ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

多賀の杜 … 琵琶湖周遊の旅(7/7)

2021年01月30日 | 国内旅行…琵琶湖周遊の旅

  (「お多賀さん」の門前町・絵馬通り)

 4日目の朝は、小雨模様だった。天気予報も今日は良くない。

 この旅の目的である琵琶湖一周はできた。寄れなかった所はいくつかあり、心残りはあるが、とにかく今日は午前中に多賀大社に参拝して、あとは一路、家路につく。

 多賀大社は、彦根の町から近かった。

 車を駐車場に置いて、少し離れた大社まで小雨の中を歩いた。

 進んで行くと素朴な門があり、「絵馬通り」の看板が掲げられている。その門の中へ入ると、絵に描いたような古い門前町の風景があった。

  (絵馬通り)

   ★   ★   ★

司馬遼太郎『街道をゆく24』から  

 「…… 『お多賀さん』とよばれている古社がある。あまり神社仏閣には関心をもたなかった秀吉でさえ、1万石寄進したといわれているゆゆしい社で、江戸期は、" 伊勢にゃ七度(ナナタビ)、熊野へ三度(ミタビ)、お多賀さまへは月まいり" などとうたわれた」。

 司馬さんの文章は力強くわかりやすい。だが、「ゆゆしい」は念のため古語辞典を引いてみた。「ゆゆし」 = 由由し、忌忌し。神聖でおそれおおい。恐れ多くつつしまれる。

 ウイキペディアによれば、イザナギ、イザナミの2神を祀リ、「お多賀さん」と親しまれてきた。神仏習合の時代には、多賀大明神。

 たが、もとは、この辺りの豪族であった犬上氏の祖神を祀った神社ではなかったかと書かれている。その方が、遥かな古代を感じさせて、ゆかしい。ちなみに多賀大社の住所は、滋賀県犬上郡多賀町多賀。犬上の名は今も残っている。

 犬上氏はその一族から、614年に遣隋使、630年に遣唐使として、2度も日本海を超えた犬上御田鍬(ミタスキ)を出している。

 琵琶湖の反対側の湖西には、最初の遣隋使として派遣された小野妹子の一族・小野氏がいる。

 近江国は、そういう国だった。継体天皇も湖西或いは越前に根を下ろした皇族だった。

      ★

   (そり橋と神門)

 神門の前にそり橋があり、その前を七五三の親子が歩いていた。

 そり橋は短い橋だが、反り方は並ではない。この親子も門前を素通りしているから、別の入口から入るのかもしれない。

 神門を入ると、拝殿。

        (拝 殿)

 こんもりした杜がいい。

 奥書院と、国の名勝になっている奥書院庭園があり、参拝の後、拝観した。

 (奥書院庭園)

 (庭園の紅葉)

 奥書院の展示の中に、かつてこの神社に縁のあった歴史上の人物や、近い過去の有名人の書が展示されていた。

 その中に、司馬遼太郎の絵馬があった。 

 (司馬遼太郎の奉納絵馬)

   文字も、絵も、ゆかしい。

 何よりも、文がいい。

  「淡海の水も青し/多賀の杜の木洩れ日の空も青し/道端の露草も青し 司馬遼太郎」

      ★

 「彦根IC」から高速道路に入った。途中、豪雨の時間があり、緊張を強いられた。

 3日間は、本当に良いお天気の秋晴れで、琵琶湖一周は楽しかった。

 心残りはある。

 水郷の近江八幡も、三井寺も、大津の宮跡も、日吉大社も、素通りした。北琵琶湖の菅浦はもう一度訪ねたい。

 若い頃、何度か比良山系に登ったことは書いた。いつも琵琶湖側から登り、琵琶湖側に降りた。登山用の地図を見ながら、反対側(西側)に降りたら花折峠というゆかしい名の峠があることに心惹かれていた。本数は少ないだろうが、京都へ帰るバスも通じている。バスで花折峠を南に下れば、比叡山の裏側を通って大原の里から京都へ。花折峠から北へ向かえば朽木峠がある。信長が、前面に朝倉軍、後ろに浅井軍を背負って、京へ向かって夜道を一目散に逃げ帰った。それがこの朽木越えの街道だ。

