ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

アムステルダム断章…ネーデルランド(低地地方)への旅(12/12)

2017年12月30日 | 西欧旅行…ベネルクス3国の旅

        ( 運河と自転車 )

   アムステルダムと言えば、運河に沿って並ぶ商家、自転車、飾り窓の女、アンネ・フランクの家 ……。

アムステルダムは自転車の街だ >

 自転車優先社会である。しかも、その自転車の乗りっぷりも車体も、皆さん、かっこいい。

 昨日訪ねた国立ミュージアム。ミュージアムとして、そのためだけに建てられた世界で最初の建築物だが、建設に当たって市民の意見で当初の設計を変更している。建物の地上階にトンネルを造り、自転車道を通したのだ。実際、堂々としたレンガ色の建物の下を自転車が盛んに通り抜けてくる。

  ( 国立ミュージアム )

 「自転車道を歩かないでください。そこは自転車優先です」「自転車道を渡るときは、左右をよく見て」と、添乗員から、再三、注意を受けた。自動車に対しては大手を振って堂々と歩き、自転車に対しては遠慮気味に。 

 NHKの報道番組のなかで、日本人のキャスターがアムステルダム市民に聞いていた。皆さん、なぜ自転車に乗るのですか?

 「うーん … 自由が得られるからです」

   「地下鉄やトラムよりずっといいです」「健康にもいいしね。心にも体にも」

   「ぞろぞろ歩いているのは観光客だけですよ」

── なるほど、言われてみれば観光客だけだ。ぞろぞろと。急に自分たちがダサく見えた。 

          ★

13世紀の漁村が世界一の大商業都市に >

 扇の要を北に置いて扇を広げる。扇の要に当たるのがアムステルダム中央駅で、扇の要から南へ扇状に広がるのがアムステルダムの街である。扇の広がりには、まるで中央駅を守る濠のように、幾筋もの運河が造られている。運河と運河をつなぐ運河もある。

 町の最北にある中央駅の、その北側には、幅200mの北海運河がある。北海運河は、20キロ西で、北海にそそぐ。

 町の平均海抜は2mだそうだ。

 13世紀には小さな漁村だったが、80年独立戦争のとき、繁栄を誇っていたアントワープがスペインに降伏して、アントワープの新教徒の商人・豪商が自由を求めて続々とアムステルダムに移住して来た。さらに、レコンキスタに勝利したスペインからはユダヤ人たちが、フランスからはカルヴィン派のユグノーたちも、迫害を逃れてこの町へ移住してきた。だから、この町は自由なのだ。

 移住してきた人々によって、17世紀の黄金期がつくられた。

   ( 中央駅の前の船乗り場 ) 

         ★

アムステルダムの中心のダム広場に立つ >

 中央駅から、トラムの走る大通りを避け、一本中に入った道を歩いて10分。町の中心はダム広場である。

 広場に面して王宮がある。新教会やデパートもある。だが、圧倒されるような大聖堂や高い塔や華麗な市庁舎があるわけではない。

 観光客でいっぱいで、いたって庶民的な雰囲気だ。アジアからの観光客も多く、人間を見ていたら、今、自分がどこの国にいるのかわからなくなる。

 王宮は、もともと市庁舎として建てられた建物だ。一般公開されている。

 現在、王家の方々はハーグにお住まいだ。

 観光客でいっぱいの、広場に面した元市庁舎の建物では、王様も暮らしにくいだろう。静かで、落ち着いて、気品のある都市ハーグに、王家も、国会議事堂も、首相官邸も、各国の大使館も行っている。ただ、憲法上、首都はアムステルダムに定められているのだ。多分、独立したときの経緯があるのだろう。

    ( ダム広場/右手に王宮 )

    ( ダム広場/新教会 ) 

  ( ダム広場/ショッピングセンター ) 

          ★

「飾り窓の女」の街

 ダム広場から東へ歩く。

 北から南へ、小ぶりの3本の運河が流れ、かわいい橋も架けられて、運河沿いの小道には小さなレストランや土産物店が並び、観光客であふれている。いたって庶民的な界隈である。

    ( 街の中の運河 )

 

     ( 運河クルーズ )

    ( こんな人もいました ) 

 アムステルダムに来た以上、ぜひ自分の目で見たいと思っていた一角がある。

 見当をつけてその方角へ歩く。

 同じように運河沿いの小道の延長なのだが、ポルノショップなどが現れ、どこか猥雑な気配になってきた。「飾り窓」の一角だ。

 オランダは自由の国だ。売春も合法化されている。ただし、暴力団やヒモなどに強制されないこと。あくまで個人の自由な意志によることが尊重される。実際、その多くは個人営業らしい。ただ、貧しいアジア系や中南米系の女性も進出してきていると、『歩き方』に書いてある。

 写真を撮ってはいけないと、添乗員からも注意を受けていた。怖いお兄さんに白い粉を押し売りされても困るので、立ち止まったりしない。

 頭上のガラス窓に、丸裸を外に向かってさらしている女性がちらっと見えた。蓼食う虫も好き好きだから、好みだという男もいるのだろう。

 とにかく、そこがどういう所か、自分の目で見ることができた。先進国の中の先進国、EUの中心国の首都の真ん中の一風景である。

           ★

< アムステルダムは商人のつくった街

  ダム広場からさらに10分ほど南へ歩くと、ムント広場に出る。この辺りは、運河も広くなり、建物も大きく立派になる。

 

   ( ムント広場付近 )

 どうして建物と建物とをくっつけ、長屋のような建て方をするのだろう?

 それはわからないが、物資の流通に便利な運河沿いの建物は、間口の広さに応じて税金が課せられたらしい。だから、間口を狭く、奥行きが長く造られている。京都の町屋みたいだ。

 この10年近く、ヨーロッパにも中国人の観光客が押し寄せるようになり、ヨーロッパのどこの町を歩いていても、ここは中国かと思うほどになった。なにしろ中国の全人口は西ヨーロッパの全人口を上回る。

 だが、それでも、ウィーンのたたずまいは貴族的であり、セーヌ川の流れるパリには気品と哀愁がある。王宮や大聖堂を中心としてつくられた都市は、今もそういう気品と雰囲気がある。

 日本の城下町に、城跡が残るだけでも、今も城下町の雰囲気が残り、商人の町である大阪や、門前町の長野とは趣を異にするのと同じである。

 アムステルダムは商人の町、旦那衆の町である。自由で、活気にあふれている。ただし、権威を象徴する建物も、貴族的な香りもない。オランダでそれを求めるならハーグである。

           ★

< オランダの焼酎を買う

 翌日、アムステルダム・スキポール空港から、帰国の飛行機に乗った。

 空港に行く途中、バスの中で、添乗員のGさんが、空港では時間があるので免税店で最後のお土産を買ってください、といろいろ紹介してくれた。

 お土産はいい。だが、その紹介のなかに、「ジェネヴァ」があった。オランダの焼酎のようなものだという。自分用に、それを買おう。

 スキポール空港の免税店フロアーは実に広い。カジノまである。この点、パリの空港も、フランクフルトの空港も遥かに及ばない。関空は、もっとアムステルダム商人の根性を見習いなさい、と言いたくなる。

 その中からお酒を売る店を探す。酒店に入っても、横文字の世界だから、大変だ。それに高級なワインとかスコッチばかりで、免税店に「焼酎」はなかなか見つからない。3軒まわってやっと見つけた。安い酒だ。

 帰宅して、オンザロックで飲んだ。食前酒にいい。なかなかいける。

 「Jenever」。1000mlのボトル。35度。無色・透明。私には、ウイスキーなどより飲みやすい。毎日、少しずつ飲んで、ネットで探してもう1本買った。

 オランダの黄金期の17世紀に、ライデン大学の医学部の教授がつくったそうだ。海を渡って英国に行き、「ジン」になった。英国の貧しい労働者の酒として広がる。

 癖がないため、やがてカクテルに使われるようになる。

 例えば、グレープフルーツで割り、少量の塩をグラスの周りに付けた「ソルティー・ドッグ」。アメリカに渡って、ジンに代わってウオッカが使われだした。昔、読んだハードボイルドの主人公がいつも飲んでいた。

           ★

< オランダという国

  

           ( オランダの上空から )

 「日本では徳川家康が勢力を得つつあった1600年、オランダは東洋に向かって5隻の船を派遣した。決死の大航海というべき壮挙で、無事、豊後(大分県)の臼杵湾に到着できたのは、デ・リーフデ号1隻だけだった。当時、オランダの人口は150万ほどにすぎなかったことを思うと、市民本位の国家ながら、人々に英雄的気概があった時代といわねばならない」(司馬遼太郎『オランダ紀行』)。

  オランダに「1人なら早く行ける。協力すれば、遠くへ行ける」ということわざがあるそうだ。

 「協力すれば」… 世界史のなかで初めて「会社」組織をつくった国である。それも、あの「東インド会社」である。

 海を干拓して国土を造り、小さな国土で農業もやっている。企業精神で十分な収益を上げているから、たいした国である。

      ★    ★    ★ 

< 旅の終わりに >   

 年齢とともに気力も体力も衰える。

 ヨーロッパの旅も、もう終わりにしてもいいかなという思いがよぎる。

 だが、自分の目で見てみたいと思う地域が、なくなったというわけではない。

 例えば、かつてビザンチン帝国の首都であったイスタンブール。トルコに行けば、地中海側にはローマ文明の跡も残っている。それに、イスラム教の大寺院のドームを仰ぎ、キリスト教とは異なる文明の姿を一度、見ておきたい。

 それから、ギリシャ・ローマの文明の発祥の地であるエーゲ海の島々

 キリスト教の発祥の地、エルサレム。

 大西洋に臨むユーラシア大陸の最西端の岬に立ったが、西洋文明の本質にかかわる場所には、まだまだ、立ってはいない。

 今回の旅は、先進国中の先進国であり、ツアーでもあったから、心ときめくわくわく感も、緊張感もなかった。次は、もう少しわくわくする旅をしたい。(了)

