ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

『谷 干城 ─ 憂国の明治人』 … 読書独り言2

2017年07月06日 | 随想…読書

 最近読んだ本3冊。

〇 高村正彦/ 三浦瑠麗 『国家の矛盾』 (新潮新書)

〇 ピーター・ナヴァロ 『米中もし戦わば』 (文藝春秋)

〇 小林和幸 『谷 干城 ─ 憂国の明治人』 (中公新書)

 

 『国家の矛盾』は面白かったが、今回は触れない。

 ピーター・ナヴァロの 『米中もし戦わば』 は、読み続けるのがかなり苦しかった。だが、ここに書かれていることは事実かもしれないし、これが事実なら、眼をそらすわけにはいかないと思って、読み切った。

 文章は明快で、読みやすい。

 オバマの8年間でアメリカの軍事費は縮小され、軍事力は停滞ないし弱体化した。

 一方、中国の軍事力は、質量ともに、隔世の感と言えるほどに伸張した。ここに書かれていることが事実であれば、世界の予想を遥かに超えている。

 中国の戦略目標は明確である。

 中国から中近東を経て西欧までの、陸・海の道を、中国の「道」にしてしまうことである。

 中国の道にするとは、アメリカが仮に中国に対して経済封鎖をしようとしても、それを許さないよう、中国の軍事的優位下に置くということである。言い換えれば、この「コース」からアメリカ軍には撤退してもらうということである。

 とりあえずは、東シナ海、南シナ海から、中東(石油)への出入り口に当たるマラッカ海峡に至る海を、中国のコントロール下に置く。つまり、この海域から、アメリカ軍を追い出す。

 すでに、沖縄の米軍基地(第1列島線)も、グァムの米軍基地(第2列島線)も、時速50キロで航行する米空母群も、中国大陸から雨あられと発射されるミサイル群や、米軍のコピーである航空機、或いは潜水艦によって、捕捉され、射程に入っている。この地域における米軍の優位は覆りつつあると、著者は言うのである。

 かつて日本は、10倍の生産力を擁するアメリカと戦って、国土は焦土と化したが、今、「世界の工場」はアメリカではなく、中国である。

 著者はカリフォルニア大学の教授で、トランプの政策顧問。専門は経済だから、ここに書かれている具体的な軍事的状況の一つ一つは、その筋の第一人者のあれこれの論文を紹介したものであり、「また引き」である以上、すべて正しいとは言えない。

 だが、中国軍の実態について、本当のところは、誰も知らないのである。軍事的に世界で最も不透明な国が中国である。

 例えば、核軍縮というと米露であり、両国の実態はとっくに、互いに丸裸になっている。が、中国の核兵器については、反核勢力もほとんど問題にしないし、その認識は50年も前のままである。

 だが、実態はすでに米露に匹敵する質量があるとも言われる。分厚いコンクリートの地下道の中に貯蔵されているから、米露の核ミサイル基地と違って、衛星では見えない。(北朝鮮でさえ、今やそうなっている!!)。万里の長城のような地下道の中は、道路や鉄道が張り巡らされ、高速で移動できる。米国が、中国大陸から核ミサイルが米国本土へ向けて発射されたと気づいたときには、もう手遅れなのである。

 危機意識を煽るのはよろしくない。

 この本については、これくらいにしておきたい。

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< 小林和幸 『谷 干城 ─ 憂国の明治人』を読む >

 今、中公新書が売れているそうだ。お堅い中公新書がなぜ?? と、出版界で話題になっているらしい。

 この本 ── 『谷 干城 ─ 憂国の明治人』を買ったのは、そういうこととは関係なく、書評を読んで、谷干城という人に興味をもったからである。今、日本に必要なのは、こういう政治家なのだと思う。

 著者は、小林和幸という人で、奥付を見ると青山学院大学の歴史学の先生である。ご専門は、明治立憲政治。お堅い研究者が書いたものだから、血沸き肉躍る歴史小説、という種類の本ではない。

 谷干城は、幕末から明治の時代に登場する歴史上の人物、例えば伊藤博文、山県有朋、大隈重信、黒田清隆、板垣退助などという人たちと比べて、一般には知られていない。私自身、西南戦争のとき、熊本鎮台司令長官として、西郷軍を相手に籠城し、熊本城を死守したことぐらいしか知らなかった。

 最近、会津藩の山川浩に興味をもった。そのことは、以前、ブログに書いたが (2016、8、25「本州最北端への旅 5」) 、そこに、谷干城が少し登場する。そういうことも、この本を手にした要因の一つである。

