ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

雨のウィーン … ドナウ川の旅8

2022年12月31日 | 西欧紀行…ドナウ川の旅

  (シェーンブルン宮殿の庭園側)

5月28日 雨。寒い。

 朝、ホテルの部屋のテレビで天気予報を見た。晴天が続いて、ザルツブルグでは30度を越える真夏のような暑さだったが、昨日は時折小雨。そして今日は雨。気温は18度までしか上がらないようだ。ヨーロッパは寒暖の差が激しい。

<雨のシェーンブルン宮殿>

 今日の午前の予定は、シェーンブルン宮殿。

 旧市街から西南へ4キロの所にある。今は地下鉄やトラム、車が行き交う新市街の中だが、昔は「ウィーンの森」に続く森林だったそうだ。そこにハプスブルグ家の皇帝が狩猟用の館を建てた。館の近くの森の中に泉が見つかり、「シェーナー・ブルンネン(美しい泉)」と名付けられた。これがシェーンプルンの名の由来だ。18世紀後半に女帝マリア・テレジアが、狩猟用の館をバロック・ロココ風の壮麗な夏の離宮に造り替えた。

 前回のツアーでは、シェーンプルン宮殿の各部屋を日本語ガイドの案内で詳しく見て回ることができた。政務のかたわら16人の子を産み育てた女帝マリア・テレジアの夏の離宮は、ルイ14世のヴェルサイユ宮殿と比べれば、母親らしい気配りもあり、かつ堅実な家風のハプスブルグ家らしい宮殿だった。とはいえ、壮大にして贅を尽くした大宮殿であることに変わりはない。

 ヴェルサイユ宮殿の鏡の間を模した大ギャラリーは、6歳のモーツアルトが演奏をして、マリア・テレジアからお褒めの言葉をいただいた広間。のちに、「会議は踊る」の舞台となった。

 印象に残った部屋がある。アメリカのケネディ大統領とソ連のフルシチョフ首相が会談したという部屋だ。核戦争の危機(キューバ危機)をかろうじて乗り越えたあと、トップ会談が実現し、この宮殿が会談場に選ばれた。会談が行われた部屋は警備上の配慮から窓のない部屋だった。

 その部屋に入った途端、息苦しくなり閉所恐怖症になりそうになった。扉を閉ざしたこの部屋の中で、両首脳は世界の運命を決める白熱した議論をしたのだ。

 それはともかく、私にはヨーロッパの大宮殿や大邸宅はなじめない。料理人と召使い付きで差し上げると言われても、住みたいとは思わない。遠くから眺める分には、それなりに絵になるのだが。

 すっきりとむだのない、清々しい書院造り風の家屋を日本で見学すると、心が和む。

 西欧では、「自然」を人工化し(例えばルネッサンス庭園)、「文化」(例えば宮殿)の中に「自然」を取り入れる。日本では、「文化」そのものが「自然」の力を借りて造られ(例えば陶器茶碗。「おのずから~なる」という言葉)、また、「文化」(書院造の建物や庭)は大きな「自然」の中に包み込まれている。

      ★       

 今回は、シェーンプルン宮殿の広大な庭園を歩きたいと思っていた。

 広大な庭園の南端は丘になっていて、そこに回廊が建てられ、グロリエッタ(展望テラス)と呼ばれている。ただ、近く見えるが、宮殿の建物から直線距離で1.7キロぐらいあるらしい。グロリエッタを往復するだけで3.5キロ。それでも、その丘から広大な庭園越しのシェーブルん宮殿を撮影したいというのが、今日の計画だった。

 (街をゆく観光用の馬車)

 地下鉄を乗り継いでシェーンブルン宮殿へ。ホテルを出た時から雨が降っていたが、宮殿に着いた頃はかなりの雨。加えて、ひどく寒かった。

 (シェーンブルン宮殿正面)

 マリア・テレジア・イエローは雨に濡れてなお鮮やかだが、地面は既にぬかるみ、雨脚は強くなるばかり。宮殿の付属のカフェ・レストランに入って雨宿りし、コーヒーを飲んで暖を取った。しばらく様子をみたが、やみそうもない。

 結局、グロリエッタはあきらめて、宮殿の周りを少し歩いて、また地下鉄に乗って旧市街へ帰った。

      ★

<ドナウ運河の方へ旧市街を歩く>

 午後、雨が小降りになった旧市街を、昨日よりもっと北の方、旧市街の北端のドナウ運河まで歩いた。

 この辺りは、旧市街でも、ローマ軍団の城壁の中だった所だ。

 旧市庁舎が建つホーエルマルクト広場は、9世紀に、近隣から集まってくる商人たちが市を立てることができるよう開かれた広場。広場の片隅から、ローマ軍団の将校官舎の跡が発掘されている。ただ、今は、華やかなショッピング街はこの広場より南になり、この広場から北は下町のような風情がある。

 広場にアンカー時計があり、定時を前に観光客が集まって頭上を見上げる。時計から人形が登場するからくり時計だ。

 (アンカー時計)

 登場するのは、ウィーンの歴史に名をとどめた12人の人たち。

 紅山雪夫さんの『オーストリア・中欧の古都と街道』は名著だが、この12人を紹介しながらウィーン(オーストリア)の歴史を紹介している。以下はそのダイジェスト。

      ★

<ウィーンで没した皇帝マルクス・アウレリウス(在位161~180)>

 オーストリアには、先住民のケルト人が住んでいた。

 ウィーンの歴史は、ローマ帝国の第2代皇帝ティベリウス(在位AD14~37)が築かせたローマの軍団基地に遡ることができる。ローマはドナウ川を帝国の北の防衛線にしようと、軍団基地を築いていった。

 当時は「ヴィンドボーナ」と呼ばれた。

 軍団基地は、定められた規格によって建設された。

 ヴィンドボーナも1辺が約400mほどの城壁に囲まれていた。城壁の厚さは6m、高さは8~10m。さらに周囲に堀を巡らせていた。今、旧市街の高級ショップ街である「グラーベン通り」はこの基地の南の堀の跡である。基地の北側はドナウ川が流れていた。

 ここに1軍団6千人の将兵が駐屯していた。

 基地の真ん中に広場があり、広場には官庁や会議場があって、社交の場である公衆浴場や病院、下水道も完備していた。

 中心の広場から東西南北に道路が走り、城門の外のローマ街道に通じていた。

 ドナウ川に沿って、軍団基地と次の軍団基地を結ぶために、補給基地、騎兵基地、歩兵基地、見張り台などが数珠つなぎに置かれている。その間を結ぶのは街道。そして、全ての街道はローマに通じていた。中国は万里の長城を築き、ローマは街道を通した。

 地中海を中海にして、西ヨーロッパから、アフリカ大陸の北部を通り、中東に到る広大な帝国の辺境を、ローマはこのように防衛線を築いて守った。

 ローマ帝国の中に軍隊はいなかった。首都であるローマに近衛軍団がいるだけだ。パクス・ロマーナは辺境を守る最小の軍隊(最小の防衛費)と張り巡らせた街道とで効率的に守られていたのだ。