          ★

  読者の皆様、1年間、お付き合いいただきましてありがとうございました

 どうか、除夜の鐘を聞きながら、良い年をお迎えください。

 そして、来年もよろしくお願いいたします。

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ナールデン、そして、アムステルダムの国立ミュージアム…ネーデルランドへの旅(11)

2017年12月26日 | 西欧旅行…ベネルクス3国の旅

     ( のどかなナールデンの濠 )

 司馬遼太郎『オランダ紀行』から

 「空からみるとうつくしい星形をしているこの町は、地上から近づくと、まず森だけが見える。ついで水濠の水が見え、さらには城壁のレンガが淡く水面に映っているのが見える。それだけの景観である」。

     ★    ★    ★

 今日は、このツアーの最後の1日である。

 アムステルダムの空港近くのホテルを出発し、ナールデンという小さな町を訪ねる。そのあとは、オランダの首都アムステルダムに戻って、国立ミュージアムで絵を鑑賞し、また、運河クルーズや徒歩で町を散策する。

< 城塞都市ナールデンを訪ねる >

ナールデンは、アムステルダムから約20キロ。人口1万7千人の小さな町だ。

 駐車場でバスを降りて、添乗員のDさんについて歩く。

 1戸建て庭付き住宅が並んでいる閑静な住宅街を通る。首都アムステルダムへは通勤圏の町なのかもしれない。

 新規住民の住む住宅街の終わるところに濠がある。その向こうが「旧市街」のようだ。

   ( 新住宅地との境界に濠がある )

 旧市街の入り口に看板が立っていた。城塞都市ナールデンの平面図だ。

 この町の構造やその歴史については、司馬さんの『オランダ紀行』に尽きる。以下、少し引用する。

 「空中写真を見ると、五稜郭によく似ていることがわかる」。

 「しかし五稜郭はなんともちっぽけで、ナールデンのように、その中に都市を包み込んでいるというふうではないのである」(同)。 

 「町の形は6稜の星形につくられている」。

     ( ナールデンの平面図 )

 「五稜とか六稜という星形には、死角がない。

 それぞれの稜の尖端を堡塁化し、砲台を置き、また小銃隊をまもる胸墻(キョウショウ)を築けば、他の稜に取りついた敵兵を、別の稜から射つことができる」。

 「星のさきは単なる三角ではなく、矢印型、もしくは銛の形になっていて、水濠がめぐらされており、防禦という点において幾重にも工夫されている。単なる☆形でも死角がないのだが、6稜の先端が矢印型にされているために、死角を消すということでは一分のすきもないのである。

 さらに厳重なことに、水濠のなかに点々と小島がつくられているのである。小島はすべて堡塁としてハリネズミのように武装されており、小銃と刀槍中心の時代では、ナールデンは難攻不落であったろう。

 特に、6稜の先端の6つの矢印形の部分の武装は、熊の四肢の爪のようにするどい」(同)。

           ★

 城塞の中の旧市街に入った。

 地面から見れば、ただの17世紀のヨーロッパの街である。通りに並ぶ建物はレンガ造りが多く、家と家とがくっついて、庭はない。

 美しい街並みではあるが、住むとすれば、濠の向こうの現代風な建物、1戸建て庭付き住宅の方が、快適に違いない。

 

    (ナールデンの旧市街)

 街の中心には、例によって、小ぶりではあるが、教会と市庁舎がある。

 やはりレンガ造りで、札幌や函館にありそうな建物である。かつては旧教会の建物だったのを、16世紀に新教徒が新教の教会にしたらしい。 

 

    ( ナールデンの教会 )

 そう広くはない街のなかをぐるっと半周して、来たときとは別の出口から出た。

         ( 濠と城塞 )

 濠があり、雰囲気が仁徳天皇稜古墳みたいだと思った。

 父と息子がのんびりと釣りをしている。

         ★

ナールデンの歴史に思う >

「『国家』などというのは、たかだか100年か200年のものですよ」と言われたことがある。彼は、「日本国」などというものにたいした価値はない、と言いたかったのだ。彼が価値ありとするのは、たぶん、彼の観念の世界、理想である。たとえば、日本国憲法の前文の世界。確かに無国籍である。

 しかし、「インターナショナル」の中には「ナショナル」がある。「コスモポリタン」の中には「ポリス」がある。「ナショナル」のない「インターナショナル」、「ポリス」のない「コスモポリタン」は、しょせん、フワフワと浮遊する生き物だ。

日本人にとって、彼が言うような「国家」、すなわち、明治維新以後の西欧的な近代「国家」の歩みは、長い日本国の歴史のなかのほんの一部でしかない。日本国の歴史を語ろうと思えば、できたら1万年も続いた縄文土器文化の時代から始めなければならない。長いNationの歴史の上にStateがある。

いきなり「State」をつくったアメリカの歴史とは違うのである。

だが、歴史が浅いと言っても、アメリカの国づくりがそうであるように、オランダの国づくりもまた、多くの犠牲を払って勝ち取ることができた苦難の歴史である。

 それを象徴するのが、16世紀にナールデンで起こった出来事である。

 このことを知らなければ、わざわざこんな小さな町を訪れる意味がない。視覚の上だけでは、何でこんな小さな田舎町に来たのか?ということになるだろう。

 以下、司馬遼太郎の文章を引用する。

 「この世紀(16世紀)の主役は、スペイン王国だった。アメリカ大陸を力で征服し、略奪した黄金や銀の多くをアントワープに持ち込み、毛織物その他必要な商品を買った。ついでながら、この当時のスペインは自国で物を製造するということをしなかったため、繁栄が去ると、荒れた農地だけが残った。

 それだけでなく、この時代のスペイン王国はカトリック教会の守護者、あるいは大旦那としての使命感をもちすぎていた。

 国王フェリペⅡ世の病的なほどの情熱は、ローマ教会を守護し、新教を弾圧することだった。

 その弾圧が、1568年のオランダ人の大反乱をまねくのである」。

 「フェリペⅡ世(1527~98)は、カトリックの守護者としての意識が病的なほどに強く、低地地方にひろがりつつある新教は、疫病としかみえなかった。

 彼は、…… ネーデルランドからプロテスタントという疫病をとりのぞこうとし、8万の大軍を送った。それを、アルバ公と呼ばれる将軍に率いさせた」。

 「彼は低地地方に進駐すると、残忍な宗教裁判と圧制、さらには重税でもって臨んだ。

 たまりかねた低地人たちがつぎつぎ立ち上がり、以後80年も続くオランダ独立戦争(1568~1648)になっていく。

 このアルバ公によって殲滅された都市が、ナールデンだった」。

 「1572年、アルバ公の軍隊がナールデンを包囲した。市民たちは城門をとざして抵抗の姿勢を示したが、スペイン側は狡猾だった。

 われわれに他意はない、決して市民を殺さない、と言い送った。市は不用意にも城門を開き、スペイン軍を入れた。スペイン兵による虐殺がはじまり、一人残らず殺してしまった。

 この"ナールデンの大虐殺"は、低地地方をふるえあがらせた。

 対スペイン戦に立ち上がることにためらいつづけていたのは、アムステルダム市であった。1578年、アムステルダム市はやっと独立運動の戦列に加わり」「 …… もはやスペインに抵抗するほか生きる道はないとさとり、1579年は北部ネーデルランドの7州が共同して戦うことを誓い合った。この7州が1581年に『オランダ連邦共和国』(注:ネーデルランド連邦共和国)として事実上独立するのである。

 むろんその前に、オランダの下級貴族によるさかんな抵抗があった。彼らはスペイン人から"乞食"と呼ばれ、彼ら自身も自分たちの結社を自嘲的に"海乞食団"と称した。

 彼らが推戴したのが、ドイツのナッサウ伯爵家のうまれのオラニエ(オレンジという意味)公ウィレムⅠ世(1533~84)で、彼は終始節を変えず、乱を指揮し、暗殺されることで世を終えた。

 ともかくも、ある時期までは各都市は侍たち(海乞食団)の反乱に加わることをためらっていたが、"ナールデンの大虐殺"が状況を変えたのである。

 たとえば、ライデン市の場合、この大虐殺の翌年に包囲されたが、市民たちが1年の飢餓状態に耐えたのは、降伏すれば皆殺しにされるという恐怖があったからである。ついにはライデン市にとって命綱ともいうべき水門をみずから破壊してスペイン軍を水攻めにして退却させた。 

「1550年ごろにはすでに星形都市らしい原形ができていたらしいから、1572年、スペイン軍に包囲されたときは、十分の防御力があったはずである。だからこそスペインは力攻めをせず、だまし討ちにしたのにちがいない。

 その後、町全体が再建された。スペインが去り、オランダに黄金時代が訪れた17世紀になってからのことである。1675年に建設が始まり、85年に完成した」。

   「昔のままではなく、構造が基本から変えられた。虐殺されたことにこりて、不必要なほどの重厚さで要塞化されたのである」。

 「たかだか100年、200年」などと言わないで、歴史をしっかり見てほしい。日本の明治以後150年の歴史とて同じである。

        ★

函館の五稜郭のこと >

司馬さんは、函館の五稜郭についても言及しているので、要点のみを記したい。

 五稜郭を設計したのは、武田斐三郎(アヤサブロウ)(1827~80)という人で、幕府の命による。なぜ、幕府が北海道に五稜郭という要塞を造ったかというと、「幕末人の恐怖は、ロシアの南下だった」ということに尽きる。

 武田斐三郎は、伊予の大洲(オオズ)藩の出身で、若いころ緒方洪庵の適塾でオランダ語と医学を学び、ついで江戸に出て兵学に転じた。

 多くの幕末の洋学者と同様、彼も書物のみを通じて西洋の文物を知った。書物によって反射炉を知り、同じく旋条銃(ライフル)のつくり方も知った。幕臣になり、1864年、幕命によって江戸小石川関口の鋳造所で鉄砲を製造したが、その出来具合は幕府顧問のフランス士官を驚かせたという。

