ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

ざくっとシチリアの歴史を概観する … 地中海の文明の十字路となった島 ・ シチリア島への旅 1

2014年08月23日 | 西欧旅行…シチリアへの旅

[ 文明の十字路となった島 ]

 イタリア半島の「つま先」の、その先に横たわる島。

 その大きさは、四国と岡山県を合わせた程度だという。それでも、地中海では最大の島だ。

 古代から開け、その3千年の歴史を通じて、様々な民族と文明がこの島にやってきた。それらはあるときは激しくぶつかり合い、あるときは豊かに融け合った。まさに「文明の十字路」の島である。

 

(紅山雪夫『シチリア・南イタリアとマルタ』から)

 この5月中旬、全8日間でこの島を訪ねた。気候が良く、空は晴れ、海はのどかで、楽しかった。以下は、その記録である。

  まずは、この島の歴史の概略を記す。

[ ギリシャ人が植民市を建設 ]

 先住民も先住渡来人もいたが、紀元前の8世紀ごろからギリシャ人が盛んにやってきて、東海岸や南海岸に植民市を建設した。ギリシャ人は海洋民であり、交易の民である。

  ( 丘の上のギリシャ人の神殿 )

  

  ( 海に臨むギリシャ神殿の廃墟 )

 地図を見ると、「つま先」の「先」の、さらに「その先」には、海を隔てて、とは言え、まあ目と鼻の先に、北アフリカのチュニジア共和国がある。チュニジア … そこには、かつてカルタゴという地中海の覇権を握る海運・海軍国があった。フェニキア人の建設した強大な都市国家である。

 ギリシャ人に先行して地中海に乗り出していたフェニキア人は、後発のギリシャ人に対してことごとく敵対する。

 シチリアに根を張ろうとしたギリシャ系植民都市も、当時最強の都市国家カルタゴとしばしば戦い、滅ぼされることになる。 

[ パクス・ロマーナの穀倉となる ]

 時代は下って、第三の勢力が登場する。 イタリア半島で成長・発展した新興国ローマが、シチリア島の権益をめぐって、地中海の覇権国カルタゴと激突したのだ …

 第一次ポエニ戦役(BC264~241)、第二次ポエニ戦役(BC218~201)、第三次ポエニ戦役(BC149~146)。 この戦いを通じて、カルタゴは滅び、地中海は「ローマの海」になった。

 倭の国がまだ静かに眠っていた紀元前の時代、もちろんフランスやドイツやイギリスもまだ未開の状態にあったのだが、地中海においては、既にこうした文明の衝突が、何世紀にも渡って激しく繰り返されていた。人類の歴史の遥けさに、ただただため息が出るばかりである。

 ともかく、シチリア島はローマの傘下に入り、パクス・ロマーナの下、ローマの穀倉地帯として、その後600年の平和を享受する。

   ( 緑美しい5月のシチリア )

[ ビザンチン帝国下のシチリア ]

 AD476年、西ローマ帝国滅亡。

 シチリア島も、ゲルマンの一族であるヴァンダル族、続いて東ゴード族に占領され、荒らされた。

 AD535年、ビザンチン帝国(東ローマ帝国)のユスティニアヌス帝が、ゲルマンの無法からイタリア半島とシチリア島を奪還。以後300年間、シチリア島はビザンチンの支配下に入る。…  ただ、大土地所有制や不在地主制、そして、繰り返される北アフリカからの海賊(サラセン人)の襲来によって、かつては地中海の穀倉と言われたシチリアの農業は荒廃していった。

[ イスラム文化がやってきた ]

  AD827年、北アフリカからイスラム勢(サラセン人)がシチリア島の西海岸に侵入し、次第にビザンチン勢力を排除していった。

   そして、925年、シラクサが陥落し、全シチリアがイスラムの支配下に入った。彼らは首都をパレルモに置く。

 イスラム勢は、効率的な行政と税制、農地や灌漑施設の改善、柑橘類の栽培、絹織物の生産、交易の興隆、ヨーロッパの水準を超える医学、薬学、化学などの学問・知識の導入、信仰の自由などによって、シチリアに活気と大地の恵みを取り戻させた。

[ 果実実るノルマン・シチリア王国 ]    

