ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

(付録) 桜花咲き初むる和歌山城… 西国3社めぐりの旅(4/4)

2024年06月23日 | 国内旅行…紀伊・熊野へ

  (堀に映じる天守閣)

<和歌山城の桜>

 これを書いているのは6月だが、この旅は4月1日、2日。思いがけなくも和歌山城の桜に出会った。

 近年、桜の開花は早い。温暖化の影響だろう。

 今年、桜を見あてにあちこちへ旅の計画を立てた人は、満開になるのは3月下旬と予想したのではないか。

 だから、私のこの小さな旅も、桜に出会おうとは思っていなかった。桜には遅すぎるに違いない。

 ところが、今年の桜はなかなか開花しなかった。テレビの気象予報士までがヤキモキした。

 3月も終わりになってやっと開花し、開花したと思ったら、和歌山城の桜は一気に5~7分まで開いた。

 そして、私も、思いもかけず、少し早いお城の桜を見ることができた。

 (堀の石垣の桜)

      ★ 

<地名「和歌山」のはじまり> 

 以前、一度だけ和歌山城を訪ねたことがある。和歌山市内で開催された会議に出席した帰り、ラッシュの時間にならないうちにと駅へ向かう途中、通りすがりのようにして、城壁の中を歩いてみた。

 今回は、旅の目的である西国三社めぐりも終え、気分ものんびりと午前のお城の中を歩いた。

 言うまでもなく、和歌山城は徳川御三家の一つである紀州徳川家のお城。紀伊国に、伊勢国の一部と大和国の一部が組み込まれて、55万5千石。8代将軍吉宗も出した。

 それ以前のこの国のことについて、私たち県の外の者は、あまり知らない。

 そこで、司馬遼太郎『街道をゆく32 紀ノ川流域』から。

 「中世、いまの和歌山市一帯は、『サイカ(雑賀)』とよばれて、農業生産の高さや、鍛冶などの家内工業の殷賑を誇っていた。

 戦国期になると、雑賀党とよばれる地侍たちが連合(一揆)を組み、根来衆とならんで鉄砲で武装したことは、よく知られている。かれらは、大名の隷下に入ることを好まず、自立していたかったのである」。

 「2、3の大名なら、雑賀・根来の徒と戦ってとても勝ち目がなかったが、織田信長という統一勢力が出てくると、分が悪くなった。

 雑賀衆は、信長と戦い、ついで秀吉と戦って、ついに紀ノ川下流平野をあけわたすことになる。

 それ以後が、和歌山である。秀吉は平定のあと、紀州1国を鎮めるための巨城をつくるべく藤堂高虎(1556~1630)らに普請奉行を命じた。このとき秀吉がこの城山のことを、『若山』とよんだのが、地名和歌山のはじまりだという。和歌山という表記は、文献の上では、秀吉の書簡(天正13年7月2日付)によってはじまるから、秀吉が命名者でないにしても、それに近いといわねばならない」。

 その後、関ヶ原の戦いのあと、徳川の世となり、浅野幸長が紀州37万6千石を領して入城。二の丸、西の丸屋敷が造営され、城と城下町の形が造られた。やがて浅野氏は広島に移封。家康の第10子頼宣が入城して、55万5千石の紀州徳川家となったそうだ。

      ★

<鶴の渓(タニ)>

   ホテルを出発して国道沿いに歩き、城の南西側の追廻門を目指した。

   (追廻門)

 追廻門は石垣にはさまれた門で、櫓はない。城には珍しく朱塗りで、屋根は瓦葺き。

 門をくぐって城郭の中に入り、北へ歩くと、「鶴の渓(タニ)」に出た。  

  (鶴の渓)

