ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

早春の薬師寺へ(その2)

2024年04月19日 | 国内旅行…心に残る杜と社

 (東塔)

<1300年前からここにある塔>

 白鳳伽藍を見てまわりながら、私は、復興された薬師寺の伽藍を今日まで自分が見ていなかったことに、やっと気づいた。北隣の唐招提寺は何度か訪ねたのに、薬師寺の方は … 多分?? 学生時代に訪れてから、一度も来ていない … 気がする。

 理由はいろいろある。先に唐招提寺を訪ねて十分に満腹してしまって、薬師寺に寄らずに帰ってしまったとか、復興の工事が行われている薬師寺を敬遠したとか。

 ところが、入江泰吉さんの写真集で見たり、薬師寺の年中行事の1コマをテレビニュースの映像で見たりして、いつの間にか自分の目で見たつもりになっていたのだ。

 学生時代以来だとすると、幾星霜である。

 以下の引用は亀井勝一郎の『大和古寺風物誌』の一節であるが、書かれたのは太平洋戦争中の昭和18(1943)年。だが、私が訪れた復興前の昭和40(1965)年頃の様子も、これとたいして変わらなかったはずだ。

 「薬師寺は由緒深い寺であるにもかかわらず、法隆寺などと比べて荒廃の感がふかい。…… 金堂内部の背後の壁は崩れたままになっているし、講堂にいたっては更に腐朽が甚だしい。…… 周囲にめぐらした土塀も崩れ、山門も傾き、そこに蔦がからみついて蒼然たる落魄(ラクハク)の有様である」。

 「西塔はすでに崩壊して、わずかに土壇と礎(イシズエ)を残すのみであるが、東塔はよく千二百年の風雨に耐えて、白鳳の壮麗をいまに伝えている」。

 1300年前の金堂、講堂、西塔などは、或いは台風によって打ち壊れ、或いは兵火によって焼け落ちて、歴史の彼方に失われてしまった。亀井勝一郎氏が見た崩れた金堂や講堂は、ずっと後の時代に仮に建てられた建造物である。

 ところが、ただ一つ、東塔のみが白鳳時代のままの姿を保って、1300年間、ずっとここに立ちつづけたのだ。

 学生時代、私たちは、何かで読んで、西塔の跡の礎石の窪みに溜まった小さな雨水に東塔の姿が映るのを見て、廃墟・無常の感慨を抱いたりしたのである。ただ一つ残った塔は、1300年の歳月に思いを馳せる滅びの美学の象徴であったのかもしれない。

  (東塔)

 塔はヨーロッパにも中国にもある。しかし、このような様式 ─ 五重塔とか三重塔 ─ は、日本独自のものと言われる。唐や百済の技術者グループの手を借りながらも、古代日本の美意識が創り出した塔である。

 薬師寺の塔は各層に裳階(モコシ)をつけて六層に見えるが、実は三重塔。

 はるか上空に水煙があり、飛天が笛を吹いていたが、残念ながら1300年の歳月に耐えられず、水煙だけは新しいものに取り換えられた。

 フェノロサが最初に言ったとか、それ以前からある普遍的な言葉だったとか、諸説があるが、とにかく多くの人がこの塔を見上げて、「凍れる音楽」という形容を思い浮かべたのである。

      ★

<閑話1 ─ 1300年前の石の建造物>

 よく、ヨーロッパは石の文化だから残り、日本は木の文化だから残らない、と言われる。

 しかし、ヨーロッパに、1300年前の建築物が、ほぼ完全な形で、どれほど生きた姿をとどめているだろう。薬師寺の東塔は、薬師寺という寺の一部として今も生きており、ピラミッドや秦の始皇帝の陵墓のような考古学の対象ではない。

 1300年前と言えば、西洋はフランク王国のまだメロヴィング朝の時代だった。その時代につくられた建造物で何が残っているだろう?私たちがヨーロッパ旅行に行って見るロマネスクやゴシックの大聖堂は11世紀以降のものだ。

