ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

「ローマ人」のローマ…早春のイタリア紀行(14)

2021年04月23日 | 西欧旅行…早春のイタリアの旅

  (カンピドーリオの丘から望むフォロ・ロマーノ)

<ローマ人のローマ>

 伝説によると …… テヴェレ川の上流から籠が流れついた。籠には双子の赤ちゃんが入っていた。なんと牝狼に乳を与えられて生き延びた。土地の羊飼いに拾われ、若者に成長し、3千人の若い羊飼いたちのリーダーとなった。双子のうちの1人のロムレスが王となる。「クニ」の名は王の名をとってローマと呼ばれた。BC753年のことだとされる。

 彼らは、イタリア半島のなかでも、ラテン語を話すラテン人だった。文明の遅れた小さな勢力だった。

 クニをつくった地は未開の地だった。というのも、古代ローマの遺跡のさらに下の層からはほとんど何も出土しないから。

 そこには7つの小さな丘があった。丘に囲まれた谷間は湿地だった。彼らは最初、パラティーノの丘に住み、次第に他の丘にも居住地を広げていったらしい。丘に囲まれた谷間が交流や交易の場となった。

 5代目の王のタルクィニウス(在位BC616~579)が、丘に囲まれた谷間の湿地の水を、近くのテヴェレ川に流す排水工事をやり遂げた。そのときは掘割式だったが、のち、大国に成長した共和制の時代のBC1世紀には、石造りのアーチで立派に覆われた。それが21世紀においても現役として使われているというのだから驚く。

 灌漑された土地が、フォロ・ロマーナに発展する。フォロは広場。

 「ローマ人の考える『フォルム化』とは、四辺のうちの一辺には神殿を建て、残りの三辺のすべてを列柱回廊で囲むということである」(塩野七生『ローマ人の物語Ⅷ 危機と克服』から)。

 ここは、大国ローマの中心となったフォロだから、最初は市が立ち、店も開かれただろうが、やがて北西側のカンピドーリオの丘には最高神ユピテルを祀る神殿が建てられ、列柱回廊の奥には元老院の建物や市民集会のためのパジリカ、神殿、凱旋門などが建てられていった。

 なお、タルクィニウス王はラテン人ではなかった。父は、ラテン人より遥かに文明度が高かった北部イタリアに住むエトルリア人、母は、南部の沿岸地方に植民していたギリシャ人だった。王に立候補して、当選したのだ。この灌漑工事では、エトルリアの進んだ土木技術を取り入れたらしい。

 ローマは王制としてスタートしたが、ロムレスの王国はアジア的専制国家とはイメージが違う。王は終身制だが、市民集会で選ばれて王となる。重要案件は市民集会に諮って決めなければならない。王の顧問組織として元老院があり、有力一族の長老が元老院議員になった。元老院は顧問に過ぎないとはいえ、王の部下というわけではない。

 小さなクニのままでは、いずれ大国に滅ぼされる。ローマは周辺のクニグニと戦い、勝利し、併合していった。ローマが他のクニと違ったのは、戦いに勝利した後、併合してもそのクニの有力者を元老院に迎え入れたことである。能力さえあれば、その子孫は王にもなれた。ユリウス・カエサルのユリウス家も、その祖先は王制時代に戦いに敗れてローマに併合されたクニの有力者だった。こういうローマのやり方は帝国時代になっても変わらなかった。

 6代目の王セルヴィウス(在位BC575~535)は、7つの丘を囲うように城壁を築いた。「セルヴィウスの城壁」と呼ばれる。今は一部分しか残っていないが、全周は11㌔。地図で見ると、北東を天辺に、南西に向けて斜めに置かれた、やや細長いさつま芋の形をしている。7つの丘がそのような配置だった。

