( バターリャ修道院の回廊 )
バターリャ修道院は「アルジュバロータの戦い」に勝利した記念として、1388年に建設が開始された。ポルトガルの独立を象徴する建造物である。世界遺産。
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< 9月28日 >
リスボンの第2日目も、「少人数バンで行く日帰り現地ツアー」に参加した。
今日のコースは、昨日より遠い。リスボンから北へ約100キロの辺りに、ポルトガルを代表する名所旧跡が散らばっている。そのうちの4カ所をまわるのがこのツアー。4カ所相互間の公共の交通機関による連絡は弱いから、幾つかまわりたければ、ツアーで行くしかない。
4カ所とは、① 聖母出現の地・ファティマ ② 世界遺産のバターリア修道院 ③ 大西洋のリゾートの村・ナザレ ④ 中世のままの小さな町・オピドスである。
今日もまた、雲一つない青空だ。雲一つない青空は、面白い写真にならない。とは言え、旅人にとって、曇天や雨の日よりずっと心楽しい。
集合場所は、ホテルから地下鉄に乗って2駅目のレスタウテドーレス広場。ロシオ広場のすぐ北にあって、リスボンの中心街である。
( レスタウテドーレス広場のオベリスク )
広場に記念碑 (オベリスク) が建っている。
16世紀の後半、隣国スペインは、ハブスブルグ家のカルロス1世、続くフェリペ2世の時代に最盛期を迎え、「太陽の沈まぬ国」と言われた。このころ、ポルトガル王家とスペイン王家の婚姻関係が深まり、また、ポルトガル商人たちの市場拡大の欲求もあって、ポルトガルは超大国スペインの統治下に入る。スペイン・ポルトガル同君連合の時代である。
この間、フェリペ2世はポルトガルに対して寛大で、ポルトガルの自治を認め、ポルトガル商人に優遇措置を与えて、両国の関係は良好であった。ところが、フェリペ3世の時代になると、ポルトガルに対する抑圧が始まる。
そして、1640年、貴族、市民たちが立ち上がって、ポルトガルの再独立を勝ち取り、60年続いた同君連合の時代は終わりを告げた。
このときの勝利を記念して建てられたのが、この広場のオベリスク。ポルトガルの3番目の王朝、ブラガンサ王朝の始まりでもある。
ただ、ポルトガルが世界史に輝いたのは、大航海時代を切り開いた第2王朝の一時期に過ぎない。隣の大国スペインの圧迫もあったが、海外に植民地を経営する時代になると、もともと人口の少ない小国のポルトガルは、オランダ、続いてイギリスに、追いつき、追い抜かれて、国力は衰えていった。
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< ツアーの参加者たち >
欧米人はフレンドリーだ。こういうごく少人数のツアーに参加すると、誰からともなく、にこやかに、「私、オーストラリアからよ。よろしく」という程度の自己紹介をしあって、互いに顔ぐらいは覚え、親近感をもって、一日を過ごす。もっとも、最初に口火を切るのはたいていマダムたちで、ムッシュが閉じこもりがちなのは、日本だけではない。
参加者は、北米、オセアニアが多く、もちろん日本人はマイノリティ。
日本人の年配者は、最初から日本発のツアーでやって来る。学生など若い世代の個人旅行の日本人は、おカネを節約するから、こういう現地ツアーにも入らない。
EU圏の人はいない。EU圏の人たちにとって、ポルトガルは国内旅行なのだろう。
面白いのは、こういうとき、アメリカ人はいつも、例えば「カリフォルニアから来た」と言う。「私たちはカナダよ。よろしく」。「私はカリフォルニア」といったぐあいで、「アメリカから」 とは言わない。USAというのは「人工的」なもので、彼らにとってネイティブなのは、あくまでカリフォルニアなのだろうか。
