ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

お知らせ・メンテナンス15 (最終回)

2018年08月27日 | お知らせ

    ( 津軽海峡にのぞむ龍飛岬灯台 )

15

 今回、メンテナンスしましたのは、以下の21編です。

 なお、メンテナンスは、今回をもって終わりといたします。

 自分の書いたものを読み返してみて思ったことは、私のブログの大きなテーマが旅であることは言うまでもないのですが、その旅の動機の一つが「岬、灯台、最果て」であるということです。このあとの旅も、「北海道の岬をめぐる旅」へと続いていきます。

 「国内旅行 … 本州最北端への旅」の中の第1回「岬、灯台、最北端へ」という文章には、そういう自分の志向性がよく表れていると思いました。自分でも、読み返してみて、好きな文章です。

 ヨーロッパ旅行には何度も出かけていますが、そのなかで最も印象に残った旅はどれかと問われれば、「ユーラシア大陸の最西端ポルトガルへの旅」だと答えるでしょう。ちょっと冒険でしたが、自力で行ったことによって、この旅は深く印象に残りました。エンリケ航海王子を追う旅でもありましたが、私にはとても魅力的な人物でした。

 今回も、印を付けました。もちろん、好みは人それぞれです。でも、初めて読まれる方はご参考に、もう一度という方もご参考にしてください。

         ★  

< カテゴリー 「国内旅行 … 本州最北端への旅」1~6 >

1)「岬、灯台、最北端へ」… (2016、8)

2)「ナマハゲと、北緯40度の入道崎へ」… (2016、8)

3)「雨の五能線」… (2016、8)

4)「龍飛岬で『津軽海峡』を歌う」 …  (2016、8) 

5)「本州最北端の波打ち際から大間崎灯台を見る」 …  (2016、8) 

6)「こごえそうなカモメ見つめ泣いていました」 …  (2016、8) 

         ★

< カテゴリー 「西洋旅行 … ポルトガルへ」1~15 >

 ( ユーラシア大陸の最西南端の岬 )

1)「旅の初めに(その1) … (2016、11)

2)「旅の初めに(その2) … (2016、11)

3)「ホテルの窓からテージョ川を見る」 … (2016、11)

4)「大航海時代の幕を開けたテージョ川河口へ」 … (2016、12)

5)「ジェロニモス修道院とベレンの塔」 … (2016、12)

6)「大地の終わる所、ロカ岬に立つ」 … (2016、12)

7)「ポルトガルの独立の象徴バターリャ修道院へ」 … (2016、12)

8)「2つの小さな町ナザレとオビドス」 … (2016、12)

9)「リスボン散策」 … (2017、1)

10)「サン・ヴィセンテ岬に立つ」… (2017、1)

11)「エンリケ航海王子の『航海学校』」 … (2017、1)

12)「トマールヘ列車の旅 (ヨーロッパの市民精神のこと)」… (2017、2)

13)「トマールとエンリケ航海王子のキリスト騎士団」 … (2017、2)

14)「ドウロ川の河口近くに開けたポルトガル発祥の地ポルト」… (2017、2)

15)「世界遺産ポルトの街歩き」… (2017、2)

です。

 龍飛岬とポルトガルのサン・ヴィセンテ岬の写真を並べますと、日本の岬が淋しくても情感があるのに対して、ユーラシア大陸の果ては、人を寄せ付けない非情の世界という感を深くします。 

  風土が人々の感性に与える影響ということにも思いがいきます。

 

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カッパドキアで奇岩・奇勝を見る② … トルコ紀行(11)

2018年08月23日 | 西欧旅行…トルコ紀行

     ( カッパドキアの自然 )

< 辻邦生『遥かなる旅への追憶』(新潮社) から >

 「… 私は予想もしなかった景観に息を呑んだ。

 それはエクリアス山をはじめとする火山の熔岩で作られた広大な台地が、風雨によって浸食されてできた奇怪な風景であった。台地はまるでテーブルのように平らで、その端はいきなり切り立っている。谷は月世界のように乾き、たけのこ状の岩、きのこ状の岩がひしめき合っている。そして断崖といわず、突出した岩といわず、そこら一面に、無数の穴が黒く点々と穿たれているのである。

 この穴の一つ一つがかつて修道士たちが住んだ洞窟修道院の跡なのであった。洞窟修道院のなかには一人用の小さな穴から、洞窟建築とは思えない堂々とした規模の、壁画、天井画で飾られた教会まで、さまざまである」。

 カッパドキアのことは、上の辻邦生の短い文章に尽きている。あとは写真を掲載するだけでいい。       

      ★   ★   ★

第7日目 5月19日時に小雨 

 今日は一日、カッパドキアめぐりをして、夜はベリーダンスショーを見に行くことになっている。

< 「三姉妹の岩」 >

 最初に向かったのが、「三姉妹の岩」。

 バスの中で、昨日の「ラクダ岩」と同類だろうと思っていたが、やはりそうだった。

 

     ( 三姉妹の岩 )

 これなら、昨日、私が名付けた「3人のプリンセス」の方が、それらしく見える。

 真ん中の小さい岩に、人工的な穴が開いている。ここにも人が住んだのだろうか??

