ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

2つの小さな町・ナザレとオピドス … ユーラシア大陸の最西端ポルトガルへの旅 8

2016年12月29日 | 西欧旅行……ポルトガル紀行

  (丘の上の旧市街から見たナザレの海岸) 

< 大西洋のリゾートの町・ナザレ >

 首都リスボンから約120キロ。ナザレは大西洋に臨み、砂浜が続く、リゾートの町である。

 ナザレと言えば、イエス・キリストが成長したパレスチナの村の名で、成長して、イエスは人々から「ナザレの人・イエス」と呼ばれた。

 ポルトガルの西海岸の村がナザレと呼ばれるようになったのは、4世紀に、パレスチナのナザレから、一人の聖職者が聖母マリア像を持ってやって来た、という伝説によるらしい。

 4世紀のパレスチナに「聖母崇拝」があり、像が造られたか、疑わしい。こういうキリスト教にまつわる町や個々の教会の起源伝説は、あくまで伝説として聞き流しておく。ただ、それが真実でなくても、それも含めて人々の歴史であり、文化の一部であるから、聞く耳はもつ。

 町は3つの街(教区)によって成り立っている。海岸の北側と東側の丘 (崖) の上にできた2つの街。もう一つは、海岸沿いの街である。

 最初に人々が住み着いたのは、丘の上。

 なにしろ、19世紀まで、フランス、イギリス、オランダなどからやてくる海賊の襲撃・略奪があったというのだから、ヨーロッパとはどういう所かという一面をうかがい知ることができる。

 

   (丘の上の旧市街の街)

 ドライバー兼ガイドのジョアンくんのバンは、ヘアピンカーブの急坂を上がって、海岸の北側にある丘の上の旧市街へやってきた。

 これが崖の上の街かと、不思議な気がする。ここに、ノッサ・セニョーラ・ダ・ナザレ教会があり、パレスチナのナザレからもたらされたという聖母像が安置されている。

 広場の端にある展望台へ行くと、そこには …… 水平線まで広がる大西洋、赤い屋根の連なるナザレの海岸線、そして緑の丘陵 …… なかなかの絶景だった

 

        ( 展望台から大西洋を望む )

      ( 海岸線のリゾートの街 )   

 車で海岸までおりて、各自、昼食休憩となる。海岸沿いはリゾート客のための街で、レストランと土産店が並び、すでにシーズンオフだが、大勢の観光客が歩いている。

 ジョアン君の薦めてくれた3軒ほどのレストランのなかから、海岸に面した1軒に入り、ポルトガル名物のイワシの塩焼きを頼んだ。

 これは日本人にも合う。粗塩が効いて、美味しかった。ただ1匹が大きく、それが3匹もあって、ジャガイモも幾つか添えられていて、ワインを注文すると、ボトルごとドンと出され、ちょっとしんどかった。値段は安い。

 砂浜は豊かで、海はサーフィンの好適地だ。ハワイなどと並んで、世界大会も開かれる。夏はヨーロッパ中から大勢のバカンス客がやってくる。

 浜の北端に、先ほど立った展望台のある丘が、岬となって大西洋に突き出していた。

  

     ( 砂浜の広がりと旧市街のある丘 ) 

                                                       

     ( ショッピング街と崖の上の街 )

 その丘は、下から見上げると、上にあの旧市街があるとは思えないほどの荒々しい崖で、美しい砂浜の北側に異様な壁として立ちはだかっている。何度見ても、違和感は消えない。やはり、日本とは違う。ユーラシア大陸の西の果て …… 地終わり、海始まる所である。

          ★

< 城壁に囲まれた小さな中世の町・オピドス >

 午後の日は傾いてきたが、日没までにはなお十分に時間がある。

 車はナザレからリスボンの方へ引き返し、ツアーの最後に、オピドスに寄った。

 丘の上に、城壁で囲まれた可愛い町が、瞬時、姿をのぞかせ、ほどなく城壁の外の駐車場に到着する。

 この小さな町は、ローマ時代につくられた。イスラム勢力の統治する時代を経て、レコンキスタによってポルトガル王国の町になる。

 ブルゴーニュ王朝の1210年、アフォンソⅡ世がこの可愛らしい町を、王妃に捧げた。

 また、ブルゴーニュ王朝の最盛期の1282年、ディニス王が結婚に際して、「Wedding Present Town」として、王妃に贈った。

 以来、この可愛い町は、ポルトガルの歴代の王妃の直轄領となり、王妃のリゾート地になった。

 こういうロマンチックな物語があって、今、ポルトガルの観光名所の一つとなっている。人々は物語に惹かれてやって来るのだ。

 城門を入ると、城壁をくぐり抜ける通路は直角に2度曲がって、敵の直線的な侵入を防いでいる。イスラムの城門の、特徴的な構造だ。時代は変わって、そこには、アコーデオン弾きのおじさんが、いつもアコーデオンを弾いている。

  (城壁の門の中のアコーデオン弾き)

 城壁に囲まれた中世の町は、メインストリートといえども、狭い。その両側に綺麗な店が並んで、観光客がたくさん歩いている。

 城壁のなかに住んでいる人は800人ぐらいとか。きっと暮らすには不便なのだろう。ドイツやオーストリアを旅するとよくある、中世風の小さな観光の町だ。

   (メインストリート)

 人々の流れにのってゆっくり20分も歩くと、もう終点のサンタ・マリア広場に着いた。

 正面の石段の上に可愛いサンタ・マリア教会。

 その後ろには、石造りの小さな城塞。今は、「ポサーダ・ド・カステロ」という、ちょっと高級なホテルになっている。ポサーダは、歴史的な建造物を維持していくために、国がホテルにしたもの。「中世のお城で優雅な一夜を。予約は早めに」とPRしている。物語の王妃になった気分で、人気なのだ。

  ( サンタ・マリア教会とお城のホテル )

                             ★

 夕方、やや遅く、リスボンに帰った。

 この夜は、ファドを聞きに行く予定だったが、体調が悪くなって、晩飯も食べられず、ベッドに倒れて、寝た。

 こってりした食事が合わず、睡眠不足が重なって、最近は、旅行中1回はダウンする。まあ、年のせいだ。

 ファドに行けなかったのは悔いが残ったが、翌朝には回復していたので、良しとしよう。

 この日から、1日2食。その2食も、決して食べ過ぎないようにする。注文のとき、少なめにしてくれ、半分でいいと言って、それでも多いときは、遠慮なく残す。料理を残すのは料理人に対して少々申し訳ないが、料理人のために食っているのではない。自分の健康が第一だ、── と言い聞かせた。

 帰国した頃には、日ごろ、目標としていた体重になっていた。

     ★   ★   ★

  みなさん、お元気で、良い新年をお迎えください。

 

 

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ポルトガルの独立の象徴・バターリャ修道院へ… ユーラシア大陸の最西端ポルトガルへの旅 7

2016年12月25日 | 西欧旅行……ポルトガル紀行

   ( バターリャ修道院の回廊 )

