ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

海上に聳える聖ミカエルの岩山 … 観光バスでフランスをまわる10

2022年07月30日 | 西欧旅行…フランス紀行

    (モン・サン・ミッシェル)

 そもそもモン・サン・ミッシェルはベネディクト派の修道院。しかし、まるで海上に浮かぶ要塞のように見える。

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<モン・サン・ミッシェルの堤道>

 この旅行当時(2010年)のモン・サン・ミッシェルは、陸から島へ堤道が通じていた。

 今は、この道路はない。

 堤道は、19世紀にフランス政府によって敷設された。

 それ以前、モン・サン・ミッシェルを訪れる巡礼者たちは、船で渡るか、干潮時にだけ出現する砂州を伝って島へ渡った。

 ただ、潮の干満差は、時に15m以上にもなった。しかも、大潮のとき、馬の速駆けと同じくらいの速さで潮が押し寄せたという。そのため、事情を知らぬ巡礼者たちが、満ちてくる潮にのまれて溺れ死ぬことがよくあったらしい。

    19世紀、フランス政府がモン・サン・ミッシェルを歴史的建造物として修復・整備したとき、本土と島とを結ぶ堤道を築いた。その結果、巡礼者の痛ましい事故はなくなった。

 2010年のこの旅行の当時、私たちはこの堤防の道路を通って、モン・サン・ミッシェルの城門をくぐった。

 (聖堂のテラスから撮影/右下に人が渡っている)

 しかし、その頃、既にフランスでは大きな問題になっていた。この堤道のために、ものすごい速さで島のまわりを流れていた潮流の向きが変わり、川が運んでくる土砂がどんどん堆積するようになった。湾は土砂で埋まり、干潮時には15キロの沖合いまで砂地が露出するようになった。このままでは海上の岩山という世界遺産の景観が台無しになってしまう。

 その後、工事が開始され、堤の道路は撤去されて、潮流を通しやすくするために細い橋脚が並ぶ橋が架けられた。完成したのは2014年である。

 それまで堤道の上を疾走していた乗用車も、橋のずっと手前のパーキングに入り、観光客はそこから公共のシャトルバスで渡ることになった。

 こうして、現在、世俗世界と聖地は海で隔てられ、海を渡って参詣する聖地に戻った。

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  発見された「地下のノートル・ダム」

 今回のモン・サン・ミッシェルの写真は、全て堤道のある南側から撮影した写真。多分、これがモン・サン・ミッシェルの表側の顔なのだろう。中心には修道院の礼拝堂がある。

 フランス政府がここを歴史的建造物に指定して修復工事を進めていた1898年(明治30年)に、この礼拝堂の身廊の下から、地下聖堂が発見された。学術調査は20世紀半ばまで引き継がれ、この地下聖堂は「地下のノートル・ダム」と呼ばれるようになった。

 この地下聖堂の一部が、あのオベール司教が夢の中で大天使ミカエルに命じられて建てた伝説の礼拝堂ではないかと言われている。また、オベール司教の墓も発見されたという。

 ただし、「地下のノートル・ダム」の主要な部分は、10世紀のものと考えられている。

 オベールの時代から150年ほど後の847年、ヴァイキングが聖ミカエルの岩山を占領し、さらに911年にはノルマンディ公国が生まれた。

 966年、初代ノルマンディ公の孫に当たるリシャール1世が、ローマ教皇の承認の下、ここにベネディクト派の修道士を招いて修道院を設立した。

 「地下のノートル・ダム」はこの時のものではないかと考えられている。

 正規の修道院となったモン・サン・ミッシェルは、以後、修道士たちの祈りと学問の場として、ノルマンディ公国の保護と寄進を受けながら発展し続けた。

 なお、当時の多くの修道院同様に、モン・サン・ミッシェルも防御施設を備えていた。中世は王や領主の統治力は不安定で、治安は必ずしも良くなかった。実際、フランス王とノルマンディ公との戦いに巻き込まれたこともあった。

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ロマネスク聖堂の建設

 西暦1000年を越えて中世後期に入ると、人々の暮らしに少し余裕ができ、また、マリア崇拝が沸き起こって、人々が巡礼に出るようになった。

 1060年、ノルマンディ公リシャール2世は、イタリア人の建築家を招聘して、「地下のノートル・ダム」上の岩の上に、この修道院のための礼拝堂をロマネスク様式で建造した。これが今、海上の岩山の上に聳える礼拝堂の原型である。

