ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

国東半島から日本の未来を見る(2/2)…国東半島の旅続編

2015年03月23日 | 国内旅行…国東半島の旅

 「アキ工作社」の話から導き出される3つ目の教訓は、これからの事業経営者は、人々の多様な働き方を許容し、これを生かしながら、最大限、「生産性」を上げるよう、大胆な改革を進めていかなければならないということである。

 「アキ工作社」では、総労働時間はそのままだが、週休3日制を導入して、今までより生産性を上げることができた。固定観念に囚われず、おそらくは女性の比率の高い従業員の家庭生活や、農作業、或いは地域活動参加に配慮した労働時間を設定したのだ。

 今、日本は人手不足に見舞われている。アベノミクスによって雇用が増えたという側面もあるかもしれないが、何より、新卒の若者の数より、退職する高齢者の数の方が多いのだ。特に、地方で、そして、冨山氏の言う「ローカル産業」(サービス産業の分野)で、人手不足は深刻なのである。

 そもそも、少子・高齢化、人口減の進んでいく日本にあって、経済力を維持し、さらに質の高い豊かな社会をつくっていくには、移民を大量に受け入れるか、そうでなければ高齢者と女性の労働参加率をどんどん高めるしか方法はない。そして、日本では、女性の労働参加率は極めて低いのである。

        ★

 東大や京大を出た、頭脳明晰で、やり手の女性は、今や男の中にいる程度の比率でいる。体力の衰えてきた部長さんや課長さんよりパワーのある女性もいる。普通の男程度の女は、普通にいる。

 かつて、職場の女性が子どもを産んで産休を取ったり、子育てのために育児時間を取ると、周りの男たちは顔をしかめて、「だから女はダメだ」と言ったものだ。

 しかし、今や、あのユニクロの柳井氏が、産休を取得し、さらに育児のために時短勤務する女性も、有能な人は、子育てが終わったら昇進できる環境を整える、とした。また、グループの執行役員も、今、女性は1割だが、将来は5割以上にしたいと言った。

 子どもを産み、育てることは、仕事の能力とは別のことだ。そもそも子どもを産み、育てることは、私的なことであると同時に、社会にとって必要欠くべからざることなのだ。

 早い話、「だから女はダメだ」と言ったおじさんの退職後の年金を払うのは、次の世代である。次の世代がいなければ、年金の払い手はいない。子どもは、そのおじさんの未来にとって、欠かせない存在なのだ。

 とにかく、少子・高齢化の日本社会では、アマテラスを拝むように、出産・育児の時期の女性を大切にしなければならない。

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 もう一翼をになうのは高齢者。 

 今の日本人は、体力仕事を除けば、ふつう、70歳まで働けると思う。

 ただし、仕事だけが人生ではない。まだ体力のあるうちに、仕事以外で、やってみたいことがある人もいるだろう。

 私の場合、西欧の歴史・文化を知りたかった。知ってどうするわけでもないが、西欧を知ることによって、日本とは何かということを、或いは、日本人としての自分のアイデンティティをつかみたかったのかもしれない。

 見聞を深めるための海外旅行をするには、それなりの体力・知力がいる。それを失ってからでは、おそい。オーナーからはもう少し働いてほしいと慰留されたが、固辞した。

 もし、年間30日の年休を認めようという契約でもしてくれれば、給料はどうでもいい、私は、もう少し仕事を続けたろう。通常の年休+10日間である。30日あれば、年2回、ヨーロッパを旅することができる。そして、仕事は仕事で、やりがいがある。

 P,F,ドラッカーは、「仕事オンリーでは、組織だけが人生であるために、組織にしがみつく。 空虚な世界へ移るという恐ろしい退職の日を延ばすために、若い人たちの成長の妨げとなってでも、自らを不可欠な存在にしようとする」と述べて、仕事オンリーの生き方に警告を与えている。

 しかし、また、「人は皆同じように老いるのではない。エネルギッシュに働くことはできなくても、判断力に狂いがなく、20年前よりも優れた意思決定を行う人がいる」と言って、高齢者の処遇に配慮するよう、忠告を与えている。

 私の場合、当時、仕事への「挑戦」の意欲はあったし、意思決定において深みを増している自分を感じてはいたが、仕事にキリをつけた。そのことを後悔はしていない。

 その後の、もう一つの「挑戦」は、組織のためではなく、自分の満足を求めての人生の旅だったが、楽しかった。その旅も、関心が向かうところ、だんだんと、西欧が「従」に、日本が「主」になってきている。そして、ますます面白い。

        ★

 職場に、当たり前のように、出産、育児期の女性(或いは、その夫)がいる。

 高齢者も働いている。

 もしかしたら、優秀な頭脳をもった外国人も、日本の企業にやってきて働くかもしれない (いわゆる「移民」ではない)。彼等は、妻子を伴ってやってくるだろう。外国では、妻も自分を生かしたいと思って働く。その権利を保障することも必要だ。

 職場は、単純・画一的ではなくなってくる。多様性を帯びてくる。

 しかも、人手は足りない。

 そうなると、「生涯雇用・定年制 ⇒ 年功序列賃金 ⇒ 長時間労働 (残業 / サービス残業 ) ⇒ 男社会」という、19、20世紀型の働き方は崩れてくる。

 8時間労働の人以外に、6時間労働の人、職種によっては夜勤の人、週休2日の人、週休3日の人、産休休暇を取る人、高齢者研修休暇を取る人、さらに、時間に縛られず、採用労働制で働く人もいるかもしれない。

 そうなると、それらを調整しながら、しかも、今まで以上の利益を生み出す、優れた事業経営者やマネージャーが必要になってくる。彼らの能力が、組織の命運をにぎるようになる。

 それは、プロ野球の監督に似ていなくもない。

 投手も、今では、先発、中継ぎ、抑えで構成される。さらに、それぞれの投手のカテゴリーの中に、能力の違いがあり、個性の違う選手がいる。

 野手も、レギュラーと、レギュラーに故障あればいつでもこれに代わることができる厚い選手層が必要となる。さらに、チャンスに登場する勝負強い代打、確実にバンドし、或いは、一発で盗塁を決める選手、それに守備固めの選手もいる。外国人のホームランバッターもいる。

 こうした選手を、重層的に抱えているチーム、言い換えれば、選手層の厚いチームが、長い1年間を戦い抜き、優勝する。

 そういう多様な選手層の中心にいて、求心力となり、チームワークをつくり、彼等を使いこなす監督が、名監督になる。

 現代野球とは、そういうものだ。

 もちろん、企業戦士型の働き方、即ち、「⇒ 長時間労働  (残業 / サービス残業 ) ⇒ 男社会 」 は、もう古い。未だに、そういうやり方が「日本文化」だと主張する人がいるが、日本の長時間労働は世界のなかで突出しており、一方、1人当たりの労働生産性は、先進国の中で最低である。

 疲れた男たちが、来る日も来る日も残業して、効率は悪く、家族そろって晩ご飯を食べることはほとんどなく、妻はいらいらし、子どもは不登校になり、そして、人口は減るばかりだ。世界はもっとスマートに、もっと先を行っている。

 「 すべての人が、働き方を見直し、生産性を高め、ワーク・ライフ・バランス ( 仕事と生活の調和 ) を実現すべきだ 」 (2/7 讀賣・八代尚宏東京基督教大学教授)。

 「アキ工作社」の週休3日制は、そういう試みの第一歩である。

    ★   ★   ★

 若きスキピオが、並み居るベテランの議員を前にして、ローマ元老院で行った演説は、歴史的に何かを変えようと志す人に、勇気を与える。

 「私の考えでは、これまでに成功してきたことも、必要となれば変えなければならないということである。私は、今がその時であると考える」

 今までやってきたことが間違いだったというのではない。

 しかし、時の流れの中で、発想を変えなければならない時(節目)がある。

 そのとき変えることができなければ、これまでは立派な会社と尊敬されていた企業も、評価の高かった大学や病院も、ローマのような覇権国家でさえも、衰亡に向かって転げ落ちていく。一度、落ち始めると、そのスピードは、現代になるほど、速い。

 社会や組織が発想を変えられないのは、過去の成功体験が邪魔するからである。過去の成功体験を主張して、現状を守ろうとする既得権益集団の力が大きすぎて、彼らに改革をつぶされるのである。(完)

 

 ちょっと、書き尽くし感があります。それに、私も、多少は、やらなくてはいけない仕事もあり、よって、このブログの執筆は、しばらく途切れることになるでしょう。   

 でも、B型体質ですから、いつ復活するかはわかりません。どうかお見捨てなく、のんびりと待ちながらも、時折は開いて、確かめていただけたら、ありがたいです。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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国東半島から日本の未来を見る(1/2)…国東半島の旅続編

2015年03月21日 | 国内旅行…国東半島の旅

 先の旅で、神と仏の里・国東半島のローカルで民俗的な文化遺産を訪ね、また、小さな気品のある城下町を歩いて、このような村や町がずっと健在であってほしいと心から願った。

