ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

岩壁の熊野磨崖仏、そして神仏習合の起こり … 秋の国東半島石仏の旅4

2014年12月22日 | 国内旅行…国東半島の旅

 大分県立歴史博物館を出発して、車を南へ走らせ、山香(ヤマカ)という分岐で10号線と別れて、いよいよ国東半島の山中に入って行く。

 しばらくは山また山の谷筋を用心しながら運転し、ほどなく熊野磨崖仏のある胎蔵寺の駐車場に着いた。

 小さなお寺の入り口で入山料を払う。

 杖を持って行った方が良いと勧めらて拝借した。

 寺の公式サイトによると、この寺の創建は718年ということになっている。国東半島の六郷の多くの寺と同じように、領主である宇佐神宮が造った寺である。

 寺の脇から入る薄暗い山道をたどる。

 早く磨崖仏を見たいと心急く気持ちを抑えて、一歩一歩足を踏みしめながら登って行く。

 紅葉がはじまっていた。大阪や奈良より早い。

    ( 胎蔵寺の紅葉 )

 300mほど登ると、突然、目の前に蒼古とした石の鳥居と、その先に、天にまで続いているかのような急峻な石段が現れた。あたりは樹木が鬱蒼として、人けはなく、不気味である。

  

  ( 石の鳥居と石段 )

 石段は、鬼が一夜にして積み上げたという伝説がある。自然石を乱積みしただけのものだから、歩幅も一定せず、足の置き場に気を取られ、おそろしく急峻で、足腰に負担がかかった。

 それでも、一歩一歩登っていると、突然、左手に視界が開け、大きな岩壁に彫られた2体の磨崖仏が現れた。

 

  ( 岩壁に刻まれた磨崖仏 )

   左は不動明王。高さ約8m。不動明王は憤怒の形相の怖い仏様だが、この不動様は柔和で、ユーモラスでさえある。

   

          ( 不動明王 )

 右は大日如来。高さ約6.7m。きりっとした男らしいお顔は若々しい。

 

        ( 大日如来 )

   伝説によると、寺を開いたとき(718年)に、宇佐八幡の化身である仁聞菩薩が彫ったという。だが、寺の公式サイトでも、その他の説明でも、平安時代の末期の作としている。

 あとから2人づれが登ってきて、仏様の下に立つと、人間と比べてなるほど大きい。日本で最古、最大の磨崖仏だと言う。こんな山中の岩壁に、このような巨大な仏を彫ろうと思い、彫り続けた人の思いを想像する。

 乱積みの石段は、さらに上へ向かって延びていた。この先に何があるのだろう?? ここまで登って来た以上は見極めたいと思って、元気を出して登って行く。すると、やがて鳥居があって、そこで石段は尽き、鳥居の先に粗末な古びた社があった。…… 熊野神社とある。

            ( 熊野神社 )

 これも寺のホームページによるが、熊野詣が盛んだった平安時代の末期、当時の住職もまた遥々と紀伊半島の山奥まで参詣に行って、当寺に熊野権現を勧請し、寺の名も「今熊野胎蔵寺」に改名した。今も、これがこの寺の正式名称だそうだ。

 それで、この磨崖仏に「熊野」が付いて、「熊野磨崖仏」と呼ばれるのだと、改めて得心した。日本人の心は融通無碍で、和をもって尊しとし、神と仏も習合する。

 さらに、ホームページには、この磨崖仏を彫ったのは、その住職だとする。鎌倉初期の記録には、この磨崖仏は登場するそうで、よって平安末期には造られていたことは確からしい。

         ★

 713年、朝廷は律令支配を辺境にまで及ぼすため、日向の国から大隅の国を分離し、新たに国司を派遣した。

 720年、大隅の国司が殺され、大規模な反乱が起きる。隼人の乱である。

 このとき、万葉歌人として有名な大伴旅人を司令官とする征討軍が派遣され、2年に渡る激しい戦闘の末、多くの血が流されて、乱は鎮圧された。

 この乱のとき、朝廷軍の側に立って、乱鎮圧に貢献したのが、豊の国の一大勢力であった宇佐八幡宮の軍勢であった。

 乱のあと、宇佐一帯に流行り病や凶作が続き、人々は戦さで多くの人を殺した祟り(タタリ)ではないかと畏れた。そして、ちょうどそのころに伝来した新しい教えである仏教に、殺生からの救済を求めた。

