ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

「第三の男」 のウィーン …… 遥けきウィーン 3 

2012年12月01日 | 西欧旅行…遥けきウィーン

   ( ホーエンザルツブルグ城からの眺望 )

       ★   ★   ★ 

 今まで観た映画の私的トップ5を挙げるとすれば、

 その1つは絶対に、「サウンド・オブ・ミュージック」

 1938年に、旧オーストリア=ハンガリー帝国は、ナチスドイツに併合される ( = 併合を受け入れた。なお、「併合」と「植民地」は違う。ドイツの「植民地」になったわけではない )が、物語はその直前の時代を背景に、トラップ一家と修道女だったマリアの愛が、ザルツブルグの中世的な街並みと、ザルツカンマーグートの美しい自然のなかに楽しく描かれる。

       ( ザルッブルグの大聖堂 )

 ジュリー・アンドリュースが、ステキでしたね。

  ただし、全世界で大ヒットした映画だが、物語の舞台となったオーストリアでは、人気がなかった。

 それはそうだ。映画の最後で、反ナチスのトラップ大佐は、かっこよく、一家を率いてアルプス越えをし(アメリカに亡命して)、ハッピーエンド。

 一方、オーストリア国民は、そのあと、ナチスドイツとともに、連合軍を相手に戦った。あげく、敗戦国となり、戦後の一時期はベルリンと同じように、米、英、仏、ソに占領統治され、暗い時代を生きのびた。生きて来た心の道のりが、トラップ大佐や、映画をつくったアメリカ人とは違う。

 苦い歴史も、黙って自分なりに整理し、心に受け止め続けてこそ、国民というものだ。

           ★

 その敗戦直後のウィーンを舞台にした映画が、「第三の男」。

 日本で公開されたのが1952年だから、映画としては、「サウンド・オブ・ミュージック」よりずっと古い。なにしろ白黒の映画だ。

 白黒の映像美が素晴らしい。

 物語はあえて分類すれば、ハードボイルド。原作者のグレアム・グリーンはそういう作家だ。実存主義哲学を文学化した作家の系列に分類・評価されたりする。

 空襲によるガレキが、片づけられないままに残るウィーン。人々は貧しく、飢え、4か国によって分断統治されている。

 夜は街灯も少なく、ガレキの残る広場は暗闇だ。周囲の石造りのアバルトマンの窓から、わずかに明かりが漏れる。磨り減った石畳の微妙な陰影。長く伸びたシルエット。ツィターによる「第三の男」の旋律とともに、人影が浮かび上がる。

  寒々とした「カフェ・モーツアルト」のテーブルには、主人公がおとりとなって、かつての友であり、今は極悪犯ハリー・ライムを待っている。暗闇に潜むイギリス人将校と兵士。

 名監督と言われたキャロル・リードの代表作の一つ。アントン・カラスの演奏する主題曲も大ヒットした。

 何よりも評判を呼んだのは、大舞台俳優オーソン・ウェルズが、悪役(第三の男)として登場していることだ。おかげで、主人公を演じたジョセフ・コットンは、映画評論家からすっかり大根役者扱いされた。

 確かに、オーソン・ウェルズに迫力と凄みがあった。特に、今も観光名所になっているプラーターの大観覧車の中で、友人である主人公を脅す場面。にもかかわらず、どこか愛嬌を感じさせる複雑な微笑みは、なかなかでした。

 しかし、ヒロイン役のアリダ・ヴァリという女優も綺麗で、それに、オーソン・ウェルズを追いつめていくイギリス軍少佐(4か国統治下で、各国の軍がウィーン警察の任務を遂行している)のトレヴァー・ハワードが好きでした。

 私にとってのウィーンは、何と言っても、「第三の男」のウィーン

 今のウィーンは、清潔でオシャレである。治安も良く、西欧でも最も安心して歩ける都市だ。「カフェ・モーツアルト」も、そばに王宮やオペラ座がある最高にリッチな界隈で、ガレキのウィーンは想像できない。

 それでも、オーストリアツアーに参加し、ウィーンでの自由な1日に、初めて「カフェ・モーツアルト」に座って、コーヒーを飲んだときは、感動した。

 「遥けきウィーン」である。

      ( 「CAFE  Mozart」 )