 バターリャ修道院は「アルジュバロータの戦い」に勝利した記念として、1388年に建設が開始された。ポルトガルの独立を象徴する建造物である。世界遺産。

      ★   ★   ★

 < 9月28日 >

 リスボンの第2日目も、「少人数バンで行く日帰り現地ツアー」に参加した。

 今日のコースは、昨日より遠い。リスボンから北へ約100キロの辺りに、ポルトガルを代表する名所旧跡が散らばっている。そのうちの4カ所をまわるのがこのツアー。4カ所相互間の公共の交通機関による連絡は弱いから、幾つかまわりたければ、ツアーで行くしかない。

 4カ所とは、① 聖母出現の地・ファティマ  ② 世界遺産のバターリア修道院  ③ 大西洋のリゾートの村・ナザレ ④ 中世のままの小さな町・オピドスである。

 今日もまた、雲一つない青空だ。雲一つない青空は、面白い写真にならない。とは言え、旅人にとって、曇天や雨の日よりずっと心楽しい。

 集合場所は、ホテルから地下鉄に乗って2駅目のレスタウテドーレス広場。ロシオ広場のすぐ北にあって、リスボンの中心街である。

     ( レスタウテドーレス広場のオベリスク )

 広場に記念碑 (オベリスク) が建っている。

 16世紀の後半、隣国スペインは、ハブスブルグ家のカルロス1世、続くフェリペ2世の時代に最盛期を迎え、「太陽の沈まぬ国」と言われた。このころ、ポルトガル王家とスペイン王家の婚姻関係が深まり、また、ポルトガル商人たちの市場拡大の欲求もあって、ポルトガルは超大国スペインの統治下に入る。スペイン・ポルトガル同君連合の時代である。

 この間、フェリペ2世はポルトガルに対して寛大で、ポルトガルの自治を認め、ポルトガル商人に優遇措置を与えて、両国の関係は良好であった。ところが、フェリペ3世の時代になると、ポルトガルに対する抑圧が始まる。

 そして、1640年、貴族、市民たちが立ち上がって、ポルトガルの再独立を勝ち取り、60年続いた同君連合の時代は終わりを告げた。

 このときの勝利を記念して建てられたのが、この広場のオベリスク。ポルトガルの3番目の王朝、ブラガンサ王朝の始まりでもある。

 ただ、ポルトガルが世界史に輝いたのは、大航海時代を切り開いた第2王朝の一時期に過ぎない。隣の大国スペインの圧迫もあったが、海外に植民地を経営する時代になると、もともと人口の少ない小国のポルトガルは、オランダ、続いてイギリスに、追いつき、追い抜かれて、国力は衰えていった。

        ★

< ツアーの参加者たち >

 欧米人はフレンドリーだ。こういうごく少人数のツアーに参加すると、誰からともなく、にこやかに、「私、オーストラリアからよ。よろしく」という程度の自己紹介をしあって、互いに顔ぐらいは覚え、親近感をもって、一日を過ごす。もっとも、最初に口火を切るのはたいていマダムたちで、ムッシュが閉じこもりがちなのは、日本だけではない。

 参加者は、北米、オセアニアが多く、もちろん日本人はマイノリティ。

 日本人の年配者は、最初から日本発のツアーでやって来る。学生など若い世代の個人旅行の日本人は、おカネを節約するから、こういう現地ツアーにも入らない。

 EU圏の人はいない。EU圏の人たちにとって、ポルトガルは国内旅行なのだろう。

 面白いのは、こういうとき、アメリカ人はいつも、例えば「カリフォルニアから来た」と言う。「私たちはカナダよ。よろしく」。「私はカリフォルニア」といったぐあいで、「アメリカから」 とは言わない。USAというのは「人工的」なもので、彼らにとってネイティブなのは、あくまでカリフォルニアなのだろうか。

 時間になったのにツアーはスタートしない。車に入り、めいめい座席に座って待つが、このツアーを主催するドライバー兼ガイドの若者は、車の外に立っている。やがて、15分も遅刻して、若いカップルがやってきた。やっぱり アメリカ人だ

 あのカップル、行く先々で集合時間に遅れたらイヤだなと思って見ていたら、カップルが乗車する前に、ドライバー兼ガイドの若者が注意を与えた。それは、車の窓越しに見て、感じでわかった。「他のお客の迷惑になるから、今日一日、集合時間はぜひ守ってほしい」。客に対する礼を失しないように、しかし、笑顔は見せずに、きっぱりと。あの若者、いい感じだ。

 このあと、行程のなかで3回の集合時間があったが、このカップルを除く全員が、5分~10分前には車に帰って、めいめいの座席についた。

 このカップルは、── 毎回、時間ぎりぎりに帰ってきた。ぎりぎりだが、遅刻はしなかった。

 ドライバー兼ガイド氏は、なかなか姿を現さない2人を心配して、毎回、集合時間が迫ると、付近に捜しに行った。みんなも、心の中ではらはらした。しかし、一度も遅刻しなかったのだから、いい若者たちなのだ。一日が終わる頃には、みんなこのカップルを受け入れていた。

 ドライバー兼ガイド氏は、30代?? 快活でしっかりした好青年だ。「ジョアン」と名のった。5千の市民軍を率いて、3万のスペイン正規軍を打ち破り、推戴されて国王となった、エンリケ航海王子の父、ジョアン1世 …… と同じ名だ。多分、ポルトガルには多い名前なのだろう。

< 聖母出現の地・ファティマへ >

 車は高速道路に入り、1時間半ほどでファティマに到着した。

 旅に出る前、ネットで、このジョアン君のツアーに参加した日本人の感想を読んだ。評価は高い。ジョアン君も好感度大だ。

 ただほぼ全員が、1日に4カ所も回るせわしない日程なのに、ファティマで時間を取り過ぎだ、いや、ファティマはカットして残りの3つに時間を充ててほしかった、などと書いていた。

 私も同感であった。

 しかし、このツアー参加者は、日本人だけではない。中心は欧米人であり、そのなかの相当数の人たちは、ポルトガルまで来た以上、ぜひともファティマに行きたいと思うのだろう。なにしろ、ここファティマはバチカン公認の巡礼の聖地であり、巡礼でここを訪れれば、免罪されて、裁きの日に天国に行くことが約束されるのだから。 (この旅行で、ファティマについて調べるまで、バチカンが未だに「免罪符」を「発行」しているとは、知らなかった。21世紀ですぞ)。

 ここは、もともとオリーブの木が点在する寒村だったそうだ。

 今は、10万人を超える信者が集まる広場があり、広場の中央にキリストの像が立ち、周りには高さ60mの塔やパジリカ (聖堂) が建っている。

 

      ( 塔とパジリカの建つ大広場 )

 しかし、ヨーロッパ旅行で、歴史ある大聖堂や人里離れた所にある鄙びた修道院を見てきた目には、この白っぽく新しい建造物は、まるで新興宗教の聖地のようで、妙な違和感を覚えた。

