ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

教皇の大聖堂…早春のイタリア紀行(18)

2021年05月30日 | 西欧旅行…早春のイタリアの旅

   (大聖堂のクーポラを見上げる)

       ★

<バロックの巨匠ベルニーニの広場>

 カトリックの総本山サン・ピエトロ大聖堂前の広場は、30万人を収容できるそうだ。

 人々を迎え抱擁するように、円柱の列が広場を囲んで建つ。

 この広場の設計者はバロックの巨匠ベルニーニ。1667年に完成した。

 (サン・ピエトロ大聖堂前の広場から) 

 広場の中心に立つオベリスクは、ローマ皇帝カリグラが造った戦車競技場の中央分離帯の飾りとして、エジプトから運ばれて置かれたものだ。その競技場はここよりもう少し南にあったらしい。オベリスクも、その後、もう一度ここへ移動した。

 皇帝ネロのとき、その競技場でキリスト教徒が処刑された。伝承によれば、使徒ペテロもそのとき十字架に架けられた。亡骸は、信者たちの手によって競技場の北にあった墓地に葬られたという。

 ローマ市内の少し高い所に立てばどこからでも見える大聖堂の青いクーポラは、地上から132.5mの高さ。直径は42.5mある。ミケランジェロのクーポラだ。

 エレベーターと階段で上がることができる。1997年のイタリア旅行のときには、上まで上がった。ローマの街が一望できた。しかし、もう一度あそこまで上がる気は起こらない。

 クーポラの下、ファーサードの屋上には、キリストと洗礼者ヨハネ、ペテロを除く11使徒の像が並ぶ。小さく見えるが、1体の高さは5.7mもある。

 その下には5つのバルコニー。中央のバルコニーから教皇が大群衆を祝福するニュース映像を見ることがある。教皇の祝福を受けようと、30万人の人々が集まってくる。

 「祝福」とは、「神への賛美や信仰の共有を前提に、神の恵みを他者にとりなすこと」(ウイキペディア)。なにしろ「天の国の鍵」を授かっているお方だ。

 柱廊には丸柱と角柱が並び、5つの扉口。さらにその下には広々とした前階段がある。肌を露出せず普通の服装であれば、誰でも自由に入ることができる。

      ★ 

<ミケランジェロの2つのピエタ像>

 前階段を上がって扉口を入ると、右手に、十字架から降ろされたイエスを抱く聖母像、「ピエタ」の像がある。ピエタは「哀しみ、悲哀」の意。

 今は分厚い防弾ガラスの中に置かれている。かつて、この像を鉄槌で壊そうとした男がいたらしい。実際、一部が壊され、修復されたそうだ。

 (ピエタ像)

 ミケランジェロ、25歳の時の作品。精緻を極めて美しい。

 おそらく、古代から中世を経てルネッサンスまで、キリスト教世界で描かれてきた、或いは、彫られてきた数多のピエタ像を一気に凌駕した作品だろう。それを若干25歳の若者が、1個の大きな大理石の中から彫り出してみせたのだ。これほどまでに精緻を極めた美しいピエタ像はなかった。

 彼自身、同じフィレンツェの彫刻家の大先輩ドナテッロや、当時、天才の評判高かったレオナルド・ダ・ヴィンチを超えたと思ったに違いない。傷つきやすく、それゆえ、傍若無人に人を傷つける彼の自負心は、このとき宇宙を満たすほどに大きくなっていたかもしれない。

 だが、私には、30歳を過ぎた息子イエスの亡骸を抱えるマリアの顔が、若く、美女過ぎるように思え、共感できなかった。25歳のミケランジェロは、わが息子を亡くした母親の悲嘆をわかっていたのだろうか??

   同じように感じた人たちが、当時もいたらしい。そういう声を耳にしたミケランジェロは、「きみは知らないのか?? 純潔の聖母は、年を取らないのだ」と言ったそうだ。25歳のミケランジェロにとって、美しいマリアは、何があろうと美しいままなのだ。

 晩年、ミケランジェロはピエタ像を3回も手がけた。だが、いずれも未完成に終わっている。

 最後の作品はミラノにある「ロンダニーニのピエタ」。残念ながら写真を見るだけで、本物を見たことはない。

 ミケランジェロは84歳になっていた。84歳の老人の鑿を手にする腕の力は弱く、視力も衰えて手探りで彫ったと言う。

 死の直前まで彫りつづけ、ついに未完に終わった作品は、まだ全体の輪郭もイエスとマリアの顔立ちもぼんやりして、現代彫刻の抽象的な作品のようにも見える。

 不思議な構図になっている。十字架から降ろされたばかりのイエスは、まだ地面に横たえらる前の身体を起こして立った姿勢で、母マリアが後ろからイエスの肩を抱いて支えている。イエスを後ろから抱擁するように支える母マリア。だが、イエスの亡骸は、まるで衰えた母を背負おうとしているようにも見える。

 作品にはただ一つの感情が漂っている。それは、悲哀。

 もし84歳のミケランジェロに「あなたは自分をどんな存在だと思いますか」と聞いたならば、「自分は1本の葦よりもはかなく、小さな小さな存在に過ぎない」と答えるのではないかと私には思われた。

 私からの賛辞。サン・ピエトロのピエタに対しては、「25歳にしてこんなに見事な彫刻!! 天才って、いるんですね」。

 ロンダニーニのピエタには、「25歳のあの精緻な美しい像は、老いた今のあなたには絶対に彫れないでしょう。でも、これはほんもののピエタです。私にはそう思えます」。

      ★

<殉教した聖人を祀る大聖堂>

 中は奥行きが211.5m。身廊と4つの側廊があり、柱も壁も床も最高級の大理石で覆われて、贅を尽くし、しかも気品がある。

  (身 廊)

 キリスト教が迫害されていた時代、キリスト教徒たちは殉教した教父の墓にささやかな祠(霊廟)を建てた。そこには遠くからも人々がやってきて、生前や死後のご利益を祈る聖地になっていった。

 4世紀、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世はキリスト教を公認し、さらにこれまでにない巨大な大聖堂を建てて献堂した。この地に建てられた聖堂は、使徒ペテロの墓の真上に祭壇がくるように設計されたと言われる。 

