ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

菅浦の国宝文書と景観 … 近江の国紀行8/8

2022年04月14日 | 国内旅行…近江の国紀行

   (波除けに守られる菅浦の集落)

 周囲の山々が風を遮るから菅浦の入り江は穏やかである。だが、一旦悪天候になると、強風とともに高波が押し寄せるそうだ。そのため、湖に沿う集落を守るために防波堤がつくられている。

 人間にとって自然はやはり脅威なのだ。

      ★

<国宝の菅浦文書(モンジョ)のこと>

 ここまで、「かくれ里・菅浦」の人々が伝えてきた伝承や祭祀のことを書いてきた。

 だが、菅浦は白洲正子の『かくれ里』には書かれていない一面をもつ。そして、そちらの方が菅浦の表の歴史かもしれないと思う。

 菅浦は日本の中・近世史の研究において学術的に貴重な文書(モンジョ)と絵図を伝え提供した。

 その文書と絵図は、須賀神社の「開けずの箱」(他郷の者には見せない箱)の唐櫃に納められていた。

 大正時代に京都帝国大学の教授らによって世に出され、大正、昭和と研究されて、今は滋賀大学の資料室に保管されている。

 〇「菅浦文書(モンジョ)」65冊

 〇「菅浦与大浦下庄堺絵図」(菅浦と大浦下庄との境を示す絵図)1幅

である。

 昭和51年に国の重要文化財に指定され、平成30年には国宝となった。

 国宝指定の際の文化庁の報道機関への発表資料には、以下のように記されている。

 「菅浦は、琵琶湖の北岸から突き出た岬にある村落で、①中世から自らの掟(オキテ)を持つなど、村落の自治が発達していた。堺絵図は、②隣庄の大浦と境界を争ったことにより作成したもの。中世村落史研究上、我が国で群を抜いて著名な資料群である」(数字とアンダーラインは筆者)。 

① 日本の中世の村落では、自立的・自治的村落共同体の「惣村」が発達した。菅浦文書は、「惣村」が実際にどのようなものであったかを具体的に教えてくれる貴重な文献資料である。

② その文書の相当部分は、隣村の大浦との150年以上に及ぶ土地争いの訴訟のために作成された。絵図も、その境を絵画的に描いた一種の「地図」である。

 隣の大浦との間に棚田があった。山と湖しかない民にとって、米は貴重であった。この棚田の領有をめぐって隣村と延々と争い続け、その過程で自治的村落共同体として成長していった。訴訟で争ったから、その内容は文書化され、かつ、大切に保存されてきた。

 前回も書いたが、菅浦は今も地域を東と西の2組に分けている。

 中世においては、この東と西の各組から10人ずつの「乙名(オトナ)」が選ばれ、その下に「中老」、「若衆」からなる組織があった。

 掟もあった。例えば、人を罰するには私的な関係を優先することなく、証拠を重視し、乙名による合議制の裁判によることと定められているそうだ。

 中世において、北近江の京極氏の支配は菅浦にも及んでいたが、守護大名の統治能力はまだ小さく(官僚組織や軍事組織がまだ未発達だった)、支配は緩やかなだった。逆に言えば、守護大名はあまり当てにならず、様々なことに自分たちで対処しなくてはならなかったのだ。

 戦国大名の浅井氏が台頭すると村の自治権は奪われていき、やがて豊臣秀吉の検地・刀狩(兵農分離)、さらにこれを受け継いだ江戸幕府の統治で、近世的な村落に移行していった。

 しかし、日本の村落には、近世以後も、農漁業の営みや祭祀に関して、寄合いで話し合い、協力・協同するという村の自治は残されてきた。

  ★   ★   ★

<菅浦の湖岸集落を歩く>

 須賀神社参拝のあと、山ふところにある神社から湖の方へと、参道とは別ののどかな小道を下って行った。

  (須賀神社からの小道)

      ★

 菅浦には現在、4寺院があるらしい。

 集落のちょっと小高い場所に「淳仁天皇菩提寺長福寺跡」の説明板が立っていた。

 「淳仁天皇は、舎人親王の皇子で、天平宝字2年(758)に即位。天平宝字8年(764)9月、藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱により流されて亡くなる。淳仁天皇の配流先は淡路島とされるが、淡海の菅浦に流されたという伝説があり、須賀神社の祭神として祀られ、長福寺を菩提寺とする 長浜市」。

 長福寺は今、阿弥陀寺という寺に併合されているようだ。

      ★

 湖岸に沿って、つづらお崎の先端の方へと歩いて行った。

  (石積み・石垣で囲われた菅浦の家々)

 入り江に沿う家々は、強風・高波から家々を守るために石積みや石垣で囲っている。

  (大銀杏の遠望)

 大銀杏が見える。その横に、石の大鳥居がのぞいている。鳥居と比べると、大銀杏はいかにも大きい。

      ★

 入り江になっているから、菅浦の里から竹生島は見えない。

    しかし、つづらお崎の先端から、竹生島は近い。

(海津大崎あたりから見たつづらお崎と竹生島)

 平安時代の末ごろには、菅浦は、比叡山の傘下にあった竹生島弁財天の荘園的存在だったこともあるようだ。

      ★

 さらに歩いて行くと、東の四足門があった。西の四足門より古く、江戸時代に再建されたものらしい。

   (東の四足門)

 扉がなく、他郷との出入りを禁じる機能を果たせたのか疑問だが、村の内外の領域を象徴的に示したかったのかもしれない。「ベルリンの壁」よりずっと人間的だ。

      ★

 岬の突端はまだ先だが、よく歩いた。もうこのあたりで引き返そう。山のあなたへどこまでも行って見ようという年齢ではない。

   (菅浦の遠景)

 ここからも須賀神社の大銀杏が見える。

 こうして見ると、山々が湖岸まで迫っているのがよくわかる。日本は山国である。

 菅浦は「菅浦の湖岸集落景観」として、「国の重要文化的景観」の一つに指定されている。

 その選定理由には、

〇 菅浦の景観は、奥琵琶湖の急峻な地形に生業と生活によって形成されてきた独特のものである。

〇 それは、中世の『惣』に遡る強固な共同体によって維持されてきた文化的景観であり、『菅浦文書』等により集落共同体の姿を歴史的に示す稀有な事例である。

などと記されている。(牛のよだれのように続く漢語の多い官僚的文書を簡潔に言い換えるのはなかなか難しい)。

 また、その後、菅浦は、「琵琶湖とその水辺景観 ─ 祈りと暮らしの水遺産」の構成要素の一つとして、「日本遺産」に認定されている。

 人間の営みのある風景や景観を、伝承や文化財を含めて守る …… 戦後の大量生産・大量消費の時代から、日本もやっと、成熟した、質の高い国への第一歩を歩みを始めたようだ。

  ★   ★   ★

<再び菅浦の伝承について>

 帰路は奥琵琶湖パークウェイへ入り、途中、つづらお展望台から琵琶湖を望んだ。長浜の町、その向こうに伊吹山が少し霞んで高くそびえている。

 若い頃なら、ただ、きれいな景色だと思うだけだったろう。

 今は少し違う。長浜は壮年の日の秀吉が音頭を取って、交通の要衝に新しくつくった城下町だ。それまで近江には山城しかなかった。だから、今も長浜の人々は秀吉好きなのだ、などという歴史も思いながら眺める。

 

  (つづらお展望台から)

 伊吹山は、昔々、遥かに遠い昔だが、東征を終え、草薙ぎの剣を尾張のミヤズヒメのもとに残して大和へ向かったヤマトタケルが、この山中で伊吹の神と素手でたたかった。氷雨に遭い、一旦は気を失い、体力を喪失したヤマトタケルは、故郷を目指して必死に前に進もうとするが、やがて力尽き、望郷の歌を詠んで、命を落とす。そして、白鳥になって大和へ向かって飛んでいったという。

 「やまとは国のまほらば たたなづく青垣こもれる やまとし麗はし」。

 伊吹山を遥かに望むとき、この伝承を抜きに見ることはできない。

      ★

 藤原仲麻呂の乱の最後の決戦は、高島だった。その戦いでかろうじて生き残った仲麻呂の一族の数人が、湖岸伝いに菅浦の里まで逃れてきて、村に隠れ住んだのかもしれない。もともと尊王の心のあった菅浦の村人たちは彼らを受け入れ隠し続けた。

 そのように考えるなら、実際は遠い淡路で悲劇的な最後を遂げた淳仁天皇を、菅浦の人々がこの地で祀り続けてきたことも理解できるような気がする。

      (了)

  ★   ★   ★

<次回以後の内容について>

 コロナになって、ヨーロッパ旅行に行けなくなった。海外旅行どころか、国内旅行もままならず、感染状況を見ながら、県内や近県を巡るようになった。

 そうしているうちに、改めて大和国、近江国をはじめ、河内国・和泉国、紀伊国などのことを知り、どんどん興味がわいた。転んでもただでは起きなかったことは、自分を褒めてあげたい。

 そういうことで、例えば「かくれ里・吉野の川上」など、まだまだ書きたいことがある。

 だが、コロナの前から、やり残し、気になっていたこともある。

 フィルムカメラの時代のことは置いておくとしても、デジタルカメラになってから(世間が、ではなく、私がデジタルカメラになってから)のヨーロッパ旅行の記録を2回分、まだブログに書いていない。

 このブログを書き始めたのが2012年だから、それ以前の旅である。

 2009年10月の「ドイツ・ロマンチック街道の旅」と、2010年3月の「早春のイタリア列車の旅」は書いた。

 そのあとに続く2つの旅である。2010年10月の「フランス周遊の旅」と、2011年5月の「ドナウ川の旅」。

 もう10年以上も前の旅の記録になるが、このブログの表題「ドナウ川の白い雲」に到るこの2つについては書き残しておきたい。

 まず、2010年10月の「フランス周遊の旅」。これは旅行業者のツアーに参加した旅だが、次回からこの旅のことを書きたいと思う。

 

 

 

 

 

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塩津菅浦 今かこぐらむ … 近江の国紀行7/8

2022年04月08日 | 国内旅行…近江の国紀行

      (大銀杏と須賀神社の鳥居)