       ★   ★   ★

< 遥けきウィーン・付録 >

 敗戦後、フランスに留学した若き日の加藤周一は、夏、イタリア旅行をし、フィレンツェで出会った旅の娘と恋をした。文通が続き、冬、彼女に逢うために、パリから彼女の故郷であるウィーンへ行く列車に乗る。

 もちろん、SLの時代である。列車はフランスの大地を走り、遥々とスイスを経て、四カ国統治下のウィーンへ向かう。

加藤周一『続 羊の歌』」(岩波新書)の「冬の旅」から。

 「 窓外の風景は、スイスの山々の壮観とは微妙にちがうものになりはじめていた。急な山肌が線路に迫り、雪に蔽われた針葉樹の森や、小川や、橋や、点在する農家が、たちまちあらわれては、たちまち後方に飛び去ってゆく。登山家の山でも、観光客の山でもない、遠い鄙びた山村の面影。私はその風景に魅せられて、眼を閉じることができず、硝子窓に顔をよせていた 」。

 「 英国の占領地域をしばらく走るかと思ううちに、突然列車がとまった。そこには停車場もなく、町もなかった。車掌が回って来て、窓の日除けをおろした。『 両側に自動小銃をもった兵士が並ぶのだ 』と向かいの男が、半ば連れの女に、半ば私に向かって説明するようにいって、しばらくすると、二人の赤軍の兵士が車室に入ってきた。私が赤軍の兵士に出会ったのは、そのときがはじめてである」。

 「 私が旅券をさし出すと、その頁をくって見ていたが、まえの男女に返したようにすぐには返さない。その間、誰も一言もいわずにながい時が経ち、さらにながい時がたった。旅券に不備のあるはずがない、と私は自分にいいきかせていたが、兵士は突然、旅券から眼をあげると、ロシア語で何かいいはじめた。『 国籍を訊いている 』と向かいの男がフランス語で説明した。『 日本人 』と私はフランス語でいったが、通じない。現地の言葉がドイツ語であったことを想い出し、つづけてドイツ語で同じことをくり返したが、旅券を手にした兵士と、その傍に黙って立っていた兵士と、その二人の顔には、全く何の反応もあらわれなかった。フランス人が『 日本人 』とロシア語でいい、兵士はまた旅券の頁をくりはじめた。私はいくらか不安を感じ、しかしそれ以上に事の馬鹿馬鹿しさに苛立ってもきた。旅券は百科事典ではない。そう沢山のことが書いてあるわけではなかろう、と私は思った。3分で解らなければ、3時間かけても解らぬだろう。5分経ち、10分経ち、ついにその兵士は、黙って旅券を私に返し、そのまま車室を出て行った。私はほっとしたが、汗をかいていた」。

 「 列車はヴィーンに近づいていた。そこではひとりの娘のほかに、私は誰も知らない。その国の言葉は私の耳に疎く、風習は予測するのに手がかりがなかった。雪につつまれた野の涯に、やがて一つの都会があらわれるであろうということさえも信じ難いほどであった。異郷、(depaysement)、幾山川、(au bout du monde) …… 私は日本語とフランス語を混ぜて、それらの言葉の全体が示唆する一種の心理的状態をみずから形容しようとしていた」。

          ★

 ( ウィーンのシュテファン寺院付近 )

 雪の野に、列車は突然停車させられる。

 車室の日除けが下ろされ、外では、赤軍兵士が自動小銃をもって列車を囲む。

 そのようにして始まる検査。戦勝国のフランス人はともかく、日本人は、ポツダム宣言受諾直後にソビエット軍の侵攻を受けた。条約を破って一方的に侵攻してきたのはソビエットだが、それでも敵国の民だ。

 それに、すでに冷戦は始まっていた。

 遥けきウィーンである。異郷、幾山川‥‥。

 私のウィーンは、若い日に読んだ加藤周一のウィーンだと、今、思う。

  

  

 

 

 

  

 

 

 

 

 

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オスマン帝国によるウィーン包囲 …… 遥けきウィーン 2

2012年11月23日 | 西欧旅行…遥けきウィーン

 ウィーンの城壁を取っ払った跡は、「リンク」と呼ばれる大通りとなり、旧市街の周りを一周している。瀟洒なトラムが行き交い、道路をはさんでウィーンを代表する美しい建造物が並んでいる。

