ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

わがヨーロッパ紀行 … ドナウ川の旅・追記

2023年01月29日 | 西欧紀行…ドナウ川の旅

(ロードス島の聖ニコラス要塞の満月)

 ダイヤモンド・プリンス号事件が起きたのが2020年の2月。その2か月後に最初の緊急事態宣言が出た。

 突然、ヨーロッパは遠くなり、それから丸3年がたった。

 さらに2022年にはロシアのウクライナ侵攻。仮にコロナが完全に収束しても、関空からシベリア上空を飛ぶヨーロッパ直行便は、もうない。

 私のような高齢の人間には、コロナが5類になろうと海外旅行はためらわれる。

 それに、中東のドバイの空港ロビーで、若いバックパッカーのような一夜を明かす旅は、私の年齢では無理である。

      ★

<夢はいつも返っていった … エーゲ海のロードス島>

 最後にヨーロッパへ行ったのは、コロナ禍の前年の2019年5月。塩野七海の『ロードス島攻防記』に触発され、エーゲ海の東の果てに浮かぶロードス島まで遥々と行った。

(この島で10万のオスマン帝国軍を迎え撃った聖ヨハネ騎士団)

 その旅から帰った後、見るべきものはおおよそ見たという思いもあり、自分の年齢・体力のことも自ら自覚されるようになって、そろそろ私の旅も終わりにしなければ、という気もちをもち始めた。あと1回、それを最後に、私のヨーロッパ旅行を終わりにしよう。何事にも潮時というものがある。

 ところが、その最後の1回の行先もまだ決めかねていたとき、コロナ禍に入ってしまった。仕事はとっくにリタイアした身であるから、家に閉じこもるだけの日々が続いた。

 そうした日々 …… 最後に行ったエーゲ海の海の青と、微風吹くロードス島のことがなつかしく思い出されるようになっていった。

 (ロードスの市街)

 (海に臨むリンドスの遺跡)

 滞在中、夕方になると、ロードス島で3代続く家族経営のレストラン「ママ・ソフィア」で食事をした。その3代目の当主は日本に留学したことがあり、流暢に日本語を話した。

 最後の夕べ、お別れの挨拶をした。「明日はアテネに戻り、明後日の飛行機で日本に帰ります。ヨーロッパをあちこち旅してきましたが、こんなに美味しかった店はありません。私はもう年ですから、ロードス島を再訪することはないでしょう。お元気でこれからもお店を繁盛させていってください」。すると、彼は「また、きっとお元気なお顔を見せてください。お待ちしていますから」と言って、日本人よりも美しいお辞儀をして見送ってくれた。私には、「客」に対するというより、一家の年長者に対するような優しさと敬愛の心が感じられた。

 海岸沿いをホテルへ向かって帰る途中、微風吹くこの島へ、そして、「ママ・ソフィア」へ、もう一度来られたらいいなあと、心から思った。エーゲ海の日の暮れた空に満月が出ていた。

 伴侶の方は日本留学中に出会った日本人女性。観光しかないエーゲ海の島で、あの一家は、コロナ禍をどう凌いだろう??

 もう一度、あの海へ、そして、あの島へ行きたいと思うようになった。

(微風吹く木陰のカフェテラス)

 もうヨーロッパには行けないだろう。だが、「最後にもう1回」という考えはやめようと思うようになった。「最後に」、は良くない。いつも、また行こうと思い続けるべきだ。それが、生きるということだ。

      ★

<サン・ヴィセンテ岬の出会い>

 もう1つ、心に残る旅がある。ブログでは「ユーラシア大陸の最西端ポルトガルへの旅」(2016年9~10月)として書いている。リスボンから列車に乗って、北はポルト、南はポルトガルの最西南端のサグレス岬、そしてそこから6キロ先のサン・ヴィセント岬へ行った。

 動機は司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズの『南蛮のみちⅡ』。エンリケ王子に心ひかれた旅だった。

 さらにもう1冊。沢木耕太郎の『深夜特急』。NHKでドラマ化され、主人公を若い日の大沢たかおが好演していた。

 サグレス岬のホテルに荷物を置き、バス停でサン・ヴィセンテ岬へ行く1日2本しかないバスを待っていた。バス停の近くにエンリケ航海王子の彫像が立っていた。大西洋の彼方を指さしている。サグレス岬には、エンリケ王子がつくった航海学校の跡が残っていた。

(サグレス岬のエンリケ王子)

 その時、突然、日本語で話しかけられた。長身で、細身、少壮の日本人男性だった。バスが来るまで話をした。彼は、サンチャゴ・デ・コンポステーラの巡礼路を歩き、さらにバスを乗り継いでここまで来たと言う。私は驚き、感嘆して、「すごい旅ですねえ」と言った。すると、彼は「いえ。あなたこそ。そのお年でこんな所までよく来られましたねえ。感心します」と返された。

 (サン・ヴィセンテ岬)

 そうか。年代別オリンピックなら、沢木耕太郎賞をもらえるかもしれないなと思って、年甲斐もなくうれしかった。

 (サン・ヴィセンテ岬の灯台)