<菅浦の大銀杏>

 琵琶湖の湖岸の地形は単調だが、北端部まで来ると、山の尾根は半島となって湖へ流れ落ち、入り江が入り組んで、美しい静かな景観をつくり出している。

 深い入り江の奥にある大浦の里からつづらお崎へ向けて、つづらお半島の西岸を走った。道路は、つづらおの山が湖のそばまで迫っていて、湖岸を切り開いて付けられた道路だ。

 コロナのせいもあるのだろう。前方にも後方にも、車の影はない。

 やがて、左手の山側に「奥琵琶湖パークウェイ」の標識が立つ分岐。

 湖北の西側の高島から、東側の長浜へ抜けるには、この山の中の道を行くしかない。カーブが多く、急峻な登り降りがあり、鹿、イノシシが出そうな道路だが、春は桜の名所だそうだ。「つづらお展望台」からの眺めは、春であろうと、秋であろうと、絶景である。

 分岐に入らず、そのまま湖岸の道を進むと、まもなく道路は尽きる。道路の終点に「広場」のような空間が広がる。ここが菅浦の集落の玄関口である。 

 (須賀神社前の大銀杏)

 「広場」も「玄関口」も、勝手にそう感じたということで、長浜市の観光案内の菅浦の説明にそう書いてあったわけではない。

 大銀杏が印象的だ。大銀杏の向こうに、黒い屋根瓦の家々がのぞいている。

 「広場」の右手は琵琶湖の湖畔で、湖畔に立つと、楕円の入り江に沿って菅浦の家並みが連なるさまが眺望できる。

 外来者(観光客)用の小さなパーキング・スペースと公共のトイレがある。

 ただし、ここにも、集落の中にも、売店とか、喫茶店とか、コンビニその他の店舗はない。コロナになる前は、民宿と割烹のお店があったようだが、今は開いていない。

 正面の大銀杏と左手の大銀杏との間に、石の鳥居が見える。この神社が、菅浦の中心である須賀神社である。

       ★

<夢幻能の世界のような>

 銀杏の落ち葉が散り敷いて、ベンチが置かれている。近くに西の四足門も立つ。

 大鳥居の前に立つと、目の前に山が迫力をもって迫ってきた。

  (鳥居と参道)

 このまま参道を進めば、鬱蒼とした山の中へ吸い込まれていくのではないかという気がする。現実と異界が交差する「夢幻能」のワキになったような気分だ。

 しかし、そんなはずもなく、ゆっくりと参道を進んでいく。

 前方に、二つ目の石の鳥居が見えた。

 (二つ目の鳥居)

 人の気配は全くなく、依然として「山の入口」へ向かって進む感じだ。

      ★

<遥かなる菅浦の歴史>

 振り返ると、一の鳥居のすぐ向こうは、湖が入り込んだ入り江である。入り江の向こうは、つづらおの突端の岬だ。

  (振り返れば湖)

 地形から言えば、菅浦の集落は大きな琵琶湖の最奥部の小さな入り江にへばり付くようにして存在する。

 しかし、現代社会から見れば、世間から隔絶したようなローカルな集落だが、その歴史は遥かに古い。

 つづらお崎の湖底からは縄文遺跡が出ている。菅浦の裏山の山腹からは弥生時代の集落跡が見つかった。

 この参道の入口の脇に、立派な石造りの歌碑が建てられている。

 「高島の あどのみなとを 漕ぎ過ぎて 塩津菅浦 今かこぐらむ」(小弁 『万葉集』巻9)

 「あど」は安曇川の「安曇」。

 高島の安曇川の河口にある港を漕ぎ過ぎて、今は塩津、菅浦のあたりを漕いでいるのだろうか。

 小弁という人がどんな人かはわからない。あるいは、地方官名かもしれない。歌の部立は「雑歌」。恋の歌ではない。

 万葉の頃には、舟が湖上を行き来し、菅浦は琵琶湖の舟どまりの一つであった。

 歴史研究者によると、菅浦は贄人(ニエビト)が定着した集落ではないかと言う (網野善彦「湖の民と惣の自治 ─ 近江国菅浦」)。

 贄人とは、天皇に魚介などの特産物を貢納した民で、律令時代以前から存在したという。律令以前というと、飛鳥時代とか、さらに遡れば古墳時代になる。そういう民であったから、天皇(大王)に対する特別の親近感があったのかもしれない。

 奈良時代の淳仁天皇は、平城京から琵琶湖岸の保良(ホラ)宮に出かけて滞在されたという。歴史家は保良宮の場所は湖南(大津市)ではないかと言うが、確たる文献証拠や発掘があったわけではない。菅浦の人たちは、ここ、即ち、須賀神社のある場所に保良宮はあったと伝えてきた。

      ★

<須賀神社にお参りする>

 参道の最後の石段の下に、手水舎があった。

  (手水舎)

 ここより先は履物を脱ぎ、裸足で石段を上がって、参拝することになっている。

  (拝 殿)

 長浜市の説明板があった。それによると、

 拝殿の奥に東本殿と西殿の2社がある。東本殿の祭神は淳仁天皇。

 そして、その背後には、淳仁天皇の墓と伝える舟形御陵が残っているそうだ。

 しんとした、秋の日差しの差し込む神前で、参拝した。

       ★

<今、菅浦の祭祀はどのように行われているか>

 今、須賀神社の祭祀はどのように行われているのだろうか??

 ネットを検索すると、長浜市地域おこし協力隊員として2015年から活動されているという植田淳平さんの記事が見つかった。かつて須賀神社の氏子総代を務めらておられた須原伸久氏へのインタビュー記事である。

 以下、その内容から、ポイントだけ。

 2013(平成25)年に、淳仁天皇の1250年祭が行われた。50年ごとに行われる祭祀で、菅浦にとって最大のイベントである。菅浦に生まれても、一生に一度かかわるだけ。うまくいけば2度目は体験者として、経験を伝える貴重な古老となる。

 毎年の祭祀もある。4月の第1週の土、日に「須賀神社例祭」が取り行われる。(今年は4月2日、3日)。このお祭りには神輿を出す。昔は曜日に関係なく行われていたが、今は土曜、日曜に設定しないと人手が足りないそうだ。

 「新嘗祭」は11月。午前2時に本殿に行き、供え物をして、作法に従って参拝する。

 こういう祭祀が年4回ぐらいはあるが、それ以外にも、毎月1回、お参りして祝詞をあげる。

 もちろん、日頃から社の鍵を管理したり、周辺の清浄を保つ必要もある。

 そういう祭祀を誰が執り行うのだろう??

  菅浦では、遠い昔から、地域を東西の2地区に分けている。この2地区が1年交代の当番で神事に当たってきた。

 専任の神主さんはいない。当番の地区は、「神主」として9人を選び、氏子総代(複数)とともに神事を担う。

 神主は世帯の順番制。氏子総代は1期3年で、村人全員による選挙で選ぶ。

 神主の9人は3人1組で4か月ごとに交代し、4月の例祭のほか、上記のような数々の神事を執り行う。そのときは、ふだん菅浦を離れている人も帰省して役目を果たす。

 いずこも同じだが、今、人口減と子供がいないことが最大の問題のようだ。神輿を担ぐ人の数も少なくなって、祭りの日に戻ってこられる人の数によって、3台のうち何台の神輿を出すか決めなければならない。

 インタビューに応じた須原氏は、氏子総代のとき、後世に残すために祭事の写真集を作られたそうだ。 

       ★

 「淳仁の みかどの伝え 今に尚 人々親しも 菅浦の里」

 菅浦だけではない。何百年、或いは、千年以上も前から伝えられ、残され、世代を経て続けられてきたことが、近代社会の「進歩」の中で、特に戦後のスクラップ・アンド・ビルドの大変動によって、失われていった。変化の速度は幾何級数的に速くなっている。

 便利になったこと、良くなったことも多いが、失われてはいけなかったモノやコトも多いように思う。

 私たちの世代は、この激変を見てきた。

 今は世の片隅で、ただ、ため息をつくばかりだ。

   ★   ★   ★

 上記のこととは関係ないのですが、先日、読売歌壇に掲載されていた歌の中から1首を紹介します。

すきとおる 水をあらわす 「露」という

   うつくしい字を 血で染めないで 

      (上尾市/関根裕治さん)

 【ことば(詩歌)】だけでは、命や平和や人間の尊厳は守れませんが、【ことば】もまた、人間の「真実」を伝えるものとして大切です。そういうことを教えてくれる1首だと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

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湖北の「隠れ里」再訪 … 近江の国紀行6

2022年04月02日 | 国内旅行…近江の国紀行

    (湖北の夕景)

 湖北でも、東側の尾上のあたりから西を見ると、琵琶湖の最北端部から細長い半島が伸びているのがよくわかる。

 この半島の向こうは深い入江になっていて、入江の最奥部に大浦の集落がある。

 半島のとん先は葛籠尾(ツヅラオ)崎という。菅浦の集落は、このみ崎のすぐ裏側の小さな入り江にある。

 現代の地名では、滋賀県長浜市西浅井町菅浦。

 2015年における菅浦の世帯数は72、人口は177人。ローカルで、小さな集落である。ちなみに江戸時代の1792年は、戸数は102、人口は477人だった。

 白洲正子の紀行集『かくれ里』にも取り上げられている。独自の伝承をもち、祭祀を行い、自治を続けてきた「かくれ里」である。

   ★   ★   ★

<菅浦との出会い>

 「近江の国紀行5」の続きとして書いている ── 大原から朽木を経て、安曇川沿いに高島へ出たあと、琵琶湖の西岸の道を北へ北へと走る。今日の目的地は最北端の菅浦。

 菅浦を訪れるのは、今回が3度目になる。

 1度目は、予期せぬ出会いだった。 …… もう30年以上も前になるだろうか?? 記憶はぼんやりしている。

 北陸道を湖北まで走り、余呉湖に出て、さらに「賤ケ岳古戦場」の案内を横に見ながら、カーブの多い道路を走った記憶がある。

 運転に倦み、遥々と遠くまで来たと思い始めた頃、菅浦という鄙びた漁港に出た。

 ローカルな、ありふれた漁村だと思った。観光客の姿は全くなかった。

 集落の入り口と思われる所に茅葺屋根の門が立っていた。門の横に説明板があった。「四足門」と言うらしい。説明を読んだが、その内容は理解できなかった。

 

  (西の四足門)

 今も長浜市が設置した「西の四足門」の簡潔な説明板が立っている。

  (西の四足門の説明)

