ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

エンリケ航海王子の苦悩と愛 … ユーラシア大陸の最西端ポルトガルへの旅11

2017年01月21日 | 西欧旅行……ポルトガル紀行

  ( サグレス岬の灯台 )

< サグレス要塞のある岬の尖端へ向かう >

 サン・ヴィセンテ岬発15時5分のバスで、レブプリカ広場に戻った。

 広場からサグレス岬へ向かう。岬にはサグレス要塞がある。そこは、エンリケ航海王子が世界初の航海学校を開設したところである。

 『深夜特急』の主人公は、日の暮れたレブプリカ広場にバスで到着し、この方向に行けばホテルがあると判断して、サグレス要塞への暗い道を歩いた。しかし、行けども行けども人家はなく、野良犬の群れに出会い、引き返した。

 『深夜特急』を読んでここまでやって来た若者たちは、昼、この道を歩いた。向こうに要塞の城壁が見えているのに、行けども行けども近づかない。遠く感じた、と多くの若者がブログに書いている。それでも、どんどん歩けば、20分くらいで城門に着くと。

 若者たちがどんどん歩いて20分なら、30分歩くことを覚悟すれば、まちがいなく行き着くだろうと、歩き始めた。

 若者たちのブログどおり、道は一本道になり、遠くに城壁と城門らしいものが見えてきた。

 暑い。なにしろ、ここの気候は、北アフリカだ。日本を出て5日目。旅の疲れが蓄積している。

 自家用車が横をゆっくりと走り抜けた。一本道だから、同じ目的地に行くヨーロッパの旅行者だろう。手を挙げたら、停まって乗せてくれるだろうか?? 

    (要塞へ向かう一本道)

 蜃気楼のように、走る人が現れた。道路を走らず、露岩と雑草ばかりの荒れ地を走って、体を鍛えようというストイックな人がいるのも、ヨーロッパである。

    (荒れ地を走る人)

     (サグレス要塞の城門)

 「岬がせまくなるままに進むと、やがてそのさきに、城門があった。海への門のように見える」  (『南蛮のみち』)。

 城門の上に、かなり風化しているが、ポルトガル国の紋章らしきものが見えた。

         ★

< サグレス要塞の見晴台に立つ >

 「 (城門を) くぐると、岬の尖端で、ポルトガル語でいうポンテである。突角」 (同)。

 くぐった城門の上は見晴台になっていて、ポルトガル国旗が翻っている。

 ポルトガル国旗の由来については、多少の異説もあるが、旗の緑は誠実と希望を、赤は新世界発見のため大海原に乗り出したポルトガル人の血を表す。中央の紋章は、天測機の中に、イスラム勢から奪い返した7つの城と、打ち破った敵の5つの盾が描かれている、とされる。

 まず、高い所から全体を展望してみようと、見晴台に上がった。 

      ( 見晴台 )

 良く晴れ、「突角 (ポンテ) も、板のようにひらたく」、360度の広大な景色が広がっていた。

 「大学のキャンパスほどの広さがあるだろう」 (同)と司馬遼太郎は書いているが、「大学」とは、この場合、各学部がそろった総合大学のことである。相当に広い。

 近くには、小さなチャペルがある。兵営のような建物もある。

     ( チャペル )

 地面につくられた直径43mの風向盤がある。 

           ( 風向盤 )

 やや遠く、海に近い所に、灯台が建つ。近く見えるが、多分、歩けば、城門が遠かったように、遠いに違いない。

     ( 灯台 )

 その向こうは、大西洋。

   西の方を遥かに望めば、入江をはさんで、先ほど行ったサン・ヴィセンテ岬が見える。先端に灯台がある。 

  ( サン・ヴィセント岬を望む )

 「… 台上にのぼりつめると、あやうく風に吹きとばされそうになった。その高所からあらためて岬の地形を見、天測の練習に仰いだであろう大きな空を見たとき、ここにはたしかに世界最初の航海学校があった、というゆるがぬ実感を得た。

  エンリケ航海王子関係の原史料がほとんど消滅しているために、サグレス岬に設けられた世界最初の航海学校というのも、じつは伝説にすぎない、という説があるのだが、おそらく論者はこのサグレス岬にきて、ここに立ったことがないのではないか。

 ここでは陸でありながら、甲板の上にいるように潮を知ることができる。目の前の海には、沿岸に沿ってゆるやかに流れる沿岸流がうごき、沖にはべつの潮流が流れている。さらに、ここにあっては風に活力がある。生きもののようにたえず変化しており、そのつど、風をどう使えばいいかを、帆を張ることなく体でさとることができる。ここには水もない。水ははるかに運んできて、節水して使わねばならない。そばに、練習用の船を繋船しておく入江もある。この突角 (ポンテ) は、自然地理的でなく、どこを見てもかつての人の営みがこびりついている。ここに航海学校がじつは無かったなどというのは、机上のさかしらのようにおもえてくるのである」 (『南蛮のみち』)。

         ★

< 岬の縁に沿ってサグレス要塞の構内を歩く >

   見晴台を降りて、ちょっとためらったが、やはり歩き始めた。城門までやってくるのにかなり歩き、また同じ道を帰らねばならないが、ここまで遥々と来た以上、灯台のその先の海ぎわまで自分の足で歩き、そこにどんな光景があるのかを確かめておきたかった。

