ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

ノルマン王宮礼拝堂のモザイク画 … 文明の十字路・シチリア島への旅5

2014年07月31日 | 西欧旅行…シチリアへの旅

       ( パレルモの王宮 )

 チェファルーからバスで戻り、昼食後、パレルモの街を徒歩で観光した。

        ★

紅山雪夫『シチリア・南イタリアとマルタ』(トラベルジャーナル)から

 「パレルモに新しい時代をもたらしたのはアラブ人で、831年にビザンチン軍を撃破してこの町を占領し、シチリア支配の本拠とした。

 それまで、ギリシャ時代、ローマ時代、ビザンチン時代を通じて、シチリアの中心をなす都市はずっと東海岸のシラクーサだったのが、このとき初めて西北海岸のパレルモに移った」。

 アラブ人は、ギリシャ正教からの改宗を要求せず、イベリア半島の場合と同じように、各自の信仰は各自の勝手にまかせた。

 ビザンチン時代のシチリアの農業は荒廃していた。遠く離れて税だけ取り立てる大土地所有が、シチリアの農業を疲弊させていた。力のおとろえたビザンチン帝国は、税は取り立てるが、北アフリカからやってくる海賊に対しては全く無力だった。

  「アラブ人は乾燥地帯で鍛え上げた灌漑技術を持ち込み、パレルモの周辺を果物や野菜を豊富に産する沃野に仕立て上げた。

 この沃野はまわりの山地から見下ろすと帆立貝のような形をしているので、コンカ・ドーロ(黄金の帆立貝)と呼ばれ、今もなお、オレンジやレモンなどの果樹園がどこまでも続いている。これらの柑橘類もまたアラブ人がもたらしたものだ」 。(同上)

 

   ( 屋台のお土産屋さん )

   「オレンジ・ジュース1.5ユーロ」と書いてある。オレンジ1個をそのまま使って、目の前で生ジュースを作ってくれる。シチリアに限らず、イタリアのオレンジの身は赤い。赤いオレンジジュースだ。のどの渇きをいやして、爽やかで甘い。

        ★

 アラブ人が持ち込んだのは、農業の刷新ばかりではない。

  「アラブ時代にパレルモは繁栄を極め、壮麗なモスク、学校 (イスラム法のほか、医学、薬学、化学、数学、天文学などを教えた)、隊商宿、市場、公衆浴場、水を引き込んだ美しい庭園をもつアラブ風邸宅などが多数造られ、その見事さは訪れる人々を感嘆させた」。(同上)

 同時期のスペインのコルドバやセビーリャと同じような状況が現出していたのである。

 このようなアラブ人の支配が、ノルマン人の支配に移ったのは1072年である。

 南イタリアそしてシチリア島へ。フランスのノルマンディー地方からやってきたヴァイキングの末裔たちは、十字軍やスペインのレコンキスタのように異教徒と戦う聖戦のために来たのではない。彼らは貴族の家の次男坊、三男坊たちで、いわば一攫千金を求め、新天地を求めてやってきたのだ。

 その中で、兄とともに頭角を現したのがオートヴィル家のルッジェーロ(Ⅰ世)である。

 事の起こりは、シチリアにおけるアラブ人の頭領同士の争いであった。一方の側から応援を頼まれたルッジェーロ率いるノルマン人たちは、いわば傭兵として戦いに参加したのだ。ところが、その頭領が殺されてしまった。そこで、ルッジェーロは、頭領の部下や、協力を申し出るアラブ人の戦士たちをみな味方に引き入れて (なにしろノルマン人の数は少ないのだ!)、進撃し、ついには首都パレルモを陥落させた。ただし、最後はアラブ市民の既得権を尊重するという条件付きの無血開城だった。

 こうして、ルッジェーロⅠ世・シチリア伯が誕生した。一方、兄は南イタリアを征服し,公爵となった。

 ノルマン人自身はローマカソリック教徒であったが、このような経緯からも、アラブ系イスラム教徒に対して、或いはそれ以前のギリシャ正教徒たちに対しても、その生活や信仰に干渉することをしなかった。

 早い話、ノルマンの軍隊には数千人のイスラム教徒の兵士がいて、そのためローマ教皇の怒りを買っていたらしい。

 伯父と父から南イタリアとシチリアを継承したルッジェーロⅡ世のころには、3つの文化が融合し、ノルマン・シチリア王国は豊かな発展を遂げたのである。

 だが、異文化に対して寛容であったオートヴィル家、続く皇帝フリードリヒⅡ世のホーエンシュタウフェン家が断絶し、その遠縁にあたるスペインのアラゴン家が入ってくると、事態は一変する。スペインにおけるイスラム教徒との長い戦いを経てきた彼らは、いわばキリスト教原理主義者で、イスラム教や異教的なものに対して異常な敵愾心を持った。そしてローマ教皇のバックアップのもとに、イスラム時代の学校も、アラブ風の邸宅も、大浴場も、ことごとく破壊してしまったのである。文化破壊である。

 今、シチリアにイスラム風の建造物は何も残っていない。ただ、ノルマン時代の建造物にその影響を見るのみである。

    ★   ★   ★

 パレルモの旧市街のはずれにあるノルマン王宮は、今は州議会堂として使われているが、その2階にある王宮礼拝堂(パラティーナ礼拝堂)は、いつでも観光できる。

 ルッジェーロⅡ世が1132年に着工し、ほぼ創建時の姿のままで、パレルモ観光の花となっている。

 

   ( 内陣正面 )

   中に入ると、いきなり金色に包まれたイエス像が目にとびこんでくる。内陣正面の「聖ペテロと聖パウロを従えた玉座のキリスト」像である。

 その天井はビザンチン風にドームになっていて、「天使に囲まれた全知全能の神キリスト」、その下にはダビデやソロモン王など旧約聖書に出てくるイエスの祖先や洗礼者ヨハネの像が、荘厳無比な金色で描かれている。

    ( 内陣の右手 )

 さらに、チェファルーの大聖堂と違って、この礼拝堂は、柱頭より上、周囲の壁面のすべてに聖書の各場面を描いたモザイク画が施してある。

 また、大理石の床も、踏まれてもよい色石で装飾的な模様が描かれていた。

 

 ( アブラハムがわが子イサクを捧げる )

 フランス・ゴシック時代の天を衝く大伽藍や光のステンドグラスの輝きと比べると、ロマネスク時代の聖堂は小さく、その絵も鄙びて、好ましい。

 ノルマン王宮の3階のルッジェーロ王の間には、狩りの場面やギリシャ神話の場面など、宗教画でない華麗なモザイク画があるということだが、素通りしてしまったのは残念である。

         ★

  

     ( パレルモのカテドラル )

  ノルマン時代に建てられた大聖堂(カテドラル)は、その後何度も改築され、内部もすっかり新しくなって、上の写真のあたりが一番建設当時の名残を留めているとか。

 内部にはノルマン王朝の霊廟があり、皇帝フリードリッヒⅡ世が少年のころ、自分が死んだらあの棺に入る、と言っていた古代ローマ時代の石棺もあるというが、素通りしてしまった。

   ( パレルモの市場 )

 夕食を食べに入ったレストランのすぐそばにはヨットハーバー。

 現代の大型船が停泊する港はもっと北に広がっているが、古代、中世のころ、ガレー船が寄港したのは、この一角である。   

   ( ヨットハーバー )

( 続 く )

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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モンレアーレ大聖堂と、ヴェネツィア、ラヴェンナのモザイク画 … 文明の十字路・シチリアへの旅 6

2014年07月27日 | 西欧旅行…シチリアへの旅

< モンレアーレへ >

 シチリアの第2日目は、州都パレルモに別れを告げて、観光バスでモンレアーレとセリヌンテを見学し、アグリジェントまで行く。

 モンレアーレは、パレルモから西南へ8キロ。アラブ人による農業改革で生まれたコンカ・ドーロの沃野を見下ろす海抜300mの丘の上の小さな町だ。

 ノルマン人が日常使っていたフランス語で、モン・レアルは「王の山」の意。

 この小さな山の町に何があるのか?