 「四足門」は集落の東西に立っている。もとは「四方門」とも呼ばれ、集落の四方に立てられて、集落の領域と外界を区切っていた、とある。

 最初に訪れた時の説明板は、もう少し詳しかったような気がする。

 この集落は、四方に門を立て、よそ者を警戒し、外界と自分たちを区切ってきた。長くそういう歴史を保持してきた。

 今はそれほど閉ざされていないかもしれないが、自分のような外来者が集落の中に入って、小さな、静かな里の中を、好奇の目で見て回ってはいけないと思った。そう感じてそのまま引き返した。

 そのときのドライブのことはほとんど忘れてしまったが、琵琶湖の最北端の小さな鄙びた漁村のことは、ずっと頭の片隅に残った。

      ★

<2度目は「琵琶湖周遊の旅」>

 2度目の菅浦訪問のことは、当ブログ「琵琶湖周遊の旅」の4「湖北、賤ケ岳と菅浦」(2021,1,19)に書いた。

 2泊3日で琵琶湖を1周しようという旅の動機の一つとして、菅浦を再訪したいという思いがあった。そう思うようになったのは、白洲正子の『かくれ里』の中の一文、「湖北 菅浦」に心ひかれたからである。

 ちなみに、紀行集『かくれ里』の中の圧巻は、「吉野の川上」だと思う。その次が「湖北 菅浦」。

 「琵琶湖周遊の旅」の1日目は、船で竹生島をお参りした。

 長浜から竹生島へ渡る船の、船上から眺める琵琶湖の風景は広やかで明るく、竹生島に上陸して見学し、また、寺社に参拝をすると、遠くから写真の点景としてとしてしか見ていなかった島が、それ以後、意味のある島として眺められるようになった。

 この前方後円墳のような形をした小さな島を、おそらく2千年以上も前から、人々は信仰の対象にしてきたに違いない。日本の風景とは、そういうものだと思う。

 (海津大崎あたりからの竹生島)

 「琵琶湖周遊の旅」の2日目の予定は、反時計回りに、長浜を出発して、湖北、そして、湖西をひた走り、湖南の石山にもう1泊する計画だった。

 ところが、「付録」のようなつもりで計画の冒頭に組み入れていた賤ケ岳古戦場からの湖北の眺望があまりに美しく、ついついそこで時間を過ごしてしまった。琵琶湖第一の眺望かもしれない。

 結局、計画は緒戦で大きくくずれ、時間がなくなって、本命の菅浦も立ち寄っただけになってしまった。

 そういうことで、今回は菅浦へのリベンジのドライブ旅行である。

       ★

<高島から菅浦へ向かう>

 高島から海津港を過ぎて、桜で有名な海津大崎へ。海津大崎のとん先から竹生島の写真を撮った。竹生島は目の前で、季節になればここから竹生島へ遊覧船が出るようだ。

 海津大崎と葛籠尾(ツヅラオ)崎の二つの半島の間が大浦の入り江である。入り江は奥が深く、その最深部に大浦の集落がある。

 

  (大浦の町)

 入り江の最深部の大浦の集落を過ぎると、葛籠尾(ツヅラオ)崎の半島に付けられた道路を南下していく。

 人里からはどんどん遠くなり、すれ違う車もなく、走るにつれて湖畔の道は神秘的になっていった。

  大浦と菅浦の間に道路が開通したのは1966(昭和41)年である。道路は自衛隊が切り開いた。それまで、菅浦の里は船でしか行き来できない陸の孤島だった。

 以下は白洲正子『かくれ里』からである。

 「この辺に来ると、人影もまれで、湖北の中の湖北といった感じがする。特に大浦の入江は、ひきこまれそうに静かである」。

  (大浦の入り江)

 「菅浦は、その大浦と塩津の中間にある港で、岬の突端を葛籠尾(ツヅラオ)崎という。…… 街道から遠くはずれる為、湖北の中でもまったく人の行かない秘境である」。

        ★

<菅浦の住人が語り伝えてきた伝承>

  (菅浦の里)

 菅浦は長く交通不便な僻地だったが、それだけではない。「(この村は) つい最近まで、外部の人とも付合わない極端に排他的な集落であったという」。

 「それには理由があった。菅浦の住人は、(自分たちを)淳仁天皇に仕えた人々の子孫と信じており、その誇りと警戒心が、他人を寄せ付けなかったのである」。 

 淳仁天皇とは?? …… 話は奈良時代の後期に遡らなくてはならない。

 仏教への帰依の心が篤かった聖武天皇と后の藤原光明子との間に生まれた男子は幼くして亡くなり、第1皇女の阿倍皇女が帝位を継いだ。孝謙女帝である。  

 聖武天皇の亡き後、光明皇太后の下で、皇太后の甥の藤原仲麻呂が頭角を現し、政務の中心になっていく。

 皇太子には、大炊王(オオイノミコ)が立てられた。

 大炊王は舎人親王の第7子。舎人親王は、天武天皇の皇子の一人だが、天武・持統の直系ではない。元正女帝や聖武天皇をよく補佐し、また、『日本書紀』編纂の総括者として歴史に名を残し、生前の功績から没後、太政大臣に叙せられている。

 しかし、舎人親王の子の大炊王は、皇太子位に就く前、藤原仲麻呂邸に住んで仲麻呂の娘婿のような存在であった。大炊王が皇太子となり、やがて天皇になれば、藤原仲麻呂の権力基盤はさらに盤石になる。

 ほどなく、孝謙女帝は退位し、大炊王が淳仁天皇となった。

 だが、平和は続かなかった。孝謙上皇の母であり、藤原仲麻呂の叔母でもあった光明皇太后が亡くなると、孝謙上皇と、太政大臣になっていた藤原仲麻呂との仲が悪化した。

 764年、「藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱」が勃発。

 仲麻呂が目の上の瘤のような孝謙上皇を排除しようとクーデターを企図したとされるが、真相はわからない。

 孝謙上皇は先手を取り、「仲麻呂反乱」を宣言をして、直ちに三関を固めた。

    仲麻呂は一旦、影響下の近江国へ、さらに越前へ脱れて再起を図ろうとするが、朝廷軍を率いた吉備真備に悉く先手を打たれ、湖西の高島へ引返して決戦となるも、一族悉く殺された。

 乱平定後、淳仁天皇も捕らえられ、親王に降格されて、淡路島の高島に幽居された(淡路廃帝と呼ばれる)。現代の歴史研究者は、淳仁天皇は仲麻呂の乱にかかわっていなかったと見ている。

 一方、孝謙上皇は重祚( チョウソ )して(帝位にかえりさいて)、称徳天皇となった。

 孝謙上皇(称徳天皇)は女性とはいえ、天武天皇から聖武天皇へと続く天武直系の皇統。仲麻呂は若い頃から光明皇太后に目をかけられ、己を恃むところ強く、女性と思って甘く見たのだ。しかも、吉備真備のような天才を上から目線で軽く見ていた。勝ち目はない。

 その後の歴史。

    重祚して一旦は称徳天皇となったが、いずれ皇族の中から男子を選び、皇太子を立てる必要があった。しかし、女帝は、父の聖武天皇以上に仏法によって世を治めるべきという思いが強く、僧道鏡に帝位を譲ろうとした。これは和気清麻呂らによって阻止される。そして、女帝死後、臣下一致して道鏡を退け、思い切って天智系の子孫である白壁王を天皇として迎えた。光仁天皇である。既に61歳の、人格円満、政務に通じた帝だった。平安京へ遷都した桓武天皇の父帝である。

 一方、仲麻呂の乱の翌年、淳仁廃帝は淡路島からの脱出を試みるが捕らえられて、翌日、不明の死を遂げた。

 以上が、正史である。

 ところが、菅浦には別の伝承が伝わっている。

  「菅浦の言い伝えでは、その『淡路』は、『淡海』のあやまりで、高島も、湖北の高島であるという。菅浦には、須賀神社という社があるが、…… 祭神は淳仁天皇で、社が建っている所がその御陵ということになっている」(白洲正子『かくれ里』)。

 そして、先に引用したように、「菅浦の住人は、(自分たちを)淳仁天皇に仕えた人々の子孫と信じており、その誇りと警戒心が、他人を寄せ付けなかった」というのである。

 集落の4つの門は、そういう意味をもつ。

 また、菅浦では、淳仁天皇の没後、50年ごとに法要が営まれてきたという。1863(文久3)年に1100年祭。1963(昭和38)年に1200年祭。2013(平成25)年には1250年祭が行われた。

      ★

 今回は須賀神社にも参拝し、菅浦の集落も歩いてみるつもりである。

 (あと、1回、続きます)

 

 

 

      

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安曇川(アドガワ)に沿って高島へ … 近江の国紀行5

2022年03月07日 | 国内旅行…近江の国紀行

   (安曇川)

<閑話 : 近江国の佐々木氏のことなど>

 近江国のことをあれこれ調べていると、近江国の守護であった佐々木氏に行き当たる。

 佐々木氏は、鎌倉時代の初めから、室町時代を経て、戦国時代の織田信長の上洛の頃まで近江国を統治していた。「統治」という言葉は適切ではないかもしれない。とにかく、建て前上「守護職」であった一族だった。

 この世に常なるものはなく、佐々木氏一族もまた、勢いを得たり衰えたりしながらそれぞれの時代を生きている。歴史家ではないから詳しいことはわからないが、歴史の舞台に登場する佐々木一族のことを少し垣間見るだけでも、人間の生について考えさせられる。

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<源平の戦いと近江の守護職>

 平安時代の中期に、宇多源氏の流れを引く源成頼という人が、近江国蒲生郡佐々木庄に住みついた。その子孫が佐々木氏を名乗るようになる。近江源氏とも、佐々木源氏とも言われた。

 「苗字はこの時代の武士たちにとって、所領の誇示でもあった。武士団は、その一人一人が、その所領する村落の長(オサ)だった」(司馬遼太郎『街道をゆく42 三浦半島記』)

 保元の乱(1156)、平治の乱(1159)の時、佐々木秀義は源義朝(頼朝の父)の側に付いて戦い、平治の乱で平清盛に敗れて、東国へ落ち延びた。

   佐々木秀義の4人の子は、源頼朝の家人となり、1180年、頼朝が平家打倒の兵を挙げると、大いに活躍した。平氏打倒後、頼朝の信頼厚く、それぞれ各地の守護職に任じられる。佐々木氏が本領とした近江国の守護職は、嫡子の佐々木定綱に与えられた。

