ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

三四郎の池 (本郷②) … 東京を歩く5

2023年07月17日 | 東京を歩く

      (赤  門)

<「嗚呼玉杯に花うけて」>

 根津神社に沿って権現坂を上がって行くと、本郷通りに出る。

 権現坂通りの北側は根津神社のある文京区根津。南側は文京区弥生。

 江戸時代、南側は水戸家の中屋敷だった。大名屋敷だから、町の名はなかった。

 明治の初めに「向ヶ岡弥生町」という町名が付けられた。

 その後、3人の学生がこの付近で土器を発見した。町の名を取って弥生式土器と名が付けられた。

 以下、『本郷界隈』から。

 「弥生は、いうまでもなく3月の異称である。奈良時代には、すでにあった。弥(ヤ)は、「いや」である。弥栄(イヤサカ)というようにますますという、プラスに向かう形容で、生(オイ)は「生ひ」で、生育のこと。草木がますます生ふるということである。弥生という稲作文化の象徴のようなことばをもつ町名から、稲作初期の土器が出て、弥生式土器となづけられた。まことにめでたいといわねばならない」。

 こうして弥生町は、日本列島史の中に「弥生時代」と呼ばれる大きな時代区分をつくることになった。

 その向ケ丘弥生の地に、東京大学の予備門として、第一高等学校がつくられた。

 昭和10年に、一高は駒場に移転し、代わりに駒場にあった東大農学部がこちらへ移転してきた。

 今、東大の弥生地区には、グランド、地震研究所のほか、東大農学部がある。

 向ケ丘の名も、文京区向丘として、文京区弥生の西側にある。

 一高の寮歌「嗚呼玉杯に花うけて」に、「向ケ丘にそそり立つ五寮の健児意気高し」と歌われている。

 私の高校時代、 ── もちろん、戦後の学制改革による高等学校で、旧制中学校と高等女学校を母体にしている ── 所属したクラブでは皆でよく歌を歌った。自分たちの歌詞集があって、その中に世界の民謡(フォークソング)などとともに、旧制高等学校の寮歌や応援歌も入っていた。「紅萌ゆる丘の上」(三高)や「都の西北」(早稲田)などは、今でも歌うことができそうだ。

 私は高校を卒業するまで城下町の岡山に生まれ育った。その頃、市民の中にまだ旧制第六高等学校(六高)の風韻が残っていた。私の高校の制帽は、全国でも珍しい角帽だった。

 文化祭が終わった夜、仲間と白緒の高下駄 (町の人は「六高下駄」と言っていた) を履いて、旭川のたもとを、放歌高吟して歩いたこともあった。学校に見つかれば、当時でも、停学処分は免れなかっただろう。

 東京では新宿に歌声喫茶「ともしび」ができた。地方都市にも、そういうことは伝わってきていた。ラジオが媒体だった。東京の大学に行ってみようかと思うようになる、ごく小さなきっかけの一つだったかもしれない。

 農学部の正門前を通り、言問い通りを渡ると、弥生から本郷に地名が変わる。そして、東大の大部分の学部や東大病院は、言問い通りをはさんだ本郷の側にある。

 (本郷通り)

       ★

<加賀藩の名残りを留める赤門>

   東大の正門前を一旦、素通りして、赤門までやって来た。

  (赤 門)

 『本郷界隈』から ── 「本郷の東大敷地が、江戸時代の加賀前田家の上屋敷だったことは、よく知られている」。

 「前田家は百万石といわれているだけに、本郷台の上屋敷はじつに広大だった。金沢を本拠とし、越中富山10万石の前田氏を分家とし、さらに……大聖寺7万石の前田氏をも分家にしている。江戸のこの本郷の加賀藩邸は、富山藩邸や大聖寺藩邸を隣接させて、3つの前田氏が一つ地域にいた」。