 そこへも行ってみたい。できたら、NHKのテレビドラマ「京都人の密かな愉しみ」の舞台になった花の頃がいい。

 そういう宿題というか、楽しみを残しながら、旅を終えた。

 自分への土産として、彦根の酒屋で「七本槍」という地酒を手に入れた。ふだん広島の「比婆美人」を飲むことが多いが、お正月はこれをいただこう。

      ★

 「歳月は人を深くする。旅もまた、人を深くする」(夢枕獏『シナン』から)

 

 次回から、中断していた「早春のイタリア紀行」に戻ります。(了)

 

 

 

 

 

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湖東 = 長命寺から彦根城… 琵琶湖周遊の旅(6/7)

2021年01月24日 | 国内旅行…琵琶湖周遊の旅

     (彦根城)

<近江国一の宮の建部大社>

 3日目は、湖東を走って、長命寺に寄り、彦根城まで。

 今朝も、きれいな秋の空だ。

 近江国の一の宮には敬意を表さねばならないと、石山の宿を出て、最初に建部(タケベ)大社へ向かった。

 地図を見ると瀬田橋のそばで、宿からも近い。ただ、県庁所在地の街の中だから、ナビを見ながら、用心して走った。

 ところが、目的地付近に来ているはずなのに、境内らしきものがない

 どうしたものかと住宅街の中をそろそろと運転していたら、バックミラーに、こちらを見る中年の女性の姿 … ??。車を停め窓を開けるとすぐ追いついて、「建部大社をお探し?? 皆さん、ナビを見て来られて、この辺りで迷われるんですよ」。「」。

 奥さんに教えられたとおりに走って、大通りに面する大社に着いた。親切な方がいて助かったが、ナビにもこんな間違いがあるんだ

   (建部大社神門)

  ウイークデイだが、境内には七五三の親子がちらほらいて、華やぎがあった。

 近江国の一の宮。ヤマトタケルを祀る。

 社伝では、ヤマトタケルの妃のフタジヒメがヤマトタケルをしのんで創建したとされる。

  (拝殿と本殿)

      ★

 参拝を終え、湖岸の「さざなみ街道」を北へ北へと走った

 湖北のような神秘的な静寂感はないが、道路マップには「快走・湖岸ロード」と書かれている。左手には湖がひらけ、湖岸の自然もみずみずしく、秋の午前の空気が爽やかだ。

 「矢橋の帰帆」には、以前、立ち寄ったことがある。近江八景の一つ。

 近江八景と言えば、意識しなかったが、昨夕、車を走らせながら、「瀬田の夕照」を見たような気がする。

 だが、石山に泊まりながら、「石山の秋月」は見に行かなかった。昨夜が月夜だったのかどうかわからないが、宿の主人に石山寺のライトアップを見に行くよう勧められた。しかし、風呂のあと晩酌をすれば、もう寺まで歩く気力はない。

  (のどかな湖東の風景)

 湖岸の所々に自然の公園が設けられ、デートの若い男女や親子で遊ぶ姿がある。

 草津市、守山市を通り、琵琶湖大橋にさしかかった。

 大橋のたもとの佐川美術館は鄙には惜しいほどの立派な美術館で、平山郁夫のシルクロードの絵を幾枚か見たことがある。もっともこういう美術館は、鄙にこそふさわしいのかもしれない。

       ★

<祈りと暮らしの水遺産>

 「近江の中でどこが一番美しいかと聞かれたら、私は長命寺のあたりと答えるであろう」と、白洲正子は『近江山河抄』の中で書いている。

 長命寺は、近江八幡の水郷のはずれ。琵琶湖に臨む山の上に建つ。

 「最近は干拓がすすんで、当時の趣はいく分失われたが、それでも水郷の気分は残っており、近江だけでなく、日本の中でもこんなにきめ細かい景色は珍しいと思う」(同)。

 だが、その10年後、司馬遼太郎は『街道をゆく24 近江散歩』で、「湖の側の道路わきには、錆びたトタンぶきの倉庫、物置のたぐいのものが点々とし、地面にビニールの切れっばしや朽ちた無用の柵、コンクリートの電柱といったものが立ちならんでいて、日本という国の汚れを象徴していた」。「近江の湖畔は、かつて代表的なほどに美しい田園だった。日本は重要なものを、あるいは失ってしまったのかもしれない」と、嘆いている。