 キリスト教が国教となってから数世紀がたち、中世ヨーロッパ社会は農業生産力が急上昇した。各地の司教や大修道院は、余裕ができた農民や都市商工業者の経済力を引き出し、初めにロマネスク、次にゴシックの、石積みの大聖堂を建設していった。それらの多くは、殉教した聖人の墓或いは祠と言い伝えられた跡を地下霊廟とし、その上に荘厳な大聖堂を建立したのである。大聖堂は、多くの場合、聖母マリアに捧げられた。中世の大聖堂建設の時代は、聖母マリア信仰と、大巡礼時代とが重なり合っていた。

 例えば、当ブログの「フランス・ロマネスクの旅」の中の「ブルゴーニュ公国の都ディジョン」にそういう例を書いている。

 ただし、地下霊廟に葬られている遺骨が、本当に言い伝えらてきた聖人のものかどうかはわからないし、その聖人の伝承そのものが本当なのかどうかもよく分からない。

 例えば、キリスト教の巡礼地として、エルサレム、ローマに次ぐスペインのサンチャゴ・デ・コンポステーラ大聖堂は、聖ヤコブの遺骸を祀る大聖堂である。

  (サンチャゴ・デ・コンポステーラ大聖堂)

 (身廊の奥に聖ヤコブを祀る祭壇)

 使徒ヤコブはエルサレムで殉教した。

 伝承によると、エルサレム教会の信徒たちは遺体を小舟に乗せて海に流した。小舟は東地中海の東海岸から地中海を西へ西へと漂い流れ、ジブラルタル海峡を経て大西洋に出て、イベリア半島の北西海岸のガリシア地方まで流れ着いた。そして、その地の人々によって葬られた。

 その約800年後、レコンキスタ(イベリア半島を支配していたイスラム教徒から領土を奪還する運動)の最中に、「ヤコブの墓」は発見された。やがてその上に大聖堂が建てられ、一大巡礼地となった。

 今も、多くの人々が、遠くフランスやドイツからも、徒歩で巡礼路をたどっている。

 サンチャゴ・デ・コンポステーラ大聖堂に、本当にエルサレムで死んだ使徒ヤコブの遺骸があるのだろうか??

 カトリックは、それが神の御心であれば、きっとあるでしょう … と答えるだろう。だが、現代の巡礼者はそういうことにこだわらず、ただ由緒ある巡礼路を「歩く」ことに意味を見出して歩く。若い人。中年になって。初老の人。それぞれに、自分探しの旅、自分を見つめ直す旅、と答える人が多い。  

 サン・ピエトロ大聖堂の話に戻る。

 バチカンは20世紀の半ば、考古学者のチームに大聖堂の地下の学術調査を依頼した。

 地下にはコンスタンティヌス1世の大聖堂の遺構が見つかり、その詳細が実証的に明らかになった。さらにその下から墓地群が発見された。そのうちの1つの墓には墓碑と祭壇の一部が残り、その周囲からは、当時墓参に訪れた人々の残した落書きや願い事が見つかった。

 さらに、そこから、埋葬された男性の遺骨も発掘された。60歳ぐらいの大柄の体格だという。

 1968年、時の教皇は、その男性の遺骨が、「納得できる方法」によって、聖ペテロのものだと確認されたと公表した。

 このように、カトリックの信仰は、さまざまな伝承(古文書)、各地の聖堂に祀られている聖遺物やバチカンによって「聖人」とされた人の遺骨、過去から現在に至るバチカン認定の聖なる奇跡の地、さまざまな伝承を視覚化した美術品の数々、或いは、旅の途中で大聖堂のミサに参列したことがあるが、パイプオルガンの荘厳な響き、男性司祭たちの美しい歌声、時に少年合唱団の讃美歌等々 …… そういう信仰の分厚い層の上に成り立っている。

   (内 陣)

 内陣の中央には、「聖ペテロの椅子」がある。使徒ペテロがローマの「司教」であったときに使用していたという粗末な椅子である。

 17世紀に、ベルニーニによってバロック調のけばけばしい金ピカ装飾が施され、さらにその上はブロンズの天蓋で覆われた。

     ★

 大聖堂の中を一巡して外に出ると、広場は明るい陽光に満たされ、多くの人々で賑わっていた。

 紅山雪夫さんは、『イタリアものしり紀行』のサン・ピエトロ大聖堂の説明の終わりに、「この大聖堂を見てどう感じるかは、人によって大差がある。絢爛豪華ですばらしいと思う人もいれば、宗教建築として贅沢趣味が勝ち過ぎていて、しっくりしないと思う人もいるだろう。各人が抱いている自分の美意識に照らして判断するしかない」と書かれている。

 紅山さんが観光案内の本にこういう文章を書かれるのは珍しい。こういうことをわざわざ書き加えられたのは、多分、「宗教建築として贅沢趣味が勝ち過ぎていて、しっくりしない」と思われたからだろうと想像する。

 私は、ベルニーニの「聖ペテロの椅子」などを除けば、壁面も柱も最高級の大理石を使い、カネに糸目をつけずに造られているにもかかわらず、全体として落ち着いて美的センスが良いと思った。

 この旅の後、何回も、ヨーロッパの大聖堂を見る機会があった。

 その中には、全体がベルニーニの「聖ペテロの椅子」のような金ピカの大聖堂もあった。

 だが、印象に残っているのは、例えば「フランス・ロマネスクの旅」。この旅で、中世の時代の野のかおりのするような素朴な石積みの大聖堂を見て回った。大聖堂に入ると、柱頭にはケルトの民話にでも出てきそうな素朴な妖怪が装飾され、大聖堂の石積みはすっかり古くなっていて、石もこのように老いるのだとその旅で初めて知った。

 また、「フランス・ゴシック大聖堂の旅」。聖堂の中に入ると、林立する石柱の深い森の中のようで、窓には、まるで宝石を無数にばら撒いたようにステンドグラスが美しく輝いていた。

 それらと比べると、サン・ピエトロ大聖堂は確かに贅沢趣味が勝ち過ぎ、「野のユリを見よ」「心貧しき者は幸いなり」と説いたイエスの言葉からかけ離れているかもしれないと思う。全世界のカトリック教会の上に君臨する大聖堂、教皇の大聖堂という印象はぬぐい切れないかもしれない。