 だが、今、日本の地方都市にはシャッター街が増え、農村でも「限界集落」と言われる村が増え続けているという。

 だからと言って、大都市圏に住む人々の暮らしが豊かになっているわけではない。

 日本の経済は、右肩下がりでどんどん縮んできた。そこへ少子・高齢化、人口減が拍車をかけている。

 国会は揚げ足取りの議論ばかりで、日本経済再生のための国家戦略を立て、断固としてこれをやり抜こうという政治家は長く出なかった。

 こうして、「失われた20年」が続く間に、韓国も中国も伸びた。つい15年ほど前に、「中国が日本に追いつくなんて、100年早い。その間に中国も民主化されるよ」などと、多くの「識者」と言われる人が楽観的なことを言っていた。

 もう待ったなしである。後世の歴史家から、「失われた20年とは、発展の条件を蓄積した20年であった」と言われるようにしたいものである。そして、その芽は、政治にも、企業のなかにも、農村にも、若者の意識のなかにも、生まれてきているように思う。

 ただし、そのためには、日本も、少なからず変わらなければならない。

 「国東半島の旅」を書いている間に、国東市の小さな企業の話が新聞に載った。読売新聞の「職の風景」という連載の第7回目(1月10日)である。以下、全文を引用する。

        ★

 大分県国東市の山あいにある「アキ工作社」は、切り出した段ボールを組み立て、オブジェを作るためのキットを売る会社だ。社屋は廃校になった小学校校舎を改造した。

 「パソコンで立体イメージを作り、細密レーザーで段ボールを部品の形に正確にカットする。こんなに精巧なものを作れるのは、ウチぐらいでしょう

 地元出身で、美術大卒の松岡勇樹社長(52)は話す。国内外にファンが広がり、売上げの2割を海外が占めるまでになった

 ユニークなのは仕事だけではない。週休3日制をとっている。社員13人の勤務は1日10時間で、月曜日から木曜日まで。無駄な会議はやめ、社員のやる気は上がった。2013年6月の導入以来、休みが増えたのに、売上高は3割近く伸びた。

 「都会時間と同じ働き方では、地方での暮らしは成立しない。効率化や時短を進め、その分、地域活動や育児に充ててもらう

 地方ならではの働き方はないか。その答えが「週休3日」だった。

        ★

 国東市の山あいにあるという、従業員13人の「アキ工作社」の話に、いくつかの教訓を見出すことができる。教訓と言っても、それはごく当たり前のことだが、「アキ工作社」は、そのごく当たり前のことを、行動に移しているから偉いのである。

 一つ目は、販路を海外に求める、ということである。

 人口がどんどん減っていく日本で、顧客を日本に限定していたら、「縮んでいく」だけである。一方で、世界はグローバル化の時代だ。

 従業員わずか13人という日本の片田舎のローカルな企業が世界に打って出て成功しているのだから、やればできるのだと思う。小さくても、「モノ」づくりの世界で生きていく以上、今の時代、戦いの舞台はグローバル世界なのだ。

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 二つ目は、販路を世界に求めるためにも、「アキ工作社」が「こんなに精巧なものを作れるのは、ウチぐらいでしょう」というように、他に真似のできない商品を作ることである。

 1時期と比べると、今、驚くほどの円安である。1商品当たりの利益が大きい。輸出企業にとって、チャンスである。こういうとき、昔の日本の企業なら、値下げをした。値下げをして、外国企業との競争に勝とうとした。

 今、日本の多くの企業は、円安でも値下げしない。なぜか?? 韓国にも中国にも作れないモノを作って、売っているからだ。他に真似のできない商品に特化しているなら、値下げする必要はない。

 商売で大切なのは、安売り競争よりも、ブランド化競争である。

 今、韓国の企業が猛烈な安売り競争に打って出て、かえって苦戦している。安売りで日本企業を追い上げるつもりが、逆に、待ってましたとばかりに、中国企業に追い上げられているのである。

 欧米で、トヨタ(日本車)を買う人は多いが、安いから買っているわけではない。欧米車と比べても、燃費が良く、何よりも故障が少ないからだ。

 今、冨山和彦『なぜローカル経済から日本は甦るのか』(PHP新書) を読んでいる。冨山氏によると、かつて、日本は、「モノ」づくりをする大企業と、その下請けの中小企業に、ヒト・モノ・カネが集積されていた。しかし、周りを見回してください。「モノ」づくりの大企業・中小企業で働いている人が周囲にどれだけいますか ? と、冨山氏は言う。

 今、日本人の7割は、「ヒト」を相手にする産業(サービス産業)で働いて、暮しを立てている。それを冨山氏は「ローカル産業」と言う。従業員が1万人いるチェーン店でも、地方銀行でも、バス会社でも、地域に密着し、「ヒト」を相手にしている産業は、「ローカル産業」である。地味だし、ビル・ゲイツのような世界的な大金持ちにはなれないが、国体の県代表にでもなれば、もうりっぱな優良企業である。

 他方、「モノ」づくりの世界は、そうはいかない。「モノ」づくりの世界は、グローバル経済のただ中にある。大企業であろうと、中小企業であろうと、「モノ」づくりの世界でやっていくということは、オリンピックに出場するようなものだ。ただ、オリンピックと言っても、花形の100m走もあれば、もっと地味で競争相手の少ない種目もある。しかし、いずれにしろ、出場する以上、メダルを取るぐらいでないと、生き残れない。世界20位ならたいしたものだと思えるが、その分野で世界20位の企業は、生きているのが不思議なくらいの会社である。いつ吸収合併されてもおかしくない。下手をすれば、吸収合併してくれる相手もなく、倒産の日が迫っていることに気づいていないだけかもしれない。

 以上は、冨山氏の著書の内容の一部だが、「アキ工作社」も「モノ」づくりで生きている以上、グローバル世界に打って出ている。韓国、中国あたりから、いつライバル企業が出てくるかわからないが、「こんなに精巧なものを作れるのは、ウチぐらいでしょう 」という会社だけが、生き延びるのである。

 ローカルな地にある、立派なグローバル企業である。( 続く )

 

 

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藩風が町の気品として残る城下町・杵築(キツキ)…秋の国東半島石仏の旅10

2015年02月12日 | 国内旅行…国東半島の旅

  (「きものが似合う歴史的町並み」第1号認定 )

3万2千石の城下町 >

 大分空港は国東半島の東部にあり、伊予灘の海に臨む。杵築(キキツキ)市は、空港のすぐ南隣に位置する小さな城下町である。

 杵築城は、室町時代に、木付氏によって築城された。

 戦国時代、木付氏は大友家臣団の一角を成し、宗麟の時代に島津氏に府中まで攻め込まれたときにも、この城を死守したという。

 その後、秀吉の時代に、家は断絶した。

 江戸時代は、杵築松平藩3万2千石の城下町だった。

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文化は街並みに表現される >

 小さいが、気品のある城下町である。

 東西に延びる高台が、平行して町の北側と南側にあり、その2つの高台に武家屋敷が並ぶ。

 2つの高台に挟まれた谷間には、町家の街並みが続く。「谷町」である。

 高台の武家屋敷町と町家の谷町とを結ぶのは、坂。それぞれ趣を異にする20もの坂道があり、江戸時代の面影を残して風情がある。

 市は、「坂道の城下町」づくりに取り組んできた。

 例えば、武家屋敷街の一角に能見邸がある。かつて、能見家は藩主の一族で、名家であった。市は、総費用7千万円をかけてこの屋敷を大規模改修し、建築当時の姿がよみがえった。

 杵築を歩けば、江戸時代の城下町がいかに美しかったか、想像できる。その美しさは、西洋的な美の基準にはなく、しかし、西洋人も美しいと感動する美しさである。

 よく、日本は木の文化であるから、石の文化であるヨーロッパのようには、古い美しい街並みは残らないのだ、と言われる。だが、伊勢神宮も、出雲大社も、法隆寺も、古代の姿そのままで残っている。ヨーロッパに、古代の姿そのままに残っているものはない。アテネのアクロポリスの丘の神殿も、ローマのコロッセウムも、廃墟として残っているだけだ。発想を変えれば、木の文化も、長い歴史を歩むことができる。

 市民が誇りに思えるような美しい街並みを残すには、まず、わが町を美しくあらしめたいという市民の強い「意志」がなければならない。自利ばかり追求せず、公のためには多少の私的不便も我慢し、また、公のためには必要な税金も払うということ、つまり、市民が「市民」にならなければ、美しい街並みは残らない。このことは、「フランス・ゴチック大聖堂の旅 10」の「大聖堂はローマ文明の上に、自由は市民精神の上に」のなかで述べた。

 文化とは、そこに暮らす人々のライフスタイルであり、生活の中から生まれるものの見方、感じ方、価値観であるから、それはまず人々の暮らす街並みに表現される。 

 今の美しいパリの街も、何世紀か前には、古く、汚れた、不衛生極まる、石の廃墟のような街だった。

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武家社会の教養を感じさせるたたずまい >

 

    ( 静かな武家屋敷街 )

 武家屋敷街の中に、家老屋敷の「大原邸」がある。

 その説明の中に、以下の一節があった。

 「この建物は、江戸時代の文化や、武家社会の教養、人への気遣いといったものを感じたり、読み解くことができる空間である」。

 武家社会の教養や人への気遣いを感じさせる家々のたたずまい … それは、日本美の究極の姿かもしれない。

 藩校の門が、今、小学校の門になっているところがいい。

 江戸時代のすばらしさは、どの藩も藩校をつくり、競うように優れた学者を招き、或いは、自藩で養成して、藩士の子弟の教育に力を注いだことである。藩士ばかりでなく、藩によっては、杵築もそうだが、一般庶民にまで藩校の門戸を開いた。