 サグレス岬もサン・ヴィセンテ岬も荒涼として、突然、大地が大西洋に落ちていた。「ここから、海、はじまる」。

 古い友人たちと一献傾けていたとき、柔道8段に昇段したという男が私のブログを読んできたらしく、「その人は、エンリケ王子の化身だったかもしれませんよ」と言った。

   …… そうか。そうだったのか …… そこには思い至らなかった。いや、まあ、少なくとも、日本流に言えば、エンリケ王子が引き合わせてくれたのかも …… 。「こんな所まで、よく来られましたねえ」。

 その会のあと、今度はユーラシア大陸の果てから、私のブログに、こんなコメントが寄せられてきた。

 「すばらしい紀行文をありがとうございました。

 今、サン・ヴィセント岬の日没からホテルへ戻ってきました。

 メキシコに馬齢を重ねること40年、1973年に『お前も来るか中近東』(注 : 当時、バックパッカーのバイブルのような本だった)で、沢木耕太郎の逆回りをした初老の男です。

 カルペディム(カルペ・ディエムの略)的な生き方をしてきましたが、貴殿のこの紀行文は素晴らしいと感じました」。

 (このあと、まどみちおさんの「海」のことを書いた詩が添えられていた)。

 こういう出会いや言葉に励まされながら、私の旅は続いてきた。

 私は『深夜特急』の沢木耕太郎や、『お前も来るか中近東』の筆者や、ブログにコメントを寄せていただいた方とは違って、若い頃にバックパッカーの旅をした経験はない。それにインドも中近東も知らない。仕事をリタイアしてから、ヨーロッパに限定して、バックパッカーの若者と比べたら、安全で贅沢な旅をしてきた。それでも「冒険心」を抑えがたく、旅に出た。

 「注意して/でも、/勇気をもって」(沢木耕太郎)

 「旅の心は遥かであり、この遥けさが旅を旅にするのである」(三木清「旅に付いて」)

              ★

<ちょっと冬眠します>

 とはいえ …… 多分、私のヨーロッパ紀行はこれで終わりになるのだろうと思います。(行きたいという気もちは捨てませんが)。

 毎回、長々しい文章を、ここまで読んで(見て)いただいた読者の皆さまには、本当にありがとうございました。心からお礼申し上げます。

 しかし、ヨーロッパ紀行はともかくとして、このブログは続けます。まだ、少々は余力がありますから。

 でも、ちょっと冬眠します。春までかな?? 2か月ぐらい。まあ、のんびりといきますので、それまでどうかお元気で …… 。 

 (あっ、それから、これがこのブログの399号です。400号は超えますから)。

また  。  

 

 

 

 

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ドナウ川の白い雲 … ドナウ川の旅11/11

2023年01月27日 | 西欧紀行…ドナウ川の旅

   (ドナウ川の白い雲)

<ゲルマンは森の民>

 最後の日の夕方になって新発見。ホテルのそばにバス停があり、くさり橋を渡って王宮の丘へ直行する。…… まあ、路線バスは、大阪市内でも手こずるから仕方ない。

 王宮の丘のレストランで、ハンガリー風の料理を注文した。

 横の席では、3人組の品のいい初老のおじさんたちが陽気にビールを飲んでいた。すっかり髪が白くなった人、頭髪の禿げかかった人、顎髭に白いものが混じっている人。今は仕事をリタイアし、青春時代にワンゲル仲間だった気の置けない友人たちと、男同士の旅に出たという感じだ。

 話しかけられた。ドイツ人だろうと思っていたが、やっぱりそうだった。

 ドイツ人はビールを飲むと開放的になり、近くの誰とでも乾杯して飲みかつ歌う。── 今日という日の花を摘め ──。

 フランス人はたとえ席がくっついていても、プライバシーには立ち入らない。英国人は紳士だから、一応慎み深い。アメリカ人は開放的だが、見知らぬ他人になれなれしくすれば、いつ二丁拳銃をぶっ放されるかわからない。日本人は自分が所属する組織の外に対しては赤の他人だ。

 陽気なおじさんたちは、遠い日本からやってきた旅人とブタペストの王宮の丘で話したことを、孫たちに話したかったのかもしれない。

 ドイツからサイクリング車で観光しながら、仲間たちでここまでやって来たそうだ。

 ドイツ人は定年退職したら郊外の森の中に家を建て、毎日、キノコ狩りなどして暮らすことを人生の究極の楽しみとしている、と聞いたことがある。

 「ワンダーフォーゲル」はドイツ起源の言葉で、ワンダーは「放浪する」。ワンダーフォーゲルは「渡り鳥」。

 ゲルマンは森の民なのだ。

 ローマ人は森の木を伐採して農場をつくり、小麦を主食とした。だが、ドナウ川の対岸はローマ人が立ち入れないような深い森。森の民たちの世界だった。

 英語でしゃべってくれたが、こちらはあまりしゃべれないので、話はそこそこ。

 テーブルの上に置いていたカメラを見て、「写真を撮ってあげよう」と写してくれた。

      ★

<草原の民だったマジャール>

 日はとっぷり暮れた。

 マーチャース教会はライトアップされ、横に建国の父・聖イシュトヴァーンの騎馬像がシルエットとなって立っている。

(マーチャース教会と聖イシュトヴァーンの騎馬像)

 この国の人たちは、もと草原の民だった。遥々とこの地までやって来て、キリスト教徒となり、この地に王国を打ち立てた。

 丘の上から見下ろすドナウ川の流れは暗く、国会議事堂のドームだけが浮かび上がっていた。

 (国会議事堂)