 ドナウ川の流れに沿うハンガリーのブダペストも、セルビアのベオグラードも、ローマの軍団基地を起源とした都市である。

 ウィーンのローマ軍団基地は市街地だから、考古学的発掘調査はできない。

 塩野七海『ローマ人の物語Ⅺ 終わりの始まり』によると、皇帝マルクス・アウレリウスがドナウの各軍団長を指揮するために滞在することが多かったカルヌントゥㇺ(ウィーンから50㌔下流の軍団基地)の大規模な発掘調査が行われている。それによると、カルヌントゥㇺの軍団基地(400m×500m)の背後を囲むように、軍団関係者の居住地区が広がっていた。皇帝マルクス・アウレリウスの后は、この居住地区で将兵やその妻たちの世話をして「基地の母」と呼ばれていたそうだ。さらに墓地をはさんでその後方には、地元住民や退役軍人たちの住民共同体があり、ここでは「市」も常設されていた。この2つの地域の全体が軍団基地だったらしい。その双方に、広場も、公衆浴場も、コロッセウムもあった。

 この防衛線上の基地と基地の隙間を抜いて、ゲルマンの騎馬隊が帝国内の奥深く、今のヴェネツィアの辺りまで侵入し、殺しまくり、奪いまくり、人々を恐怖に陥れた。一旦、リメスの中に入られたら、中に軍隊はいないのだ。しかも、ドナウ川の向こうのゲルマン各部族に、そういう不穏な動きがあることが、マルクスのもとに知らされた。

 第16代皇帝マルクス・アウレリウス(在位161~180)はそういう事態に直面した最初の皇帝だった。

 彼は皇帝の責務として自ら辺境の地に赴き、各軍団基地の司令官を指揮して、前期と後期の5年間、ゲルマニア戦役を戦った。そして、179年の酷寒の冬をヴィンドボーナ(ウィーン)で過ごした。これまでの戦いから、春を迎え戦闘を再開すれば決定的な勝利が得られると考え、翌春の戦闘の準備が進められていた。その矢先に、もともと病身だった皇帝は倒れた。59歳を迎えるところだった。

 そこで、アンカー時計の第1番目は、ウィーンで没した皇帝マルクス・アウレリウス。

      ★

<ウィーンに入城したカール大帝(国王在位768~814年)>

 ホーエルマルクト広場から、旧市街をさらに北の方へ歩いて行くと、道は入り組んで下町のにおいがする。マップを見るとJudengasse(ユダヤ通り)とある。ウィーンはフロイトやマーラーら優れたユダヤ人が活躍した町でもある。その先で道が下り坂になり、坂の途中に聖ルプレヒト教会があった。

 ローマ帝国は東西に分裂し、西ローマは衰えていった。防衛線に配置されていたローマ軍も撤収され混沌の時代に入る。476年、西ローマ帝国滅亡。

 混沌が少しずつ治まってくると、人々はローマ軍の軍団基地の崩れた城壁の中に徐々に戻ってきて、小さな集落をつくって暮らした。そこへ、辺境への宣教を志すカソリックの聖職者がやってくる。

 聖ルプレヒト教会はAD740年頃に創建されたと言われ、ウィーン最古の教会である。蔦がからんだ古い石造りの聖堂は11、12世紀のものらしい。その土台部分はローマ時代の城壁の一部。

 その下をドナウ運河が流れていて、急な石段を伝って下りていく。

   (ドナウ運河)

 ゲルマン諸族が次々に侵攻して混沌状態になっていた頃、その中から頭角を現したのがフランク族の王クローヴィス(在位481年~511年)。フランク王国を建国し、カソリックに改宗した。

 フランク王国は次第に勢力を大きくし、8世紀の後半、カロリング朝のカール大帝のときに、今のフランス、ドイツ、イタリアにまたがる王国をうち建てた。791年にはウィーンにも入城する。そこで、アンカー時計の2番手はカール大帝である。

 なお、前回のオーストリアツアーのときは、「ホテル・ヒルトン・ダニューブ」に泊まった。ウィーンの郊外にあり、裏をドナウ川が滔々と流れていた。だが、この流れは人工の流れ。ドナウ川はもともとウィーンの旧市街の北辺を流れていたが、幾筋にも枝分かれしてよく氾濫を起こした。そのため、19世紀に流れをまとめて、一直線の人工の大河に造り替えた。

 その流れから枝分かれしたドナウ運河が、実は古代ローマ以来、ドナウの本流が流れていた川筋である。

      ★

<ウィーン発展の礎を築いたオーストリア公レオポルト6世(在位1198年~1230年)>

 せっかく統一されたフランク王国は3分割され(ゲルマン人は嫡子相続ではなかった)、現在のフランス、ドイツ、イタリアの原型になった。(なお、スペインは、地中海を渡ってきたイスラム勢力が王国をつくっていた)。

 9世紀になると、東方から騎馬遊牧民のマジャール人が侵攻してきて、896年にはウィーンも占領された。彼らは強く、西へ西へと、南ドイツ、北イタリアまで侵攻し略奪を繰り返した。防衛の先頭に立ったバイエルン公や司教様にも戦死者が出たほどだ。

 神聖ローマ帝国の皇帝だったオットー2世は、マジャール人を防ぐために東方辺境伯を置き、バーベンベルグ家のレオポルト1世を任命した。996年の公文書に「東方の国(オスターリキ)」という言葉が登場し、オーストリアは996年をもって建国の年としている。

 さて、バーベンベルグ家は幾世代もかけて、北方のスラブ、東方のマジャールと戦いながら勢力圏を拡大し、12世紀にウィーンに到達した。そこで、時の皇帝フリードリッヒ1世は、バーベンベルグ家を「東方辺境伯」から「オーストリア公」に昇格させた。

 12世紀末、ウィーンの人口は増え、オーストリア公のレオポルト5世はウィーンの城壁を現在の旧市街の範囲まで広げた。そのための資金には、十字軍から帰国中に捕らえた英国の獅子王リチャードの身代金を使ったという。

 次のレオポルト6世は、街道を四方に通し、産業を興隆し、市民の自治を認め、ウィーンを興隆へと導いた。ケルントナー通りはこのときに造られた街道で、地中海貿易で興隆期を迎えようとしていたヴェネツィアに通じている。そこで、アンカー時計の3番手はレオポルト6世(在位1198年~1230年)。(4番手は吟遊詩人なので省略)。

      ★

<華やかなハプスブルグ帝国の都の時代(1273年~)>

 13世紀の半ば、バーベンベルグ家は後継ぎがなくなり、断絶する。

 ちょうどその頃、大空位時代を経て、神聖ローマ帝国皇帝にハプスブルグ家のルドルフが選出された。ハプスブルグ家はスイスの小豪族に過ぎなかったが、諸侯は皇帝権力を弱めるため弱小豪族を皇帝にしたのだ。

