ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

宗像大社と世界遺産のこと

2017年05月10日 | 随想…文化

        ( 大島の中津宮 )

 

 報道されているように、ユネスコの諮問機関イコモスが、玄界灘の孤島・沖ノ島を世界文化遺産に登録するよう勧告しました。

         ( 宗像大社のパンフレットから )

         ★

 この報道を見て、私のブログ「玄界灘に古代の日本をたずねる旅」を読み返していただいた方もいらっしゃるようで、うれしい限りです。

 このときの私の旅のメインテーマは、もうすぐ世界文化遺産に認定されるであろう宗像大社に参拝することでした。

 その紀行のなかで、「海の正倉院」と言われる沖ノ島で行われてきた祭祀のことや、海人族・宗像氏にかかわる歴史についても書いています。 

 カテゴリー「国内旅行 … 玄界灘の旅」 の11、12、13です。

(11)  「いよいよ宗像大社へ、辺津宮に参拝する」 ( 2016、7、21 ) 

(12)  「『海の正倉院』と言われた沖ノ島の信仰」 (2016、7、27 ) 

(13)   「大島に渡り、中津宮に参拝する」 (2016、7、31 )

 興味のある方は、ご一読ください。

        ★

 ただ、この勧告には問題があります。

 日本からユネスコに推薦していたのは 「『神宿る島』 宗像・沖ノ島と関連遺産群」 でした。しかし、今回の勧告では、「『神宿る島』 宗像・沖ノ島」 が、「『神宿る島』 沖ノ島」と呼称を改めるように言われ、また、「関連遺産群」は除外されました。

 「関連遺産群」とは、

〇 宗像三女神を祀る神社のうち、沖ノ島の沖津宮以外の2社。即ち、九州本土にある辺津 (ヘツ) 宮 と、本土から11㌔沖合の大島に祀られる中津宮

〇 その大島の北岸にある沖津宮遥拝所

〇 本土の海岸沿いにあり、祭祀を担った古代豪族 (海人族) ・ 宗像氏の墳墓とされる古墳群です。

 結果的には、宗像三女神のうちの一女神しか認められなかったのですから、気持ちはすっきりしません。

 「沖ノ島」 だけの認定なら、いっそう断ったらどうか、という意見もあります。

 しかも、認められた 『神宿る島』 沖ノ島」は、今も、「女人禁制」 「入ることができるのは1年に1回のみ。しかも人数は制限され、神官とともに海でみそぎをし、行動を共にしなければならない」 「島で見聞きしたことは一切口外してはならない」 「一木一草一石たりとも、持ち出してはならない」 といった、古来からの掟が守られている島です。だからこそ、今も 『神宿る島』 なのです。

 一般人が一切立ち入ることができない「沖ノ島」だけが認められ、「関連遺産群」が認められなければ、観光には縁がないことになります。地元は全くうるおいません。

 そればかりでなく、「沖ノ島」が世界遺産となり、国内外に広く知れ渡るようになれば、悪意をもって「掟」を破り、上陸しようとする輩も出てくる可能性があります。「女人禁制」に反発して突入してくる連中もいるかもしれません。貴重な遺跡を傷つけ、汚し、盗む輩もいるかもしれません。そういう不届き者をどう排除するか、そういう対策も必要になってきます。

 さらに、イコモスは、将来、今、世界的なブームになっている大型クルーズ船がやってきて、接岸し、観光客が大挙して上陸することへの懸念さえ表明しています。

 現状では、それらに対する対策や負担は、島の所有者である宗像神社が受けて立たなければならなくなります。一神社に背負いきれるものではありません。 

 もう一つ、イコモスは重要な危惧を表明しています。

 周辺海域で、将来、風力発電施設を建設する懸念はないのか、というのです。この島にとって、景観上の問題となる風力発電施設の建設は、将来にわたって禁止する措置を、イコモスは期待し、勧告しています。

 2千年の歴史をもち、今も大切にされている、日本人の信仰の地の全体を、ユネスコが認めてほしいと、私も願います。

 と同時に、必要な法整備や、財政的援助や、美しい日本の景観を守るという断固とした意志の表明を、国も、県も、行うべきだろうと思います。

 例えば、富士山。富士山は、ディズニーランドではありません。山です。山は、押し寄せる観光客の出すゴミや糞尿を処理できないし、景観を破壊している土産店や旅館を規制できません。目の前に存在する醜いものを見なかったことにして、「美しい山ですねえ」と言う。それは、偽善です。