 ノルマン王朝の全盛時代の12世紀の後半に、ルッジェーロⅡ世の孫のグリエルモⅡ世が造らせた大聖堂である。 

 大聖堂(司教座の置かれる聖堂)は、もともとノルマン王国の首都パレルモにあった。そのうえ、ルッジェーロⅡ世が海岸の町チェファルーに造らせた大聖堂があり、昨日、見学したばかりだ。

  さらに、パレルモからわずか8キロしか離れていないここにも…?

        ★

 < 教権との戦い >

   中世のこの時代、教権と王権の争いは激しかった。

   キリスト教は、古代、中世ばかりでなく、近世、近代に至るまで、歴史の評価や文学作品の価値判断まで含めて、学問、芸術を含むこの世のあれこれに強い影響力をもってきた。西欧社会がキリスト教(宗教)の世俗的影響力を克服するようになってきたのは、近年のことと言ってよい。

   1077年、教皇グレゴリウスⅦ世(在位1073~85)は神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒⅣ世を破門し、その結果、皇帝は諸侯たちに見放され、カノッサ城にいる教皇に対して、門前で雪の降る中3日間、素足で立って許しを乞わねばならなかった。有名な「カノッサの屈辱」である。

   教皇権の絶頂期を実現したインノケンティウスⅢ世(在位1198~1216)は、「教皇は太陽、皇帝はそれを受けて光る月」 と言ってのけた。

   ノルマン王朝につながる皇帝フリードリッヒⅡ世(在位1212~50)の生涯も、結局は教皇権との戦いの生涯であったと言える。フリードリッヒ(イタリアではフェデリーコ)が皇帝として、或いはノルマン王家の王としてやったことの数々は、200年後のルネッサンスを先取りするような開明的な事柄であったが、それらはことごとく教皇との対立の火種となった。教皇は何度も彼を破門したが、彼の直属の部下たちも、兵士たちも、民衆でさえ、天国へ行けなくなることを恐れず、フェデリーコから離れることはなかった。彼の教皇への反論は、「神のものは神へ。カエサルのものはカエサルへ」 (新約聖書のイエスの言葉) ということに過ぎない。人の魂のことは教皇であるあなたが、この世の政治のことは皇帝である私が、ということである。(参照: 塩野七生『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』)。

   しかし、フェデリーコの死後、ノルマン王朝につながるホーエンシュタウフェン家の一族は、教皇の策謀のもと、次々に攻め滅ぼされ、断絶してしまう。

 フェデリーコに先立って、ルッジェーロⅡ世 (在位1125~1130) がチェファルーに、その孫グリエルモⅡ世 (在位1166~1189) がモンレアーレに大聖堂を建てたのは、シチリア王権の上に君臨しようとするパレルモの大司教の力を削ぐためであった。

         ★

< モンレアーレ大聖堂のモザイク画 >

   駐車場から坂道を上がって行くと、ほどなくヤシの木の繁る大聖堂の広場に出る。

 

     ( モンレアーレ大聖堂 )

   広場側から見た大聖堂は、いかにもノルマンらしい、素朴でいかつい造りである。

   堂内に入ると、金色に輝く内陣の上方にキリスト像。その下に聖母子像、天使、預言者、聖人たち。

    ( 身廊と金色の内陣 ) 

 下の絵は、「キリストから王冠を授けられるグリエルモⅡ世」。言葉どおり王権神授説で、王権はキリストから与えられる。教皇や大司教によって王の地位が与えられるわけではない、ということか。

     

 この大聖堂は、柱頭より上の壁面の全てに金色燦然たるモザイク画が施されており、身廊には旧約聖書の創世記の物語が、天地創造から始まって壁面を二巡して描かれている。

 また、側廊の壁面には、新約聖書の物語が描かれている。

 下の写真の、上はイブの誘惑。下は、アブラハムがわが子を生贄にする場面。

  

         ★

 堂内のモザイク画の総面積は6340㎡で、壁面がモザイク画で埋め尽くされているヴェネツィアのサンマルコ大聖堂でさえ4500㎡というから、モンレアーレの大聖堂の規模に驚く。

 ヴェネツィアのサンマルコ大聖堂に初めて入ったとき、黄金色の絵の美しさというものを初めて知ったように思う。

 

  ( サンマルコ大聖堂の金色のモザイク画 )

 金色の美しさは日本の絵画にもある。中でも俵屋宗達の金泥の絵は素晴らしく、宗達の絵に、本阿弥光悦が書を書いたものは、雅やかである。

 (芥川)

 

 (風神雷神図屏風の風神)

        ★ 

< ラヴェンナの初期キリスト教会 >

 2002年6月、もう12年も前だが、ヴェネツィアに3泊したことがある。折しも、アフリカのサハラ砂漠を起源とするシロッコと呼ばれる南風が吹き、この風は地中海を越える際に高温湿潤の風になって、日本の梅雨を超えるような蒸し暑さで、時差による寝不足も加わ、苦しい観光をしたことがある。

 それでも、1日、鈍行列車を乗り継いで、ラヴェンナへ行った。

 ラヴェンナは、ヴェネツィアから西南へ150キロ。アドリア海に面した、人口15万人の中都市だが、馬杉宗夫『大聖堂のコスモロジー』(講談社現代新書) によると、初期キリスト教の聖堂を当時のままに見ることができるのは、この町を置いて他にはないそうだ。

 それは、402年に、西ローマ帝国が首都をラヴェンナに移したからである。

 首都を移してみても、既に瀕死の巨像である西ローマ帝国を支える展望はなく、人々はひたすらキリスト教に帰依するほかなかったから、新しい都には聖堂だけが建てられていった。

 476年、西ローマ帝国はついに滅亡。しかし、イタリア半島に侵入してきた東ゴードの王テオドリックもまた、ラヴェンナを首都とし、自らもキリスト教に改宗して、ラヴェンナに美しい聖堂を建てた。

 553年、東ローマ帝国皇帝のユスティニアヌスが東ゴード王国を攻撃、滅亡させ、イタリアは東ローマ帝国領となる。しかし、それも束の間、ユスティニアヌス帝が崩御すると、再び異民族の侵入を許し、都はローマに戻って、ラヴェンナの黄金期は幕を閉じた。

 その結果、皮肉にも歴史から取り残されたラヴェンナの初期キリスト教の建造物は、破壊されることなく、今に残されたのである。

 『大聖堂のコスモロジー』を読んで、我々がよく知るロマネスクやゴシック建築とは規模も趣も違う、初期キリスト教の鄙びた聖堂をぜひ見たいと思うようになった。

 そして、12年前の旅で初めて、素朴な初期キリスト教聖堂の中にひっそりと輝くモザイク画の数々に出会ったのである。

        ★

< ラヴェンナのモザイク画 >

 サン・ヴィターレ聖堂は、6世紀半ば、東ローマ帝国領となって建てられた初期キリスト教聖堂である。

 外観は素朴なレンガ造りの正八角形集中方式の建物で、おそろしく蒸し暑い日であったが、中に入るとクーラーの部屋入ったようにひんやりして涼しかった。

 後陣の正面のモザイク画は、「天使に囲まれ玉座に座るキリスト」像。

 だが、それよりも、その左右の、「ユスティニアヌス帝とその随臣たち」と「皇妃テオドーラと女官たち」が強く印象に残った。

 後陣部に、キリストやマリア、天使、新旧約聖書の人物ではなく、世俗の人であるビザンチン帝国の皇帝と妃が描かれるのは珍しい。

 全員正面を向いている絵に古拙の趣があり、その色調が多彩で美しく、近代絵画にまさるとも劣らないと思った。

  ( 皇妃テオドーラと女官たち )