  ( 遥かなるカッパドキア )

 「3姉妹の岩」よりも、その背景にある広大なカッパドキアの光景の方が感動的だった。

 真ん中あたり、そして、その右上にも人の集落が見える。

 遥かなるカッパドキアである …。

         ★ 

閑話 … トルコ絨毯と中国という国のこ >

   次にトルコ絨毯の店に寄った。

 旅の初めに手織りの高級スカーフ店、次に高級トルコ石店、続いてファッションショー付きの高級皮革製品の店、そして、高級トルコ絨毯の店である。

 ここも大型店舗で、部屋が幾つもあり、そこへ客を個別に入れて、絨毯を広げ説明・販売する。

 一行はまず大きな部屋に通された。そして、支配人クラスと思われる長身のトルコ紳士が登場して、店員たちに次々絨毯を広げさせながら、久米宏ばりの達者な早口の日本語で、しかも随所で笑いを取りながら、トルコ絨毯の特色、織り手の技や根気、政府によってきちんと決められた価格体系などを説明する。まさにプロフェショナルでした。

 トルコ絨毯の美しく繊細なデザイン性、色合いの可憐さ・上品さは、素人目にも、日頃目にしているわが家のそれより相当に美しく、小さいものなら1枚買っても … などと思ってしまうが、なにしろ高い。ヘレケなら、玄関マットクラスでも何十万円だ。

 ( 高級絨毯の美しく繊細な文様 )

 値段は、簡単に言えば目の細かさ、即ち1㎠に結び目が幾つあるかによって決まるらしい。そのきめ細かさが、トルコ絨毯の特色だ。言い換えれば、それを織るのにどれくらいの時間を要するかによって価格が決まる。仮に熟練の職人が1か月間専念して織った絨毯が20万円だとすれば、それは日本の大卒初任給と同程度で、高いとは言いにくい。

 トルコ絨毯の最高級品は「ヘレケ」と言う商品らしい。ヘレケという小さな村で織られている絨毯である。絨毯の隅に、「ヘレケ」の文字が刺繍されている。昔のオスマン帝国の王宮をはじめ、現代の世界の王室や大統領府で使われているそうだ。

 バスの中で、ガイドのDさんから聞いた話。

 絨毯づくりをしている中国の村が、村の名を「ヘレケ」と変え、絨毯に「ヘレケ」の文字を入れて、世界に売り出した。もちろん、プロが見れば偽ブランドとすぐにわかるのだが、「ヘレケ」という名を見せ、価格を言えば、飛ぶように売れた。本物の「ヘレケ」の売り上げは落ち、在庫だけが増えていく。値引きしても、費やした労力を考えれば限界がある。競争にならない。

 この事件は、トルコの大統領が中国に乗り込み、国家主席と直接に談判して、解決したという。

 いかにも中国らしい話である。

 最近も、「中国精華大学から米企業・政府にハッキングの試み」という報道があった。(ロイター  2018、8、16) 。この手の話は枚挙にいとまがない。

 もし米中戦わば、── アメリカの戦闘機群は、なぜか同じ性能をもつ中国戦闘機群と戦わなければならないだろうと、ピーター・ナヴァロは『米中もし戦わば』の中で書いている。そうなれば、今、「世界の工場」は中国である。かつて日本軍がアメリカの生産力と物量の前に圧倒されたように、今度はアメリカが中国の物量に圧倒されるかもしれない、とナヴァロ博士は書いている。

 話が大きく逸れた。もとに戻りましょう。

         ★

< 地下都市カイマクル >

 絨毯の店から、またバスに乗って向かったのはカイマクル。

 ここは、洞窟がアリの巣のように枝分かれしながら、下へ下へと延びている地下都市だ。

 ガイドの後ろに付いて、かがんで前進したり、靴とお尻で滑って下の空間へ移動したり、見学にも体力がいる。

 あちこちに明かりがあるが、もともとは光の入らない闇の中だった。闇の中ではたちまち方向感覚を失う。

 地下都市の発祥や歴史については謎が多いそうだ。一説では、BC400ごろの記録にも登場するとか??

 礼拝堂、学校の教室、寝室、厨房、食料庫、井戸などもあり、大規模な共同生活が営まれていたことは間違いない。2万人が暮らしていたとも言われる。

 地下4階まで見学可能だというが、しんどいから、そこそこで切り上げた。

   ( 横の穴 )

     ( 下りの穴 )

            ★

< ウチヒサール >

 次はウチヒサール。ウチヒサールとは、尖った砦の意。巨大な一枚岩の城塞である。

 ( ウチヒサール )

 無数の穴が開いていて、この岩山にも相当の人数の人々が暮らしていたことがわかる。

   今はその穴がハトの巣になっているのだそうだ。ブドウ畑の肥料として、ハトのフンを利用しているとか。

  ( トルコの国旗 )

 ガイドのDさんの話では、ローマの見張りの塔だった?? ── 今はトルコの国旗が翻っている。

   あの天辺に、銀色の兜をかぶり、赤いマントを翻したローマ兵が立っていたら、なかなかカッコいい。

 城塞の内部の住居跡を見ながら、天辺まで20分くらいで上がることができるそうだ。頂上からのギヨレメ・パノラマは絶景だという。わがツアーは、年齢層が高いから、そこまでムリはしない。

 「死ぬまでに行きたい世界の名城25」のうちの一つ。

 ついでながら、25のうちの一つは、日本の姫路城である。

        ★

< ギヨレメ・パノラマ >

 「ウチヒサールの頂上に上がらなくても、展望台はありますから」と、ガイドのDさん。

 バスで少し行くと、昨日行ったギヨレメ一帯を見渡せる展望台に着いた。

    ( ギヨレメ・パノラマ )

   うーん。こういう場所は、ツアーでなく、個人の旅で、遥々と、多少の苦労をしながら来るべきですね。きっと感動することでしょう。そのためには、カッパドキアへの相当の思い入れが必要かな … 。

         ★

< ローズバレー >

 この日の最後の見学地は、ピンクの岩の峡谷である。現地の看板の英語表示には、「レッドバレー」と書かれていた。

 このあたりも、7世紀の彫刻や11世紀のフレスコ画が残る岩窟聖堂があるそうだ。

 しかし、何といってもここは夕景スポットとして有名である。ピンクから赤、そして紫色に変化していく一日の終わりは、カッパドキアで最高のビューポイントとされている。

 夕刻には少し早かったが、それでもなかなかの景観であった。遥かなるカッパドキアである。

 

