ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

アメリカの大統領の広島訪問 … Why do we come to this place,

2016年05月29日 | エッセイ

 ( 原爆ドームを訪ねる少年少女 )

 2016年5月27日(金)、オバマ米大統領が広島の平和公園を訪問した。

 大統領は、花束を捧げ、黙祷し、そして、スピーチした。

 スピーチは、人間としての真摯さを感じさせるものであった。

 そのスピーチの中で大統領は言った。「私が生きている間にこの理想 (核兵器が完全に廃絶される世界) を実現させることはできないかもしれない」。

 今、現実世界を見る目をもつ人なら誰でも、「この理想」が、遥か彼方のものであることを知っている。

 それは、20世紀の終わりの頃よりも、一段と遠のいたかに見える。アメリカの大統領がその気になっても、世界の状況がそれ以上に悪化し、理想は地平線の彼方に遠のいてしまった。

 しかし、…… 私が生きている間に、アメリカの現職の大統領が、「原爆死没者慰霊碑」の前に立って、花束を捧げ、黙祷するようなことが起ころうとは、思ってもいなかった。

 だが、それが実現した。

 今、世界に希望はないように思えても、朝、水平線の上に太陽が昇ってくるように、突然、当たり前のことのように、状況は一変するかもしれない。

 世の中、捨てたものではない。そういうことを、思わせてくれた大統領の広島平和公園訪問であった。

 アメリカの大統領の黙祷の前に、死者たちも、自分たちが初めて人間としてリスペクトされたと感じただろう。それだけでも、素晴らしいことであった。

         ★

  ( 原爆死没者慰霊碑 )

 だ円形の御影石の屋根の下に、国籍を問わず、原爆死没者すべての氏名を記帳した名簿が納められた石室(石棺)がある。そして、その前に「安らかに眠って下さい。過ちは繰返しませぬから」の石碑が立つ。その向うには、原爆ドーム。

 石碑の文は、祈りと誓いの言葉である。

 誓いの言葉に主語がない、と言われた。あいまいな日本語!! あいまいな日本人!! だから、日本人はだめなんだ。

  戦後、「日本はだめだ」と言えばハイカラだという風潮が、知識人の中に、つい最近まであった。

 しかし、なぜ、欧米語の文法を日本語に当てはめ、欧米語の文法に当てはまらないからと言って、日本語に劣等感をもつのか?!! 

 日本語に主語は要らない。そもそも、この世の中のことをすべて、「我か彼か」の二元論で説明できると考えるほうが、よほど単細胞であり、言語としても欠陥がある。

 「主語がない批判」は、右からも、左からも、起こった。

 「過ち」ではない。確信犯・アメリカによる「犯罪」ではないか!! これは、右からも左からも出された非難だ。

 左派は、戦争を始めた日本軍国主義者も同罪である!! と叫ぶ。

 「過ちはくりかえしません」ではない。「過ちは繰返させません」とすべきだ、と言う。

 その延長線上に、今回のオバマ大統領広島訪問のニュースに対する中国・王毅外相のコメントがある。「広島は注目を払うに値するが、南京は更に忘れられるべきではない」「被害者は同情に値するが、加害者は永遠に自分の責任を回避することはできない」。

 彼の言う「加害者」とは、日本軍国主義者のことで、今も靖国参拝を繰り返していると、彼は言いたいのだ。

 今、世界の中で、ダントツに軍事費を増やし続けているのは、中華人民共和国である。そのことから人民と世界の目を逸らしたいのだ。

         ★

 そのような批判に対して、碑文を起草し、自らも被爆者であった雑賀忠義広島大学教授(当時)は、自ら英訳として「For we shall not repeat the evil 」と書いた。

 また、歴代の広島市長、例えば、山田節男氏は、「再びヒロシマを繰返すなという悲願は人類のものである。主語は『世界人類』であり、碑文は人類全体に対する警告・戒めである」と述べている。そして、今は、これが公式の見解となっている。

 オバマ大統領は、スピーチの冒頭から二つ目のフレーズで、「我々はなぜこの地、広島に来たのか。それほど遠くない過去に解き放たれた恐ろしい力について思いをはせるためであり、10万人を超える……犠牲者を追悼するために来た」と述べているが、その英文は 「Why do we come to this place, … 」 である。

 先に引用した 「私が生きている間にこの理想を実現させることはできないかもしれない」 の前にも、実は、「我々は、」 があり、「我々は、私が生きている間にこの理想を実現させることはできないかもしれない」 、原文は、「We may not realize this goal in my liferime 」となっている。

 大統領のこのスピーチの中で、we は何度も使われている。

 この「 we 」は、だれを指すのか? あいまいなのは英語も同じである。

 まさか大統領が、大統領に同行してきた付き人を含めて、「我々」と言っているのではなかろう。

 同行する安倍首相と大統領、さっきまで会議していたサミットのメンバー、アメリカ合衆国、アメリカ国民 …… 等であるなら、そう述べたであろう。終始、「 we 」 で通すことはない。

