(赤 門)
<「嗚呼玉杯に花うけて」>
根津神社に沿って権現坂を上がって行くと、本郷通りに出る。
権現坂通りの北側は根津神社のある文京区根津。南側は文京区弥生。
江戸時代、南側は水戸家の中屋敷だった。大名屋敷だから、町の名はなかった。
明治の初めに「向ヶ岡弥生町」という町名が付けられた。
その後、3人の学生がこの付近で土器を発見した。町の名を取って弥生式土器と名が付けられた。
以下、『本郷界隈』から。
「弥生は、いうまでもなく3月の異称である。奈良時代には、すでにあった。弥(ヤ)は、「いや」である。弥栄(イヤサカ)というようにますますという、プラスに向かう形容で、生(オイ)は「生ひ」で、生育のこと。草木がますます生ふるということである。弥生という稲作文化の象徴のようなことばをもつ町名から、稲作初期の土器が出て、弥生式土器となづけられた。まことにめでたいといわねばならない」。
こうして弥生町は、日本列島史の中に「弥生時代」と呼ばれる大きな時代区分をつくることになった。
その向ケ丘弥生の地に、東京大学の予備門として、第一高等学校がつくられた。
昭和10年に、一高は駒場に移転し、代わりに駒場にあった東大農学部がこちらへ移転してきた。
今、東大の弥生地区には、グランド、地震研究所のほか、東大農学部がある。
向ケ丘の名も、文京区向丘として、文京区弥生の西側にある。
一高の寮歌「嗚呼玉杯に花うけて」に、「向ケ丘にそそり立つ五寮の健児意気高し」と歌われている。
私の高校時代、 ── もちろん、戦後の学制改革による高等学校で、旧制中学校と高等女学校を母体にしている ── 所属したクラブでは皆でよく歌を歌った。自分たちの歌詞集があって、その中に世界の民謡(フォークソング)などとともに、旧制高等学校の寮歌や応援歌も入っていた。「紅萌ゆる丘の上」(三高)や「都の西北」(早稲田)などは、今でも歌うことができそうだ。
私は高校を卒業するまで城下町の岡山に生まれ育った。その頃、市民の中にまだ旧制第六高等学校(六高)の風韻が残っていた。私の高校の制帽は、全国でも珍しい角帽だった。
文化祭が終わった夜、仲間と白緒の高下駄 (町の人は「六高下駄」と言っていた) を履いて、旭川のたもとを、放歌高吟して歩いたこともあった。学校に見つかれば、当時でも、停学処分は免れなかっただろう。
東京では新宿に歌声喫茶「ともしび」ができた。地方都市にも、そういうことは伝わってきていた。ラジオが媒体だった。東京の大学に行ってみようかと思うようになる、ごく小さなきっかけの一つだったかもしれない。
農学部の正門前を通り、言問い通りを渡ると、弥生から本郷に地名が変わる。そして、東大の大部分の学部や東大病院は、言問い通りをはさんだ本郷の側にある。
(本郷通り)
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<加賀藩の名残りを留める赤門>
東大の正門前を一旦、素通りして、赤門までやって来た。
(赤 門)
『本郷界隈』から ── 「本郷の東大敷地が、江戸時代の加賀前田家の上屋敷だったことは、よく知られている」。
「前田家は百万石といわれているだけに、本郷台の上屋敷はじつに広大だった。金沢を本拠とし、越中富山10万石の前田氏を分家とし、さらに……大聖寺7万石の前田氏をも分家にしている。江戸のこの本郷の加賀藩邸は、富山藩邸や大聖寺藩邸を隣接させて、3つの前田氏が一つ地域にいた」。
ただ、江戸末期の安政地震(1854~55)によって、加賀藩の上屋敷も壊滅した状態で、そのまま維新を迎えたらしい。
「それを明治初年、文部省が一括買い上げた」。
この屋敷跡に、明治9(1876)年、まず現在の医学部が移ってきて、以後、順次、西洋風に構内が整備されていった。
今、加賀前田藩の名残りを留めるのは、赤門と、三四郎の池を中心とした庭園跡ぐらいである。
文政10(1827)年、11代将軍徳川家斉の息女溶姫(ヤスヒメ)が前田家に嫁いできた。
『本郷界隈』から ── 「将軍家から降嫁した奥方の場合、奥には住まず、御守殿(ゴシュデン)とよばれる独立した一郭に住むのである。門も建造される。慣例として丹(ニ)に塗られた。現在、東京大学に遺っている赤門である」。