 ここから眺めるペストの街は暗い。

 ドナウ川の水の上やペスト側から眺めるくさり橋、その上に浮かび上がる王宮やマーチャース教会のライトアップは圧巻だ。主役はこちら側なのだ。

 遅くなったので、タクシーに乗り、一気に丘を下り、橋を渡ってホテルに帰った。

      ★

<美しい街をつくろうという意思>

(くさり橋とマーチャース教会)

 ホテルの5階の窓の正面に、王宮がくっきりと浮かび上がっていた。斜め右手には、真珠のネックレスのようなくさり橋。その上方のマーチャース教会が圧巻だ。

 ブダペストは「ドナウの真珠」。

 町を彩る建造物は古いものではない。だが、大国の圧迫をはねのけ、美しい自分たちの都をつくろうという意思が感じられた。

   ★   ★   ★

5月31日。晴れ。

 朝8時にタクシーを呼んでもらった。空港まで25ユーロ。申し訳ないくらい健全な料金だ。

 フェリヘジ空港のルフトハンザ航空の窓口でチェックイン。パスポート検査もスムーズだった。

 手続きを全て終えて、ほっとして、搭乗口ロビー近くのスタンドで朝食。空港の建物も新しくて奇麗だ。

 11時、ブダペストを離陸。

 12時40分、フランクフルトに到着。巨大空港の中を歩いて、日本便のロビーまで移動する。

 ここまで来れば日本に帰ったようなものだ。帰って来たなという安堵感の底に、充実感と心地よい疲労感がある。

 現地時間で14時5分、フランクフルト発。雲の隙間からドイツの田園風景を見下ろし、美しいヨーロッパに別れを告げた。

 飛行機は地球の自転に逆行して時速1000キロ近くで進み、たちまち夕方となり、そして、夜の帳が下りる。

 うとうとしているうちに7時間の時差を超えて、東の空が茜色になり、早朝の日本海はひとっ飛び。

 日本は、山また山の、緑の深い島国だ。

      ★

6月1日。晴れ。

 8時10分、関空到着。

 関西空港から早朝の空港連絡橋を渡るとき、今朝も真っ青な海が見えた。空港を出るといきなり海。天気が良ければ海の青が本当に美しい。

 多分、関空に到着して初めて日本に入国する外国人も、美しい国へやって来たと思うことだろう

      ★

<旅の終わりに>

 季節は5月。ヨーロッパが一番美しいときだ。

 ウィーンだけ雨で寒かったが、あとの4都市は快晴だった。

 (パッサウ付近)

 ローカルな鈍行列車に乗り、なぜかその列車が停まって、駅と駅の間をバスで走り、迎えの列車を乗り継いだ。

 ハンガリーへ入るときは、ジェームズ・ボンド氏がロシアのスパイと格闘した、あの名アクション場面を思い起こすような6人掛けのコンパートメントの列車だった。

 レーゲンスブルグやパッサウや夜のブダペストでは、ドナウ川をクルーズ船で楽しんだ。カップになみなみと注がれた白ワインは美味しかった。

 しかし、大都市ウィーンのカフェ「モーツアルト」で注文した白ワインは、大きなワイングラスの底に5分の1ぐらいしか入っていなかった。

読売俳壇から 

  軽やかなチターの調べ冬木立 (神戸市/遠藤音々さん)

 俳句で、映画『第三の男』の世界をとらえていて、秀作です

 ドナウ川は、川面に樹々の深い緑や青空が映り、遠くに白い雲が浮かんでいた。

 銀色の兜に赤いマントをなびかせたローマの巡察兵の姿はさすがにイメージしにくかったが、どの町も中世以後の歴史と文化を感じさせ、何よりも美しかった。

 鈍行列車でのんびりと旅をするヨーロッパの人たち。

 道を間違えたのではないかと不安になりながら、山の中を一緒に歩いたマダムやムッシュたち。

 「あの山の向こうはバーバリアンの地だよ」などと冗談を言ったたくましく日焼けした自転車のおじさん。

 昼はサイクリングで、夜はビールで乾杯するリタイア後のドイツ人たち。

 街角で親切に声をかけ、道を教えてくれた若い女性やマダム。

 陽春のドナウの旅は、その美しい景観とともに、人の温もりも感じた旅だった。

 季節のもつ明るさと人の温もりが、のちに、このブログの名を、「ドナウ川の白い雲」と名付けさせた。

 心に残る旅だった。

 

 (ブダペストを流れるドナウ川) 

(了) 

 

 

 

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夜空に浮き上がるドナウの真珠…ドナウ川の旅10/11

2023年01月22日 | 西欧紀行…ドナウ川の旅

 (王宮の丘のライトアップ)

(つづき)

      ★

<ナイトクルーズ、そしてホテルからの眺望>

 エルジェーベト橋の袂の「竹林」で寿司とワインの夕食をとったあと、ドナウ川の岸辺を夜風に吹かれながらくさり橋の方へと歩いて行った。

(くさり橋とマーチャース教会の塔)

 「ドナウ川ナイトクルーズ」の乗り場は、くさり橋の袂に見つけた。出発の21時には少し早かったが、船に乗り込む。

 クルーズ船のテラス席に腰掛けると、王宮の丘は息をのむほどに荘厳だった。

   (王 宮)

