ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

日本文化の基層 … 風の音やせせらぎの音を

2012年09月29日 | エッセイ

 遠い日の記憶である。 

 敗戦国の日本は、おそろしく貧しかった。

 岡山市内でも、何軒かに1軒は、米軍の空襲で焼け出されて、バラック小屋に住んでいた。主食は麦飯、時に芋まで混ぜた。卵1個がかけがえのない貴重品である。

 米兵と腕を組んで街を闊歩する若い女性たちだけが、多少とも恵まれているように見えた。しかし、彼女たちも、許嫁が戦死し、或いは、家を焼かれて、こうしなければ親や弟妹が明日食べるものもないのだった。 

         ★

 母親から、これから食事のときは、「いただきます」と言いましょう、と言われた。

 幼児にとって、「いただきます」の相手は、ご飯を作ってくれる母親であった。

 「いただきます」。「はい。いただきます」。

 ある日、ふと思った。母親は子どもにお手本を示しているだけなのか?それとも、誰かに向かって、「いただきます」と言っているのだろうか? 

 「いただきます、は、誰に言っているの?」 

 少し考えて、母は答えた。「お米を作ってくれるお百姓さんに感謝して言うの」。

 「魚を獲ってくれた漁師さんには言わないの?」「それに、お米やお魚を運んでくれる人もいるし、それを売ってくれるお店の人にもお世話になっているよ!」「おカネを払っているのに、ご飯を食べるたびに感謝しなければいけないの?」「お百姓さんは、うちのお父さんの仕事に対して、毎日、感謝はしていないよ」。 

 「食べ物が一番大切でしょう。その中でも一番大切なのはご飯だから、お米を作ってくれるお百姓さんに、代表して言うの」。

 子ども心に、釈然としなかった。 

 ある日。汽車とバスを乗り継いで、父の田舎に行った。山のなかの農家である。囲炉裏を囲んでの晩ご飯のとき、ふと思った。 

 お百姓さんは、誰に向かって「いただきます」と言うのだろう?

          ★

 しかし、いつか、そういう疑問も抱かなくなり、社会に出て、高度経済成長期からバブルの時代を働き、あのころの親の年齢もあっという間に超え、さらに歳月を経て、日本が成長しなくなってから定年を迎え、ある日、気づいた。

 生きとし生けるものとそれらを生み育てるもの。

 太陽や、雲や、四季のめぐりや、霧の沸く山や、風や、稲光や、川の流れや、生い茂る草木や、深い海。

 遠い昔から、この列島にあり続け、生成を繰り返してきたもの。

 その背後にある言葉では言い表せない何かに向かって、或いは、それらを象徴する何か、例えば、おてんとうさまに向かって、「いただきます」と言っているのだと。 

 子どものころ、まだ健在で優しかった祖母に、「誰に向かって、いただきますと言うのか?」と聞いていたら、彼女は即座に「おてんとうさま」と答えただろう。なぜなら、彼女は毎朝、玄関に出て、太陽に向かって柏手を打ち、祈っていたから。

 脳学者の研究によると、せせらぎの音、鳥の声、虫の音、風の音、波の音などを、日本人は言語をつかさどる左脳で聞いているそうだ。たいていの民族は右脳で聞く。

 自然界の音を左脳で聞いているのは、他に、太平洋の島々に住む、ポリネシア人、ミクロネシア人だけ。

 大自然とともに生きる民族が、自然界の声や音を言語の次元で聞くのは理解できる。なぜ、東京や大阪のような、世界屈指の大都会に住む、最も工業化・都市化された日本人が? 

 もちろん、これは遺伝子の話ではない。正確に言えば、人種・国籍に関係なく、ネイティブ・ジャパニーズ・スピーカー、つまり、日本語を母語とする人に生じることである。つまり、日本の文化の問題である。

 かつてアフリカ系の魅力的なおばさん、マータイさんが、この国には良い言葉がある、と教えてくれた。「それは、もったいない、という言葉です」。 

 「もったいない」という言葉も、「いただきます」と同じである。例えば、イネをはじめとするあらゆる生命を育んでくれるおてんとうさまに感謝する気持ちがあり、その気持ちが物を粗末にすることに対して、「もったいない」と言わせるのである。

 言葉は言葉としてあるのではなく、民族の文化を内に含んで意味を成す。

          ★

 さらに、もう一つ、気づいたことがある。

 何に向かって「いただきます」と言うのか、という子どもの問いに対して、母はなぜ答えられなかったのか?

 あの時代、占領軍の「日本民主化」作戦によって、日本的なもの ── 政治、経済、宗教、習慣、歴史、道徳、文化、伝統が、「軍国主義的」の名のもとに、徹底的に否定された。

 例えば、キリスト教国の道徳は神の前における「罪」の文化だから質的に高く、日本の道徳は他人を意識した「恥」の文化だからレベルが低い、などという風に。(ベネディクト『菊と刀』)

 占領軍とその追随者によるこの教化策は徹底していたから、母も、多くの日本人も、今までの価値観を否定されて、わからなくなっていたのだ。それで、何に向かって「いただきます」と言うのかを子どもに問われ、とりあえず、働く農民を登場させたのだろう。

 占領軍の「日本」否定は、彼らが去った今も、この国に色濃く残存している。

          ★

 森元首相は、「この国は神の国」と言って、顰蹙を買った。 朝日新聞などは、鬼の首をとったように攻撃した。

 もちろん、キリスト教の国やイスラム教の国ではないのだから、「神の国」は間違いだ。

 或いは、森氏は、イザナギ、イザナミがつくり、アマテラスの子孫が統治する「神州日本」といった記紀的神話的世界観を思い描いて言ったのかもしれない。とすれば、「この国のかたち」が、わかっていないのである。

 例えば、「社」とは、「土地の神」の意である。私の例で言えば、縁あって住み付いた地に風の神が祀られていたから、初詣をはじめ、風の神の神社に参詣する。

 この神社は、古代から、朝廷の信仰も篤く、「大社」であるが、アマテラスとは何の関係もない。

 イネを大風から守るために祀ったのか、また、鉄が貴重品であった古墳時代に、このあたりの強風を利用して鍛冶集団が活躍したという説もある。とにかくこんもりとした杜もあり、清々しく祀られ、これというほどの「言挙げ」はない(教義や理屈はない)。 

 神名を問うなど、余計なことで、ただ「風神」である。

 この国は、縄文の昔から今にいたるまで、このような神々のおわす「神々の国」であった。それが日本文化の基層にある。

 

                 ( 風の神の社 )

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茫々とした歴史のかなた … 紀伊・熊野の旅 7(完)

