ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

旅の前に …… 冬のサンチャゴ・デ・コンポステーラへ

2013年01月26日 | 西欧旅行…サンチャゴ・デ・コンポステーラ

    ( 飛行機の窓から、ヨーロッパアルプス )

 

 このブログ 「ドナウ川の白い雲」 を、いつも読んでいただいている方々に心から感謝いたします。読んでくださっている方々が、いらっしゃるということが励みとなり、好きなことを書き続けてきました。

 さて、勝手ながら、8日間、日本を離れますので、このブログも少しお休みをいただきます。

 旅先で、ブログを書いたら良いのでしょうが、(中)高年世代としては、パソコンを持って旅をすることも、旅先で、夜、文章を書くことも、気力・体力ともに、到底不可能です。何とか無事に旅をして、せめて良い写真を撮りたいと思っています。

        ★

 旅程は、以下のとおりです。

日 12/14(金)  

 関空→アムステルダム→マドリッド→ビーゴ(スペインの大西洋側の港町)

日 12/15(土)

 ビーゴ(列車)→サンチャゴ・デ・コンポステーラ(見学)

日 12/16(日) サンチャゴ・デ・コンポステーラ(見学)             

日 12/7(月) サンチャゴ・デ・コンポステーラ→(列車)レオン(見学) 

日 12/18(火) レオン(見学)→(列車)マドリッド(見学)

日 12/19(水) マドリッド(見学)

日 12/20(木) マドリッド→アムステルダム→

日 12/21(金) →関空(朝)

       ★ 

 今、心配しているのは、第1日目に、大西洋岸の港町ビーゴまで、無事に飛行機を乗り継げるか、ということです。

 先日も、雪で、アムステルダムのスキポール空港が混乱したようです。

 マドリッドの空港も心配しています。乗り継ぎ時間が1時間20分しかなく、ヨーロッパでは列車でさえ遅れるのが当たり前で、日本のようにはいきません。人間は何とか乗り継げても、機内預けのバッゲージがビーゴに来ない可能性もあります。

 雪で飛行機が飛ばず、マドリッドでやむなく1泊、ということも、想定しています。そういうときの航空会社とのやりとりは、英語もろくに話せないのに

 でもまあ、心配してもきりがない。今は出発あるのみです。

        ★ 

 天気予報では、第1日目から第4日目までは、暖かいけれども、ずっと雨です。

 ただ、サンチャゴ・デ・コンポステーラは、もともと雨の多いところだそうで、「雨のサンチャゴ・デ・コンポステーラ」 を楽しめないようでは、行く意味がないそうです。

 今回の目的は、キリスト教の三大巡礼地の一つ、サンチャゴデ・コンポステーラ。

   それと、ユーラシア大陸の西の果て、大西洋を、列車の窓から一目見たいということです。

 以前、ヴェネツィアに行ったとき、ヴェネツィアの商船・海軍が活躍したアドリア海を一目見たいと、リド島に渡り、アドリア海の見える浜まで歩いて行ってみたら、地図上ではイタリア半島とバルカン半島にはさまれた細長い海ですが、小さな人間の視界には、太平洋と少しも違わない広大な海があったので、がっかりして帰ってきました。

 仕事で、オーストラリアのパースへ行ったときは、その先の海がインド洋だと知り、列車に乗って見に行きました。が、海に「インド洋」と書いてあるわけではなく、普通の海が遥かに広がっていました。海水をなめてみると、恐ろしく辛かったことを覚えています。

 それでも、ユーラシア大陸の向こう側の果て、大西洋につながる雨のリアス式海岸を、サンチャゴ・デ・コンポステーラへ向かう列車の窓から、見てみたいと思います。

  「 ‥‥窓にいっぱいに、大西洋‥‥」(水森かおり) です。♪♪

 スペインといえば、アンダルシア地方ですが、それは、次回、もっと良い季節にとっておきます。

         ★

  旅をすること。そのために、日ごろ、多少とも歩いたり、プールに行ったりして体調を整えること。また、インターネットで航空券を取ったり、ホテルを探したり、列車その他のチケットを確保したりすること。

  そして、旅に出ると、言葉の通じない異国を肌で感じ、未知のものを見、はらはらどきどきの冒険もし、帰ってからは、見たもの、感動したものについて、あれは何だったのかと歴史の本を読み、それらを記録する。

 そういうことが、リタイア後の第一の自己活性法であり、健康法です。

  それではまた、このブログで。

 

 

 

 

 

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大西洋を見た!…… 冬のサンチャゴ・デ・コンポステーラへ

2013年01月24日 | 西欧旅行…サンチャゴ・デ・コンポステーラ

 とりあえずの旅の報告です。

 予定どおり21日に帰ってきました。しかし、まだ疲れています。

 フランス、ドイツ、イタリアなど、もう10数回もヨーロッパへは行っているのですが、スペインは初めて。それにしても、サンチャゴ・デ・コンポステーラは、遠い。

 第1日目。KLオランダ航空で関空を出発して、アムステルダムで乗り継ぎ、マドリッドで乗り継いで、大西洋側の港町ビーゴに着き、雨の中タクシーでホテルに着いたのは、現地時間で夜の11時ごろ。日本時間では翌日の午前7時です。

 家を出たのが前日の午前8時だから、実に23時間の旅でした。

 まずは反省‥‥。若者ではないのだから、これは、いきなり過酷でした。

 案の定、5日目と6日目のマドリッドで体調をくずし、絶食をしました。外国旅行へ出ると元気になるのに、このように体調をくずしたのは初めてです。年のせいかもしれません。

         ★

 この旅のハイライトは、3日目でした。

 この日、1日、タクシーを頼んで、サンチャゴ・デ・コンポステーラからフィニステレというスペインの最西端の、大西洋に臨む灯台のある断崖まで行きました。

 1日、タクシーを雇うなんて贅沢ですが、ホテルのお兄さんに聞くと、225ユーロで行ってくれるというのです。25000円くらい。ここまでやってきて、2万5千円を惜しむようでは、人生は暗いというものです。 

 タクシーの運転手は初老の、ちょっとサッカーの日本代表監督ザックに似ていて、途中、風光明媚な港町に立ち寄って貝の養殖や採り方を説明してくれたり、ガリシヤ地方の民俗的な文化遺産を案内してくれたりと、ガイドとしてもプロフェショナルでした。もちろん、スペイン語で。