 私権を尊重することは大切ですが、歴史的文化遺産や、景観や、美しい自然 ── 過去から未来に向かって存続させなければいけない公共の財産 ── を、時には私権を超えて、国や自治体が断固として守る、そういうことも必要だと思います。日本は、そういう点が、かなり弱いと思います。

         

      ★   ★   ★ 

 8

 メンテナンス

 今回は、カテゴリー 「西欧旅行 … 街並み」の2編と、「西欧旅行 … 遥けきウィーン」の3編を更新しました。写真が入って、綺麗になりました。

1 「西欧旅行 … 『パリの街並み』考」

(1) 「文化は、街並み」 (2012、10、25)

(2) 「日本の景観には日本の心」 (2012、10、26)

2 「西欧旅行 … 遥けきウィーン」

(1)  「ローマ第13軍団のウィーン」(2012、11、15)

(2) 「オスマン帝国によるウィーン包囲」(2012、11、23)

(3) 「『第三の男』のウィーン」(2012、12、1)

の、計5編です。

 

 

 

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花道みたいだった

2016年03月14日 | 随想…文化

 今朝 (3月14日) のスポーツ欄。名古屋マラソン。「 田中1秒差 夢つかむ 」という大きな見出しの横に、「野口23位 『悔いなし』」。

 「 5キロ過ぎて先頭集団から遅れ、10キロ付近から右足に痛みが出ても前に進めたのは、沿道を埋めるファンの声援があったからだ。『 花道みたいだった。最高の42.195キロでした 』」。

 「 スタート地点に向かう直前に泣いた。『 無事に戻ってこい 』と送り出す広瀬永和総監督も泣いていた 」。

 「『 悔いはない。これからのことは、ゆっくり考えたい 』」。

 アテネ五輪のマラソン金メダリスト野口みずき。

 トップで、大歓声の中、オリンピック会場に帰って来て、残りのコースを飛ぶように走り抜けた小柄な姿を、今も覚えている。

 今、37歳。最後のレースは、沿道のファンの暖かい声援があって、「花道みたいだった。最高の42.195キロでした」。

 良い言葉だ。桜の春も近い。

 まだ37歳。いろんなことができる年齢である。

    ★   ★   ★

 今朝の新聞で、もうひとつ。

 囲碁の人工知能に対して、世界トップクラス・韓国棋院のイセドル9段が、3連敗の後、1勝した。拍手で記者会見場に迎えられたイ九段「 1局勝ったのに、こんな祝福を受けるのは初めて。何ものにも代えがたい1勝だ 」。

 その記事の見出しが面白かった。

 「人類の意地 見せた」!!

 コンピュータに対して、とにかく、人類を代表して、ナマミの人間の意地を見せた。

 この記事を書いた讀賣新聞の記者に、「見出し賞」を上げます。 

 我々は、みんなけなげなナマミ。

 昨日、トルコで、自動車爆弾テロで40数人を殺したテロリストも、不気味な国の不気味な指導者たちも、ナマミの人間たちの命のけなげさに思いを致してほしい。

 

 

 

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「山の神・仏(カミ・ホトケ)…吉野、熊野,高野」展に行って

2014年05月14日 | 随想…文化

  「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されたのは、10年前の2004年である。

 10年を記念して、題の「山の神・仏展…吉野、熊野、高野」展が開催されている。

 「道」が世界遺産として登録されたのは、スペインのサンチャゴ・デ・コンポステーラの巡礼道に次いで2例目だそう。

 その後、和歌山県は、スペインのガリシア州と姉妹「道」提携をした。 

 なつかしいサンチャゴ・デ・コンポステーラとガリシア州について、本ブログ「冬のサンチャゴ・デ・コンポステーラ紀行」の1及び2 (2013、1、17、19) をご覧ください。

 世界遺産登録のおかげで、日本の秘境のような熊野の熊野本宮大社も、今では、西洋人の旅人を目にするようになった。

 熊野本宮大社は、元は、熊野川の中州である大斎原(オオオユノハラ)にあった。そこは、今、大きな鳥居が立ち、春には桜が美しい。

   ( 大斎原の大鳥居 )

        ★

 特別展「山の神・仏 … 吉野・熊野・高野」は、大阪市立美術館で 6月1日まで開催。観覧料1400円はちょっと高いが、見ごたえはある。

 

 吉野、熊野、高野の地域ごと、3つのコーナーに分けて展示されているので、先に2階に上がり、一番興味のある「熊野三山」から見学した。

 予想していたとおり、ここにあるのは、神像や神めいた仏の像。

 飛鳥・奈良・平安時代、或いは鎌倉時代の洗練された仏像彫刻は見慣れているが、熊野の像は、それらとは全く異質な世界である。

 素朴で、明るい。清らかで人懐っこい。癒される。

 日本の神々は、目に見えぬ神、見てはいけない神。仏教のように偶像化をしないし、偶像を拝まない。なのに、なぜ? なぜこのような造形をしたのだろう?