          ★

< ブログ「本州最北端への旅 5」から >

 「その兄 (のち、東京帝大総長になった山川健次郎の兄) 山川浩は、藩の家老格の家柄であり、1866年、20代の初めに渡欧して、見聞を広めた。戊辰戦争のとき、日光口 (会津西街道) で土佐の谷干城が率いる政府軍と戦い、これを見事に防いだ。

 谷干城は、以後、終生、山川浩を尊敬し、戊辰戦争のあと、浩は谷の推挙で政府の軍人になる。元会津藩士が官途に着くのは難しかったころで、山川浩がこれを受けたのは斗南藩 (会津藩が下北半島に移されてつくった藩) の窮状の助けにならんとしたのである。

 明治10年の西南戦争のとき、熊本城にあって司令官を務めていた谷干城は、薩摩から破竹の勢いで攻め上ってきた西郷軍に包囲され、長期の籠城を強いられた。このとき、敵の包囲を打ち抜いて、最初に熊本城に援軍として入城したのは、中佐・山川浩であった。山川ら会津人にとって、自分たちが「朝敵」であったことなどは一度もなく、薩摩は、多くの死んでいった会津藩士たちの仇敵であった。

 のち、少将まで進み、貴族院議員になったのも、苦境にある元会津人を援助するためであった。

 「なお、山川浩は、私の母校である東京教育大の前身、東京高等師範学校の初代の校長になっている。文部大臣・森有礼に任じられた。今回、『街道をゆく』を再読するまで、知らなかった」。

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激動の幕末のなかの谷干城 >

 谷干城は、土佐に生まれた。小姓組の家柄で、土佐藩の身分制度では、郷士に対しては上士。ただし、藩政を運営できるのは馬廻組以上で、 後藤象二郎や板垣退助は馬廻組の身分だった。

 坂本龍馬(郷士)は2歳年上、板垣退助は同年、後藤象二郎と中岡慎太郎(庄屋)は1歳下である。

 幕末の激動の時代を、彼はどのように生きていたのか。ここでは本書からその1シーンのみ写す。 

 「坂本龍馬、中岡慎太郎が、京都で襲われ殺害される事件が起こった。土佐藩にとって大きな打撃だった。… 干城らにとって二人は導きの頼りであった」。

 「干城は、事件の発生直後に現場に駆けつけている。まだ息のあった中岡は、はじめ干城方を訪ねたが留守であったので坂本のもとに来て話をしているときに襲われたなどと干城に語り、また『速くやらなければ君方もやられるぞ。…』と挙兵の早期実現を促したという」(p50)。

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熊本城籠城戦 …  封建主義との戦い >

   谷干城と言えば、西南戦争である。熊本鎮台司令長官として、3千の農民出身の兵を指揮し、西郷軍1万3千(その後、加わった兵を合わせると3万を超えると言われる)の士族軍を引き受け、50余日間籠城して、熊本城を死守したことで知られる。

   西南戦争が勃発する1877年の前年に、谷干城は二度目の熊本鎮台司令長官になっているが、一度目の1873年のときの前任者は、西南戦争のとき、西郷軍を実質的に指揮した桐野利秋であった。桐野は、西郷隆盛が、どんな大事も任せられる最高の逸材と評していた男で、激動の幕末期からいつも西郷に寄り添い、維新後の陸軍における出世も早かった。

 だが、「桐野は元来、古武士風で陸軍省の法規に従わない傾向にあり、徴兵令に対しても『彼れ土百姓らをあつめて人形を作る』と評し、農民兵を忌み、士族兵を重んずる考えであった」(p74)。

 そのため、軍行政に携わっていた山県有朋が困って、熊本鎮台を谷干城と入れ替えたのである。

 「干城が(1回目の)熊本鎮台司令長官となったとき、最も苦心したのはわがままな士族兵たちの統御であった。干城の司令長官としての仕事は、鎮台から士族兵を除き、統率が容易で、訓練された兵に替えることであった。そうした尽力の結果として熊本鎮台があった」。

 戦いの当初、西郷軍は、熊本鎮台に向かうに際して、「台下通行の節は、兵隊整列して、西郷大将の指揮を受けらるべし」という通牒を発した。これは、元熊本鎮台司令長官の桐野が、農民兵を見くびって出した通牒だろうが、西郷軍は、戦いの最初の段階で、大きなミスを犯したのである。