時間になったのにツアーはスタートしない。車に入り、めいめい座席に座って待つが、このツアーを主催するドライバー兼ガイドの若者は、車の外に立っている。やがて、15分も遅刻して、若いカップルがやってきた。やっぱり アメリカ人だ。
あのカップル、行く先々で集合時間に遅れたらイヤだなと思って見ていたら、カップルが乗車する前に、ドライバー兼ガイドの若者が注意を与えた。それは、車の窓越しに見て、感じでわかった。「他のお客の迷惑になるから、今日一日、集合時間はぜひ守ってほしい」。客に対する礼を失しないように、しかし、笑顔は見せずに、きっぱりと。あの若者、いい感じだ。
このあと、行程のなかで3回の集合時間があったが、このカップルを除く全員が、5分~10分前には車に帰って、めいめいの座席についた。
このカップルは、── 毎回、時間ぎりぎりに帰ってきた。ぎりぎりだが、遅刻はしなかった。
ドライバー兼ガイド氏は、なかなか姿を現さない2人を心配して、毎回、集合時間が迫ると、付近に捜しに行った。みんなも、心の中ではらはらした。しかし、一度も遅刻しなかったのだから、いい若者たちなのだ。一日が終わる頃には、みんなこのカップルを受け入れていた。
ドライバー兼ガイド氏は、30代?? 快活でしっかりした好青年だ。「ジョアン」と名のった。5千の市民軍を率いて、3万のスペイン正規軍を打ち破り、推戴されて国王となった、エンリケ航海王子の父、ジョアン1世 …… と同じ名だ。多分、ポルトガルには多い名前なのだろう。
< 聖母出現の地・ファティマへ >
車は高速道路に入り、1時間半ほどでファティマに到着した。
旅に出る前、ネットで、このジョアン君のツアーに参加した日本人の感想を読んだ。評価は高い。ジョアン君も好感度大だ。
ただほぼ全員が、1日に4カ所も回るせわしない日程なのに、ファティマで時間を取り過ぎだ、いや、ファティマはカットして残りの3つに時間を充ててほしかった、などと書いていた。
私も同感であった。
しかし、このツアー参加者は、日本人だけではない。中心は欧米人であり、そのなかの相当数の人たちは、ポルトガルまで来た以上、ぜひともファティマに行きたいと思うのだろう。なにしろ、ここファティマはバチカン公認の巡礼の聖地であり、巡礼でここを訪れれば、免罪されて、裁きの日に天国に行くことが約束されるのだから。 (この旅行で、ファティマについて調べるまで、バチカンが未だに「免罪符」を「発行」しているとは、知らなかった。21世紀ですぞ)。
ここは、もともとオリーブの木が点在する寒村だったそうだ。
今は、10万人を超える信者が集まる広場があり、広場の中央にキリストの像が立ち、周りには高さ60mの塔やパジリカ (聖堂) が建っている。
( 塔とパジリカの建つ大広場 )
しかし、ヨーロッパ旅行で、歴史ある大聖堂や人里離れた所にある鄙びた修道院を見てきた目には、この白っぽく新しい建造物は、まるで新興宗教の聖地のようで、妙な違和感を覚えた。
以下の話は中世の出来事ではない。…… 20世紀の話だ (念のため)。
第1次世界大戦中の1917年5月13日、この村に住む3人の子どもたちの前に、聖母マリアが現れた。毎月、13日に、ここで私と会ってほしい。
映画『汚れなき悪戯』のようなメルヘンチックな話ではない。
子どもたちと聖母マリアは、それから何回か会い、話はすぐに広がり、多くの人々も、司祭たちも集まり、事の次第はバチカンにも報告された。そういう大騒ぎのなかで、奇跡が起こり、予言があった。
3回目の7月13日には、3人の子どもたちは「永遠の地獄」の様子を見らせれ、恐怖に震えた。