 司馬遼太郎が気に入った一郭だ。

 「和歌山城は、石垣がおもしろい。

 とくに城内の、『鶴の渓(タニ)』というあたりの石垣が、青さびていて、いい」。

 「石垣が、古風な野面(ノヅラ)積みであることも結構といわれねばならない。傾斜などもゆるやかで大きく、"渓"とよばれる道を歩いていると、古人に遭うおもいがする」。

 「このあたりの積み方のふるさからみて、藤堂高虎の設計(ナワバリ)のまま穴太(アノウ)衆が石を積んだとしか思えない」。

         ★

<近江の人、藤堂高虎について>

 藤堂高虎は、司馬さん好みの人である。司馬さんは実際的な人、世にあって確かな技術をもち、或いは、知識を応用的に使うことができる人が好きなのだ。

 「和歌山城の普請奉行だった近江人藤堂高虎(1556~1630)は、物の手練れ(テダレ)だった。

 若いころ近江の浅井氏につかえ、また尾張の織田信澄につかえたりしたが、のち秀長に仕えた。1万石の家老でもあった。

 高虎は、土木家として日本土木史上、屈指のひとりといっていい。のち秀吉の大名になり、伊予の宇和島で8万3千石を領した。宇和島城はまったくのかれの作品だった」。

 「そういう高虎の初期の作品が、秀長時代の和歌山城といえるのではないか」。

 「徳川の世になると、功によって伊勢・伊賀32万3千石という大大名になり、官位は従四位下の左少将、徳川一門に準ずるという待遇をうけた」。

      ★

<御橋廊下と天守閣のビュースポット> 

 そのまま北へ歩き、市庁舎側で一旦曲輪の外へ出、今度は東へ歩いてゆくと、目指す景色に出会った。

 前景が堀に架かる御橋廊下。背景は大天守とそれを囲む多門櫓というビュースポットである。※ 冒頭の写真も参照。

  (御橋廊下と天守閣)

 御橋廊下は平成18年に復元された。二の丸(大奥エリア)と西の丸との間の堀に架けられた橋で、橋は屋根と壁に囲われて廊下になり、ここを行く殿様やお付きの者の姿が外から隠される。

 内部を見学することもできるが、今回はパス。だが、写真で見ると、御殿らしい立派な廊下である。

 カメラの絞りが御橋廊下にあるため、天守の方は明るくトンでいるが、大天守の手前には小天守があり、そこから多門櫓が乾櫓へと続いていて、なかなか立派な天守閣である。

      ★

<遊覧船に乗って堀をゆく>

 さらに東へ歩くと堀に架かる一の橋があり、橋を渡れば城の正門である大手門。急に観光客が多くなる。

  (一の橋と大手門)

 橋の下の堀を、客を乗せた和船が行く。

  (遊覧船)

 お城の天守閣や御橋廊下へ入場しない代わりに、あれに乗ろう。 

 天守閣には上がらない。日本の城もヨーロッパの城もよく昇ったが、得た結論は、お城は離れて見てこそ美しい。

 特に日本の城の天守閣は、階段は狭く急で、一段、一段、やっとの思いで上がっても、最上階の空間は殺風景なもの。外の眺望も、江戸時代なら良かったのだろうが、ビルの建つ今の時代、期待するほどの絶景はない。

 大手門から入って二の丸庭園の横をゆくと、船乗り場はすぐに見つかった。

  (船からの眺め)

 水の高さから眺める城郭もいいものだ。

      ★

<和歌山城の復興のこと>

 下船して、坂道をゆっくりと上り、本丸御殿跡に到る。

 天守閣を眺めるには、ここからが最高のビュースポットだ。

 (本丸御殿跡から天守閣)

 (本丸御殿跡から天守閣)

 大天守。その右に小さな小天守。三層の屋根がなかなかかっこいい。

 また、司馬さんの説明を拝借。

 「明治6年1月、政府の手で、城門、本丸、二ノ丸などの建造物がこわされた。ただ、天守閣と小天守は明治初年の破却 (太政官の命令で全国144の城がこわされた) をまぬかれて、その後国宝に指定される幸運をえたものの、昭和20年7月9日、米軍の空襲で喪失した。

