ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

玄界灘の旅からちょっと離れて、大阪の神社のことなど …… 玄界灘に日本の古代をたずねる旅(9)

2016年06月25日 | 国内旅行…玄界灘の旅

    (住吉大社の太鼓橋)

 私は大阪市民でも、大阪府民でもないが、長年、大阪で働いた。愛着がある。そういう立場から、当ブログにも、時々、大阪散歩の記事を書いてきた。今回も、玄界灘からちょっと離れて、大阪のことを書きたい。

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神様が降りてくるのは森(杜) >  

 大阪市内にも、小さな愛らしい神社がたくさんある。それぞれに由緒があり、古木が緑陰をつくり、小さな森 (杜) となって、人々の心に潤いを与えている。

 だが、残念ながら、大阪市内の著名な神社のなかには、がっかりする神社が多い。樹木がなく、森が失われ、拝殿の向うに見えるのはビルや看板、目を閉じて聞こえてくるのは車の騒音ばかり。

 収入の少ない小さな神社ががんばっているのに、これほど名のある神社が、なぜこんな状態のまま放置されているのだろう。

  例えば、「森林・林業学習館」ホームページには、このように書かれている。

 「鎮守の森は、地域を守ってくださる神様が降りてくる森。鎮守の森が元気であれば、神様が来てくれるが、人々が世話をせずに森が荒れると、神様が村を守ってくれなくなると考えられていました。そして、人々は間伐したり、弱った木を伐るなど、協力して手入れをして、森を守り育てました」。

 ─── と、思っていたら、昨日の新聞に、大阪天満宮の船渡御の企業協賛金が減って、大篝船 (オオ カガリブネ) の費用が賄えないかもしれない、という記事が載った。大阪天満宮の天神祭は、日本三大祭の一つである。

 今までやってきた祭の一部が消えるとしたら大変残念であるが、しかし、あの神社のあのたたずまいでは、人々の心を集められなくても仕方ないだろう、と思う。

 

    ( 大阪天満宮 )

   ( 太宰府天満宮 )

 仏教寺院やキリスト教教会は、もともと外部から遮断された暗い屋内空間に、仏像があり、十字架があり、そこが聖なる場となる。

 日本の神社は違う。空や、雲や、風や、樹木のざわめきや、小鳥の声や、虫の音など、外界の空気や自然の気配を五感で感じながら、身を清め、柏手を打つのが、日本人である。

 船渡御のための寄付集めも大切だろうが、物事には優先順序というものがある。まず、小鳥がさえずり、蝉が鳴く、鎮守の森を取り戻してほしいと、私は思う。

 大阪人の経済力と郷土を愛する心があれば、そう難しいことではないはずだ。そのためなら、年金生活者の私も、貧者の一灯をささげたいと思う。私が死んだ後も、このような日本の文化が大切に引き継がれて、世界から大阪を訪ねてきた人々が、自ら信じる宗教・宗派を超えて、「これが日本の文化なんだ!!」と感動してほしいからである。

         ★

「鎮守の森」は日本の誇り >

 宮脇昭氏は、横浜国立大学名誉教授、国際生態学センター研究所所長である。長年、日本の森を守る学術活動の中心になってこられた。

 氏は特に、神社やお寺の 「鎮守の森」 に注目する。鎮守の森には、太古のままの植生を維持している学術的にもすばらしい森が、あちこちにある。神社やお寺の周辺まで開発の手が及んでも、鎮守の森は大切にされてきた。

  鎮守の森は、国際生態学会、国際植生学会でも、英語にもドイツ語にも訳せないで、そのまま、 『鎮守の森』 として、学術用語となっているそうだ。鎮守の森は、日本の誇りなのである。 

 だが、バブルの時代には、都会の神社やお寺も「地上げ」の対象にされた。周辺の住民も、鎮守の森よりも、マンションの建設を求めた。

 そして、今、地方でも、神社やお寺の跡継ぎがなくなり、都会でも、氏子らしい氏子もいなくなって、境内の一部を切り売りしなければやっていけない神社やお寺も多い。「鎮守の森」は急速に失われていき、日本の緑の面積が減っていく。宮脇氏は詳しいデータを示している

 なかには、先代のときに失った「神域」の土地を、必死で働いて買い戻し、再び鎮守の森に再生させようとがんばっている神職の方もいる。

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災害から郷土を守るのは「ふるさとの木」 >

 神戸の大震災の直後に、宮脇昭氏は、空からヘリコプターで、そして実地に自分の足で、被災地に入った。そのことを自らの著書 (『鎮守の森』 新潮社 ) に書いておられる。

  「私は、その土地本来の森であれば、火事にも地震にも台風にも、耐えて生き延びると主張し続けてきた。…… その主張の根拠は、わが国の鎮守の森に代表される、ふるさとの木によるふるさとの森こそ、長年の現地調査とあらゆる植物群落の比較研究から、最も強い生命力を有していると判断したところにある。それぞれの地域本来の森の主役となる木を 『ふるさとの木』 と私は呼んでいる。…… 神戸付近であれば、冬も緑の常緑広葉樹、シイノキやカシノキやヤブツバキなどがそれである」。 

 「鉄、セメント、石油化学製品などの死んだ材料でつくった製品が、地震国日本では何年、何十年、或いは、百年のうちに必ず訪れる、自然にとってはほんのわずかともいえる揺り戻しに対して、いかに危機管理能力に劣るかということを、現場でしみじみと体感させられた。

 調べていくと、神社の森では、鳥居も社殿も崩壊しているのに、カシノキ、シイノキ、ヤブツバキ、さらにはモチノキ、シロダモも、1本も倒れていない。ちゃんとそのまま森として残っている。また、住宅街でも、アラカシの並木が1列あるところでは、並木が火を遮ったのであろう。アパートが焼けずに残っていた。もちろん、強い火力によって、並木の片側は葉が赤茶けているが、そこで火が止まっている。しかも、8か月後に再調査したときには、再び新しい緑の葉が出ていた」。 

 「20数年前、山形県酒田市で1800戸もの家が焼けた大火のことが思い起こされる。たまたま本間家という旧家に常緑のタブノキの老木が2本あった。酒田は常緑広葉樹の北限に近い。あの大火がそのタブノキのところでとまったのである。歴代酒田市長は、我々の3年間の酒田市全域植生調査の結果を踏まえて、『タブノキ1本、消防車1台』という掛け声で、小学校の周りから下水処理場の周りまで、タブノキを中心にウラジロガシ、アラカシ、ヤブツバキ、アカガシ、スタジイ、モチノキ、シロダモなどの幼苗を生態学的手法によって混植、密植したのだった」。

