ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

多賀の杜 … 琵琶湖周遊の旅(7/7)

2021年01月30日 | 国内旅行…琵琶湖周遊の旅

  (「お多賀さん」の門前町・絵馬通り)

 4日目の朝は、小雨模様だった。天気予報も今日は良くない。

 この旅の目的である琵琶湖一周はできた。寄れなかった所はいくつかあり、心残りはあるが、とにかく今日は午前中に多賀大社に参拝して、あとは一路、家路につく。

 多賀大社は、彦根の町から近かった。

 車を駐車場に置いて、少し離れた大社まで小雨の中を歩いた。

 進んで行くと素朴な門があり、「絵馬通り」の看板が掲げられている。その門の中へ入ると、絵に描いたような古い門前町の風景があった。

  (絵馬通り)

   ★   ★   ★

司馬遼太郎『街道をゆく24』から  

 「…… 『お多賀さん』とよばれている古社がある。あまり神社仏閣には関心をもたなかった秀吉でさえ、1万石寄進したといわれているゆゆしい社で、江戸期は、" 伊勢にゃ七度(ナナタビ)、熊野へ三度(ミタビ)、お多賀さまへは月まいり" などとうたわれた」。

 司馬さんの文章は力強くわかりやすい。だが、「ゆゆしい」は念のため古語辞典を引いてみた。「ゆゆし」 = 由由し、忌忌し。神聖でおそれおおい。恐れ多くつつしまれる。

 ウイキペディアによれば、イザナギ、イザナミの2神を祀リ、「お多賀さん」と親しまれてきた。神仏習合の時代には、多賀大明神。

 たが、もとは、この辺りの豪族であった犬上氏の祖神を祀った神社ではなかったかと書かれている。その方が、遥かな古代を感じさせて、ゆかしい。ちなみに多賀大社の住所は、滋賀県犬上郡多賀町多賀。犬上の名は今も残っている。

 犬上氏はその一族から、614年に遣隋使、630年に遣唐使として、2度も日本海を超えた犬上御田鍬(ミタスキ)を出している。

 琵琶湖の反対側の湖西には、最初の遣隋使として派遣された小野妹子の一族・小野氏がいる。

 近江国は、そういう国だった。継体天皇も湖西或いは越前に根を下ろした皇族だった。

      ★

   (そり橋と神門)

 神門の前にそり橋があり、その前を七五三の親子が歩いていた。

 そり橋は短い橋だが、反り方は並ではない。この親子も門前を素通りしているから、別の入口から入るのかもしれない。

 神門を入ると、拝殿。

        (拝 殿)

 こんもりした杜がいい。

 奥書院と、国の名勝になっている奥書院庭園があり、参拝の後、拝観した。

 (奥書院庭園)

 (庭園の紅葉)

 奥書院の展示の中に、かつてこの神社に縁のあった歴史上の人物や、近い過去の有名人の書が展示されていた。

 その中に、司馬遼太郎の絵馬があった。 

 (司馬遼太郎の奉納絵馬)

   文字も、絵も、ゆかしい。

 何よりも、文がいい。

  「淡海の水も青し/多賀の杜の木洩れ日の空も青し/道端の露草も青し 司馬遼太郎」

      ★

 「彦根IC」から高速道路に入った。途中、豪雨の時間があり、緊張を強いられた。

 3日間は、本当に良いお天気の秋晴れで、琵琶湖一周は楽しかった。

 心残りはある。

 水郷の近江八幡も、三井寺も、大津の宮跡も、日吉大社も、素通りした。北琵琶湖の菅浦はもう一度訪ねたい。

 若い頃、何度か比良山系に登ったことは書いた。いつも琵琶湖側から登り、琵琶湖側に降りた。登山用の地図を見ながら、反対側(西側)に降りたら花折峠というゆかしい名の峠があることに心惹かれていた。本数は少ないだろうが、京都へ帰るバスも通じている。バスで花折峠を南に下れば、比叡山の裏側を通って大原の里から京都へ。花折峠から北へ向かえば朽木峠がある。信長が、前面に朝倉軍、後ろに浅井軍を背負って、京へ向かって夜道を一目散に逃げ帰った。それがこの朽木越えの街道だ。

 そこへも行ってみたい。できたら、NHKのテレビドラマ「京都人の密かな愉しみ」の舞台になった花の頃がいい。

 そういう宿題というか、楽しみを残しながら、旅を終えた。

 自分への土産として、彦根の酒屋で「七本槍」という地酒を手に入れた。ふだん広島の「比婆美人」を飲むことが多いが、お正月はこれをいただこう。

      ★

 「歳月は人を深くする。旅もまた、人を深くする」(夢枕獏『シナン』から)

 

 次回から、中断していた「早春のイタリア紀行」に戻ります。(了)

 

 

 

 

 

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湖東 = 長命寺から彦根城… 琵琶湖周遊の旅(6/7)

2021年01月24日 | 国内旅行…琵琶湖周遊の旅

     (彦根城)

<近江国一の宮の建部大社>

 3日目は、湖東を走って、長命寺に寄り、彦根城まで。

 今朝も、きれいな秋の空だ。

 近江国の一の宮には敬意を表さねばならないと、石山の宿を出て、最初に建部(タケベ)大社へ向かった。

 地図を見ると瀬田橋のそばで、宿からも近い。ただ、県庁所在地の街の中だから、ナビを見ながら、用心して走った。

 ところが、目的地付近に来ているはずなのに、境内らしきものがない

 どうしたものかと住宅街の中をそろそろと運転していたら、バックミラーに、こちらを見る中年の女性の姿 … ??。車を停め窓を開けるとすぐ追いついて、「建部大社をお探し?? 皆さん、ナビを見て来られて、この辺りで迷われるんですよ」。「」。

 奥さんに教えられたとおりに走って、大通りに面する大社に着いた。親切な方がいて助かったが、ナビにもこんな間違いがあるんだ

   (建部大社神門)

  ウイークデイだが、境内には七五三の親子がちらほらいて、華やぎがあった。

 近江国の一の宮。ヤマトタケルを祀る。

 社伝では、ヤマトタケルの妃のフタジヒメがヤマトタケルをしのんで創建したとされる。

  (拝殿と本殿)

      ★

 参拝を終え、湖岸の「さざなみ街道」を北へ北へと走った

 湖北のような神秘的な静寂感はないが、道路マップには「快走・湖岸ロード」と書かれている。左手には湖がひらけ、湖岸の自然もみずみずしく、秋の午前の空気が爽やかだ。

 「矢橋の帰帆」には、以前、立ち寄ったことがある。近江八景の一つ。

 近江八景と言えば、意識しなかったが、昨夕、車を走らせながら、「瀬田の夕照」を見たような気がする。

 だが、石山に泊まりながら、「石山の秋月」は見に行かなかった。昨夜が月夜だったのかどうかわからないが、宿の主人に石山寺のライトアップを見に行くよう勧められた。しかし、風呂のあと晩酌をすれば、もう寺まで歩く気力はない。

  (のどかな湖東の風景)

 湖岸の所々に自然の公園が設けられ、デートの若い男女や親子で遊ぶ姿がある。

 草津市、守山市を通り、琵琶湖大橋にさしかかった。

 大橋のたもとの佐川美術館は鄙には惜しいほどの立派な美術館で、平山郁夫のシルクロードの絵を幾枚か見たことがある。もっともこういう美術館は、鄙にこそふさわしいのかもしれない。

       ★

<祈りと暮らしの水遺産>

 「近江の中でどこが一番美しいかと聞かれたら、私は長命寺のあたりと答えるであろう」と、白洲正子は『近江山河抄』の中で書いている。

 長命寺は、近江八幡の水郷のはずれ。琵琶湖に臨む山の上に建つ。

 「最近は干拓がすすんで、当時の趣はいく分失われたが、それでも水郷の気分は残っており、近江だけでなく、日本の中でもこんなにきめ細かい景色は珍しいと思う」(同)。

 だが、その10年後、司馬遼太郎は『街道をゆく24 近江散歩』で、「湖の側の道路わきには、錆びたトタンぶきの倉庫、物置のたぐいのものが点々とし、地面にビニールの切れっばしや朽ちた無用の柵、コンクリートの電柱といったものが立ちならんでいて、日本という国の汚れを象徴していた」。「近江の湖畔は、かつて代表的なほどに美しい田園だった。日本は重要なものを、あるいは失ってしまったのかもしれない」と、嘆いている。