10月13日には、噂が広まり、聖母を求めて集まった7万人の群集が、太陽が急降下したり回転するという幻覚を見た。群集の中には整理に当たった警察官も、取材に来た記者たちもいて、報道もされた。 ( 日本の神さまも岩戸の中に隠れて、世界が真っ暗になったこともあるが、あれはあくまで神話の時代の話だ )。
また、水源のないところから水が湧き、その水を飲むと病が治癒した。
予言があり、バチカンに伝えられた。
第一次世界大戦はまもなく終わるが、人間たちが神に背き続け、罪を続けるなら、さらに大きな大戦が起こり、多くの人々が地獄に堕ちるだろう。
ロシアで起こった革命が、世界に誤謬をまきちらし、大きな災厄を起こすだろう。教皇以下全ての信者は、ロシアのために祈れ。
第3の予言は、1960年まで公表してはいけないとされた。だが、バチカンは1960年になっても秘匿し続け、2005年になってやっと公表した。その内容は、1981年に起こった教皇狙撃事件が予言の中身であり、予言のお蔭で教皇は一命をとりとめ、犯人の背後の組織は壊滅し、核戦争なしに冷戦が終わった。ゆえに、この神の摂理に感謝せよ、というものであった。
もっとも、バチカンは第3の予言のあまりの恐ろしさに、未だ公表する勇気がなく、公表されたのは実は本当の予言の内容ではない、という声もある。
とにかく、ローマ教皇庁はこれら全てを奇跡として認め、ファティマを聖地とし、5月13日を「ファテマの記念日」とした。そして、この地に巡礼した者は「免罪」されるとした。
こうして、毎年5月13日には、広場は10万人もの信者によって埋め尽くされる。(何しろ、死後、「永遠の地獄」に落とされずにすむのだから、私も参加したいくらいだ )。
3人の子どもたちが聖母マリアに会った場所には小さな礼拝堂が建てられ、今日もロウソクの灯が絶えず、次々と司祭の説教や証しの言葉が語られている。
(出現の礼拝堂)
パジリカに行ってみたが、あっけらかんとして、見るほどのものはなかった。仕方なく広場の片隅の日陰に腰を下ろし、集合時間まで、本を読んで過ごした。
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< ポルトガル独立の象徴・世界遺産のバターリア修道院 >
バターリャもごく小さな町で、修道院以外に観光するものはない。
「戦闘」という意味らしい。英語の「バトル」に通じるのだろう。
1384年、スペイン軍に包囲されたリスボン市は、アヴィス騎士団団長のジョアンをリーダーにして、スペイン軍を打ち破る。翌1385年、中小貴族やリスボン市民は、ジョアンを王に推戴して、再度やってくるスペイン軍に備えた。
同年の夏、ジョアン1世は、アルジュバロータで、5千の市民軍を率いて、3万のスペイン軍を打ち破った。世界の戦史上、「アルジュバロータの戦い」として有名らしい。
アルジュバロータは、修道院から南へ3キロほど行った所にある。
ジョアン1世の命により、この劇的な勝利とポルトガルの独立を神に感謝し、修道院建設が始められた。
建設は長期に及び、ある程度の完成を見せたのが130年後の1517年である。携わった建築家は実に15人。この建設の過程を通じて、ポルトガルの建築技術は西欧世界に追いついて行った。
1502年には、リスボンのジェロニモス修道院の建設が始められ、そちらにに全力を注ぐため、なお未完の部分もあったが、バターリャ修道院の建設は中止となった。
今は世界遺産であり、ポルトガルの独立を象徴する建造物である。
車を降りると、青空の下、目の前にバターリャ修道院の威容があった。
外壁の石灰岩は時の経過とともに黄土色に変色するそうで、風雪を経てさらに黒ずみ、外観からだけでも、歴史の重みが感じられた。
( バターリャ修道院の東側全景と騎馬像 )
広場の騎馬像は、ヌーノ・アルヴァレス・ペレイラ。