 オバマ大統領もまた、「世界人類」を主語としてスピーチしているのである。

 ただ、中国の王毅と根本的に違うのは、大統領は自分自身を、「世界人類」の主体的一員として認識し、死者に対して真摯に向き合っているという点である。

 「彼ら (原爆の犠牲者たち) の魂は私たちに語りかけている。もっと内面を見て、我々が何者か、我々がどうあるべきかを振り返るように、と。」

   王毅のように、中国共産党史観をふりかざし、「ためにする議論」に原爆を利用することは許されない。

 この問題に、アメリカや、中国や、韓国や、日本のナショナリズムを持ち込むのは、ご免である。

 謝罪を求め、際限のない鬱憤晴らしをしても、自らを貶めるだけで、人類進歩の役には立たないし、彼岸の死者も喜ばない。

 世界人類の一人一人が、20数万人の原爆による死者の前に立ち、「安らかに眠って下さい」と祈り、「過ちは繰返しませぬから」と自分の心に小さな誓いを立てることが、原爆死没者の同胞である我々日本人の願いである。そして、その誓いが世界の大多数の人々の祈りの言葉となる日を、我々日本人は、居丈高にならずに、辛抱強く待ち続けるであろう。

 自ら折った折り鶴を持参したアメリカの大統領に、人間らしい感性と知性を感じた。一方、中国人のレベルは相当に低い。

 国民・一般大衆のことではない。リーダーのことである。

 

         ( 原爆ドームのそばで )

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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水城にみる古代日本と現代の東アジア情勢 … 玄界灘に古代の日本をたずねる旅(5)

2016年05月21日 | 国内旅行…玄界灘の旅

水城 (ミズキ) にみる古代日本 > 

 『日本書紀』にいわく、「筑紫に大堤を築きて水を貯えしむ。名づけて水城といふ」。

 水城 (ミズキ) は、唐の水軍が博多方面に上陸し、侵攻してきたときに、太宰府を守る防衛線として、664年に築かせた直線状の土塁と堀である。平野部の、両側から山が迫って狭くなった箇所を塞ぐように築かれ、その間は1.2キロである。

 

  (「太宰府展示館」の展示資料)

 さらに、翌年には太宰府の東の山頂に大野城を築き、続いて基肄 (キイ) 城などの山城を次々築いていく。大野城は、広い区域を城壁で囲った朝鮮式の山城で、軍事に通じた亡命百済貴族の指揮の下に建設された。いざというときには、太宰府をこの中に遷し、長期戦を戦うための城である。

  上の図は、「太宰府展示館」の展示資料で、水色は博多湾、緑色は平野部。図中の1~6が水城。その東に大野城がある。

 そのときから1300年余年の歳月が過ぎた。今、水城は、樹木でおおわれ、平野に取り残された林のつらなりのように見える。知らない人は、なぜこのような自然の丘陵が、自動車道路や線路を横切っているのか、不審に思うだろう。

 

         (現在の水城)

 きのう訪問した九州国立博物館の入り口に、太宰府政庁の模型とともに、水城を築く当時の様子を模型化した展示もあった。今、見る樹木の下はこうなっているという模型だ。

 私は、古代に造られた「土塁」だから、せいぜい高さ1mぐらいの、実際に戦闘となればたいして役に立たないものだったのだろうと想像していたが、そのような規模ではなかった。

       (水城を築く)

 土塁の高さは13mを超え、基底部の幅は80m。その博多側にあった堀は、幅60m、深さは4mで、水を貯えていた。また、太宰府側にも幅4~10mの内堀があった。

 土塁には東西2カ所の開口部があり、第1期政庁の時代は防御的機能を持つ門であったが、奈良時代には壮麗な楼門となり、約16キロの直線道路が博多湾にある迎賓館と結んでいた。 

          ★

 < 古代日本史上最大の危機 … 百済滅亡と白村江の大敗>

* 以下は、直木孝次朗『日本の歴史 2 』及び司馬遼太郎『韓のくに紀行』を参考にした。「 」 の引用は 『韓のくに紀行』 である。

 「中国大陸が四分五裂すると、朝鮮は息をつく」。

   「朝鮮半島に、政治的には劇的な、そして文化的にはきらびやかな三国 (百済、新羅、高句麗) 鼎立時代が現出するにいたるのは、中国が統一されていなかったからであった」。

 「ところがこの三国時代が夢のように消えて、百済も滅びるのは、中国大陸に大唐帝国という空前の統一王朝が誕生したためである。この中国統一の余波は、大津波のように日本にも襲い掛かってくる…」。

 660年、唐は新羅の要請に応じる形で、水陸13万の兵を出し、百済攻撃に乗り出した。

 「百済の防衛軍は、唐・新羅連合軍のためにほとんど一撃でくずれた」。

   「かれ (百済の義慈王) は捕虜になった。新羅に捕らわれたのではない。唐の捕虜になった。新羅が敵であったというより、唐が敵であったということが、この一事でもわかる。かれは唐の軍船に乗せられ、唐土へ連れ去られた」。