 高度経済成長の時代からバブルの時代、かつては郭公の声が聞かれた高原の湖畔に土産物屋や喫茶店が並び、あろうことか大音量で演歌を流すようになった。温泉街の大旅館には観光バスが何台も停まって、社員旅行や農協のツアーが大宴会を開いた。日本人は土地への投機や株に走り、傲慢になり、脂ぎっていた。晩年の司馬さんが一番心配していたのは、土地への投機と高騰、その結果としての日本の風景の破壊である。「私権」も大切。だが、そこはもともと日本の「国土」。…… そういう思いを残して、司馬さんは逝った。

 司馬さんが逝って20数年。この間、日本の風景は少しは綺麗になり、品も良くなってきたと感じる。

 近江国もこうして旅をすると、もう白洲正子が書いているほどには美しくないが、司馬さんが書いた頃よりは品位をとり戻している。

 文化庁は平成27年から「日本遺産」の認定制度をスタートさせ、令和元年までに全国で83の日本遺産が認定された。

 その制度がスタートした年に、「琵琶湖とその水辺景観 ── 祈りと暮らしの水遺産 ──」も認定された。

 表題が良い。滋賀県が目指しているものが良くわかる。近江の文化・歴史・自然・景観を大切に守り、その姿を観光客に見てもらおうという姿勢が良い。

 最近、地球の気象変動の問題が、エコロジーからエコノミックに変質してきているようで心配である。エコロジーもヨーロッパ発だが、エコロジーに「終末観」を結合させ、急げ、急げと煽るのも、昔の教皇様と同じである。「悔い改めよ。終わりの日は近い!!」。

 まさかとは思うが、琵琶湖の周りに太陽光パネルを一面に張り巡らせたり、巨大な風力発電用風車を湖水に林立させたりすることがないよう、日本の神仏に祈りたい。

 太陽光パネルの土地利用効率は悪い。各自の家の屋根やビルの屋上を利用する分には問題ないが、それで生み出される電力量では、問題はほとんど解決しない。そもそも太陽光は、不安定。さらに、30年もすれば太陽光パネルも寿命がきて、廃品となる。

 自然環境を守りながら、より効率的で、安定的で、より強力な温室効果ガス対策をやっていく必要がある。

 白洲正子は「日本人の信仰は、自然を離れて成り立ちはしない」(『近江山河抄)と書いているが、信仰だけでなく、日本の文化そのものが日本の自然とともにあり、日本の自然の中で育まれてきた。第2の日本列島改造論や廃棄物の山はご免である。放棄田ならやがて山や森にかえる。

       ★

<西国31番札所の長命寺>

 さて、話はわが旅に戻る。

 近江の水郷めぐりは、のどかな春景色の時季にまたいつか。

 今回は長命寺という寺だけ訪ねる。

 「琵琶湖周航の歌」の6番。

 「西国十番長命寺/汚れの現世(ウツシヨ)遠く去りて/黄金(コガネ)の波にいざ漕がん/語れ我が友熱き心」。

 もともと西国巡礼者は、30番札所の竹生島宝厳寺から31番の長命寺へ、船で向かったそうだ。(琵琶湖周航の歌の「西国10番」はちょっと ??)。

 長命寺の位置は山の中腹で、標高240mのあたり。船で着いたら808段の長い階段を登る。808段ですぞ

 50代の白洲正子はここを登ったが、今の私はその頃の彼女よりずっと年上だから、歩いての参詣はしない。

 実は9合目付近までくねくねと曲がる自動車道があることを知って、計画に入れた。横着な参詣であるが、巡礼の旅ではないのでお許しを。

   (長命寺の手水舎)

 車を降りて、それでもそれなりに石段を上がった。

   「寺には参詣人が多かった。長命の名が示すとおり、ここは不老不死を祈願する寺だからであろう」(『西国巡礼』)。

 私は、不老不死は願わない。

  「寺伝によると、長命寺は、景行天皇の御代に、武内宿禰がここに来て、柳の古木に長寿を祈ったのがはじまりである」(『近江山河抄』)。

 景行天皇は第12代の天皇で、ヤマトタケルの父。

 武内宿禰は、景行、成務、仲哀(神功皇后)、応神、仁徳の5代に仕え、葛城氏や蘇我氏の祖となったといわれる伝説上の人物。長寿の人としても知られる。

      

  (本堂と三重塔)

 「その後、聖徳太子が諸国巡遊の途上この山に立ち寄り、…… 寺を造って十一面観音を祀り、武内宿禰に因んで『長命寺』と名づけた。

 歴代の天皇の信仰が厚く、近江の佐々木氏の庇護のもとに発展し、西国31番の札所として栄えた。景色がいいのと、名前がよかったことも繁栄をもたらす原因となったであろう」(『近江山河抄』)。

 全国どこへ旅しても弘法大師は活躍しておられ、ため池を作ったり、温泉を掘り当てたりしているが、聖徳太子もあちこちにお寺を建立されている …… ようだ

     (木蔭の磐座)

 「山内には大きな磐座がいくつもあり、…… 仏教以前からの霊地であったことを語っている」(同)。 

       ★

 近江八幡の先で愛知川を越えた。鎌倉時代から戦国時代にかけて、この川より南は佐々木六角氏が守護、ここより北は佐々木京極氏。

 佐々木京極家は、戦国時代、小豪族だった浅井氏に北近江を乗っ取られた。佐々木六角氏は、足利義昭を擁して上洛する織田信長、浅井長政軍に蹴散らされた。

 もっとも、佐々木京極家は、後に京極高次が、浅井長政とお市との間に生まれた浅井3姉妹の次女のはつと結婚。関が原の戦いの折には家康側に付き、近江大津の城で毛利の大軍を引き受けて関が原に行かせず、関ヶ原の戦いのあと、家康から感謝された。大名家として幕末まで続く。

       ★

<国宝の天守の彦根城>

 琵琶湖周遊の旅の最後の夜は、彦根の料亭旅館に泊まった。小さな宿だが、料亭というだけに庭が美しい。

 チェックインしたあと、早速彦根城へ。

 天守が国宝として残っているのは、世界遺産の姫路城、そして犬山城、松本城、松江城と彦根城の5城のみ。

   明治初期の廃城令で各地の城は破壊・売却された。今にして思えば惜しい話である。

 私は高校卒業まで池田藩のあった岡山市で育ったが、その頃でも町に城下町の気風と第6高等学校の余韻が残っていた。だが、烏城と呼ばれた天守はなかった。

   彦根城も売却・解体されるところだった。たまたま明治天皇の巡行があり、この城の典雅さに感じた天皇が保存を求められて残されたと伝えられている。

  (中堀と城壁)

 堀と城壁の景観は、ヨーロッパの城とは違う美しさがある。特に、日本の城は水をたたえたお堀が美しい。

 橋を渡り、城内へ入ると、制服の高校生たちが三々五々歩いていた。校門があり、彦根東高等学校とある。青春の一時期をお城の中の高校で過ごすことができるのは幸せだ。日々、知らず知らずのうちに、地域の歴史と文化・伝統を感じ取って成長することだろう。

 奈良県にも、郡山城趾に名門の郡山高校がある。

 「不来方(コズカタ)のお城の草に寝ころびて/空に吸はれし/十五のこころ」 (石川啄木)

   (天秤櫓)

   天秤櫓は時代劇に出てきそうな風景。カッコいい。

 徳川家康に、徳川四天王と称された武将たちがいた。

 そのうち、三河以来の家臣である酒井忠次は、家康より15、6歳も年上。想像するに、家康にとっては叔父さんみたいな存在で、相当に遠慮があったに違いない。

 本田忠勝、榊原康政は5歳の年下。ちょうど良い年齢差だが、関ヶ原の戦い(1600年)のときには、家康はすでに57歳だった。大阪夏の陣(1615年)で豊臣家を滅ぼした時には72歳。この時代に、こんなに長生きする主人について行くのはしんどいだろう。