 

 

 

 

 

 

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ルネッサンスの教皇たちがつくった美術館…早春のイタリア紀行(17)

2021年05月26日 | 西欧旅行…早春のイタリアの旅

 フランスの画家ジョルジュ・ルオー(1871~1958)の描いたイエス・キリストの顔。

 ルオーはパリの国立美術学校で学んだ。師はギュスタープ・モローで、同期にマティスがいる。同期の2人の画風は全く異なるが、友として生涯、互いに敬愛しつづけた。

 バチカン美術館にあるこの絵は、ルオーという画家が思い描いたイエス・キリストの顔である。もしレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロがこの絵を見たらどう評価するだろうかと思う。ひょっとしたら酷評するかもしれないが、私には中世、ルネッサンスのどの宗教画よりも、この絵に福音書のイエスを感じる。不純物 ── カトリックの教義だとか、個々の画家自身の野心だとか ── そういうものを取り去って、「野のユリを見よ」と語った福音書のイエスに思いを致せば、このような絵になるのではないだろうか。

 そう言えば、ルネッサンス初期の画家でただ1人、この絵を評価するかもしれない人がいる。フィレンツェのサン・マルコ修道院の「受胎告知」を描いたフラ・アンジェリコ … 。

  ★   ★   ★

<バチカン美術館の起源>

 バチカン美術館は、サン・ピエトロ大聖堂の北側に隣接する。もともとは、教皇の公邸であるバチカン宮殿だった。現在、宮殿として使用されているのは、サン・ピエトロ大聖堂に隣接する一角だけのようだ。

 

  (バチカン美術館付近)

 タクシーで着くと、美術館のチケット売り場には行列ができていた。入口付近も時間待ちする観光客で賑わっている。そういう人々の中に、例の「赤ちゃん」を抱いた女性もいた。落ち着かない目つきの男もうろうろと歩いている。

 日本でネット予約していたから、チケット売り場に並ぶ必要はない。この人ごみの中にぼんやりと立っているのはまずいと思い、近くのバールでティータイムにした。

      ★

 バチカン美術館の起源は、サン・ピエトロ大聖堂の再建を号令した剛腕の教皇ユリウス2世(在位1503~1513)に遡る。なにしろこの教皇は、イタリア中部にあった「教皇領」に盤踞していた豪族貴族を蹴散らして、教皇王国を確立するため、自ら軍を率いて出陣した人である。

 時は、古代の復興が謳われたルネッサンスの盛期。

 そのユリウス2世のもとに、ローマ市のブドウ畑から古代の彫像群「ラオコーン」が発掘されたという情報が入った。教皇はミケランジェロらに確認に行かせ、大枚のカネを払ってこれを引き取った。そして、新築のバチカン宮殿の「ベルヴェデーレの中庭」に置いた。また、それまでに買い集めていた古代彫刻もそこに並べて展示した。

 以後、歴代の教皇はカネに糸目をつけず古代エジプトから古代ギリシャ・ローマの美術品を収集し、また、同時代のルネッサンスの美術家には宮殿の天井画や壁画を描かせた。

 その後も、近現代に至るまで、多くの美術品が寄贈されたり、収集されたりする。

 歴代の教皇はそれらの美術品を、教皇宮殿の敷地に次々建て増した美術館や回廊や邸宅に並べた。

 こうしてできあがったのがバチカン美術館である。今や、世界有数の大美術館である。

 美術館の中は迷路のような複雑さ。全行程を歩けば7㎞になるそうだ。モデルコースが設定され、色分けされているから、要所要所で色の目印を確認しながら進路を取れば良い。一番短いコースで1.5時間、いちばん長いコースは5時間である。

      ★

<ミケランジェロの「天地創造」と「最後の審判」>

 1997年の「初めてのイタリア旅行」のとき、ローマの最終日はフリーだった。早朝、一緒にツアーに参加していた友人と2人で郊外のホテルを出発し、列車と地下鉄を乗り継いで、開館1時間前のバチカン美術館のチケット売り場に並んだ。

 『ローマの休日』のローマも自分の足で歩いてみたかったから、バチカン美術館の見学は午前中と決めていた。それで、いちばん短い1.5時間コースを歩くことにした。

 目標もシスティーナ礼拝堂にしぼった。バチカン美術館の最高傑作とされるミケランジェロの天井画「天地創造」と祭壇壁画「最後の審判」はぜひ見たい。あとはいいと、わりきった。

 迷路のようなコースを、大勢の見学者の間をすり抜けながらひたすら歩いた。そしてついにシスティーナ礼拝堂の扉の前に到達したときは、胸が高鳴った。

 しかし、中に入って、頭上遥かに天井画を見上げたとき、自分でも意外だったが、「えっ!! これは、日本の劇画だ!!」 と思った。美術史上最大の芸術家に対して誠に不遜極まる感想である。

 天井画はコマ組になっているから、余計、漫画のように感じたのかもしれない。それにしても、天地を創造し人間を創造した「神」までが裸で、しかも不自然なほどにマッチョなのだ。この絵を見て、キリスト教徒は本当に「神」を感じるのだろうか??

 ずっと後に、自分のその時の印象も一概に否定されるべきではないのかもしれないと知った。美術史上では、マニエリスムというそうだ。以下、「コトババンク」からの要約。

 マニエリスムは、「ルネッサンスからバロックへ移行する過渡期に」、「ローマやフィレンツェを中心に起こり、西洋全体に及んでいった芸術様式」。「盛期ルネッサンスとりわけミケランジェロにその萌芽を見ることができる」。宗教改革や政治的動乱による「不安な世相」が背景にある。「調和・均衡・安定を重んじる規範的理想美に対する反発から」生まれ、「……その特色は人体表現において顕著で、誇張された肉付け …… 派手な色彩などが認められる」。

 均整の取れた古典的な美であるルネッサンス芸術に反発して、バロックはわざと調和を乱し、激しい動きを表現し、見る者に動的・劇的な訴えかけをしようとした。美術史的には、そういうバロックへの第一歩目がミケランジェロだったのではないかと思う。もちろん、本人の意図したことではないだろうが。