      ★    ★    ★

 高校時代には、多分、「オスマン・トルコ」と習った。今は、「オスマン帝国」が正しい呼称だそうだ。

 今、存在している国の国名は、「トルコ共和国」。トルコ民族による国民国家である。

 「オスマン帝国」は、オスマン家によって興された多民族国家だったということらしい。

 15、16世紀、オスマン帝国は、陸でも海でも急速に膨張し、キリスト教世界の脅威となった。

 1453年、ビザンチン帝国の首都コンスタンティノープルが、スルタン・マホメットⅡ世の大軍によって包囲され、激しい攻防戦ののちに陥落した。西ローマ帝国滅亡後、千年も生き続けてきた東ローマ帝国がついに滅亡したのである。歴史学者はこの事件をもって、中世という時代区分の終わりとする。( 参照 : 塩野七生 『コンスタンティノープルの陥落』新潮文庫)

 ギリシャ、アルバニア、マケドニア、セルビア、クロアチア、ダルマチア、スロベニアなどが次々と侵攻され、バルカン半島全域がオスマン帝国の支配下に入っていった。

 膨張し続けるオスマン帝国の脅威と直接に対峙するキリスト教国はハンガリー王国となった。一方、アドリア海を挟んで、ルネッサンスのイタリアも、オスマン帝国と向き合うことになる

 もとは、遊牧民であった。だが、マホメットⅡ世の時代からは海軍力の整備も始め、黒海とエーゲ海からヴェネツィアやジェノヴァの商戦を駆逐し、オスマンの海へと変えていった。

  海洋都市国家として生きてきたヴェネツィアは、地中海の覇権を我がものにしようとする大国の海軍を相手に、数次にわたって死闘を繰り広げ、消耗していくことになる。                 

 オスマン帝国が最も強大になったのは、スレイマンⅠ世の時代。1522年、聖ヨハネ騎士団が守るロードス島を奪取し、東地中海の制海権を握った。( 参照 : 塩野七生 『ロードス島攻防記』新潮文庫 )            

 1526年、スレイマンⅠ世、ハンガリー王国を破る。ハンガリー国王、戦死。

   ハンガリーは、マジャール人の建てた王国だった。

 マジャール人は、ウラル山脈付近からやってきたアジア系の騎馬遊牧民で、ヨーロッパを荒らしまわって恐れられたが、イシュトバーンが各部族を統一して初代の王となり、AD1000年に、自ら洗礼を受けて、キリスト教徒となった。西欧の一員になったのである。

(ブタペストの英雄広場にあるマジャールの7部族長の騎馬像)

 

  ( イシュトバーン大聖堂 )

 その勇猛果敢なハンガリー王国も、オスマン帝国に敗れた。

 以後、ハンガリーはオスマン帝国に併合され、オスマン帝国の後はハブスブルグ帝国に併合された。その後、オーストリア・ハンガリー帝国の一員として自治を得たが、オーストリアとともにナチスドイツに付いて第二次世界大戦を戦い、戦後はソ連の支配を受けることになる。

 ベルリンの壁の崩壊で、今、やっと国の独立を取り戻した。

 初代の国王イシュトバーンが、今も「建国の父」として国民の敬愛を受けるのは、そのような亡国の苦しみの歴史があるから。

  ( ドナウ川と、ハンガリーの国会議事堂 )

 19世紀に、ハプスブルグから、外交、軍事以外の自治権を得て、建国1000年を前に建設されたのが国会議事堂である。この議事堂の壮麗さにも、民族独立へのあつい思いがこめられている。

          ★ 

 16世紀のオスマン帝国の話に戻す。ハンガリーが壊滅した後、オーストリア・ハブスブルグ帝国が、直接にオスマン帝国と対峙することになった。

 オーストリア領の、ドナウ川沿岸各地をオスマン帝国に侵攻され、1529年には、首都ウィーンが包囲された。第一次ウィーン包囲である。ウィーンは、これに耐える。

 スレイマン死後は、オスマン帝国の力も少しずつ弱まっていく。1571年には、レパントの海戦で、スペイン ( 当時、スペインもハプスブルグ家 )の艦隊 (のち、無敵艦隊と呼ばれる) を中心とする連合艦隊が、オスマン帝国艦隊を撃破した。 