 「唐の主力がひきあげると、百済の遺民たちは再興のために兵をあげた。このゲリラ戦の大将はかつての重臣団の代表格である鬼室福信で、かれは日本に援軍を乞うた」。「日本には  (百済との同盟の人質として) 義慈王の王子豊璋がいた」。「鬼室福信は (新王として迎えるため) その帰還を乞うた」。

 大化の政変からまだ15年であった。新羅が唐に接近していたことは聞いていたが、事態は急転したのだ。多年、交流を深め、揚子江流域の南朝仏教文化をわが国に伝えてくれた (→飛鳥文化)百済の都が焦土と化したのである。そして…、次はわが国かもしれない。

 662年、まず新百済王・豊璋に、安曇連比羅夫を将とする 5千余の兵を付けて送り返した。「比羅夫」は固有名詞ではない。司令長官というほどの意味を持つ。

 さらに、翌年、老いた女帝・斉明天皇が自ら筑紫に出向くという、国運をかけた空前の軍事行動に乗り出し、阿倍比羅夫らに率いられた2万7千余の兵を新たに半島に送り出した。当時の人口を考えれば、国を挙げての大動員であった。

 当初、百済独立軍と日本軍の戦いは、唐軍が高句麗を攻めていた間隙を衝いて、大いにふるった。

 だが、調子が良くなると、オレが、オレがの仲間割れが起こるのが、半島の習性である。鬼室福信が副将と争ってこれを殺し、さらに豊璋王があろうことか鬼室福信を殺してしまった。残ったのは、軍隊統率のできない豊璋王のみで、独立軍の士気は一気に衰えた。

 この事情を知らずに半島の南部で新羅軍と戦っていた蘆原君 (イオハラノキミ) の率いる1万が、機は熟したとみて、船で白江に向かった。一方、唐・新羅軍も、態勢を立て直し、百済軍の立て籠もる周留城を包囲し、唐の水軍も周留城に迫るため白江に集結した。

 蘆原君の率いる日本軍が白江に着いたとき、唐の水軍はすでに待ち構えていた。海戦は、日本軍が到着した日と翌日の二日間戦われた。

 日本史上、周囲を海に囲まれた国土を防衛するには陸軍より海軍の整備が必要だと気付くのは、幕末の勝海舟らを待たねばならない。白村江のときも、唐の巨大な軍船に対して、日本の船は歩兵や武器の輸送用に動員した小型船で、しかも、「唐の戦艦は前後に自由に進退する能力を持っていた。日本水軍の突撃を見て、たちまち左右に分かれ、やがてその両翼に日本水軍をつつみこんだ。あとは矢戦と火攻めを繰りかえすだけである」。

 唐側の記録にいわく、「四たび戦って勝ち、その (日本軍の) 舟四百艘を焼く。煙と炎、天にみなぎり、海水赤し」。

  『日本書紀』 にいわく、「ときの間に官軍敗積し、水に赴きて溺死する者多し。艪舳(ヘトモ) めぐらすを得ず」。

 陸上においても、百済独立軍が立て籠もる周留城は落ち、戦いは日本軍・百済独立軍の惨敗に終わった。

 白村江の戦場を離脱できた日本軍は半島の南部に退き、各地を転戦中の日本軍を集め、亡命を希望する百済人を伴って、日本に帰還した。

 「日本の水軍が白村江で壊滅的打撃を受け、百済の独立運動が敗北したとき、敗残の現地日本軍は百済人たちを大量に亡命させるべく努力した」「さらには当時の天智政権は国をあげてかれら亡国の士民を受け入れるべく国土を解放した。日本歴史の誇るべき点がいくつかあるとすれば、この事例を第一等に推すべきかもしれない」。

 「百済の亡国のあと、おそらく万をもって数える百済人たちが日本に移ってきたであろう」。

 百済独立軍の指導者・鬼室福信の身内と思われる鬼室集斯という亡命百済人のリーダーの一人の草むした墓石が、滋賀県蒲生郡にあるという。彼は朝廷がつくった「大学」で教授をし、その後、引退して一族の棲むこの地で没した。

 百済人ばかりではない。やがて大唐の圧力下に揺れる新羅からも亡命者はくるようになり、これらの人々が律令国家建設に力となった。

 「日本の奈良朝以前の文化は、百済人と新羅人の力によるところが大きい」。「さらに土地開拓という点でも、大和の飛鳥や近江は百済人の力で開かれたといってよく、関東の開拓は新羅人の存在を無視しては語れない」。

 「炎上する百済の都・扶余」のイメージは、トロイの落城や、コンスタンチノーブルの陥落などと並んで、胸に迫るものがある。白村江における日本軍の壊滅的敗北もまた、日本古代史の悲劇的な1ページであった。