 高度経済成長の時代からバブルの時代、かつては郭公の声が聞かれた高原の湖畔に土産物屋や喫茶店が並び、あろうことか大音量で演歌を流すようになった。温泉街の大旅館には観光バスが何台も停まって、社員旅行や農協のツアーが大宴会を開いた。日本人は土地への投機や株に走り、傲慢になり、脂ぎっていた。晩年の司馬さんが一番心配していたのは、土地への投機と高騰、その結果としての日本の風景の破壊である。「私権」も大切。だが、そこはもともと日本の「国土」。…… そういう思いを残して、司馬さんは逝った。

 司馬さんが逝って20数年。この間、日本の風景は少しは綺麗になり、品も良くなってきたと感じる。

 近江国もこうして旅をすると、もう白洲正子が書いているほどには美しくないが、司馬さんが書いた頃よりは品位をとり戻している。

 文化庁は平成27年から「日本遺産」の認定制度をスタートさせ、令和元年までに全国で83の日本遺産が認定された。

 その制度がスタートした年に、「琵琶湖とその水辺景観 ── 祈りと暮らしの水遺産 ──」も認定された。

 表題が良い。滋賀県が目指しているものが良くわかる。近江の文化・歴史・自然・景観を大切に守り、その姿を観光客に見てもらおうという姿勢が良い。

 最近、地球の気象変動の問題が、エコロジーからエコノミックに変質してきているようで心配である。エコロジーもヨーロッパ発だが、エコロジーに「終末観」を結合させ、急げ、急げと煽るのも、昔の教皇様と同じである。「悔い改めよ。終わりの日は近い!!」。

 まさかとは思うが、琵琶湖の周りに太陽光パネルを一面に張り巡らせたり、巨大な風力発電用風車を湖水に林立させたりすることがないよう、日本の神仏に祈りたい。

 太陽光パネルの土地利用効率は悪い。各自の家の屋根やビルの屋上を利用する分には問題ないが、それで生み出される電力量では、問題はほとんど解決しない。そもそも太陽光は、不安定。さらに、30年もすれば太陽光パネルも寿命がきて、廃品となる。

 自然環境を守りながら、より効率的で、安定的で、より強力な温室効果ガス対策をやっていく必要がある。

 白洲正子は「日本人の信仰は、自然を離れて成り立ちはしない」(『近江山河抄)と書いているが、信仰だけでなく、日本の文化そのものが日本の自然とともにあり、日本の自然の中で育まれてきた。第2の日本列島改造論や廃棄物の山はご免である。放棄田ならやがて山や森にかえる。

       ★

<西国31番札所の長命寺>

 さて、話はわが旅に戻る。

 近江の水郷めぐりは、のどかな春景色の時季にまたいつか。

 今回は長命寺という寺だけ訪ねる。

 「琵琶湖周航の歌」の6番。

 「西国十番長命寺/汚れの現世(ウツシヨ)遠く去りて/黄金(コガネ)の波にいざ漕がん/語れ我が友熱き心」。

 もともと西国巡礼者は、30番札所の竹生島宝厳寺から31番の長命寺へ、船で向かったそうだ。(琵琶湖周航の歌の「西国10番」はちょっと ??)。

 長命寺の位置は山の中腹で、標高240mのあたり。船で着いたら808段の長い階段を登る。808段ですぞ

 50代の白洲正子はここを登ったが、今の私はその頃の彼女よりずっと年上だから、歩いての参詣はしない。

 実は9合目付近までくねくねと曲がる自動車道があることを知って、計画に入れた。横着な参詣であるが、巡礼の旅ではないのでお許しを。

   (長命寺の手水舎)

 車を降りて、それでもそれなりに石段を上がった。

   「寺には参詣人が多かった。長命の名が示すとおり、ここは不老不死を祈願する寺だからであろう」(『西国巡礼』)。

 私は、不老不死は願わない。

  「寺伝によると、長命寺は、景行天皇の御代に、武内宿禰がここに来て、柳の古木に長寿を祈ったのがはじまりである」(『近江山河抄』)。

 景行天皇は第12代の天皇で、ヤマトタケルの父。

 武内宿禰は、景行、成務、仲哀(神功皇后)、応神、仁徳の5代に仕え、葛城氏や蘇我氏の祖となったといわれる伝説上の人物。長寿の人としても知られる。

      

  (本堂と三重塔)

 「その後、聖徳太子が諸国巡遊の途上この山に立ち寄り、…… 寺を造って十一面観音を祀り、武内宿禰に因んで『長命寺』と名づけた。

 歴代の天皇の信仰が厚く、近江の佐々木氏の庇護のもとに発展し、西国31番の札所として栄えた。景色がいいのと、名前がよかったことも繁栄をもたらす原因となったであろう」(『近江山河抄』)。