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<承久の乱と佐々木信綱>

 1221年に承久の乱が起きると、定綱の子で近江国の守護であった佐々木広綱をはじめとする佐々木一族は、後鳥羽上皇の側に付いた。

 一方、広綱の弟の佐々木信綱は鎌倉にあって幕府に仕えていたから、鎌倉側で戦った。しかも、信綱は、大河ドラマ『鎌倉殿の十三人』の主人公・執権北条義時の娘婿でもあった。

 佐々木一族の多くは戦死し、また、佐々木の惣領の広綱らは捕らえられた。信綱は兄の処刑を命じられた。

 乱の平定後、信綱は佐々木氏の新しい惣領となり、近江国の守護職を継いだ。

 信綱は晩年、曹洞宗の開祖・道元に頼んで、承久の乱で死んだ一族の供養のため、朽木の地に興聖寺を建てた。建立当時、七堂伽藍がそろう堂々たる菩提寺であったらしい。信綱の心は、誰よりも兄を弔いたかったのだろう。晩年の信綱は、風光明るい近江国にあって、自ら好んで山村の朽木に隠棲したという。

 信綱は近江国を4人の子に分けた。京に近い南近江の六角氏は4氏を統率する惣領家で、代々、近江国の守護職を引き継いだ。愛知川より北の北近江は京極氏、湖西の高島郡の一部は高島氏、湖北の一部の大原庄は大原氏の所領となった。六角氏、京極氏という苗字は、それぞれ京都の六角と京極に邸があったからである。

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<高島郡の朽木氏>

   朽木氏は、湖西の高島氏から、さらに枝分かれした一族である。

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<足利尊氏とバサラ大名の佐々木堂誉>

 鎌倉幕府の滅亡(1333年)から南北朝の騒乱の時代は、朝廷・貴族、武家が相互に入り乱れて離合集散を繰り返した時代である。足利尊氏は後醍醐天皇に共鳴し、兵を挙げて鎌倉の北条政権を倒した。しかし、やがて後醍醐天皇の理想とする政治の在り方に付いていけなくなる。

 そういう尊氏を支え続けたのが、北近江の佐々木(京極氏)道誉だった。自他ともに認ずる婆娑羅大名。バサラとは、今風に言えば、ロックでしょうか。しかし、その派手な恰好や皮肉なものの言いようにもかかわらず、尊氏がどんなに劣勢になり窮地に陥ろうと、一度も尊氏を裏切らなかった。さらに、尊氏死後は、凡庸な2代目将軍・足利義詮を支えた。

 戦前の皇国史観では、後醍醐天皇と戦った足利尊氏は「朝敵」=悪人であった。

 だが、後醍醐天皇は宋学に傾倒して中国風の専制的な皇帝を理想としていたと言われる。鎌倉幕府を倒した後、天皇親政の政治を実行した。

 しかし、時代は、大和に王権があった古代の「大王」の時代ではない。

 「一所懸命」という言葉がある。「ここは俺の一族が切り開いた土地だ。命を懸けてこの所領は守る」という村落の長(オサ)=武士たちと、「お前たちの所領は俺が命をかけて保証する。その代わり、俺が声を掛けたら馳せ参ぜよ」という武士の頭領との関係によって成り立つ社会が封建制である。

 全国の土地は全て天皇のものだという理屈が、今さら通じる時代ではない。

 ちなみに封建制は、世界史上、ユーラシア大陸の東の果てと西の果て、即ち日本と西ヨーロッパにしかない。中国などは今でも、専制的な皇帝とその手足となる官僚機構に代わって、習近平という専制的な皇帝と中国共産党という人民統治の官僚機構が支配する古代さながらの国家である。

 後醍醐天皇は己が観念上の理想をこの世に打ち立てようとし、しかも、力量のある人だったから一層、南北朝の大きな動乱を招いた。

 以後、天皇は次第に日本国のまとまりを象徴する存在として、何かの時に日本人の心のよりどころとなる存在になっていった。

 さて、少々古いが、大河ドラマ『太平記』では、足利尊氏を真田広之、佐々木堂誉を陣内孝則が演じた。

 後醍醐天皇役の片岡孝夫は、この人を置いてないというはまり役で、品格と威厳のある天皇を演じた。

 私は『太平記』の中では楠木正成が好きである。武田鉄矢が演じたが、質実な人柄、教養もあり、知略に富み、物静かで人望のある楠木正成像だった。尊氏と心を通わせながらも、最期は後醍醐天皇の命に殉じ、寡兵で尊氏の大軍に立ち向かって討ち死にする。

 戦前は、足利尊氏は朝敵、楠木正成は尊王の人だったが、人はみな、矛盾を抱えながら生きる。そして、そこに人間のリアリティがある。薄っぺらい歴史観で歴史を裁いてはいけない。

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<戦国の世になって … 六角氏の滅亡>

 守護大名の六角氏は、応仁の乱を経て、次第に戦国大名化し、都に近い利点を生かして蠢動したが、織田信長が足利義昭を奉じて上洛するとき、織田・浅井軍に粉砕されて滅びた。

            ★

<浅井氏の台頭と滅亡>

 北近江では、小領主の浅井氏が、京極氏の内紛に乗じて北近江を乗っ取る。あと継ぎの浅井長政は、隣国の織田信長の妹・お市の方を迎え、二人の間に三姉妹(茶々、初、江)が生まれた。長政は義兄の信長とともに上洛する。

 だが、信長の越前・朝倉攻めのとき、信長に離反した。この折、近江国の朽木元綱が、窮地の信長を援けた。

 その後、1570年、浅井・朝倉連合軍は、織田・徳川軍と、北近江の姉川で戦って敗れ、浅井長政は山上の城塞・小谷城に籠るが、信長軍に攻め滅ぼされた。

    (近江の姉川古戦場)

       ★

<信長から秀吉、そして徳川政権の近江>

 信長は、小谷城を落とすのに手柄があった羽柴秀吉を、北近江の地に置いた。秀吉は山城を嫌い、湖岸に長浜城を築いて、交易・流通の町をつくる。長浜は今も古い街並みを生かしたオシャレな町づくりをしており、市民は今も秀吉好きである。

  織田信長は、武田軍団を破った長篠の戦いのあと、琵琶湖を望む大天守をもつ安土城を築いた。だが、彼の心は世界の海に開かれ、そのために大坂の地を欲した。

 信長の死後、天下人となった豊臣秀吉は、北近江に石田三成を置いた。光成は佐和山城を築く。

 1600年の関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、近江のおさえとして、徳川譜代のうちでも最も信頼する井伊直政を置き、彦根城を築かせた。

  (彦根城天守)

 このように近江の歴史をたどると、近江国が京都・畿内と東国とを結ぶ、まさに要衝の地であったことがよくわかる。

       ★

<その後の京極氏>

 浅井氏は北近江の覇権を京極氏から乗っ取ったが、北近江を支配するのに名門・京極の名を消滅させることをはばかり、まだ幼かった京極高次を引き取って養育した。

 浅井氏が滅んだ後、成長した高次は、いわば裸一貫で織田信長に仕え、その後は豊臣秀吉に仕えた。

 美青年だったらしい。淀君(茶々)の妹の初姫に見初められて結婚する。

 秀吉のもとで、戦さに出るたびに出世した。他の武将からは姉が秀吉の側室だからと陰口をたたかれたらしい。とにかく出世して、近江高島に数千石をもらう武将になった。

 秀吉の没後、関ヶ原の戦いのときには徳川家康に付き、大津城に籠って、1万数千の毛利の大軍を引き受け、関ケ原に行かせなかった。関ケ原のあと、その功で家康から若狭一国を与えられ、翌年には高島郡も加えられて、小浜藩9万石の大名となった。

 大河ドラマ『江─姫たちの戦国』では、初姫は水川あさみ、京極高次は、ほんのちょい役だったが、若き日の(今も若いですが)齋藤工が演じた。

 京極氏は大名として明治維新まで存続し、維新後、子爵になった。

   ★   ★   ★

<安曇(アド)川に沿って琵琶湖へ出る>

 朽木のあたりは、比良山系の北端に当たる。

 若狭道はなおしばらく北上し、その後日本海へ向かう。

 一方、安曇川は比良山を巻くようにして東へ流れ、支流を集めながら水量を増し、琵琶湖の西岸に豊かなデルタ地帯をつくって湖に流れ込む。

 その安曇川に沿う道路を琵琶湖へと向かった。

  (安曇川)

 現在の行政区画では、湖西の南半分は大津市、北半分は高島市である。

 琵琶湖の対岸は、湖北が長浜市、その南に彦根市、さらに南へ近江八幡市、守山市、草津市、そして大津市となる。

 比良山系を隔てた山あいの村の朽木も、行政区としては高島市に属する。

 高島市の中心部は安曇川が作った平野の中の湖岸で、湧き水でも有名な静かな地域だ。ビルが建ち並び商業地が広がるような現代的な都市ではない。

 だが、茫々とした遠い時代からこの地は開け、文化・文物の流通の要衝であったらしい。

 「海洋民族の安曇(アズミ)氏が住んだのはこの流域で、それとは別に水尾公(ミオノキミ)と呼ばれる豪族の根拠地もあった」。

 「彦主人王(ヒコアルジノオオキミ)の墓(稲荷山古墳)から、新羅の王冠や耳飾りが出土したのは、盛んに交流が行われたことを示している。彦主人は、継体天皇の父で、母は越前の三国氏であった」(白洲正子『近江山河抄』)。

       ★

<湖西から迎えられた大王のこと>

 5世紀末から6世紀初めの頃のこと。

 『古事記』『日本書紀』によると、武烈天皇が亡くなったとき、あと継ぎがいなかった。そこで大和の王朝は、武烈の妹の手白香(タシラカ)皇女のもとに応神天皇の5世の孫である男大迹王(オホドノオオキミ)を迎えて大王とした。この人が継体天皇である。

 オホドの家は皇孫で、湖西の豪族だった。母は越前の豪族。オホドは、越前、近江はいうまでもなく、山城、摂津、河内北部といった木津川・淀川水系まで影響力があった人のようで、朝鮮半島とも交易関係があった。