 日は地平に沈んで、空は限りなく澄んだ濃い青。残光が空の低いあたりを赤く染めている。

 漆黒の空になる前、ヨーロッパの空の青は美しい。このひと時の空を見るだけでも、遥々とヨーロッパまで来たかいがあると思えるほどだ。(写真では、その色がうまく出ないが)。

 夢中になって、写真を撮り続けた。

 21時。遊覧船が出航した。ドナウ川のくさり橋の上流と下流を巡るだけだが、船が水流を切って進み、川の流れの意外な力強さや波の音を真近に感じた。

 空は漆黒の闇となり、主役たちがライトアップされて映える。

 (くさり橋とマーチャース教会)

   (くさり橋と王宮)

 これまでヨーロッパのいろんな都市の夜景を見てきた。旅行社のツアーは郊外のホテルに泊まり、夜は出歩かない。だが、ヨーロッパの都市の美しさを味わおうと思えば、ライトアップされた街並みや歴史的建造物を見逃すことはできない。

 もちろん、それはディズニーランドの世界とは違う。

 パリの、シャンゼリゼのイルミネーションと瀟洒なショーウインドーの輝き。さらにエッフェル塔のライトアップも、人々の心をワクワクと浮き立たせる。パリは歩く人がみな楽しく幸せそうに見える。

 フィレンツェのミケランジェロ広場の高台から、アルノ川の向こうにライトアップされたドゥオーモを眺めたとき、ルネッサンスの時代に引き込まれるような気がした。

 ウィーンのリング周辺の華やかなライトアップ。

 チェコのプラハを流れるヴルタヴァ川は深い闇の底を流れ、川に架かる壮麗なカレル橋の袂から対岸のプラハ城を眺めたとき、まるで中世の夢の中にいる人のような気分になった。

 だが、それらに勝るとも劣らず、くさり橋や王宮やマーチャース教会のライトアップは感動的だった。

  (川岸の国会議事堂)

 十二分に満足して、船を降りた。

      ★

 船着き場からインターコンチネンタルホテルはすぐ。

 船上から見た景色と、ホテルの5階の高さから眺める景色は、角度が少し違う。

 王宮も、マーチャース教会とくさり橋も見飽きることがなく、永遠の時が流れているようだった。

 (ホテルから)

   ★   ★   ★

5月30日 今日も快晴

 今日はこの旅の最終日。明朝は帰国の飛行機に乗る。

<再び王宮の丘へ>

 朝、ホテルを出て、もう一度王宮の丘へ。王宮の丘から、ドナウ川の眺めをもう一度目に焼き付けたかった。

 それに、オーソドックスなコースで上がっておきたかった。

  (くさり橋)

 昨日は地下鉄と城バスでかなり大回りして行ったが、今朝はホテルからくさり橋を歩いて渡り、その先から出ているはずのケーブルカーに乗る。

 何しろ昨日は着いたばかりの知らない町。いきなり長い橋を渡ってケーブルカーの駅を見つけ、切符を買って乗るということに不安があった。

  (くさり橋を渡る)

 くさり橋は、真ん中が車道。両脇が歩行者や自転車用になっていた。

 橋のゲートには大きなライオンの像。

 ハンガリーは大国によって国の独立を侵害され続けた歴史をもつ。蒙古、オスマン帝国、ハプスブルグ帝国、ドイツ、ソ連。

 だか、もともと勇猛果敢な誇り高い民族。ライオン像に、「もう敵を侵入させない」という気概を感じた。

 (くさり橋から国会議事堂を望む)

 375mのくさり橋を渡ると、ケーブルカーの駅もすぐ見つかって、王宮の丘へ。意外に簡単で、時間もかからなかった。そういうものだ。しかし、ヨーロッパ旅行では、そういうものではなかったことも、しばしば経験した。

 王宮の丘から、早朝のドナウ川とペスト地区の景観をしばらく堪能した。

 (王宮の丘から国会議事堂を望む)

 また、ケーブルカーで降り、くさり橋を渡って戻った。

      ★

<初代国王イシュトヴァーンの大聖堂>

塩野七海『日本人へⅤ』から 

 「ゲーテが言ったように『肉体の眼よりも心の眼で見ること』である。それには、短時日の間に何もかも見ようとしないこと。見ながら歩くのではなく、考えながら歩くのだから、訪れた場所の数ならば少なくなることはやむをえない」。

 昨日、トラムに乗ってドナウ川に沿って走り、トラムの中からペスト側を観光した。しかし、車窓から眺めるだけでは足りないものもある。

 その一つが聖イシュトヴァーン大聖堂。ブダペスト第一の大聖堂だ。

 くさり橋の袂から東へわずか数百mの所だから、ショッピング街をウインドショップしながら歩いて行く。

 大聖堂前の広場は広々として、心落ち着く空間だった。

 大聖堂はいかにも大きく堂々として、色合いも姿もいい。

 (聖イシュトヴァーン大聖堂のファーサード)

 この大聖堂は、1851年に着工し、1905年に完成した。ハプスブルグ家のフランツ・ヨーゼフ1世(后妃はエリーザベト)の頃で、国会議事堂などと同じ時代の建造物だ。ブダペストはこの時期に、一気にハンガリー民族の都へと発展した。

  (身 廊)