 全国どこへ旅しても弘法大師は活躍しておられ、ため池を作ったり、温泉を掘り当てたりしているが、聖徳太子もあちこちにお寺を建立されている …… ようだ

     (木蔭の磐座)

 「山内には大きな磐座がいくつもあり、…… 仏教以前からの霊地であったことを語っている」(同)。 

       ★

 近江八幡の先で愛知川を越えた。鎌倉時代から戦国時代にかけて、この川より南は佐々木六角氏が守護、ここより北は佐々木京極氏。

 佐々木京極家は、戦国時代、小豪族だった浅井氏に北近江を乗っ取られた。佐々木六角氏は、足利義昭を擁して上洛する織田信長、浅井長政軍に蹴散らされた。

 もっとも、佐々木京極家は、後に京極高次が、浅井長政とお市との間に生まれた浅井3姉妹の次女のはつと結婚。関が原の戦いの折には家康側に付き、近江大津の城で毛利の大軍を引き受けて関が原に行かせず、関ヶ原の戦いのあと、家康から感謝された。大名家として幕末まで続く。

       ★

<国宝の天守の彦根城>

 琵琶湖周遊の旅の最後の夜は、彦根の料亭旅館に泊まった。小さな宿だが、料亭というだけに庭が美しい。

 チェックインしたあと、早速彦根城へ。

 天守が国宝として残っているのは、世界遺産の姫路城、そして犬山城、松本城、松江城と彦根城の5城のみ。

   明治初期の廃城令で各地の城は破壊・売却された。今にして思えば惜しい話である。

 私は高校卒業まで池田藩のあった岡山市で育ったが、その頃でも町に城下町の気風と第6高等学校の余韻が残っていた。だが、烏城と呼ばれた天守はなかった。

   彦根城も売却・解体されるところだった。たまたま明治天皇の巡行があり、この城の典雅さに感じた天皇が保存を求められて残されたと伝えられている。

  (中堀と城壁)

 堀と城壁の景観は、ヨーロッパの城とは違う美しさがある。特に、日本の城は水をたたえたお堀が美しい。

 橋を渡り、城内へ入ると、制服の高校生たちが三々五々歩いていた。校門があり、彦根東高等学校とある。青春の一時期をお城の中の高校で過ごすことができるのは幸せだ。日々、知らず知らずのうちに、地域の歴史と文化・伝統を感じ取って成長することだろう。

 奈良県にも、郡山城趾に名門の郡山高校がある。

 「不来方(コズカタ)のお城の草に寝ころびて/空に吸はれし/十五のこころ」 (石川啄木)

   (天秤櫓)

   天秤櫓は時代劇に出てきそうな風景。カッコいい。

 徳川家康に、徳川四天王と称された武将たちがいた。

 そのうち、三河以来の家臣である酒井忠次は、家康より15、6歳も年上。想像するに、家康にとっては叔父さんみたいな存在で、相当に遠慮があったに違いない。

 本田忠勝、榊原康政は5歳の年下。ちょうど良い年齢差だが、関ヶ原の戦い(1600年)のときには、家康はすでに57歳だった。大阪夏の陣(1615年)で豊臣家を滅ぼした時には72歳。この時代に、こんなに長生きする主人について行くのはしんどいだろう。

 関ヶ原の戦いでいよいよ天下を取ろうという命運を決める時、18歳年下の井伊直政は働き盛りの年齢。使い勝手が良かったに違いない。井伊直政の軍団は赤ぞなえで、徳川軍の中央部からキリのように敵中に突っ込んだ。ここが崩れたら、徳川軍は負ける。

 18歳も年下だから、井伊直政は偉大な家康に心服し、無条件で従った。武将として勇猛果敢であっただけでなく、人の心を解する心根と賢さも備えていた。例えば捕らえられた敗将の石田三成に対しても礼をもって遇している。家康がまちがいをすると、人のいない所で注意し、意見したという。18歳も年下の部下の直言に、家康は素直に耳を傾けた。そのあたりが人間関係の機微である。年下でも、息子(秀忠)では、互いにこうはいかない。