 村の神様は、村人と共に今年の収穫を喜ぶ神様である。米を収穫すれば、村人と一緒に食い、米からできた酒を呑み、餅を食い、神楽を喜び、はたまた、酔って、笑いころげる。

 そういう神様に対する素朴な親愛の情と崇敬の念が、思わず造形意欲をそそった … のに違いない。

 それは神様と対話しながら制作された。

 「神様って、こんな顔をしておられるのでは?」「体つきは、きっとこんな感じでしょう?」

 神様は、目に見えない。だから、像には刻めない。人の顔や形に似せても、意味がない。

 「でも、私の心のイメージとしては、こんな感じ。似ているかどうかではありませんよ。感じです。感じ」。

 (村の神様)「ふーん…。まあ…、そういうことにしておこうか。悪くないね 」

 たぶん、こんな感じで、神像はできたのだろう。

 ( 熊野の青岸渡寺の塔と那智の滝 )

           ★

 次は、「吉野・大峰」。吉野と言えば桜 …。それから後醍醐天皇。

   ( 吉野の桜 )

 いえいえ、もともとそこは、大峰奥駈道があるように、日本一の修験道の場だった。

 修験道の創始者は、役の小角(役の行者)。伝説上の人物である。小鬼を家来にし、峰から峰を駈けるように跳んだという。

 自然のなかに神を見る古神道に、仏教の密教的要素が加わわった神仏習合思想だが、深山の中で激しい修業し、神秘的な力を得て、人々を助けたいという動機がある。

 展示には、役の小角像が多い。怪異だ。面白い!! ちょっと怖くて、愛嬌がある。庶民のあこがれだ。

 話は変わるが、以前、吉野の桜を見に行ったとき、桜を求めてふと、吉野水分神社という由緒ありげな神社に出くわした。桜の季節にもかかわらず、訪れる人はない。

 見ると、社が古くなったのでぜひとも改築しなければならないと、募金のお願いしている。日本の文化を守りたいではありませんか それで、屋根を葺く萱の2、3枚にでもなればと、少額の寄付をした。

 1年以上も後であったか、新装なったというお礼のお手紙をいただいた。

 うれしかったですね。

 美術館内は撮影禁止なので、我が家の近くの役の小角像を。

 この像は、超人としての役の小角ではなく、人々を救済して旅する聖人としての役の小角像だ。

  ( 石仏の役の小角 )

          ★

    

     ( 高野山 )

 最後に「高野山」。

 高野山・真言宗は我が家の宗旨である。

 若き日の弘法大師は、奈良の大寺の経典を借りて1人で読破したりしたが、経典を読んでも心の満足が得られず、深山を走破したり、太平洋に対する洞窟に籠ったりして、修業した。太陽が昇り、また、沈む、自然界の営みの中に無我の真理をよみとろうとした。 

 唐から帰国し、密教の体系を構築するが、しかし、彼もまた、日本の古神道の上に、「世界」を構築したように、私には見える。

 真言宗が大切にする大日如来には、太陽神のにおいがし、いかにも汎神論的だ。だから、日本人に受け入れられる。

 その大日如来像も何点か展示されていたが、いずれも繊細な美しい仏像だった。

 

   

 

    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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文化勲章受章の高倉健さん

2013年10月25日 | 随想…文化

 文化勲章受章の高倉健さん(82歳)のいい言葉

 「映画は国境を越え言葉を越えて、” 生きる悲しみ ” を希望や勇気に変えることができる力を秘めていることを知りました。

 今後も、この国に生まれて良かったと思える人物像を演じられるよう、人生を愛する心、感動する心を養い続けたいと思います 」。

                

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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美しい映像でした‥‥『風たちぬ』(宮崎駿監督)

2013年07月24日 | 随想…文化

 美しい飛行機を作りたいという夢を追い求めた青年が、やがて名機と呼ばれる戦闘機の製作に成功するまでを縦糸に、菜穂子という女性との愛の世界が横糸として描かれている。

 