 8500人を収容できるという

 身廊の正面に、イエス・キリストの磔刑像でも聖母子像でもなく、聖イシュトヴァーンの像が祀られていて、キリスト教徒でなくても少しばかり違和感を覚えた。

 イシュトヴァーン1世が自らカソリックの洗礼を受けたのは、マジャールの各部族がそれぞれの祖先神を崇めており、これを一つにまとめるにはキリスト教化しかないと考えたから。そして、AD1000年、7部族を統合してハンガリー王国を建国した。死後、ローマ教皇によって聖人に叙せられる。

 初代の王が大聖堂の中心にあることに、ハンガリーの魂が感じられた。

      ★

[ 閑話・脱線 ] 

    自分の祖先たちが歩んできた道を知り、未来の世代に行く末を託すという心は自然なものである。人も家族も民族も、それぞれの歴史と文化と言語をもつ。しかし、そういう個人や家族や民族の歴史に被害者意識の火を投げ入れると、それはたちまち紙のようにメラメラと燃え上がる。

 「ポピュリズム時代のリーダーは、怒りと不安をあおりたてるのを特技にしている」(塩野七海『日本人へⅤ』)。

 NATOの一員であるトルコや、NATOとEUの一員であるハンガリーが、プーチンや習近平に追随して、かつての帝国の最大版図と勢力圏を取り戻そうなどと考えないように願う。

 EUではドイツが一人勝ちしないことも大切である。NATOやEUがあってこそのドイツである。

 互いに手を差し伸べ、支え合わなければ、NATOもEUも加入した意味がない。ロシア圏から離脱しようとするウクライナを他山の石とすべきだ。

 世界で、ロシア圏は縮小していっているが、中国圏は膨張し続けている。

      ★

 エレベータでドームの展望台に上がってみた。空は真っ青に晴れて、王宮の丘がよく見えた。マーチャース教会の塔も、堂々と聳えている。

 (聖イシュトヴァーン大聖堂の展望台から)

 大聖堂を出て、大聖堂を正面に見る街路のテラス席で軽い昼食をとった。

 (カフェテラスが並ぶ)

 現代的なショップやレストランのテラス席が並ぶ向こうに大聖堂があって、絵になる風景だ。

      ★

<ハンガリー人の伝承を伝える騎馬像たち>

 大聖堂の脇を立派なアンドラーシ通りが通る。英雄広場まで一直線に延びるこの街路は、パリのシャンゼリゼ通りに比せられる。

 終点の英雄広場まで歩くのは遠いので、大路の下を走る地下鉄に乗った。

 (英雄広場の記念碑)

 英雄広場は市民公園の一角にある。

 この記念碑は、聖イシュトヴァーン1世による建国から一千年を記念して建造された建国一千年記念碑。

 中央に高さ36mの大円柱。天辺には大天使ガブリエルの像。

 その下に、マジャールの祖先である7人の部族長が騎馬姿で建つ。中央には大首長アールバート。聖イシュトヴァーン1世の祖である。

 いかにも強そうだ。

  (7人の部族長たち)

 日本では、この国の国名はハンガリー(Hungary)。この呼称は、遠い昔、ゲルマン人が彼らをトルコ系のオノグル族と混同して呼んだ呼称らしい。本当はオノグルではなく、マジャール人だった。正式の国名はマジャロルサーグだが、彼らの通称でマジャル(Magyar)。これも日本ではマジャールとなっている。

 遠い昔、この地は、ローマの属州パンノニアだった。

 ローマ帝国の国力が弱まった時、フン族が侵入・支配した。

 8世紀にはゲルマンの一族のフランク族が立てたフランク王国の支配下に入った。

 だが、フランク王国は分裂して後退し、9世紀にはウラル山脈の東南に起源をもつアジア系の騎馬遊牧民マジャール人がやってきた。彼らが今のオーストリア、南ドイツ、さらにイタリア北部にまで侵攻したことは、ウィーンの項で書いた。

 7部族の中の1つがアールバード家で、そこから出たイシュトヴァーンが7部族を従えて、AD1000年に王国を打ち立てた。

      ★

<国立オペラ座に寄る>

 陽射しが斜光になった。建物の蔭が濃い。

 歩き疲れ、のども渇き、オペラ座のそばのカフェテラスで一休みした。

 (カフェテラス)

 国立オペラ座の見学ツアーがあるようなので、入り口で申し込んで見学した。

 (国立オペラ座)

 ウィーンの国立オペラ座に負けてなるものかという気概が感じられる。

 一旦、ホテルに戻って、休憩した。

 夜はもう一度、王宮の丘に上り、王宮の丘の夜景を眺めて、この旅のフィナーレとする。

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「ドナウの真珠」ブダペスト…ドナウ川の旅9/11

2023年01月15日 | 西欧紀行…ドナウ川の旅

   (王宮の丘からドナウ川の上流を望む)

<国境を越えてブダペストへ>

5月29日 快晴

 ホテルで朝食の後、U3でウィーン西駅へ。ウィーンの市内交通も少し乗りこなせるようになったが、今日はブダペストへ向かう。

 西欧の国から中欧へ。ベルリンの壁の崩壊までは社会主義の国だった。

 少しばかりの国の自立と自由を求めて、ハンガリー人が立ち上がった。だが、たちまちソ連の戦車が侵攻して、蹂躙した。

 「ハンガリー事件」のことは、遠い少年の日の記憶としてかすかに残っている。まだテレビはなかったから、ニュース映画で見たのだろうか。遠い国の出来事だったが、ソ連の冷酷さと、従属国の痛ましさが、遥かな記憶の底にある。