 関ヶ原のあと、井伊直政は近江国の北東部を与えられ(15万石)、佐和山城に入った。その2年後、関ヶ原の戦いの傷がもとで死ぬ。

 彦根城は、井伊の2代目のときに築城された。

司馬遼太郎『街道をゆく24』から

 「直政は、彦根城を築くことなく死んだ。つぎの直継の代に築かれるのだが、築城は幕命によるものだった」。

 「家康は築城を公儀普請とし、江戸から普請奉行3人を派遣しただけでなく、伊賀、伊勢、尾張、美濃、飛騨、若狭、越前の7カ国12大名に手伝わせた」。

 3代目は2代目の異母兄弟だが、直政を思わせる有能な武将だった。大坂冬の陣、夏の陣で活躍し、家康の死後は三代将軍の家光の後見役も務め、譜代大名筆頭の35万石の大名となった。井伊家は以後、幕末までに何回か大老を出す。

  (天守へ向かう)

 城中の城壁に沿って、曲がりながら上がる石段の向こうに、ちらと天守が見える。この瞬間がいい。

  (時報鐘)

 時報鐘は「日本音風景百選」。傾いた秋の日差しの中、城下町をバックにちょっとした日本の風景だ。

 天守は、3層になっている。

  (天守)

 ここまで登ってきた以上は、天守に立たねばならない。

 彦根城は戦さのための城だから、天守の階段も、攻め上がってくる敵を上から突き落とせるように急勾配で、なんと62度だという。歳月がつるつるに磨いた階段を何とか這い上がった。 

  (天守から琵琶湖を望む)

  「矢の根は深く埋もれて/夏草繁き堀の跡/古城にひとり佇(タタズ)めば/比良も伊吹も夢のごと」。

 この5番の歌詞の石碑は彦根の港にあるらしい。だが、この歌の「古城」は、浅井長政の小谷城址か、信長の安土城址か、石田三成の佐和山城址がふさわしい。彦根城ではない。

 徳川幕府の西の備えとして建てられた彦根城は、250年の平和の世に、天守や櫓は倉庫として使われていたという。麒麟は来たのだ。

 城の北側には、玄宮楽々園という庭園がある。 

  (玄宮楽々園)

 ここからも天守を望んで、趣深い。

      ★

 「彦根城は、西国30余カ国に対して武威を誇る象徴というよりも、むしろ湖畔にあって雅びを感じされるやさしさを持っている」(『街道をゆく24』)。

 城下町の小さな宿は、わが旅の宿としてはちょっと高級な宿だった。「やす井」の「井」は、井伊からいただいたそうだ。

 

   

 

 

 

 

 

 

  

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湖西 = 白鬚神社 … 琵琶湖周遊の旅(5)

2021年01月16日 | 国内旅行…琵琶湖周遊の旅

 湖北の秋に、思わず車をとめて写真撮影した。    

  「京都は桜が盛りでも、まだその辺は早春で、枯れ枝の中にこぶしの花が咲いていたりする。紅葉の頃には、もう粉雪が降りはじめる。寂しいけれども暗くはなく、しっとりしていても、湿っぽくはない。陶器にたとえれば、李朝の白磁のような、そんな雰囲気が好きで私はしばしばおとずれる」(白洲正子『かくれ里』)。

   ★   ★   ★     

 少し大回りして、今、人気のメタセコイヤの並木道を走ってみた。

  (メタセコイヤの並木道)

 のどかな湖北の野の中に、2.4キロに渡って約500本のメタセコイヤが植えられている。黄一色にはまだ少し早い。

 (メタセコイヤの並木道のある野)

 それに、ちょっと観光の車が多すぎる。自分もその1台ではあるが。『冬のソナタ』のようにはいかぬようだ。

      ★

 マキノ町、今津町、新旭町、安曇川(アドガワ)町、高島町を走る。

 湖西は、比叡山とその北に続く比良山系の山並みが湖岸まで迫って、平野は少ない。だが、湖西でも北部のこの辺りは、比良山系が後ろに後退し、山と湖の間に平野が開けている。

司馬遼太郎『街道をゆく1』から

 「安曇(アド)は、ふつうアヅミとよむ。古代の種族名であることはよく知られている」「厚海、渥美、安積、熱海などさまざまに書くが、いずれも海人族らしく潮騒のさかんな磯に住みついている」。