   ( ローズバレー )

     ★   ★   ★

ベリーダンスショー >

 早めにホテルに帰って、夜、ベリーダンスショーを見に行った。

 トルコツアーに入ると、カッパドキアか、イスタンブールか、どちらかで見ることになる。だが、ネットでいろんな人のトルコ旅行の書き込みを読んでも、評判はあまり良くない。

 たくさんの観光バスがやって来て、建物の中のホールで、飲み物を飲みながら見物する。 

 テーブル席で囲まれた広い空間で、若い男女のグループが次々登場して、郷土ダンスらしき舞踊をするが、率直に言って、日本の中学・高校の文化祭の、クラス参加の出し物程度の演技である。

  ベリーダンサーは1人だけ。踊り手としてそれなりにプロフェショナルだとは思うが、2、3曲踊ると、あとは観客の中から男性を引っ張り出し、一緒に踊らせて、笑いを取る。スペインで見たフラメンコショーなどと比べると、観客を思わず惹きつける何か … 多分、culture性に欠けていると思う。夜、バスに乗ってわざわざ見に来るほどのショーではないと、私も多くの書き込みに共感した。

         ★

 明後日の午後にイスタンブールに着くまで、明日からは実質的に移動日だ。イスタンブールが近づくことだけが楽しみである。 

 

 

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カッパドキアで奇岩・奇勝を見る ① … トルコ紀行(10)

2018年08月18日 | 西欧旅行…トルコ紀行

  岩窟教会のフレスコ画。上は、天使がマリアに受胎告知する場面。下は、弟の死を嘆き悲しむ姉たちのもとへやって来たイエスが、死んだラザロを復活させる場面。

     ★   ★   ★         

民家の岩窟住居を訪問する >

 カッパドキア観光の初めに、今も残る岩窟住居の民家を訪問した。

 時代が下がると、もう信仰とは関係なく、親子代々、岩窟住居を住みかとして暮らす人々がいて、村を形成していた。

 ところが、近年、政府の観光行政によって立ち退きを要求され、今ではもう5家族しか残っていないそうだ。

 そうした1軒を、ガイドのDさんの案内で訪問した。

 大地からにょきっと生えたような、とんがり帽子型の巨岩。巨岩といっても、カッパドキアの数々の巨岩・奇岩の群れと比べれば、ごく小さな岩の塊で、庶民の家族が暮らす一戸建て住宅の大きさと言ってよい。

  ( 今も人の住む岩窟住居 )

 そのとんがり帽子岩の裾の部分に沿って地面から付けられた石段を上がり、ぽっかりと穿たれた戸口から入った。

 屋内は外見から見る以上に広い。きちんと整えられた居間に招じ入れられた。

 写真撮影は禁止なので写真はない。

 30名を超える一行がムリせず床に座ることができる広さだ。床にはカッパドキア地方の名産品である良質の絨毯が敷かれて、石の冷たさはない。窓も穿たれていて、明るい。

 奥さんと娘さんがお茶をふるまってくれ、しばらくの時間、会話した。

 他にも2、3の部屋があるそうだから、家の中は一般的な住居とあまり変わらないように思える。

 見学を終え、外に出て、あたりを見渡すと、よく似たとんがり帽子の岩が数多く地面から生えていて、戸口や窓と思われる穴が開いている。だが、人は住んでいないようだった。

 観光という観点なら、単なる地学的な景観より、人の暮らしと、文化と、歴史が感じられる方が一層興味を引くようにも思う。先ほどの奥さんに、家族の歴史を聞いてみたいような気がした。

 しかし、上下水道やトイレや、そのほか現代文明にかかわること、そこから波及する景観保護のことまで、外国人観光客にはわからないもろもろの問題もあるのだろう …… と思う。

         ★

ギヨレメ野外博物館やゼルベの谷などを見学する >

 民家からバスで移動し、「ギヨレメ野外博物館」へ向かった。

 ギヨレメは町の名だが、付近一帯の奇岩・奇勝地帯と、フレスコ画も残る30もの岩窟教会の遺跡を併せて、町の名をとって「ギヨレメ野外博物館」として保護されている。カッパドキアを代表する自然・文化遺産だ。

 ここの岩山は、先ほどの民家のかわいいとんがり帽子のような岩とは異なり、もっと巨大な岩塊で、思い思いにという風にいくつも穴が穿たれ、ぽっかりと開いた暗い穴と穴とを石段がつなぎ、また、内部でつながっているのだろうか、ずいぶん高い所にも穴が開けられている。ここは一戸建てではなく、マンションなのだ。

     ( 岩窟住居の跡 )

 さらにギヨレメを有名にしたのは、5世紀ごろから数世紀にもわたって、迫害を逃れ定住した修道士やキリスト教徒たちによって穿たれた、30余りの岩窟教会があり、その内部には12~13世紀に描かれたとされるフレスコ画が残っていることだ。

 そのうちの見学できる2、3をのぞいた。

 見学が許された範囲のフレスコ画は稚拙なものが多いように思ったが、下の写真は、光が入らなかったため特に保存状態がよい「暗闇の教会」の入口に掲示されていたパネル写真である。これらは完成度が高く、特に色彩感が素晴らしいと思った。

   ( パネル写真 )