 テオドーラは昔、身分の低い踊り子だったが、ユスティニアヌスに見初められて、妻に迎えられる。やがて、ユスティニアヌスは皇帝となり、蛮族と戦って、東ローマ帝国の版図を最大にして、大帝と呼ばれるようになるが、彼が弱気になったとき、テオドーラは叱咤激励して励ましたと言う。

 絵で見ると、美女の踊り子だった時代の面影はなく、なかなか気が強そうで、それより女官の二人目、金色のショールをまとった女性が、若く気品があって、美しい。

         ★

 サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂はラヴェンナの郊外にあって、徒歩ではムリ。しかし、かねてグラビア誌で見たモザイク画をぜひ見たくて、タクシーで行った。行って、やはり感動した。

 東ゴード時代の末期、549年に完成したパリジカ様式の赤茶けた聖堂に入ると、身廊の後陣正面上のドームいっぱいに、目指すモザイク画が広がっていた。

 柔らかい色調の緑の草原に、樹木や灌木、野の花。両手を広げた牧者と12匹の羊たち。

 磔刑のキリストに代表されるキリスト教美術の暗さ、おぞましさがなく、牧歌的で、メルヘンチックと言ってもいい、優しい、穏やかさが画面に満ちあふれていて、見飽きなかった。こういうキリスト教なら好きになれそうだ

         ★

 シチリアの旅は続くが、中世のモザイク画との出会いはこれでおしまいで、このあとバスは、遥かに遠く紀元前の古代へと向かう。(続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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牧歌的な古代遺跡セリヌンテ … 文明の十字路・シチリアへの旅7

2014年07月24日 | 西欧旅行…シチリアへの旅

    ( セリヌンテの古代遺跡 )

 朝、シチリア島の北海岸に位置する州都パレルモを出発し、パレルモ郊外のモンレアーレの大聖堂を見学したあと、バスは内陸部に入った。

 シチリア島を縦断し、南海岸のセリヌンテ遺跡を目指す。

 南海岸と言っても、セリヌンテはシチリア島の西端に近く、ローカルなシチリア島の中でも最もローカルな所である。

      ( シチリア島の内陸部の車窓風景 )

   個人旅行で訪れるとなると、パレルモからセリヌンテ遺跡の近くの町まで長距離バスが行っているが、そこからまた田舎の路線バスに乗り継いで、遺跡に向かうことになる。しかも、宿泊施設もないから、個人旅行で訪れるのはなかなか面倒だ。

 セリヌンテの遺跡は、青い海原を見下ろす丘の茫々とした野っ原にあった。

 野っ原に、倒れた巨大な円柱がごろごろと横たわり、白、黄、赤の野の花が咲いている。それが、セリヌンテだった。

     ★   ★   ★

 (以下、紅山雪夫『シチリア・南イタリアとマルタ』を参考に記述した。)

 セリヌンテにギリシャ人がやって来て植民市を築いたのは、遠い遠い昔、BC651年であった。

 南側が地中海に面した丘で、丘の両側にも海が入り江となって入り込んでいて (今はすっかり土で埋まって陸続きのようになっているが)、防御のためにも、交易の港としても、絶好の地であった。

 海に面した丘の高台には、海から見上げることができるように、ギリシャの神々に捧げられた5つの神殿があり、「アクロポリスの丘」となっている。居住地区は、神殿の丘の北側に広がっていたらしい。

 さらに、「アクロポリスの丘」の東側の高台にも、入り江を隔てて、3つの神殿群が建てられていた。

   港を出入りする古代の船は、両岸の丘に高くそびえる神殿群を見上げながら入港することになる。それは、セリヌンテの市民にとっては誇り、他国から交易に訪れた船乗りや商人たちには、セリヌンテの威容と繁栄を教えるものであった。

 だが、この地は、彼らギリシャ人と敵対するフェニキア人の、地中海最強の都市国家・カルタゴ  が、アフリカ側とはいえ、海を隔てて目と鼻の先にあり、頼りとするシチリア最大の都市国家シラクサはずっと遠かった。

   だから、長年に渡ってセリヌンテは、カルタゴと友好関係を保つよう懸命の努力をしてきたのである。

 しかし、セリヌンテが発展するにつれて関係は悪化していき、ついにBC409年、カルタゴの10万の大軍に攻撃された。この戦いで、1万5千人の市民が殺されて、セリヌンテは滅亡してしまった。

 それでもセリヌンテは、カルタゴ領の小さな町となって細々と生きてきたのだ。

 だが、BC250年、カルタゴが新興国ローマと激突したポエニ戦争のとき、足手まといになると全住民が移転させられ、セリヌンテは廃墟の町になってしまった。

 廃墟の町になっても、巨大な神殿や人々が暮らした居住区の建物は残っていたらしい。だが、それも、大地震で倒壊してしまって、歳月は流れ、また流れ、いつしか人々はここに町があったことさえ忘れてしまった。

 さて、時は一挙にAD15、6世紀に跳び、ヨーロッパはルネッサンスを迎える。つまり、キリスト教の神がこの地上の人々を支配した中世という時代の前、古代ギリシャ、ローマの時代を見直す運動が起こったのだ。その運動の中で、1人の人文学者が、奇妙な巨岩が積み重なっている所があるという農民の話を聞き、そこが古代史に登場するセリヌンテだと推測した。彼は、その場所と農民の話を記録に書き留めた。

 さらに300年も後の1822年になって、ルネッサンスの人文学者の記録が手がかりとなり、この地の発掘調査が始まったのである。

         ★

 日本の神社がそれぞれに祭神をもつように、ギリシャ、ローマの神殿も祭神をもつ。

 東側の3つの神殿群の祭神は判明しており、一つは知の神・アテナを祭ったアテナ神殿、最も巨大な神殿の遺跡が神の中の王ゼウスの神殿、そして、1957~8年に元の石材を積み重ねて、唯一、再建されたのが、ゼウスの妻ヘラに捧げられたヘラ神殿である。

 野っ原のなかの遺跡だけを見ているときはそうは思わないが、遺跡の付近に人がいると、石の柱や石の建造物の圧倒的な巨大さを実感する。

 

          ( 再建されたヘラ神殿 )

  ( 神殿の陰で憩う親子づれ ) 

 電気カートに乗って、1キロ先のアクロポリスの丘に向かった。

 こちらは、海の眺めが良い。だが、ヘラ神殿のように、再建されたものはない。

 

   ( アクロポリスの丘の廃墟 )

 

  ( 遠くに望むヘラ神殿 )  

  ( アクロポリスから地中海を望む )

         ★

      ( 傍らのポピーのような赤い花 )