      ★

<ラファエロの「アテネの学堂」>

 時間になり、係員にバウチャーを見せると中へ入れてもらえた。チケットブースでチケットに代えてもらう。

 今回は3.5時間の『地球の歩き方』オリジナルコースを歩いてみることにした。『地球の歩き方』のマップを手に、迷路のようなコースを自分で歩いて行く。

 それでも、目標は1つに決めた。「新回廊」の「プリマポルタのアウグストゥス帝」の像。

 アウグストゥスは初代のローマ皇帝(在位BC27~AD14)としてパクス・ロマーナをつくり出し、当時としては高齢の75歳まで生きた。この像は、兵士たちを前にスピーチする比較的若い時代の姿だという。

 19世紀、フラミニア街道沿いのプリマポルタという地で、アウグストゥス帝の妻リヴィアのヴィラと思われる邸宅跡が発見された。2000年も前の遺跡だ。その邸宅跡にアウグストゥス帝の像があった。

 皇帝の死後、老妻が大切に手元に置いていた若き日のアウグストゥスはどのような男だったのか、それを見たいと思った。

 中庭から入り、最初の「エジプト美術館」は、古代エジプトの発掘品の数々が展示されて興味深かった。

 「キアラモンティ美術館」は、古代ギリシャ・ローマ時代の1000体もの彫刻が並んで、楽しく鑑賞できた。古代ギリシャ・ローマの古代彫刻は、端正で、しかも、どこか古拙の味わいを感じる。

 肝心のアウグストゥス像のある「新回廊」は、なんと工事中で閉鎖されていた。かなりがっかりした。

 「ピオ・クレメンティーノ美術館」も、例のラオコーン像をはじめ、古代ギリシャ・ローマ時代の教科書に出てくるような彫像の数々が陳列されていた。

 続く5つのギャラリーは、若干の強弱をつけながらもほぼ素通りした。

 今回の収穫は、続く「ラファエロの間」だ。

 私の幼稚なラファエロの絵のイメージは、貴族のお姫様のような聖母像を描く画家だった。

 だが、ここに展示されている大作の数々、中でも「アテネの学堂」は、構成も大きく、色彩も美しかった。何よりも宗教的なくさみがなく、人間の知性が描かれているのがいい。

  (ラファエロ「アテネの学堂」)

 階段の中央に並んで会話しながら降りようとするプラトンとアリストテレスの雰囲気がいい。互いにリスペクトし合う両者の知性と品格を感じる。白髭のプラトンの顔は、ラファエロが最も尊敬したレオナルド・ダ・ヴィンチをモデルにしているそうだ。

 階段の途中、左側に頬杖をついて自分の世界に閉じこもっているヘラクレイトスは、ラファエロがこの絵を描いている時、システィーナ礼拝堂の天井画を描いていたライバルのミケランジェロがモデルだという。敬意を表して、最後にここに描き加えたそうだ。

 ラファエロの間からさらに歩いて、システィーナ礼拝堂へ。この部屋の中で、教皇選出のコンクラーベが行われる。そう思うと興味深かった。

 出口も間近な部屋には、まるでその他大勢というように、ゴッホ、マチス、ルオー、シャガールなどの近代絵画の名作が数多く架けられていた。

 ルオーの絵も何点かあった。

  (ルオーの絵)

 「塔、樹木、月かもしれぬ太陽、夜かもしれぬ夕暮れ …… 。ルオーによる福音書では、キリストの説話は、ほとんど一つしかないようだ。キリストと貧しい人たちとの会話である」(柳宗元)。

   話ながら道を歩いてくる白い服の人が、イエスかもしれない。

       ★

<スイス人衛兵>

 バチカン美術館を出て、サン・ピエトロ大聖堂へ。

 ここはカトリックの2大巡礼地の1つ。もう1つはエルサレムの聖墳墓教会。

 3大巡礼地と言えば、イベリア半島の北西の果て、大西洋もま近な地に建つサンチャゴ・デ・コンポステーラ大聖堂。

 要所に、制服姿のスイス兵が警護に当たっている。

 (スイス兵)

 バチカンには教皇の護衛としてスイス人衛兵が常駐している。

 スイスは今は豊かな国だが、昔は貧しく、次男や三男は国外へ出稼ぎに出た。傭兵のスイス兵は強く、しかも、忠誠心があるとされた。

 特に、フランス王家やバチカンの傭兵として働いた。フランス革命の時には、王宮の中に押し寄せた革命派の民衆によって多くのスイス兵が無抵抗のまま殺された。王から、発砲するな、抵抗するなと命じられていたから、命令を守ったのである。そのとき死んだ兵士たちを悼んで、スイスのルツェルンに「瀕死のライオン像」が作られている。この頃からフランス革命は暴走を始めた。

 そういう伝統を受け継ぐバチカンのスイス人衛兵は、スイス国内のカトリック教会から推薦を受けた人で、カトリック信徒のスイス人男性であることが条件だそうだ。

(次回は、「サン・ピエトロ大聖堂」です)。

 

 

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ローマにて、人間の歴史を想う…早春のイタリア紀行(16)

2021年05月13日 | 西欧旅行…早春のイタリアの旅

   (サン・ピエトロ大聖堂)

     ★   ★   ★

<「あなたに天国の鍵を授ける」>

 新約聖書の「マタイによる福音書」16章18、19節によると、イエスが弟子たちに自分を何者と思うかと聞いたとき、弟子たちのリーダー格だったペテロが答えた。「あなたはメシア、生ける神の子です」。その答えに対してイエスは言った。

 「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。 …… わたしも言っておく。あなたはペテロ(岩)。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天井でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。

 ペテロの本名はシモン。同じマタイ伝の中で、「ペテロと呼ばれるシモン」と紹介されている。

 「ペテロ」は岩の意。シモンは体が大きく頑丈だった。ペテロの名は、キリスト教圏でよく子どもの名に付けられる。現代の言語では、英語でピーター、フランス語はピエール、イタリア語ではピエトロ(「サン・ピエトロ大聖堂」はイタリア語読み)、ドイツ語ではペーター、スペイン、ポルトガル語ではペドロ、ロシア語ではピョートルである。