 その一部を拡大してみた。冒頭の写真も、このパネルの拡大写真である。

 左の絵は最後の晩餐。右は磔刑図。磔刑図は、イエスの足元の両脇に、母マリアと弟子ヨハネが描かれている。これは磔刑図の決まりである。

         ★

 また、バスで移動して、「ゼルベの谷」へ向かった。

 ガイドのDさんの話。

 カッパドキア地方には大小の町や村が点在しているが、荒涼とした土壌、冬は寒さが厳しく、夏は乾燥する高原気候のため、農業に向きません。ワイン用のブドウ栽培がわずかに行われているだけ。

 収入源はもっぱら牧畜。そして、羊毛を使った絨毯づくりです。トルコと言えば絨毯だが、カッパドキアがその本場です。

  ( 荒涼とした大地 )

   ( 村里の風景 )

         ★

 ゼルベの谷に広がる奇岩・奇勝地帯と、そこに残された遺跡は、ゼルべ野外博物館として保護されている。

 ここの岩は、どこもかしこも巨大なキノコお化けだ。

 9世紀~13世紀に多くのキリスト教徒が定住した。そのため、岩窟教会や地下住居の跡が無数にあり、現代になっても、つい30年ほど前までは小さな一つの村落を形成していたそうだ。

 

   ( ゼルべの谷 )

   谷の中の小道を散策して歩いた。

 その後また、バスに乗って移動する。

 

         ★

 眺望の良い所にバスが停まった。今日の最後の見学は、「ラクダ岩」。

 パーキングがなく、道路の端にバスは停まる。他の観光バスもやって来るから、バスはまさに崖っぷちに詰めて、身を寄せ合って駐車する。

 バスから降りて、見渡せば、遠くまで奇岩が並ぶ目の前に、ラクダらしき岩があった。これを見るために、わざわざここに立ち寄ったのか!!。

 観光地の岩に名を付けるのは、日本人も得意とするところ。何でもない岩が、名を付けられて、名勝になる。

 まわりの奇岩の群れを眺めていたら、あった!! 「3人のプリンセスたち」。命名者は私。ラクダより良いのではないか??

                ★

ゼルベの谷で『カッパドキア・プロジェクションマッピング』を鑑賞する >

 1日の見学を終え、ホテルへ。

 バスを降り、少し歩いて到着した今夜の宿は、洞窟ホテル。明日も1日、カッパドキア見学だから、このホテルに2泊する。

   大きな岩場を穿って部屋が造られている。入口の部屋には広いバスタブもある。その奥に寝室。トルコに来て泊まったホテルの中では一番ゆったりした部屋だった。ただし、入口の横以外に、窓がない。

 その夜は、バスに乗って、もう一度ゼルベの谷へ行き、『カッパドキア・プロジェクションマッピング』を鑑賞した。

 とっぷりと日の暮れた真っ暗な山の中の道を、ドライバーは車のライトの光だけで走った。

 そして、丘の急斜面に設えられたずり落ちそうな席に座り、谷の向こうの巨岩の壁面に映し出される映像を鑑賞する。

 内容は、アナトリア地方の最初の統一国家ヒッタイト王国から始まるトルコの歴史である。劇画風で、なかなかの迫力だった。

          ★

 この夜は、おそくなった。

 半数の人たちは、明日の早朝、オプション参加で、気球に乗りに行く。

 朝日が昇る上空から、カッパドキアの奇岩・奇勝を眺めたら、きっと素晴らしいだろうと思う。

 私は … あれもこれもと欲張るあわただしい旅は嫌なので、ゆっくり起きる。

 参加しない方を選んだ大半の人は、数年前、カッパドキアで起きた気球落下事故が頭にあったからだと思う。素早く飛び降りた運転士は助かったが、観光客に死者が出た。実際、このツアーの添乗員氏は、ツアー会社は一切責任を負えません、と言った。熱心に勧めたのは現地ガイドのDさんである。Dさんはトルコ人として、もう一度、カッパドキア観光を隆盛にし、ここで働いている人たちを応援したいのだ。

 私が参加しなかったのは、あれもこれもと自分の目を楽しませるだけの、あわただしい旅を好まないからである。

 私は、ヨーロッパの歴史と、その歴史をつくってきた人々のものの見方、感じ方、考え方、ライフスタイル ── 一言で言えば文化 ── に興味があって旅をしてきた。そして、その挙句、「元ヨーロッパ」であったトルコにまで足を延ばしている。

 だから、アナトリアの歴史や人々の営みを規定した、カッパドキアの風土には興味を抱いた。「こんな荒涼とした大地にも人々は住み、独特の歴史と文化をつくってきたのだ!!」と。

 だが、風土と自然とは違う。自然そのもの、自然としての奇岩・奇勝・絶景に、私は興味がわかない。

 妙な格好をした岩を見ても、ほとんどなんの感動もおきないのである。威張って言っているのではない。私の見ている世界の範囲と限界を述べているのである。私の旅は、何でも見てやろう、という旅ではない。

 

 

 

 

 

 

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カッパドキアへ … トルコ紀行(9)

2018年08月14日 | 西欧旅行…トルコ紀行

   ( キャラバン・サライの門 )

第6日目 5月18日 

 今朝はゆっくりと、9時に出発する。朝、荷造りをしてバスに乗り込むには、9時より早いと、あわただしい。9時より遅いと、気分がダレる。もちろん、団体行動だから、そういうことは人前で言わない。

 今日は、コンヤから北東へ進路を取り、カッパドキアまで250キロ、約3時間のバスの旅だ。

 陽光輝く明るいエーゲ海地方から、だんだんとアナトリア(小アジア)の奥深くへ入っていくという感がある。

          ★

キャラバン・サライを経て、カッパドキアへ >

 コンヤから1時間半ほど、スルタン・ハンという町のキャラバン・サライ(隊商宿)に寄った。

 もちろん、これまでのヨーロッパの旅で、キャラバン・サライ(隊商宿)を見たことはない。トルコでは各地に残っていて、その中でもスルタン・ハンは交易の重要な中継地だったから、この地のキャラバン・サライは最大規模なのだそうだ。セルジューク時代の13世紀の建造である。