 五稜郭についても、彼はむろん西洋式の要塞をみたことがなく、あくまでも書物で見たものに、想像をまじえたのである。

 しかし、五稜郭は、起工された1857年の段階では攻撃する側の火砲が発達してしまっていて、砲撃をふせぎようがなくなっていた。事実、1869年の函館戦争のとき、新政府側の軍艦が発射する砲弾は郭内によくとどいて、籠城側の戦意をくじいた。

      ★    ★    ★

 国立ミュージアムへ >

アムステルダムに引き返すと、ダイヤモンド工場を見学して、そこで昼食をとった。

 われわれ一行は一室に招じ入れられ、一人の感じのいい日本人女性が出てきて、ダイヤモンドのあれこれについて説明してくれた。そして、最後に「どうぞご自由にご覧下さい」と大粒のダイヤも見せてくれた。もちろん、部屋にはバチンと鍵が掛けられ、防犯カメラがあり、カメラを通して隣の部屋からも監視されていただろう。部屋にいたのは、我々のグループだけだっだ。

 もちろん、即売あり。わざわざ日本人女性を雇って説明させるということは、日本人ツアーご一行様のなかにも買う人がいるということだ。旅先で大散財できるのは、戦後の一時期は陽気なアメリカ人、その後はアラブの王様とか土地成金の日本人で、今は中国人だけだと思っていたが、まだまだ日本人も捨てたものではないらしい。

 昼食後、国立ミュージアム(博物館)へ行く。目的はレンブラントとフェルメールである。

           ★

 国立ミュージアムは、1885年に開館したレンガ色の堂々たる建物だ。

    ( 国立ミュージアム )

 純粋にミュージアムのみの目的で建てられたヨーロッパ最初の建築物だそうだ。

 確かに、ルーブル美術館は元王宮で、オルセー美術館は元駅舎である。気になって調べてみると、ウィーンの美術史美術館は少し遅れて1891年の開館だ。

 1階の広々としたエントランスから2階へ。壁や天井に描かれた装飾画も、なかなか美しい。

   ( 国立博物館の壁の装飾 )

          ★

レンブラントの「夜警」 >

 2階に上がると、大勢の人が立っている絵があった。ここに来た以上、だれもがこの絵の前に立つだろう。レンブラントの「夜警」だ。

   ( 「夜  警」 )

 司馬さんは言う。 

 「私は、あらゆる点で、レンブラントが、人類史上最大の画家の一人だったと思っている。

 特に、『夜警』がいい。今もアムステルダムの国立博物館の一階正面奥に、圧倒的なかがやきをもって展示されている。

 チャールズ・ファウクスという英国の評論家が、『レンブラントの生涯』のなかで、以下のように言う。

 当時、市民軍(自警団)はもはや戦いというようなことはなくて、富裕な市民の社交クラブになっており、それらのうち18人がレンブラントに集団肖像画の制作を依頼したという」。

 ともかく、この絵は、17世紀のオランダという国が市民の国であったことを示す資料として、歴史教科書にも登場する。

 ただ、我々の絵画鑑賞のガイドとして来ていた人の話だと、「夜警」という題が付けられているが、この絵の時間は夜ではない、という説が出ているそうだ。暗い倉庫のような所に集合している場面であり、建物の隙間から外光が入っている、というのである。

フェルメールの絵 >

 同じフロアーにフェルメールもあり、人々が集まっていた。「牛乳を注ぐ女」「青衣の女」「小路」である。

 ヨーロッパの美術館は、フラッシュさえたかなければ写真撮影はOKだからうれしい。日本ではなぜあんなに規制が厳しいのだろう。 

 ( 「牛乳を注ぐ女」 )

 「牛乳を注ぐ女」は、「デルフトの風景」「真珠の耳飾りの少女」とともに、フェルメールの最も著名な作品の一つである。

 壁の肌、籠、パンなどの質感が見事に表現され、色彩も含めて美しい。

 饗庭孝男氏の評。

 「牛乳を注ぐ女」の絵を見ていると、その静かな空間に、今にも注ぐ音が聞こえてくるように思われる。また農婦には確実な生活感の重みがあるが、それでいて卑俗さはまったくない」。

   ( 「青衣の女」 )

 饗庭孝男氏の評。

 「『青衣の女』には、それ(手紙)を読み入っている女の『内面』の動き、心の起伏までが伝わってくるような印象である」。

 そして、これらの絵を総評して、

 「主として左の窓から入ってくる光線は、ほんの微細なものの影までも照らし出していて美しい。気品のみちた雰囲気がどの絵をも支配していて見るものの心をとらえる。『静謐』という言葉は彼の絵のためにあるように思われるほどだ」。

 本当に、「静謐」という言葉は彼の絵のためにあるように思われる。

 これらの絵にもまして、私が好きなのは、「小路」と題されてる絵である。

   ( 「小 路」 )

    ( 「小路」の部分 )

 フェルメールの2点しかない風景画の1つで、圧倒的に評価が高いのは「デルフトの風景」の方だが、私はこの絵を気に入っている。デルフト市内のどこを描いたものかは諸説があり、特定の場所を描いたものではないという説も有力らしい。

 点景として配置された3人の女性がいい。1人1人の女性の年齢や性格や個性はわからないが、日常を感じさせ、温かみがある。

 このミュージアムにはないが、それに、実物を見たわけではないのだが、フェルメールの作品では、「天文学者」と「地理学者」の2点も好きだ。有名な学者とは思えない、多分、市井の学者が、自分の専門に打ち込んでいる姿が、堂々としていて、かっこいい。 

 

 

 

 

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水車とフェルメール…ネーデルランドへの旅(10)

2017年12月22日 | 西欧旅行…ベネルクス3国の旅

     ( キンデルダイクの風車 )

      ★    ★    ★

小雨のなかの風車群 >

 朝から小雨模様のお天気だ。アントワープでは一時、本降りになった。

 ルーベンスを鑑賞したあと昼食。午後は、バスでオランダとの国境を越え、キンデルダイクへ。

 バスから眺めるオランダの風景の印象は、司馬遼太郎の『オランダ紀行』にゆだねた方がよさそうだ。

 「… オランダは、大げさにいえば陸とも海ともつかない」。

 「世界は神がつくり給うたが、オランダだけはオランダ人がつくったということが、よくわかる。

 ベルギーの田園もうつくしいが、とてもオランダにはかなわない。牧草地には舐めてとったように雑草がなく、点在する林も、名画として描かれることを待っているようによく整っている。」。

    ( 上空から見たオランダ )

 「ゼーランド(州)は、日本史とむすびついている。幕末、幕府がオランダに注文した咸臨丸の誕生地なのである。この幕府の軍艦は、ライン川のほとりのキンデルダイクの造船所でつくられ、川をくだって河口の軍港(当時)で艤装された」。

 ということで、当然、このあと、司馬さんの一行はキンデルダイクの造船所と昔の軍港に向かい、咸臨丸を追う旅になるが、われわれのツアーは小雨のなか、世界遺産であるキンデルダイクの風車群の見学へ向かう。

          ★

 葦の茂る運河沿いに、18世紀に造られた19基の風車が点在する。

 「風車で有名なオランダといえども、これだけ並んでいるのは、キンデルダイクのほかにはない」(『地球の歩き方』) そうだ。あいにくの小雨模様であるが、雨もまた風情がある。(と思うのは日本人だけかな?)。

   (キンデルダイクの風車群)

 この運河沿いにとっとと歩いて行けば、「博物館」として公開されている風車があり、内部を見学できると言われたが、雨が降って寒々としているし、遠そうなのでやめた。

 傘をさしてぶらぶらしていると、勢いよくさっさと歩いて帰ってきた一行の中の二人づれのお嬢さんたちに声をかけられた。「行かれましたか??」「いえ。望遠レンズで撮りました」。── 返事がおかしかったのか、笑っていた。

         ★

< マウリッツハイス美術館とオランダ絵画 >

 また、🚌に乗って1時間。ハーグ(デン・ハーグ)に到着した。どんよりと曇っているが、雨はあがっている。

 ハーグはオランダの第3の都市で、国会議事堂をはじめとする政府機関や各国の大使館もあるが、首都ではない。首都はアムステルダム。

 町の中心は、ビネンホフと呼ばれる一角である。ここに国会議事堂、総理府、首相の執務室などがあり、マウリッツハイス美術館もある。

 国会議事堂は、「騎士の館」と呼ばれ、元伯爵邸だった建物で、深いレンガ色がオランダらしい。

 マウリッツハイス美術館は、国会議事堂の敷地に入る門の脇にあった。王立美術館で、その名はかつてこの館の主だった王家の血を引く貴族の名からくる。こじんまりした瀟洒な美術館である。 

     ( 国会議事堂の門 )

         ( マウリッツハイス美術館 )

   このツアーがハーグに来た目的はただ一つ、マウリッツハイス美術館にあるレンブランドの「テュルプ博士の解剖学講義」、フェルメールの「デルフトの風景」、そして「真珠の耳飾りの少女」を鑑賞するためである。

 午前、ベルギーのアントワープで、ルーベンスの「キリストの昇架」「キリストの降架」など、バロックの劇的でかつ生々しい宗教画を見た。

 同じ時期、オランダももちろんバロックの時代にあったが、オランダのプロテスタントの画家たちは宗教画をほとんど描かなかった。プロテスタントは、偶像礼拝になるとして、基本的に宗教画を否定した。

 確かに、ヨーロッパの中世美術は、教会の召使であったと言っていい。おびただしい数のキリストの磔刑や聖母子像が、教皇や司教の依頼で描かれた。

 14、15世紀になり、古代ギリシャ・ローマ文明が再発見されて、ルネッサンスの運動が起こると、ものの見方や考え方も変わり、絵画技術も進化して、同じ宗教画でも劇的な場面をより劇的に、人体の筋肉の動きも含めて「劇画」調に表現するようになった。絵の題材も、キリスト教の話ばかりでなく、ギリシャ神話にも広がる。