 考古学上、古墳時代は前期と後期に大きく時代区分するが、後期の初めに位置するのがこの大王である。自らの陵墓を、初めて竪穴式から横穴式に変えた。皇后の手白香の陵墓は、彼女の父祖の地である大和に築かせたが、自らの墓は今の高槻市に造った。今城塚古墳が継体天皇の陵墓ではないかとされている。竪穴式の前方後円墳。墳丘長は190m。

      ★

<海の民・安曇氏のこと>

 「安曇川」のアドは、アズミの変化である。海人族の安曇(アズミ)氏は、全国各地の地名にその名を残しているが、彼らの故郷は九州の博多湾沖合の志賀島である。そのことは、「玄界灘への旅10」の「海人・阿曇氏の志賀海神社へ行く」に書いた。彼らの一部が、日本海から安曇川を経て、この地に住みついた。

 彼らは古代において、大王の輸送船団にもなり、大陸とも行き来したが、本業は漁であった。船と、釣り針、モリがあれば、好漁場を見つけ、どこの湾岸にでも根を下ろして暮らすことができた。

      ★

<高島の木材のこと>

      (琵琶湖・高島付近)

 時代が下がって奈良時代。

 毎年、正倉院の御物の展示が行われるが、正倉院には御物以外に、当時の役人たちが残した公文書類が多く残っているそうだ。今は、触ればぼろぼろと崩れるから、歴史学者といえども見ることはできない。

 その古文書の中に、平城京で使った材木のことが書かれていた。安曇川流域は材木の産地で、木を伐採して筏に組み、安曇川から琵琶湖を経て、平城京まで運ばれたらしい。

 奈良の長谷寺の十一面観音像は身の丈10mを越え、その前に座ると圧倒される。今の十一面観音像は室町時代の作とされるが、初代の観音像(火災で焼失した)は古い。

 白洲正子の『私の古寺巡礼』に伝承が紹介されている。

 継体天皇の頃、近江に大洪水があり、深山の巨大な樟が流されて、琵琶湖の高島の沖に浮かんだ。その巨大さに、祟りを畏れて誰も手を出さず、何十年も湖に浮かんだままだった。大和の人がこの木で十一面観音を彫ろうと念願を起こし、大和の當麻まで運んだが、そこでまた数十年の歳月が過ぎた。その子が一念発起し、初瀬川のほとりまで曳いた。一人の上人がこの神木を十一面観音にしたいと念じ、やがて聖武天皇の勅が出て、作られたという。

 話は、長谷寺の初代の十一面観音が神木によって作られたという「有難い話」で、伝説・説話の類である。だが、高島が登場することに興味をそそられた。長谷寺の初代十一面観音が高島から運ばれた巨木によって制作されたというところは本当だろうと思う。そこに少しずつ尾ひれが付き、長い間に雪だるまのようにふくらんでいった。この場合、ふくらませたのは、信者への話を少しだけ面白くしたいと思ったお坊さんたちだったかもしれない。

       ★

<藤原仲麻呂の乱のこと>

 話は変わって、奈良時代の後期、藤原仲麻呂の乱(764年)があった。

 仲麻呂は人臣を極めた朝廷の実力者であったが、クーデターを起こそうとした廉で孝謙上皇(女帝)に兵を差し向けられた。

 上皇に先手を取られ、仲麻呂の率いる一族郎党は近江から越前に逃れて、そこで態勢を立て直し、逆襲しようと考えたようだ。だが、朝廷軍を指揮する吉備真備にことごとく先を越され、湖西の高島の地で朝廷軍に包囲されて滅んだ。

 この乱の時の天皇は淳仁天皇だった。淳仁は天皇になる前、仲麻呂の身内のようになっていた皇子だったから、乱にかかわったとされて親王に格下げされ、淡路に流されて、その地で亡くなった。

      ★

 淡路で亡くなったはずの淳仁天皇を祀る隠れ里が、湖北にある。

 湖北の最北端に向けて、湖西を北上した。

(つづく)

 

  

 

 

 

 

 

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流離の将軍を迎えた朽木氏 … 近江の国紀行4

2022年02月27日 | 国内旅行…近江の国紀行

   (旧秀隣寺庭園)

白洲正子『私の古寺巡礼』から

 「それは本堂に向かって左手の片隅にあったが、雑草に埋もれて、わずかに石組らしいものが見えるだけで、ほとんど庭とは呼べないほど荒廃していた」。

   ★   ★   ★

<朽木氏の菩提寺・興聖寺(コウショウジ)を訪ねる>

 琵琶湖岸に立つと広々と開けて風景が明るいが、湖西の西は比良山系が屏風のように連なって、視界を遮っている。今回は、その山並みの西に隠れている「信長の朽木越え」の道を車で走ってみたかった。

 ただ、とことこ走るだけで良かったのだが、1か所だけ寄り道した。

 朽木の村の岩瀬という所にある興聖寺(コウショウジ)という寺である。その境内に「旧秀隣寺庭園」があり、国の名勝に指定されている。

 観光客の訪れない山間の寺だが、司馬遼太郎も白洲正子も立ち寄っている。『街道をゆく』や『私の古寺巡礼』を愛読する者として、ここまでやって来て立ち寄らぬわけにはいかない。

     ★

 (「高聖禅寺」の石碑)

  高く木立のそびえる空き地に車を置き、寺の境内に入った。

 苔が蒸し、古い石垣が残っている。この石垣も穴太衆の手によるものだろうか。人の気配はない。本当に観光客など来ない寺なのだ。

 庫裡で2、3度声を掛けると、中年の女性が出てこられた。

   (高聖寺本堂)

 その方が本堂の扉を開け、中に招じ入れてくれた。

 本尊の釈迦如来(藤原時代の重文)を拝観させていただく。そして、仏像のこと、寺の歴史のこと、朽木氏のあれこれについて、ざっと説明をいただいた。

 かつて流離の足利将軍を慰めたという庭園は、今は水を抜いて修理中とのこと。あとは自由にご見学くださいと言われて、巨木の陰の濃い境内の中をそぞろ歩いた。

 司馬遼太郎は『街道をゆく1』の中で高聖寺について、「かつての朽木氏の檀那寺で、むかしは近江における曹洞禅の巨刹としてさかえたらしいが、いまは本堂と庫裡といったものがおもな建造物であるにすぎない」と書いている。

 その一文が、さっきいただいた案内のしおりに、そのまま引用されていた。

  (高聖寺境内)

       ★

<不遇の足利将軍を迎えた朽木氏>

 時の朽木氏の当主は稙綱(タネツナ)という人だった。信長の朽木越え(1570年)を援けた元綱の祖父に当たる。元綱の父は早く他界したから、ほとんど稙綱からまだ幼かった元綱へ引き継がれた。

 1528年、12代将軍足利義晴は三好の乱をさけて朽木谷へ逃れた。

 義晴も、京都から大原を経て、今日たどった朽木越えの道をやって来たのだろうか??

 朽木稙綱(タネツナ)は将軍を迎え、書院の前に庭を造って、流離の将軍を慰めた。将軍は足掛け3年をここで過ごした。その間に、稙綱は、将軍義晴にとって最も信頼のおける御供衆となった。将軍義晴が京に戻ってからも、稙綱は御供衆として仕え、また、何か事があれば朽木から兵をつれて駆け付けた。

 将軍義晴の嫡子・義輝が将軍職を継ぐと(1546年)、義輝の御側衆としても仕えた。

 大河ドラマ『麒麟がくる』の中では、向井理が13代将軍足利義輝を演じた。明智光秀を主人公にしたドラマだから、将軍義輝はちょい役だった。しかし、将軍職に生まれても当時の将軍に力はなく、向井理が自らの無力に孤高に耐える貴公子の姿を演じて心に残った。

 将軍義輝もまた三好長慶との争いに敗れて、細川藤孝らを供に、朽木稙綱の孫・元綱を頼って朽木谷に逃れた。そして、ここで5年の歳月を過ごす。その後、京の政界に戻ったが、突如、松永久秀や三好三人衆の兵1万に襲撃されて殺害された(1565年)。将軍義輝は剣客だったというが、少数の供回りの侍たちでは抗すべくもなかった。

 そのあと、1568年に織田信長が足利義昭を奉じて上洛する。義昭は、最後の足利将軍となった。

 朽木元綱が信長を援けたのも、将軍義昭を奉じていたからで、その後、信長が義昭を追放すると、元綱も朽木に引っ込んだようだ。

 朽木稙綱(タネツナ)から4世代目の当主は、かつて将軍をかくまった館を秀隣寺という寺に変えた。将軍の庭は寺の庭としてそのまま残される。

 江戸時代、秀隣寺は同じ朽木村の野尻という地に移転し、また歳月を経て、朽木で最も由緒ある高聖寺が大火に遭い、この地に移転してきた。

  (旧秀隣寺庭園)

      ★

<足利将軍を慰めた庭園のこと>

 司馬遼太郎が訪れた時も、白洲正子が最初に訪れた時も、その庭は荒廃して、長く風雪に放置されたままだったようだ。

 「私が最初にこの石組みをみたとき、村の子供10人ばかりが石のかげにかくれたり、石の上へのぼったりして、いい遊び場所になっていた。山から降りてきた村のひとに、『これは庭でしょう』ときくと、『ハイ、ハイ』と、答えてくれて、くぼう様のお庭です、と教えてくれた。荒れて子供の遊び場になっているのがなんともうれしく、室町末期の将軍の荒涼たる生涯をしのぶのにこれほどふさわしい光景はないだろうとおもった」(司馬遼太郎『街道をゆく1』)。…… (さすがに、名文ですね👏)。

 白洲正子は越前や近江の旅の途中に何度かここに立ち寄ったが、そのたびにこの庭が少しずつ修復され、ついに水をたたえた室町庭園に復元されたと書いている。国や県や市の努力に拠ったのであろう。

 だが、今回、私が行ったときは水が抜かれて、復元前のように石組みだけになっていた。その方が良かったかもしれない。

 「いつ行ってみても観光客などいたためしはなく、室町時代の文化を偲ぶには絶好の場所であるが、鳥の声のほか物音一つしない山間の侘び住居は、将軍にとっては寂しい日々であったろう」(『私の古寺巡礼』)。