    ( キャラバン・サライの城壁 )

 「城塞」と言ってよいほどの、高く、頑丈な城壁に囲まれ、装飾が施された門があった。盗賊集団に襲撃される心配もあって、堅固に造られている。 

 城壁の中は、庭と回廊があって、宿泊用の部屋が並ぶ。石造りの個室だから、牢獄のように堅固で殺風景な感もあるが、当時は家具・調度品も置かれていたのだろう。そのほか、食堂、ハマム(公衆浴場)、礼拝堂、ラクダを休ませる場所などもあったそうだ。 

   ( 城壁内の回廊 )

 ガイドのDさんの話では、隊商の一行は、夏は1日40キロ、冬は20~30キロのペースで歩いたそうだ。唐の長安から東ローマ帝国のコンスタンチノープルまでの間、その土地土地の特色ある商品が買われ、運ばれて、別の地域で売られた。商品は、隊商たちによって、いくつもの民族を越え、価値を高めながら、遥々と旅をした。

 シルクロードの終着点のコンスタンノーブルや黒海沿岸の港には、ヴェネツィアやジェノヴァの商船が盛んに入港し、遥々と陸路を運ばれてきた商品を、海上ルートでヨーロッパに運んで巨利を得た。

 今は豊かなアナトリアの高速道路を、丘を越え野を越えて、バスは走る。

 このあたり、車が少ないせいか、道路の真ん中、追い越し車線の上を堂々と走るトラックもいる。日本のパトカーは神出鬼没だが、トルコのパトカーは現れそうにない。

  ( 丘を越え、野を越えて )

 町に入り、信号で停まると、停車した車の間を、パンを売るおじさんがやって来た。美味しそうだ。

   ( パンを売るおじさん )

 トルコでよく見られる光景というわけではない。たまたま目に入って、シャッターをきった。 

 トルコも、ヨーロッパ圏も、肉料理や野菜サラダなどより、パンが美味しい、と思う。栄養の偏りを気にしなくてよいなら、1日3回、パンとワインでよいくらいだ。

 ただ、この日レストランで昼食に食べたマスは美味しかった。シンプルに塩で焼いただけだが、塩加減といい、パリパリのほっこり感といい、最高だった。私だけではない。一行の皆さん、感激していた。久しぶりに日本の焼き魚の味だ。(ヨーロッパのツアーに入ると、1回は「マス料理」が出るが、日本人には不人気だ)。

   車窓に、ハサン山が見えた。標高3268m。「トルコ富士です」とガイドのDさん。ここはほとんどカッパドキアだ。

   ( 車窓からハサン山 )

 カッパドキア地方には、標高3916mのエルジェス山という名峰もある。この「トルコ紀行」の第1回に紹介した偉大な建築家シナンの生まれ故郷はそのあたりとか。

 やがて、カッパドキアらしい風景が、突然、現れた。

        ★

 カッパドキアのこと >

 カッパドキアが行政上どの範囲を指すかは、時代によって大きく変遷したらしい。が、そういう難しいことは置いといて …

 現在のトルコは、まずイスタンブールを中心とした小さなヨーロッパ側と、広大なアジア(アナトリア)側に分けられる。

 広い方のアナトリア地方を更に分ければ、6つの地域になる。

 エーゲ海地方と、その南の地中海地方は、風土も文明も想像がつく。ヨーロッパ的だ。

 それ以外は、中央アナトリア地方、イラク、シリアと国境を接する南東アナトリア地方、ジョージア(グルジア)、アルメニア、イランと国境を接する東アナトリア地方、緑豊かな黒海地方 となる。

 そのなかで、我々外国人観光客が思い描くカッパドキアは、中央アナトリア地方だ。

 山岳・高原地帯で、夏と冬の寒暖差が激しい内陸型気候。そこに大奇岩地帯が広がっている。

 カッパドキアのこの景観は、エルジェス山やハサン山の噴火によって噴出された火山灰や熔岩が、地学的な年月を経て、凝灰岩や熔岩層となり、洪水、風、雨、雪などによって浸食・風化されて、固い凝灰岩のみが奇怪な形象として残ったものである。

 この地には、4世紀ごろから12、13世紀にかけ、迫害を避けてこの大奇岩地帯に逃げ込み、洞窟教会や住居をつくって暮らしたキリスト教の修道士や信徒たちがいた。

 彼らが残した遺跡を含め、この大奇岩地帯が、ユネスコ文化遺産に「ギヨレメ国立公園とカッパドキアの岩石遺跡群」として登録されている。

 カッパドキア地方の人間の歴史は、驚くほどに遡る。それは、様々な民族が交差したトルコの歴史そのものである。

 トルコにできた最初の王国は、BC15~12世紀のヒッタイト王国で、カッパドキアはその中心であった。人類史上初めて鉄で武装した集団である。

 BC6世紀には、東方で興ったペルシャの1州となった。

 アレキサンダー大王の東征のあと、独立王国も建てられたが、AD17年にはローマ帝国の属州として併合される。州都はカエサリア(現カイセリ)だった。

 ローマの分裂後は、東ローマ帝国領となる。

 岩窟に人が住み始めたのは4世紀ごろで、初期キリスト教の時代に、迫害を逃れて地下洞窟に隠れ住んだのが始まりだ。

 なお、4世紀のカッパドキアからは、キリスト教界では著名な3人の神学者が出ている。彼らはアリウス派を異端とする論陣を張って、キリスト教神学に名を残した。

 1071年、東ローマ帝国がセルジューク朝との戦いに敗れ、イスラム教徒の遊牧民が多数入ってきて、アナトリアを支配した。

 こういう状況を背景にして、この時代から13世紀にかけても、この荒涼とした大奇岩地帯に逃げ込んでキリスト教信仰を守ろうとした人々がいた。彼らは数多くの洞窟住居や洞窟教会を造ったから、その跡が多数残っている。