 以下の話は中世の出来事ではない。…… 20世紀の話だ (念のため)。

 第1次世界大戦中の1917年5月13日、この村に住む3人の子どもたちの前に、聖母マリアが現れた。毎月、13日に、ここで私と会ってほしい。

 映画『汚れなき悪戯』のようなメルヘンチックな話ではない。

 子どもたちと聖母マリアは、それから何回か会い、話はすぐに広がり、多くの人々も、司祭たちも集まり、事の次第はバチカンにも報告された。そういう大騒ぎのなかで、奇跡が起こり、予言があった。 

 3回目の7月13日には、3人の子どもたちは「永遠の地獄」の様子を見らせれ、恐怖に震えた

 10月13日には、噂が広まり、聖母を求めて集まった7万人の群集が、太陽が急降下したり回転するという幻覚を見た。群集の中には整理に当たった警察官も、取材に来た記者たちもいて、報道もされた。 ( 日本の神さまも岩戸の中に隠れて、世界が真っ暗になったこともあるが、あれはあくまで神話の時代の話だ )。

   また、水源のないところから水が湧き、その水を飲むと病が治癒した。

 予言があり、バチカンに伝えられた。

 第一次世界大戦はまもなく終わるが、人間たちが神に背き続け、罪を続けるなら、さらに大きな大戦が起こり、多くの人々が地獄に堕ちるだろう

  ロシアで起こった革命が、世界に誤謬をまきちらし、大きな災厄を起こすだろう。教皇以下全ての信者は、ロシアのために祈れ。

 第3の予言は、1960年まで公表してはいけないとされた。だが、バチカンは1960年になっても秘匿し続け、2005年になってやっと公表した。その内容は、1981年に起こった教皇狙撃事件が予言の中身であり、予言のお蔭で教皇は一命をとりとめ、犯人の背後の組織は壊滅し、核戦争なしに冷戦が終わった。ゆえに、この神の摂理に感謝せよ、というものであった。

 もっとも、バチカンは第3の予言のあまりの恐ろしさに、未だ公表する勇気がなく、公表されたのは実は本当の予言の内容ではない、という声もある。

 とにかく、ローマ教皇庁はこれら全てを奇跡として認め、ファティマを聖地とし、5月13日を「ファテマの記念日」とした。そして、この地に巡礼した者は「免罪」されるとした。 

 こうして、毎年5月13日には、広場は10万人もの信者によって埋め尽くされる。(何しろ、死後、「永遠の地獄」に落とされずにすむのだから、私も参加したいくらいだ )。

 3人の子どもたちが聖母マリアに会った場所には小さな礼拝堂が建てられ、今日もロウソクの灯が絶えず、次々と司祭の説教や証しの言葉が語られている。

     (出現の礼拝堂)

 パジリカに行ってみたが、あっけらかんとして、見るほどのものはなかった。仕方なく広場の片隅の日陰に腰を下ろし、集合時間まで、本を読んで過ごした。

        ★

 < ポルトガル独立の象徴・世界遺産のバターリア修道院 >

  バターリャもごく小さな町で、修道院以外に観光するものはない。

 「戦闘」という意味らしい。英語の「バトル」に通じるのだろう。

 1384年、スペイン軍に包囲されたリスボン市は、アヴィス騎士団団長のジョアンをリーダーにして、スペイン軍を打ち破る。翌1385年、中小貴族やリスボン市民は、ジョアンを王に推戴して、再度やってくるスペイン軍に備えた。

 同年の夏、ジョアン1世は、アルジュバロータで、5千の市民軍を率いて、3万のスペイン軍を打ち破った。世界の戦史上、「アルジュバロータの戦い」として有名らしい。

 アルジュバロータは、修道院から南へ3キロほど行った所にある。

 ジョアン1世の命により、この劇的な勝利とポルトガルの独立を神に感謝し、修道院建設が始められた。

 建設は長期に及び、ある程度の完成を見せたのが130年後の1517年である。携わった建築家は実に15人。この建設の過程を通じて、ポルトガルの建築技術は西欧世界に追いついて行った。

 1502年には、リスボンのジェロニモス修道院の建設が始められ、そちらにに全力を注ぐため、なお未完の部分もあったが、バターリャ修道院の建設は中止となった。

 今は世界遺産であり、ポルトガルの独立を象徴する建造物である。

 車を降りると、青空の下、目の前にバターリャ修道院の威容があった。

 外壁の石灰岩は時の経過とともに黄土色に変色するそうで、風雪を経てさらに黒ずみ、外観からだけでも、歴史の重みが感じられた。

   ( バターリャ修道院の東側全景と騎馬像 )

 広場の騎馬像は、ヌーノ・アルヴァレス・ペレイラ。

 若いジョアン1世の下、全軍を指揮した司令官である。王も若かったが、司令官も、当時、若干25歳だった。その若さで、戦史に残る戦いをやってのけたのだから、ポルトガルの英雄である。

 晩年には、妻に先立たれた後、財産をリスボンのカルモ教会に寄贈し、自らも僧籍に入った。もともと敬虔なキリスト教徒だったのだろう。

         ( 西側正面入り口 )

 西側正面入口を入ると、そこは修道院付属の教会であった。

 訪れる人は少なく、静けさのなかに、奥行き約80m、高さ32m、ポルトガルでは、1、2の規模という空間があった。

 ゴシック様式で、簡素。この点、柱や壁の全面にレースのように彫刻の装飾が施さていれたジェロニモス修道院とは、全く趣を異にする。ジェロニモス修道院は貴婦人のようで、バターリャ修道院は、質実にして力強い騎士のようである。

 内陣の奥にステンドグラスがあり、わずかに彩りを添えている。ポルトガルで最初のステンドグラスだという。

                 ( 付属の教会 )

 付属教会の脇に、もう一つ、やや小ぶり、円形の部屋があり、入り口に警備員が立っていた。「創設者の礼拝堂」と呼ばれるパンテオン形式の礼拝堂で、ジョアン1世の家族の墓所になっている。

       ( 創設者の礼拝堂の棺 )

 窓から差し込む、明るく穏やかな光が空間に満ち、ジョアン1世と、英国から嫁いできた王妃フィリッパの棺が中央に置かれていた。周囲の壁には王子たちの棺も安置され、仲のよい家族が団らんしているような雰囲気があった。

 ジョアン1世の墓には、彼のモットーであった「For the better」という言葉がポルトガル語で繰り返し彫られ、フィリッパ王妃の墓には、彼女がモットーとした「I'm pleased」という言葉が彫られている。それぞれに素晴らしい言葉だ。

 王子たちの棺は、やや小さい。そのなか、エンリケ航海王子の棺をさがしたが、どれかわからなかった。

 修道院建築の華は、回廊である。「ジョアン1世の回廊」(或いは「王の回廊」) は、やはりゴシック様式の簡素な回廊で、格子には、100年後にマヌエル様式の装飾が付け加えられている。

 中庭を隔てて聖堂も見え、いかにも中世的な風景である。

 

    (王の回廊から中庭を望む)

 

    ( 黒ずんだ回廊の壁と中庭 )