 鎮台幹部は、まったく動じなかった。副司令長官をはじめ、西郷や桐野の影響を受けていたが、「すでに鎮台兵として、国家の正規軍としての自負が私情を凌駕していたのである」(p91)。

 「干城は、徴兵制度の成否が問われるこの戦いに負けるわけにはいかなかった」。「干城にも、士族兵との戦いを封建主義との戦いと考えるところがあった」

 「抜刀して戦う接近戦では士族兵に後れをとったが、最新式のスナイドル銃や大砲や地雷を装備し、訓練された鎮台兵の守りは堅かった」。(p94)。 

 「政府軍の総進撃により、4月14日山川浩中佐の一隊が熊本城に入り、攻囲は解かれた。かくして干城は守城に成功したのである。籠城50余日に及ぶ守城の意味、功績はもちろん、明治国家にとって甚大なものがあったことは言をまたない。西郷軍の猛攻に耐え、徴兵の軍隊が士族軍隊よりも優秀なことを証明し、軍事的な反乱が政府の軍隊を倒すことができないことを示したからである」(p96)。

 西郷軍が熊本城を素通りしていたら、或いは、熊本鎮台がやすやすと陥落されていたら、西郷軍は下関海峡を渡って、東京を目指し、その結果「全国的な反政府的挙動を誘発」(p91)して、日本の近代史は全く変わったものになっていたかもしれない。

       

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洋行体験と立憲思想の深化 ── モデルはスイスにあり > 

 1885年(明治18年)、日本で最初の内閣である第一次伊藤博文内閣が成立し、谷干城は学習院長から初代農商務大臣として入閣した。薩長以外での大臣就任は、榎本武揚と2人だけであった。

 翌年、干城は、1年3か月に及ぶ欧米視察に赴く。

  人間には、「気質」というようなものがあると思う。例えば、谷干城は、幕末のころからずっと同郷の板垣退助と合わない。多分、板垣の「オレが、オレが」という気質がいやだったのだろう。自由民権運動に対しても、「(彼らが)めざすのは士族の跋扈(バッコ)であって、平民のための民権の伸張にはつながらない」として、反対した。彼は、個人の不平、「私」の利益追求から発する不純な運動を嫌い、「公」のための民権を「真民権」と呼んで、これを進めようとした。(p102)。

  1年3か月の欧米視察で、谷干城は、エジプト(イギリス統治下)、フランス、スイス、ギリシャ、バイエルン(ドイツ)、トルコなどを視察し、オーストリアでは、ウィーン大学教授ローレンツ・フォン・シュタインのもとにとどまって、質疑と議論を行った。シュタインは、憲法起案のために伊藤博文や山県有朋などが訪れ、大きな影響を受けた学者である。

 さらにイギリスの議会政治やアメリカの民主政治を視察して帰国するが、これらの国々のなかで干城が最も感銘を受け、これからの日本のモデルにすべきと考えたのは、スイスであった。

 「『真の民権』が実現した国はどこか。干城が実見したところ、その理想となる国はスイスであった」。

 「市街が清潔でよく整頓されており、国民が自ら政治を行い、過酷な法もなく、人々は純朴にして農・工に従事する『自主自由』のある国と見て、『開化世界の桃源』と称賛した。

 また、スイスは、成年男子がみな兵士となり、大国に挟まれても他国の干渉を受けず、中立を守っている。そうした国防のあり方についても感動した」。

 「さらに、中央政府が22州の州政治に干渉せず、それぞれの州が適宜に政治を行い、選挙によって政治を託すから、人々に不平が起こらない。こうした"自治"を『共和政府の最上』としている」(p122)。

 この時代、欧米を訪れた日本人政治家や知識人の多くは、或いは破竹の勢いで国力を増強しつつある新興のプロシャに学ぶべしとし、或いは世界の海を支配する立憲君主国・イギリスを理想とし、或いはまた、反権力思想花盛りのフランスの自由主義にあこがれたが、スイスこそ理想とした谷干城は珍しい。

 スイスについては、このブログの「西欧旅行…フランス・ロマネスクの旅5」の日本のロマンティシズムと永世中立国スイスのリアリズムをご参照ください。

 私は西欧史の中で、中世以降ならヴェネツィア、近世以降ならスイスが好きである。人々に独立の気概と市民共同体の一員としての自覚があり、党利党略で足を引っ張り合って国政を過つ、というところが少ない。