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「鎮守の森」を守る寺社には助成金を >  

 信仰の問題を言っているのではない。文化の問題であり、現代的知性の問題でもある。

 「商都・世界の大阪」を目指すのなら、今あるもののうち、何百年もあり続けてきたものをどう生かしていくか、そこを真剣に考えなければいけない。今の時代に、スクラップ&ビルドの町づくりは、単細胞のそしりを免れない。流行りの建築家を呼んできて、1つ2つ、奇抜な建物を造らせてみても、すぐに飽きられ、古ぼけて、何の魅力もないものになってしまう。

 地震にも、大火にも、台風にも強い、美しい鎮守の森を、大阪市内の各地域に再生させる。

 たとえ私有地の中といえども、「ふるさとの木」を勝手に伐り倒すことは、条例で禁止する。

 「ふるさとの木」を育て守っている神社や寺に、「ふるさとの木」運動の補助金を出す。

 それが、市民精神というもの。世界の常識はそういう方向に向いている。

  大阪町人の心意気を示してほしいと、心から思う。

 大阪天満宮は原点に戻るべし。森を取り戻さなければ、神様は降りてこない。

         ★

< 住吉大社の宮司・津守氏 >  

 そのような大阪市内の著名な神社の中で、住吉大社は、神社らしい雰囲気を今も維持して、美しい。  

 『日本書紀』 によると、神功皇后は、九州からの帰路、現在の大阪市住吉の地で三柱の海の神々を祀り、土地の豪族の田蓑宿祢に津守氏の姓を与えて、代々、この三神を祀るように、と言ったという。

 神功皇后の伝説はともかくとしても、津守氏は、古代、このあたりを支配した豪族で、歴代、住吉大社の宮司家であった。

 玄界灘をわが海とした海人たちと津守氏との関係は、よくわからないが、津守とは、言うまでもなく、港を管轄・支配した一族の意であろう。

 玄界灘の海人たちの住吉の神 (三神) は、いつのころからか、筑紫、長門、摂津と、北九州から瀬戸内海を経て大和へ向かう航路の、津々浦々に祀られていったのである。

         ★

< 海部 (アマベ) 氏と尾張氏のこと >

 津守氏は、丹後の籠神社 (コノジンジャ) の社家である海部 (アマベ) 氏や、尾張の熱田神宮の大宮司である尾張氏と同族であるという説もある。

 海部氏には、9世紀に成立した2巻の系図があり、1976年に国宝に指定された。国宝に指定された系図はこれだけ。歴史学研究上、貴重な資料なのであろう。

 それによると、その祖は遥かに神代に遡り、その後は伴造として海部 (海人集団) を率いていた時代へ、そして「祝 (ハフリ。神官) 」 として神に奉仕した時代へと続くそうだ。我々庶民には気の遠くなるような家系である。

 以前、天橋立に行き、籠神社に参拝した。さらに籠神社の奥社である眞名井神社への山道の参道を歩いていたら、立ち話をしている人たちがいた。3人のおばさんたちは明らかに観光客だが、もう一人のご老人は神職のいでたちである。そばで立ち止まって、少し話を聞いたが、何とこの話好きのご老人が、遠い祖先は高天原につながるという宮司さんだった。奥社へ参拝する山道で、たまたまそのような方にお目にかかって、しばし、浮世離れした気分になった。

 

     ( 天橋立 )

    ( 籠神社 )

 ( 奥社・眞名井神社 )

 一方、熱田神宮の尾張氏は、ヤマトタケルとミヤズヒメの話で有名である。ミヤズヒメは、尾張の豪族・尾張氏の息女である。ヤマトタケルは東国遠征に行く途中、尾張で出会い、その帰途に再び立ち寄って再会した。別れに際して彼女に草なぎの剣を託す。そして、大和へ向かう途中、伊吹山の神と素手で戦うこととなり、命を落とした。

 草なぎの剣とは、神代の時代に、スサノオがヤマタノオロチから取り出し、アマテラスに献上した剣である。この剣によって、ヤマトタケルは何度も危機を脱した。

 ヤマトタケルの形見の剣は、ミヤズヒメによって、熱田神宮に祀られた。熱田神宮のご神体は草なぎの剣である。

 尾張氏は東国の入り口の地に勢力をもち、しばしば皇妃を出した有力な氏族である。

 時代を経て7世紀、どういう事情があってか、大海人皇子 (のち、天武天皇) は幼少期に海部氏に育てられ、これを尾張氏が援助したという。「大海人」という名は、海部氏に由来するらしい。兄の天智天皇の崩御後、壬申の乱のとき、初め東に逃れ、尾張の軍勢を引き連れて、近江の大友皇子軍を撃破した。

 いずれも、海部氏や尾張氏が大きな存在であったことをうかがわせる話である。

 熱田神宮も、広々と奥深く、森閑とした、いい神社である。

 参拝後、ご近所で名物の鰻を食べた。美味かった。その後、食材の鰻が手に入りにくくなったが、どうしているのだろう? あの旨さを維持しているのであれば、もう一度、食べたいと思うが、値段は2倍? 3倍かな?

         ★

< 住吉大社の隆盛 > 

 このような海部氏や尾張氏と比べ、津守氏は地味な地方豪族に過ぎなかった。

 脚光を浴びたのは、大化の改新の後、朝廷が上町台地 (半島) の北端に、海に面して難波宮を造営したときである。難波に宮を置いたのは、百済や大陸との外交・交流を考えてのことであろう。

 ここは津守氏の勢力圏であったから、当然のことながら津守氏は難波宮の建設に貢献した。遷都されると、津守氏の祀る氏神が難波宮の地主神となり、朝廷からの尊崇を受けた。難波宮の時代はわずかな期間であったが、このとき、大阪の「住吉」は全国区になったのである。

 住吉大社が大きく脚光を浴びるようになる第2弾は、奈良時代の遣唐使船の派遣である。

 遣唐使の初期、遣唐使船は、住吉大社の南にあった住吉の津から出航し、やがて難波の津から出航するようになるが、いずれにしろ瀬戸内海を経て、北九州から唐に渡った。

 遣唐使は国家的な大事業であったから、朝廷はその成功を祈願するため、近畿各地の有力な神社に使者を出した。特に、住吉大社は航海安全の海の神であるから、手厚く奉幣した。こうして、住吉大社は、朝廷の「航海安全の神」になっていった。