 このあと、そして明日1日もかけて、カッパドキアを観光した。

 

 

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ローマ帝国の温泉保養地パムッカレ、そしてセルジューク時代の都コンヤへ … トルコ紀行(8)

2018年08月07日 | 西欧旅行…トルコ紀行

  ( パムッカレからの遠望 )

第5日目 5月17日  一時小雨

 今日は早起きして、7時30分にバスでホテルを出発する。

 昨日行く予定だったパムッカレの石灰棚とヒエラポリス遺跡を見学し、そのあと6時間のバス移動で、コンヤを目指す。

         ★

石灰棚の温泉と廃墟のヒエラポリス  

 パムッカレとは、「綿の宮殿」という意味らしい。麓から見ると、真っ白い雪の山のように見える。

     ( 純白の石灰棚 )

 雨水が地下水となり地熱で温められて、温泉水として湧き出、台地の東側の山肌を流れ落ちる。長い年月をかけて、温泉水中に含まれる炭酸カルシウム(石灰)が沈殿し、純白の棚田の景観を作り出したのだ。棚のプールは100以上あるという。台地上の古代都市ヒエラポリス遺跡を併せて、世界遺産だ。

 石灰棚のある台地の上からは、トルコらしい美しい景観が望まれた。 

  ( 石灰棚の上からの景観 )

 以前は石灰棚で入浴できたが、今は温泉が涸れつつあること、それに景観保護の観点からも禁止され、一部で足湯ができるだけ。

   ( 足 湯 )

 ガイドのDさん「希望の方は足湯に行ってください。でも、とても滑りやすいから、気を付けてください」。

 世界遺産の足湯から帰ってきた一人のご主人「気を付けても、必ず滑ります!!(笑)」。

         ★

 石灰棚は、広々とした台地の東端の急斜面にあるが、ヒエラポリスは、その台地上に、ベルガモン王国の時代に建設された町だ。

 その後、ローマ帝国の温泉保養地として栄えた。

 ローマは行く先々で、道路を整備し、町を建設して、町には必ず劇場や大浴場を造ったから、その地に温泉が湧いていれば大喜びだ。

 

   ( 遺 跡 )

 ローマ帝国時代のAD2世紀に造られた劇場が、ヒエラポリス遺跡の目玉である。野の花の咲く野の向こうに見える。  

   ( 劇場の遺跡 )

 古代都市ヒエラポリスは度重なる地震で崩れていったが、ローマ時代の遺跡が底に沈んだ透明度の高い温水プールがある。入浴可能だが、湯の温度は35度とやや低め。

  ( ローの時代の遺跡の沈んだ温泉 )

 遺跡の上を、パラグライダーが、一機、二機、三機、飛んで行った。

      ( 遺跡の上を飛ぶ )

         ★

コンヤ向けて400キロ >

 この何日か、ヘレニズム時代からローマ時代の数々の遺跡を見て回った。現代のトルコとは直接つながらない、遠い遠い時代の都市の廃墟を見てまわり、堪能した。エーゲ海地方の青空も、古代遺跡も、心に残った。

 これからバスは東へ東へと走る。

 トルコの国土の大部分を占めるアジア側は、東西に長い四角形の形をした半島である。北は海峡によって結ばれた黒海とマルマラ海、西はエーゲ海、南西は地中海に囲まれていて、地続きは南東と東側だけである。この大きな半島を、古くから人々は「小アジア」とも「アナトリア(半島)」とも言ってきた。

 古くは「アジア」と呼ばれていたが、アジアはさらに東へと広大な大地が広がることを知り、「小アジア」と呼ばれるようになった。

 「アナトリア」は、東ローマ帝国時代、エーゲ海に面した西岸地方に軍管区を置き、「アナトリコン」と名付けたことに由来するらしい。「アナトリコン」とは、日出る所という意味だとか。

 その横長の四角形の南部を、東から西へトロス山脈が走っている。トロス山脈が地中海に切れ落ちた先がロードス島である。ヨハネ騎士団が立て籠もり、オスマン帝国最盛期のスレイマン大帝の大軍と戦った島だ。

 トロス山脈に沿って東へ400キロほど行くと、セルジューク時代(11世紀後半~13世紀前半)の都コンヤがある。今日は午後おそくコンヤに着き、コンヤ見学後、宿泊する。

        ★

トルコのイスラム教のこと >

 長いバス旅の中で、ガイドのDさんの話。

〇 日本人のお客様から、現在のトルコの大統領(エルドアン大統領)について、Dさんはどう思うかと、意見或いは感想をよく聞かれる。私は、政治の話はしたくないし、しないようにしている。また、日本の首相の安倍さんについて話しかけてくるお客様もいる。私は、今の日本の政治についてある程度知っているけれど、私はトルコ人で、かつ、日本人のお客様を相手にしている。安倍さんについて意見や感想を求められても困る。

 結局、一人一人がよく考えて、しっかり投票する、それ以外にないと思う。トルコ人も、選挙が近づくと、あちこちで熱心に語り合っている。それが大事だと思う。

〇 トルコを知ってもらうために、トルコの宗教の話をします。

 1923年にオスマン帝国が滅亡し、アタチュルク大統領の下に共和制の国になった。そのとき、明確に政教分離の原則が打ち立てられました。その点、他のイスラム圏の国々とは趣を異にすると思います。

