ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

国宝 ・臼杵磨崖仏と「真名野長者伝説」 …秋の国東半島石仏の旅 8

2015年01月26日 | 国内旅行…国東半島の旅

      ( 「古園石仏」の建物を望む )

 臼杵(ウスキ) 石仏は、昨夜泊まった温泉宿から車で10分足らずの所にある。

 観光客はいない。本日、最初の拝観者だ。

 清浄の気。

 ボランティアのおじさん一人、それとは別に、おばさんたち数人が、4か所の石仏群を巡って、小道や石仏を蔽う建物の中を掃除し、清めていた。

 

 山の中腹に、4群、60余躯の石仏がある。  

 長年、土地の人々から「臼杵石仏」と呼ばれてきたが、「臼杵磨崖仏」の名称で国宝に指定された。石仏、或いは、磨崖仏の国宝は初めてである。

 石仏か、磨崖仏か? 昨日、拝観した「熊野磨崖仏」のような、大きな岩壁に彫り出された巨大なお姿ではない。しかし、建物に蔽われてわかりにくいが、自然のままの岩盤に掘られたみ仏であることも確かだ。

 駐車場から、整備された細い山道を登っ行くと、「ホキ石仏第二群」から「ホキ石仏第一群」を見学し、さらに谷を跨ぐように隣の山腹に分け登って「山王山石仏」、さらに、石仏公園の方へ下って「古園石仏」と歩くことになる。この順に拝観して回れるように山道がついているのだ。

        ★

< ホキ石仏第二群 >

   ホキは崖(ガケ)の意。

   ホキ石仏第二群の第一龕には阿弥陀三尊像がある。龕(ガン)は厨子。仏像を安置する堂の形をした仏具。

 毅然とした表情の阿弥陀如来像は、臼杵石仏群の秀作の一つとされる。

 

         ( 阿弥陀三尊像 )

 第二龕には9体の比較的小さな阿弥陀如来像がある。中央の一尊に彩色が残っていることから、ここにある石仏群はすべて、もともと彩色されていたことがわかる。

     ( 彩色の残る阿弥陀像 )

        ★

ホキ石仏第一群 >    

 第二群から少し登ったホキ石仏第一群には、4つの龕がある。

 第一龕と第二龕はともに如来坐像3躯。

 第一龕の阿弥陀如来は、墨で目や眉が描かれ、第一群の中の中心的存在である。

  

    ( 第一龕の如来坐像 )

 第三龕は大日如来を中心に、第四龕は左脚を立てて坐す地蔵菩薩を中心に、仏たちが並ぶ。

    

     ( 第四龕の左脚を立てた地蔵菩薩 )

 これらの石仏群は、いったいいつ頃、誰が、どんな事情で、どのような彫刻師たちに造らせたのか?

   その時期や事情を証する資料は何も残っていないそうだ。ただ、その様式などから、大部分は平安時代後期の作とされる。

 そのなかで、この第一群の第三龕と第四龕の石仏は、鎌倉時代に付け加えられたものらしい。確かにリアリティがあり、力強い。

         ★ 

山王山石仏群 >

 ちょっとした山越えをするように登ると、一番高所にあるのが、山王山石仏群。

 3躯の中心にある丈六の如来像は、その童顔に人気があって、「隠れ地蔵」とも呼ばれているそうだ。

   

        ( 柔和な如来のお顔 )

         ★

古園石仏群 >  

 そこから山道をやや下って、眺望のよい所に古園石仏群がある。

        ( 眺望の良い古園石仏の建物 )

 金剛界曼荼羅を表して13躯が並び、その中心には大日如来像が座す。

 

    ( 曼荼羅を表すという仏たち )

 端正で気品があり、傑作の評価が高い。切手の絵柄にもなった。かすかに彩色が残っているかのように見えるのも、ゆかしい。

 

         ( 大日如来像のお顔 )

    ★   ★   ★

真名野長者伝説 >

 この石仏群の由来を証する記録はないが、伝説はある。その伝説にちなんだ「うすき竹宵」という雅びなお祭も臼杵市に残り、毎年、営まれているそうだ。

 伝説は題も定まったものはないのだが、一応、「真名野(マナノ)長者伝説」ということにして、紹介する。

 大和にあった都に玉津姫という姫君がいた。顔に醜いあざがあり、縁談がなかった。それで三輪さんに願をかけた。すると、夢に三輪明神が現れ、豊後の国の深田の炭焼き、小五郎という者の妻になれ、とお告げがあった。