 そういう藩風が今も残って、町の気品となっている。要所要所につめるボランティアガイドの控えめな説明の仕方にも、町の気品がにじみ出ているように思う。

         ★

「坂道の城下町」づくりをめざして >

 「番所の坂」は、竹林や樹木の陰影が濃く、江戸時代そのままの風情がある。 城下の入り口にあり、坂の上に番屋があった。

        

  ( 陰影が美しい「番所の坂」 )

   この町の20もある坂のうち、「表玄関」級の坂は、「酢屋の坂」である。展望が開けていかにも明るい。坂の上から、石段を降りながら、谷を隔てた向かいの登り坂まで、綺麗に見える。坂の名は、坂の下に酢を商う商家があったことに由来するらしい。名の付け方も、なかなかよい。

 「谷町」の大通りには、大衆演劇の殿堂「きつき衆楽観」もあった。

    ( 「酢屋の坂」と商家の並び )

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着物が似合う歴史的町並み >

 貸衣装屋さんで着付けをしてもらって、和服で、時代劇のロケに使えそうな雰囲気の街並みを歩くことができる。和服を着ると、観光施設の入場料が無料になるそうだ。市は、和服で歩きたい町づくりを目指してきたが、「きものが似合う歴史的町並み」の第1号に認定された。                

     ( 着物の二人 )

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[ 旅の終わりに ]

 山腹や山裾に今も残る六郷満山の寺や社。磨崖仏や石仏たち。そこには、それらを守り続けてきた人々の営みがある。

 古代からクヌギ林とため池を組み合わせて田を作り、今や、世界農業遺産に認定された田園風景がある。案山子で物語の世界をつくる遊び心が楽しい。

 ひっそりと気品のある城下町もあった。けばけばしいものは何もない。

 小さな旅であった。だが、地域の歴史と文化を大切にしながら、それを観光にも生かし、産業にもし、一生懸命、村づくり、町づくりをしてきた人々の息づかいを感じる旅でもあった。

 このような取り組みの結果、この地方の町や村が生き残れるのかどうか、私にはわからない。長年に渡るデフレ経済、少子化・人口減、右肩下がりの日本の社会のなかで、その取り組みは、いかにも地味に見える。

 しかし、そこには、日本の心があり、地方の文化がある。時代の流れに流されてしまうことなく、町や村を支えて一生懸命努力してきた人々がいる。そうであるなら、その成功を祈らずにはいられない。そういう思いにさせられた旅であった。

 

  

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小さな城下町・臼杵 (ウスキ) …秋の国東半島石仏の旅 9

2015年02月03日 | 国内旅行…国東半島の旅

          ( 臼杵城址 )

偶然に立ち寄った飫肥(オビ)の町のこと >

 以前、ツアーに参加して南九州を旅したとき、昼食をとるために飫肥 (オビ)という小さな城下町に立ち寄った。名も知らず、読み方がわからなかった。

 だが、この小さな城下町は、そぞろ歩いていて心安らぐ、良い町だった。

 小高い丘に、鬱蒼と巨木が繁る城址があった。城址のそばの元藩校の跡は小学校となり、道を下って行くと、しんと静まりかえった武家屋敷の通りに出た。

     ( 飫肥城址の石段 )

 一軒の武家屋敷の門の前に昼食のメニューが出ていた。門を開け、玄関で声をかけると、奥まった座敷に通された。床の間のある部屋で、小さな庭を見ながら、昼メニューをいただいた。手ごろな値段にもかかわらず、見なれぬ郷土の素材を使った料理は美味しかった。世界からその存在を忘れられたような地方の小都市の心意気を感じた。

 それなりの年齢を重ねたら、「観光地」は次の世代の若者や外国人にまかせて、飫肥のようなクール・ジャパンを発見する旅も良いのではないかと思った。

 ちょっと立ち寄るのではなく、1泊或いは2泊する。

 観光は1時間で終わってしまうかもしれないが、武家屋敷の木立から聞こえる蝉の声を聞き、せせらぎの魚影を楽しみ、夕暮れには遠く寺の鐘の音を聞いて、私の時間を過ごす。

 飫肥を歩きながら、そういう旅もある、と考えた。

 でないと、日本の片隅で、こんなに風情のある町づくりに取り組んでいる人々の努力が報われない。

    ★   ★   ★

臼杵と大友宗麟のこと >

 臼杵も、小さな城下町である。臼杵磨崖仏は、その城下町の郊外にある。

 国東半島の南の付け根あたりにある県庁大分市から、さらに南へ下った臼杵も、古代から中世にかけて、臼杵氏という宇佐神宮の一族が荘園として切り開いたらしい土地らしい。もちろん、当時はまだ田畑とムラであった。

 「町」としての臼杵の礎を築いたのは、戦国の雄・キリシタン大名としても有名な大友宗麟 (1530年~1587年) らしい。

 その昔、大友氏は、相模の国の大友の荘を支配していた源氏の家人だった。九州にやってきたのは、平家の基盤であった豊後と筑後の守護職を、源頼朝によって命じられたからである。源氏の家人で九州にやってきたのは島津氏も同様で、大友や島津は、家康などより、かなり由緒正しい。

 その21代目。開明的な戦国大名であった大友宗麟は、歴戦の強力な家臣団に助けられて (臼杵氏も家臣団だった)、九州における勢力を拡張し、京の足利将軍家にも取り入りながら、最盛期には豊後、筑後に加えて、豊前、肥前、肥後、筑前の6か国と、日向、伊予の半国を領有する勢いだった。

 しかし、その後、九州に勢力圏を拡大しようとする中国地方の雄・毛利氏との再三の戦いや、新興の龍造寺氏との戦いなどで疲弊し、1576年には家督を長男に譲って、自らは三方を海 (臼杵湾) に囲まれた天然の要害である丹生島に城を築き、一旦は引退する。この城が臼杵城である。

 このとき、宗麟を慕う府内 (大分市) の商人たちが臼杵に移住し、城と武家の屋敷しかなかった臼杵の町づくりをした。キリシタンが多かったという。聖堂や修練堂なども造られ、当時のキリスト教文化を代表する町になった。

 引退した宗麟は、1578年に正式に洗礼を受けキリシタンとなった。南蛮貿易は国を富ますために必要だが、自らキリシタンになるとは!! 家臣団の反発は大きく、さらに、島津氏との戦いで決定的な大敗を期し、以後、国人の反乱が相次いで、大友家は衰亡の一途をたどるようになる。

 1586年には、島津氏に首都・府内を攻略され、宗麟は臼杵城に立て籠もって、滅亡寸前を何とか耐え抜いた。翌年、救援を求めていた秀吉軍20万の軍勢が九州攻めにやってきて、救われる。

 九州を平定した秀吉から長男・義統に豊後1国が与えられた。さらに宗麟にも日向1国をという話があったという。だが、病床にあった宗麟はこれを断り、まもなく病死した。

 なお、この地方の社寺を巡っていると、パンフレットの社史、寺史に、大友宗麟によって攻撃され、寺だけでなく、仏像までが破壊された等の記述がある。

 絶対的な神であり、一神教であるキリスト教、イスラム教、ユダヤ教は、世俗化しない限り、結局は、このような所業に出る。

 織田信長は比叡山を焼打ちしたり、一向宗に対して情け容赦のない戦いをしたりしているが、彼は天台宗や一向宗を宗教的動機から、或いは反宗教的動機から攻撃していたわけではない。古い権威と巨大な経済力と武力をもつ中世的権力に対して、天下統一のための政治闘争をしたのであって、その点、一神教を奉じ宗教戦争に出た宗麟とは違う。

 のち、大友家は断絶し、関ヶ原の戦いのあと徳川の世となって、臼杵の町には美濃の稲葉氏が入封する。5万石の小藩である。以後、明治維新まで、臼杵城は稲葉氏の居城であった。

    ★   ★   ★

臼杵散策 >

   ( 臼杵の静かな町 )

 この紀行の第1回に、元臼杵市長の言葉を紹介した。

 「静かな町づくりを始めたのに、観光客にたくさん来られたら困る」。(讀賣新聞11月9日・「名言巡礼」から)

 古いものを大切に残す。街並みも、町の文化も、そういう町にこそある人情も。

 臼杵の町を歩いていると、観光とともに、市民自らの文化活動や交流を大切にしていることが垣間見えた。

 お祭りだけでも、2月の「うすき雛めぐり」、7月の「うすき祇園祭」、8月の「うすき石仏火祭」、11月の「うすき竹宵」などがある。西欧でもそうだが、祭りはそれを担う市民共同体がなければ実行は難しい。

        ★

 通称「稲葉家下屋敷」は、廃藩置県によって東京に移住した旧藩主・稲葉家の臼杵における別邸として、明治期に建てられた。城からまっすぐに下りてくる大通りにある。        

  

     ( 稲葉家下屋敷付近 )

 「久家の大蔵」は、造り酒屋・久家本店によって、江戸時代末期に建てられた酒蔵。現在は、南蛮貿易を行った宗麟に因み、ポルトガルのアズレージョが建物の外壁、内壁に描かれ、市民の文化活動を支えるギャラリーとして利用されている。

      ( 久家の大蔵のアズレージョ )