 国民の9割は、自分の宗教を聞かれたらイスラム教と答えるでしょうが、今、イスラム圏以外の世界がイメージするイスラム教徒とは違うと思います。例えば、よく言われる一夫多妻制も、トルコでは禁止されています。

 イスラム教はスンニ派とシーア派に分かれて今も激しく争っていますが、トルコでは宗派の違いもありません。大なり小なりイスラム教を信じているという人々も、そういうこととは関係なく、もっと素朴に信じているのです。

〇 イスラム教では5つの戒律が言われます。まず、アッラーを唯一の神とし、マホメットを最高の預言者と認めることです。トルコ人の多くは、漠然と、神はアッラー、マホメットは偉い預言者と思っています。

〇 1日5回、身を清め、祈ること。これはなかなかそうはいきません。

〇 3つ目はラマダーンの断食です。今年は、昨日、5月16日から始まりました。1か月間、日の出から日の入りまで断食するのです。これは、貧しい人や飢えた人への思いを忘れないという趣旨で行われるもので、トルコ人は比較的よく守っています。この間、喧嘩やいさかいも避けます。トルコ人は、他者に対して優しいと私は思います。西欧社会と比べたら、トルコで物乞いの人の姿を見ることはほとんどないと思います。隣人に対する相互扶助の精神があるからです。

〇 4つめは、ラマダンと精神は同じですが、貧しい人に寄付や施しをすることです。

〇 5つ目はメッカへの巡礼ですが、総じていえば、現在のトルコのイスラム教は、ジハードなどのエキセントリックな要素はなく、他者を思い、他者とともに生きていくという心を大切にする教えになっていると思います。  

        ★

 窓の景色は豊かな田園風景で、緑が目にやわらかく、飽きることがない。 

 ケシの花畑がある。一面に白いケシの花が咲く光景は清楚で、ピンクの花の咲くケシ畑はロマンチックである。

 途中の休憩では、蜂蜜入りのヤギのヨーグルトを食べてみた。チャイとよく合って、とても美味であった。

        ★

 コンヤを首都としたセルジューク朝について >

 旅に出る前に勉強しても、あまり頭に入らない。旅を終え、机に向かって、見てきたものについて、あれは何だったのだろうと調べていくと、よくわかる。ブログに書こうと思って勉強すると、もっとよくわかる。

 さて、中央アジアを中心に、モンゴル高原からシベリア、やがてはアナトリア半島にいたる広大な地域に広がって、テュルク語を母語とし、遊牧の生活をしていた人々をテュルク系民族というそうだ。中国史に登場する狄(テキ。「夷狄」という言葉がある)や突厥(トッケツ)も、この民族のことらしい。

 彼らのうち、10世紀後半に、イスラム教(スンニ派)に改宗してムスリムとなった部族をトゥルクマーンという。

 その中のセルジューク家に率いられた勢力が強大になり、11世紀~12世紀に、現在のイラン、イラク、トルクメニスタンを中心とした地に建国したのがセルジューク朝(1038年~1157年)である。宗主は初めてスルタンの称号を使った。

 私たちが学校で習ったのはセルジュークトルコ。今は、セルジューク朝或いはセルジューク帝国。セルジューク帝国の中には、多くの地方政権が存在していた。

 その中で、今も国として存立しているのは、その最西端にあったトルコのみである。もちろん、今はセルジュークではない。

 1071年、セルジューク朝は東ローマ帝国との戦いに勝利し、負けた東ローマ帝国のアナトリア方面の防衛が手薄になった。そこへ、セルジューク朝の支配を好まないトゥルクマーンやトゥルク系の人々が多数流入し、アナトリアのテュルク化(トルコ化)が進んだ。

 さらに、セルジューク朝は、アナトリア地方にセルジューク系の地方政権をつくることを支援し、その結果、1077年に誕生したのがルーム・セルジューク朝(1077年~1308年)である。

 「ルーム」はローマの意味で、東ローマ帝国領であったアナトリアの地を指す言葉として、イスラム教徒の間で使われていたらしい。

 以後、ギリシャ正教徒であった住民たちは、領主となったトゥルクマーンの支配下に置かれ、テュルク語が浸透していき、アナトリアのトルコ化が進んだ。ただし、ギリシャ系の人々は被支配民ではあるが、キリスト教からの改宗を強制されることはなかった。

 行政の分野では、トルコ系以外に、在地のギリシャ系住民やモンゴル軍に追われて逃げてきたイラン系の人間も広く登用されたようだ。(これらの点では、後に興るオスマン朝も同じである)。

 1096年の第1回十字軍、1189年の第3回十字軍の時には、首都コンヤを占領されるという危機もあった。

 セルジューク朝(大セルジューク朝)は衰退し、1157年には滅亡するが、ルーム・セルジューク朝は黒海や地中海貿易を始め、12世紀後半に最盛期を迎えた。

 しかし、13世紀に圧倒的なモンゴルの支配下に置かれ、やがて消滅した。

         ★  

コンヤの宗教文化を見学する >

 ルーム・セルジューク朝の時代、アナトリア地方の各都市にモスクやイスラム教の学院が建設され、アナトリアのイスラム化が進んだ。

 ただ、遊牧民のイスラム教はシャーマニズムに近いものもあり、修行僧や長老たちの影響下に置かれ、神秘主義の宗教家も現れた。その代表が、メヴレヴィー教団の祖であるメヴラーナ・ジャラール・ウッディーン・ルーミーである。観光の世界では、コンヤというと、メヴレヴィー教団の円舞である。

 滞在した時間が少なかったから、よくわからなかったが、今のコンヤは、ルーム・セルジューク朝時代の都というより、トルコの中で比較的に宗教色の強い、或いは、宗教色の残る町、という特色をもっているように感じた。

