ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

「魔法の解けて」 (2024年の春)…読売俳壇・歌壇から

2024年07月23日 | 随想…俳句と短歌

   (早春の山陰)

 読売俳壇・読売歌壇に、2024年の春、掲載された句や歌の中から、心ひかれた作品を選びました。

 春の季節は、句も歌も明るく朗らかで、楽しくにぎわっているように感じました。

 ただし、今は、もう、夏の盛りです。皆様、ご自愛くださいますように。

   ★   ★   ★

<希望の春>

〇 制服の魔法の解けて卒業す(宇陀市/泉尾武則さん)

<正木ゆう子先生評>「高校からの卒業。こちらも女子を想像。今時の制服はお洒落で、実に可憐である。守られた魔法の日々が終わり、人生へと踏み出す春」。

 「卒業」は春の季語。春は、別れがあり、新しい出会いもあり、希望も不安もあって、心ときめく季節です。

 確かに!! ── 制服は魔法ですね。

  (ディズニーランド/ピーターパン)

 あなたは一人立ちするにはまだ少し早い。魔法をかけます。あなたはお姫様です。時が来るまでは、夢を見ていらっしゃい。

 …… さあ、あなた!! 春になりましたよ。その時が来たのです。魔法を解きますからね。元気に、でも、心を引き締めて、旅立って行くのですよ。

      ★

〇 春の風遠くの君へ届く頃 (東京都/関根ともみさん) 

<矢島渚男先生評>「なんと青春性豊かな句だろう。俳句がこうした抒情を失って久しい。この句には季節の喜びが豊かにある。暖かい春がだんだんに北上して行き、思い人へ届く。『私の思いも届けてください』」。

  (5月の陸奥湾)

 矢島先生の「俳句の抒情」という言葉に心ひかれました。

      ★ 

〇 灯台のような学校作らむと離島に赴く新任教師(岩出市/西岡さちよさん)

 なんと爽やかな志でしょう👏💕。

  (大王崎灯台)

 「先生」自身が灯台ではないと思います。家庭的に、或いは社会的に、いろんな環境にある子どもたち。でも、誰もが、学校は面白いよ、と感じている。そんな学校です。

 なぜ?? ── そこにはちゃんとした秩序があり、しかもみなが前を向いて頑張っていて、しかも、お互いを守りあっていると感じられるから。

 先生は、その中心ではありません。学級委員長も副委員長も、各委員も、班長さんや副班長さんたちも、みんな頑張っている。フォロワーたちも、一人一人が存在感を出している。主人公は子どもたち自身。一人一人がいつの間にか、誰でもリーダーになれるように成長してきている。そうなるよう、縁の下で仕組んできたのが先生だ。子どもたちも、実はそのことはわかっていて、先生を尊敬している。

  ★   ★   ★

<旅立ちの春>

〇 あてどなく流れゆく先春の雲(浜松市/久野茂樹さん)

<矢島渚男先生評>「今は旅行に行くときには綿密な予定を立てるが、かつては『あてど』ない旅もあった。そんな旅がしたいもの。いい句だ」。

 矢島先生もロマンティストです。

 (フェリーに乗って)

      ★

〇 土佐は山土佐は海なり春の旅(岡崎市/加藤幸男さん)

 若いころ、田宮虎彦の「足摺岬」を読んで、藪椿の咲く小道をたどり、足摺岬に立ちました。

 また、その後、悠々たる太平洋を見たいと思って、烈風が吹く室戸岬にも立ちました。

 やがて四万十川や仁淀川の清流が有名になりました。

 山から海へと、両方を訪ねてこそ、旅らしい旅ですね。

      ★

〇 クロッカスもうじき咲くか子の部屋に「地球のあるき方」置いてあり (船橋市/矢島佳奈さん)

<俵万智先生評>「直接の関係はないのだが、取り合わせの妙で、クロッカスと子どもの成長が重なって感じられる。部屋を出て海外へ旅する日も遠くなさそうだ」。

 クロッカスについて、ちょっと調べてみました。

 早春にいち早く花を咲かせる。「スプリングエフェメラル(春の妖精)」というそうです。他にカタクリや福寿草なども。花言葉は「青春の喜び」。

 沢木耕太郎『旅する力』から

 「もしあなたが旅をしようかどうしようかと迷っているとすれば、わたしはたぶんこう言うでしょう。

 『恐れずに』

 それと同時にこう付け加えるはずです。

 『しかし、気を付けて』」

      ★

〇 差出人不明の風が届いたら春だと思えスニーカー履く(大和郡山市/大津穂波さん)

 「スニーカー履く」が、旅に出ることを含意しているのかどうかはわかりませんが ……。

 私はかつてポルトガルの、言い換えればユーラシア大陸の最西南端のサグレス岬へ行きました。その旅のことは、当ブログの「ポルトガル紀行」(2017年投稿)に書いています。司馬遼太郎のエンリケ王子を追う旅(『街道をゆく23 南蛮のみち2』)を追体験する旅でしたが、また、沢木耕太郎の『深夜特急』に心ひかれたことも強い動機になっていました。しかし、若くはない私は、路線バスを乗り継いでユーラシア大陸をあてどなく旅した沢木さんのようにはいきません。行程表を作り、見通しをもって出発する必要があります。ところが、リスボンやポルトのことは『地球の歩き方』にも詳しく書いてありますが、サグレス岬については数行しか触れられていません。

 それで、ネットの中に個人の紀行文を探しました。実際に行った人の生きた情報がほしかったのです。すると、意外にも、観光地でも何でもないこの岬へ、何人もの日本の若者たちが、一人旅で、遥々と旅をしていることを知りました。ポルトガルの若者よりも、日本の若者の方が行っているのかもしれないと思いました。そこは、『深夜特急』の沢木耕太郎が1年もバスを乗り継ぐ旅を続けて、とうとうこの最果ての岬に立ち、「これで終わりにしようかな」と思った所なのです。

 『深夜特急』を読んだ若者たちは、自分もバックパーカーの旅に出ることを夢見、そして、旅に出ます。「青年よ、荒野を目指せ」。だが、誰にも諸事情があるから、沢木さんのように1年も旅を続けることはなかなかできません。それで、せめて、主人公が「ここで終わりにしようかな」と思った、ユーラシア大陸の果てには、行ってみたいと思ったのではないでしょうか。

 サグレス岬は、そういう日本の若者の青春の岬でもあったのです。そして、その若者たちの中に、一人旅の日本の若い女性たちもいることを知りました。率直に、すごいなと思いました。

 この歌の作者は多分、女性だろうと思って、書きました。

  (サグレス岬への道)

 サグレス岬にはエンリケ王子がつくったという航海学校(要塞)の跡らしい建造物の一部が残り、そこまでの一本道をひたすら歩きました。ユーラシア大陸の果ては荒涼として、ただ暑かった。沢木さんも、日本の若者たちも、みんなこの道を歩いたのだと思って、年甲斐もなく頑張りました。

 (サグレス岬)

 サグレス岬もまた荒涼としていて、その先は茫々と大西洋が広がっていました。毎日、この海を見て、その果てを極めたいと思っていたエンリケ航海王子のことを思いました。

  ★   ★   ★

<里の春>

〇 氏神の定めしところ蕗(フキ)の薹(トウ) (江別市/北沢多喜雄さん)

 (蕗の薹)

 春は、まず里から。蕗の薹は、クロッカス同様に、いち早く春を告げる「春の妖精」です。

 今は、氏神も、鎮守の神や、地主神や、産土(ウブスナ)の神と同じ神様として認識されています。八百万(ヤオヨロズ)にして一、一にして八百万。所詮、人間が付けた名ですから。

<高野ムツオ先生評>「氏神はここでは土地の守り神であろう。蕗の薹はその使いで、神の思し召しに従って定められたところに顔を出すとの土俗的発想が魅力」。

      ★

〇 初蝶を見る野地蔵に成り済まし(高槻市/村松譲さん)

 初蝶が逃げていかないように、動かない。「われは野地蔵である。この手にとまれ。われの頭にとまれ」。 

 (信濃路にて)

       ★

〇 五歳には五歳の地図のあり春は土手で綿毛を吹いてからゆく(平塚市/小林真希子さん)

 子どもには子どものルーティンがあるのです。

   ★   ★   ★

<物語めく春>

〇 「そう、だね」とフリーレンめく応(イラ)へして過去も未来も遥けき人よ(可児市/阿坂れいさん)

 黒瀬河瀾先生評>「アニメ『葬送のフリーレン』の主人公は、永い時を生き続けるエルフ。その彼女と似た雰囲気の知人がいるのだろう。アニメキャラが現世の人に乗り移ったかのような…」。

 「過去も未来も遥けき人よ」── カッコいい人ですね。

 フリーレンは二千年も生きるエルフ。魑魅魍魎が活動した時代の中欧・北欧??を旅している。

 フリーレンは人ではないから、非情。だが、有情の人間に心ひかれ、行く先々で人間と人間の町を守って、残虐非道な妖怪と戦います。

 唐突ですが、助動詞「けり」を連想しました。「けり」は詠嘆の助動詞ですが、特に、初めて気づいた驚きや感慨を表すとされます。「春は来にけり」、春が来ていたことに気づいた驚き、感慨。「気づき」の「けり」です。

 「そう、だね」というフリーレンの言葉には、このようなときには、人間はこのように感じるのだと気づき、人間の心に共感したときの気持ちが込められているのかもしれない。この歌を繰り返し読んでいて、ふとそう思いました。

 茫洋としていて、ちょっと優しい。ハードボイルドの味があります。

  (中欧の町)

       ★

〇 朧夜に見知らぬ婦人訪ね来る子等の掘りにし筍返しに(福岡市/こよりんさん)

 <栗木京子先生評>「作者の所有する竹林から無断で筍(タケノコ)を掘った子たちがいたのであろう。気付いて返しに来た女性。朧夜(オボロヨ)に現れたことが神秘的で、物語の世界に誘われるような場面である」。

 初句の「朧夜に」が効いています。続く「見知らぬ婦人」で、すいっと引き込まれました。人ではないと思いますよ。

   (竹林)

       ★

〇 今日散ると決めたんですと言うように万代橋に桜がふぶく (船橋市/山本三千代さん)

    黒瀬河瀾先生評>「名前からして立派そうな橋に桜花が降り注ぐ春の景。今日という短い時間を舞い散る桜と、万代という長き時を感じさせる名前の橋の取り合わせが、実に鮮やかです」。

   

 黒瀬先生の評で、よくわかりました。

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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(付録) 桜花咲き初むる和歌山城… 西国3社めぐりの旅(4/4)

2024年06月23日 | 国内旅行…紀伊・熊野へ

  (堀に映じる天守閣)

<和歌山城の桜>

 これを書いているのは6月だが、この旅は4月1日、2日。思いがけなくも和歌山城の桜に出会った。

 近年、桜の開花は早い。温暖化の影響だろう。

 今年、桜を見あてにあちこちへ旅の計画を立てた人は、満開になるのは3月下旬と予想したのではないか。

 だから、私のこの小さな旅も、桜に出会おうとは思っていなかった。桜には遅すぎるに違いない。

 ところが、今年の桜はなかなか開花しなかった。テレビの気象予報士までがヤキモキした。

 3月も終わりになってやっと開花し、開花したと思ったら、和歌山城の桜は一気に5~7分まで開いた。

 そして、私も、思いもかけず、少し早いお城の桜を見ることができた。

 (堀の石垣の桜)

      ★ 

<地名「和歌山」のはじまり> 

 以前、一度だけ和歌山城を訪ねたことがある。和歌山市内で開催された会議に出席した帰り、ラッシュの時間にならないうちにと駅へ向かう途中、通りすがりのようにして、城壁の中を歩いてみた。

 今回は、旅の目的である西国三社めぐりも終え、気分ものんびりと午前のお城の中を歩いた。

 言うまでもなく、和歌山城は徳川御三家の一つである紀州徳川家のお城。紀伊国に、伊勢国の一部と大和国の一部が組み込まれて、55万5千石。8代将軍吉宗も出した。

 それ以前のこの国のことについて、私たち県の外の者は、あまり知らない。

 そこで、司馬遼太郎『街道をゆく32 紀ノ川流域』から。

 「中世、いまの和歌山市一帯は、『サイカ(雑賀)』とよばれて、農業生産の高さや、鍛冶などの家内工業の殷賑を誇っていた。

 戦国期になると、雑賀党とよばれる地侍たちが連合(一揆)を組み、根来衆とならんで鉄砲で武装したことは、よく知られている。かれらは、大名の隷下に入ることを好まず、自立していたかったのである」。

 「2、3の大名なら、雑賀・根来の徒と戦ってとても勝ち目がなかったが、織田信長という統一勢力が出てくると、分が悪くなった。

 雑賀衆は、信長と戦い、ついで秀吉と戦って、ついに紀ノ川下流平野をあけわたすことになる。

 それ以後が、和歌山である。秀吉は平定のあと、紀州1国を鎮めるための巨城をつくるべく藤堂高虎(1556~1630)らに普請奉行を命じた。このとき秀吉がこの城山のことを、『若山』とよんだのが、地名和歌山のはじまりだという。和歌山という表記は、文献の上では、秀吉の書簡(天正13年7月2日付)によってはじまるから、秀吉が命名者でないにしても、それに近いといわねばならない」。

 その後、関ヶ原の戦いのあと、徳川の世となり、浅野幸長が紀州37万6千石を領して入城。二の丸、西の丸屋敷が造営され、城と城下町の形が造られた。やがて浅野氏は広島に移封。家康の第10子頼宣が入城して、55万5千石の紀州徳川家となったそうだ。

      ★

<鶴の渓(タニ)>

   ホテルを出発して国道沿いに歩き、城の南西側の追廻門を目指した。

   (追廻門)

 追廻門は石垣にはさまれた門で、櫓はない。城には珍しく朱塗りで、屋根は瓦葺き。

 門をくぐって城郭の中に入り、北へ歩くと、「鶴の渓(タニ)」に出た。  

  (鶴の渓)

 司馬遼太郎が気に入った一郭だ。

 「和歌山城は、石垣がおもしろい。

 とくに城内の、『鶴の渓(タニ)』というあたりの石垣が、青さびていて、いい」。

 「石垣が、古風な野面(ノヅラ)積みであることも結構といわれねばならない。傾斜などもゆるやかで大きく、"渓"とよばれる道を歩いていると、古人に遭うおもいがする」。

 「このあたりの積み方のふるさからみて、藤堂高虎の設計(ナワバリ)のまま穴太(アノウ)衆が石を積んだとしか思えない」。

         ★

<近江の人、藤堂高虎について>

 藤堂高虎は、司馬さん好みの人である。司馬さんは実際的な人、世にあって確かな技術をもち、或いは、知識を応用的に使うことができる人が好きなのだ。

 「和歌山城の普請奉行だった近江人藤堂高虎(1556~1630)は、物の手練れ(テダレ)だった。

 若いころ近江の浅井氏につかえ、また尾張の織田信澄につかえたりしたが、のち秀長に仕えた。1万石の家老でもあった。

 高虎は、土木家として日本土木史上、屈指のひとりといっていい。のち秀吉の大名になり、伊予の宇和島で8万3千石を領した。宇和島城はまったくのかれの作品だった」。

 「そういう高虎の初期の作品が、秀長時代の和歌山城といえるのではないか」。

 「徳川の世になると、功によって伊勢・伊賀32万3千石という大大名になり、官位は従四位下の左少将、徳川一門に準ずるという待遇をうけた」。

      ★

<御橋廊下と天守閣のビュースポット> 

 そのまま北へ歩き、市庁舎側で一旦曲輪の外へ出、今度は東へ歩いてゆくと、目指す景色に出会った。

 前景が堀に架かる御橋廊下。背景は大天守とそれを囲む多門櫓というビュースポットである。※ 冒頭の写真も参照。

  (御橋廊下と天守閣)

 御橋廊下は平成18年に復元された。二の丸(大奥エリア)と西の丸との間の堀に架けられた橋で、橋は屋根と壁に囲われて廊下になり、ここを行く殿様やお付きの者の姿が外から隠される。

 内部を見学することもできるが、今回はパス。だが、写真で見ると、御殿らしい立派な廊下である。

 カメラの絞りが御橋廊下にあるため、天守の方は明るくトンでいるが、大天守の手前には小天守があり、そこから多門櫓が乾櫓へと続いていて、なかなか立派な天守閣である。

      ★

<遊覧船に乗って堀をゆく>

 さらに東へ歩くと堀に架かる一の橋があり、橋を渡れば城の正門である大手門。急に観光客が多くなる。

  (一の橋と大手門)

 橋の下の堀を、客を乗せた和船が行く。

  (遊覧船)

 お城の天守閣や御橋廊下へ入場しない代わりに、あれに乗ろう。 

 天守閣には上がらない。日本の城もヨーロッパの城もよく昇ったが、得た結論は、お城は離れて見てこそ美しい。

 特に日本の城の天守閣は、階段は狭く急で、一段、一段、やっとの思いで上がっても、最上階の空間は殺風景なもの。外の眺望も、江戸時代なら良かったのだろうが、ビルの建つ今の時代、期待するほどの絶景はない。

 大手門から入って二の丸庭園の横をゆくと、船乗り場はすぐに見つかった。

  (船からの眺め)

 水の高さから眺める城郭もいいものだ。

      ★

<和歌山城の復興のこと>

 下船して、坂道をゆっくりと上り、本丸御殿跡に到る。

 天守閣を眺めるには、ここからが最高のビュースポットだ。

 (本丸御殿跡から天守閣)

 (本丸御殿跡から天守閣)

 大天守。その右に小さな小天守。三層の屋根がなかなかかっこいい。

 また、司馬さんの説明を拝借。

 「明治6年1月、政府の手で、城門、本丸、二ノ丸などの建造物がこわされた。ただ、天守閣と小天守は明治初年の破却 (太政官の命令で全国144の城がこわされた) をまぬかれて、その後国宝に指定される幸運をえたものの、昭和20年7月9日、米軍の空襲で喪失した。

 城内に『沿革』と書かれた掲示がある。

 『現在の建物は 昭和20年(1945)戦火焼失に伴い 昭和33年市民の浄財によって 国宝建造であった戦前の姿に復元したものである』

とあるように、外観はことごとく旧に復していて、楠門の白亜の櫓(ヤグラ)と、小天守、大天守が連立しあっている姿は、ことにうつくしい」。

      ★

<地形を生かした西の丸庭園>

 西の丸庭園は、国の名勝に指定されている。

  (西の丸庭園)

 紅葉渓(モミジダニ)庭園とも呼ばれ、紅葉の時季が特に美しいそうだ。

 和歌山城は虎伏山に建造された城郭だから、庭園も、急峻な山容の地形を生かした池泉回遊式。内堀の水を池に見立てて作庭されているのも趣がある。

 (桜の開花)

      ★

<短い旅の終わりに>

 ひとめぐりして、結構、楽しいウォーキングになった。

 岡口門から出た。

 (岡口門)

 この門は白塗りの櫓があり、石垣に挟まれて、城塞の門の厳しさがある。それが周囲の緑に映えて、桜も花を添え、いい雰囲気の城門だ。

 江戸初期の造りで、国の重要文化財になっている。

      ★

 これで、西国三社めぐりの旅は終わった。

 旅に出ると、自ずから歩く。歩くのは健康に良い。お天気も良く、桜の開花にも出会うことができ、良い旅だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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木の神様を祀る伊太祁曽(イタキソ)神社…西国三社めぐりの旅(3)

2024年06月15日 | 国内旅行…心に残る杜と社

  (「伊太祈曽」駅)

<伊太祁曽(イタキソ)神社と五十猛命(イタケルノミコト)>

 「伊太祈曽」駅は、貴志川線に乗って「和歌山」駅から8つ目、「竈山」駅からは4つ目。この駅から先、行き違いのできる設備がないので、上下列車の交換はこの駅で行われるそうだ。

 駅に案内掲示板があった。

 (伊太祈曽駅の案内掲示)

 あれっ!! 駅名と神社名 … 漢字が違うようだ。読み方も、清音と濁音の違いがある。

 「祈」への駅名の変更は、南海電鉄から和歌山電鐵へ譲渡されたときに行われたらしい。

 「祁」は読みにくい。ふつう、まあ、誰も知らない漢字だ。それで、音が通じる別の漢字にしようと検討し、そうはいっても神社への遠慮もあって、「祈」という敬虔な感じの文字を選んだ、ということだったのかな??

 「祈」と「祁」は音は通じるが、意味はどうなのだろうと、念のために漢和辞典で調べてみた。

 ぜんぜん違う。「祁」は「大いに、さかんに」の意。

 伊太祁曽神社の祭神は、スサノオの子の五十猛(イタケル)命。さらに、その妹の大屋津比売(オオヤツヒメ)命と都麻津比売(トマツヒメ)命を祀っている。

 小学館刊の『日本書紀』の頭注によると、「五十猛(イタケル)」の「五十」はイと訓み、多数の意。「猛」はタケルと訓み、「武」と同じで、勇猛の意とある。さらに、「伊太祁曽神社」の「伊太祁」(イタキ)は、「五十猛(イタケル)」と同義であろう、とあった。「大いに勇猛なる」神様を祀る神社である。

 高天原では暴れん坊で姉のアマテラスを苦しめたスサノオの子らしい名だが、『日本書紀』が伝える神話によると、イタケルは名前のイメージからはちょっと想像できない神様だった(後述)。

      ★

<木の神様に参拝する>

 駅から神社までは徒歩5分。近い。

 小さな流れの和田川を渡ると、一の鳥居があり、神社の参道に入る。

 (石の一の鳥居)

 進んで行くと、木の鳥居があり、その向こうに門が見えた。

   (白木の鳥居)

      (木祭りの幟)

 黄色い幟(ノボリ)が立てられている。「木祭り」は毎年、4月の第1日曜日に行なわれ、全国の木材関係者をはじめ、一般の崇敬者も集って、樹木の恩恵に感謝する祭りのようだ。

 お堀の赤い橋を渡ると手水舎がある。

 石段を上がって門をくぐると、拝殿があった。

 (拝殿)

 ここも、日前宮とともに、紀伊国の一の宮である。

 境内の一角に、木祭りのために奉納された、チェーンソーで作ったというアートが陳列されていた。

      ★

<木の神様のこと>

司馬遼太郎『街道をゆく32』から再掲 

 「『きい、紀伊は、もと木の国と書きたるを、和銅年間に好字を撰み、二字を用ゐさせられしよりかく書くなり。伊は紀の音の響きなり』と、まことに簡潔に説く。なぜ木の国なのか、については神話があるが、要するに木が多かったからであろう」。

 その神話である。

 初代の天皇である神武天皇よりざっと180万年も昔(このことについては前回、書いた)に、神武天皇の曽祖父のニニギノミコトが高天原から地上に降りてきた。そのニニギノミコトよりも遥かに古い神代の時代 ……

 …… アマテラスの弟のスサノオは、高天原で乱暴狼藉をした挙句、神々によって高天原から追放された。

 だが、地上に降りてきてからのスサノオは実にカッコいい。八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治して、その尾から出てきた草薙の剣を天上のアマテラスに献上する。そして、美しい奇稲田(クシイナダ)姫と幸せな結婚をした。スサノオの歌、

  八雲たつ 出雲八重垣 妻ごめに 八重垣作る その八重垣を

 以上は、よく知られた話である。

 ところが、『日本書紀』には、スサノオの話に限らないのだが、一つのお話のあとに、「一書(アルフミ)に曰く」として、別の異なる伝承も紹介されている。

 スサノオに関しても、オロチ退治の話を基本にしながら、別の異なる5つの伝承が、「一書に曰く」、「一書に曰く」として付記されている。

 その4番目と5番目に、スサノオの子の五十猛(イタケル)が登場する。

 4番目の「一書に曰く」では、高天原から追放されたスサノオとともに、スサノオの子のイタケルも地上に降りてきた。そのとき、イタケルは、高天原から多くの樹木の種を持ってきていた。それで、その樹木の種を、筑紫から始めて、順次、全国に蒔いていき、国土を青山に変えた。そのため、イタケルは「有功の神」と称えられた。

 「即ち、紀伊国にまします大神、これなり」。

 5番目の「一書に曰く」は少し異なる。

 地上に降りてきたスサノオは、この国の子孫のために、自分のあちこちの体毛を抜いて、その毛を孫悟空みたいに??吹いて、船の材料になるようスギとクス、また、宮を建てる材木になるようにヒノキ、また、棺をつくるためにとマキに変えて、この国に植えられた。また、食料にすべき木の実の種も蒔いて植えた。

 さらに、スサノオの子のイタケルと、その妹のオオヤツヒメと、二女のツマツヒメは、それ以外の樹木の種を国中に蒔いて回った。

 そこでこの三兄妹神を紀伊国に迎えて祀ることになった、とある。

 伝承に少々の違いはあるが、日本列島の緑の木々や果物のなる木は、スサノオと、その子のイタケルら3兄妹が植えたのだというお話である。

 素朴で、いい話である。

 勝手な想像だが、もともと紀の国に古くから伝わる、或いは、紀氏に伝わる伝承を、『日本書紀』が採録したように、私には思える。 

 前回の「閑話」の話に戻れば、津田左右吉博士は、記紀の「神話」の記述は6世紀の宮廷官人たちが造作(創作)したものだという。

 そういう考えに立つと、スサノオが地上に降りてきてからの話について、宮廷の官人たちは計6つの異なる話を頭をひねって創作し、歴史(神話)の捏造をしたということになる。そこまでやる必要があるのだろうか???

 大伴氏とか物部氏とか中臣氏とか、そして紀氏とか、各氏族はそれぞれに家に伝わる一族の伝承を持っていた。天武天皇のとき、国の正史を編纂しようと、官人たちの中から学力の高い編纂メンバーを選び、各氏族が持っていた伝承を提出させた。編纂者たちはそれらを読み込み、吟味し、国の正史に入れるべきか判断し採録していったと考える方が、創作説よりも合理的であろう。もちろん、その際、国家や天皇家に都合の良いように、取捨選択、加工もされたことを否定するつもりはない。

 『日本書紀』には、「一書に曰く」だけでなく、百済の歴史書や中国の歴史書も注に引用されている。

 そもそも「紀」の編纂に携わった官人たちのメンバーには、中国や朝鮮半島からの渡来人たちも多く選ばれており、「紀」は漢文で書かれている。滅亡した百済の歴史は韓国にも残っておらず、『日本書紀』に引用された部分だけが残っているそうだ。

 (岩橋古墳)

 境内を歩いていると、古墳があった。岩橋古墳群の一つである。彼らこそ、この伝承を伝えた人々かも知れない。

      ★

 夜、ホテルのフロントに聞いて、すぐ近くの「よっさん」という小さな和食の店の暖簾をくぐった。何にしようかとメニューを眺めていると、「よっさん」らしき料理人の主(アルジ)が出てきて、「うちは朝、漁港の市で仕入れてきた新鮮な魚がウリです」と言う。「では、3品ほど、おまかせで」と頼んだ。

 時間をおきながら新鮮な魚料理が出て、燗酒が美味しかった。

 和歌山は古代から漁の名人のいる国でもある。

 ホテルに帰って歩数計を見ると、朝から1万1千歩、歩いていた。

 

 

 

 

 

 

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イツセノミコトと竈山(カマヤマ)神社 … 西国三社めぐりの旅(2)

2024年06月06日 | 国内旅行…紀伊・熊野へ

       (貴志川線の「たま電車」)

 竈山神社は、神武天皇の兄の五瀬(イツセ)命(ミコト)を祀っている。

    和歌山駅から貴志川線に乗って4つめの駅が「竈山(カマヤマ)」で、「日前宮(ニチゼングウ)」からは2つ目である。

 三社のうちでは、駅から一番離れていて、片道10分以上歩く。

      ★

<東征の途中、無念の最期を遂げたイツセノミコト>

 大和盆地の東南部で最初の王となった人の名を、『古事記』『日本書紀』(「記紀」)はカムヤマトイハレビコとする。

 神武天皇という名はずっと後の時代に付けられた漢風の諡(オクリナ)で、国風の諡は『日本書紀』では神日本磐余彦 (カムヤマト イハレビコ)の 天皇 (スメラミコト)。『古事記』でも漢字表記は違うが、やはりカムヤマトイハレビコである。(以下、本文ではイハレビコと短く呼ぶこともある)。

 イハレビコは九州の日向(ヒムカ)に生まれ育ったが、東方に美しい国があると知り、『古事記』では兄の五瀬命(イツセノミコト)と、『日本書紀』では彦五瀬命(ヒコイツセノミコト)を長兄とする4人兄弟の末の弟として、軍船を仕立て出発した。

    ところで、『日本書紀』によると、イハレビコの3代前は、神々の国である高天原から、九州の日向に、天孫として降臨してきたニニギノミコトである。

 (ニニギノミコトを祀る鹿児島県の霧島神社)

 そのニニギノミコトが天孫降臨してから、曾孫のイハレビコが東征に出発するまでに、179万2470余年が経ったと『日本書紀』は書いている。どこからそういう数字が出て来たのか分からないが、それはつまり、東征より前の話は遥かに遠い遠い昔話であり、「神話」ですよ、ここからが実際の歴史ですよと、『紀』の編纂者は言っているのであろう。

 さて、日向を出発した一行は、瀬戸内海を経て、難波の渡りを通り、生駒山脈の西麓の草香(日下)に上陸する。そして、日下から大和の地へ入るために生駒山を越えようとするが、待ち構えていたナガスネヒコの軍勢に急襲され、激戦の末、劣勢となって、退却せざるを得なくなった。このとき、兄のイツセは肘に流れ矢を受けた。

 一行は生駒越えを断念し、方向転換して紀伊半島を大きく迂回しようと熊野を目指して航行する。途中、紀伊国の男之水門(オノミナト)に入ったとき、兄のイツセの矢傷がひどく悪化した。イツセは激痛に耐え、無念の雄叫びを挙げたと記されている。

 「進みて、紀の国の竈山(カマヤマ)に到りて、五瀬(イツセノ)命、軍に(イクサニ)(軍中で)薨(カムサ)りましぬ。よりて竈山に葬(ハブ)りまつる」(『紀』)。

 「竈山」は、カムヤマトイハレビコの兄のイツセノミコトを葬った所として「記紀」に登場する古い地名なのだ。

 このあと、再び海上に出た一行は、暴風雨に遭い、二人の兄たちも次々に喪った。

 それでもイハレビコは紀伊半島の南端の新宮に上陸し、そこから北上して大和に入り、大和の地を平定して、王となった。

  (熊野速玉大社) 

 イハレビコが上陸したとされる地には、今、熊野速玉(ハヤタマ)大社がある。朱の美しいあでやかな神社である。

      ★ 

<五瀬命(イツセノミコト)を祀る竈山神社へ>

 伝説の神武天皇の兄である五瀬(イツセノ)命を祀る神社を目指して、竈山駅から南の方角へ、てくてく歩いた。

 参拝を終えたら、どこかで昼食をとらねばならない。だが、駅前にも、竈山神社に向かう途中にも、商店はあるが、カフェとかレストラン、食堂らしき店は見当たらなかった。

 イハレビコも、その日の食をどうしようかと思いながら進んだ日もあったことだろう

 (橋を渡ると石の大鳥居)

 やがてこんもりした森のある角に出た。この森にちがいない。

 (竈山神社の森)

 森の北東の角から入り、正面の鳥居へ回って、参道を行く。

 立派な神門があった。

    (神門)

 神門をくぐると、拝殿があった。

  (拝殿)

 参拝に訪れている人は、子づれの若いお母さんとか、ごくわずかだ。早春らしいのどかな空気のなか、静かに参拝した。

 本殿は拝殿の奥だが、森の樹木の中にすっぽりと囲まれている。

 拝殿からは見えないが、本殿に祀られているのは祭神の彦五瀬の命(ヒコイツセノミコト)。

 左脇殿には神武天皇を含む五瀬命の3人の弟神が祀られ、右脇殿には神武東征に従ったとされる随身たち ─ 物部氏の祖、中臣氏の祖、大伴氏の祖、久米氏の祖、賀茂氏の祖らが祀られているそうだ。

 イツセノミコトは、「記紀」全体の中では脇役であるが、脇役の伝承を踏まえた神社であるというところに興趣があった。

 「延喜式神名帳」(927年)に記載された歴史ある式内社だが、豊臣秀吉の紀州征伐で、他の多くの社寺と同様に没落した。

 江戸時代、紀州藩主によって再建されたが、社領もなく(収入もなく)衰微した。

 明治になって、国家神道のもと、初め村社となり、のち、官幣大社に昇格した。

 本殿の後ろに、五瀬命の陵墓とされる円墳(竈山墓)があった。

 (竈山墓)

 五瀬命の陵墓の所在地は、既に江戸時代から学者たちが探してきたのだが、不明とされていた。だが、宮内庁はここを伝説の五瀬命の陵墓とした。

 私としては、そのことに特に異議はない。少なくとも、ライン川のローレライの岩よりは、遥かに信ぴょう性が高い。

      ★

 歩き疲れ、のども渇き、お腹も空いた。

 竈山駅近くに戻って、一軒のスナックが営業しているのを見つけた。スナックが開くには早すぎると思いつつのぞいてみると、年配のママさんがいて、どうやら昼は近所の人たちが昼食を食べにくる店らしい。席に座ると、バラ寿司があると言う。私は、ラーメンやカレーより、その方がのどを通りやすい。

 手作りのバラ寿司もお汁も美味しく、疲れがいやされた

   ★   ★   ★

<閑話神武東征伝承について>

 『古事記』が成立したのは712年、『日本書紀』の成立は720年、8世紀の初頭である。

 どちらも、神話に続いて、第1代神武天皇から始まる歴代の天皇の歴史が叙述されている。

 現代の歴史学は、第1代神武天皇については、その東征の話も、神武天皇の存在そのものについても、否定的である。このような「東征」があったことを証拠づけるような同時代の文献資料も、神武天皇の存在を証明するような考古学上の発見もない。

 文献学者は、実在の可能性がある最初の天皇は第10代の崇神天皇とし、最近では、11代の垂仁天皇、12代の景行天皇も実在が有力視されるようになっている。

 司馬遼太郎は『街道をゆく32』の中で、 

 「神武天皇が実在したかどうかはべつとして、そういう伝承があって『古事記』『日本書紀』の撰者が採録したのにちがいない」

 「その伝説の神武天皇は "東方に美(ヨ)き地(クニ)がある" ということで、日向を発して東征をおこない、ついに難波(ナニワ)に上陸し、大和に入ろうとして長髄彦(ナガスネヒコ)と戦って敗れる。

 退いてふたたび大阪湾にうかび、紀伊半島南端から北上して大和に入るべく、海路、熊野にむかった。途中、紀ノ川流域の野に入るのである」と書いている。

 司馬さんはここで、「そういう伝承があって『古事記』『日本書紀』の撰者が採録した」としておられる。

 ところが、戦前の著名な記紀研究者であった津田左右吉博士は、『古事記』『日本書紀』(記紀)が編纂された当時、神武東征などの伝承はなかったとして、次のような説を述べ、戦後の古代史研究に大きな影響を与えた。(まとめるにあたり、ウィキペディアの記述を参考にした)。

① 記紀の「神話」の部分は、6世紀の宮廷官人が、上古より天皇が国土を治めていたことを説くために造作したものである。

② 初代天皇である神武天皇は、大和王朝の起源を説明するために創作された人物であって、史実ではない。

③ 神武天皇から9代目の開花天皇までは、7、8世紀の記紀編纂時に創作された人物である。

④ 15代の応神天皇より前の天皇も、また、神功皇后も、創作された非実在の人物である。

 つまり、津田博士は、記紀の「神話」の記述から、第15代の応神天皇の前までの叙述は、朝廷の官人たちが政治的目的のために「造作」したものであって、7、8世紀の記紀編纂当時、応神天皇より前のことは「伝承」も存在しなかった、としたのである。つまり、官人たちが創り出した「創作」、架空の話、フィクション、歴史の捏造であったというのだ。

 そして、戦後の古代史研究は、戦前の皇国史観への反動もあって、この津田博士の学説を出発点としたから、津田学説は戦後も長く通説として扱われてきた。

 しかしながら、戦後の考古学、特に古墳研究の進展や、埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文などからも、津田学説に批判的な発見や研究の成果も発表されるようになっている。              

      ★

 そこで、そのような研究者の一人である塚口義信先生の説を紹介したい。(先生の著書はこの項の終わりに記す)。

 塚口先生は、「伝説というものは、はじめに何か核となるもの、祖型となるものがあって、それが、"かくあってほしい"と願う伝承加担者の思い入れや時代の要請に応じて、雪だるま式に形作られてゆく場合が多いのではないか」とした上で、例えば、津田左右吉博士が記紀編纂者の創作であると断じた神功皇后の話についても、「私も、7、8世紀に (つまり「記紀」編纂時に)、かなり手が加えられているのではないかと思います。しかし、7、8世紀に物語のすべてが机上で述作されたのではなく、何かもととなった伝説があり、それが7、8世紀に潤色・変改されて姿を変えた、と理解しています」とされている。

 つまり、① 8世紀初頭に編纂された記紀は、伝説・伝承を踏まえて叙述されたものである。

 ② 伝説・伝承というものは固定されたものではなく、一度形成されたものが、時代を経る中で、その時々の人々(グループ、集団)の願望や都合によって変容されていくものである。記紀編纂時にさえも、時の朝廷にとって都合よく、潤色・変容された可能性はある。

 ③ しかし、記紀の内容は、朝廷の官人によって創作・虚構されたものではない。また、創作ではなく、伝説・伝承されたものである以上、そこに歴史的な事実の反映もあることは否定できない。

     ★

 それでは、「神武東征伝承」について、塚口先生はどのように説明されているだろうか??

 塚口先生は、「私自身は、建国神話は、ヤマト王権が(大和盆地の東南部に)誕生した遅くとも3世紀には存在したと思っている」とする。

 しかし、建国神話の主人公が、九州の日向を出発して、生駒山西麓の日下に上陸するというシナリオになったのは、5世紀の前半であろうとされる。

 3世紀に作られていただろう建国神話の中身が、5世紀の前半に変容したというのである。

 それでは5世紀前半とはどのような時代であったのか??

 それは「ヤマト王権」が河内に進出し、河内に大王家を営んだ応神天皇やその子の仁徳天皇の時代であった。この時代に、超巨大な前方後円墳が築かれたことはよく知られている。

 この時代、応神天皇にも、その子の仁徳天皇にも、九州の日向の豪族がお妃を入れ、皇子や皇女も生まれて、河内の日下の地に「日下の宮」が営まれた。

 また同じ頃、日向地方、今の宮崎県の西都原古墳群が巨大化し、九州で最大規模の前方後円墳である女狭穂塚(メサホツカ)古墳が築かれている。

 つまり、この時代は、(葛城氏系とともに)、「日向系の一族が隆盛を極め、大王家と深い関係をもった」時代であった。

 この時代に、建国神話の主人公(神武天皇)は、もともと九州の日向に生まれた天孫であって、その昔、日向の若者たちを率いて東征し、「日下の宮」のある地に上陸して、ナガスネヒコと戦ったのだ、というストーリーが新たに加えられ、それが8世紀に編纂された記紀の「神武東征」の話になったとするのである。

 それではなぜ、5世紀前半に日向系の一族が隆盛を極めるようになったのか。それは、4世紀末にあったヤマト王権内の内乱を契機にしている。

 記紀の神功皇后伝説では、── 北九州に(さらに朝鮮半島に)出征していた神功皇后が、北九州の地で誉田別 (ホムダワケ のちの応神天皇)を出産した。このことを知った大和の誉田別(ホムダワケ)の異母兄である忍熊王(オシクマノキミ)らは、皇位を奪われることをおそれて軍をおこした。これに対して神功皇后の側も、日向の諸族の支援を得て、九州から大和へ向けて進軍し、葛城氏らの応援も得て、忍熊王(オシクマノキミ)の軍勢を打ち破って滅ぼした、── としている。

 神功皇后伝説をどこまで歴史的事実と認めるかは別にして、塚口先生は、ヤマト王権内部でこうした内乱があったことは事実であろうと考えておられる。この内乱で最も功績を挙げたのは、大和の葛城氏と日向系の豪族であった。

 成長した誉田別は大王となり、大和から河内に出て、大きな力を持つようになった。

 そのとき、日向系豪族は、姫たちを輿入れさせ、隆盛を極めた。

 こうして5世紀に、ヤマト王権の建国の大王は、実はもともと日向の地に降臨されていた天孫の子孫で、日向の軍勢を率いて東征し、大和盆地において大王になられたのだ、という風に、建国神話は変容したと、塚口先生は説明される。

 私は、塚口先生の説にかなり納得している。

 なお、今、蛇行剣を出土したことで話題になっている富雄丸山古墳。86mの大きな古墳で、出土品も一級品なのに、墳型が前方後円墳ではなく、なぜか円墳である。この古墳について、塚口先生は早くから4世紀末の内乱で滅亡した忍熊王(オシクマノキミ)の墓ではないかと言っておられる。

※ 塚口義信先生の著書

 〇 『三輪山と卑弥呼・神武天皇』(学生社) ── この中の「 "神武伝説と日向" の再検討」

 〇 『ヤマト王権の謎をとく』(学生社)

 〇 『邪馬台国と初期ヤマト政権の謎を探る』(原書房)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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森(杜)の中の日前宮 … 西国三社めぐりの旅(1)

2024年05月19日 | 国内旅行…紀伊・熊野へ

    (日前宮の森)

<もとは「木の国」だった>

司馬遼太郎『街道をゆく32』から

 「和歌山県は、旧分国のよびかたでは、紀伊・紀州・紀の国という。

 古くは『木の国』といわれた。

 18世紀成立の『和訓栞』に、『きい、紀伊は、もと木の国と書きたるを、和銅年間に好字を撰み、二字を用ゐさせられしよりかく書くなり。伊は紀の音の響きなり』と、まことに簡潔に説く。

 なぜ木の国なのか、については神話があるが、要するに木が多かったからであろう」。

 「紀」という漢字を漢和辞典で調べると、「糸を分けて整理すること。はじめ、もとい、きまり、しるす、筋道をたてて書き記す」などの意がある。『日本書紀』の「書紀」の意味も納得できた。

 確かに、「木の国」には、素朴、粗野、未開の風も感じられ、それよりも「紀伊の国」の方に文明の香りがあるとしたのであろう。「好字を撰」んだ和銅という年号の時代は、平城京に遷都し、古事記、日本書紀、風土記などを作成して、新しい文明国家づくりが行われた時代であった。文明とは即ち、儒教的礼節の秩序が整う世のことである。「やまと(のくに)」も、「大倭(国)」から「大和(国)」と表記されるようになった。「倭」よりも「和」という漢字を良しとしたのだ。

 だが、「大和」は良いとして、私的には「木の国」にも捨てがたい懐かしさを感じる。

  ★   ★   ★

<和歌山電鐵 (鉄)貴志川線と紀の国の「三社参り」>

 和歌山市周辺では、初詣のとき、「西国三社参り」をするらしい。その三社のうちの二社は紀の国の一の宮だという。

 そういうことを、いつ、何によって知ったのか忘れてしまったが、ずっと三社参りをしてみたいと思っていた。

 三社は和歌山電鐵 (今も「鐵」という字だ) の貴志川線というローカル鉄道の沿線にあるらしい。

 お天気の良い早春のころ、コトコトと走るローカル鉄道に乗り、駅からは軽いウォーキングで、まだ見ぬ神の森を訪ねて回る。大和国の歴史ある大寺もよいが、ローカル線に乗って神社巡りをするのもなかなかよいではないか

 それに、司馬遼太郎『街道をゆく32』の「紀ノ川流域」に、三社のうちの一つである日前宮のことが出てくる。

 和歌山電鐵の貴志川線は、JRの和歌山駅と紀の川市の貴志駅の間14.3キロを、14駅、30分少々でつなぐのどかな鉄道である。ワンマンカーで、駅の多くも無人駅のようだ。

 南海電鉄から赤字路線として切り離され、県や市の助成と、地域住民の協力、そして何よりも経営努力があって、今日まで運営されてきた。少しずつ増益してきたが、それでも黒字になったことはないそうだ

 北陸新幹線が開通したとニュースで見ても、乗ってみたいとは思わない。年を取ると、速いだけの新幹線よりも、貴志川線のようなローカル鉄道に乗って、少しでも地域を応援したくなる。

 鉄道の話はこれぐらいにして、西国三社とは、和歌山駅を出発して2つ目の駅で降りる日前宮(ニチゼングウ)、4つ目の駅で降りる竈山(カマヤマ)神社、そして8番目の駅で降りる伊太祁曽(イタキソ)神社のことである。漢字も難しいしが、読むのも厄介だ。ただ、遠いいにしえから吹いてくる風を感じる。

 三社を回るのに日帰りでは気持ちがあわただしい。それで、和歌山市内のホテルに1泊し、翌日の午前は和歌山城を歩いてみることにした。

 あとは2週間天気予報をにらんで、ウィークデイの4月1日、2日と決め、お城近くのホテルを予約した。

      ★

<神々は森(杜)に遊ぶ>

  天王寺からJR阪和線に乗って和歌山駅へ。駅前のコインロッカーに荷物を預け、乗り降り自由の1日券を買って、貴志川線のホームへ上がった。 

 (和歌山駅の貴志川線ホーム)

 ホームには「いちご電車」が入っていた。

  (車 内)

 車内は、木の国らしく、木造り感がある。

 発車して2駅目。わずか5分で、「日前宮」駅に到着した。

 神社はすぐ目の前だ。

 日前宮のことは司馬遼太郎『街道をゆく32』の「紀ノ川流域」の中に、「森の神々」というタイトルで登場する。私がこの神宮を訪ねたいと思うようになった動機の一つは司馬さんのこの文章。ゆえに、ここでは司馬さんの文章をもっぱら引用したい。

 「伊勢神宮は内宮(ナイクウ)と外宮(ゲクウ)の一対で一つの神宮をなしている。

 ここも対の宮である。

 ヒノクマノミヤ(日前宮)

 クニカカスノミヤ(国懸宮)

 あわせて、『日前国懸 (ヒノクマ クニカカス) 神宮』というのだが、土地のひとたちは"ひのくま"という訓みがわずらわしいのか、"にちぜんぐう"とよんでいる。

 付近を南海電気(※司馬さんの当時)貴志川線が通っているが、その駅名も『日前宮(ニチゼングウ)』である」。

 駅を出て少しゆくと、一の鳥居があった。大きな石の鳥居で、その横の石標に、かつての社格を表した神宮の名が刻まれていた。

  (一の鳥居)

 鳥居をくぐって参道をゆくと、高い樹木が生い茂る森の中の道になる。 

  (日前宮の森)

 「信じがたいことだが、これだけの原生林が、和歌山の市内にある」。「おそらく伝説の神代から手つかずの原生林にちがいない」。

 「古語でいう"森(杜)"は、神がよりつく樹々が高くむらがる場所のことなのである。つまりは、森は神の場(ニワ)だった」。

 ちなみに国語辞典でも古語辞典でも、「森(杜)」には意味が①②と二つ書かれている。

 例えば、『言泉』(小学館)には、「①樹木が多くこんもり茂った所。②神社などのある神域で、神霊の寄りつく樹木が高く群がり立った所」とある。

 古代の人々は、神々は、建物の中ではなく、樹木が高く群がる所に降臨すると考えてきた。そうであれば、境内の樹木を伐採してしまったら、もはや、そこは神社でなくなってしまう。

 「古代、紀ノ川下流で稲作を展開したひとびとは、神々の憑代(ヨリシロ)の森をあちこちにのこして神の場(ニワ)とした。

 そのうち、紀ノ国ぜんたいの神の場としてこの森をのこし、木綿(ユウ)や幣(ヌサ)などをかけて斎(イツ)きまつったのである。

 古神道を知るには、書物を読むよりもこの森にくるといい」。

 「木綿(ユウ)や幣(ヌサ)などをかけて斎(イツ)きまつった」とある。

 古代、「ゆう」に「木綿」の字を当てたが、「木綿(モメン)」ではない。モメンが伝わってくるのはずっと後世のことで、それ以前は、麻を主としつつ、様々な植物を利用して糸をより布を織った。

 万葉集のよく知られた歌、

 多摩川に さらす手作り さらさらに なにぞこの子の ここだかなしき(万・東歌・相聞・巻14の3373)

   どうしてあの娘への思いが日々募り、こんなに愛しく思えるのだろう

 「多摩川に さらす手作り 」は「さらさら」を導く序詞で、「さらさら」は川瀬の音と、「さらに」という副詞を掛けている。娘たちが家族の着る布を織るために、麻を川にさらす作業をしている。この娘たちの中の誰かを恋しく思っているのだ。古代において、衣食住の全ては自給自足。衣を作るにも、大変な労働、手間暇が必要だった。 

 ゆう(木綿)は、楮(コウゾ)の木の皮を剥いで、蒸し、水にさらして白色にした繊維のこと。祭祀に際しては、幣帛(ヘイハク)として神に供えた。

 「幣(ヌサ)」は幣帛(ヘイハク)で、神前に供える紙や、麻、木綿(ユウ)などの糸や布を指す。

 森の中、ゆう(木綿)で斎(イツ)けば、そこは神域となり、即ち「神社」となった。社は必要としない。

司馬遼太郎『この国のかたち5』から

 「神道に、教祖も教義もない。たとえばこの島々にいた古代人たちは、地面に顔を出した岩の露頭ひとつにも底つ磐根(イワネ)の大きさをおもい、奇異を感じた。畏れを覚えればすぐ、そのまわりを清め、みだりに足を踏み入れてけがさぬようにした。それが、神道だった。

 むろん、社殿は必要としない。社殿は、はるかな後世、仏教が伝わってくると、それを見習ってできた風である」。

 「古神道というのは、真水のようにすっきりとして平明である。教義などはなく、ただその一角を清らかにしておけば、すでにそこに神が在す(オワス)」。 

 私たちは神社神道に慣れ、さらに国家神道の一時期も経験した。改めて日本人の心の原初に戻ってみるのも良いことと思う。 

 神社にお参りに行って、手水舎で身と心を浄め、拝殿で手を合わせるとき、私は拝殿の後ろの本殿に神(神々)を意識することはない。神社でも、寺でも、教会でも、人間が造った、狭く、窮屈で、うす暗い建造物の中に、どうして神(神々)が閉じこもっていなければならないのだろう?? 「社殿は、はるかな後世、仏教が伝わってくると、それを見習って」造られたものである。

 私が神社を好きなのは、屋内ではなく、外の自然の空気の中で、晴朗な気分で手を合わせることができるからである。

 拝殿の前で目を閉じ、手を合わせれば、森の気配を感じる。鳥の鳴き声、せせらぎの音、頬をなでる風、樹々の梢の揺らめき、木漏れ日 … 。そこに神(神々)はおわす。

 その一角を、鳥居や注連縄(シメナワ)で標をつけ、清らかにしておけば、すでにそこに神は在すのである。森(杜)こそが神社である。

 拝殿で手を合わせても、祭神の名を唱えることはない。「遠い昔よりここにいらっしゃる神様」に手を合わせる。神に名はない。今、伝わっている神の名は、社殿同様に、人間が歴史的に作ったもので、神がそう名乗ったわけではない。さらに言えば、歴史上、非業の死を遂げた人(菅原道真とか平将門とか)とか英雄(徳川家康とか)が、その森の神であろうはずがない。

 神は森羅万象の中におわす。アニミズムではない。あえて言えば汎神論。

 ただし、個々の神社に伝わる御由緒(祭神の話)は、この列島に住み、暮らしてきた人々が語り伝えてきた民俗的伝承であるから、大切にする。

 人はそれぞれに思い、信じる。以上のことも、私一個の思いに過ぎないので、念のため。

      ★

<鏡は二度、鋳された>

 日前神宮は左へ、國懸神宮は右への案内が立っていた。

 左へ進み、まず日前(ヒノクマ)神宮に参拝する。

 続いて、また森の中をゆき、國懸(クニカカス)神宮に参拝した。

    (國懸神宮)

 二つの社は同形だった。

 「御由緒」によれば、日前神宮は日前大神(ヒノクマノオオカミ)を主祭神とし、日像(ヒガタノ)鏡をご神体とする。また、国懸神宮は国懸(クニカカスノ)大神を主祭神とし、日矛(ヒボコノ)鏡をご神体とする。

 伊勢神宮が、天照大神を祀り、ご神体を八咫(ヤタノ)鏡とするのに相似している。

 …… そもそもは神代の時代の話である。古事記と日本書紀で細部が異なるのだが、ミックスして要約すれば、次のようなお話。 

 高天原で、アマテラスは、弟のスサノオのあまりの乱暴狼藉に怒り、岩屋の中に隠れ籠った。そのため世界は闇夜になる。

 八百万の神々は集まり相談した。

 まず大きな鏡を鋳造した。次に岩屋の前で焚火をし、桶を伏せた台の上でアメノウズメがセクシーダンスを踊る。神々はやんやの拍手喝采。

 何事かとアマテラスが岩戸を少し開け外をのぞいた時、アメノウズメは踊りながら「あなたより素敵な神が現れたから、みなで喜んでいるのです」と言う。その間に、二人の神が岩戸の左右から大鏡を差し出した。アマテラスは鏡に映った自分の姿を見て驚く。すかさず、タジカラヲが岩屋の岩戸を引き開けて、アマテラスの腕をつかんで引っ張り出した。別の神々が岩戸を封印してしまう。

 私たちの世代は、子どもの頃に夜伽話に聞いた話だ。

 このときの鏡が八咫(ヤタノ)鏡。後に、天孫のニニギノミコトが地上に降りてくるとき、アマテラスの形見として持たされた。天皇家を継承する三種の神器のうちでも、最も大切なものとされる。

 ところが、日前宮にはこれを補足する伝承があるというのだ。

 高天原で、イシコリドメという鏡作りが鏡を鋳造したとき、一度目にできた鏡に納得がいかず、もう一度作り直して、八咫(ヤタノ)鏡ができた。

 そのとき、最初にできた鏡が、日像(ヒガタノ)鏡と日矛(ヒボコノ)鏡なのだという。ニニギノミコトの天孫降臨のとき、八咫(ヤタノ)鏡とともに地上におりてきたそうだ。

 こういうわけで、日前宮は、伊勢神宮に相似した神宮として、ずっと尊崇されてきた。 

      ★

<最古の家系のひとつ、紀氏のこと>

 『街道をゆく32』に戻る。司馬さんはこの紀行で、日前宮の宮司さんを訪ねられ、宮司家について書かれている。

 「宮司は、紀氏である。

 『紀』という家系の祖は、はるかに遠い。日本でもっとも古い家系は天皇家と出雲大社の千家氏とそれに紀州日前宮の紀氏であるとされる。

 紀氏の遠祖は神武東征のときに従った天道根(アメノミチネノ)命であるといい、またその家系に伝説の武内宿禰(タケウチノスクネ)が入るといわれたりする。私にはせんさくの能力はない」。

 ムムムッ!!

    私が知る紀氏と言えば、『古今和歌集』の撰者であった紀貫之や紀友則。だが、その時代(平安時代)、藤原氏が圧倒的に勢力を増し、紀氏は中級貴族に過ぎなかった。

 しかし、紀氏の家系図を見れば、飛鳥、奈良時代、大臣までは届かないものの、大納言や参議を出した名門貴族であった。

 垣間見るように歴史に登場する紀氏の姫がいる。紀諸人(モロヒト)の娘の橡(トチ)姫は、天智天皇の子・志貴皇子と結ばれた。天武系の天皇の時代だったから、天智の子である志貴皇子は重んじられることもなく、また、それゆえ、大津皇子のような不幸にも巻き込まれることなく、皇族の一人として静かな一生を送ったらしい。

 石(イハ)そそく 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも(万・巻8・1418)

 岩の上を走り流れる滝のほとりに、なんとわらびが萌え出ているよ。いつの間にか春になったのだなあ。

 この清冽な叙景歌には、志貴皇子の人柄が表れているようにも思われる。

 だが、その後、天武系の有力な継承者が絶え、志貴皇子と橡(トチ)姫の間に生まれ、その有能さのゆえに重宝されて、ただ実直に職務を果たし既に齢も60を過ぎていた大納言が、突如、天皇に担ぎ上げられた。光仁天皇である。光仁天皇の子が、平安遷都した桓武天皇で、現在の皇統につながっている。

 もっと遥かに遡れば、紀氏は、武をもって大王に仕えた名門氏族だったと、何かで読んだことがある。

 「樹間に小さな神々の祠がある。『古事記』『日本書紀』に出てくる神々の名もある。…… しかしこの森でしか見ることのない神名もある。…… 森の中に、そういう神々の宮居が、八十余もある。いずれも小さく、すべて苔むしている」。

    こういうところも、伊勢神宮に似ている。

    そして、そういう中に、天道根(アメノミチネノ)命を祀る小さな摂社もあった。

  (天道根命社)

 この神宮と神宮の森を守ってきた宮司の遥かな祖、伝説の大王であるカムヤマトイハレビコ(神武天皇)と同時代を生きたとも言われるアメノミチネを祀る杜と社である。

 「この森から東方へ二キロほどさかのぼると、… 岩橋(イワセ)丘陵が盛り上がっており、そこに巨大な古墳がある。むかしから、『岩橋千塚』とよばれて、古墳時代の前期から後期にまで及び、その総数は六百基をこえるというが、その主たるものは、紀氏のものであったろう」。 

 「ともかくも、紀氏の先祖は、この森を斎きつつ紀ノ川下流平野を統べていた古代首長であったことはまぎれもない」。

 その古墳群は、今は、和歌山県によって「紀伊風土記の丘」として整備されている。

 「七世紀のはじめのことである。そのころ大和政権が大きく成長して、諸国に割拠してそれぞれ君臨していた大豪族の王権を停止した。その代償として、国造の称号と実質をあたえたのである。つまりは、世襲制の地方長官だった」。

 古代史の研究は日進月歩で、いわゆる国造制の始まりについても未だ不明のことも多く、確定的なことは言えないようである。しかし、もう少し早い時期から、例えば6世紀初めごろから、全国一斉にではなく、西日本の方、やがて東日本の方へと、一律にではなく置かれていったと考えた方が良いようである。

 「国造制は … 七世紀半ばの『大化の改新』によって廃止され、かわって中央官僚が赴任してくる国司の制になった

 国造の廃止にあたって、二国だけ例外が設けられた。出雲の千家氏と紀伊の紀氏である。

 この両国が独立性の高い文化をもち、国造家の権力が強大であったということもあったであろう。しかし、そういうことよりも、祭祀権につながることかもしれない。諸国に国造があったころ、その国でのすべての神社の祭祀権は国造にゆだねられていたが、出雲における千家氏、紀伊における紀氏はとくにそういう(神聖首長といもいうべき)性格が濃厚であったため、この二つを例外として存続させたと考えていい」。

 「ついでながら、江戸期、紀家は中納言もしくは大納言だった。地上を統べる紀州徳川家の当主もまた中納言もしくは大納言だったから、国主と同格の官位なのである。このあたり、徳川幕府の政治的感覚は味なものといえまいか」。

  ★   ★   ★

<鎮守の森とふるさとの森づくり>

 『街道をゆく32』の中で、司馬さんは日前宮の宮司さんを訪ね歓談されている。

 「当代の紀俊武氏は、かつて阪神間で中学教師をしておられた。教育が好きでたまらず、それだけに、紀家伝統の職をつぐのがいやだったという。

 なんといっても、森の保護と社殿の補修という、やっかいなことを背負い込むことになるのである。

 『父君もどうだったのでしょう。お悩みがなかったように見受けられましたが』『そうじゃないんです。父も若いころは教師で、私と同じように教師が好きで、相続をいやがったそうです』。

 私が会ったころの俊嗣翁は、覚悟のほぞを決めてしまわれたあとだったのだろう。

 三代前は、紀俊という人で、大正五年、神宮に伝わる古記録を非売品で刊行されたことで知られているが、この祖父君もまた他のことをやりたかった人のようである。

 そのあたりが、まことにいい。こういう世襲職に好んでなりたがるのは、かえって俗気があって不適当なのではあるまいか。当代をふくめ、覚悟のほぞをきめた歴世のひとびとが、こんにちまでこの森の清浄を守ってきたのである」。

 三代前の方が、この神宮に伝わる古記録を非売品で刊行されたという。そこに、上に記した鏡の伝承のことなども書かれているのであろうか

 それはともかく、宮司さんは、「紀家伝統の職をつぐのがいやだった」「なんといっても、森の保護と社殿の補修という、やっかいなことを背負い込むことになる」から、と言っておられる。

 観光客でいつも賑わう一部の裕福な神社やお寺は別格として、全国津津浦浦の神社やお寺の経営はどうなっているのだろう?? その後継者のことも私は心配する。

 生態学の世界で国際的に活躍された宮脇昭博士(1928~2021)は、その著『鎮守の森』(新潮文庫)の中で、「私は、単に神社の森だけでなく、ひろく地霊をまつった森という意味で『鎮守の森』という言葉をつかっている」。「『鎮守の森』という言葉は、今、植生学、植物生態学の世界で(学術用語として)、国際的にも通用している」とおっしゃっている。

 だが、かつて「神奈川県教育委員会の依頼で(調査したら)、高木、亜高木、低木、下草がそろった、すなわち最低限の森の生態系が維持されているような『鎮守の森』は、たった40であった。かつては2850あった『鎮守の森』が、戦後わずか30年足らずで激減した」とも書いておられる。

 以下は、宮脇博士の著『鎮守の森』の中の対談から、適宜、抜き出したものである。対談の相手は、曹洞宗の大管首であられた板橋興宗禅師。曹洞宗の大本山の總持寺は、当時、宮脇先生の協力を得て、寺とその寺域に千年の森をつくるという事業を展開されていた。

<宮脇博士>鎮守の森は、いわば『ふるさとの木によるふるさとの森』。森の主役となる、その土地に合った木を植える必要があるんです。スギやマツは用材をつくるためによく植えられるようになっただけで、それで森をつくっても長くはもたない。常に人の手による管理が必要で、鎮守の森、千年の森にはならんのです。浜離宮のタブノキの森や白金の自然教育園のシイの森を見ていただけるとわかりやすいのですが、あの200年以上前に植えられた木々は、火事にも地震にも台風にも、戦時中の焼夷弾にも耐えて今でも生き残っているわけですから」。

<板橋禅師>「(明治神宮の森について) 昭和20年の東京大空襲ではきっと焼夷弾の被害に遭ったはずです。100発ぐらいは落っこちたんじゃないですか。明治神宮がスギやマツばかりの森だったら、もう薪小屋へ火をつけたようによく燃えますよ。スギやマツというのは、マッチを擦って火をつけるのは難しいけれども、一度燃え始めたら、もう手がつけられなくなる」。「本殿や社務所の方はやはり空襲の被害に遭ったそうです」。

<宮脇博士>「焼夷弾に耐えたのは、シイ、タブ、カシ、クスといった常緑広葉樹でしょう」。

<板橋禅師>「先生がおっしゃられるように、森の主木が高くて立派になると、その森全体に活気が出てくる。崇高な雰囲気が出てくるんですな。主木がしっかりしているお宮さんやお寺さんは、森全体が『社』を成していて栄えるはずですよ。しかし、逆に言うと、森が廃れれば日本人の宗教心も廃れることになる」。

<宮脇博士>「(外国の教会やモスクと違って) 日本の神社やお寺では、自然の中にさらに木を植えて森閑としたものを求めた。鎮守の森をつくっているんです。これはすごいことですよ。今でも都会の中で唯一残っている森が神社だったりするわけですから」。

<板橋禅師>「もう一つ興味深いのは、寺で住職がいなくなると、すぐに廃れていってしまう。何年か経つとあばら家になる。でもお宮さんは違うのです。神職のいないところは本当に多い。兼務で30社ぐらい持っているなんてザラですからね」。

<宮脇博士>「全国を植生調査でまわったとき、私も神主不在の神社や小さな祠(ホコラ)はよく見ました。しかも管理する人がいないはずなのに、意外に手入れが行き届いている。誰かが当番で補修や掃除をしているんでしょうね」。

<板橋禅師>「心のよりどころである氏神の森を『社』と形容して、そこに神が宿っているという、そういう日本人の信仰があるのです。神様の神ではなく、カタカナで書いた『カミ』。明治以降の神道ではなくて、古代から続くカミへの信仰ですな」。

<宮脇博士>「この国では、自然と宗教は切っても切り離せない関係にある。だからこそ、『鎮守の森』の減少は大問題なのです」。

      ★

    国や地方自治体は特定の宗教組織に肩入れすることはできない。政教分離なのだから当然である。

 それはそうなのだが、そこにある国宝や重文の文化財は、もはや半分ぐらいは「公」のものと言ってよいだろう。それらはもはや、一宮司や一住職、或いは、特定宗教組織の「私物」ではない。「公」は、それらを保護し、後世に残していく責務がある。

 同じことが、鎮守の森についても言える。

 生態系の整った森は、災害の被害を防ぐのにも大いに役立つと宮脇先生は別の著書の中で仰っている。大樹1本は、消防車1台だと。ふるさとの木によるふるさとの森を保護し継承し、或いは、新たに育てていくことは、各地方の自治体の責務の一つである。

 パリでは個人の邸宅内の樹木であっても、勝手に伐採してはいけないと条例に定めているという。何でも、「私権」が優先するのではない。民主主義は私権と公権のバランス、ほどよい調和の上に成り立つ。

 「鎮守の森」は、国の宝、地域の宝、継承していくべき歴史的な文化遺産。それらを個々の宮司さんや住職さんに丸投げし、市場経済の中に放置するようでは、日本における「公」の精神が問われるというものである。

 政治が、山野の樹木を伐採して無機質なソーラーパネルを一面に張り巡らすことを善しとするのなら、せめて「鎮守の森」を保護するための法律を与野党協力して作って、美しい日本を後世に継承してほしい。これはかねてからの私の意見である。

 この項の終わりに、ささやかな私ごと。

 私は、かつて、神社やお寺にお参りに行ったとき、財布の中の1円玉、5円玉、10円玉を探して賽銭箱に投げ込んでいた。そうするものだと思っていた。それは一種の儀礼の行為であると。しかし、「鎮守の森」のことを知ってから、100円硬貨にするようになった。時に、お願い事がかなった時などには、お札を入れることも。

 亡き父がまだ元気だったころ、初詣のとき、私の横で賽銭箱にお札を入れていて、びっくりしたことがある。あるとき、ふとそのことを思い出した。私ももう父の年齢は超えた。

 また、時に、たまたま参詣した神社仏閣が補修の費用のために募金を募っているような時には、もとより氏子でも檀家でもないけれど、貧者の一灯も捧げるようになった。

 

 

 

 

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早春の薬師寺へ(その2)

2024年04月19日 | 国内旅行…心に残る杜と社

 (東塔)

<1300年前からここにある塔>

 白鳳伽藍を見てまわりながら、私は、復興された薬師寺の伽藍を今日まで自分が見ていなかったことに、やっと気づいた。北隣の唐招提寺は何度か訪ねたのに、薬師寺の方は … 多分?? 学生時代に訪れてから、一度も来ていない … 気がする。

 理由はいろいろある。先に唐招提寺を訪ねて十分に満腹してしまって、薬師寺に寄らずに帰ってしまったとか、復興の工事が行われている薬師寺を敬遠したとか。

 ところが、入江泰吉さんの写真集で見たり、薬師寺の年中行事の1コマをテレビニュースの映像で見たりして、いつの間にか自分の目で見たつもりになっていたのだ。

 学生時代以来だとすると、幾星霜である。

 以下の引用は亀井勝一郎の『大和古寺風物誌』の一節であるが、書かれたのは太平洋戦争中の昭和18(1943)年。だが、私が訪れた復興前の昭和40(1965)年頃の様子も、これとたいして変わらなかったはずだ。

 「薬師寺は由緒深い寺であるにもかかわらず、法隆寺などと比べて荒廃の感がふかい。…… 金堂内部の背後の壁は崩れたままになっているし、講堂にいたっては更に腐朽が甚だしい。…… 周囲にめぐらした土塀も崩れ、山門も傾き、そこに蔦がからみついて蒼然たる落魄(ラクハク)の有様である」。

 「西塔はすでに崩壊して、わずかに土壇と礎(イシズエ)を残すのみであるが、東塔はよく千二百年の風雨に耐えて、白鳳の壮麗をいまに伝えている」。

 1300年前の金堂、講堂、西塔などは、或いは台風によって打ち壊れ、或いは兵火によって焼け落ちて、歴史の彼方に失われてしまった。亀井勝一郎氏が見た崩れた金堂や講堂は、ずっと後の時代に仮に建てられた建造物である。

 ところが、ただ一つ、東塔のみが白鳳時代のままの姿を保って、1300年間、ずっとここに立ちつづけたのだ。

 学生時代、私たちは、何かで読んで、西塔の跡の礎石の窪みに溜まった小さな雨水に東塔の姿が映るのを見て、廃墟・無常の感慨を抱いたりしたのである。ただ一つ残った塔は、1300年の歳月に思いを馳せる滅びの美学の象徴であったのかもしれない。

  (東塔)

 塔はヨーロッパにも中国にもある。しかし、このような様式 ─ 五重塔とか三重塔 ─ は、日本独自のものと言われる。唐や百済の技術者グループの手を借りながらも、古代日本の美意識が創り出した塔である。

 薬師寺の塔は各層に裳階(モコシ)をつけて六層に見えるが、実は三重塔。

 はるか上空に水煙があり、飛天が笛を吹いていたが、残念ながら1300年の歳月に耐えられず、水煙だけは新しいものに取り換えられた。

 フェノロサが最初に言ったとか、それ以前からある普遍的な言葉だったとか、諸説があるが、とにかく多くの人がこの塔を見上げて、「凍れる音楽」という形容を思い浮かべたのである。

      ★

<閑話1 ─ 1300年前の石の建造物>

 よく、ヨーロッパは石の文化だから残り、日本は木の文化だから残らない、と言われる。

 しかし、ヨーロッパに、1300年前の建築物が、ほぼ完全な形で、どれほど生きた姿をとどめているだろう。薬師寺の東塔は、薬師寺という寺の一部として今も生きており、ピラミッドや秦の始皇帝の陵墓のような考古学の対象ではない。

 1300年前と言えば、西洋はフランク王国のまだメロヴィング朝の時代だった。その時代につくられた建造物で何が残っているだろう?私たちがヨーロッパ旅行に行って見るロマネスクやゴシックの大聖堂は11世紀以降のものだ。

 フランスの地方のロマネスクの大聖堂を訪ねた時、聖堂の壁の石材が古びて、もろくなり、一部がぼろぼろと剥落しているのを目にして、驚いたことがある。このことは、井上靖の小説『化石』の中にも出てくる。石材も、千年もすれば朽ちることがあるのだ。

 (トゥルニュの修道院)

 1300年前と言えば、西アジアではイスラム教が生まれ、東へ西へ猛烈な勢いで膨張していた。アフリカ北岸を西へ西へと進んだ一派は、さらに地中海を渡ってイベリア半島を征服し、ピレネー山脈を隔ててフランク王国と対峙した。

 遥かに遠い古代ギリシャの石の文化は、今は巨大な石柱がゴロゴロと草花の中に転がっているばかり。立っているのは、近代になって、往時の姿を復元してみようと、組み立てられたものだ。

 それでも、シチリアの海に臨む丘の上のセリヌンテの遺跡は美しかった。地中海から吹く風が頬をなで、廃墟の美があった。

 (シチリアのセリヌンテの神殿)

 今もほぼ完全な姿で残っているのは、古代ローマの建造物である。例えば、ローマのパンテオン、或いは、サンタンジェロ城。サンタンジェロ城は中世に改造され教皇のための要塞になった。しかし、元はローマの5賢帝の一人、ハドリアヌス帝が、皇帝の霊廟として造ったものだ。後世に城塞として使われるほどに、頑丈そのものである。

 (ローマのサンタンジェロ城)

 ローマ帝国の建造物が堅固なのは、石というよりもコンクリート製だから。そういう意味では、ローマ帝国というのはたいしたものなのだ。しかし、もちろん、今も当時のままに息づいているわけではない。

       ★

  (西塔)

 西塔は新しい。創建当初のように鮮やかな丹と金色の飾り金具に彩られて、白鳳の美はこのようであったのかと、よくわかる。

  (回廊の外から写す)

      ★

<東院堂の仏たち>

 回廊の外、東塔の東側に東院堂がある。吉備内親王が元明天皇(女帝)の冥福を祈って発願し建立させた。

 今、遺っている建物は鎌倉時代に再建されたものだが、国宝となっている。

 また、本尊の聖観音菩薩も、白鳳時代の国宝。この菩薩様は、写真家の入江泰吉氏の写真集をめくっていて、薬師寺の仏様の中で最も美しいお顔かも知れないと思った。特に横顔が端正である。

 本尊の菩薩を囲むように立つ四天王像は、鎌倉時代の重文。私は、如来像や菩薩像よりも、四天王像 (持国天、増長天、広目天、多聞天) や風雪を耐えた個性的な高僧のお顔や姿が好きである。

      ★

<踏切のある休ケ岡八幡宮>

 南門を出ると、休ケ岡八幡宮がある。薬師寺を守る神社であった。

 (休ケ岡八幡宮)

 この神社の神像は魅力的だが、今は博物館に納められている。

 参拝して、鳥居を出ると、踏切があった。

 遮断機が降り、近鉄電車がごとごとと通り過ぎて行った。

 踏切を渡って振り返ると、踏切越しの神社の杜もなかなか趣があってよい。少なくとも、高速道路や新幹線が走る高架などよりは、のどかでいい。

  ★   ★   ★

<閑話2 ─ 白鳳伽藍の復興のこと>

 薬師寺のホームページを見ると、昭和43(1968)年、管主の高田好胤和上が「物で栄えて心で滅ぶ高度経済成長の時代だからこそ、精神性の伴った伽藍の復興を」と訴え、単に寄付を求めるのではなく、写経して1巻千円の納経料を寄付するという取り組みを始められ、百万巻を目指して全国を行脚された。その精力的な活動の結果、昭和51(1976)年に目標を達成して、金堂が落慶された。

 さらに志は引き継がれて、西塔、中門、回廊、大講堂、食堂と、白鳳伽藍の主要な堂塔が復興され、白鳳の美が蘇った。

上野誠『万葉びとの奈良』から 

 「薬師寺で私が見てほしいのは、復興された伽藍の景観である。われわれは、奈良時代の寺院が朱塗りの華やかな建物群であったことをつい忘れてしまっているからだ。そういう目で、白鳳伽藍の東塔と1981年に再建された西塔を見比べてほしい。平城京の時代の人なら、東塔の方に違和感を持つだろう」。

      ★

<閑話3 ─ 内裏や貴族の邸宅は純和風>

 平城京の中がすべて、薬師寺の白鳳伽藍のような色彩で彩られていたわけではない。

 当時の官寺は唐風建築。中国に新興の宗教である仏教が入ってきたとき、建物をどうするかということで、当時の役所の様式が使われ、そのまま受け継がれた。当時、最も立派な建築物は行政府の建物だったから。

 一方、わが国において、帝が日常に居住し政(マツリゴト)を行う内裏の建物や貴族の邸宅などは、飛鳥時代以来、奈良時代、平安時代を通じて、純和風だった。その様式は、平安時代の10世紀頃 (藤原道長や紫式部の頃) に一つの完成形をみた。学校の歴史で習う「寝殿造り」である。

 出家した人の世界である寺は、唐風で、瓦葺き、朱塗りの柱、壁と土間があった。

 一方、藤原摂関家の東三条殿や、道長が婿入りした左大臣家の土御門殿は、敷地面積が120m四方。北の対、東の対、西の対、そして中心に寝殿と呼ばれる部分があり、寝殿の南側は庭。遣り水が引かれ、池があり、池の中には島があって、長い廊下でつながる釣り殿があった。

 唐風寺院建築に対して、和風建築の特徴は、屋根は檜皮葺き(ヒワダブキ)だった。檜皮葺きの屋根は日本にしかないそうだ。柱は白木壁はなく、土間もなく、高床式である。

 壁がないから、外界との隔てとして、格子に板張りした上下2枚の蔀(シトミ。)があった。しかし、ふだんは下は取り外していることが多く、上は昼間は上げていた。ゆえに冬は相当に寒い。あとは御簾(ミス)や几帳などの建具しかなかった。ちなみに冬の暖房器具は、炭を熾した火鉢のみ。

 この和風様式は江戸時代まで続く。江戸時代の途中から、檜皮葺きは高価で贅沢。贅沢はやめようという将軍様のお触れで瓦葺きになった。それでも、今も、神社で見ることができる。博物館の展示や史跡としてではなく、今日まで生きた姿で存在し続けている。

      ★

<閑話4 ─ ルネッサンスの教皇たち>

 話は飛躍する。薬師寺と直接には関係ない話だ。ただ、─ 檀家などない薬師寺が、幾百万の人々の写経・納経による寄進によって、白鳳伽藍を再建し、奈良の一画に美しい空間を再生させた。人々の写経は金堂の上層の納経蔵に納められている ─ そういう薬師寺の復興という今の世の出来事から、ヨーロッパのルネッサンス期の教皇たちのことを連想した。

 私はオンラインの文化講座で、東大助教の藤原衛先生の「西洋中世史」のお話を2年間に渡って聴講し、この3月で終了した。その最終回は「ルネサンスとルネサンス教皇」。

 教会大分裂(1378~1417)を経て、やっと教皇庁がローマに帰ってきた時、ローマの町はすっかり荒廃し、古代ローマ時代には100万都市と言われた人口も、2~3万人に減っていたという。廃墟と化した古代ローマの残骸に雑草が生い茂り、放牧が行われていた。今のローマからは想像できない。

 そこに、悪名高き10人の教皇が次々に就任する。

 ある教皇は子が9人もいたという。教皇様に隠し子が9人もいたと聞くと、私も驚き、思わず笑ってしまった。また、ある教皇は教皇庁の領土を守るために、自ら甲冑を身に付け軍隊を指揮して戦場に出たという。

 そして、何と言っても悪名高きは、贖宥状(免罪符)の発行。贖宥状を売って民衆から膨大なカネを集め、自らは贅沢三昧の暮らしをしたと、遠い昔、世界史で習ったような …。

 だが、藤原衛先生のお話は少し違う。その一方でルネッサンス教皇たちは、古代ローマ時代の道路や橋、人々に水を供給するローマ水道を蘇らせ、城壁 (いつの時代でも、人民にとっても、安全保障は大切なのだ) を修復し、今日のローマの原型を築いたという。教皇様が帰ってきて、安全であれば、人々も帰ってきて、物作りを再生し、商売も盛んになってくる。

 さらに教皇は、サンタンジェロ城を要塞化し、教皇宮殿やサン・ピエトロ大聖堂を建て、図書館を大改造して今も貴重な書籍を収集し、ルネッサンス画家たちのパトロンになってシスティーナ礼拝堂を美しく飾らせた。フラ・アンジェリコ、ボッティチェリ、ミケランジェロ、ラファエロらに活動の場を与え、また、多数の人文主義者を登用して今の教皇庁の原型となる行政事務局をつくり上げた。

 (サン・ピエトロ大聖堂)

 私も、かつて、ヴァチカン宮殿の美術館に入って、1日や2日ではとても見切れない名画や美術品を見て回り、ただ圧倒されるばかりであったことを覚えている。

 (ヴァチカン美術館のラファエロの絵)

 そういえば、あの歴史作家の塩野七海さんも、30代の前半に『神の代理人』という傑作を書いていた。この本の中で、塩野さんもまた、ルネッサンス教皇を擁護、弁明している。

 隠し子が9人もいると聞いたら思わず笑ってしまうが、品行方正、清廉潔白だけでは、危機下のリーダーは務まらないのだ。

 ルネッサンス教皇たちは、彼らの大事業の資金として、確かに贖宥状(免罪符)を発行して、人々から喜捨を集めた。

 人生の中で誰しも償いきれない罪を犯す。法に触れるような罪ではなく、心の罪だ。年とともにそれが思い出され、心が痛む。人々は自分の罪を償うために巡礼に出、或いは断食して、神に祈った。だが、働き盛りで一家を養わねばならぬ人、さらに病人や老人には、巡礼も断食もままならない。

 そこで、神の代理人(教皇)の代理人である神父の前で、告解し改悛することをセットにして、喜捨を受け、贖宥状を出した。ただカネを得るために贖宥状という紙切れを売りつけたわけではない。これは、教会法に則った正当な行為であったと、藤原先生はおっしゃる。

 しかるにドイツでは、マインツ大司教が、大道芸人のような奇抜な歌と踊りを見せものにして人々を集めさせ、告解・改悛なしに贖宥状を売りまくって、私腹を肥やした。

 その結果、1517年、ルターの宗教改革が起こった。宗教改革はドイツ圏に起こり、フランスやイタリアやスペインでは起きていない。

 悪名高きルネッサンス教皇は、とてつもなくタフでエネルギッシュで、ルネッサンスからバロックの時代を創り出し、ローマを再生させ、時代を前へ進めた。

 歴史の中の出来事や、歴史に登場するリーダーたちを、品行方正とか清廉潔白などという基準で善悪に分け、裁いていては、人間も、人間の営みがつくり出す歴史というものも、見えてこない。

 そういうことを藤原衛先生や作家の塩野七海さんから教えられた。

 廃墟だったローマに人々が戻ってきた。キリスト教世界からはじき出された(当時は特にスペインから)ユダヤ人に、ローマに住むことを許したのもルネッサンス教皇だった。病気になったら、ユダヤ人の医師に診てもらっていたという。人々の祭りが蘇った。その山車のために、教皇様はいつも金一封を出して、どうも教皇庁の窓から祭りをのぞき、楽しんでいらっしゃるみたいだ、そう人々はうわさし合った。

   (了)  

 

 

 

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早春の薬師寺へ (その1)

2024年04月17日 | 国内旅行…心に残る杜と社

 (薬師寺の金堂と二つの塔)

<早春の西の京へ>

 東大寺二月堂のお水取り(3月1日~14日)の頃、薬師寺では平山郁夫画伯が描いた「大唐西域壁画」の特別公開がある。今年こそはと思って出かけた。

 ウィークデイの良いお天気で、大和路の春も間近と感じさせる日和だった。 

 近鉄の大和西大寺駅で乗り換える。近くに、南都七大寺の一つ、律宗の西大寺がある。少し歩けば、復元された平城宮の大極殿もある。

 乗り換えて近鉄橿原線で南下し、西ノ京駅で降りると、薬師寺は駅のすぐ前の広い一画だ。

 駅名のように、このあたりは「西の京」だった。

 「天子は南面する」という。昔、中国において、天子は北極星に喩えられ、南面して座した。臣下は北面して拝礼する。

 今から1300年の前、唐の長安をモデルとして造られた平城京も、帝が居て政(マツリゴト)を行う平城宮は都の北端の中央にあり、宮殿の南門である朱雀門から、朱雀大路が南へ一直線に通って、平城京の正門である羅城門に到った。

       (高御座 タカミクラ)

  (復元された朱雀門)

 帝が高御座に座して南面すると、朱雀大路の左側が東(若草山の方)、右側が西(生駒山の方)になる。「西の京」である。

 法相宗薬師寺は、西の京の、一条、二条と南へ進んだ六条に建造された(藤原京から移された)。やがて、すぐ北隣に、律宗を伝えた鑑真和上の唐招提寺も造られる。

 今、薬師寺は、回廊に囲まれた二つの区画があり、北の区画は玄奘三蔵院伽藍、南の区画は白鳳伽藍。

 金堂や大講堂、国宝の東塔や西塔などが建つのは白鳳伽藍。

 白鳳 (白鳳時代或いは白鳳文化) は、乙巳(イッシ)の変(645)のあと、天智天皇から、天武天皇、持統女帝を経て、元明女帝の平城遷都(710)までの時代と文化を言う。都は飛鳥京や藤原京に置かれた。

    平城京遷都のあとは、天平時代或いは天平文化と呼ばれる。

 薬師寺は、藤原京の時代に建立され、平城遷都とともに平城京に移ってきた。基礎は白鳳の時代につくられたので、お寺の側も白鳳文化としている。

 今日の目当ては「大唐西域壁画」だから、先に玄奘三蔵院伽藍へ向かった。

      ★

<遥かなる西域への旅路>

 ウィークデイの午前のこと、観光客の少ない清浄な雰囲気の境内を行くと、やがて回廊を巡らせた玄奘三蔵伽藍が見えてくる。

   (玄奘三蔵院伽藍)

 回廊の門の正面から回廊の中をのぞくと、小ぶりだが品のある玄奘塔が見えた。

  (玄奘塔)

 回廊の門の脇にある受付から中へ入った。

 玄奘塔の後ろに、大唐西域壁画殿がある。

 (玄奘塔と大唐西域壁画殿) 

 この一画は、平成3(1991)年に整備・建立された新しい建物群だ。

 玄奘塔は、唐僧の玄奘三蔵を祀る。

 大唐西域壁画殿は、玄奘三蔵の遥かな旅路を描いた壁画を納める建物。壁画を描いたのは、現代日本画の大家である平山郁夫さんである。

 ここは、玄奘三蔵を記念して造られた一画なのだ。

 『西遊記』の話はよく知られている。孫悟空、猪八戒、沙悟浄が、三蔵法師を守って、魑魅魍魎や妖怪と戦いながら、インドへと旅する冒険譚だ。

 その玄奘三蔵は実在した唐代初めの僧侶(602~664)である。27歳のとき、隋が滅び新王朝が興ったばかりの混乱の中で鎖国状態だった唐を密出国した。そして、灼熱のタクラマカン砂漠や極寒の天山山脈を越え、ついにインドのナーランダ寺院に到って、修学した。その後、再び長い旅路を経て、多くの経典や仏像などを唐へ持ち帰った。唐を出てから17年の歳月が流れていた。

 帰国後は唐の皇帝の全面的な支援の下、全国から集められた優秀な若い弟子たちと共に、持ち帰った1335巻の経典の翻訳作業に生涯を捧げ、また、地理的な記録である「大唐西域記」を著した。今、私たちが耳にするお寺のお坊さんのお経にも、玄奘三蔵の訳があるそうだ。

 玄奘三蔵の教えは弟子の慈恩大師によって「法相宗」として大成する。

 さて、当時の日本、…… 乙巳の変のあとの653年、遣唐僧として入唐した道昭(629~700)は、まだ健在であった玄奘三蔵に師事し、帰国に当たって玄奘三蔵の翻訳した経典とともに「法相宗」の教えを持ち帰った。

 南都七大寺のうち、この法相宗の教えを伝える寺が薬師寺と興福寺である。薬師寺にとって、玄奘三蔵は開祖と言っても良い存在なのだ。

 平山郁夫画伯の「大唐西域壁画」は、玄奘三蔵がインドへの旅の途中で見たであろう景色を、7場面、13枚に描いた、全長49mの大壁画である。画伯自身が玄奘三蔵が旅した地に取材し、17年の取材の旅を経て描いた大作である。

 写真撮影はできないから、絵は紹介できない。

 私は、花鳥風月を描いた日本画や美人画などはともかくとして、東山魁夷と平山郁夫の絵は、セザンヌやマチスやシャガールなどの西洋絵画以上に好きである。(好みの話で、優劣の話ではない)。東山魁夷はヨーロッパを、平山郁夫はシルクロードを日本画の中に内包して、瞑想と、静謐さ、そして、ロマンを感じさせる。

  (画集)

   ★   ★   ★

<食堂(ジキドウ)のもう一つの旅路>

 玄奘三蔵院伽藍を出て、本来の順路とは逆になったが、後ろ側の受付から白鳳伽藍に入った。

 薬師寺の見学の本来の順路は、南から南門を入り、さらに回廊の中門をくぐる。

 回廊の中へ入ると、一瞬に視界が広々と開ける。正面には金堂。右に東塔、左に西塔が建つ。金堂の後ろに大講堂 (さらに後ろには食堂) が配置されている。一寺に2塔は薬師寺が初めてとか。「薬師寺式伽藍配置」 ─ 遠い昔、日本史で習ったような気もする。

 今回は後ろから入ったから、最初に出会った白鳳の建造物は食堂(ジキドウ)だった。

  (食堂)

 約300人の僧侶が一堂に会する規模だという。

 それにしても、東大寺や法隆寺など、奈良の古くて落ち着いた、枯淡の趣のある寺々を見慣れた目には、いきなりの華やかな色彩。だが、派手過ぎるということではなく、落ち着いた色調が印象的だった。このような色彩が、1300年前の平城京の中にあった。

 堂の中には、田渕俊夫画伯が描いた14面、50mに渡る壁画「仏教伝来の道と薬師寺」が公開されていた。

 平山郁夫の大唐西域壁画は、玄奘三蔵のインドへの遥かな旅路を描いたもの。

 それ対して、こちらは、中国に伝えられた教えが、遣唐使船による命がけの旅の結果、入唐僧によって日本に伝えられ、飛鳥京から藤原京、平城京へとうつりつつ、仏教文化の花を咲かせた旅路が描かれている。

 もし当時も食堂にこのような壁画があったならば、食堂で食事をとる学僧たちも遥かなロマンの思いを抱いたことであろう。

      ★

<大講堂 … 官寺は今の国立大学>

 奈良の古い寺には講堂がある。

   薬師寺で最も大きい建造物は大講堂。数多くの学僧が法相教学を学び、また、議論した。その伽藍の姿は雄大で美しく、眺めていて心が落ち着く。

   (大講堂)

上野誠『万葉びとの奈良』(新潮選書)から

 万葉学者の上野誠さんは、「官寺は、寺院といっても、学問所であり、今日でいえば国立大学に当たる」と書いておられる。

 明治政府が西洋文明を取り入れるために、次々に帝国大学を設立していったのに似ている。

 中世ヨーロッパにおいても、ゲルマンの王権が確立していく過程で、滅亡したローマ帝国時代のラテン語を受け継いでいるカソリック教会や修道院が学問の府となった。

 「各寺院には、それぞれに得意な研究分野があり、寺院ごとに学派を形成した。東大寺は華厳経の経典研究を中心とした学派を形成したし、薬師寺や興福寺は法相教学の学派を形成したのである。これは、今日の『宗派』とはまったく異なるものであり、僧侶はそれぞれの寺院に赴いて、それぞれの学派の師から自由に学ぶことができた。この気風というものは、今日にも受け継がれていて、南都の僧侶は、宗派に関係なく互いに学び合う気風がある」。

 大講堂には、国宝の仏足石と仏足跡歌がある。

      ★

<壮麗な姿で建つ金堂>

 大講堂を表側に出ると、視界が広々として、後ろ姿であるが金堂と二つの塔がカメラの広角の範囲に収まった。(冒頭の写真)。

 金堂は、言うまでもなく薬師寺の中で最も大切な伽藍で、昭和51(1976)年、最初に再建された建造物である。裳階(モコシ)が付けられ、早春の空へのびやかに建ち、気品があって美しい。

 再建に当たっては、宮大工の西岡常一さんを棟梁とし、伝統的な工法を使って創建当時の姿を再現した。

  (前から見た金堂)

 上層部分には納経蔵があり、薬師寺の伽藍再建のために浄財を寄付して写経・納経した百万巻のお経が納められている。

 堂に入ると、正面に薬師寺の本尊が祀られていた。白鳳時代の作とされ、国宝。中央に薬師如来、両脇に日光菩薩と月光菩薩が立つ。

 上野誠さんは、「私は薬師像を見るたびに …… ほんとうに人を救うことができるのは、こういう自らに対する自信と安らぎが満ちあふれた顔をもった人物であるだろうと(思う)」と述べておられる (『万葉びとの奈良』)。

    薬師寺の歴史を紐解けば、680年、天武天皇が皇后の鵜野讃良(ウノノササラノ)皇女(ヒメミコ)、(後の持統女帝)の病い平癒を祈って発願された。后(キサキ)の病いはまもなく平癒するが、天武天皇は薬師寺の完成を待たずに崩御。天武のあとを継いだ持統天皇の697年に本尊の薬師如来の開眼が行われ、さらに次の文武天皇のときに堂宇が完成した。実に3代に渡った大事業だった。

 710年、元明女帝のときに平城遷都が行われ、薬師寺も平城京の右京に移された。このとき、薬師寺が解体され、仏像とともに平城京に運ばれたのか、平城京に新しく造られたのか、意見が分かれるようだ。

 本尊が置かれた台座の模様も興味深かった。写真撮影は許されないが、食堂のそばの建物にレプリカがあった。

 大陸の遥か彼方から流れ流れて、さらに海を渡り、このユーラシア大陸の果ての島国に伝えられてきた文明の「実」を感じることができる。「実」は椰子の実の「実」である。

 

 台座の框(カマチ)には、ギリシャ由来の葡萄唐草模様やペルシャ由来の蓮華模様が描かれ、四面の北に玄武、東に青龍、西に白虎、南に朱雀。その四神の上には、窓の枠の中に裸形の異人。白虎も龍のようにデフォルメされて表現されている。(その2へ続く)

 

 

 

 

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冬はつとめて (2023年の晩秋から冬へ) … 読売俳壇・歌壇から

2024年03月30日 | 随想…俳句と短歌

    いつもの読売俳壇、歌壇からです。2023年の晩秋から24年の2月ごろにかけて、讀売紙上に掲載された作品からです。

 読売俳壇も、読売歌壇も、それぞれ4人ずつの選者の先生がいて、投稿されてきた作品から、お一人が10作品を選ばれます。そして、その中の特に優れた3作品には[評]をお書きになります。

 今回、私がとりあげた作品で、先生方の[評]が付いていたのは、なんと2作品だけでした。

 私には作品として優れているかどうかを判断する力量はありません。私が取り上げたのは、私の感性に響いたかどうか、だけなのです。

 作品が詠んだ対象(例えば旅)を私も好きとか、対象(例えば子ども)のとらえ方が面白いとか、作品の情感にきゅんとするとか ── まあ、そういう感じです。私の個人的な感性が基準なのです。

 感性は、人それぞれです。

 しかし、こうして、句作、作歌に努力している方々の作品に触れると、私にも作品への共感の心が生まれ、そこに新しい発見の喜びがあり、影響を受けて、昨日までとは少し違う新しい感性が生まれてくるように思います。生きるということは、そういうことだと思います。

    ★   ★   ★

<俳壇から>

〇 バレーリーナ 始めましたと 落葉かな (塩尻市/神戸千寛さん)

 秋も深まって、ひらひらと落ちてくる落ち葉たち。擬人法が可愛いですね。

 (フランスのランスの公園で)

 ヨーロッパの秋に紅葉を見ることは少なく、ほとんど黄葉です。でも、それはそれでロマンチックです。

      ★

〇 湖の 晴れて義仲寺 時雨けり (八王子市/徳永松雄さん)

   (義仲寺の門)

 私も、2022年3月に訪ねました。2度目なのですが、昔、車で湖を巡ったときにちょっと立ち寄った1回目のことは、あまり覚えていません。

 受付で、義仲寺(ギチュウジ)の説明書をいただきました。それによると、……

 古くは、琵琶湖に面して建っていたそうです。

 1180年、平家討伐の兵を信濃に挙げた木曽義仲は、北陸路で平氏の大軍を破って、京都に入ります。しかし、翌年、鎌倉に発した源範頼、義経軍と戦い、この地で討ち死にしました。

 それから年月を経て、美しい尼僧が義仲の塚のほとりに草庵を結び、日々供養して過ごしたと伝えられています。

 尼の没後、彼女の庵は、「無名庵」或いは「巴寺」と言われ、また、「木曽塚」「木曽寺」「義仲寺」と呼ばれるようになりました。

 戦国の頃にはすっかり荒廃していましたが、近江国守佐々木氏が「源氏の御将軍の墳墓を荒れるにまかすはしのびない」と、寺を一度、再建したそうです。

 ずっと後世のものですが、寺の庭には、木曽義仲の墓石が整えられています。

  (木曽義仲の墓)

 江戸時代、元禄期、松尾芭蕉はこの寺を(木曽義仲を)愛し、旅から帰るとこの寺を訪ね、再建された無名庵に滞在しました。

 「行春をあふみの人とおしみける」(芭蕉)。

 今、庭には、数多くの句碑が立っていて、さながら芭蕉翁を慕う俳人たちの聖地のよう。

 その一つ。芭蕉の弟子の一人で、伊勢の俳人又玄(ユウゲン)は、無名庵に滞在中の芭蕉を訪ね、共に泊まりました。そのときの作、

 「木曽殿と背中合せの寒さかな」(又玄)。

 1694年、芭蕉は旅の途次、大阪で逝去しますが、遺言により、去来、其角ら門人たちは遺骸を川舟に乗せて淀川を遡り、琵琶湖の畔の義仲寺に運んで、葬儀を挙げ、埋葬しました。

 (芭蕉翁の墓)

 翁堂には、芭蕉や門人の姿を写した木彫が祀られています。

 また、小さな巴塚もありました。

  (翁堂)

 明治・大正を経て、戦前、寺は再び荒廃していましたが、戦後になって再建され、また、境内全域が国の史跡に指定されました。

 さて、冒頭の「湖の 晴れて義仲寺 時雨けり」の句。

 義仲寺は時雨ていたが、参詣を終えて湖に出てみると、琵琶湖の湖面は晴れて明るかったということでしょうか。

琵琶湖

 (琵琶湖と比良の山並み)

 歳時記に、「時雨」は、「山から山へあたかも夕立のように移動しながら降ったり、対岸は日が当たっているくせに、こちら側が降っていたり、なかなかに趣が深い」とあります。

 また、俳句を作る人なら常識なのでしょうが、芭蕉翁の忌日を「時雨忌」と言うそうで、現在は毎年11月の第2土曜日に、このお寺で法要が営まれるそうです。そういうことが、この句には含まれているのでしょう。

      ★  

〇 冬はつとめて 明けの明星 消えるまで (さいたま市/関根博さん)

正木ゆう子先生評)「清少納言の『冬は早朝が良い』という言に、若い頃は『寒いのに』と思ったものだが、今は深く肯(ウナヅ)く。冬の早朝ほど清々しく美しいものはない。金星が太陽の光に消えるまで」。

 今、『光る君へ』が放送されています。平安時代をドラマに映像化するのはムリだろうと危ぶんでいましたが、宮中や貴族の邸宅も、登場人物の衣装、或いは小道具などもうまく作られていて、さすがはNHKと感心しました。これは民放ではムリですね。

 それに、あれこれとデフォルメされてはいますが、人間ドラマとしてもなかなか面白い。

 私は歴史上の人物として、藤原道長にも紫式部にも興味があって、おぼろながらも私なりに人物の輪郭があります。その私のイメージを壊さなければ、歴史的にはわからないことがいっぱいあるので(紫式部など、名さえわからない)、フィクション(虚構)で描いてもらって結構と思っていました。ドラマでは、道長も、紫式部も、私のイメージする人物像なので、安心して、楽しく見ています。

 『蜻蛉日記』を書いた道綱の母も、紫式部のライバル、『枕草子』の清少納言も登場します。 

 清少納言は漢詩文の知識をひけらかしたり、男性貴族をおちょくったりするところがありますが、それでも、彼女の文章のきりっとした美しさは素晴らしく、日本語の最高峰の一つだと私は思います。

 「冬はつとめて。雪の降りたるはいふべきにはあらず、…… いと寒きに、火などいそぎおこして、炭もてわたるもいとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火もしろき灰がちになりてわろし」。 

 西暦1000年頃の世界に、このような繊細で美しい感性は、他にありません。

 話は変わりますが、正木ゆう子先生が読売文学賞を受賞されました。そのことを伝える讀賣新聞のコーナーに紹介されていた正木先生の句。

 兄の死の のちの嫂(アニヨメ) すみれ草

 説明の中に、正木先生に俳句を勧めてくれたお兄さんは49歳の若さで亡くなったとありました。「すみれ草」が愛おしい。

   ★   ★   ★

<歌壇から>

〇 ローカル線に 遍路姿の 異国人 みずほの国の 秋を見つめて (前橋市/西村晃さん)

    (雁)

 日本人以上に、この列島の歴史や、文化、伝統を深く理解し、愛してくれる異国人がいます。

 私たちも異国を旅するとき、その国について最低限の勉強をし、その歴史や文化に敬意をもって、見学したいものです。

      ★

〇 老いるとは 忙しき日々よ 為(ナ)さねばの 半分もなせず 夕陽は沈む (大津市/吉川万代さん)

 本当に、私も日々がそのとおりです。

 でも、生きるということは、前を向いていること。興味・関心があり、何かに面白さを感じて、日々、生きることが一番だと思います。

      ★

〇 まっすぐな 道もジグザク 帰りゆく シジミチョウの ようなランドセル (大和郡山市/大津穂波さん)

 「ランドセル」でとらえた子どもの小さな姿が面白いです。「シジミチョウ」の喩えも素晴らしい。

      ★

〇 初しぐれ ななめに叩く 畦道を 二人っきりの 登校班行く (浜松市/久野茂樹さん)

 畦道を行く「二人っきりの登校班」がいいですね。ちょっと安藤広重の浮世絵が浮かんできました。

      ★

〇 本名で 最期を迎ふ そのことが 逃亡の果ての 願ひなりけり (伊勢原市/佐藤治代さん)

小池光先生評) 「五十年近く逃亡していた連続爆破事件の犯人を名乗る男。本名を告げて、その数日後に病死した。最期に本名を明かしたことはいろいろなことを考えさせるおもい歌」。

 名無しの「我」ではなく、最期は「なにがしの誰べえ」という名をもつ人として、死んでいきたかったのでしょう。

 遠い日、まだ若くて、自分が思っているよりも遥かに他の影響を受けやすかった。にもかかわらず、観念の中で、自我は国を超え、世界に飛翔すると考えていた。

 長い歳月を経て、年を取り、死を前にして、祖先から継承された姓と、親が付けてくれた名をもつ「我」に戻った。

 遠くへ飛翔するのも我。しかし、親が付けてくれた名をもつのも我。

 若者よ、ゆっくりと歩け。いたずらに先走らぬように。

  (大糸線から安曇野)

 

 

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きょろきょろウォーク ─ 大阪中之島のこと

2024年02月11日 | 随想…散歩道

  (大川をゆく遊覧船)

 明けましておめでとうございます

 2024年も、よろしくお願いいたします

 …… もう2月でした

  ★   ★   ★

<大阪ウォーキング>

 大阪の中之島は、私のウォーキングコースの一つ。

 現役で働いていた頃、大阪の街並みには関心がなかった。京都や奈良や、いっそ遠く信州の山や高原へ出かけた。冬はスキーとか。

 しかし、仕事をリタイアした今、例えばカルチャーセンターの講義を聴くために大阪に出たとき、「勉強」の後は大阪の街をウォーキングする。

 古寺、古社が多く、自然も残るわが大和国を歩くのもいいが、高層ビルが建ち並び、多くの人々が忙しそうに行き交う都会の街を、キョロキョロとあれやこれやに興味をもちながら歩くのは、脳の活性化に良いそうだ。

      ★

<大川から中之島へ>

 毛馬洗堰(ケマ アライゼキ)で淀川の本流から分かれた大川は、南流して、大阪城の手前で大きく西へカーブする。

 そこまでの間、大川の両岸は「毛馬(ケマ)桜ノ宮公園」と名付けられ、春は桜の名所の一つ。

 もとは、この大川が、淀川の本流だったそうだ。

 地形上、大川は上町台地の北端(そこに大阪城がある) にぶつかって向きを西へ変え、まもなく天満橋の下をくぐる。

 橋をくぐると、すぐに中之島の東端にぶつかり、流れは二つに分かれる。

大阪中之島の東端

  (大阪中之島の東端)

 川は名を変え、島の北側を流れるのが堂島川、南側を流れるのが土佐堀川である。

 こういうことは小学生のときに学習する事柄かもしれない。だが、他郷で生まれ育った人間には、「あれが淀川、こちらが〇川と△川」などと耳にしても、どうも頭に残らない。全部、淀川になってしまう。子どもの頃に勉強し、しっかり身に付けることは大切なのだ。

      ★

<中之島の遊歩道>

 堂島川と土佐堀川にはさまれた中之島の島の幅(南北)は、広い所でも300mほどしかない。しかし、長さ(東から西へ)は約3キロもある。

 パリの発祥の地・シテ島の長さは1キロ程度だから、サン・ルイ島と合わせても、大阪中之島にはとても及ばない。川中島としては、なかなか堂々たる島なのだ。

 シテ島がパリの要であるように、中之島は日本第二の大都市である大阪市の中心に位置し、大阪市役所も、中央公会堂も、美術館も、児童文学館も、フェスティバルホールも、明治の建築である日銀の大阪支店も、薔薇公園も、高級感あるホテルやレストランもあって、並木の遊歩道がずっと続いている。

 (中之島の遊歩道)

 大阪の街は縦(南北)に長い。その街に、2本の川と中之島が横に3キロに渡って横たわっている。

 それで、中之島と2本の川の上を、御堂筋をはじめ主なものだけでも7本の道路が縦(南北)に走り、14の大橋が架かっている。さらにやや小型の橋や人間しか渡れない小橋などもあって、ずっと遅れて敷設された高速道路の橋以外は、一つ一つに大正、昭和の趣がある。

 さて、東端から西端までの3キロの遊歩道を、一気に散策しながら歩くのはちょっとしんどい。どちらから歩くにしろ、地下鉄の駅から歩き、さらにまた地下鉄の駅まで歩かねばならないから、3キロにプラスαである。

 東端の最寄り駅は「天満橋」(地下鉄の谷町線)で、西端は「阿波座」(千日前線)である。

 真ん中あたりに「淀屋橋」(御堂筋線)或いは「肥後橋」(四つ橋線)があり、このいずれかを一方の起点にして、二つに分けて歩くと、ほどよい距離になる。

      ★

<渡辺の津> 

 東端の天満橋の下流辺りは、昔、渡辺の津と呼ばれた水運の要衝で、渡辺党という一族が支配し栄えていたらしい。もともとこの流れが淀川の本流だった。そういう説明が川岸に設置されたプレートに書かれている。

 それで思い出した。渡辺党の祖には、平安時代、大江山で鬼退治をした清和源氏の頭領・源頼光の四天王の一人、渡辺綱がいた。

 源頼光の四天王には、もう一人、有名人がいる。坂田の金時。少年時代、足柄山で熊と相撲をとって投げ飛ばしたという伝説の持ち主である。

 渡辺綱にも、大江山の活躍以外に、伝説が伝わる。

 夜、平安京の暗い大路を (当時は、月明り、星明り以外は、まことに真っ暗闇だった) 騎馬で行っていたとき、「渡辺の綱!!」という大音声とともに、いきなり巨大な手が空から伸びてきて、綱の後ろ襟をつかんだ。綱はとっさに太刀を抜いて、背後を斬り払った。

 翌日、大路に巨大な腕が転がっていたという。

 子どもの頃に少年読み物で読んだ話が、このウォーキングコースと結びついた。

 この辺りにはカフェ・テラスがあり、水際の風景を楽しみながら、ちょっと一杯もできる。いい気分だ

 (カフェのテラス席から)

      ★

<中之島の中央公会堂> 

 クラッシックな造りの淀屋橋の上流に、赤レンガ造りの中央公会堂がある。今は国の重要文化財に指定されている。近くには、これも年代物の中之島図書館もあり、ちょっと新しい市庁舎もある。

 この公会堂は大正時代に、一人の実業家の寄付で建設された。     

 (大阪市中央公会堂)

 私がまだ若かった頃はスクラップ・アンド・ビルド、大量生産・大量消費の高度経済成長の時代で、この中央公会堂もスクラップして、新しく鉄筋コンクリートの効率的なビルを建設しようという動きがあった。そういう動きは巨大で、うねりのようであった。

 詳しいことは知らないが、このとき、静かな運動が起こった。

 運動の中心にいたのは、私と同世代の若い建築家や建築家の卵の男女。当時、勢い盛んだった労働組合や革新政党の旗や幟や大音量の拡声器の声はなかった。彼らはいつもごく少人数で、淀屋橋の上などで、道行く人にビラを配り署名を求めていた。人数は少くとも、知的な雰囲気があって、新鮮だった。

 息の長い運動が実り、中央公会堂だけでなく、この辺りの幾つかの歴史的建造物が、補強工事されつつ残されることになった

 そういうこともあって、今の中之島の景観がある。

      ★

<現代的なビルの景観と歴史の継承と>

 都市美は、川の流れと、ビルのたたずまいと、樹木の緑との、ほどよいバランスにある。

 戦後の粗製乱造のビルも徐々に建て替えられ、高度経済成長の時代も終わって、新しい価値観が大阪の景観を創るようになった。

  (肥後橋付近)

 上の写真の左手、黄土色のビルは三井住友銀行大阪本店で、大正から昭和の初めにかけて建てられた、この界隈では古いビルである。今ではもう大きなビルとは言えないし、少々古びているが、クラッシックで品があり、街並みに溶けこんでいる。

 その右隣の背の高いビルは、大同生命ビル。効率主義の現代的なビル建築の中で、堂々として、かつ、エレガンスである。

 近づいてみると、玄関付近もかなり凝っていて、その装飾的な造りはやり過ぎと思われるほどだ。多分、おカネがかかっている。

 効率主義一辺倒ではなく、また、奇抜ではなく、こうした品格のあるエレガンスな建物を建て、大阪の街を美しくしてほしい。大正時代にあの中央公会堂を寄付した大阪の一実業家の心意気を見習ってほしいものだ。

  (大同生命ビル)

 さらに西へ歩けば、福沢諭吉誕生の地の記念碑もある。

  (福沢諭吉誕生の地)

 このあたりに九州の中津藩の蔵屋敷があった。中津藩は維新とともになくなったが、下級武士の子としてここで生まれた福沢諭吉の名は、こうして記念されている。

      ★

<島の西端の風情>

 中之島の西端に近づくと、ほのかに下町の風が頬に感じられる。土佐堀川の川岸には、この辺りが宮本輝の「泥の河」の舞台だったという説明板も立っている。

 中之島の西端で、堂島川と土佐堀川は合流して、また名を変え、安治川となる。

 (中之島の西の突端と船津橋)

 川幅は一気に広くなり、河口が近いことが感じられた。

 中之島の島の突端はコンクリート製の半円形で、それが船の舳のように望まれた。

 二つの川が合流した安治川の右岸には、大阪中央卸売市場がある。その前の川岸は、かつては荷揚げ港だった。日本各地の港々から積まれた特産品がここに集積され、商都大阪の殷賑の源の一つとなった。

 そういう種類の船ではないが、今も2、3艘の船が係留されて、波にたゆたっている。

 川岸近くの石の階段に腰掛けて、中之島の突端を眺めていたら、「たゆたえど、沈まず」…… 。ふと、パリのシテ島のとん先、ヴェール・ギャランを思い出した。

      ★

<国の都のこと>

 セーヌ川の川岸一帯は、ノートルダム大聖堂が聳えるシテ島やサン・ルイ島を含めて、世界遺産に指定されている。パリという街の美しさは、セーヌの流れとともにある。

(シテ島のとん先。ボン・ヌフ橋とヴェール・ギャラン公園)

 パリの歴史は古い。

 紀元前、シテ島には、セーヌ川で漁労や河川交易を営むパリシィ人(ケルトの一族)がいた。パリの名の由来である。

 BC1世紀、ユリウス・カエサル率いるローマ軍がパリにやって来た。

 ローマ軍は、シテ島とセーヌ左岸に、道路を敷設し、水道を引き、劇場や共同浴場を建設して、小規模ではあったが、街(文明)を造った。

 AD5世紀、西ローマ帝国が滅亡して、時間は逆流したように混迷の時代に入る。

 6世紀の初頭、新たにゲルマン諸族の中のフランク族の王メロヴィング家のクローヴィスが侵攻してきた。ローマ時代に既にキリスト教化していたパリの住民にとって、幸いなことに、クローヴィス王はカソリックに改宗してくれた。

 フランク王国は、カロリング家に代替わりしてさらに発展し、西ローマ帝国を引き継ぐような大国になった。ただし、王都はなかった。王はゲルマン風に諸国を巡りながら国を治めた。カロリング家の本貫の地はドイツ側にあった。

 やがて、フランク王国は3つに分裂し、今のフランス、ドイツ、イタリアの原型ができ上がった。

 987年、西フランク王国(フランス)のカロリング王家が断絶した。諸侯はパリ伯であったユーグ・カペーをフランス王に推挙した。ただし、パリ伯の領地はパリとパリ近郊部だけだった。自ずから、パリがフランス国の王都となった。王権がフランス全土に及ぶようになるのは、先のことである。

 大和の大王家も、代替わりするたびに居を移したようだ。大王家の宮(ミヤ)がある所が都(ミヤコ)である。そういう意味で、大阪に初めて都(宮のある所)が置かれたのは、AD5世紀の前半である。

 その場所は、中之島ではない。

 「オホサザキの命(※仁徳天皇)、難波(ナニハ)の高津(タカツ)の宮にいまして、天の下を治めき」(古事記)。

 「オホサザキの尊、即天皇位す。…… 難波に都をつくりたまふ。こを高津の宮とまをす」(日本書紀)。

 高津の宮が、難波のどこにあったか、正確なことは定かではない。

 当時、海は、袋のように内陸部深く入り込み、そこへ淀川と大和川が多くの支流をつくりながら流れ込んでいた。上町台地が半島のように南から北へ伸びて、その先に難波の津があった。

 大王オホサザキは、海に向かって開く難波に宮をつくった。そこから、瀬戸内海を経て、北九州、そして大陸へ。「倭の五王の時代」とも呼ばれる時代である。

 (古墳時代の倉庫の復元)

 上の写真は、もう少し後、5世紀の後半にこの辺りにあった16棟の巨大倉庫群の復元である。ただし、縮尺20分の1で復元されているから、この20倍の大きさの倉庫群が並んでいたことになる。大陸から運ばれてきた品々が収納されたのだろう。 

 さて、当時の淀川に中之島があったのかどうか、あれば、どんな姿だったのかは、わからない。

 安治川の流れを見送りながら、一度、河口まで歩いてみたいと思った。もちろん、現代の河口である。

 

 

 

   

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「私の空よ」と (2023夏から秋) … 読売俳壇・歌壇から

2023年12月23日 | 随想…俳句と短歌

 読売俳壇・歌壇からです。今年の夏の終わりから秋の終わりにかけて、讀賣紙上に掲載された作品からです。

      ★

長岡の 花火の乱舞 その合間 「私の空よ」と 月が顔出す (いずみ市/安藤敦子さん)

 花火は夏の風物詩。わが町でも、ささやかながら花火が打ち上げられます。

 しかし、「長岡の花火」は、信濃川の両岸を観覧席とする日本屈指の花火大会だそうです。

 毎年8月2、3日に開催されるようですが、暦を見ると、今年の8月2日は満月でした。…… なるほど‼

  「『私の空よ』と月が顔出す」が、いいですね

 (花火)

       ★ 

ネーミング 「100歳大学」に 魅せられて 米寿の友と 女学生になる (君津市/菅又久子さん)

 米寿には少し遠いですが、私もカルチャーセンターに通って学生をしています。私のもっぱらの関心は日本の古代史(「古事記」や『日本書紀」の時代)とヨーロッパの中世史。そういう時代の方が、茫漠としていて、ロマンがあって、私には面白い。

 コロナの初めの頃は休講になったりしましたが、やがて徐々にオンラインシステムが構築・整備され、今では全国の講座が選り取り見取りで受講できるようになりました。わが家のパソコンで、東京大学の若手の先生のヨーロッパ中世史を拝聴できるのですから素晴らしい。

 それでも、やっぱり出かける方が楽しい。勉強が終わった後、中之島や御堂筋をウォーキングするのが好きです。心身の両方が活性化されます。

 (カフェでひと休み)

      ★

何といふ 事もなけれど 先をゆく 僧の頭に どんぐりの落つ (東大阪市/山本隆さん)

 クスッ

 お坊さんは気が付いたのでしょうか?? 多分、気付かなかったのでしょう??

  「何といふ事もなけれど」がいい

      ★ 

忘れ潮に 小さき命 秋日和 (枚方市/衛藤聡一さん)

 矢島渚男先生評「干潮どきの岩礁の水溜まりには、小魚や藤壺、海藻をはじめ、沢山の命がひしめいている。それを慈しむように眺めて時間を忘れた」。

 秋の日射しの中、ここにも小宇宙があります。

 「忘れ潮」という言葉を初めて知りました。このような言葉を作った古人の言葉のセンスに感心します。日本語は豊かです。

      ★

山の分 少し残して 栗拾ひ (長野県/村田実さん)

 矢島渚男先生評)「『山の分』がいい。鹿や栗鼠(リス)などの具体性よりも漠然がよい。栗も『山』のために働いているのだ。山の栗は柴栗(シバグリ)であろう」。

    今回は、矢島渚男先生が選ばれた作品が多くなりました。

 「山の分」という言葉から日本の山里がイメージされ、矢島先生の解説に尽きると思いました。

 歳時記によると、山栗、柴栗と呼ばれる野生の栗の実は小粒なのだそうです。

      ★

木簡に 鎮兵の文字 彼岸花 (国分寺市/野々村澄夫さん)

  (彼岸花)

 矢島渚男先生評「『鎮兵』と書かれた木簡が出土した。木片に書かれた貴重な記録。奈良・平安初期の鎮守府の兵で家族を同伴できた」。

 改めて新聞記事を探して読みました。

 木簡は福島市の西久保遺跡で発掘。その後、解読作業が進められ、この9月に「鎮兵」の文字が判明して発表されたようです。

 以下は、その記者発表の記事の受け売りです。

 都を警護するために派遣された兵が衛士(エジ)。大宰府の警護に当たったのが防人。そして、陸奥国や出羽国を防備するために派遣されたのが「鎮兵」だそうです。

 各国や各郡は、任地に派遣されていく途中の兵士の病や死に責任がありました。食物や寝る場所を含め、当時の旅は大変だったでしょうから。

 今回の木簡の内容は、下野国で徴兵された兵が出羽国へ行く途中、この地で死亡。当地は使者を立てて出羽国へその経緯を報告しました。木簡は出羽国からの返答で、当地に落ち度はなかった旨を伝えてきた文書だったそうです。

 発掘現場に咲く赤い彼岸花が、遠い歴史と現代とを結んでいるようで印象的です。

 かねてから、機会があれば、鎮守府のあった多賀城を訪ねてみたいと思っています。仙台市の北東にあります。

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深秋や 人の願ひに 立つ地蔵 (知多市/田上義則さん)

 矢島渚男先生評「村々に立つ地蔵さん。あれは村人の素朴な願いを受けとめるために作られてきたものだという。枕草子などから平安時代には普及していたようだ。安産、健康、豊作などすべての願い事を受け入れてくださる有難い菩薩様だった」。

    (村の地蔵)

  (合格地蔵)

 秋深く、村落の道端に立つ地蔵尊。いや、現代でも、石仏は大都会の街中にもあります。そして、誰かが、毎日のようにお世話をして、日本の季節と風土に溶けこんでいます。

 日本人の信仰は御利益主義だと言う人もいます。

 しかし、日本の神や仏は、人の悲しみや願いにそっと寄り添い、ほんの少し力を添えてくれる存在です。 

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異界へと 続く縁側 秋の暮 (甲府市/村田一広さん)

 正木ゆう子先生評)「昔はごく普通に在った縁側も、閉鎖的な家ばかりになった今思えば、どこか非日常的。夜ともなれば、縁側は闇へとつながる入り口であった。子供たちの世界観にも影響したか」。

 (縁側のある古風な家)

 写真は龍神温泉の「上御殿」。紀州の殿様の湯治の常宿でした。

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冬近し 何か忘れて 来たような (神奈川県/中村昌男さん)

                      

  (夕景)

 人は不完全な存在だから、いつも何か心残りを残しながら、今日を生きています。

 

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 今年はこれをもって終わりとします。

 皆様、どうか良い年をお迎えください。そして、初詣では、迎える年が良い一年になるよう、また、世界が平和になるよう、みんなで祈りましょう。

 来年も

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 追伸。前回、このブログに紹介した画家の杉浦孝始さんから、何と!! わが家に水彩画が届きました。わざわざ新幹線に乗って絵画展に来てくれたお礼にと、お手紙が添えてありました。

 1年の終わりに良いことがありました

 

   (杉浦孝始さんの絵)

 

 

 

 

 

 

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