                            ★

 戦前の日本の、山や川や野が、限りなく美しい。

 時に、大空から俯瞰したように描かれる日本の山野が、アニメというよりもまるで絵画のようで、映像の美しさにおいて、宮崎作品の中でも、一番ではないかと思う。

           ★   

 子供向けの作品ではないから、はらはらどきどきのアクションも、スリルとサスペンスも、どんでん返しも、謎解きも、ない。 

 淡々と、静かに、話は進み、静かに終わる。

 それは、堀辰雄の 「美しい村」 と 「風たちぬ」 の2編を読み終えたときの感動と同質のものである。

 限りなく美しく、ロマンチックで、透明感があり、はかない。 はかないがゆえに、つよい。

                           ★

 空気の澄んだ高原の、青空と、白い雲と、パラソルと、カンバスと、パレットと、絵筆と、そして、絵筆を取る帽子の娘。 

 風が吹き、パラソルが舞い上がり、下の野の道を歩いていた青年が、飛んできたパラソルを押さえる。

 この二人の出会い(再会)の場面が、この作品のひとつのヤマ。 ただひたすら物語めいて、明るく、美しい。

 

                            ★

 娘は、結核を病んでいた。

 青年は結婚を望み、娘はあえてこの申し出を受ける。 

 ‥‥風立ちぬ、いざ生きめやも‥‥。

 二郎の会社の上司夫妻が執り行った二人のためのささやかな結婚式。 菜穂子の花嫁姿は、本当に綺麗だったなあ。

 病床に伏したままの、ひと時の楽しい結婚生活を過ごし、やがて菜穂子は、自らの体が病み衰える前にと、独りサナトリウムへ去って行く。

          ★

 やがて、零戦の開発に成功し、零戦が無数に大空を飛ぶ姿が描かれるが、‥‥「一機も帰って来なかった‥」という、二郎のつぶやきで、映画は終わる。

          ★

 成功の喜びは一瞬で、報われるところは少なく、全てを巻き込んで、時は、流れていってしまう。

 それでも、人は生きている以上、生きていかなければいけない。

 ‥‥ 風立ちぬ。いざ生きめやも。

 

 

 

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わが生涯で、最高に美しいと感動した光景‥‥思い出の記

2013年07月15日 | 随想…文化

   1960年ごろ、私が東京の大学に合格すると、以前から単身赴任していた父の勤務地の大阪へ、住み慣れた岡山から引っ越した。

   あの時代、18歳で、たった一人、東京に出て行くことは、今で言えば、ニューヨークかパリに留学するようなものだったかもしれない。

   東京は遠い。今、パリへ行くより、当時の東京へ行く方が時間がかかった。

   新幹線はまだなかったから、岡山から試験を受けに行ったとき、夜行列車で14~15時間くらいかかっただろうか。

 深夜に一人、岡山駅の暗いホームに立ち、やって来た列車は超満員で、列車のデッキに入るのがやっとだった。乗ってから5時間、大阪まで立ったまま身動きもできなかった。夜が明けるころにやっと大阪に着き、暖かい車両の中に入れたが、それ以後も、東京までずっと立ちっぱなしだった。もちろん、一睡もできなかった。名古屋を過ぎたころから車内で聞こえてくるカッコいい大学生の、加山雄三のような東京弁に気後れした。

 ずっと後になって、あの東京へ向かう夜汽車こそ自分の成人式だったのだ、と思うようになった。

 入学後は東京に下宿し、家は大阪に引っ越した。大阪~東京間が急行で7時間半、夜行なら10時間くらいはかかった。

 高度経済成長期に入ったとは言え、日本はまだ貧しかったから、サラリーマンの家庭で息子を東京の大学にやることは大変だった。だから、一度上京すれば、 長期休暇以外のときに汽車賃を使って帰省するわけにはいかない。帰らないのと、帰れないのとでは、気持ちが違う。その「遠さ」の感覚が、今なら海外留学だと思わせる。

 東京での生活は書生らしく、節約した。3畳1間の下宿で、昼は学食、夜は100円程度の一膳飯屋、風呂は銭湯。本代も、服代もなかった。生活費の半分は家庭教師その他のアルバイトで稼いだ。級友たちに夏の旅行に誘われたこともあったが、断った。カネがなかった。

 それでも、入学当初は、シャンソンの流れる喫茶店で、当時50円のコーヒーを飲みながら、「今、あこがれの東京にいる…!!」と、しみじみと幸福感に浸ることもあった。あの当時は、なぜか、喫茶店のコーヒーの良い香りが店の外まで香っていた。

