ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

日本の街並み 最終回(大阪)

2012年11月11日 | 国内旅行…街並み

     ( 夕映えの大阪城 )

[ 大 阪 ]

 大阪は、大学卒業後、ずっと働いた町であり、仲間と飲んだ町であり、いわばホームグランドの町である。

 初めに、悪いことをいくつか書く。 大阪に生まれ育った生粋の大阪人は怒るかもしれない。怒って、もう少し志を高くしてほしい。

          ☆ 

大阪の歴史を振り返る > 

 明治維新の前後、日本を訪れた多くの外国人が、日本の風景の美しさに感動した。江戸(東京)の街並みも、地方の城下町も、農村風景も、美しかった。

 だが、江戸とは一味違う、町人のつくった美しい街並みを期待して大阪を訪問した西洋人は、その期待を裏切られる。町人の町は、ただごみごみとした町であった。

          ★

 西洋文明を取り入れようと、明治政府は東京帝国大学をつくり、やがて、2番目の帝国大学を、適塾の伝統のある大阪につくろうとした。だが、大阪の町人は、「そんなものをつくっても、もうからない」と言って、断った。 

  「それでは、うちに」と、京都が引き受けた。  

  大阪帝国大学の創設は昭和6年を待たねばならない。日本の統治下にあった韓国の京城帝国大学、台湾の台北帝国大学にも後れを取った。

 大阪町人の「先見性」とは、この程度のものである。

          ★

大阪人の経済的センス > 

 大阪の繁栄は、幕府が天下の米や物産を大阪に集積する制度をつくったからである。大阪町人が自らつくった繁栄ではない。

 徳川幕府の直轄領でなくなった大阪の経済は、明治以後、現在に至るまで、地盤沈下し続けたと言ってよい。

 お公家の町であり、神社・仏閣の町であり、世界遺産の町でもある京都の方が、今や成功した企業も増え、オシャレな店も多く、個性的で、町に豊かさが感じられる。

 志のある地方の若者が、故郷の町を出て自立しようとしたとき、どの都市を目指すだろうか? まずは東京。関西なら京都、そして神戸。 

 大阪の活性化のために若者の集まる町を、と言って、即効性を求め、結局、ドラッグが売り買いされるような低レベルの若者の町をつくる。いかにも安っぽく、志が低く、文化がない。

 いつまで「たこやきと、お好み焼き」の大阪なのか? 庶民の味が悪いというのではない。いかにも安易である。

 若者に媚びず、大人の街づくりをすれば、優秀な若者は自ずから集まってくる。

           ★

世界と交易する美しい大都市 >

 以上述べたような大阪を、織田信長や豊臣秀吉が思い描いていたとは思えない。彼らが思い描いていたのは、世界と交易する大商業都市であり、世界からやってきた人々が、住み着きたくなるような美しい街並みの都市だ。

 橋下知事は、「大阪を第二の首都に」と言うが、いざというときのために第二の首都が必要なら、それは京都。首都は日本の顔であって、大阪に首都の品格や香りがあるとは思えない。

 日本が、高度経済成長期に入ったころ、東京での学生生活を終え、大阪に職を得て、入社式の前に、大阪を知ろうと、環状線に乗って1周した。

 車窓風景は、東京と比べても、自分が生まれ育った地方の城下町と比べても、緑のない荒涼とした街並みだった。線路のあちこちに昼顔が咲いていて、わずかに慰められた。

 以後、そういう感想を周りにもらしたこともあるが、生粋の大阪人の反応は鈍い。

  私が知る生粋の大阪人は、「ぼんぼん」で、大阪の外に出たがらず、大阪しか知らない。知らないで、大阪に満足している。未来に向かって、美しく立派な街並みをつくっていこうなどという大構想を抱かない。もうけるためにも、世界から知性ある人々がやってくる魅力のある町をつくる必要がある、とは思わない。刹那的、享楽的で、要するに、町人のままである。

           ★

明日の大阪を目指す >

 そういう大阪も、少しずつ変わってきた。

 船場の元ぼんぼんや、元農家のビル持ち成金が頭を切り替えたのではない。

 若いときに一旦、大阪の外に出て、再び大阪に帰ってきた気概ある人々が、その変化をもたらした。或いは、大阪人ではなく、仕事の関係で外から流入してきたかっこいい人たちが時代を動かした。