 お天気も良く、地中海からそよそよと風が吹き、のどかだった。 

 「さても義臣すぐってこの城にこもり、功名一時の叢(クサムラ)となる。『国破れて、山河あり、城春にして草青みたり』……。

     夏草や / 兵 (ツワモノ) どもが / 夢のあと」

は、芭蕉が平泉を訪ねたときの感慨であるが、2500年も前の古代ギリシャ時代の話なのだから、「国破れて、山河あり」というほど、悲壮な感慨がわくわけではではない。

 何か、もっと今の心に合う歌があったと、さきほどから一生懸命に思い出そうとする、その歌が、ひょいと浮かんできた。確か小諸の懐古園に石碑があったはずだ。

    かたはらに / 秋草の花 / 語るらく /

        滅びしものは / なつかしきかな                 

                (若山牧水)

   遥かに遠い昔、10万の軍勢に対する凄絶な戦いがあったという歴史も、海と空と草花がすっぽりと包み込んで、何でもないよ、と言ってくれているような、とても安らかな気分にしてくれる、そういう場所であった。

   遥かな歴史もあり、牧歌的で、いつまでもいたくなるような、この全行程の中でも最も忘れられないシチリアの景色であった。

        ★

 その夜は、シチリアを代表する古代遺跡のある町、アグリジェントに宿泊した。

 

 

 

 

 

 

 

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もう一つの古代遺跡「神殿の谷」を見る … 文明の十字路・シチリアへの旅 8

2014年07月21日 | 西欧旅行…シチリアへの旅

 シチリアの旅の第3日目。曇り。時に小雨。

 旅ごころ身に付く。

 今日の日程はあわただしい。 世界遺産に認定された古代の遺跡群・アグリジェントはシチリア観光のハイライトの一つ。

 それからバスで1時間50分のビアッツァアルメリーナへ。ここも人気抜群で、古代ローマ時代の有力者(副帝)の邸宅跡を見学する。

 それからまた、バスで45分走って、バスに乗っている間に1700年ばかり歴史を前進させて、世界遺産のバロックの町カルタジローネを見学する。

 最後にもう一頑張りして、バスで1時間半のラグーサという、やはりバロックの世界遺産の町まで行って、宿泊する。

     ★   ★   ★

   アグリジェントは、セリヌンテから海岸沿いに走って100キロ強。パレルモから直行するなら、内陸部を縦断する列車の便もバスの便もあって約2時間。

 南海岸の中心をなす町で、県庁所在地。と言っても、旧市街と新市街を合わせても人口はわずか5万人の町である。

 昨日のセリヌンテよりもっと大規模な古代ギリシャの神殿群の跡があり、世界遺産にも認定されているから、シチリア旅行のハイライトの一つである。その分、観光客は多く、牧歌的とは言えない。

          ★

 旧市街は、丘の上に広がっていた。

 古代、やはりこの丘もアクロポリスの丘であった。丘の最も高い所、今はキリスト教の大聖堂が建つが、かつてそこには最高神ゼウスに捧げられた神殿が海を見下ろしていたという。

 旧市街の下に広がる広大な地域が「神殿の谷」と呼ばれる考古学地区で、その遺跡はアーモンドが栽培される緑の農園と共存している。

 ( 旧市街のある丘とアーモンドの谷 ) 

 広大な範囲に広がる遺跡群のほんのサワリを、多くの観光客にまじって見学した。 

 「神殿の谷」と呼ばれているが、実際は「谷」とは言いがたく、一帯は丘の中腹にあたり、そこから地中海を一望することができる。

 NHK・BSプレミアムに「世界で一番美しいとき」という番組がある。その第1回目の放送は、アーモンド栽培に携わるシチリアの農家の一家を取材したものだった。アーモンドは春、桜に似たピンクの花を咲かせ、あたり一面が満開になると、匂うように美しい。

         ★

 アグリジェントは、昨日見学したセリヌンテに少し遅れて、ギリシャ人によって建設された。最盛期のBC5世紀には、丘の上のアクロポリス (今の旧市街) から神殿の谷 (アーモンドの広がる中腹一帯) を含めて、ぐるっと城壁で囲まれ、その人口は20万人に達したと言う。シチリア島の南海岸を制する、堂々たる一大勢力であった。            

  (「神殿の谷」から地中海を望む )

   その後の運命は、セリヌンテに似ている。

   というよりも、地中海の雄・カルタゴが主敵としたのは都市国家アグリジェントで、セリヌンテを巻き込んだかたちで、カルタゴによって滅ぼされたのである。

 それでも、アグリジェントの町そのものは、かろうじて生き残っていたのだが、ポエニ戦争で再び壊滅する。ただ、セリヌンテのように、人っ子一人もいないという完全な廃墟になってしまうことはなく、キリスト教が入って来て、中世には大聖堂も建てられ、現在に至った。

 南海岸を代表する町であり、県庁所在地であるが、人口は5万人に過ぎない。紀元前5世紀の人口の4分の1である。

 ユーラシア大陸の東の果てから、さらに海を隔てた島国に棲むわれわれ日本人は、歴史はいろいろあっても発展するものと思っているところがある。だが、地中海の歴史は、「衰亡」或いは「滅亡」ということがあることを教えてくれる。それは、単に驕れる平家一族の命運のことではない。 共同体全体、民族、国家そのものの衰亡、消滅ということである。

         ★

 ヘラ神殿はBC470年ごろに建設された。カルタゴ軍に破壊された後、ローマ時代に元の石材を積み直して再建されたが、後に大地震で倒壊してしまったとか…。

    ( ヘラ神殿 )

   ( コンコルディア神殿 )

   コンコルディア神殿はほぼ当時の姿を留め、これだけ完全に原形を留めているギリシャ神殿は、地中海世界でも珍しいそうだ。

   カルタゴ軍によってアグリジェントが滅ぼされたとき、この神殿だけは、なぜか破壊されずに残った。

   時は移りAD6世紀。世はキリスト教の世界で、コンコルディア神殿は聖ペテロ・パウロ教会として衣替えした。その際、柱と柱の間に切り石を積み上げて石壁にしたから、その後の大地震にも持ちこたえ、倒壊しなかったと言う。

 1784年、後世の付加部分が取り除かれ、再び古代の姿を記念する遺跡に戻された。

        ★

   しかし、コンコルディア神殿を含めこの遺跡群について、別の説もあることを紅山雪夫さんは紹介している。(参照『シチリア・南イタリアとマルタ』)

   ポエニ戦争でカルタゴを破ったローマは、征く先々で異教の神々とその文化を尊重し、パクスロマーナを築いた人々である。

   ましてや、自分たちと同じ神々を祀るギリシャ人の神殿を壊すようなことはなく、むしろ傷んでいた神殿については大規模な修復工事もした。

 ローマの著名な文筆家キケロは、ローマがこの地にやって来たとき、アグリジェントの神殿群は健在だった、と書き残しているそうだ。これを信じれば、カルタゴ軍がアグリジェントの神殿群を破壊したにせよ、それはごく一部で、大部分はローマに引き継がれていたことになる。

 では、その後、だれが破壊したのか?それは、2段階に分けられる。

   「激変が起こったのは、4世紀末 (注:393年) にキリスト教がローマ帝国の国教とされ、異教が禁止されてからだ。帝国の官憲のあと押しを得て、キリスト教の司教が信者たちを引き連れて、『ご当地一番の神殿』に押しかけ、これ見よがしにぶち壊して、その跡地にキリスト教の司教座聖堂すなわち大聖堂を建てたのである。アグリジェントでゼウス神殿が壊されて、跡地に大聖堂ができたのはその一例だ」。

   ローマ帝国の晩期、帝国内のあちこちで、アクロポリスの丘の神殿が、キリスト教徒によって破壊されていった。アグリジェントでも同様であったことは、丘の上の変貌が物語っている。

 この時代のキリスト教によるギリシャ、ローマ文化の破壊については、辻邦生の名作『背教者ユリアヌス』に生き生きと描かれている。古代が見直されるのは、ルネッサンスを待たねばならない。

  では、アグリジェントの、アクロポリスの丘の下、「神殿の谷」の神殿群を破壊したのは、だれか?