 しかし、最初の半年間も過ぎると、貧しさと孤独感が心に沁みるようになった。

         ★ 

 夏の長期休暇が終わると、再度上京するため、大きなスーツケースを持ち、御堂筋線に乗って大阪駅へ向かう。

 父の会社は梅田新道にあったから、いつも律義に大阪駅の東京行きホームまで見送ってくれた。

 父はプラットホームでお茶と新聞を買い、浜松で鰻弁当を買うようにと500円札とともに渡してくれた。500円はありがたかった。

 東京へ向かう列車の旅はわびしかった。見知らぬ人たちとともに4人掛けボックス席に座り、新聞にも、本にも目を向けることができず、ただぼんやりと小雨降る窓の景色を見ていた。

 そのころすでに、高度経済成長は始まっていたが、それでも当時の日本の田園風景は美しかった。

 広がる田んぼの緑も、遠く小雨に霞んで見える山々も、浜名湖も、晴れてきて右側の車窓に見える太平洋も、富士山も、眺めていて飽きることがなかった。

 富士山が近づくと、車内のたいていの人は、車窓からその姿を探した。山側の席の人は、海側の席の人や立っている人が富士山を見やすいように気を使って、身を引いたりしたものだ。

 今では東京まで、「のぞみ」で3時間足らず。窓の外の景色を眺めている人など、まずいない。

         ★

 上京するときはいつも朝の列車だったが、帰省のときはなぜか夜行列車を使った。

 夜行列車は 1 駅ごとの停車時間が10分、20分と長く、駅でもない所にぐずぐすと停車し、昼の列車よりずっと時間がかかった。その長い一夜を窮屈な4人掛けボックス席で過ごさなくてはならない。

 にもかかわらず、なぜ夜行列車にしたのだろう? 夜は下宿でのびのびと寝て、朝の列車に乗れば、身体も楽なはずなのに。

   もしかしたら、夜、東京を発つことに青春の情感を感じていたのかもしれない。

 窓は、夜露に濡れて / 都すでに遠のく 

 北へ帰る旅人ひとり / 涙流れてやまず

  (北帰行 / 旧制旅順高等学校寮歌)

         ★

 ある夜。

 季節は思い出せない。7月から8月、或いは12月末、或いは3月。

 夜汽車の外が明るいことに気づき、そのうち、熱海の海を照らす月光から、今宵が満月であることを知った。

 これだけ明るければ、富士山も見えるかもしれないと、期待した。

 そして ‥‥

 暗い夜空に、大きな満月が出ていた。

 当時、この辺りに人工の灯りは何もなく、煌々と照らすその月光の下に、富士山がくっきりと、その秀麗な姿を浮かび上がらせていた。

 ただただ感動しながら、頭の中でこれをどう形容すべきか、考えていた。

 雅やか。そう、「夜は闇」の王朝の時代に、月下の富士は、このように美しかったに違いない。

 陰暦八月十五夜。大きな満月の夜。或いは美々しく武装し、或いは麗しい衣をまとった天人・天女たちが、美しい駕籠を乗せた雲とともに、かぐや姫を迎えに舞い降りてくる、あの時代の富士山だ。

 洋の東西を問わず、私の生涯で、最高に美しいと感動した景色は?と問われたら、第2、第3はすぐには思いつかないが、第1位は、躊躇なくこのときの光景である。

         ★

 その富士山が、世界文化遺産に認定された。

 これは、日本人にとって、最高にすばらしい出来事である。

  

    ( 西伊豆から見た朝の富士 )

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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酒はしづかに

2012年10月15日 | 随想…文化

 ヨーロッパ旅行に行っても、グルメ嗜好で星付きレストランへ行こう、などということはない。まず、その町に和食レストランがあれば、そこへ行く。

 なければ、庶民的なレストランのテラス席で、できるだけ簡素に済ませる。イタリアなら前菜 (or メインディッシュ) にパスタ。あと野菜サラダは必ず。時にデザートとコーヒー。

 アメリカ人やオーストラリア人も含めて西洋人の、年齢とともに横へ横へと広がった肥満体を見ると、彼らの食生活の不健全さを思わざるを得ない。

 とは言え、2千年、3千年の歴史をもつ主食の小麦。この小麦の食べ方を工夫し、文化にまで高めたフランスパンや、イタリアのパスタは、さすがに美味しく、2500年の伝統のある日本のご飯に勝るとも劣らない。これに野菜l料理がプラスされれば、それで十分なのでは、と思う。ただし、欠かすことができないのはワインの一杯だ。

         ★

  寿司は、いまや、世界の料理になった。かつては日本人旅行者や現地駐在員を目当てにしていたフランスやドイツの和食レストランも、いまや西欧人の客ばかりで、ご夫婦で箸を上手に使って寿司を食べ、熱燗を傾けているといった景色が当たり前になった。