 また、「サーラ・デ・うすき交流センター」は、旧醤油工場や長屋風の建物を改良した一画。「サーラ」はポルトガル語のサロンのこと。南蛮文化の展示や伝統工芸の実習、市民のためのイベント会場や研修会場などとして使われている。

 

   ( サーラ・デ・うすき交流センター )

 野上弥生子文学記念館にも立ち寄った。

    ( 野上弥生子文学記念館 )

 作家の野上弥生子は、明治18年にこの家で生まれ、14歳で上京して明治女学院に入学するまで、ここで育った。父は酒造家である。明治女学院はミッションスクールで、当時珍しい女子のための中等教育学校であった。

 なお、野上弥生子が入学するより前のことだが、明治25年から26年にかけて、若き日の島崎藤村が、この明治女学院で英語教師を務めている。彼はまだ20歳~21歳の若さだった。入学してくる生徒は地方のお金持ちや、名家のお嬢さんたちで、年齢はばらばら。藤村より年上の女性もいた。藤村も当時クリスチャンで、授業は祈祷から始まったという。やがて生徒のうちの一人に、一人で恋をし(恋を恋し)、辞表を出す。男女が一個の人格と人格として互いを愛する「恋愛」という言葉が、北村透谷によって訳語となって紹介された、そういう時代のことである。

 辞職した藤村は、明治30年、26歳のときに処女詩集『若菜集』を刊行した。日本における浪漫主義文学の誕生である。

 野上弥生子は藤村先生に少し遅れて入学し、そういう空気を吸って成長していくことになる。

 

  

 

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国宝 ・臼杵磨崖仏と「真名野長者伝説」 …秋の国東半島石仏の旅 8

2015年01月26日 | 国内旅行…国東半島の旅

      ( 「古園石仏」の建物を望む )

 臼杵(ウスキ) 石仏は、昨夜泊まった温泉宿から車で10分足らずの所にある。

 観光客はいない。本日、最初の拝観者だ。

 清浄の気。

 ボランティアのおじさん一人、それとは別に、おばさんたち数人が、4か所の石仏群を巡って、小道や石仏を蔽う建物の中を掃除し、清めていた。

 

 山の中腹に、4群、60余躯の石仏がある。  

 長年、土地の人々から「臼杵石仏」と呼ばれてきたが、「臼杵磨崖仏」の名称で国宝に指定された。石仏、或いは、磨崖仏の国宝は初めてである。

 石仏か、磨崖仏か? 昨日、拝観した「熊野磨崖仏」のような、大きな岩壁に彫り出された巨大なお姿ではない。しかし、建物に蔽われてわかりにくいが、自然のままの岩盤に掘られたみ仏であることも確かだ。

 駐車場から、整備された細い山道を登っ行くと、「ホキ石仏第二群」から「ホキ石仏第一群」を見学し、さらに谷を跨ぐように隣の山腹に分け登って「山王山石仏」、さらに、石仏公園の方へ下って「古園石仏」と歩くことになる。この順に拝観して回れるように山道がついているのだ。

        ★

< ホキ石仏第二群 >

   ホキは崖(ガケ)の意。

   ホキ石仏第二群の第一龕には阿弥陀三尊像がある。龕(ガン)は厨子。仏像を安置する堂の形をした仏具。

 毅然とした表情の阿弥陀如来像は、臼杵石仏群の秀作の一つとされる。

 

         ( 阿弥陀三尊像 )

 第二龕には9体の比較的小さな阿弥陀如来像がある。中央の一尊に彩色が残っていることから、ここにある石仏群はすべて、もともと彩色されていたことがわかる。

     ( 彩色の残る阿弥陀像 )

        ★

ホキ石仏第一群 >    

 第二群から少し登ったホキ石仏第一群には、4つの龕がある。

 第一龕と第二龕はともに如来坐像3躯。

 第一龕の阿弥陀如来は、墨で目や眉が描かれ、第一群の中の中心的存在である。

  

    ( 第一龕の如来坐像 )

 第三龕は大日如来を中心に、第四龕は左脚を立てて坐す地蔵菩薩を中心に、仏たちが並ぶ。

    

     ( 第四龕の左脚を立てた地蔵菩薩 )

 これらの石仏群は、いったいいつ頃、誰が、どんな事情で、どのような彫刻師たちに造らせたのか?

   その時期や事情を証する資料は何も残っていないそうだ。ただ、その様式などから、大部分は平安時代後期の作とされる。

 そのなかで、この第一群の第三龕と第四龕の石仏は、鎌倉時代に付け加えられたものらしい。確かにリアリティがあり、力強い。

         ★ 

山王山石仏群 >

 ちょっとした山越えをするように登ると、一番高所にあるのが、山王山石仏群。

 3躯の中心にある丈六の如来像は、その童顔に人気があって、「隠れ地蔵」とも呼ばれているそうだ。

   

        ( 柔和な如来のお顔 )

         ★

古園石仏群 >  

 そこから山道をやや下って、眺望のよい所に古園石仏群がある。

        ( 眺望の良い古園石仏の建物 )

 金剛界曼荼羅を表して13躯が並び、その中心には大日如来像が座す。

 

    ( 曼荼羅を表すという仏たち )

 端正で気品があり、傑作の評価が高い。切手の絵柄にもなった。かすかに彩色が残っているかのように見えるのも、ゆかしい。

 

         ( 大日如来像のお顔 )

    ★   ★   ★

真名野長者伝説 >

 この石仏群の由来を証する記録はないが、伝説はある。その伝説にちなんだ「うすき竹宵」という雅びなお祭も臼杵市に残り、毎年、営まれているそうだ。

 伝説は題も定まったものはないのだが、一応、「真名野(マナノ)長者伝説」ということにして、紹介する。

 大和にあった都に玉津姫という姫君がいた。顔に醜いあざがあり、縁談がなかった。それで三輪さんに願をかけた。すると、夢に三輪明神が現れ、豊後の国の深田の炭焼き、小五郎という者の妻になれ、とお告げがあった。

 途中、難に遭うのだが省略して、やっとのことで豊後の深田に着き、貧しい炭焼の小五郎に遇った。

 不思議なことが起こった。夢のお告げにあった近くの淵で姫が顔を洗うと、顔のあざは消え、輝くばかりに美しい姫になった。また、小五郎の炭焼き小屋の周囲にはたくさんの金があり、小五郎は金というものの価値を知らなかったのだが、お陰で二人は豊かになった。

 もちろん二人は夫婦となり、真名野原(マナノハラ)という所に長者屋敷を建てて、幸せに暮らした。

 娘が生まれたので、般若姫と名付けた。成長するにつれて、光り輝くばかりの美女となり、評判は都にまで伝わった。それで、多くの貴族が結婚を申し込んできたが、長者夫婦は「大事な跡取り娘だから」と断った。

 ところで、時の帝に二人の皇子がいた。弟皇子は兄に命を狙われ、「評判の般若姫を見に行く」ということを口実に都を脱出した。そして、宇佐八幡宮に参詣したあと、名前を「山路」と変えて、長者の家の下働きになった。

 あるとき、般若姫が重病になった。祈願したところ、「三重の笠掛を射よ」とのお告げがあった。しかし、長者夫婦には意味が分からない。当惑していると、「山路」が三重まで馬を入らせ、笠掛を弓で射て、山王権現の錫杖を受けて、戻ってきた。すると、姫の病気は治った。長者夫婦は喜んで、二人を結婚させた。

 ある日、兄の天皇が亡くなったので戻るようとの勅使が来た。「山路」は長者夫婦に本当の身分を明かし、都へ帰ることにした。そのとき姫は身ごもっていた。皇子は、男の子が生まれたら一緒に都にくるように、女の子なら長者夫婦の跡継ぎとして残し、姫は一人で上京するようにと言い残して旅立った。大和に帰った皇子は、用明天皇と呼ばれるようになる帝となった。

 般若姫は女の子を生んで、玉絵姫と名付け、その子を長者夫婦に預けて、自らは千人余りの従者を引き連れて船出した。

 ところが、周防灘で暴風雨に遭い、漁村に漂着して、土地の村人に数日間介抱されたが、亡くなった。まだ19歳だった。

 長者は姫の死を悲しみ、菩提を弔うためあちこちの寺に寄進し、遠く中国の寺にも寄進した。すると、中国から蓮城法師という人がやってきた。長者はこの法師のために満月寺を建て、石仏の製作を頼んだ。そこで、法師は、数年の歳月をかけて深田の里一帯に石仏を彫った。

 これが臼杵石仏群の由来だとさ。

        ★

 伝説は伝説。用明天皇は聖徳太子の父で、蘇我馬子などが活躍していた時代の天皇である。臼杵石仏群の様式はそれより500年以上も後のもの。だから、この伝説はそもそも時代が合わない。

 ただ、この伝説も室町時代には既に存在していたことがわかっているから、伝説の成り立ちもそれなりに古い。

 いつのころのことか、土地の長者(豪族)の愛娘が亡くなり、その深い悲哀の心が、どうしても菩提を弔いたいという思いとなって、都の仏師を呼び寄せ、次々と石仏が彫られて数年を経た … というような出来事はあったのかもしれない。そういう深く強い思いがなければ、これだけの石の仏を、このような場所に彫り込んでいくという作業はできないように思われる。