 途中、難に遭うのだが省略して、やっとのことで豊後の深田に着き、貧しい炭焼の小五郎に遇った。

 不思議なことが起こった。夢のお告げにあった近くの淵で姫が顔を洗うと、顔のあざは消え、輝くばかりに美しい姫になった。また、小五郎の炭焼き小屋の周囲にはたくさんの金があり、小五郎は金というものの価値を知らなかったのだが、お陰で二人は豊かになった。

 もちろん二人は夫婦となり、真名野原(マナノハラ)という所に長者屋敷を建てて、幸せに暮らした。

 娘が生まれたので、般若姫と名付けた。成長するにつれて、光り輝くばかりの美女となり、評判は都にまで伝わった。それで、多くの貴族が結婚を申し込んできたが、長者夫婦は「大事な跡取り娘だから」と断った。

 ところで、時の帝に二人の皇子がいた。弟皇子は兄に命を狙われ、「評判の般若姫を見に行く」ということを口実に都を脱出した。そして、宇佐八幡宮に参詣したあと、名前を「山路」と変えて、長者の家の下働きになった。

 あるとき、般若姫が重病になった。祈願したところ、「三重の笠掛を射よ」とのお告げがあった。しかし、長者夫婦には意味が分からない。当惑していると、「山路」が三重まで馬を入らせ、笠掛を弓で射て、山王権現の錫杖を受けて、戻ってきた。すると、姫の病気は治った。長者夫婦は喜んで、二人を結婚させた。

 ある日、兄の天皇が亡くなったので戻るようとの勅使が来た。「山路」は長者夫婦に本当の身分を明かし、都へ帰ることにした。そのとき姫は身ごもっていた。皇子は、男の子が生まれたら一緒に都にくるように、女の子なら長者夫婦の跡継ぎとして残し、姫は一人で上京するようにと言い残して旅立った。大和に帰った皇子は、用明天皇と呼ばれるようになる帝となった。

 般若姫は女の子を生んで、玉絵姫と名付け、その子を長者夫婦に預けて、自らは千人余りの従者を引き連れて船出した。

 ところが、周防灘で暴風雨に遭い、漁村に漂着して、土地の村人に数日間介抱されたが、亡くなった。まだ19歳だった。

 長者は姫の死を悲しみ、菩提を弔うためあちこちの寺に寄進し、遠く中国の寺にも寄進した。すると、中国から蓮城法師という人がやってきた。長者はこの法師のために満月寺を建て、石仏の製作を頼んだ。そこで、法師は、数年の歳月をかけて深田の里一帯に石仏を彫った。

 これが臼杵石仏群の由来だとさ。

        ★

 伝説は伝説。用明天皇は聖徳太子の父で、蘇我馬子などが活躍していた時代の天皇である。臼杵石仏群の様式はそれより500年以上も後のもの。だから、この伝説はそもそも時代が合わない。

 ただ、この伝説も室町時代には既に存在していたことがわかっているから、伝説の成り立ちもそれなりに古い。

 いつのころのことか、土地の長者(豪族)の愛娘が亡くなり、その深い悲哀の心が、どうしても菩提を弔いたいという思いとなって、都の仏師を呼び寄せ、次々と石仏が彫られて数年を経た … というような出来事はあったのかもしれない。そういう深く強い思いがなければ、これだけの石の仏を、このような場所に彫り込んでいくという作業はできないように思われる。

    ★   ★   ★

石仏公園で >

 臼杵摩崖仏4群のある山から石仏公園の方へ降りていく。この公園も高台で、しかも、ひろびろとしていて、空が広いと感じる。

 小さな流れの先に、長者が蓮城法師のために建てたちいう満月寺があり、その前にはユーモラスな2躯の仁王の石仏があった。

  

               ( 仁王像 )

   また、その一角に、石仏を彫った蓮城法師の像、それを依頼した真名野の長者夫妻のかなり風化した像がある。

 室町時代の作だそうだが、磨崖仏がプロフェショナルであるのに対して、こちらはいずれも稚拙で、しかも、風化し、愛嬌があって、むしろ21世紀の感性に合っている。

 