 関ヶ原の戦いでいよいよ天下を取ろうという命運を決める時、18歳年下の井伊直政は働き盛りの年齢。使い勝手が良かったに違いない。井伊直政の軍団は赤ぞなえで、徳川軍の中央部からキリのように敵中に突っ込んだ。ここが崩れたら、徳川軍は負ける。

 18歳も年下だから、井伊直政は偉大な家康に心服し、無条件で従った。武将として勇猛果敢であっただけでなく、人の心を解する心根と賢さも備えていた。例えば捕らえられた敗将の石田三成に対しても礼をもって遇している。家康がまちがいをすると、人のいない所で注意し、意見したという。18歳も年下の部下の直言に、家康は素直に耳を傾けた。そのあたりが人間関係の機微である。年下でも、息子(秀忠)では、互いにこうはいかない。

 関ヶ原のあと、井伊直政は近江国の北東部を与えられ(15万石)、佐和山城に入った。その2年後、関ヶ原の戦いの傷がもとで死ぬ。

 彦根城は、井伊の2代目のときに築城された。

司馬遼太郎『街道をゆく24』から

 「直政は、彦根城を築くことなく死んだ。つぎの直継の代に築かれるのだが、築城は幕命によるものだった」。

 「家康は築城を公儀普請とし、江戸から普請奉行3人を派遣しただけでなく、伊賀、伊勢、尾張、美濃、飛騨、若狭、越前の7カ国12大名に手伝わせた」。

 3代目は2代目の異母兄弟だが、直政を思わせる有能な武将だった。大坂冬の陣、夏の陣で活躍し、家康の死後は三代将軍の家光の後見役も務め、譜代大名筆頭の35万石の大名となった。井伊家は以後、幕末までに何回か大老を出す。

  (天守へ向かう)

 城中の城壁に沿って、曲がりながら上がる石段の向こうに、ちらと天守が見える。この瞬間がいい。

  (時報鐘)

 時報鐘は「日本音風景百選」。傾いた秋の日差しの中、城下町をバックにちょっとした日本の風景だ。

 天守は、3層になっている。

  (天守)

 ここまで登ってきた以上は、天守に立たねばならない。

 彦根城は戦さのための城だから、天守の階段も、攻め上がってくる敵を上から突き落とせるように急勾配で、なんと62度だという。歳月がつるつるに磨いた階段を何とか這い上がった。 

  (天守から琵琶湖を望む)

  「矢の根は深く埋もれて/夏草繁き堀の跡/古城にひとり佇(タタズ)めば/比良も伊吹も夢のごと」。

 この5番の歌詞の石碑は彦根の港にあるらしい。だが、この歌の「古城」は、浅井長政の小谷城址か、信長の安土城址か、石田三成の佐和山城址がふさわしい。彦根城ではない。

 徳川幕府の西の備えとして建てられた彦根城は、250年の平和の世に、天守や櫓は倉庫として使われていたという。麒麟は来たのだ。

 城の北側には、玄宮楽々園という庭園がある。 

  (玄宮楽々園)

 ここからも天守を望んで、趣深い。

      ★

 「彦根城は、西国30余カ国に対して武威を誇る象徴というよりも、むしろ湖畔にあって雅びを感じされるやさしさを持っている」(『街道をゆく24』)。

 城下町の小さな宿は、わが旅の宿としてはちょっと高級な宿だった。「やす井」の「井」は、井伊からいただいたそうだ。

 

   

 

 

 

 

 

 

  

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湖西 = 白鬚神社 … 琵琶湖周遊の旅(5)

2021年01月16日 | 国内旅行…琵琶湖周遊の旅

 湖北の秋に、思わず車をとめて写真撮影した。    

  「京都は桜が盛りでも、まだその辺は早春で、枯れ枝の中にこぶしの花が咲いていたりする。紅葉の頃には、もう粉雪が降りはじめる。寂しいけれども暗くはなく、しっとりしていても、湿っぽくはない。陶器にたとえれば、李朝の白磁のような、そんな雰囲気が好きで私はしばしばおとずれる」(白洲正子『かくれ里』)。

   ★   ★   ★     

 少し大回りして、今、人気のメタセコイヤの並木道を走ってみた。

  (メタセコイヤの並木道)

 のどかな湖北の野の中に、2.4キロに渡って約500本のメタセコイヤが植えられている。黄一色にはまだ少し早い。

 (メタセコイヤの並木道のある野)

 それに、ちょっと観光の車が多すぎる。自分もその1台ではあるが。『冬のソナタ』のようにはいかぬようだ。

      ★

 マキノ町、今津町、新旭町、安曇川(アドガワ)町、高島町を走る。

 湖西は、比叡山とその北に続く比良山系の山並みが湖岸まで迫って、平野は少ない。だが、湖西でも北部のこの辺りは、比良山系が後ろに後退し、山と湖の間に平野が開けている。

司馬遼太郎『街道をゆく1』から

 「安曇(アド)は、ふつうアヅミとよむ。古代の種族名であることはよく知られている」「厚海、渥美、安積、熱海などさまざまに書くが、いずれも海人族らしく潮騒のさかんな磯に住みついている」。

 安曇氏については、当ブログの「国内旅行」の「玄界灘の旅10 海人・安曇氏の志賀海神社へ行く」及び「国内旅行」の「信州の旅4 北アルプスの山麓をゆく」を参照。

 高島は、古代、藤原仲麻呂が吉備真備の率いる朝廷軍と戦い壊滅した地であった。

 だが、それよりもさらに昔、この辺りは古墳が数多く造られ、中でも稲荷山古墳からは金色の飾りの付いた王冠、耳飾り、靴など多数が発掘された。日本海ルートで新羅と交流があったと言われる。墓の主である彦主人王は継体天皇の父で、母は越前の三国氏だ。

 ただし、この旅ではそれらも全てスルー。

 秋の日はつるべ落とし。暗くなる前に石山の宿に入りたい。

      ★ 

 再び比良の山並みが湖の間近に迫ったあたりで、道路沿いに白髭神社の看板を見つけた。ここだけは立ち寄る。近江国でも、最も古い神社と言われる。

   (白髭神社)

白洲正子『近江山河抄』から

 「この神社も、古墳の上に建っており、山の上まで古墳群がつづいている。祭神は猿田彦神ということだが、上の方には社殿が三つあって、その背後に、大きな石室が口を開けている」。

 ウイキペディアには、背後の山中に横穴式石室が残るほか、山頂には磐座と古墳群が残っている、とある。

 祭神とされる猿田彦は「古事記」「日本書紀」に登場する。高天原から降りてくるニニギノミコトを出迎え、道案内をする国つ神で、巨大な体躯をしていた。

   しかし、何でも「記紀」の神話の中に祭神を求めなくてもよいだろう。

 祭神は猿田彦とは別に、白鬚大明神とも、比良明神とも言われたりするようだ。要するに混沌としている。混沌としているところがいい。

 比良明神も白鬚明神も、この神社を舞台とする謡曲の「白鬚」も、共通するイメージは湖畔で釣り糸を垂れる白鬚の老人である。やや中国の神仙思想的だが、このイメージも悪くない。

 古代人の誰かが、この付近でそういう老人を見かけて、この地の神の化身と思ったのかもしれない。

 日本の神々の起源は「記紀」の成立や仏教伝来などより遥かに古く、弥生時代、縄文時代にまで遡ると言われる。

 各神社の掲げる「祭神」などにはあまりとらわれない方が良い。

 手を合わせて、「猿田彦の神さま」とか「菅原道真さま」とか「北畠顕家さま」ではなく、「この地の神さま」と呼びかけたら良いのだ。その一言の呼びかけで、千年、数千年の人々の思いと一つになれる。古来、人々はその地、その場に何か聖なるものを感じて注連縄を張り、社を作った。神さまの名前などは、所詮、後世の人間の作である。