 やはり、遠かった。

  露頭した岩角がゴツゴツし、見たこともない雑草がへばりつくように生えている。

            ( サグレス岬の灯台 )

   灯台までやって来ると、もう少し先に、大西洋に落ち込む断崖があった。

 城壁の一部が残り、錆びた大砲が海に臨んでいる。

 

           ( 大西洋 )

 打ち寄せる波の音を耳にしながら、さらに、断崖の縁をぐるっと、半円を描くように歩いた。

 賽の河原の石積みのように、或いは、山のケルンのように、一面に小石が積まれていた。どういう人たちが、どんな思いで、積んだのだろう。

 その向こうにサン・ヴィセンテ岬が見える。望遠で撮ると、灯台がくっきりと見え、なかなかの風情だ。

            ( 賽の河原の石積み )

     ( サン・ヴィセンテ岬の灯台を望む )

 岬の縁をぐるっと巡って、元の城門付近に戻ってきた。よく歩いた

         ★

< エンリケの悲哀 >

 小さなチャペルに入って、ベンチに座り、一休みする。

 エンリケ王子も、この小さなチャペルで、日に焼け、皺の刻まれた額を垂れて、一人、祈っただろうか?? ………

   国旗の赤の色や紋章からもわかるが、大航海時代は、ポルトガルの歴史において最も輝いた時代であり、その時代を切り開いたエンリケ航海王子は、ポルトガルの誇りであり、英雄なのだ。

 だが、人は生きている限り、喜びのときはほんの一瞬で、その生涯の多くは悪戦苦闘の連続だ。あのエンリケであろうと、それは同じである。取り返しのつかない失敗もするし、後悔に苛まれることもあったはずだ。しかも、悔いや悲哀は、齢を重ねるにつれて重くのしかかり、心に一層深く刻まれていく。

 1437年、エンリケ44歳のとき、彼は、周囲の反対を押し切って、軍を率い、北アフリカのイスラム勢が根城とする町タンジール (タンジェ) に遠征し、攻撃した。だが、戦いは完敗に終わり、大きな犠牲を払う。何よりも、弟フェルナンドが捕虜になった。

 エンリケは周囲から非難された。エンリケの戦闘指揮能力について、疑問が出された。

 途方もない身代金が要求されてきた。フェルナンド王子からは、交渉に応じるな。拒否せよと言ってくる。エンリケは ━━━ 応じなかった。弟フェルナンドは捕虜のまま6年後に死んだ。

 …… あのとき、自分の命を賭して行動していたら、フェルナンドを助けられたかもしれない。自分は臆病だった。…… 異教徒と取引したと非難されようと、どんなに犠牲を払っても、身代金を工面すべきだった。まだ若い弟を見殺しにしてしまった……。

 事実、エンリケは、生涯を通じてキリスト騎士団の団長だったが、この事件以後、2度と、自身が戦いの指揮を執ることはなかった。

 後悔は歳月によって風化されることはない。日中、人々を指揮し、忙しく立ち働いているときは忘れていても、夜になると、心の深い闇の底から浮かび上がってきて、彼を苦しめ、一人、眠られない夜を過ごすことになる。

 人は一人で耐え、祈るしかないこともある。

          ( チャペル )

         ★ 

< エンリケの愛 >

   エンリケ航海王子に愛人がいた、という伝説もある。

 例えば、NHK・BSに『一本の道』という番組がある。NHKのアナウンサーが、現地ガイドと二人で、「一本の古道」を何日もかけて歩く、という旅番組である。タレントを起用せず、若いアナウンサーが旅をするのが新鮮だった。そのシリーズの中に、サグレス岬を目指して歩く旅があった。

 途中、ガイドは、「寄り道したいところがある」と言って、道を迂回した。

 寒村に行き着いた。そのなかの1軒の石積みの小さな家の前で、ガイドは言った。「エンリケ航海王子は、この家の女性に逢うために、サグレスから馬で通っていたという話があるんだ。真偽は不明だけどね」。

 私は、テレビを見ながら、「それはないだろう」と思った。キリスト教騎士団の騎士は、神職と同じである。日常は法衣 (ロープ) を着ているが、一旦、異教徒との間に事起これば、甲冑に身を固めて出撃する。「(エンリケは、) 女性を近づけず、航海というただ一つの目的に熱中した」 と、司馬遼太郎も書いているではないか。

 だが …… 、と思った。どこかのお姫様との物語だけが愛ではない。

 エンリケが 「にぎやかな宮廷を去り、風と波の音しかきこえないこのサグレス岬にきて家を建て」(同) 、航海学校の開設に向けて始動したのは、まだ23歳のときであった。…… それから43年間。66歳で生涯を閉じるまで、一度も女性を愛したことがなかっただろうか??