 住吉大社は、今は、街の中にあるが、江戸時代までは海に面していて、太鼓橋のすぐ近くまで清らかな波が打ち寄せていたという。一帯は、白砂青松の風光明媚な所であった。

 遣唐使に選ばれた天下の秀才たちも、出航の前には、全員が大社に参拝して、生きて再び故国の土を踏むことができるよう祈願した。

 いよいよ船が出航すると、船上から、住吉の姫松が見えなくなるまで、切実な思いをもって名残を惜しんだ。

 遣唐使として海を渡った知識人たちが住吉大社をあつく信仰したことによって、いつしか住吉三神は学芸の神となり、また、和歌の神となっていった。藤原俊成も、定家も、歌道を志す人たちは、その上達を祈願して参拝した。風光明媚であったから、歌にも詠まれ、「住吉の松」は歌枕になった。

 おそらく 「源氏物語」 の影響は大きかっただろう。須磨に流されて苦しむ光源氏を救ったのは、住吉大社に帰依する明石入道であり、源氏はその娘である明石の上と結ばれる。

 「澪標 (ミヲツクシ)」の巻では、晴れて都に迎えられた光源氏が、多くの供人を従えて住吉大社に参拝し、折しも参詣に来ていた明石の上と、出会えそうで出会えないという絵巻物のような話が、住吉大社を舞台にして展開される。

 日本は農業国であったから、いつしか住吉大社は農耕の神さまにもなった。今も境内には約2反の田があり、田植えの神事が行われるそうだ。

 まことに日本の神は融通無碍で、祈る人の心とともにある。

 

 

 

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香椎宮と神功皇后伝説 … 玄界灘に古代の日本をたずねる旅(8)

2016年06月18日 | 国内旅行…玄界灘の旅

< 香椎宮に寄る >

 伊都国歴史博物館から志賀島に行く途中、香椎宮 (カシイグウ) に寄った。

   ( 香椎宮鳥居 )

 ここは、仲哀天皇が熊襲征伐のため九州に遠征したとき、仮宮が置かれ、天皇が崩御したため霊廟になった所 …… とされる。

 10世紀には、霊廟が神社となり、仲哀天皇、神功皇后が主祭神として祀られた。

                  

  ( 香椎宮の拝殿 )

                   ★

< 卑弥呼を思わせる神功皇后伝説 >

 『古事記』『日本書紀』(併せて記紀)は、8世紀の初めに成立した我が国最初の歴史書であるが、「神代」記はさておき、それ以後の叙述においても、史実というより、「伝説」とした方がよいエピソードが挿入されている。

 「神武東征」やヤマトタケルの話などがその例で、熊野の密林の中を苦難の行軍するイハレビコを先導したのは八咫烏である。また、東国遠征の帰路、疲労困憊してついに倒れたヤマトタケルの魂は、望郷の念抑えがたく、白鳥となって大和の方へ飛んで行った…。

 これらの話が史実と言えないのは言うまでもないが、イハレビコもヤマトタケルも、ハリウッド映画に登場する主人公のようにカッコよく描かれているわけではない。戦いに敗れたり、九死に一生を得たりする叙述の語り口は訥々として、古代人の「人間」としての息吹が感じられる。

 それにひきかえ、世に「神功皇后の新羅征伐」と言われる話は、全く非現実的で、神話的・神がかり的である。

 神功皇后、即ちオキナガタラシヒメについても、歴史上の人ではないだろうと言われる。滋賀県の豪族・息長氏の息女だが、謎多く、よくわからないようだ。

 以下、改めて、…… 『古事記』に描かれた「神功皇后の新羅征伐」とは、こんな話である。

         ★

  ( 仲哀天皇の熊襲征伐のための仮宮跡 )

 仲哀天皇は、筑紫の仮宮・香椎宮で、熊襲との戦いに臨み、神依せ (カミヨセ) をした。神は神功皇后 (オキナガタラシヒメ) に依せて、「西の方に豊かな国がある。そこを服属させて、与えよう」 とお告げを下した。西の方には海があるばかりではないかと、そのお告げを信じなかった仲哀天皇は、神の怒りにふれて息絶える。(ちなみに、この薄幸の天皇は、伝説の皇子ヤマトタケルの子である)。

   皇后は身重であった。お告げは、「その国は、そなたの腹の中の御子が治める国である」 と言う。

 皇后は、お告げを信じ、軍船を整え、お告げを下した三柱の海の神々 (底筒男、中筒男、上筒男) を、軍船の上に祀って出陣する。すると、海の魚という魚が軍船を背負い、追い風も受けて、船は一気に進んで新羅の国に押しあげ、国の半ばにまで達した。驚いた新羅王は恐れ降伏する。

 皇后は帰国し、筑紫で男子 (ホンダワケ=応神天皇) を生んだ。

 このあと、神功皇后は、大臣・建内宿祢とともに、難波から大和へと向かい、ホンダワケの異母兄たちと大王位をめぐって争い、勝利することになる。

 『日本書紀』の記述を踏まえて絵を描けば、神功皇后は誠に勇壮で、男装して鎧を着、弓矢を持って、軍船の甲板の上に立つ。だが、『古事記』の記述だけをすなおに読めば、身重の神功皇后は軍船に乗っていただけで、新羅王を降伏させたのは全て海の神の奇蹟的な業である。ゆえに、その姿は巫女のような装束こそふさわしい。まさに 「卑弥呼」 的な女性である。

         ★

< 伝説の背景にあるもの……海人たちの神々 >

 日本列島がまだクニグニであったころ、朝鮮半島の北部には中国大陸の勢力 ── 前漢や後漢や魏 ── が侵出して、楽浪郡やさらに南に帯方郡をつくった。

 半島南部には、西に馬韓(のち百済国)、東に辰韓(のち新羅国)、南に弁韓があり、日本列島と同じように、それぞれ数十のクニグニによって構成されていた。

 半島の最南端の弁韓の辺りは、駕洛と呼ばれた。朝鮮語ではKalak。日本にくると子音の単独発音ができないから、最後のkが落ち、カラになる。加羅と漢字を当てても、同じ言葉である。伽耶も同じで、l 音は y 音に変わりやすいから、カラがカヤになった。『魏志倭人伝』の筆者は、カヤをクヤと聞いたから、狗邪韓国と記した。日本の古記録ではそこを任那と呼んでいた。

 以上は、司馬遼太郎『韓のくに紀行』によるが、司馬はさらに、 倭という言葉は、もと、半島南部の最南端に棲む人たちと北九州に棲む人たちを指していたのではないか、そういう伝承もあるらしい、という。一衣帯水というが、海を隔てて同類であった、というのである。言葉も、方言程度の違いはあれ、通じ合っていた。

 このようにいうと、センシティブな韓国人は 「日本は、古代も韓国が日本の植民地だったというのか」 と怒るだろうが、植民地という19、20世紀的用語をあえて使うなら、半島最南端の人たちが、稲作の技術を携えて、北九州に植民したのだ。もちろん、北九州からも、新技術を求めて半島南部に出張した。