 城内に『沿革』と書かれた掲示がある。

 『現在の建物は 昭和20年(1945)戦火焼失に伴い 昭和33年市民の浄財によって 国宝建造であった戦前の姿に復元したものである』

とあるように、外観はことごとく旧に復していて、楠門の白亜の櫓(ヤグラ)と、小天守、大天守が連立しあっている姿は、ことにうつくしい」。

      ★

<地形を生かした西の丸庭園>

 西の丸庭園は、国の名勝に指定されている。

  (西の丸庭園)

 紅葉渓(モミジダニ)庭園とも呼ばれ、紅葉の時季が特に美しいそうだ。

 和歌山城は虎伏山に建造された城郭だから、庭園も、急峻な山容の地形を生かした池泉回遊式。内堀の水を池に見立てて作庭されているのも趣がある。

 (桜の開花)

      ★

<短い旅の終わりに>

 ひとめぐりして、結構、楽しいウォーキングになった。

 岡口門から出た。

 (岡口門)

 この門は白塗りの櫓があり、石垣に挟まれて、城塞の門の厳しさがある。それが周囲の緑に映えて、桜も花を添え、いい雰囲気の城門だ。

 江戸初期の造りで、国の重要文化財になっている。

      ★

 これで、西国三社めぐりの旅は終わった。

 旅に出ると、自ずから歩く。歩くのは健康に良い。お天気も良く、桜の開花にも出会うことができ、良い旅だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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木の神様を祀る伊太祁曽(イタキソ)神社…西国三社めぐりの旅(3)

2024年06月15日 | 国内旅行…心に残る杜と社

  (「伊太祈曽」駅)

<伊太祁曽(イタキソ)神社と五十猛命(イタケルノミコト)>

 「伊太祈曽」駅は、貴志川線に乗って「和歌山」駅から8つ目、「竈山」駅からは4つ目。この駅から先、行き違いのできる設備がないので、上下列車の交換はこの駅で行われるそうだ。

 駅に案内掲示板があった。

 (伊太祈曽駅の案内掲示)

 あれっ!! 駅名と神社名 … 漢字が違うようだ。読み方も、清音と濁音の違いがある。

 「祈」への駅名の変更は、南海電鉄から和歌山電鐵へ譲渡されたときに行われたらしい。

 「祁」は読みにくい。ふつう、まあ、誰も知らない漢字だ。それで、音が通じる別の漢字にしようと検討し、そうはいっても神社への遠慮もあって、「祈」という敬虔な感じの文字を選んだ、ということだったのかな??

 「祈」と「祁」は音は通じるが、意味はどうなのだろうと、念のために漢和辞典で調べてみた。

 ぜんぜん違う。「祁」は「大いに、さかんに」の意。

 伊太祁曽神社の祭神は、スサノオの子の五十猛(イタケル)命。さらに、その妹の大屋津比売(オオヤツヒメ)命と都麻津比売(トマツヒメ)命を祀っている。

 小学館刊の『日本書紀』の頭注によると、「五十猛(イタケル)」の「五十」はイと訓み、多数の意。「猛」はタケルと訓み、「武」と同じで、勇猛の意とある。さらに、「伊太祁曽神社」の「伊太祁」(イタキ)は、「五十猛(イタケル)」と同義であろう、とあった。「大いに勇猛なる」神様を祀る神社である。

 高天原では暴れん坊で姉のアマテラスを苦しめたスサノオの子らしい名だが、『日本書紀』が伝える神話によると、イタケルは名前のイメージからはちょっと想像できない神様だった(後述)。

      ★

<木の神様に参拝する>

 駅から神社までは徒歩5分。近い。

 小さな流れの和田川を渡ると、一の鳥居があり、神社の参道に入る。

 (石の一の鳥居)

 進んで行くと、木の鳥居があり、その向こうに門が見えた。

   (白木の鳥居)

      (木祭りの幟)

 黄色い幟(ノボリ)が立てられている。「木祭り」は毎年、4月の第1日曜日に行なわれ、全国の木材関係者をはじめ、一般の崇敬者も集って、樹木の恩恵に感謝する祭りのようだ。

 お堀の赤い橋を渡ると手水舎がある。

 石段を上がって門をくぐると、拝殿があった。

 (拝殿)