2012年09月27日 | 国内旅行…紀伊・熊野へ

             ( 熊野の山々 )

   神名を問うなど、余計なことであるが、熊野本宮大社に祀られている神様について、あるいは、この社の由緒について、少しばかり思いを馳せたい。

 神名を詮索することが目的ではなく、歴史学者(考古学者)によってもまだ究明されていない、そして今後も明らかにされることはないであろう、この列島の茫々とした遠い昔を、わずかに覗いてみたいからである。卑弥呼を遡ることさらに遠い日本列島の姿。それは、神々の時代と言ってもよい。

         ★

< 熊野本宮大社の主祭神はスサノオノミコトか?? >

 熊野本宮大社の神様を阿弥陀如来とする神仏習合の考え方は、現代人としては、論外とするほかない。

 ここに祀られている神様は、スサノオノミコトだとする説がある。

 しかし、日本の神々を、全て記紀的神話世界の中に秩序づけようとする意図の一環なら、意図そのものが無理というものであろう。

 もともと、日本の神々は、四季の変化が豊かな日本列島のなかの、山、山中の巌、淵、滝、川の合流点、樹木の梢、岬の突端、海の上・中・底などにいらっしゃって、それぞれの地で、それを感ずる人々によって祀られてきたのである。

 だが、スサノオ説、或いは、出雲系説を一概に退けられないのは、島根県・出雲の国にも熊野大社があり、しかも、この神社は、あの出雲大社と並立して出雲の国の一の宮とされ、出雲大社よりも古いこと、さらに、紀伊の国の熊野本宮大社は、この出雲の国の熊野大社から勧請されたのだという説があることである。

 熊野本宮大社のファンである私は、まさか、出雲の熊野大社の後塵を拝するようなことがあるはずがないと思ってきた。

 しかし、この夏、出雲を旅し、山深い出雲の国の熊野大社に詣でたとき、或いはそうかもしれないと感じた。それほど古拙の趣のある社であった。そして、仮にそうであっても、両社に対する崇敬の念は変わらないと思った。

                ( 出雲の熊野大社 )

 もしそうなら、本来は出雲の神々であったスサノオが、紀伊の国に祀られていても、おかしくはないのである。 

 余談だが、『古事記』によると、少年のころのオオクニヌシは兄たちに何度も命をねらわれ、一度などは殺されかけて瀕死状態になったこともあり、母は、熊野の神々を頼れとオオクニヌシを逃がす。ところが、兄たちは執拗に熊野まで追って来て、熊野の神々の機転で危うく救われた。熊野の神々はオオクニヌシに言う。もう私たちにあなたの命を守り切れません。あなたを助けられるのは、今は隠棲されている出雲のスサノオノミコトだけです。そこへ逃げなさい。

 こうして、スサノオの所に逃れたオオクニヌシは、その娘・スセリヒメと結婚し、誰にも負けない強い青年として成長するのである。

 だが …… この「出雲=スサノオ説」は、棚上げする。

         ★ 

< 熊野本宮大社の主祭神は、木々か、太陽か、水か?? >

 以上の他に、有力な説が三つある。

 第一は、神名の「家都美御子大神」( ケツノミミコノオオカミ )の国語学的解釈。

 「ケ」は「木」。「ツ」は格助詞の「の」。「美(ミ)」は美称。故に、「木の御子の大神」となる。もともと「紀伊の国」とは、「木の国」のことである。

 この説、鬱蒼と繁る大木の杜(モリ)の中に鎮座する社の神にふさわしい。

 他に、熊野本宮大社が、太陽の神の使いとされるヤタガラスを祀ることから、主祭神を太陽神とする説があり、また、もともとこの神社が川の中洲に鎮座していたことから、水の神とする説もある。

 ヤタガラスはサッカー日本代表のシンボルマークであるが、もちろん『古事記』の「神武東征」に登場する鳥である。なお、ヤタガラス伝説は、東アジア全域にある。

         ★

< 熊野本宮大社の起源と「神武東征」伝説 >                    

 『五重塔はなぜ倒れないか』で有名な建築学者・上田篤氏は、近著『庭と日本人』(新潮新書)のなかで、熊野本宮大社の起源について、概略、以下のように書いておられる。

 熊野本宮大社の創建は、第10代崇神天皇(多くの歴史学者が、最も遡ることのできる実在の天皇とする)のときと言われるが、なぜこんな辺鄙な所に、初代の天皇と言われる崇神天皇は、神を祀ったのだろうか。

 思いつくのは、『古事記』に描かれた神武 (カムヤマトイハレビコ) 東征伝説である。

 上田氏は、それを、弥生時代、2世紀の末と想定する。

 『古事記』に描かれた神武東征物語によると、九州を出発したイハレビコは、瀬戸内海を通って河内に上陸しようとしたが、土地の豪族ナガスネヒコに撃退された。そこで、紀伊半島を大迂回して、熊野に回航する。そして、新宮に上陸して、北上し、紀伊の勢力を圧服しつつ、ヤタガラスに導かれ、十津川を経て、五條、宇陀を降し、大和に入った。

 さて、この間、今でも鬱蒼とした紀伊半島の真ん中を、イハレビコはどのように北上したのか? 熊野は海まで山が迫る険しい山国である。襲いかかるのは、敵だけでなく、毒虫、風土病などの危険もあり、前進は容易ではない。(実際、『古事記』によると、新宮に上陸してまもなく、大きな熊が現れ、その毒にあたって、全軍が気を失って倒れたとある。何らかの病に倒れたのであろう)。

 そこで、彼らは舟で、熊野川を遡ったはずだ。野営地も、川中島や砂洲を選択した。水を垣としたのである。

 その最後の野営地が、元熊野本宮大社があった大斎原( オオユノハラ )であった。ここから先は急流のため舟で進めず、徒歩で大和へ行軍する。

 その宿営の最後の日に、イハレビコは、この川中島を聖地として清め、土地の神々を祀って、過ぎし方への感謝と、行く末の行軍の安全を祈願した。

 それから9代あとの崇神天皇は、伝えられてきた祖先イハレビコの労苦を思い、そこに社殿を建てて整えた。

   ( 現在の大斎原 )

 熊野本宮大社の起源は、このように考えられないかというのが、上田篤説である。

 一言、私風に付け加えれば、イハレビコが、大斎原で祀った神々は、すでに土地の人々に祀られていた神々であり、それは、多分、「木の神」であった。

         ★ 

< 茫々とした歴史のかなたの神武東征伝説 >

 戦後の歴史教科書で学んできた我々は、著名な建築学者が、神武天皇の実在や、神武東征を信じるのか、と疑問を抱く。

 確かに、『古事記』に書かれている一つ一つの東征エピソードは、口伝されているうちに、事実からどんどん遠ざかっていった「物語」であろう。 『古事記』 の伝える年数も、実際とはもちろん違う。「イハレビコ」という人名も、違うものであったかもしれない。