 安曇氏については、当ブログの「国内旅行」の「玄界灘の旅10 海人・安曇氏の志賀海神社へ行く」及び「国内旅行」の「信州の旅4 北アルプスの山麓をゆく」を参照。

 高島は、古代、藤原仲麻呂が吉備真備の率いる朝廷軍と戦い壊滅した地であった。

 だが、それよりもさらに昔、この辺りは古墳が数多く造られ、中でも稲荷山古墳からは金色の飾りの付いた王冠、耳飾り、靴など多数が発掘された。日本海ルートで新羅と交流があったと言われる。墓の主である彦主人王は継体天皇の父で、母は越前の三国氏だ。

 ただし、この旅ではそれらも全てスルー。

 秋の日はつるべ落とし。暗くなる前に石山の宿に入りたい。

      ★ 

 再び比良の山並みが湖の間近に迫ったあたりで、道路沿いに白髭神社の看板を見つけた。ここだけは立ち寄る。近江国でも、最も古い神社と言われる。

   (白髭神社)

白洲正子『近江山河抄』から

 「この神社も、古墳の上に建っており、山の上まで古墳群がつづいている。祭神は猿田彦神ということだが、上の方には社殿が三つあって、その背後に、大きな石室が口を開けている」。

 ウイキペディアには、背後の山中に横穴式石室が残るほか、山頂には磐座と古墳群が残っている、とある。

 祭神とされる猿田彦は「古事記」「日本書紀」に登場する。高天原から降りてくるニニギノミコトを出迎え、道案内をする国つ神で、巨大な体躯をしていた。

   しかし、何でも「記紀」の神話の中に祭神を求めなくてもよいだろう。

 祭神は猿田彦とは別に、白鬚大明神とも、比良明神とも言われたりするようだ。要するに混沌としている。混沌としているところがいい。

 比良明神も白鬚明神も、この神社を舞台とする謡曲の「白鬚」も、共通するイメージは湖畔で釣り糸を垂れる白鬚の老人である。やや中国の神仙思想的だが、このイメージも悪くない。

 古代人の誰かが、この付近でそういう老人を見かけて、この地の神の化身と思ったのかもしれない。

 日本の神々の起源は「記紀」の成立や仏教伝来などより遥かに古く、弥生時代、縄文時代にまで遡ると言われる。

 各神社の掲げる「祭神」などにはあまりとらわれない方が良い。

 手を合わせて、「猿田彦の神さま」とか「菅原道真さま」とか「北畠顕家さま」ではなく、「この地の神さま」と呼びかけたら良いのだ。その一言の呼びかけで、千年、数千年の人々の思いと一つになれる。古来、人々はその地、その場に何か聖なるものを感じて注連縄を張り、社を作った。神さまの名前などは、所詮、後世の人間の作である。

 神社の門前の道路は、車が絶え間なく走る。信号も横断歩道もないから、疾走している。参詣者は、そこを何とか渡る。道路を渡ると、道路のすぐ下は湖岸で、湖水に赤い鳥居が立っている。 

  (白髭神社の鳥居)

 人々が、湖岸に坐って、しばらくこの鳥居に見とれている。水鳥が浮かび、また、鳥居にとまって羽を休ませている。

 厳島神社同様、昔は舟に乗って鳥居をくぐり、湖岸の斜面に取り付いて、山の斜面に建てられた白鬚の社に参詣したのではないか。或いは、舟から鳥居越しに比良山を拝んだのではないか。比良は、この地方の「神の山」とするにふさわしい。

 鳥居はまた、湖の反対側、湖東の島を背景にするように立てられている。

 沖の島である。琵琶湖でいちばん大きく、人の住む唯一の島。島のすぐ後ろは、水郷の近江八幡。岸辺に山があり、長命寺が建つ。明日、参拝するつもりだ。

      ★

 白鬚神社を出ると道路が混み始め、渋滞になり、またスムーズに流れ、時間がかかった。

 運転に集中し、先を急いだ。浮御堂も、最澄よりもずっと古い日吉大社も、ささなみの志賀の宮跡も、三井寺の晩鐘も、義仲寺も、今回はパス。また、今度。

 そして、夕闇の濃いなか、何とか石山の小さな宿にたどり着いた。

 

 

 

 

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湖北 = 賤ケ岳と菅浦 … 琵琶湖周遊の旅(4)

2021年01月09日 | 国内旅行…琵琶湖周遊の旅

     (賤ガ岳から伊吹山方面)