 身振り、手振り、紙に絵をかいたり、スマホで写真を探して示してくれたり、あらゆる努力をして、本当に丁寧に、一生懸命、説明してくれるのです。人柄を感じました

 そして、灯台のある断崖の上に立って茫々と広がる大西洋を見ていたら、雨もあがり、日も射してきました。

 ユーラシア大陸の東の果てから、ユーラシア大陸の西の果てまで、遥々とやってきたという感慨をもちました。

           ★

 今回の旅は、往復を含めて8日間。現地にいたのは、正味、5日間だけで、あっというまの、短い旅だしたが、また、写真入りで報告します。 

 「雨のサンチャゴ・デ・コンポステーラ」が今回の旅のテーマでしたが、行っている間、ほとんど雨。青空に浮かぶドナウ川の白い雲もすてきですが、雨と霧のスペイン・ガリシア地方の風景もなかなかのものでした。

 でも、晴れた日の大西洋も見たかったなあ。                                                  

(了)

 

 

 

 

 

 

 

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冬のサンチャゴ・デ・コンポステーラ紀行 1 

2013年01月19日 | 西欧旅行…サンチャゴ・デ・コンポステーラ

 

  ( カテドラルの塔を飾るロマネスク様式の素朴な像 )

 

< 冬のサンチャゴ・デ・コンポステーラの旅へ >

 2011年の陽春の5月、このブログの題となる「ドナウ川の旅」へ出かけた。その旅の満足度が高く、感動が緒を引いたせいか、以来、1年半もヨーロッパ旅行から遠ざかってしまった。

 そして、急に旅心抑えがたくなり、2012年の師走の14日に関空を出発した。「冬のサンチャゴ・デ・コンポステーラの旅」である。

 太陽の国・スペインとは言え、そこはユーラシア大陸の最西端、イベリア半島の北西部に半島のように突き出したガリシア州のローカルな町である。しかも、中世以来のキリスト教の巡礼の地となれば、いかにも寒々として陰鬱だ。にもかかわらず、秋が深まるにつれて、そぞろ心ひかれるのである。

         ★

< サンチャゴ・デ・コンポステーラとは?? >

 キリスト教に、三大巡礼地がある。遥々と旅をして参詣すれば、全ての罪が免罪されるという。

 一つは、聖ペテロの殉教の地に建てられ、全ての教会の礎となった、ローマのヴァチカン。二つ目は、十字軍以来、異教徒との間に争奪戦が続く、イエス・キリストの殉教の地・エルサレム。そして、三つ目が、サンチャゴ・デ・コンポステーラ。

 今、スペインで最も活気のあるバルセロナや、首都マドリッドからは遥かに遠く、イベリア半島の北西の果て、あと少しで大西洋という、鄙びた宗教都市である。

 9世紀に聖ヤコブ(サンチャゴ)の墓が見つかり、爾来、数々の奇跡も起こったとされる。もちろんヤコブの遺骸と実証されたわけではないのだが。

 中世も後半に入ると、多くの人々が巡礼者となって旅に出た。

 例えば、パリを出て、フランス・ブルゴーニュ地方のヴェズレーの丘の、マグダラのマリアの遺骸があるというサント・マドレーヌ聖堂に参詣し、さらに歩き続けて、ピレネー山脈を越え、イベリア半島を横断して、サンチャゴ・デ・コンポステーラのカテドラル (大聖堂) に安置されている聖ヤコブの遺骸に遭うのである。

 800キロに及ぶこの巡礼路は、今は世界遺産に登録されている。

 そして今も、ヨーロッパ各地、アメリカ、オーストラリアなどからやって来た巡礼者たちが、徒歩で、或いは、自転車で、巡礼する。ある人にとって、それは、自己の心の罪をあがなう旅であり、またある人にとっては、愛する人を喪った傷心を癒やす旅であり、また、青年や時に40歳を過ぎてからの自分探しの旅であり、さらには、「山のあなたの空遠く」へ行ってみたいというロマンチックなあこがれや冒険心にかき立てられての旅である。

 日本人もまた、今、四国88箇所の旅や、熊野詣での旅に出る人は多い。外国人までが、それらの巡礼路にやってくる。

 洋の東西や、時代の違いによって、また、人それぞれによって、その動機は異なり、決して同心円ではない。

 同心円ではないが、旅をするのが、人間である。

 ユーラシア大陸の西の果てに近く、大西洋までもうすぐというサンチャゴ・デ・コンポステーラ。

 人口8万人少々の、石造りの、鄙びた、古い、宗教都市である。雨の似合う街、と誰かがブログに書いていた。

          ★

< 旅の行程 >

第1日 ( KLMオランダ航空で ) 大阪 → アムステルダム → マドリッド → ヴィーゴ

第2日 ( 列車で ) ヴィーゴ → サンチャゴ・デ・コンポステーラ

    <サンチャゴ・デ・コンポステーラ観光>

第3日  <大西洋の岬・フィステリアヘ>

第4日 ( 列車で ) サンチャゴ・デ・コンポステーラ → レオン

    <レオン観光>

第5日 ( 列車で ) レオン → マドリッド

    <マドリッド観光>

第6日  <マドリッド観光>

第7日 ( KLMオランダ航空で ) マドリッド → アムステルダム →

第8日 → 大阪 

 スペインのほとんど最北西端のサンチャゴ・デ・コンポステーラへ行くのに、どうしたらよいか?? いろいろ調べて、見つけた。

 関空から、KLオランダ航空で、アムステルダム、マドリッドと乗り継いで、その日のうちに (時差はあるが)、スペインの、大西洋に臨む港湾都市ヴィーゴまで飛ぶ。2度も乗り換えるのは大変だが、初日がんばれば、翌朝、ヴィーゴから鈍行列車で北上し、1時間半でサンチャゴ・デ・コンポステーラに着く。

 これ以上に簡潔で、早い方法は、ない。

 サンチャゴ・デ・コンポステーラからの帰りは、マドリッドまで列車の旅とする。

 ただ、サンチャゴ・デ・コンポステーラからマドリッドまでの列車は、日に2本しかない。ゆえに、途中、レオンというスペイン北部の都市に1泊することにする。

 イベリア半島の大部分がイスラム勢力に支配され、西ゴード王国の残党のキリスト教徒がイベリア半島の北部に逼塞していたころ、レオンを都としていた。レコンキスタ (国土回復運動) は、ここから起こったと言ってもよい。

 また、サンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼が行われるようになると、レオンは巡礼路の要衝の地となった。  

                        ★  

< 第1日 ── ヴィーゴへ >      

 午前に、関空を出発した飛行機は、冬晴れ、積雪の日本列島を縦に北上し、新潟のあたりで日本海に出て、大陸へ向かった。

 思い立ってから出発までの日数が少なく、あわただしい旅立ちだった。

     ( 雪の日本列島を北上した )