  AD1130年、ノルマン・シチリア王国が誕生した。またまたシチリアに新しい文明がやってきたのだ。

 ノルマン人は、フランスのノルマンジー地方からやってきた男たち。先祖はバイキングである。 100年も前にフランス北部に定着し、フランス王はその首領をノルマンジー公として取り立てた (強くて、追い出せなかった)。彼らはフランスの貴族・騎士となり、フランス語を覚え、フランス宮廷文化を身に付けた。

 が、100年も経つと、またまた血が騒ぎ出し、その一部はノルマンジーからドーバー海峡を渡ってあっという間にイギリスを征服した。強い!! 現在のイギリスの王(女王)や貴族は、元フランスのノルマン人、遡れば北方バイキングということになる。英語、英語と、英語の先生は威張るけど、現在の英語の3分の1はこの時に入ったフランス語。まだ不完全で、未成熟で、非論理的な言語なのだ。

 そして、もう一部(うだつのあがらない騎士階級の次男や三男たちなど)は、自分の領土を求めてジブラルタル海峡を通過し、地中海に入って、南イタリアとシチリア島を征服した。少数のノルマンの騎士たちが先頭に立ち、地元の豪族・人民を従えて、多数のイスラム軍を次々撃破したのだ。

 もっとも、彼らは人口的にはごく少数。ゆえに、自分たちの文化であるゲルマン文化+フランス・ラテン文化(カトリック) だけでなく、イスラム勢力がやってくる以前にシチリアを支配していたビザンチン文化(ギリシャ正教)も、さらには自分たちのすぐ前にこの地を支配していたイスラム文化・イスラム教も、その全てを尊重し、完全な信仰の自由を認めたのである。

 ゆえに、国内で使われる言語、いや公用語だけでも数か国語という、多文化・多文明のノルマン・シチリア文化の華が開いた。

  ( ノルマン・シチリア王国の王宮 )

[ 後進地帯へ ] 

 その後、シチリアは、オートヴィル家、ホーエンシュタウフェン家から、非ノルマン系のアンジュー家、アラゴン家、スペインブルボン家へと王統が変遷し、両シチリア王国、ナポリ王国と国名も変わっていった。特にスペイン・ブルボン家による統治の時代になると、小作制や不在地主制によって農村は荒廃し、商業も振るわず、シチリアは後進地帯に転落していく。

 1861年、ガリバルディとこれに呼応したシチリアの農民、民衆軍によって外国勢力は排除され、イタリアの国家統一を実現する原動力となったが、シチリアの経済は沈んだままで、あのマフィアが跋扈する時代へとなっていく。

      ( イオニア海の夜明け )

※ この項は、またまた紅山雪夫氏の著書を参考に記述しました。紅山雪夫 『 シチリア・南イタリアとマルタ 』 (トラベルジャーナル) です。 (続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

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旅の始まり … 地中海の文明の十字路となった島・シチリア島への旅2

2014年08月13日 | 西欧旅行…シチリアへの旅

  [ シチリア・ワインのこと ]

 シチリアでワインを買って帰った。「マルサーラ」。

 ワインのことには無知だが、安かった。

 安いということは、シチリア・ワインは、あまり有名でない (ブランドでない) ということだろうか? 

 マルサーラとは、シチリア島の西海岸にある小さな町のことだ。ガリバルディ率いる千人隊(赤シャツ隊)が上陸した町として、歴史に残る。つまり、今あるイタリアという統一国家は、シチリアのこの小さな町から、その第一歩が始まったと言っていい。日本の明治維新と、時間的に大差はない。

 だが、今、この町は、「香り高いワインの産地」となっている。

   『地球の歩き方…南イタリアとマルタ』に、「酒精強化ワインのマルサーラMarsalaも、ぜひ味わいたいもの。醸造の途中に、ブドウから造られたアルコールや糖分を添加してアルコール度数を上げ、土地の木樽で熟成させた。辛口セッコSeccoは食前酒」とある。

 辛口が良いと、マルサーラのセッコを1本買って、帰国後、食前酒として、夕方になると氷で割って飲んだ。ブランデーに似て、甘みが濃く、美味しい。度数は18度。

 たちまち1本、飲んでしまったので、インターネットで 「マルサーラ / セッコ」で調べたら、あった。さすが日本には、何でもある。少々、お高くなるが、取り寄せて、飲んでいる。

      ( パレルモのホテルの窓から )

     ★   ★   ★

 [ なぜシチリアへ? ]

 なぜシチリアに行ってみようと思ったのか?

