ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

藩風が町の気品として残る城下町・杵築(キツキ)…秋の国東半島石仏の旅10

2015年02月12日 | 国内旅行…国東半島の旅

  (「きものが似合う歴史的町並み」第1号認定 )

3万2千石の城下町 >

 大分空港は国東半島の東部にあり、伊予灘の海に臨む。杵築(キキツキ)市は、空港のすぐ南隣に位置する小さな城下町である。

 杵築城は、室町時代に、木付氏によって築城された。

 戦国時代、木付氏は大友家臣団の一角を成し、宗麟の時代に島津氏に府中まで攻め込まれたときにも、この城を死守したという。

 その後、秀吉の時代に、家は断絶した。

 江戸時代は、杵築松平藩3万2千石の城下町だった。

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文化は街並みに表現される >

 小さいが、気品のある城下町である。

 東西に延びる高台が、平行して町の北側と南側にあり、その2つの高台に武家屋敷が並ぶ。

 2つの高台に挟まれた谷間には、町家の街並みが続く。「谷町」である。

 高台の武家屋敷町と町家の谷町とを結ぶのは、坂。それぞれ趣を異にする20もの坂道があり、江戸時代の面影を残して風情がある。

 市は、「坂道の城下町」づくりに取り組んできた。

 例えば、武家屋敷街の一角に能見邸がある。かつて、能見家は藩主の一族で、名家であった。市は、総費用7千万円をかけてこの屋敷を大規模改修し、建築当時の姿がよみがえった。

 杵築を歩けば、江戸時代の城下町がいかに美しかったか、想像できる。その美しさは、西洋的な美の基準にはなく、しかし、西洋人も美しいと感動する美しさである。

 よく、日本は木の文化であるから、石の文化であるヨーロッパのようには、古い美しい街並みは残らないのだ、と言われる。だが、伊勢神宮も、出雲大社も、法隆寺も、古代の姿そのままで残っている。ヨーロッパに、古代の姿そのままに残っているものはない。アテネのアクロポリスの丘の神殿も、ローマのコロッセウムも、廃墟として残っているだけだ。発想を変えれば、木の文化も、長い歴史を歩むことができる。

 市民が誇りに思えるような美しい街並みを残すには、まず、わが町を美しくあらしめたいという市民の強い「意志」がなければならない。自利ばかり追求せず、公のためには多少の私的不便も我慢し、また、公のためには必要な税金も払うということ、つまり、市民が「市民」にならなければ、美しい街並みは残らない。このことは、「フランス・ゴチック大聖堂の旅 10」の「大聖堂はローマ文明の上に、自由は市民精神の上に」のなかで述べた。

 文化とは、そこに暮らす人々のライフスタイルであり、生活の中から生まれるものの見方、感じ方、価値観であるから、それはまず人々の暮らす街並みに表現される。 

 今の美しいパリの街も、何世紀か前には、古く、汚れた、不衛生極まる、石の廃墟のような街だった。

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武家社会の教養を感じさせるたたずまい >

 

    ( 静かな武家屋敷街 )

 武家屋敷街の中に、家老屋敷の「大原邸」がある。

 その説明の中に、以下の一節があった。

 「この建物は、江戸時代の文化や、武家社会の教養、人への気遣いといったものを感じたり、読み解くことができる空間である」。

 武家社会の教養や人への気遣いを感じさせる家々のたたずまい … それは、日本美の究極の姿かもしれない。

 藩校の門が、今、小学校の門になっているところがいい。

 江戸時代のすばらしさは、どの藩も藩校をつくり、競うように優れた学者を招き、或いは、自藩で養成して、藩士の子弟の教育に力を注いだことである。藩士ばかりでなく、藩によっては、杵築もそうだが、一般庶民にまで藩校の門戸を開いた。

 そういう藩風が今も残って、町の気品となっている。要所要所につめるボランティアガイドの控えめな説明の仕方にも、町の気品がにじみ出ているように思う。

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「坂道の城下町」づくりをめざして >

 「番所の坂」は、竹林や樹木の陰影が濃く、江戸時代そのままの風情がある。 城下の入り口にあり、坂の上に番屋があった。

        

  ( 陰影が美しい「番所の坂」 )

   この町の20もある坂のうち、「表玄関」級の坂は、「酢屋の坂」である。展望が開けていかにも明るい。坂の上から、石段を降りながら、谷を隔てた向かいの登り坂まで、綺麗に見える。坂の名は、坂の下に酢を商う商家があったことに由来するらしい。名の付け方も、なかなかよい。

 「谷町」の大通りには、大衆演劇の殿堂「きつき衆楽観」もあった。

    ( 「酢屋の坂」と商家の並び )

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着物が似合う歴史的町並み >

 貸衣装屋さんで着付けをしてもらって、和服で、時代劇のロケに使えそうな雰囲気の街並みを歩くことができる。和服を着ると、観光施設の入場料が無料になるそうだ。市は、和服で歩きたい町づくりを目指してきたが、「きものが似合う歴史的町並み」の第1号に認定された。                