 みなさま、明けましておめでとうございます

 「不安→怒り→攻撃→不安」という脳のサイクルに入らないよう、いつまで続くかわかりませんが、笑顔で日々を乗り越えましょう

 本年も、どうかよろしくお願いいたします

   ★   ★   ★

<湖北を走る>

白洲正子『かくれ里』から

 「湖北とはいうまでもなく、琵琶湖の北を指すが、さてどこから先を『湖北』と呼ぶのか、はっきりしたことを私は知らない。

 が、西は比良山をはずれて安曇川を渡る頃から、東は長浜をすぎて竹生島が見えかくれするあたりから、琵琶湖の景色はたしかに変わって来る。

 空気が澄んで透明になり、伊吹山は南側から見るのとまったく違う山容を現し、湖上には魚をとるエリがあちらこちらに見えはじめる。刈りとられた田圃に榛の木の稲架(ハキ)が、点々と立っているのも北国めいた風景である」。

   長浜の街を出て、湖岸沿いの「さざなみ街道」を走る。

 お天気が良く、左手には静かに湖が広がり、水鳥が群れている。

 姉川の河口を渡る。ここを少し上流に行けば、すぐに鉄砲づくりで有名な国友。その先が姉川の古戦場。その北に浅井長政の小谷城趾。

 そういうものが指呼の間にあるが、今日は寄らない。

 まもなく尾上温泉の一軒宿。水鳥の観察小屋もある。

 やがて自動車道は湖岸からはなれ、高月町を経て賤ケ岳方面へ。昨日、宿の主人の話に出た十一面観音のある渡岸寺の木之本町もこのあたりだ。

白洲正子『西国巡礼』から

 「渡岸寺を出ると、東に小谷の城跡がそびえ、しばらく行くと、賤ケ岳も見えてくる。悲惨な歴史を秘めた地方だが、自然はそれを知らぬげに、いよいよ美しくなって行く」。

       ★

<湖北随一の眺め>

 この辺りの詳細な道路地図がなく、「賤ケ岳古戦場」の看板はあったがわかりにくく、少し道に迷う。途中、野をゆく人に道を尋ねて、何とかリフト乗り場に着いた。

 リフトは結構長く、戦国時代、ここを攻め上るにしろ、陣を敷くために登るとしても、大変である。

 リフトは9合目までで、その先は歩いて登った。だが、展望が開けて気持ちが良い。

 眼下に、琵琶湖北岸の深い入江。

  (賤ケ岳から望む琵琶湖北岸)

 おーっ これは、既視感がある。大河ドラマ「江 ─ 姫たちの戦国」のタイトルで使われた景色だ。

 琵琶湖の周囲は地形的に比較的のっぺりしているが、湖北の最深部は、奥深く切れ込む入江があり、また、岬が長く伸びて、静寂な湖面に山々の影を映している。

 さらに登ると、頂上近くの木蔭に「賤ケ岳合戦戦没者霊地」の石碑がある。

 そして、戦い疲れた武者の像。

 頂上(標高421m)付近からは、北に余呉湖を見下ろすことができた。

   (余呉湖)

 ボランティアガイドの方がいて、少し説明してもらった。

 余呉湖の北側の低い山並みのあたりが秀吉軍の最前線。そこから手前の山々には、余呉湖を囲むように秀吉軍が配置していた。

 柴田勝家勢は余呉湖の向こうの高い山並み一帯に陣を張った。

 柴田側の佐久間盛政軍が奇襲をかけようと遥々と秀吉軍の陣営深く侵入し、余呉湖の東側、この賤ケ岳から尾根続きの大岩山砦を攻撃した。奇襲は成功したかに見えたが、秀吉側はその動きを捕捉していた。佐久間盛政軍は逆に包囲攻撃を受け、敗走する。佐久間軍の敗走とともに柴田勢は一挙に総崩れになった。

   余呉湖周辺一帯が戦場となり、多くの戦死者があったという。

白洲正子『かくれ里』から

  「(賤ケ岳は)、古戦場が有名になりすぎて本来の使命が忘れられているが、元は湖北の、特に伊香の小江の鎮めの神であった。真下に紺碧の湖を見下ろし、南は琵琶湖のはるかかなたに、伊吹山まで望む景色は湖北随一の眺めである」。

 四方八方見晴らしがよく、観光客も少なく、しんと静まり返って美しい。古戦場という歴史の跡でもあるが、琵琶湖周遊の旅のハイライトはこの景色かもしれない。白洲正子が「湖北随一の眺めである」と書いているが、来てみてよくわかった。