「赤門」は東京大学の代名詞になっているが、将軍家からやって来た奥方のために建てられた御殿の門だった。それで、あでやかな朱なのだ。
今は重要文化財で、正門は別にある。
赤門のそばの塀から、桜があでやかにのぞいていた。「ああ、玉杯に花受けて … 」。
(赤門の横の桜)
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<東大構内へ>
赤門は閉ざされていたので、正門まで引き返した。
正門の中に、警備員の制服を着た人が3、4人立っているのが見えた。近くにいた人に、「三四郎の池を見学したいのですが、入ってよいでしょうか??」と聞いてみた。
「建物の中に入らなければ、構内は自由に歩いていいですよ」。こちらの年恰好を見てか、笑顔で「ご近所の方でも、散歩コースにして、毎夕、歩いている方もいますよ」と付け加えた。
(芽吹いたばかりの本郷構内)
三四郎の池を見に来るのは、2度目である。
学生時代、東京見物はしなかったが、三四郎の池だけは見に来た。多分、そのときに湯島天神も訪ねた。
今回は、時代が時代だから、一応、警備員に入ってよいか尋ねた。国立大学とはいえ、私の私有地ではないのだから断るのは当然だ。
学生の頃は、東大の構内に入るのに何のためらいもなかった。そもそも制服を着ているわけではないから、他校の学生と区別のしようがない。
あのときは、三四郎の池だけ見て、こんなものかと思って、帰った。私の大学にも似た池があった。構内の建物の印象はほとんど残っていない。
年を経て、こうして落ち着いて構内を歩いてみると、私が卒業した大学の校舎や、子どもの頃から見慣れた岡山大学の木造、一部、コンクリート打ちの校舎と比べて、さすがに立派なものである。並木の樹齢にも年輪を感じた。
以下、『本郷界隈』から。
「江戸時代の本郷は、このあたりをいくつかの大名屋敷が占拠しているだけで、神田や日本橋、深川といったような街区の文化は、本郷にはなかった。
それが、明治初年に一変する。
ここに日本唯一の大学が置かれ、政府のカネがそそぎこまれたのである。勅任官の教授から雇員の門衛にいたるまですべてその給料は国庫から出る。そうした人たちが数千人もいたのである。その上、多額な研究費や営繕費、また医学部附属病院の設備費やら消耗品の費用などがこの構内にそそぎこまれた」。
「明治後、東京そのものが、欧米の文明を受容する装置になった。同時に、下部(地方や下級学校)にそれを配るという配電盤の役割を果たした。いわば東京そのものが、"文明"の一大機関だった。
大学に限っていえば、『大学令』による大学は、明治末年に京都大学の各学部が逐次開設されてゆくまで、30余年間、東京にただ一つ存在しただけで、そういうことでいえば、配電装置をさらに限っていえば、本郷がそうだった。
文明受容の方法は、政府と大学に多数の外国人を"お雇い"としてやとうというやり方でおこなわれた。同時に留学生を欧米に派遣し、やがては外国人教師と交代させるというやり方をとった」。
「明治政府が雇った外国人の俸給は欧州で評判になるほど高いものだったようで、このため争って優秀な人材が日本に来た。というより、東京に集まった。さらにいえば、本郷に集中した。その高額過ぎる俸給は、当然ながら国家予算を圧迫した。当時の日本は江戸時代に引き続いてコメ農業を主とする国で、外貨の獲得に役立つものといえば、生糸ぐらいのものであり、まことに貧しかった」。
例えば、明治36(1903)年、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)に代わって、英国留学から帰国した夏目漱石が一高と東京大学の英文学講師に採用されている。このとき、学生たちは小泉八雲の留任運動を起こした。小泉八雲の講義は学生たちを魅了する名講義だったようだ。
この時代の東大の威厳というものは、朝ドラの『らんまん』を見ていてもわかる。矢田部良吉教授は、幕府の蘭学者の父の下で子供の頃から西洋の教育を受けた。明治に入って、アメリカに留学し、コーネル大学に合格した。