 スペイン連合艦隊といっても、実は半分近くはヴェネツィアの艦隊である。都市国家に過ぎないヴェネツィアは、貴族、市民が総力を挙げ、自分たちの命運を賭けて戦ったのである。(参照 : 塩野七生 『レパントの海戦』新潮文庫)

 塩野七生の上記3部作は、これに、ヴェネツィア800年の歴史を描いた『海の都の物語 上、中、下』(新潮文庫)を加えて、塩野作品の中でも、最も好きな作品である。

 西欧史の中で、都市国家ヴェネツィアの歴史が一番好きだ。

   1683年に、オスマン帝国は、第二次のウィーン包囲を行うが、このときすでにオスマン帝国にかつての力はなく、逆襲されて一気にバルカン半島を南へ敗走する。オスマン帝国の国土は削減され、東欧の覇権はハプスブルグ家が奪うことになった。

     ★   ★   ★

  さて、私が心ひかれるウィーンの2つ目は、膨張するオスマン帝国によって、2度に渡り包囲されるという歴史を経験した都・ウィーンである。

 ウィーンには、今、「リンク」と呼ばれ、旧市街の外周を1周する環状道路がある。

 瀟洒なトラムに乗って、「リンク」を1周すれば、国立オペラ座、王宮、美術史博物館、国会議事堂、市庁舎、ウィーン大学、ヴォティーフ教会、市民公園などが次々現れ、華麗な建造物の数々をトラムの窓から観光できる。

             ( フォルクス庭園 )

   ( ヴォティーフ教会と看板 )

 この「リンク」は、2度のオスマン帝国の攻撃を防ぎとめ、ナポレオン戦争以後は無用の長物となって撤去され、大通りとなった、ウィーンの城壁の跡である。

 車道や並木道の歩道があり、トラムも行き交う道路の幅を見れば、いかに分厚い城壁であったか想像できる。

 それにしても、オスマン帝国の大軍に包囲されたこの城壁のすぐ内側には、王宮もあり、ウィーンの旧市街もあって、人々が暮らしていたのである。

 中欧第一の都・ウィーンという町を守った城壁であり、ハプスブルグ帝国を守った城壁であり、イスラム世界から西欧キリスト教世界を守った城壁であった。

 「リンク (環状道路) 」は、遥かな歴史の名残である。

         ★

 以下は余分なことながら。

 ハプスブルグ帝国と並ぶ西欧世界の強国、フランスはこのときどうしていたか?

 もちろん!! オスマン帝国の利益誘導策にちゃっかり乗っかって、フランス王は、スルタンと握手をしていた。「敵の敵は味方」。決して助けに行ったりはしない。

 助けを求めるビザンチン帝国皇帝の要請・懇願にもかかわらず、コンスタンティノープルの陥落を指をくわえて見ていたのも、同じキリスト教世界の国々である。

  それは、今も同じ。 

 例えば、無法に膨張する中国に対して、フィリピンやヴェトナムがアセアン諸国に協力を求めても、長年のよしみ・付合いはどこへやら、中国の利益誘導策に乗ってしまう国は多い。

  

 

  

  

  

 

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ローマ第13軍団のウィーン …… 遥けきウィーン 1

2012年11月15日 | 西欧旅行…遥けきウィーン

          ( ローマの防衛線であったドナウ川 )

 所用で大阪へ出たついでに、難波宮跡から大阪城公園に入り、森之宮駅まで散歩した。

 春は桜の名所だが、その桜の木の葉っぱが紅葉して、秋は秋なりの風情がある。

 秋深きウィーンの市立公園は美しかったが、それほど負けてはいない。聞こえてくる言語が国際色豊かなのも、ウィーン並みだ。

        ★   ★   ★

三木清『人生論ノート』から

 「旅の心は遥かであり、この遥けさが旅を旅にするのである」。「旅において我々はつねに多かれ少なかれ浪漫的になる。浪漫的心情というのは遠さの感情にほかならない」。

         ★

 Wien 。日本語では、ウィーン。ドイツ語ではヴィーン。英語では Vienna ビエナ。 

 いずれの響きも綺麗だ。

 音楽の好きな人にとって、ウィーンは「音楽の都」。ベートーベンをはじめ、ウィーンにゆかりのある偉大な音楽家は多い。しかし、何といっても、愛されているのは、モーツアルト!!