 それが、先ほどの村の人かどうかはわからない。しかし、伝説は真実を含むものだ。

 人生のある時期、エンリケは、サグレス岬から馬で行けるどこかの村に通っていたかもしれない。それは自然なことではなかろうか。

 その人は、エンリケにとって、風の音や波の音と同じ次元のものだったろう……と思う。

         ★

< 「サグレス岬まできてみると… >

 

        ( サグレス村の白い雲 ) 

   夕方、晩飯を食べるために、ホテルから10分ほどのところにあるレストランへ向かった。

 夕暮れの空に、飛行機雲の残りかもしれないが、本当に久しぶりに白い雲を見た。

         ★

 司馬遼太郎の旅にはスタッフが同行している。その一人が、司馬の紀行文に挿絵を描くために同行している須田画伯である。

 司馬遼太郎の『南蛮のみち』は、以下のようなサグレス岬の印象的な場面で終わる。

 「 (須田画伯は、) 子どものように退屈してきたのか、うつむいてあちこち地面を移動して歩き、小石をひろいはじめた」。

 「ひろいつづけてポケットがいっぱいになったころ、こんどはもとの地面にもどすべく一つずつ落としはじめた。『ヨーロッパが減るといけないから』というのが、理由だった」。

 「画伯の実感は私にも伝わった。16世紀以来、私どもの文化を刺激しつづけてくれたヨーロッパは、それが尽きるサグレス岬まできてみると、もう地面はこれっぽちしかないのかというかぼそい思いがしてくる。」

 「私ども非ヨーロッパ人は、平衡をもった尊敬をこめて、この大陸に興り、いま沸騰期を過ぎつつある文明を大切にあつかわねばならないが、画伯もその気分がつよいのであろう。ともかくも、画伯は小石を捨てた。私どもの旅は、小石がサグレス岬のせまい地面に落ちたときにおわった」。

         ★   

 明日は、リスボンをさらに北へ、地方の小さな町トマールまで、鉄道の旅をする。

 

 

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サン・ヴィセンテ岬に立つ…ユーラシア大陸の最西端ポルトガルへの旅10

2017年01月15日 | 西欧旅行……ポルトガル紀行

   (サン・ヴィセンテ岬) 

沢木耕太郎 『深夜特急 6』 から

 「ふと、私はここに来るために長い旅を続けてきたのではないだろうか、と思った。いくつもの偶然が私をここに連れてきてくれた。その偶然を神などという言葉で置き換える必要はない。それは、風であり、水であり、光であり、そう、バスなのだ。私は乗合バスに揺られてここまで来た。乗合バスがここまで連れてきてくれたのだ……。

 私はそのゴツゴツした岩の上に寝そべり、いつまでも崖に打ち寄せる大西洋の波の音を聞いていた」。

─── 主人公は、「神などという言葉で置き換える必要はない」と言う。「神」とは、キリスト教の神であり、イスラムの神であり、ユダヤの神であろう。そういうものによって説明することを彼はこばむ。そして、「それは、風であり、水であり、光であり」と言い、さらに即物的に、「そう、バスなのだ」と言う。

 日本を離れ、ユーラシア大陸を放浪して1年になるが、主人公の感性は、正真正銘の日本人である。そこが、いい。

    ★   ★   ★

9月30日 

 4泊したホテルを出て、今日は、今回の旅の第1の目的地であるサグレスへ向かう。

 司馬遼太郎の 『街道をゆく 南蛮のみち』 の前半はフランシスコ・ザビエルを追う旅であり、後半はエンリケ航海王子を追う旅である。

 私の旅も、司馬遼太郎とともに、エンリケ航海王子の足跡を求める旅に戻ることになる。

 ポルトガルの国土は、北から南へ、縦に長い長方形の形をしている。その底辺に当たる線の一番西に、サグレスという町(村)がある。大西洋が、ジブラルタル海峡へ向かって西から東へ湾曲する、その湾曲の、西のとっかかりである。そこに、サン・ヴィセンテ岬と、入江を一つ隔てて、サグレス岬がある。ユーラシア大陸の最西南端である。

 この旅のリスボンの初日、ロカ岬へ行った。ロカ岬は、サグレスの二つの岬よりも経度においてやや西にあり、ユーラシア大陸の最西端の岬とされるが、首都リスボンに近く、観光地である。

 一方、サグレスの岬は、首都から遠く、ポルトガルの辺境の地と言っていい。列車はラゴスという町までしか行かない。終着駅からは、乗合バスしかない (この旅では、たまたまネットで見つけたネットタクシーを予約した)。

 エンリケ航海王子は、このサグレスに住まいを置き、気象(天文)、造船、航海術、地図製作術などの専門家を集めて、「航海学校」を開いた。学校と言っても、研究機関の要素を強く持っていただろう。

 もっとも、そこには痕跡らしきものが残っているだけで、文献資料に乏しく、「エンリケ航海王子の航海学校」の存在に異議を唱える学者も多いそうだ。

 だが、こういう伝説は、実証主義に毒された疑い深い学者の意に反して、たいていの場合、「事実」である。私などは、信じて、楽観している。

        ★

< 沢木耕太郎の『深夜特急』とサグレス >

 それにしても、遥々と大陸の東の果てから訪ねていく旅人にとって、そこは辺境の地である。だから、行くにあたってはネットでいろいろ調べた。『地球の歩き方』の記述もごく小量なのだから、ネットの情報が頼りである。

 調べていると、意外にも、一人旅で、ここを訪ねている日本人が結構いることがわかった。その紀行がブログとして掲載されていて、参考になった。若い人たちだ。 (旅行当時の年齢だが)。

   なぜ、彼ら (なかには彼女もいる) は、たった一人で、サグレスを目指したのか その動機も、ブログに書かれている。彼らの冒険心をそそったのは、司馬遼太郎ではない。沢木耕太郎の『深夜特急』である。