 寺は段丘上の高台にあり、庭の端に立つと北近江の山あいの景色が広がっていた。今は秋の終わりだが、春になり、草木が萌え出す頃は美しいに違いない。山の麓の林は桜並木だろうか。そのすぐ向こう側を安曇川が流れ、流れに沿って桜が植えられているのだろう。     

 (安曇川に向けて開ける)

 白洲正子も同じことを書いていた。

 「木立を通して比良山の山並みが見渡され、田圃の向こうに安曇川が流れている風景が、いかにもゆったりと気持ちよかった」(『私の古寺巡礼』)

 さらに、…… 専門家はこの時代に「借景」という造園の技法はなかったと言っているが、と続け、「 はたして日本人が庭を造る場合に、完全に周囲の自然から離脱しえたであろうか。前方にそびえる比良山は、古代から信仰された神山であり、それを取りまいて流れる安曇川は、おのずから神奈備(カンナビ)川の様相を呈している。西洋の幾何学的な庭園とはちがって、はじめから自然に似せて構成された日本の庭が、周囲の山水、それも長い歴史と伝統に彩られた風景を、まったく無視することが可能であったかどうか」。

 「木立に囲まれた庭園の、安曇川に面した側だけが開けて、比良山を望めるように造形されているのは、…… これ見よがしに借景風に造った庭園よりも、かえって深い趣があるように思われる」と書いている。

 鳥のさえずりとかすかな風のそよぎ以外に何の物音もしない静かなひと時を過ごして、車に戻った。

     (つづく)

 

 

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朽木(クツキ)街道をゆく … 近江の国紀行3

2022年02月21日 | 国内旅行…近江の国紀行

 (安曇川沿いに国道367号線を北上する)

 京都の街を出て、国道367号線を高野川沿いに北上すれば、やがて八瀬、大原の里へ到る。

 京都~大原間を路線バスが通うようなったのは大正12(1923)年。ただし、戦前も戦後も、昭和の時代のローカルバスは未舗装の凸凹道路を走った。

 京都~大原間が舗装されたのは昭和42(1967)年。「京都 大原 三千院 恋に疲れた女がひとり」がヒットした翌々年である。そして、大原にも観光ブームが訪れる。

 今は、国道367号線は全舗装されて、北陸の若狭まで通じている。

   ★   ★   ★

<比良山系の尾根道から>

 京都大原を出発し、山間の道(367号線)を北上する。

 この道路は一般に「若狭道」と言われるが、古くは「朽木街道」とも呼ばれた。

 もちろん、道幅が広げられ完全舗装された367号線は、旧朽木街道の上をそのままたどっているわけではない。

 進行方向の右手が比叡そして比良の山並み。左手は京都の鞍馬の奥に続く山並みだ。

 現在の国道も、旧朽木街道も、その間の峡谷を行く道であるから、見る景色に大きな違いはないであろう。

 コロナ禍のせいもあるのか、行き交う車は少なく、走りやすい。

 花脊峠へ行く分岐を通り過ぎると、県境を越えて滋賀県に入った。

 いつの間にか高野川の流れも尽きて、見なくなる。

 その名もゆかしい花折峠は、峠の下のトンネルの中を走り抜け、何の風情もない。その昔は峠越えをしたのだろう。

 せせらぎが現れたが、北へ向かって流れている。分水嶺を越えたのだ。安曇(アド)川の上流である。

 車を停めて冒頭の写真を撮った。山裾の、流れが見える所まで枯草を分けて行こうかと思ったが、ズボンが「ひっ付き虫」だらけになるだろうと思ってやめた。(ひっ付き虫は「虫」ではありません。念のため)。

                 ★

 20代の頃、山男の友人に導かれて、一緒に山登りをした時期があった。

 夏、北アルプス、南アルプス、中央アルプスの幾つかの縦走路を歩いた。

 しかし、すでに職を持つ身だから、ふだんは日曜日に、近くの低山を日帰り登山した。暮れから正月の休みには、1、2泊で畿内の冬山に登ったりもした。

 冬の京都・鞍馬の奥の山々は標高千mに足りないが、山が深く、湿気を含んだ積雪で、聳え立つ針葉樹林の暗い山道を黙々と歩いた。

 一方、その東側に聳える比良山系は最高峰が武奈ケ岳の1214mで、やや高山の趣があって好きだった。樹林帯の急峻な山道を登って尾根に出れば、眼下に琵琶湖や遠くの山々を見渡すことができた。無人小屋に泊まって、朝、人けのない積雪の上をアイゼンを付けた登山靴でゆくと、粉雪がギシッギシッと軋む感触が心地よかった。

 その当時、琵琶湖の南岸の浜大津から湖西の近江今津まで単線の江若鉄道が走っていた。この鉄道を利用して、琵琶湖側から比良山系へ登頂し、下山も琵琶湖側に下った。

 だが、琵琶湖の反対側(西側)の峡谷の方へ下山すれば路線バスが通っていることを知っていた。地図を見ると、バスは栃生、坊村、花折峠、途中などというゆかしい名の村落を走り、大原を経て京都市内に到る。そちら側へ下山してみたいと心ひかれたが、尾根から谷筋までの下山にどれくらい時間がかかるかわからない。山道を迷いながらバス停まで下りた時、その日のバスが行ってしまっていたら、野宿しなければならなくなる。明日の勤務を考えれば冒険はしにくかった。

      ★

<信長の朽木越え>

 この山峡の道に、もう一度心ひかれるようになったのは、歴史に興味をもってからである。この峡谷は、信長の「朽木越え」の道だった。

 元亀元(1570)年、織田信長は越前の朝倉氏を攻めようと敦賀に大軍を集結させ、攻撃を開始した。そのとき、北近江を支配する浅井長政の離反を知る。前面に朝倉勢、後方からは浅井勢に挟撃される形になった。信長は全てを放り捨て、湖西の峡谷を通る古道を、ほとんど単騎で走り抜けて京まで逃げ戻った。

 織田信長は中世を終わらせ、近世の扉を開いた人物である。すでに北条早雲や斎藤道三など、古い権威を背負った守護大名を滅ぼしてのし上がった戦国大名たちがいたが、彼らの中から現れた信長が時代を大きく回転させた。

 足利義昭を奉じて上洛して以後の信長は、畿内でも、畿内のさらに向こうの東の世界からも、西の世界からも、幾重もの政治的、軍事的包囲網のただ中に置かれた。それは、並みの人間ならば迫りくるものへの恐怖で、破れかぶれになるほどの孤独な戦いだった。しかし信長は、その死までの十数年の間、あの桶狭間の戦いのような無謀ともいえる突撃戦は二度としなかった。迫ってくる敵の軍勢の足音に耐えながら、鉄砲三千丁を揃え、その後に武田軍団を迎え撃った。1年近くもかけて誰も見たことがない巨大な軍船を建造し、毛利水軍を撃破した。ぎりぎりまでしのいで時を稼ぎ、その間に勝つに必要な準備を積み上げ、合理的、かつ周到な準備してから決戦に出た。どこか異国の香りのする安土城の建設を含め、その精神の孤独な強靭性と合理的な天才性は、日本史の上でも稀有な存在と言えるだろう。

 そして、この朽木越えの逃走劇も、いかにも信長らしい合理主義を感じて興趣深い。

 前後を絶たれ、袋のネズミとなった信長は、即座に決断し、全てを放り捨てて、ほとんど単騎で間道を逃走した。

 その結果が、自分の命を救っただけでなく、信長の軍団をほとんど無傷で退却させることにつながった。御大将を守りながらの退却戦は苦しい。包囲され、じりじりと消耗していき、最後は全滅に到る。ところが、御大将が真っ先に命からがら遁走しているのだから、諸将たちも頑張って良いところを見せる必要はない。それぞれに率いる軍をなるべく戦わぬよう、犠牲少なく、粛々と退却させる、言い換えれば、御大将のように逃げることに専念したらよいのだ。

 以下、司馬遼太郎による。

司馬遼太郎『街道をゆく1』(湖西のみち)から

 「信長のおもしろさは桶狭間の奇襲や、長篠の戦いの火力戦を創案し、同時にそれを演じたというところに象徴されてもいいが、しかし、それだけでは信長の凄味がわかりにくい。この天才の凄味はむしろ朽木街道を疾風のごとく退却して行ったところにあるであろう」。

 「包囲されたとはいえ、信長の側は、圧倒的大軍だったから、たとえば上杉謙信のように自分の勇気を恃(タノ)む者は乱離骨灰(ラリコッパイ)になるまで戦うかもしれず、楠木正成なら山中でゲリラ化して最後には特攻突撃するかもしれず、西郷隆盛なら一詩をのこして自分のいさぎよさを立てるために自刃するかもしれない」。

 「信長は中世をぶちやぶって、近世をまねきよせようとした。時代を興す人間というのは、おのれ一己のかっこ悪さやよさなどという些事に、あたまからかまっていないものであるらしい」。

 「 その魅力の最大のものの一つは、元亀元(1570)年4月、この街道を猛烈な勢いで退却したことにあるのではないか と思うのである」。

 信長に朽木越えの道を進言したのは松永久秀だったらしい。彼は京から若狭へ行くのに「朽木谷」という長い渓谷があり、その谷にひとすじの古道が走っていて、人里もあることを知っていた。

 朽木谷には、朽木元綱(クツキ モトツナ)という領主がいた。松永久秀は元綱とは旧知で、先行して元綱と話をつけた。

 このときの朽木元綱の側に立てば、主従数騎に過ぎない信長を討ち取ることもできたはずだ。

 だが、もともと朽木氏は、近江源氏と言われる佐々木氏の分家筋で、同族の京極氏から北近江を奪った新興の浅井氏に敵対的感情を抱いていた。その上、朽木氏は、小なりといえども、遠く足利尊氏の時代から「足利将軍」への思いが深い一族だった。信長は今、将軍・足利義昭を奉じて戦っているのである。

 剛毅な元綱は即座に決断し、その夜は信長を館に泊め、翌日、京まで落ち延びさせたのである。

 元綱はそれ以後、織田家に直属することになり、信長のあとも豊臣政権に従った。その後、関ヶ原の時には危ない橋も渡ったらしいが、ともかく朽木氏は徳川時代を通じて1万石にやや欠けるこの地の領主として生き延び、明治維新を迎えて、今に至る。(参考 : 『街道をゆく1』の「湖西のみち」)