  ヨーロッパ時間の15時25分にアムステルダム空港に到着し、16時50分発のマドリッド行きに乗り継いだ。

 ベルギー、フランスの上空を越え、すでにとっぷりと日の暮れた、冬のマドリッド空港に着いたのが19時20分。

 アムステルダム空港などと比べると、どこかローカルな趣のあるマドリッド空港のベンチで、家にいれば今ごろは暖かい布団の中だったのに、などと思いながら時間を過ごし、20時50分発のヴィーゴ行きに乗る。

 ヴィーゴ到着は22時。日本時間では、もう朝の6時だ。24時間も寝ずに活動したことになる。

 リフト・バッケージで、案の定、スーツケースが出て来なかった。

 ロスト・バッケージの窓口で手続きする。こちらは英語をほとんど話せないのに、窓口のおじさんの英語は、ほとんどスペイン語だ。それでもとにかく、「明日の午後には、サンチャゴ・デ・コンポステーラのホテルへ届けられるだろう」とのこと。

 ただ、2度も乗り換えたのだから、ロスト・パッケージは想定内。今晩の着替えぐらいは、手荷物に入れてある。

 ヴィーゴは、スペインの大西洋に臨む港町だ。人口27万人。スペインのガリシヤ地方では最も大きな町である。

 空港を出ると暗く、タクシーに乗って、暗い道路を走り、予約していたホテルへ。疲れた!!

                                ★

< 第2日 ── 小雨降るサンチャゴ・デ・コンポステーラ >

   ヨーロッパの冬の夜明けはおそい。

 夜が明けて、ホテルの窓から見ると、ヴィーゴ港があった。知らない港町の朝だ。

          ( 夜明けのヴィーゴ港 )

 ホテルから徒歩で数分の鉄道駅に行き、9時40分発の鈍行列車で、サンチャゴ・デ・コンポステーラへ向かった。

   逆方向の列車に乗れば、ポルトガルに入り、ポルトへ向かう。だが、列車の便は悪い。

 車窓から見る小雨降る景色は、大西洋の入り江が入り込んで湖沼のようになり、漁村や農家の小さな家々が彩りを添えて異国的であるが、地形は、今まで見てきた西ヨーロッパのものと異なり、日本に似ていた。低い山々があり、山は緑で、海岸線は入り組んで繊細であった。

 

          ( 鈍行列車の車窓風景 )

                ★ 

 キリスト教の三大巡礼地の一つとはいえ、サンチャゴ・デ・コンポステーラは、スペインのはずれの人口8万人のローカルな街である。

 旧市街も小さい。それでも、かつては、7つの門をもつ城壁に囲まれていたそうだ。旧市街全体が、車の乗り入れ禁止地区になっている。

 旧市街の中心は、オブラロイド広場である。

 さすがに三大巡礼地の一つにふさわしく、長い旅を終えた巡礼者たちが、思わず跪き、涙を流して喜び合う、石畳の重厚な広場である。

 広場の東側に、巡礼者たちを迎える巨大なカテドラル (大聖堂) がそびえている。聖ヤコブの棺は、いかにも歳月を経たこの花崗岩の大聖堂の中に納められている。

 

   ( オブラドイロ広場とカテドラル )   

 広場を挟んで、カテドラルの向かいには、これも立派な市庁舎が建つ。

 クリスマスが近く、市庁舎の清掃が行われていた。

 

      ( 市庁舎の清掃 )

 広場の北側には、これも壮麗な旧王立病院の建物がある。15世紀に、巡礼者の保護のために建てられた。今は、五つ星のパラドールになっている。

 五つ星ホテルに泊まるという贅沢は初めてだが、広場に面し、目の前がカテドラルという立地と、その文化遺産としての価値に心ひかれて、今日と明日の2日間、このホテルに泊まる。

 カテドラルを見学する前に、旧市街の路地の庶民的なレストランで、観光客や現代の巡礼者の中に混じって昼食を食べた。

 街のもつ重厚で陰鬱な感じから、内陸的なイメージがあるが、ここは大西洋に近く、街の飲食店のウリは、アサリ、海老、蛸、イカなどの魚介類である。いずれも安く、素材を生かして、美味しかった。

 腹ごしらえをして、カテドラルに向かう。

        ★ 

 改めて広場に立つと、重く垂れこめた冬の雲の下、何世紀にもわたって世界の巡礼者の目的地であったカテドラルは、圧倒的な存在感をもって迫ってくる。

 11世紀~12世紀に建てられた、ロマネスク様式の大聖堂である。

 ロマネスク様式の聖堂は、ゴシック様式のそれと比べて、石の持つ重厚さともに、石のもつぬくもりが感じられ、どこか野の花のようななつかしさを感じさせる。

 

      ( 身廊の列柱 )

 中に入ると、身廊に列柱が並び、装飾性はなく、正面にヤコブの像をまつる金色の祭壇があった。

 饗場孝男が『石と光の思想』の中でロマネスク教会について書いた文章は、このカテドラルにも当てはまるように思われる。

 「 … 内部にもほとんど装飾はない。石の厚みはしかし圧倒的である。だが、そうした物質性は、… 逆に深い沈黙と瞑想をよびさまし、天上へむかっての祈りをつねに支える、大地への自覚をうながすように思われる」。

 「ゴシック教会では、内部で色彩が歌っているが、ロマネスク教会では石の壁が瞑想しているのである」。

 さて、ここまで来た以上はと、祭壇の左手を回って、階段を降りる。その先の薄暗い地下通路の奥に、「聖ヤコブの棺」を垣間見ることができた。

 また、祭壇の右側から階段を上がると、聖ヤコブ像の裏側に出た。信者は聖ヤコブのマントにキスするのだが、額だけ付けて、異教徒としての敬意を示した。

 「神はなくとも、信仰は美しい」とは、ボードレールの言葉とか。

        ( 中央祭壇の聖ヤコブ像 )

                 ★ 

 旧市街のはずれに、アラメダ公園がある。旧市街やカテドラルの眺めが良いと書かれているので、行ってみた。

 雨の多い地方らしく、公園の樹木は苔でおおわれている。

      ( アラメダ公園の樹木の苔 )

   オブラドイロ広場から見上げたときはわからなかったが、街並みの上にカテドラルの幾本もの塔が、圧倒するようにそびえている。

    ( 旧市街とカテドラルの塔を望む )