 しかし、ギリシャ神話の『ユリシーズ』に夢中になったH.シュリーマンは、「伝説のトロイ」を探し求め、ついにその発掘に成功したのである。

 もっと身近なところに、思いがけない学術的発見の話がある。

 神武東征よりも、さらに遡る、「神代」の話のことだ。

 『古事記』は、大きなスペースを割いて、「出雲神話」を記述している。スサノオのヤマタノオロチ退治、オオクニヌシのさまざまな話、そして、天孫族への国譲りの話など。

 歴史学者 (考古学者) たちは、戦前も戦後も、北九州と大和の二大文化圏を ( 銅剣・銅矛文化圏と銅鐸文化圏などと言って ) 認めていたが、出雲などは一笑に付していた。あれは神話だ、と。何の証拠もない。 

 ところが、1980年代になって、出雲からぞくぞくと銅剣、銅鉾、銅鐸が出土したのである。

 弥生時代、ここに巨大なクニがあった! 出雲を本拠にして、おそらく日本海側の北九州から、越前・越中・越後、さらに諏訪地方にまで、影響力をもっていたクニである。

 しからば、大和連合との間に、戦争による併合でなければ、「国譲り」もあったかも知れない。

          ★

 トロイ伝説によると、トロイ戦争は、3人の女神たちが、「このなかで誰が一番美しいか」と、論じ合うことから起こった。そんな荒唐無稽な話は信じられないとして、トロイの存在を一笑に付していた学者たちは、結果的に、学者として基本的態度が間違っていたことになる。

 神話・伝説を頭から信じるのもおかしいが、頭から否定してしまうのも、非科学的な傲慢である。

 『古事記』や『日本書紀』をバカにしてはいけない。文字の普及していない時代に、長年、口伝で伝承されてきた遠い先祖の歴史。それが仮に荒唐無稽な神話的姿になっていたとしても、頭から否定するのは、学問的な態度とはいえないのである。

 古墳時代の幕開けに登場する邪馬台国(もちろん、大和国)の卑弥呼(ヒメミコ)の祖先は、弥生時代に、九州のどこかから、大和へ東征してきたのではないか、と、私も想像したりしている。

   (近所の寺の枝垂桜)

 (「紀伊・熊野の旅」は終わります)

 

 

 

 

 

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熊野本宮大社、そして融通無碍な日本の神々 … 紀伊・熊野の旅 6

2012年09月22日 | 国内旅行…紀伊・熊野へ

 温泉宿に一日くすぶっているわけにもいかず、昨日は熊野那智大社と熊野速玉大社を巡った。

 こうなったら熊野三山すべてにと、今日は熊野本宮大社へ向かう。

 新宮までは、昨日走った太平洋に沿う国道42号線。その先は、熊野川に沿って、上流へ上流へと、国道168号線を走った。

 十津川を越えて奈良県に出ようというダンプカーが多く、彼らには慣れた道だがこちらは初めて。川沿いのカーブの多い対向1車線の道路を、結構追い上げられながら走る。 

 平安時代から鎌倉時代にかけて、院や、貴族や、宮廷女官、或いは平氏一族らが、紀伊田辺から中辺路を経て熊野本宮大社まで歩き、そのあと、この熊野川を舟で下って、熊野速玉大社、そして熊野那智大社を参詣した。

 山深く、豊かな川幅である。

 瀞峡への道と分かれて、新宮から約1時間車を走らせると、本宮町に入った。

 国道の脇は静かな門前町のようになり、やがてこんもりした山の麓に鳥居が見えた。熊野本宮大社である。

         ★

 白木の大きな鳥居の前に立つと、両側には高く茂った樹木。

 その間を、石段がまっすぐに上へと伸びている。白地に黒々と「熊野大権現」と書かれた幟(ノ ボリ )が並ぶ。

 石段の中央は神様の通る路。参詣者は、上りは右端、下りは左端を歩くと、作法の貼り紙があった。

            ( 熊野本宮大社の鳥居 )

 しんとした静謐な空気。時折、木々の梢を見上げて一呼吸し、そこから差し込む木漏れ日の陰影を踏みながら、158段の石段をゆっくりと登っていった。

 少し息切れし、脚に疲労を感じ出したころに、手水舎がある。

 そこを少し上がると、ヤタガラスの幟や、高々と伸びた枝垂桜の古木があり、その横の門をくぐると、…… 砂利を敷き詰めた空間の正面に、第1殿から第4殿までの社殿が、どっしりと連なっていた。

 19世紀初期に造られた社殿だが、その様式は古くから伝えられてきたものだという。「更新」による「継続」は、日本の文化の特徴である。

               ( 本 殿 )

 昨日の二社と異なり、朱はなく、白木である。それ故、前二社の華やかさや、みやびやかさはない。しかし、いかにも熊野の山奥にしんと鎮まって、鄙びて、静謐の風情がある。

 堂々と並んだ社殿の背景の杜の巨木が、ここが神々の在す神域であることを表しているかのようだ。

司馬遼太郎『この国のかたち五』から。

 「神々は論じない」。

 「感ずる人にだけ、隠喩(メタファ)をもって示す」。                          

          ★

 平安末期に「熊野御幸」が繰り返されたのは、末法思想や浄土信仰の隆盛による。

 それが神仏習合の考え方と溶け合った。

 仏教が伝来するより前の時代から、人々に崇敬されてきた日本の神々は、実は仏や菩薩が仮に形を変えて日本に顕現したものである、ということにした。仏や菩薩の仮の姿が権現( ゴンゲン )である。

 熊野本宮大社の主祭神・家都美御子大神( ケツミミコノオオカミ )に形を変えて現れていたのは、阿弥陀如来であり、それがすなわち熊野大権現である、という。

 こうした神仏習合の考え方は、明治政府によって、神仏分離・廃仏毀釈が行われるまで続いた。 

 いかにもご都合主義の教義のようだが、新しく入ってきた仏教を徐々に日本化しながら、神道と一つものとして受け入れたのは、それがこの列島にすむ人々にとって、自然な心情であったからに違いない。

 今でも、七五三や結婚式は神道で、お葬式は仏教で行うことが多い。年の暮れには除夜の鐘を聞き、新年には神社へ初詣に行く。

 フランシスコ・ザビエルは敬意をもって迎えられ、人々の中にキリスト教の小さな芽も出たが、結局、表層のロマンチックな異国情緒の部分だけが受け入れられ、「クリスマス」や「サンタクロース」が俳句の季語になったが、「天にましまして」、「神を信ずる者(善)か、信じぬ者(悪)か」の二元論をふりかざす唯一絶対神は、敬して遠ざけられた。