 「参事会室」と呼ばれる部屋に入ったとき、一瞬、はっとした。

 人けのない部屋に、兵士が銃をもって左右に立っていた。ここは無名戦士の墓である。この修道院がポルトガルの独立の象徴ならば、無名戦士を葬るにふさわしい。

 この部屋は柱が1本もなく、交差リブヴォールトによって支えられている。そのため、建設当時は、天井が落ちるのではないかと騒がれた。それで、ここを設計した建築家は、この部屋に3日3晩座り続けて、安全を立証しなければならなかったという。

  ステンドグラスが美しい。宗教を超えて、美しい。

        ( 無名戦士の墓を守る兵士 )

 

 (参事室のステンドグラス)

   「未完の礼拝堂」が面白い。

 ジョアン1世のあとは、その長男で、エンリケ航海王子の兄であるドゥアルテ1世が、王位を継いだ。

 彼もまた、この修道院に家族の墓所をつくりたいと、この礼拝堂を建設を始めた。だが、結局、未完に終わり、王と王妃の墓だけがある。

 未完のため、天井がなく、青空が見えているのが、面白い。    

          ( 未完の礼拝堂 ) 

 一巡して、外に出ると、アルヴァレス・ペレイラの騎馬像が、青空を背景にカッコよく立っていた。

  ( アルヴァレス・ペレイラの騎馬像)

 ジェロニモス修道院は「華麗」という言葉がふさわしかった。

 一方、バターリア修道院は、中世的で、簡素で、重厚で、歴史と文化を感じさせ、ジェロニモス修道院よりも、心ひかれるものがあった。ポルトガルの歴史のうちでも、若々しく、颯爽として、未来に向かって輝いていた、そういう時代を象徴する修道院である。

 観光客が列をなすということもなく、静かな雰囲気で鑑賞でき、余韻が残った。 

 

 

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大地の終わる所、ロカ岬に立つ … ユーラシア大陸の最西端ポルトガルへの旅 6

2016年12月14日 | 西欧旅行……ポルトガル紀行

   ( ロカ岬の断崖の上を歩く人 )

 ユーラシア大陸の最西端、ロカ岬に立った。

   雲一つなく良く晴れて、ここで1時間ほど寝転がっていたいと思った。

     ★   ★   ★

< ポルトガル王室の夏の離宮があったシントラ

 ベレン地区を出て、途中、レストランで昼食をとり、ポルトガル王室の夏の離宮があったシントラへ向かった。

 シントラはリスボンから西へ約30キロ、近郊鉄道で行けば40分のところにある。

 首都リスボンに隣接する市だが、大西洋に近く、しかも鬱蒼とした森におおわれ、年中、温暖な気候で、夏の気温は大都会のリスボンより10度も低いという。これは、ドライバー兼ガイドのMさんの英語による説明であるから、まちがって聞いたかもしれない。樹木がいかに大切かということを強調していた。

 町の名は、ローマ時代、この地に、シンシアという月の女神を祀る、月の神殿が造られたことに由来する。

 丘の上に城跡があるが、これは、イスラム時代 (後ウマイヤ朝) の8~9世紀に、ムーア人 (イスラム教徒) によって築かれたものである。天気の良い日には、ここから大西洋を望むことができるという。

     (ムーアの城跡)

 12世紀には、初代のポルトガル王となったアフォンソ1世 (ブルゴーニュ王朝) が、イスラム教徒からシントラを奪還した。 

 その後、平和が訪れると、緑濃い森の中に、王室の夏の宮殿が建てられ、時の流れの中で、王室の避暑地としていくつかの離宮が建てられた。

 これらを含め、「シントラの文化的景観」 として、世界遺産に登録されている。

 リスボンからここまで近郊鉄道があるので、今は、ロカ岬へ行くための拠点でもある。

 我々のツアーは、シントラの街と深い緑の中を走り、シントラで最も標高の高い丘の上に築かれたベーナ宮殿で車を降りた。各自でこの宮殿を見学する。

 ベーナ宮殿は、19世紀に建てられたものだから新しい。しかし、シントラにやって来た観光客には一番人気がある。その外観は、えーっうっそー と驚く奇抜さだ。ディズニーランドも顔負けである。

 (ディズニーランドのようなベーナ宮殿)

 この宮殿を造らせた王様は、ドイツのロマンチック街道の終点にあるノイシュバンシュタイン城を造った「狂気の王様」、ルートビヒ2世と従弟同士の関係だそうだ。2人で競い合ったのかもしれない。

 (ドイツ・バイエルンのノイシュバンシュタイン城)

  ノイシュバンシュタイン城は、白鳥城という名のとおりに、大変美しい。ディズニー映画のモデルになったと言われるが、それは本当だろう。私も含め、日本人観光客には、特に人気がある。

 が、ノイシュバンシュタイン城の中に入るとずいぶん奇抜な部屋もある。例えば、ディズニー映画の「バンビ」の舞台になった森の中を再現したような部屋である。なぜ、部屋の中に森をつくるのか?? 常人には、わからない。

   若きバイエルン王は、この城を造るのにバイエルン王国の財政を傾け、民を苦しめて、ある日、湖に浮かんでいた。事故死とも、国を思う家臣に暗殺されたとも言われる。しかし、今では世界から観光客が押し寄せて、バイエルン地方への経済的貢献は計り知れない。歴史とは皮肉なものである。

 (「ロマンチック街道」の旅はこのブログを始める以前の旅である。写真を中心にして、いつかブログで紹介したい)。

 一方、ベーナ宮殿の王様は、婿としてポルトガル王になったが、特に悪い王様ではなかったようだ。だが、美的センスにおいてはルートビヒ2世にかなり劣る。人民大衆の子どもたちのために「遊園地」をつくろうとしたのならともかく、自分のためにこれをつくったのだから、いかにも趣味が悪い … と私は思う。

 観光客は喜ぶのだろうが、私は「奇岩絶景」や、「謎の〇〇」や、歴史の裏話や、拷問道具の数々などには興味がない。どちらかというと、「ムーアの城跡」の方に行きたかった。

  (ディズニーランドのようなベーナ宮殿) 

 内部は、普通によくある宮殿のしつらえや調度があって、特筆するほどのものはない。ただ、ステンドグラスに面白い色合いがあったので、写真に撮った。何の絵だかわからないが、12、3世紀の教会のステンドグラスとは趣を異にし、現代絵画に近い。

 

 (ステンドグラス)

          ★

< ユーラシア大陸の最西端、ロカ岬に立つ >

 シントラから車で30分ほど走って、この旅のハイライト、ユーラシア大陸の最西端、ロカ岬にやってきた。

  岬の手前には1軒の売店と、大きな駐車スペースがあり、たくさんの乗用車、そして観光バスも1、2台、駐車していた。さすがに観光客も多い。

      ( 岬の突端に石碑が見える )