 バロックの時代になると、画家のパトロンは王や貴族に広がり、王の肖像画や馬上の雄姿や著名な戦闘の場面や王の家族の姿なども描かれるようになる。

 ところが、オランダでは、… スペインの王権から自立し、人々が市場経済のなかを生きるようになっていったから、町の旦那衆が仲間を組んでの割り勘払いで、自分たちの姿を描くよう画家に依頼するようになった。そして、やがては、今まで宗教画の「背景」でしかなかった風景や、名もない市井の人々の日常の姿を題材にして描く優れた画家も現れてきた。

 思えば、同じころ、わが国ではもっと進んで、芭蕉や西鶴が登場し、卑俗な自然(例えばセミやカワズやシラミ)や市井の人々の生活(大晦日の借金取り)に題材を取りながら、それを見事な文芸へと高めていった。

 レンブラント(1606~1669)、フェルメール(1632~1675)

 ややおくれて、西鶴(1642~1693)、芭蕉(1644~1694)

 ユーラシア大陸の西の果てと東の果てと、相互に影響しあうほどの文化的交流があったわけではない。

            ★

レンブラントの「テュルプ博士の解剖学講義」

    (「テュルプ博士の解剖学講義」)

 レンブランドは、ルーベンスに30年ほど遅れて活躍した。

 「テュルプ博士の解剖学講義」が描かれたいきさつを、司馬遼太郎はこのように描いている。

 なお、「テュルプ」は医者の名だが、普通名詞ではチューリップのことらしい。それで、司馬さんはユーモアをこめて「チューリップ先生」と言い換えている。

 「『わしが解剖しているところを、画家に描いてもらいたいんだがね』と、チューリップ先生はたれかに相談したはずである。チューリップ先生の目的は、医師としての宣伝にあった。

 『金は十分にはずむ。だから第一等の画家がいい。いまたれが腕達者だろう』

 『まだ26歳ですが、レンブラントがいいでしょう』とすすめた人がいたに相違ない。そういうわけで、かつて市長も務めたこともあるこの有名な医師から、若いレンブラントが注文を受けたのである。これが、レンブラントの声望を決定的にした大作『テュルプ博士の解剖学講義』になる」。

 絵の描かれたいきさつから言えば、広い意味での肖像画ということになろうか。群像が描かれているが、絵の主人公はテュルプ博士である。直接的な目的は宣伝(コマーシャル)のためらしい。現代のテレビ・コマーシャルの代わりに、どこかに掛けられたのであろう。

                ★

フェルメールの「 「デルフトの風景」>

 しかし、マウリッツハイス美術館の至宝はフェルメールである。

 フェルメールは、レンブラントよりさらに30年近く遅れて生まれた。

 生前、画家としてそれなりに認められていたらしい。だが、寡作すぎて、レンブラントのように絵で食べていくことはできなかったろうと言われる。あまりにも寡作であったため、死後、長い間、世間から忘れ去られた。

 「デルフトの風景」のデルフトという町は、ハーグに近く、フェルメールが生まれ、暮らした町である。

 もし、ツアーではなく個人で行く旅であったら、私はデルフトには必ず行き、しかも、1泊しただろう。

 フェルメールの町であるだけでなく、オランダの対スペイン独立戦争(1568~1648)において、最も早くに立ち上がり、暗殺される(1584年)まで節を屈することなく戦い続け、今では「オランダ建国の祖」と言われるようになったオラニエ公ウィレムⅠ世ゆかりの町だからである。

 オランダの独立は、ネーデルランドの北部7州の都市が立ち上がり、多くの血を流すことによって勝ち取られたのであるが、市民たちに先立って果敢に戦いを始め、あらゆる手立てを講じて戦い続け、市民たちの先駆けとなった下級貴族の戦いを忘れるわけにはいかない。

 鎌倉幕府と10万の関東武士を相手に、わずかな手兵を率いて立ち上がった河内の土豪・楠木正成のようなものである。

 長い戦いを経てスペインからの独立を勝ち取ったオランダの市民たちは、自分たちの共和国を建国したが、その後、一度、ナポレオンによって国土を征服された。そして、1813年に再独立するに際し、オランダにも王を立てようということになって、建国に貢献したオラニエ家の当主が推戴され、王として迎えられた。ウィレムⅠ世の死から230年の後である。現在の国名は、ネーデルランド王国。

 ついでにデルフトについてもう一つ付け加えれば、日本に初めてやって来たオランダ人は、ウィリアム・アダムスとヤン・ヨーステンであるが、そのヤン・ヨーステンの故郷がデルフトである。ヤン・ヨーステンの名は、八重洲(ヤエス)という地名で今も残っている。

 さて、フェルメールの「デルフトの風景」については、饗庭孝男氏の『ヨーロッパの四季』から引用したい。

  ( 「デルフトの風景」 )

 「17世紀のデルフトの静かな町の風景を描いたものだが、それでいて何か、『永遠の風景』というような趣があり、変わらずに遥か中空に鳴り響いている弦楽四重奏曲の、たとえば第二楽章の美しい世界のようにも思われる。これは日常のなかにあって『時の外』に立ち、しかも見入る人々の魂の安らぎをもたらす絵画なのだ」。

          ★

フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」 >

  ( 「真珠の耳飾りの少女」 )

 この絵は、世界のフェルメールファンの恋人である。

 この絵を見ると、西洋絵画はフェルメールによって「芸術」になった、と言ってよいのかもしれないと思う。

 宗教に隷属した芸術ではない。お金を得るための芸術でもない。何よりも芸術のための芸術である。

 教会のためではなく、王侯貴族のためでもなく、金持ちの旦那衆の依頼によるのでもなく、画家ギルドの職人としてでもなく、「自分の心の世界」を描くために描く。あえて、誰かのためと言うのであれば、自分の絵を美しいと思ってくれる人のために描く。

 「デルフトの風景」も事実の再現ではないらしい。そこにあるのは、「永遠の風景」である。

 この少女も、モデルのとおりに描かれているとは思えない。ここに描かれているのは「永遠の少女」の像である。

 この少女や、この少女の親が、フェルメールの暮らしの足しになるほどの金を払ってくれたとは到底思えない。

          ★

 美術館を出て、裏手にまわると、池を手前にして、美しいビネンホフの景観があった。

      ( ビネンホフ )

 ハーグから1時間。アムステルダムへ。

 夕食のレストランでグラスワインを注文したら、あまり美味しくない。飛行機の機内と同じように小瓶のボトルで出された。ボトルを見ると、何とアフリカ産のワインだった。

  ベルギーもオランダもビールの国だ。それにしても、同じEU圏、ドイツもフランスもすぐそこだというのに…。

 

  ( アムステルダムのレストラン )

 

      

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アントワープと「フランダースの犬」のこと…ネーデルランドへの旅(9)

2017年12月17日 | 西欧旅行…ベネルクス3国の旅

  ( アントワープのノートルダム大聖堂 )

 ツアーの5日目。

 2泊したブルージュを朝、出発して、まずアントワープへ。そのあとオランダに入って、キンデルダイク、ハーグと回り、このツアーの最後の宿泊地アムステルダムへ。アムステルダムでは2泊して、帰国の途につく。

     ★    ★    ★

16世紀のアントワープのにぎわい >

 アントワープは、ブリュッセルに次ぐベルギー第二の都市。

 オランダとの国境まで30キロだから、ベルギーの最北部に位置している。

 全盛期のころのアントワープのにぎわいについて、司馬遼太郎は次のように書いている。

 「全盛期の16世紀のにぎわいは、異常なほどだった。

 たとえば当時の英国はよい毛織物をつくることで世界の金銀を集めていた。

 ただし、英国の貿易が成熟していなかったため、せっかくの毛織物もロンドン発で売ることができず、海を越えてアントワープにもちこまれ、世界に売られた。

 ポルトガルも、そうだった。当時インド進出を果たしたポルトガルは、香料をたっぷり手に入れたが、首都リスボンにはヨーロッパ中に販売する力がなく、アントワープに持ち込まざるをえなかった。

 ポルトガル人は、むろんただでインド人から香料を手に入れたわけではなく、銀や銅で支払った。その仕入れ用の金などは、アントワープで買った。英国の毛織物職人が汗を流し、ポルトガルの冒険商人が九死に一生を得て帰って来るのに、アントワープの大商人は、机の上で金儲けができた。

 そういうわけで、この港市に、貨幣と商品が充満した」 (司馬遼太郎『オランダ紀行』から)。

 ただし、その後の80年に渡る独立戦争のなかで、アントワープの豪商たちはスペインの抑圧を嫌って自由なアムステルダムに逃げ、繁栄はオランダに移っていった。

         ★

「フランダースの犬」の舞台へ >

 しかし、その後の産業革命を経て、今のアントワープもなかなかのものである。

 現在も、世界有数の港湾都市である。

 戦後は、三顧の礼をもってユダヤ人に来てもらい、街の一角にユダヤ人街をつくった。そこは、今、世界のダイヤモンドの研磨・取引の中心になっている。

 そして、また、アントワープは17世紀のバロックの画家ルーベンスの町でもある。

 このツアーがアントワープに立ち寄るのは、ルーベンスの最高傑作と言われる「キリストの昇架」「キリストの降架」「聖母被昇天」を鑑賞するためである。日本からのツアーは、必ずこれらの絵の鑑賞をコースに組み入れる。絵は街の中心に建つノートルダム大聖堂にある。

 ふつうの日本人にとって、ルーベンスの絵は、フェルメールやゴッホほどになじみがあるわけではない。にもかかわらずここに立ち寄るのは、この大聖堂と、大聖堂の中にあるルーベンスの祭壇画が、「フランダースの犬」の最後の舞台になっているからだ。

 「フランダースの犬」の作者は英国人女性で、作品は1872年に英国で発表された。日本では明治の終わりに最初の翻訳があり、児童の読み物として、最近はアニメとして愛され続け、最新のものは2015年の東映アニメ映画である。

 物語の主たる舞台はアントワープ近郊の村。だが、ベルギーやアントワープの人々が物語の存在を知ったのは、日本の観光客が大挙してやって来るようになってからだ。

 今は、母国の英国でも忘れ去られた児童文学である。世界のなかで、日本人だけが、なぜか今も、この悲しい物語を愛し続けている。

         ★

アントワープとは「手投げ」のこと >

 1352年から約170年の歳月をかけて建てられたというノートルダム大聖堂は、塔の高さが123m。かつて、アントワープ港に入る船の目印になったという。ちなみに大阪の通天閣は100m、ハルカスは300mだ。

 大聖堂の前は、例によってマルクト広場。

 広場には市庁舎の立派な建物が建ち、市庁舎の窓という窓に各国の国旗が飾られて、彩りも鮮やかである。日の丸ももちろんある。ヨーロッパ人は旗が好きなのだ。

    ( 市庁舎を飾る各国の国旗 ) 

 市庁舎の前には噴水があり、噴水の上に「ブラボーの像」が立つ。

      ( ブラボーの像 )

 ブラボーの像とは??