 そのあとの20年近く、中大兄皇子・天智を筆頭とする多くの人々が、都は言うまでもなく、北九州でも、瀬戸内海、大和の各地でも、近江でも、大唐帝国の恐怖と向き合いながら、ぴんと張りつめた緊張感のなか、次々と施策を打ち出し行動した日々を、今、現代日本人は、遥かに想像してみることも必要だろう。

         ★

唐軍はなぜやって来なかったのか??  ── 日本の地政学的位置 > 

 当時の日本人には、なぜ唐の水軍がやってこないか、その理由がわからなかった。わからないながらも、備え、不安のうちに、態勢を整えていった。

 元外交官で、先年、亡くなられた岡崎久彦氏の著作 『陸奥宗光とその時代』 『小村寿太郎とその時代』 『幣原喜重郎とその時代』 『重光・東郷とその時代』 『吉田茂とその時代』 (いずれもPHP文庫) は、外交を軸に書いた、すぐれた近代日本史であるが、以下、岡崎久彦氏の『戦略的思考とは何か』 (中公新書) から引用する。アンダーラインはブログ筆者。

         ★

  「白村江の敗戦後、日本は唐の侵攻に備えて、対馬、壱岐、筑紫に防人と烽火を置き、各地に城を築きます。しかし、半島南部の百済を滅ぼした唐軍は、北進して高句麗に向かい … 」。

 「これ (高句麗) が滅びると、…… 唐と新羅の戦争が始まって、新羅は (高句麗の遺民たちも)、ちょうど今の休戦ラインの北あたりで唐の軍勢をよく防いで、半島南部には唐の勢力の侵入を許しません」。

 「… もし唐軍が新羅を征服したならば次は日本だったことは充分想定されます。… 唐と新羅の戦争は、日本にとって神風以上の幸運だったといえるでしょう」。

 つまり、唐軍が日本にやってこなかったのは、ひとえに高句麗、これに続く新羅の粘り強い戦いがあったからである。

 中国大陸に「膨張的な国」が生まれても、それが直接に日本を襲ったのは、日本史を通じて、あの元寇のとき 1回だけであった。

 「その後 (唐以後)、宋、契丹、明、清の時代に、大陸中心部の勢力は一度も半島南部に及んでいません」。

 「元寇のときと状態が最も近いところまでいったのは朝鮮戦争のときで …… (このときは) 国連軍が (半島最南端の) 釜山の橋頭保をよくもちこたえて、反撃に転じました」。(このとき、占領下にあった日本に対して、マッカーサーは、自衛隊の前身である警察予備隊の創設を命じた)。

 「これだけからも、大陸に「膨張主義的な大国」が出現して、朝鮮半島南部の抵抗が崩壊し、大国の勢力が南部にまで及んだ場合は、極東の均衡の条件が崩れて日本に危機が迫るという、考えてみればあたりまえすぎるようなことが、日本の戦略的環境にとって真理として残ることになります」。

 「もちろん、半島南部を取られたからといって、それが日本の破滅ということでなく、そこから日本の正念場が始まるわけです」。

 「… そういう場合は、白村江の後とか、元寇のときのように、西日本は要塞化し、全国的に動員態勢をとる必要が生じています」。「結局は今も昔も同じことで、半島南部の海空軍基地が非友好的勢力の手におちた場合を考えると、日本が追加的に必要となる防空能力、制海能力、揚陸阻止能力、ひいては防衛体制全般は、現在のものと質量ともに抜本的に異なるものとならざるをえないでしょう」。

         ★

 新羅は唐軍を追い返したあと、唐に朝貢する。それは、幸運にも唐に勝つことができたが、広大な唐を征服したわけではないからである。地政学的には、いつもご機嫌を取っておかなければならない巨大な大国だった。

 ベトナムもそうである。ベトナムも中国に侵攻されて、負けたことはない。あの蒙古を追い返したのは、日本とベトナムだけである。そのベトナムも、勝ったあと、中国に朝貢した。

 だが、新羅にとってもベトナムにとっても重要なことは、中華帝国が総力を挙げ、10年、20年という歳月をかけても屈服することなく、これ以上侵攻政策を続ければ逆に帝国内に不満が鬱積して内乱が起こり、自国が崩壊するかもしれない、ということを学習をさせたことにある。

 朝貢だけで、膨張的な中華帝国から身を守ることはできない。唐が百済を攻撃する以前から、百済も日本も遣唐使を送り、仲よくしていたつもりだったのである。

 このことを、現代の日本国民は、よく理解しておく必要がある。

          ★

 かの半島の国は、他国を侵略したことはないが、他国に攻められたときはタフで、徹底抗戦する。

 そういう国が、「大陸本土と日本との間に介在している ── これほど日本の安全にとってありがたい条件はないといえましょう」というのが戦略的思考である。

 ただし、かの隣国は、歴史的には常に「容中、非日」であった。中国は親のごとき存在であり、自分はその長男、日本その他の国は不肖の弟に過ぎないという儒教的序列主義を信奉してきた国である。儒教では、そういう序列の心を「孝」と呼び、そうしてできあがった序列文化を「礼」と呼ぶ。彼らが感情的に「反日」であるのは、日本がそういう秩序に無頓着で、「弟としての分」をわきまえないからである。