 キリスト教より遥かに早く入ってきた儒教についても、同様である。各時代に渡って、日本の知識階級は儒学の書物を山のように輸入し、(日本語化して)これを読んだが、それは学問・教養としての儒学であって、ついに宗教・習俗としての儒教の国にはならなかった。

 「神道には、哲学もなければ、道徳律も、抽象理論もない」(ラフカディオ・ハーン『日本の面影』) 。

   「空気のように捕らえることのできない神道」(同) は、融通無碍である。融通無碍が、日本の文化の基盤にある。

 この列島では、神は高き天にあって人間を裁く神ではなく、山や、谷や、木々や、川のせせらぎや、風や、目を閉じれば、どこにでも存在する。田にも、竈にさえも。死を思う人には阿弥陀如来となって心に安らぎを与え、生きることをともに喜び、死は父祖の土に帰ることである。神は多にして一、一にして多。人に寄り添い、人とともに生きる。

 ユーラシア大陸の東の果てのこの列島に、西から、北から、南から、あらゆる雑多な文明・文化が、人をも伴って、黒潮とともに流れ着いた。そこには、山や、谷や、森や、川や、海に、融通無碍な神々がおわして、すべてを受け入れ、長い歳月をかけて、この列島の風土に合うものにしていった。 

 これが旧石器時代以来数千年の、この列島の歴史である。

          ★

 話は熊野本宮大社に戻る。

 今、参拝した社殿は、この地が移されて、まだ120年ほどにしかならない。1889年(明治22年)の洪水で流されるまで、本宮大社の杜と社は、熊野川の中洲にあった。

 国道を横切り、川のほうへ下っていくと、中州があり、畑が作られている。その畑の向こうに、天を衝く鳥居と、こんもりした杜が見える。

  ( 桜と大斎原の大鳥居 )

   訪れるなら、春がいい。

 菜の花畑の向こうの黒っぽい大鳥居は、日本一の高さを誇って印象的である。

 その大鳥居の先のこんもりした大きな木々のなかに、原っぱがある。

 その昔、ここに社殿があった。「大斎原」( オオユノハラ )と呼ばれる。原っぱのあたりにも桜が幾本かあり、石祠があって、いかにも「神域」という感じがする。

 洪水による流出を免れた4つの社殿は、ここから、先ほどの山の杜に移された。

        ★

 車で山の中の道路を少々下ると、湯の峰温泉がある。素朴な湯宿が何軒かあり、湧出する湯の温度は90度を超える。

 その一軒に泊まって、木々に囲まれた露天風呂に入ると、ここもまた神域のような気がし、神々の里に抱かれているような安らぎを覚えた。

 2004年の旅のことを書いてきたが、以後、熊野本宮大社と湯の峰温泉には、毎年、桜の春、蝉の夏、うっすらと雪景色になる冬と、多いときには年3回も訪れるようになった。(この稿、もう1回つづく)。

 

 

 

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「元宮」のご神体の下層から …… 紀伊・熊野の旅 5

2012年09月16日 | 国内旅行…紀伊・熊野へ

    (朱塗りの美しい熊野速玉大社)

 熊野那智大社から勝浦の町へ戻り、国道42号線を新宮方面へ向けて、北上する。

 所々に太平洋の海原が広がり、海岸線を走る楽しいドライブだ。

 やがて新宮の町並みに入った。

 「古事記」によると、大阪湾の日下で行く手を阻まれたカムヤマトイハレビコ (神武天皇) は、紀伊半島を大迂回して、現在の新宮市に再上陸したとされる。

   新宮の街を横断して、熊野川の河口近くに架かる橋の手前を山側に入ると、熊野速玉大社があった。そのまま県境の熊野川を越えれば三重県になる。

 速玉大社は、山間部に分け入る那智大社と違って、海に近い神社であるが、周囲はこんもりしていた。その木漏れ日のなか、丹塗りの社殿が麗しく、瀟洒で、みやびやかな趣があった。

      ( 鳥居をくぐった神門の先に本殿が見える )

   熊野那智大社と比べると、人は少なく、明るく、清々しい。

 境内に樹齢千年のナギの巨木がある。天然記念物とか。

 

    ( 社殿 )

 主祭神は、熊野速玉大神とされる。聞きなれない神様で、『古事記』や『日本書紀』の「神代記」にも登場しない。

ラフカディオ・ハーン『新編 日本の面影』 から

 「神道の計り知れない悠久の歴史を考えれば、『古事記』などは、(現代の言葉からはほど遠い古語で書かれているとはいえ、) ごく最近の出来事の記録集にしかすぎないであろう」。

 「神道を解明するのが難しいのは、‥‥ その拠り所を文献にのみ頼るからである。つまり、神道の歴史を著した書物や 『古事記』『日本紀』、あるいは「祝詞」、あるいは偉大な国学者である本居 (宣長) や平田 (篤胤) の注釈本などに依拠しすぎたせいである。ところが、神道の真髄は、書物の中にあるのでもなければ、儀式や戒律の中にあるのでもない。むしろ国民の心の中に生きているのであり、‥‥

        ★

白洲正子 『西国巡礼』 から

 「(熊野速玉)神社は、神倉山を背に建っており、宮司さんのお話では、新宮という名称は、本宮に対する新宮ではなく、神倉山からわかれた、新しい社の意味で、(熊野) 本宮 (大社) の方は、河口から川上へのぼるという古代の信仰に則って、のちに造られたものであるという」。

 熊野速玉大社の起源は、神倉山 (標高120m) の頂上にある磐座 (イワクラ) にしめ縄を張って祀っていたことによる。いつのころからか、現在地に社殿を建てて、祀るようになった。それは、熊野那智大社が、もとは那智の滝にしめ縄を張って、聖域としたのが始まりであったのと同じである。

 神倉山を元宮と言い、現在の社殿の方を新宮と言う。新宮市という行政市の名にもなった。

 神倉神社は今は熊野速玉神社の摂社であるが、鎌倉積みの急こう配の石段538段を登れば、そこ、神倉山の頂上に、今も巨岩があり、古代のままに祀られているそうだ。

 しかも、その岩の下層からは、銅鐸片などが出土したという。弥生時代、卑弥呼より100年以上古く、2世紀前半のものだろうか?