 ドイツは、フランク王国の血筋が絶えた後、諸侯による選挙で王を決めるようになっていた。

 自領を増やしたかった皇帝ルドルフ1世は、空き家となっていたウィーンに入城する。しかし、この人は気さくな人柄で、人の話をよく聞き、人気のある君主だったから、ウィーン市民は歓迎した。

 その後、ハプスブルグ家はスイスの父祖の地を失っていき(スイスの独立)、名実ともにオーストリアを本拠とするようになった。田舎町のウィーンも帝都ウィーンへと発展していく。そこで、アンカー時計の5番手はハプスブルグ家最初の皇帝ルドルフ1世(在位1273年~1291年)。

 6番手には、ウィーンのシンボル、シュテファン大聖堂を完成させた建築家が登場する。

 7番手はハプスブルグ帝国の大発展の基を開いた皇帝マクシミリアン1世(在位1493年~1519年)。

 8番手と9番手は、オスマン帝国の16万の大軍に包囲されたウィーン(第2次ウィーン包囲)(1683年)を、1万6千人の守備軍で守り抜いた市長と軍司令官。ウィーンを守り抜いているうちに、オーストリア、ドイツ諸侯、ポーランドの7万の援軍がやって来て、オスマン軍を撃破した。

 10番手は、第2次ウィーン包囲のあと、16年間に渡る対オスマン帝国との戦いで、オスマンの勢力圏を大きく後退させたプリンツ・オイゲン公。

 11番手は、マリア・テレジアとその夫(在位1740年~1780年)。12番手は音楽家ハイドンとなる。 

       ★

<リンクを1周する>

 シュヴァーデンプラッツに出て、リンク(環状道路)を回る1番と2番のトラムを乗り継ぎながら1周し、所々で下車して見学した。

  (リンクを走るトラム)

 オスマン帝国による第1次ウィーン包囲のとき、ウィーンの城壁は大砲がない時代に築かれたものだったから、オスマン軍の得意とする大砲攻撃にさらされて市民は恐怖の日々を過ごした。その年は天候が不順で、オスマン軍がウィーンに到着したときは秋も深まっており、なお雨が降り続いて、冬の到来をおそれたオスマン軍は早々に撤退した。ウィーンは気象に助けられたのだ。

 当然、第2次のオスマン軍の襲来があることが予想された。そこで、オスマンの大砲攻撃に備えて、町を囲む城壁の前面に分厚い堡塁を付け、堡塁の上には大砲を並べた。その外側に堀。さらにその外側は、建造物も樹木も取っ払い、幅500mもの空き地帯を巡らせた。当時の大砲の射程距離を考慮したもので、敵軍は敵が身を隠す遮蔽物がなく、近づけば城壁の上からは狙い撃ちされる。

 この防衛施設によって、1683年の第2次ウィーン包囲のときには、16万のオスマン軍を防いだ。

 しかし、19世紀初頭、ナポレオン軍の攻撃を受けたときは、空き地帯の遥か後方から巨砲で攻撃され、城壁も空き地帯も無用の長物になった。

 19世紀中頃、皇帝フランツ・ヨーゼフは、反対する軍部の声を退け、この防衛施設を完全に撤去させた。そして、その跡地を、広いリングシュトラーセ(環状道路)に変えた。さらに残る広大な空き地は公と、民への払い下げによって、美しく華やかな建造物や公園が造られていった。

 ルネッサンス様式の美術史美術館と自然史博物館、民主政治発祥の古代ギリシャにあやかったギリシャ神殿風の国会議事堂、市民共同体の理想としてベルギーのブリュッセルの市庁舎を模したネオゴシック様式の新市庁舎、ブルク劇場、ルネサンス様式のウィーン大学、双塔をもつネオゴシック様式のヴォティーフ教会、アール・ヌーヴォ様式の駅舎、バロック様式のカールス教会、そして市立公園など。

 市立公園のヨハン・シュトラウス像は、台座を修理中だった。

(ネオ・ゴシック様式の新市庁舎)

 ネオ・ゴシック様式の新市庁舎は壮麗だが、市の職員はここで働いていないそうだ。従って、市民も来ない。市民がこの建物を訪れるのは年に何回かの大舞踏会のときだけ。あとは、外国からの賓客があったときに使われる。いつもは市長がこちらにいらっしゃるとか。前回のツアーの時、その地下の食堂で食事した。大阪府庁の食堂をイメージしていたが、豪華に装飾された壁面をもつ宮殿風のレストランだった。もちろん、観光客用のレストランで、食事の内容までが高級というわけではない。

 (双塔のヴォティーフ教会)

 双塔が美しいヴォティーフ教会は、外観に比べて中はわびしい。教会の前に掲げられたコマーシャル用の看板には少々あきれた。

      ★

 途中、疲れて「カフェ・ラントマン」に入った。

 パリのカフェは混んでくると、テーブルとテーブルをくっつけて客を入れる。右隣の男女が雀のようにしゃべり、左隣の男女が何か熱心に議論していても、その間の小さなテーブルの小空間はわが空間だ。それに、外のテラス席が空いていたら、人々は外の席に座る。イタリア人もフランス人も、そして私たちのような旅人も、テラス席が好きなのだ。室内の席に座る人も、一人でくつろいでいる人も、常連の近所のおじさんたちも、ガラス越しに外を見ている。外を歩くオシャレなマダムや美しい街並み眺めているのだ。外を歩く人も、テラス席やガラスの中の人を眺めて行く。一言で言えば、パリのカフェは開放的なのだ。

 ウィーンのカフェは、テラス席はあまり見かけない。中に入ると、天井が高く、柱は大理石だったりして、高級感がある。そこで孤独に新聞を読んだり、時には政治情勢をディスカッションしたり。「カフェ・ラントマン」に入った時、あちこちの席にリザーブの札が置いてあった。毎日、時間になると、いつもの自分の席に座るということなのだろう。

 「私は気が向くと、ヘーレン通りの『ツェントラール』やグラーベン通りから南に入った『ハヴェルカ』に行ってほの暗い世界で時を過ごした。特に秋から冬にかけて、淡くなった窓外の陽射しを眺めながら新聞を読み、いつも携えているノートに心に浮かぶ感想を書きとめたりする」(饗庭孝男『ヨーロッパの四季』(東京書籍)から)。

 それに、特筆すべきは、ウィーンのカフェは、中央の一角にガラスケースがあって、様々なケーキが並んでいることだ。番号が付けてあり、カウンターで番号を言って注文する。マダムやマドモアゼルだけでなく、紳士も食べている。私も一度、食べてみたが、1個が大きく、それに甘すぎる。

 パリのカフェでケーキを食べている人は、まずいない。

      ★    

 古代ギリシャの神殿風の国会議事堂。

 フォルクス庭園のバラ園は見事というほかない。

  (フォルクス庭園)

 また「天満屋」で晩飯を食べ、今日の見学を終えた。

 明日は、列車に乗って国境を越え、ハンガリーのブダペストへ行く。

 ガイドブックを見ると、ウィーンほどには治安は良くないようだ。不安もあり、緊張もするが、それでも、未知へ向かうのは心楽しい。

 