 ただ、江戸末期の安政地震(1854~55)によって、加賀藩の上屋敷も壊滅した状態で、そのまま維新を迎えたらしい。

 「それを明治初年、文部省が一括買い上げた」。

 この屋敷跡に、明治9(1876)年、まず現在の医学部が移ってきて、以後、順次、西洋風に構内が整備されていった。

 今、加賀前田藩の名残りを留めるのは、赤門と、三四郎の池を中心とした庭園跡ぐらいである。

 文政10(1827)年、11代将軍徳川家斉の息女溶姫(ヤスヒメ)が前田家に嫁いできた。

 『本郷界隈』から ── 「将軍家から降嫁した奥方の場合、奥には住まず、御守殿(ゴシュデン)とよばれる独立した一郭に住むのである。門も建造される。慣例として丹(ニ)に塗られた。現在、東京大学に遺っている赤門である」。

   「赤門」は東京大学の代名詞になっているが、将軍家からやって来た奥方のために建てられた御殿の門だった。それで、あでやかな朱なのだ。

 今は重要文化財で、正門は別にある。

 赤門のそばの塀から、桜があでやかにのぞいていた。「ああ、玉杯に花受けて … 」。

 (赤門の横の桜) 

      ★

<東大構内へ>

 赤門は閉ざされていたので、正門まで引き返した。

 正門の中に、警備員の制服を着た人が3、4人立っているのが見えた。近くにいた人に、「三四郎の池を見学したいのですが、入ってよいでしょうか??」と聞いてみた。

 「建物の中に入らなければ、構内は自由に歩いていいですよ」。こちらの年恰好を見てか、笑顔で「ご近所の方でも、散歩コースにして、毎夕、歩いている方もいますよ」と付け加えた。

   (芽吹いたばかりの本郷構内)

 三四郎の池を見に来るのは、2度目である。

 学生時代、東京見物はしなかったが、三四郎の池だけは見に来た。多分、そのときに湯島天神も訪ねた。

 今回は、時代が時代だから、一応、警備員に入ってよいか尋ねた。国立大学とはいえ、私の私有地ではないのだから断るのは当然だ。

 学生の頃は、東大の構内に入るのに何のためらいもなかった。そもそも制服を着ているわけではないから、他校の学生と区別のしようがない。

 あのときは、三四郎の池だけ見て、こんなものかと思って、帰った。私の大学にも似た池があった。構内の建物の印象はほとんど残っていない。

 年を経て、こうして落ち着いて構内を歩いてみると、私が卒業した大学の校舎や、子どもの頃から見慣れた岡山大学の木造、一部、コンクリート打ちの校舎と比べて、さすがに立派なものである。並木の樹齢にも年輪を感じた。

 以下、『本郷界隈』から。

 「江戸時代の本郷は、このあたりをいくつかの大名屋敷が占拠しているだけで、神田や日本橋、深川といったような街区の文化は、本郷にはなかった。

 それが、明治初年に一変する。

 ここに日本唯一の大学が置かれ、政府のカネがそそぎこまれたのである。勅任官の教授から雇員の門衛にいたるまですべてその給料は国庫から出る。そうした人たちが数千人もいたのである。その上、多額な研究費や営繕費、また医学部附属病院の設備費やら消耗品の費用などがこの構内にそそぎこまれた」。

 「明治後、東京そのものが、欧米の文明を受容する装置になった。同時に、下部(地方や下級学校)にそれを配るという配電盤の役割を果たした。いわば東京そのものが、"文明"の一大機関だった。

 大学に限っていえば、『大学令』による大学は、明治末年に京都大学の各学部が逐次開設されてゆくまで、30余年間、東京にただ一つ存在しただけで、そういうことでいえば、配電装置をさらに限っていえば、本郷がそうだった。

 文明受容の方法は、政府と大学に多数の外国人を"お雇い"としてやとうというやり方でおこなわれた。同時に留学生を欧米に派遣し、やがては外国人教師と交代させるというやり方をとった」。