 アントワープは世界有数の港湾都市だが、実は北海から80キロも遡った川の港である。川の名はスヘルデ川。

 昔、そのスヘルデ川の川岸の城に巨人がいて、行き交う船から税を取り、払えない者はその腕を切り落として川に投げた。そこへブラボーという名のローマの兵士がやって来て、これと戦って退治し、巨人の腕を切り落として、川へ投げたという。像は、勇者ブラボーが巨人の腕を投げている姿である。

 と言うのも、アントワープはフラマン語でアントウェルペン。handのhを取ったのが「アント」。つまり、「手投げ」という意味なのだ。町の名の起源となった伝説である。

 ブラボーの話は、わが故郷の岡山に伝わる、鬼(ウラ)を退治した桃太郎(吉備津彦)と同じ設定だ。ローカルヒーローの巨人や鬼(ウラ)の立場から見れば、ブラボーや桃太郎(吉備津彦)は、地方を征服するためにやって来たローマやヤマトのスーパーヒーローたちである。

 マルクト広場の周りには、例によってギルドハウス。ギルドハウスの前で、女性たちが集まって何やら密談している…??

  ( ギルドハウスの建物 )

           ★

巨匠ルーベンスと絵の好みのこと >

 ノートルダム大聖堂は、ゴシック建築としては、べルギーで最大だそうだ。

 一歩、扉を入ると、天にそびえるゴシックの「森」がある。

 ( ノートルダム大聖堂の側廊 ) 

 ステンドグラスは、絵柄、色合いが瀟洒で、いつの時代のものかわからないが、この感覚は近代に近いかもしれない。

    ( ステンドグラス )

 そして、巨匠ルーベンスの絵があった。

 「17世紀のヨーロッパ美術が 『バロック』の時代であることは、周知のことである。

 まことに、バロック美術はなまなましい。『聖書』のなかの人物や事件を描いても、聖者の傷口の白い脂肪まで感じさせ、逆さにはりつけされる場面も、聖者の筋肉や刑吏たちの筋肉が、ただ一つの運動目的に向かい、奔騰するように動いている」 (司馬遼太郎『オランダ紀行』から)。

 ( ルーベンスの祭壇画「キリストの昇架」 )

 司馬遼太郎はもう少し詳しくこの絵について解説しているが、私にはこれ以上の感想は必要ない。「傷口の白い脂肪まで感じさせ」るような生々しい絵で、筋肉のむやみな強調と、題材のこれでもかという劇的な取り上げ方は、要するに「劇画」調なのだ。美術史家たちは、中世の天井をぶち抜いて、ルネッサンスを切り開いた西洋絵画が、透視画法や人体の科学的探究などを通して、ここまで進化しましたと言うかもしれない。だが、私には、刺激的ではあっても、人の心を打つ作品とは思えない。

 私が絵を見ることを好むようになったきっかけは、遥かに遠い昔、東京の貧しい学生時代のことで、年下の友人の影響だった。私も若かったが、彼はまだ20歳だった。画家を志し、上京して、一人で暮らしていた。会うといつも絵のことばかり話し、私は聞き役だった。

 ある日、ルオーが来ているから行こうと誘われ、上野の美術館へ行った。生まれて初めて本物の絵を見て、半日、ルオー漬けになった。友人は、すごい、すばらしいと独り言を言い続けた。その独り言を聞きながら、ルオーの深い精神性に感銘を受けた。

 ルオーは19世紀に生まれ、20世紀に活躍した画家である。彼の絵は、ルネッサンスからバロックへという美術史の流れをさらに突き抜けて、聖書の物語を題材にしても、物語の迫真的再現性や肉体のリアリズムを追求していない。それは、ある意味、中世絵画に戻ったように、静止的で平板である。しかし、そもそも絵は、形と色による二次元の芸術である。あえて立体的に見せようと技術を磨き、さらには時間の一瞬をとらえて劇的にしようと齷齪すること自体が、絵の本道をはずれることなのだと私は思う。ルオーの描いた絵には、キリスト教徒でなくても心打たれる何か、人間存在の根源的な哀しみとそれへの深い共感があるように思う。

( ルオーの絵/ヴァチカン美術館で )

 同じ年だったか、上野にシャガールが来て、また、彼に誘われて、たくさんのシャガールの愛の世界を見た。美しいと思った。シャガールはロシア生まれのユダヤ人だが、西欧にやって来て、キリスト教に改宗した。美しい絵の奥に、彼の苦悩の遍歴が感じられた。

( シャガール/ニースの美術館で )

 以後、何10年にもなるが、美術展にはよく行った。美術や美術史の研究のために絵を見るわけではないから、自分の好み・嗜好を大切にし、いわばわがままに見てきた。わがままとは、世界の中心に自分の感覚を置くことである。自分が美しいと思うものが美しく、自分が感銘を受けるものが、素晴らしいのだ。そのなかで、自分のものの見方、感じ方、考え方が深化していく。手引書や解説書を中心にしていたら、いつまでたっても成長しない。

 ルオーと師を同じくし、生涯、互いにリスペクトし合ったもう一人の画家マチスは、ルオーとは全く異質の画家であるが、私が最も好きになった画家である。ルオーとは異質だが、画面に漂う静謐感は同じである。

 やがて西洋画に飽き足らず、日本画の東山魁夷や平山郁夫に心を寄せるようになった。

         ★

< 「フランダースの犬」と自立・自存の誇り >

 さて、ノートルダム大聖堂とその祭壇画を舞台装置にした「フランダースの犬」の物語の最後は、こんな風である。

 ネロ少年と老犬パトラッシュはミルク運搬の仕事をして糊口をしのいできたが、新しく参入した業者に仕事を奪われてしまう。さらにクリスマスを数日後にひかえて、優しかった祖父が亡くなった。そのうえ、風車小屋に放火したという濡れ衣まで着せられ、クリスマスの前日には、家賃が払えず住んでいた小屋も追い出された。ネロ少年の最後の希望は、アントワープ市のコンクールに応募していた絵が認められることだったが、審査の結果、応募の絵も落選してしまった。

 傷心のネロは老犬パトラッシュとともに、行く当てもなくクリスマスの前夜の道をさまよう。そして、いつの間にか、ノートルダム大聖堂の前に来ていた。

 深夜なのになぜか扉が開いていた。導かれるように真っ暗な中を内陣まで進み、祭壇の下の冷たい石畳にうずくまる。飢えと寒さで意識が朦朧となっていく。

 そのとき、雲が晴れて、後方の扉から月光が差し込んできたのである。すると、いつも覆いがかかって見ることができなかった祭壇画「キリストの降架」が鮮やかにネロの目の前にあった。画家を志していたネロがずっと見たいと思っていた最高の名画である。少年は遠のく意識のなかで感謝の祈りをささげた。「神様、ありがとうございます」。

 翌日、人々は少年と老犬の凍死体を発見した。

   ( ルーベンスの「キリストの降架」 )

 この物語を読み聞かせたあと、親は子に話す。「心清きネロは、人間のために十字架に架かった優しいイエス様の腕に抱かれて、天国に昇ったのよ」。

 聖夜を前にした奇蹟物語で、典型的なヨーロッパの「キリスト教文学」である。もちろん、日本ではそういう宗教的要素は背景に退けられて、読まれることになる。

 さて、司馬遼太郎は『オランダ紀行』のなかで、

 1つ目。この児童文学を生んだ英国において、この物語がすっかり忘れられてしまった(読まれなくなった)のは、なぜだろう??

 2つ目。にもかかわらず、日本で未だに愛され続けるのはなぜなのか??

と問いを発する。その結論がなかなか面白かった。2つの疑問に対して、司馬さんを納得させたのは、大阪府立児童文学館の研究員である。 

 なぜ、英国でこの物語が顧みられなくなったのか??

 このときネロは15歳。15歳なら、もっと雄々しく自分の人生を切りひらいて行くことができるはずだ!! 子どもたちのモデルにはならない!!

 英米の児童文学では、19世紀の終わりごろから、青少年に「自立」をうながす作品が求められるようになったと、研究員は言う。

 むむっ!! ネロが15歳とは知らなかった。日本のアニメのネロは、小学生ぐらいに描かれている!!