 岬の突端に、石碑が立っているのが見えたので、その方へ向かって歩く。

 日本で、岬は、山嶺が海に向かって落ちていった所だ。山の延長の峰だから、岬には樹木が繁り、草木が生えている。

 ここは、山ではない。荒涼とした広がりをもつ大地である。果てしなく続くように思われた大地が、思いがけなくも、突然、終わって、足元から海に落ちた、という感じである。

 突端の石碑には、「CABO DA ROCA」と刻まれていた。「ロカ岬」。「CABO」は「岬」だろう。

 ジェロニモス修道院の中のサンタ・マリア教会に、棺が二つ、安置されていた。一つは、ヴァスコ・ダ・ガマ。 もう一つは、ポルトガルを代表する大航海時代の詩人・カモンイスの棺である。「そなたの前には、時至らねば現れぬかもしれないが、海の果てに日本がある。清き白金を生み、神の光に照らされているその島が」と謳った詩人である。

 石碑の「CABO DA ROCA」のすぐ下に、「AQUI … 」で始まる小さな文字列がある。── 「ここに地終わり、海始まる  カモンイス」。

   (カモンイスの石碑)

 大地が終わる、大地が果てる、…… 確かに、そういう感じである。

 石碑を見て、そして、振り返れば、…… 足元の大地が切れ落ちて、高さ140mの断崖。そして、大西洋が始まっている。

   ( 「ここから海始まる」 )

 向うに灯台のあるので、そちらへ向かう。

 お天気がよく、のどかに晴れ、海を望む岬は歩いていて心楽しい。30分で車に帰ってくるように言われたが、1時間くらい、この風に吹かれて、寝そべっていたい気持ちだ。

   ( ロカ岬の白と赤の灯台 )

 先ほどの石碑の方を振り返ると、一点の雲もなく、晴れすぎるほど晴れた青空と、光る海との間に、ロカ岬の最先端の断崖が見えた。  

            ( ロカ岬の断崖に立つ石碑 )

  一方、灯台に近づくにつれて、灯台の立つ巨大な断崖の荒々しさが迫ってくる。

 龍飛岬も荒々しいと思ったが、その比ではない。樹木の育たぬ荒れた大地が、ついにここで尽き果てた、という荒々しさだ。

 龍飛岬や、北海道の岬には、「たどり着いたら、岬のはずれ 」 (石原裕次郎「北の旅人」)   と口ずさみたくなる、人恋しい淋しさ、哀感が伴う。

 ここには、そういう情感や感傷はない。大自然は、人の心を超えて、非情である。

 ユーラシア大陸の西の果てまで来た …。ここは、ユーラシア大陸の終わる所にふさわしい岬だ。

 

 

    (灯台のある岬の断崖)

     ★   ★   ★

< リスボンのショッピング街を歩く >

 今日の行程をすべて終え、車はしばらく海岸線を走ったあと、リスボンへ向かって高速道路に入った。

 この季節のヨーロッパの日没は遅い。

         ★

 少しリスボンの町歩きに慣れておこうと、レスタウラドーレス広場で降ろしてもらって、ホテルまでウインド・ショッピングしながら歩いた。地下鉄に乗れば2駅と少々の距離だが、テージョ川に向かってゆるやかな下りの道である。

 ロシオ駅は、あのシントラへ行く近郊線の出る駅だ。美しい駅舎である。

    ( リスボンのロシオ駅 )

  ロシオ駅のある広場は、リスボンを代表するロシオ広場。中央には初代ブラジル国王となったペドロⅣ世の像が立つ。

    ( リスボンのへそ、ロシオ広場 )

 ロシオ広場から、建物の赤い屋根越しにサン・ジョルジョ城がのぞいていた。

 ユリウス・カエサルの時代に要塞として築かれたのが始まりで、そのあと、2000年の間、歴史の大変動、民族と民族、宗教と宗教の激突を見てきた城塞である。

 今は公園になって、リスボン観光に欠かすことのできない名所の一つだ。  

 (ロシオ広場からサン・ジョルジョ城を望む)

 歩行者天国のアウグスタ通りを歩いて行くと、終点に「勝利のアーチ」がある。アーチの向こうはコメルシオ広場で、テージョ川が大西洋の河口に向かってゆったりと流れている。

 

  (アウグスタ通りから)

 

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ジェロニモス修道院とベレンの塔 … ユーラシア大陸の最西端ポルトガルへの旅 5

2016年12月11日 | 西欧旅行……ポルトガル紀行

      ( コメルシオ広場の「勝利のアーチ」  )

 リスボン中心街のホテルからテージョ川の方へ下っていくと、「勝利のアーチ」と石造りの建造物に囲まれた美しい広場がある。

 コメルシオ広場という。

 広場の端まで行くと、テージョ川の水がひたひたと石畳を浸している。

 ここは、大航海時代の頃からリスボンを代表する埠頭で、東方貿易によってもたらされたばく大な富の数々が陸揚げされた所だ。

     ★   ★   ★

< 銘菓・パステル・デ・ナタ >

 その広場からテージョ川沿いに、市電に乗ってゴトゴト走ると、河口近くの、もう一つの埠頭に出る。大西洋を目前にしたこの埠頭のあたりはベレン地区と名づけられている。

 今回は市電ではなく、現地ツアーの車でやって来た。

 世界からやってきた観光客がいっぱいで遊園地のような界隈だが、その中に3つの行列ができている。

 そのうちの1つはジェロニモス修道院の入場券を買うための行列、もう1つは「ベレンの塔」を見学するために並んだ行列である。いずれも世界遺産。ジェロニモス修道院は、(旅行前のネット調べによる情報だが)、チケットを買うのに時間がかかるらしい。チケットを買ったあと、入場するのにも少し並ぶ。

 そして、3つ目の行列は、カフェ「パスティス・デ・ベレン」で名菓を食べようという行列である。

 ポルトガルにはパステル・デ・ナタという卵菓子がある。なかでも、カフェ「パスティス・デ・ベレン」は、この菓子の生みの親であるジェロニモス修道院の修道士たちが作っていたパステル・デ・ナタの製法を直接に伝授された店である。もちろん、門外不出。それで、リスボンにやってきた世界各国からの観光客たちは、行列に並んでジェロニモス修道院を見学し、見学が終わると、老いも若きも、男も女も、「パスティス・デ・ベレン」で卵菓子を食べるために、また行列をつくるのである。

 

 (カフェ前の大行列とパステル・デ・ナタ)

 もちろん、私、個人で観光していたら、1個の卵菓子のために、この大行列に並ぼうとは決して思わなかったろう。 

 だが、このツアーの行程には、カフェ「パスティス・デ・ベレン」も含まれていて、ドライバー兼ガイドのMさんは、我々を連れ、大行列をしり目にスイッと店の中に入り、テーブル席に案内してくれたのである

 食べてみると、ヨーロッパでは珍しく甘すぎない、ソフトな味の、小さな卵菓子だった。上品で、悪くはないが、もともと家庭で作っていた菓子だから、素朴な味というか、行列して味わうほどの …… しかしまあ、ブランド化とは、こういうことだろう。日本も、大量生産は中国にまかせて、ブランド化で生きていくしかない時代に入っている。

