリのサン・ジェルマン・デ・プレ教会と似ていて、11、12世紀の古いロマネスク様式だが、第二次世界大戦後に再建された建物である。
例によって、中には入らなかった。
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<レジデンツを見学する>
歴代の大司教は、13世紀からマリエンベルク要塞を居城とした。
だが、要塞は、堅固ではあっても不便なことこの上ない。ついに、丘を下りることにしたのは、18世紀になってからである。
街の真ん中に絢爛豪華なレジデンツ(宮殿)が建てられた。バラの花が美しい庭園も造られる。そして、1720年から住まわれるようになる。
ドイツ・バロック様式を代表する建造物である。
(レジデンツ)
中に入って見学した。
大理石の大階段や、天井画があり、豪華な部屋の装飾は金ぴかのロココ調だった。
世界遺産ということで、ヴュルツブルグで唯一、このツアーの見学場所として選ばれたのだが、ニュールンベルグの泉の塔と同様、多分、日本人の多くはあまり感動しないだろう。そんなことを思いながら説明を聞いた。美にはさまざまあり、好みもあるが、絢爛豪華さを競うだけのものなら、ヴェルサイユ宮殿を見てしまうと、もうそれ以上のものはない。
(20世紀に建て替えられたとはいえ)、12世紀のロマネスク様式のあの大聖堂のような装飾過多ではない素朴さに、私たちは親しみを感じる。
外に出ると、レジデンツ前の広場を、女の子がスケートに乗って、というか、石畳みの道を押して、下校していた。服装といい、背負ったバッグといい、自由で良い。
(ヴュルツブルグの小学生)
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<魔女裁判が行われた町>
魔女裁判などというものは暗黒の中世のことだと思っていたが、そうではないらしい。
西洋史ではふつう、西ローマ帝国が滅亡した476年から、コンスタンティノープルが陥落し東ローマ帝国(ビザンチン帝国)が滅亡する1543年までを中世とする。
中世においては、教皇をトップとするカソリックが、組織的に「異端裁判」を行った。ショーン・コネリー主演で映画化された『薔薇の名前』にも出てくる。
しかし、「魔女裁判」は、もっとローカルなレベルで行われた。
魔女裁判が最も多発したのは16世紀から17世紀にかけてで、既に近世に入っていた。ある地方においてカソリックの司教が主導したケースもあるが、異端裁判のように教皇を中心とした組織的なものではなく、また、プロテスタントの支配的な地域でも同様に起こっている。
研究者によると、ヨーロッパ各地で行われた魔女裁判で、推定4万人から6万人の人々が残虐な拷問を受け「魔女」として火あぶりにされた。
ヴュルツブルグでは、1582年にヴュルツブルグ大学が創設されている(その大学の出身者にシーボルトがいる)が、そのような町でも、1626年から1630年の間に激しい魔女狩りが行われた。
この間に、司教区全体では900人以上、ヴュルツブルグ市だけで200人もの人が、拷問の末に火刑にされた。
「魔女」という言葉は必ずしも適切な日本語訳ではないようだ。「悪魔」に魂を売ったとされて、男性もたくさん処刑されている。魔女裁判に批判的だった市の有力者や有識者までが、「魔女」として処刑された。
なぜこのような嵐が、ヨーロッパの各地に起こったのだろうか??
昨年、高橋義人先生(京都大学名誉教授)の講演を聴いた。
魔女をめぐるヨーロッパ人の意識の古層の話だった。
ローマ以前、ヨーロッパ各地にケルト人が住んでいた。彼らの多くはローマ化したが、英国の一部とか、スペインのガルシアとか、アイルランドに、その文化や宗教的なものが残った。日本に永住したラフカディオ・ハーンも、そういう一人だった。彼は多神教的な日本に安住の地を見出したのだ。
時代が下って、ローマの支配地にゲルマン民族が入ってきたが、彼らもキリスト教化される前、彼らの宗教や文化・習俗をもっていた。
キリスト教が汎ヨーロッパ的に広がったと思われる中世において、都市には司教がいたが、農村部の教会の司祭の教養レベルや神学理解は必ずしも高くはなく、一般の農民は文字を読めなかった。そういう農民たちの意識の中には、もやっとしたキリスト教理解と同時に、ケルト的なものや、ゲルマン的な教えや文化が混じり合って残った。
例えば、ハロウィンは今も残る非キリスト教的な祭りである。冬の悪霊を追い出し、母なる大地(地母神信仰)に春を迎えようとする行事だ。冬の悪霊に打ち勝つために自分たちも奇怪な面をかぶった。(日本のナマハゲや節分なども同じような行事だ)。
このような祭りは、一神教のキリスト教から見れば、忌むべき異教的習俗である。ゲルマン民族の集落に布教に入った初期キリスト教の司祭は、これらを「悪魔信仰」として否定した。彼らは初めて「悪魔」という言葉を知った。
ちなみに、悪霊と悪魔は違う。将門の悪霊も、道真の悪霊も、人々の祈りによって「善霊」に変わった。悪魔は、絶対悪だ。
キリスト教は年月を経て農民の中に浸透していったが、土着的な信仰や文化の一部はキリスト教化しつつ残り(サンタクロースの話)、また、ハロウィンのように異教的なまま残った。
たとえ表面上は消えてしまっても、農民たちの意識の底には、キリスト教信仰とまじりあいながら、土着的なものが残っていったというのである。
だが、この説明では、人々の意識の古層にある「魔女」という存在は何となく説明できるが、近世になって、なぜそのように激しい「魔女狩り」がヨーロッパ各地に起きたのかという理由は、わからない。
魔女狩りとは何であったのか?? まだまだ十分に解明はされていないようである。
ただ、広い意味での「魔女狩り」は古代からあり、現代にもある。ヨーロッパではユダヤ人が、アメリカでは黒人がその対象となったことは、広く知られている。
近世において、「魔女」の多くは、隣人、知人の密告、告発から始まったらしい。そして、魔女裁判を行う側には、自分たちは「神の側」「正義」という思い込みがあった。
現代日本社会において、匿名をもって批判・非難・攻撃するネットの世界は、まさに「魔女狩り」の土壌である。「密告」とか「告発」に相当するのは、週刊誌の新聞広告や電車の吊り看板だろう。それに火をつけるのは、テレビのワイドショー。
私は箒に乗って空を飛ぶおばあさんが好きである。
多くの場合、叩く側にデモーニッシュなものを感じる。
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<その後のヴュルツブルグ>
1945年、英空軍による17分間の爆撃で、ヴュルツブルグの5000人以上が犠牲となり、町の中心部の90%近くが破壊された。
しかし、この町の住民たちも、焼け跡の中から立ち上がり、窮乏の中、自分たちの居住区や大聖堂を、破壊前と同じように再建した。
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バスは、ヴュルツブルグから、日の傾いた「ロマンチック街道」を、今夜の宿のローテンブルグへと走った。
明日は、ローテンブルグから終点のフュッセンまで走る。