 付き合いにくい相手である。観念の中に生き、プライドが高く、メンツにこだわり、理屈っぽく、ひつっこい。時には、「反日」を主食にして生きているのではないかと思うほどである。

 だが、中華人民共和国は中国共産党の支配する国家で、立党の精神そのものが「膨張主義」である。お人よしアメリカは、市場経済が発展すればやがていい隣人になるだろうとタカをくくっていたが、隣人どころか、市場経済を食いながら巨大化し、今や彼らの世界戦略をあらわにしてきている。同じ「反日」を言っても、韓国とは戦略的立ち位置が全く違うのである。

 事、自国の防衛と安全を考えるとき、両者を混同してはいけない。

 「同じ反日でも中国の方がマシだ」、などという戦略がわからない小人の議論に陥らないよう注意する必要がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

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膨張する唐と向き合った太宰府政庁 … 玄界灘に古代の日本をたずねる旅(4)

2016年05月16日 | 国内旅行…玄界灘の旅

< 第2日目の旅の計画 > 

 2日目は何とか晴れた。今日は忙しい。

 まず太宰府政庁跡を見る。今は何もない原っぱのはずだが、そこに立てば、太宰府のイメージがもっと生き生きしてくるはずだ。  

 次に、時代は一気にさかのぼって、あの「魏志倭人伝」に登場する「奴国」と「伊都国」の跡に建つ資料館に寄る。今は、「奴国」や「伊都国」の姿をイメージできるようなものはないだろうが、少なくともクニとクニの相互の距離感や玄界灘との距離感を、車で走って体験できる。

 道すがら、仲哀天皇の香椎の宮にお参りする。時代は古墳時代だ。

 そのあと、玄界灘に長細く突き出した砂洲・「海の中道」を走って志賀島に渡り、志賀海神社を訪ねる。志賀海神社は海人族とされる安曇氏が祀る神社で、今日の行程の中では最もロマンをかきたてられる目的地だ。

 今夜の宿は、その志賀島の先端にある国民休暇村である。

     ★   ★   ★

< 今は広々とした原っぱの太宰府政庁跡 >

 昨日、見学した九州国立博物館の玄関口に、「太宰府政庁」のりっぱな模型が陳列されていた。

 太宰府と言っても古代のこと、どうせ草深い田舎の役所だろうと、長年、勝手なイメージを描いていた。菅原道真が、流刑されたと嘆いたくらいだから。

 今回、旅に先立って、少しばかり最新の考古学情報を仕入れた。そして、大宰府政庁が、最近、奈良の平城宮跡に復元された朱雀門や大極殿を思わせるような壮麗なものであることを知った。

 

   ( 太宰府南大門の模型 )

 私の歴史知識は、高校時代に勉強した「日本史」である。そのころ、太宰府政庁跡の発掘調査はまだ行われていなかった。だから、当時、日本史の先生でも、太宰府政庁の実際の規模や太宰府を守るために築かれた水城 (ミズキ) の構造などはイメージできていなかった。

 私の太宰府のイメージに多少とも血が通うようになるのは社会人になってからで、万葉歌人として著名な山上憶良が筑紫の国の国司であったことや、「貧窮問答歌」は筑紫の国の守であったころの作品であること、それに彼が渡来人の2世かもしれないということも知った。

 山上憶良の上司に当たる当時の太宰府の帥(長官) ── 3位以上で、かつ参議以上の人たちがいわば閣僚で、20人くらいいた。大宰府の帥は4位で、閣僚に次ぐポスト。偉いのだ!!  ── が、万葉歌人として憶良と歌を詠み交わす大伴旅人であること、大隅国一円で起こった大規模な反乱の折、旅人は司令長官として九州各地から兵を動員し、これを鎮圧したことなども、社会人になってから加わった知識である。大伴氏はもともと大王の軍事を司る一門で、「万葉集」を編集した歌人・大伴家持は旅人の子息である。

 今回、旅に先立って、少しばかり考古学的な情報を得た。そして、太宰府や水城のことを改めて知り、ただ驚いた。

 物量のことである。物量とは文明である。太宰府政庁の規模、さらにはその太宰府を守るために造られた水城の規模や構造に驚いた。古代、恐るべし、である。

         ★

 昨夜、宿泊した二日市温泉から、街の中の道を車で40分ほど走って、太宰府政庁跡に着いた。

    ( 南大門跡のあたり )

 雨上がりの緑はみずみずしく、街中を走って来た目には、大きな木立に囲まれた、何もない広々とした原っぱはいかにも心地よかった。三々五々にたむろする高校生の遠足グループ、小学生の遠足のグルーブは一列の長い列、一般の観光客も思い思いに散策したり、座っておやつを食べている。