 朝鮮半島最南端部から、遥か昔の縄文時代の釣り針も発見されている。また、縄文人の埋葬された人骨も発見されている。古代における日本海は、現代よりもずっと狭い。

 前回、「奴国」や「伊都国」の初期の段階の遺跡から、甕棺が多数出土していることを記した。甕棺は、世界でも珍しい埋葬方法で、その分布は揚子江河口部、朝鮮半島南部、そして北九州である。これは、稲作の伝達ルートと同じである。

 さて、半島南端の伽耶地方の人々と、北九州の倭人たちとを結び付けていたのは、海に生きる男たちである。海人 (アマ) と呼ばれた。

 伽耶が周辺のクニグニから攻められて助けを求めてくれば、血気盛んな玄界灘周辺の海人たちは、船団をつくって助けに行ったり、そうは言っても、海に隔てられているのはたいそう不便で、「いっそこっちへ移住してきたらどうだ」 と言ったりした。

 弥生時代も後半になり、鉄の時代になってくると、鉄素材確保のために、伽耶は一層、重要になる。日本海を越えて、北九州に鉄素材を運んできたのも、玄界灘の海人たちであった。

 海の男たちは、自然界の神々に対して、畏敬の念を抱く。日本海を越えようとするときには、船頭 (フナガシラ) 以下、みなで禊をし、神々の加護を祈願して後、出航した。

 記紀において「神功皇后」を導いたとされる底筒男、中筒男、上筒男の神々は、もともと彼ら海人たちの神々であり、航海の守護神であった。

 今、その三柱の神々は、全国の「住吉神社」に祀られている。

 全国2300社もあると言われる住吉神社の総本社は大阪の住吉大社。しかし、博多にある住吉神社こそ、住吉神社の始原だ、と言われる。大阪の住吉大社が摂津国の一宮なら、博多の住吉神社は筑前国の一宮だ。その境内からは、銅矛、銅戈も出土したそうだ。

 海人たちと、彼らが尊崇した住吉の神々を抜きにして、神功皇后の話は成立しなかったということだ。

 少なくとも、この伝説の原型となる話を語り伝えていたのは、海人たちであったに違いない。

         ★

< 神功皇后伝説の舞台となった時代 >

 では、神功皇后伝説が生まれてくるような時代的背景があったのだろうか?? 歴史家は、神功皇后伝説そのものは虚構であるが、生まれてくる背景はあったと言う。

 3世紀後半になると、日本列島は古墳時代に入っていく。さらに、4世紀末から5世紀になると、いわゆる「応神陵」「仁徳陵」に見られるような「超」の付く巨大古墳が造られ、中国の史書に「倭の五王」が登場する時代になる。

 半島においても、北方系の高句麗が、中国大陸の弱体化につけ込み、楽浪郡、帯方郡を滅ぼして、建国を果たした (AD323)。

 小さなクニグニの寄り集まりであった半島南部の馬韓には百済国が (AD346)、辰韓には新羅国が建国する (AD356)。

 その結果、半島南端の伽耶地方のクニグニは絶えず圧迫されるようになる。

 また、馬韓のクニグニの中から出て、百済国を建国した王は、高句麗系(北方系)の人だと言われるが、その民の多くは、伽耶と同じように、倭と同種の人たちだったのかもしれない。歴代の百済王は、高句麗を拒否し、倭と手を結ぶことを選択している。

 話を「神功皇后」伝説に戻せば、…… 例えば、吉村武彦 『ヤマト王権』 (岩波新書) には、このように叙述されている。

 「 (記紀にみる神功皇后の話は)  虚構であるとはいえ、歴史的背景があったことに注意したい。広開土王碑文に、4世紀末、倭国が百済と新羅を 『臣民』とした記述がみられるからである」。

 韓国ドラマ『大王四神記』(ヨンサマ主演) は、広開土王が主人公だった。その大王の事績を記念する、5世紀に建てられた碑が「広開土王碑」である。

 そこには、「倭が新羅を破り、百済と新羅の民を臣民にした(AD391) 。そこで、 われらが英雄・広開土王が百済を征討し、百済は再び高句麗との属民関係に戻った(AD396) 。ところが、 百済は高句麗を裏切り、またもや倭との関係を復活した(AD399) 。しかも、倭は、新羅や旧帯方郡の辺りまで侵攻してきたので、これと戦い、高句麗軍が勝利した (AD404)」 などと書かれている。

 倭と半島との関係を示すもう一つの資料として、『三国史記』の百済本紀もある。

 石上神社に伝わる「七支刀」に刻まれた文字も、この時代の倭と百済の関係を示している。 

 このころの朝鮮半島の状況は、「高句麗の南下と倭の侵出」であり 、この時代、伽耶や百済 (における権益) を守ろうとしたヤマト王権が直面していた強敵は、新羅ではなく、高句麗であった。

 こうした時代があって、海人たちは、自分たちの渡海や戦いの経験を子や孫に語り聞かせ、そうして、世代から世代へと語り伝えられるうちに、話は伝説らしく成長していった、と考えてもまちがいはなかろう。

 そして、8世紀の初め、日夜、歴史編纂事業に励んでいた宮廷の秀才たちは、膨大な取材・収集資料の中から、5世紀の半島への進出をうかがわせる海人たちに伝えられた伝説を拾い上げ、記紀に書き込んだのである。

 その際、もともと海人たちの間に伝わっていた伝説を、どの程度変形・脚色して記紀に記載したのか、或いは、もともと今見るようなものであったのか、それは、今はもう、わからない。

 ただ、先入観なしに記紀に書かれたこの話を読めば、先に書いたように、新羅を降伏させたのは住吉の海の神々であり、船上に陣取っていたのは海人たちと軍勢であって、さすれば、「神功皇后」は、後から付け加えられた装飾ということになる。

         ★

< 海人たちの「伝説」の原型は?? >

 だが、しかし、 …… と思う。自分たちが「絵」の中心では、いささかむさくるしいのではないかと、海の男たち自身が思ったとしても、そう不思議ではない。

 たとえば、…… 彼らは、この玄界灘に、大和の大王に付いて、美しいお妃もやって来ている、ということを噂に聞いていた。

 いよいよ出陣という朝、巫女のような衣裳をまとった清楚で美しい女性が浜にやって来て、彼らが尊崇する海の神々に祈りをささげた。

 海の男たちは、この光景に、ただ感動した。

 そして、彼らが戦いから帰ったとき、その女性は御子を抱いて、彼らを迎えた。

 …… というような出来事があり、それが、海人たちの間に語り継がれて、尾ひれもついて、記紀のような伝説になった …… とも考えられる。美女は、船上にいてくれた方がもっといい、と想像するくらいには、彼らもフェミニストであった。