 時に霧雨が降る旧市街を歩くと、街そのものがカテドラルと同じ花崗岩で造られていることがわかる。それが古びて、小雨に濡れ、鄙びた、ケルト的風情をつくっている。

 サンチャゴ・デ・コンポステーラは、雨の似合う街である。

    ( 石段の上のカテドラル )

 旧市街の家の窓には、クリスマスを迎えるための、こんな飾りも。   

 

   (もうすぐクリスマス)

   古い噴水のあるキンターナ広場は、カテドラルの裏側にある、やや小ぶりの広場だ。サンチャゴ・デ・コンポステーラは宗教都市であるとともに、古い大学のある町で、学生らしいお嬢さんが二人、楽しそうに話をしていた。

       ( キンターナ広場 )

                     ★  

 今夜の宿は、1499年に巡礼者のために建てられた王立の壮麗な病院兼宿舎。今はホテルとして使われている。

 ホテル自体が文化遺産で、回廊に置かれた家具や美術品も素晴らしい。

      ( 廊下に置かれたクリスマスの置物 )

 また、4つの趣の異なるパティオ (中庭)がある。

 

       ( パティオ )

 

  ( 回廊の上にカテドラルの塔 )

      ★

 夜。ホテルの玄関を出て、時に強い雨の降るオプラドイロ広場に立ってみた。

 カテドラルがライトアップされていた。ローカルな宗教都市らしく、照明もひっそりしていた。 

   ( ライトアップされたカテドラル )

                                                

 

 

 

 

 

 

  

 

 

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Fisterra岬に立ち、大西洋を望む … 冬のサンチャゴ・デ・コンポステーラ紀行 2

2013年01月17日 | 西欧旅行…サンチャゴ・デ・コンポステーラ

              ( 大西洋を見た!! )

 冬のサンチャゴ・デ・コンポステーラへの旅を考えたとき、そこまで行くなら、ぜひ行ってみたいと思う所があった。

 フィニステレ岬。… 「陸の終わり」 を意味するそうだ。つまり、ユーラシア大陸の終わりの岬である。その先は大西洋が広がるのみ。

 その岬は、サンチャゴ・デ・コンポステーラから西へ90キロの地にある。

 聖ヤコブの大聖堂までたどり着き、歓喜の礼拝を終えた巡礼者たちは、さらにこの岬を目指して旅を続ける。そして、ついに到達した陸の終わる崖の上で、大西洋の波濤を見下ろしながら、旅の間着ていた服やブーツを燃やして、自らの旅を終わらせるのである。

 フィニステレ岬に立ち、ユーラシア大陸の果てを見たい、という思いに駆られて、そこへ行く手立てを調べたが、 サンチャゴ・デ・コンポステーラからは路線バス以外に交通手段はなく、バスを降りてからも、丘に向かってかなり歩くと知り、断念した。「陸の終わり」は、あまりに遠い …。

 それで、サンチャゴ・デ・コンポステーラの2日目も、このケルト的な雰囲気をもつ町の中で過ごすつもりでいたが、念のため、五つ星ホテルのフロントに行って、フィニステレまでタクシーが行ってくれるかどうか、行ってくれるとして、どれくらいの時間と料金がかかるか、聞いてみた。

 フロントの青年は即座に、「とても良い人 (運転手) がいますよ」と言って、電話で問い合わせてくれた。

   翌朝から夕方まで、1日かけて案内して、225ユーロだと言う。それならOKだ。すぐに頼んでもらった。こんなラッキーなことはない

          ★

< 第3日 ── 巡礼が旅を終えるフィステーラ岬ヘ >   

   朝、ホテルのドアを開けると、天が裂けたような雨。広いオブラドイロ広場は雨に霞んで、石畳の上を雨水が流れ、浅い池のようになっていた。

 だが、しばらくすると、小雨になった。

 この日は、小雨になったり、霧雨になったり、横なぐりの風とともに降る強い雨となったり、雨がやんで少し青空がのぞいたりする1日だった。

 イベリア半島の大西洋に臨むガリシア地方は、海洋性の気候で、雨が多く、冬の冷え込みはゆるく、太陽が照り付けて40度を超す赤茶けて乾燥したイベリア半島のイメージと異なり、緑も豊かであると書かれていた。 

 

         ( 雨のカテドラル )

                 ★

< ガイド兼ドライバーの Jose さん >  

 タクシーの運転手の Jose さんは、初老の、朴訥で、いかにも誠実一筋に生きてきたような感じの人で、体型も人柄も年齢も、サッカーの日本代表監督アルベルト・ザッケローニ (ザック) に似ていると思った。

   タクシーの運転手というよりは、ガイド兼ドライバーという感じで、よく勉強していて、ガイドとしてもプロフェショナルだ。

 もちろん、スペイン語である。ただ、身振り・手振りに加えて、紙に絵をかいたり、スマホを検索して写真を示してくれたり、あらゆる努力をして、本当に丁寧に、一生懸命、説明してくれ、その人柄を感じた

 途中、風光明媚な港町に立ち寄って、貝の養殖や、採取する船の構造などを説明してくれた。

  (養殖の貝を採取する小型の船)

  「リアス式海岸」という言葉の出自はこのあたりだと、旅行に出る前に、何かで読んだ。「リアス」とはガリシア語で 「入り江 (リア) 」の複数形。当然、漁業が盛んなのだ。

              ★

< 村の墓地教会 >

   ガリシア地方の民俗的な、「村の教会」にも立ち寄った。

 それはいかにも古びた石造りの、塔のある教会で、教会の横の庭には墓石が並び、村の墓所として整えられていた。

 日本とはやや趣を異とするキリスト教式の墓石の群れを見ていると、世界の片隅で、名もなく、静かに生きて死んでいった人々の、人の一生ということに、ぼんやりと想いを馳せてしまう。

饗庭孝男『石と光の思想』から

 私がロマネスク建築の教会をはじめて見たのは、ピレネーの麓にあるヴァルカブレェールの「サン・ジュスト教会」であった。それは … 寒村の、とうもろこし畑のひろびろした中に、青空をくっきりと切った糸杉にかこまれた墓地教会である。柵をとおして墓地に入ると、白い十字架や墓石が崩れかかり、蔦がそれにからみ、…

   (墓石のある村の教会)

 教会に入ると、大きな平面の台の上に、人形や小屋や羊が配置され、イエス降誕の場面の飾りつけが進められていた。おそらく、何日もかけて、作られていくのだろう。

 そのような風習は日本から遠いが、純朴な田舎の「景色」という点では同じである。

 村を少し歩くと、奇妙な建物があった。

 読書百遍ではないが、Joseさんのスペイン語の説明を一生懸命聞いていると、少しわかってくるから不思議だ。

 これは、1世紀以上も前の穀物倉庫で、風が通るように造られている。高床式になっているのは、ネズミの害から守るためだ。

              ( 穀物倉庫 )