 それはさておき、プロテスタンティズムは、個人の自主・自立を尊ぶ。経済的に成長した「市民」が、その傾向に拍車をかける。神の言葉は聖書に書いてあるのだから、教皇とか、司教とか、教会などという権威は必要ない。人はそれぞれ「個人」として、1冊の聖書を介して、神に直接的に向き合えばよいのだ。

 明治の初め、札幌農学校(北海道大学の前身)に教頭としてアメリカから招聘されたクラーク博士の言葉、『Boys be ambitious』(少年たちよ、各自、大いなる志をもて)は有名だが、彼はまた、開校に当たって作られた校則をすべて廃止して、『Be gentleman』の1つだけにした。生徒たちは、『gentleman』の意味・イメージがわからなかったが、クラークが教えたかったのは、細々とした校則に支配されて学校生活を送るのではなく、自ら立ち、自らを律する、誇りを持った人間になれということだ。生徒たちはそれを『武士』と置き換えて理解した。『各自、行動に当たっては、武士の心をもて!!』である。各自が一個の立派な武士たらんとする誇りを持てば、些末な校則など必要ない。

 プロテスタンティズムと武士道の合体。見事な意訳である。この学校の卒業生の新渡戸稲造は、のちに英文で『武士道』を著し、この著書はアメリカ大統領をはじめ、世界の人々から称賛を受けた。

 司馬遼太郎は、研究員の解釈を受けて、このように書いている。

 「英国では18歳でもって親から自立する。20歳でなお母親につきそってもらって部屋をさがす青年には家主は気味悪がって部屋を貸さないという話を、ごく最近ロンドンで聞いた」。        

 今、日本で、大学の授業料の無料化のことが問題になっている。ヨーロッパの大学の授業料はタダだ。あとは長期休暇中のアルバイトで生活費を稼ぐ。基本的に「親がかり」で大学に行くことはない。

 ただし、日本の若者も親も、誤解してはいけないのだ。

 ヨーロッパの大学は、入学できても、卒業するのは容易ではない。日本のように、4年たてば、ところてん式に卒業式に出席できるわけではない。一人一人、個別に、単位が全部取得できた人から卒業する。それまでに何千冊の本を読み、何百本のレポートを書かなければならないだろう。パリ大学に入学した日本人、在学したことのある日本人はたくさんいるが、卒業した人はめったにいない。

 大学で勉強することのしんどさがわかっているから、能力も意欲もない人が大学に進学することはない。大学に行かなくても、道は多様にある。それぞれの道でエキスパート、例えば一流のレストランの一流のシェフになれば、大学の学長と同じように尊敬される。勉強する能力も意欲もないのに大学進学しても、結局、青春を浪費するだけだ。

 昔、15の春は泣かさない、と言った知事がいたが、ヨーロッパでは15歳は自立への重要な岐路なのだ。泣く必要はないが、人生の選択はしなければならない。普通科高校は、大学に接続するコースで、勉強、勉強。大学へ行きたくない人は、職業高校へ行く。職業高校を出て、専門技術をさらに深めたい人のためには大学相当の学校もある。職業高校と言っても、頭がよく、必死で勉強しなければ、一流のシェフにはなれない。ただ、普通科高校と、それに続く大学で必要とされる頭の良さや勉強の仕方とは、性格が違うということだ。

 そういう価値観の国の親は、15歳で行倒れて死んだ少年ネロをわが子のアイドルにしたいとは思わないのである。

          ★

日本で「フランダースの犬」が愛されるのはなぜか >

 では、なぜ日本人は、今も「フランダースの犬」の物語を愛し続けるのか?? 

 この問いに対する研究員の意見も面白かった。

 パトラッシュは「西洋流に鍛えられた犬ではない」というのだ。

 パトラッシュは、「主人に忠実なだけがとりえの、いわば "忠犬 "です。しかもこの忠犬は、" 恩返し "という忠義の動機までもっています。このあたりも、日本人に好まれる理由の一つではないでしょうか」。

 なるほど、日本の子どもたちにとって、この作品は、題名通り「フランダースの『犬』」の物語なのだ。日本の子どもたちは、自分をネロと重ね合わせながら、自分にいつも寄り添い、助けてくれる、優しい老犬パトラッシュのような犬がいたらどんなにいいかと夢見るのである。それに、忠犬パトラッシュは、「早く勉強しなさい」とママのように口やかましく言わない。最高の友達なのである。

 もちろん、日本では日本風にアレンジされて描かれている。ネロの年齢も幼くし、原作の「キリスト教文学」の側面とか、ルーベンスの「キリストの降架」への賛嘆などは、物語の遥か後方の背景に退けられ、目立たなくされている。

 要するに、日本において「フランダースの犬」は、忠犬パトラッシュと少年ネロの愛情物語として、読み継がれているのだ。

          ★

 研究員氏の言う、パトラッシュが「西洋流に鍛えられた犬ではない」「主人に忠実なだけがとりえの、いわば "忠犬 "です」とは、どういうことか??

 以下は、私見である。

 犬はオオカミではなく、古来から人間に寄り添い、人間とともに生きてきたのだから、「忠犬」であることは犬の自然な本性なのだ。「忠犬」であることに、厳しい訓練など必要としない。そして、日本人は「自然」であることが好きなのだ。

   西欧において、19世紀なら、犬は牧羊犬とか、狩猟犬とか、犬ぞりの犬。

 犬に対しても品種改良や訓練を施して、人間に役立つものに変えてきた。人間は「神に似せて造られた存在」であるから、自然を支配もするし、必要があれば保護の手も加えるのである。

 今は、西洋でも、労働犬としてよりペットとして犬を飼うが、基本的にペット犬は、自然の犬ではない。ペットとして改良され、訓練された犬だ。

 観光地に犬を連れてきて一緒に歩いている観光客がいる。もちろん、よく訓練された犬だけだが、鎖につながなくても、大勢の観光客の間を一人で(一匹で)歩き回り、主人が呼べば、飛んでやって来る。他人に吠えたり、なついたりすることはない。道端でおしっこも、うんこもしない。良い悪いは別にして、見事なものである。

 あるとき、こんな光景に出会った。

 西洋人の10数人の観光グループが記念撮影しようと2列に並んでいる。そこへグループの誰かの飼い犬が飛んできた。「待ってくれ!! ボクも入れて」。そして、すばやく前列の真ん中に座って、カメラの方を向いたのである。これには、私も、周りを歩いている西洋人観光客たちも大笑いした。

 こんな風に訓練された犬を、日本で見かけることはない。

 西洋人は、犬を品種改良したり、訓練して、人間の好みの存在に変える。それが「ペット」である。

 日本では、自分が自然に近づき、自然と一体になる。人もまた、自然なのだから。

 私が犬を飼うなら「ペット」ではなく、ネロとパトラッシュのような関係、犬は犬らしくがいい。犬はもともと人間が好きなのだ。

          ★

< 少々脱線します >

 もっとも最近の日本のペットブームは、人の方が歩み寄りすぎて、犬をわが子のように可愛がり、過保護な犬になってしまっているようにも感じる。もしかしたら、もう「忠犬」などいないのではなかろうか。

 その結果、都会の街角のあちこちにペット医の看板が目立つようになった。テレビドラマにも、きれいな女優さんがペット医になって登場したりする。

 だが、若い女子があこがれても、なかなかペット医になるのは難しいかもしれない。なにしろ、彼らは獣医師会というギルドをつくって新規参入を抑制し、そのために50年間も文科省に圧力をかけ続けていたらしいのだから。

 世界最先端の学部でないと、獣医学部の新設は認めないそうだ。

 21世紀に、中世的ギルドはよろしくない。競争のないぬるま湯に、世界最先端の研究など生まれてくるはずがない。

 話題が、「フランダースの犬」から、現代のギルドのことにまで脱線してしまった。今回は、このあたりで。

 

 

 

 

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ブリュッセルでワッフルを食べる … ネーデルランドへの旅(8)

2017年12月12日 | 西欧旅行…ベネルクス3国の旅

     ( ブリュッセルのグラン・プラス )

ブリュッセルでワッフルを >

 ベルギーの首都ブリュッセルの中心は、グラン・プラス(Grand Place)。ヴィクトル・ユーゴーが「世界で最も美しい広場」と称賛したとか。

 ナポレオンは、ヴェネツィアのサン・マルコ広場に立って、同じことを言った。

 私は、ナポレオンの美的センスに軍配を挙げるだろう。

 グラン・プラスは確かに豪華だが、悪く言えば成金趣味のゴテゴテ感が強い。人出が多く、それも繁華街の賑わいだ。

 キャサリン・ヘップバーン主演の映画『旅情』の舞台となるような、ちょっと切ない大人の恋が生まれそうな風情はない。

 ベルギーやブリュッセルを悪く言うつもりはない。美的センスにおいて、ヨーロッパのどこも、フランスでさえも、イタリアにはかなわないのだ。

   ( グラン・プラスの市庁舎 )

 広場の四面を囲んで、ギルドハウスの立派な建物が並び、市庁舎や、「王の家」と呼ばれる元公爵邸もある。

 元は船頭の同業組合とか、油商の同業組合だった建物も、今はブランド品を売るオシャレな店になっている。ベルギーと言えばチョコ。ゴディバの店もある。

 広場を抜けて、200mほど商店街を歩くと、小便小僧の像。大変な数の観光客が取り囲み、一緒に写真を撮っている。今日は、地雷除去に従事していた。

 もう少し楽しい服を期待していた。つい、人権のヨーロッパ、正義はいつもヨーロッパにあり、という臭みを感じる。

  ( 小便小僧 )

 商店街を歩いていると、ワッフルを焼いて売る店があったので、本場のワッフルを立ち食いした。

 ベルギーのワッフルは固いのと柔らかいのがあるそうで、柔らかいワッフルだった。

 うーん。天王寺駅構内のベルギーワッフルの店「マネケン」の方が、断然旨いですね。

 ウィーンのハブスブルグ家御用達だったというカフェで食べたケーキも、大きくて甘いけれども、日本のケーキ屋さんの方が上品で、良い味だと思う。どうなっているのでしょう??