 確かに、さまざまな民族がやって来て、衝突した、文明の十字路の島である。

 しかし、だからと言って、シチリアがヨーロッパの歴史の主役であったことは、ない。

 外交的にも、政治的にも、文化的にも、ローカルである。教皇様のいらっしゃるイタリア半島の、長靴のつま先の、その先にある島に過ぎない。

 自然の景観もそう。

 ナイヤガラのような空前絶後の滝があるわけでもないし、草原をライオンやカンガルーが闊歩しているわけでもない。都会も、高原も、田園も、瀟洒でロマンチックな西ヨーロッパの中で、いささか「草深い島」という印象は免れない。

 なんでわざわざ行く気になったのでしょうと、自分でも思う。

 だが、きっかけは、ある。

 塩野七生 『皇帝フリードリッヒ二世の生涯上・下』 (新潮社) を読み始めていた。

 皇帝フリードリッヒⅡ世については、以前、藤沢道郎 『物語 イタリアの歴史』 (中公新書)の中の 「第四話 皇帝フェデリーコの物語」を読んで、感動した。これはすごい人だと、思った。

 だから、塩野七生がそのエッセイのなかで何度か、「私はもう一人、書きたい人がいる」と書いているのを読んで、フリードリッヒⅡ世に違いないと確信していた。

 その本が出版され、読み始めていた。

 

 シチリアの歴史の中で、この人物だけは、ローカルとは言えない。

 シチリア生まれ、シチリア育ちであるが、何しろ父からは神聖ローマ帝国皇帝、母からはノルマン・シチリア王国国王の地位を受け継いだ。在位は1210年から1250年。十字軍の時代である。   

 神聖ローマ帝国皇帝としてドイツ諸侯を統治したが、その56年の生涯のうち、ドイツにいたのは8年だけであった。寒い北方の風土を好まず、母から受け継いだ果実実る南イタリアとシチリアをこよなく愛した。

 イタリア流に言うと、フェデリーコ二世。

 だが、シチリアを訪問しても、皇帝フェデリーコの「事績」を示す文化遺産が、目に見える形で残っているわけではない。彼は君主であって、芸術家ではないのだから。

 しかし、少年のころのフェデリーコが、飽くことなく歩いたというパレルモの町は、その当時とは違うにしても、面影は残っているはずだ。

 フェデリーコは4歳のときに父、相次いで母を病気で喪い、以後、全てを自分の器量で切り開いていかなければいけない境遇となる。誰かが、皇帝位や王位を金庫にしまって、時来たらば、これがお父上、お母上のかたみです、と言って出してくれるわけではない。

 彼の家庭教師は、おそろしく頭が良く、早熟で、歴史、哲学、神学、天文学、数学、植物学などに強い好奇心をもつこの少年に驚き、このような少年が、将来、この国の君主になることに大きな希望を抱いた。そして、最低限の勉強時間以外の勉強について、賢明にも、本人の自由に委ねた。

 フェデリーコは毎日のように王宮を出て、パレルモの町を歩き回り、パレルモの町の人々から学んだ。

 カソリックの絶対的な権威が支配していた当時の西ヨーロッパ社会では考えられないことだが、ノルマン時代のパレルモでは信教の自由があり、イスラム教徒が医者や教師や商人や国王の兵士として生活していたし、イスラムの前の時代を支配していたビザンチン文化も色濃く残り、ギリシャ正教の教会もあった。しかも、カソリックの総本山、ローマは目と鼻の先にあり、今、この島を支配しているのは北方ゲルマン系のノルマン人であった。

 この時代のパレルモは、多民族・多文化が共存する国際的な雰囲気をもった都市であったのだ。 

 フェデリーコ少年は、そのような街の中で話される各種の言語を自分で吸収していった。言語は文化の核をなす。

 当時の知識人の言語であるラテン語、庶民の言語であるイタリア語のほか、哲学や文学を学ぶのに必要なギリシャ語、聖書のヘブライ語、さらにはイスラム教のアラビア語まで、読み・書きの両方ができる言語だけでも7か国語、あったという。