  「明治政府が雇った外国人の俸給は欧州で評判になるほど高いものだったようで、このため争って優秀な人材が日本に来た。というより、東京に集まった。さらにいえば、本郷に集中した。その高額過ぎる俸給は、当然ながら国家予算を圧迫した。当時の日本は江戸時代に引き続いてコメ農業を主とする国で、外貨の獲得に役立つものといえば、生糸ぐらいのものであり、まことに貧しかった」。

 例えば、明治36(1903)年、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)に代わって、英国留学から帰国した夏目漱石が一高と東京大学の英文学講師に採用されている。このとき、学生たちは小泉八雲の留任運動を起こした。小泉八雲の講義は学生たちを魅了する名講義だったようだ。

 この時代の東大の威厳というものは、朝ドラの『らんまん』を見ていてもわかる。矢田部良吉教授は、幕府の蘭学者の父の下で子供の頃から西洋の教育を受けた。明治に入って、アメリカに留学し、コーネル大学に合格した。

 彼は、東大の植物学教授として、創造的な研究業績には乏しかったかもしれないが、「配電盤」としての役割は十分に果たしたに違いない。

     ★

<三四郎の池> 

 三四郎の池へ向かった。

  (三四郎の池)

 前田家が本格的に園地を大築造し始めたのは、寛永15(1638)年からといわれている。池のほとりに説明パネルが設置されていた。以下、その概略。

 当時、江戸諸藩邸の庭園中第一と称せられた。育徳園と命名され、園中に八景、八境の勝があって、その泉水、築山、小亭等は数奇を極めたとも言われる。池の正式名称は「育徳園 心字池」だが、夏目漱石の『三四郎』以来、三四郎池で親しまれている。

 『本郷界隈』には、「池はあらためて掘られたのか、それともすでにそこに生活用の泉があったのが広げられたのか、おそらく後者にちがいない」。

 「拡張した池の土をまわりに盛り上げて山々が造られ、数百年を経た。池畔に立つと、実に幽邃(ユウスイ)な趣がある。踏み石がいくつか、池心にむかっている」。

 当時 (三四郎が上京した明治40年頃) の東大は、欧米と同じように9月始まりだったようだ。上京したばかりの三四郎は、夏休み中の人気のない東大を訪れ、同郷の先輩で物理の研究をしている野々宮さんを訪ねる。野々宮さんは、地下室のような暗い所で、一人、光の圧力に関する実験をしていた。(のちに、三四郎は、研究者としての彼は日本でほとんど知られていないが、むしろ欧米で評価されていることを知る)。野々宮さんの地下室を出た後、三四郎はこの池のほとりまで歩いてきて、そこにしゃがんで自分の生き方について漠と考える。野々宮さんのように浮世を超絶して、学問・真理の世界に生きる生き方もある … 。すると、池の向こうの丘の上に女性が二人立った。一人は看護婦だが、もう一人は色鮮やかな和服姿。団扇と一輪の花を手にしている。二人は話しながら三四郎のいる方へ降りてきて、三四郎のそばを通って行く。通り過ぎる時、女は手していた花を落としていった。美禰子との最初の出会いである。

 以来、「三四郎の池」と呼ばれるようになった。いい名である。

<司馬遼太郎の『三四郎』論>

 司馬遼太郎は『本郷界隈』の中で、『三四郎』について以下のように言う。

 「当時、大学は東京の本郷に一つしかなかった (厳密には、2番目の大学である京都帝大がこの時期発足早々だった)。高校は全国に8つしかなく、それぞれ東京帝大の予科的な存在になっていた (※旧制高校は、今の四年制大学の教養課程に当たる)。三四郎は熊本におけるその予科段階(第5高等学校)を卒業し、大学課程に入るべく汽車に乗っている」。