         ★

 大変だと聞いていたから、麓の鳥居まで行って、そこでニ礼二拍して引き上げるつもりだったが、少しだけと思って、ついつい登りはじめ、とうとう神倉山の山頂まで行ってしまった。「胸突八丁」という言葉があるが、言葉どおり「胸を突く」ような急こう配で、石段の一段一段も高くて、バランスを崩さないよう、両手も使って登り、怖いほどだった。

     ( 神倉神社の磐座 )

 磐座の下に立ち、岩の大きさを実感した。磐座の下の岩の上で、磐座をバックにして、バレリーナの上野水香が「ボレロ」を踊れば、アメノウズメになる。古代の神々の世界は、そのように大らかで、楽しい。

 新宮の街が一望できた。

   『日本書紀』にいわく、「(イハレビコは)、遂に狭野 (サノ) を越え、而して熊野の神邑 (ミワノムラ) に到り、また天磐盾 (アマノイハタテ) に登り、よりて軍を引き漸に進む」。

 神邑 (ミワノムラ) = 「神」とは、熊野速玉神社を指す。

 天磐盾 (アマノイハタテ) = 通説では、神倉山。「磐盾」は盾の形をした岩。

           ★   ★   ★

 熊野速玉大社の境内の一隅に、小ぶりな住居建築があり、目を引く。

 佐藤春夫記念館である。丹塗りの社のみやびやかな美しさとよく似合って、瀟洒である。

 佐藤春夫は、新宮市の出身。

 東京・文京区にあった旧宅を復元したものとか。

    願 ひ       佐藤春夫

 大ざっぱで無意味で

 その場かぎりで

 しかし本当の

 飛びきり本当の唄をひとつ

 いつか書きたい

 神さまが雲をおつくりなされた気持ちが

 今わかる

        ★

 ふと、高校生のころに好きだった佐藤春夫の詩を思い出した。

 

 

 

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那智の滝に古神道を思う … 紀伊・熊野の旅 4

2012年09月14日 | 国内旅行…紀伊・熊野へ

          ( 那智の滝 )

 2004年の旅の思い出を書いている。車で灯台めぐりをしながら、勝浦温泉にやってきた。(前3回のブログ参照)。

 そして、那智湾に面した温泉宿に、湯治気分で3泊した。

 しかし、湯治気分といっても、1日、旅館でごろごろというわけにもいかない。

 朝湯に入り、朝食を食べれば、もう、なすことがない。畳に寝転がってばかりでは、かえって肩も凝り、腰痛になる。腹も減らず、体重が増える。

 そこで、「三重塔と滝」の写真で有名な熊野那智大社に行ってみることにした。時間があれば、さらに足を延ばして、熊野速玉大社に回っても良い。何しろこの年 (2004年) は、「紀伊山地の霊場と参詣道」がユネスコの世界遺産に登録された年だった。

        ★

 熊野那智大社は、宿と同じ那智勝浦町の行政区内にある。だが、海抜ゼロメートルの勝浦温泉からは、かなり深山に入る。

   ( 勝浦漁港と熊野の山々 )

 車のなかった時代の人々にとっては、ひたすら山奥へと分け入る趣であったろう、と車を走らせながら思う。

 表参道へ入り、土産物店の並ぶ一角に車を置く。観光バスもやってきて、観光地の匂い。

 それはそれでよい。観光・行楽気分で神社を訪れる人々も、日本人ならば、鳥居をくぐると、心静かに柏手を打ち、手を合わせる。また、お賽銭を入れて、結果的に神社の存続を助け、神々の杜と社を後世に伝えてくれるのである。 

司馬遼太郎『この国のかたち5』から

 「明治23年 (1890年)、出雲にやってきたハーン ( 注 : ラフカディオ・ハーン ) は、神々がいささかも抑圧されていないことを知り、よろこんだ。美しい丘には必ずそこに鎮まる神がいて、宮居まで備わり、しかもそれぞれ物語ももっていたのである 」。

 キリスト教の絶対的な人格神になじめず、子供のころから自然の中に妖精を見ていたハーンは、『古事記』を読んで感動し、日本にやってきた。そして、恋人にめぐり合った人のように、日本に恋をするのである。

        ★

 パーキングからさらに上へ上へと汗ばみながら登り、ようやく朱塗りの鳥居をくぐって拝殿に到着する。隣に青岸渡寺。周囲は那智原生林である。

   ( 熊野那智大社の朱塗りの鳥居 )

 本殿には上五社が並ぶが、正殿は第四社。そこに祭られている主祭神は、熊野夫須美大神 ( クマノフスミノオオカミ )。これがどういう神様かについて、いろいろ古文書があり、諸説もあるようだ。

     ( 熊野那智大社本殿 )

 いずれにしろ、今はこのように山の上に社殿があるが、もとは、ここよりずっと下方の谷、那智の滝がご神体で、社殿もそちらにあったらしい。

 山がご神体という。また、滝をご神体という。日本人は何でも神にして拝むというが、しかし、もともと山や滝そのものを神としたわけではない。その山、その滝が、聖なる「場」であるという意味である。

司馬遼太郎 『この国のかたち5』から

 「畏れを覚えればすぐ、そのまわりを清め、みだりに足を踏み入れてけがさぬようにした。それが、神道だった」。

 滝のある谷へ下って行く。

 途中、三重塔に立ち寄って、塔の横に遠く那智の滝を配した、定番の写真を撮る。

         

     ( 三重塔とご神体の滝 )

 滝壺に下り立つと、そこは鳥居が立ち、注連縄 (シメナワ) で 斎(イツ) かれていた。見上げると、133メートルを轟音を立てて落ちてくる滝と、濡れた岩肌の様を見ることができる。

   ( 那智の滝 ) 

司馬遼太郎 『この国のかたち5』から

 「 何事のおはしますをば知らねどもかたじけなさの涙こぼるる

という彼 (注: 西行) の歌は、いかにも古神道の風韻をつたえている。その空間が清浄にされ、よく斎 ( イツ ) かれていれば、すでに神がおわすということである。神名を問うなど、余計なことであった」。

                     ★ 

 西行は、あの伊勢神宮に参拝して、「何事のおはしますをば知らねども」と歌ったのである。やはり偉い男である。

 神の名が云々される遥か以前、もちろん文字などもなかった時代から、人々はこの奥深い滝の下に立って、神を感じ、注連縄を張って、聖なる場所としたのである。所詮、その後の人が作ったに過ぎない神名を、古文書を尋ねて、あれこれ詮索するなど、余計なことであるに違いない。

 

 

 

 

 

 

 

                                

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メルヘンチックな梶取崎 (カントリザキ) 灯台 … 紀伊・熊野の旅3