        ★

< ガリシア地方のこと >

 山の中の一筋の道を走り、峠を越え、野を走り、集落の横を通り、海岸に出てカーブの連続する漁村の家々を見ながら走った。

 赤い屋根に、白、もしくはイエローの壁。

 漁村に見えるが、都会に住む人たちの別荘地でもあるようだ。

    

               ( 別荘地 )

 ふと、疑問に思う。今、向かっている岬のことである。『地球の歩き方』では、「フィニステレ (Finisterre)」。ところが、ホテルでもらった地図では、「 Fisterra 」だ。

 後部座席で、「あれっ、何でや??」と、二つの単語を繰り返しつぶやいていたら、気づいてJoseさんが説明してくれた。

 言葉はよくわからないのだが、その説明は、( 間違っているかもしれないが )、多分、こんな内容だ。

 イスパニアは、実は4つの国でできている。

   その一つは、イスパニア? スペインの大きな部分を占め、マドリッドを首都とするカスティーリアと呼ばれる土地がその中心。

 もう一つは、バルセロナを中心とする、フランスに近いカタルーニア地方。言語が違う。( スペインの中では経済的に豊かで、独立したがっていると聞いていた )。

 もう一つは北東部のバスク。( 最近、おさまってきたが、かなり過激な独立運動をしてきた。フランシスコ・ザビエルの故郷 )。

 そして、もう一つが、今、訪れているガリシヤ地方。言語も違うのだそうだ。

 『地球の歩き方』 の 「フィニステレ (Finisterre)」 は、カスティーリア語。ホテルでもらった地図の「Fisterra」がガリシア語。(帰国して調べたら、ガリシア語も公用語として日常使われ、学校では両方の言葉が教えられているようだ)。

 ガリシヤ地方 … ポルトガルに接して、その北に位置する。大西洋に臨んで、スペインの中ではごくごく小さな、ローカルな地方に過ぎない。だが、イスパニアとは違う国なのだと Jose さんは言う。

 ガリシアは、スペインの一つの州である。だが、住民の意識は違う。一昨日、飛行機で到着した港湾都市ビーゴが、ガリシア州の最大の都市で、人口は27万人。州都は、サンチャゴ・デ・コンポステーラで、人口は8万人。

 翌朝、レオンに行くために、サンチャゴ・デ・コンポステーラの鉄道駅に行った。ホームの掲示を見たら、上下に二つの駅名が書いてあった。どちらかがカスティーリア語で、どちらかがガリシヤ語だ。

 「 Fisterra の岬は近いよ。ちょっと大西洋の浜辺に降りてみようか」と Joseさん。

 車を降り、浜辺へと向かう。海の方から、草をちぎるような強風が吹き、角を曲がると、突然、大西洋が目の前に現れた。

 荒々しい

 海が盛り上がって、押し寄せてくるように見え、恐ろしいほどだった。

    ( 大西洋の海岸 )   

        ★

< Fisterra岬に立ち、大西洋を望む >

 Fisterra岬は、海抜238mの山頂である。

 車はヘアピンカーブを登っていく。

 道路わきに巡礼者の像があった。

 やがて前方に灯台の家屋が見え、車をおいて、歩いた。

 曇天ではあるが、雨は上がり、灯台の向こうに大西洋が広がった。 

  ( 灯台の向こうに大西洋 )

 ここは、「陸終わる地」。遥々と巡礼の旅をしてきた人たちの終着点だ。

      ( 大西洋に向かって建つ十字架 )

 ここまでやって来た巡礼者が、長い旅の間、着ていた衣服を燃やした跡が、岩の上に残っている。 

 そのとき、厚い雲が切れ、青空が覗き、広がった。

 空も、海も、美しいブルーに変身した。 

 

 これが大西洋だ。 遥々と来た甲斐があった。 

 ただ、感動し、ユーラシア大陸の東の果てからやって来た異邦人を、心を込めて案内してくれた、初老のタクシーの運転手 Joseさんに感謝した。

       ★

  ( 帰途、山中で出会った巡礼者 )

 夜、食事に行き、少しサンチャゴ・デ・コンポステーラの街を歩いた。

 ローカルな宗教都市は、異教徒の目にも、鄙びて、どこかなつかしく感じられた。

(ライトアップされたカテドラルの塔)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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レオン王国の古都を歩く … 冬のサンチャゴ・デ・コンポステーラ紀行 3

2012年12月24日 | 西欧旅行…サンチャゴ・デ・コンポステーラ

< 第4日 ── 列車に乗って古都レオンへ

  サンチャゴ・デ・コンポステーラのケルト的な冬の雰囲気にふれ、さらに、(計画には入っていなかったが、幸運にも )、「陸の終わる地」であるフィステッラ岬にも立つことができ、この旅の目的は十分に達成した。

 この旅を計画したとき、難しかったのは、マドリッドからKLオランダ航空で帰国するとして、遠いサンチャゴ・デ・コンポステーラからマドリッドまで、どういうルートで帰るかということであった。

 サンチャゴ・デ・コンポステーラから首都マドリッドへ直接に行く列車は、1日に2本しかない。1本は、午後に出て、夜おそくマドリッドに着く。 マドリッドの治安はあまりよくないし、不案内な大都会に夜おそく着くのは、できたら避けたい。もう1本は夜行列車だから、これはもっと避けたい。

 いろいろ調べて、結局、レオンに1泊し、古都レオンを観光することにした。

 サンチャゴ・デ・コンポステーラからレオン、レオンからマドリッドは、それぞれ1日に何本かずつ列車があり、選択肢が増える。

 こうして、12月17日は、サンチャゴ・デ・コンポステーラ発8時42分の特急に乗り、途中、一度乗り換えて、レオンに13時7分に到着した。翌日、昼ごろのマドリッド行きに乗れば、レオンでまる1日、観光もできる。

       ★ 

< ガリシア地方を思う >

 サンチャゴ・デ・コンポステーラ駅のホームの入り口付近で、手荷物のX線検査を受けた。イラク戦争中の2004年、マドリッド付近で大規模な鉄道テロがあり、191人が死亡し、2000人以上が負傷した。それ以後の措置である。これも、また、ヨーロッパの現実である。