 ここも、日前宮とともに、紀伊国の一の宮である。

 境内の一角に、木祭りのために奉納された、チェーンソーで作ったというアートが陳列されていた。

      ★

<木の神様のこと>

司馬遼太郎『街道をゆく32』から再掲 

 「『きい、紀伊は、もと木の国と書きたるを、和銅年間に好字を撰み、二字を用ゐさせられしよりかく書くなり。伊は紀の音の響きなり』と、まことに簡潔に説く。なぜ木の国なのか、については神話があるが、要するに木が多かったからであろう」。

 その神話である。

 初代の天皇である神武天皇よりざっと180万年も昔(このことについては前回、書いた)に、神武天皇の曽祖父のニニギノミコトが高天原から地上に降りてきた。そのニニギノミコトよりも遥かに古い神代の時代 ……

 …… アマテラスの弟のスサノオは、高天原で乱暴狼藉をした挙句、神々によって高天原から追放された。

 だが、地上に降りてきてからのスサノオは実にカッコいい。八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治して、その尾から出てきた草薙の剣を天上のアマテラスに献上する。そして、美しい奇稲田(クシイナダ)姫と幸せな結婚をした。スサノオの歌、

  八雲たつ 出雲八重垣 妻ごめに 八重垣作る その八重垣を

 以上は、よく知られた話である。

 ところが、『日本書紀』には、スサノオの話に限らないのだが、一つのお話のあとに、「一書(アルフミ)に曰く」として、別の異なる伝承も紹介されている。

 スサノオに関しても、オロチ退治の話を基本にしながら、別の異なる5つの伝承が、「一書に曰く」、「一書に曰く」として付記されている。

 その4番目と5番目に、スサノオの子の五十猛(イタケル)が登場する。

 4番目の「一書に曰く」では、高天原から追放されたスサノオとともに、スサノオの子のイタケルも地上に降りてきた。そのとき、イタケルは、高天原から多くの樹木の種を持ってきていた。それで、その樹木の種を、筑紫から始めて、順次、全国に蒔いていき、国土を青山に変えた。そのため、イタケルは「有功の神」と称えられた。

 「即ち、紀伊国にまします大神、これなり」。

 5番目の「一書に曰く」は少し異なる。

 地上に降りてきたスサノオは、この国の子孫のために、自分のあちこちの体毛を抜いて、その毛を孫悟空みたいに??吹いて、船の材料になるようスギとクス、また、宮を建てる材木になるようにヒノキ、また、棺をつくるためにとマキに変えて、この国に植えられた。また、食料にすべき木の実の種も蒔いて植えた。

 さらに、スサノオの子のイタケルと、その妹のオオヤツヒメと、二女のツマツヒメは、それ以外の樹木の種を国中に蒔いて回った。

 そこでこの三兄妹神を紀伊国に迎えて祀ることになった、とある。

 伝承に少々の違いはあるが、日本列島の緑の木々や果物のなる木は、スサノオと、その子のイタケルら3兄妹が植えたのだというお話である。

 素朴で、いい話である。

 勝手な想像だが、もともと紀の国に古くから伝わる、或いは、紀氏に伝わる伝承を、『日本書紀』が採録したように、私には思える。 

 前回の「閑話」の話に戻れば、津田左右吉博士は、記紀の「神話」の記述は6世紀の宮廷官人たちが造作(創作)したものだという。

 そういう考えに立つと、スサノオが地上に降りてきてからの話について、宮廷の官人たちは計6つの異なる話を頭をひねって創作し、歴史(神話)の捏造をしたということになる。そこまでやる必要があるのだろうか???