 このような「精神世界」に生きるフェデリーコのような時代に先んじた開明的な人が、成人したあかつきに、神の権威を振りかざし十字軍を叫ぶ教皇や教会勢力、中世的な既得権益勢力と激突しないはずがない……。

 実際、彼は第5次十字軍を率いてエルサレムに遠征した。そして、あざやかに、即ち、一滴の血も流さずに、エルサレムを奪還してみせた。ただし、イスラム教徒の権利も認めた。時の皇帝と、時のスルタンは、がっちりと握手したのである。21世紀にもできないことを、あざやかにやってのけた。傑出した2人がいてできたことだが、十字軍から帰ってきた皇帝・フェデリーコは、教皇を先頭とするキリスト教世界から総攻撃される。イスラムの血を一滴も流さずに帰ってくるとは何事だ!!  

  …… フェデリーコのパレルモは、今はない。しかし、今のシチリア島の風土に触れ、パレルモに残された文化遺産を目にすれば、本に書いてあるフェデリーコのことが、さらに生き生きとわかるのではなかろうか。

 よし、行ってみよう‼

 これがシチリア旅行の動機である。

 (パレルモの王宮…今はシチリア議会)

      ★   ★   ★

 [ ツアーに参加する ]

 シチリアに行ってみようと決めて、まずは一番便利な飛行機はオランダ航空と見当をつけ、次に、順次、見学しながら島を1周するプランを立てていて、行きづまった。

 「足」が不便なのだ。列車、長距離バス、タクシーが「足」で、一番頼りになるのはバスなのだが、例えばA→B→Cと見学し、その日はCで泊まりたい。ところが、AとB、AとCはバスで接続しているが、BとCはつながっていないのだ。方法は、Aに連泊して、Aから出ている一日現地ツアーのバスで、A→B→C→Aと回るしかない。

 あれこれ考えて、うまくいかず、それなら、最初からツアーに参加しよう … ということになった。

 いつもではないが、できるだけツアーに入らず、自力で旅をしてきた。

 なぜ、自力で行くかと言えば、ツアーでは、観光バスの中は「日本」だからである。 添乗員に案内されて街を歩いている、そのグループの「中」は、「日本」である。 ちょうど、南紀白浜のアドベンチャーワールドのライオンやシマウマを、安全な車の窓から見ているのと同じだ。

 しかも、日本の添乗員は、「お客様は神様です」と、客を大切にしてくれるから、下手すると、国内の温泉旅行と同じ気分になる。実際、昔、参加したツアーで、そういう気分で添乗員に苦情を言う客がいた。おっちゃん、おばちゃんだけではない。大学生のお嬢さんたちまでが、国内温泉旅行の気分で文句を言ったりする。パスポートだけが頼り、「主権」を持たない外国旅行という緊張感がまるでない。

 「個」になり、緊張して、ピーンと神経が張りつめたとき、初めて、鋭敏になった心に、異国の風景や人々の心、異国の空気が、鋭く感じられるようになってくる。

 しかし、今回はツアーにした。

 ツアーに決めた途端に、ほっとして、気が楽になった。たまにはいいだろう。                                                              (続く)

 

  

 

 

 

 

 

            

 

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パレルモへ … 地中海の文明の十字路・シチリア島への旅3

2014年08月09日 | 西欧旅行…シチリアへの旅

        ( シチリアの白い雲 )

[ 日 程 ]

 8日間の日程は、以下のようなものであった。

第1日> 関空 ── ローマ ── パレルモ

                      (パレルモ泊)

第2日> パレルモ ── チェファルー(見学)  

 ── パレルモ(見学)   (パレルモ泊)

第3日>  パレルモ ── モンレアーレ(見学) 

 ── セリヌンテ(見学)  ── 

                             (アグリジェント泊)

第4日> アグリジェント(見学)  ──

   アルメリーナ・ カザーレ荘(見学)

    ── カルタジローネ(見学) 

                               ── (ラグーサ泊)