  それは 「6世紀、ビザンチン時代。憎むべき異教の神殿だというわけで、狂信的なキリスト教徒が壊してしまったのだ。その時点ですでにキリスト教の教会に転用されていたコンコルディア神殿を除いて」。

   この説明で、カルタゴ軍が、多くの神殿のなか、コンコルディア神殿だけを破壊せず残したという、割り切れない謎も解ける。カルタゴ軍は、基本的に神殿の破壊をしていなかったのだ。

 ただし、「いずれにせよ6世紀から9世紀までのあいだに大地震が起こって、破壊に追い打ちがかかったことは確か」だそうだ。やはり自然の猛威はすごい。

         ★

 西欧諸国からの観光客にまじって、あわただしく見学を終え、小雨の降るなか、バスに乗って、次の見学地・ピアッツァアルメリーナへ向かった。

 考古学的には立派な遺跡群で、だから世界文化遺産にも認定されたのであろうが、昨日のセリヌンテの、海と、青空と、雲と、訪ねる人も少ない丘の野っ原の野の花と牧歌的な遺跡群が、なつかしく思われた。 ( 続く )

               

 

 

 

 

 

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ビキニ姿のモザイク画、そして花の大階段……文明の十字路・シチリアへの旅 9

2014年07月14日 | 西欧旅行…シチリアへの旅

     ( カルタジローネのスカーラ )

 小雨降る中をバスは走る。

 車窓の緑は生き生きと潤い、ブドウ畑が続くかと思えば、オリーブ畑になり、或いはアーモンド畑となって、あちらこちらに赤、黄、白の野の花が咲き、マロニエの木が白い花を付けて小雨に濡れている。

 

    ( シチリア内陸部の車窓風景 )

   ピアッツァ・アルメリーナは、シチリア島の真ん中あたり、南海岸寄りの内陸部に位置する。そこからさらに西へ6キロのカザーレという小さな集落に、ローマ帝国時代のヴィラ (宏大な農園を伴った別荘) の遺跡がある。世界文化遺産である。

  ヴィラが発見されたとき、建造物は埋もれ、ほとんど朽ち果てていたが、大小合わせて40室もある部屋の床面が健在だった。その床の全面に、さまざまなモザイク画が施されていたのである。

  ヴィラができたのは帝政晩期の4世紀の初めごろ。ヴィラの主人はマクシミアヌス。

  皇帝ディオクレティアヌスは、AD293年、帝国を4つの区域に分け、東西それぞれに正帝と副帝を置いて、侵入する蛮族に即応しようとした。そのとき、西の副帝に任じられたのがマクシミアヌスである。アフリカ出身の軍人皇帝だった。

        ★

 見学者は、床よりずっと高い所に張り渡された通路から、床のモザイク画を見下ろしながら見学する。人気の観光スポットだから、狭い見学通路は数珠つなぎだ。 立ち止まって写真を撮っているうちに追いつけなくなったりして、ツアーの一行もばらばらになってしまった。

   ( 賓客を迎える天蓋の広間 )

       ( ガレー船 )

  ( 子供部屋の2頭立て戦車 )

   床のモザイク画は人が踏むから、ガラスなど壊れやすい材料は使えない。ゆえに、すべて石の粒であるが、高価な赤や緑の石もふんだんに使われていて、主人の権勢を示しているそうだ。

   このヴィラのモザイク画が現代人にこれほどに人気があるのは、下のビキニ姿で運動する娘たちの絵のゆえであろう。

                                                    

 こういう絵を見ると、まるで現代の若い女性を描いているようで、或いは21世紀の人間の感性はローマ時代に戻っていっているのかもしれない。

     ★   ★   ★

 再びバスに乗って移動する。

 時代はローマ帝国晩期から一気に進んで1693年。シチリアに大地震が起こり、島の南東部の多くの町が壊滅した。

 そのとき、折しもバロックの時代で、一人のバロックの建築家が復興の声をあげ、後期バロック様式で統一した町づくりが進められた。

 こうして生まれ変わった町々が、これから見学するカルタジローネ、今夜宿泊するラグーザ、パレルモとともに空港のある東部の中心都市カターニアである。大地震からバロック様式で復興した町として、一括して世界遺産に認定されている。

   これから行くカルタジローネは、バロックの街並みとともに、イスラム時代に伝えられ、町の産業となっている陶器づくりでも有名である。

        ★

 

   ( カルタジローネの町 )

 ここもまた丘の上の町だった。

 バスを降り、最近、ヨーロッパの観光で、どこの町でもよく見かけるようになったミニ・トレインに乗って、ざっと町を巡る。

 公園の塀が陶器で飾られていたり、バロックらしい装飾的な建物もある。

 しかし、バロックの町と言えば、やはりローマ。

 例えば、古代の戦車競技場の跡を派手なバロック様式の建物で囲み、豪華な噴水などを配したナヴォーナ広場や、背景の壁の全面を劇的なギリシャ神話の彫刻で飾ったトレヴィの泉などと比べると、申し訳ないが、こちらは貧弱である。

 この町の見どころはスカーラである。

 市庁舎広場からサンタ・マリア・デル・モンテ教会まで、一直線に伸びる142段の大階段。広場から花で飾られたこの階段を見上げたときは、だれしもが 「綺麗!」と絶句する。ローマのスペイン階段の劇的な趣とは違って、しかし、美しい。

                               

            ( スカーラ )

 階段に置かれているゼラニウムの赤い花も、階段に彩を添えるマヨルカ焼の装飾も美しい。

 階段の途中には、両サイドにオシャレなショップが並ぶ。

 

   ( 階段の途中のショップ )  

 そして、階段を登りきると、サンタ・マリア・デル・モンテ教会があり、その中も洗練されているが、それよりも階段の上からの町の眺めが好かった。  

  

  ( 階段の上からの眺め )

 もう一度階段を下りて、市庁舎のカフェでコーヒーを飲む。

 そして、再びバスに乗って、今夜の宿泊地ラグーサへ向かった。( 続く )

 

 

 

 

 

 

 

 

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ザッケローニを超えて … FIFAワールドカップ・ブラジル大会から

2014年07月08日 | 随想…スポーツ

 決勝トーナメントのアルゼンチン戦で、延長戦の激闘の末、1対0で敗れたスイスのヒッツフェルト監督の言葉。

  「監督としてこれ以上ない経験ができた。もう十分。これからは静かに暮らしたい」。

         ★     

 わがザッケローニ監督のインタビュー : 

 (監督自身の今後について聞かれて、「未定」と答えたあと)、「サッカーへの情熱が尽きることはない。だが、引退という選択もある」。

                          ★

 自分がそこにあることを誇りとし、自分のこれまでの人生の大半をかけてきた舞台から去るという決断は、サッカー以上に難しい。

 心の隅を、敗れて消えていく無念の思いもよぎる。

 しかし、引退して初めて、自分に別の生きがいもあったことに気付かされることもある。

 限りなく、日本人に体型の似たザッケローニの、第二の人生が心豊かなものであらんことを祈る。

      ★   ★   ★ 

 日本が予選で敗退したことについて、非難や怒りの声がある。

 非難、怒りではないが、多くのファンも、それに、選手たちや監督さえも、落胆した。もっとやれると思っていたからだ。

 しかし、グループCのこの5月の世界ランキングは、コロンビア5位、ギリシャ10位、コードボアジール16位に対して、日本は46位。ダントツの最下位である。

 1位のスペインが予選リーグを敗退したのだから、逆に46位の日本が勝ち上がる可能性もなかったわけではない。

 しかし、まずは、順当な結果であって、残念であるが、非難や怒りをぶつけるのは、おかしい。

 自分勝手にふくらませた「過剰な期待」の裏返しが、非難や怒りである。

           ★

 そもそも、「過剰な期待」は、2010年の南アフリカ大会予選リーグで、カメルーンとデンマークに勝ち、オランダには負けたが2勝1敗で、予選リーグを突破したことにある。

 それで、今度はもっと上へ、ベスト4を目指して、いや優勝を目指して、となった。

 ベスト4とか優勝というのは一部の選手の思い上がった目標であって、もちろん日本サッカー協会や監督の「公約」ではない。

 サッカーファンなら、思い出してみよう。4年前、南アフリカ大会の予選リーグ3試合で、日本は4得点を挙げた。本田が2点、遠藤が1点、岡崎が1点である。

 今大会では、本田と岡崎が1点ずつ。

 その差の2点は ……?