 「『三四郎』という小説は、配電盤にむかってお上りをし、配電盤の周囲をうろつきつつ、眩惑されたり、自分をうしないかけたりする物語である。明治時代、東京が文明の配電盤だったという設定が理解できなければ、なんのことだかわからない。主題は青春というものではなく、東京(もしくは本郷)というものの幻妙さなのである。 …… その意味で、明治の日本というものの文明論的な本質を、これほど鋭くおもしろく描いた小説はない」。

 漱石の『こころ』は、明らかに文明論である。激しい勢いで近代化(西洋化)していく日本社会のその奥で、人はどのようになっていくのだろう?? 漱石はそれを、最後に「先生」が自殺するというかたちで具象化した。

 漱石という作家が、例えば自然主義の作家たちと違う点は、そういう現代文明の奥にあるものを凝視しようとする目を持っていたことだろう。

 それでも、『三四郎』は、『坊ちゃん』から出発して、『こころ』に到る前の段階の、やはり青春小説だと思う。

 だが、初めて『三四郎』を読んだ10代の終わりの私は、三四郎がその青春の中で出会った「東京(もしくは本郷)というものの幻妙さ」 ── 近代というもの ── を読みとろうとはしていなかった。

 その近代文明の幻妙さを具象化したヒロインが、美禰子なのだろうと、今は思う。

 

      

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薮下(ヤブシタ)の道 (本郷①) … 東京を歩く4

2023年07月09日 | 東京を歩く

  (しろへび坂)

 石段の上の手すりに、文京区作成のパネルが掛けられていた。「ふるさと景観賞─ しろへび坂」。ちょっと気色の悪い名だ。

 「上中下の三段から成る階段状の坂道は、区内に残る急峻な地形を今に伝えています」とある。

 なるほど、特に急な個所に石段を敷設した坂道が、建物の間を細く蛇行して下っている。

  ★   ★   ★

<鷗外記念館>

 武蔵野台地の東の端が、湯島台や本郷台である。

 江戸時代の村の名が残って、今の住所表示は「文京区湯島〇丁目」とか「文京区本郷△丁目」となっている。

 遥かに遠く遡って ── 縄文海進の頃、この辺りの台地の東側には海が入り込んでいた。縄文人にとって、この台地は、近くの海で魚や貝がとれる一等地だった。文京区だけでも、縄文遺跡が28カ所も発見されているそうだ。

 奈良に住む私は、古代に遡れば、わが大和こそ「国のまほろば」だと思っていたが、湯島台地や本郷台地に残る日本列島人の足跡は遥かに遠くて古い。

 その後の気候変動で、海は後退して湿地になった。

 江戸時代、湿地は埋め立てられていき、不忍池だけが取り残される。

      ★ 

 ── さて、司馬遼太郎の『街道をゆく 本郷界隈』である。

 「本郷台の東の縁辺の台地を歩いてみた。このあたりも、"海"に向かって、急勾配をなしている。その坂の上に、森鷗外が住んでいた」。   

 「その坂」とは、団子坂である。

 東京メトロ千代田線の「千駄木」駅から地上に出ると、「団子坂下」の道路標識があった。

 『本郷界隈』を片手に、団子坂のゆるやかな坂道を上っていく。

 (団子坂の道路)

 鷗外が散歩した明治の風情はどこにもない。車の行き交う車道と、それに沿う歩道と、ビルと、商店や事務所。日本国中のどこにでもある町の風景である。

 しばらく歩くと、信号機の横に「団子坂上」の標識があった。

  (団子坂上の標識)

 もう少し坂を上ると、道路の反対側にちょっと風変わりな建物があった。設置されたパネルから、ああ、これが鷗外記念館だ

  (鷗外記念館)

 鷗外の旧居の跡地は文京区の所有で、この記念館も文京区立である。

 この辺りの地図を示したパネルがあった。

 (文京区設置のマップ)

 名にし負う文京の区であるから、この近くには、鷗外旧居跡の他にも、夏目漱石の旧居跡があり、ほんの少し範囲を広げれば坪内逍遥、正岡子規、樋口一葉らの旧居跡もある。もちろん、旧居そのものが残っているわけではない。