 街の中心近くにアラアッディンの丘があり、公園になっていて、アラアッディン・ジャーミィ(ジャーミィはモスクのこと)と、メヴラーナ博物館がある。このツアーに限らず、日本のツアーのコンヤの見学先はこの二つである。

 アラアッディン・ジャーミィは、ルーム・セルジューク朝の最盛期の1221年に完成されたモスクだ。

  ( アラアッディン・ジャーミィ )

   スペインのコルドバのメスキータのような、簡素だが壮麗なイスラム教寺院が頭にあったが、外観も中も、平凡だった。大広間も簡素で、畳の代わりに絨毯が敷いてある道場である。(コルドバのメスキータについては、当ブログ「陽春のスペイン紀行」の4「イスラム時代の古都の風情を残すコルドバ」を参照)。

 それが本来の宗教施設のあり方で、キリスト教の大聖堂のような建物の方がおかしいのかもしれない。

        ★

 メヴラーナ博物館は、イスラム教神秘主義の創始者メヴラーナ・ジェラールッディン・ルミーの霊廟。

 緑色のタイルで覆われた円錐形の屋根を持つ建物が霊廟である。

 そのほか、モスク、僧院、修行場などもある。

   ( メヴラーナ博物館 )

 この教団は、ぐるぐると旋回する円舞によって一種の陶酔状態になるという怪しげな修行で有名だ。そういう神秘主義のため、1925年、オスマン帝国が打倒され、トルコ共和国が生まれた時、アタチュルク大統領によって、修行場は閉鎖され、教団も解散させられた。そして、2年後に、霊廟は博物館となり、文化財として一般公開された。

 霊廟に入ると、金刺繍のカバーがかけられた棺が並び、その中央がメヴラーナの棺だという。しかし、それがいつの時代のどこの国のものであろうと、私は人の棺を見学したいとは思わない。

 ただここで聞いた創始者メヴラーナの言葉の2、3は、怪しげな宗教の割には、古老の箴言のように晴朗で、含蓄があり、味わい深いと思った。それに、どの部屋も、キリスト教会や仏教寺院のように薄暗くないのも、良い。

 他の部屋には、メヴラーナの身の回りの品や、セルジューク時代の工芸品、書物、韻文の書などが陳列されていた。

         ★

 アラアッディンの丘を出て、バスが待つパーキングの方へ、公園沿いのトラムが走る道を歩いていると、公園の丘から盛んに手を振る少年たちの姿が見えた。サッカーをして遊んでいた少年たちだが、先ほどここへ来る時にも手を振っていた。手を振り返すと、喜んで、さらに手を振ってくれる。

 ガイドのDさん「トルコの子どもたちは日本人が好きなんです。小学校の教科書にも両国友情のエピソードが載っていますから」。

    ( 手を振る少年たち )

 翌日、カッバドキアに向かうバスの中で、最近、映画『海難1890』にもなった話、以前、NHKの『プロジェクトX』で放映されたビデオを見た。

 この、両国を結ぶ2つのエピソードは、当ブログの「国内旅行…紀伊・熊野へ」(2012、9)2の「樫野崎(カシノザキ)灯台、そしてトルコとの友情」に詳しく書いているので、ご存知ない方はぜひ読んでください。

 少なくとも、これからトルコ旅行に出かけるという方は、その前に。NHKの『プロジェクトX』が忖度して描かなかったことも、少し突っ込んで書いています。

  ( コンヤの街を走るトラム )

 

 

 

 

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お知らせ・メンテナンス (14)

2018年08月04日 | お知らせ

    ( 志賀海神社の遥拝所 )

14

   カテゴリー 「国内旅行 … 玄界灘の旅 (玄界灘に古代の日本をたずねる旅)」(1)~(13)を更新しました。

 枠組をスマホ仕様にし、写真を一部、リフレッシュしました。

1)「雨の大宰府天満宮」… (2016、5)

2)「ナンバー2の政治家・菅原道真」… (2016、5)

3)「大宰府の鬼門を守る竈門神社」… (2016、5)

4)「膨張する唐と向き合った大宰府政庁」 …  (2016、5) 

5)「水城にみる古代日本と現代の東アジア情勢」 …  (2016、5) 

6)「『邪馬台国』幻想」 …  (2016、6) 

7)「『奴国』と『伊都国』に立ち寄る」 … (2016、6) 

8)「香椎宮と神功皇后伝説」 … (2016、6) 

9)「玄界灘の旅からちょっと離れて、大阪の神社のことなど」 … (2016、6)  特に

10)「海人・安曇氏の志賀海神社へ行く」… (2016、6)

11)「いよいよ宗像大社へ、辺津宮に参拝する」 … (2016、7)

12)「『海の正倉院』と言われる沖ノ島の信仰」… (2016、7)

13)「大島に渡り、中津宮に参拝する」 … (2016、7)

です。

        ★ 

 また、カテゴリー「随想」の次のブログをメンテナンスしました。

「上町台地を歩く … (1) 難波の宮跡を経て大阪城公園へ」… (2016、3)

「上町台地を歩く … (2) 真田丸の跡を訪ねて」… (2016、3)

「上町台地を歩く … (3) 真田幸村の最期の地を訪ねて」… (2016、3)

「アメリカの大統領の広島訪問… Why do we come to this place??」… (2016、5)

          ★   ★   ★

 このころに書いたブログは、自分で言うのは少々気が引けますが、読み返してみてなかなかの大作で、文章もまずまずかと思います。ですから、そっと一部手直し・リフレッシュするだけで、こんなお知らせをする必要はなかったのですが、できればもう1回、読んでいただきたいなと思う文章もありまして、ここに再掲しました。自己推薦のブログに、のしるしをしました。

 お暇なときにまた読んでいただければ幸いです。

 

 

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