※ 2022年も大晦日。来年は今年よりも朗らかな年になりますように。

 皆様がご健勝で良い年をお迎えになられることを心から祈念いたします。。来年もまた

 

 

 

 

 

 

 

 

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ウィーンでオペレッタを観賞する … ドナウ川の旅7

2022年12月26日 | 西欧紀行…ドナウ川の旅

  (シュテファン大聖堂周辺)

※ [お断り]   ウィーンのことは2012年11月に「遥けきウィーン」と題して3回に渡って書いています。今回も同じ旅を踏まえて書くことになりますので、写真も内容も一部重複することをご了承ください。

  ★   ★   ★

<遥かなるウィーン>

 オーストリアの国土は横(東西)に長く、上下(南北)の幅は狭い。それでも中央部あたりより右(東側)は、少し南北にも広がっている。右を向いた鯉に少し似ているかも。

 周りに海はない。

 左(西)はチロル地方で、スイスに接する。下(南)側はアルプス山脈を隔ててイタリアとスロベニア。上(北)は左からドイツ、そしてチェコ。右(東)側はスロバキアと、その下(南)にハンガリー。

 自然が美しい国だ。

 歴史的には、西欧の辺境の地だった。

 中世の前期、ドイツ王は、東から侵攻してくる騎馬遊牧民のマジャール人に対して、東方辺境伯を置いた。「東方の国(オスターリキ)」がオーストリアの名の起源である。

 その後、ハプスブルグ家の美しい都となった首都ウィーンは、国土の右端(東)の上端(北)にあり、チェコにも、スロバキアにも、ハンガリーにも近い。

 美しい帝都だが、歴史の中では様々な経験もした。

 1529年と1683年の2度に渡って、北上してきたオスマン帝国の大軍に首都は包囲された。

 もっとも2度目のときはオスマン帝国を敗走させ、逆にハンガリーまで併合してしまった。

 ナポレオン軍には敗北し、帝都への入城を許した。ナポレオンが敗北した後は、ウィーンのシェーンブルン宮殿で戦後処理の国際会議が開かれた。歴史の時間に、1814年「会議は踊る」と習った。

 1938年、オーストリアはナチスドイツに併合された。このとき、映画『サウンド・オブ・ミュージック』のトラップ一家は、かっこよくオーストリアを脱出した。

 ドイツ側で第二次世界大戦を戦ったオーストリアは、敗戦後、ソ連、米国、英国、フランスによって分割統治された(1945年~1955年)。瓦礫の残る戦後のウィーンを舞台にした映画『第三の男』は、この時代の話だ。

 地図の上で、日本からウィーンは、パリよりも少し近い。しかし、心理的にはより遠く感じる。異郷。遥かなるウィーン。

 この旅の目的であるドナウ川は、ドイツのレーゲンスブルグ、パッサウを経て、横に長いオーストリアの中央部の北方から流れ入り、オーストリアの北部を右(東)へ、リンツ、メルク、デュルンシュタインなどの景勝の町をつくりながら、ウィーンへと流れていく。

 シュトラウス作曲のワルツ「美しき青きドナウ」は、第2の国歌と言われるそうだ。

 ウィーンを出たドナウ川は、すぐに国境を越えてスロバキアの首都プラチスラヴァに入り、さらにハンガリーへ入って、ハンガリーの首都ブダペストの直前で流れを南に変え、滔々たる大河としてブダペストを流れていく。

 ウィーンもブダペストも、ローマ帝国の防衛線を成すドナウ川沿いの軍団基地に起源をもつ町であった。 

                  ★

<文明の交錯するウィーン>

5月27日 曇り、時々小雨。

 ザルツブルグ駅から9時1分発の特急に乗り、ウィーン西駅に11時44分に到着。

 今までの普通列車(鈍行)の旅は、春の陽だまりの中にいるようなのどかさがあった。車両の中は空いていて、乗客の多くはローカルな旅を楽しむヨーロッパ系の旅行者だった。

 特急(新幹線)に乗ると、座席はかなり埋まり、清潔でコンパクトな車内に話し声はなく、展開する車窓の景色を眺める人も少なかった。乗客の半分以上は、旅人というよりもビジネス或いは何かの所用があって、所在ない「移動」の時間を過ごす人に見えた。

 ウィーン西駅は行き止まり駅だ。

 ウィーン。英語でVienna。ドイツ語でWien(ヴィーン)。いずれの響きも美しい。響きがまだ見ぬ都市のイメージをつくり、人々のイメージが都市をそのようにつくっていくのかもしれない。

饗庭孝男『ヨーロッパの四季』から

 「このところ私は毎年のようにウィーンに来ている。パリとは趣が異なるが、心の落ち着く町である。

 かつてはよく汽車で西駅に着いた。パリとウィーンは汽車で15時間、1日に1本通っている。西駅に着くと西ヨーロッパをはるばる横切って、半ばスラヴ圏に入ったという印象を与える。ザルツブルグから東へ向かうにつれて、風景のなかにチェコスロヴァキアやポーランドで見うけるような農家や倉庫が牧場の間に見うけられるからである。窓の花々も少なくなってくる。

 またあちこちに見られるロシア正教会風の教会尖塔を眺めていると、他方でビザンチン圏に入ったとも感じられる。

 一方、不思議なことに北から入る暗いフランツ・ヨゼフ駅に着くと、スラヴ圏から西ヨーロッパの文化圏に帰ってきたという感がつよい。

 このことは、結果としてウィーンが完全に西欧でも東欧でもなく、また宗教がカトリックとしても、必ずしもイタリアやフランスのようなラテン的性格をもたず、ゲルマンとスラヴにビザンチン文化の混融する複合的な性格をもっていることを意味しよう」。

      ★

 地下鉄駅で24時間券を買う。U3で旧市街の中の「ヘレンガッセ」駅へ。

 予約していたホテルは、地下鉄駅のそばだった。旧市街の中だが、近代的なスマートなホテルで、部屋も広く快適だった。

 ホテルに荷物を置き、早速、街歩きに出る。

 前回のツアーの時、シェーブルン宮殿はガイドツアーで丁寧に見学した。その翌日はフリーの1日で、現地のツアーに参加する人も多かったが、こういう自由は私にはありがたかった。朝、ホテルを出て、晩までかけて、1人で旧市街とリンク(環状道路)沿いを歩き、見て回った。

 たいていの見どころはすでに見て回っていたから、今回は何か見学しなければいけないという強迫観念からは解放されている。ウィーンという街を味わえればよい。ただし、今夜はフォルクスオーパーにオペレッタを見に行く。新しいことに挑戦しなければ、旅の意味はない。