   ( 真名野の長者夫婦像 )

        ★

 公園の一角に、土地の中学校の卒業記念かと思われる石碑がいくつも設置されていた。その中の一つが目に留まった。

 「世間は生きている。理屈は死んでいる」(勝海舟)

 勝海舟らしい、味のある、いい言葉だ。これが本当にわかるようになるには、相当の勉強と、経験が必要である。

 それにしても、この言葉を選んだのは … まさか中学生の多数決とは思えない。

 一人の読書好き、物識り、勝海舟ファンの、ませた男子がいて、この言葉を提案し、回りの男子たちが「オー、かっこええ! 」と、まあ言わば付和雷同したのか …? それとも、先生たちの言動に少々うんざりしていた校長先生がいて、そこへ生徒会代表が「碑文に書く何か良い言葉はありませんか?」と相談に来たとか……?

 

 

 

 

 

 

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修験道の大寺・両子寺 … 秋の国東半島石仏の旅 7

2015年01月18日 | 国内旅行…国東半島の旅

     ( 両子寺の護摩堂 )

 山門をくぐって、上へ上へと登る長い石段がある。途中、有名な仁王像などを拝みながら、ゆっくりと歩いて登るつもりだった。だが、山門に入る道に気づかず、車で一気に上がって、護摩堂のそばの駐車場まで来てしまった。楽なほうが良い。今さら石段の下まで戻る気にもなれず、日も傾いてきたし、省略することにする。

 この日、訪ねた胎蔵寺(熊野磨崖仏)、真木大堂、富貴寺は、いずれも山里近くにあったが、両子寺 (フタゴジ) は国東半島の中心、両子山 (721m) の中腹にあって、里からは遠い山寺だ。

 いかにも山岳修行のための大寺という風情がある。六郷満山の、中山(修行を中心とする寺院群)の本寺である。

 参拝者の中には西洋人の姿も見えるが、あたりに山の気が漂い、寺院群が粛然として建っている。少し冷えてきた。

        ★

 護摩堂はこの大寺の本堂で、山岳修行の根本中道である。紅葉が美しく、気品がある。

 靴を脱いで上がると、鎌倉期制作のの不動明王像があった。

 護摩堂から、山林の中の参詣道を登っていくと、次に大講堂がある。富貴寺の大堂と同じく、鎌倉期の阿弥陀仏が迎えてくれた。

 さらに、山の上へと、参詣道を登って行く。

 大力の僧が渡したという鬼橋を踏んで谷川を越える。

  

 古色蒼然とした石の鳥居をくぐる。

   

 どこかユーモラスで強そうな石像を横目で見ながら、奥へ奥へと登って行く。

 

 やがて草深い道は奥の院に行き着く。寺とは言えず、神社でもなく…。

 

   ( 奥の院の社 )

 小さな社(ヤシロ)は、崖に張り出した懸崖造りだ。社の中には、宇佐神宮からやってきたという「双子の神像」が祀られているそうだが、もちろん社の中には入れない。

 社の横に、社に入るのとは別の入り口があったから、拝観料を払って入ってみる。

 入った社の奥は岩壁で、岩壁には自然の洞窟があって、ほとんど暗闇という中に石仏が安置されていた。

 

  ( 洞窟の石仏 )    

 奥の院から、元の小道を少し下ると、来るときには気付かなかったが、道の横の岩壁の上から鎖が下りてきている。山岳修行の場だ。運動靴なので、ついよじ登ってしまった。

 登ってしまうと、気持ちの上で引き返せない。そのままか細い修験道を上へ上へと登って行くと、あちらの岩陰、こちらの岩棚に石仏が嵌め込まれている。

 

  ( 岩陰の石仏「百体観音」)      

 所々に標識があるので、この径を歩いていてもとりあえず大丈夫なのだと、気分的に助かる。

 「針の耳」、「鬼の背割り」などの標識を通過する。       

 

   (「鬼の背割り」)

 そろそろ引き返したいが、このまま山頂まで登るのかと心配になる。

 やがて、登りの山道が大きく回り込んで、谷に沿う下り道になった。ほっとする。

 ひょこっと、一般参詣道に出た。

 