 それで、『深夜特急』の最終巻を読んでみた。

 ナイーブで、賢く、思慮深い、バックパッカーの青年が、ユーラシア大陸を路線バスを乗り継ぎ、安宿に泊まり、一期一会の出会いをしながら、一人、旅をしていく。1年も旅をし続けて、もう終わりにしなければならないと思い始めるが、踏ん切りがつかない。

 そういうある夜、リスボンのバイロ・アルト地区を歩いていたとき、酔っ払いの、コワモテ風の、英語を話すおっちゃんにつかまり、レストラン、というより食堂のようなところで、ご馳走になる。イカのフライを食べていると、ビールも注文してくれた。以下、『深夜特急』からの引用である。

        ☆ 

 ラベルに「SAGRES」とある。

 「サ・グ・レ・ス」

 私がそれを読みながら口に出して発音すると、男は頷いて言った。

 「そう、サグレス」

 サグレスとはどんな意味なのか。私は単に話の継ぎ穂にというくらいの気持ちで訊ねた。

 「土地の名さ」

 「サグレスという土地?」

 「岬がある」

 「それはどこですか」

 私は興味を覚えて訊ねた。男はテーブルの周囲を見回した。書くものを探しているらしい。少年 (ウエイターの少年) に言いつけ、注文取りに使うザラ紙とボールペンを持ってこさせた。そこにイベリア半島の概略図を描くと、ボールペンの先で突いた。

 「ここさ」

 印がついたのは、ポルトガルの、というより、イベリア半島の西南の端の地点だった。

 「ここがサグレスだ」

 私はユーラシアの果てはリスボンだと思い込んでいた。しかし、ポルトガルには、当然のことながら、リスボンよりはるかに果ての土地があったのだ。男が描いてくれた地図によれば、サグレスはポルトガルの果てであり、イベリア半島の果てであり、だからユーラシア大陸の一方の果てだった。

 「サグレスというのはどんなところですか」

 「行ったことはないが、きっと何もないところさ」

 それはますます心惹かれる土地だ。ユーラシアの果ての、ビールと同じ名を持つ岬。サグレス。音の響きも悪くない。

        ☆

 こうして、主人公は、サグレスへ向かう。

 サグレスの旅でも危機はあったが、ペンションを経営する青年とその母親に助けられ、主人公はサグレス岬と、サン・ヴィセント岬に立つことができた。そして、……「これで終わりにしようかな」、と思うのである。

 『深夜特急』を読んだ若い読者たちは、自分もバックパーカーの旅に出ることを夢見て、旅に出た。「青年よ、荒野を目指せ」、である。だが、誰にも諸事情があるから、主人公のように1年も旅を続けることはなかなかできない。しかし、せめて、主人公が「これで終わりにしようかな」と思った、ユーラシア大陸の果てには、行ってみたいと思う。

 サグレスの2つの岬は、実は、こういう日本の若者の青春の岬でもあったのである。 

    ★   ★   ★

< 大西洋の港町ラゴスへ、鉄道の旅 >

 朝、7時。呼んでもらっていたタクシーに乗り、リスボン・オリエンテ駅へ。

  ( 人けのないリスボン・オリエンテ駅 )

 ポルトガルは鉄道網が発達しているとは言えないが、リスボンを中心にして、北部のポルトと、南部のファーロの間を特急が結んでいる。ポルトはポルトガル発祥の地であり、ファーロはイスラム勢力を大西洋に追い落として、レコンキスタを終了させた港町である。

 ファーロ行きの特急は10分遅れて、8時35分に出発した。

 「4月25日橋」を渡り、大都会リスボンが尽きると… 、あとは、畑らしい畑もなく、人家もなく、林の中を列車はひたすら走った。

 『南蛮のみち』のなかで、ポルトガル在住の川口実氏が、司馬遼太郎に説明している。「テージョ川から北は、ゆたかな農業地帯で、工業もさかんなんです。しかしテージョ川から南のこのあたりは、降雨量もすくなく、地味がわるいらしいですね。このように、人口も極端に過疎です」。

 ただ、ところどころに、コルクの林があった。

 樹皮を剥ぎ、ワインの栓にする。軽く、伸縮力があり、水はとおさない。ポルトガルの主要輸出品の一つである。

      (コルクの林)

 10時52分、TUNIS駅でファーロ行きの特急を降り、2両編成の鈍行に乗り換えた。あと1時間少々だ。

 人跡の感じられなかった景色に、TUNIS駅を出たあたりから畑や人家が現れた。集落の家々は、ヨーロッパというよりイスラム圏の影響が一層濃く、風土も含めて北アフリカという感じだった。貴族の大邸宅といった感じの家もある。リスボンより北が商人や小規模な農民の世界であるのに対し、南部地方は大土地所有者(貴族)の世界で、なかなか近代化しないと、何かで読んだことがある。

   12時10分、大西洋に臨む港町、ラゴスに着いた。ここで、鉄路は尽きる。

        ★

< サグレスのペンションへ >

 ポルトガルの最初の王朝・ブルゴーニュ王朝のとき、ポルトガルの南端・ファーロでイスラム勢を大西洋に追い落とし、レコンキスタは終了した。

 だが、そのあとも、ポルトガルの商船は、地中海を荒らしまわるイスラムの海賊に苦しめられた。造船においても、操船においても、風を読み羅針盤を操る技術においても、イスラム圏の方がまだ上だった。