 ペテロは最も早くイエスの弟子となった1人。弟子の中では年長で、何事も積極的だったから、年の若いヨハネとともにイエスに愛された。

 福音書には、次のような「人間ペテロ」のエピソードも記されている。

 このあと、イエスが捕らえられたとき、弟子たちは逃げた。ペテロは役人にイエスのことを問われ、その人のことは知らないと3度も答えた。そして、イエスが「あなたは鶏が鳴く前に3度私を知らないと言うだろう」と言った言葉を思い出して、泣いた。

 イエスの死後、弟子たちはそれぞれ、当時のローマ帝国の各地に宣教に赴く。新約聖書の「使徒言行録」によると、ペテロも、初期キリスト教界の指導者として、初めエルサレムに教会組織をつくった。その後は、パレスチナ各地の教会を巡っている。

 だが、それ以後の彼の足跡については書かれていない。

 イエスの死後、キリスト教は長く迫害を受けたが、AD313年のコンスタンティヌス1世のミラノ勅令によって信仰の自由が認められ、キリスト教は公認となった。

 塩野七生さんも『ローマ人の物語』に書いているが、もともとローマは宗教に寛容で、信仰の自由は認められていた。改めて信仰の自由を布告する必要などなかったのである。この勅令は、キリスト教を公認するためだった。ではなぜキリスト教は迫害されてきたのか。それは、キリスト教が自らを絶対として、他の神々を否定し、異教の神々と共生しようとしなかったからである。その頑なさが人々の反発を招き、その浸透力の強さがローマ市民の中に不安を広げた。

 コンスタンティヌス1世以後、キリスト教は宮廷にも役人の世界にも浸透し、権力を握っていき、4世紀末のテオドシウス帝はついにキリスト教を国教化した。国教化とは、キリスト教以外の全ての宗教が弾圧される社会になったということ。中世ヨーロッパは、宗教に関してはほとんど多様性がなく、キリスト教一色の世界だった。

 それはともかく、キリスト教を公認したコンスタンティヌス1世は、ローマ帝国の各地にキリスト教の大聖堂を建設して寄進した。それまで個人の邸宅や小さな集会所に集っていたキリスト教徒にとって、それは驚天動地の大聖堂だった。ローマ皇帝のサイズの大聖堂が生まれたのである。

 「聖地エルサレムにはキリストの聖墳墓教会、帝国の首都ローマには『すべての教会の頭にして母なる』サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ聖堂、それを範にして聖ペテロの墓の上に建てられたサン・ピエトロ聖堂(324年)、聖パウロの墓の上に建てられたサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ聖堂などがそれである」(馬杉宗夫『大聖堂のコスモロジー』講談社現代新書)。

 コンスタンティヌス1世の時代には、キリスト教徒の間に、ペテロはローマで殉教し、その墓はローマのバチカンの地にあるという話がひとつの確信として伝えられていたようだ。

 そういう伝承を伝える文書も存在する。

 新約聖書には、イエスの生前を直接に知る弟子たちが書いたイエス伝(「福音書」)、イエス死後の使徒たちの宣教活動を記した「使徒言行録」、使徒たちが各地の教会へ送った「書簡」、そして、終末を予言した「黙示録」の27書が収録されている。それらはおよそAD50年~150年頃には存在していたとされる古い写本文書の中から選ばれたもので、最終的にはAD397年のカルタゴ司教会議において承認され、今、新約聖書となっている。

 プロテスタントでは、教皇や、教皇の下の教会組織に信を置かず、神の言葉としての聖書にのみ信仰の根拠を置く。

 一方、カトリックでは、27書から漏れた文書の中にも、正典に劣らぬ重要な文書もあるとし、それらを「外典」として伝えてきた。

 その外典の一つに、その後のペテロの活動を伝える「ペテロ行伝」がある。それによると、…… 。

 ペテロはその後、宣教のためにローマ帝国の首都ローマに行き、首都ローマにおけるキリスト教布教の中心となった。その間、皇帝のお膝元で迫害も受けた。そして、情勢がひっ迫し、皇帝ネロによる弾圧の近いことを心配した信者たちの勧めで、ペテロはローマを脱出する。旅の途中、一人の男が街道を行くペテロとすれ違った。ペテロは瞬時に、主イエス・キリストだと察し、振り返って、「クォ・ヴァディス・ドミネ(主よ、何処へ行きたまふ)」と呼びかけた。イエスは振り返り、お前が多くの信者をローマに残して逃げるから、私がもう一度十字架に架かりに行くのだと答えた。ペテロは恥じ、踵を返してローマに戻り、多くの信者たちと共に、自ら逆さ十字架に架けられて殉教した。AD67年、場所はローマのテヴェレ川の西、バチカンの地にあったローマの競技場という。

 競技場のすぐ北には墓地があった。信者たちはそこに密かにペテロの墓を造り、墓の上に小さな祠を建てた。

 この「ペテロ行伝」の中身が、歴史的文書として事実であると証明されたことはない。

 だが、カトリックの教えは、ペテロがローマ宣教の中心となり(即ちローマの司教となり)、ローマで殉教したという伝承の上に立脚する。

 福音書はイエスの言葉として、「この岩の上にわたしの教会を建てる」、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」と伝えている。ならば、ペテロの殉教の上に建てられたローマの教会の継承者こそ、この地上における神の代理人である、とカトリックは主張してきた。

 今も、コンクラーベで選ばれた教皇は、即、ローマ司教を兼ねることになっている。

 ルネッサンスの教皇の中には、「天の鍵」を授けられているのだから、免罪符をどんどん印刷して「天国」と引き換えに「献金」を集める権限もあるだろう、と考える教皇も出た。とにかくカネがなければ、ガタビシしてきたサン・ピエトロ大聖堂の再建も、荒廃の極みになっているローマ市(教皇領)の再建もできないではないか。

 こういう教皇の在り方に抵抗して、プロテスタントが生まれた。

       ★

 マタイによる福音書16章について、異なる解釈も示されている。キリスト教には東方正教会もプロテスタントもあるのだから。

 「この岩の上にわたしの教会を建てる」という「この岩」とは、ペテロという一人の「人間」を指しているのではない。「この岩」とは、その前のペテロの信仰告白「あなたはメシア、生ける神の子です」という言葉を受けているのだ。イエスは、イエスをキリスト(救い主)とし、神の子であるとする信仰告白の上に、キリスト教徒の「家」を建てようと言ったのである …… そう解釈すべきだという考えもまた、理にかなっているように思われる。