 木立に囲まれた見渡す限りが、太宰府政庁の敷地の跡である。

 

 ( 正殿はやや左上のこんもりした辺り )

 

(正殿跡の「都督府古址」の碑)

 

   ( 小学生の列 )

 原っぱの隅に、太宰府展示館の建物があったので、入って資料を見た。

 手前が南大門、奥が正殿である。

 歴史上、古代日本の最大の危機は、中国大陸に超大国・唐が生まれ、「膨張」を始めたときである。

 日本に情報が入ってきた時には、日本の友好国・百済は唐の一撃で滅亡させられていた。さらに唐は手こずりながらも、強国・高句麗を亡ぼす。さらに矛先を新羅に向けて、朝鮮半島全域を支配下におこうとしたが、ついに長年の戦争にいきづまり、兵を引き上げた。

 この間、百済侵攻の660年から新羅からの撤退の676年に至る、おおよそ15年~20年間である。

 660年、唐・新羅軍の侵攻による百済の滅亡の後、蜂起した百済独立軍を助けるべく、日本は国力を挙げた派兵を行うが、663年の白村江の戦いにおいて唐の水軍に大敗する。

 勢いに乗った唐軍がいつ海を越えて侵攻してくるかわからない。そういう恐怖と緊張のなか、665年(天智4年)、かつては博多湾にあった外交の役所を、もう少し内陸部に移動させ、日本防衛の最前線の司令部として設置したのが、「太宰府」である。これが第1期政庁である。

 それから約50年後、唐の膨張がおさまり、東アジアの情勢が安定して、大陸との交流が盛んに行われるようになる。

 そこで、708年~717年ごろ、 太宰府政庁は、唐や新羅の使者を受け入れ、ヒト、モノ、カネが行き交うにふさわしい威厳と壮麗さをもった建物へと建て替えられた。

 その政庁の敷地の広さは、東西約111m、南北が約211mであった。(第2期政庁)

 また、その政庁を中心に条坊制に基づく官衙・居館が建ち並ぶ近代都市・太宰府もできあがる。一説によると、それは、東西26キロ、南北24キロに及ぶ、ほぼ正方形の街区をもっていたとされる。

 平安時代、第2次政庁は、一度、藤原純友の乱によって焼失する。

 第3次政庁は、純友を討ち取った4年後の941年に、第2次政庁とほぼ同規模・同構造で再建された。

 現在、復元されている模型は、第3次政庁のものである。

         ★

 いま、そこには何もない。周囲をこんもりした木立に囲まれ、広々とした原っぱと、3つの石碑と、わずかに石畳や石段の跡が残るのみである。

 そこに、高校生や小学生がやってきて、歴史を勉強する。

 その風景を見ながら、古代日本は、想像していたよりもずっと頑張っていたんだという思いが、青い空に浮かぶ小さな白い雲のように、胸にぽかりと浮かんだ。 

 

 

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大宰府の鬼門を守る竈門(カマド)神社へ … 玄界灘に古代の日本をたずねる旅 (3)

2016年05月06日 | 国内旅行…玄界灘の旅

< 充実した展示の九州国立博物館>

 大宰府天満宮の美しい菖蒲池や「如水の井戸」を巡って行くと、九州国立博物館に出た。

 お目当ては4階の常設展「海の道、アジアの道」だったが、3階の特別展示室で兵馬俑展をやっていた。

 博物館の中は「撮影禁止」のため、写真はない。

 兵馬俑の、将軍や兵士の、一人一人異なる顔は、緊迫感があって、すばらしい。その後の中国やアジア圏で見られる仏像彫刻などと比べて、いかにも人間的で、個性的である。

 中国という国は不思議な国で、春秋、戦国時代から秦帝国に至る紀元前の時代が、歴史のダイナミックな動きにおいても、諸子百家を生み出した思想的営みにおいても、或いは、兵馬俑のような美術品を見ても、いかにも生き生きして、「人間」が躍動している。

 ところが、そこから時代が新しくなるにつれて、アジア的古代専制国家として、沈滞していく。

 人間賛歌の古代ギリシャ、ローマの時代から、キリスト教の支配する陰鬱な中世へと進んだヨーロッパと似ているが、ヨーロッパの場合はその後、ルネッサンスがあり、ブルジョア革命があった。

 一方、中国は、今も、アジア的専制国家のままである。皇帝とその儒教的官僚群による中央集権国家は、そのまま中国共産党組織に引き継がれている。

 4階の常設展は、「海の道、アジアの道」をテーマにして、縄文時代から、魏志倭人伝の時代を経て、江戸時代に至る5つのゾーンによって構成される。

 お目当てにしていたのは、その弥生時代、魏志倭人伝の時代であるが、なかなか充実していて、全部をゆっくり見るには、何度か足を運ぶ必要がありそうだ。

< ひとこと >

 あの「モナリザ」を含めて、パリのルーブル美術館も、オルセー美術館も、フラッシュをたかなければ自由に写真撮影できる。日本では、どこもかしこも写真撮影禁止だ。ガラスのケースの中の考古学的遺物を撮影して、何が問題なのか?? そもそも誰のための博物館なのか??