ゴシック様式の「ラ・メルヴェイユ」の建設

 12世紀から13世紀へと、モン・サン・ミッシェルはさらに発展していった。

 1228年には、ロマネスクの礼拝堂の北側(裏側)に、「ラ・メルヴェイユ(西洋の驚異)」と呼ばれるゴシック建築が完成した。切り立つ岩山の傾斜の上に建てられたので「驚異」と呼ばれた。

 「ラ・メルヴェイユ」は、東側と西側の建物に分かれ、それぞれ上下3層からなる。3層目(3階)の高さが礼拝堂と同レベルであった。

 東側は、上から下へ、③修道士たちの食堂、②迎賓館(王侯貴族が参詣に来たときの客間)、①司祭室(一般の巡礼者たちに食事が施された)。

 西側は、③回廊(修道士の祈りと瞑想の場)、②騎士の間(写本制作室)、①貯蔵庫(ワインとか食料の倉庫)である。

 こうして、13世紀にほぼ現在の形が出来上がり、多くの巡礼者が訪れるカソリックの聖地の一つとなった。

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百年戦争と再建・大修理

 大天使ミカエルは「ヨハネの黙示録」の中に登場し、剣を抜いて悪魔の象徴である竜と戦う「戦う大天使」である。

 モン・サン・ミッシェルは英仏百年戦争(1339~1453)のとき、修道士がフランスの騎士たちとともに籠城して、英軍の包囲兵糧攻めや臼砲攻撃に耐えて、難攻不落を誇った。

 ちなみに百年戦争のとき活躍したジャンヌ・ダルクも大天使ミカエルのお告げによって戦いに立ち上がり、フランス王を援けて、それまでフランス王側が劣勢だった流れを変えるきっかけをつくった。

 百年戦争の後、15世紀には、崩壊したロマネスク様式の礼拝堂の内陣部分を、フランボワイアン・ゴシック様式で再建し、身廊部分も大修理した。このとき、内陣の下には、上の内陣部分の重量を支える太柱の礼拝堂が造られた。

 もともと不安定な岩山の上に建てられていたので、時に大修理を必要とした。上の礼拝堂の身廊、内陣、翼廊を支えるために、その下に頑丈な太柱の列柱を並べ、これによってできた下の空間も付属の礼拝堂等として使った。

 こうしてモン・サン・ミッシェルは、歴史的な複合建築として成長していったのだ。

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 牢獄を経て国立博物館へ

 18世紀のフランス革命は、王侯貴族に対するだけでなく、或いはそれ以上に、キリスト教(カソリック)に対する革命であった。多くの修道院や大聖堂が襲撃・破壊・閉鎖され、革命を容認しない聖職者らは牢獄に収容された。

 モン・サン・ミッシェルも、そういう聖職者や王党派の政治犯らを収容する大牢獄として使われ、多いときはこの狭い空間に1万2千人が幽閉されて、「海のバスチーユ」と呼ばれた。

 ショーン・コネリー主演の映画『薔薇の名前』に修道士たちが写本しているシーンがあった。映画では、その写本が殺人事件を解き明かすキーとなった。

 モン・サン・ミッシェルの手写本の蔵書は『フランスの宝庫』と謳われていた。だが、大革命のときの襲撃で、これらも破壊・略奪され、また、革命政府の台所を支えるために競売に出されて雲散霧消してしまった。

 今、観光客がモン・サン・ミッシェルの礼拝堂やラ・メルヴェイユの中を見学しても、石の壁と石の柱と石の階段以外には何もなく、無機質なガランドウで、それはアヴィニヨンの教皇宮殿と同じである。

 フランス大革命の痛ましい処刑(ギロチン)の数々や、投獄、そして文化財の破壊はすさまじい。

 しかし、現代のものの見方や感じ方で歴史を裁くのは良くないのかもしれない。また、こういうすさまじい一時期がなければ、人々の暮らしの隅々まで浸透し、人々を支配していた宗教(一神教=絶対神)の「世俗化」は成らなかったのかもしれないとも思う。