 フランスの地方のロマネスクの大聖堂を訪ねた時、聖堂の壁の石材が古びて、もろくなり、一部がぼろぼろと剥落しているのを目にして、驚いたことがある。このことは、井上靖の小説『化石』の中にも出てくる。石材も、千年もすれば朽ちることがあるのだ。

 (トゥルニュの修道院)

 1300年前と言えば、西アジアではイスラム教が生まれ、東へ西へ猛烈な勢いで膨張していた。アフリカ北岸を西へ西へと進んだ一派は、さらに地中海を渡ってイベリア半島を征服し、ピレネー山脈を隔ててフランク王国と対峙した。

 遥かに遠い古代ギリシャの石の文化は、今は巨大な石柱がゴロゴロと草花の中に転がっているばかり。立っているのは、近代になって、往時の姿を復元してみようと、組み立てられたものだ。

 それでも、シチリアの海に臨む丘の上のセリヌンテの遺跡は美しかった。地中海から吹く風が頬をなで、廃墟の美があった。

 (シチリアのセリヌンテの神殿)

 今もほぼ完全な姿で残っているのは、古代ローマの建造物である。例えば、ローマのパンテオン、或いは、サンタンジェロ城。サンタンジェロ城は中世に改造され教皇のための要塞になった。しかし、元はローマの5賢帝の一人、ハドリアヌス帝が、皇帝の霊廟として造ったものだ。後世に城塞として使われるほどに、頑丈そのものである。

 (ローマのサンタンジェロ城)

 ローマ帝国の建造物が堅固なのは、石というよりもコンクリート製だから。そういう意味では、ローマ帝国というのはたいしたものなのだ。しかし、もちろん、今も当時のままに息づいているわけではない。

       ★

  (西塔)

 西塔は新しい。創建当初のように鮮やかな丹と金色の飾り金具に彩られて、白鳳の美はこのようであったのかと、よくわかる。

  (回廊の外から写す)

      ★

<東院堂の仏たち>

 回廊の外、東塔の東側に東院堂がある。吉備内親王が元明天皇(女帝)の冥福を祈って発願し建立させた。

 今、遺っている建物は鎌倉時代に再建されたものだが、国宝となっている。

 また、本尊の聖観音菩薩も、白鳳時代の国宝。この菩薩様は、写真家の入江泰吉氏の写真集をめくっていて、薬師寺の仏様の中で最も美しいお顔かも知れないと思った。特に横顔が端正である。

 本尊の菩薩を囲むように立つ四天王像は、鎌倉時代の重文。私は、如来像や菩薩像よりも、四天王像 (持国天、増長天、広目天、多聞天) や風雪を耐えた個性的な高僧のお顔や姿が好きである。

      ★

<踏切のある休ケ岡八幡宮>

 南門を出ると、休ケ岡八幡宮がある。薬師寺を守る神社であった。

 (休ケ岡八幡宮)

 この神社の神像は魅力的だが、今は博物館に納められている。

 参拝して、鳥居を出ると、踏切があった。

 遮断機が降り、近鉄電車がごとごとと通り過ぎて行った。

 踏切を渡って振り返ると、踏切越しの神社の杜もなかなか趣があってよい。少なくとも、高速道路や新幹線が走る高架などよりは、のどかでいい。

  ★   ★   ★

<閑話2 ─ 白鳳伽藍の復興のこと>

 薬師寺のホームページを見ると、昭和43(1968)年、管主の高田好胤和上が「物で栄えて心で滅ぶ高度経済成長の時代だからこそ、精神性の伴った伽藍の復興を」と訴え、単に寄付を求めるのではなく、写経して1巻千円の納経料を寄付するという取り組みを始められ、百万巻を目指して全国を行脚された。その精力的な活動の結果、昭和51(1976)年に目標を達成して、金堂が落慶された。