 音楽にあまり関心のない人でも、小澤征司がウィーンに行ってから、オペラ座のそばを通るとき、懐かしいような感じを抱くようになった。

     ( ウィーンのオペラ座 )

 ただ、「音楽の都」も、この街並みがあってこそだ。この街並みがあって、モーツアルトのウィーンである。

         ★

 オーソドックスな歴史愛好家なら、ウィーンはやはりハプスブルグ家のウィーン。神聖ローマ帝国の皇帝を輩出したのだから、やはりすごいのだろう。ウィーンの街並みの美しさは、ハプスブルグ抜きには考えられない。ハプスブルグのウィーンである。

         ★

    ( ハブスブルグのシェーンブルン宮殿 )

         ★

 高い天井にシャンデリア、大理石のテーブル。

 パリとは全く趣の異なる、少々気取ったカフェ文化。

 パリのカフェでケーキを食べているのは、よほどのもの好きだ。だが、ウィーンのオペラ座近辺のカフェに入ると、西洋のおば様グループも、日本のマダムグループも、ケーキ、ケーキ、ケーキ。おじ様もケーキ。

 ショーウインドの中を見ると、さまざまなケーキがより取りみどり。美味そうだが、とにかく1個が大きい。

         ★

 ウィーンを舞台にした「寅さん」シリーズもあった。外国が舞台になったのはあの1本だけ。マドンナは竹下景子。ウィーン市から、ぜひ「寅さん」シリーズのロケをと、招へいされたらしい。

         ★

 だが、心ひかれるウィーンは、それらのウィーンと少し違う。

 「私のウィーン」を3つ挙げるなら、2つはその歴史。もう1つは、…… 映画かな??

その1 ローマ第13軍団のウィーン >

 ウィーンは、ユリウス・カエサル以来、ドナウ川を防衛線としたローマ帝国の最前線だった。

 ローマ軍は、この寒冷の地に、ローマ軍の規格どおり、1辺400メートル四方の、堀(グラーベン)をめぐらせ、城壁で囲って、軍団基地を建造した。そして、第13軍団6千人の兵卒が駐留し、ドナウ川に沿う辺境の地をパトロールした。

 今は旧市街の高級ブランド街・グラーベン通りは、軍団基地の南辺の堀(グラーベン)を埋め立てた道である。

 北辺はドナウ川に接していたので、城壁はあったが、堀はなかった。今は、ドナウ運河として残されている。 

  6千人の町は、当時のドナウ川流域では、「大都市」だ。何より安全。ローマ軍が健在な限り、ここにいれば危険はない。周辺の商人、農民、漁民がやってきて、にぎわう。これが都市ウィーンの起こりであった。

 そして、2世紀。ドナウ川流域でゲルマン民族の大規模な侵入が繰り返された。結果から見ればローマ史の終わりの始まりとなる事件であった。

 哲人皇帝マルクス・アウレリウスは、これをただならぬ事件と判断し、太陽の輝くローマからアルプス越えをして、遥々とこの寒冷の地にやってきた。そして、ドナウ川流域の各軍団の司令官たちを召集して、作戦を練る。

 昼間は戦いを指揮し、夜はテントのランプの灯りで読書や執筆をしたという。寒冷の地で、長く、病弱の身を酷使し、心労を重ね、決して得意とは言えない戦いに明け暮れ、戦い半ばで、ウィーンで病没する。

 これが、「私のウィーン」のその1。

 その何に心ひかれるのか? 

 当時、ドナウ川流域は、レーゲンスブルグも、ウィーンも、ブダペストも、首都ローマから見れば、遥かに北方の、文明の果てるところ、辺境の防衛線であった。

 川の向こうは、黒々と森が生い茂る、果てしない広がり。バーバリアンの地だ。

 かつて、ユリウス・カエサルは、ライン川とドナウ川を防衛線(国境ではない)にせよ、と言い残した。その先に、ローマ人は踏み込んではいけないとも。

           ( ドナウ川・パッサウ付近 )

         ★                     

 ウィーンに心ひかれるとき、わが心はローマ人である。

   そこは、文明の果てる地。遥けさの思い。浪漫的心情。 

 「北帰行」も、「津軽海峡冬景色」も、「みちのく一人旅」も、「北の旅人」も、「五能線」も、北方に心ひかれる浪漫的心情である。

                                                     

  

 

 

 

 

 

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