 鷗外記念館の入り口は、団子坂の車道に面していない。玄関は、記念館の角を南へ入った小道に面してあった。パネルに「根津神社➡」と記されている小道である。

 この小道を根津神社へたどり、さらに東大構内の三四郎の池へと歩くのが、今回のウォーキングの目的である。

 (鷗外記念館の表門)

 記念館と同じように、鷗外の旧居も東向の、人通りの少ない小道に面していた。その時代には、谷中から上野の方を望むことができたに違いない。

 旧居は当初、平屋だったが、のち2階を建て増しした。その2階から、何と品川の海が見えたそうだ。それで、鷗外はわが家に『観潮楼』という名を付けた。(団子坂も、別名、潮見坂という。海が見えたのだ)。

 『本郷界隈』に曰く、「鷗外にとって潮というのは、海外という意味もこめていたかもしれない。彼は明治17年以来、4年間ドイツに留学し、この引越しの4年前に帰ってきた。その後も、"西洋"をのどもとまで浸すという濃密な日々を送った。いうまでもなく、ドイツ医学の日本化と、西洋から渡来した美学と文学を自己のものにするための日々である。観潮楼という語感は、単なる漢詩文趣味を超えたものであったろう」。

 近代文学史に「観潮楼歌会」という言葉が出てくる。鷗外がこの2階で開いた歌会の名称である。アララギ派の伊藤佐千夫、明星派の与謝野鉄幹、それに佐々木信綱、後には石川啄木や斎藤茂吉らの新進気鋭も参加した。 

      ★

<しろへび坂>

 『本郷界隈』には、この辺りの地形を説明した鷗外自身の文章も紹介されている。

 「団子坂上から南して、根津権現の裏門に出る岨道(ソワミチ)に似た小径がある。これを薮下の道という」(森鷗外)。

 岨道(ソワミチ)とは山の険しい道。旧居の前は、当時、岨道を思わせるような素朴な小径だったのだろう。

 「(薮下の道の)崖の上は向ケ丘から王子に連なる丘陵である。そして、崖の下の畠や水田を隔てて、上野の山と相対している」(森鷗外)。

 『本郷界隈』は言う。「要するに、薮下の道は、…… 武蔵野台地が尽き果てる崖に添う道である。左側が、ときに谷になっておちこんでいる」。

 鷗外記念館の玄関前の細い道が、「薮下の道」である。

 そこに立つ令和の時代の私の眼下には、鷗外が書いたような「畑や水田」はなく、また、その向こうに「上野の山」も見えない。

 ただ、『本郷界隈』が「ときに谷になっておちこんでいる」と言う光景はあった。

 現在の「崖の下」の景色が、冒頭の写真の「しろへび坂」である。

  (しろへび坂)

 「武蔵野台地が尽き果てる崖に添う道」であることは実感できる。あちこちを、地形、地学的視点で見て回る『ブラタモリ』みたいだ。

 冒頭に紹介した文京区のパネル「ふるさと景観賞─ しろへび坂」には、「坂の上から望むと、建物の狭間にスカイツリーが姿を現します」という一文も添えてあった。

 この説明を読まなければ、なかなか気づかないだろう。

 カメラのズームを望遠にして撮ってみた。ビルの間にスカイツリーがあった

(ビルの狭間のスカイツリー)

     ★

<三四郎と美禰子の道>

 鷗外記念館には入らない。

 『街道をゆく 本郷界隈』の中で私が一番興味深く読んだのは、「薮下の道」の章である。今回のウォーキングの目的は、この小径をたどってみることにある。

 『本郷界隈』によると、鷗外に『団子坂』という短編があるそうだ。

 若い男女が人気のない小道を話しながら歩いていく。話は二人の会話だけで成り立っている。若い男は大学生で、若い女はヴァイオリンケースを持っているからお稽古返りのお嬢さん。