 隼人の慰霊と自らの減罪のため、殺生を戒める仏教の儀式である放生会が神道にとり入れられたのも、このころである。

 宇佐八幡宮の中には、立派な神宮寺が造られた。国東半島の所領地にも次々と寺が建立された。

 聖武天皇が大仏造立の詔を出したとき、いち早く神託をもって帝を励ましたのも、こういう事情があった。

 神仏習合は、国東半島から始まった。

 この列島に生きてきた人々の心は、神と仏の両方を必要としたのである。

   

 

 

 

 

 

 

 

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友人・Tさんへ

2014年12月15日 | 手紙

前略

  この前お会いしたのは秋たけなわのころでしたが、もう師走も中旬になってしまいました。

  その後、お変わりなきことと思います。

  私は相変わらず、これという変化のない静かな日々を送っています。

  いま、井上靖の『わが母の記』を読み始めています。その冒頭部に亡き父のことが書いてありました。 井上靖の父は軍医少将に昇進したとき、昇進を契機に48歳の若さで退職し、以後、80年の生涯を終えるまで、夫婦で郷里の家に隠棲して、百姓をして暮らしました。

  そのことはそう珍しいことではないのかも知れませんが、このお父さんは一種の「厭人癖」があり、「家の敷地から外へ出たことは数えるほどしかなく、訪ねてくる村人には不機嫌な顔を見せるようなことはなかったが、自分から他家を訪ねて行くといったことはなかった」そうです。

   私は、親しい人となら酒を酌み交わすことが好きで、「家の敷地から外へ出たことは数えるほどしかなかった」というほど「厭人」ではありませんし、旅行にもよく出かけます。が、義理で会合や宴席に出たり、人前で話したりするのは、とみに億劫になっています。

  組織の一員として仕事をしているときには、そうも言っておれませんでした。しかし、今は、半公的な会合などに、なかなか足が向きません。いつも欠席ですが、お許しください。

                  ★

  「ドナウ川の白い雲」について、ご感想を送っていただき、ありがとうございました。

  私を知っている人が読んだら、多分、私の息づかいまで感じられて、ナマナマしく、いやなのではないかと思い、今までにこのブログの存在をお教えしたのは、本当に親しい方たちだけです。それでも、ご迷惑だったのではないかと、気にしています。

  ですから、このブログは、私という人間について何も知らず、どこの誰かを知る術もなく、たまたまネットの中で偶然に出会って、興味をもってくれた人、…… そういうごく少数の人々に読んでもらえればよいと思って、書いてきました。

                   ★

  それも、すでに117回になって、最近はすっかり筆不精になっています。

  書かないと、多くない読者が、さらに減っていきます。

  ブログを開いてみたけれど、今日も更新していないので、過去に、面白いと思った記事を1,2編、また読み直して、ブログを閉じたという、そういうファンもいることが、gooから送られてくる数値データからわかり、申し訳なく思います。

  書かないのではなく、最近は、書けなくなっているのだと思います。

  まるで一流の作家みたいな言いぐさですが、自分の中でぐつぐつと発酵して、やがて明確な「形」を現してきた何かでないと、なかなか書けません。

  それらはいずれも、自分にとって、本や旅や生活の中で得た発見や感動が基盤になっているのですが、その中でも、いつか、どうしても書き表したいと思っていたいくつかの事柄がありました。そのいくつかを、117回の中で書ききってしまったのだと思います。

  それは、いくつかであって、117回のうちの110回は、その周辺部分であったと思います。

  長い年月の間、自分の中で出口を求めていた事柄を、すきっと表現できた満足感は、大きいものがあります。

                  ★

  もっと多くの読者を得るためには、文章もごく短くし、もっと身近な題材で、さらっと書く、そして、毎日、更新することが必要だとわかっています。また、ネット上で人から人へとどんどん読者が増えるようなしくみを作ること、そういうことが必要なこともわかっていますが、そういう若者的なブログを作る気になれないので、仕方ありません。