 玄界灘一帯の津々浦々に、皇后だけでなく、童子ホンダワケ (のちの応神天皇) の伝説も語り継がれていたらしい。

 この童子の伝説をいち早く取り込んだのが宇佐八幡宮である。もともとローカルな宇佐氏の氏神に過ぎなかった神社が、童子ホンダワケを祭神としたことによって、全国区の神社になったのである。

         ★

 秀才というものは、伝説を採集してきて、それをきちんと記録することは得意であるが、自分たちが歴史を「創作」してしまうことには、良心が痛む人たちである。── 上司の指示でもない限り。

 当時、彼らのトップに君臨していたのは、中臣鎌足の跡継ぎの藤原不比等だった。怜悧な能吏で、必要とあればウソもつくが、根は真面目な人である。 

         ★

< 漆黒の軍団 >

 今、NHKの大河ドラマ「真田丸」が面白いが、真田軍の軍装は赤具え。徳川方の将兵たちからも、「敵ながら何とかっこいい!!」と思われていた。

 西川寿勝、田中晋作共著『倭国の軍団 … 巨大古墳時代の軍事と外交 … 』 (NHK大阪文化センター) は、5世紀のヤマト王権時代の軍装について、次のように書いている。

 「日本列島で見られる武装は、黒漆を塗った甲冑で武装することが一般的です。『漆黒の軍団』ということができるかもしれません。つまり、漆黒の軍団のなかに金色の甲冑をまとった有力者がいた、というイメージです」。

         ★

  以前、宮崎観光のツアーに参加したことがある。

 途中、観光バスは、西都原 (サイトバル) 古墳群公園を見学し、県立考古博物館に入館した。

 観光ツアーが、古墳を見学したり、博物館に入館するのは珍しい。

 古墳公園は、広大で、あちこちに緑で覆われた円い墳墓のふくらみがあって、美しかった。

 一基の円墳の中を見学したが、公園には大きな前方後円墳も2基ある。そのうちの「女狭穂塚」は長さは180mで、大阪藤井寺市にある仲津山古墳の5分の3の相似形。どちらも宮内庁の管轄になっていて、立ち入り禁止である。

 考古博物館は、各府県にある同種の博物館のイメージを一新し、幻想的な演出が素晴らしく、これなら観光バスが立ち寄っても、十分にこたえられると思った。

 

                  (西都原古墳群)

 その博物館に、古墳時代の馬上の武人のイメージ像があった。

 もし本物なら、戦いを挑むことは敬遠したくなるだろう。迫力があった。

 大王に従って、日本各地や、もしかしたら半島にまで遠征した、漆黒の馬上の兵士像である。

 

 倭人は、半島での戦いから、騎馬を学び、鉄片を綴った鎧を身に付けるようになっていた。  

          ★

<記紀の時代の神功皇后伝説> 

 記紀が編纂されたのは8世紀の初め (712年、720年) である。

 記紀の編集者たちは、膨大な歴史書編纂資料の中から、なぜ、「神功皇后の新羅征伐」という神がかり的な話を選択して、挿入したのだろうか??

 それは、英雄的な大王であったホンダワケ・応神天皇が、まだ母の胎内にいたとき、半島に遠征して、新羅を降伏させた、ということを記紀に記録したかったのである。

 663年、白村江で敗れた日本は、近代的な国家づくりを急いでいた。記紀の編集はその最終章の一つであるが、当時の日本にとって、伽耶も百済も高句麗もすでに滅んでなく、仮想敵は新羅とそのうしろにいる唐であった。

 この時代の国際情勢は、高句麗ではなく、何よりも「新羅征伐」の話を必要としていたのである。

 

 

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「奴国」と「伊都国」に立ち寄る … 玄界灘に古代の日本をたずねる旅(7)

2016年06月11日 | 国内旅行…玄界灘の旅

< 「奴国の丘歴史公園」へ > 

 「春日市奴国の丘歴史資料館」のパーキングに車を置くと、すぐ目の前に芝におおわれた丘があった。お天気が良く、自ずから資料館は後回しとなり、のどかな丘の方ヘ足が向く。「奴国の丘歴史公園」だ。

 丘の頂上付近に天文台のドームのような建物が見える。春の日差しがのどかな丘には少々無粋な建物と思いつつ近づいて見ると、入り口は開放され、自由に内部を見学できるようになっていた。

 ドームは出土した遺跡を覆うための覆屋 (フクヤ) だった。

 掲示パネルをななめ読みした。

 春日市一帯は「弥生銀座」と呼ばれ、この丘も須玖岡本遺跡の一角で、この覆屋の中には、発掘された甕棺墓の様子が、発掘された状態でわかるように展示してある。

   ( 覆屋の中の甕棺 )

 さらに ── この丘から200mほど先には他の墓群と隔絶したような墳墓があり、大石の蓋の下の甕棺から前漢時代の銅鏡30面のほか、銅剣、銅矛、ガラスの勾玉などが多量に出土した。

 この墳墓こそ、福岡平野一帯を治めていた王 ── 中国の歴史書にいう「楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国。歳時を以て来たりて献見す」の時代の王の墳丘墓に違いない、とされている。

 これらの出土品は、歴史資料館の方にあるが、その王墓の甕棺の上に置かれていた大石は、この丘に運ばれ、樹木の下に囲ってある。

         ( 奴国の丘の王墓の石蓋 )

 気持のよい日差しのなか、ぶらぶら歩いていると、丘のはずれにごく小さな社があった。入口に「熊野神社」とある。ここにもパネルが立てられている。

 江戸時代に畑の中から銅矛用の鋳型が発見された。それを熊野神社が神社の神宝として大切に保存してきた。銅矛の鋳型は珍しく、今は国の重要文化財となっている。

 古代の銅矛の鋳型を神宝として大切にしていたという、ちょっと浮世離れしたゆかしい話である。

   ( 熊野神社と説明パネル )

 「奴国の丘歴史資料館」に入る。

 春日市の遺跡から出土した埋蔵文化財を収蔵・展示している市の施設で、展示物の撮影は禁止だった。

        ★

< 「伊都国歴史博物館」へ >

 「糸島市伊都国歴史博物館」は、奴国の丘から車で1時間弱。 

 三雲南小路遺跡はその糸島市にあり、初期「伊都国」の姿をうかがわせる遺跡とされている。

 糸島市はもとは糸島郡であった。その糸島郡は、律令時代以後明治に至るまでずっと怡土 (イト) 郡と志摩郡の2郡であった。三雲南小路遺跡はその旧怡土 (イト) 郡にある。「伊都国」という名称の由来である。