 19世紀になり、フランス政府は、破壊され牢獄となって荒廃していたモン・サン・ミッシェルを大修理して、「国立博物館」として復活させた。その過程の中で、「地下のノートル・ダム」が発見され、堤道が築かれ、建築群の中央に大天使ミカエルの尖塔が建てられた。

 1922年、少数ながら修道士たちが集まり、建物の一部を修道院として使うことが許された。

 城門の中で修道士の姿を見かけた。もともと修道院なのだ。私のような非キリスト教徒の観光客でも、ガランドウの無機質な「博物館」は無味乾燥に見える。

 東大寺でも法隆寺でも、私たちが知らない早朝や夕方以降に、日々、僧侶が修行し、お勤めをし、清掃も、線香も花も読経の声も絶えない。だから、観光客が押し寄せ、修学旅行生でいっぱいになっても、お堂や塔や仏像が生きてくる。

 日本では、神社や寺への観光客は、また、参詣者でもある。混然一体。融通無碍。

 1979年に、モン・サン・ミッシェルはユネスコ世界文化遺産に指定された。

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<モン・サン・ミッシェルを見学する>

 城門をくぐって、城壁の中へ入った。

 「グランド・リュ(大通り)」という名の参道は、中世の時代なら「大通り」だろうが、世界からやってきた観光客で、人、人、人。いわゆる「門前町」で、両側には土産物屋やレストランがひしめいている。一昔前の大阪の日曜日の戎橋筋、或いは、屋台が並ぶ初詣の神社の参道の趣。人ごみの中を、ぶつからないように、流れに従って、そろそろと歩くだけ。立ち止まって写真撮影などできない。

 以後、建物の中の見学中も、人が多くて写真撮影はできなかった。

 歩きながら、首に掛けていたカメラを適当な角度にして、パチリ。

  (門前町)

 この「門前町」は14世紀には巡礼者たちを迎えていたらしい。その後、大革命で衰亡。牢獄に門前町は要らない。現在の建物はモン・サン・ミッシェルが再生された19世紀のもの。

 屋外のゆるやかな階段を伝って、かなりの距離を上って行くと、礼拝堂の西側のテラスに出た。ここからの海の眺望は素晴らしく、しばし陶然。

 (西のテラスからの眺望)

 (西のテラスから見上げる尖塔)

 干潟の海の方から振り返ると、礼拝堂の上に大天使ミカエルの尖塔があった。

 このあと、迷路のような見学コースを、ガイドに導かれながら、ロマネスクの身廊、続いてフランボワイアン・ゴシック様式の内陣、さらに、同じレベルの「ラ・メルヴェイユ」の最上層の「回廊」へ。

 (最上層の回廊/礼拝堂が見える)

 回廊は、修道士たちの祈りと瞑想の場。読書を許す修道院もある。

 ただ、ふつうの修道院なら地上にあるが、ここは天空の回廊である。礼拝堂と同じ標高で80mほどもあるそうだ。

 回廊の西側には窓があり、海に向かって開けていた。

 ラ・メルヴェイユの各部屋や、上の礼拝堂を支える下の礼拝堂などを見学しながら、階段を下へ下へと下りていくと、最後は「地下のノートル・ダム」。

 (地下のノートル・ダム)

 モン・サン・ミッシェルの最古の建造物だ。突き当りに祭壇があり、途中で工事をやめたのか、断念したのか、祭壇の奥に岩が露出していた。

      ★

<ライトアップされたモン・サン・ミッシェル>

 今夜の宿として予定されていたホテルはモン・サン・ミッシェルに近く、ライトアップされたモン・サン・ミッシェルの威容が望めるホテルという触れ込みだった。ところが、手違いがあったとかいうことで、遠い簡易ホテルに変更になり、観光バスで行った。

 晩飯のあと、一行の中の10人ほどの人たちが、ライトアップされたモン・サン・ミッシェルの写真を撮りたいと、真っ暗な夜道を歩いて行った。

 私は、バスが走った距離を考えてやめた。そして、少し外を歩いて、肉眼で小さく、遥かに遠く見えるモン・サン・ミッシェルを、ズームレンズを最大限の望遠にして、三脚はないので手持ちで写した。どうせ手ぶれするだろうと期待していなかったが、それなりにその感じが写せて、自分でも驚いた。最近のカメラはすごい。