 キリスト教(カトリック)美術の中には、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」という福音書の言葉を受けて、イエスが大きなカギをペテロに授けている場面を描いた絵もある。しかし、イエスが言う「天国の鍵」とは、そういう物質としてのカギであろうはずはなく、「天国の鍵」とは福音のこと。「メシアがこの世に来られた」という福音を、お前が先頭に立って、ここにいる皆で世界の人々に知らせなさい、という意味であるという解釈も成り立つ。

 イエスの言葉をどう解釈するのか。これもまた、2千年の人間の歴史の一部である。

 それらを包含して、「人間」の歴史はある。

    ★   ★   ★

3月15日。晴れ。

 今日は「早春のイタリア旅行」の最終日。

 今日の目的は、バチカン美術館、そしてサン・ピエトロ大聖堂の見学。そのあとは …… そのとき考えよう。

 ホテルを出て、コルソ通りを渡り、市バスの発着所サン・シルヴェストロ広場からタクシーに乗って、バチカン美術館へ向かった。

 感じの良い運転手だった。

        ★

<カトリックの総本山バチカン>

 カトリックの総本山のバチカン(バチカン市国)は、ローマ市の中にある。国土面積は世界最小で、東京ディズニーランドと同じぐらいだそうだ。それでも、独立国家。国家元首は教皇。

 テヴェレ川を渡ったローマ市の西の一画に、「ヴァティカヌスの丘」と呼ばれる地があった。これが「バチカン」という名の由来だ。紀元前、即ち、キリスト教以前から聖なる地と考えられ、ローマ人の共同墓地があった。

 ローマ帝国時代に競技場がつくられ、皇帝ネロの時代にここでキリスト教徒が処刑された。

 4世紀には、コンスタンティヌス1世によって、ペテロの墓の上にサン・ピエトロ大聖堂が創建された。

 ただし、その後の教皇が、ここ(ペテロ=岩の墓の上)に教皇座を置いたわけではない。

 コンスタンティヌス1世は、帝国の首都ローマに「すべての教会の頭にして母なる」サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ聖堂を建設し、また、同じ規格で聖ペテロの墓の上にサン・ピエトロ聖堂を建設した。

 つまり、歴代の教皇は、バチカンではなく、ローマ市内南部にあったサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂を総本山とし、千年に渡って、そこを教皇の教会及び居所があったのである。

 教皇が今のようにバチカンの地を総本山にしたのは、14世紀にアヴィニヨン幽囚から帰還してからである。何代かの教皇がアヴィニヨンにいた間に、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂が2度も火災に遭った。そのため、やむをえずサン・ピエトロ大聖堂を本拠とすることにしたのである。

 コンスタンティヌス1世の4世紀の大聖堂は、壮大な五廊式で、平面の大きさは現在の大聖堂と同じぐらいあったらしい。

 しかし、その大聖堂も古くなり、相当に傷みが激しくなっていた。また、ここにはもともと教皇用の宮殿はなかった。

 そこで、剛腕の教皇ユリウス2世(在位1503~1513)は、ここに教皇にふさわしい宮殿を建てる。中庭があり、華麗な回廊で結ばれた宮殿である。現在のバチカン美術館の基礎となった。

 さらに、教皇ユリウス2世は、1506年、建築家ブラマンテに、コンスタンティヌス1世の大聖堂を全部取り壊し、新しく大聖堂を建設するように命じた。

 その後、教皇は代替わりし、新大聖堂の建設主任もたびたび代わって、そのたびに設計も変えられた。

 1546年、教皇パウルス3世は、すでに72歳になっていたミケランジェロをくどきおとして設計主任とした。ミケランジェロは最初のブラマンテの設計に戻り、その中央に巨大なクーポラを乗せる計画を立てて、さまざまな意見を押し切って強引に建設を進めていった。

 こうして、新大聖堂は、88歳で死去したミケランジェロの死後の1596年に完成した。

 ちなみに、マルティン・ルターが「95か条の提題」を発表したのは1517年。すでに宗教改革の嵐は当のルターを吹き飛ばしてヨーロッパ世界に吹き荒れ、反宗教改革の激しい動きも起こっていた。

(つづく)

 

 

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「ローマ」を歩く … 早春のイタリア紀行(15)

2021年05月03日 | 西欧旅行…早春のイタリアの旅

  (テヴェレ川とサンタンジェロ城)

      ★

(つづき)

 アヴェンティーノの丘から北へ向かう。とりあえず目指すはナヴォーナ広場だが、朝から歩きづめだ。この辺り、遺跡はあるが、ひと休みできそうな手頃なバールやレストランがない。

 「真実の口」や古代劇場の廃墟を経て、毎朝市が立つカンポ・デ・フィオーリ広場(花の広場)へ。やっとレストランに入って、遅い昼食をとった。

 ナヴォーナ広場はすぐ先だ。

※ カンポ・デ・フィオーリ広場については、当ブログの2012,10,12付の投稿「ローマの街角で … ヨーロッパを旅する若者たち2」もご覧ください。

       ★

<ローマ時代は競技場だったナヴォーナ広場>

 ローマの王政時代(BC753~BC509)に、7つの丘を取り込んだ「セルヴィウスの城壁」が築かれた。城壁の外側、テヴェレ川に至る市の北東部は広々とした原っぱで、ローマ軍の練兵場として使われていた。

 王政ローマはおよそ250年続いたあと共和政に移行し、地中海の覇権国家カルタゴとの戦いなどを経て、ローマは大発展していった。(BC509~BC27)。

 属州・属国を統治するようになった大ローマは、帝政に移行する(BC27~)。

 ローマの発展とともに、ローマ市の人口も膨張していった。「セルヴィウスの城壁」は撤去され、かつて練兵場として使われていた原っぱは新開地として開発されていく。人家が広がり、新たにフォロ(広場)ができ、フォロには神殿や柱廊が造られ、大浴場や競技場などの公共建造物も続々と建造されていった。