 三雲南小路遺跡の王墓からの出土品は、須玖岡本遺跡の王墓の出土品と極めてよく似ており、BC1世紀ごろの前漢・楽浪郡との密な交渉を示す。

 また、この遺跡から1.3キロ離れたところで、平原 (ヒラバル) 遺跡が発掘された。

 これは三雲南小路遺跡より新しい時代のもので、弥生時代後期後半の遺跡。1号墓からは日本最大の銅鏡をはじめとする42面の銅鏡、ガラス勾玉、メノウ管玉などの副葬品が発掘され、巫女的な女王墓ではないか、もしかしたらここが卑弥呼の墓では、と騒がれた。

 しかし、『魏志倭人伝』の記述によれば、「伊都国」 は帯方郡から邪馬台国に至る途中にあった国の一つとして紹介されている。つまり、ここを女王・卑弥呼の墓と想定するのは、よって立つ『魏志倭人伝』そのものの否定となり、ムリがある。

 ただ、伊都国は、邪馬台国に至る途中にあった国の一つというだけでなく、『魏志倭人伝』のなかの記述では特別の存在感をもっている。

   その一つが「郡使の往来常に留まる所なり」とあること。郡使は魏の楽浪郡の使いのことで、倭に入ったときに、ここで邪馬台国からの指示を待ち、或いは、出国するときにも一旦、ここに滞在することになっていたのだろう。楽浪郡の大使館があって、楽浪郡の役人が常駐していたのかもしれない。

 この旅に出る直前の3月、新聞に、「伊都国の王都とされる福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で、国内最古級の硯の破片がが出土した」という記事が出た。楽浪郡の遺跡から出土した硯と一致し、また、50点を超える楽浪系土器も出土したという。西谷正・九大名誉教授の談として、「外交文書や品物の目録作成を、伊都国に滞在する楽浪人が担っていたことをうかがわせる発見だ」。

 もう一つ、この伊都国には、「一大率」という高官が配置されており、その役職は諸国を検察することにあったという記述であること。諸国とは九州の国々のことであろうか??

 以上の二つを考えるとき、卑弥呼の時代の伊都国は、7世紀以後の太宰府の役割を果たしていたことになる。

       ( 伊都国歴史博物館 )

 「伊都国歴史博物館」の展示物はやはり撮影禁止。

 国宝に指定されている中国製の最大の銅鏡、ガラスや碧玉製の勾玉、太刀、さらには甕棺などもたくさん陳列されていた。それらの品々を見て回り、この時代の雰囲気を感じとって、良しとする。

         ( 館内展示室 )

 廊下に出て、二階ロビーのような場所に不気味な姿があり、思わず笑った。ちょっと悪趣味だが、社会見学でここを訪れる小学生たちには、人気者かもしれない。

  ( 館内2階テラスの弥生人 )

        ★

 ここから、志賀島へ向かう。今日の一番のお目当ては「志賀海神社」である。慣れない道だ。志賀海神社に参拝して、夕方、明るいうちに今日の宿の国民休暇村に着きたい。

 

 

 

 

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「邪馬台国」幻想 … 玄界灘に古代の日本をたずねる旅(6)

2016年06月05日 | 国内旅行…玄界灘の旅

 (大阪府立弥生文化博物館の卑弥呼像) 

 今回も、歴史好きの方には自明のこと、そうでない方にとっても、ちょっと調べればわかることばかりの内容だが、私自身の覚書き帳でもあるので、どうかご容赦いただき、読み飛ばしていただきたい。

 今回は、石田日出志 『 シリーズ日本古代史1 農耕社会の成立 』、吉村武彦 『 シリーズ日本古代史2 ヤマト政権 』 (いずれも岩波新書) などを参考にした。

          ★

< 奴国 (ナコク) と伊都国(イトコク) > 

 この紀行の題を、「玄界灘に古代の日本をたずねる旅」 としたが、ひとくくりに「古代」と言っても、白村江の戦いは7世紀、『魏志倭人伝』 に登場する「奴国」と 「伊都国」は 「邪馬台国」の時代だから、古墳時代に入る直前の3世紀、そして、『後漢書東夷伝』 に登場する「奴国」はまだ弥生時代の1世紀である。その間だけでも実に600年の時間の流れがあり、仮に2016年を基準にすれば、室町時代までさかのぼることになる。

 そんなことを考えていると、奴国や伊都国は遥かに彼方で、白村江の戦いはより近い出来事に感じられてくる。

 さて、太宰府の水城から博多湾までは、直線距離で12~13キロ。「奴国の丘歴史公園」は、その途中、水城から直線距離にしてわずか4キロ余のところにある。ということは、2~3世紀のころにさかのぼれば、水城や太宰府の辺りは、「奴国」の勢力圏だったに違いない。

 一方、「奴国の丘歴史公園」から、博多湾にほぼ平行して西の方角、直線距離にしてざっと20キロのところに、「伊都国歴史博物館」はある。車で約1時間の距離である。

 「奴国」 と 「伊都国」 は、「国」というよりも 、「クニ」 と呼ぶべき時代から、北九州の玄界灘・博多湾近くにあって、先進的な大陸の文化を吸収しながら成長していった。西暦で言えば、BC1世紀からAD3世紀のころで、考古学では、弥生時代の中期から晩期に当たる。

          ★

< 中国の史書にみる古代の日本 >

  文字が普及していなかった頃の古代日本の姿を伝える中国の史書は、『 漢書地理誌 』、『 後漢書東夷伝 』、『魏志倭人伝 』 だが、そこから古代日本に関する事項をメモ風に抜きだすと、次のようになる。

< BC202 秦が滅び、前漢建国>

< BC108 前漢の武帝が朝鮮半島北部に楽浪郡を置く > 

〇 BC1世紀 「分かれて百余国」の時代

 『漢書地理誌』に、「楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国。歳時を以て来たりて献見す」 とある。前漢が置いた楽浪郡に、倭の国々は使者を送っていた。

 考古学的には弥生時代中期に当たり、この時代の北九州の遺跡としては 須玖岡本遺跡 (のちの「奴国」)、三雲南小路遺跡 (のちの「伊都国」) がある。二つの遺跡からは「前漢の鏡」をはじめ、銅剣、勾玉などが発掘され、北九州が経済的・文化的に先進地域であったことが分かる。

 ただ、同じ頃、北九州だけでなく、列島各地に大規模な環濠集落が発達していた。吉野ヶ里遺跡 (佐賀)、唐古・鍵遺跡 (奈良)、池上・曽根遺跡 (大阪)などで、その一つ一つが 「クニ」 と呼べるものであった。