        ★

<日本遺産の鯖寿司>

 安曇川に沿って走り、比良山系の最高峰の武奈ケ岳の西麓、坊村を過ぎる。もうすぐ朽木の村だ。 

 若狭街道は「鯖街道」とも言われた。日本海の鯖を京都に運んだのである。車のなかった時代、丸一日を要したが、京都に着く頃には塩がしみ込んで食べごろになっていたそうだ。ただし、冬の鯖街道は降雪が深く、危険な道だったらしい。

 2015年、文化庁は日本遺産の最初の18件の一つとして、「海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群 ─ 御食国若狭と鯖街道」を選んだ。

 車で走っていると、「鯖寿司」の看板の掛けられた食堂があった。

   山間の道とはいえ国道沿いだから、コロナ下でなければもう少し車の往来もあり、客もいるのだろうが、店内に客はいなかった。

 しかし、ほっぺたが落ちるほど美味かった。安い値段なのに、まさに日本遺産級である。

 ご主人が、うちの裏に旧朽木街道が残っていますよと教えてくれたので、行ってみた。完全舗装された国道ができるまでは、こういうローカルな道だったのだ。

  (元の朽木街道)

 (つづく)

 

 

 

 

 

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建礼門院徳子と寂光院…近江の国紀行2

2022年02月06日 | 国内旅行…近江の国紀行

      (寂光院本堂)

<閑話 : 門跡寺院とは>

 皇族や公家が住職を務める特定の寺院をいう。寺格が高く、特別の礼遇と特権を与えられた。

 宇多天皇(在位877~897)が出家し仁和寺に入って御室御所と称し、御室門跡になったのが始まりとされる。しかし、「門跡」という寺格が制度的に確立したのは室町時代である。

 江戸時代には、宮門跡(親王)、摂関門跡、清華門跡(摂関家に次ぐ7家)、公方門跡(将軍家の一族)、準門跡などが制度化された。

 真言宗では仁和寺や大覚寺、浄土宗では知恩院、天台宗では円融院(三千院)、青蓮院、妙法院、曼殊院、聖護院、奈良の興福寺では一乗院、大乗院など。

 司馬遼太郎は次のように書いている。

 「江戸幕府は、天皇家に親王がたくさんうまれることをおそれた。それらが俗体のままでうろうろしていたりすると、南北朝のころのように『宮』を奉じて挙兵するという酔狂者が出ぬとはかぎらず、このため原則として天皇家には世継ぎだけのこし、他は僧にし、法親王としてその身分を保全したまま世間から隔離することにした。江戸期の宮門跡というものの幕府にとっての政治的性格はそういうものであったろう」。

 「明治政府によって廃止され、宮門跡である法親王たちは還俗させられて、それぞれ浮世の宮家を創設した。

 かれらが出て行った寺のほうはふつうの出身の僧が住職となるようになったが、明治18年、内務省から門跡号を称することをゆるされた。曼殊院の場合、明治後、伝統として天台宗の学問僧のなかからこの寺の門跡が選ばれるようになった」。(『街道をゆく 叡山の諸道』)

   ★   ★   ★

<寂光院への小道をゆく>    

  (三千院付近の呂川)

 三千院を出て、寂光院へ向かった。

 樹間の小道に沿って小川が流れている。呂川(リョセン)と言うらしい。文人墨客風の名である。路傍に「呂川の清流」という説明板が立っていた。

 呂川は比叡山の山並みを源とし、大原川 → 高野川 → 鴨川 → 淀川と名を変えながら大阪湾に注ぐ。源流である大原の里は、きれいな水を保つように努めている、という趣旨のことが書かれていた。土地の人々の思いが感じられる。

 修学旅行らしい男子高校生が、貸衣装の着物を着、マスクをして、ぞろぞろと歩いてきた。私立の男子校なのだろう。みんな大人しい。このコロナ禍、修学旅行を短縮して京都で我慢したのかもしれない。そうだとしても、今は良いタイミングである。

 晩秋の紅葉の木蔭の所々に大原女の石像が置かれ、道案内をしてくれる。それとは別に、長い歳月を経て風化した石仏たちもいる。

     (大原女の石像)

 大学を卒業して大阪に就職した若い頃、大原には2、3度来たことがあった。

 土産物屋が並び観光客が小道にいっぱいの三千院と寂光院の間を、飛ぶように一気に往復した記憶がある。もうあのように速く歩くことはできない。それにしても、あの頃はいつも急いでいた。

 今回の大原再訪で一番楽しかったのは、コロナで訪れる人も少ないこの鄙びた小道を、ぶらぶらと楽しんで歩いた時間だ。

  (大原の里)

 樹間の小道が終わり、空が開けて、国道367号の道路に出た。バス停もある。高野川の清流が国道沿いを北から流れてくる。

 橋を渡って、また小道に分け入った。今度はやや上りの小道で、寂光院の裏山を源とする草生川という小川沿いをゆく。

 やがて、その小道の奥まった所に、寂光院の受付の小さな庵があった。

         ★

<「大原御幸」の寂光院>

 受付を済まし、参道の石段を上る。三千院のような格式の高さはなく、山のお寺の風情が感じられた。

  (寂光院の石段)

 山門をくぐると、苔むした庭があって、正面に小さな本堂が建っていた。

     (本堂)

 本堂は平成12(2000)年に火災に遭い、新たに復元されたそうだ。放火だったと言われる。

 6世紀末に尼寺として創建されたとも、もっとずっと後の創建とも言われる。いずれにしろ、この人里離れた小さな寺の名を今に残したのは、1185(文治元)年に建礼門院徳子が入寺したことによる。

 建礼門院徳子は、平清盛の息女で、高倉天皇の中宮となり、安徳天皇の母となった。国母と呼ばれる女性の最高位である。

 しかし、「治承・寿永の乱 (源平の戦い)」 が勃発した。

 1180年の源頼政の挙兵に始まり、頼朝の挙兵によって乱は拡大。富士川合戦、倶利伽羅峠の合戦、一の谷の合戦を経て、1185年の壇ノ浦の合戦で平家一門は滅亡。まだ幼かった安徳天皇も祖母に抱かれて西海の海に身を投げた。

 徳子だけが海中から助け上げられ、出家して建礼門院となる。そのあとは平家一門とわが子の菩提を弔うため、この人里離れた大原山中の寺に身を置いて、短い生涯を祈りの中に過ごした。

 徳子の変転極まりない悲劇的な運命は『平家物語』によって読み継がれ、古今を通じて寂光院を訪ねる人は多い。

 明治の歌人・与謝野晶子もその一人である。

  ほととぎす治承寿永の御国母三十にして経よます寺 (与謝野晶子)

 「ほととぎす」は5月頃に渡ってくる小鳥で、新緑の中から鳴き声が聞こえてくる。「テッペンカケタカ」と聞こえるというが、古人はその鳴き声を帛(キヌ)を裂くような悲痛な声と聞き歌に詠んだ。晶子もここで、悲痛極まりない徳子の心を思った。晶子はいつも女性の味方である。「よます」の「す」は尊敬の助動詞。 

 徳子が寂光院に隠棲した翌年、後白河法皇が公卿・殿上人らを連れて都から遥々と彼女を訪ねてくる。そのくだりが『平家物語』の中に「大原御幸」として描かれ、能にもなって、コロナ禍の前、私も観賞した。

 後白河法皇は、高倉天皇の父で、徳子にとっては義理の父に当たるが、平家追討の院宣を下した人でもある。

 法王が寂光院に到着した時、徳子は不在だった。「大原御幸」には、お堂や庵のあたりの侘しい様が細やかに描写されているが、寺でいただいたしおりによると、本堂前西の庭園は『平家物語』の当時のままだという。

 後白河法皇の詠んだ歌

    池水に汀(ミギワ)の桜散りしきて波の花こそさかりなりけれ (後白河法皇)

 池のほとりの桜の花が散り、花びらが水の面を覆って、まるで水面が満開のようであるという歌。

  (汀の池)

 留守居をしていた老尼に尋ねると、徳子は仏に供える花を摘みに裏山に行ったと言う。法王は、国母であった人が自ら花を摘みに山に入るのかと憐れまれる。

 庵の中には徳子の作った歌が置かれていた。

 思ひきやみ山のおくに住居(スマイ)して雲井の月をよそに見むとは (建礼門院)

 「雲井」は宮中。数年前には華やかな宮中で多くの人々と趣深く眺めた月を、このような山奥の庵で寂しく見ることになろうとは思いもしなかったという意。後白河法皇の淡々とした歌と比べると、その心は痛切である。そこには

 「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理を顕す」 

という『平家物語』の底流を流れる旋律と通じる。

 (諸行無常の鐘)

 すべてのものは移ろいゆくというのが、日本列島に生まれ、生きる人々のものの感じ方である。人は自然の小さな一部に過ぎず、自然に包まれ、自然とともに生き、そして滅んでいく。

 そういうものだと覚悟を決めることを悟りと言い、そのことを教えるのが日本の仏教である。

 「輪廻」だとか、そこからの「解脱」などという思想はインドの風土から生まれたもので、日本の風土の中では、知識として知っても心になじまない。空海も最澄も、自らの中にある土着的な心を大切にし、仏教と融和させて、日本仏教をつくっていった。

 寂光院の石段を下り、もとの小道に戻ると、すぐ隣接して美しい石段がまっすぐに空に向かって上がっていた。その上に建礼門院徳子の陵墓がある。

  (建礼門院の陵墓)

 五輪の塔の仏教式御陵だが、今は宮内庁の所管である。

 (建礼門院の陵墓の石段)

 陵墓への石段のたたずまいが美しく、印象に残った。

      ★ 

 そのあと、大原から、山あいの国道を北上し、朽木越えの道へと車を走らせた。

 

 

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晩秋の京都大原へ … 近江の国紀行1

2022年02月03日 | 国内旅行…近江の国紀行

     (大原女の里)

 三千院から寂光院へ行く小道に、愛らしい大原女の石像が道祖神のように置かれていた。心ある地元の人々の手によって、大原が大原らしくさり気なく装われている。歳月がいつの日か本物の道祖神のようにしてくれるだろう。