 日本酒も、欧米で、広まってきている。

 にもかかわらず、日本の居酒屋で、いつのころからか、洋風居酒屋なるものが多くなった。メニューに、韓国料理やベトナム料理やイタリア料理が含まれているのは結構だ。問題なのは、砂糖菓子のように甘い味付けだったり、奇妙に甘酸っぱい味の国籍不明の料理を出すことだ。そういえば、有名回転寿司の寿司も、甘い。ネタの悪さを、砂糖や酢を多めに入れた濃い味付けでごまかしているのだ。

 戦後、日本が貧しかった時代、西洋はあこがれであった。その「西洋風」の名のもとに、安価に大量生産され、テレビで宣伝され、家庭に入ってきたソースやケチャップ。その異様な味で育つと、こういう味が好みとなるのかも。

          ★

 秋の夜長、愚痴はよそう。

 

 さんま、さんま

 そが上に青き蜜柑の酸をしたたらせて

 さんまを食ふはその男がふる里のならひなり。

              佐藤 春夫

 

 白玉の/歯にしみとほる/秋の夜の

     酒はしづかに/飲むべかりけり

              若山 牧水

 

  

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美空ひばり考 …… 「みだれ髪」

2012年09月01日 | 随想…文化

 

 美空ひばりという歌手が活躍していた少女時代から亡くなるまで、彼女のファンであったことはない。

 ただ、彼女の死後、テレビの歌謡番組の中で、現役の歌手によって美空ひばりの歌が「熱唱」されるのを聞くにつけ、歌唱力があるといわれる歌手をもってしても、彼女の豊かさに遥かに及ばない事実に気づき、ひばりという歌手の凄さをいささか感じるようになったことは確かである。やはり不世出の歌手だったのであろう。

 今でも美空ひばりを愛するファンは多く、そのような人たちは、彼女の歌唱力だけでなく、あの思わせぶりなしぐさ (一応、「色気」というのかな?) や、ボーイッシュな低音などの全てを好きでたまらないのであろう。しかし、彼女が生きて活躍していた時代、私のような人間には、そういうところが好きになれなかったゆえんである。耳に入ってくることはあっても、彼女の歌を自らの意志で聴こうと思ったことはない。

 そのような自分であるが、彼女の死後、繰り返し放映された追悼番組で、ふと耳にしたこの一曲だけには、思わず聞き入ってしまった。

 「みだれ髪」である。

 私の場合、この曲に関しては、歌詞は関係ない。

 ひばりは、七色の声と言われるが、それでも、彼女の魅力は低音部にあるとされてきたし、彼女もそのことを意識して歌っていることは明らかだ (例、「やわら」)。 

 ところが、「みだれ髪」 は、ほとんど高音の連続である。ひばりのお母さんは、「この歌はあなたの歌ではない」と言って、歌うことに反対したとも聞く。

 だが、美空ひばりの高音は、本当に美しい。

 高音の連続を、気張ることなくさらっと、しかも哀切に美しく歌いあげることのできる歌手は、他にいない。やはり凄い歌手である。

 

 

 

 

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杜と社2…… 登りでは気づかなかった絶景に驚いた

2012年08月26日 | 随想…文化

南木佳士 『急な青空』 の 「源流へ」 から

 そして、3時間、苔むした針葉樹林間にひっそりと建つ 「千曲川・信濃川水源地標」 にようやくたどり着いた。オニギリを食べ、源流の水をペットボトルに汲んだ。

 帰りはゆっくりと景色を楽しみながら下った。登りでは足元に気をとられて気づかなかった絶景にあらためて驚いた。渓流の脇の草地で水音を聞きつつ木漏れ日を浴びながら寝ころぶと、いまこうして在ることのありがたさを感謝せずにはおられなかった。神は周囲の山川草木に満ちみちていた

       ★

 「登りでは足元に気をとられて気づかなかった絶景にあらためて驚いた」。── そう、私も残りの人生は、こういう発見と感動をしながら、景色を楽しんでゆっくり下っていきたいと思う。

 「神は周囲の山川草木に満ちみちていた」。

 この黒潮あらう日本列島に生まれ、生きた人々は、縄文の昔から現代まで、「国敗れて山河在り」 という一時期さえもあったのだが、時代を超えて、山川草木のなかに神を感じてきた。

 それは、生まれや肌の色によるのではなく、従って、身分や遺伝子によって身についたものではなく、また、この島国にやって来て長いか短いかということでもなく、この列島に生まれ育ち、 「日本語を母語としてきた人々」 に共通する感性であった。