第5日> ラグーサ(見学) ── シラクサ(見学)

  ── (タオルミーナ泊)

第6日> タオルミーナ(見学)

                    (タオルミーナ泊)

第7日> タオルミーナ ── 空港 ── 

     ローマ ──

第8日> ─── 関空

      ★   ★   ★ 

[ ちょっと、旅のありようといったことについて、考えた ]

   出発前に旅行会社から送られてきた「旅のしおり」を見ながら、旅を終えた今、上の日程を書き写した。

   書き写しながら、

   シチリアの青い海や、

   海を見下ろす丘の上の古代の遺跡や、

   樹木のない険しい山や、

 山の山頂部につくられた町や、

 野の花々や、

 小鳥のさえずりや、

 教会を飾るモザイク画を思い出した。

 ローカルな旅であったが、心楽しい旅であった。

  ( 車窓から … シチリアの海 )

 同時に、今回久しぶりにツアーに参加して、改めて、「旅のありよう」といったことを、考えた。

          ★

 2日目、3日目、そして、6日目は、とても印象的だった。 

 もう一度行って、あの「景色」を眺めてみたいと思う。

 だが、もう一度行くとしたら、パレルモも、チェファルーも、モンレアーレも、今度は自分の足で、気ままに歩いてみたい、と思う。 ツアー旅行に対する小さな不満足感が心の底に沈殿している。

 パレルモやその周辺には、ビザンチン文化やイスラム文化の影響を受けて、シチリア・ノルマン文化と呼ばれる華が開いた。その意味で、パレルモは、「文明の十字路・シチリア」 を象徴する町である。ならば、そういうことを肌で感じられるような旅をしたい。

 旅程に制限があるから、パレルモの町の文化遺産のあれもこれも見て回ることはできないだろう。

 だが、遥々とここまでやって来た以上、最低限、これは見逃したくないという2つ、3つはあり、それらを素通りされるとやはり心残りで、もう一度自分の足で歩いてみたいという気持ちは残る。

          ★

 もちろん、ツアーの長所もある。 

 夜遅く、初めて降り立った空港で、緊張してタクシーをさがし、真っ暗な道路を疾走する運転手の後部座席で不安に駆られながら座っていなくても、空港にはお迎えの観光バスが明々と車内燈を点けてちゃんと待っていて、ホテルに着けばポーターがスーツケースを部屋まで運んでくれる。

 翌日から、観光バスは1日に何100キロも走って、次から次へと、「観光」させてくれる。

 毎回、食事のたびに、わからないメニューをにらみながら、何を食べようかと悩まなくても、上げ膳、据え膳、テーブルに着けば食事が出る。

 だが、例えば、この行程で言えば、4日目、5日目。

 帰国後に自分で写した写真を見ても、どこを写した写真なのか、思い出せない。

 なにしろ4日目は3か所も見て回っている。

 その上、3か所目のカルタジローネと5日目のラグーサは、よく似たバロックの町である。世界遺産かもしれないが、この街並みのどこがどうバロックなのかという説明を、自分のような者にわかるようにしてほしかった。しかし、そもそもシチリアでバロックを見る意味があるのだろうか?

 一方、シラクサは、紀元前の時代からギリシャ人が入植した、シチリア最大、最強の都市国家であった。カルタゴと戦い、ローマとも戦った。パレルモ以前のシチリアの雄である。さっと「観光」して、通り過ぎるのは残念である。

 こういう町は、せめ1泊して、その遥かな歴史を五感で感じなければ、旅をしたことにはならない。

          ★    

 旅の終わりに、タオルミーナに2泊したが、これは最高に好かった。

 小さなこの町で、観光というと丘の上の古代の劇場と、断崖を横に削り取ってつくったようなウンベルト通りくらいである。オシャレで可愛い店が並ぶこの通りは、所々で遥かに青い海を見下ろすことができる。

 添乗員にこの2つを案内してもらい、あとは解散、自由時間になった。この、解散、自由時間がいい。旅は、そこから始まる。

 ウンベルト通りのお土産屋さんをのぞきながら歩いていたら、今、流行りのクルーズ・ツアーから上陸した大勢の観光客が、陽気に楽しそうに歩いてきた。フランス人のツアーのようだ。