 以前、音楽の都・ウィーンの、オペラ座のそばの、昔、エリーザベト王妃も通ったという貴族趣味のカフェに一人で入り (気持ちの問題だが、入るのにかなり敷居は高かった)、ドレッシーな装いの、体重80キロはありそうなマダムたちのグループの横に遠慮がちに座り、銘菓とされるケーキを食べたことがある。

 決して安物の味ではないが、マダムたちの体型に似て、1個が大きすぎる。それに何よりも、甘すぎた。とにかくヨーロッパは、ケーキでも、朝、出勤の途中、おじさんたちが朝食代わりに寄って食べるバールの菓子パンでも、甘すぎる。

 若き日の体型を保ち続けたエリーザベト王妃を、我が家のご近所のケーキ屋さんに連れて行って、「これが日本で進化させた西洋のケーキですよ」と言って食べさせたら、間違いなく感激しただろう。そうしたら、ご近所のケーキ屋さんも、伝説のブランド店になる。

 パスタとアイスクリームはイタリア、パンはフランス、だが、ケーキは今や日本だ。

※ 私はお酒が好きで、「ケーキ通」ではない。

 「アイスクリームがイタリア」というのは「ローマの休日」以来のことで、あの映画を契機に、イタリアを訪れる世界の観光客が、ローマの街角でアイスクリームを食べるようになった。美味しさとは、舌だけのことではない。人々を幸せな気持ちにさせる何かが必要なのである。

 つまり、ブランド化には、大なり小なり ── ジェロニモス修道院の秘伝だとか、エリーザベト王妃がお忍びで通っただとか、「ローマの休日」のヘップバーンとアイスクリームの名場面とかという ── 伝説・物語が必要なのだと思う。

         ★

< 壮麗なジェロニモス修道院 >

 ジェロニモス修道院は、壮麗な建物である。

  

   ( 壮麗なジェロニモス修道院)

 エンリケ航海王子とヴァスコ・ダ・ガマの偉業を称え、東方へ向けて出帆する船の航海の安全を祈願する大聖堂として、1502年に着工。1世紀以上の年月をかけて完成した。その費用は、1498年、インド航路を発見したヴァスコ・ダ・ガマが持ちかえった富によってまかなわれたという。大航海時代を切り開くことによって、貧しいポルトガル王国は、豊かになったのである。

 司馬遼太郎は、『街道をゆく 南蛮の道2』に、このように書いている。

 「私どもは、テージョ川の河畔に沿って、6キロ、リスボン市街から離れた。

 河口のあたりに、大理石の巨大な建造物がある。ジェロニモス修道院である。

 大航海時代の極東における記念建造物が大坂城であるとすると、その雄大な史的潮流の源であるこのリスボンにおいては、ジェロニモス修道院が代表すべきかもしれない」。

 大航海時代を象徴するものとして、その潮流の源にジェロニモス修道院があり、その潮流の東の果ての結実が大阪湾に臨む大坂城であるという。なるほど 我々は、ともすれば、秀吉だとか、淀君だとか、家康だとか、或いは豊臣と徳川の争いの舞台だとかいう、日本史の枠組の中でしか大坂城をとらえないが、そもそも大坂城は、大航海時代という世界史的背景があって築かれた建造物だったのである。

 その大坂城を陥落させたのも、家康が英国から借りた巨大な大砲の威力であった。歴史は、真田幸村の個人的な知略を超えたところで展開する。だからこそ、幸村も、美しい

 にもかかわらず、徳川政権はその後250年もの間、世界史の片隅に引きこもった。(事の良し悪しを言っているのではない。それはそれで良かったのかもしれない ) 。それでも、この国には、長崎というわずかに開いた戸から、オランダ語を通じて、西洋事情を学び続けた人々がいた。そして、アヘン戦争によって大国・中国が敗れたことを知ったとき、いち早く反応した。

 その結果、例えば、「世界の海援隊をやりたい」という坂本龍馬も登場することになる。高知の桂浜に立つ坂本龍馬像は、サグレス岬で海に向かって立つエンリケ航海王子の十何代目かの子孫のように、似ている。何よりも、海を見る目が似ている。

 ジェロニモス修道院の前には、切符を買うために、世界から訪れた観光客の長蛇の列がつくられていた。だが、我々は、ドライバー兼ガイドのM氏の案内で、並ぶことなく入場した。少々気が咎めたが、現地ツアーに入ったのは、このためでもある。 

  

  (ジェロニモス修道院の中庭と回廊)

 西欧の修道院はどこでも、中庭と回廊があって、静かな空間をつくり出している。修道士たちは、毎日、作業を終わると中庭の泉で手足を洗い、また、決められた時間に回廊で読書をし、祈り、瞑想する。

 ジェロニモス修道院の中庭は1辺が55m。そこを回廊がめぐっている。回廊に入る日差しは柔らかく、微妙な陰影が人の心を瞑想的にさせる。

 

    (回廊の彫刻)

    (回廊を歩く)

 当時の多くの聖堂がそうであるように、この修道院も聖母に捧げられた。ある時期からカソリックは、キリスト教信仰というよりも、マリア信仰のようである。

 「建物はふんだんに装飾されている」。

 「 "聖母" をかざる彫刻群のなかで、海にちなんだモティーフのものが多い。建物が聖母の肉体であるとすれば、それらの装飾は、聖母に対し、かたときもここから出帆して行った船たちの安全をわすれてくださるなと願うためのものであることがわかる」。

 「このことが思いすごしでない証拠に、なかに入ると、挟廊(アーケード)や回廊の壁に、船具や珊瑚が彫られ、海藻まで彫られている。カトリック文化の強烈な具象性がここにもうかがえるし、同時に、建物そのものが潮風を匂い立てているようでもある」。(『 南蛮の道Ⅱ』から)。

 

  ( 修道士たちの食堂 )

 修道院は、たくさんの修道士たちが、日々、祈りと労働に励んだ「生活の場」であるから、さまざまな生活空間がある。その中でも最も大切なのは、ミサを行う教会である。修道院が教会ではない。修道院の中に教会がある。教会は、キリストの身体そのものである。

 ジェロニモス修道院の教会は、サンタ・マリア教会という。

 中に入ると、フランスやドイツのゴシック様式の大聖堂と同じように、柱が天に向かってそびえている。

 ただ、フランスやドイツの大聖堂は、北方の森の民であるゲルマン的な空間であるが、この教会においては、高い柱はヤシの木を模しているという。そして、柱や壁には、ここもまた海や舟をモチーフにした数多くの模様が刻まれている。

 教会の中には、ヴァスコ・ダ・ガマの棺があった。

  (サンタ・マリア教会)

         ★

 ゆっくり見学して、雲一つない外界に出た。

  「ジェロニモス修道院の前は広場になっていて、…… そのむこうが、広大な河口であり、ゆたかに水が流れている。インドをめざすヴァスコ・ダ・ガマが、エンリケ航海王子の死後、1497年7月9日、河口のこの地点から4隻の船隊をひきいて出て行った」。(『 南蛮の道Ⅱ』から)。