 小雨が降ったりやんだりしていた。ザルツブルグでは30度を越えるような暑さだったが、今日は肌寒く、上着を着て、折りたたみの傘を持って歩いた。

      ★

<華やかなウィーンの旧市街を歩く> 

 ウィーンは人口160万人の大都市である。

 だが、旧市街に限れば、南北約1キロ、東西約1.5キロ。旧市街の周りを「リンク」と呼ばれる環状道路が巡り、19世紀に建造された華麗な建造物や公園によって彩られている。その範囲の中を、世界からやってきた老若男女の観光客が歩くカラ、観光客の密度は相当に高い。

 ホテルからヘレンガッセを歩いて行くと、王宮前のミヒャエル広場は指呼の間だった。前回訪れたとき、王宮(ホーフブルグ)はこの広場から眺める姿が一番素晴らしいと思った。だが、観光客が多く写真は撮りにくい。

 13世紀から20世紀の初めまで、600年以上に渡ってハプスブルグ家の王宮だった。その間に、次々と建造物が建て増しされた。いくつもある博物館は有料だが、敷地内(庭園)は市民にも観光客にも開放されている。

 ミヒャエル広場から、トンネルのような宮門の中を潜り抜けて、王宮の敷地へ入った。

 すぐ右は皇帝の居館。左手に最も古い建物のスイス館と王宮礼拝堂。ウィーン少年合唱団はこの礼拝堂のミサで天使の歌を歌う。その横を通って、広々と開けた英雄広場に出る。

 左手に新王宮の大きな建物。広場の向こうの樹木の先に新市庁舎の尖塔がのぞいていた。

  (王 宮)

 一度、王宮の南の門であるブルグ門を出て、そのままブルグ公園を通り抜ける。絵葉書にも登場するモーツアルト像が立っている。写真右下にのぞく赤い花はト音記号。とにかくオシャレな街なのだ。左手には新王宮が見える。

 (ブルグ公園のモーツアルト像)

      ★

 ブルグ公園の東隣にはオペラ座(ウィーン国立歌劇場)。

 (オペラ座)

 音楽の都ウィーンを象徴するオペラ座の石造りの建物も、この前までわが小澤征爾氏が活躍していたと思うと、ちょっと親しみがわく。

 オペラ座の北側には、映画『第三の男』の舞台になった「カフェ・モーツアルト」がある。そのテラス席で軽い昼食をとった。

 (「カフェ・モーツアルト」)

 連合国軍に占領された敗戦国の首都ウィーンは瓦礫が残り、夜は街灯もない。「カフェ・モーツアルト」の暗く狭い店内に主人公のアメリカ人(ジョセフ・コットン)が座っている。占領下のウィーンで警察権を持つ英軍将校(トレヴァー・ハワード)に協力し、かつての友人、今は凶悪犯の男(オーソン・ウェルズ)をおびき出そうとしているのだ。多くの子どもの命を救うためと説得されたが、一方で友を売る行為でもある。

 今はオペラ座や王宮が目と鼻の先の一等地のカフェ。

 だが、ウィーンは瓦礫の残る光と陰のウィーン、そして軽やかなツィターの音色の似合う街だと思う。

      ★

 オペラ座の角を北へ向かう道はケルントナー通り。ウィーンを代表する高級ショップ街だ。

 (高級ショップ街を歩く)

 ケルントナー通りを行くと、グラーベン通りと交差する。その角に、司教座聖堂のシュテファン大聖堂が聳えている。

 グラーベン通りのグラーベンは堀のこと。ローマ軍の軍団基地は四囲を石壁と堀で囲っていた。その南側の堀の跡が今は高級ショップ街のグラーベン通り。

 軍団基地の東側はケルントナー通りの延長線上のショップ街。西の端はTiefer Grabenという名のショップ街で、北側はドナウ川(今は「ドナウ運河」)が堀の代わりをしていた。ドナウ運河の手前には石壁の一部が今も残っている。

 ウィーンの起源は、レーゲンスブルグなどと同じく、ローマ軍団の基地だった。1軍団6千人。軍隊は食料、衣類その他いろんな物を消費する。だから、商人たちも住み着く。辺境の地ドナウ川の沿岸地域にあって、これはもう立派な町である。

 5賢帝の最後の皇帝マルクス・アウレリウスは、寒い冬をこの地で越し、もうすぐ春を迎えようとする時季に、59年の生涯を終えた。在位中は、資質から言って得意とは言えない戦争に明け暮れた日々だった。

      ★

 (シュテファン広場)

 大聖堂前の広場には地下鉄の駅やタクシー乗り場があり、客待ちする観光用の馬車もいて、観光客でいっぱいだった。

 大聖堂は12世紀に建設されたが焼失し、現在の聖堂建築はハプスブルグ時代に入った1304年に着工され1523年に完成した。外観はゴシック様式だが、中の祭壇はバロック様式。南塔は世界で3番目に高いとか。ハプスブルグ家の歴代の君主の墓所であり、モーツアルトの結婚式も葬儀もここで行われた。

 北塔にはエレベータで上がれるというので、ウィーンの街並みを上空から眺めてみようと、聖堂の中へ入った。ところが、折しも雨が激しくなり、雨宿りを兼ねた観光客で聖堂の中はあふれ返って、人いきれと湿度で息苦しくなる。早々に退散した。

 付近の個性的なアクセサリー店やインテリア雑貨のオシャレな店をのぞいて、雨宿りをした。

 グラーベン通りから南へ曲がるとコールマルクト通り。このショップ街を南へ抜ければ、また王宮前のミヒャエル広場に出る。オシャレなコールマルクト通りの向こうに、クラッシックな王宮が少し覗いて、いい感じだと思ったが、人が多く写真は撮れなかった。

 ホテルに戻って、服を着替えた。

      ★

<オペレッタを見に行く>

 今夜は遅くなる。オペレッタに出発する前に夕食。

 「天満屋」で久しぶりに和食を食べた。天満屋は私が生まれ育った岡山市の一番の目抜き通りにある百貨店。その系列のウィーンの和食店だ。前回のツアーのとき、添乗員に教えてもらった。

 ヨーロッパは和食ブームで、たいていの町に和食店はある。だが、そのほとんどは中国人の店で、日本の寿司の味ではない。

 天満屋は正統な寿司の味。店員の中にウィーンの音楽学校で勉強中という日本人のアルバイト学生もいた。

 (ウィーンの「天満屋」は2014年に営業を終了したようです)。

  オペラ座の前からタクシーに乗ってフォルクスオーパーへ。

 席は一番前の端の席だった。

 (開幕前)

 (開幕を待つ楽団)

 フォルクスオーパーは、音楽の都ウィーンでオペラ座に次ぐ大きさと格式をもっている。

 今日の演目は「こうもり」。シュトラウスが「美しく青きドナウ」で成功を収めたあと作曲したオペレッタ。

 ウィーンでは、大晦日はオペラ座で「こうもり」を上演し、新年には楽友協会のホールでウィン・フィルの「ニューイヤーコンサート」というのが恒例行事になっている。「こうもり」は喜劇だから、大晦日に観賞するのに良いのだろう。