         ★

 < 神体山に起源をもつ竈門 (カマド) 神社 >

 竈門神社は、太宰府天満宮から20分ほど北東の方向へ県道を走った、宝満山 ( 古くからの名は竈門山。標高829m ) の山懐にある。別称は宝満宮。

 

 この神社が世に出たのは、太宰府 (天満宮のすぐ西の一帯) の東北、鬼門の方角にあり、「太宰府鎮護の神」として崇敬されるようになってから。

 もちろん、信仰の起源はそれより遠く遡り、今も山頂に祠のある宝満山が、古来から神体山として信仰されていたらしい。

 「カマド」の名の由来については諸説あるが、宝満山 (竈門山) の形が竈 (カマド) に似ており、雲や霧が絶えず、竈で煮炊きする様子に似ているため、とする説が、いかにも万葉風で、古代の風韻を感じさせる。

 平安時代以降は神仏習合が進み、宝満山は九州における修験道の有数の道場となっていった。

 現在、竈門神社、宝満山を含む一帯が、国の史跡に指定されている。

         ★ 

 石の鳥居の向こうはいかにも鬱蒼として、山に分け入るような坂道の参道である。

 登るにつれて、雨露に濡れた緑が深く、シャクナゲの白や淡いピンクの花が迎えてくれた。7、8分で、境内に着く。

 簡素で、いかにも神社らしい風情がある。

 高校生の姿を見るのは、太宰府跡→天満宮→国立歴史博物館と回って来た修学旅行生だろうか ?地味だが、日本の心を感じさせる。

       (竈門神社)

         ★

 夜は二日市温泉に泊まった。国道の脇にあるが、少し奥まって、源泉かけ流しのなかなかの湯だった。

 

 

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ナンバー2の政治家・菅原道真の実像 …… 玄界灘に古代の日本をたずねる旅(2)

2016年05月05日 | 国内旅行…玄界灘の旅

 ひっそりした雨の参道を上り詰め、突当りを左折すると、池がある。

 池には美しい太鼓橋が架かり、こんもりとした木々の新緑が雨に濡れて、目が覚めるようにみずみずしい。

 伊勢神宮や熊野本宮大社には、晴朗にして清々しい、簡素の美がある。

 熊野三山の一つ熊野速玉大社の朱の拝殿や下賀茂神社などには、王朝の時代を思わせる雅やかな美がある。

 この太宰府天満宮も、境内の鬱蒼とした樹木がみずみずしく、朱の太鼓橋が映え、その向こうには菖蒲池が広がって、実に雅やかである。

  太鼓橋を渡ると、石の鳥居があり、その先に立派な楼門が見えた。

 

 

       ( 楼門と手水舎 )

 楼門をくぐると、拝殿の右手には、伝説どおりに、見事な「飛梅」の梅の木が葉を繁らせている。

 拝殿で、2礼、2拍、1礼する。

    ( 拝殿と飛梅 )

 先ほどは参道を上り、太鼓橋の方へ左折したが、参道の突当りには延寿王院がある。

 幕末、都落ちした三条実美らが3年半あまり滞在した所で、薩摩の西郷隆盛、長州の伊藤博文、土佐の坂本龍馬、中岡慎太郎なども立ち寄り、維新の策源地となった寺だそうだ。

                ( 延寿王院 )

 参道に戻る。今日は雨のせいか、参道はひっそりしていた。

 ひっそりと降る雨をよけて茶店に坐り、名物の「梅が枝餅」を食べた。名物に旨いものなしというが、そんなことはない。番茶も、こんがり焼けた粒あん餅も、なかなか美味であった。

          ★

< 余談ながら … 政治家としての菅原道真の実像 >  

 菅原道真については、中央で権力をふるう藤原氏に対抗するため、宇多天皇によって抜擢され、疲弊した地方行政を立て直そうとしたが、左大臣・藤原時平の策謀にあって無実の罪で太宰府に流され、当地で憤死した、とされる。

 だが、現代の歴史学者の本を読むと、このような道真像は、少々判官びいきに過ぎるようだ。(以下、北山茂夫『日本の歴史4 平安京』を参考にした)。

 道真は儒学者の家に生まれ、早熟な秀才で、若くして文章博士になった。名門・顕官の依頼を受け、多くの願文書や上表書を代作して重宝される。

 40代のはじめに讃岐の受領になっているが、その任期中は、もっぱら詩賦づくりに心を傾け、受領としては、何ほどの建設的なこともしていない。そればかりか、儒教的文人・中国的大人によくあるタイプで、草深い地方にいることに憂苦の思いを抱いていたようだ。そのような漢詩がおおく残されている。