 もっとも、地中海の海賊は、アフリカからやって来るイスラムのモーロ人だけではない。モーロ人に負けない航海技術を身につけたヨーロッパ側のジェノヴァの商船も、バイキングも、海賊行為を行った。この時代、海賊行為を行わなかったのは、ヴェネツィア商船だけである。ヴェネツィアは海軍をつくり、定期航路を巡回させ、護送船団方式で、自国の商船を守った。 

 ポルトガル周辺の海賊の根拠地の一つは、アフリカ大陸北岸のセウタであった。セウタは、ジブラルタル海峡をはさんで、ジブラルタルの対岸にある要塞都市である。ヨーロッパに最も近い。

 1414年、ポルトガルの2番目の王朝・アヴィス朝の創始者・ジョアン1世は、数万の軍勢を船に乗せ、このラゴスから船出して、セウタを攻略した。「騎士」はいわば陸軍将校であり、海には不慣れである。ラゴスは、ポルトガル軍が初めて地中海を渡って、アフリカに遠征したという、ポルトガル史に残る港町である。

 この戦いが、21歳のエンリケ王子の初陣であり、この初陣によって、彼は父王から、騎士の称号を与えられた。

        ★  

 ラゴス駅には、ネット・タクシーの運転手がちゃんと待ってくれていた。運転手は、マダムだった。

 普通のタクシーと違って、ネットで宣伝し、ネットで受け付ける。顧客は、インターナショナルだ。私のように、ユーラシア大陸の反対側からも、依頼が来る。顧客の側にとっては、料金体系が明示されているから、安心である。ラゴスから、サグレスのどこでも、〇〇ユーロである。予約制だから、ママさんドライバーにとって、家を空ける時間がはっきりしている。中・遠距離専用だから、1回の出動でそれなりの稼ぎもある。こうして女性の働く場はどんどん広がっていく。ヨーロッパの働き方改革の進展には、学ぶ必要がある。

 30分少々で、サグレス岬の根元に位置する、レプブリカ広場のホテルに到着した。

 家族経営の小さなホテルだが、受付の青年も、その母親らしい年配の女性も、『深夜特急』で主人公が助けてもらった、サグレスのペンションの若い主人とその母親のように、とても感じのいい人だった。

 チェック・インを済ませ、部屋に荷物をおいて、バス停のあるレプブリカ広場に出た。

 明日は、また、ラゴスから列車でリスボンまで引き返し、さらに乗り継いでトマールという町まで行かねばならない。明朝早く、先ほどのネットタクシーのマダムが迎えに来る。遥々とやってきたが、今から日暮れまでの数時間が、サグレス観光の時間である。      

        ★

< サン・ヴィセンテ岬に立つ >

 サン・ヴィセンテ岬へ行くバスは、ラゴスからやってくる。ただし、ほとんどのバスはレプブリカ広場で分かれ、サン・ヴィセンテ岬へ行くバスは、1日2本しかない。その1本が14時25分発である。これを逃すと、自分の足で、片道1時間かけて歩かなければならない。レンタサイクルでも、道が悪く、30分もかかるらしい。

 帰りも、そのバスに乗る。周囲に何もない所だが、サン・ヴィセンテ岬が始発駅だ。行先はラゴスである。そのバスの出発時間は15時5分。サン・ヴィセンテ岬での滞在時間は30分だけである。

 広場の樹木の隙間から海がのぞき、潮騒の音が聞こえた。日差しがきつく、暑い。ここはアフリカだ。

 レブプリカ広場には、海に向かって、エンリケ航海王子の像が建っていた。この旅で見た彼の彫像や絵の中で、一番年を取り、一番それらしい雰囲気があった。

( レブプリカ広場のエンリケ航海王子像)

 突然、日本語で話しかけられた。「バスはここで待っていればいいのでしょうか」。振り向くと、40歳くらい、痩身、一人旅の男である。

 しばらく話した。何と、フランスからスペインのサンチャゴ・デ・コンポステーラまでの巡礼路を歩きとおし、そこからバスを乗り継いでリスボンまで南下。リスボンを観光した後、さらにバスでここサグレスまでやって来たという。

 「時々、こういう旅をして、自分の角(カド)を削ぎ落さないと、生きられなくなりますから」。確かに、話をしていると、時に角がのぞく。だから、きっと、日本の社会のなかで息苦しくなって、思い切って一人旅に出るのだろう。

 それにしても、すごい旅だと、心の内で感心していたら、「そのお年で、よくこんなところまで旅をしようという気になりましたねえ、すごいです」と、ひどく感心されてしまった。

        ★

 歩くと1時間だが、バスなら10分。

 向こうに灯台がぽつんと建っている。バスの停まった野っばらは、すぐ先が断崖である。

 灯台以外、人間のにおいのするものは何もない。荒々しい大自然があるのみだ。

 バスを降りた何人かの人々は、自然に人間のにおいのする人工物・灯台の方へ歩き出す。

  ( サン・ヴィセンテ岬の灯台遠望 )

  ( サン・ヴィセンテ岬の灯台の入口 )

 灯台の構内に入ってみるが、ごく小さな土産店があるばかりで、他に何もない。

 伝説では、ここ、サン・ヴィセンテ岬に、エンリケ航海王子の居宅があったという。そうであるならと、司馬遼太郎は、この灯台の構内で井戸をさがしている。そして、「とても井戸を掘りぬけるような場所ではなさそうで、おそらく邸はこの後方のどこかにあったのにちがいない」と結論付けている (『南蛮のみち』)。