 その2点は、本田と遠藤の目の覚めるような鮮やかなフリーキックの競演による2点だ。

 今大会でも、同じような距離からのフリーキックの場面があった。が、本田も、遠藤も失敗した。

 彼らを責めているのではない。 2010年大会のあのフリーキックは、再現するのが難しい、奇跡のキックだったということである。

 主力選手のキックが2本も神業のように決まったから、勢いに乗って、日本は予選リーグを突破した。

 今大会、確かに日本チームは不甲斐なかったが、奇跡を実力と勘違いして、期待過多になってはいけない。

          ★

 話は変わる。

 外国のラグビーチームと戦えば、大人と子供のような点差で負けていた日本のラグビーが、少しずつ強くなってきている。ニュージーランドから、エディー・ジョーンズヘッドコーチを迎えてからだ。

 並大抵の人ではない。ラグビーのワールドカップで、ニュージーランド代表監督として準優勝し、さらに、南アフリカを率いて、優勝した。ラグビー界の超大物。世界の名将である。

 彼は言う。「ラグビーとは、こうこうである」と、自分のラグビー観を振りかざして乗り込んでくるような監督を私は否定する。そういう監督は、うまくいかないとき、その原因を選手の質のせいにする。だいたい、これがラグビーだ、などというものは、ない。日本が強くなるためには、日本人に合った日本のラグビーを新しく創造していくしかないのだ。

 彼は、日本にやってくると、3人の監督を訪問して、話を聞いた。

 1人目は、女子バレーボール全日本監督の真鍋氏。オリンピックで一度も勝ったことのない、いや1セットも取ったことのない中国チームを初めて破って、日本女子を3位に押し上げた。

 高さとパワーの中国に勝つには、素早さ(俊敏さ)とチームプレーで勝負するしかない。レシーブ→トス→アタックの時間を、コンマ何秒か短縮したフォーメーションをつくって、大柄で鈍重な中国チームの態勢がわずかに整わない前にアタックをかける。

 心を一つにした激しいフォーメーションづくりの練習があったが、本番では中国と死闘を繰り広げ、フルセット戦って、ついに勝った。

 2人目は、プロ野球の原監督。

 言うまでもなく、ワールド・ベースボール・クラッシックで「スモール・ベースボール」を掲げて、世界の強豪国を倒し優勝した。

 ホームランバッターは不要。単打、バント、犠打、盗塁 … の細かい野球を展開して、勝つ。高校野球でやっている、あれだ。 日本の野球文化はここにある。根底には、フォア・ザ・チームの精神。

 3人目は、サッカー女子の日本代表監督、佐々木氏。なにしろ、ワールドカップで優勝して日本も世界もあっと言わせ、さらにオリンピックでも銀メダルに輝いた。

 佐々木監督が目指すサッカーは、スピードとパワーの外国チームに対して、俊敏性とチームの連動性で勝つサッカーである。

 それは日本女子の代表チームの目指すサッカーであるばかりでなく、U17女子チームの目指すサッカーであり、ワールドカップ男子日本代表の目指すサッカーでもある。すなわち、日本サッカー協会の基本的な方向なのである。

 エディー・ジョーンズヘッドコーチが訪ねた相手はいずれもクール・ジャパンであり、競技種目は違うが、みんな基本的に同じ方向に向かって、結果を出していたのである。

         ★

 この4月、U17女子サッカーワールドカップで、高倉麻子監督率いる日本チームが優勝した。

 大会を通じて、日本チームが取った得点は23点。失点はわずかに1点。イエローカードは3枚のみ。クリーンで清々しく、圧勝である。

 メンバーの半数が1m50台の小柄な選手。日本サッカー協会が追求してきた俊敏性とチームの連動性のサッカーが、ここでも花を開いた。

 高さやパワーがあっても、俊敏性のない選手は、日本代表チームでは使わない。チームの動きに付いてこれないからだ。

 女子ワールドカップで優勝したとき、アメリカの監督から、「日本の選手のパスは次の人を輝かせるパスだね」と褒められたそうだ。が、日本が目指しているチームプレーとは、ボールを持っている選手のプレー(この場合、パスを出す)のことではない。

 高倉監督は、試合形式の練習をしばしば止めて、ボールを持っていない選手1人1人の動きについて、なぜ、そちらに走ったのか? なぜ、敵のこの選手から離れたのか? などと選手に問い、指導する。

 1人1人の身体能力の高さ、また、幼いころから身に付いた技術の高さ、その点では、ヨーロッパの選手や南米の選手にかなわない。(それでも、追いつくよう努力するのは言うまでもない)。しかし、その技術は、「マイボールを扱う技術」である。あくまで「オレが、オレが」の世界である。日本では、ボールを持っていない選手が、次、自分はどう動いて、チームの連動性に貢献するかを常に考え、仲間とチームを生かす技術を学んでいるのだ。

          ★  

 男子でも女子でも、U17でも日本代表でも、日本のサッカーが追求し、目指している方向ははっきりしている。日本は日本のサッカーを創造する。

 低レベルの組織によくある、監督(社長、病院長、校長など)が変わるごとに、「新監督」に「丸投げ」し、組織の方向性が「新監督」の考えで一変するというようなことは、日本サッカー協会にはない。

 なぜなら、外国人監督を呼んできても、協会の体制がしっかりしているから、方向性がブレるようなことはない。この方向性だけはきっちり守ってもらう。そのうえで、プラスアルファを期待する。

         ★

 ドーハの悲劇が1993年。日本は連続9回も、アジア予選を勝ち抜けなかった。全盛期のカズもワールドカップに行くことができなかった。そのレベルだったのだ。

 そういう時代を経て、今日がある。今は、順当なら、アジア予選は勝ち抜ける。

 しかし、ワールドカップで、予選リーグを勝ち上がることが順当になるには、もう少し時間がかかる。しかし、日本が16チームに入るのは順当だと思われる時代も、いずれくるだろう。そのとき、日本のサッカーは世界からリスペクトされるようになっている。

         ★

 ザッケローニ監督の引退インタビューから。

 「昨日のコロンビア戦に関して、データを見ると、ボール支配率やシュート、攻撃回数、CK、FK、パスの成功率のいずれも相手を上回っている。にもかかわらず、試合は4対1で負けている。すべての面で上回っているのに、4対1で負ける。何かが足りない。

 足りないものを新しい監督が埋めてくれる。このチームをさらに強くしてくれる。その時期(監督交代の時期)が来たのだ」。

 これだけは、確かだ。

 FIFAランク5位のコロンビアに、ワールドカップという場面で、ボール支配率も、シュート・攻撃回数も、CK、FKも、パスの成功率も、すべてで勝っているなどということは、前大会までは考えられなかったことだ。 (了)