    ★   ★   ★

石仏公園で >

 臼杵摩崖仏4群のある山から石仏公園の方へ降りていく。この公園も高台で、しかも、ひろびろとしていて、空が広いと感じる。

 小さな流れの先に、長者が蓮城法師のために建てたちいう満月寺があり、その前にはユーモラスな2躯の仁王の石仏があった。

  

               ( 仁王像 )

   また、その一角に、石仏を彫った蓮城法師の像、それを依頼した真名野の長者夫妻のかなり風化した像がある。

 室町時代の作だそうだが、磨崖仏がプロフェショナルであるのに対して、こちらはいずれも稚拙で、しかも、風化し、愛嬌があって、むしろ21世紀の感性に合っている。

 

   ( 真名野の長者夫婦像 )

        ★

 公園の一角に、土地の中学校の卒業記念かと思われる石碑がいくつも設置されていた。その中の一つが目に留まった。

 「世間は生きている。理屈は死んでいる」(勝海舟)

 勝海舟らしい、味のある、いい言葉だ。これが本当にわかるようになるには、相当の勉強と、経験が必要である。

 それにしても、この言葉を選んだのは … まさか中学生の多数決とは思えない。

 一人の読書好き、物識り、勝海舟ファンの、ませた男子がいて、この言葉を提案し、回りの男子たちが「オー、かっこええ! 」と、まあ言わば付和雷同したのか …? それとも、先生たちの言動に少々うんざりしていた校長先生がいて、そこへ生徒会代表が「碑文に書く何か良い言葉はありませんか?」と相談に来たとか……?

 

 

 

 

 

 

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修験道の大寺・両子寺 … 秋の国東半島石仏の旅 7

2015年01月18日 | 国内旅行…国東半島の旅

     ( 両子寺の護摩堂 )

 山門をくぐって、上へ上へと登る長い石段がある。途中、有名な仁王像などを拝みながら、ゆっくりと歩いて登るつもりだった。だが、山門に入る道に気づかず、車で一気に上がって、護摩堂のそばの駐車場まで来てしまった。楽なほうが良い。今さら石段の下まで戻る気にもなれず、日も傾いてきたし、省略することにする。

 この日、訪ねた胎蔵寺(熊野磨崖仏)、真木大堂、富貴寺は、いずれも山里近くにあったが、両子寺 (フタゴジ) は国東半島の中心、両子山 (721m) の中腹にあって、里からは遠い山寺だ。

 いかにも山岳修行のための大寺という風情がある。六郷満山の、中山(修行を中心とする寺院群)の本寺である。

 参拝者の中には西洋人の姿も見えるが、あたりに山の気が漂い、寺院群が粛然として建っている。少し冷えてきた。

        ★

 護摩堂はこの大寺の本堂で、山岳修行の根本中道である。紅葉が美しく、気品がある。

 靴を脱いで上がると、鎌倉期制作のの不動明王像があった。

 護摩堂から、山林の中の参詣道を登っていくと、次に大講堂がある。富貴寺の大堂と同じく、鎌倉期の阿弥陀仏が迎えてくれた。

 さらに、山の上へと、参詣道を登って行く。

 大力の僧が渡したという鬼橋を踏んで谷川を越える。

  

 古色蒼然とした石の鳥居をくぐる。

   

 どこかユーモラスで強そうな石像を横目で見ながら、奥へ奥へと登って行く。

 

 やがて草深い道は奥の院に行き着く。寺とは言えず、神社でもなく…。

 

   ( 奥の院の社 )

 小さな社(ヤシロ)は、崖に張り出した懸崖造りだ。社の中には、宇佐神宮からやってきたという「双子の神像」が祀られているそうだが、もちろん社の中には入れない。

 社の横に、社に入るのとは別の入り口があったから、拝観料を払って入ってみる。

 入った社の奥は岩壁で、岩壁には自然の洞窟があって、ほとんど暗闇という中に石仏が安置されていた。

 

  ( 洞窟の石仏 )    

 奥の院から、元の小道を少し下ると、来るときには気付かなかったが、道の横の岩壁の上から鎖が下りてきている。山岳修行の場だ。運動靴なので、ついよじ登ってしまった。

 登ってしまうと、気持ちの上で引き返せない。そのままか細い修験道を上へ上へと登って行くと、あちらの岩陰、こちらの岩棚に石仏が嵌め込まれている。

 

  ( 岩陰の石仏「百体観音」)      

 所々に標識があるので、この径を歩いていてもとりあえず大丈夫なのだと、気分的に助かる。

 「針の耳」、「鬼の背割り」などの標識を通過する。       

 

   (「鬼の背割り」)

 そろそろ引き返したいが、このまま山頂まで登るのかと心配になる。

 やがて、登りの山道が大きく回り込んで、谷に沿う下り道になった。ほっとする。

 ひょこっと、一般参詣道に出た。

 

  ( 出口にあった標識 )

 年甲斐もなく冒険をしてしまったが、この寺の境内の杜(モリ)は「日本森林浴の森百選」の一つに選定されているそうで、いい運動になった。

         ★

 日が傾いた。4寺しか回れなかったが、六郷満山のサワリを見ることができた。

 今夜の宿泊地、臼杵 (ウスキ) に向けて、国東半島を抜け、高速道路に入り、別府の湯煙やサルで有名な高崎山を遠望しながら、暮れかけた道を走った。

         ★

 その夜、泊まった「臼杵湯ノ里」は、源泉かけ流しの温泉で、新鮮なふぐ料理がとても美味しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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国宝の富貴寺阿弥陀堂 … 秋の国東半島石仏の旅6

2015年01月13日 | 国内旅行…国東半島の旅

 

     ( 富貴寺山門 )

 真木大堂から、富貴寺 (フキジ) の駐車場に着く。

 周囲はのどかな田んぼと畑で、ここの駐車場の脇にも案山子たちが立って、出迎えてくれた。

 空き地や駐車場の脇に置かれているのだから、雀やカラス対策であるはずはなく、参詣者・観光客の目を慰めようとのサービス精神? いや、その心は収穫を終えたあとの祭り気分かも。どうだ、案山子もここまで出来たら美術品だろうと、ちょっと得意顔のおじさんやおばあさんが目に浮かぶ。

 マネキンを使い、美しい布地で衣裳を作れば、きれいな「人形」はできる。しかし、「世界農業遺産」に認定された村らしく、あくまで昔ながらの「案山子」の枠のなかで作って、しかもなかなかの出来映えである。

 駐車場の端の畑の横で、コンビニで買ってきた昼食のおにぎりを食べた。おにぎりを買っておいたのは正解だった。道中、食堂、レストランめいたものは見なかった。

 この世の中で旨いと思うものを2つ挙げろと言われれば、とりあえず日本のおにぎりと、イタリアで食べるパスタ。もちろん、これは私の好み、主観であるが、なにしろ2000年を超える食の歴史と味わいがある。アメリカ風ファーストフードが太刀打ちできるはずがない。

         ★

    ( 富貴寺の山門 )

 富貴寺は、平安時代の終わりごろに、宇佐八幡宮の大宮司家の氏寺として創建された。西叡山高山寺という大寺の末寺である。

 末寺でだが、今、国東半島の第一の観光スポットとして、観光バスもやってくる。

 それは、わずかに残る阿弥陀堂(富貴寺大堂)が、現存する寺社仏閣などの建造物のなかで、九州最古の木造建築物であり、大分県内では数少ない国宝の指定を受けているからだ。

    ( 国宝の阿弥陀堂 )

 六郷満山は天台宗系であるが、にもかかわらず、そこに阿弥陀堂があるのは、平安後期の末法思想による時代の精神であろう。

 宇治平等院鳳凰堂、中尊寺金色堂と並ぶ日本三大阿弥陀堂の一つとされるそうだ。

 他の二つを創建した勢力の巨大な財力と比べれば、こちらはさすがに質素にも見える。だが、創建当時を再現した県立歴史博物館の富貴寺大堂の金色の輝きを見ると、宇佐八幡宮の大宮司の財力もなかなかのものであることがわかる。

 

    ( 創建当時の阿弥陀堂の復元 )

 屋根の反りがいい。

 内部に入ると、中央に祭壇があり、寄木造りの阿弥陀仏が安置されている。今は、彩色は消え、古色の気品がある。

 周囲の壁には一面の壁画。極楽浄土を表した仏や菩薩たちの彩色もほとんど消えかかっている。しかし、これも県立歴史博物館の再現された阿弥陀堂の中の壁画によって、平安後期の美しく彩色された絵がどのように繊細なものであったかを見ることができる。

 保護のため、お天気の悪い日はお堂を閉じて、公開しないそうだ。運が良かった。

 

 

 

 

 

 

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幻の大寺を伝える真木大堂、そして世界農業遺産の田染荘 … 秋の国東半島石仏の旅 5

2015年01月09日 | 国内旅行…国東半島の旅

    ( 村人がつくった案山子 )

 熊野磨崖仏のある胎蔵寺から車でほどなく、真木大堂へ。あたりは静かな山里の風情だ。

 ここには、昔、六郷満山(後述)の一つで、七堂伽藍を備えた馬乗山伝乗寺という大寺があった。だが、約700年前に火災により焼失。今は、そのあとに建てられた小さなお堂と9躯の仏像を納める収納庫があるばかり。幻の大寺の跡である。