 この人たちは、ほんの何時間か、こうしてこの町を観光して、また船に戻って、次の港へ向かう。夜は、基本的には船の船室に泊まる。

 船旅を楽しむのも、旅の楽しみである。ただ、昼間、何時間か上陸しても、タオルミーナがわかるとは思えない。

 夜明け … 眼下のイオニア海がピンクに染まって、一日が始まる。

 早朝 … 朝の澄んだ空気の透明感。見上げれば、驚くほど切り立った山。その一角にある古代の劇場が印象的。真下には真っ青な海岸線。林の中から小鳥たちのさえずり。シチリアの小鳥たちも、こんなに良い声で鳴くのだ

 明るい昼 … イソラ・ベッラの海辺に降りて、カフェテラスで、リゾート気分の一杯のワイン。イオニア海の水を掬って、茫々とした歴史を思う。

 たそがれ時 … 開放的なテラス席に座って夕食のひととき。周りの客たちもどこかウキウキと、ゴッホの絵のようだ。

 帰り道で見た暮れなずむ海の深いブルー …。

   ( 暮れなずむイオニア海 )

   こういうものすべてが、タオルミーナ。

          ★

 西ヨーロッパの旅も、自力で行けるところはだいたい行き、この先、トルコとか、ギリシャの島々とか … 個人では行きにくいところが残ってきている。ツアーに頼らざるを得なくなりそうだが、まずツアーで行って、強く印象に残ったところだけ、再度、自力でゆっくり訪れるという手もある。                 

     ★   ★   ★

[ パレルモへ ]

 関空から12時間少々、ローマ空港に到着。

   ( ローマ空港へ向けて高度を下げる )

 ローマ空港(レオナルド・ダ・ヴィンチ空港)は、関空と同じように海のそばにつくられた空港だ。ヨーロッパの5月は、午後7時でも、十分に明るい。

         ★

 パレルモへの乗り継ぎ便は30分遅れで出発。午後9時を回って、さすがにとっぷりと暮れ、1日かけて、遥々と遠くまで来たという感慨。日本はもう午前4時だ。

  パレルモはローマから、真南の方角。ティレニア海の上を飛ぶ。

 いつの間にか進行方向やや東に満月。月光が翼を濡らす。眼下、ティレニア海は漆黒の闇。

  パレルモ空港から迎えのバスに乗り、海沿いのホテルへ。午後11時半ホテル到着。

          ★              

 スーツケースを開け、明日の用意をし、 風呂に入る。

 床に就いたのは午前1時半。

 少しうとうとしたと思ったら、稲光。窓ガラスにビシ、ビシと何かが当たる音。雹だ。

 とにかく寝よう。( 続 く )

                         

 

 

 

 

 

 

 

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金色のモザイク画のチェファルー大聖堂 … 文明の十字路・シチリア島への旅 4

2014年08月03日 | 西欧旅行…シチリアへの旅

        ( 岩山とチェファルーの町 )

 シチリア観光の第1日目午前は、チェファルー。

 チェファルーは、州都パレルモから東へ66キロ。美しいビーチがあり、漁港もあって、魚が美味しく、今はリゾートとしても人気があるそうだ。

      ( チェファルーの町と大聖堂 )

 BC1500年ごろにイタリア半島からやってきた、シクリ人という先住民がいたらしい。シチリア各地に住み着いたが、ティレニア海に臨むこのチェファルーの、岩山の上にも城塞の町を築いた。これがこの小さな町の起源という。気の遠くなるような遥かな過去だ。

 「文明の十字路」とは、異民族の衝突の場であったということ。ヨーロッパはどこもそうだが、特にシチリア島を巡っていると、海に臨む急峻な岩山の上の町をよく見かける。岩山の上に町を築かなければ、安心できなかった。

 さて、小さな港町チェファルーは、BC394年に、シチリア島最強の都市国家のシラクサ軍によって征服され、ギリシャ人の町になった。

 以後、ローマ、ビザンチン、イスラムの時代を経て、AD1130年代、ノルマンのルッジェーロⅡ世がこの町の戦略的価値に目を付け、岩山の上に住んでいた人々を地上に下ろして、今あるような町づくりをし、周囲に堅固な城塞を築いた。