 バスの駐車場へ戻る道に、サン・ミッシェル大聖堂があった。この教会でカールⅤ世は戴冠式を行った。今も、歴代ベルギー国王の結婚式はここで挙げられることが多いそうだ。

  ( サン・ミッシェル大聖堂 )

         ★

ベルギー王国のこと >

 ベルギーの正式の国名はベルギー王国。国家としての歴史は浅く、独立を宣言したのは1830年である。

 BC1世紀にガリア遠征したユリウス・カエサルが、『ガリア戦記』の中で、この地に居住する人々をベルガエ族と呼んだ。これが国名の起源ではないかと言われている。

 スペイン・ハプスブルグのフェリペⅡ世が統治していた1568年、ネーデルランドの全17州が独立戦争に立ち上がった。

 新教のカルヴィン派の多かった北部7州は、80年に渡る血みどろの戦争を戦い抜いて、1648年に独立を果たした。これがオランダである。

 他方、カソリック信徒の多かった南部諸州は結局挫折して、スペインの支配下に留まった。

 その後、ナポレオン戦争のときに、ヨーロッパはぐちゃぐちゃになる。(オランダもナポレオン軍に占領され、当時、オランダ国旗が翻っていたのは、長崎の出島だけだったらしい)。その戦後処理で、南部諸州は、オランダにくっ付けられてネーデルランド連合王国に再編された。

 その15年後、ネーデルランド連合王国からの独立を宣言し、翌1831年にドイツ系の貴族を初代国王に迎えて、ベルギー王国を樹立した。

 野のものとも山のものとも分からない独立したばかりの小国の国王になることは、なかなかの冒険である。だから、国民は迎えた国王を大切にする。国王の方も、縁もゆかりもない国の王に迎えられたのだから、国民や議会に遠慮もあり、配慮もする。

 ただし、国家元首である国王は、議会とともに立法権をもち、内閣とともに行政執行権ももつ。ただし、首相の連署を必要とする。ここは用心深く、押さえている。

 一度だけ、国王が、妊娠中絶の合法化に反対して、法案への署名を拒否したことがある。このときは、国王を「統治不能状態」ということにして、内閣が代行した。一時的に「座敷牢」に入れたというか、国王自ら一時的に「座敷牢」に入られたということか。とにかく立憲君主制は守られた。

 人口1100万人ほどの小さな国だが、北部と南部との間に、経済格差と民族的対立を抱えている。

 北部はオランダ語のベルギー方言であるフラマン語を話し(フラマン人)、南部はフランス語を話す(ワロン人)。歴史を遡れば、ゲルマン民族大移動時の4世紀にその淵源があるというのだから、根は深い。

 独立当時は、南部が裕福でフランス語が公用語だった。今は、北部の方が発展目覚ましく、南部は失業率も高い。現在、公用語はフラマン語とフランス語の2つ。1993年には憲法を改正して、連邦制に移行してしまった。

 宗教は、カソリックが75%、プロテスタントが25%。ちなみに王様はプロテスタントである。

 最近の調査ではイスラム教徒が増えている。首都ブリュッセルで生まれる子どもの名前で一番多いのは、マホメットだという。これもまた、ヨーロッパが直面しているもう一つの現実である。

 ベルギーはEUを主導してきた国の一つで、今、ブリュッセルはEUの首都と言われる。

 EUは、国家を超えて、アメリカ合衆国に対抗できるくらいの経済圏をつくろうという動きであり、また、ローマ帝国崩壊後、戦争ばかりしていたヨーロッパに平和を現出しようという願いも込められている。

 しかし、国家を超えたEUをつくろうとという動きの一方では、それぞれの国家をさらに小さく分裂させようとする運動もある。例えば、英国にスコットランドの独立問題があり、スペインにバルセロナを中心とするカタルーニア州の独立問題があり、イタリアでもミラノを中心にした北部に独立運動があり、EUの中心、人口わずか1千万少々のベルギーにさえもこのように強い遠心力が働いている。

 このような西欧社会に何百万人というイスラム教徒の難民・移民を受け入れて、いったいどうなるのだろうと、私などには思えてしまう。

 

 

 

 

    

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商都ゲントとハブスブルグ … ネーデルランドへの旅(7)

2017年12月04日 | 西欧旅行…ベネルクス3国の旅

         ( ゲント : レイエ川のほとり )

ゲントへ >

 4日目の午前中はブルージュを散策した。運河の水面に煉瓦色の建物が映り、白鳥が浮かぶ印象的な町だった。文化とは、文学や音楽や美術であるよりも、まず街並みである。

 午後は、観光バスで、かつてブルージュのライバルとして栄えた商都ゲント、さらに、ベルギーの首都ブリュッセルをまわる。午後半日で2都市をまわるのだから、小鳥が餌をチョンチョンとついばんで、すぐに飛び立つような小旅行である。

 北海に近いブルージュからは、内陸部へ向かって、東へ40キロでゲント、さらに東へ50キロでブリュッセルである。

       ★   ★   ★

フランドル伯領として、また、ブルゴーニュ公国の下で栄えたゲント >

 ゲント (ヘント、フランス語ではガン) は、ブリュッセル、アントワープに次ぐベルギー第3の都市である。

 レイエ川沿いを歩くと、川辺にかつての繁栄を映すかのようにギルドハウスの建物が並び、その先にはフランドル伯の居城もある。(小鳥のついばみ小旅行だから、垣間見ただけだが)。

 9世紀ごろ、北海から川を遡行して襲ってくるヴァイキングの襲撃に備えて、ネーデルランド地方にいくつもの城塞が築かれた。フランドル伯も、ルクセンブルグ伯も、このころに砦を築いた領主である。

   砦が築かれると、人々は生命の安全を求めて城塞の近辺に住み着き、それが町となり、商工業が興り、自治が行われるようになり、やがて領主や教会などの旧勢力に対抗するほどの経済力を持つようにさえなる。ゲントも、ブルージュも、隣のブラバンド公領のブリュッセルも、そのようにして発展した都市で、12~13世紀に、この地方は西ヨーロッパで屈指の裕福で華やかな地域に発展した。

   ( 橋を渡ると… )

 レイエ川に架かる橋を渡ると、正面に聖ニコラス教会が見え、重なり合うようにしてゲントのシンボルである鐘楼がそびえている。そしてさらにその右奥に、聖バーフ大聖堂の塔がのぞいていた。

 午前中に散策したブルージュも、町のシンボルは、商工業者(市民)たちがマルクト広場に建てた鐘楼だった。同じように、ゲントの鐘楼も、13世紀末、ゲントのギルドによって建てられた。鐘を鳴らして時刻を知らせること、時を支配することが、力の象徴だった。

 91mの高さをエレベータで上がって、ゲントの街並みを一望することもできるそうだ。ヨーロッパ旅行で、塔のらせん階段を上るしんどさは何度か味わった。エレベータで昇れるなら美しい街並みを眺望したいが、こういうツアーではそういうことはしない。

   ( ゲントの鐘楼と「繊維ホール」 )

 鐘楼の下には、ゲントのもう一つのシンボルである「繊維ホール」が建っている。羊毛産業で栄えたゲントの毛織物商人たちが建設し、会議場として、或いは、取引所として使用した。

 この繊維ホールが建てられた15世紀には、フランドル伯は、ヴァロア・ブルゴーニュ公家に代替わりしていた。

 それというのも、14世紀末のことだが、フランドル伯であったダンピエール家に男子がなく、ダンピエール家の娘マルグリットが共同統治の形でブルゴーニュ公フィリップⅡ世と結婚したのである。

 ブルゴーニュ公国は、当時のフランス王家・ヴァロア家の血を引き(王家とは犬猿の仲だったが)、フランス南東部の町ディジョンを都とする領主だった。今もブルゴーニュワインで有名だが、草深い地方である。

 下の2枚の写真は、2015年春の「フランス・ロマネスクの旅」(ブログ参照) のものである。

(※ ヴェズレーの丘から、豊かなブルゴーニュの平野を眺めた。日が傾いて雲が赤みを帯び、交響曲が聞こえてくるような気がした)。

(※ 今はフランスの一地方都市に過ぎないディジョンは、花のパリなどと比べると少々さびれて、壮麗な大公宮殿を訪れる観光客も少なく、往年のブルゴーニュ公国の繁栄も昔日の感があった)。

   そののどかな公国が、結婚によってヨーロッパ経済の先進地域のフランドル地方を手に入れ、飛躍的に発展するのである。

 ブルゴーニュ公国時代のフランドル地方について、歴史学者はこのように書いている。

   「ここには、他国の追随を許さない優秀な毛織物産業が栄えていた。イギリスから安い値で羊毛を輸入し、これを原料として高級衣料や壁掛けや絨毯などを完成し、製品を遠くハンザ都市やアフリカ、オリエントにまで輸出した。ブルージュやアントワープのような積出港は殷賑をきわめ、重厚な商館や倉庫が櫛比(シッピ)していた」(江村洋『ハブスブルグ家』講談社現代新書から)。  

         ★

 

     ( 聖バーフ大聖堂西正面扉口 )

 鐘楼のすぐ東側に聖バーフ大聖堂がある。ここには、15世紀フランドル派絵画の最高傑作と言われる「ゲントの祭壇画」がある。このツアーがゲントに来た第一の「メダマ」は、この祭壇画の鑑賞である。

 祭壇画が完成したのは1432年である。初めファン・エイク兄弟の兄が構想を練って描き始め、兄の死のあと弟が引き継いで完成させた。折しも、ブルゴーニュ公国が、フィリップⅢ世(フィリップ善良公)の治世の下、経済的にも文化的にも最盛期を迎えていたころのことである。

 残念ながら撮影禁止だったが、大きな衝立形式になっており、12枚のパネルの絵で構成されている。その中心は「神秘の仔羊」。仔羊はイエス・キリストを表す。

 中世絵画から一歩踏み出した骨太の写実的手法で描かれており、私のような素人にも、時代を超えようとする絵の偉大さはわかった。だが、そうは言っても、カソリックの教義に基づいた宗教画だから、芸術的感銘というのとは違う。現代人にとって、芸術は、宗教の教義を表現するための手段ではない。

 それでも、この大作は、ナポレオンとナチスドイツによって2度も持ち去られた。のちにフランスからは返還されたが、2度目のときは行方が分からず、探しだすのが大変だったようだ。

         ★

ハブスブルグ家のネーデルランドへ >

 ゲントは、高校でならう世界史に必ず登場する神聖ローマ帝国皇帝カールⅤ世 (在位1519年~1556年)、スペイン王としてはカルロスⅠ世 (1516年~1556年) が生まれ育った町である。聖バーフ大聖堂は、カールⅤ世が生まれたときに洗礼を受けた教会としても有名なのだ。