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貴族院議員として立つ 

 谷干城は農商務相を辞任し、以後、谷干城びいきの明治天皇による再三の任官の勧めも辞退し続けた。

 そして、明治憲法が発布され、帝国議会が開かれると、満を持して自らの活躍の舞台を貴族院議員に求めた。

 彼が目指したのは、日本の立憲政治を実りある実質的なものにし、それによって国を発展させ、国民を豊かにすることにあった。モデルはスイスである。

 貴族院議員としての彼の活動は、実に活発だった。

 「貴族院の大勢は政府寄りであったが、干城をはじめその同調者──村田保、三浦安、山川浩、小幡篤次郎、植村正直らは、政府と対立しても貴族院の審議権を守り、貴族院の意思を示そうとした。彼らは貴族院での言論を通じて国政を動かそうと考えていた」(p161)。

 彼が育てようとした貴族院は、薩長藩閥政府による政治の偏りを正し、また、衆議院が国家・国民のことを忘れ、政党の党利党略の場になり、権力闘争に終始するの是正することにあった。

         ★

日清戦争を通じて > 

 日清戦争の開始にあたって、干城はきわめて慎重であった。

 その終結に当たっては、伊藤博文首相に書簡を呈している。

 「日清戦争は、朝鮮の独立の確保を目的とする『義戦』である。その目的を果たせば、政府内や民間に広がっている講和条件の過大な要求を首相は拒否すべきで、講和が延びれば列強の干渉を招く」として、毅然として終戦に導くよう、首相の決意を求めたものであった (p188)。

 だが結局、議会も世論も強硬で、陸奥宗光が締結した講和条約は、清に対して多額の賠償金を支払わせ、台湾と遼東半島を割譲させるものであった。その結果、干城がおそれたように、ロシア、ドイツ、フランスによる三国干渉を招く。

 ところが世論は、三国干渉に屈した政府の弱腰を非難し、より一層の軍備の増強を迫った。

 このころ、足尾銅山鉱毒事件が起こる。

 干城は、1897年に、農学者を伴って実地調査に出かけ、惨状を目撃した。それ以後、農商務相の榎本武揚、続いて大隈重信らに働きかけて、現地調査をさせ、田中正造と連携し、議会で訴えた。

 干城にとって国民は、スイスの国民のように、貧しくても幸せに暮らしていなければならない。そのような国民こそが、大国からの侵略に対して、毅然として戦いに立ち上がるのである。

         ★

日露戦争と、孤立する谷干城 >

 ロシアとの戦争の機運が高まるなか、干城は主戦論者との間で激しい論争を展開した。

 孫へ宛てた手紙の中で、日露開戦を説いた東大7博士を「腐儒」と呼び、道理に反していると痛烈に批判している。

 7博士に呼応して日露開戦を説いた別の東大教授の妻は、干城の愛娘であった。彼女は日露戦争後、離縁している。

 戦争の終わりに至って、干城は、国内世論の大半を向こうにまわし、サハリン割譲の撤回、旅順も中国に返し、大連・ハルビン間の鉄道の権利だけ得れば足りるとして、講和条約の条件に領土の獲得を挙げることを避けるよう主張した。

 だが、国内世論の大半は、干城が否定した講和条約さえ日本にとって不十分で、弱腰であるとして、日比谷焼き討ち事件など講和反対の騒乱を起こした。

 このころから、日本は大きく道を踏み外していくことになる。 

 谷干城が理想とする国は、軍備は防御に徹して強固であること、海外膨張政策は取らず、外交は固有の国権を維持することに専念し、国と民を富ませ、国民の総力で国家の独立を保守する、というものであった。これは当時の政治家や識者の多くがモデルとしたプロシャでもなく、イギリスでもなく、フランスでもなく、まさにスイスであった。 

 だが、議会の内外において、彼の主張を支持する者はなくなり、彼は孤立を深めていった。

 晩年の干城は言う。「(世と自分と) どちらが馬鹿であるか、狂気じみているかは、将来における事実の審判を受けねば知れぬが、一度は必ずわかる時節が来るに相違ないから、刮目して見ているがよいさ」。

 それから40年後、干城が言ったとおり、日本は行きつくところまで行き、焦土のなかからもう一度立ち上がらなければならなくなる。

 だが、そこに至るには、もう少し、経過がある。国政の大局を忘れ、政権を争って党利党略に走る政党政治、部数を売るため大衆に迎合して騒ぎ立てるマスコミ、そして、それに踊らされる国民大衆が、軍人を政治の舞台に呼び込み、日本を軍国主義化させていったのである。いきなり軍人が登場したわけではない。