 さらに志は引き継がれて、西塔、中門、回廊、大講堂、食堂と、白鳳伽藍の主要な堂塔が復興され、白鳳の美が蘇った。

上野誠『万葉びとの奈良』から 

 「薬師寺で私が見てほしいのは、復興された伽藍の景観である。われわれは、奈良時代の寺院が朱塗りの華やかな建物群であったことをつい忘れてしまっているからだ。そういう目で、白鳳伽藍の東塔と1981年に再建された西塔を見比べてほしい。平城京の時代の人なら、東塔の方に違和感を持つだろう」。

      ★

<閑話3 ─ 内裏や貴族の邸宅は純和風>

 平城京の中がすべて、薬師寺の白鳳伽藍のような色彩で彩られていたわけではない。

 当時の官寺は唐風建築。中国に新興の宗教である仏教が入ってきたとき、建物をどうするかということで、当時の役所の様式が使われ、そのまま受け継がれた。当時、最も立派な建築物は行政府の建物だったから。

 一方、わが国において、帝が日常に居住し政(マツリゴト)を行う内裏の建物や貴族の邸宅などは、飛鳥時代以来、奈良時代、平安時代を通じて、純和風だった。その様式は、平安時代の10世紀頃 (藤原道長や紫式部の頃) に一つの完成形をみた。学校の歴史で習う「寝殿造り」である。

 出家した人の世界である寺は、唐風で、瓦葺き、朱塗りの柱、壁と土間があった。

 一方、藤原摂関家の東三条殿や、道長が婿入りした左大臣家の土御門殿は、敷地面積が120m四方。北の対、東の対、西の対、そして中心に寝殿と呼ばれる部分があり、寝殿の南側は庭。遣り水が引かれ、池があり、池の中には島があって、長い廊下でつながる釣り殿があった。

 唐風寺院建築に対して、和風建築の特徴は、屋根は檜皮葺き(ヒワダブキ)だった。檜皮葺きの屋根は日本にしかないそうだ。柱は白木壁はなく、土間もなく、高床式である。

 壁がないから、外界との隔てとして、格子に板張りした上下2枚の蔀(シトミ。)があった。しかし、ふだんは下は取り外していることが多く、上は昼間は上げていた。ゆえに冬は相当に寒い。あとは御簾(ミス)や几帳などの建具しかなかった。ちなみに冬の暖房器具は、炭を熾した火鉢のみ。

 この和風様式は江戸時代まで続く。江戸時代の途中から、檜皮葺きは高価で贅沢。贅沢はやめようという将軍様のお触れで瓦葺きになった。それでも、今も、神社で見ることができる。博物館の展示や史跡としてではなく、今日まで生きた姿で存在し続けている。

      ★

<閑話4 ─ ルネッサンスの教皇たち>

 話は飛躍する。薬師寺と直接には関係ない話だ。ただ、─ 檀家などない薬師寺が、幾百万の人々の写経・納経による寄進によって、白鳳伽藍を再建し、奈良の一画に美しい空間を再生させた。人々の写経は金堂の上層の納経蔵に納められている ─ そういう薬師寺の復興という今の世の出来事から、ヨーロッパのルネッサンス期の教皇たちのことを連想した。

 私はオンラインの文化講座で、東大助教の藤原衛先生の「西洋中世史」のお話を2年間に渡って聴講し、この3月で終了した。その最終回は「ルネサンスとルネサンス教皇」。

 教会大分裂(1378~1417)を経て、やっと教皇庁がローマに帰ってきた時、ローマの町はすっかり荒廃し、古代ローマ時代には100万都市と言われた人口も、2~3万人に減っていたという。廃墟と化した古代ローマの残骸に雑草が生い茂り、放牧が行われていた。今のローマからは想像できない。

 そこに、悪名高き10人の教皇が次々に就任する。

 ある教皇は子が9人もいたという。教皇様に隠し子が9人もいたと聞くと、私も驚き、思わず笑ってしまった。また、ある教皇は教皇庁の領土を守るために、自ら甲冑を身に付け軍隊を指揮して戦場に出たという。