                   ★

  ブログに掲載している写真についてお褒めの言葉をいただきましたが、例えばヨーロッパ旅行記にしても、他の同類のブログより、写真だけは負けてないなと自負しています。

  20年もお世話になっている歯科医院の先生が、最近、待合室のパソコン画面に、自分の撮った風景写真を次々流すようにセットしています。順番を待っている人を少しでも慰めようとの意図なのでしょう。

  この先生、最近、およそ中高年の医者らしくない、随分変わった形のオートバイに乗って、小旅行(撮影旅行)するという趣味をおつくりになったらしい。…… これはとても良いことです。お医者さんは収入の多い仕事でしょうが、来る日も来る日も狭い診療室で、次から次へと患者を診て、何十年もただ儲けるだけの人生では、人ごとながらたいへんしんどい人生だと思っていました。

  待合室のパソコン画面には、近畿圏のあちこちの風景が映り、時には自分の妙な形のオートバイを点景に入れてあったりして、歯科医としての腕ほどではありませんが、まずまずの腕前です。

                   ★

  少々脱線しました。

  最近、あまり書けなくなっていますが、でも、今のところブログをやめるつもりはありません。

  明治以後の日本人のあこがれであり、目標としてきた西洋文明とは何か? その歴史と現在は?

  (元首相の管さんがお好きであった)「市民」とは、本当のところ、西洋史上、どのような人々であったのか?

  日本にとって、先の「大戦」は、何であったのか?

  渡来弥生人はどこから来たのか? 日本語の起源は?

  「神武東征」はあったのか?

  邪馬台国がヤマト政権か?

  日本の文化と伝統とは?

  こういった関心が私の中にたえずあって、本を読み、考え、旅をし、そして書くという、それらが混然一体となって、結構、毎日を楽しんでいます。

  どうか、また、時に、思い出して、「ドナウ川の白い雲」を開いてみてください。

  それから、また、一献傾けながら、清談をしたいものです。

  寒さ厳しき折から、くれぐれもご自愛ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

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国東半島は神と仏の習合した里 (県立歴史博物館) … 秋の国東半島石仏の旅 3

2014年12月10日 | 国内旅行…国東半島の旅

      ( 復元された富貴寺本堂 )

   旅に出る前に少しだけ勉強はしたが、ここ(国東半島)はどういうところなのだろう?? 自分の頭の中がすっきりしていない。そこで、国東半島の内陸部を走る前に、宇佐市にある大分県立歴史博物館に立ち寄った。

   この博物館は、森と、田んぼと、宇佐の古墳群が広がる明るい一角にあって、国東半島及び宇佐地方の自然、農産業、歴史、宗教、民俗のことなどを展示し、1時間では到底見きれないほど充実していた。

 

   ( 博物館の階上から )

 とりわけ富貴寺本堂の創建当初の復元は素晴らしかった。

 熊野摩崖仏の複製もあった。

  

  ( 熊野摩崖仏の複製 )     

        ★

   半島というと長細い形をしている。スカンジナビア半島にしても、イタリアの長靴にしても、朝鮮(韓)半島にしても、房総半島にしても。だが、国東半島は、ずんぐりしている。円いたん瘤のような形で、瀬戸内海に突き出している。

 その丸の中心あたりに両子(フタゴ)山 (海抜720.8m) があり、両子山山系から北、南、東の半島を囲む海に向かって、放射状に、幾つもの尾根と、深い谷が延びている。

   今、いる宇佐は、国東半島の北の付け根あたりに位置する。

   ヨーロッパからの帰路、延々とユーラシア大陸の大地の上を飛んで、最後に日本海をひょいと渡り、日本列島上空にさしかかって、上空から祖国を見ると、そこは、山また山である。