  ( 出口にあった標識 )

 年甲斐もなく冒険をしてしまったが、この寺の境内の杜(モリ)は「日本森林浴の森百選」の一つに選定されているそうで、いい運動になった。

         ★

 日が傾いた。4寺しか回れなかったが、六郷満山のサワリを見ることができた。

 今夜の宿泊地、臼杵 (ウスキ) に向けて、国東半島を抜け、高速道路に入り、別府の湯煙やサルで有名な高崎山を遠望しながら、暮れかけた道を走った。

         ★

 その夜、泊まった「臼杵湯ノ里」は、源泉かけ流しの温泉で、新鮮なふぐ料理がとても美味しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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国宝の富貴寺阿弥陀堂 … 秋の国東半島石仏の旅6

2015年01月13日 | 国内旅行…国東半島の旅

 

     ( 富貴寺山門 )

 真木大堂から、富貴寺 (フキジ) の駐車場に着く。

 周囲はのどかな田んぼと畑で、ここの駐車場の脇にも案山子たちが立って、出迎えてくれた。

 空き地や駐車場の脇に置かれているのだから、雀やカラス対策であるはずはなく、参詣者・観光客の目を慰めようとのサービス精神? いや、その心は収穫を終えたあとの祭り気分かも。どうだ、案山子もここまで出来たら美術品だろうと、ちょっと得意顔のおじさんやおばあさんが目に浮かぶ。

 マネキンを使い、美しい布地で衣裳を作れば、きれいな「人形」はできる。しかし、「世界農業遺産」に認定された村らしく、あくまで昔ながらの「案山子」の枠のなかで作って、しかもなかなかの出来映えである。

 駐車場の端の畑の横で、コンビニで買ってきた昼食のおにぎりを食べた。おにぎりを買っておいたのは正解だった。道中、食堂、レストランめいたものは見なかった。

 この世の中で旨いと思うものを2つ挙げろと言われれば、とりあえず日本のおにぎりと、イタリアで食べるパスタ。もちろん、これは私の好み、主観であるが、なにしろ2000年を超える食の歴史と味わいがある。アメリカ風ファーストフードが太刀打ちできるはずがない。

         ★

    ( 富貴寺の山門 )

 富貴寺は、平安時代の終わりごろに、宇佐八幡宮の大宮司家の氏寺として創建された。西叡山高山寺という大寺の末寺である。

 末寺でだが、今、国東半島の第一の観光スポットとして、観光バスもやってくる。

 それは、わずかに残る阿弥陀堂(富貴寺大堂)が、現存する寺社仏閣などの建造物のなかで、九州最古の木造建築物であり、大分県内では数少ない国宝の指定を受けているからだ。

    ( 国宝の阿弥陀堂 )

 六郷満山は天台宗系であるが、にもかかわらず、そこに阿弥陀堂があるのは、平安後期の末法思想による時代の精神であろう。

 宇治平等院鳳凰堂、中尊寺金色堂と並ぶ日本三大阿弥陀堂の一つとされるそうだ。

 他の二つを創建した勢力の巨大な財力と比べれば、こちらはさすがに質素にも見える。だが、創建当時を再現した県立歴史博物館の富貴寺大堂の金色の輝きを見ると、宇佐八幡宮の大宮司の財力もなかなかのものであることがわかる。

 

    ( 創建当時の阿弥陀堂の復元 )

 屋根の反りがいい。

 内部に入ると、中央に祭壇があり、寄木造りの阿弥陀仏が安置されている。今は、彩色は消え、古色の気品がある。

 周囲の壁には一面の壁画。極楽浄土を表した仏や菩薩たちの彩色もほとんど消えかかっている。しかし、これも県立歴史博物館の再現された阿弥陀堂の中の壁画によって、平安後期の美しく彩色された絵がどのように繊細なものであったかを見ることができる。

 保護のため、お天気の悪い日はお堂を閉じて、公開しないそうだ。運が良かった。

 

 

 

 

 

 

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幻の大寺を伝える真木大堂、そして世界農業遺産の田染荘 … 秋の国東半島石仏の旅 5