彼は、東大の植物学教授として、創造的な研究業績には乏しかったかもしれないが、「配電盤」としての役割は十分に果たしたに違いない。
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<三四郎の池>
三四郎の池へ向かった。
(三四郎の池)
前田家が本格的に園地を大築造し始めたのは、寛永15(1638)年からといわれている。池のほとりに説明パネルが設置されていた。以下、その概略。
当時、江戸諸藩邸の庭園中第一と称せられた。育徳園と命名され、園中に八景、八境の勝があって、その泉水、築山、小亭等は数奇を極めたとも言われる。池の正式名称は「育徳園 心字池」だが、夏目漱石の『三四郎』以来、三四郎池で親しまれている。
『本郷界隈』には、「池はあらためて掘られたのか、それともすでにそこに生活用の泉があったのが広げられたのか、おそらく後者にちがいない」。
「拡張した池の土をまわりに盛り上げて山々が造られ、数百年を経た。池畔に立つと、実に幽邃(ユウスイ)な趣がある。踏み石がいくつか、池心にむかっている」。
当時 (三四郎が上京した明治40年頃) の東大は、欧米と同じように9月始まりだったようだ。上京したばかりの三四郎は、夏休み中の人気のない東大を訪れ、同郷の先輩で物理の研究をしている野々宮さんを訪ねる。野々宮さんは、地下室のような暗い所で、一人、光の圧力に関する実験をしていた。(のちに、三四郎は、研究者としての彼は日本でほとんど知られていないが、むしろ欧米で評価されていることを知る)。野々宮さんの地下室を出た後、三四郎はこの池のほとりまで歩いてきて、そこにしゃがんで自分の生き方について漠と考える。野々宮さんのように浮世を超絶して、学問・真理の世界に生きる生き方もある … 。すると、池の向こうの丘の上に女性が二人立った。一人は看護婦だが、もう一人は色鮮やかな和服姿。団扇と一輪の花を手にしている。二人は話しながら三四郎のいる方へ降りてきて、三四郎のそばを通って行く。通り過ぎる時、女は手していた花を落としていった。美禰子との最初の出会いである。
以来、「三四郎の池」と呼ばれるようになった。いい名である。
<司馬遼太郎の『三四郎』論>
司馬遼太郎は『本郷界隈』の中で、『三四郎』について以下のように言う。
「当時、大学は東京の本郷に一つしかなかった (厳密には、2番目の大学である京都帝大がこの時期発足早々だった)。高校は全国に8つしかなく、それぞれ東京帝大の予科的な存在になっていた (※旧制高校は、今の四年制大学の教養課程に当たる)。三四郎は熊本におけるその予科段階(第5高等学校)を卒業し、大学課程に入るべく汽車に乗っている」。
「『三四郎』という小説は、配電盤にむかってお上りをし、配電盤の周囲をうろつきつつ、眩惑されたり、自分をうしないかけたりする物語である。明治時代、東京が文明の配電盤だったという設定が理解できなければ、なんのことだかわからない。主題は青春というものではなく、東京(もしくは本郷)というものの幻妙さなのである。 …… その意味で、明治の日本というものの文明論的な本質を、これほど鋭くおもしろく描いた小説はない」。
漱石の『こころ』は、明らかに文明論である。激しい勢いで近代化(西洋化)していく日本社会のその奥で、人はどのようになっていくのだろう?? 漱石はそれを、最後に「先生」が自殺するというかたちで具象化した。
漱石という作家が、例えば自然主義の作家たちと違う点は、そういう現代文明の奥にあるものを凝視しようとする目を持っていたことだろう。
それでも、『三四郎』は、『坊ちゃん』から出発して、『こころ』に到る前の段階の、やはり青春小説だと思う。
だが、初めて『三四郎』を読んだ10代の終わりの私は、三四郎がその青春の中で出会った「東京(もしくは本郷)というものの幻妙さ」 ── 近代というもの ── を読みとろうとはしていなかった。
その近代文明の幻妙さを具象化したヒロインが、美禰子なのだろうと、今は思う。