 (ライトアップされたモン・サン・ミッシェル)

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<ノルマンディの小さな町の恋物語>

 「ブルターニュ地方がどちらかといえば影のある感がするのに反して、ノルマンディ地方は『光』にみちたおだやかで明るい世界である。

    海からの影響であたたかく、平野が多いためだろう。主として牧畜が行われ、チーズは名高い。葡萄酒はつくれないが、リンゴの栽培は盛んなため、そのシードル酒はブルターニュ地方とならんでよく知られている」(饗庭孝男『フランス四季暦』から)。

 (車窓から/羊とモン・サン・ミッシェル)

 モン・サン・ミッシェルは、ロカマドゥールに似て、その規模を大きくしたような奇勝である。ツアーではこういう奇勝が好まれる。自ずからフランス第一の観光地となった。

 だが、私は、ヴァイキングの子孫が領主となった明るい風土のノルマンディ地方も、ケルト的なものが残る影のあるブルターニュ地方も、列車と路線バスと自分の足で訪ね、その日常的な街や村の景観を見、人々の歴史と暮らしを感じてみたい。率直に言って、奇勝・奇岩よりも、そういう旅がしたいと思った。

 20代の初め頃だったか?? 『シェルブールの雨傘』というミュージカル風のフランス映画を観た。シェルブールという小さなフランスの町を舞台にした若い男女の恋物語だった。ただ美しいだけの愛らしい小品だと思ったが、カンヌ映画祭でグランプリを獲得した。グランプリを取った要因は、映画のバックになった小さな町の雨の風景の美しさ、この映画で世界にデビューしたカトリーヌ・ドヌーブという若くみずみずしい女優の美しさ、そして、彼女らの歌声の美しさ。要するに、ハリウッドとは違うフランス風の粋な映画であったこと。

 今回、地図を見ていて、シェルブールという田舎の町が、コタンタン半島の突端の、イギリス海峡に突き出した町だということを初めて知った。

 どんな小さな町にも、恋はあり、人生がある。

 

 

 

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大天使ミカエルの岩山とノルマンディ地方 … 観光バスでフランスをまわる9

2022年07月23日 | 西欧旅行…フランス紀行

  (モン・サン・ミッシェル)

 ロワールのお城めぐりの後、バスでモン・サン・ミッシェルへ向かった。

 ノルマンディ地方に入ると、家々の作りも色合いも違ってきた。バスが通り過ぎる町や村の趣が、地中海側の南仏とも、ロワール渓谷の町や村とも違う。風土が変わると、文化が変わり、町並み、家並みも異なってくる。

 フランス第一の観光地であるモン・サン・ミッシェルは、ノルマンディ地方のコタンタン半島の西側、サン・マロ湾の海上に聳えている。

       ★   

<モン・サン・ミッシェルの縁起>

 「モン・サン・ミッシェル (Mont Saint-Michel) 」は、聖ミカエルの山。ミカエルはヘブライ語で、フランス語ではミッシェル。聖書に出てくる大天使の名。

 もともと、島全体が岩山だった。

 今は海岸線を堅固な城壁が囲み、城門を入ると門前町が続く。

 その上、岩山の中腹から上に聳える建造物が、大天使ミカエルに捧げられた修道院である。

 真ん中の尖塔の高さは、海面から150m。その天辺には、悪魔の象徴である竜と剣を抜いて戦う大天使ミカエルの像がある。この尖塔は新しく、19世紀の建造。

  (聖ミカエルの尖塔)

 なぜ、聖ミカエルに捧げる聖堂がこんな場所に建てられたのか それを伝える縁起がある。

 以下、今回と次回、モン・サン・ミッシェルの歴史を、見学の時にもらった日本語のしおり、バチカン学の荒井佑造先生の講義、そして紅山雪夫氏の『フランスものしり紀行』などを参考に書く。