 鄙びたお堂の玄関口で、火災を免れた仁王像が迎える。

 9躯の仏像は、ガラスケースの向こうに並んで、或いは威厳に満ち、或いはおだやかなお顔に理知の光を見せ、或いはおそろしい形相で炎の中に立って、いずれも国の重要文化財である (撮影禁止)。

  

    ( 真木大堂入口の仁王像 )

 先の胎蔵寺(熊野磨崖仏)も、この伝乗寺もそうであるが、伝説では、奈良時代の初めごろ、仁聞という僧侶 (一説では菩薩、他の説では宇佐八幡宮の八幡神) が、国東半島の山々や谷筋に28の大寺を開き、69000体の仏像を造ったという。

 しかし、実際に国東半島一帯に多くの大寺、堂宇が開かれたのはもう少し後で、奈良時代末期から平安時代の前半にかけてらしい。宇佐神宮、或いはその神宮寺である弥勒寺のバックアップや天台宗の影響のもとに、その特徴は神仏習合の山岳信仰であった。

 それらの寺院群には、目的別に3つのグループがあった。学問をするための本山 (モトヤマ)、修業をするための中山 (ナカヤマ)、布教するための末山 (スエヤマ)で、併せて満山と呼ばれた。六郷満山である。

 伝乗寺は学問をする本山 (モトヤマ) の本寺のひとつであった。

 現在でも、33の寺院に宇佐神宮を加えた国東六郷満山霊場が構成されて (国東半島33箇所)、山岳修行も行われている。

 山岳修業のスタート地点は、あの熊野磨崖仏の下らしい。

         ★

 真木大堂の前の道路の向こう、空き地や茶店の前のそこここに、案山子が置かれている。その数はもしかしたら住人より多いのではないかと思われるほどだ。

 

    ( すべて案山子です )

 ここから、次の富貴寺に行く途中の、田染荘(タタシブノショウ)小崎(オザキ)と呼ばれる地域は、2010年に国の「重要文化的景観」に選定され、さらに、2013年には、「国東半島・宇佐の農林水産循環システム」として「世界農業遺産」に認定された。

 パンフレットによると、FAO (国連食糧農業機関) の認定する「世界農業遺産」は、ユネスコの「世界文化遺産」が遺跡や歴史的建造物など、「不動産」を登録・保護するのに対し、グローバル化のなかで衰退の途にある伝統的な農業や文化、土地景観の保全と持続的な利用を図ることを目的として、その地域の伝統的な農業の「システム」そのものを登録・保護するものらしい。

 両子山山系から放射状に延びる尾根と谷筋から成る国東半島は、平野部が狭く、さらに降水量が少ない地域だから稲作のためには水が不足する。しかも、火山性の土壌は、保水力もない。

 そういう水田農業に向かない土地であったが、古代から、宇佐八幡宮の荘園として開発・工夫されてきた。

 広大なクヌギ林を保護することによって、水を保水し、浄化する。その水はため池に貯えられ、それぞれの農家の田んぼに供給される。狭い土地だから、多くは段々畑で、田は上の方から順に潤い、21世紀の今も、綺麗な水辺風景と生物の多様性を保持しているそうだ。

 田染荘(タタシブノショウ)に村落と農地が開発されたのは、紫式部らが生きた11世紀前半に遡る。その小崎地区には、14、15世紀の耕地と村落の基本形態がほぼそのまま現在に継承されいる。そして、今も、水田オーナー制のもと、住民によって美しい景観が保存されているのだそうだ。

  国東半島は、古代から開発されてきた稲作農業遺産と、その土壌の上に形成された神仏習合の民俗文化遺産を今に伝えている。

 「ここには日本の原風景がある」といわれるのもうなづけるではないか。

 

 

 

 

 

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岩壁の熊野磨崖仏、そして神仏習合の起こり … 秋の国東半島石仏の旅4

2014年12月22日 | 国内旅行…国東半島の旅

 大分県立歴史博物館を出発して、車を南へ走らせ、山香(ヤマカ)という分岐で10号線と別れて、いよいよ国東半島の山中に入って行く。

 しばらくは山また山の谷筋を用心しながら運転し、ほどなく熊野磨崖仏のある胎蔵寺の駐車場に着いた。

 小さなお寺の入り口で入山料を払う。

 杖を持って行った方が良いと勧めらて拝借した。

 寺の公式サイトによると、この寺の創建は718年ということになっている。国東半島の六郷の多くの寺と同じように、領主である宇佐神宮が造った寺である。

 寺の脇から入る薄暗い山道をたどる。

 早く磨崖仏を見たいと心急く気持ちを抑えて、一歩一歩足を踏みしめながら登って行く。

 紅葉がはじまっていた。大阪や奈良より早い。

    ( 胎蔵寺の紅葉 )

 300mほど登ると、突然、目の前に蒼古とした石の鳥居と、その先に、天にまで続いているかのような急峻な石段が現れた。あたりは樹木が鬱蒼として、人けはなく、不気味である。

  

  ( 石の鳥居と石段 )

 石段は、鬼が一夜にして積み上げたという伝説がある。自然石を乱積みしただけのものだから、歩幅も一定せず、足の置き場に気を取られ、おそろしく急峻で、足腰に負担がかかった。

 それでも、一歩一歩登っていると、突然、左手に視界が開け、大きな岩壁に彫られた2体の磨崖仏が現れた。

 

  ( 岩壁に刻まれた磨崖仏 )

   左は不動明王。高さ約8m。不動明王は憤怒の形相の怖い仏様だが、この不動様は柔和で、ユーモラスでさえある。

   

          ( 不動明王 )

 右は大日如来。高さ約6.7m。きりっとした男らしいお顔は若々しい。

 

        ( 大日如来 )

   伝説によると、寺を開いたとき(718年)に、宇佐八幡の化身である仁聞菩薩が彫ったという。だが、寺の公式サイトでも、その他の説明でも、平安時代の末期の作としている。

 あとから2人づれが登ってきて、仏様の下に立つと、人間と比べてなるほど大きい。日本で最古、最大の磨崖仏だと言う。こんな山中の岩壁に、このような巨大な仏を彫ろうと思い、彫り続けた人の思いを想像する。

 乱積みの石段は、さらに上へ向かって延びていた。この先に何があるのだろう?? ここまで登って来た以上は見極めたいと思って、元気を出して登って行く。すると、やがて鳥居があって、そこで石段は尽き、鳥居の先に粗末な古びた社があった。…… 熊野神社とある。

            ( 熊野神社 )

 これも寺のホームページによるが、熊野詣が盛んだった平安時代の末期、当時の住職もまた遥々と紀伊半島の山奥まで参詣に行って、当寺に熊野権現を勧請し、寺の名も「今熊野胎蔵寺」に改名した。今も、これがこの寺の正式名称だそうだ。

 それで、この磨崖仏に「熊野」が付いて、「熊野磨崖仏」と呼ばれるのだと、改めて得心した。日本人の心は融通無碍で、和をもって尊しとし、神と仏も習合する。

 さらに、ホームページには、この磨崖仏を彫ったのは、その住職だとする。鎌倉初期の記録には、この磨崖仏は登場するそうで、よって平安末期には造られていたことは確からしい。

         ★

 713年、朝廷は律令支配を辺境にまで及ぼすため、日向の国から大隅の国を分離し、新たに国司を派遣した。

 720年、大隅の国司が殺され、大規模な反乱が起きる。隼人の乱である。

 このとき、万葉歌人として有名な大伴旅人を司令官とする征討軍が派遣され、2年に渡る激しい戦闘の末、多くの血が流されて、乱は鎮圧された。

 この乱のとき、朝廷軍の側に立って、乱鎮圧に貢献したのが、豊の国の一大勢力であった宇佐八幡宮の軍勢であった。

 乱のあと、宇佐一帯に流行り病や凶作が続き、人々は戦さで多くの人を殺した祟り(タタリ)ではないかと畏れた。そして、ちょうどそのころに伝来した新しい教えである仏教に、殺生からの救済を求めた。

 隼人の慰霊と自らの減罪のため、殺生を戒める仏教の儀式である放生会が神道にとり入れられたのも、このころである。

 宇佐八幡宮の中には、立派な神宮寺が造られた。国東半島の所領地にも次々と寺が建立された。

 聖武天皇が大仏造立の詔を出したとき、いち早く神託をもって帝を励ましたのも、こういう事情があった。

 神仏習合は、国東半島から始まった。

 この列島に生きてきた人々の心は、神と仏の両方を必要としたのである。

   

 

 

 

 

 

 

 

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国東半島は神と仏の習合した里 (県立歴史博物館) … 秋の国東半島石仏の旅 3

2014年12月10日 | 国内旅行…国東半島の旅

      ( 復元された富貴寺本堂 )

   旅に出る前に少しだけ勉強はしたが、ここ(国東半島)はどういうところなのだろう?? 自分の頭の中がすっきりしていない。そこで、国東半島の内陸部を走る前に、宇佐市にある大分県立歴史博物館に立ち寄った。

   この博物館は、森と、田んぼと、宇佐の古墳群が広がる明るい一角にあって、国東半島及び宇佐地方の自然、農産業、歴史、宗教、民俗のことなどを展示し、1時間では到底見きれないほど充実していた。

 

   ( 博物館の階上から )

 とりわけ富貴寺本堂の創建当初の復元は素晴らしかった。

 熊野摩崖仏の複製もあった。

  

  ( 熊野摩崖仏の複製 )     