 


 

[ ネイマール負傷事件について ]

 南米対決。ブラジル対コロンビア。

 90分間に渡って、終始、暴行が行われた。特に、コロンビアの反則はひどかった。

 レフェリーは、試合の開始直後から、勇気をもって、もっと厳しくファールを取るべきであった。特に、後ろからのアタックに対しては、「危険なプレー」として、全てに、断固として、イエローを出すべきだった。90分間に渡るレフェリーの甘さが、最後に、ネイマールの骨折事件という犠牲者を出した。

 コロンビアの選手は、最初から最後まで、明らかにネイマールをねらっていた。ボールの方向にではなく、小柄なネイマールに向かって、露骨にアタックする選手もいた。

 最も上手い選手は、サッカー界の宝であろう。その選手を、試合中に暴行でつぶす競技が、サッカーというスポーツなのか? コロンビアは、恥を知るべきだ。

 ワールドカップという最高の場である。世界最高の華麗なプレーを期待して観ているのであって、汚い格闘技の「技」を観戦しているのではない。

 事故の場面について言えば、加害者は「わざとではない。謝まりたい」と言っているようだが、わざとでない、というのは、ボールに向かっていて、ネイマールに気付かなかったとしうことか?あの場面で、ボールの下にいるネイマールに気付かなかったとしたら、素人以下である。それに、目はボールを見ていない。無防備なネイマールの背中を見て、突っ込んでいる。ネイマールの背中を目がけて、膝打ちで跳びこんだ。意図的に負傷させた。下手をしたら、再起不能だった。

 繰り返すが、ゲームの最初から、ネイマール事件のあった終盤まで、ネイマールに対してだけでなく、終始、後ろからアタックをかけ、蹴りを入れるという暴行が行われていた。それを許し続けたレフェリーの責任は大である。                           

  

 

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バロックのラグーサと古都シラクサ … 文明の十字路・シチリアへの旅 10

2014年07月02日 | 西欧旅行…シチリアへの旅

   ( ラグーサの丘の上の「下の町」 )

 シチリアの4日目。曇り。

 今日は、バロックの町ラグーサを徒歩で観光し、その後、バスで東海岸のシラクサへ行く。古都シラクサ見学後は、この旅の最後の宿泊地タオルミーナへ。

         ★

< 大震災の後、バロック様式で町を再建したラグーサ >

 ラグーサは、17世紀末の大地震の後、碁盤目状の都市計画で再生させた「上の町」と、そこから東へ下っていく「下の町」とに分かれている。「下の町」はイブラ地区と言い、迷路のような中世の街並みを残しながら、そこにバロック様式の建物を建てて再建した。ただ、「上の町」とか「下の町」とかいっても、全体として丘の上の町であるのは、シチリアの他の町と同じである。

 宿泊したのは「上の町」。ホテルから徒歩で、奇抜な彫刻のある建物や、バロック様式の大聖堂を見て歩く。

 

       ( 店の外で小さな朝市 ) 

  ( 上の町の大聖堂 )

   ラグーサで一番の絶景ポイントはここ。「上の町」の東端から、「下の町」のイブラ地区が一望できる。

 

   ( イブラ地区を見下ろす )

   イブラ地区へ降りていく途中には、磨崖仏ならぬ磨崖のマリア像も。

 

   ( 洞窟のマリア )

 下の写真は茶系統の色合いと構図が良い (自画自賛)。ただ、点景として、階段の奥から、赤、或いは青の服の美女(らしき女性) がこちらへ降りて来ていたら、もっとよい。赤い風船を持った少女とそのパパなら、さらによい。

 

 ( 中世の趣の濃いイブラ地区 )

 「下の町」は、サン・ジョルジョ大聖堂のあたりが一番賑やかな所。

 この三層からなる大聖堂を設計したのはガリアルディという建築家で、大震災の後、被災・倒壊してしまったいくつかの都市の市民たちに、バロックの町として再生させようと、運動の中心になった人だ。

 

  ( イブラ地区の大聖堂 )

 震災の後、民主主義で、わいわいがやがやと、各自が自分の利ばかりを言っているうちは、何も起こらないし、良い結果は生まれない。誰かプロフェショナルな人を中心に据えて、わが町の「誇り」を再生しようと、みんなが心を一つにすることが大切なのだ。

  歴史を下部構造から説明したがる学者もいる。間違っているわけではないが、誰かがいないと大きなことは起こらない。その誰かが大切なのだ。坂本龍馬を歴史教科書から削除したい歴史家は、本当には歴史というものがわかっていないのだ。

      ★   ★   ★

< シチリアの古都シラクサへ >

   ラグーサから、バスで1時間半ばかり。シチリア島の東海岸に出て、古都シラクサへ。

 シチリア島において、パレルモが東京なら、シラクサは千年の都・京都である。ただし、時は気が遠くなるほどさかのぼるが …。

 BC734年、シラクサはギリシャの植民市として建設された。

 BC4世紀に、地中海の雄カルタゴが大攻撃をかけてきたときには、セリヌンテもアグリジェントも滅ぼされたが、シラクサだけは持ちこたえた。

 その後、人口も50万人に達し、地中海世界の最大の都市となる。

 BC264年、シチリア島の争奪がきっかけで、地中海の雄・カルタゴと新興国ローマが激突した。戦いは20数年に及び、ローマが勝利して、シチリアはローマ世界の一員となる。(第1次ポエニ戦争 BC264~241)。

 ところが、20年後。カルタゴの将軍ハンニバルは、スペインで兵を養い、アルプスを越えて、北部イタリアに侵入してきた。ホームグランドでこれを迎え撃ったローマだが、2回の会戦のいずれにも壊滅的大敗北を期する。

 ローマの元老院は、この大敗の事実を市民に伝え、全市民が3日間だけ喪に服したあと、国家総動員令を発して、引退していた老雄ファビウスに総司令官を委任する。(第2次ポエニ戦争 BC218~201)。

 老雄ファビウスの取った戦術は、天才ハンニバルとは戦わないという作戦であった。「金魚の糞作戦」と言ってもよいし、「ヒット・アンド・アウェー戦法」と言ってもよい。 国家総動員令で招集された決死のローマ軍は、金魚の糞のように、ハンニバル軍2万数千人の後ろに付いて行軍し、ハンニバル軍が向き直ると、… 逃げる。ハンニバル軍がイタリアの町の一つを落としても、彼が他の町へ移動すれば、たちまちその町を奪還する。怖いのはハンニバル1人で、本来、ローマ市民軍は強いのだ。

 こうして、ローマは、10数年間に渡ってイタリア半島からハンニバルを追い出すことができなかったが、ハンニバル軍がイタリア半島を制圧することも許さなかったのだ。わずか2万数千人のハンニバルの軍勢では、2度の会戦の圧倒的な勝利にもローマが屈せず、次の手の各個撃破も阻止されたら、如何ともしがたい。見事な、老ファビウスの勝利である。ローマの結束がそれだけ固かったとも言える。

 この歳月の間に、1人の若者が成長する。スキピオと言う。父も、ハンニバルとの戦いで戦死している。

 若者は、アレキサンダーやハンニバルのような天才ではないが、秀才だった。どうしたらハンニバルに勝てるか研究し続け、ハンニバルの戦法を徹底的に分析し、学習し、マスターしたのだ。師は知らなかったが、言わばハンニバルの第一の弟子がローマ側に生まれたのである。

 国や企業の衰亡の要因の一つは、情勢の変化にもかかわらず、自らの成功体験に固執し続けることにある。

 勝てないけれども負けないという「金魚の糞作戦」で成功し続けていたファビウスと元老院は、1人の若造の主張をバカにする。これに対する青年スキピオの演説が、私は好きである。

 「私の考えでは、これまでに成功してきたことも、必要となれば変えなければならないということである。私は、今がその時であると考える」。…… 今こそ決戦の時、私に軍を与えよ!!