     ( 着物の二人 )

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[ 旅の終わりに ]

 山腹や山裾に今も残る六郷満山の寺や社。磨崖仏や石仏たち。そこには、それらを守り続けてきた人々の営みがある。

 古代からクヌギ林とため池を組み合わせて田を作り、今や、世界農業遺産に認定された田園風景がある。案山子で物語の世界をつくる遊び心が楽しい。

 ひっそりと気品のある城下町もあった。けばけばしいものは何もない。

 小さな旅であった。だが、地域の歴史と文化を大切にしながら、それを観光にも生かし、産業にもし、一生懸命、村づくり、町づくりをしてきた人々の息づかいを感じる旅でもあった。

 このような取り組みの結果、この地方の町や村が生き残れるのかどうか、私にはわからない。長年に渡るデフレ経済、少子化・人口減、右肩下がりの日本の社会のなかで、その取り組みは、いかにも地味に見える。

 しかし、そこには、日本の心があり、地方の文化がある。時代の流れに流されてしまうことなく、町や村を支えて一生懸命努力してきた人々がいる。そうであるなら、その成功を祈らずにはいられない。そういう思いにさせられた旅であった。

 

  

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小さな城下町・臼杵 (ウスキ) …秋の国東半島石仏の旅 9

2015年02月03日 | 国内旅行…国東半島の旅

          ( 臼杵城址 )

偶然に立ち寄った飫肥(オビ)の町のこと >

 以前、ツアーに参加して南九州を旅したとき、昼食をとるために飫肥 (オビ)という小さな城下町に立ち寄った。名も知らず、読み方がわからなかった。

 だが、この小さな城下町は、そぞろ歩いていて心安らぐ、良い町だった。

 小高い丘に、鬱蒼と巨木が繁る城址があった。城址のそばの元藩校の跡は小学校となり、道を下って行くと、しんと静まりかえった武家屋敷の通りに出た。

     ( 飫肥城址の石段 )

 一軒の武家屋敷の門の前に昼食のメニューが出ていた。門を開け、玄関で声をかけると、奥まった座敷に通された。床の間のある部屋で、小さな庭を見ながら、昼メニューをいただいた。手ごろな値段にもかかわらず、見なれぬ郷土の素材を使った料理は美味しかった。世界からその存在を忘れられたような地方の小都市の心意気を感じた。

 それなりの年齢を重ねたら、「観光地」は次の世代の若者や外国人にまかせて、飫肥のようなクール・ジャパンを発見する旅も良いのではないかと思った。

 ちょっと立ち寄るのではなく、1泊或いは2泊する。

 観光は1時間で終わってしまうかもしれないが、武家屋敷の木立から聞こえる蝉の声を聞き、せせらぎの魚影を楽しみ、夕暮れには遠く寺の鐘の音を聞いて、私の時間を過ごす。

 飫肥を歩きながら、そういう旅もある、と考えた。

 でないと、日本の片隅で、こんなに風情のある町づくりに取り組んでいる人々の努力が報われない。

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臼杵と大友宗麟のこと >

 臼杵も、小さな城下町である。臼杵磨崖仏は、その城下町の郊外にある。

 国東半島の南の付け根あたりにある県庁大分市から、さらに南へ下った臼杵も、古代から中世にかけて、臼杵氏という宇佐神宮の一族が荘園として切り開いたらしい土地らしい。もちろん、当時はまだ田畑とムラであった。

 「町」としての臼杵の礎を築いたのは、戦国の雄・キリシタン大名としても有名な大友宗麟 (1530年~1587年) らしい。

 その昔、大友氏は、相模の国の大友の荘を支配していた源氏の家人だった。九州にやってきたのは、平家の基盤であった豊後と筑後の守護職を、源頼朝によって命じられたからである。源氏の家人で九州にやってきたのは島津氏も同様で、大友や島津は、家康などより、かなり由緒正しい。

 その21代目。開明的な戦国大名であった大友宗麟は、歴戦の強力な家臣団に助けられて (臼杵氏も家臣団だった)、九州における勢力を拡張し、京の足利将軍家にも取り入りながら、最盛期には豊後、筑後に加えて、豊前、肥前、肥後、筑前の6か国と、日向、伊予の半国を領有する勢いだった。

 しかし、その後、九州に勢力圏を拡大しようとする中国地方の雄・毛利氏との再三の戦いや、新興の龍造寺氏との戦いなどで疲弊し、1576年には家督を長男に譲って、自らは三方を海 (臼杵湾) に囲まれた天然の要害である丹生島に城を築き、一旦は引退する。この城が臼杵城である。