2012年09月10日 | 国内旅行…紀伊・熊野へ

 潮岬灯台、樫野崎灯台を経て、紀伊半島の東海岸に出、国道42号線を走る。

 車窓に橋杭岩の奇岩を見、やがて太平洋を東に突き出した太地の半島に入った。

 うららかな日差しの下、寝静まったようにのどかな集落の細い道路をゆっくり走り、集落が切れて、しばらくは小暗い、南国的な樹林の下を走ると、梶取崎 ( カントリザキ ) に出た。

 潅木の前の草の上に車を停めて、降りると、原っぱがあった。

 原っぱの向こうのはしに、白い灯台が立っている。

 のどかな冬の日差し。青い空と、ぽっかり浮かぶ白い雲。

 聞こえるのは、灯台の向こうの断崖の遥か下に、打ち寄せては返すドドーンという波濤の音のみである。

  

                (梶取崎灯台)

 人けのない原っぱの端まで歩くと、断崖があった。

 原っぱの一角の、こんもり樹木の茂る下にブランコがあり、小さな女の子と若い母親が、ブランコに乗って、静かに遊んでいた。

 ぽかぽかと日が照り、波濤の音以外に何も聞こえず、時が止まったようであった。

 梶取崎灯台は、前の2つの有名な灯台と比べると、鄙びて、メルヘンチックである。

 砕ける波の音を聞きながら、冬の日差しの下、灯台の草むらをそぞろ歩いていると、心が安らぎ、生かされているという幸せ感がわいてくる。

         ★

 灯台から2キロ先の燈明崎は、名前のとおり、江戸時代に灯台があった。そばに、小さな番屋の跡があり、風雨の夜の困難な任務をしのばせた。

 捕鯨用の展望台も再現されている。看板があり、説明が書かれていた。

 捕鯨の際、この展望台に長 ( オサ ) が立つ。クジラがやって来ると狼煙を上げ、遥か絶壁の下、眼下の海の、和船の船団に対して、指図をした。船団は、断崖の上の展望台に立つ長 (オサ) の振る旗に従って、クジラを包囲し、追い込んで、次々に銛を撃って仕留めた。

 展望台に上って見ると、ここからの狼煙や旗に合わせて、遥か眼下の海原で繰り広げられた、当時の勇壮な鯨漁の様子が、目に浮かぶようであった。

                               

   

 

 

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再び隣国のこと

2012年09月07日 | エッセイ

 隣国がまた、騒がしい。

 小さな岩礁をめぐる両国の対立は仕方がない。それを、非政治的な場であるオリンピックでアピールするという、1サッカー選手の子どもに見せたくない行為を、政治家、マスコミ挙げて拍手喝さいして誰も批判する者がいないという、隣国の「国のかたち」の危うさ。

 続けて、東シナ海から南シナ海、マラッカ海峡を経てインド洋にかけての覇権をねらう中国が、小さな岩礁を奪い取ろうと爆竹ごっこ。民間の経済活動や自治体の親善交流までぶち壊して、国を挙げての乱暴狼藉。火付け盗賊までやってはばからないというえげつなさ。

 お坊ちゃん政治家・石原ジュニアは、双方のクールダウンが必要だ、と言った。 パレット国防長官は、双方の冷静な対応を呼びかけた。

 しかし、日本人がヒートアップしているとは思えない。異常なのは隣国のほうである。異常な隣国というべだ。

         ★                    

司馬遼太郎  『この国のかたち 一』 から

 「人間というのは、よほどな人でないかぎり、自分の村や生国に、自己愛の拡大されたものとしての愛をもっている。

 社会が広域化するにつれて、この土俗的な感情は、軽度の場合はユーモアになる。しかし重度の場合は血なまぐさくて、みぐるしい。

 ついでながら、単なるナショナリズムは、愛国という高度の倫理とは別のものである。

 ナショナリズムは、本来、しずかに眠らせておくべきものなのである。わざわざこれに火をつけてまわるというのは、よほど高度の(あるいは高度に悪質な)政治的意図から出る操作というべきで、歴史は、何度もこの手でゆさぶられると、一国一民族は壊滅してしまうという多くの例を遺している」。

 中国のナショナリズムは、まことに「血なまぐさくて、みぐるしい」。「愛国という高度の倫理」からは遠くかけ離れ、自らの文明度の低さ・まがまがしさを、世界にアピールしている。

         ★

さらに、司馬遼太郎から。 

 「日本の十三世紀は、すばらしい。

 開拓農民の政権(鎌倉幕府)が、関東に成立したことである。

 農地はそれを管理する者の所有になった。”武士”という通称でよばれる多くの自作農は …… 律令制をたてとする京都の公家・社寺勢力と対抗し、”田を作る者がその土地を所有する”という権利をかちとった。日本史が、中国や朝鮮の歴史とまったく似ない歴史をたどりはじめるのは、鎌倉幕府という、素朴なリアリズムをよりどころにする”百姓”の政権が誕生したからである。私どもは、これを誇りにしたい。

 かれらは、京の公家・寺社とはちがい、土着の倫理をもっていた。

 『名こそ惜しけれ』

 はずかしいことをするな、という坂東武者の精神は、その後の日本の非貴族階級につよい影響をあたえ、いまも一部のすがすがしい日本人の中で生きている」。

 皇帝や王による中央集権的官僚国家としての歴史しか持たぬ韓国や中国には、「名こそ惜しけれ」という民の素朴な倫理観は育たなかった。 

        ★                          

  これからも隣国の鬱陶しさには耐えなければいけない。中国やロシアという、大国を隣国にもったのは、我々の地政学的宿命である。

 特に、中国は、いまや、米国と対抗して、「地球を分け合う覇権国家」になるという野望をあらわにした。そのやり方は、かつての帝国主義そのものである。社会帝国主義国家である。

 故に、今回程度のリスクに耐えられない企業や自治体は、安易に隣国に、進出すべきでない。「安い労働力」「10億の民、少なく見積もっても1億の中流以上の消費者」などという儲け話に安易にのるべきではない。

 また、傍若無人な隣人たちに、「おいで、おいで」と安易に観光や留学を呼びかけるのも、やめたほうがいい。外国から観光客を増やしたい気持ちは分かるが、もっと他の国や他の方法を考えるべきである。中国からの観光客が増えれば、しばしばその観光客は日本に圧力をかけるための手段に利用されるだろう。日本が何かで中国の言うことを聞かなければ、観光客は突如、来なくなり、観光地に閑古鳥が鳴くことになる。「それとこれとは別」、「一方で利害が対立しても、他方では大切な隣人です」 という常識を無視して、無理を押し通す隣国に対し、こちらも見切って付き合うべきなのである。