         ★

干城の生き方を貫くもの >

 だが、干城は、伊藤博文、山県有朋、松方正義、黒田清隆、大隈重信といった元勲たちと、時に厳しく対立しても、同じく維新の困難を経験した者としての国家建設に向き合う共通した精神をもっていた。

 とりわけ伊藤博文については、「彼は日本第一流の政治家なり、また博学なり。種々の非難ありといえども、我が国の管仲として尊敬せざるべからず」と日記に書いている(p224)。

 1909年、伊藤博文がハルビンで韓国人テロリストに暗殺されたとき、病を押してその葬儀に参列したが、伊藤の死は干城の気力を衰えさせた。

 1911年(明治44年)、谷干城は死去した。

 「多くの弔辞が寄せられている。それらには、干城の赫々たる軍功、政治的業績、功績が記されている。しかし最も干城への思いが伝わるのは、干城が丹精を込めて解決に尽くした足尾鉱毒事件の被害地方青年代表のもので」あったと、著者は書いている(p226)。

 彼が目指したのは、政治のための政治ではない。日本国と日本国民のための政治であった。

         ★

 著者はこの本の最後をこのように結んでいる。

 「公を求める強い独立した精神によって創られた時代が明治であった。干城は、その精神がひときわ際立っている。だからこそ、昭和の国粋主義を代表するのではなく、明治を代表する人物なのである」。

 「最後に、ここまで、干城の思想を見てきて、(スイスをモデルとし) 平和と自由を求めた干城が、自ら『保守主義』と称する理由は、理解できる」。

 干城は、大切な日本を守りたかったのである」。

         ★

< 閑 話 >

 最近の国会も、マスコミも、ネットの世界も、つまらぬ小事に1億総興奮状態。私には異常としか思えない。

 国の大事を忘れ、政権奪取の党利党略に走り、小賢しい元官僚を引っ張り出し、憎悪を拡散している。

 現代のギルド組織・獣医師会も、50余年もの間、獣医学部の新設を門前払いし続けた文科省官僚も、そこの課長補佐が書いたというパソコン書きのメモをふりかざす蓮舫代表も、テレビや週刊誌も、「大切な日本を守りたい」と思っているようには、私にはどうしても見えない。

 7/6 「讀賣新聞」── 政治学者 御厨 貴さんから

 「それにしても都民ファーストという新勢力は、あまりにもアモルフ(無定形態)でよく分からない。イデオロギーとか政治的信条といった面はほとんど不明な一群だ。

 『小泉チルドレン』『小沢ガールズ』『安部チルドレン』そして『小池チルドレン』と繰り返される状況もまた、次々と現れては消え、忘れ去られる一発屋芸人を見ているようで、政治のあり方としては極めて危うい。

 小池知事も今回持ち上げられたのと同じ速度で、落とされるかもしれない。政治に奥深いものがなく、一発芸しか持ち合わせていないのであれば、有権者はより過激な一発屋芸人を求め続けるだろう」。

 

         ★   ★   ★ 

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 今回は、カテゴリー 「国内旅行 … 心に残る杜と社」の4編を更新しました。写真を更新して、一新できたと思います。

1 心に残る杜と社1 … 厳島神社 (2012、12、09)

2 心に残る杜と社2 … 熊野本宮大社 (2012、12、11)

3 心に残る杜と社3 … 金刀比羅宮 (2013、2、18)

4 心に残る杜と社4 … 靖国神社 (2013、2、24) 

の、4編です。

        ★ 

 「心に残る杜と社」は、旅の紀行のなかで折にふれて取り上げていますが、ここでは紀行文から漏れた拾遺集という感じで書いています。

 厳島神社はさすがに世界遺作。素晴らしいと感じましたが、その良さは、観光ツアーでさっと見たのではなかなかわからないと思います。島に一泊し、朝夕のたたずまいを知ってこそ、厳島神社に行ってきた、と言えるのではないでしょうか。

 先入観で、誤解していましたが、山腹にある金刀比羅宮は本当に神社らしい神社でした。ただし、山頂の奥社までは行けませんでした。

 日本の神さまはもともと「山」にいらっしゃいます。弥生時代になって、野にもお迎えするようになりましたが、本来、山、山頂・山腹の岩や、高い樹木のあたりで遊んでいらっしゃるのです。

 山や森を大切にしましょう。そこは、神々の世界です。

 

            ( 満潮の厳島神社 )

 

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