 このとき、宗麟を慕う府内 (大分市) の商人たちが臼杵に移住し、城と武家の屋敷しかなかった臼杵の町づくりをした。キリシタンが多かったという。聖堂や修練堂なども造られ、当時のキリスト教文化を代表する町になった。

 引退した宗麟は、1578年に正式に洗礼を受けキリシタンとなった。南蛮貿易は国を富ますために必要だが、自らキリシタンになるとは!! 家臣団の反発は大きく、さらに、島津氏との戦いで決定的な大敗を期し、以後、国人の反乱が相次いで、大友家は衰亡の一途をたどるようになる。

 1586年には、島津氏に首都・府内を攻略され、宗麟は臼杵城に立て籠もって、滅亡寸前を何とか耐え抜いた。翌年、救援を求めていた秀吉軍20万の軍勢が九州攻めにやってきて、救われる。

 九州を平定した秀吉から長男・義統に豊後1国が与えられた。さらに宗麟にも日向1国をという話があったという。だが、病床にあった宗麟はこれを断り、まもなく病死した。

 なお、この地方の社寺を巡っていると、パンフレットの社史、寺史に、大友宗麟によって攻撃され、寺だけでなく、仏像までが破壊された等の記述がある。

 絶対的な神であり、一神教であるキリスト教、イスラム教、ユダヤ教は、世俗化しない限り、結局は、このような所業に出る。

 織田信長は比叡山を焼打ちしたり、一向宗に対して情け容赦のない戦いをしたりしているが、彼は天台宗や一向宗を宗教的動機から、或いは反宗教的動機から攻撃していたわけではない。古い権威と巨大な経済力と武力をもつ中世的権力に対して、天下統一のための政治闘争をしたのであって、その点、一神教を奉じ宗教戦争に出た宗麟とは違う。

 のち、大友家は断絶し、関ヶ原の戦いのあと徳川の世となって、臼杵の町には美濃の稲葉氏が入封する。5万石の小藩である。以後、明治維新まで、臼杵城は稲葉氏の居城であった。

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臼杵散策 >

   ( 臼杵の静かな町 )

 この紀行の第1回に、元臼杵市長の言葉を紹介した。

 「静かな町づくりを始めたのに、観光客にたくさん来られたら困る」。(讀賣新聞11月9日・「名言巡礼」から)

 古いものを大切に残す。街並みも、町の文化も、そういう町にこそある人情も。

 臼杵の町を歩いていると、観光とともに、市民自らの文化活動や交流を大切にしていることが垣間見えた。

 お祭りだけでも、2月の「うすき雛めぐり」、7月の「うすき祇園祭」、8月の「うすき石仏火祭」、11月の「うすき竹宵」などがある。西欧でもそうだが、祭りはそれを担う市民共同体がなければ実行は難しい。

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 通称「稲葉家下屋敷」は、廃藩置県によって東京に移住した旧藩主・稲葉家の臼杵における別邸として、明治期に建てられた。城からまっすぐに下りてくる大通りにある。        

  

     ( 稲葉家下屋敷付近 )

 「久家の大蔵」は、造り酒屋・久家本店によって、江戸時代末期に建てられた酒蔵。現在は、南蛮貿易を行った宗麟に因み、ポルトガルのアズレージョが建物の外壁、内壁に描かれ、市民の文化活動を支えるギャラリーとして利用されている。

      ( 久家の大蔵のアズレージョ )

 また、「サーラ・デ・うすき交流センター」は、旧醤油工場や長屋風の建物を改良した一画。「サーラ」はポルトガル語のサロンのこと。南蛮文化の展示や伝統工芸の実習、市民のためのイベント会場や研修会場などとして使われている。

 

   ( サーラ・デ・うすき交流センター )

 野上弥生子文学記念館にも立ち寄った。

    ( 野上弥生子文学記念館 )

 作家の野上弥生子は、明治18年にこの家で生まれ、14歳で上京して明治女学院に入学するまで、ここで育った。父は酒造家である。明治女学院はミッションスクールで、当時珍しい女子のための中等教育学校であった。

 なお、野上弥生子が入学するより前のことだが、明治25年から26年にかけて、若き日の島崎藤村が、この明治女学院で英語教師を務めている。彼はまだ20歳~21歳の若さだった。入学してくる生徒は地方のお金持ちや、名家のお嬢さんたちで、年齢はばらばら。藤村より年上の女性もいた。藤村も当時クリスチャンで、授業は祈祷から始まったという。やがて生徒のうちの一人に、一人で恋をし(恋を恋し)、辞表を出す。男女が一個の人格と人格として互いを愛する「恋愛」という言葉が、北村透谷によって訳語となって紹介された、そういう時代のことである。

 辞職した藤村は、明治30年、26歳のときに処女詩集『若菜集』を刊行した。日本における浪漫主義文学の誕生である。

 野上弥生子は藤村先生に少し遅れて入学し、そういう空気を吸って成長していくことになる。

 

  

 

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