 これからも、何度でも、事あるごとに爆竹を投げ込んでくる。そういう隣国である。

         ★

 かつての日中戦争のはじまりも、大陸に進出していた企業や家族・個人に対する中国人の侮日言動、乱暴狼藉、レイプ事件に、軍部が感情的になって、挑発にのってしまったことが発端であった。

 再び国策を誤ってはいけない。

 砂糖菓子のように甘い「友愛」などという観念的な言葉をもって近づいても、陰で失笑されるだけ。一年生議員団を大挙引き連れての朝貢外交は、国辱である。

 大切なことは、この列島の歴史と文化を誇りとしつつ、リアリズムに徹した判断をすることである。できたら、国民一人一人が。

 そう考えるとき、今、だれを総理にすべきかも見えてくる。今度こそ正しい選択をし、とっかえひっかえは、やめなければいけない。 

 

 

 

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樫野崎 (カシノザキ) 灯台、そしてトルコとの友情 … 紀伊・熊野の旅 2

2012年09月06日 | 国内旅行…紀伊・熊野へ

      ( 紀伊の海 )

 大きな紀伊半島のとん先に、ちょこんと突き出した潮岬。遥かな昔は島だった。その岬に潮岬灯台がある。

 潮岬灯台のそばに立って、太平洋の波濤を眺め、すぐそばの杜のなかにある潮御崎神社に参詣してから、車を北へ走らせた。

 まもなく東側に見えてくるのが紀伊大島。大島というが、大きな紀伊半島のとん先にある小島である。島の東端に樫野崎 (カシノザキ) 灯台がある。

 30年前に来たときは、車を置き、船で渡った。渡船場はどこだったかと、海沿いに車を走らせていると、思いがけずも、島に向かって、海を跨ぐ架橋が現れた。…  30年もたつと、こういう変化もある。

 橋を渡り、島の東端へ車を走らせる。

 そして、パーキングに車を置いて、南国的な樹林の中の道を、潮の風と香りを感じながら、灯台へ向かって歩く。

 トルコ海軍遭難碑とその記念館があり、トルコの民芸品らしきものを売る土産屋もある。ここはちょっとした異文化の風のある観光地なのだ。

 島の先端の原っぱに立つ灯台の周囲も、観光客でにぎわっていた。

    ☆  ☆  ☆

 以下は、30年前ここに来て、記念館に入り、初めて知った話である。

 1890年 (明治23年)、トルコ皇帝の特使を乗せた軍艦エルトゥール号が、日本までの長い航海を終え、天皇に拝謁し、再び帰国の途に着いた。しかし、串本沖で暴風雨に遭遇。軍艦は座礁し、乗員は夜の荒れ狂う海に投げ出され、518名の犠牲者を出した。が、69名は息も絶え絶え大島に泳ぎ着いた。

 深夜、この事態を知った島民たちは、夜を徹し、その後の数日間、救助・救護に当たった。彼らを家に担ぎ込み、緊急時に備えて飼っていた鶏をつぶして食べさせ、漂着した遺体を丁寧に埋葬し、遺品を保管した。

 交通も通信手段もない時代。誰に命令され、指示されたわけでもなく、紀伊半島のとん先の小さな島の漁村で、貧しい村人たちが、なすべきことを懸命になしたのである。

 その後、明治天皇の命により、救助された人々は日本の軍艦でトルコに送り届けられた。

 また、山田寅太郎という人が、遭難者とその家族のために日本で集めた義捐金を持って渡航。トルコ皇帝から厚い感謝の言葉を受け、皇帝の要請でそのままトルコに留まり、両国の友好親善に努めた。

 この話は、トルコの教科書に掲載された。

 以上が、記念館のパネルで知った事柄である。ただ、この出来事がトルコの教科書に載ったということについて、しっかりと腑に落ちたわけではなかった。

       ☆

 後日譚がある。

 時代は遥かに下がる。なにしろ、30年前に私がこの灯台を訪れた、そのあと、1985年の出来事である。

 当時、このエピソードがテレビ、新聞で報道されたのかどうか、知らない。

 この事実を知ったのは、さらにずっと後、テレビで、このエピソードがドキュメンタリー風に紹介され(NHKの「プロジェクトX」)、それを偶然に見て、知ったのである。

 事が起こったのは、イラン・イラク戦争 (1980~1988) のさ中である。

 1985年3月17日、制空権を握っていたイラクは、48時間後の19日午後8時30分以後、イラン上空を飛ぶ全ての航空機を撃墜すると宣言した。これより先、すでにイラン政府は、安全のため国内にいる外国人すべての退去を求めていた。

 欧米各国は、テヘランに残留していた自国民救出のために、脱出用の航空機を確保・派遣した。

 だが、日本政府は日本航空に打診するも、労働組合が「危険」を理由に反対

 自衛隊機の派遣については、憲法9条違反の自衛隊機を海外に派遣するなどもってものほか、と、当時の社会党などが反対した。こうして、テヘランにいる日本国民は、なすすべなく見捨てられた。(崇高なる憲法と、平和を愛する国民によって)。

 事情を知った当時のトルコ首相( のち、大統領) が決断し、トルコ航空に働きかける。

 トルコ航空で、パイロットたちに、日本人救出のための志願者を募ったところ、全員が手を挙げたという。

 2機の航空機が飛び立ち、現地で給油の後、1機目が193名の日本人を乗せて、トルコに向かった。2機目がさらに残っていた17名を乗せて、ぎりぎりの時間にテヘランを飛び立った。

 窓のシャッターが閉じられた2機目の機内で、緊張し、固唾を呑む乗客たちに、パイロットからの機内放送が流れたのは、まさにタイムリミットの午後8時30分だった。

 「日本人の乗客の皆様、今、本機は、国境を越えてトルコに入りました。ようこそトルコへ」。機内に拍手と歓声が沸き起こったという。

 元駐日トルコ大使ネジアティ・ウトカン氏の言葉。

 「エルトゥール号事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今も、トルコの人たちは忘れていません。私も、小学校のころ、歴史教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥール号のことを知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです」。

       ☆

 世界に、日本を好きな国や、人々は多い。

 それだけのことを、日本国と日本人は、地道に、時には献身的に、恩着せがましくなく、してきている。戦前も、戦後も。

 日本人は、自分たちの歴史に、もう少しだけ自信をもってもよいと思う。そして、そういうことを学べる、楽しい歴史教科書を作ってほしい。

       ☆

 灯台めぐりのドライブは、まだ続く。

 

 

 

 

 

 