 ルッジェーロⅡ世は、南イタリア及びシチリアに進出してきたノルマン人の第2世代で、伯父と父の両方の地位と領土を受け継ぎ、1130年にノルマン・シチリア王国の初代の王となったシチリアの英雄である。 

 彼は、町づくりとともに、岩山の麓に大聖堂(司教座)を建設した。パレルモから66キロしか離れていないこの町にもう一つの大聖堂を造ったのは、パレルモ大司教の影響を嫌ったからである。世俗の権力と宗教権威とは、たえず衝突する。

 彼はこの大聖堂を王家の霊廟にしたかったのだが、パレルモの大司教の反対にあって実現しなかった。

        ★

  ( チェファルーの大聖堂の正面 ) 

 観光バスを降りて、チェファルーの町を歩いているうちに、雨になった。

 海からの雨に服が濡れた。だが、小さな街なので、すぐに大聖堂に着く。 

  大聖堂の建物はロマネスク様式で、当然、後のゴシック様式の大伽藍などと比べると遥かに小さく、かつ、素朴である。野の花の香りがする。

 ただ、ここはシチリアである。アーチの形などにイスラム建築の影響が色濃く出ており、腕利きのアラブ系の建築職人が工事に参加したことがうかがわれる。

 堂内に入ると三廊式の身廊の、いちばん奥の内陣部が金色のモザイク画で飾られて、そこだけが明るく輝いているように見える。ノルマン・ビザンチン式モザイク画の最高傑作の一つとされる。

     ( 3廊式の身廊部 )      

 この絵は、カソリックのものではない。ビザンチン様式の絵画である。

   (内陣部のモザイク画) 

 キリストの下には、天使たち。その下に十二使徒の像が描かれている。

   ( 天使と12使徒 )

 モザイク画は古代ローマ時代からあり、この旅でも、第3日目に行くピアッツァアルメリーナのカザーレ荘でローマ時代のモザイク画を見るが、その技法はビザンチン文明に受け継がれた。

 西ローマ帝国滅亡後、イタリア半島もシチリア島も、一時、ゲルマン諸族によって席巻されるが、のち、東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスによって解放、統治される。故に、シチリアでは、ギリシャ語が公用語となり、ギリシャ正教の教会が建てられ、ビザンチン文明が花開いた。

 その後、この地を支配したイスラム教徒はイスラムへの改宗を強要せず(信仰の自由を認めたわけではない。コーランでは人民から徴税をしてはならないことになっている。キリスト教徒は人民のうちには入らない。キリスト教徒でいてくれたら、徴税できるというわけ)、さらにそのあとこの地を支配したローマカソリック教徒であるノルマン人も異文化を尊重したから、ビザンチン文明を代表する黄金のモザイク画が、カソリック教会に燦然と輝くことになったのである。

 モザイク画の素材には、色石、色ガラス、貝殻、釉をかけた陶片などが用いられた。

 聖堂のモザイク画に欠かせない金色は、無色のガラスの間に金箔を挟んだもので、当時にあって、金箔は言うまでもなく、ガラスも高価なものであった。  

 しかし、絵と違って、モザイク画はいつまでも退色することがなく、破損することも少ない。剥落しても、修理は容易だ。色つやが悪くなっても、埃を拭えば、また綺麗になる。

 モザイク画に描かれた宗教画にも、特色がある。

 イスラム教では偶像崇拝は厳しく否定されたから、建築物(例えば、アルハンブラ宮殿)の中に、聖人像は言うまでもなく、動物の形なども描かれることはない。

 

 ( アルハンブラ宮殿の装飾 )      

 ギリシャ正教でも偶像禁止の考えがあり、聖像を立体的に描くことを認めず、平面的に描いた像しか認めなかった。

 平面的なビザンチン様式の絵は、なかなかいい。

 西欧では、ルネッサンスを経て、遠近法や、人間の肉体の解剖学的研究が行われ、これ以上ないと思える立体的なリアリズムの絵が描かれるようになったが、近代になって、セザンヌもゴッホもマチスも、ピカソも、絵を形と色の二次元の芸術に戻した。

 絵は、形と色の芸術である。( 続く ) 

 

 

 

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