    (池上・曽根遺跡)

< AD24 後漢興る >

〇 AD57 倭の奴国王が、後漢に朝貢し、金印をもらう

 「光武(帝)、賜うに印綬をもってす」とある。考古学的には、弥生時代後期前葉になる。1784年 (江戸時代)、博多湾の沖合の島、志賀島 (シカノシマ) で、「漢委奴國王」と刻まれた金印が偶然発見された。何故、志賀島 (今夜の宿のある島) なのかは、わからない。だが、文字が漢代の隷書体であること、現在の印鑑とは逆に文字がくぼんだ形であること、極めて精巧に、後漢時代の寸法で作られていることから、本もの間違いなしとされ、国宝に指定されている。

〇 AD107 倭国王の帥升が、後漢皇帝に謁見

 2世紀初めにはクニグニを代表する倭国王が存在し、大陸との外交に当たっていたと推定される。

 2世紀の後半になると、「弥生の墳丘墓」と呼ばれる数十mから100mに及ぶ大きな墳丘墓が造られるようになった。それは出雲、吉備、大和、丹波、北陸、関東の千葉にまで広がっている。一方、後漢の衰亡に合わせるように、北九州勢力は地盤沈下する。

〇 AD170~190頃 『魏志倭人伝』に「倭国の大乱」の記述

 「(その国、もと男子を以て王となし、とどまること七、八十年、)  倭国乱れ、相攻伐すること歴年、すなわち一女子を共立して王となす」とある。AD180~190頃、クニグニによって一人の少女が共立され、大乱は治まった。倭国の女王・卑弥呼(ヒメミコか??)の登場である。都は邪馬台国(ヤマト国)に置かれた。

< AD220 後漢滅亡し、三国時代へ >

〇 AD239~240 卑弥呼は使者を魏の帯方郡へ派遣。翌年、魏より「親魏倭王」の称号をもらう。

 ※ 『魏志倭人伝』によると、盟主・邪馬台国を中心に30ほどの国が従属していた。

   ※『魏志倭人伝』に記述されている、有名な邪馬台国までの行程は、次のようである。

 

 (伊都国歴史博物館の展示から概念図)

 帯方郡  → 狗耶韓国 ( 狗耶 クヤ は、現在の釜山付近にあった金官国。カヤ、任那などととも)

→ 対馬国 → 一支 (イキ) 国 ( 壱岐) 

→ 末蘆 (マツラ) 国 (佐賀県・唐津市付近)

→ 伊都国 (福岡県・糸島市付近) 

→ 奴国 (福岡県・春日市付近) 

→ 不弥 (フヤ) 国 (福岡県・宇美町付近??) 

→ 投馬 (トウマ) 国 ( 不明だが、瀬戸内海行程なら吉備、日本海行程なら出雲か?? )   

→ 邪馬台国 (奈良県・纏向 マキムク 遺跡)                                                 

〇 AD247 卑弥呼が奴 (クナ) 国との戦いを前に、魏に援軍を求める使者を送る

〇 AD247or248 卑弥呼死ぬ

〇 その後、男王が立つも、相争い1000人が死ぬ。13歳の台予or壱予を立てて治まる 

< AD265 魏滅びる >

< AD313 高句麗が勃興し、楽浪郡を滅ぼす >

< 316 西晋滅び、南北朝時代へ >

< 346 百済建国 >

< 356 新羅建国 >

          ★

 「奴国」の「奴」は、那珂川の「那」であろう。中華思想で、周辺国には卑しい文字がわざわざ当てられた。「那の国」である。すると、音の響きが心地よい。

 ついでながら、「邪馬台国」の「台」は、「と」 と読む。「やまと」 国と読むのが正しい。これは、国語学では、ほぼ確定である。

 詳しいことは省くが、当時、「と」 という音は2種類あった。音の違いを書き表すには、当てる漢字を使い分ける。「台」という漢字を当てる 「と」 は、近畿の 「大和」 の 「と」 である。邪馬台国九州説は、九州にも「山門 (やまと) 」 がある(福岡県柳川市)と言うが、「山門」の 「と」 は、もう一つの 「と」 で、「台」 という漢字を当てることはない。現代日本語で 「ライト」 と言っても、英語圏で 「right」 と 「 light」 を混同することがないのと同じである。

 考古学も日進月歩で、多くの状況証拠が、邪馬台国は奈良県の大和だということを指し示している。

          ★

< 鉄器が少ない >

 だが、問題は残る。

 時代は鉄の時代に入っていた。鉄は貴重である。クニグニの首長たちが盟主国に期待するのは、倭国を代表して半島から鉄を輸入すること (この時代、鉄の素材は半島南東部でしか産しなかった)、及び、それを各首長に分配する采配の力量であった … と、歴史学者は言う。

 ところが、今、考古学会で論争が起こっている、そうだ。

 弥生時代の後期になっても、九州 (北部、中部) や山陰や丹後などと比べて、大和及びその周辺部から発掘される鉄器が少ないのである。

 邪馬台国=大和説の人たちは、「見つかっていないだけ。そのうち、出てくるよ」 と言っていたが、歳月を経て、むしろ発掘される鉄器の質量に差は開くばかりだ。そこで、「いや、鉄は加工・再利用できるから出ないんだよ。溶かしてより高度な鉄製品に作り直したら、出てこないよね」と説明した。ところが、大和や近畿圏で発掘された鉄器生産の場の遺跡を見ると、鉄器生産の技術レベルそのものが低いのである。これでは、鉄の後進国ではないか!!

 ところが、古墳時代になると、当然のことながら鉄器の発掘量は、大和とその周辺で、飛躍的に増える。

 この「段差」は、何なのか??