 だが、パクス・ロマーナも、やがて「蛮族」の襲来と略奪・破壊に苦しむようになり、西ローマ帝国は滅亡(~AD476)する。さらに続く不安定な王国の支配と戦争によって、ローマの市街は破壊され、人口は激減し、かつて中心であったセルヴィウスの城壁の中には人が住まなくなった。残った人々も、テヴェレ川に近いかつての「新開地」の地域で細々と暮らすようになる。

 ローマが再生されていくのは、遥か後のルネッサンスからバロックの時期だが、それもローマの北の地域、テヴェレ川に近い「新開地」の地域だった。

 午前中はかつてのセルヴィウスの城壁の中の遺跡を見学した。そして、てくてくと歩いて、かつての「新開地」の地域までやってきた。

 スペイン階段も、トレヴィの泉も、わがホテルや下院のあるコロンナ広場も、ナヴォーナ広場も、今、ローマの中心となっている地域は、かつてローマの発祥の地であったフォロロマーノなどの地域よりも北側である。

 昼食を終え、少し元気を取り戻して、カンポ・ディ・フィオーリ広場から、少し先のナヴォーナ広場へと歩いた。

 (ナヴォーナ広場と「ムーア人の泉」)

 ナヴォーナ広場は歩行者天国になっている。まだ観光シーズンではないが、ここはさすがに観光客が多い。楽器を演奏する人、手品師、さまざまな芸を見せる人。絵かきもいる。広場を囲む建物には、レストランやカフェやオシャレなショップが軒を連ね、テラス席も設けられて賑わっている。

   ここは、もともと、皇帝ドミティアヌス(在位AD81年~96年)が建造させた屋外競技場だった。

 楕円形の縦は275m。幅は観客席も含めて106m。中央のアレーナの幅は50m。

 競技に使われていた真ん中の楕円形は、そのまま広場になった。

 周囲の観覧席にあたる部分は、ローマ帝国滅亡後の長い中世の時代に人々が住みついていき、今、1階部分はレストランやショップとして1等地、上階部分は広場を見下ろす最高級のマンションである。

 広場も広場らしく装われ、南に「ムーア人の噴水」、広場の中央にオベリスクと「四大大河の噴水」、北には「ネプチューンの噴水」が造られている。「四大大河の噴水」は、教皇イノケンティウス10世の依頼を受け、1651年にバロックの巨匠ベルニーニが完成させた。

  (ナヴォーナ広場)

  広場の西側のサンタ・ニューゼ・イン・アゴーネ教会やパンフィーリ宮の建物が印象的だが、これら周囲の建物や3つの泉も含めて、まさにバロックの広場である。

       ★

<ハドリアヌス帝のパンテオン>

 ここから路地を少したどるとパンテオンがある。

 「古代ローマ時代のままで現代に遺る唯一の建造物」。そう、塩野七生が『ローマ人の物語Ⅸ 賢帝の世紀』に書いている。

 前回のイタリア旅行のとき、ローマで一番感銘を受けたのがここ。中に入ったとき、あっ、これは今まで見て来たキリスト教の聖堂とは全く違う、と思った。杜に囲まれ、小鳥の囀りが聞こえる日本の神社と同質のものを感じた。晴朗。キリスト教の聖堂の中や仏教寺院の中とは全く異なり、暗い建物の中も、晴朗なのだ。

 Pantheonは、すべての神々を祀る神殿。

 5賢帝の1人ハドリアヌス帝がAD118年に造らせた。上半分は半球。下半分は円筒だが、円筒部の高さは半球の高さと同じ。つまり直径43.3mの球がすっぽりと収まる形になっている。「真円を考えついたときのハドリアヌスは、それこそとびあがる想いではなかったか、と思ってしまう。自分は天才だ、と思ったのではないか」(塩野七生・同上)。

 半球の頂上には直径9mの天窓が空に向けて開かれ、太陽の光の束が暗い室内の一カ所に当たって、時間とともに移動していく。

 円筒形の内部に序列はない。ここでは、ローマ帝国内のどの民族の神々も同等に尊重された。絶対神のキリスト教やイスラム教やユダヤ教では、ありえないことだ。神々の神殿なのだ。

 最初、初代皇帝アウグストゥスの生涯の盟友であったアグリッパが建設した(BC15年頃)。しかし、AD80年に焼失した。石造りといっても多くの木材が使われているらしい。そのことは、近年のパリのノートル・ダム大聖堂の火災を見てもわかる

 これをハドリアヌス帝が再建した。だが、アグリッパのパンテオンは四角形だったらしい。球体を基本にした神殿の構想はハドリアヌスであった。しかし、建物の正面にはアグリッパに敬意を表して、アグリッパの建造と刻まれている。

 「パンテオンは、後々の時代まで多くの建築家に影響を与えつづけることになる」(同上)。ルネッサンスの最初の金字塔となったフィレンツェの「花の聖母大聖堂」の大円蓋も、カソリックの本拠サン・ピエトロ大聖堂のミケランジェロの大円蓋も、パンテオンを学ぶところから築かれた。

       ★

<皇帝の墓所だったサンタンジェロ城>

   わがホテルはナヴォーナ広場から近い。戻ってひと休みした。

 午後もおそい時間になると、日差しは強いまま斜めになり、暖色系の色を帯びて、建物や樹木の陰影が濃くなる。それは日本でもそうかも知れないが、日本ではそういう時間になると、太陽の光がやさしくなり、力を弱め、静かに夕刻へと移動していく。ヨーロッパでは、自然も、人間の文化も、くっきりして、自己主張が強い。

 ホテルの窓から外を見て、今日の残りの時間も多くないことを知り、一日の見学の締めくくりにサンタンジェロ城へ向かった。

 サンタンジェロ城はローマ皇帝の霊廟として建造され、後世にはローマ教皇の城塞になった。

 あまりツアーでは行かない見学先をコースに入れたのは、ほとんど何も残っていないだろうが、元は皇帝の霊廟として造られたその雰囲気を少しでも感じとりたかったから。

 また、上階のテラスからのローマの街の眺めは素晴らしいとガイドブックにあった。帰りには、テヴェレ川越しにライトアップされたサンタンジェロ城を撮りたい。

 タクシーで向かった。今のところ、ぼったくられたりしていないし、そういう心配をしなければ、ローマのタクシー料金は安い。

 サンタンジェロ橋の手前で降り、テヴェレ川に架かるサンタンジェロ橋を渡る。

 (サンタンジェロ橋とサンタンジェロ城)