       ★

「モン・トンプ」と呼ばれた巨大な岩山

 伝承では、もともと、そこは、サン・マロ湾の中の「島」ではなかったという 

 陸続きで、森に覆われていて、森の中から突き出した岩山だった。

 以前は陸続きだったのか、もとから島だったのか。いずれにしても、こういう突出した岩山は聖地となり、神域となる。それはわが国でも同じである。

 紀元前のこのあたりのケルト人たちは、そこをモン・トンブ(墓の山)と呼んでいたらしい。

 そして、ケルト人の時代にはベレンという神、その後、ローマ人が入植してケルト人がローマ化した時代にはメリクリウスという神が祀られていたという。

 ローマ時代の末期、この地方にもキリスト教の教えが伝えられ、人々はキリスト教徒になっていったが、この岩山は初期キリスト教の時代にも聖なる地として受け継がれた。

 キリスト教の2人の修道者(ケルト系の隠者)がここにささやかな礼拝堂を建て、庵を構えて修行した。ケルトの「大地の母なる神」への信仰とキリスト教の「聖母マリア」崇拝とが重ね合わされるような、素朴なキリスト教信仰の時代だった。

       ★

 夢に現れた聖ミカエル

 時代は進み、西ローマ帝国滅亡後の混乱の後、ゲルマン民族の中のフランク族がフランス(ガリア)を統治するようになった。彼らはカソリックに改宗して、先住のローマ系やケルト系の人々を安心させ、うまく統治した。

 そのフランク王国のメロビング朝(481~751)の終わり頃のことである。

 アヴランシュはこのあたりの中心となる町で、モン・サン・ミッシェルから10数キロの高台にあり、今でも町からサン・マロ湾を望むことができるそうだ。

 そのアヴランシュの町に司教座が置かれていた。

 ある夜、司教オベールの夢の中に、なんと 大天使ミカエル (仏語で聖ミッシェル) が現れた。聖ミカエルは、オベールの夢の中に3度も現れ、あの森の中に聳える岩山に、自分に捧げる礼拝堂を建てよと命じたのだ。

 それで、オベールは人を遣わして、イタリアにあった聖ミカエルに捧げる礼拝堂を調査させ、その報告を参考にして、この岩山に礼拝堂を建てた。

 これが今に伝わる「モン・サン・ミッシェル」の「縁起」で、西暦708年のこととされる。もちろん、今、見る壮大な聖堂ではないが、それなりの石造りの礼拝堂だったと思われる。

 翌年、さらに、奇跡が起こった 岩山を囲む一帯の森が沈んで、岩山は海の中の岩山になったというのだ。

 もちろん、陸地の森が海になったという話は信じがたい。いかにも中世前期らしい奇跡譚だと思われていた。

 モン・サン・ミッシェルの周囲を流れる潮の干満の差は激しく、干潮のときには陸続きのようになり、巡礼者たちは歩いて島へ渡っていた。そういうことから生まれた伝説ではないかと考えられていた。

 ところが、この湾の底の地質を調査していた学者が、ここが8世紀頃まで森だったという証拠を発見したという。つまり、地盤沈下とか津波とかで沈んだ可能性も考えられるというのだ。

 ありえない話ではない。例えば、北琵琶湖の湖底に、縄文時代の住居や道、丸木舟、石垣、石室、そして大樹の根が発見されている。何らかの地殻変動があったのだ。

 とにかく、こうして、海上に聳える「モン・サン・ミッシェル(聖ミカエルの岩山)」の原型が出来上がった。

 (以下、モン・サン・ミッシェルのその後の歴史は、次回にまわします)。

 (礼拝堂の竜の飾り彫り)

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<閑話1ー1 --- ノルマンディ地方のこと>  

 フランスのノルマンディ地方は、9~10世紀に、ノルマン(北の人)、即ちスカンディナヴィアからやって来たヴァイキングが攻め入り、支配・定着した地方のことである。

 ヴァイキングは、古ノルド語でビーイング。「vik」は入り江のことらしい。ビーイング(ヴァイキング)は「入り江の人」の意。もとはフィヨルドの民で、その後勢力圏を広げて「ノルマン」となる。

 彼らはもと、深い入り江の奥で、農業や牧畜によって生計を立てていた。

 だが、もう一つの顔があった。

 吃水の浅い船で船団をつくり、北の海の島々や半島 ── アイスランド、グリーンランド、アイルランド、デンマーク、イングランド ── さらに大陸へ渡ってフランス北部へ、交易・略奪に出かけ、植民もした。ヨーロッパ大陸の河川は流れが緩やかだから、吃水の浅い彼らの船は内陸部へどんどん遡っていくことができた。町や村を守るべき領主や修道院も襲われ、襲われた町や村は廃墟になったという。