 本題を離れるが、1968年のチェコのプラハでも、2022年のウクライナでも、歴史は繰り返された。自分の勢力圏の国だと思うから、政治的に介入し、言論も弾圧し、戦車で蹂躙する。挙句、マンションでも病院でも、平然とミサイルを撃ち込む。日本はこの種の大国の勢力圏に入ってはいけない。そのためには日米同盟を堅持すべきだ。

 ウィーン西駅の人混みの中で、わが列車は何番ホームから出発するのだろうと頭上の電光掲示板を見上げていたら、「EN467便は50分の遅れ」のサインが目に入った。

 まただ 今回の旅で3度目の列車の遅れ!!

 しかし、少しも動じない。急ぐ旅ではないのだから。ブダペストでも、ドナウ川を眺めることができたらブダペストへ行った目的は達成である。あとどこかを見学できたら、それは全て満点に加点されていく。減点方式の旅はしない。

 人生は旅。旅心定まる

   駅構内のカフェで時間をつぶした。 

 やって来た列車に大きなキャリーバックを持って乗り込む。この列車の始発駅はどこだったのだろう?? 遠くから夜行列車として走ってきた気配が残っていた。車両の片側が窓のある狭い通路で、もう一方の側にコンパートメントの扉が並んでいる。自分の座席番号の書いてあるドアを開けると、6人掛けの部屋だった。ヨーロッパを舞台にした映画を見るような感じ。

 アラブ系の若い男女と同室だった。先客に対し挨拶して入った。

 列車がハンガリーの国境を越える頃、車掌が検察に回ってきた。日本でパソコンから打ち出した印刷物(乗車チケット)を見せて、OK。

 同室のアラブ系の若者には、パスポートの提示が求められた。入念にパスポートが調べられ、何か会話のやりとりがあった。

 車掌の態度は爽やかで丁寧だったが、車掌が部屋を出て行った後、若い男の様子がおかしくなった。ふさぎ、ふてくされ、一人で歌を口ずさんだりした。明るく優しい感じの若い女性が寄り添って慰めた。事情は私たちにはわからない。

 国境を越えると、車窓の森や畑とともに流れていく農家や小屋のたたずまいが貧しくなった。オーストリアのパッチワークのような牧歌的な美しい風景とはほど遠かった。

 3時間と少し。お昼過ぎにブダペスト東駅に着く。

 駅のホームの両替所で1万円札をフォリントに両替した。ハンガリーは2004年にEUに加盟したが、通貨はフォリントのままだ。たいていの支払いはVISAカードでできるが、早速、タクシー代には現金が必要。

 駅構内の人混みの中をキャリーバッグを引いて歩くときも、タクシーに乗ってからも、緊張した。事前にネットで調べたとき、ブダペスト空港で機内預かりから出てきたスーツケースがこじ開けられていたとか、タクシーも大回りしたり、ぽったくりの請求をされたとか書いてあった。

 だが、滞在中、そのようなことはなかった。何回かタクシーに乗ったが、そういうことは1度もなかった。ショッピング街を歩いているときも、地下鉄やトラムの中でも、スリなどのアブナイ雰囲気を感じたことはなかった。アブナイ気配ならローマやパリの方がある。特にローマ。ローマ市民のことではない。ローマはあまりにも開放され、人が自由に入り過ぎている。

 ドナウ川の河畔に建つ「インターコンチネンタル・ホテル」に2泊する。私のヨーロッパ旅行では使わない系列のホテルだが、今回の旅のテーマはドナウ川。そして、ネットでいろいろ調べ、調べつくして、このホテルの5階の部屋からの眺めが最高であることを知った。もっと高級なホテルも、もっと安いホテルもあるが、このホテルのドナウ川の眺望は他に代えがたいと思った。

 ホテルのフロントにキャリーバッグを預けて、早速、未知の町へ見学に出た。

      ★

<王宮の丘をめざしてバスを間違える>

   この旅の目的はドナウ川。よって、今日の午後の予定は、まずブダ地区の王宮の丘へ登り、ドナウ川を眺望する。そして夜は、「ドナウ川ナイトクルージング」。

 Budapest。ハンガリー語の発音を片仮名で表すと、「ブダピュスト」だそうだ。

 もとは3つの町だった。オーブダとブダとペスト。

 北方(ドナウ川上流)にはオーブダという町。旧ブダの意で、歴史は古い。ドナウ川の右岸(西側)にあり、古代ローマの軍団基地や属州パンノニアの州都アクィンクムの遺跡が発掘されている。しかし、今回の旅は考古学的興味による旅ではないから、行かない。

 その南(下流)の右岸がブダ。丘陵地帯になっていて、閑静な住宅地とか。その端がドナウ川に臨み、中世以来、ハンガリー王国の王宮があった。ブダペストを観光する人々が必ず訪ねる場所。私にとってはドナウ川を眺望できる丘だ。

 ブダの対岸のドナウ左岸は、平坦な土地が広がるペストの町。かつてはドナウ川をはさんで王宮と向かい合った半径300mぐらいの半円が城壁と堀で囲まれ、商人や職人の町だった。今は市域は大きく広がり、国会議事堂、官庁、ブダペストを代表する大聖堂、企業のオフィス、そして、ハンガリー第一の華やかなショッピング街だ。