 この列島の風土と言語によって培われた、基調となる「文化」である。

 好むと好まざるとにかかわらず、また、それぞれの思想・信条・宗教観などという表層を超えて、この列島に生まれ、育った人が共有する「文化」である。   

       ★

南木佳士『急な青空』の「源流へ」の続きから

 車を止めた場所の近くまで下りてくると、道の脇に小さな祠 (ホコラ) があった。これも行きには反対側の距離表示板に気をとられて目に入らなかった。無事の下山に感謝して深く頭を垂れた。

       ★

 神が、山川草木に満ちみちているということに気づかないのは、日常の何かに気をとられているからであって、目には見えていなくても、心には感じているのである。 

 

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杜と社1 …… 古神道の精神 (司馬遼太郎から) (改定版)

2012年08月23日 | 随想…文化

             ( 伊勢神宮 滝原の宮 )

 神道 ( シントウ ) については、司馬遼太郎に全面的に共感する。 

 以下、『この国のかたち五』 の  「神道」 から

      ★

 神道に、教祖も教義もない。

 たとえばこの島々にいた古代人たちは、地面に顔を出した岩の露頭ひとつにも底つ磐根の大きさをおもい、奇異を感じた。

 畏れを覚えればすぐ、そのまわりを清め、みだりに足を踏み入れてけがさぬようにした。それが、神道だった。

 むろん、社殿は必要としない。社殿は、はるかな後世、仏教が伝わってくると、それを見習ってできた風である。(神道一)

      ★

 古神道というのは、真水のようにすっきりとして平明である。

 教義などはなく、ただその一角を清らかにしておけば、すでにそこに神が在す(オワス)。

 例として、滝原の宮がいちばんいい。

     (瀧原宮鳥居)

 滝原は、あまり人に知られていない。伊勢にある。伊勢神宮の西南西、直線にして30キロほどの山中にあって、老杉の森にかこまれ、伊勢神宮をそっくり小型にしたような境域に鎮まっている。

 場所はさほど広くない。

 森の中の空閑地一面に、てのひらほどの白い河原石が敷きつめられている。一隅にしゃがむと、無数の白い石の上を、風がさざなみだって吹いてゆき、簡素この上もない。

 十世紀初頭の 『延喜式』 にすでにこの滝原の宮のことが出ている。

 「大神 (伊勢神宮の内宮) の遥宮 (トオノミヤ) 」というのだが、遥宮の神学的な意味はわからない。神名の記載もない。

 このふしぎな滝原の宮と、それを大型にしたような伊勢神宮との関係についても古記録がない。

 本居宣長のいう言挙げ (コトアゲ) しないまますくなくとも十世紀以来、滝原の宮は伊勢神宮によって管理され、祭祀されてきた。神道そのものの態度というほかはない。(神道三)

      ★

 平安末期に世を過ごした西行も、(注:伊勢神宮に) 参拝した。

 「何事のおはしますをば知らねども辱さ(カタジケナサ)の涙こぼるる」

 というかれの歌は、いかにも古神道の風韻をつたえている。その空間が清浄にされ、よく斎かれていれば、すでに神がおわすということである。神名を問うなど、余計なことであった。 (神道四)

      (伊勢神宮内宮)

       ★

まとめれば次のようになる。

 古神道においては、神を感じ、その空間を清浄にすれば、そこが聖地となり、社である。社殿さえも必要としない。 

 神名 (祭神) を問うなど余計なことである。西行も、あの伊勢神宮に参拝して、「何事のおはしますかは知らねども」 と詠んだ。

 「言挙しない」 のが、神道の態度である。説明しないし、議論しない。教祖も教義もない。

 

 

 

 