 ここでは二人の話の内容は省略するが、その中で、若い男が「三四郎が何とかいう、綺麗なお嬢さんとここから曲がったのです」と言うのである。

 鷗外の作品の中の登場人物が、漱石の作品の中の登場人物のことを話題に出す。司馬さんも面白がっているが、私も愉快に感じた。なにしろ、明治を代表する二人の文豪である。

 森鷗外が『団子坂』という小品を書いたのは明治42年。その前年に夏目漱石の『三四郎』が『朝日新聞』に連載された。『団子坂』の主人公は『三四郎』を読んでいて、三四郎と美禰子が歩いた道を歩いているのだ。

 そこで、司馬遼太郎の『本郷界隈』も、この小道をたどる。

 心ひかれて、私も歩く。

  (薮下の道)

 団子坂の自動車道路から一本中に入っただけなのだが、人気のない静かな小道である。

 ただ、鷗外が書いているような田舎の小径ではなく、今はすっきりと舗装されて歩きやすい。

 まだ花びらを少しばかり残した桜の木や新緑がみずみずしい静かな住宅街の道だ。だが、高級住宅街のような所ではなく、ごくふつうの東京の庶民の家々が並んでいる。歩いてゆくと、区立の中学校もあった。

 通りから右手の丘に上がる脇道もあったが、その先で住宅は切れて、藪になってい

た。

 歩いて行っても、三四郎と美禰子が歩いたような野の広がりや小川が流れる風景はなかった。

 (薮下の道)

 それでも歩いて、感じることが大切なのである。

 『三四郎』を読んだのは18~19歳ごろだったか??

 じっくりと読んだわけではない。さっとストーリーを追っただけだった。あの年齢の頃、何かを探し、やみくもに求め、いろんなものにぶつかっていた

 もう少しゆっくりと歩いたほうがいい、と、今の私は当時の私に呼びかける。人より先に行こうとか、あせって結論を求めるとか、そんなことより、時々立ち止まって周りの景色を楽しみながら、ゆったりと歩いて行けばいいんだよ。

 主人公の三四郎は23歳。満年齢なら22歳。熊本の第五高等学校を卒業して上京し、東京帝大に入る。上京する途中、宿で1泊し、2日間列車に揺られてやっと東京に到るような明治40年頃の話である。九州の眠ったような田舎から出てきた青年は、西洋に追いつこうと激しく動く東京の中で、大学やその周辺にいる人々と出会い、とまどい、生き方を模索する。出会いの中には女性もいる。ヒロインの名は美禰子(ミネコ)。三四郎と同年齢ぐらいの魅力的な東京の女性である。

 『三四郎』を読んだ頃の私には、三四郎のとまどいや模索がピンとこなかった。読みながら退屈した。

 ただ、美禰子という女性は魅力的だと思った。「コケティッシュ」という言葉が頭に浮かんだのを覚えている。とても魅力的だが、しかし、好きにはなれなかった。

 それから後、学生時代に『こころ』をはじめとする漱石作品を読んだ。特に『こころ』は強いインパクトがあった。そのテーマ性の強さに比べ、『三四郎』という作品は、『吾輩は猫である』などと同列の淡々とした作品だと思い、長く忘れてしまった。

 『本郷界隈』で語られる「美禰子」像も、若い日の私が思い描いた美禰子像と大差ないように思う。こういう美禰子像が一般的な見方なのだろう。

 「漱石の『三四郎』についてふれておく。主人公たちが、団子坂に菊人形を見物にゆくくだりが出てくる。迷子が出るほどの雑踏であった。… 雑踏で気分がわるくなった女主人公の美禰子が、三四郎を人気のない小道へ誘う」。

 「小川が、流れている。やがて根津にぬける石橋のあたりまできた」。

 「美禰子は、人目のない道に入ってから、『迷子の英訳を知っていらしって』と問う。『教えてあげましょうか』と言って、ストレイ・シープという言葉を、三四郎の胸のなかに投げこむのである」。