        ★

   半島というと長細い形をしている。スカンジナビア半島にしても、イタリアの長靴にしても、朝鮮(韓)半島にしても、房総半島にしても。だが、国東半島は、ずんぐりしている。円いたん瘤のような形で、瀬戸内海に突き出している。

 その丸の中心あたりに両子(フタゴ)山 (海抜720.8m) があり、両子山山系から北、南、東の半島を囲む海に向かって、放射状に、幾つもの尾根と、深い谷が延びている。

   今、いる宇佐は、国東半島の北の付け根あたりに位置する。

   ヨーロッパからの帰路、延々とユーラシア大陸の大地の上を飛んで、最後に日本海をひょいと渡り、日本列島上空にさしかかって、上空から祖国を見ると、そこは、山また山である。

   山と山の間から幾筋もの谷が延び、霧が立ち上っていたりする。その谷筋に小さな集落が現れ、狭い田畑が切り開かれているのが見える。やがて、谷筋の流れが次第に大きくなり、いくつも村があり、支流を集めて、平野部に入る。平野には都市が現れるが、すぐに海だ。

 私たちの国土は山と谷ばかりで、平野部の面積は海岸線のみ。誠に狭い。

 上空からそのような地形を、なつかしい思いとともに眺めていると、ヨーロッパやロシアや中国と違って、日本が神々の国 (「神の国」ではない) であることが納得できる。山々や谷々のそれぞれに、神がやどる。精霊といってもいい。私は宮崎駿とは多分、歴史観を異にすると思っているが、この一点 ( 神々の棲む山や森や谷を破壊してはいけない。それは日本人の魂を破壊することにつながる ) において共感する。黒姫山に住む C,W, ニコルさんとも共感する。

   国東半島は、そういう意味で、日本を象徴するような地形と風土をもつ。屹立する山々と、幾筋もの谷と、点在する集落から成り、海岸線まで下っても都市を形成するほどの広さはなく、大地は海に落ちる。

   その28の谷を6つの里に分けて、六郷と称した。六郷は、古来、宇佐神宮の所領、つまり荘園として発展し、宇佐神宮の庇護のもとに、神仏習合の寺院集団が形成された。往時には185の寺院、800の堂があったというから驚く。

   仏教寺院と言っても、そのなかに鳥居もあれば、社もあって、神仏が習合した神と仏の里である。

   実際、車でか細い道を走り、寺のパーキングに車を置いて分け入ってみると、屹立する岩の窪みや木々の間のそこここに、石仏、石塔が点在し、磨崖仏が彫られ、岩山は自ずから山岳修行の地となっている。

   険しい尾根によって分断された村々には、それぞれに独自の風習や祭が伝えられている。

          ★

   以前、NHKの「新日本風土記」が、国東半島を取り上げていた。

   ある年の村の祭の「風景」である。

   2人の若者が、村の祭りの赤鬼、青鬼の役に選ばれた。一生に一度の名誉である。選ばれた以上、やり切らねばならない。2人は、毎晩、仕事が終わると、村の神社で、先輩から鬼の踊りを教わる。鬼の踊りだから、非常に激しい。だが、カッコいい。

   祭の当日、赤鬼、青鬼の面を付けた2人は、村の1軒1軒を訪ねて、五穀豊穣とその家の無病息災を祈願し、鬼の踊りを踊る。激しい舞いの全部を1軒、1軒で舞うのである。

   日も暮れて、全ての家を回りぬき、社に着いて最後の奉納の踊りを踊る。舞い終わった直後に、青鬼は精魂尽きて、倒れる。よくやった!! 村の他の若者たちが青鬼を担ぎ、赤鬼に肩を貸しながら、畳に寝かせる。━━ 爽やかで、かっこよくて、感動的である。

   日々、神々とともに働く。

   ハレの日には、神々とともに酒を飲み、食べ、笑い、踊る。

   日本の神々は神社に君臨しているのではない。山や杜や田や淵や家々にいて、人々と苦楽をともにし、人々と一緒に、生きることを楽しむ。

   ここは、そのような日本がなお残る里である。

                   

 

 

 

 

 

 

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ドングリの杜の宇佐神宮に参詣する……秋の国東半島石仏を巡る旅 2

2014年12月05日 | 国内旅行…国東半島の旅

      ( 宇佐神宮 )

 イハレビコと兄のイツセは高千穂の宮で相談して、天下を統治するために「東に行かむ」と決め、「日向より発」った。「豊国の宇沙に至りしときに、その国人 (クニヒト)、名はウサツヒコ、ウサツヒメの二人、足一騰宮 (アシヒトツ アガリノミヤ) を作りて、大御饗 (オオミアエ) をたてまつりき」。 (古事記・中つ巻・神武天皇)

 神武東征の始まりの場面である。

 兄弟は、この国を治める最良の地を求め、東に行くことを決めて、なにがしかの軍勢を率い、高千穂を出て、日向から船で出発した。

 最初に寄港したのが豊前の国の宇佐である。その地の豪族、ウサツヒコとウサツヒメ (夫婦or兄妹) は彼らを歓待した。「足一騰宮 (アシヒトツ アガリノミヤ) 」とは、宮殿の四方の柱のうち、3本は短く崖上にあり、残りの1本は川から突き出した形に建てたるものだという。川に突出して建てたのは、眺望が良いからではなく、危険な動物や敵の襲来を防ぐ意味があったのだろう。しばらく滞在できるよう、二人のためにこのような宮まで建てて、饗応した。

         ★

 宇佐のある、周防灘に注ぐ駅館川 (ヤッカンガワ) 流域の平野は、古代人にとっても魅力的な土地であったらしく、弥生時代の大規模な環濠集落が発見され、数百に及ぶ小規模な古墳からは銅鐸や銅鏡が出土している。また、6基ある前方後円墳が、古墳時代に入ってからの宇佐の豪族と大和との結びつきの強さを物語っている。

 地図を広げると、宇佐地方は、川を通じて海に面し、その海は内海のように関門海峡や本州の周防の国 (山口県南部) とを結んでいて、海運を通じての本州との往来が盛んであっただろうと想像される。 事実、宇佐氏は航海民の首長であったという説もある。

         ★

 羅漢寺から夕刻迫る宇佐神宮へ。一度はお参りしてみたい神社だった。

 「八幡」と名の付く神社は全国に14,800社を数え、稲荷神社に次ぐ神社界の一大勢力であり、宇佐神宮はその総本山である。奈良県の、わが新興住宅地 (とは、もう言えないが、旧村ではないので) の秋祭りも、近くにある小さな八幡さまの社の祭りとして営まれている。

 それに、司馬遼太郎が「この神は風変わりなことに巫 (シャーマン) の口をかりてしきりに託宣をのべる」「それももっぱら国政に関することばかりで、よほど中央政界が好きな神のようであった」と言っている。「政治好きな」神様で歴史に登場するから、歴史好きなら一度は参詣したくなるというものだ。

 その最初は、聖武天皇の東大寺造営を支持する託宣を出して帝に気に入られ、草深い九州の地からいよいよ全国区となって、奈良の都へ進出した。手向山八幡宮である。

 ついで、奈良末期の道鏡事件の勇み足託宣を経て、都が平安京に遷都されると、京都にも進出した。石清水八幡宮は朝廷の篤い信仰を受ける。

 やがて祭神が応神天皇だというので、源氏の氏神となり、武士の政権が鎌倉にできると、鶴岡八幡宮がしばしば政治の舞台として登場するようになる。

 まことに、「他に類を見ない神社」 (『 この国のかたち  五 』) である。

         ★   

 だが、八幡神とはどういう神様なのか、よくわからないらしい。

 現在の宇佐神宮のそばに、御許山 (オモトサン) という山がある。標高647m。その山に3つの巨石があるそうで、岩は神が降り立つところだから、土地の豪族・宇佐氏がこれを聖なる磐座 (イワクラ)として祀った。神代といってよいような遠い昔の話である。

 「この島々にいた古代人たちは、地面に顔を出した岩の露頭ひとつにも底つ磐根の大きさを思い、奇異を感じた。畏れを覚えればすぐ、そのまわりを清め、みだりに足を踏み入れてけがさぬようにした。それが、神道だった。むろん、社殿は必要としない。社殿は、はるかな後世、仏教が伝わってくると、それを見習ってできた風である」 (司馬遼太郎『この国のかたち 五』)

 やがて、いつの頃からか、御許山 (オモトサン) に降り立つ神について、比売(ヒメ)大神という神であるとの信仰が流布する。ヒメだから女神であるが、固有名詞とは言えない。とにかく宇佐の地主神となった。

 のち、3つの磐座に降り立つ女性の神様だから、海人系の宗像氏などが祀る宗像三女神 (宗像大社や厳島神社などの祭神) と同じ神様だろうということになって、今、二の御殿に祭られている。

 宗像氏と同じように、宇佐氏も海人系だったのではないかと考えられている。武光誠氏は、その著『知っておきたい日本の神様』のなかで、「古代の宇佐は、瀬戸内海と大陸に向かう航路との中継地として重んじられていた」「宇佐氏は航海民の首長だった」と言う。とすれば、東征に出発したイハレビコが最初に宇佐に寄港したのは、的確な判断と言うべきであろう。これから先の航海の情報を得るためにも、優秀な船乗りを得るためにも。

   宇佐氏が祀った海神が、八幡神である。その八幡神とは?比売(ヒメ)大神とは?