[ 大阪城周辺 ]

     ( ツインビル )

 例えば、大阪城周辺。 ツインビルをかわきりに、徐々に緑の多い、高層ビルの街に整備され、文化施設もでき、桜の季節、新緑のころ、そして紅葉のときと、なかなかの景観の一角になった。大阪城の見学者は観光客だが、ジョギングする人、梅を愛でる人、桜を愛でる人、劇団四季を観劇に来たついでに散歩する人と、いろんな人々が歩いている。

         ( 大阪城天守閣からの眺望 )

 緑を増やしてももうからない。いえいえ、美しい街並みが人を引き寄せ、外から優秀な若者をを呼び込んで、その人たちが新しい経済の原動力になるのである。

[ 中ノ島 ]

 中ノ島公会堂も一度、スクラップされかけたが、センスの良い若い建築家たちが立ち上がり、保存運動を成功させた。

 そのころから、中ノ島の一角は、徐々に都市美をもつ地区として整備されてきた。 近辺のオフィスで働く人たちが、昼休みに散歩して楽しめるよう、もう一息、パリのシテ島に負けない街並みにしてほしい。

  ( 中ノ島・淀屋橋付近 )

[ 御堂筋 ]

 淀屋橋から難波まで、オシャレな店も増え、歩道には彫刻も置かれ、一筋奥に入れば、いくらでも食事できる店もあり、なかなか綺麗な街並みになってきた。時には、御堂筋ブラも楽しい。

     ( 本町付近 )

[ コリアタウン ]

 環状線の「鶴橋駅」は、線路の架橋の下にあり、その風情は、戦後の焼け跡のままだ。そこからしばらく歩くと、コリアタウンがある。賑わっている。大都市の中の、こういう文化も、大切である。

       ( 鶴 橋 駅 )

       ( コリアタウン )

阿倍野のちんちん電車から住吉大社へ ]

 ちんちん電車がいい。

 阿倍野筋の雑踏を過ぎると、ちょうど鎌倉の江ノ電のように、「松虫」駅あたりでは家の軒先をかすめ、道路が広がった「北畠」駅あたりでは、閑静な住宅街や緑濃い公園を眺め、姫松を過ぎると万代池があり、やがて古代から歴史に登場し、和歌にも詠まれた住吉大社に至る。

   松虫、北畠、姫松などという地名、駅名も趣深い。ちんちん電車に乗らず、歩くのもいい。万代池公園は、散歩、ジョギングの人々でにぎわっている。

   大阪は古い街で、由緒ある神社も多い。しかし、市内の大きな神社は、すでに神社の体をなしていない。(小さな神社は、頑張っている)。杜が失われ、社だけで、鉄筋コンクリートの結婚式場などがある。しかし、日本の神様は、人間が造った建物の中に籠っていらっしゃるわけではない。依り代だと言って鏡を置いたりするが、笑止千万である。まず樹木を植え、育て、鬱蒼たる大樹の杜にすべきである。

 住吉大社は、大阪市でも、やや郊外にあるせいか、神社らしい風情がある。

   ( 住吉大社 )                  

           ★

  「志というものは、現実からわずかばかり宙に浮くだけに、花がそうであるように、香気がある」。( 司馬遼太郎 『菜の花の沖 三』から)

 

 

 

 

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日本の街並み 4 ( 東京 )

2012年11月07日 | 国内旅行…街並み

     ( 新宿から富士山 )

日本の街並み百選のこと >

   「日本の街並み百選」という取り組みがある。日本の歴史ある古い街並みを大切にしようという、こういう取り組みは良いことだ。

 ただ、「パリの街並み考」からはじまったこの文章の趣旨とは、少し違う。

 ここで書いてきたのは、そこで生活して(働いて)、休みの日には散歩することが楽しみで、散歩の途中、カフェなどで一服して、「わが街はなんて美しいんだろう」、と思えるような街はどこか、ということである。

 例えば、「百選」の富山の五箇山は、街並みとはいえない。高野山は、一般人が働いて生活するというわけにはいかない。木曾の妻籠や馬籠も、誰でもが住んで、働いて、散歩を楽しむというような「都市」ではない。街という以上は、最低、尾道ぐらいの都市規模を想定している。

 ただし、「百選」を否定しているのではない。

 

[ 東 京 ]

       ( 銀座四丁目 )