若いジョアン1世の下、全軍を指揮した司令官である。王も若かったが、司令官も、当時、若干25歳だった。その若さで、戦史に残る戦いをやってのけたのだから、ポルトガルの英雄である。
晩年には、妻に先立たれた後、財産をリスボンのカルモ教会に寄贈し、自らも僧籍に入った。もともと敬虔なキリスト教徒だったのだろう。
( 西側正面入り口 )
西側正面入口を入ると、そこは修道院付属の教会であった。
訪れる人は少なく、静けさのなかに、奥行き約80m、高さ32m、ポルトガルでは、1、2の規模という空間があった。
ゴシック様式で、簡素。この点、柱や壁の全面にレースのように彫刻の装飾が施さていれたジェロニモス修道院とは、全く趣を異にする。ジェロニモス修道院は貴婦人のようで、バターリャ修道院は、質実にして力強い騎士のようである。
内陣の奥にステンドグラスがあり、わずかに彩りを添えている。ポルトガルで最初のステンドグラスだという。
( 付属の教会 )
付属教会の脇に、もう一つ、やや小ぶり、円形の部屋があり、入り口に警備員が立っていた。「創設者の礼拝堂」と呼ばれるパンテオン形式の礼拝堂で、ジョアン1世の家族の墓所になっている。
( 創設者の礼拝堂の棺 )
窓から差し込む、明るく穏やかな光が空間に満ち、ジョアン1世と、英国から嫁いできた王妃フィリッパの棺が中央に置かれていた。周囲の壁には王子たちの棺も安置され、仲のよい家族が団らんしているような雰囲気があった。
ジョアン1世の墓には、彼のモットーであった「For the better」という言葉がポルトガル語で繰り返し彫られ、フィリッパ王妃の墓には、彼女がモットーとした「I'm pleased」という言葉が彫られている。それぞれに素晴らしい言葉だ。
王子たちの棺は、やや小さい。そのなか、エンリケ航海王子の棺をさがしたが、どれかわからなかった。
修道院建築の華は、回廊である。「ジョアン1世の回廊」(或いは「王の回廊」) は、やはりゴシック様式の簡素な回廊で、格子には、100年後にマヌエル様式の装飾が付け加えられている。
中庭を隔てて聖堂も見え、いかにも中世的な風景である。
(王の回廊から中庭を望む)
( 黒ずんだ回廊の壁と中庭 )
「参事会室」と呼ばれる部屋に入ったとき、一瞬、はっとした。
人けのない部屋に、兵士が銃をもって左右に立っていた。ここは無名戦士の墓である。この修道院がポルトガルの独立の象徴ならば、無名戦士を葬るにふさわしい。
この部屋は柱が1本もなく、交差リブヴォールトによって支えられている。そのため、建設当時は、天井が落ちるのではないかと騒がれた。それで、ここを設計した建築家は、この部屋に3日3晩座り続けて、安全を立証しなければならなかったという。
ステンドグラスが美しい。宗教を超えて、美しい。
( 無名戦士の墓を守る兵士 )
(参事室のステンドグラス)
「未完の礼拝堂」が面白い。
ジョアン1世のあとは、その長男で、エンリケ航海王子の兄であるドゥアルテ1世が、王位を継いだ。
彼もまた、この修道院に家族の墓所をつくりたいと、この礼拝堂を建設を始めた。だが、結局、未完に終わり、王と王妃の墓だけがある。
未完のため、天井がなく、青空が見えているのが、面白い。
( 未完の礼拝堂 )
一巡して、外に出ると、アルヴァレス・ペレイラの騎馬像が、青空を背景にカッコよく立っていた。
( アルヴァレス・ペレイラの騎馬像)
ジェロニモス修道院は「華麗」という言葉がふさわしかった。
一方、バターリア修道院は、中世的で、簡素で、重厚で、歴史と文化を感じさせ、ジェロニモス修道院よりも、心ひかれるものがあった。ポルトガルの歴史のうちでも、若々しく、颯爽として、未来に向かって輝いていた、そういう時代を象徴する修道院である。
観光客が列をなすということもなく、静かな雰囲気で鑑賞でき、余韻が残った。