 こうして若きスキピオはハンニバルに決戦を挑む。スペインで、また、アフリカで。

 同じ戦法を駆使する者同士なら、敵国の地で心休まる時もなく、既に10数年間も戦い続けてきたハンニバルとその兵士よりも、若く、新鮮なスキピオ軍の方が強い。ローマは圧倒的に勝利し、以後、カルタゴの名は地中海世界から消えた。

 さて、この第2次ポエニ戦争の過程で、シラクサは、連戦連勝していたカルタゴ側に組するのである。

 だが、ローマは強い。ハンニバルがいないところでは、断固、攻勢に出る。ローマに背いたシラクサを包囲し、2年間に渡る攻城戦の末、シラクサを陥落させた。

 このときのシラクサ市民のなかに、あの「アルキメデスの原理」で有名なアルキメデスもいた。 伝説では、彼は次々と新兵器を発明して、ローマ軍を悩ませたと言う。

  シラクサ陥落の時、ローマ軍の司令官は彼を助けるよう命令していたのだが、結局、混乱の中でローマ兵によって殺されてしまう。

 だが、今、町には、アルキメデスの名を付けた立派な広場がある。当然のことだが、シラクサの町の誇りなのだ。

 さて、その後もシラクサは、ローマ時代、ビザンチン時代と、シチリアの州都であり続けるが、9世紀のアラブ人の侵入に対して徹底的に抗戦したため、州都はパレルモに遷され、県都でさえもなくなり、小さな一地方都市として細々と生きた。

  シラクサが再びシチリア島の東海岸の中心都市になるのは、19世紀のイタリア統一後である。ただ、東海岸の中心都市と言っても、現在の人口は12万人。古代の50万人には遠く及ばない。

         ★

シラクサ散策 >

 シラクサはもともとオルティージャ島という島に築かれた町であった。ただし、島と言っても、本土との間はヴェネツィアの運河程度の幅しかなく、2つの良港があった。ごく小さな島だから、周囲を分厚い城壁で囲めば、ローマ軍でさえ悩まされる難攻不落の町になった。

 海岸の岸壁に立ち、この海をローマのガレー船が埋め尽くし、城壁の中からは、アルキメデスの考案した新兵器も使って激しい抵抗が続けられた、遠い歴史を想像してみる。人間の歴史が茫々と霞んでくる。

 ( かつてローマ軍に包囲されたシラクサの海 )

 周囲を海に囲まれたごく小さな島なのに、なぜか清水がこんこんと湧き出て、籠城しても水に困ることはない。

 アレトゥーザの泉も、海岸から数メートルしか離れていないのに、真水が沸き出している。それで、古代ギリシャ人の伝説もあるのだが、パピルスが茂っていることでも有名である。

 この島の中心は大聖堂。夜はライトアップされ、海岸沿いのプロムナードと並んで、今ではこの辺りも、オシャレなカフェやレストランで賑わうそうだ。

  

   ( シラクサの大聖堂 )

 大聖堂の西正面はバロック様式。

 だが、堂内に入ると、古代ギリシャ時代の巨大な石柱が並んでいて、この大聖堂がもとは古代ギリシャ神殿であったことをうかがわせる。

 BC5世紀に建てられたアテネ神殿を、AD7世紀のビザンチン時代にキリスト教の聖堂に転用し、17世紀の大震災後に西正面をバロック様式で再建した。

 それにしても、ビザンチン時代の柱と比べるとき、古代神殿の柱の巨大さに驚かされる。これがBC5世紀の柱かと、手で触ってみた。

 

 ( ビザンチン時代の柱と壁 )

  ( 古代ギリシャ時代の柱 )

         ★

   人口が50万人にも達した古代のシラクサは、当然、島の外へと発展していった。

   島を出て、丘の方へ上がって行くと、古代ギリシャの野外劇場、ローマの円形闘技場、「天国の石切場」などがある。

   ギリシャ時代の野外劇場は、BC470年ごろに造られた。座席や階段は、すべて岩盤を彫り整えたもので、直径138m、15000人が収容できるという。客席の上の方からは、シラクサ市街と港が望めたそうだ。

 

          ( ギリシャの野外劇場 ) 

   イタリアには各地にこのような遺跡があり、夏になると、遺跡を利用して演劇やコンサートの催しがある。

   今、ここでもその準備で、今風の装置が置かれているのは、観光客にとって少々興ざめだ。だが、星空を見ながら、風に吹かれて鑑賞する演劇やコンサートは素晴らしいに違いない。 古代人がうらやましいくらいだ。 

 「天国の石切場」は、古代の採石場の跡である。そのうちの「ディオニュシオスの耳」と名付けられた石切り場跡が観光ポイントになっている。

  良質の石材が得られるところばかりを選んで掘り進んだため、深い洞窟になっており、洞窟内の反響がすばらしく、洞窟のてっぺんの小さな穴から、洞窟内の話し声がよく聞こえるという。ディオニュシオスは古代の僭主の名。政治犯をこの洞窟に閉じ込めて、彼らの内緒話を聞いたという伝説を受けて、このような命名をされた。

   ( ディオニュシオスの耳 )

 洞窟の前に100人くらいの小学生が遠足?に来ていた。引率の男の先生が、「中に入ったら、皆で声を合わせて大声で叫ぶんだ」 と言って、子供たちに声を合わせて叫ぶ練習をさせている。

 そのフレーズの中の1つ。「皇帝フェデリーコⅡ世

 シラクサの若い女性ガイドに聞いてみた。

 「皇帝フェデリーコⅡ世は、今、シチリアの人々に愛されているのですか?」

 彼女はうれしそうに答えた。「はい。とても」。

 こちらもうれしくなって、笑った。

 ここは、カソリックの国だ。フェデリーコは、その先進性のゆえに、ローマ教皇と対立し、戦い、キリスト教から破門された。彼が生きているうちはまだよかったが、死ぬと、その後継ぎたちは、教皇の意を受けた勢力に攻め滅ぼされた。

 それでも、シチリアの人々は、フェデリーコを自慢している。

 フェデリーコがやったことのなかでもすごいのは、時の教皇の再三の要請を断り切れずにだが、神聖ローマ帝国皇帝として第6次十字軍を率いて出征し、イスラム教徒のスルタンと話し合って、一滴の血も流さず、エルサレムを回復したことだ。もちろん、イスラム教徒のエルサレムにおける権利は認める。

 もっとも、教皇は、怒り狂った。イスラム教徒の血を一滴も流さずに講和を結んで帰ったことが許せないのだ。第1回を除いて、これ以前も、これ以後も、唯一、成功した十字軍だというのにだ。「反対の声は常に高く、賛成の声は常に低い」 (塩野七生『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』から)。

 それにしても、時のスルタンも偉かった。開明的なリアリストだと思う。

 教皇には内緒だが、それ以後……、いや、既に出征するまでに、キリスト教徒の世俗界のリーダーである皇帝フェデリーコと、イスラム教徒の世俗界のリーダーであるスルタンが、肝胆相照らす仲になっていたことは確かだ。

 21世紀にもできないことをやってのけたのだから、偉い人たちと言うほかはない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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