 神社の門前の道路は、車が絶え間なく走る。信号も横断歩道もないから、疾走している。参詣者は、そこを何とか渡る。道路を渡ると、道路のすぐ下は湖岸で、湖水に赤い鳥居が立っている。 

  (白髭神社の鳥居)

 人々が、湖岸に坐って、しばらくこの鳥居に見とれている。水鳥が浮かび、また、鳥居にとまって羽を休ませている。

 厳島神社同様、昔は舟に乗って鳥居をくぐり、湖岸の斜面に取り付いて、山の斜面に建てられた白鬚の社に参詣したのではないか。或いは、舟から鳥居越しに比良山を拝んだのではないか。比良は、この地方の「神の山」とするにふさわしい。

 鳥居はまた、湖の反対側、湖東の島を背景にするように立てられている。

 沖の島である。琵琶湖でいちばん大きく、人の住む唯一の島。島のすぐ後ろは、水郷の近江八幡。岸辺に山があり、長命寺が建つ。明日、参拝するつもりだ。

      ★

 白鬚神社を出ると道路が混み始め、渋滞になり、またスムーズに流れ、時間がかかった。

 運転に集中し、先を急いだ。浮御堂も、最澄よりもずっと古い日吉大社も、ささなみの志賀の宮跡も、三井寺の晩鐘も、義仲寺も、今回はパス。また、今度。

 そして、夕闇の濃いなか、何とか石山の小さな宿にたどり着いた。

 

 

 

 

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湖北 = 賤ケ岳と菅浦 … 琵琶湖周遊の旅(4)

2021年01月09日 | 国内旅行…琵琶湖周遊の旅

     (賤ガ岳から伊吹山方面)

 みなさま、明けましておめでとうございます

 「不安→怒り→攻撃→不安」という脳のサイクルに入らないよう、いつまで続くかわかりませんが、笑顔で日々を乗り越えましょう

 本年も、どうかよろしくお願いいたします

   ★   ★   ★

<湖北を走る>

白洲正子『かくれ里』から

 「湖北とはいうまでもなく、琵琶湖の北を指すが、さてどこから先を『湖北』と呼ぶのか、はっきりしたことを私は知らない。

 が、西は比良山をはずれて安曇川を渡る頃から、東は長浜をすぎて竹生島が見えかくれするあたりから、琵琶湖の景色はたしかに変わって来る。

 空気が澄んで透明になり、伊吹山は南側から見るのとまったく違う山容を現し、湖上には魚をとるエリがあちらこちらに見えはじめる。刈りとられた田圃に榛の木の稲架(ハキ)が、点々と立っているのも北国めいた風景である」。

   長浜の街を出て、湖岸沿いの「さざなみ街道」を走る。

 お天気が良く、左手には静かに湖が広がり、水鳥が群れている。

 姉川の河口を渡る。ここを少し上流に行けば、すぐに鉄砲づくりで有名な国友。その先が姉川の古戦場。その北に浅井長政の小谷城趾。

 そういうものが指呼の間にあるが、今日は寄らない。

 まもなく尾上温泉の一軒宿。水鳥の観察小屋もある。

 やがて自動車道は湖岸からはなれ、高月町を経て賤ケ岳方面へ。昨日、宿の主人の話に出た十一面観音のある渡岸寺の木之本町もこのあたりだ。

白洲正子『西国巡礼』から

 「渡岸寺を出ると、東に小谷の城跡がそびえ、しばらく行くと、賤ケ岳も見えてくる。悲惨な歴史を秘めた地方だが、自然はそれを知らぬげに、いよいよ美しくなって行く」。

       ★

<湖北随一の眺め>

 この辺りの詳細な道路地図がなく、「賤ケ岳古戦場」の看板はあったがわかりにくく、少し道に迷う。途中、野をゆく人に道を尋ねて、何とかリフト乗り場に着いた。

 リフトは結構長く、戦国時代、ここを攻め上るにしろ、陣を敷くために登るとしても、大変である。

 リフトは9合目までで、その先は歩いて登った。だが、展望が開けて気持ちが良い。

 眼下に、琵琶湖北岸の深い入江。

  (賤ケ岳から望む琵琶湖北岸)

 おーっ これは、既視感がある。大河ドラマ「江 ─ 姫たちの戦国」のタイトルで使われた景色だ。

 琵琶湖の周囲は地形的に比較的のっぺりしているが、湖北の最深部は、奥深く切れ込む入江があり、また、岬が長く伸びて、静寂な湖面に山々の影を映している。

 さらに登ると、頂上近くの木蔭に「賤ケ岳合戦戦没者霊地」の石碑がある。

 そして、戦い疲れた武者の像。

 頂上(標高421m)付近からは、北に余呉湖を見下ろすことができた。

   (余呉湖)

 ボランティアガイドの方がいて、少し説明してもらった。

 余呉湖の北側の低い山並みのあたりが秀吉軍の最前線。そこから手前の山々には、余呉湖を囲むように秀吉軍が配置していた。

 柴田勝家勢は余呉湖の向こうの高い山並み一帯に陣を張った。

 柴田側の佐久間盛政軍が奇襲をかけようと遥々と秀吉軍の陣営深く侵入し、余呉湖の東側、この賤ケ岳から尾根続きの大岩山砦を攻撃した。奇襲は成功したかに見えたが、秀吉側はその動きを捕捉していた。佐久間盛政軍は逆に包囲攻撃を受け、敗走する。佐久間軍の敗走とともに柴田勢は一挙に総崩れになった。

   余呉湖周辺一帯が戦場となり、多くの戦死者があったという。

白洲正子『かくれ里』から

  「(賤ケ岳は)、古戦場が有名になりすぎて本来の使命が忘れられているが、元は湖北の、特に伊香の小江の鎮めの神であった。真下に紺碧の湖を見下ろし、南は琵琶湖のはるかかなたに、伊吹山まで望む景色は湖北随一の眺めである」。

 四方八方見晴らしがよく、観光客も少なく、しんと静まり返って美しい。古戦場という歴史の跡でもあるが、琵琶湖周遊の旅のハイライトはこの景色かもしれない。白洲正子が「湖北随一の眺めである」と書いているが、来てみてよくわかった。

 今日の行程は始まったばかりで、今夜の宿はこの北岸から琵琶湖の西岸をぐるっと走って、南東岸まで行かねばならない。先は遥かに遠いが、ここでしばらくのんびりした。    

       ★

<「かくれ里」>

 奥琵琶湖パークウェイは一方通行の山の中の道で、距離のわりには時間がかかった。

 大浦の交差点で分岐すると、人里からはなれていき、神秘的な湖畔の道となる。

 以下、白洲正子『かくれ里』からである。

 「この辺に来ると、人影もまれで、湖北の中の湖北といった感じがする。特に大浦の入江は、ひきこまれそうに静かである」。

  (湖北の湖面)

  「菅浦は、その大浦と塩津の中間にある港で、岬の突端を葛籠尾(ツヅラオ)崎という。…… 街道から遠くはずれる為、湖北の中でもまったく人の行かない秘境である」。

 「つい最近まで、外部の人とも付合わない極端に排他的な集落でもあったという」。

 「それには理由があった。菅浦の住人は、淳仁天皇に仕えた人々の子孫と信じており、その誇りと警戒心が、他人を寄せ付けなかったのである」。 

 …… 話は、遠いいにしえに遡る。

 764年、藤原の仲麻呂の乱があった。

 聖武天皇と皇后の藤原光明子の間に男子なく、二人の間に生まれた第一皇女・阿倍の皇女が帝を継いだ。孝謙女帝である。  

 聖武天皇亡き後。光明皇太后の下で皇太后の甥の藤原仲麻呂が頭角を現し、見る見るうちに出世し、人臣を極めるに到った。孝謙女帝は退位し、仲麻呂邸の居候のようであった大炊(オオイ)王(オオキミ)が帝位につく。淳仁天皇である。