 そして、何と言っても悪名高きは、贖宥状(免罪符)の発行。贖宥状を売って民衆から膨大なカネを集め、自らは贅沢三昧の暮らしをしたと、遠い昔、世界史で習ったような …。

 だが、藤原衛先生のお話は少し違う。その一方でルネッサンス教皇たちは、古代ローマ時代の道路や橋、人々に水を供給するローマ水道を蘇らせ、城壁 (いつの時代でも、人民にとっても、安全保障は大切なのだ) を修復し、今日のローマの原型を築いたという。教皇様が帰ってきて、安全であれば、人々も帰ってきて、物作りを再生し、商売も盛んになってくる。

 さらに教皇は、サンタンジェロ城を要塞化し、教皇宮殿やサン・ピエトロ大聖堂を建て、図書館を大改造して今も貴重な書籍を収集し、ルネッサンス画家たちのパトロンになってシスティーナ礼拝堂を美しく飾らせた。フラ・アンジェリコ、ボッティチェリ、ミケランジェロ、ラファエロらに活動の場を与え、また、多数の人文主義者を登用して今の教皇庁の原型となる行政事務局をつくり上げた。

 (サン・ピエトロ大聖堂)

 私も、かつて、ヴァチカン宮殿の美術館に入って、1日や2日ではとても見切れない名画や美術品を見て回り、ただ圧倒されるばかりであったことを覚えている。

 (ヴァチカン美術館のラファエロの絵)

 そういえば、あの歴史作家の塩野七海さんも、30代の前半に『神の代理人』という傑作を書いていた。この本の中で、塩野さんもまた、ルネッサンス教皇を擁護、弁明している。

 隠し子が9人もいると聞いたら思わず笑ってしまうが、品行方正、清廉潔白だけでは、危機下のリーダーは務まらないのだ。

 ルネッサンス教皇たちは、彼らの大事業の資金として、確かに贖宥状(免罪符)を発行して、人々から喜捨を集めた。

 人生の中で誰しも償いきれない罪を犯す。法に触れるような罪ではなく、心の罪だ。年とともにそれが思い出され、心が痛む。人々は自分の罪を償うために巡礼に出、或いは断食して、神に祈った。だが、働き盛りで一家を養わねばならぬ人、さらに病人や老人には、巡礼も断食もままならない。

 そこで、神の代理人(教皇)の代理人である神父の前で、告解し改悛することをセットにして、喜捨を受け、贖宥状を出した。ただカネを得るために贖宥状という紙切れを売りつけたわけではない。これは、教会法に則った正当な行為であったと、藤原先生はおっしゃる。

 しかるにドイツでは、マインツ大司教が、大道芸人のような奇抜な歌と踊りを見せものにして人々を集めさせ、告解・改悛なしに贖宥状を売りまくって、私腹を肥やした。

 その結果、1517年、ルターの宗教改革が起こった。宗教改革はドイツ圏に起こり、フランスやイタリアやスペインでは起きていない。

 悪名高きルネッサンス教皇は、とてつもなくタフでエネルギッシュで、ルネッサンスからバロックの時代を創り出し、ローマを再生させ、時代を前へ進めた。

 歴史の中の出来事や、歴史に登場するリーダーたちを、品行方正とか清廉潔白などという基準で善悪に分け、裁いていては、人間も、人間の営みがつくり出す歴史というものも、見えてこない。

 そういうことを藤原衛先生や作家の塩野七海さんから教えられた。

 廃墟だったローマに人々が戻ってきた。キリスト教世界からはじき出された(当時は特にスペインから)ユダヤ人に、ローマに住むことを許したのもルネッサンス教皇だった。病気になったら、ユダヤ人の医師に診てもらっていたという。人々の祭りが蘇った。その山車のために、教皇様はいつも金一封を出して、どうも教皇庁の窓から祭りをのぞき、楽しんでいらっしゃるみたいだ、そう人々はうわさし合った。