 ホテルはペスト地区のドナウ川の河畔に建っている。くさり橋がすぐそばにあり、対岸は王宮の丘だ。

 (ペスト側から眺望する王宮)

 ホテルからくさり橋とは反対方向へ少し歩けばデアーク広場。地下に降りて切符売り場で市内交通の24時間券を買い、王宮の丘を目指した。

 地下鉄はドナウ川の川底深くをくぐり、3駅目のモスクワ広場駅に到着。そこから「城バス」に乗り、一気に急坂を上がれば王宮の丘の予定だった。

 だが、バスはどんどんどんどん坂道を登って、高台の住宅地へ向かう。これは間違えたな??

    あわてていると、前の座席に座っていたおばさんが声をかけてくれた。「引き返して。城バスは16番だよ」と教えてくれる。

 いざとなれば何とか意思疎通できるものだ。

 ハンガリー語はヨーロッパ系の言葉と全く体系が異なるらしい。見た目にはわからないが、ハンガリー人(マジャール人)の祖先を訪ねれば、我々と同じアジア人なのだ。

 見知らぬバス停で降り、反対行きのバスを忍耐強く待って、モスクワ広場へ引き返した。今度は16番の「城バス」に乗る。1時間近くもロスをしてしまったが、これもまた旅。でも、疲れる。

      ★

<ハンガリーの苦難と不屈の歴史>

 東へ東へと流れたドナウ川は、ハンガリーに入って、エステルゴムという丘の町の辺りから大曲りし、南流するようになる。

 ドナウ川を見下ろすこのエステルゴムの丘が、ハンガリーの建国の地だった。

 マジャール7部族のリーダー、アールバート家のイシュトヴァーン1世は、カソリックの洗礼を受け、AD1000年に初代国王(在位1000年~1038年)となった。王宮はエステルゴムに置き、ハンガリー・カソリックの総本山となる大聖堂も建てた。

 11世紀後半から12世紀にかけて、ハンガリー王国は全盛期を迎える。東西南北に大きく領土を広げ、産業も盛んになり、都市の建設も進んだ。

 13世紀、モンゴルの襲来があった。時の王ベーラ4世(在位1235~1270)は大敗を喫してアドリア海に逃れ、国土は焦土と化した。モンゴル軍の通過したあとは、略奪と殺戮で人口が半減したという。モンゴル軍が去った後、ベーラ4世は再度のモンゴル軍の襲来に備え、王宮を下流のブダの丘に移した。そして、モンゴル軍の襲撃に何とか耐えられたのが石造りの町と知り、ブダペストにその礎を築いた。

 15世紀、マーチャーシュ1世(在位1458~1490年)はイタリアなどから文人、建築家を招いてハンガリー・ルネッサンスを花開かせた。王宮の丘も美しく装われた。

 だが、その後、ハンガリーは、南から膨張してきたオスマン帝国を迎え撃たなければならなくなり、数度の大きな戦いを経て、1526年に若きラヨシュ2世が戦死した。1541年にはブダも陥落し、オスマン軍に制圧されてしまう。

 ハンガリーは、ブダペストを含む3分の2の領土がオスマン帝国領となり、北西部の3分の1だけがハンガリー領として残った。ただし、王家は断絶したから、戦死したラヨシュ2世の妹の夫、ハプスブルグ家(オーストリア)のフェルディナントが王位を継いだ。以後、ハプスブルグ家が王位を継承していく。

 1683年、オスマン帝国は第2次ウィーン包囲に失敗し、ハプスブルグ帝国が一気に攻勢に出た。ハンガリーは全土がハプスブルグ領となる。

 その後、ハプスブルグの支配に抗するハンガリー人の運動は何度も起き、1867年にやっとハンガリーの自治が認められた。ただし、ハプスブルグ家が両国の君主として君臨するオーストリア=ハンガリー帝国いう形となった。

 第一次世界大戦でハプスブルグ帝国は崩壊し、1918年にハンガリーは独立する。そのあと、ナチスドイツに付いて第二次世界大戦を戦い、ブダペストの町はまたもや破壊された。

 戦後はドイツを破って侵攻してきたソ連の支配を受けた。

 ハンガリーが真に独立できたのは、ベルリンの壁崩壊の年の1989年である。ベルリンの壁の崩壊は、それに先んじて、ハンガリーがハンガリーの壁を壊したのをきっかけにしている。東ベルリン市民は、ハンガリーを通って、西ベルリンへ殺到したのだ。

 1999年にNATOに加盟。2004年にEUに加盟した。

 ただし、2010年に首相に再登板したオルバーンは親ロシア路線に転換し、ロシアのウクライナ侵攻にもNATOとは一線を画している。

      ★ 

<王宮の丘からの眺望 … ドナウ川、国会議事堂、くさり橋>

 王宮の丘からのドナウ川の眺望は最高だった

 上流の方角がよく見えた。

 ズームレンズを望遠にして、上流のオーブダ方向を写してみた。

 (上流のオーブダ方向)