 灯台を出て、むき出しの断崖の方へ向かう。

 「イベリア半島を特徴づけるテーブル状の台地 (メセタ) がつづき、山はない。日本では、山が海に沈んだところが岬だが、ここではまな板のような大地が海に向かっている」 (『南蛮のみち』)。

 「どの断崖も、ビスケットを割ったような断面である」 (同)。

 今日もまた雲一つなく、大地はここに終わり、茫々とした海が、ここから始まる。

   

  断崖の上に、人がいた。夫は背を向けて帰ろうとしているが、奥さんはこわごわ断崖の縁に近づいて、90mの下を覗き、コンパクトカメラで写真を撮ろうとしている。

 夫が振り向いて、写真を撮る妻の様子をパチリ。

 断崖をのぞく奥さんを見ていると、こちらの足もすくんでくる。

  向こうに、サグレス岬が見えた。入江を一つ隔てている。

 エンリケは、あの岬に航海学校をつくった。

 彼は、毎日、そこから、南の海に遥かに思いを馳せた。人々の言うように、そこは、世界の果て、煮えたぎる海なのだろうか

 そんなバカな話はない。

   行ってみるしかない。行動あるのみ。そのために、一つ一つ順を追って、着実に準備していく。昨日よりも今日は、もう一歩遠くへ。

          ( サグレス岬遠望 )

         ★

< エンリケ航海王子のこと ── 司馬遼太郎 『南蛮のみち』 から >

 エンリケ航海王子のことを書く司馬遼太郎の文章は、感動的だ。ここに引用する。ぜひ、味わって読んでいただきたい。

〇 「ジョアン1世が、王位についたときはまだ若く、同盟国の英国の王族から王妃をめとった。彼女は同盟のきずなであっただけでなく、聡明であった。さらに女性にはめずらしく航海術や地理学に強烈な関心をもっていて、息子たちに影響した。

 この英国うまれの王妃は、ほとんどお伽話めくほどに賢い王子を3人生んだ。次男は彼女の地理学好きを伝承した。この次男はヨーロッパの各地を旅行し、マルコ・ポーロの『東方見聞録』をはじめてポルトガルにもたらした。おそらく14世紀に成立したラテン語写本であったろう。『東方見聞録』は、ポルトガルのひとびとに読まれた。なかでも、『黄金の島日本 (チパング)』のくだりが、関心をひいた。この章こそ、おおぜいの航海者を新世界に奔らせるもとになったということは、よく知られている」。

 「三男こそ、母親の航海好きを相続したエンリケであり、のち、ポルトガルが海へ出てゆくためのあらゆる準備をし、指揮をとる人物になる。ついでながら、やがて王になる長男は、法典や制度の準備がすきであった。ポルトガルの黄金時代は、この3兄弟によってひらかれた。むろんかれらに相続争いなどはなく、エンリケは王子のまま生涯を送った」。

〇  「大航海時代の前夜、ポルトガルの宮廷は一つの学院のようであった」

 「思慮ぶかいジョアン1世は、どちらかといえば舞台の暗がりにすわっている。イギリスから輿入れしてきた聡明で、弾むような知的好奇心に富んだ王妃フィリッパが、この空気のつくり手であった。彼女のよき遺伝をうけた3人の息子たちのうち、長男は法律の知識を、次男は地理の知識を、三男エンリケ航海王子は天文、航海、造船に関する知識を吸収し、集積した」。

〇 「かれの性格には、ラテン的な特質が見られない。むしろ母からうけた ── 物に凝るという ── イギリス人かたぎのほうがつよく、ついにはにぎやかな宮廷を去り、風と波の音しかきこえないこのサグレス岬にきて家を建てた。その住居そのものが航海に関する研究所であった。

 日常、法衣 (ロープ) を着、女性を近づけず、航海というただ一つの目的に熱中しながら、しかも組織的な頭脳をもち、それを順序よく実行した。英語よみでヘンリーとよばれるこの航海王子は、古くから英国人に好まれ、「かれは英国人なんだ」と、むりやりにいうむきもあるらしい。なにしろのちの英国海軍といえども、その祖を求めるとすればポルトガル人エンリケになる」。

 (この項つづく)

 

 

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リスボン散策 … ユーラシア大陸の最西端・ポルトガルへの旅 9

2017年01月08日 | 西欧旅行……ポルトガル紀行

 (サン・ジョルジェ城から見たリスボンの街)

9月29日 

 今日も底が抜けたような (こういう形容があるのかどうか??) 青空だ。

 ポルトガルは、夏は雨量が極めて少なく、冬は多い。それで、年間の月ごと降雨量と気温のグラフを見て、9月末~10月初めの時期を選んだ。連日、快晴である。ただ海が近いせいか、少々蒸し暑い。

 今日は、リスボン市内観光の日。まあ、いわば、自由時間の1日である。

 リベルダーデ通りは、リスボンの市街を北から南へ貫いて、パリのシャンゼリゼ通りのように、プラタナスが木陰をつくる大通りである。大通りそのものはレスタウラドーレス広場で終わるが、そこからさらに南へと、幾筋かの楽しいショッピング街が、テージョ河岸のコメルシオ広場まで続く。