   (了)  

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

早春の薬師寺へ (その1)

2024年04月17日 | 国内旅行…心に残る杜と社

 (薬師寺の金堂と二つの塔)

<早春の西の京へ>

 東大寺二月堂のお水取り(3月1日~14日)の頃、薬師寺では平山郁夫画伯が描いた「大唐西域壁画」の特別公開がある。今年こそはと思って出かけた。

 ウィークデイの良いお天気で、大和路の春も間近と感じさせる日和だった。 

 近鉄の大和西大寺駅で乗り換える。近くに、南都七大寺の一つ、律宗の西大寺がある。少し歩けば、復元された平城宮の大極殿もある。

 乗り換えて近鉄橿原線で南下し、西ノ京駅で降りると、薬師寺は駅のすぐ前の広い一画だ。

 駅名のように、このあたりは「西の京」だった。

 「天子は南面する」という。昔、中国において、天子は北極星に喩えられ、南面して座した。臣下は北面して拝礼する。

 今から1300年の前、唐の長安をモデルとして造られた平城京も、帝が居て政(マツリゴト)を行う平城宮は都の北端の中央にあり、宮殿の南門である朱雀門から、朱雀大路が南へ一直線に通って、平城京の正門である羅城門に到った。

       (高御座 タカミクラ)

  (復元された朱雀門)

 帝が高御座に座して南面すると、朱雀大路の左側が東(若草山の方)、右側が西(生駒山の方)になる。「西の京」である。

 法相宗薬師寺は、西の京の、一条、二条と南へ進んだ六条に建造された(藤原京から移された)。やがて、すぐ北隣に、律宗を伝えた鑑真和上の唐招提寺も造られる。

 今、薬師寺は、回廊に囲まれた二つの区画があり、北の区画は玄奘三蔵院伽藍、南の区画は白鳳伽藍。

 金堂や大講堂、国宝の東塔や西塔などが建つのは白鳳伽藍。

 白鳳 (白鳳時代或いは白鳳文化) は、乙巳(イッシ)の変(645)のあと、天智天皇から、天武天皇、持統女帝を経て、元明女帝の平城遷都(710)までの時代と文化を言う。都は飛鳥京や藤原京に置かれた。

    平城京遷都のあとは、天平時代或いは天平文化と呼ばれる。

 薬師寺は、藤原京の時代に建立され、平城遷都とともに平城京に移ってきた。基礎は白鳳の時代につくられたので、お寺の側も白鳳文化としている。

 今日の目当ては「大唐西域壁画」だから、先に玄奘三蔵院伽藍へ向かった。

      ★

<遥かなる西域への旅路>

 ウィークデイの午前のこと、観光客の少ない清浄な雰囲気の境内を行くと、やがて回廊を巡らせた玄奘三蔵伽藍が見えてくる。

   (玄奘三蔵院伽藍)

 回廊の門の正面から回廊の中をのぞくと、小ぶりだが品のある玄奘塔が見えた。

  (玄奘塔)

 回廊の門の脇にある受付から中へ入った。

 玄奘塔の後ろに、大唐西域壁画殿がある。

 (玄奘塔と大唐西域壁画殿) 

 この一画は、平成3(1991)年に整備・建立された新しい建物群だ。

 玄奘塔は、唐僧の玄奘三蔵を祀る。

 大唐西域壁画殿は、玄奘三蔵の遥かな旅路を描いた壁画を納める建物。壁画を描いたのは、現代日本画の大家である平山郁夫さんである。

 ここは、玄奘三蔵を記念して造られた一画なのだ。

 『西遊記』の話はよく知られている。孫悟空、猪八戒、沙悟浄が、三蔵法師を守って、魑魅魍魎や妖怪と戦いながら、インドへと旅する冒険譚だ。

 その玄奘三蔵は実在した唐代初めの僧侶(602~664)である。27歳のとき、隋が滅び新王朝が興ったばかりの混乱の中で鎖国状態だった唐を密出国した。そして、灼熱のタクラマカン砂漠や極寒の天山山脈を越え、ついにインドのナーランダ寺院に到って、修学した。その後、再び長い旅路を経て、多くの経典や仏像などを唐へ持ち帰った。唐を出てから17年の歳月が流れていた。