 今日の行程は始まったばかりで、今夜の宿はこの北岸から琵琶湖の西岸をぐるっと走って、南東岸まで行かねばならない。先は遥かに遠いが、ここでしばらくのんびりした。    

       ★

<「かくれ里」>

 奥琵琶湖パークウェイは一方通行の山の中の道で、距離のわりには時間がかかった。

 大浦の交差点で分岐すると、人里からはなれていき、神秘的な湖畔の道となる。

 以下、白洲正子『かくれ里』からである。

 「この辺に来ると、人影もまれで、湖北の中の湖北といった感じがする。特に大浦の入江は、ひきこまれそうに静かである」。

  (湖北の湖面)

  「菅浦は、その大浦と塩津の中間にある港で、岬の突端を葛籠尾(ツヅラオ)崎という。…… 街道から遠くはずれる為、湖北の中でもまったく人の行かない秘境である」。

 「つい最近まで、外部の人とも付合わない極端に排他的な集落でもあったという」。

 「それには理由があった。菅浦の住人は、淳仁天皇に仕えた人々の子孫と信じており、その誇りと警戒心が、他人を寄せ付けなかったのである」。 

 …… 話は、遠いいにしえに遡る。

 764年、藤原の仲麻呂の乱があった。

 聖武天皇と皇后の藤原光明子の間に男子なく、二人の間に生まれた第一皇女・阿倍の皇女が帝を継いだ。孝謙女帝である。  

 聖武天皇亡き後。光明皇太后の下で皇太后の甥の藤原仲麻呂が頭角を現し、見る見るうちに出世し、人臣を極めるに到った。孝謙女帝は退位し、仲麻呂邸の居候のようであった大炊(オオイ)王(オオキミ)が帝位につく。淳仁天皇である。

 ところが、光明皇太后が亡くなると、孝謙上皇と太政大臣になっていた藤原仲麻呂の仲が決裂する。仲麻呂が実際にクーデターを企画・決行して、目障りな孝謙上皇を排除しようとしたのか、孝謙上皇側のフレームアップか、わからない。孝謙は先手を取り、「仲麻呂反乱」の宣言をして、直ちに三関を固めた。

    仲麻呂は近江国から越前へ脱れて再起を図ろうとするが、朝廷軍を率いた吉備真備に悉く先手を打たれた。湖南の瀬田橋を焼かれ、船で湖上を北上するが、嵐にあって湖北の入江に流れつく。そこからなお愛発(アラチ)の関を越えて越前へ向かおうとするが、朝廷の軍勢に待伏せされた。関を越えることかなわず、再び湖西の高島へ引返して決戦となったが、一族悉く殺された。

 乱平定後、仲麻呂が担いでいた淳仁天皇も捕らえられ、親王に降格されて淡路島の高島に幽居された(淡路廃帝)。

 一方、孝謙上皇は重祚(チョウソ = 退位した天皇が再び天皇の位につくこと)し、称徳天皇となる。ただ、女帝は一代限り。存続中に皇族の中から男子を選び、帝に立てる必要があった。だが、女帝は僧道鏡を帝位に立てようとした。これは和気清麻呂によって阻止され、女帝死後、臣下一致して道鏡を退けて、天智天皇の子孫である光仁天皇を帝位につけた。桓武天皇の父帝である。

 仲麻呂の乱の翌年、淳仁は淡路島からの脱出を試みるが捕らえられ、翌日、不明の死を遂げた。

 淳仁の父は舎人親王。天武天皇の皇子で、元正女帝や聖武天皇を補佐し、また、『日本書紀』編纂の総括者として歴史に名を残す。死後、太政大臣に叙せられている。 

 ところが、……  「菅浦の言い伝えでは、その淡路は、淡海のあやまりで、高島も、湖北の高島であるという。菅浦には、須賀神社という社があるが、…… 祭神は淳仁天皇で、社が建っている所がその御陵ということになっている」。

 (須賀神社鳥居)

  (須賀神社祭神の碑)

 小さな集落に4つの門があって、侵入者に備えたという。今も、2つの門が残る。

 古代から続くかくれ里であった。

 この里に、「つづらお」という一軒宿があった。琵琶湖周遊でいちばん泊まりたかった宿である。だが、老朽化のため、つい最近、宿は閉じられた。残念。心残りである。

 葛籠尾(ツヅラオ)展望台からの眺めはすばらしかった。

 近江国は奥が深いと、改めて感じた。

    (つづらお展望台から)

 

 

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