 そもそも古墳時代とは、九州から関東に及ぶ各首長の墳墓が、大和の大王の巨大な前方後円墳の縮小・相似形で造られるようになった時代である。前方後円墳の始まりは、「箸墓」。3世紀の後半のものと推定される。

 『魏志倭人伝』には、卑弥呼の死 (247または248年) 後、180mという巨大な墳墓が造られた、と記述されている。

 「箸墓」の長さはまさに180mである。(ただし、周囲に幅60mの濠があることが分かり、濠も入れると、さらに巨大な墳墓になる)。

 もともと箸墓は卑弥呼より半世紀以上も後の、4世紀初めごろの墳墓と考えられていたのだが、最近の考古学の科学的手法の進化で、もっと古い時期のもの、卑弥呼か、少なくともその後継者の台予または壱予の墓、いやいや完成までに10年、20年はかかるとしたら、やはり卑弥呼の墓だろうとされるようになった。『魏志倭人伝』と考古学が一致したのである。

 であれば、邪馬台(ヤマト)国は大和にあり、このときから古墳時代が始まったと考えるべきであろう。

 にもかかわらず、なぜ、古墳時代を前にした弥生時代後期になっても、大和において、鉄の文明度は低いのか。なぜ、古墳時代に入ったら、鉄器が飛躍的に増えるのか?? 弥生時代から古墳時代に移行する過程の、この大きな「段差」をどう説明するか?? こういうことで、考古学者は、今、頭を悩ませているのである。

          ★

< 私の「邪馬台国」幻想 >

 そこで、私の幻想がはじまる。1億日本国民の誰にでも許される「邪馬台国」幻想の一つとして ……。

 ( この 「……」 は、読者を現実ならざる世界に誘う瞬時の時の流れを表している )。

 歴史に「段差」があるのは、そこに急激な変化があった、ということであろう。では、「急激な変化」とは何か? 政治的、経済的、社会的変化の中で、急激な変化とは、「政変」以外に考えられない。

 戦後の歴史学者や考古学者は実証主義者であるから、というよりも、反『古事記』『日本書紀』を旗印にしているところがあるから、『古事記』 や 『日本書紀』 に叙述された「神武東征」伝説など一笑に付してきた。

 だが、古代史の真実は、しばしば伝説の奥にひそんでいることを、あのシュリーマンも証明した。世の中の進歩は、まずロマンチストが先行し、その後ろを実証主義者があたふたと付いてくるのである。

 「神武東征」伝説こそ、この問題を解くカギなのである。

 九州の日向からやって来たイハレビコたちは、最初、河内湾を入り、生駒山麓西岸に上陸しようとして、待ち受けていた「邪馬台国」の軍勢に攻撃され、敗退した。その結果、兄を亡くしたうえ、紀伊半島の密林の中を大迂回するという艱難辛苦をしいられた。

 第2戦は、大和の南の山間地から始まる。遠い異郷の地で、もう引き返すことができない状況に追い込まれているイハレビコ軍の士気は高く、少数といえども結束は固かった。しかも、彼らは最新鋭の鉄の武具を具え、グルーブの中には鉄器の技術者もいたのだ。

 一方、「邪馬台国」側は、先の狗奴(クナ)国連合 (東日本連合) との大戦を、「邪馬台国」連合 (西日本連合) の先頭に立って戦い、勝利したのだが、損害は甚大で、疲弊し、しかも、その直後に高齢の女王卑弥呼が没して、士気は著しく低下していた。

 『魏志倭人伝』に、卑弥呼の死のあと、「相争い千人が死ぬ」とある。多分、死傷者1000人くらいの戦いを経て、ヤマトの呪術的な政権は、この九州の日向からやってきた若者たちに王権を譲ったのである。『古事記』の「神武東征」を読めば、最後はいかにも日本的な「国譲り」で終わっていることに気づく。

 時代は変わろうとしている、この手ごわい若者たちに期待しても良いのではないか、という声は「邪馬台国」の長老たち(大和、河内周辺の豪族連合)の中から起こり、国は譲られたのである。

 このようにして、ヤマト王権は誕生したのだ。

 だが、このマイノリティ王権に対して、最初から、「邪馬台国」内の既存勢力や、まして列島各地の首長が治まったわけではない。

 新王イハレビコは土地の最有力者の娘を妃に迎えたし、女王卑弥呼を継いだ台予または壱予なる少女は実は新王の妹或いは娘であったが、とにかく呪術的な女王を立てなければ治まらなかったのである。亡き卑弥呼の墳墓=「箸墓」を手厚く造営したのも、イハレビコと台予または壱予であった。それは、かつて誰も見たことがない、中国の皇帝の墳墓を凌ぐ巨大墳墓であった。

 しかし、マイノリティであったが、新王権は彼らのやり方も次々と出していった。

 自然界の神々を敬ったが、おどろおどろしいシャーマン政治はほぼ排した。

 中国の皇帝からもらった銅鏡を首長たちに配って、自らを権威づけるようなやり方もしなかった。

 その代わり、各地の首長が亡くなったとき、先に亡くなった大王の墳墓の縮小・相似形の墳墓を造って、ヤマト王権との連帯を示すよう要請した。大王の方も、首長からの求めがあれば、新しい墳墓に葺く美しい淡路島の玉砂利や、石棺用の兵庫県の巨石を、東征の途中で親しくなった野島の海人に海上輸送させた。埴輪職人を多数養成し、各地に派遣して埴輪づくりを一手に引き受け、盟主としての心意気を示した。

 半島の新しい効率的な陶器づくりを学んで、大規模な陶器工場を造り、これを上下の別なく全国に配布した。

 鉄器生産に力を入れ、武具だけでなく、農具も改良した。

 こうして、この新しい王権は、呪術的で内向きな「邪馬台国」とは肌合いの異なる、新しい統治を始めたのである。

 ヤマト王権は、「邪馬台国」ではない。「邪馬台国」を受け継ぎながら生まれた、新しい王権であった。

 もちろん、世の中が落ち着き、マイノリティーの王権の権威が確立していくには、各方面に四道将軍を派遣するなど、まだ幾世代かが必要ではあったが ……。

  …… というのが、私の筋書である。

          ★

 「邪馬台国」=大和説の学者には、「邪馬台国」からヤマト王権へと水が流れるように続いでいくと考える人が多い。

 「邪馬台国」=九州説の中には、「神武東征」は「邪馬台国」の東征のことで、それがヤマト王権をつくったと主張する意見がある。九州、九州と、九州にこだわっていたら、その直後に登場するヤマト王権の説明ができない。

 私の説は、「邪馬台国」は大和にあった、とする。でなければ、箸墓の説明がつかない。

 「東征」したイハレビコは、九州の「日向」から出発した。高千穂のある、日に向かう所だが、今になってみれば、そこがどこかはわからない。北九州でないことは明らかだ。いずれにしろ列島の首長たちとは異なる新興の勢力であった。

 ローマ帝国をつくったのも、最初はオオカミに育てられたという伝説を持つ兄弟と、彼らをリーダーとする千人ほどの羊飼いの若者グループだったらしい。それが、今のローマの辺りのクニグニと、戦って合併したり、平和的に合併したりして、知恵ある長老や元気な若者や娘たちを取り込んで、奇蹟のように成長していった。 

          ★

 …… とまあ、このように言い、かつ、私が節制努力して少々長生きしたとしても、私が生きている間に、この仮説が立証されるのは、ちょっとむずかしい

 でもネ、実証主義者の目には見えなくても、あるものはあるんだヨ

          ★

  脱線はこれくらいにして、次回からまた本題に戻りましょう。

 

 

 

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