 以下の記述は、今回、改めて読みなおした、江村洋『ハブスブルグ家』からの要約である。毎回のこういう歴史ダイジェストに当ブログの読者はゲンナリされるだろうが、私の方は、最近、だんだんと西洋史がわかってきたぞ!!と、喜んでいる次第。どうか読み飛ばしていただきたい。

 さて、ブルゴーニュ公国の黄金期をつくりだしたフィリップⅢ世(フィリップ善良公)のあとを継いだのは、賢い父とは逆に猪突猛進型のシャルルⅡ世(シャルル突進公)だった。彼には嫡男がなく、子は愛娘のマリアだけ。上記の本にマリアの横顔の肖像画の写真が載っていたが、気品と優しさが匂うような美少女である。しかも、ヨーロッパ随一の富裕で優雅な公国のお姫様であるから、縁談は降るようにあった。そして、あのハブスブルグ家からも、申し出があったのだ。

 この時期の神聖ローマ帝国皇帝は、ハブスブルグ家のフリードリヒⅢ世だった。

 ハブスブルグ家は、100年以上前、スイスの小さな一領主に過ぎなかったころ、力なきゆえに思いがけなくも皇帝に選出された。そのとき、皇帝の権威を利用して、たまたま跡取りがなく断絶したオーストリアを手に入れた。(もっとも、我々が知る華やかなウィーンは、そのずっと後に、ハブスブルグ家がつくり上げた都で、この時代のオーストリアはヨーロッパの辺境の地だった)。

 オーストリアを手に入れたが、多くの封建諸侯家と異なり、ハブスブルグ家は伝統的に長子相続をせず、子どもたちに分割相続した。当然、世代が進むにつれ、当主の所領・財産は小さくなる。前回、皇帝位に就いてから既に130年がたち、フリードリヒⅢ世のときには、実は尾花打ち枯らす小領主になっていた。(だから、また、皇帝に選ばれたのではあるが)。

 ハブスブルグ家にとって、ブルゴーニュ公国はまばゆいほどに豊かな公国である。「公女をぜひ我が息子に」。

 ブルゴーニュ公国のシャルルとフリードリヒⅢ世は会見した。シャルルには皇帝位が魅力だった。歴史家・江村洋氏は次のように書いている。「この会見でシャルルは相手を威圧しようとして3000人の胸甲騎兵、5000人の軽騎兵、6000人の随員を従えていた。… なにしろ公の兜の羽飾りに付いたまばゆいダイヤだけでも、フリードリヒの家領から上がる年収の半ばに近いと値踏みされたほどだった」。

 このとき、縁談はならなかったが、のち、シャルルは承諾する。尾花打ち枯らしたようなフリードリヒが連れてきた若者マクシミリアンの凛々しい騎士ぶりが忘れられなかったのである。

 その半年後、シャルル突進公は、不用意にも戦場で戦死してしまった。突然の当主の死を受け、ブルゴーニュ公女マリアは、急いでハブスブルグのマクシミリアンと結婚した。

 このときをチャンスと、フランス王がブルゴーニュ公国領を獲得せんと軍を進めてきた(ローマ帝国滅亡後のヨーロッパは、第二次世界大戦の終わりまで、このようにずっと仁義なき戦いをしてきたのです)が、「中世最後の騎士」とうたわれたマクシミリアンは、勇猛果敢にして、落ちついた指揮ぶりで、フランス軍を撃破した。

 マクシミリアンとマリアは、互いに相手を気に入り、仲むつまじかった。2人の間には男子と女子が生まれた。後のフィリップⅣ世(フィリップ美公)と妹のマルガレーテである。

 午前中、ブルージュを散策していたとき、添乗員のG氏が、「マリアはブルージュ市民から敬愛されていたが、マリアの死後、マクシミリアンに対して反抗した」と言った。そのときは、事情がよく分からなかったが、こういうことのようだ。

 3番目の子を身ごもっていたとき、マリアは不注意にも落馬して死ぬ。気落ちしたマクシミリアンに追い打ちをかけるように、フランドルの市民軍が、嫡男フィリップを人質に取り、マクシミリアンを追い出しにかかったのだ。「公家の血を引くのはフィリップ様。あなたにはもう用はない」。「私がフィリップの後見者だ」。マクシミリアンは、ここは後に引けないと気力をふりしぼって市民軍と粘り強く戦い、勝利した。

 嫁(或いは婿)は嫌いだが、孫はかわいいという話はよくある。マクシミリアンは市民たちに対しても気さくで、開放的な人柄だったようだが、それでも、市民たちにとっては「他人」である。かわいい娘の婿だから受入れていたが、娘が亡くなれば、鬱陶しいだけだ。それに、そもそも力をつけてきた市民たちにとって、領主そのものが鬱陶しくなっていたのだろう。マリアや、幼いフィリップなら、どうにでも牛耳れる。

 さて、話は一転して、スペインに移る。

   数百年かけてイスラム勢力を地中海に追い落としたイベリア半島では、アラゴン連合王国のフェルナント王とカスティリア王国のイサベラ女王が結婚し、1479年に統一スペインが実現した。(今、また、カタルーニャ=バルセロナ地方の分離独立問題が起こっているが、この問題も遡ればこの時代に起源ある)。

 そのスペインから、両家の子どもたちの兄と妹で2組の結婚を、という申し出があり、悩んだ末、マクシミリアンもこれを受けた。

 ところが、娘マルガレーテが嫁いだスペインの王子は、もともとひ弱な体質で、結婚後半年で夭折した。マルガレーテは不用の人となり、ブルゴーニュに返される。

 長男フィリップとスペインからやって来た長女ファナの間には、カール、フェルナンドという2人の男子が生まれ、女子も誕生した。

 その間に、スペイン王家のイサベラ女王が、続いてフェルナンド王が、嗣子なく亡くなった。さらに、ブルゴーニュ公国のフィリップ(Ⅳ世・美公)もスペインで客死した。こうしてスペイン王家の血をひくナンバーワンは、ハブスブルグの孫カールになってしまった。

 こうして、ハブスブルグ家の、まだ10代のカールがスペイン王になり、さらには神聖ローマ帝国皇帝になるのである。

( ※ スペインの古都トレド。10代でネーデルランドからスペインに移り住んだカールは、最初、その風土の違いの大きさにとまどったに違いない。 )

 さらに後のことだが、同じことがカールの弟で、オーストリアを統治していたフェルナンド(とその妹)にも起こった。ハンガリー王家と婚姻関係を結ぶのだが、妹が嫁いだハンガリー王が、オスマン帝国との戦いで、若干20歳にして、戦死してしまったのである。その結果、ハンガリー王と、ハンガリー王が兼務していたボヘミア(チェコ)王のポストがフェルナンドに転がり込んできた。

 もっとも、以後、オーストリアは、オスマン帝国と直接に対峙しなければならなくなる。スレイマンⅠ世率いるオスマン帝国による第一次ウィーン包囲は、その3年後の1529年のことである。以後、皇帝となったカールⅤ世の生涯の課題の一つは、膨張する超大国オスマン帝国からキリスト教世界をいかに防衛するかということであった。

 ともかく、こうして、ハブスブルグ家の兄カールは、ブルゴーニュ公、ブラバンド公、フランドル伯、ルクセンブルグ公に加え、スペイン、そしてスペイン王に帰属するナポリ王国、シチリア、サルディニア島、さらに新大陸のスペイン領を支配した。また、弟フェルディナントはオーストリア、ハンガリー、ボヘミアの君主となった。

 ハブスブルグは「太陽の沈まない国」となったのである。

 ただ、カールⅤ世は、栄耀栄華を極め、わが世の春を謳歌して生涯を送ったわけではない。もともとハブスブルグ家もスペイン王家も厳格なカソリックで、生活は質素であり、使命感が強かった。その上、カールはなかなかの出来の人であったから、皇帝として休む暇もなく東奔西走した。そして、40年も働き続けて、最後は力尽きたように全てを息子に引き継いで、引退した。

 彼を悩ませたことの一つが、新教(プロテスタント)の問題である。

 ハブスブルグ家は信仰心が篤く、カソリックの守護者であろうとしてきたが、カールにはバランス感覚もあった。そのカールが皇帝になったのが1519年で、その直前の1517年には教皇を糾弾するあの95か条がルターによって発表されていたのだ。

 自らを普遍とするカソリックと、これに抗議し続けるプロテスタントの戦いは非妥協的である。一神教の世界は、神か悪魔か、正義か悪かの二元論である。自分が信奉するものが「神」であるなら、相手は「悪魔」の信奉者になる。両者の戦いはヨーロッパ中に広がり、虐殺も、何十年に渡る戦争もあった。

 その新教は、早くにネーデルランドの商工業者・市民たちに受け容れられ、ひろがっていった。

 カールは、ゲントで生まれ、ブルゴーニュ公国の空気を吸って育ったが、次の世代、フェリペⅡ世の時代になると、ネーデルランドの土地と人々に対する愛着はなくなる。

 カソリックの守護者を任じるスペイン・ハプスブルグによる激しい弾圧が起こり、ネーデルランドは80年(1568~1648年)に及ぶ独立戦争へと突入していくのである。 

 この戦争の中で、ゲントやアントワープは力を失っていき、経済の中心はアムステルダムなど現在のオランダへと移行していく。 

江村洋『ハブスブルグ家』から  

 「叛乱の狼煙はまずネーデルランドで上がった。ネーデルランドとはほぼ今日のオランダとベルギーを合わせた領域のことだが、このうち北部のオランダは、もともとマクシミリアンⅠ世が初めて統治にあたったときから、君主に対して不平を鳴らし続けてきた。そこへカルヴィンの改革派宗教が伝道されるにおよび、宗教の自由と民族の独立を求める気運が一気に高揚し、血みどろの抗争を経た後に、結局はスペインの羈絆(キハン)を脱することになった。しかし、南部のベルギー地方は旧教に忠実で、ハブスブルグ内にとどまった」。 

 

  

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