 遠い昔、学生時代、4年間、東京に住んだ。

 東京の杉並区に下宿して、電車に乗って、夕方、西のビルの向こうに、富士山がくっきりと見えたときは、感動した。 

 大阪に職を得て以後、出張で何度も東京を訪れたが、仕事が終わればすぐに引き上げていたから、今の東京についてはほとんど知らない。

  とにかく、パリやウィーンと比較するのは気の毒だが、日本の大都会として、東京は綺麗な街だと思う。

 何よりも、樹木が多い。 

 これは、江戸時代の大名屋敷の名残である。諸大名が上屋敷、下屋敷を構え、さらに旗本屋敷もあって、江戸は何といっても武士の町であった。大名屋敷や大きな旗本屋敷には、日本庭園があった。その大大名の屋敷跡の庭園が、今も、そのまま著名な公園になったりしている。

 それに、東京はからっ風の強いところだから、私が住んでいた中野区、杉並区あたりの住宅街も、一軒一軒が樹木に囲まれていた。新緑のころ住宅街の木の塀や垣根の道を行くと、木漏れ日が緑に染まっているようで、気持ちよかった。

 そういう街だから、東京には、人それぞれに、休みの日に散歩したくなる街並みがあるだろうと思う。

 遠い昔は、「銀座の恋の物語」であり、「有楽町で逢いましょう」であったりしたが、この前、東京に行ったときは、表参道などもなかなかなのでは、と思った。

 

     (表参道のオシャレなカフェ)

 

 

 

 

 

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日本の街並み 3 ( 萩 )

2012年11月03日 | 国内旅行…街並み

     ( 萩城の指月山 )

[ 萩 ]

  萩は、歴史の中の町だ。城下の城跡公園まで行くと、日本海を望んで、美しい。

 自転車を借りて、一日、維新の歴史をたずねた。

 城址近くには、上級武士の邸宅跡が並ぶ。崩れた塀やその奥に見える屋敷の姿から、昔日の立派な面影がしのばれる。

 ただ、その一軒ごとの敷地の広さは、村方の庄屋の屋敷と変わらないように思え、江戸時代が身分制度ほどに、格差のあった社会かどうか、考えさせられる。

   100石を超える程度の中級武士の屋敷群は、武家屋敷街として、一画が残されており、散策して楽しい。藩医の家だった桂小五郎邸も、高杉晋作の家もある。質実な書院造りとともに、いずれも小さいながら庭があって、ゆかしい。こういう家は、安らぎを覚える。

       ( 中級武士の武家屋敷街 )

  下級武士の家は、城下の外れにある。吉田松陰の実家(彼は子どものころ、吉田家に養子に出た)は、城下を離れた不便な丘の上にあり、その叔父で、子どもの松蔭に勉強を教えた玉木の家も、こんな小さな家に家族で住んでいたのかと驚くほど、小さい。貧農の家と変わらないだろう。

 

                ( 松下村塾 )

          ( 玉木叔父の居宅 )

   ( 松陰の生家の小さな敷地跡 )

 自転車を走らせていると、あちこちの家の塀の上から、夏蜜柑の実がのぞいている。そのみずみずしさが、往時の青春をしのばせる。

 

      ( 白壁からのぞく夏蜜柑 )

 松蔭は、国禁を犯してペリーの黒船に乗り込み、アメリカに連れて行ってほしいと頼んだ。今、まず必要なことは、敵の文明度を知り、学ぶことだ。だが、もちろんペリーは許可せず、幕府に捕らえられ、最終的には死刑になる。そういう運命が待ち構えていることはわかりながら、彼は、まっすぐに行動していった。吉田家は学者の家であり、彼の思想・行動は、いかにも書生的である。青春とはそういうものだ。

 江戸で死刑になるまで、長州藩に預けられた間、藩はこの若者を惜しんで、出来る範囲の扱いをしてやった。藩も、若者を大切にした藩である。

 松下村塾は、藩に預けられていた間に生まれた。天下の英才を集めたのではない。近所の下級武士や百姓・町人の子弟が集まった。ディスカッションが多かったらしい。松蔭先生は、一人一人の特徴をつかみ、一人一人とディスカッションし、一人一人に期待した。この塾から出た若者たちが、日本を変える。天下の英才を集めて教育したわけではない。

         ( 松陰神社 )