 7時開演。途中、一度休憩が入り、10時15分に終わった。

 言葉はわからないが、おおよそのストーリーは分かり、面白かった。主人公は二枚目でも英雄でもない。真面目そうな銀行家の中年のおじさん。そのおじさんの欲望、嘘と誤魔化し、その発覚が面白く描かれる。主役の男優は、風貌も演技も山崎努にとても似ていると思った。

    (フィナーレ)

 (フォルクスオーパー)

 帰りはタクシーを拾えないから、トラムを乗り継いで帰った。

 トラムの車窓から見るリンク(環状道路)の建物のライトアップが美しかった。

 

 

 

 

 

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ホーエンザルツブルグ城のコンサート … ドナウ川の旅6

2022年12月11日 | 西欧紀行…ドナウ川の旅

   (夕暮れのザルツブルグ)

      ★

<メンヒスベルクの展望台から>

 ホテルに荷物を置いて、今日の見学は旧市街の北端のメンヒスベルグ展望台から。

 旧市街を眺望できる展望台は3か所ある。

 旧市街を前方から見下ろすカプツィーナーベルクの丘。旧市街を後ろから眺望するのはホーエンザルツブルグ城。どちらも前回のツアーの折、自由時間を利用して上がった。

 今回は横からザルツブルグの街並みを眺望する。

 レジデンツ広場から、モーツアルトの生家のある賑やかなゲトライデガッセを通り抜ける。中国人観光客の多さに驚く。ここ数年、リッチになった中国人観光客の巨大なうねりがヨーロッパに押し寄せてきている。世界が変わってきつつあると感じる。(この旅の当時のことで、その後、日本にもインバウンドの波が押し寄せるようになった)。

 メンヒスベルグの北端の岩山をくり抜いたエレベータに乗って、展望台へ上がった。一般の観光客はほとんどやってこない知る人ぞ知る展望台だ。映画『サウンド・オブ・ミュージック』の中で、マリアと子どもたちが「ドレミの歌」を練習した丘。 

 (メンヒスベルクの丘から)

 この旅で見学したレーゲンスブルグやパッサウは、パステルカラーの色どりが美しい街だった。ザルツブルグは白が目立って清楚な感じだ。

 こうして横から眺めると、尖塔やドームが林立しているのがよくわかる。

 「ロマンチック街道の旅」で訪ねたローテンブルグやニュールンベルグは商工業者(市民)の町。ここは、大司教が君臨し統治してきた一種の宗教都市、「カソリックの町」なのだと、目の前の街並みを眺めながら考えた。

 文化は街並みだと思う。都市の外へ出れば、田園や森や山のたたずまいに文化は表現される。ヨーロッパと日本の違いも、まず、町並みや農村のたたずまいに表れる。

     ★

<オシャレなミラベル庭園>

 次はミラベル庭園へ。

 ザルツァッハ川に架かるマカルト橋を渡れば新市街。その新市街の川沿いにミラベル庭園はある。

 ミラベルとは美しい眺めの意。『サウンド・オブ・ミュージック』の子どもたちの歌声が聞こえてくるようなオシャレな庭園だ。バラが美しい。

(ミラベル庭園から望むホーエンザルツブルグ城)

 ここにはミラベル宮殿もあるが、前回、見学しているので、今回はパス。

 1587年に就任した大司教ディートリヒは、美しい町娘を見初め、聖職者でありながら15人の子をもうけて、愛人のための邸宅を建てた。のちにミラベル宮殿と呼ばれる。市民や信徒の呆れ顔など全く意に介さない大司教様だったが、その後、塩の利権をめぐってバイエルン大公と争い、解任、幽閉されたそうだ。

      ★

<大聖堂はバロック様式>

 大聖堂へ向かう。

 (大聖堂広場へ)

 美しい大聖堂広場には、気品のあるマリア像が立っている。

 (ザルツブルグ大聖堂)

  愛人のためにミラベル宮殿を造った大司教ディートリヒは、イタリアルネッサンスへの憧憬が深く、この町を「北のローマ」にしたいと考えた。ローマは、16世紀にバチカンも、サン・ピエトロ大聖堂も、ローマ市街地も、ミケランジェロやベルニーニの手によってルネッサンス・バロック風に一新されていた。

 ディートリヒ大司教が就任したとき、ザルツブルグ大聖堂は火災で焼失していたから、早速、イタリアから優れた建築家を招いて再建に当たらせた。

 大聖堂が完成し、今、見るような姿になったのは1628年。2代あとの大司教の時である。

 大司教ディートリヒは、大聖堂に隣接して大司教宮殿(レジデンツ)の建設にも取りかかった。完成したのは、やはり2代のちの大司教の時である。

 破天荒な大司教様だったが、こういう人がいなければ、ザルツブルグは世界から観光客が押し寄せる世界遺産の町にはならなかったのかもしれない。

 レジデンツが完成して1世紀以上も後、この町にモーツアルトが生まれた。父は大司教の宮廷楽団の一員だった。周囲を驚嘆させる神童で、少年の頃にレジデンツの広間で、大司教をはじめ並みいる殿方、貴婦人を前にして演奏し、拍手喝采を浴びた。長じてウィーンに出る。

 (大聖堂の身廊)

 大聖堂内は白い大理石がふんだんに使われ、晴朗の感がある。ローマのサン・ピエトロ大聖堂に似ていると感じた。

 円蓋までの高さ71m、身廊の長さ99m。柱や天井はフレスコ画や化粧漆喰で飾られていて、細部は装飾過多のバロック様式。

 晴朗とは明るい空気感。

 「神は光である」という。この晴朗な聖堂にいて、「光」は意識されない。

 分厚い石壁の中、高い窓から差し込む光しかない12世紀のフランスロマネスク大聖堂や、少し遅れて登場した、天を衝く森の暗闇にステンドグラスの輝きしかないフランスゴシック大聖堂の中に入ると、異教徒である私たちでさえ敬虔な思いにさせられる。

 だが、このバロックの晴朗な聖堂からは、名もなき人々の悲しみも喜びも祈りも感じられない。晴朗な美があるのみ。

      ★

<遠い昔の修道院の名残りのサンクト・ペーター教会>

 大聖堂から山(メンヒスベルク)側へ少し歩くと静かな一郭になり、サンクト・ペーター教会がある。

 7世紀、ザルツブルグ地方にキリスト教を布教した司教ルーベルトは、ここにベネディクト会の修道院を創設した。その修道院に付属する礼拝堂がサンクト・ペーター教会。

 中は金箔の装飾で飾られていて、今はすっかりバロックの教会だった。

(サンクト・ペーター教会の墓地)