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下り道の景色を楽しむ

2012年08月22日 | 随想…文化

 南木佳士のエッセイはいい。

      ★  

南木佳士『急な青空』所収「山林はどこだ」から

 ボヤ取りの山は急な坂を登り、神社の鳥居の前を通って行くのだった。子供の足で片道一時間近くかかった。

 「下を向いて、足元の一歩一歩を見てりゃ自然に山につくだ。先ばっかり見てるから遠く思えるだ」         

 まだかよお、とべそをかく私に祖母はやさしく言って聞かせてくれた。

 こんな、実践に裏打ちされた彼女の言葉が私の脳を創ってきた。でも、人生の峠を越えたいま、

「おばあさん、もう足元ばっかり見るのは飽きたから、ゆっくり景色を眺めながら坂を下るよ」

 と、天国の彼女に力なく笑いかけたい。

「いいさ。もとからおめえはそればかりの器だったんだから」

 祖母は哀れみながら許してくれそうな気がする。 

    ★   ★   ★

 社会に出たときから、仕事を通して世に尽くそうと、40年以上心身を燃焼させてきた。それなりに楽しかったし、充実感も感じて生きてきた。

 もういいだろうと、完全リタイアして5年。

 熱い日々が遠ざかっていくにつれ、年々、何も世の中に役立っていなかったような気がしてくる。

 心ならずも、人を傷つけ、人に迷惑をかけたことも思い出される。「もとからおめえはそればかりの器だったんだから」。…… 本当にそのとおりである。

 年を取ってなお恋々と 「宮仕え」 して一生を終えることはない。

 それに、組織という大樹に寄らず、独り、自らの生そのものを楽しんで日々を過ごす。── これはこれで、なかなか本当の人間力がないと、できないことである。

 今は、残りの人生、景色をゆっくり楽しみながら、山を下っていきたいと思っている。

       ★

 昨年行った「ドナウ川の旅」は、気候も良く、のどかで、心たのしく、印象的な旅だった。滔々と流れるドナウ川に沿って、列車を乗り継ぎ、古代ローマが造ったいくつかの町を訪ねたのである。

    ( ブタペストを流れるドナウ川 )

 西欧に心引かれ、ヨーロッパの文明・文化・歴史を自分なりに極めたくて、ヨーロッパ旅行に出かけること10数回。そろそろ終わりにしても良いかなと思い出した。自分なりに見るべきものは見たという充足感もある。「飢え」がなくなってきたのだ。あと少し、行きたくて、行きそびれている国に行くため、自力で計画し、自分の足で歩いて回れるよう、健康と体力と、ぼけない頭を維持し続けること。

       ★ 

 一方、国内旅行には、新たなテーマが生まれた。神々の杜と社をたずねる旅である。

 西洋を旅しながら、西洋とは何かを考え続けてきたが、一方で、日本とは何か、と考えることも多くなってきた。

 巨大なカテドラルの中の薄暗い空間に、おどろおどろしい磔刑のキリスト像や、無表情なマドンナ像。天井には、これまた人間を威嚇する最後の審判図。すべて大いなる「虚構」。その虚構を2千年も信じ続けてきた西洋人。

 イスラム教寺院は簡素だが、どこにいようと日に3回も床にはいつくばって礼拝することを求める絶対神。

 文明の大きさを感じ、西欧では時に人々の民度の高さや人間の優しさに感心することもあったが、一神教と、そこから生まれた、ものの見方・考え方・感じ方は、到底、日本人にはなじめないように思う。

 それに引き換え、日本の神社には、あのおどろおどろしさは、ない。簡素かつ晴朗である。

 手と口を清め、外気の中で、拍手を打って静かに目を閉じれば、耳にせせらぎの音を聞き、顔に風のそよぎを感じる。虫の声、木の葉の揺れる音。拝殿を囲む杜の自然林からは、弥生の息吹きや、時に縄文の気配を感じる。そこここに、人間に寄り添っても、決して人間を支配したりしない、物言わぬ (理屈をこねない) 神々の気配がある。

 ユーラシア大陸の東の果ての列島に生まれ、命をつないできた幾百千万の人々が、縄文の時代から変わることなくつないできた心は、杜と社で手を合わせる心である。

 

    (近所の八幡神社)

 大社や一の宮など有名な神社だけでも全国に多い。名を知られていないその土地土地の杜なら行く先々にある。日本の自然、日本の景観は、聖なる杜に残る。

 日傾きて、暮るるに未だ遠し。まずは健康に注意し、体力の維持を。

 

 

 

   

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「大出雲展」に行ってきました。

2012年08月19日 | 随想…文化

 京都国立博物館で開催中の「大出雲展」に行ってきました。

  「─ この夏、神話の国の物語 ─」とサブタイトルが付けられている割には、古事記の写本、埴輪や勾玉、銅矛・銅鐸などが淡々と並べられているだけという感じで、いささか期待はずれだった。1か月ほど前、2泊3日で出雲地方を旅し、本当にここは「神々の国」だな、と感銘を受けて帰っただけに、この展覧会に物足りなさを覚えた。

 帰りに、七条通り沿いの骨董店で、たまたま目についた切子ガラスのコップを3個買った。

   女主人らしい人が、冷たいお茶を入れてくれ、飲んでいる間に商品を包んで、やわらかいトーンで 「おおきに」 と言って送り出してくれた。その 「おおきに」 が心地よく、歩きながら 「ああ、ここは京都だ」 と、余韻を引いた。

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