 大伴氏とか物部氏とか中臣氏とか、そして紀氏とか、各氏族はそれぞれに家に伝わる一族の伝承を持っていた。天武天皇のとき、国の正史を編纂しようと、官人たちの中から学力の高い編纂メンバーを選び、各氏族が持っていた伝承を提出させた。編纂者たちはそれらを読み込み、吟味し、国の正史に入れるべきか判断し採録していったと考える方が、創作説よりも合理的であろう。もちろん、その際、国家や天皇家に都合の良いように、取捨選択、加工もされたことを否定するつもりはない。

 『日本書紀』には、「一書に曰く」だけでなく、百済の歴史書や中国の歴史書も注に引用されている。

 そもそも「紀」の編纂に携わった官人たちのメンバーには、中国や朝鮮半島からの渡来人たちも多く選ばれており、「紀」は漢文で書かれている。滅亡した百済の歴史は韓国にも残っておらず、『日本書紀』に引用された部分だけが残っているそうだ。

 (岩橋古墳)

 境内を歩いていると、古墳があった。岩橋古墳群の一つである。彼らこそ、この伝承を伝えた人々かも知れない。

      ★

 夜、ホテルのフロントに聞いて、すぐ近くの「よっさん」という小さな和食の店の暖簾をくぐった。何にしようかとメニューを眺めていると、「よっさん」らしき料理人の主(アルジ)が出てきて、「うちは朝、漁港の市で仕入れてきた新鮮な魚がウリです」と言う。「では、3品ほど、おまかせで」と頼んだ。

 時間をおきながら新鮮な魚料理が出て、燗酒が美味しかった。

 和歌山は古代から漁の名人のいる国でもある。

 ホテルに帰って歩数計を見ると、朝から1万1千歩、歩いていた。

 

 

 

 

 

 

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イツセノミコトと竈山(カマヤマ)神社 … 西国三社めぐりの旅(2)

2024年06月06日 | 国内旅行…紀伊・熊野へ

       (貴志川線の「たま電車」)

 竈山神社は、神武天皇の兄の五瀬(イツセ)命(ミコト)を祀っている。

    和歌山駅から貴志川線に乗って4つめの駅が「竈山(カマヤマ)」で、「日前宮(ニチゼングウ)」からは2つ目である。

 三社のうちでは、駅から一番離れていて、片道10分以上歩く。

      ★

<東征の途中、無念の最期を遂げたイツセノミコト>

 大和盆地の東南部で最初の王となった人の名を、『古事記』『日本書紀』(「記紀」)はカムヤマトイハレビコとする。

 神武天皇という名はずっと後の時代に付けられた漢風の諡(オクリナ)で、国風の諡は『日本書紀』では神日本磐余彦 (カムヤマト イハレビコ)の 天皇 (スメラミコト)。『古事記』でも漢字表記は違うが、やはりカムヤマトイハレビコである。(以下、本文ではイハレビコと短く呼ぶこともある)。

 イハレビコは九州の日向(ヒムカ)に生まれ育ったが、東方に美しい国があると知り、『古事記』では兄の五瀬命(イツセノミコト)と、『日本書紀』では彦五瀬命(ヒコイツセノミコト)を長兄とする4人兄弟の末の弟として、軍船を仕立て出発した。

    ところで、『日本書紀』によると、イハレビコの3代前は、神々の国である高天原から、九州の日向に、天孫として降臨してきたニニギノミコトである。

 (ニニギノミコトを祀る鹿児島県の霧島神社)

 そのニニギノミコトが天孫降臨してから、曾孫のイハレビコが東征に出発するまでに、179万2470余年が経ったと『日本書紀』は書いている。どこからそういう数字が出て来たのか分からないが、それはつまり、東征より前の話は遥かに遠い遠い昔話であり、「神話」ですよ、ここからが実際の歴史ですよと、『紀』の編纂者は言っているのであろう。

 さて、日向を出発した一行は、瀬戸内海を経て、難波の渡りを通り、生駒山脈の西麓の草香(日下)に上陸する。そして、日下から大和の地へ入るために生駒山を越えようとするが、待ち構えていたナガスネヒコの軍勢に急襲され、激戦の末、劣勢となって、退却せざるを得なくなった。このとき、兄のイツセは肘に流れ矢を受けた。

 一行は生駒越えを断念し、方向転換して紀伊半島を大きく迂回しようと熊野を目指して航行する。途中、紀伊国の男之水門(オノミナト)に入ったとき、兄のイツセの矢傷がひどく悪化した。イツセは激痛に耐え、無念の雄叫びを挙げたと記されている。