 その場所に、帆船を模した巨大な「発見のモニュメント」が建っている。

 1960年、エンリケ航海王子の500回忌を記念して造られた。エレベータで高さ50mまで上がることができるそうだが、今は修復中で、全体に覆いがかぶせられている。

 その前の広場には、大理石のモザイクで世界地図が描かれ、世界各地の「発見」の年号が刻まれている。日本は1541年とある。 

 

 (「発見のモニュメント」の下の世界地図)

         ★

< の立ち姿のような「ベレンの塔」 >

 「さらに河口ちかくまでゆくと、水中の岩礁に美しい大理石の塔が立っている。塔というより小城郭といったほうが正しい。『ベレンの塔』とよばれ、16世紀のものである」。(『 南蛮の道Ⅱ』から)。

 もとはテージョ川を行き交う船を監視し、河口を守る要塞として造られたが、後には税関や灯台としても使われた、と『地球の歩き方』にある。

 ここも長蛇の列があったが、チケットを買うためというより、内部が狭く、混雑して事故が起きるのをおそれて、入場者数を制限しているらしい。我々のツアーは残念ながら「ベレンの塔」の入場観光はない。しかし、ジェロニモス修道院をゆっくり見ることができたから、良しとする。

 

   ( 公女のような「ベレンの塔」 )

 司馬遼太郎は、「眺めていると、テージョ川に佇みつくす公女のようにも見えてくる」と述べているが、白い大理石の建物が、空と海の青に映えて、まことに瀟洒であった。

 命がけの長い航海を終えて無事母港に帰ってきた船乗りたちが、最初に目にするのが、この塔であった。 

 

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大航海時代の幕を開けたテージョ川河口へ … ユーラシア大陸の最西端ポルトガルへの旅 4

2016年12月06日 | 西欧旅行……ポルトガル紀行

     (テージョ川の河口)

 リスボンの町の中心部から車で20分も行けばテージョ川の河口に出る。その先は大西洋

 Rio Tejo (テージョ川)は、スペイン語では Rio Tajo (タホ川) 。

         ★

タホ川からテージョ川へ >

 スペインの中央部に位置する首都マドリッドから、都市間バスで行くと1時間少々のところに、古都トレドがある。

 ローマが滅亡した (476年) 後、イベリア半島に侵入し支配したのは、ゲルマン民族の一部族・西ゴード族であった。彼らは首都をトレドに定めた (560年)。

 トレドは町の三方向をタホ川の渓谷に囲まれ、丘の上に築かれた要塞のような町である。 ( 当ブログ「アンダルシアの旅 = 陽春のスペイン紀行」を参照 )。

  (タホ川の渓谷に守られる古都トレド)

 トレドを囲繞するように流れたタホ川は、スペインの台地を横断して、流れ流れてポルトガルに入り、テージョ川 (Rio Tejo) となって、リスボン郊外で大西洋に注ぐ。

 トレドに都が置かれた時代は長くはなかった。711年、西ゴード族は、アフリカ大陸からジブラルタル海峡を渡ってきたイスラムの軍勢に大敗し、イベリア半島の北の端と、東の端に追いやられた。

 以後、イベリア半島はイスラム教徒によって統治され、彼らの先進的な文明がイベリア半島で花開いた(後ウマイヤ朝)。マドリッドはそのころはまだ、イスラム勢力によって造られた小さな防御施設に過ぎなかった。

 キリスト教徒の反撃 (レコンキスタ = 国土回復戦争) が本格的に始まったのは10世紀である。

 レコンキスタは500年かかり、1492年、アンダルシアの一角、イベリア半島の南端に追いつめられていたイスラム勢力の最後の王国グラナダが陥落することによって終了した。( 当ブログ「アンダルシアの旅 = 陽春のスペイン紀行」を参照 )。

         ★

< レコンキスタのなかから生まれたポルトガル王国 >

 11世紀末、ローマ教皇の呼びかけによって、西欧全土から十字軍がおこり、多くはエルサレムに向かったが、スペインのレコンキスタを助けようとやってきた騎士たちもいた。

 1096年、カスティーリア・レオン連合王国 (スペイン) の国王は、フランスのブルゴーニュからやってきた騎士エンリケ・ド・ボルゴーニュの対イスラム戦争の戦績をたたえ、ドウロ川の流域・現在のポルト周辺に領地を与えて、伯爵とした。

 彼は、故郷のブルゴーニュからブドウをもってきて植えた。今も、ドウロ川流域はブドウの名産地であり、ポートワインとして名を知られている

 伯爵の子、アフォンソ・エンリケスは、さらに南下してイスラム勢を破り、スペイン王及びローマ教皇の承認を得て、1143年、ポルトガル王国を建国し、アフォンソ1世となった 。

 リスボンの大聖堂は、アフォンソ1世がリスボン奪取を記念して建設させたもので、いざというときには要塞として使えるように造られたから、見た目もイカツイ。

 (テージョ川に臨むリスボン大聖堂)

  ポルトガルの歴史では3つの王朝が交代するが、この最初の王朝はブルゴーニュ王朝と呼ばれる。

 その後も南へ南へとレコンキスタを進めていったポルトガル王国は、建国後約100年の1249年、アフォンソⅢ世のときにイスラム勢力を大西洋に追い落として、現在の範囲の国土を確立させた。スペインのレコンキスタ終了よりも250年早かった。

< 番目の王朝・アヴィス王朝の成立 >

  14世紀中ごろ、ポルトガルはペストが流行し、経済は衰え、国は疲弊する。しかも、国王はたった一人の娘をスペイン王に嫁がせたから、国王が死んだあと、スペインはポルトガルを併合しようとした。スペインに嫁いだ亡き王の娘 (新ポルトガル国王) も、摂政 (その母) も、大貴族たちも、スペインへの併合に向けて動いた。

 だが、このとき、ポルトガルを守ろうと、中小貴族とリスボン市民たちが立ち上がった。

 リスボンは、地中海と大西洋・北海方面を結ぶ天然の良港として、イスラム時代に開かれた港町である。レコンキスタののち首都となったが、リスボンの町の主勢力は貴族(大土地所有者)でも、騎士でもなく、船乗りたちや商人たち、すなわち市民であった。リスボン港には、商館が建ち並んでいた。

 ポルトガル王国がスペインに併合されそうになったとき、リスボン市民はこの町に籠城してスペイン軍に立ち向かったのである。彼らは戦いに際し、前王の異母弟で、キリスト教騎士団 (本拠がアヴィスにあったから、アヴィス騎士団ともいう) の団長であった若者を戦いのリーダーに据えた。彼は市民軍を率いて、圧倒的なスペイン包囲軍を撃退した。