 高杉晋作は、高杉家の一人息子で、もちろん長男であったが、父親がまだ現役であったから、部屋住みであった。文字どおりの書生身分である。長州が連合艦隊と戦って敗れたとき、藩は人選をし、部屋住みの晋作を家老と偽って、講和の使者に送り出した。晋作も可笑しいが、長州藩という藩も可笑しい。

 ( 詳しくは、司馬遼太郎  『世に棲む日々』 文春文庫4巻 を参照)

  薩摩の西郷や大久保がすでに熟達のリーダーであり、十分に策士であるのに対し、長州のリーダーたちはいかにも青くさい書生である。

 萩の町を自転車で風を切りながら、ここは、明治維新のときから動きを止めた、歴史の町だと感じた。だが、その歴史の中から、青春が匂い立ってくる、と肌で感じた。松蔭の夏蜜柑、晋作の夏蜜柑である。

 遠い日の青春と重ねつつ、良い町だと思った。         ( 続く ) 

 

 

 

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日本の街並み 2 (京都、倉敷)

2012年11月01日 | 国内旅行…街並み

 戦後の日本は、大都市・中都市・小都市のどこも、同じ顔をした街並みになった。JRの駅を出て見る「景色」が、どの町も同じだ。

 そんななかで、あえて散歩したくなる街並みを探していくと、結局、歴史的なもの、或いは、綺麗な川や木立ちなどの自然を多く残した町ということになる。

[ 京都 … 祇園~平安神宮

 京都は広い。ここに書くよりもっと、歩いて楽しい街並みがあるはずだ。だから、京都に住む人に教えてもらいたいくらいだ。

 桜のころの祇園界隈が好きだ。祇園から、白川の流れに沿って、京都市美術館、平安神宮まで歩く、短い散歩道が楽しい。

     ( 二寧坂付近 )

 平安神宮から哲学の道は、春は桜、秋には哲学の道のさらに山側の道を、紅葉を愛でながら銀閣寺まで歩くのは最高だが、観光客が多い。 

 清水寺から坂本竜馬の墓を経て円山公園とか、南禅寺・インクラインの辺りもステキなのだが、観光コースだ。

   (平安神宮付近)

 京都に住んで、朝、観光客のいない時間に散歩できたら、いちばんだろう。

 学生だったころ、嵯峨野は、まだ十分に隠れ里的であったが、高度経済成長の中、たちまち宅地が増え、観光バスも近くまで入るようになった。

 学生のころ、紅葉散り敷いた、夢のように美しい小道を歩いたが、翌年、大阪に就職して、秋に行くと、小道はなぜか閉鎖されていた。

京都 … 下鴨神社~上賀茂神社 ]

  街並みとは言えないが、下鴨神社から、賀茂川の堤の道を上賀茂神社、そして大田神社まで歩く道は、まるで参道を行くような清らかさがある。川原は市民の散歩コースにもなっているようだ。

 上賀茂神社(賀茂別雷 ワケイカズチ 神社)、下賀茂神社(賀茂御祖 ミオヤ 神社) は、もとは土地の豪族・賀茂氏の神社であった。土地の神様だ。そこへ平安遷都があり、都を守る社として、伊勢神宮と並んで朝廷からの崇敬を受けることになった。

 賀茂の祭は勅祭となり、斎院が置かれ、皇女が斎王として仕えるようになる。

 大田神社は、上賀茂神社の摂社。アメノウズメを祀るが、静かでゆかしい。 

 

    ( 太田神社 )

[ 倉 敷 ]

  倉敷と言っても、、大原美術館の周辺だけ。

 ここも、観光客の街で、住む人の散歩コースとは言えないが、美しい街並みをつくろうと思えばつくれるという証明になる。 

 パリが美しいのは、そこに人間の「意志」があるということだ。美しい街並みをつくろうという人間の意志だ。そのためには、市の許可なしに、私有地も含め、1本の樹木も切ってはいけないとか、外に洗濯物を干してはいけないとかという規制は、市民として当たり前。

 パリの街並みは、6階建てでそろっている。それ以上の高層建築も、それ以下の一戸建て住宅も、許可されない。パリの端整な美しさは、皆でそういう美しい町をつくろうという「意志」から生まれた。建物を勝手にスクラップするなどもってのほか。許されるのは内部のリフォームだけ。パリ市民であるとは、その程度の不便には耐えるということでもある。