 教会の庭に墓地がある。映画『サウンド・オブ・ミュージック』で、ナチスの官憲の手から逃れようとするトラップ一家が、この墓地に隠れた。

 線香の煙が漂うお寺の墓地に慣れた目には、いかにもエキゾチックである。

     ★

<ホーエンザルツブルグ城と室内楽コンサート>

 1077年、西洋史の1頁を飾る事件があった。

 神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世が、教皇グレゴリウス7世によって、キリスト教から破門されたのだ。(お前は地獄行きだ!!)。 ドイツ諸侯は日頃から皇帝権が強大化するのをおそれていたから、これ幸いとハインリヒ4世から離反した。(キリスト教徒でない皇帝に従う気はない!!)。ハインリヒ4世はやむなく教皇の宿泊するカノッサ城の門の前で、雪の降る中、裸足で、断食して、3日3晩立ち続けて許しを乞うた。「カノッサの屈辱」と呼ばれる。

 もちろん、このあと、ハインリヒ4世の反撃が始まる。聖職者の叙任権はローマ教皇にあるのか、皇帝にあるのか?? この世で一番偉いのは教皇か、皇帝か?? いわゆる叙任権闘争である。

 このとき、ザルツブルグ大司教は教皇を支持し、皇帝支持派の諸侯との戦いに備えてメンヒスベルグの丘の上に城塞を築いた。これがホーエンザルツブルグ城の起源である。

 それから15世紀末まで、歴代の大司教は堡塁、塔、武器庫などを増築し、強固な城塞を造っていった。15世紀末には、城内の大司教用の各部屋も豪華に改装される。

 ホテルに帰って一休みし、日沈みてなお明るい時刻、ホーエンザルツブルグ城へ向かった。

 ケーブルカーで、丘の上の城に上がる。

 城塞の中の部屋は、前回、見学していたから、カット。

 ザルツブルグで私の一押しは、この城塞からの眺望。それも、ザルツブルグの街とは反対方向(ドイツアルプスの方向)の景色。

 小雨が降り出した。ウンタースベルク山はドイツとの国境の山だ。

  (ウンタースベルク山)

 近くを見下ろせば、レオポルツクロン城が見える。

(望遠レンズでレオポルツクロン城)

 これは『サウンド・オブ・ミュージック』の世界。こういう景観を目にすると、ヨーロッパの豊かさに圧倒される。

 「ディナー付コンサート」の「ディナー」はごく庶民的で、美味しかった。

 ディナー会場からコンサート会場へ移動するとき、ザルツブルグの街を見下ろす場所を通った。

 灯(ヒ)点(トモ)し頃の小雨降る旧市街は、昼間の見学のときとは一味違う情趣があった。

 (黄昏のザルツブルグ旧市街)

 コンサート会場は、ホーエンザルツブルグ城の中でも最も立派とされる「領主の間」で。豪勢なねじり柱があった。これもバロック。

 (「領主の間」)

  コンサートは、第一バイオリンとチェロが印象的だった。

  (コンサート) 

 終了したのは午後10時。

 小雨降る中をホテルへ帰った。

 遅くなった。明日は9時1分発の特急列車でウィーンへ。乗車券はネットで既に購入済みだから、遅れるわけにはいかない。

 

 

 

 

 

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ザルツブルグは塩の城 … ドナウ川の旅5

2022年12月05日 | 西欧紀行…ドナウ川の旅

 (メンヒスベルクの展望台から)

<旅の計画のこと ─ どの町を訪ねるか>

 パッサウを出ると、列車で国境を越えてオーストリアに入る。

 この旅を計画したとき、パッサウの後、ウィーンへ行く前、どこの町を見学し1泊しようかと迷った

 オーストリアについては、この旅より10年近く前、旅行社のツアー「晩秋のオーストリア紀行」に参加して、ウィーンをはじめ各地を見て回っていた。

 ドナウ川沿いの町では、リンツ、メルク、デュルンシュタインなど。ドナウ川はこれらの小さな町を滔々と流れ、湾曲して山影に消えていった。

 ドナウ川を離れてオーストリアアルプスの北麓の町や高原 ─ ザルツブルグ、ザルツカンマーグート、ハルシュタットなども訪ねた。

 今回は観光バスではないから、こんな風にあちこちつまみ食い的に見て回るわけにはいかない。鉄道駅から近く、しかも、1泊するだけの見どころがある町でなければいけない。

 あれこれ迷って、結局、ザルツブルグにした。

 映画ファンというほどではないが、過去に感動し心に残った映画はいくつかある。ザルツブルグとその近郊を舞台にした『サウンド・オブ・ミュージック』もその一つ。それに歴史と文化遺産がある。もう一度、あの町を訪ねてみたい。

 パッサウからなら、途中、ヴェルスで乗り換えて、2時間弱で行ける。

      ★ 

<ホテルの予約> 

 前回のオーストリア・ツアーのとき、ザルツブルグでは新市街の大型ホテルに宿泊した。今回は旧市街の中のホテルを予約する。

 ヨーロッパのどこの町でも、旧市街のホテルは古くて、廊下は暗く、部屋は狭く、中にはエレベータが付いていないホテルもある。それでも、ザルツブルグは夏の音楽祭シーズンだけでなく、世界から年中観光客がやってくる。ホテルの料金は安くはない。

 ヨーロッパでは、航空券でも、列車のチケットでも、ホテル代でも、その値段はその時々の需要と供給の関係で決まる。そういう点、日本よりもさらにオープンで、ドライだ。

                      ★

<見学先をしぼる>

 ザルツブルグは前回のツアーの折、自由時間を使ってかなり丁寧に見て回った。それで、今回は思い切って対象をしぼった。

 前回のザルツブルグで一番印象に残り、もう一度訪ねたいと思うのはホーエンザルツブルグ城。それも城塞としてではなく、そこからの眺望。あのパノラマをもう一度眺めたい。

 あと一つ付け加えるなら、ザルツブルグ大聖堂。この町はザルツブルグ大司教が領主として統治し、創り上げた街だから、その中心はやはり大聖堂。

 あとは付録。時間があれば見て回ることにする。

      ★

<ホーエンザルツブルグ城の室内楽コンサート> 

 ヨーロッパ旅行をする個人旅行者にとって、この旅行の頃(2010年頃)のインターネットの普及は目覚ましかった。航空券もホテルも、旅行業者を通さず、ネットの中で自分の予算と旅の目的とスタイルに合わせて、自由に選んで購入できるようになった。

 昔は、パリとかウィーンの伝統的な会場で催されるオペラやコンサートのチケットを、旅行社に依頼し高い手数料を払って入手していた。もちろん、私はそういう贅沢、オシャレな旅行をしたことはない。しかし、今では、ヨーロッパのどこかの都市のどこかの教会で催されるちょっとした弦楽四重奏などのコンサートも、主催者はネットでPRし、日本のどこからでもネットの中で事前にチケットを入手できる。

 ということで、今回は、ホーエンザルツブルグ城の元大司教の居室で催される室内楽コンサートのチケットをゲットした。ディナー付のコンサートだ。小さなことだが、旅先での新しい挑戦。旅は自分への挑戦である。

      ★ 

<ザルツブルグは塩の城>

[お断り] コロナのお陰でオンライン化が一挙に進み、カルチャーセンターのプログラムをどこでも …… 東京の大学の若い先生のヨーロッパ中世史の講座も、受講できるようになりました。今まで、本を読んでも、ウィキペディアで調べても、隔靴掻痒の感があったヨーロッパ中世史ですが、月1回、順を追った丁寧な講義をお聴きしていると、今まで腑に落ちなかったことが、あっ、そういうことか、と胸の奥にストンと落ちてくるのです。