 中小貴族やリスボン市民は、次のスペインとの戦いに備えて、この若者・ジョアンを王に立てた。ジョアン1世である。

 翌年、ジョアン1世は、リスボン郊外の野において、5千の市民軍を率いて、2万の騎士と1万の歩兵で構成されたスペイン軍を迎えうって、再度、敗走させた。

 こうして、ポルトガルの2番目の王朝、アヴィス王朝が成立する。

 このあと、ジョアン1世は、大国スペインに備え、英国と同盟を結ぶ。この同盟は、以後600年間、破られることがなかった。彼はまた、英国王族から王妃を迎えた。

 この王朝の特徴は、第一に、王は、中小貴族や市民によって推戴されて王になったということである。第二に、その王を担いだ主勢力が船乗りや商人たちであったということである。ポルトガルは貧しい小国である。海商たちからの税金は、国家 (王室) 財政の大きな財源であった。

 ジョアン1世と英国から輿入れした聡明にして知的探求心の強い王妃フィリッパとの間に生まれた3番目の息子が、のちの「エンリケ航海王子」である。

 なぜ王子エンリケが、自分のロマンと国家の夢を重ね合わせて海洋に乗り出し、ついに「エンリケ航海王子」と呼ばれるようになったのか、という背景がここにある。

 (ポルトの街中で見かけたエンリケ航海王子と白い雲)

     ★   ★   ★

< 9月27日 >

 リスボンでの第1日目は、ネットで日本から申し込んでおいた「リスボン近郊日帰りツアー」に参加した。

 ドライバー (兼ガイド) のM氏は初老の大柄な男性で、このコースの行く先々で、「顔が利く」、という感じの人だった。

 このツアーのコースだが… 、旅の初日に、いきなり旅の佳境に入る。大航海時代の幕開けとなるヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を発見する旅に出たリスボン郊外の埠頭・ベレン地区や、この旅の最重要目的地の一つロカ岬も、この日のコースに入っている

 まず、リスボンの中心街にあるアルカンタラ展望台へ。この展望台は、自力で行くとすれば、リベルダーデ通りという華やかな大通りから、ケーブルカーに乗って上がった高台にある。

 美しい小公園になっていて、リスボンの街並みやテージョ川を望むことができた。このような展望の好い所は、リスボンの街中のあちこちにある。とにかくリスボンは丘の街なのだ。

      (アルカンタラ展望台)

        ★

< 4月25日のカーネーション革命のこと >

 車はリスボンの市街地を抜け、河口の方へ走って、テージョ川に架かる「4月25日橋」を渡った。

 さらに対岸の丘をのぼって行き、「クリスト・レイ」に着く。 1959年に完成した、高さ110mのキリスト像である。

 

   (クリスト・レイ)

 ここから、さっき渡ってきた「4月25日橋」を望むことができる。

   ( 4月25日橋 )

 ドライバー兼ガイドのMさんは、ポルトガル人として、この橋に感動してほしいようだったが、瀬戸大橋を見慣れた日本人の眼には、珍しい景色ではない。ただ、一片の雲もなく晴れて、気持ちが良かった。上を車、下を鉄道が通る。3日後、サグレスへ行くときは、列車でこの橋を渡って、南へ南へ、ポルトガルの最南端を目指すことになる。

 対岸の、橋の左手一帯が、テージョ川の河口近くに開けたベレン地区の埠頭  である。

 旅行に出る前に、ポルトガルを舞台にした映画がないかと探し、1本だけ見つけた。『リスボンの風に吹かれて』。サラザールの独裁体制と闘う学生たちの政治闘争と愛が回顧的に描かれていた。

 1966年の開通時、この橋は「サラザール橋」と呼ばれていた。

 ポルトガルの3番目の王朝は1910年に倒れ、以後、共和制になる。だが、共和制は機能せず、1932年からはサラザールが首相になり、独裁体制を敷いていった。この体制は、隣国スペインのフランコ体制に似て、第二次世界大戦を間にはさんで、40年間も続いた。その間、国内にあっては独裁と弾圧があり、外にあってはポルトガルの植民地ギニアの独立運動に対する戦争が泥沼化し、経済的にも西欧の最貧国になっていった。

 しかし、ついに1974年4月25日におこった青年将校たちによる無血クーデターによって、「20世紀最長の独裁政権」は終わりを告げる。「カーネーション革命」と呼ばれる。新政権は、秘密警察の廃止、検閲の廃止など、矢継ぎ早に民主化政策を実施して、「ポルトガルの春」と呼ばれた。

 こうして、「サラザール橋」は、「4月25日橋」と名を変えた。

        ★

 ドライバー兼ガイドのMさん。正規のガイド資格は持っていないらしく、説明は車の中だけである。

 運転しながら英語でガイドしてくれるのだが、熱が入ると、前方を見ず、後部座席の我々の方を向いて、時には両手を振り回して熱弁をふるう。私には、フロントグラスの向こうに、二人乗りの自転車がふらふらと走っているのが見えて、とても気になる。速度を落としているが、それでも車はどんどん近づく。わからない英語の説明よりも、そちらの方が何十倍も気になって、我慢できず、思わず「アブナイ」と叫びそうになった。

 とはいえ、ヨーロッパのどこの国のタクシーも、時には乗り合いバスでさえも、我々日本人からみれば恐怖のスピードで疾走するのに、Mさんは決してムリな走り方はしない。見学地に着いて車を降りるときなども、客の安全を気遣って、自分が先に降り、必ず客の安全を確保する。

 世界的な現地ツアーのサイトに登録されている、リスボン出発の日帰りツアーの中から選んだのだが、たぶん、そのサイトに登録している一つ一つのツアー商品の多くは、個人営業なのだろう。もし人身事故でも起こしたら、二度と立ち直れない。私がこのツアーを選んだのも、行先がマッチングしていたこともあるが、過去にこのMさんのツアーに参加した日本人が多く、体験談を読むと、評判が評判を呼んでいることがわかるからだ。

 「あれがリスボンのサッカー場だ」。

 「ポルトガル人はみんなサッカーが好きだ。ポルトガルは小国で、大航海時代の一時期を除いて、何も自慢できるものがない。今年、サッカーのヨーロッパ大会で、ポルトガル代表チームが優勝したんだ。あのときは、勝ち上がるごとに、昼も夜も、国民みんなが息をつめるようにして毎日を過ごしたよ。ポルトガルにはサッカーしか、ないんだ」。

 サッカーで大騒ぎするイタリア人やイギリス人やフランス人と違って、息をつめるようにして日々を過ごした小国のポルトガル人に、胸がきゅんとなった。厚かましく、傍若無人な輩はいやだ。

 「サッカーのことは詳しくないが、ロナウドは知っている。長身で、ハンサムで、身体能力が高く、しかも、素晴らしい技術をもっている。なにより、フェアーでクリーンな選手だ。『バルセロナ』にもすごい選手がいるが、『レアル』のロナウドが一番クールだ」と言うと、Mさんは大きくうなづき、「クリスティアーノ・ロナウドはポルトガル代表チームのキャプテンだよ」と言った。

 やがて、川か海か、水際に公園が広々と広がる地域に入った。駐車場スペースは観光バスや乗用車でいっぱいだ。世界からの観光客が駐車場から群れをなして歩き、あるところでは、長蛇の列ができている。ジェロニモス修道院の華麗な姿も見えた。

 ベレン地区の埠頭にやってきたのだ。

 

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