 そのような彼が、やがて風流人の宇多天皇に抜擢され、右大臣まで登りつめたのである。だが、彼が才能を発揮したのは朝廷の歴史書の編纂作業くらいだった。

 政治改革については、観念的にはともかく、実際的関心や具体的ビジョンは持ち合わせていなかった。帝の寵臣で、二人でひそひそ話しているのは、藤原氏の悪口ばかり。帝のぼやきを聞き、帝の主催する雅やかな宴席に連なるのが、彼にとっての「政治」だった。よくあるタイプだ。

 ついに、藤原時平の用意周到な政変により、罪を着せられて太宰府へ流される。

 若き藤原時平は一流の教養人でもあったが、その関心は実際の政治にあり、疲弊する地方を立て直そうと立ち向かったのは時平の方であった。

 平安末期に書かれた歴史物語の「大鏡」に次のような逸話が紹介されている。

 道真の亡霊が雷神と化して荒れ狂い、清涼殿に落下する気配であったとき、帝をはじめ廷臣たちはなすすべもなく震え上がった。だが、この時、左大臣の時平は、さっと太刀を抜き、暗い虚空をにらみつけ、大音声を発して道真を叱責し、ついにこれを退参させた。

 夜は漆黒の闇であったこの時代にも、「大鏡」の作者や、当の時平のように、まっすぐに現実世界を見る人もいたのである。((3)に続く) 

 

 

 

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雨の太宰府天満宮 … 玄界灘に古代の日本をたずねる旅(1)

2016年05月04日 | 国内旅行…玄界灘の旅

 今回の旅の第一の目的は、世界文化遺産登録の候補に挙げられている宗像大社である。古代海人族の宗像氏が祀る神社であり、今もその信仰は受け継がれている。

 今、行っておかないと …… 世界遺産に登録されてしまったら、国内だけでなく近隣諸国からも観光客が押しかけて、静かに参拝することもできなくなるかもしれない。

 せっかくなので、福岡県の玄界灘周辺の古代遺跡にも足を伸ばしたいと思う。

 この地域は、縄文時代から、弥生、古墳時代へと移行していく、「倭」と呼ばれたころの日本の先進地域であった。

 しかし、歴史書を読んでも、素人の頭にはなかなかすっきり入ってこない。特に、〇〇遺跡、△△遺跡などという地名の位置や相互の位置関係が、なかなか頭の中で明確な形をとらないのだ。こういうときは、地図を見ながら、実際に自分の足でその地を踏んでみることが大切である。

 というようなことで、春たけなわの季節に、長年のモヤモヤを解消する旅に出かけた。

     ★   ★   ★

 旅の初日は雨だった。

 博多駅でレンタカーを借り、今日の行動を、翌日の予定と入れ替えた。

 太宰府天満宮の参拝は雨でも風情があるだろうし、そのお隣の九州国立博物館は、雨天も関係ない屋内見学だ。

    ( 太宰府天満宮の参道 )

 八百万 (ヤオヨロズ) の神々を祀る日本の神社のなかで、最も「出張所」が多くて人気のある神社はお稲荷さん。全国に19800社もある。

 続くは八幡神社の14800社。

 その次、第3位にランクされるのが天神さんの10300社である。以上が、ビッグ3で、ダントツである。

 その10300社の天神さんの総本社に位置するのが、京の都の北野天満宮と、ここ道真の墓所に建てられた太宰府天満宮だ。

 元右大臣だった菅原道真が太宰府で病死した (903年) あと、都で落雷などの天災が起きるたびに、人々はあれは道真の「怨霊」の「祟り」だと噂した。なにしろ10世紀の初頭の話である。平安京も、夜は漆黒の闇だった。

 西洋では、近世になっても、「魔女狩り」裁判が行われ、無実の人が「魔女」として火あぶりにされたぐらいだから、日本の10世紀の人々の天変地異や漆黒の闇夜に対する恐怖心を嗤ってはいけない。

 かくして、道真の怨霊を鎮めるために、天満宮が建てられる。

 しかし、時代が下がるにつれて、人々の記憶の中から恐ろしい「怨霊」の話は薄れていき、しかも朝廷や摂関家は天満宮を大切にしたから、平安末期には、地方の「嵐の神」や「雷の神」を祀る神社が次々と天満宮の傘下に入り、村の天神社になっていった。

 中世になると、新たに興った商工民の中にも天神さんを祀る人たちが現れた。

 江戸時代に、幕府の保護の下、朱子学が盛んになると、儒学者・菅原道真公は学問の神さまとして、いよいよ崇敬されるようになっていった (たとえば湯島天神) 。

 今では、学業成就や受験の神様となり、全国の受験生やその親、最近では孫のために祈願する祖父母にまで親しまれるようになった。

 現在の10300社の盛況を見れば、かつては不遇を恨んだ道真さんも、「身に余る光栄」と、すっかり満足されていることはまちがいない。((2)に続く)

 

   ( 大宰府天満宮の飛梅 )

 

 

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