 一昨日と昨日のツアーのあとに、この南北を貫く中心街を歩いて、コメルシオ広場に近いホテルまで帰った。

 今日は、この南北の線の東側にあるアルファマ地区を巡り、時間があれば西側のバイロ・アルト地区を歩く予定だ。

          ★

< アルファマ地区とリスボン大聖堂 > 

   リスボンは1755年に大地震があり、火事と大津波にも襲われて、街は壊滅した。現在の美しい街並みは、その後、ボンバル公爵という名宰相のもとで、復興・再建されたものである。

 だが、この大震災のとき、固い岩盤の上に造られていたアルファマ地区だけは、残った。

 だから、アルファマは、古いリスボンを今に残す街で、路地裏があり、洗濯物が干され …… ファドという哀感をたたえた歌が歌われるのも、この街である。

 そのアルファマ地区のとっかかりに、リスボン大聖堂 (カテドラル) はある。

   ヨーロッパのどこかの町を訪れ、そこが司教座の置かれる町であれば、大聖堂には必ず立ち寄る。そこが司教座のない小さな町であれば、小さな町の中心となる広場 ── 広場に面して市庁舎があり、教会と塔が建つ広場 ── の教会に寄ってみる。 

 大聖堂やその町の中心となる教会は、その町の「顔」であり、大切な歴史的文化遺産である。

 そこを訪ねるのは、キリスト教やキリスト教会に対する敬意ということではない。そこには、この町で生きた人々の数百年の思いや心の祈りがある。それらがあってこその歴史的文化遺産である。

 それにもう一つ。テレビの旅番組で、すっかり古ぼけて、もう美しいとは言えないリスボンの大聖堂と、その前を旧式のチンチン電車がゴトゴトと走る光景を見て以来、もしリスボンに行ったら、あれを写真に撮りたいと思うようになった。   

            ( 市電とリスボン大聖堂 )

 1147年、最初のポルトガル王朝を建てたアフォンソ・エンリケス(のちのアフォンソ1世)は、ポルトゥカーレ軍を率い、リスボンに寄港していた第2回十字軍の北ヨーロッパの騎士団の支援を得て、イスラム勢力からリスボンを奪回した。

 そもそもエンリケスの父も、フランスのブルゴーニュ地方からレコンキスタを支援するためにやって来た騎士であったが、スペイン、ポルトガルのレコンキスタが十字軍運動と表裏一体であったことがわかる。

 リスボン大聖堂の建設は、このときのリスボン奪回を記念して始められた。

 後期ロマネスク様式であり、ポルトガルはまだ貧しく、しかもイスラム勢力の反撃に対していつでも要塞として使えるように建てられたから、いかにも武骨である。そこが、興趣深い。

 西ファーサードの上部や、2つの塔の上のギザギザは銃眼である。

   (身廊、側廊)

 内部も極めて簡素で、中世的で、バラ窓のステンドグラスがわずかに彩りを添えていた。

    (ステンドグラス) 

       ★

< ユリウス・カエサル時代からの要塞 = サン・ジョルジェ城 >

 大聖堂前からサン・ジョルジェ城へは、歩くにはやや遠く、何よりも、丘へ向かって登り続けなければならないので、ミニバスに乗った。

 聖ジョルジェ(ジョージ)は、龍と闘った伝説上の騎士で、ヨーロッパを旅していると、あちこちの広場や建物に碑や像が建つ。西洋版スサノオというところか。「スサノオ城」である。

 BC6世紀に遡ることができるというが、本格的に城塞が築かれたのは、ユリウス・カエサルの時代である。以後、西ゴード王国、ムーア人(イスラム教徒)、ポルトガル王国と変遷した。

 ポルトガル王国の王宮があった時代もあるが、今はこれという建造物もなく、リスボンの町や、テージョ川、遠く大西洋の河口を見下ろす展望台となっている。

 「かたはらに 秋ぐさの花 かたるらく 滅びしものは なつかしきかな」(牧水)。

   ( 城壁 ) 

     ( ポルトガル国旗 )

    (城壁の上の兵士の通路)

        ( テージョ川を見下ろす大砲 )

 

          (今はリスボンの展望台)

     (要塞のようなリスボン大聖堂を見下ろす)

                            ★

< 城壁の外の教会 = サン・ヴィセンテ・デ・フォーラ教会 >

 サン・ジョルジェ城からぶらぶら歩いて、広場に出た。

 ポルタス・ド・ソル広場は、市電の走る丘にあって、眺望が良い。もっとも、丘の町リスボンは、眺望の良いところに事欠かない。

 広場のカフェテラスで、チンチン電車を見ながらコーヒータイムにした。

         ( 丘の上のカフェテラス )

 ここから、リスボン名物の市電に乗って、サン・ヴィセンテ・デ・フォーラ教会へ向かう。

 教会の前の広場には、ミニカーのような車が何台も駐車していた。ヨーロッパの古い町では、黒塗りの馬車が観光客を乗せる。ジェロニモス修道院のそばにも、馬車と女性の馭者が待機していた。だが、リスボンの旧市街は急坂が多く、道路も狭い。そこで、路地裏まで入るこの車が大はやりなのだ。ただし、1時間いくら、という制度のようで、料金は結構高い。

 (サン・ヴィセンテ・デ・フォーラ教会)

 サン・ヴィセンテ・デ・フォーラ教会は、やはりアフォンソ・エンリケスがリスボン奪回のときに命じて建てさせた教会だが、その後、建て替えられているから、大聖堂と比べると、ずっと瀟洒な趣がある。「デ・フォーラ」とは「外の」という意味。造られた当時は、リスボンを囲む城壁の外に位置していた。