 列車に乗り込み、自分の座席を見つけて座ると、やっと気持ちが落ち着いた。

 列車がホームを滑り出すと、あとは車窓風景を眺めるだけだ。

 列車は東へ東へと、ガリシヤ地方の内陸部へ入っていく。その景色を眺めていると、ガリシヤ地方の異質さが、異邦人の目にも少し理解できるような気がしてくる。

 今まで見てきた西ヨーロッパの風景は、フランスでも、ドイツでも、一面のブドウ畑や麦畑、黒っぽい休耕地や、緑の牧草地が、果てしなく広がり、小さな林があり、起伏のない平野をゆったりと川が流れる。夕方ともなれば、夕日が地平線近くの村の教会の尖塔を赤く染めながら、その向こうに沈んでいった。

 それが、西ヨーロッパだ。牧歌的で、豊かで、美しい。

 一方、ガリシヤを走る列車は山の中が多く、谷は深く、緑が濃く、小川が流れている。人の手はあまり入っていない。

 朝の太陽が山にさえぎられて、午前の光が射しこまない斜面もある。

 耕地は少なく、貧しい。

 この風土は、まるで日本だ。

 

 昨日見た大西洋の海岸線は、入り組んで、海まで低山が迫っていた。

  Jose さんの朴訥な人柄。彼が案内してくれた古い村の教会や、ネズミよけの穀物倉。いかにも民俗学的な世界だ。日本なら柳田國男の世界。

 そして、独自の言語。 

 小雨降るサンチャゴ・デ・コンポステーラと聖ヤコブの重厚なカテドラル。

 そういうものが自分の中で一つに溶け合った。 

 ガリシヤは、イスパニアと異なるというより、西ヨーロッパと異なるのだ。

 西ヨーロッパの中に、そういう地方も、あってよい。

 二度訪れることはないだろうが、もう一度訪ねたくなる、なつかしさがある。

        ★

< 旅に出る前に調べたスペインの歴史 >

 今回の旅まで、スペインの歴史について、何も知らなかった。大航海時代に輝き、ハブスブルグ時代に最大の版図となって、遥か東方の信長や秀吉にまで刺激を与えたが、今はEUの中で、(サッカーを除けば)、主役になれないローカルな国だ。 

   スペインの前史は長い。なにしろ、あのアルタミラの洞窟がある国である。

 アルタミラは、ガリシヤ地方の東方で、レオンの北方に当たり、ビスケー湾に臨むカンタブリア地方にある。

 あのカルタゴの名将・ハンニバルは、イベリア半島で兵を整え、アルプスを越えて、イタリア半島に攻め込んだが、結局、ローマがカルタゴに勝利し、イベリア半島も制圧した。

 その後は、パクス・ロマーナの下、西ローマ帝国が滅亡する AD476年まで、イベリア半島はローマそのものだった。五賢帝のうちの2人、トラヤヌスとハドリアヌスもスペイン出身である。

 ガリシヤ語は、スペインの支配的な言語であるカスティーリャ語とは違う。違うとはいえ、元は同じラテン語である。異質性を主張して独立したがっているバルセロナ(カタルーニャ地方)も、元はといえば同じラテン語で、ラテン文化圏だ。言語も文化も違うのは、バスクのみ。新興都市のマドリッドなどを除けば、スペインの大部分の町は、ローマ時代につくられたか、それ以前からあって、ローマ化されたローマの町である。

 5世紀のローマ滅亡後、イベリア半島に流入し、支配したのは、ゲルマンの一族である西ゴード族。王国となり、首都はトレドに置かれた。

 一方、610年ごろにマホメットが興したイスラム教は、破竹の勢いで勢力を拡張し、かつてのローマの支配圏であった北アフリカを西へ西へと進んで、わずか100年後にはジブラルタル海峡まで進出する。

 そして711年、イスラム勢力は地中海を越えてキリスト教徒の西ゴード王国と決戦し、圧倒的な勝利を得て、コルドバに都を置いた。

 西ゴード王国の残存勢力が態勢を立て直したのは、イベリア半島の北方、グアダラマ山脈の向こう側まで退いてからである。

 その地に建設されたのがレオン王国。その首都がレオン。その後のキリスト教徒のレコンキスタ (国土回復運動) の発祥の地となる。

 のち、レオン王国は家来筋のカスティーリャに併合され、レオン・カスティーリア王国となり、南へ南へとレコンキスタを進めていった。

 9世紀に聖ヤコブ(サンチャゴ)の墓が発見され、サンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼が始まったのは、キリスト教勢力のレコンキスタ (国土回復運動) と宗教的に呼応していた。

 サンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路は、イスラム勢力の支配地域を避けた、イベリア半島の北方を通る道であり、首都レオンはその要衝となったのである。 

 もう一つ、レコンキスタの勢力があった。732年、イスラム勢力は東に侵出して、ピレネー山脈を越え、フランク王国と激突して、撃退された。フランク王国はピレネーを西に越え、その地に伯爵領を置いた。

 この勢力が成長して、アラゴン・カタルーニャ王国となり、西へ西へとレコンキスタを進めた。

 そして、レオン・カスティーリア王国の跡取り王女と、アラゴン・カタルーニャ王国の跡取り王子が結婚して、できたのが、今のスペインの原型である。

 バルセロナを中心とするカタルーニャは、ピレネー山脈をはさんでフランク王国と縁が深く、今になって、西ゴード王国の流れをくむカスティーリアから分離・独立をしたがっているのである。

 ともかく、1492年、グラナダ攻略をもって、800年かけて戦われたレコンキスタは終了する。

 首都でなくなった後のレオンは、今は、人口は14万人。スペイン北部のローカルな中都市である。

        ★

< 今はパラドールとして使われているサン・マルコ修道院 > 

 今回の旅の前、レオンという町について、全く知らなかった。

 レオン王国の王都として栄えたのは、10世紀~12世紀。ベルネスガ川のほとりに開けた町で、川は北へ流れ、、ビスケー湾に流入する。

 旧市街の見所は3か所。

 11世紀に、ロマネスク様式で着工した聖イシドロ教会。

 13~14世紀に、ゴシック様式で建てられたカテドラル (大聖堂)。この町の中心である。

 そして、16~17世紀に、ルネッサンス様式で建てられたサン・マルコス修道院。サンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼者のために、病院兼宿泊施設として建てられた。今は、半官半民の高級ホテル・パラドールとして運営されている。パラドールの建物の多くは、由緒正しいは歴史的建造物で、2泊したサンチャゴ・デ・コンポステーラの五つ星ホテルも、パラドールだった。