   話はややこしいが、この地方にはもともと道教や公式伝来以前の仏教などの影響も受けたシャーマン系の信仰が伝来していた。その中心になった氏族が渡来系の辛島氏であるという。その祀った神がヤワタの神であったというのだ。やがて、宇佐氏と辛島氏は共同して社を建てて、渡来の神と古来からの神とを習合させた。「原宇佐神宮」である。

 この点、黒潮に乗って北から、南から、東から、流れ着いたものを熟成させ、融合し、自らの固有の文化に育て上げていく、融通無碍なこの列島の文化を象徴していると言えよう。8世紀には、宇佐八幡宮は、伝来してきた奈良仏教と自分たちの神とを集合させ、日本で最初の神仏習合の神社になった。

 しかし、この神様は、この程度では収まらない。話はさらに飛躍するのである。

 現在の宇佐神宮の広々とした境内の杜のなかに、菱形池という草深く、神秘的な雰囲気の池がある。沼といってもよく、かなり大きい。

 社伝によれば、西暦571年、この菱形池のほとりの水の湧く所(御霊水)に、光輝く3歳ぐらいの童子が現れ、「われは誉田 (ホンダ) の天皇 (スメラミコト) 広幡八幡麿 (ヒロハタノ ヤハタマロ) なり」と名乗ったというのである。もっとも、この伝説が実際に登場したのは8世紀のことらしい。そして、それ以前から、北九州では、応神天皇、神功皇后神話が流布していたらしい。  

 

           ( 御霊水を祀る )

 かくして、謎多き八幡神(ヤワタノカミ)とは、突然、誉田別尊 (ホンダワケノミコト)、すなわち、古代の英雄的な大王である応神天皇ということになったのである。

 今、一の御殿には八幡大神(応神天皇)、二の御殿には比売大神(宗像三女神)、三の御殿には応神の母の神功皇后が祭られている。

 いずれにしろ、日本の神道では珍しいシャーマニズム或いは「神託」によって、奈良時代の聖武天皇~淳仁・称徳天皇の時代に、八幡社は全国区になった。

 (なお、神道では、神官のシャーマンは認めない。清々しさが、神道である)。

         ★ 

 しかし、まあ、こういうあれこれの詮索を、宇佐の神さまは、きっと笑っておいでだろう。

 「その空間が清浄にされ、よく斎かれていれば、すでに神がおわすということである。 神名を問うなど、余計なことだ」 (『この国のかたち 五』)。

 静かな参道を行くと大鳥居があり、その向こうは奥深い。

                                 

   石段を上がると、上宮がある。

    ( 上宮への石段 )

 一の御殿には八幡大神(応神天皇)、二の御殿には比売大神(宗像三女神)、三の御殿には神功皇后が祀られていると、人は言う。

      ( 上 宮 )

 下宮も同じ神さまを祀る。世俗の願い事はこちらでするのだそうだ。

    ( 下宮への鳥居 )

 「政治好き」と評されたこの地の神様の経歴とは趣を異にして、広い境内は神社らしい清浄さと、神代の世界に誘うような斧の入っていない古代のままの常緑広葉樹が繁って、いかにも奥深い杜の中である。

 そこここにドングリの実が落ちている。

 帰り道。夕方の参道をやってくる地元の女子高生がいた。受験のお願いにしては、少し早いが … そういうご利益主義とは関係ないか … 。さすが宇佐で育った女子高生

 

 この日は、宇佐市内の旅館で泊まった。

  

 

 

 

 

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旅の初めは羅漢寺へ … 秋の国東半島石仏を巡る旅1

2014年11月27日 | 国内旅行…国東半島の旅

      ( 羅漢寺からの眺望 )

 11月10日~12日、大分県の国東半島へ旅行した。

  「静かな街づくりを始めたのに、観光客にたくさん来られたら困る」。

 これは、臼杵市長だった後藤國利さんの言葉。たまたまこの旅に出る前日の、讀賣新聞11月9日号の日曜版、「名言巡礼」に紹介されていた。臼杵の町で映画を撮らしてほしいと申し出た映画監督に、当時の市長として答えた言葉だ。

 こういう町づくりもあるのかと、思わず考え込まされる言葉である。

 いろんな町づくりがあっていい。安倍首相が地方創生を打ち出した。女性の活躍できる社会づくりとともに、長く閉塞状況にあった日本社会に、ぽっと希望の灯が灯った感じがする。しかも、急速に少子化に向かう日本にとって、もう待ったなしの改革だ。ぜひ、本格的にわが町づくりを。 

 高度経済成長からバブルの時代、日本中のローカルな町に、「〇〇銀座」という、あまり上質とは言えない「商店街」ができた。どの町も、ミニ東京をつくろうとした。今にして思えばあの頃、すでに「駅前シャッター街」への道を着実に歩いていたのだ。

 高度経済成長の時代とは、スクラップ&ビルドの「使い捨て文化」が席巻していく時代だった。古い、日本的な家並みは破壊され、安っぽく、けばけばしい街並みが日本国中を席巻した。「家なんて、30年たったらスクラップ。また新しく建て直したらいい。給料は倍増するんだから」。そういう時代だった。

 そういう町づくりでは精神も荒廃する。歴史や文化や伝統を捨て、自利・自我ばかり大きくしていけば、根っこはなくなり、日本人の心は宙を漂い、浮遊する。

 古いものを大切に残して、簡単には変わらない、芯のある町づくりをする。街並みも、町に残る文化も、そういう町にこそある人情も … 大切に残していく、そういう地域創生もあっていい。

 それぞれの町でよく考えて、専門家も呼んできて (だれを呼ぶかにその町の見識が表れる)、かつてのように日本国中が東京・銀座をモデルにするというようなことにならないよう、或いは、30年でスクラップしなくてよいように、地元の若者に媚びるのではなく、若者に「ふるさと意識」をしっかり植えつける、そういう町づくりを進めてほしい。

     ★   ★   ★

 国東半島の山々と谷々。そこここに残る神と仏の信仰の跡。それらを今も大切に守っている地域の人々。臼杵(ウスキ)や杵築(キツキ)という小さな城下町の街並みも含めて、すべてがひっそりと静かで、風情があった。

 ここにも、「世界遺産に」という運動があるようだが、こういう日本を残す運動なら、ぜひ応援したい。

         ★

[ 羅漢寺へ ]

 大分空港でレンタカーを借りた。列車はなく、バスの便も良いとはいえない草深い山里の神や仏を訪ねるには、車は必需品だ。

 まず目指したのは羅漢寺。空港から高速道路を経て1時間半。

 レンタルの車と、慣れない高速道路 (1車線道路)。地元車に追い上げられて緊張した。

 羅漢寺の所在地は、大分県中津市耶馬渓町。名勝・耶馬渓の一角だから、高速道路を降りると、あちこちに岩山が屹立した山と田野の中を行く。すぐ近くに、「青の洞門」も。

 それでも、中津市の中だ。

 中津は福沢諭吉の出た九州の小藩と頭の隅にあったが、最近、大河ドラマですっかり有名になった。黒田如水が秀吉から12万石を与えられ、中津城を築城した。堀に海水が引き込まれた水城である。関ヶ原のあと、黒田家は筑前52万石に転封される。そのあと、細川忠興がやって来て、中津城をさらに完成した。細川家が熊本に転封されたあとは、小笠原家、奥平家と、徳川譜代の小藩に引き継がれて幕末を迎える。

 しかし、今回、中津城下はパス。

 羅漢寺は、羅漢山の中腹にある。曹洞宗の寺院で、国内の羅漢寺の総本山だそうだ。

 パーキングから急峻な参道を歩くこと20分ということだが、足の弱い人や老人はリフトに乗った方がよいとあるので、寺の収益のためにも?リフトで上がることにした。

 リフトを降りた先にある山門も、その奥の本堂も、岩壁の洞窟に嵌め込まれたように建てられている。

 

   ( 山 門 )

 そういう岩の洞窟に、全部で3700体もの石仏があるそうだ。

   ( 岩壁の石仏 )                              

 山門をくぐると、写真撮影禁止の掲示。

 石仏の保護のためではなく、祈りの心をもちなさい、ということのようだ。うーん? 写真の心も祈りの心に近いと思うのだが、まあ、いろんな人がいるのだろう。観光バスで乗り付け、大勢でワイワイガヤガヤ、観光気分で見学し、スマホで記念撮影して帰るという人も多いのだろう。従って、写真はこの3枚だけ。肝心の五百羅漢の写真もない。

                

  ( 山門のそばの千体地蔵の小屋 )

   伝説では、645年(大化の改新の年)に、インドから来た仙人が岩壁の洞窟に籠ったのが、寺の始まりという。

   1337年、臨済宗の僧侶によって羅漢寺が開かれ、石仏・五百羅漢が安置された。その後、曹洞宗になる。

 羅漢は釈迦の高弟たちで、禅宗の寺にまつられることが多いそうだ。衆生を救済する如来や菩薩の美しいお顔と違って、まさに自分が悟りをひらくためだけに必死に修業してきたむさくるしい男たちの像である。それぞれがまことに人間くさい形相をしている。五百羅漢像を一つ一つ見ていけば、親戚のおっちゃんによく似た像が必ずあるそうだ。( 続 く )

 

 

 

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