 ところが、光明皇太后が亡くなると、孝謙上皇と太政大臣になっていた藤原仲麻呂の仲が決裂する。仲麻呂が実際にクーデターを企画・決行して、目障りな孝謙上皇を排除しようとしたのか、孝謙上皇側のフレームアップか、わからない。孝謙は先手を取り、「仲麻呂反乱」の宣言をして、直ちに三関を固めた。

    仲麻呂は近江国から越前へ脱れて再起を図ろうとするが、朝廷軍を率いた吉備真備に悉く先手を打たれた。湖南の瀬田橋を焼かれ、船で湖上を北上するが、嵐にあって湖北の入江に流れつく。そこからなお愛発(アラチ)の関を越えて越前へ向かおうとするが、朝廷の軍勢に待伏せされた。関を越えることかなわず、再び湖西の高島へ引返して決戦となったが、一族悉く殺された。

 乱平定後、仲麻呂が担いでいた淳仁天皇も捕らえられ、親王に降格されて淡路島の高島に幽居された(淡路廃帝)。

 一方、孝謙上皇は重祚(チョウソ = 退位した天皇が再び天皇の位につくこと)し、称徳天皇となる。ただ、女帝は一代限り。存続中に皇族の中から男子を選び、帝に立てる必要があった。だが、女帝は僧道鏡を帝位に立てようとした。これは和気清麻呂によって阻止され、女帝死後、臣下一致して道鏡を退けて、天智天皇の子孫である光仁天皇を帝位につけた。桓武天皇の父帝である。

 仲麻呂の乱の翌年、淳仁は淡路島からの脱出を試みるが捕らえられ、翌日、不明の死を遂げた。

 淳仁の父は舎人親王。天武天皇の皇子で、元正女帝や聖武天皇を補佐し、また、『日本書紀』編纂の総括者として歴史に名を残す。死後、太政大臣に叙せられている。 

 ところが、……  「菅浦の言い伝えでは、その淡路は、淡海のあやまりで、高島も、湖北の高島であるという。菅浦には、須賀神社という社があるが、…… 祭神は淳仁天皇で、社が建っている所がその御陵ということになっている」。

 (須賀神社鳥居)

  (須賀神社祭神の碑)

 小さな集落に4つの門があって、侵入者に備えたという。今も、2つの門が残る。

 古代から続くかくれ里であった。

 この里に、「つづらお」という一軒宿があった。琵琶湖周遊でいちばん泊まりたかった宿である。だが、老朽化のため、つい最近、宿は閉じられた。残念。心残りである。

 葛籠尾(ツヅラオ)展望台からの眺めはすばらしかった。

 近江国は奥が深いと、改めて感じた。

    (つづらお展望台から)

 

 

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長浜の町のこと…琵琶湖周遊の旅(3)

2020年12月30日 | 国内旅行…琵琶湖周遊の旅

  (「三谷旅館」に泊まりました)

     ★   ★   ★

 「波のまにまに漂えば/赤い泊火(トマリビ)懐かしみ/行方定めぬ波枕/今日は今津か長浜か

 琵琶湖周遊の歌の一節だが、なんか演歌にもなりそう

 今夜は、その長浜に泊まる。

 宿にチェックインした後、街の中を少し歩いてみた。今はコロナで閑散としているが、ヨーロッパの旧市街のように良い感じで、ぶらぶら歩いていて楽しい。

 高度経済成長の時代、日本の中小都市はJRのどの町で降りても「銀座通り」と称する商店街があり、食堂、パチンコ店、飲み屋があって、その町らしい個性的な表情がなく、駅前の土産物屋の商品も商品名を替えただけで全国画一的だった。それも今はシャッター街だ。

 長浜は、ステンドグラスづくりを体験できる黒壁ガラス館があり、黒壁スクエアがある。曳山子ども歌舞伎の博物館もある。思わず入りたくなるようなオシャレなカフェやレストラン、さらに和菓子屋、洋菓子屋、お餅屋、地酒屋、履物屋、着物屋、布工房、蜂蜜屋、古書店、紙屋、そして旅館など、バラエティに富んだ店が軒を連ね、小さな流れや橋も景観として取り込んで、伝統と気品を感じさせる。

 全国から何万人もの人が集まる、曳山子ども歌舞伎や長浜盆梅展などのイベントもある。

 こういう町づくりは、国の補助ばかり期待する町と違って、町衆とでもいうべき人々が皆で知恵と力を合わせて取り組んだ結果であろう。

 遠い昔に遡れば、難攻不落の小谷城を落とした信長は、この戦いで功のあった羽柴秀吉に湖北12万石を与えた。

 初めて大名となった秀吉は、山城の小谷城を捨てた。そして、北国街道と、湖上交易の要衝の地として、湖岸に長浜という新しい城下町をつくった。長浜は、秀吉の7年間で基礎がつくられた町である。

 例えば街区は、戦国風の鍵型道ではなく、碁盤目状になっている。楽市楽座がしかれ、町衆の自治が重んじられ、進取の気風が培われた。秀吉が柴田勝家と雌雄を決した賤が岳の戦いには、長浜の若者たちが町を挙げて秀吉側に付いて戦った。

 曳山祭りの山車は、町内ごとにあって豪華絢爛、その上で子ども歌舞伎が演じられる。この山車も、秀吉が男子誕生の折に「内祝い」として長浜に贈った砂金を元手として造られた。

  (曳山子ども歌舞伎)

 石田三成も大谷吉継も北近江の人である。関が原は、近江の将兵が西軍の中心として戦った戦いだった。

 たが、徳川の時代になっても変わりはなかった。

 司馬遼太郎は『街道をゆく24』の中で、

 「三成の旧領を相続して佐和山城に入った(井伊)直政は、石田時代の法や慣習を尊重しただけでなく、戦国期に敗れて民間に落魄している佐々木氏(京極氏)や浅井氏の遺臣をよび、近江の国風について深く聴くところがあった。

 さらに家臣団に対し、『関が原合戦に関することを語るな』と、命じた。語れば、三成の悪口になり、三成をひそかに慕っているかもしれない民間の感情を傷つけることにもなる。関が原合戦の西軍の中核部隊は近江衆であった」。

 中世的権威というものは、全国の守護大名にしろ、京の貴族や京都・奈良の大寺にしろ、民にとっては遠い存在だった。彼らは民を上から目線でしか見なかった。民衆の暮らしを思う武家の頭領とか、施しをする大寺の僧侶というのは、現代の価値観で歴史を語る大河ドラマのフィクションに過ぎない。(奈良時代の行基も、鎌倉時代の親鸞も、正規の僧侶ではない)。

 領国を真剣に「経営」するようになったのは、戦国大名が登場してからである。秀吉も、石田三成も、井伊直政も、家康も、隣国に打ち勝つ大名になるには、まずはわが領国を豊かにし、経済力を養わねばならないことを知っていた。だから、時に領民の目の位置に降りてきて、領民の思いを慮ることができる。そういう人間でなければ成功はおぼつかない。

 「戦国時代」という言葉から、日本史を習う日本の生徒たちは、戦争ばかりの絶望的な時代と誤解するだろう。しかし、この時代は、日本の社会が中世的制約を壊し、大きく近世へ向かって前進した時代である。…… と、私は理解している。

       ★

 長浜の商店街には、いろんな案内があった。

 (街角の「うだつ」の説明看板)

   (うだつのある家)

 美味しそうな鯖寿司を作っている店があって、明日の昼飯用に買った。日持ちするように包んでくれた。

 翌日、琵琶湖の北岸で食べたが、久しぶりの絶品の鯖寿司だった。

 泊まった宿は町屋風で、部屋は狭かったが、夕食の料理も美味しく、申し訳ないぐらい安かった。お蔭さまで節約してしまった。

 (三谷旅館)

 宿の主人のお子はもう成人だが、小学生の頃、曳山子ども歌舞伎で活躍した。役者には小学生の男子しかなれない。アルバムや新聞の切り抜きを見せていただいたが、山車はもとより豪華絢爛。衣装は親もちだと思うが、こちらも本格的。ビデオを見ると、演技も相当に本格的。立ち姿そのものが、腰が据わって様になっていた。