   山と山の間から幾筋もの谷が延び、霧が立ち上っていたりする。その谷筋に小さな集落が現れ、狭い田畑が切り開かれているのが見える。やがて、谷筋の流れが次第に大きくなり、いくつも村があり、支流を集めて、平野部に入る。平野には都市が現れるが、すぐに海だ。

 私たちの国土は山と谷ばかりで、平野部の面積は海岸線のみ。誠に狭い。

 上空からそのような地形を、なつかしい思いとともに眺めていると、ヨーロッパやロシアや中国と違って、日本が神々の国 (「神の国」ではない) であることが納得できる。山々や谷々のそれぞれに、神がやどる。精霊といってもいい。私は宮崎駿とは多分、歴史観を異にすると思っているが、この一点 ( 神々の棲む山や森や谷を破壊してはいけない。それは日本人の魂を破壊することにつながる ) において共感する。黒姫山に住む C,W, ニコルさんとも共感する。

   国東半島は、そういう意味で、日本を象徴するような地形と風土をもつ。屹立する山々と、幾筋もの谷と、点在する集落から成り、海岸線まで下っても都市を形成するほどの広さはなく、大地は海に落ちる。

   その28の谷を6つの里に分けて、六郷と称した。六郷は、古来、宇佐神宮の所領、つまり荘園として発展し、宇佐神宮の庇護のもとに、神仏習合の寺院集団が形成された。往時には185の寺院、800の堂があったというから驚く。

   仏教寺院と言っても、そのなかに鳥居もあれば、社もあって、神仏が習合した神と仏の里である。

   実際、車でか細い道を走り、寺のパーキングに車を置いて分け入ってみると、屹立する岩の窪みや木々の間のそこここに、石仏、石塔が点在し、磨崖仏が彫られ、岩山は自ずから山岳修行の地となっている。

   険しい尾根によって分断された村々には、それぞれに独自の風習や祭が伝えられている。

          ★

   以前、NHKの「新日本風土記」が、国東半島を取り上げていた。

   ある年の村の祭の「風景」である。

   2人の若者が、村の祭りの赤鬼、青鬼の役に選ばれた。一生に一度の名誉である。選ばれた以上、やり切らねばならない。2人は、毎晩、仕事が終わると、村の神社で、先輩から鬼の踊りを教わる。鬼の踊りだから、非常に激しい。だが、カッコいい。

   祭の当日、赤鬼、青鬼の面を付けた2人は、村の1軒1軒を訪ねて、五穀豊穣とその家の無病息災を祈願し、鬼の踊りを踊る。激しい舞いの全部を1軒、1軒で舞うのである。

   日も暮れて、全ての家を回りぬき、社に着いて最後の奉納の踊りを踊る。舞い終わった直後に、青鬼は精魂尽きて、倒れる。よくやった!! 村の他の若者たちが青鬼を担ぎ、赤鬼に肩を貸しながら、畳に寝かせる。━━ 爽やかで、かっこよくて、感動的である。

   日々、神々とともに働く。

   ハレの日には、神々とともに酒を飲み、食べ、笑い、踊る。

   日本の神々は神社に君臨しているのではない。山や杜や田や淵や家々にいて、人々と苦楽をともにし、人々と一緒に、生きることを楽しむ。

   ここは、そのような日本がなお残る里である。

                   

 

 

 

 

 

 

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ドングリの杜の宇佐神宮に参詣する……秋の国東半島石仏を巡る旅 2

2014年12月05日 | 国内旅行…国東半島の旅

      ( 宇佐神宮 )

 イハレビコと兄のイツセは高千穂の宮で相談して、天下を統治するために「東に行かむ」と決め、「日向より発」った。「豊国の宇沙に至りしときに、その国人 (クニヒト)、名はウサツヒコ、ウサツヒメの二人、足一騰宮 (アシヒトツ アガリノミヤ) を作りて、大御饗 (オオミアエ) をたてまつりき」。 (古事記・中つ巻・神武天皇)