 「進みて、紀の国の竈山(カマヤマ)に到りて、五瀬(イツセノ)命、軍に(イクサニ)(軍中で)薨(カムサ)りましぬ。よりて竈山に葬(ハブ)りまつる」(『紀』)。

 「竈山」は、カムヤマトイハレビコの兄のイツセノミコトを葬った所として「記紀」に登場する古い地名なのだ。

 このあと、再び海上に出た一行は、暴風雨に遭い、二人の兄たちも次々に喪った。

 それでもイハレビコは紀伊半島の南端の新宮に上陸し、そこから北上して大和に入り、大和の地を平定して、王となった。

  (熊野速玉大社) 

 イハレビコが上陸したとされる地には、今、熊野速玉(ハヤタマ)大社がある。朱の美しいあでやかな神社である。

      ★ 

<五瀬命(イツセノミコト)を祀る竈山神社へ>

 伝説の神武天皇の兄である五瀬(イツセノ)命を祀る神社を目指して、竈山駅から南の方角へ、てくてく歩いた。

 参拝を終えたら、どこかで昼食をとらねばならない。だが、駅前にも、竈山神社に向かう途中にも、商店はあるが、カフェとかレストラン、食堂らしき店は見当たらなかった。

 イハレビコも、その日の食をどうしようかと思いながら進んだ日もあったことだろう

 (橋を渡ると石の大鳥居)

 やがてこんもりした森のある角に出た。この森にちがいない。

 (竈山神社の森)

 森の北東の角から入り、正面の鳥居へ回って、参道を行く。

 立派な神門があった。

    (神門)

 神門をくぐると、拝殿があった。

  (拝殿)

 参拝に訪れている人は、子づれの若いお母さんとか、ごくわずかだ。早春らしいのどかな空気のなか、静かに参拝した。

 本殿は拝殿の奥だが、森の樹木の中にすっぽりと囲まれている。

 拝殿からは見えないが、本殿に祀られているのは祭神の彦五瀬の命(ヒコイツセノミコト)。

 左脇殿には神武天皇を含む五瀬命の3人の弟神が祀られ、右脇殿には神武東征に従ったとされる随身たち ─ 物部氏の祖、中臣氏の祖、大伴氏の祖、久米氏の祖、賀茂氏の祖らが祀られているそうだ。

 イツセノミコトは、「記紀」全体の中では脇役であるが、脇役の伝承を踏まえた神社であるというところに興趣があった。

 「延喜式神名帳」(927年)に記載された歴史ある式内社だが、豊臣秀吉の紀州征伐で、他の多くの社寺と同様に没落した。

 江戸時代、紀州藩主によって再建されたが、社領もなく(収入もなく)衰微した。

 明治になって、国家神道のもと、初め村社となり、のち、官幣大社に昇格した。

 本殿の後ろに、五瀬命の陵墓とされる円墳(竈山墓)があった。

 (竈山墓)

 五瀬命の陵墓の所在地は、既に江戸時代から学者たちが探してきたのだが、不明とされていた。だが、宮内庁はここを伝説の五瀬命の陵墓とした。

 私としては、そのことに特に異議はない。少なくとも、ライン川のローレライの岩よりは、遥かに信ぴょう性が高い。

      ★

 歩き疲れ、のども渇き、お腹も空いた。

 竈山駅近くに戻って、一軒のスナックが営業しているのを見つけた。スナックが開くには早すぎると思いつつのぞいてみると、年配のママさんがいて、どうやら昼は近所の人たちが昼食を食べにくる店らしい。席に座ると、バラ寿司があると言う。私は、ラーメンやカレーより、その方がのどを通りやすい。