 「明日はどちらの方へ?? 高月とか、木之本も良い所ですよ」。「確か十一面観音のお寺がありますね」「そうです。小説にも描かれています」「…… 井上靖でしたね。題は…??」。「『星と祭』」「あっ、そうでした」。

 若い日に読んだことがある。琵琶湖でボートが転覆して遺体も上がらなかった女子大生の父親が、湖北の十一面観音を巡る話だった。

 どうして琵琶湖でボートが転覆するのか、若い男女がなぜ岸まで泳ぎ着かなかったのか、読みながらそこが理解できなかったが、今日の竹生島行きの船の揺れは激しかった。まるで、時化の日の大海原の波だった。

 「昔、日帰りでしたが、路線バスと徒歩で渡岸寺の十一面観音など2、3を拝観して回ったことがあります。でも、今回は車で琵琶湖を一周しようと思っています。明日は、北岸をぐるっと回り、琵琶湖の西側を南下して石山まで走りたいと思っています」。

 旅から帰って、ネットを見ていたとき、長浜の有志たちが井上靖の『星と祭』の復刻をしたという記事を見つけ、なるほどと思った。あの宿のご主人も何がしかかかわっていたに違いないと思った。

   ★   ★   ★

 今年一年間、当ブログを読んでいただきありがとうございました。

  諸事情に幻となる春の旅 (読売俳壇から)

 本当に思いもしなかった大変な一年間でした。

 しかも、いつまで続くかわかりません。

 でも、笑顔で新しい年を迎えましょう。不安→怒り→攻撃ではなく、笑顔です。

 来年もよろしくお願いします

 

 

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神の住む島・竹生島へ … 琵琶湖周遊の旅(2)

2020年12月27日 | 国内旅行…琵琶湖周遊の旅

  (竹生島)

 「琵琶湖と称するようになったのは、それより (注: 「淡海」に「近江」の字を当てた頃より) 後のことで、竹生島に弁才天を祀ったために、琵琶を連想したのではなかろうか。そう思ってみれば、琵琶の形に似なくもないが、『さざなみ』という枕詞に、琵琶の音色を感じ、そこから弁才天が誕生したと考えた方が、古代人にはふさわしい。」(白洲正子『近江山河抄』)。

 「琵琶の形に似なくもない」と言っているのは、何が、「琵琶の形に似なくもない」というのだろう??

 琵琶湖のことだろうか?? それとも、竹生島??

 日本語はまことに難しい。

 それよりも、「『さざなみ』という枕詞に、琵琶の音色を感じ、そこから弁才天が誕生した」のではないかという筆者の発想は美しい。

 「さざなみ」は、古くは「ささなみで、古語辞典に、風のために立つこまやかな波のこと。そこから、①地名。近江の琵琶湖西南部沿岸地方の古名。②「さざなみの」で「大津」「志賀」「比良山」「なみ」「よる」などにかかる枕詞、とある。

   ★   ★   ★

 上の写真の竹生島の後ろに霞んで見えるのは、明日、車で行く琵琶湖の北岸、葛籠尾(ツヅラオ)崎のあたり。琵琶湖の周囲でも、最も静かなあたりだ。すぐ近くに菅浦という小さな港があり、竹生島との距離が最も近く、約2キロ。

 白洲正子の『かくれ里』から

 「遠くから眺めると、その形には古墳の手本になったようなものがあり、水に浮いている所も、二つの丘にわかれている所も、前方後円墳そのままである。神が住む島を聖地として、理想的な奥津城とみたのは、少しも不自然な考え方ではない」。

 「仏教が入って来て、そこに観音浄土を想像したのも、自然の成行きであったろう。逆に言えば、古墳時代の文化が根を降ろしていたから、仏教を無理なく吸収することができたので、竹生島の美しい姿自体が一つの歴史であり、神仏混淆の表徴であったといえる」。

  (竹生島港が見える)

 ウイキペディアによると、この島の周囲は約2㎞。標高197m。島全体が花崗岩の一枚岩で、切り立った岩壁で囲まれている。島周辺の湖底は深く、西側付近の最深部は104mある。

 港は、島の南側に1カ所だけ。港の近くに、寺、神社、数軒の土産物店がある。寺も神社も店舗の関係者も全て島外から通っており、夜間は無人の島となる。

 人が往来するのは島の南の港付近に限られ、他はカワウのコロニーになっているという。

      ★

 桟橋に降りると、いきなり立派な歌碑があった。

 「瑠璃(ルリ)の花園 珊瑚(サンゴ)の宮/古い伝えの竹生島/仏のみ手に抱かれて/眠れ乙女子やすらけく」。そもそもは旧制三高のボート部の歌。

 下船した人々らと桟橋から山の方へ歩き、入山料を払ってパンフレットをいただく。

 そこから急峻な石段が上へ延びていて、パンフレットには「祈りの石段」としるされている。「数多くの巡礼者や参拝者が、祈りを捧げながら165段の石段を上ったことから名付けられました」。

  

 (祈りの石段)

 「祈りの石段」より「165段の石段」の方がインパクトがある。「島全体が花崗岩の一枚岩で、切り立った岩壁で囲まれている」というのだから、致し方ない。

 石段の1段1段が高く、足腰にこたえる。若い学生たちはひょいひょいと上がって行くが、年配の人も多く、上りの人も降りてくる人も、1段、また1段だ。立ち止まると、急な石段の途中は高度恐怖症にとって、ちょっとこわい。

      ★

 上りつめた所に宝厳寺本堂があった。弁才天堂とも言われ、本尊は弁才天。

   (本堂)

 弁才天の「天」は、如来や菩薩より格下の仏で、風神・雷神や四天王、阿修羅など、仏教を守護する役割をもつ。もとは古代インドの神々だったが、仏教に取り入れられた。

 「悟り」とか「極楽」とは縁の遠い私は、「像」として、如来、菩薩よりもこちらの方が好き。

 弁才天はもと聖なる河の化身。水の女神。バチをもって演奏する音楽神の形をとることが多い。日本では七福神となり、また、本地垂迹では宗像三神の市杵嶋姫(イチキシマヒメ)と同一視される。宗像三神は古代海人族・宗像氏の海の女神。(当ブログ「国内旅行…玄界灘の旅」参照)

 水の女神、音楽の女神は、琵琶湖にふさわしい。

 江の島、宮島と並ぶ「三弁才天」のうち、竹生島の弁才天が最も古いそうだ。

       ★

 やや離れて三重塔があり、三重塔から石段を下ると、唐門に出た。

    (左上に三重塔、右下に唐門)

   唐門は桃山風の豪華な門。秀吉の大坂城の堀に架けられた極楽橋の一部だったが、豊臣秀頼がここに寄贈・移築した。大坂城は大坂夏の陣で焼けてしまい、今、唯一の大坂城の遺構となって国宝である。

 唐門を入ると観音堂。那智の青岸渡寺にはじまる西国33カ所の観音信仰霊場めぐりの、ここは第30番目の札所とか。

 観音堂から続く舟廊下は、秀吉の御座船の骨組みを利用した廊下と言われ、急斜面に掛けられているので、外から見ると舞台造りになっている。

  (舟廊下)

  (舞台造り)

       ★

 舟廊下を通過すると視界が開けて明るくなり、目の前に都久夫須麻神社がある。ツクブスマ神社。竹生島の信仰のもともとの神さまだ。

 この建物も、秀吉が帝を迎えるために伏見城内に造った御殿を寄進したもので、桃山文化を代表する国宝建築だそう。

  (都久夫須麻神社)

 白洲正子『近江山河抄』から。

 「竹生島はいつも女性にたとえられるのは、その姿が優しいだけでなく、母なる湖を象徴したからであろう。祀られているのも、ツクブスマという女神で、あきらかに北国の訛りがある」。