 自由や個人主義の前に、市民精神がある。市民精神の土台の上に、自由や個人主義は成り立っている。

 そこが、戦後の日本人が理解した自由や民主主義と、ちょっと違うところだ。

 自由とは、「各自の家の中は各自の勝手」ということだで、一歩、家を出れば、市民である。

 フランスでは、公立(全部、国立)の学校にイスラム教の服装をして登校して来たら、小学生であろうと、退学になる。公立学校は、キリスト教との長い戦いの末に勝ち取った無宗教の学校だ。個人の心の問題である宗教を持ち込むことは許さない。イスラム教の戒律に従いたいのなら、イスラム教の私学をつくったらいい。

 ( 続 く )

 

 

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日本の街並み 1 (金沢、奈良、鎌倉、軽井沢 )

2012年10月28日 | 国内旅行…街並み

 そこに住んで、休みの日に散歩したくなるような、楽しい日本の街はどこだろう。                                   

金 沢

 加賀百万石の城下町・金沢は、歴史を感じさせる、情緒のある町だ。

 室生犀星が愛した犀川の、川音が大きい。犀川の岸辺を散策していると、音が耳につく。川原になごり雪がある季節もいい。

  金沢城址から兼六園のあたり、浅野川の岸辺のひがし茶屋街、武家屋敷街、寺町街など、散策コースが多彩だ。

 九谷焼や伝統工芸品、銘菓の土産店を見て歩くのも楽しい。日本の文化を感じることができる。

 寒い冬の夜は、郷土料理の治部煮で熱燗を。

           ★ 

奈良 … 旧志賀直哉邸付近

 旧志賀直哉邸を拝観できる。「自我」の作家といわれるが、自分よりも子どもや妻を優先した間取りがいい。

 多分、志賀直哉が毎日のように散歩したであろう界隈は、北側に馬酔木の森があり、春日大社や、興福寺、東大寺へと続く。

             ( 春日大社 )

 

  (興福寺の五重塔)

     (興福寺界隈)

 ひっそり鄙びた住宅街から、春には馬酔木や桜、秋には桜や柿の葉の紅葉・黄葉を愛でながら、崩れた土塀の細道をたどって行くと、猿沢の池や三条通りに到る。

        ( 奈良・三条通り )

 いくらでも足を伸ばせるところがあるのが、いい。

 冬、旧志賀直哉邸のお隣の和風レストランの2階の畳の間で、志賀直哉邸を見下ろしながら、昼間からお酒をいただいた。突然、雪が激しく舞い出し、思わず見とれてしまった。

          ★

鎌 倉

 ここも住んでみたい町だ。

 円覚寺や東慶寺などの禅寺のある北鎌倉、少し華やかな鶴岡八幡宮から鎌倉幕府跡、さらに、江ノ島電鉄の極楽寺駅付近は、中井貴一と小泉今日子のドラマ「終わりから二番目の恋」の舞台になった閑静な住宅街だ。

          (江ノ島電鉄と御霊神社)

 戦前、戦後、川端康成、小林秀雄ら多くの作家、文人が住んだ街でもある。アンチーク店があったり、お洒落なカフェがあったり、塩辛の旨い飲み屋もある。

 しかし、何といっても鎌倉武士の街である。

        ( 雨の日の鎌倉 )

 頼朝、政子が初めて武士の政権を創った街であり、足利、新田軍を防ぎきれず、北条側数千人が討ち死にしたり自害した、その血のしみこんだ地でもある。

 鶴岡八幡宮の朱の鳥居や拝殿を見るたびに、武士の街だと思う。そこが、いい。

 

       ( 鶴岡八幡宮の舞殿 )

                           ★

軽井沢

 街並みとは言えない。避暑地であり、高級別荘地であり、森の散歩道である。

 別荘を持つことを思えば、ずっと経済的だと、思い切って老舗の名ホテルに泊まった。

 夏の喧騒は避ける。5月の連休が終わったころが良い。

 白樺や落葉松の芽吹きが美しい。

          ( 白樺の林 )

 青空も、緑が雨に濡れた日も、いい。

 静かな森の中の、どこへ続くとも知れぬ小道は、散歩にもってこいである。

 浅間山がいい。日本の名風景には、必ずその土地の山がある。ここには、浅間山。名山である。

  

      (軽井沢 森の教会)

( 続 く )

 

 

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