 手作りのバラ寿司もお汁も美味しく、疲れがいやされた

   ★   ★   ★

<閑話神武東征伝承について>

 『古事記』が成立したのは712年、『日本書紀』の成立は720年、8世紀の初頭である。

 どちらも、神話に続いて、第1代神武天皇から始まる歴代の天皇の歴史が叙述されている。

 現代の歴史学は、第1代神武天皇については、その東征の話も、神武天皇の存在そのものについても、否定的である。このような「東征」があったことを証拠づけるような同時代の文献資料も、神武天皇の存在を証明するような考古学上の発見もない。

 文献学者は、実在の可能性がある最初の天皇は第10代の崇神天皇とし、最近では、11代の垂仁天皇、12代の景行天皇も実在が有力視されるようになっている。

 司馬遼太郎は『街道をゆく32』の中で、 

 「神武天皇が実在したかどうかはべつとして、そういう伝承があって『古事記』『日本書紀』の撰者が採録したのにちがいない」

 「その伝説の神武天皇は "東方に美(ヨ)き地(クニ)がある" ということで、日向を発して東征をおこない、ついに難波(ナニワ)に上陸し、大和に入ろうとして長髄彦(ナガスネヒコ)と戦って敗れる。

 退いてふたたび大阪湾にうかび、紀伊半島南端から北上して大和に入るべく、海路、熊野にむかった。途中、紀ノ川流域の野に入るのである」と書いている。

 司馬さんはここで、「そういう伝承があって『古事記』『日本書紀』の撰者が採録した」としておられる。

 ところが、戦前の著名な記紀研究者であった津田左右吉博士は、『古事記』『日本書紀』(記紀)が編纂された当時、神武東征などの伝承はなかったとして、次のような説を述べ、戦後の古代史研究に大きな影響を与えた。(まとめるにあたり、ウィキペディアの記述を参考にした)。

① 記紀の「神話」の部分は、6世紀の宮廷官人が、上古より天皇が国土を治めていたことを説くために造作したものである。

② 初代天皇である神武天皇は、大和王朝の起源を説明するために創作された人物であって、史実ではない。

③ 神武天皇から9代目の開花天皇までは、7、8世紀の記紀編纂時に創作された人物である。

④ 15代の応神天皇より前の天皇も、また、神功皇后も、創作された非実在の人物である。

 つまり、津田博士は、記紀の「神話」の記述から、第15代の応神天皇の前までの叙述は、朝廷の官人たちが政治的目的のために「造作」したものであって、7、8世紀の記紀編纂当時、応神天皇より前のことは「伝承」も存在しなかった、としたのである。つまり、官人たちが創り出した「創作」、架空の話、フィクション、歴史の捏造であったというのだ。

 そして、戦後の古代史研究は、戦前の皇国史観への反動もあって、この津田博士の学説を出発点としたから、津田学説は戦後も長く通説として扱われてきた。

 しかしながら、戦後の考古学、特に古墳研究の進展や、埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文などからも、津田学説に批判的な発見や研究の成果も発表されるようになっている。              

      ★

 そこで、そのような研究者の一人である塚口義信先生の説を紹介したい。(先生の著書はこの項の終わりに記す)。

 塚口先生は、「伝説というものは、はじめに何か核となるもの、祖型となるものがあって、それが、"かくあってほしい"と願う伝承加担者の思い入れや時代の要請に応じて、雪だるま式に形作られてゆく場合が多いのではないか」とした上で、例えば、津田左右吉博士が記紀編纂者の創作であると断じた神功皇后の話についても、「私も、7、8世紀に (つまり「記紀」編纂時に)、かなり手が加えられているのではないかと思います。しかし、7、8世紀に物語のすべてが机上で述作されたのではなく、何かもととなった伝説があり、それが7、8世紀に潤色・変改されて姿を変えた、と理解しています」とされている。

 つまり、① 8世紀初頭に編纂された記紀は、伝説・伝承を踏まえて叙述されたものである。

 ② 伝説・伝承というものは固定されたものではなく、一度形成されたものが、時代を経る中で、その時々の人々(グループ、集団)の願望や都合によって変容されていくものである。記紀編纂時にさえも、時の朝廷にとって都合よく、潤色・変容された可能性はある。

 ③ しかし、記紀の内容は、朝廷の官人によって創作・虚構されたものではない。また、創作ではなく、伝説・伝承されたものである以上、そこに歴史的な事実の反映もあることは否定できない。

     ★

 それでは、「神武東征伝承」について、塚口先生はどのように説明されているだろうか??