 「はじめは浅井(アザイ)比咩(ヒメ)を祀ったといい、その方が古いように思われる。現在その名は浅井郡として残っており、この地方の生え抜きの地主神であった」。

   「浅井比咩がツクブスマとなり、観世音と混淆して弁才天に変身したのが、竹生島の歴史であり、私たちの祖先が経て来た信仰のパターンでもある」。

 新しく入って来た仏教も、この列島の中で年月を経てゆっくりと融和していき、日本の文化として溶けていった。明か暗か、白か黒か、善か悪か、神か悪魔か、そういう二元論的な文明は、この国の風土になじまない。  

 竜神拝所があり、テラスから学生たちのグループがかわらけ投げをしていた。2枚のかわらけに名前と願い事を書いて投げる。

  (かわらけ投げの鳥居)

 うまく眼下の鳥居をくぐると、願いがかなうとか。しかし、かわらけは、なかなか思うように飛ばない。「おっ、野球部!」と言われたおとなしそうな学生が、見事に鳥居をくぐらせた。さすが

       ★

 これで一巡した。さっきの舞台造りの横を通って石段を降りて行き、桟橋へ向かう。

 (桟橋を見下ろす)

 桟橋で少し待っていると、帰りの船がやって来た。

 来るときほど風は強くなく、波もおだやかで、早くも傾いた秋の日ざしがやわらかく心地良かった。

 「竹生島へ渡り、お参りをすませたが、島というものは外から見るに限る。そういう印象を受けて帰って来た。観光地として俗化したこともあろう。が、それは島のロマンティシズムがもつ宿命的な弱味かもしれない。大崎の港に帰りついて、ふり返った時の竹生島は、ふたたび美しさをとり戻し、その女性的な姿に、女神を見た人々の、優しい心根が思いやられた」(白洲正子『西国巡礼』)。

 まあ、そういうことなのだが、それでも、一度は上陸してみたかった。ロマンティストだから、満足です

 白洲正子は、竹生島の弁才天を思いつつ、こんなことも書いている。

 「湖北には大音(オオト)という村があって、楽器の糸のために、原蚕糸を作っているが、静かな村の中で糸織りの音に耳を澄ましていると、琵琶の調べが聞こえてくるような気がする」(『近江山河抄』)。

 白洲正子がこれを書いたのは昭和40年代だから、もうそういう王朝の世界のような淋しげで趣のある産業はないだろうと思いつつ調べたら、今も1軒だけ健在だった。

 数軒あった同業者は新素材の製品に押され、何よりも後継者がいなくて廃業してしまった。今も残る1軒は、和楽器弦メーカー「丸三ハシモト」株式会社。住所は長浜市木之本町大音である。

 滋賀県のホームページには、「未来に響く伝統の音色 ─ 近江の楽器糸」として紹介されている。絹糸から350種以上の楽器糸を製造し、「長年培われた技と手仕事により紡ぎ出される高品質の弦は、深みのある余韻と妙なる音色を生み出し」て、国内のみならず中国の二胡や西洋音楽のヴァイオリンの弦など世界から注目を集めているそうだ。テレビでも紹介されたとか。もちろん、後継者も育っている

 先日も、ユネスコ文化遺産に8種類の匠の技が登録されたことが報道された。

 年を取ってくると、人生というものの見方も変わってくる。

 日本の子どもたちよ。都会の大学を目指すばかりが人生ではない。大企業に就職するとか、プロのサッカー選手を目指すとか、そういう人生が「勝者」の道だと思ったら、まちがいだ。ケーキ屋さんだとか、ペット医だとか、小奇麗な表面だけ見て、あこがれてはいけない。例えば、地方に長年継承されてきた希少の技がある。それを受け継ぐチャンスがあるなら、逃してはいけない。人生、苦労は多い。仕事も厳しいものだ。同じなら、苦労のし甲斐のある人生を選択しよう。

 

 

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近つ淡海(アワウミ)の国へ … 琵琶湖周遊の旅(1)

2020年12月20日 | 国内旅行…琵琶湖周遊の旅

    (白鬚神社の鳥居)

<はじめに>

  2010年の旅「早春のイタリア紀行」を連載中ですが、少し脱線して、2020年の旅のことを、忘れないうちに書いておきたいと思います。このブログを続けて読んでいただいている方々には、誠に勝手で申し訳ありません

 この秋、「琵琶湖周遊の旅」に出かけました。

 車の旅です。

 コロナ下ではありましたが、渺渺たる琵琶湖の広がりを思えば …… 観光客の人ごみさえうまく避ければ、コロナ・ウイルスはいないでしょう。

 少し心配したのは宿です。それで、旅行社の企画するツアーやグループ・団体客が泊まらないような、部屋数が10部屋もない、だが、評判の良い、小さな日本風旅館をネットで時間をかけて探しました。コロナ下の今、どこも部屋数の半分しか客を入れませんし、ましてウイーク・デイですから大丈夫でしょう。実際、宿泊した3軒ともわずか2組の客でした。コロナで廃業してほしくない良心的な宿に少しでもエールをおくれたらという、そういう思いも抱いての旅でした。

    ★   ★   ★

<近江の国と琵琶湖>

 近江を愛した作家・文学者は多い。白洲正子も、司馬遼太郎も、近江紀行を書いている。もっと昔に遡れば松尾芭蕉。

 司馬遼太郎の『街道をゆく24 近江散歩』から。

 「芭蕉には、近江でつくった句が多い。そのなかでも、句としてもっとも大きさを感じさせるのは、『猿蓑』にある一句である。

  行く春を近江の人とおしみける」

 「行く春は近江の人と惜しまねば、句のむこうの景観のひろやかさや晩春の駘蕩(タイトウ)たる気分があらわれ出て来ない。湖水がしきりに蒸発して春霞がたち、湖東の野は菜の花などに彩られつつはるかにひろがり、三方の山脈(ヤマナミ)はすべて遠霞みにけむって視野をさまたげることがない。芭蕉においては、春と近江の人情とがあう。こまやかで物やわらかく、春の気が凝って人に化(ナ)ったようでさえある。この句を味わうには『近江』を他の国名に変えてみればわかる。句として成りたたなくなるのである」。

 春の近江の印象を一言で言い表せば、やはり「駘蕩」という語が的確なのでしょう。

 それにしても、近江の人の気風を「春の気が凝って人に化(ナ)ったよう」ととらえる司馬遼太郎の表現力に敬服です。

 ただし、わが旅は秋、10月。秋の琵琶湖もなかなかのものでした。

 次に、近江の地理と歴史をひょいっと一筆でとらえた白洲正子の文章(『近江山河抄』)。

 「近江は約6分の1が湖水で占められ、古くは『淡海(アワウミ)の国』といった。遠江の浜名湖を『遠つ淡海』と呼んだのに対して、都に近い琵琶湖は『近つ淡海』といい、近江の字を当てたのは、元明天皇の頃と聞く」。

 元明天皇(女帝)は在位707年~715年。藤原に宮があった時代で、和同開珎が世に出た時の帝である。

 それにしても、印象として、近江の国は琵琶湖が3分の1以上も占めているような気がしていたが、地面が6分の5もあったのだ!!