 聖イシドロ教会に近い今夜のホテルに荷物を置いて、一番遠いサン・マルコス修道院 (パラドール) から見学を始めた。ベルネスガ川のほとりに建っていた。

 修道院を兼ねて、巡礼者を保護する病院・宿泊施設として建てたのは、資金豊富なサンチャゴ騎士団である。外観は、左右対称、ルネッサンス様式の、壮麗な建築物だ。

 (パラドールのサン・マルコス修道院)

  中に入って、昼下がりのレストランで、グラスワインを飲んだ。柱も、壁も、床も、調度類も、クラッシックで格調の高いものばかりだった。

 外に出ると、巡礼者らしき像が柱にもたれ、修道院の建物を見上げていた。

 

 あたりの写真を撮っているうちに、さっき通り過ぎたお嬢ちゃんが、引き返してきていた。巡礼者の像が気になるらしい。

 「おそくなったよ。早く帰りましょう」。きれいなママでした。

     ( サン・マルコ修道院の前で )  

         ★

< 町の中心はゴシックの大聖堂 (カテドラル) >

 旧市街の中心部に引き返し、大聖堂の前の広場に立って、ゴシック大聖堂の威容に圧倒された。広場の端に寄って広角レンズを構えても、なかなかうまく全貌が収まらない。さすが、スペインを代表する、かつての王都の大聖堂である。 

  

       ( 大聖堂のファーサード )

  中に入ると、建物の柱や壁や床の石はかなり古びて、修復が追い付いていないといった感じがあった。どこの国でも、文化遺産を保護・補修する予算は、少ない。レオンという、すっかりローカルになった町にとって、この大聖堂は荷が重すぎるのかもしれない。

 それでも、スペインで最も美しいと言われるステンドグラスは、本当に美しく輝いていた。これを見るためだけに、遠くからやって来る人もいるという。

 

         ( バラ窓のステンドグラス )

 (側面の窓を飾るステンドグラス)

 内陣の奥の飾り衝立に描かれた絵も、色彩感がすばらしかった。

( 内陣の飾り衝立とステンドグラス )

 回廊と美術館はガイド付き見学だが、手が離せないということで、自由に見て回ることができた。ガイドの説明を聞いてもどうせわからないから、その方がありがたかった。

 見事な空間だった。ただ、これほどのものなのに、見学する人がほとんどなく、ガランとしていた。

 

 大佛次郎の小説に、『帰郷』という有名な作品がある。外国で亡命生活をしていた主人公は、焦土と化した敗戦後の日本に帰国し、戦災の被害に遭っていない京都・奈良を訪ねて、寺社や庭園を巡りながら感動するのだが、同時に、このような感想を抱く。

 「恭吾が見てきたフランス、イタリアの古い寺院は、現代でも庶民の生活とともに生きていた。薄暗い堂内に跪いて付近の男女が、祈っている姿はいくらでも眺められたし、信仰に冷淡な観光客でもその人たちを煩わさぬように心をつかって、帽子も入り口で脱ぎ、靴の音を立てない用意があった。拝観と名だけものものしくて、国宝となっている仏像を保存し陳列してあるだけの場所ではない。… 奈良でも京都でも、それが案外であった。… 夏の日ざかりに大きな空き家に入ったような感じで、埃や湿気がにおい、寂寞としていた … 」。 

   戦後、70年。フランスでもイタリアでもスペインでも、「拝観と名だけものものしくて、国宝となっている仏像を保存し陳列してあるだけの場所」が、すっかり多くなった。この大聖堂の回廊も、中庭も、柱の聖人像も、ガランとして、まるで博物館にいるような感じだった。

 今は、日本の神社などの方が、まだ、現代に生きている、と思うことがある。日本では観光で訪れた人も、柏手を打ち、手を合わせている。欧米人までが、そのようにしている。

                 ★

< 素朴なロマネスクの聖イシドロ教会

 大聖堂から歩いて10分のところに、聖イシドロ教会はある。

 旧市街を歩いていると、ガウディが設計したという建築物があった。ガイドブックによると、4隅に尖塔があるのが、ガウディの特徴なのだそうだ。

            ( ガウディの設計 )

 聖イシドロ教会は、11世紀にロマネスク様式で着工した。

 ロマネスク様式の教会は、素朴で、温かみがある。特に、青い屋根の塔がいい。

 聖イシドロという日とセビーリャの大司教で、死後、聖人に列せられた。この教会は、聖イシドロに捧げられ、聖人の名を冠している。だが、建てられた目的は、レオン王国 (914年~1109年) の歴代国王や王の一族を埋葬する霊廟としてである。

 ここは、厳格に、ガイドツアーで見学する。入場料を払い、ガイド料金も要するということは、今は博物館化しているということだ。それでも、歴史的文化遺産として遺してほしい。

 霊廟 (パンテオン) の低い丸天井には、色鮮やかに、素朴なフレスコ画が描かれ、床には石棺が置かれていた。

            ( 聖イシドロ教会 )

 今日、宿泊するホテルも、元は聖イシドロ教会の敷地内の僧院で、門を入り、庭を歩いて、その先の建物に入ると、フロントがあった。

 驚くほど宿泊料は安く、申し訳ないぐらいだ。

 部屋の窓を開けると、僧院の中庭を見下ろすことができ、向かいの建物の上には、聖イシドロ教会の青い塔ものぞいていた。

 夕食のレストランも、元僧院の食堂で、周囲の壁もテーブルや椅子も、がっしりして、古び、中世的な僧院の雰囲気があった。

 グラスワインを注文したら、ボトルを1本出された。こんなに飲めない、と言ったら、好きなだけ飲めと言う。周りの宿泊客を見たら、みんなボトルを1本置いて、食事をしていた。

   

(塔がのぞく、ホテルの中庭)

               ★

 夜、大聖堂まで歩いてみた。人通りは少なかったが、表通りは不安を感じるような街ではない。

 昨日までの、大西洋側の温暖な気候と比べて、この地方の夜は、空気がピーンと冷たく、ダウンのコートを着ていても、しんしんと冷えた。

 カテドラルは盛大なライトアップだ。

   ( ライトアップされた大聖堂 )  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

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首都マドリッドで … 冬のサンチャゴ・デ・コンポステーラ紀行 4

2012年12月13日 | 西欧旅行…サンチャゴ・デ・コンポステーラ

     ( 雨に煙るマドリッドの王宮 )