 都の人々が使う木材や薪炭の供給地として、大原は重要な地であった。近代文明の波が押し寄せるまで、煮炊きをし暖を取るために、薪や薪炭は必需品だった。大原女は、毎朝、薪や薪炭を担いで京までの道のりを歩き、街中で売り歩いて、家計を支えた。

    ★   ★   ★

<遠い日の秋色の京都>

  遥かに昔のことで、何十年前のことだったかは忘れてしまったが、大学3年の秋、飛鳥から奈良、京都を2週間ほどかけて巡ったことがある。

 気楽な一人旅ではない。教授同伴のクラス旅行で、卒業単位に組込まれていたから、文字どおりの修学旅行だった。

 行く前は嫌だと思っていたが、2週間もかけて日本文化の核となった奈良や京都の建物、庭園、絵画や彫刻の数々を見てまわったのである。

 初めはたいした興味もなく、飛鳥の野を歩き、奈良とその近辺の寺々を訪ねて仏像を見、住職の話をぼんやりと聴いていたが、3、4日もたつと飛鳥仏だとか、白鳳の仏だとか、平安の仏像だとかが見分けられるようになった。

 寺の宿坊に泊まり、早朝、座禅を組んで、仏教の教える境地を会得しようとした日もあった。

 京都では、一般観光客には敷居が高い京都御所や桂離宮や修学院離宮も見学した。教授の指導の下、係を引き受けた真面目な級友たちが必要な段取りを全部してくれていた。事後にもたくさんのお礼の文を書いたはずだ。

 もちろん詩仙堂や曼殊院、そして、嵯峨野や大原の里なども巡った。

 11月の下旬のことで、目の奥まで紅に染まってしまうような美しい紅葉だった。嵯峨野の庵から庵へと訪ねる山の中の小道は、深紅の落ち葉が深々と積もり、まわりの樹木も目に映じるものは全て紅葉ばかりで、こんなに美しい世界に身を置くことは自分の人生でもう二度とないだろうと思いながら、落ち葉を踏みしめて歩いた。

 当時は観光客も今より少なく、しんとして寂しい大原の里の三千院の阿弥陀三尊も、『平家物語』のヒロインが余生を送った寂光院のたたずまいも心に残った。

  (大原の紅葉) 

 私の京都はここで終わったと言っていい。

 1965(昭和40)年、デューク・エイセスが歌う「京都 大原 三千院 恋に疲れた女がひとり」が大ヒットした。

 1970年代になると、高度経済成長の波に乗って、「ディスカバー・ジャパン」 の大キャンペーンが繰り広げられた。各地に「小京都」が生まれ、国鉄の急行の停まる駅には「銀座通り」ができ、海岸や高原の避暑地も観光客であふれた。目に映じるものは日本の美しい自然景観や歴史的・文化的遺産よりも、安普請で作られた土産物屋や食堂や旅館、そして人々の群れとそのゴミで、かつて出家・隠棲の地であった嵯峨野や大原までが商魂たくましい観光地となった。学生時代に感動したあの嵯峨野の小道も、3年後の秋に再訪したときには垣根が張り巡らされて、もうそこがどこであったか、いくら探しても見つからなくなっていた。所有者が防御策を講じるのは仕方のないことだ。

 しかし、高度経済成長とバブルの時代が終わり、世紀も変わって、今、日本は落ち着きを取り戻してきているように思われる。

 それぞれの地域の歴史、文化、景観が改めて見直され、地元の人々によって環境が再整備され、保存され始めた。例えば、大原の小道に置かれた大原女の石像も、大原を大原らしく保存しようとする取り組みの一つである。

       ★

<晩秋の大原再訪>

 かねてから車で走ってみたかった朽木街道(若狭街道)、そしてその先の湖北の「隠れ里」を訪ねる途中、何十年ぶりに大原の里に立ち寄った。

 鴨川と分かれて、高野川沿いの国道367号線(若狭街道)に入ると、京の街の喧騒はすっと後ろに消えてしまい、北へ向かう一本道になった。

 八瀬(ヤセ)の国道沿いの食堂に寄って、にしん蕎麦を食べた。

 昼食を終えて外へ出、あたりの野の風景を眺めたとき、都を捨ててここまでやって来た都人の感慨を感じた。

 車を走らせて大原の里に入ると、その感は一層深まった。

 大原には里という言葉がよく似合う。ただ、里と言っても、ふつうの農村風景とは違う。鄙びた田舎の景色の中にも、都の雅(ミヤ)びがほのかに感じられる。そこが私の住む大和の風景と違うところだ。

 今は行政的には京都市の左京区だが、遡れば山城国愛宕郡小野郷大原だった。

 小野は八瀬と大原を含む郷で、『伊勢物語』の主人公・在原業平が仕えた惟喬親王(コレタカノミコ)が、思いがけずも出家隠棲した地である。

 「正月にをがみたてまつらむ(拝顔しよう)とて、小野にまうでたるに、比叡の山の麓なれば、雪いと高し」(伊勢物語)。

 大原は比叡山の西麓であるから、雪が降る。そして、比叡山天台宗の領域である。「大原」という地名も、比叡山の円仁が修練道場として開山した大原寺(ダイゲンジ)に由来するのではないかという。円仁は最澄の弟子で、天台教学を完成した人である 。

  (大原の里)

       ★

<京都 大原 三千院  >

 京の梶井門跡とか梨本門跡と呼ばれていた門跡寺院が大原の里へ移って、名も三千院と改めたのは、明治4年である。「大原三千院」としての歴史は、意外に浅い。

 しかし、寺の起源は、天台宗の開祖・最澄が比叡山中に結んだ草庵「円融坊」に遡るという。

 やがて、大津の坂本に本拠を移し (円融院、また、梶井宮とも呼ばれた)、その後、火災や戦乱によって京都市内を変遷した(名も梨本門跡、梶井門跡などと呼ばれた)。

 平安時代の後期には親王が入って住職を務めたりして、後に門跡寺院となった。

 明治4年に門跡制度が廃されたとき、なぜ大原の地が選ばれたかというと、古くからここに当院の政所(事務局)が置かれていたからである。

   (三千院の石垣)

 それにしても、三千院がもと門跡寺院であったという風格は、正門の両側に巡らされた石垣や白壁からも感じることができる。石垣は近江坂本の穴太(アノウ)衆が築いたものである。

 「御殿門」を入り、拝観順路に従って進んだ。

 「客殿」はもと大原寺の政所があった所とか。周囲を池泉観賞式の庭園が囲んで、部屋から庭園を観賞することができる。

 こういう所を訪ねると、自分も当主になったつもりで庭の見える座敷に坐ってみる。この部屋で読書をし、ものを書き、飽きれば庭を眺め、樹木の陰影に自然の気を感じ、茶を飲み、なお無聊であれば庭をそぞろ歩く。そういう日々を想像すると悪くない。春と秋の自然の移ろいは美しく、夏の蝉の声も風情があるかもしれない。だがしかし、冬の寒さは火鉢ぐらいでは防ぎようがなく、相当に耐えがたいだろう

 客殿に続く「宸殿」は当院の本堂に当たる建物で、宮中の紫宸殿を模して造られているとか。宮中で行われていた声明による法要をここに移した。玉座も設えてある。明治の新政府には国粋主義の人たちも幅をきかせていて、宮中から仏教色を一掃した。

 宸殿から庭に出ると、苔の美しい池泉回遊式庭園である。紅葉はすでに盛りを過ぎ、紅はやや茶褐色を帯びてきていた。

 苔と高い樹木に囲まれて、小さなお堂がひっそりと建っている。国宝の阿弥陀三尊を収める「往生極楽院」である。

  (往生極楽院)

 中尊の阿弥陀如来は座像だが、小さなお堂の中で一層大きく見える。左には観音菩薩、右には勢至菩薩が配置され、両菩薩は少し前かがみに跪いた姿勢でわれら衆生を迎えてくれる。

 向かって左側の勢至菩薩の像に触れれば万病が治るとされ、学生時代に訪れたとき、多くの人々にさすられてその豊かな右ひざが光沢を帯びて艶めかしい。事前にそう教授に教えられていたが、本当にそのとおりだったので感動した。今はロープが張られて人々との間が仕切られ、いたずらに埃に黒ずんでいる。

 往生極楽院は、もとは梶井門跡の政所に隣接した、独立した寺院だった。明治4年に梶井門跡が本拠を大原に移転して三千院となったとき、吸収合併されて境内に取り込まれた。

 そう思ってみると、もと門跡寺院として貴族的な風格を感じさせる三千院の中で、ここだけが侘びとか寂びの風情である。 

   往生極楽院から、高々と樹木の聳えるゆるやかな石段を上がっていくと、奥に「金色不動堂」、さらに上に「観音堂」があった。

 境内の散策路を一巡して、最後に収蔵庫の「円融蔵」の中を見学した。ここには往生極楽院の舟底型天井にわずかに残る絵が復元・模写されていた。極楽浄土にもろもろの菩薩が浮かび、天には天女が舞っている光景が、極彩色で描かれていた。

       ★

<日本的な美とは>

 何十年ぶりに三千院を拝観して思うに、京都の寺院の魅力は門跡寺院にあり、それは庭園と一体となった貴族的で洗練された美ではないかと改めて思った。それが日本の美の真髄として認識され、日本人にも外国人にも人気がある。

 だが、司馬遼太郎は『街道をゆく 叡山の諸道』の中で、天台宗系の門跡寺院の一つである曼殊院を見学したあと、このように書いている。

 「…… 寺というよりも、江戸時代の公家の教養人というのは、こういうたたずまいのなかで住みたかったのかということがわかるし、逆算していえば、この建物や庭園にふくまれている思想から、かれらの美意識や教養、人生観などを汲みとることができる」。

 国民的作家と言われる司馬遼太郎は、京の貴族的な美意識に必ずしも共感していないようだ。何しろ、鎌倉武士や、戦国時代の斉藤道三や織田信長、幕末の坂本龍馬や土方歳三のような人を、日本の歴史を彩った人々として語ってきた作家だから。

 私も若い日には京の美に圧倒されたが、今は大和盆地の中の古代の息吹や、大和の諸寺のもつ学問修養的な簡素さ、或いはまた、吉野の山奥の神仏混淆的な修験の世界の方に親しみを感じる。年のせいだろう。

 このあと、寂光院へ向かった。

       

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