      ★

<「琵琶湖周遊の旅」のこと>

 さて、私の旅。車で高速道路を走り、長浜で一般道に入って、長浜港へ。

 琵琶湖汽船の乗り場で、竹生島行き12時50分発の往復チケットを買う。帰りは竹生島港発14時40分。

 長浜と竹生島の往復ではなく、竹生島からさらに対岸の今津に渡る便もある。そうしたいところだが、車を置いて行くわけにはいかない。

 出航時間まで間があった。

 付近にレストランはない。船乗り場でコンビニの場所を教えてもらい、昼食のおにぎりを買いに行く。歩くには少々遠かった。聞いた相手が元気そうな若い女性だったから致し方ない。

 湖水を見ながらおにぎりを食べた。

 向かいの突堤には魚釣りを楽しむ人たちがいた。

  (長浜港の突堤)

 長年、大阪で働き、奈良に住んだから、琵琶湖周辺にも何度か来た。

 最初は東京の学生だった頃。クラスの仲間と2週間かけて飛鳥、奈良、京都を回り、そのとき比叡山延暦寺にも足を延ばした。

 大阪に職を得て、友に誘われ山登りを始めた。湖西線に乗り、さらに路線バスに乗って、寒々とした山の麓の登山口から比良山を見上げたとき、比良は上から迫ってくるように急峻で、なるほどこれは里山ではない。登山者の山だと思った。谷筋の樹間を登って行くと、途中から雪の山道となり、尾根が近づくにつれ積雪は深くなった。ボタン雪ではない。しんと静まり返った山の中、登山靴で粉雪を踏みしめるぎゅっぎゅっという音だけが聞こえ、冬山の世界に魅了された。雪庇にズボッと足を踏み込み、バランスをくずすこともあった。

 中年になり、車で尾上温泉あたりまで遠出して、湖上に遊ぶ野鳥や夕焼けの竹生島を撮影した。長浜の街に立ち寄って街を少し散策したのもこの頃である。高度経済成長の時代、観光地と言えば演歌が流れ、安っぽい食べ物屋や土産物店が並ぶ時代だったが、この街は歴史と文化を大切にしたオシャレな街づくりに取り組んでいるという印象をもった。

 しかしこの年齢まで、琵琶湖周辺に宿をとって、琵琶湖の風景や歴史の跡を味わう旅をしたことはない。

 竹生島に上陸したことも、国宝の彦根城の天守に昇ったこともない。「さざなみの志賀の都ぞいざさらば」と歌われる天智天皇の大津の宮跡も知らない。

 ということで、今回は途中3泊して、琵琶湖を周遊することにした。

 ただし、ゆっくり家を出発して、最終日は早く帰宅する。宿の朝は遅く出て、次の宿には早く入る。車の運転はスピードを押さえ、奈良県民として、滋賀県警に点数を稼がせないよう、のんびりと走る。

 計画を立てながら、これはムリだなと思った。多分、カットする所が多く、もう一度出かけることになるだろう。特に2日目は、北岸から西岸を回り、石山まで。走行距離も長く、見学したい所は多く、カット、カットで車を走らせることになるだろう。しかし、近いのだから、また出かければいい。旅はゆっくりだ。

       ★

<船上から見る伊吹山>

   (竹生島行き)

 船が出航してまもなく、長浜の街の向こうに大きな山容が見えた。あれは伊吹山だ。

   ホテルだろうか、湖畔の鉄筋コンクリートの建物が景観を壊している。琵琶湖の広がりの向こうに伊吹山、というせっかくの景観だが、遠景で写すしかない。ズームアップすれば、主役はホテルになる。  

  (伊吹山)

 伊吹山について、司馬遼太郎は『街道をゆく24 近江散歩』の中でこのように書いている。

 「 … 岩肌を盛りあげたこの名山は、地球の重量をおもわせるようにおもおもしい。その姿を見るだびに、私の中に住む古代人は、つい神だと思ってしまう。

 南近江の象徴的な神聖山が三上(ミカミ)山であり、湖西の名山が比良であるとすれば、伊吹は北近江のひとびとの心を何千年も鎮めつづけてきた象徴といっていい」。

 だがこれは、長浜付近からの眺めではない。

 私も学生時代、東京・大阪間の帰省の行き帰り、いつも東海道線の車窓から伊吹山を見て、「でかい」と感じた。

 そのあたりのことは、深田久弥の『日本百名山』に書かれている。

 「東海道全線中これほど山の近くを走る所はなく、その中で私のいつもみとれるのは伊吹山の姿であった。それはボリュームのある山容で、すぐ目の前に大きくそびえている」。

 「米原から北陸線に入って長浜のあたりでは、もっと余裕をもってこの山を仰ぐことが出来る。のどかな近江野を通るごとに、藤村の詩『晩春の別離』の一節が私の口に浮かんでくる。

 『懐(オモ)へば琵琶の湖の/岸の光にまようとき/東伊吹の山高く/西には比叡比良の峰』」。

 引用されている若き日の島崎藤村の詩はまだ幼く、ご当地ソングのようであるのが微笑ましい。

 深田久弥は続けて、伊吹山にスキー場ができ、さらに山麓にセメント工場が建ったことを、「山の美観を傷つける、甚だ眼障りな物」と批判。

 だが、人の少ない春の季節にこの山を登って頂上に立つと、近江の野、鈴鹿、比良の山々、さらに遠く雪の白山までの眺望があり、「うららかな静かな山頂で過ごした1時間は、まさにこの世の極楽であった」と書いている。

 このセメント工場については、司馬遼太郎も、先の伊吹山の叙述のあと、怒りをもろに表出している。

 それはともかく、白洲正子は『近江山河抄』の中で、「近江風土記逸文」の話を紹介する。

 「伊吹山の神の名を、霜速比古(ヒコ)という。その娘の須佐志比女(ヒメ)と、姪の浅井比女が、ある時背くらべをした。ところが浅井岳は一夜のうちに大きくなったので、怒った夷服(イブキ)岳は、刀を抜いて浅井岳の頭を切り、湖中に落とした。その頭はやがて島となり、竹生島と呼ばれるようになったという」。

 伊吹山はなかなか激しい。あのヤマトタケルも、この山の神と戦おうとして山中で氷雨に遭い、疲労困憊する。ふるさとの大和を目指して、杖を突き、足を引きづるようにして歩くが、鈴鹿の麓あたりまで来て息絶える。そして、一羽の白鳥になって大和へ向かって飛んでいったという。

 伊吹山の標高は1377m。浅井岳は現代の地図にはなく、金糞岳のことらしい。伊吹山の北西にあり、標高1317m。県下で2番目に高い山。竹生島を乗せると、伊吹山より少し高くなる。

   「伊吹山と竹生島が、東西に相対し、そのまん中を姉川が悠々と流れて行く様は、古代の神話を絵にしたような景色である」。

 白洲正子の近江紀行は、寺や神社を行脚し、古代を思い、遠い日本人の文化や心に思いを馳せる旅である。描かれる近江の景観も美しい。

 『近江山河抄』が出版されたのは昭和49年(1974年)である。

 それに対して、司馬遼太郎の『街道をゆく 近江散歩、奈良散歩』が刊行されたのは10年後の昭和59年(1984年)。ちょうど日本の高度経済成長が沸点に達してバブル期に入った頃である。

 この頃の日本は、土地が高騰し、地上げ屋が徘徊し、山が壊され、神社やお寺の鎮守の杜まで買い荒らされて、鉄筋コンクリートの建物が建てられた。

 国民的作家は、この紀行の中で、近江の駘蕩とした風土や浅井長政、石田三成、徳川家康、井伊直政ら戦国武将の気質や生き方を生き生きと語る。だが、時に、近江の自然がこわされ、汚されているのを目にして、怒りを表出せずにはいられないでいる。

 司馬遼太郎より若い世代ではあるが、高度経済成長からバブルの時代を私も生きた。だから、思いを同じくする。あの時代、日本人はみなぎらぎらと脂ぎって、厚顔無恥になっていた。

 日本が貧しい国にはなってほしくない。だが、再びあのような品のない国にも戻ってほしくない。山々や、谷々や、森や、田畑や、海、そしてそこに育まれてきた人々の文化を、どう守り、いっそう美しく豊かにしていくか。それが第一命題である。

 司馬さんは、この紀行から十年ほどたった1996年に逝く。日本の未来を心配しながら。

      ★ 

 船室は「密」というほどではないが、老若男女の観光客でそれなりに座席はうまっていた。

 40分ぐらいなら、船上の甲板の上で、湖水を囲む近江の景色を見ていた方が楽しい。風も爽やかだった。

 20分もたった頃、船員が上がって来て、波が大きくなり、飛沫が甲板まで飛んできて濡れるから、船室に降りた方がいいと言った。

 高をくくっていたら、良いお天気なのに、本当に時化のように大波がきて、船が上下に大きく揺れ、大量の飛沫が飛んできて、あわてて船室へ降りた。

 しばらくして、波もおちつき、もう一度甲板に上がると、竹生島が近づいていた。

   (竹生島)

 

    

 

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