 神武東征の始まりの場面である。

 兄弟は、この国を治める最良の地を求め、東に行くことを決めて、なにがしかの軍勢を率い、高千穂を出て、日向から船で出発した。

 最初に寄港したのが豊前の国の宇佐である。その地の豪族、ウサツヒコとウサツヒメ (夫婦or兄妹) は彼らを歓待した。「足一騰宮 (アシヒトツ アガリノミヤ) 」とは、宮殿の四方の柱のうち、3本は短く崖上にあり、残りの1本は川から突き出した形に建てたるものだという。川に突出して建てたのは、眺望が良いからではなく、危険な動物や敵の襲来を防ぐ意味があったのだろう。しばらく滞在できるよう、二人のためにこのような宮まで建てて、饗応した。

         ★

 宇佐のある、周防灘に注ぐ駅館川 (ヤッカンガワ) 流域の平野は、古代人にとっても魅力的な土地であったらしく、弥生時代の大規模な環濠集落が発見され、数百に及ぶ小規模な古墳からは銅鐸や銅鏡が出土している。また、6基ある前方後円墳が、古墳時代に入ってからの宇佐の豪族と大和との結びつきの強さを物語っている。

 地図を広げると、宇佐地方は、川を通じて海に面し、その海は内海のように関門海峡や本州の周防の国 (山口県南部) とを結んでいて、海運を通じての本州との往来が盛んであっただろうと想像される。 事実、宇佐氏は航海民の首長であったという説もある。

         ★

 羅漢寺から夕刻迫る宇佐神宮へ。一度はお参りしてみたい神社だった。

 「八幡」と名の付く神社は全国に14,800社を数え、稲荷神社に次ぐ神社界の一大勢力であり、宇佐神宮はその総本山である。奈良県の、わが新興住宅地 (とは、もう言えないが、旧村ではないので) の秋祭りも、近くにある小さな八幡さまの社の祭りとして営まれている。

 それに、司馬遼太郎が「この神は風変わりなことに巫 (シャーマン) の口をかりてしきりに託宣をのべる」「それももっぱら国政に関することばかりで、よほど中央政界が好きな神のようであった」と言っている。「政治好きな」神様で歴史に登場するから、歴史好きなら一度は参詣したくなるというものだ。

 その最初は、聖武天皇の東大寺造営を支持する託宣を出して帝に気に入られ、草深い九州の地からいよいよ全国区となって、奈良の都へ進出した。手向山八幡宮である。

 ついで、奈良末期の道鏡事件の勇み足託宣を経て、都が平安京に遷都されると、京都にも進出した。石清水八幡宮は朝廷の篤い信仰を受ける。

 やがて祭神が応神天皇だというので、源氏の氏神となり、武士の政権が鎌倉にできると、鶴岡八幡宮がしばしば政治の舞台として登場するようになる。

 まことに、「他に類を見ない神社」 (『 この国のかたち  五 』) である。

         ★   

 だが、八幡神とはどういう神様なのか、よくわからないらしい。

 現在の宇佐神宮のそばに、御許山 (オモトサン) という山がある。標高647m。その山に3つの巨石があるそうで、岩は神が降り立つところだから、土地の豪族・宇佐氏がこれを聖なる磐座 (イワクラ)として祀った。神代といってよいような遠い昔の話である。

 「この島々にいた古代人たちは、地面に顔を出した岩の露頭ひとつにも底つ磐根の大きさを思い、奇異を感じた。畏れを覚えればすぐ、そのまわりを清め、みだりに足を踏み入れてけがさぬようにした。それが、神道だった。むろん、社殿は必要としない。社殿は、はるかな後世、仏教が伝わってくると、それを見習ってできた風である」 (司馬遼太郎『この国のかたち 五』)

 やがて、いつの頃からか、御許山 (オモトサン) に降り立つ神について、比売(ヒメ)大神という神であるとの信仰が流布する。ヒメだから女神であるが、固有名詞とは言えない。とにかく宇佐の地主神となった。

 のち、3つの磐座に降り立つ女性の神様だから、海人系の宗像氏などが祀る宗像三女神 (宗像大社や厳島神社などの祭神) と同じ神様だろうということになって、今、二の御殿に祭られている。

 宗像氏と同じように、宇佐氏も海人系だったのではないかと考えられている。武光誠氏は、その著『知っておきたい日本の神様』のなかで、「古代の宇佐は、瀬戸内海と大陸に向かう航路との中継地として重んじられていた」「宇佐氏は航海民の首長だった」と言う。とすれば、東征に出発したイハレビコが最初に宇佐に寄港したのは、的確な判断と言うべきであろう。これから先の航海の情報を得るためにも、優秀な船乗りを得るためにも。

   宇佐氏が祀った海神が、八幡神である。その八幡神とは?比売(ヒメ)大神とは?