2015年01月09日 | 国内旅行…国東半島の旅

    ( 村人がつくった案山子 )

 熊野磨崖仏のある胎蔵寺から車でほどなく、真木大堂へ。あたりは静かな山里の風情だ。

 ここには、昔、六郷満山(後述)の一つで、七堂伽藍を備えた馬乗山伝乗寺という大寺があった。だが、約700年前に火災により焼失。今は、そのあとに建てられた小さなお堂と9躯の仏像を納める収納庫があるばかり。幻の大寺の跡である。

 鄙びたお堂の玄関口で、火災を免れた仁王像が迎える。

 9躯の仏像は、ガラスケースの向こうに並んで、或いは威厳に満ち、或いはおだやかなお顔に理知の光を見せ、或いはおそろしい形相で炎の中に立って、いずれも国の重要文化財である (撮影禁止)。

  

    ( 真木大堂入口の仁王像 )

 先の胎蔵寺(熊野磨崖仏)も、この伝乗寺もそうであるが、伝説では、奈良時代の初めごろ、仁聞という僧侶 (一説では菩薩、他の説では宇佐八幡宮の八幡神) が、国東半島の山々や谷筋に28の大寺を開き、69000体の仏像を造ったという。

 しかし、実際に国東半島一帯に多くの大寺、堂宇が開かれたのはもう少し後で、奈良時代末期から平安時代の前半にかけてらしい。宇佐神宮、或いはその神宮寺である弥勒寺のバックアップや天台宗の影響のもとに、その特徴は神仏習合の山岳信仰であった。

 それらの寺院群には、目的別に3つのグループがあった。学問をするための本山 (モトヤマ)、修業をするための中山 (ナカヤマ)、布教するための末山 (スエヤマ)で、併せて満山と呼ばれた。六郷満山である。

 伝乗寺は学問をする本山 (モトヤマ) の本寺のひとつであった。

 現在でも、33の寺院に宇佐神宮を加えた国東六郷満山霊場が構成されて (国東半島33箇所)、山岳修行も行われている。

 山岳修業のスタート地点は、あの熊野磨崖仏の下らしい。

         ★

 真木大堂の前の道路の向こう、空き地や茶店の前のそこここに、案山子が置かれている。その数はもしかしたら住人より多いのではないかと思われるほどだ。

 

    ( すべて案山子です )

 ここから、次の富貴寺に行く途中の、田染荘(タタシブノショウ)小崎(オザキ)と呼ばれる地域は、2010年に国の「重要文化的景観」に選定され、さらに、2013年には、「国東半島・宇佐の農林水産循環システム」として「世界農業遺産」に認定された。

 パンフレットによると、FAO (国連食糧農業機関) の認定する「世界農業遺産」は、ユネスコの「世界文化遺産」が遺跡や歴史的建造物など、「不動産」を登録・保護するのに対し、グローバル化のなかで衰退の途にある伝統的な農業や文化、土地景観の保全と持続的な利用を図ることを目的として、その地域の伝統的な農業の「システム」そのものを登録・保護するものらしい。

 両子山山系から放射状に延びる尾根と谷筋から成る国東半島は、平野部が狭く、さらに降水量が少ない地域だから稲作のためには水が不足する。しかも、火山性の土壌は、保水力もない。

 そういう水田農業に向かない土地であったが、古代から、宇佐八幡宮の荘園として開発・工夫されてきた。

 広大なクヌギ林を保護することによって、水を保水し、浄化する。その水はため池に貯えられ、それぞれの農家の田んぼに供給される。狭い土地だから、多くは段々畑で、田は上の方から順に潤い、21世紀の今も、綺麗な水辺風景と生物の多様性を保持しているそうだ。

 田染荘(タタシブノショウ)に村落と農地が開発されたのは、紫式部らが生きた11世紀前半に遡る。その小崎地区には、14、15世紀の耕地と村落の基本形態がほぼそのまま現在に継承されいる。そして、今も、水田オーナー制のもと、住民によって美しい景観が保存されているのだそうだ。

  国東半島は、古代から開発されてきた稲作農業遺産と、その土壌の上に形成された神仏習合の民俗文化遺産を今に伝えている。

 「ここには日本の原風景がある」といわれるのもうなづけるではないか。

 

 

 

 

 

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