 帰国後は唐の皇帝の全面的な支援の下、全国から集められた優秀な若い弟子たちと共に、持ち帰った1335巻の経典の翻訳作業に生涯を捧げ、また、地理的な記録である「大唐西域記」を著した。今、私たちが耳にするお寺のお坊さんのお経にも、玄奘三蔵の訳があるそうだ。

 玄奘三蔵の教えは弟子の慈恩大師によって「法相宗」として大成する。

 さて、当時の日本、…… 乙巳の変のあとの653年、遣唐僧として入唐した道昭(629~700)は、まだ健在であった玄奘三蔵に師事し、帰国に当たって玄奘三蔵の翻訳した経典とともに「法相宗」の教えを持ち帰った。

 南都七大寺のうち、この法相宗の教えを伝える寺が薬師寺と興福寺である。薬師寺にとって、玄奘三蔵は開祖と言っても良い存在なのだ。

 平山郁夫画伯の「大唐西域壁画」は、玄奘三蔵がインドへの旅の途中で見たであろう景色を、7場面、13枚に描いた、全長49mの大壁画である。画伯自身が玄奘三蔵が旅した地に取材し、17年の取材の旅を経て描いた大作である。

 写真撮影はできないから、絵は紹介できない。

 私は、花鳥風月を描いた日本画や美人画などはともかくとして、東山魁夷と平山郁夫の絵は、セザンヌやマチスやシャガールなどの西洋絵画以上に好きである。(好みの話で、優劣の話ではない)。東山魁夷はヨーロッパを、平山郁夫はシルクロードを日本画の中に内包して、瞑想と、静謐さ、そして、ロマンを感じさせる。

  (画集)

   ★   ★   ★

<食堂(ジキドウ)のもう一つの旅路>

 玄奘三蔵院伽藍を出て、本来の順路とは逆になったが、後ろ側の受付から白鳳伽藍に入った。

 薬師寺の見学の本来の順路は、南から南門を入り、さらに回廊の中門をくぐる。

 回廊の中へ入ると、一瞬に視界が広々と開ける。正面には金堂。右に東塔、左に西塔が建つ。金堂の後ろに大講堂 (さらに後ろには食堂) が配置されている。一寺に2塔は薬師寺が初めてとか。「薬師寺式伽藍配置」 ─ 遠い昔、日本史で習ったような気もする。

 今回は後ろから入ったから、最初に出会った白鳳の建造物は食堂(ジキドウ)だった。

  (食堂)

 約300人の僧侶が一堂に会する規模だという。

 それにしても、東大寺や法隆寺など、奈良の古くて落ち着いた、枯淡の趣のある寺々を見慣れた目には、いきなりの華やかな色彩。だが、派手過ぎるということではなく、落ち着いた色調が印象的だった。このような色彩が、1300年前の平城京の中にあった。

 堂の中には、田渕俊夫画伯が描いた14面、50mに渡る壁画「仏教伝来の道と薬師寺」が公開されていた。

 平山郁夫の大唐西域壁画は、玄奘三蔵のインドへの遥かな旅路を描いたもの。

 それ対して、こちらは、中国に伝えられた教えが、遣唐使船による命がけの旅の結果、入唐僧によって日本に伝えられ、飛鳥京から藤原京、平城京へとうつりつつ、仏教文化の花を咲かせた旅路が描かれている。