 映画『ローマの休日』の中では、この橋の下の川の上に設えたダンスパーティー会場で、王妃を連れ戻そうとする某国の男たちと逃げる2人のどんちゃん騒ぎがあった。

 この橋も、ハドリアヌス帝の霊廟へ行くために架けられた。

 中世の時代に修復され、17世紀に教皇クレメンス9世の命を受けて、ベルニーニが天使像で装飾した。今はバロック然とした橋である。

 サンタンジェロ城は、今は「サンタンジェロ城国立博物館」ということらしい。チケット売り場を見つけてチケットを買い、入場する。

 とりあえずは上へ。階段はなく、勾配の緩やかな通路が、らせん状になって上へ上へと上がって行く。多分、この通路は、ローマ皇帝の霊廟時代の名残だ。ほの暗く、飾り気は何もなく、静謐感があり、ここが皇帝の墓所として造られたことを感じながら昇って行った。

 ハドリアヌス帝のときには、初代アウグストゥス帝以下の皇帝墓所がいっぱいになっていた。ハドリアヌスが新たに建設を始め、次のアントニウス・ピウス帝のときに完成した(AD139年)。ハドリアヌス帝以下、マルクス・アウレリウス帝など、カラカラ帝までの墓所となっている。

 当時は「Hadrianeum(アドリアネウム)」と呼ばれたらしい。

 今見るような厳つい城塞の姿ではなかった。円形部分は円柱や彫像で飾られ、壁面には白大理石が貼られて、「白亜の神殿」というたたずまいだった。屋上には、4頭立て2輪戦車を引くハドリアヌス帝の彫像が立っていた。

 だが、ローマ帝国の末期に、ローマの防衛のために「アウレリアヌスの城壁」の一部に組み込まれ要塞化された。

 ローマはキリスト教を国教とするようになり、AD476年に西ローマ帝国は滅亡した。

 6世紀の終わりのランゴバルド王国のとき、イタリア全土をペストが襲い、多くの人々が亡くなった。ある日、この建物の上に大天使ミカエルが現れてペストの終焉を告げたという。それを見たのは、時の教皇とその一行である。ペストは終焉した。

 これ以後、ローマ皇帝の墓所の名は「Castel Sant' Angelo(聖天使城)となった。屋上には、ハドリアヌス帝の雄姿に代わって、剣をもつ大天使ミカエルのブロンズ像が設置された。

 10世紀には、バチカンの要塞 ── いざというときの教皇の避難場所 ── として整備され、13世紀にはバチカンと直結する避難通路ができた。15世紀には堡塁が増強される。

 大河ドラマ「麒麟がゆく」にも出てくるが、室町幕府の最後の将軍足利義昭は、織田信長を倒すよう全国の大名に手紙を送り続けた。16世紀の教皇クレメンス7世も同様である。神聖ローマ皇帝兼スペイン王のカール5世の力を怖れ、フランス王をはじめ諸侯にカールを倒せと手紙を送りまくった。もともとカール5世はカソリックの擁護者だったが、さすがに腹に据えかねて、教皇軍が防衛するローマを攻撃させた。ところが、ローマを包囲していた神聖ローマ皇帝軍には新教徒が多く、しかも緒戦で司令官が戦死して統率を失っていたから、歴史に言う「ローマ劫掠(ゴウリャク)」が起こってしまう。ローマは破壊され、人々は虐殺され、金品は強奪された。このとき、教皇クレメンス7世は堅固なサンタンジェロ城に避難して命拾いした。

 16世紀後半には、函館の五稜郭のように、星形の城壁がサンタンジェロ城を囲った。

 映画「天使と悪魔」に登場する教皇庁とサンタンジェロ城とを結ぶ秘密の通路もあるらしい。夏の期間、不定期だが、博物館の秘密の通路を歩くツアーもあるという。

 博物館として展示物のある部屋もあったが、日本語であってもあまり読まないのに、イタリア語と英語ではパスするしかない。牢獄として使われた部屋もある。教皇が暮らせるように整えられ、絵画、調度で飾られた部屋もあった。

 城の上には剣をもつ天使ミカエルの像が立っていた。

 今は、すっかりキリスト教化された元教皇の城塞の歴史遺産である。訪れる観光客も、そういうことに興味をもつ欧米系の人たちのようだ。「ローマ」ファンである私は、ローマ皇帝の眠る墓所の静謐感をほんの少し感じることができて良しとした。

 上階のテラスからの眺めは絶景だった。

 太陽はサン・ピエトロ大聖堂のクーポラの向こうに落ちて、なお世界は明るく、眼下にはテヴェレ川の流れとサンタンジェロ橋をはじめ、橋、橋、橋が続いている。

 斜光となった日の光。暖色が濃い。 

 

 (サンタンジェロ橋)

   (テヴェレ川の橋)

 空の色は濃紺となり、風は冷たい。ローマの街に灯が広がっていく。

  (サン・ピエトロ大聖堂)

 寒くなり、テラスの一角にあるカフェで温かいカプチーノを飲みながら、ライトアップの時間を待った。

 やがて、これ以上ないと言うくらい美しい空の濃紺もすっかり失せて、闇のとばりが降りた。

 サン・ピエトロ大聖堂の青い天蓋の屋根がライトアップされて印象的だ。ミケランジェロのクーポラである。

 (ミケランジェロの青い円蓋)

 すっかり暗くなった城内から出て、幾体もの天使像が見下ろすサンタンジェロ橋を渡り、テヴェレ川の上流の方へ歩いて行った。

   (サンタンジェロ城と橋)

    (サンタンジェロ城と橋)

 金色に輝くサンタンジェロ。改めて「ローマはすごいな」と思う。

 人間の歴史を「進歩」とみる見方は、単純にすぎる。

  (サン・ピエトロ大聖堂)

 明日は、この旅の最終日。バチカンへ行く。

 よく歩いた。疲れ果てて、ナヴォーナ広場に帰ってくる。

 (レストランのテラス席)

  透明なガラス(或いはビニール)で覆い、バーナーの火が焚かれるテラス席で食事した。

 もう午後8時だ。長い1日の活動を終えた。

 

 

 

 

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