 で、以下、また、歴史について書きます。素人の歴史講義ですから、信用しないでください。また、興味のない方はカットして、先の項へお進みください。

      ★

 ザルツブルグは東へ流れていくドナウ川からは離れ、パッサウから直線距離にして南へ100キロほど下がった位置にある。アルプスの麓に近いドイツとの国境の町で、人口は約15万人。世界遺産の街。

 地図を眺めていてふと気づいた。一昨年参加した旅行社のツアー「ドイツ・ロマンチック街道の旅」 の、旅の終わりに訪れたケーニヒ湖に近い。ケーニヒ湖のそばのベルヒテスガーデンの町で土産物として岩塩を売っていた。

 岩塩はベルヒテスガーデンから15キロほど北上したバート・デュルンベルクの岩塩坑で採掘される。その岩塩坑からさらに15キロほど北上すれば、ザルツブルグに到るのだ。国が違い、参加したツアーが違うから、二つを関連付けることができなかった。

 「ザルツ」は塩。ザルツブルグは「塩の城」の意。

 岩塩は紀元前のケルト人の時代から採掘されていた。

 BC1世紀には、ローマが、文明とともにやってくる。アルプスより北、ドナウ川より南のこのあたり(今のオーストリア)は、ローマ時代、「属州ノリクム」と呼ばれていた。

 5世紀、ゲルマン諸族が次々に侵攻し、西ローマ帝国は滅亡して、混沌の時代に入る。

 このあたりには、ゲルマンの一族バイエルン人が侵攻・定着し、バイエルン公国をつくった。首都はレーゲンスブルグ。そこへさらにフランク族がフランク王国の版図を広げてくる。

 今のイタリア、スペイン、フランスなどは、ローマ時代にローマ化され、ローマ帝国の終わり頃にはキリスト教が国教化されていた。

 そこへ侵入してきたフランク族の王クローヴィスは、賢明にもいち早くカソリックに改宗し(497年)、既にローマ化、キリスト教化していた人々を安心させた。 

 一方、ライン川より東、ドナウ川より北の地域(ドイツ、オーストリア、チェコなど)は、もともとローマの防衛線の外にあり、ローマ化もキリスト教(カソリック)化もされていなかった。

 この混沌としたゲルマニアの地域を支配下におさめるため、フランク王国の宮宰であったカロリング家のカール・マルテル(688頃~741)は、片や軍事力の行使、片やキリスト教(カソリック)の布教という2つの政策を車の両輪にして版図を広げていった。

 のちに「ドイツの守護聖人」とされる聖ボニファティウスは、719年にローマ教皇からゲルマニアへの伝道と教会整備の任を与えられた。カール・マルテルは彼を保護し援助して、ゲルマニアのキリスト教化を押し進めさせた。

 740年には、フライジング、レーゲンスブルグパッサウザルツブルグに4つの司教座を建ててボニファティウスに寄進し、彼を全ゲルマニアの大司教とした。

 フランク王国は直属の部下を「伯」として各地に派遣し、版図を統治しようとした。だが、それだけでは広大なフランク王国を統治するに不十分。そこで、司教に領地を寄進し、司教を領主として、布教した地域を統治させていったのである。

 (文書能力があり、その下に司祭や助祭や信徒たちを組織し、いざとなれば外敵 ─ このあたりではマジャール人 ─ の襲撃に対して、人々を組織して戦うこともできるのは、キリスト教の司教だった。フランク王国の時代、近代国家のような常備軍、警察組織、官僚組織などはなかったのだから)。

 ドイツ中近世史に、諸侯と並んでしばしば司教領主が登場するのは、以上のような事情があった。

 しかし、世の中が安定してくると問題が起こる。司教の任命権はローマ教皇にあるのか、ドイツ王(神聖ローマ帝国皇帝)にあるのか。いわゆる叙任権闘争が勃発する。

 それは後のこととし、7世紀のザルツブルグについて少し付け加える。

 ザルツブルグでは、聖ボニファティウスより少し前に、バイエルン公がルーベルトという司教にザルツブルグ周辺の領地を寄進し、ドナウ川中流域への布教を促進させていた。司教ルーベルトは布教の成果として、ザルツブルグにサンクト・ペーター修道院を創設している。

 それから時代が下って、10世紀以降になると、大司教が領主であったザルツブルグは、広大な土地から上がる税収のほかに、ザルツブルグの奥地で採掘される岩塩がヨーロッパ各地に輸送され、莫大な富を蓄積していった。

 この豊富な財力によって、歴代の大司教たちは大聖堂やレジデンツ(大司教宮殿)を建設し、背後の丘の上にはホーエンザルツブルグ城を建て、ザルツブルグをバロック様式の街につくり上げていった。

 塩の財によって繁栄した町。ザルツブルグは「塩の城」であった。

      ★

<ザルツブルグへの移動>

5月26日 快晴。夏の暑さ。夜は小雨降り、気温が下がる。

 普通列車(鈍行)に乗ってパッサウを出発し、2駅目で、また、列車から降ろされた

 事情はよく分からない。言葉の通じぬ旅行者は、降りろと言われれば素直に降りるだけ。ここは先進国のドイツ、そしてオーストリア。ジタバタせず成り行きに任せる。

 昨日と違って、降りた駅には既にバスが待機していた。さすが

 乗客全員を乗せるとフルスピードで次の駅へ。速いちょっと速すぎる

 また列車に乗り、結局、8分遅れただけで乗継駅のヴェルスへ着いた。

 ヴェルスはドナウ川から30キロほど南に下がった位置にあり、ローマ帝国時代には州都だった町だ。

 ヴェルスから特急に乗り換えてザルツブルグへ。

      ★

<清流と、丘の上の城塞>

 ザルツブルグ駅からタクシーに乗り、旧市街の中心部のレジデンツ(大司教宮殿)広場まで行く。広場からは車の入れない路地を少し歩いてホテルへ。

 ザルツブルグの町は、ザルツァッハ川によって2つに分けられる。ザルツァッハ川より北東部は新市街。南西部が旧市街だ。

     (ザルツァッハ川と旧市街)

 ザルツァッハ川の清流はアルプスに源を発し、ザルツブルグを経て、ドイツとオーストリアの国境を成しながら北上。やがてイン川に流れ込む。イン川はパッサウでドナウ川に合流する。古来、ザルツブルグの奥地で採掘された岩塩は、この川を使ってヨーロッパ各地に送られて、ザルツブルグ大司教(領主)に大きな富をもたらした。

 旧市街の背後にはメンヒスベルグという丘が1.3キロに渡って続く。その丘に、この町の領主である大司教の築いたホーエンザルツブルグ城があり、町のどこからでも望むことができた。

 

 

 

 

 

 

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