  緑のこんもりした島がマルギット島。その手前の橋はマルギット橋。マルギット島の先にはオーブダ島。これらの島の左手(右岸)にローマの遺跡がある。

      ★

 空の青を映した美しき青きドナウ。その対岸(ペスト側)に国会議事堂。美しい

 王宮の丘から眺める景観の主役は国会議事堂だ。幾本ものゴシックの尖塔と、その中央に華のような大ドーム。

 (ペスト側の国会議事堂)

 だが、このような建造物はヨーロッパで珍しいわけではない。

 主役はやはりドナウの流れ。ドナウ川があってこその建物である。

 1884年に着工し1904年に完成した。ハプスブルグとの二重君主制とはいえ、ハンガリーが自治権を取り戻した時代である。ハンガリー国民の心意気が感じられる。

 ここには、初代国王イシュトヴァーン1世が戴冠した王冠が、ガラスケースに納められて展示されているそうだ。ハプスブルグ家の王たちも、このイシュトヴァーンの王冠を戴冠して初めて王と認められた。(それにしても、国王は勇敢でなければならないだろうが、戦死してはいけないとつくづく思う。後継ぎもなしには。蒙古に大敗して逃れたベーラ4世のように生き延びることが国民のためだったかも知れない)。

      ★

 眼下には、ブダと、ペストとを結ぶ、「くさり橋」。ブダペストの美しい景観はこの橋とともにある。

  (眼下のくさり橋)

 美しいブダペストを「ドナウの真珠」と形容するのは、ネックレスのようなこの橋のイメージによるのではなかろうかと、この夜のナイトクルーズで思った。

 橋の長さは375m。高さ48mの2基の塔に支えられている。

 1839年から10年の歳月をかけて架けられた。国会議事堂の建造と同じ時代である。今は上流にも下流にも何本もの橋があるが、「くさり橋」が架かるまでドナウ川を渡るには渡し船しかなかったそうだ。この橋によってブダとペストがつながれ、大きな新しい共同体が生まれた。

 橋の向こうに聖イシュトヴァーン大聖堂のドームが見える。王宮、くさり橋、大聖堂が一直線に並んでいるのだ。

     ★

<王宮の丘を巡る … 王宮、マーチャース教会、漁師の砦>

 王宮の建物は、丘の南半分を占めている。

 ブダに初めて王宮(城塞)が築かれたのは、モンゴル軍の再度の襲来に備えたベーラ4世(在位1235~70)のとき。

 その後、何度も破壊と建設が繰り返された。

 現在の王宮の姿が出来上がるのは、国会議事堂やくさり橋などと同じ19世紀末から20世紀初頭。その後、ハプスブルグ家も滅び、ハンガリーは共和制国家となった。

 ナチスドイツに付いた第二次世界大戦のときにまた大破され、その後大修復。今は国立美術館、歴史博物館、現代美術館、非公開の図書館などとして使われている。

 この旅では、内部の見学はしない。

      ★

 13世紀、ベーラ4世がブダの丘に首都を移したとき、王宮の北側に「聖母マリア教会」を建てた。

 教会は14世紀にゴチック様式で建て直され、15世紀にはハンガリーにルネッサンスを導入したマーチャース1世(1458~90)によって大きな塔が増築された。

 この塔はドナウ川からよく見え、王宮の丘のシンボルになっている。その景観は、この夜のナイトクルージングで体験した。今は、「マーチャース教会」と呼ばれている。

 大屋根の瓦模様が面白い。

   (マーチャーシュ教会)

 内部に入って、見学した。祭壇もステンドグラスも美しかった。 

 (マーチャース教会の祭壇)

(マーチャース教会のステンドグラス)

 オスマン帝国の時代にはモスクにされたという

 ハプスブルグの時代、ハプスブルグ家のフランツ・ヨーゼフ皇帝と后妃エリーザベトがここで戴冠式を挙げた。ハンガリー国民はハプスブルグの王には複雑な思いをもったが、美しいエリーザベトは人気があった。エリーザベトもブダペストが好きで、よく訪問したそうだ。

 くさり橋のすぐ下流の橋は清楚な白い橋で、「エルジェーベト橋」と名付けられている。

      ★

 マーチャース教会の隣には、「漁夫の砦」がある。

 砦といっても、王宮などと同時代に造られた見晴らし台だ。その昔、敵襲があり市民がブダの丘に立てこもった時、城壁のこのあたりの防備をドナウ川の漁師組合が受け持ったらしい。それで「漁師の砦」と名付けられたとか。

 数個の塔とそれらをつなぐ回廊で構成され、絶好のビューポイントだ。

  (漁夫の砦)

 (漁夫の砦からの眺望)

      ★

<トラムに乗ってドナウ川沿いを観光>

 城バスに乗り、バスを乗り継いで、くさり橋の上流のマルギット島に架かるマルギット橋まで行ってみた。

 マルギット橋からは、2番のトラムに乗って、国会議事堂、くさり橋、エルジェーベト橋、自由橋、ベドフィ橋の先まで行き、今度は逆向きのトラムに乗って、エルジェーベト橋まで引き返した。トラムに乗ってドナウ川沿いを車窓観光をしたことになる

 エルジェーベト橋の袂にある「竹林」という和食レストランへ。

 ドナウ川に臨むテラス席で、ゆっくり晩飯を食べた。寿司に白ワインがよく合って、とても美味であった。

 ゆっくり時を過ごし、そのあと、「ドナウ川ナイトクルーズ」へと向かった。

(つづく)

 

 

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