 塚口先生は、「私自身は、建国神話は、ヤマト王権が(大和盆地の東南部に)誕生した遅くとも3世紀には存在したと思っている」とする。

 しかし、建国神話の主人公が、九州の日向を出発して、生駒山西麓の日下に上陸するというシナリオになったのは、5世紀の前半であろうとされる。

 3世紀に作られていただろう建国神話の中身が、5世紀の前半に変容したというのである。

 それでは5世紀前半とはどのような時代であったのか??

 それは「ヤマト王権」が河内に進出し、河内に大王家を営んだ応神天皇やその子の仁徳天皇の時代であった。この時代に、超巨大な前方後円墳が築かれたことはよく知られている。

 この時代、応神天皇にも、その子の仁徳天皇にも、九州の日向の豪族がお妃を入れ、皇子や皇女も生まれて、河内の日下の地に「日下の宮」が営まれた。

 また同じ頃、日向地方、今の宮崎県の西都原古墳群が巨大化し、九州で最大規模の前方後円墳である女狭穂塚(メサホツカ)古墳が築かれている。

 つまり、この時代は、(葛城氏系とともに)、「日向系の一族が隆盛を極め、大王家と深い関係をもった」時代であった。

 この時代に、建国神話の主人公(神武天皇)は、もともと九州の日向に生まれた天孫であって、その昔、日向の若者たちを率いて東征し、「日下の宮」のある地に上陸して、ナガスネヒコと戦ったのだ、というストーリーが新たに加えられ、それが8世紀に編纂された記紀の「神武東征」の話になったとするのである。

 それではなぜ、5世紀前半に日向系の一族が隆盛を極めるようになったのか。それは、4世紀末にあったヤマト王権内の内乱を契機にしている。

 記紀の神功皇后伝説では、── 北九州に(さらに朝鮮半島に)出征していた神功皇后が、北九州の地で誉田別 (ホムダワケ のちの応神天皇)を出産した。このことを知った大和の誉田別(ホムダワケ)の異母兄である忍熊王(オシクマノキミ)らは、皇位を奪われることをおそれて軍をおこした。これに対して神功皇后の側も、日向の諸族の支援を得て、九州から大和へ向けて進軍し、葛城氏らの応援も得て、忍熊王(オシクマノキミ)の軍勢を打ち破って滅ぼした、── としている。

 神功皇后伝説をどこまで歴史的事実と認めるかは別にして、塚口先生は、ヤマト王権内部でこうした内乱があったことは事実であろうと考えておられる。この内乱で最も功績を挙げたのは、大和の葛城氏と日向系の豪族であった。

 成長した誉田別は大王となり、大和から河内に出て、大きな力を持つようになった。

 そのとき、日向系豪族は、姫たちを輿入れさせ、隆盛を極めた。

 こうして5世紀に、ヤマト王権の建国の大王は、実はもともと日向の地に降臨されていた天孫の子孫で、日向の軍勢を率いて東征し、大和盆地において大王になられたのだ、という風に、建国神話は変容したと、塚口先生は説明される。

 私は、塚口先生の説にかなり納得している。

 なお、今、蛇行剣を出土したことで話題になっている富雄丸山古墳。86mの大きな古墳で、出土品も一級品なのに、墳型が前方後円墳ではなく、なぜか円墳である。この古墳について、塚口先生は早くから4世紀末の内乱で滅亡した忍熊王(オシクマノキミ)の墓ではないかと言っておられる。

※ 塚口義信先生の著書

 〇 『三輪山と卑弥呼・神武天皇』(学生社) ── この中の「 "神武伝説と日向" の再検討」

 〇 『ヤマト王権の謎をとく』(学生社)

 〇 『邪馬台国と初期ヤマト政権の謎を探る』(原書房)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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