 教会の横に続く建物はもと修道院。

 入口でチケットを買おうとしたら、「シニアの方ですか」「えっ!! はい、そうです」「では、シニア料金で」。ジュニア (学生) と同じ割引料金で入場できた。

 若いと思っても、一目でシニアに見えるということだ。

 それにしても、EU圏を旅行していると、鉄道もシニア料金で乗れたりして、税金を払っていない外国人旅行者がこんなサービスを受けていいのかと、思わず気がねしてしまう。

 修道院の中は白亜で、壁に青いアズレージョの絵が描かれている所もあり、気品があった。

  ( 修道院の白亜の壁 )

 しかし、この修道院のお目当ては …… またしても、屋上からの眺望。

 屋上に上がると、目の前にテージョ川が広がり、河口の方まで見渡せた。 

          ( 屋上からの展望 )

 眼下に巨大なクルーズ船が停泊している。その近代的な巨船のそばに、メルヘンチックな街並みが、小さく重なって見えていた。  

     ( クルーズ船と街並み )

        ★

< ケーブルカーに乗ってバイロ・アルト地区へ > 

 タクシーで大聖堂近くまで降り、和食レストランで、久しぶりに美味しい和食を食べた。リスボンには日本人経営の和食レストランがいくつかあり、砂漠の中のオアシスのようである。

 ウインド・ショッピングしながらアウグスタ通りを北上して、レスタウテドーレス広場からケーブルカーのグロリア線に乗り、丘の上の街、バイロ・アルト地区に出る。

 リスボンの庶民の足と言われるケーブルカーも、今や観光客でいっぱいで、わずかな乗車時間のために並んで待たねばならない。元気な若者は歩いて登る。しかし、リスボン名物のケーブルカーにぜひ乗りたいというのも、観光客の心だ。

 

         ( ケーブルカー )

 サン・ロケ教会は、イエズス会の教会だ。1584年、天正遣欧少年使節がこの教会に1か月間滞在した。

 外見はささやかに見えたが、中に入るとバロック様式で、これでもか と言わんばかりに、瑠璃やメノウやモザイクで飾り立てられている。これぞ、「ザ・イエズス会」である。

 少年たちは、ただただ、ここが「神の国」であるかのように感動しただろうが、政治好きで、陰謀好きのイエズス会という宗教団体を、太閤秀吉も、大震災からリスボンを再生させたボンバル公爵も嫌い、弾圧した。

 

       ( サン・ロケ教会 )

 この地区の東西に延びる中心街・ガレット通りには、南北に通じる坂道の筋が交差し、その先にテージョ川がのぞく。リスボンを代表する坂の風景である。

    (テージョ川がのぞく)

 カモンイス広場も、リスボンを代表する広場。日が暮れてきて、若者たちで街角が一段と賑わいだした。

               ( カモンイス広場 )

                            ★

< スリにスマホを盗られて警察署に行ったこと >

   1日、歩いて、疲れ切っていたのに、もう1回、市電でリスボンを1周しようと、観光客で満員のチンチン電車に乗った。そして、混んだ車内で押されているうちに、リュックザックからスマホをスリ盗られた。

 ホテルの近くの警察に行くと、「ここではダメ。この道をまっすぐ行って、突当りを左に2ブロック行った所にある警察署に行け」と言われた。

 それから、あちこちで道を尋ね、夜道を(繁華街だが)1時間も歩き回って、やっと目当ての警察署にたどり着いた。へとへとになった。しかも、そこは、あのレスタウラドーレス広場のインフォメーションの隣だった。そう言ってくれれば、地下鉄ですっと来たのに。

 ただ、道を尋ねた店の人も、タクシーの運転手も、学生も、みんなとてもやさしかった。

 その警察署には3か所のデスクがあって、事情聴取が行われていた。さらに待っている被害者 (どう見ても、連行されてきた加害者には見えない) が3人。で、4人目の椅子に腰かけた。みんな白人の、人の好さそうなマダムで、お互いに顔を見合わせて、「やられちゃったわ」「がっくり…」という感じだった。どうやら、ここは、盗難被害にあった外国人観光客のために、英語で事情を聴取し、盗難・遺失物証明書を発行してくれる警察の出張所のようだ。なるほど。

 「リュックからスマホを盗られた 若い人なら、電車の中でもいつもスマホを見ているから、スマホだけは盗られないんですがね(笑)」…… 確かに、日本も同じです

 「では、調書を読み上げます。── 日本の住所と名前を読み上げて ── 日本語って、分かりやすい言葉ですねえ。全然知らない私でも、すぐに読めますよ」。…… 確かに、日本語は、1字の子音に1字の母音。アルファベットを知っていれば、誰でも読める。それにしても、日本語を知らない外国人が、こんなに鮮やかに日本の住所を読み上げるとは、思ってもいなかった。

 結構、楽しい警察官だった

 お蔭で、旅行保険から、おカネはしっかり返ってきた。

 以前、パリで、1眼レフのカメラとレンズを盗られたときも (これは、スマホより遥かに高額だった)、おカネはしっかり返ってきた。旅行保険に入っていて良かった。でも、まず、盗られないように、もう少し気を付けましょう。…… ムリかな。

 

 

  謹賀新年。今年もよろしくお願いいたします。

 

 

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