 彼らは、既にAD847年には、サン・マロ湾の海上の聖地、司教オベールが礼拝堂を建てた「聖ミカエルの岩山」を占領している。

 AD882年には、セーヌ川河口から遡って、西フランク王国(カロリング朝)のパリを包囲した。この時は、パリ伯ウードが撃退した。(ウードの子孫はやがてカロリング朝に代わってフランス王になる)。

 パリの占領はならなかったが、彼らはセーヌ川の河口地域からその西一帯の広大な地を占領し、冬を越して居ついた。

   ついに911年、西フランク王はノルマンの首領のロロと交渉し、彼をノルマンディ公にする代わりに、キリスト教に改宗し、王に臣従することを誓わせた(封建関係)。

 こうして、セーヌ川下流からコタンタン半島を含む一帯を領するノルマンディ公国が生まれた。

 ノルマンディ公国は、18世紀の終焉まで、モン・サン・ミッシェルに手厚い保護を与え続けた。

      ★

<閑話1-2 その後のノルマンの活躍>

 NHKテレビで放送されたアニメ『ヴィンランド・サガ』は、AD1000年頃のヴァイキングの物語。

 私は主人公の若者が父の仇と何度も決闘を挑むアシェラッドが好きで、彼が死んだときは「ロス・アシェラッド」になった。ちなみに、アシェラッドのキャラクターは典型的なハードボイルドだと私は思っている。クールでニヒルなリアリストだが、その魂の奥底には熱いものを秘めている。彼の出自はノルマンではなく、ウェールズ。アングロ・サクソン、そして、ノルマンに抵抗し続けた、誇り高いローマ系のウェールズ人だった。

 「サガ」とは伝承、或いは物語。北欧の口承伝承で、12世紀頃に文章化されたようだ。日本で言えば、「古事記」や「日本書紀」の原型となった帝紀・旧辞のようなものだろう。

 「ヴィンランド」は、この物語の主人公がやがて到達するアメリカ大陸のどこかの地名。カナダのニュー・ファウンドランド島ではないかと言われている。ヨーロッパ人の「アメリカ大陸発見」は、16世紀のコロンブスではなく、11世紀のノルマン人だった

 ノルマンの活動はさまざまで、フランスの北部にできたのがノルマンディ公国。ロロ(ロベール)の子や孫や曾孫はフランス語を話し、フランス流の礼儀作法を身に付け、立派なフランス貴族になっていった。

 ところが、初代のロロ(ロベール)から110年ほど。ヴァイキングの血が再び騒いだのか、7代目のノルマンディ公ギョーㇺ2世(英語ではウイリアム)は、1066年、王家の相続問題で揺れるイギリスに遠征し、あざやかにイングランドを征服してしまった。

 ギョーム(ウイリアム)は、イギリスでは国王、フランスではフランス王の臣下という奇妙な立場となり、世代交代が進み、婚姻関係も絡んで、後の英仏百年戦争の遠因となった。

 いずれにしろ、今の英国女王も、貴族も、その先祖を遥かに遡れば、ギョームと、彼の部下だったノルマンディ公国の騎士たちにたどり着くことになる。

 英語は今や国際語だが、実は1066年以後に大量のフランス語が入ったから、英語の3分の1はフランス語起源だそうだ。つまり、英語はまだ千年しかたっていない若い言語だということ。英語が論理的で優秀な言語だと思い込んでいる日本人が多いが、それはコンプレックスですよ、と、フランス文学者の篠沢秀夫教授は仰っている。

 イギリスに遠征したギョームと同じ時代に、ノルマンディ公国の一部の騎士の子弟たちは船団を組んで南下した。ジブラルタル海峡を通過し、地中海へ深く侵入して、やがてシチリア・南イタリアに王国を打ち立てる。

 第6次十字軍を率い、スルタンとの交渉によって条約を結び、平和裏にエルサレムを開放した皇帝フリードリッヒ2世。彼はシチリアで生まれ育ち、アラビア語の読み書きもできた。母親はシチリア王家で、ノルマン系である。

 (車窓のモン・サン・ミッシェル)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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