 もし当時も食堂にこのような壁画があったならば、食堂で食事をとる学僧たちも遥かなロマンの思いを抱いたことであろう。

      ★

<大講堂 … 官寺は今の国立大学>

 奈良の古い寺には講堂がある。

   薬師寺で最も大きい建造物は大講堂。数多くの学僧が法相教学を学び、また、議論した。その伽藍の姿は雄大で美しく、眺めていて心が落ち着く。

   (大講堂)

上野誠『万葉びとの奈良』(新潮選書)から

 万葉学者の上野誠さんは、「官寺は、寺院といっても、学問所であり、今日でいえば国立大学に当たる」と書いておられる。

 明治政府が西洋文明を取り入れるために、次々に帝国大学を設立していったのに似ている。

 中世ヨーロッパにおいても、ゲルマンの王権が確立していく過程で、滅亡したローマ帝国時代のラテン語を受け継いでいるカソリック教会や修道院が学問の府となった。

 「各寺院には、それぞれに得意な研究分野があり、寺院ごとに学派を形成した。東大寺は華厳経の経典研究を中心とした学派を形成したし、薬師寺や興福寺は法相教学の学派を形成したのである。これは、今日の『宗派』とはまったく異なるものであり、僧侶はそれぞれの寺院に赴いて、それぞれの学派の師から自由に学ぶことができた。この気風というものは、今日にも受け継がれていて、南都の僧侶は、宗派に関係なく互いに学び合う気風がある」。

 大講堂には、国宝の仏足石と仏足跡歌がある。

      ★

<壮麗な姿で建つ金堂>

 大講堂を表側に出ると、視界が広々として、後ろ姿であるが金堂と二つの塔がカメラの広角の範囲に収まった。(冒頭の写真)。

 金堂は、言うまでもなく薬師寺の中で最も大切な伽藍で、昭和51(1976)年、最初に再建された建造物である。裳階(モコシ)が付けられ、早春の空へのびやかに建ち、気品があって美しい。

 再建に当たっては、宮大工の西岡常一さんを棟梁とし、伝統的な工法を使って創建当時の姿を再現した。

  (前から見た金堂)

 上層部分には納経蔵があり、薬師寺の伽藍再建のために浄財を寄付して写経・納経した百万巻のお経が納められている。

 堂に入ると、正面に薬師寺の本尊が祀られていた。白鳳時代の作とされ、国宝。中央に薬師如来、両脇に日光菩薩と月光菩薩が立つ。

 上野誠さんは、「私は薬師像を見るたびに …… ほんとうに人を救うことができるのは、こういう自らに対する自信と安らぎが満ちあふれた顔をもった人物であるだろうと(思う)」と述べておられる (『万葉びとの奈良』)。

    薬師寺の歴史を紐解けば、680年、天武天皇が皇后の鵜野讃良(ウノノササラノ)皇女(ヒメミコ)、(後の持統女帝)の病い平癒を祈って発願された。后(キサキ)の病いはまもなく平癒するが、天武天皇は薬師寺の完成を待たずに崩御。天武のあとを継いだ持統天皇の697年に本尊の薬師如来の開眼が行われ、さらに次の文武天皇のときに堂宇が完成した。実に3代に渡った大事業だった。

 710年、元明女帝のときに平城遷都が行われ、薬師寺も平城京の右京に移された。このとき、薬師寺が解体され、仏像とともに平城京に運ばれたのか、平城京に新しく造られたのか、意見が分かれるようだ。

 本尊が置かれた台座の模様も興味深かった。写真撮影は許されないが、食堂のそばの建物にレプリカがあった。

 大陸の遥か彼方から流れ流れて、さらに海を渡り、このユーラシア大陸の果ての島国に伝えられてきた文明の「実」を感じることができる。「実」は椰子の実の「実」である。

 

 台座の框(カマチ)には、ギリシャ由来の葡萄唐草模様やペルシャ由来の蓮華模様が描かれ、四面の北に玄武、東に青龍、西に白虎、南に朱雀。その四神の上には、窓の枠の中に裸形の異人。白虎も龍のようにデフォルメされて表現されている。(その2へ続く)

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする