goo blog サービス終了のお知らせ 

ドナウ川の白い雲

国内旅行しながら勉強したこと、ヨーロッパの旅の思い出、読んだ本のこと、日々の所感など。

お知らせ3

2025年08月04日 | お知らせ

 

「初夏から秋へ … 読売俳壇、歌壇から」を「amebaブログ」に投稿しました。

「ドナウ川の白い雲」の「amebaブログ」版から見ることができます。

 

 

 

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お知らせ2

2025年07月24日 | お知らせ

 

お知らせ

 「goo blog」から「Amebaブログ」へ、2012年から書き始めた400もの記事を引っ越すことができました。

 ただ、書いた順に記事をごそっと引っ越しただけで、「goo blog」で言えば「カテゴリー」は引っ越しできません。「Amebaブログ」では「テーマ」と言うのですが、「テーマ」による分類分けをいちからやらなければなりませんでした。

 それで、数日間をかけて、一つ一つの記事を呼び起こし、テーマ名を付けて分類する作業をしました。まあ、自己満足のようなものですが、何とかテーマ分けが完了しました。

 まだ、あれやこれや形を整えていかなければいけません。

 2013年7月に書いた「わが生涯で最高に美しいと感動した光景 … 思い出の記」(テーマ分けでは「国内旅行記」の冒頭)を更新しました。

 暑い日々、皆様、お身体をお大切に。

 私もぼつぼつと、ゆっくり進めていきます。

 「Amebaブログ」の「ドナウ川の白い雲」も見てね

 

 

 

 

  

 

 

 

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お知らせ

2025年07月03日 | お知らせ

お知らせ

 「goo blog」が終了することになり、私のブログ「ドナウ川の白い雲」は「Amebaブログ」へ引っ越すことになりました。既に引っ越しの作業は終了していますので、まだ体裁は不完全ですが、今までの記事はそちらでも読むことができます。

 入り方は、今までどおり、検索画面から「ドナウ川の白い雲」と入力して入っていただくか、https://ameblo.jp/ikuta-0/entry-12913072542.htmlでお願いします。

 新しい記事を書くには、少し月日を要するかもしれません。なにしろ年が年ですから、新しいことに取り組むのは大変なのです。

 というような状況下にあります。が、とにかく今後ともよろしくご愛読ください

 

 

 

 

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願はくは花の下にて … 陸奥の国・岩手県平泉と盛岡の旅(番外編)

2025年05月03日 | 国内旅行…陸奥の国紀行

      (弘川寺の谷の桜)

辻邦生『永遠の書架にたちて』(新潮社) の中の「詩人であること」から

 「先日も旅の疲れを休めようと、信州の山小屋で谷の斜面を渡ってゆく風の音を聞きながら『山家集』を開いていたら、ふと、

 吉野山梢の花を見し日より心は身にもそはずなりにき

という歌が眼にとまって、半日というもの、しきりと『梢の花を見し日より』が頭について離れなかった。たしかに私たちの生涯のある一日、『梢の花』を見てしまうような瞬間があるのである。それを見たら、恋と同じく、もうお終いであって、私たちは、日常の世界から、向こう側の世界──花や雲や月の世界──へ移り住むことになる。心はこの世の利害とは無縁となり、勝手に浮かれてゆく」。

         ★   ★   ★

 当ブログ「陸奥の国・岩手県平泉と盛岡の旅⑴」の「衣川見に」の中で、旅の歌人・西行が2度も平泉を訪ねていることを書いた。

 書きながら、西行が最期の数か月を過ごした寺、「願はく… 」の歌のとおりに桜の咲く望月の頃に逝去した寺を、未だ訪ねていないことが気になった。そして、今年こそ桜の咲く頃に訪ねてみようと思った。

                     ★

 既に69歳になっていた西行は東大寺再建の勧進のため遥々と平泉まで旅をし、藤原秀衡と約40年ぶりの久闊を叙した。

 都に戻ってからしばらく活動し、その間に秀衡の死や義経の悲報を耳にした。

 やがて南河内の山中の弘川寺に身を寄せて、病む。

 辻邦生の『西行花伝』は、西行を師と慕う藤原秋実を「語り手」として、西行の半生を語った文学作品である。その最終章 ──

 「私はそこに師の老いを感じた。あんなに頑丈な身体を持ち、花や風や月や雲に弾むような喜びを感じ、疲れというものを知らずに働きつづけた人が、陸奥(ミチノク)の旅から戻った後、どこか一まわり小さくひ弱になった感じがした。…… それは身体だけではなく、考え方、喋り方、身の動かし方にも感じられる。それは紛うことない老年が師に訪れているということであった」。「師が生まれ故郷の紀の川に近い葛城山中の弘川寺に草庵を作ることを決心したのと、この老いの衰えとは無関係ではなかった」。

 「弘川寺に移ってから、めずらしく師は病に倒れた」。

       ★

   (桜咲く弘川の里)

 大和国と河内国とを分けて、北から南へと、そう高くない山なみが続く。

 生駒山(642m)から信貴山(437m)へと続く生駒山系。一旦、大和川の亀の瀬峡谷で途切れたあと、再び盛り上がって葛城山(959m)、金剛山(1125m)の葛城山系へと続く。そこでまた、紀の川 (吉野川) で途切れて、その先は吉野・熊野の奥深い山々(最高峰は八経が岳の1915m)へと連なっていく。

 これらの山なみは、伝説的な人・役行者(エンノギョウジャ)を開祖とする山岳仏教や、これを受け継いだ空海の密教の舞台となり、多くの古寺がそれぞれの山頂近くや山麓に佇んでいる。

 葛城山の北東、大阪側の山麓にある弘川寺も、そういう寺の一つである。

 司馬遼太郎『街道をゆく3』「河内みち」に、「中世では葛城山・金剛山というこの山脈(ヤマナミ)は山伏たちの駆けまわる聖地であった。南北朝のころ鎌倉幕府に対して孤軍よく戦った楠木正成の戦力のなかにはこの葛城・金剛の山伏たちも入っていたにちがいなく…」とある。楠木正成が鎌倉幕府の大軍を一手に引き受けて立て籠もった千早城もすぐ南である。

 寺でいただいた栞には、「名峰葛城の麓にあり、天智天皇の4年(664年)に役行者によって開創され」、「弘仁3年(812年)には空海が嵯峨天皇の命によって中興され、密教の霊場と定められました」とある。

 また、「歌聖西行法師は晩年の文治5年(1189年)、当寺の座主空寂上人の報徳を慕って来られ、ここに住み『願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ』の願いどおり文治6年(1190年)2月16日、73歳、当寺で入寂されました」とある。

      ★

 村の家並みを見おろす台上に弘川寺は建っていた。

 (「史跡 弘川寺境内」の碑)

辻邦生『西行花伝』から

 「弘川寺は、まさしく終わりの思いを包み込むにふさわしい葛城山麓の、丘に後ろを囲まれた静かな場所に建っていた。寺のまわりには深い杉木立にまじって桜の木々が枝を交わしていた」。

  (本 堂)

 寺の境内の広がりは程よく、奥の正面に本堂がある。

 今は花の盛りの時季。しかし、ウィークデイでもあり、交通の便があまり良くない場所だからか、人は思ったより少ない。お年寄りの2,3人づれや、一人旅風の若い女性がちらほら。まれに若い男性の一人旅。それぞれに桜を求め、或いは西行を訪ねてやってきたのだろう。

 静かなひとときを過ごすことができた。

 この寺の本尊は薬師如来。本堂に安置されている。

  (鐘楼と護摩堂)

 本堂に向かって左側(西)に鐘楼。その隣に密教の寺院らしく護摩堂が建つ。

 向って右手(東)には御影堂と鎮守堂。御影堂は寺の中興の祖・弘法大師を祀り、鎮守堂はこの寺の守護神を祀る。

   (鎮守堂)

 左手を進み、本堂の西側から西行記念館に入った。

 (廊下から見た庭)

 西行記念館の展示物もさることながら、篠峯殿の廊下や各部屋の佇まい、そして庭園が、和風の住まいの落ち着きが感じられて好ましかった。

 (西行記念館の桜)

 庭の桜は、西行ゆかりの寺らしく、今まさに満開だった。

      ★ 

  (本堂の脇を登る)

 西行記念館から本堂へ戻り、本堂の東側の山道を登って行く。

 (カエデの若葉)

 山道の脇のカエデの若葉が、光を透かして美しい。紅葉の見事な木は、若葉も美しいという。

  (西行堂)

 山道の途中、ちょっと平らになった所に、西行の庵があった。

 江戸時代、似雲という法師が西行を慕って建て、さらに山の上に自分の庵も作って住んだという。

 (西行墳)

 その奥には西行墳があった。

 似雲法師は、500年の歳月がたち、既に忘れられ、わからなくなっていた西行の墓を、弘川寺の境内や裏山の一帯を這うようにして探しまわり、ここを見つけたという。

 「願はくは」の歌碑は後世のもの。

 (願はくはの碑)

 ただ司馬遼太郎は、せっかくの似雲の努力ではあるが、次のように疑問を呈している。

 「(この)西行の墓は、西行が生きた時代(※平安時代末期)の墓制とはかけはなれすぎているのである。堂々たる円墳なのである。円墳の上には樹齢のしたたかな松が幾本も根を張り、墳丘のまわりや高さを見ていると、たとえば高松塚古墳の規模や姿によく似たものなのである」。「葛城山の南河内のふもとというのは古墳が密集しており、むろんほとんどが未調査である。この西行塚とされているものが古墳であってもふしぎではなく」。(『街道をゆく3』「河内みち」)

 確かにこれは古代の円墳に見える。

 それでも、西行がこの寺で亡くなったことは確かであり、寺のどこかに葬られたことも否定できない。

  (桜山遊歩道)

 さらに、階段状になった山道を登って行く。

 (ツツジ)

 桜も満開に咲き、山道の所々にはツツジも咲きはじめている。

 似雲の庵や墓を過ぎて、さらに登っていくと、高度が上がり、見下ろす谷を桜が満開に埋めていた。

  (谷の桜)

  (谷の桜)

 (遠くに街)

 富田林の街並みを越えて、遠く海の方まで眺望できる。

 枯草の上に座り、景色を眺めながら、コンビニで買ってきたおむすびを食べた。

      ★ 

 寺の栞に、西行は「当寺の座主空寂上人の報徳を慕って来られ」とある。実際、西行は弘法大師の密教に心を寄せていた。最期の日々を、空寂上人の寺で過ごしたいと思ったのだろう。

 だが、実際にここを訪ねてみて、西行が弘川寺を選んだのは宗教上の理由だけではないのではと思った。「弘川寺は、まさしく終わりの思いを包み込むにふさわしい葛城山麓の、丘に後ろを囲まれた静かな場所に建っていた」と辻邦生が書くように、山ふところの、静かな日当たりの良い寺の佇まいに、西行は心ひかれたような気がする。

 もと来た道を下って行くと、谷の桜が目の位置の高さに霞のように広がった。

  (桜の谷)

 藪椿も、まだ残っている。

 (藪椿と桜)

 西行の頃にソメイヨシノはない。西行が愛したのはあでやかなソメイヨシノではなく、清楚な山桜である。

    (山 桜)

 西行が弘川寺に入ったのは秋だった。「訪ね来つる宿は木の葉に埋もれて煙を立つる弘川の里」

 その翌年、西行は願いどおりに、文治6年2月16日、太陽暦に直せば1190年3月30日に亡くなった。辻邦生は、こう書く。「師西行はこうして満月の白く光る夜、花盛りの桜のもとで、七十三年の生涯を終えた」。

 さらに、当時の歌壇の最高峰として尊敬されていた藤原俊成の文を引用している。 

 「かの上人(※西行のこと)、先年に桜の歌多くよみける中に

 『願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ』

かく詠みたりしを、をかしく見たまへしほどに、つひにきさらぎ十六日 望月、終はり遂げけること、いとあはれにありがたく(※ありえないようなことだと)おぼえて、物に書きつけはべる。

司馬遼太郎『街道をゆく3』の「河内のみち」から

 「墓などどうでもよいことで、ただ花の季節に花のもとで死にたいといっていた西行の死がちょうどその季節であったこと、また真言密教の優れた修験者だったといわれる西行が、弘川寺という日本におけるもっとも古い密教寺院のひとつで最後の息をひきとったということだけで、その死が十分荘厳(ショウゴン)されているといえるかもしれない」。

 『西行花伝』は、語り手のこのような語りで終わる。

 「(さらに) もし何かひとこと書くとしたら、桜の花に陶酔(ウカレ)る日、ぜひその花の一枝をわが師西行に献じてほしいということだ。師は機嫌のいいある日私にこんな歌を示されたからである。

 仏には桜の花をたてまつれわが後の世を人とぶらはば

 

多分、しばらく休憩します。また、

 

 

 

 

 

 

 

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不来方のお城の草に寝ころびて … 陸奥の国・岩手県平泉と盛岡の旅(7/7)

2025年04月12日 | 国内旅行…陸奥の国紀行

(盛岡の街角 … ホテルの窓から)

 盛岡は城下町らしい気品と落ち着きがある町だ。町の規模が大きすぎず、市街を川が流れ、オシャレな店も多く、歩いて楽しい。 

      ★

 歴史は古い。なにしろ約1万3千年前の旧石器時代の槍の先が出土しているそうだ。縄文時代草創期の土器や、約5千年前の縄文中期の集落の跡、それに芸術的な縄文土器 … そういう遺跡があちこちにある。「やまとは国のまほろば」と思い込んでいた畿内人にとっては、とてつもない彼方である。

 最近の遺伝子研究の進歩で、弥生時代の始まりはBC1000年ぐらいまで遡ることがわかった。弥生土器、青銅器・鉄器、農業・コメ作りで象徴される弥生人は、北九州→山陰・瀬戸内→近畿→中部→関東→そして東北へと、それぞれの場所で100年~300年間も立ち止まりながら、ゆっくりと進出し、縄文人と混血していった。集落を接して住んだ形跡は残るが、戦いの痕跡はない。日本列島の本土に住む人の遺伝子の10%ぐらいは縄文人の遺伝子だそうだ。

 ゆっくり進んだとしても、東北の縄文文化に弥生文化が混じり合うようになったのは、私たちが想像してきたよりも遥かに古い時期のはずだ。

 ちなみに、 弥生時代の始まりがBC1000年ぐらいまで遡るにもかかわらず、魏志倭人伝に登場する邪馬台国が未だ北九州の片隅にあったとするのは、今や理解しがたい説である。魏志倭人伝は卑弥呼を3世紀前半の人だとする。彼女の死はAD250年ごろ。その頃、大和において巨大な前方後円墳の時代が始まった。その後の展開は、前方後円墳の全国への広がりに見るとおりである。

 そういう時間の流れからすれば、11世紀は「近年」と言っても良いのだが、蝦夷系のリーダーとして安倍氏が奥六郡の統率者となった。

 12世紀には、安倍氏と姻戚関係のある奥州藤原氏が東北全域を勢力圏とし、平泉文化をつくった。

 鎌倉時代になると有力御家人が地頭として配置された。

 室町から戦国時代にかけては有力豪族が競ったが、豊臣秀吉によって南部氏の盛岡藩が誕生した。

 以後、江戸時代を通じて、南部氏が藩のお殿様であった。

 南部氏は初め、北上川と中津川が合流する丘陵上に盛岡城を築いた。

 城下町の基盤をつくったのは2代藩主である。お城の周りに二重の外堀、その周りに商人や職人が住み、その外側に武士の屋敷や寺が配置された。

 戊辰戦争を経て、盛岡城は1874(明治7)年に取り壊されたが、その後、盛岡城跡公園として整備された。現在の盛岡は、城下町らしい気品と情緒があり、地方の中核都市としての役割を果たしている。

 戊辰戦争以後の近代日本の発展の中で、この城下町から優秀な人材が育ち、活躍している。例えば、平民宰相として歴史教科書に載る原敬(1856~1921)、国際連盟事務次長を務めた新渡戸稲造(1862~1933)、海軍大将、総理大臣、そして最後の海軍大臣として太平洋戦争の終結に尽力した米内光政(1880~1948)、言語学者でアイヌ語研究の金田一京助(1882~1971)、そして望郷の歌人石川啄木(1886~1912)など。米内光政、金田一京助、石川啄木らは、旧盛岡中学校、現岩手県立盛岡第一高等学校の卒業生である(ただし、啄木は最後の学年で中退している)。

      ★

 志波城柵を見学した午後、盛岡駅前から環状バスで「上の橋」へ。上の橋から中津川沿いを、途中、城跡公園に入り、また、中津川畔に戻って、北上川の合流点へと散策して歩いた。

    (中津川の上の橋)

 上の橋は2代藩主の城下建設の折に架けられた橋で、橋の欄干には京都の三条の大橋を思わせる青銅製の擬宝珠(ギボシ)が残り、城下町盛岡のシンボルとなっている。

 私は瀬戸内海の気候温暖な城下町に生まれ、高校を卒業するまで過ごした。そのせいか、こういう地方の城下町のもつ風情に心ひかれる。

 例えば、加賀百万石の城下町の金沢は、街の中を犀川と浅野川が流れ、武家屋敷街や茶屋町街が残っていて、どっしりと落ち着いた風情がある。犀川の水音が耳に残り、川音を聞いているとなぜか室生犀星の「ふるさとは遠きにありて」が浮かんでくる。

 小さな城下町もいい。例えば、大分県の杵築も、臼杵も、町並みがきよらかで、住む人々のつつしみや規律が感じられる。

  (中津川)

 中津川のこのあたりまで、毎年、サケが遡上してきたそうだ。ところが、この2、3年、気候変動のせいか姿を見せないという。遡上は今の季節である。私が行くからには、奇跡よ起これ、と期待したが、魚影はなかった

 中の橋の辺りでなおも水中の気配を覗いていたら、近所の奥さんが出てきて「いますか??」と声をかけられた。「いえ、いません」と言うとがっかりされた様子。あまり熱心に覗いていたので、もしやと思われたのかもしれない。「2年前まてはのぼって来てたんですよ」「どこから川に入るのでしょう??」と聞いてみた。「それは、北上川の河口でしょう」との返事。そうかもしれないと思っていたが、もしそうなら、川旅だけでも遥々と壮大である。

 中津川に面して小さな美術館があった。「野の花美術館」とある。

 深沢紅子(コウコ)という盛岡出身の女性画家(1903~1993)の作品を展示する個人美術館だった。紅子さんの絵は繊細でオシャレだった。「立原道造(1914~1939)の生誕110年」のリーフレットが置かれていて、つい最近、ここで講演会があったそうだ。深沢紅子さんは、戦前、堀辰雄や立原道造の本の装丁にも携わっており、その縁で立原道造が病気静養のため1か月ほど盛岡に滞在したことがあるという。

 係りの女性が「立原道造をご存じなんですか」。「遥か昔、学生時代に詩集を読んでから。好きな詩人でしたが、盛岡との縁は知りませんでした」。

 このような個人美術館を維持し続けるのは大変だろうけど、いろいろな企画を通して、町の文化の振興や人々の交流に貢献しているのだと思う。

  (岩手銀行赤レンガ館)

 「岩手銀行赤レンガ館」、「ござ九森九商店」、「啄木・賢治青春館」などは、外から建物だけ眺めた。

 そして、川べりから離れて、盛岡城跡公園の北の入り口へ向かう。

  (櫻山神社)

 お城の入り口に櫻山神社があった。南部のお殿様の神社のようだ。神社の奥に大きな烏帽子岩があった。

  (城跡公園の石垣)

 天守閣も、二の丸、三の丸もないが、東北随一の美しい石垣の残る城跡として国指定史跡となり、その後、「日本の名城100選」にも選定された。

 三の丸跡を行くと、目指す啄木の歌碑があった。

  (啄木歌碑)

「不来方(コズカタ)のお城の草に寝ころびて/空に吸はれし/十五のこころ」

 初めてこの歌を読んだとき、「不来方のお城」という言葉の響きに遥かなロマンを感じ、「みちのく」にあこがれた。

 啄木の歌集『一握の砂』の、この歌の前には

「教室の窓より遁げて/ただ一人/かの城あとに寝にゆきしかな」がある。

 優秀な成績で入学した啄木だが、学年が上がるにつれて成績は下降し、こうして学校をさぼり、定期考査では2度もカンニングをし、さらに校長排斥の校内ストライキを組織して、最終学年の途中、退学処分になった。学校のせいにし、或いは、世の中のせいにしても、結局は、本人の放埓の心、不遜の態度、不逞の行動の結果である。

 それでも、「ただ一人/かの城あとに寝にゆきしかな」という啄木の心に共感する。青春性 … かなあ。東京の学生時代は、自分もこうであった。

 予習をしてきていないと怒る教師からも、学ぶ意味を感じない日々の授業からも、権威主義的な圧迫を覚える学校からも、一家の長男として期待する親や家族からも、そういうあらゆる期待や義務、自分を束縛するものから、啄木は自由になりたかったのだ。そして、空をゆく白い雲にあこがれた … 。

 さて、「不来方(コズカタ)」という「お城」の名の由来となった地名のことである。

 「盛岡」という地名は南部氏によって命名された新しい名。もともと、この地は「不来方」という地名だった。

 南部氏以前からここに不来方城があったらしい。南部氏が入ってきて、それまでの城を基礎に城郭を拡大して、新「不来方城」を築いた。

 ただ、南部のお殿様は、「どうも不来方という名は縁起が悪い」と思ったようだ。そして、城がある丘に樹木が生い茂っていたので「森が岡」とした。さらにそれに縁起の良い文字を当てて「盛岡」とした。

 南部のお殿様は「不来方」の意味が良くないとこだわったのだが、そうだろうか?? ロマンがあり、響きもよい。それで、今は、盛岡の雅称としてあちこちで使われている。高校の名にも、橋の名にも。

 では、古くからこの地の名であった「不来方」のいわれは何か?? これについては、諸説あって面白いが、明らかではないので省略 … 。

 啄木の歌碑をあとにして、少し先に進むと、新渡戸稲造の記念碑があった。「願わくはわれ、太平洋の橋とならん」という有名な言葉が刻まれていた。

 さらに進んで、本丸跡を抜け、再度、中津川の右岸に出た。

 下の橋を渡って、新渡戸稲造誕生の地へ。

 (新渡戸稲造誕生の地)

 新渡戸稲造が英文で書いた『武士道』は、時のアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトが絶賛したという。だが、私は彼が札幌農学校の生徒であった時代の青春群像が好きである。そのことは、以前、このブログでふれた記憶がある。

 さらに進むと、北上川との合流点が近くなった。

 (北上川との合流点近く)

 朝から志波城柵を歩き、午後は盛岡を散策して、歩き疲れ … 何とか北上川に出た。

   (北上川)

 城下町の中を2本の河川が流れ、川が町と歴史と情緒をつむいでいる。

  (北上川と開運橋)

 盛岡は大正、昭和のロマンも感じさせ、ちょっと入ってみたくなるカフェもある。歩き疲れて飲んだ一杯のコーヒーは美味しかった。

  (街角の喫茶店)

 大阪の街中では、紙コップにコーヒーが機械によって注がれる。お金を払うのだから、せめて気のきいたコーヒーカップで、家で飲むよりちょっと美味しいコーヒーを、と思うのだが。

 予約なしで入った晩飯の小料理屋さんも、とても美味しかった。

 やはり、地方の城下町はいい。

 本日は13000歩。3日間、よく歩いた。

     ★

 翌日、盛岡駅から「はやぶさ」と「のぞみ」を乗り継いで、夕方には帰宅した。

 生まれ育ったのは地方の城下町で、古い友はまだ暮らしているが、親戚はもういない。二十歳前に夜行列車に乗って故郷を出て、大学を出て職に就いてからは奈良に住み着いた。大和国は、遠い昔、「国のまほろば」であった所だが、古都とは言っても京都のような敷居の高さはなく、それでもあちこちに古代が息づき、気候温暖な地である。今は、ここを、我が「ふるさと」としている。

 

 

 

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坂上田村麻呂の志波(シワ)城柵を見学する… 陸奥の国・岩手県平泉と盛岡の旅(6)

2025年04月08日 | 国内旅行…陸奥の国紀行

  (志波城柵)

 旅に出る前、どこを見学するかあれこれ調べた。そういうことも、旅の楽しみの一つである。

 そのとき、高校の日本史で覚えた征夷大将軍 坂上田村麻呂 …… 桓武天皇の命で陸奥国の北方まで遠征したあの坂上田村麻呂が築いた古代城柵が復元されていると知った。盛岡市の西の郊外に「志波(シワ)城古代公園」として整備が進められているという。

 陸奥国の政庁は現在の仙台市の北、多賀城に置かれていた。それより奥にはあちこちに城柵が築れかたが、最も北方に築かれた城柵が志波(シワ)の城柵である。

 「柵」というと、私の頭に浮かぶイメージはアメリカ映画の西部劇に登場する、丸太で周囲を囲った騎兵隊の駐屯地。しかし、それより千年も古い古代日本の城柵はどういうものだったのだろう?? よし、行ってみようと思った。

 日程は、旅の4日目の午前に入れた。

 「志波城古代公園」への行き方も調べた。しかし、路線バスを使っても、最寄りの停車場から随分歩く。歩くのはよいとしても、人通りの少ない所で道に迷ったら途方に暮れる。盛岡駅から車で10~15分とあったので、タクシーで行くことにした。

      ★

※ 以下、志波城に関して、ちくま新書『古代史講義』、同『古代史講義[戦乱編]』、小学館『日本の歴史二 ─ 日本の原像』、同『日本の歴史三 ─ 律令国家と万葉びと』を参考にした。

 征夷の「夷」は「蝦夷(エミシ)」のことである。昔、高校で勉強した日本史では、征夷は平安京遷都とともに桓武天皇の業績である。しかし、現代の歴史学では、西暦774年(光仁天皇)に始まる中央政府と「蝦夷」との「38年戦争」の後半に桓武天皇は登場し、嵯峨天皇のときに終了する。桓武天皇による征夷も、3回目の坂上田村麻呂によってやっと成し遂げられた。

 なぜ征夷が困難を極めたかというと、私の理解したところでは理由は2つある。関東や北陸から万を超える兵を動員し、2~3年をかけて準備したが、兵站が難しかった。1万人の兵士を1日前進させれば、1万人分の食料を運ばねばならない。奥へ奥へと入って行けば、兵站の輸送は困難を極めた。二つ目は、情報不足。地理・地形に不案内で、大自然の中に息づく敵の動きが分からない。敵の騎影を見て北上川を遡上していくと、突然、山陰から急襲され、味方の軍勢は大混乱に陥ってしまう。

 天皇は使者を派遣し檄を飛ばすが、結局、どの将軍もほとんど成果を挙げずに帰ってきた。天皇は帰京した将軍に怒りをぶつけるが、詳しい状況報告を聴くと、… ねぎらいの一言も付け加えざるを得ない。確かに難しいのだ。

 桓武になって、1度目の大遠征があり、2度目の大遠征のときには、若い頃からそば近くに仕えさせてその有能さを認めていた坂上田村麻呂を副将の一人に抜擢し、3回目は彼を大将軍に任命して、801年の大遠征で遂に奥六郡を制圧した。

 それは、おそらく後世の関ヶ原の戦いや大阪城炎上のような、双方、敵が明白な戦いがあり、激戦の末に勝利したというのとは少し状況が違う戦いだったのではないだろうか。

 遠い昔、大和が初めて蝦夷の地に東征したことがある。東征を命じられたのは、あの伝説上の英雄ヤマトタケルだった。事実かどうかは別にして、『古事記』には次のように記述されている。「そこ(常陸国)より(陸奥国へ)入りいでまし、悉く荒(アラ)ぶる蝦夷どもを言向(コトム)け、また、山河の荒ぶる神たちを平らげ和(ヤハ)して、還(カヘ)り上りいでましし」。

 坂上田村麻呂は、多分、非常に有能な人で、この遠征が、例えば豊臣家を滅亡させれば終わる、というような戦いでないことを理解していた。そこには人々が住み、暮らしがある。そして、このところ、ずっと反抗が続いている。であれば、武器を交える戦いも必要だろうが、ヤマトタケルがやったような「言向け」や「平らげ和して」ということも、より以上に大切だと心得て、事に当たったのではないだろうか。

 陸奥国が狭義の意味で日本国に統一されるのは、日本の他の全ての地域も同様であるが、明治維新以後である。

 翌802年、桓武天皇は田村麻呂を再び派遣して、衣川の北に胆沢(イザワ)城柵を築かせた。のち、鎮守府が置かれることになる。

 さらに803年、陸奥国最北端の城柵である志波城柵を築かせる。「東夷」ではなく、「北狄(ホクテキ)」に対する城柵であったとされる。現在の盛岡市西郊に位置し、奥羽山脈から東流して北上川に注ぐ雫石川の右岸上に設けられた。

       ★

 タクシーの運転手に「ここです」と言われて、車を降りた。

 広々とした空間で、ちょっととまどった。空は晴れ、人けはない。向こうに長い築地塀があり、その中央に2階建ての門があった。とにかくそちらへ向けて歩いた。 

 

    (志波城柵跡)

 志波城柵は、丸太を打ち込んで囲った砦ではない。840m四方の築地塀で外郭を囲っている。

 (外郭を巡る大溝)

 外郭の築地塀の約45m外側に、大溝と土塁がある。外郭の築地塀を囲む大溝の長さは930m四方。志波城柵は鎮守府の置かれた胆沢城柵を上回り、陸奥国の政庁が置かれた多賀城に次ぐ規模だった。

    (外郭南門と築地塀)

 近づくと、築地は結構高く、人が簡単に乗り越えられる塀ではない。柵の正門の南門も大きい。2階部分は弓矢を持った兵士たちを配置するのに十分な空間である。

 (築地塀の上の櫓)

 築地塀には、60m間隔で櫓が設置されている。何人かの兵士を配置し、上から矢を放つことができる。

 岩手山がくっきりと見えた。

 要するに、これは、平城京、平安京、さらには中国の都城(都市)の小型版なのだ。

  (南大路)

 南外郭門を入ると、幅18mの南大路が政庁の南門へ向って、1町(108m)の長さで延びている。

 大路の周辺には、兵舎、工房などの竪穴建物群が1200~2000棟もあったそうだ。ということは、相当の数の人々が暮らしていたことになる。

 南大路の先にも、築地塀で囲まれた門があった。ここが政庁である。

 (政庁南門)

 この政庁の周囲には、かつて役所の建物群が建っていた。役所街である。

 (説明版/政庁図)

 政庁からも岩手山がよく見える。啄木のふるさとの山は、古代人も見ていたのだ。

  (政庁正殿跡と岩手山)

 築地塀の四角い区画には、東、西、南に門が復元されている。天子は南面するから、正門はいつも南門である。郭の北側から、川(運河)を引き込んでいた。物資の運搬はこの川(運河)を使って行われた。

 150m四方を築地塀で区画された政庁内部には、正殿、脇殿など14棟の掘建柱の建物があった。

 政庁は政務や儀礼の空間である。「城」とか「柵」というと軍事的な区画のイメージだが、平時においては行政施設であり、周辺の蝦夷との交流の場となり、饗宴や交易も行われた。

 だが、この志波城柵は、建置されてわずか8年で移転の議が起こった。雫石川の氾濫によって大きな洪水をこうむったことが考古学的に確認されている。

 移転先は、志波城柵から南に約10㎞で、北上川から約1.5㎞の地点の徳丹城。志波城柵を解体して運んだ資材で建設された。 

 中央でも、桓武天皇は、初め長岡京に都を移そうとし、水害のためその地を放棄して平安京に移転した。宮都も城柵も、古代の国家施設はその造営に当たって水運を活用した。そのため、施設内部に河川を引き込む。だが、それは水害という危険因子を同時に抱え込むことでもある。長岡京は平安京への、志波城は徳丹城への移転が、造営計画の段階からすでに想定されていたとする説もある。

 移転は、太柱を引き抜き、板張りを解体して、水運で運び、組み立て直すのだから、山から樹木を伐採して運び、柱や板に加工しなければならない当初の工事と比べると、かなり簡単だった。

 ちくま新書『古代史講義』に、「桓武朝頃には国際情勢の変化もあり、日本も以前ほど背伸びをする必要もなくなっていた。そのため、桓武以後は国家レベルの都の造営や征討は行われず、桓武はそれを実施した最後の天皇となる。やがて平安京は千年の都となり、蝦夷も811年の陸奥国レベルの征討後は比較的穏便に同化されていく」とある。

 超大国・唐の膨張は、日本にとって脅威であった。それを思い知らされたのが、663年の白村江における大敗である。百済が滅ぼされ、次に高句麗が滅ぼされた。さらに新羅が攻撃される。いずれ、日本にやってくる。飛鳥、奈良の時代は、唐をおそれ、唐に備え、唐に学んで、国づくりが進められた時代である。だが、唐の勢いが止まり衰退へ向かうと、平安遷都後は王朝文化を花咲かせる時代になる。

 歴史の本を読むのと、実際に目の前に復元された姿を見るのとでは、印象度が全く違う。面白かった。ここで、日々、こつこつと調査研究に携わっておられる研究員の方々に感謝したい。

 事務所でタクシー会社の電話番号を聞いたら、「呼んであげます。そこのベンチで休んでいてください」と親切に言われた。

 

 

 

 

 

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「ふるさとの山に向かひて」 … 陸奥の国・岩手県平泉と盛岡の旅⑸

2025年03月25日 | 国内旅行…陸奥の国紀行

  (啄木歌碑と岩手山)

<石川啄木のこと>

 石川啄木は満26歳で早世したから、小説を書きたいと思いながら書けなかった。残されている作品は未だ習作の域を出ない。

 初め、与謝野鉄幹・晶子が主催した雑誌『明星』に寄稿し、当時、流行っていた空想的、浪漫的な新体詩や短歌を発表していた。才能ある新人として注目されたようだ。

 やがてこのような詩歌に飽き足らなくなり、明治30年代後半から台頭した自然主義の小説を自分も書きたいと思うようになる。当時、島崎藤村が「破戒」「春」「家」、田山花袋が「蒲団」「田舎教師」などを上梓して、作家として認められるようになっていた。彼らは啄木よりも14、5歳も年上で、それらは30代の半ばから40歳にかけて書いた作品群である。小説というジャンルは詩歌や評論と違って、ある程度の経験を積み成熟しなければ、それなりに完成した作品を書くことは難しい ── と私は思う。啄木は天性の詩人(歌人)であって小説家には向かないという人もいるが、私は彼がもっと長生きしていれば、いい小説を書いたに違いないと思っている。

 24歳のとき、歌集『一握の砂』を刊行している。1首を3行で分かち書きし、口語表現で、今までの短歌の概念を打ち破って親しみやすかった。内容も、感傷的に過ぎると感じる人もあるだろうが (私も同感するが)、古い花鳥風月の歌や、西欧的ロマンティシズムから脱皮して、日々の生活の中から生じた嘘偽りのない清新な抒情が歌われていた。

 第2歌集の歌稿は、死の直前に「一握の砂以後」として友人の土岐哀果に託された。没後、土岐哀果は友のために、『悲しき玩具』と命名して刊行した。

 私自身がまだ20代の前半だった頃のこと。手にした『石川啄木集』(講談社版日本現代文学全集)の巻末の岩城之徳氏による啄木の年譜を目で追っていたのだが、年譜の明治41年(22歳)6月の項で、先に読み進めなくなった。

 啄木という早世した明治の若者のもつ才能、さらに敷衍すれば、特別の人間に与えられた天賦の才能というものについて、そういう才能が存在することを改めて思い知らされたのである。

 「(6月)4日 森鷗外邸を訪れて出版社への紹介を乞う。このころようやく創作生活のゆきづまりを自覚し、激しい焦燥と幻滅の悲哀に呻吟。川上眉山の自殺や国木田独歩の病死にも衝動を受け、苦悩の日々を送る。6月23日夜、歌興とみに湧き、この夜から暁にかけて55首、24日午前50首、翌25日141首と多くの歌を作った」。

 「創作生活のゆきづまり」とは、小説が書けないということである。22歳の啄木には既に妻子があり、失職した父と母と妹がいた。彼らの生活が22歳の啄木の肩にかかっていた。啄木はその状況を小説を書くことによって乗り超えようとした。だが、そうたやすく小説は書けない。自らを恃む気持ちが大きい分、焦燥、幻滅、悲哀、呻吟は深い。

 啄木自身が「食らふべき詩」の中にこう書いている。

 「私は小説を書きたかった。いな、書くつもりであった。また実際書いてみた。さうして遂に書けなかった。その時、ちょうど夫婦喧嘩をして妻に負けた夫が、理由もなく子供を叱ったりいじめたりするような一種の快感を、私は勝手気ままに短歌といふ一つの詩形を虐使することに発見した」。

 深夜、小説が書けぬまま、手元の原稿用紙に、手慰みとして (「悲しき玩具」として) 心に湧き出る思いを歌に書き留めていった。三行書きも、字余りの破調も、口語表現も、「詩形の虐使」だった。

 歌は泉から水が湧き出るようにあふれ出てきた。わずか3日間で141首。言葉があふれ、自ずから紡がれていく。天才である。

 こうして、彼は、自身がそれまで『明星』などに発表してきた空想的で浪漫的な、ちょっと気取った新体詩や短歌を一気に乗り超えていったのである。

 貧困と失意の中、不治の病に臥せ、ほとんど無名で、26歳の若さで、明治という年号の終わりの年に、世を去った。だが、彼の死後、大正から昭和へ、彼の歌は無名の若者たちの中で静かに共感を呼び、読み継がれていった。

 紀貫之や藤原定家や近代で言えば斎藤茂吉のような、才能にプラスして、膨大な知識・教養を積み上げつつ作歌した、近づきがたいような歌人(ウタビト)ではない。啄木には大家の風格はない。だが、親しみやすい。和歌に関する教養や注釈書などがなくても、文字が読める人なら誰でも親しむことができる。それでいて、薫りがある。ことばの天才である。

      ★ 

 私の好みで言えば、『一握の砂』の中の、北海道時代を詠んだ「忘れがたき人人」所収の歌群が好きである。

 故郷の渋民村を「石をもて追はるるごとくに」出た啄木は、北海道に渡って、函館の代用教員、さらに職を求めて札幌、小樽を転々とし、ついに最果ての町釧路へと流れていく。

「みぞれ降る/石狩の野の汽車に読みし/ツルゲエネフの物語かな」

「忘れ来し煙草を思ふ/ゆけどゆけど/山なほ遠き雪の野の汽車」

「いたく汽車に疲れてなほも/きれぎれに思ふは/我のいとしさなりき」

「遠くより/笛ながながとひびかせて/汽車今とある森林に入る」

 冬の北海道の大地をゆく汽車の旅を詠んだ一連の歌は、旅の抒情歌として、私の中では金メダルである。

 やがて東京に出て、病で倒れるまでの4年間を東京で暮らす。貧困と焦燥の都会生活。その中で、啄木の心はいつも「石をもて追はるる」ように出た渋民村へ帰っていく。啄木ほど、故郷のことを数多く詠んだ歌人はいないだろう。

「旅の子の/ふるさとに来て眠るがに/げに静かにも冬の来しかな」

「ふるさとの訛(ナマ)りなつかし/停車場の人ごみの中に/そを聴きにゆく」

 また、生活にゆきづまったとき、ほのかに人を想う歌も残している。函館の代用教員時代に同僚だった人のことだろうか。

「かの時に言ひそびれたる/大切の言葉は今も/胸にのこれど」

「山の子の/山を思ふがごとくにも/かなしき時は君を思へり」

「石狩の都の外の/君が家/林檎の花の散りてやあらむ」

 このみずみずしさは、天才としか言いようがない。

 

    (盛岡行きの車窓風景)

 遠い昔のことだが、盛岡駅から、列車と貸自転車で、渋民村を訪ねたことがある。

 それから遥かな歳月を経て、今回、岩手県へ旅することになったので、もう一度、青春の渋民村を訪ねてみたいと思って旅の行程に入れた。

  ★   ★   ★

<奥六郡へローカル列車の旅>

 今日は列車で盛岡へ行き、盛岡駅前から路線バスに乗って啄木の故郷「渋民村」を訪ねる。宿は盛岡駅近くのビジネスホテルに2泊で予約済み。近くを北上川が流れているので、そこにした。

 平泉駅から、10時23分発の東北本線「盛岡行き」に乗った。終点の盛岡駅に着くのは11時46分。途中17駅に停まる。

 地図を見ると、列車は北上川と併行しながら、平泉町→奥州市→北上市→花巻市→紫波(シワ)町を経て、盛岡市に入る。前九年の戦いで滅びた安倍氏、その後継者となった藤原三代がバックグラウンドとした「奥六郡」へのローカル列車の旅である。

  (盛岡行きの車窓風景)

 平泉を出てしばらく走ると、まもなく奥州市の江刺のあたりにさしかかる。この辺りは、私たちの高校時代によく歌った「北上夜曲」の故郷である。ブームの発端は、多分、東京・新宿の歌声喫茶「ともしび」。やがて、ダークダックスやマヒナスターズの歌でレコードになった。

 歌が作られたのは1940年、太平洋戦争の前である。作詞は水沢農学校の生徒、作曲は旧制八戸中学校の生徒。二人は同じ下宿の仲間で、通学のとき毎日のように北上川を眺めたのだろう。清純な北上川の恋の歌は、戦中もひそやかに歌い継がれ、戦後、若者たちの間で全国に広がっていった。私の北上川のイメージはこの歌によると言っていい。

 天気が良く、車窓から見る奥六郡の景色は、山が遠く、田野が広々と広がり、トンネルがない。

 奈良、平安時代の昔から、奥六郡は豊かな地だったのだろう。森や川では獣や魚が獲れ、田畑はどんどん広がっていき、そのうえ、金が採掘され、都の上流貴族たちにとって貴重品だった馬の産地でもあった。

      ★

<盛岡駅前の啄木歌碑>

 盛岡は、啄木が、盛岡中学校時代 (明治31~35年) と、新婚時代 (明治38)  を過ごした町である。

 駅前広場に、ポツンと啄木の歌碑が建っていた。

「ふるさとの山に向ひて/言ふことなし/ふるさとの山はありがたきかな」

    (盛岡駅前の啄木碑)

 立ち止まって見る人はいない。しかし、立派な歌碑である。文字は啄木の自筆が使われている。

 『一握の砂』の「煙ニ」には、故郷を想う歌54首が並んでいる。その54首目、掉尾を飾る歌である。

 自然な、まことに清々しい歌である。この歌の前ではいかなる歌論も歌の作法もむなしい。天才である。 

 駅前から岩手北バスに乗る。啄木の「渋民村」は今は盛岡市に併合され、盛岡市玉山区渋民字渋民という住所になっている。しかし、盛岡市内だが遠い。バスで40分ほどもかかる。

 計画段階で、いわて銀河鉄道+レンタサイクルで行くか、バスで行くか、迷った。昔、訪ねたときは、列車+貸自転車だった。渋民駅までの列車の車窓風景が心に残ったが、渋谷駅からの自転車は意外に遠かった。それで今回はバスにした。

 盛岡駅を出たときは混み合っていた車内も、市街地を外れる頃には乗客は減り、「啄木記念館」のバス停で降りる人はいなかった。ウィークデイとはいえ、渋民村を訪ねる人がいないのはちょっと寂しい気がした。

 停留所からしばらく歩いた。

      ★ 

<啄木が育った宝徳寺>

 まず宝徳寺へ向かった。

 啄木は、明治19(1886)年、南岩手郡日戸村に生まれた。翌年、住職だった父が隣村渋民村の宝徳寺に転任したため、一家で転住した。

  (宝徳寺)

 住職の息子として、啄木は幼少年期をこの寺で育った。建物は平成12年に建て替えられている。啄木が過ごした部屋も復元されているようだが、ひっそりしていて、見学は遠慮した。

 啄木というペンネームは、この寺の境内の樹林をたたく啄木鳥(キツツキ)から生まれた。

「ふるさとの寺の畔(ホトリ)の/ひばの木の/いただきに来て啼きし閑古鳥!!」

「ふるさとを出でて五年(イツトセ)、/病をえて、/かの閑古鳥を夢にきけるかな」

 いずれも病床で詠まれた終期の作品。子どもの頃の思い出を夢にみたのである。

 門を出ると、正面に、やや霞んだ岩手山があった。

   (岩手山)

      ★

<啄木の母校、そして、代用教員時代の借家>

 宝徳寺から少し歩いて啄木記念館へ。記念館はリニューアル工事中で長期の閉館中。

 その敷地に、旧渋民尋常小学校が移転されている。

  (旧渋民尋常小学校)

 啄木は明治24(1891)年、この小学校に入学し、11年後には代用教員として教壇に立った。

「その昔/小学校の柾(マサ)屋根に我が投げし毬(マリ)/いかにかなりけむ」

 説明板によると、旧渋民尋常小学校は明治17(1884)年、村民の寄付によって建てられた、とある。

 木造二階建ての、今から見れば小さくて、のどかな校舎だ。

 明治新政府は国民皆学の近代国家をめざし、全国を7学区に分けて、大学、その下に中学校、さらにその下に小学校をつくるという「学制」を、明治5年に発令した。小学校に関しては全国津津浦浦に5万3千校の建設をめざした。校舎だけのことではない。教える教員の養成、教育内容の統一、教材の選定など、あらゆることが必要であった。当時、産業と言えば農業しかない貧しい国の政府(「おかみ」)を待っていては、物事は進ままい。上からだけでなく、自らのこととして下からも進めていかなければ何事もならない。「村民の寄付によって」というのは、そういう事情であろう。「坂の上の雲」の時代である。

 大正2(1913)年に、この小さな校舎は分教場として移転され、昭和42(1907)年に老朽化により取り壊されることになった。しかし、啄木の母校で、代用教員時代に教鞭をとったゆかりの校舎であることから、石川啄木記念館の敷地に移築保存されることになった。

 啄木が毬を投げ上げた柾(マサ)屋根や連子(レンジ)格子など、明治期の面影が残り、県内で最も古い建築物の一つであると記されている。

  (旧斎藤家住宅)

 代用教員時代の明治39年3月から1年少々、啄木一家が住んだ借家も尋常小学校の隣に移転されている。説明版には、この建物は旧藩時代の宿場の民家としても貴重と記されていた。

 日本一の代用教員をめざしつつ、この2階で小説「雲は天才である」等を習作した。

 しかし、結局、啄木は石を持て追われるように村を出、北海道へ旅立った。

「あはれかの我の教へし/子等もまた/やがてふるさとを棄てて出づるらむ」

 自分の教え子たちも、いつか自分と同じように村を出て苦難の生活を送るであろうと、貧しい故郷の現実に思いを馳せている。

     ★

<思い出の山、思い出の川>

 渋民公園まで、10分ほど歩いた。

 途中、現在の渋民小学校があった。明るく、近代的な校舎だ。啄木の「渋民村」は遠い彼方である。

  (現在の渋民小学校)

 渋谷公園はその小学校の運動場の向こう側の丘だった。

 岩手山を望んで歌碑がある。ふり返れば姫神山。北上川は丘の下を流れている。

 (啄木の歌碑と岩手山)

 背が高く、野武士のように素朴な歌碑の表には、「やはらかに柳あをめる/北上の岸辺目に見ゆ/泣けとごとくに」と活字体で刻まれている。

 啄木の歌碑は岩手県のほか北海道の各地や東京にもあるが、これが最初のものだという。大正11(1922)年、啄木没後の10年目の命日の日に、渋民村の青年たちによって建立された。碑には「無名青年の徒之を建つ」と刻まれている。

 歌碑の向こうに、どっしりと大きな岩手山(標高2083m)がある。頂の辺りに雲がたなびいていた。

 ふり返ると、現在の渋民小学校の校庭の向こうに、姫神山(標高1124m)の優美な姿を望むことができた。

    (姫神山)

「目になれし山にはあれど/秋来れば/神や住まむとかしこみて見る」

 丘の下に北上川の流れ。

 (北上川と鶴飼橋)

 「水源は、岩手県二戸郡の西岳である。そのあたりの細流をあつめて渋民村あたりではすでに一人前の河川になり、……」(司馬遼太郎)

 向こうに自動車用の橋があり、眼下の橋は、人しか渡れない橋である。

  (鶴飼橋)

 啄木の時代の鶴飼橋は、人が歩くとゆらゆら揺れる吊り橋だったそうだ。

 その頃、「渋民駅」はまだなく、盛岡や東京や出るには「好摩駅」まで歩いて汽車に乗った。帰郷する時も、「好摩駅」から渋民村まで歩いた。行きも帰りも、吊り橋の鶴飼橋を渡った。

「汽車の窓/はるかに北にふるさとの山見え来れば/襟を正すも」

「かにかくに渋民村は恋しかり/おもひでの山/おもひでの川」

 橋の上に立って北上川を眺めた。

 (北上川)

 なるほど、「やはらかに柳あをめる」季節は、美しいだろうなと想像した。やはり青春の歌人である。そして、エリートに愛される歌人ではなく、無名青年たちの歌人である。この地に来て、改めて、そう思った。

      ★

 バスで盛岡駅まで戻った。午後4時を回ると、秋の日は落ちるに早く、既に夕暮れである。

  (盛岡駅)

 夜、食事をするために盛岡の街に出た。

 (盛岡を流れる北上川)

 「…そのあたりの細流をあつめて渋民村あたりですでに一人前の河川になり、南流して岩手県の首邑である盛岡をうるおしている。…」(司馬遼太郎)。

 渋民村よりわずかに下流だが、既に堂々とした川である。

 今日は11000歩。意外によく歩いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

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毛越寺(モウツウジ)の浄土庭園を散策する … 陸奥国・岩手県平泉と盛岡の旅⑷

2025年03月10日 | 国内旅行…陸奥の国紀行

            (毛越寺の夕月)

  高館橋の上から北上川の流れを見たあと、毛越寺へ向かった。疲れていたが、毛越寺で今日一日の予定は終了する。

 東北本線の線路を渡り、持続可能にして精一杯の早足で歩いた。

 日が傾いて、毛越寺の閉館時間が気になる。入場はできるだろうが、時間に追われてゆっくり見学できなくなるのではないか。

 向こうから下校途中の小学生の女子グループが歩いてきた。「あのー。ちょっと教えてください」。「毛越寺へ行きたいと思っているのですが、この道でいいでしょうか??」。背が高く賢そうな女子が代表して答えてくれた。「この道を行くと、〇〇があります。そこをもっと行って△△のある角を曲がったら、毛越寺の入り口が見えます」。どんな目印かまで丁寧に教えてくれる。平泉の子どもたちは、優しくて、とても丁寧だ。傾いた日の光を浴びて、子どもたちの影が重なって道に映っていた。

   毛越寺のお隣り、観自在王院の入り口があった。ここまで来れば安心だ。

    (観自在王院跡)

 第二代藤原基衡の妻が建立した。基衡の妻であり、三代秀衡の母である人は、前九年の戦いを起こした安倍頼時の嫡子・宗任の娘である。乱後、宗任は四国伊予に配流され、その地で声望が生まれてきたため、さらに筑前の宗像氏のもとへ移された。宗像氏の下では、日朝、日宋貿易に携わっていたという。墓は宗像市大島の安昌院にある。首相を辞められた後、安倍晋三さんがお参りに来たそうだ。

 時間がないので、ここの見学は省略する。

      ★

  (毛越寺拝観入口)

 「もうえつじ」かと思っていた。入り口でもらったリーフレットを見ると、「もうつうじ」と読むそうだ。「もうおつじ→もうつじ→もうつうじ」と変化したとある。

 初代清衡は平泉の北端、関山の丘陵上に中尊寺を建立した。毛越寺は奥大道が平泉に入る南の入り口に当たる、中尊寺と南北に相呼応する位置に建立された。 

 以下、ちくま新書『古代史講義』の中の第15講「 平泉と奥州藤原氏」(大平聡)の記述から。

 「柳之御所遺跡の調査と併行するように、平泉町のメインストリート、平泉駅と毛越寺を結ぶ通称毛越寺通り周辺の整備のための調査が行われた」。

 「その結果、道路北側に、毛越寺、観自在王院に並ぶように屋敷地の区画が発見され、計画的街区の存在が明らかとなった。また、道路の南側からは大規模な掘立柱の跡が発見され、大型の倉庫群の存在が確認された」。

 清衡に続いて三代秀衡は北上川の段丘上から西へかけて都市整備を行い、基衡は平泉の南から北へ都市整備を行った。

 藤原三代の頃、平泉は人口10万人の都市であったという。陸路と、河川交通路の結節点の要衝であった。

 その頃の毛越寺は、堂塔40、僧坊500を数え、中尊寺をしのぐ規模だったという。毛越寺はその総称である。

      ★

 目の前に広い池がある。大泉が池という。向こう岸も遠い (90m) が、左右に長い (180m) 楕円形。池の周りを周遊できるように整備されている。池畔の林の木立が高く、所々に紅葉が映え、それらが鏡のような水面に映っていた。

 池が広々としているから、空が大きくて高い。秋気が澄んで、高い空に夕月がかかり、どう表現したらよいのか、ひと言で言えば、清澄 … 。

   (毛越寺庭園)

 池のこちらの岸、左右に広がる岸辺の真ん中あたりに、12個の礎石が残っている。南大門の跡とか。当時、両側には仁王像が立ち、門の左右には築地塀が巡らされていた。この南大門が浄土の入り口である。

 礎石の位置からすると、南大門はほとんど水際に建っていた。門をくぐると、いきなり目の前に池が広がっていたことになる。

 門の前、池の中に、勾玉の形をした中島がある。

 南大門から中島へ渡ることができるよう、美しい反り橋が架けられていた。さらに、中島から対岸にも反り橋が架かっていた。

 対岸は、彼岸である。此岸から、二つの橋を渡った向こうに美しい金堂(円隆寺)を望むことができた。基衡が万宝を尽くして建立したという毛越寺の中でも最も大切なお堂だった。

 金堂の左右からは廊が出て、それぞれ池の方に向かって折れ、廊の先、池の岸辺に、左に経蔵、右に鐘楼があった。

 さらに、金堂の左手には講堂、さらに左手に嘉祥寺。金堂の右手には常行堂、法華堂があった。

 それらは、今は、ない。

 「園地を介して南門と金堂を結ぶ架け橋の構図は、明らかに浄土形式をとる庭園である」(日本庭園学の権威・浅野二郎氏)。

 対岸奥の林の中から池へ向かって、遣水(ヤリミズ)が蛇行しながら流れ、池に注いでいる。

     (左手前から池へ向かって遣水が流れる)

 水底には玉石が敷かれ、水切り石や水越し石も配されて、11世紀後半に書かれたとされる「作庭記」の技法を見ることができるという。

  (遣 水)

 「おそらくわが国において現実に私たちが実見できる唯一の、そして最もすばらしい遣水の作例といってよいであろう」(浅野二郎氏)。

 初代清衡の中尊寺で、唯一、当時のまま残る遺構は金色堂だが、二代基衡の毛越寺で、創建当時の姿を遺す唯一の遺構はこの遣水である。

 紅葉が美しい。

  (紅 葉)

 鐘楼と経蔵が復元されていた。夕暮れの鐘の音を聴きたい。

 (鐘楼と経蔵)

 (舟遊び用の舟)

 ゆっくりと反時計回りで池を1周した。

 30年前、毛越寺を訪ねたときは、考古学的な発掘調査の結果を見学したという印象しか残らなかった。今回、しんとして静かな秋の日がつるべ落としの斜光となり、あたりの景色の所々がほのかに赤みを帯びて、美しいものを観賞したという感じで満たされた。

 最後に、本堂で、平安時代作とされる本尊薬師如来に感謝の思いを込めて手を合わせた。

 初代清衡は釈迦如来を本尊とする中尊寺、二代基衡は薬師如来を本尊とする毛越寺、三代秀衡は阿弥陀如来を本尊とする無量光院を建立した。過去釈迦、現世薬師、未来阿弥陀を本尊とする三寺院の建立は、清衡の強い願いであったという。

 二代基衡、三代秀衡も偉いが、初代清衡は、人として、大きな人物だと感じた。誕生したのは前九年の合戦のさ中で、戦いが終わった時、父は殺された。20代には後三年の戦いで同族相争い、妻子も殺された。30歳ごろまでの間に、彼はこれ以上ないような人生の悲惨を味わい、そこから父祖の地の地歩を固める努力を懸命にした。50歳になってやっと中央政権にも承認され、それから20年をかけて、二つの戦さで死んでいった人々を敵味方なく鎮魂するために、そして生きとし生けるものの幸せを願って、中尊寺を建立していった。さらに、子や孫の世代をも動かして、このような平泉文化をつくり上げた。歴史的な意味でなく、文学的な意味で(苦悩を生きたという意味で)、大きな人だと思う。

      ★

 門を出ると、1台だけタクシーが待機していた。ありがたい。平泉駅まで戻らなければタクシーに乗れないと思っていた。

 今日の歩数は14000歩。私としては5日分くらい歩いた。

 こちらから聞いたわけではないが、安倍元首相が安倍氏の史跡を求めて岩手に来られたという話を、運転手から聞いた。そのようなことは、この旅に出るまで知らなかった。「蝦夷」と言われ、いわば「朝敵」として滅ぼされた安倍氏に、同じ姓をもつ者として、何か縁を感じておられたのであろうか。

 運転手からは、岩手県と言えば今は大谷翔平です、という話も聞いた。ドジャースの大谷は、岩手県の大谷でもある。

 

 

 

 

 

 

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義経堂から柳之御所跡を歩く … 陸奥国の岩手県平泉と盛岡の旅⑶

2025年03月03日 | 国内旅行…陸奥の国紀行

   (北上川/平泉付近)

司馬遼太郎『街道をゆく26』から

 「北上川は、河川として大きい。

 本流の全長は247キロで、流域面積は日本第4位である。奥州の要所を北から南へ縦にひきさくようにして流れている。

 水源は、岩手県二戸(ニノヘ)郡の西岳である。そのあたりの細流をあつめて渋民村あたりですでに一人前の河川になり、南流して岩手県の首邑である盛岡をうるおしている。川はしだいに流域の野をひろげつつひたすら南流して、岩手県花巻付近では、野を見はるかすほどに広くなっている。以後、北上、水沢、平泉を経る。この間、鉄道の東北本線はほぼこの川に沿っている。…… 宮城県に入り、穀倉地帯ともいえる仙北の大平野を南流するのだが、…… 大きく湾曲して、宮城県桃生(モノウ)郡の東海岸で太平洋にそそいでしまう」。

 陸奥国は、今の福島県、宮城県、岩手県、青森県である。南北に奥大道(タイドウ)が貫いていた。国府は今の仙台市の北、多賀城にあり、鎮守府は平泉の北、胆沢城に置かれた。

 近年の研究では、津軽の外ヶ浜から、奥大道を南へ降りてくると、平泉からは陸路を行かず、桃生(モノウ)の東海岸へ通じる河川交通が拓かれていたらしい。太平洋に出れば、海岸沿いに、房総半島、東海、難波、瀬戸内海を経て、大陸へと、ヒトとモノが行き交う。そういう交易路を想定しなければ、平泉の文化は理解できない。

   ★   ★   ★

<「まづ、高館(タカダチ)にのぼれば」>

  (高館義経堂の入口)

 中尊寺の麓のあたりで弁慶の「立ち往生」の姿を思わせる立派な墓を見たあと、通称「中尊寺通り」の市街地を抜け、東北本線の踏切を渡る。このあたりまで来ると人通りも少なくなり、出会うのはリュックを背負い、足元も固めた健脚そうな旅人ばかりだ。見るからに、頼もしい。

 カーブした登り道を頑張って歩き、最後に石段を上がると、高館山の上に出た。

  (高館から望む北上川)

 高校の古典の授業でならう「奥の細道」の有名な一節。

 「まづ、高館(タカダチ)にのぼれば、北上川、南部より流るる大河なり。衣川は、和泉が城をめぐりて、高館のもとにて大河に落ち入る。泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて、南部口をさし固め、夷(エゾ)を防ぐと見えたり。さても、義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時の草むらとなる。『国破れて山河あり、城春にして草青みたり』と、笠をうち敷きて、時のうつるまで泪(ナミダ)を落としはべりぬ。

  夏草や兵(ツハモノ)どもが夢の跡」

 以下、高校生用参考書をもとに語注めいたことを少々 (異説は省略)。

 「高館」=平泉に落ち延びてきた源義経に、三代藤原秀衡が与えた居館。柳之御所の北、高館山 ─ 山と言うより丘と呼ぶのがふさわしい ─ の山上にあった。秀衡没後、四代泰衡は、頼朝の要請によって後白河院から再三発せられた義経追討の宣旨に抗いがたく、ついに高館山の義経を攻撃。弁慶をはじめよく奮戦したが、多勢に無勢。義経、高館で自刃。

 「南部より流るる」=江戸時代、平泉は伊達藩領にあり、伊達藩の北は南部藩だった。流れてくる方角としては北方。

 「和泉が城」=秀衡の三男忠平の居城。

 「泰衡らが旧跡」=秀衡・泰衡らの居館(柳之御所)の跡のことか。高館山から続く北上川の右岸の段丘上にあった。

 「夷(エゾ)を防ぐと見えたり」=「夷(エゾ)を防ぐと見え」たのは芭蕉の主観か。藤原三代にとって、「夷(エゾ)」即ち奥六郡は彼らのバックグラウンドだった。安倍氏も藤原氏も南からやってきた軍勢によって滅ぼされた。

   「義臣」=義経の忠義の家臣たち。

      ★

 西行は平泉に着くとまず衣川を見に行った。芭蕉は衣川よりも先に、義経最期の地である高館に登った。「判官びいき」という言葉があるが、芭蕉に限らず、日本人は悲壮美に心ひかれるようだ。現代の「歴女」の皆さんも、坂本龍馬、土方歳三、信長、義経ら、志半ばで倒れたヒーローにあこがれる。

 「逃げてくれ」「それでは君が困るだろう」「父の遺命に背かぬためにはこれしかない。あとは俺に任せて、逃げろ」。で、義経は、自刃したと見せかけて高館を脱出した。残った弁慶が高館に火を放ち見事に戦死する。北へ北へと逃げた義経は、頼朝の追撃を振り切って北海道へ渡り、神威岬から大陸へ渡ったという。東北のあちこち残され、さらに北海道にも残る義経伝承は、そういう事実を伝えてくれます。

  (義経堂)

 そして、今、丘の上には、仙台藩主が建てた義経堂がある。中に入ると、義経の像があった。

 眼下に北上川。川の向こうに束稲(タバシネ)山。この山は、衣川でも、中尊寺の月見坂でも、ここ高館山でも、一度意識すると印象に残る山だ。

 北へ目を凝らせば、遠くに衣川の一部が小さく見える。

 芭蕉が書いたほどの細々とした史跡の眺望はない。昔はもっと空気が澄んでいたのかもしれないが、「奥の細道」に描かれたのは芭蕉の観念の中の景色のような気がする。

   ★   ★   ★

<夢の跡柳之御所遺跡を歩く>

 高館から、てくてくと歩いて、「柳之御所跡」と呼ばれる広々とした原っぱに出た。

 (柳之御所跡の発掘現場)

 高館山から続く、この北上川右岸の段丘では、今も発掘が行われている。観光客の姿は見当たらない。よほどもの好きなのかもしれないが、今回、平泉を訪ねる以上、ここに立ち、見て、感じておきたかった。

 以下、ちくま新書『古代史講義』の中の第15講「 平泉と奥州藤原氏」(大平聡)の記述から。

 「奥州藤原氏について …… 本格的な研究が始まったのは戦後になってからのことであった。戦前の皇国史観のもとでは、東北地方は朝廷から『討伐』される対象であり、金色堂は知られていても、それを営んだ藤原清衡を特に取り上げて研究しようとする動きはほとんど見られなかった」。

 「1988年から始まった柳之御所遺跡の発掘調査は、その開始当初から大発見の連続となった。義経堂で知られる高館の南端から続く北上川右岸の段丘は、…… 『柳之御所跡』と呼ばれていた地域である」。

 

 (右に高館山、左に続くのは関山)

 初代清衡は、平泉に入ると、「柳之御所に拠点を構え、衣川に北面する関山に寺院(中尊寺)を構築した」。

 「続く基衡は、陸奥を縦断する奥大道が平泉に入る(南の)入り口に拠点を据え、(毛越寺を建立し) 、街区を整備した。南を意識したこの都市整備は、…… とりわけ京を意識したものであろう」。

 「そして、第三代秀衡は、祖父清衡が拠点とした柳之御所に本拠を求め、平泉館を中心に(ここを政庁とし)、常の居所たる加羅(カラ)御所、そして無量光院を営み、都市の改造を行ったのである」。

 清衡、基衡は実質、無位無官だったが、三代秀衡は中央(平氏政権)から、鎮守府将軍、さらに、陸奥守に任ぜられた。(ただし、少年時代の源義経を保護し、源平の合戦にも手を貸さなかった)。

  柳之御所跡の発掘から、ここに平安京内と変わらぬ貴族風の邸宅、即ち寝殿造りの建物や池があったことが判明している。

 「さらに注目を引いたのが、重量単位トン(t)をもって示されるほどの膨大な量の『かわらけ』の出土であった」。「かわらけ」は「一度使用されたら即廃棄される …… その外形とは似ず、贅沢な食器」である。大河ドラマ「光る君へ」の宴席の場面でも登場し、「望月の歌」の宴などでも使われていた。

 「宴会が種々の政治的儀礼に伴って行われるものであったことを考え合わせると、ここが奥州藤原氏の活動拠点、政治的拠点であることが間違いないと確信されるようになった」「遺物から与えられた12世紀第3四半期という年代観は、この遺跡が第三代秀衡の『吾妻鏡』に記された『平泉館』そのものではないかという推測を導いた」。

注)『吾妻鏡』は、鎌倉幕府の公的な歴史書。源頼朝から6代の将軍の時代が記述されている。

 居館の周囲には堀がめぐらされていた。この堀は防御用というよりも、敷地の境界を示すもので、安倍氏の伝統を引き継ぎ、さらには蝦夷系豪族の習俗伝統を引き継ぐものであるという。

     (堀の跡)

 三代秀衡の加羅(カラ)御所の西側には、猫間が淵と呼ばれる低地を隔てて、無量光院があった。宇治の平等院を模した優美な姿であったという。また、そのあたりには、当時の絵図から、近世城下町風の町並みがあったと推測されている。

 今、その辺りには、何も残っていない。

 (民家しかない)

 「頼朝が平泉に入った時、秋風と、音もなく降りしきる雨の中、灰となった街には人影すらなかったと『吾妻鏡』は伝えています」(中尊寺HPから)。

 火を放ったのは頼朝ではない。戦いに敗れて落ちていく四代泰衡である。

       ★

<悠久の流れ北上川)

 今回の旅のバックグラウンドミュージックは北上川かもしれない。自分の意識の中に、常に北上川があった。

 高館からも見下ろすことができたが、もっと直に、橋の上とか土手の上から眺めてみたいと思い、旅の前にマップを見て検討し、今日一日の行程の中に入れた。

 レンタカーなら楽なのだが、道の駅「平泉」を経て「高館橋」まで、車道の脇を歩くのは気持ちの上でも疲れた。が、頑張った。

 橋のたもとに石碑があった。

 (悠久の流れ北上よ)

 橋の上からの眺め。(冒頭の写真も)。

  (北上川)

 

 (川の土手の向こう)

 川の土手の向こうに、歩いてきた方が広がっていた。右手のこんもりしたコブが高館山。高館山から左の方へ続く丘陵が、中尊寺のある関山である。よく歩いた。

 道の駅まで戻って、コーヒーを一杯だけ飲んだ。

 秋の日はつるべ落としと言う。太陽が西へ傾き、疲労もあったが、再びここへ訪れることは難しい。明日は盛岡へ行く。

 毛越寺へ向かって、太陽と競争しながら歩いた。

 

 

 

 

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「降り残してや光堂」 … 陸奥国の岩手県平泉と盛岡の旅⑵

2025年02月23日 | 国内旅行…陸奥の国紀行

   ( 中尊寺の紅葉)

<鎮魂の祈り、平和の希求>

 関山(カンザン)という低い丘陵が、平泉の街の北端をふさぐように横たわっている。丘陵の上に立って北方を眺めれば、前九年の合戦の舞台となった衣川が左から右へと巡り、北から流れてきた北上川に流れ込むのが見えるだろう。

 初代清衡はこの丘陵上に中尊寺を建立した。「関山中尊寺」である。

 中尊寺とは一組の堂塔のことではない。比叡山や高野山のように、最盛期には寺塔40余、僧坊300余があったという、その総称が中尊寺である。

 清衡(1056~1128)は、前九年の合戦 (1051~1062) のさ中に生まれた。戦いが終わった時、母の出自である安倍氏は滅亡し、父の藤原経清は殺された。子どもであった清衡は、母とともに勝者の清原氏に引き取られた。母の母(母方の祖母)は安倍氏に嫁いだが、清原氏の出であり、奥六郡を経営するためにも安倍氏の血が大切にされたのだ。

 20年後、清原氏の内紛が、後三年の合戦(1083~1087)となった。腹違いの兄とその養子、清衡、同母弟、それぞれを担いだ清原一族が骨肉の戦いを繰り広げ、清衡の妻と子は異母弟によって館ごと焼き殺された。

 後三年の戦いの勝者は清衡だったが、現代の歴史研究では、清衡がすぐに奥州に覇権を打ち立てたのではないとする。朝廷は、後三年の合戦における源義家の戦いを野心による私戦であったとし、清衡もまた源義家に従って奧羽に戦禍をもたらした人物としたのである。そのため、清衡は中央政府や陸奥の国府に監視される身となった。

 妻子を殺され同母弟と戦った心の傷跡が癒えぬまま、清衡は清原一門内の融和と再結束に努め、敵将であった人の娘を嫡妻に迎えている。

 その後は、中央政界とのつながりを求めて活動した。関白家に馬を贈るなどの働きかけもしている。また、数年間、妻の縁故を頼って京に出て、都の政界や仏教界の人々と交わったようだ。

 清衡が奥六郡の主として中央や陸奥の国府から公認されるようになったのは、後三年の合戦から20年もたってからのことである。

 彼は本拠を平泉へ遷し、北上川の右岸に柳之御所を建てて、ここを基盤に奥州統治の政務を行った。

 中尊寺の建立に着手したのは、平泉に遷って2、3年後の50歳の頃とされる。二つの合戦で亡くなった全ての人々の霊を敵味方の別なく鎮魂し、この丘陵の上に法華経に描かれた仏国土を表そうとしたものであった。

 中尊寺が建つ前、関山(カンザン)には、名のとおり衣川の関があった。

 陸奥国の入口の (福島県) 白河の関から、北の果ての (青森県) 津軽半島の外ヶ浜まで、奥羽を南北に貫く道があった。そのちょうど中間点にあたるのが関山の関所だった。東西に横たわる丘陵を、南或いは北側から直登する峠道は、函谷関を思わせるような急坂であったという。

 中尊寺のHPによると、後三年の戦いの後、清衡は、初め白河の関から津軽の外ヶ浜までの街道の1町ごとに、慰霊の笠卒塔婆(供養塔)を建てていったという。そして、その中間点の関山には1基の塔を建て、やがてその両側に多宝塔と釈迦堂を建立して、法華経の一場面を具現化した。それがどのようなものであったのか今はわからない。そのあと、次々と、丘陵上にいくつもの伽藍を建立した。

 今日、現存するのは、金色堂のみである。自身の廟堂として建てたとされる。その棟上げは1124年で、70歳近くになっていた。

 中尊寺全体の落慶供養が行われたのは1126年で、中尊寺の建立に着手してから22年目であった。このとき清衡が読み上げたとされる「中尊寺建立供養願文」の原文は既に失われているが、南北朝の時代、鎮守府将軍として奧羽に派遣された若き北畠顕家が書写したものが、寺史の第一級史料として今に伝えられている。

 後三年の戦い(~1087)のあと、 藤原清衡(~1128)、基衡(~1157)、秀衡(~1187)と続いた藤原三代は、奥州の地に約100年間の平和をつくった。

 その後、1189年、源頼朝が平泉に侵攻し、奥州藤原氏は滅亡する。

      ★ 

<その後の中尊寺のこと> 

 「頼朝が平泉に入った時、秋風と、音もなく降りしきる雨の中、灰となった街には人影すらなかったと『吾妻鏡』は伝えています」(中尊寺HPから)。

 廃墟となった平泉の街区に入ったあと、頼朝は残された寺々を巡回して、その仏教文化に深い感銘を受けた。そして、奥州の政務は藤原氏の先例に倣うよう命じ、また、御家人の葛西清重に平泉の安全を保持するよう命じた。こうして平泉の寺院群の存続は約束された。

 だが、庇護者を失ってしまうと、多くの堂塔を維持し続ける収入はなくなる。鎌倉幕府は数度に渡って中尊寺の修理を行い、1288年には金色堂を保護するため覆堂(オオイドウ)を設けたが、中尊寺の荒廃は進んでいった。

 1337年、中尊寺に大火があり、金色堂以外のほとんどの堂塔が焼失した。かろうじて残ったのは、金色堂と、一部の仏像、仏画、経文、工芸品などである。

 室町時代から戦国時代にかけて、荒廃は一層進んだ。

 江戸時代、平泉は仙台藩領になった。伊達藩の歴代の藩主は、中尊寺の収入を安堵し手あつく保護した。今、山内に点在する堂の多くは仙台藩によって再建されたものである。

 戦後、1950(昭和25)年、文化財保護法が制定され、金色堂は国宝建築物の第1号となり保護されることとなった。また、この年、藤原四代の遺体の学術調査も行われた。

 1962(昭和37)年、金色堂の解体修理が行われた(後述)。

 2011(平成23)年、「平泉─仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群─」がユネスコ世界文化遺産に登録された。

   ★   ★   ★

<紅葉の中尊寺を散策する>

 中尊寺の表参道は「月見坂」という風流な名で呼ばれるが、関山の東の麓から丘陵を800mほども登っていく道である。参道には仙台藩が植樹した樹齢350年の杉の古木が鬱蒼とそびえている。登り着いた山上の樹林の中に、中尊寺を構成する諸堂は点在している。

 朝、宿の小型バスが宿泊客を平泉駅まで送って行く途中、これから金色堂を見学しようという客のために、金色堂近くの駐車場に停車するという。マイカーやレンタカーで平泉を回る人はしんどい月見坂を登らず、ここに車を置いて金色堂を見学するらしい。

 中尊寺の核心部へいきなり車で乗りつけるというのはどうなのかとも思った。古人のように、一歩一歩、表参道を登っていくべきである。芭蕉もそうしたし、西行もそうした。かつての私も。しかし、年齢と、今日一日の行程を慮って、バスに便乗することにした。

       ★

[降り残してや … 金色堂]

 駐車場から脇道を上がっていくと、ほどなく、鬱蒼とした巨木の下に金色堂が現れた。紅葉が彩りを添え、覆堂(オオイドウ)に囲われている。そう、こういう佇まいだったと記憶がよみがえる。広大な中尊寺の建築群のなかで、唯一、900年前の創建時の姿を遺す阿弥陀堂である。

  (樹間の金色堂)

 入場券は、中尊寺の宝物館である讃衡堂(サンコウドウ)とセットになっていた。

   覆堂の中へ入ると、まことに小さなお堂である。… 写真に写せないのが残念。

 少し後方に下がってお堂全体を眺めたときの姿がいい。3間四方の小さな堂の上の屋根が、鳥が羽を大きく横に広げたようにお堂を覆っている。その大きくのびやかな羽を支えて、正面に4本の柱が堂々と並び、その太柱の奥に、まるで垣間見るような感じで、須弥壇とその上の黄金色の仏たちが見える。それらは、まるで遠近法で見るように、遥かに遠く、小さい。

 この正面全体のお姿がまことに良い。

 近寄って、お堂の中を拝観した。

 5.5m(3間)四方、高さは8mとか。「皆金色」の極楽浄土を表す。

 芭蕉は「五月雨の降り残してや光堂」と詠んだが、確かに、広大な中尊寺の数多の堂塔のうち、一つだけ奇跡のように今に遺された珠玉のような小宇宙である。

 下の写真は、宝物館の讃衡蔵に貼ってあった須弥壇の写真の写真。この前に立って自由に記念撮影を、という趣旨のものだ。

  (中央の須弥壇)

 須弥壇両脇の円柱は、夜光貝を用いた螺鈿細工が施されて、象牙や宝石で飾られている。このような素材はどういう道筋をたどって奥州藤原氏のもとへやってきたのだろう。

 須弥壇の前面には孔雀の浮彫り。気品がある。

 そして、須弥壇の上に、本尊の阿弥陀如来、両脇に観音菩薩と勢至菩薩。さらに左右に3体ずつの地蔵菩薩。最前列には持国天と増長天。合計11体で1組の須弥壇が構成されている。

 須弥壇は3組ある。中央の須弥壇の中には初代清衡の遺骸が納められ、左手の須弥壇には2代基衡、右手の須弥壇には3代秀衡の遺骸と4代泰衡の首級が安置されている。

 1950(昭和25)年、須弥壇の中の藤原四代の遺体の学術調査が行われた。もちろん、異人種、異民族ではなかった。泰衡の首桶から発見された800年前のハスの種は植物学者の手にゆだねられ、今、季節になると中尊寺境内の池に花を咲かせている。

 1962年、金色堂の解体修理が行われ、金箔が貼りなおされて今の美しい姿になった。そのとき使用された金箔は3万枚、金9㎏という。

 金色堂の見学を終え外に出ると、近くに芭蕉の句碑があった。石の文字は風化して既に読みにくい。

   (芭蕉の句碑)

松尾芭蕉「奥の細道」から

 「かねて耳驚かしたる二堂、開帳す。経堂は三将の像を残し、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散り失せて、珠(タマ)の扉風に破れ。金(コガネ)の柱 霜雪に朽ちて、すべて頽廃空虚の草むらとなるべきを、四面あらたに囲みて、甍(イラカ)をおほひて風雨をしのぐ。しばらく千載(チトセ)の記念(カタミ)とはなれり

  五月雨(サミダレ)の降り残してや光堂」。

 芭蕉は「経堂は三将の像を残し」と書いているが、藤原三代の像はない。随行した曽良日記によると、この日、経堂は開いていなかったそうだ。つまり、フィクションであり、「奥の細道」は文学作品なのだ。

 しかし、「五月雨の降り残してや光堂」の句は、霜雪を経て今なお遺る金色の小堂を見たときに誰しもが抱く感慨をよく表現している。個別的で、かつ、普遍性をもたねば、文学として残らない。

 金色堂の近くにある讃衡蔵(サンコウゾウ)は、火事や地震にも耐えるように建て直された近代建築で、中尊寺の各堂宇にあった3千点を超える文化財を収蔵・展示している。少し時間をかけて見て回った。

       ★

[「中尊寺経」を納めていた経蔵]

   (経 蔵)

 金色堂に近く、紅葉の下にひっそりと建つ小さな建物。

 もとは2階瓦葺きの立派な建物だったという。

 現在の経蔵は鎌倉時代のもので、一部、平安時代の古材が使用されている。鎌倉幕府によって、縮小しながら大修理されたのであろう。

 しかし、これはこれで味があって、いい。重文である。

 経蔵の中に「三将の像」はなく、須弥壇(国宝)があり、その上に文珠五尊像(重文)が安置されていた。今、それらは讃衡蔵に移されている。

 しかし、ここに納められていた最も大切なものは、藤原三代によって発願・書写された紺紙金銀字交書一切経(コンシ キンギンジ コウショ イッサイキョウ)、金字一切経、金字法華経である。

 金字で手書きされたお経は、大河ドラマ『光る君へ』の中、道長が書写し吉野に奉納する話があった。金字による写経事業は、都の皇族や上級貴族にしかできなかった大事業である。

 それをさらに超えるのが、初代清衡の発願とされる紺紙金銀字交書一切経。紺の紙に金字と銀字で1行ごとに経文を書き写したもの。完成までに8か年を要したという。戦いで亡くなった全ての人々に対する鎮魂の祈り、全ての人々の浄土を願う清衡の願いがこめられた大事業だった。

 豊臣秀吉が小田原北条氏を降し、さらに東北の仕置に赴いたとき、4000巻以上の経が京都伏見に運び出された。今、中尊寺の讃衡蔵に残されているのは15巻のみという。持ち出された経文は「中尊寺経」として高野山と大阪の観心寺等に所蔵され、全て国宝である。

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[金色堂を守り続けた旧覆堂]

  (旧覆堂)

 芭蕉が「すべて頽廃空虚の草むらとなるべきを、四面あらたに囲みて、甍(イラカ)をおほひて風雨をしのぐ」と書いたのは、この覆堂である。この覆堂の中に入って、金色堂と対面したのだ。

 1962(昭和37)年から行われた金色堂の解体修理のとき、新たに鉄筋コンクリート製の覆堂が建築され、旧覆堂は500年の任務を終えて100m先のこの地に移築された。重文である。

 この旧覆堂も実は2代目で、建築年代は室町時代中頃と推定されている。1代目は、鎌倉幕府が平泉滅亡後100年目の1288年に建てたもの。

 奥州藤原氏の文化遺産に対し、鎌倉幕府はそれなりに配慮し続けたのだ。

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[頼朝の心を動かした大長寿院]

  (大長寿院の門)

 かつて、ここに高さ15mという2階建ての大堂があった。平泉に入った頼朝は中尊寺の堂宇を見て回り、特に大長寿院の威容に打たれた。鎌倉に帰って、大長寿院を模して永福寺を建立し、奥州藤原氏と弟義経の霊を弔ったという。

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[幽玄の趣をもつ白山神社の能楽堂]

  (白山神社の鳥居)

 白山神社の鳥居をくぐり、老杉の聳える参道をゆくと、中尊寺で最も奥まった一画に出る。

  (白山神社の社殿)

 白山神社は中尊寺の北方の鎮守である。社殿の奥へ入ることはできないが、その向こうには衣川方面の眺望が開けているはずだ。

 神社にはふつう歌舞を奉納する神楽殿があるが、ここには能舞台がある。今も春と秋、中尊寺の僧侶たちによって御神事能が奉納され、8月には薪能も催されるとか。山中の暗闇の中で演じられる薪能は幽玄であろう。

 江戸時代、仙台藩主はこの御神事能を推奨して、能舞台を再建し、能装束を奉納した。風雪にさらされた能舞台は枯淡の味があり、舞台正面奥の鏡板には、ほのかに老松の色が残ってゆかしい。重文である。

   (幽玄の趣をもつ能楽堂)

  (老松の色が残る鏡板)

 能楽堂の周りを歩くと、草の地面はすり鉢状に周囲が高くなっていて、どこからでも舞台の能を観賞できるようになっている。小高くなった地面の感覚から、ふっと、シチリア島の地中海を望む丘の上の古代ギリシャの野外劇場を思い出した。こちらは星空が似合いそうだ。

 (シチリア島の野外劇場)

       ★

[紅葉を楽しみ旧鐘楼へ]

  (中尊寺の紅葉)

 最近は桜や紅葉をわざわざ見に行くことはない。雑踏がわずらわしいから。

 今回、紅葉の季節をねらって旅に出たのではないのだが、美しい紅葉に出会えて幸せな気分になった。

 讃衡蔵の前まで戻って、月見坂の方へ歩いて行くと、道の脇の小高くなった所に旧鐘楼があった。ここも紅葉が繊細可憐で、思わず立ちどまってしまった。

  (旧鐘楼)

 もと、2階造りの立派な鐘楼があったのだが、1339年の大火で焼失した。

 今は茅葺き木造平屋建て、1間四方の小さな建物だ。梵鐘は大火のあとの1343年に新たに鋳造されたが、それからも歳月を経て、摩耗激しく、今は撞かれることはないそうだ。

 ただ、この梵鐘に刻まれた銘によって、1337年の中尊寺の大火災のことがわかり、寺史を知るうえで貴重な存在だという。

      ★

[今も生きて活動する中尊寺の本堂]

  (本 堂)

 東麓から月見坂を登ってくると、坂道を登り切った所に本堂がある。中尊寺の法要儀式の多くはここで取り行われる。

 中尊寺は遠い過去を伝えるだけの文化遺産ではなく、今も生きて活動しているお寺である。

 エジプトのピラミッドも、始皇帝墓から出土した兵馬俑も、立派であるが、既に滅んでしまった文明の考古学的遺産である。仁徳陵は、今も祀る人がいて祀られている。遠い昔のシルクロードの笛の音は、宮中と春日大社に残るのみ。長安の都を想像したければ、奈良へ行くしかないと言われる。

 本堂には丈六皆金色の釈迦如来がご本尊として安置されていたが、今は讃衡蔵にある。

 現在の建物は明治期の建築で、ご本尊は2013年に開眼法要された現代的な仏像だ。

       ★

[月見坂を下る]

 中尊寺はお堂だけでも数多く、それら全てを一日で見て回ることはできない。今回はいくつかピッアップして見て回った。それでも、前回より多くを見ることができた。前回は金色堂だけだったような気がする。しかも、ゆとりをもって楽しんで見学できて、満足した。

 月見坂の参道を降っていく。

 (表参道月見坂)

 すぐに物見台があった。麓から急坂を登ってきた人は、ここで展望が開け、ほっと一息入れる場所である。

 藤原三代の頃、山桜の名所であった束稲(タバシネ)山を望むことができる。標高595m。写真左手に、わずかに北上川。

  (物見台から束稲山)

 「束稲山の桜」を詠んだ西行の歌碑があった。この歌碑の字ももう読めない。

  (西行歌碑)

  (北上川)

 手前を東北本線の高架が通り、その向こうに国道。さらにその向こうの右手に北上川。北上川の左手の橋は、多分、衣川に架かる橋だろう。

 再び月見坂を下ってゆく。両側は鬱蒼とした杉の古木である。

 (表参道月見坂)

 既に正午を回った。今日はどこで昼食にありつけるだろうと心細く思っていたら、月見坂参道入口に、感じの良い蕎麦屋があった。ここを逃したら、昼飯抜きになるかもしれない。

  (蕎麦屋)

 場所柄、値段は高かったが、味は良かった。

 昼飯を食べ終わると、あとはひたすら歩くだけ。

 参道の入り口に到着した。「関山中尊寺」とある。

  (中尊寺境内入り口)

 少し疲れを覚える足で、平泉の街を経て、義経ゆかりの高館へ向かった。

  (続く) 

 

 

 

 

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