 ストレイ・シープ(迷える羊)は、新約聖書に出てくるイエスの言葉である。もし1匹の羊が迷い出たとき、羊飼いは99匹を山に残して、迷える1匹を探しに行かないであろうか。神の愛とは、そのようなものである。

 (その頃の私は、福音書の話は知っていた)。

 美しく、教養もある美禰子は、自分を「迷える羊」だと言って、初心な三四郎の心をひきつける。

 コケティッシュな女だと、若い日の私は思った。魅力的だが、好きにはなれない。

 だが、読んだのは遠い日のこと。そういう理解でよいのだろうか?? というわずかな引っ掛かりが、当時の若い私の心にあったような気もする。

 上に引用した『本郷界隈』のアンダーラインは私が施したのだが、この司馬さんの言い方では美禰子は「悪女」になってしまう。美禰子に対してちょっときびしすぎるのではないかと感じた。美禰子が悪女なら、三四郎は被害者になってしまう。それでは、三四郎の青春まで侮辱することにならないか??

 私自身、著者の漱石よりも相当に年上になった。今、読み直したら、美禰子という若い女性は私にどのように映るのだろうか??

 『三四郎』を読んだ若い日もなつかしく思われ、この道を歩いてみたかった。

 ほどなく、日本医科大のそばを通り、根津権現の裏門に出た。

      ★

<根津神社(根津権現)>

   神仏習合の江戸時代には、根津権現と呼ばれた。その境内は、のちに6代将軍になる家宣の邸があった所。家宣は叔父である5代将軍綱吉の養嗣子となり、江戸城に移る。その邸跡に、綱吉の命で、団子坂上に鎮座していた根津権現が移された。

 権現造りの社殿7棟はその頃のもので、今は重要文化財。

 ご近所に住んだ森鷗外は、根津神社の氏子だったそう。

 裏門から入ると、新緑のみずみずしい丘の上に摂社の乙女稲荷神社があった。結婚式の前か後のようで、新郎新婦らしい男女も見えた。朱の美しい雅やかな神社である。

  (乙女稲荷神社)

 西門のあたりも、透塀が通って瀟洒で、時代劇に出てきそうな景観である。

  (西門と透塀)

 根津神社はつつじの名所らしい。一つの丘がつつじの木で埋まっていた。今は4月初旬だから、満開にはほど遠い。 

  (池のつつじ)

  (楼 門)

 裏門から入って、朱と緑の美しい境内を歩き、表門から出た。

 楼門も堂々としている。

 『本郷界隈』は言う。

 「根津権現の社殿その他は、権現造り優等生のようなつくりである。桃山文化が生んだ神社建築で、ほどよく重々しい」。

 「境内に、池がある。根津権現の池は東大構内の三四郎池と同様、本郷台地の地下水脈が湧きだしたものであるらしい」。

 関東地方の台地では、「井戸を掘りぬく(筒状に掘削する)技術は中世末期までみられなかったといわれる」。

 「平安時代の武蔵の国では、地表をひろく掘りはじめてスリバチ状にし、底に湧いた水を汲むというふうだったそうである。掘りかねるということから、『ほりかねの井』といわれた」。

 「根津の池や三四郎池は、ひょっとするとほりかねの井が、たまたま豊富な水脈にあたって大きく湧出したものかもしれない」。

 「いずれにしても、中世以前の武蔵人にとって、いのちの水である」。

 「この地が、江戸時代に甲府中納言(6代将軍家斉のこと)の屋敷になったり、そのあとが神社になったりする以前から池を中心に神聖な場所だったのではないか」。

 司馬さんは文献的な根拠はないと断っているが、私もこの考えにとても共感する。

 初め、鬱蒼とした木陰に小さな社と、神を祀るために水を汲む泉があった。その後の屋敷も、神社も、それらを取り込みながらつくられたのであろう。

 それでは、三四郎の池に行ってみよう。

 

 

 

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