   話はややこしいが、この地方にはもともと道教や公式伝来以前の仏教などの影響も受けたシャーマン系の信仰が伝来していた。その中心になった氏族が渡来系の辛島氏であるという。その祀った神がヤワタの神であったというのだ。やがて、宇佐氏と辛島氏は共同して社を建てて、渡来の神と古来からの神とを習合させた。「原宇佐神宮」である。

 この点、黒潮に乗って北から、南から、東から、流れ着いたものを熟成させ、融合し、自らの固有の文化に育て上げていく、融通無碍なこの列島の文化を象徴していると言えよう。8世紀には、宇佐八幡宮は、伝来してきた奈良仏教と自分たちの神とを集合させ、日本で最初の神仏習合の神社になった。

 しかし、この神様は、この程度では収まらない。話はさらに飛躍するのである。

 現在の宇佐神宮の広々とした境内の杜のなかに、菱形池という草深く、神秘的な雰囲気の池がある。沼といってもよく、かなり大きい。

 社伝によれば、西暦571年、この菱形池のほとりの水の湧く所(御霊水)に、光輝く3歳ぐらいの童子が現れ、「われは誉田 (ホンダ) の天皇 (スメラミコト) 広幡八幡麿 (ヒロハタノ ヤハタマロ) なり」と名乗ったというのである。もっとも、この伝説が実際に登場したのは8世紀のことらしい。そして、それ以前から、北九州では、応神天皇、神功皇后神話が流布していたらしい。  

 

           ( 御霊水を祀る )

 かくして、謎多き八幡神(ヤワタノカミ)とは、突然、誉田別尊 (ホンダワケノミコト)、すなわち、古代の英雄的な大王である応神天皇ということになったのである。

 今、一の御殿には八幡大神(応神天皇)、二の御殿には比売大神(宗像三女神)、三の御殿には応神の母の神功皇后が祭られている。

 いずれにしろ、日本の神道では珍しいシャーマニズム或いは「神託」によって、奈良時代の聖武天皇~淳仁・称徳天皇の時代に、八幡社は全国区になった。

 (なお、神道では、神官のシャーマンは認めない。清々しさが、神道である)。

         ★ 

 しかし、まあ、こういうあれこれの詮索を、宇佐の神さまは、きっと笑っておいでだろう。

 「その空間が清浄にされ、よく斎かれていれば、すでに神がおわすということである。 神名を問うなど、余計なことだ」 (『この国のかたち 五』)。

 静かな参道を行くと大鳥居があり、その向こうは奥深い。

                                 

   石段を上がると、上宮がある。

    ( 上宮への石段 )

 一の御殿には八幡大神(応神天皇)、二の御殿には比売大神(宗像三女神)、三の御殿には神功皇后が祀られていると、人は言う。

      ( 上 宮 )

 下宮も同じ神さまを祀る。世俗の願い事はこちらでするのだそうだ。

    ( 下宮への鳥居 )

 「政治好き」と評されたこの地の神様の経歴とは趣を異にして、広い境内は神社らしい清浄さと、神代の世界に誘うような斧の入っていない古代のままの常緑広葉樹が繁って、いかにも奥深い杜の中である。

 そこここにドングリの実が落ちている。

 帰り道。夕方の参道をやってくる地元の女子高生がいた。受験のお願いにしては、少し早いが … そういうご利益主義とは関係ないか … 。さすが宇佐で育った女子高生

 

 この日は、宇佐市内の旅館で泊まった。

  

 

 

 

 

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