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紀伊・熊野の旅 1 …… 島々を、波を、岬を

2012年09月04日 | 国内旅行…紀伊・熊野へ

 熊野本宮大社への参拝は2004年から。多いときには春、夏、冬と年3回訪ねているから、かれこれもう20回近くになるだろうか。

 しかし、上には上がいる。NHK大河ドラマ「平清盛」に登場した鳥羽上皇は21回、後白河上皇はにいたっては34回も参詣している。

 しかも、当時 (もしかしたら今も)、道中は徒歩でないと功徳がないとされたから、京都から延々と歩いて、中辺路 (紀伊田辺から山へ入る) を通り、本宮大社へ詣でた。ついで、舟で熊野川を下って熊野速玉大社、さらに熊野那智大社に参詣した。往復1か月の難行の旅であったから、私のように車で行って、湯の峰温泉に1泊して帰るという参詣とは全然違う。

 初めて熊野本宮大社を訪ねたのは、2004年の暮れであった。このとき初めて三山を巡ったので、その旅のことを書き留めておきたい。

    ☆        ☆  ☆

 旅の動機は、温泉でのんびりと湯治の真似事でもしてみたいという願望の実現にあった。人生、2度目のご奉公に入っていたから、心身の金属疲労があっても不思議でない。

 「温泉博士」の松田忠徳先生が「お湯は最高」と折り紙を付けた那智勝浦温泉の宿「海のホテル一の滝」に3泊した。高級旅館というにはほど遠い風情の、温泉街からははずれ、那智湾に臨んだ1軒宿である。

 朝、奈良の自宅を車で出る間際に、スマトラ島沖大地震と大津波で多くの犠牲者が出たとのニュース。あわただしく家を出たが、車を運転しながらも、遠い異国の被害のことが気になった。

 あちこち立ち寄って、夕方、宿に着き、1階の自分の部屋の窓を開けると、海がひたひたと目のすぐ下に迫っていた。ひとごとではない。もし津波があれば、最初の犠牲者である。でも、なかなかいいムードだった。

 夜は、月光が、暗い海面に一筋の光を漂わせた。

       ☆

 この旅のもう一つの目的は、紀伊半島の岬めぐりである。岬には灯台がある。

 道中、冬晴れの下、有名な潮岬灯台、それから樫野崎 (カシノザキ) 灯台に立ち寄り、太平洋の海を見ながらドライブして、宿を目指す。

 阪和道のみなべICを出たあとは、国道42号線をひたすら走った。

 椿温泉のあたりから海沿いを走ることが多くなり、対向一車線、カーブを繰り返す。その海沿いのカーブを、スピードを緩めることなく飛ばす車は地元車だ。軽(ケイ)といえども、速い。

 陸の黒島、沖の黒島という二つの島を見下し、遥か太平洋の行き交う船を見晴らせる岬の高台の食堂で昼食。ここは恋人岬というらしい。

 紀伊半島のとん先、本州最南端にある潮岬の、さらに最先端にある灯台が、潮岬灯台である。

 日差しは暖かいが、風が強く、コートを着て灯台に行く。確か30年ほども前に訪れたことがある。      

       ☆

   のちのおもひに 

                   立原道造   

   夢はいつもかへって行った 山の麓のさびしい村に

 水引草に風が立ち

 草ひばりのうたひやまない

 しづまりかへった午さがりの林道を

 

 うららかに青い空には陽がてり 火山は眠ってゐた

 ─── そして私は

 見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を

 だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた …… (以下、略)

       ☆

 立原道造という詩人の文庫本を手にしたのは、大学生時代である。

 陽光きらめく紀伊半島の一人旅の間も、私の想いはいつもあの少女と出会った軽井沢の村にかえっていった。しかし、旅からかえっても、そこに少女はいない。ただむなしいばかりである ……。喪失 (失恋) の悲哀を歌った詩である。

 喪失の暗さに対して、一瞬、対照的に、陽光がきらめくのが、第二連の5行目。

 「 (見て来たものを、)  島々を / 波を / 岬を / 日光月光を、(だれも聞いていないと知りながら / 語り続けた )」。

 この「島々を / 波を / 岬を / 日光月光を」というイメージが好きで、若いころ、太平洋に臨み、黒潮が洗う、紀伊半島にあこがれた。

 陽光きらめく半島の岬めぐりの旅は、恋人のもとに帰って、すぐに、目を輝かせて、語って聞かせるにふさわしい ……。

             ( 紀伊の海 )

                  ☆

 立原道造は、東大建築科卒。室生犀星や堀辰雄に兄事し、雑誌 『四季』 に詩を発表。結核のため、26歳で夭折した。長身・痩躯。スケッチブックと色鉛筆を持って信州の高原を歩く姿がふしぎに似合う青年であったようだ。

 この詩もそうだが、西洋詩のソネット形式を日本語に移植させた。知的で、ナイーブな青年だったのだろう。

        ☆ 

  冬とはいえ、明るい日差しに照らされた太平洋の、岬の灯台をめぐるドライブの旅は心楽しかった。 

 

 

 

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美空ひばり考 …… 「みだれ髪」

2012年09月01日 | 随想…文化

 

 美空ひばりという歌手が活躍していた少女時代から亡くなるまで、彼女のファンであったことはない。

 ただ、彼女の死後、テレビの歌謡番組の中で、現役の歌手によって美空ひばりの歌が「熱唱」されるのを聞くにつけ、歌唱力があるといわれる歌手をもってしても、彼女の豊かさに遥かに及ばない事実に気づき、ひばりという歌手の凄さをいささか感じるようになったことは確かである。やはり不世出の歌手だったのであろう。

 今でも美空ひばりを愛するファンは多く、そのような人たちは、彼女の歌唱力だけでなく、あの思わせぶりなしぐさ (一応、「色気」というのかな?) や、ボーイッシュな低音などの全てを好きでたまらないのであろう。しかし、彼女が生きて活躍していた時代、私のような人間には、そういうところが好きになれなかったゆえんである。耳に入ってくることはあっても、彼女の歌を自らの意志で聴こうと思ったことはない。

 そのような自分であるが、彼女の死後、繰り返し放映された追悼番組で、ふと耳にしたこの一曲だけには、思わず聞き入ってしまった。

 「みだれ髪」である。

 私の場合、この曲に関しては、歌詞は関係ない。

 ひばりは、七色の声と言われるが、それでも、彼女の魅力は低音部にあるとされてきたし、彼女もそのことを意識して歌っていることは明らかだ (例、「やわら」)。 

 ところが、「みだれ髪」 は、ほとんど高音の連続である。ひばりのお母さんは、「この歌はあなたの歌ではない」と言って、歌うことに反対したとも聞く。

 だが、美空ひばりの高音は、本当に美しい。

 高音の連続を、気張ることなくさらっと、しかも哀切に美しく歌いあげることのできる歌手は、他にいない。やはり凄い歌手である。

 

 

 

 

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