< 第5日~第6日 ── 首都マドリッドで>

 レオン12時45分発の新幹線に乗って、快適な旅をし、首都マドリッドには15時46分に着いた。

 マドリッドで体調をくずしたが、それでも、その日と翌日、休み休み、首都マドリッドを歩いた。

         ★

 マドリッドは、人口312万人。 海抜650mの台地にある。

 その歴史は、スペインの都市の中では例外的に新しい。 

 イスラム勢がイベリア半島を支配していた9世紀に、後ウマイヤ王朝 (イスラム教徒) が、ここに砦を造った。マドリッドの出発点は、ローカルな砦であった。

 1492年、キリスト教勢力のレコンキスタが完了し、それから60年後、ハプスブルグの血も引くフェリペ2世が、スペイン王として君臨した。

 それまで、スペインの王は首都を置かず、各地を巡回しながら政務を行うのを常としていたが、1561年、フェリペ2世はマドリッドを首都と定めた。マドリッドに決めた理由は、そこがイベリア半島の真ん中に位置するからだった。

 1700年、スペインのハブスブルグ家は、跡取りがなくなって断絶する。これを受けて、ハプスブルグ家とブルボン家が王位継承戦争を戦い、結局、スペイン王家の血を引くブルボン王家の王子がスペイン国王となった。

 それまで、スペイン王家は、質素・質実を旨とする家風だったが、ブルボン王家は少し違う。1734年に、王宮が火災に遭ったのを契機に、このブルボン家からやってきた王は、ルイ14世のベルサイユ宮殿を真似て、豪華な王宮を再建した。

 それが現在の王宮である。

  ( スペイン王宮 )

 王宮は特別の行事がなければ内部見学もできるが、所詮、フランスのベルサイユ宮殿や、ウィーンのシェーンブルン宮殿には及ばないだろうと思って、外観だけ見て、満足した。

 近くの店で、お土産にリアドロの磁器人形を買った。

       ★

 マドリッドに、これというほどの歴史的な遺産はない。

 ぜひ行ってみたかったのは、プラド美術館である。

 プラド美術館は、美しい前庭をもつ、端正な建物だった。

 

   ( プラド美術館前の広場のモニュメント )

   ( プラド美術館前の正面入り口 )

   入館すると、まっすぐにゴヤの「裸のマハ」の部屋へ行った。

 遠い昔、中学校の美術の時間に、美術史を教わった。美術の先生は、世界美術全集や日本美術全集の写真を見せながら、紀元前の時代から近代にいたる、世界と日本の美術史を説明してくれた。

 そのとき以来、ずっと見たいと思っていた絵が、ゴヤの「裸のマハ」である。

 初めて見た本物は、美術書の写真で見るより何倍も素晴らしい、と思った。

 こうして見てみると、遥か昔の美術の先生の解説には、特に「着衣のマハ」について、まちがいもあった。

 敗戦国となり、国土が焦土と化した日本が、そこからようやく立ち上がって、しかし、まだ貧しい時代であった時代、先生も、実際に自分の目で見た作品など、ほとんどなかったに違いない。

 だが、それでも、先生の美術史の話は興味深かった。一つ一つの作品の説明をするとき、相手が中学生であるにもかかわらず、一人の絵描きとしての自身の意見や感動が込められ、ミロのヴィーナスやマハについても、もの言いは率直だった。

 1人の中学生が、美術の授業の先生の話をずっと覚えていて、それが唯一の動機で、数十年後の海外旅行の折にその絵を訪ね、自分の目で見て、改めて、良い絵だと感動した。教育とは、かくあるべきと思う。

 私は、西洋絵画の女性の裸体画を好きではない。美しいと思えないし、色香も感じない。

 ただ一点、例外を挙げれば、フィレンツェのウッフィツィイ美術館にある、ポッティチェッリの「ヴィーナス誕生」である。

 今回、例外の一つとして、ゴヤの「裸のマハ」を付け加えた。

 他に、ベラスケスの「ラス・メニーナス (官女たち) 」が良いと思った。

 正面に立つ幼い王女や官女たちが、一斉に「こちら」を見ている。絵の端っこで、画架を立て、絵筆を握って、王女を描いていた画家も、「こちら」を見ている。小さな鏡があり、そこに写る姿から、部屋に入ってきたのが国王だとわかる。国王が部屋に入ってきたので、皆が驚いて、入り口の王の方を見たのだ。

 そのときの画家自身の表情が、すばらしい。

 芸術家らしい、不敵なものをもった顔である。

 その男(ベラスケス自身)が、「こちら」に、敬愛の眼差しを向けている。それは、ずっと年の離れた弟が、父親代わりに育ててくれた長兄を見るような眼差しだ。この人にだけは頭が上がらない、といった人間的な敬愛の心が、絵に表現されている。そこが良い。 

 美術館の館内は広く、数限りなく壁に掛けられたキリスト教の宗教画や、王室関係者の肖像画などには、全く興味がわかず、駆け足で通り過ぎた。

         ★

 マドリッドの中心、プエルタ・デル・ソル (太陽の門広場) から、マヨール広場にかけて、ホテルにも近かったから何度か歩いたが、昼も夜もたいへんな人ごみだった。

   ただ、パリやローマと比べると、洗練されていないというか、これなら大阪の「南」で十分だなと思った。

          ( ソル付近の賑わい )

   ( マヨール広場のクリスマス市 )                             

         ★

< 第7日~第8日 ── 帰国の途に >  

 帰国の途につく。

 マドリッド10時30分発で、アムステルダムへ。

 飛行機で隣り合わせた、たくましい日本の青年は、聞くと、まだ高校3年生だった。

 「サッカーでしょう?」。「はい、そうです」。( すぐに、サッカー青年だと感じた )。

 卒業を前にした2学期の定期考査あけ、マドリッドのサッカークラブに、1週間だけ留学させたもらったのだそうだ。進路はまだ未定。

 「彼らは体格も大きく、強くて、なかなか強敵でしょう?」

 「その上、技術も、優れていました」。

 「言葉は?」

 「まったくわからないけど、練習には付いていけました」。

 アムステルダムのスキポール空港で別れて、彼は成田行きのホールへ向かった。

 外国人ばかりの空港を一人で歩く姿も落ち着いていて、なかなか堂々としていた。

 頑張れ! 高校生! 活躍を祈る。 

  (アムステルダムのスキポール空港)

        ★

 アムステルダムを立つと、飛行機は夜に向かって飛び、急速に夜となり、1万メートルの上空を、星空の下、東へ東へと進んだ。

                                                     

 長く窮屈な夜を過ごし、疲労がたまり、北京の辺りを過ぎると、小さな飛行機の窓の外は、太陽を迎えに行く空になった。日出づる国へ。

 

 日本海を越え、山々ばかりの本土を縦断し、やがて、明石海峡大橋や、海に浮かぶ関空が見えてくる。

 なかなか美しい空港だと思う。

 (終わり)

 

 

 

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