   現代のローマ市域は大きく、セルヴィウスの城壁をすっぽりと含む。だが、町の中心はローマの遺跡が広がる南の地域よりもっと北西の側に移動している。  

 その後、悪王が出て、BC509年に王制は廃止され、共和制になった。

 共和制の終わりはBC1世紀。その頃にはローマは、バルカン半島、今のフランス、イベリア半島、エジプトなどを版図とする超大国に成長していた。

 共和制の最後に登場したユリウス・カエサルは、セルヴィウスの城壁を壊してしまう。

 直接的な理由は、人口が膨張した首都ローマの都市づくりのためには、城壁が邪魔になっていたからだ。

 もう一つの理由。カエサルが思い描いていたのは、ライン川、ドナウ川、チグリス・ユウフラテス川、サハラ砂漠を防衛線とする多民族国家だった。辺境をしっかり防衛し、その内側は城壁など必要としない、平和で、交易の盛んな、相互に自由に行き来できる、豊かなローマ帝国だった。

 元老院議員の既得権益にしがみつく若い貴族たちによって、カエサルは暗殺される。しかし、後を継いだアウグストゥス(在位BC27~AD14)の下で、ローマは帝制に移行し、パクス・ロマーナを実現する。その中心の地は、やはり7つの丘に囲まれたフォロ・ロマーノだった。

 だが、300年の平和の後、首都ローマは再び城壁で囲まれた。軍人皇帝アウレリアヌスによってAD271年に着工し、6年後に完成する。やむを得ない措置だった。

 新城壁は今も残っていて、「アウレリアヌスの城壁」と呼ばれる。7つの丘を囲んだ「セルヴィウスの城壁」の跡地はその中にすっぽりと含まれる。城壁の周囲は19㌔。高さ6m。厚さ3.5m。城門18カ所。要所に砦がある。我々がローマ見物するとき、テヴェレ川の向こうのヴァチカン市国を除けば、ほとんどの見学地はこの城壁の中にある。 

 この時代、「蛮族」の騎馬軍団の軍勢がローマ帝国の防衛線(ライン川、ドナウ川)をくぐりぬけてローマ帝国内に侵入し、殺りく・略奪の限りを尽くす事件が頻発した。ローマ帝国の軍隊は辺境地域にしか配置されていない。中はガランドウだったから、防衛線をうまくくぐり抜ければあとは無人の荒野をいくようなものだ。ローマ軍が気づいて追跡し、彼らを捕捉できるのは、彼らが殺りく・略奪の限りを尽くして引き上げる途中であった。当然、戦場はローマ帝国内となる。しかも、彼らの侵入はしだいに帝国の奥深く、帝国の本拠地イタリア半島に及び、首都ローマも安閑としておれなくなっていたのだ。こうして、豊かであったローマの農業生産力は落ち込み、交易もままならず、ローマ帝国の衰退が進んでいった。 

    ★   ★   ★

<カンピドーリオの丘とミケランジェロ>

3月14日。晴れ。

 雪のヴェネツィアでスタートしたこの旅だったが、3月中旬のローマは、朝晩の冷え込みはあるものの、日中はすっかり春めいている。

 ホテルの屋上の朝食用のテラス席からは、ローマの家並を眺めることができた。雑然としていて、フランスのパリやドイツの都市のような整然とした街並みとは比べようもない。

 だが、街を歩けば、何でもない街角に遥かに古い遺跡があり、石畳の路地の奥のちょっとした店のショウウインドは、感覚的で洗練されている。やはり魅力的な街である。

 8時半にホテルを出発。

 今日も歩く、また歩く。ゆっくり、あせらず、自分のペースで。観光バスで横づけし、ちょこっと見学して、また次へ ── 個人旅行ではそういう風にはいかないのだ。

 午前中は、フォロ・ロマーノとコロッセオ。午後は、ナヴォーナ広場とパンテオン、そしてサンタンジェロ城へ。

 まずコルソ通りを南へと歩く。綺麗なショップが並び、車が行き交う。だが、この通りの歴史は古い。ローマ時代、北からフラミニア街道を旅して首都ローマの北の門のフラミニア門を入ると、その門とローマの中心カンピドーリオの丘とを一直線に結んでいたのがこの通りである。

 7、800mも歩くと、車の行き交う広々としたヴェネツィア広場へ出た。

 どんと広場に聳える白亜の巨大な建造物はヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂。無名戦士が眠り、巨大な騎馬像の下に衛兵が2人立っている。その衛兵と比べると建造物の大きさがわかる。

   (ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂)

 しかし、こんなバカでかい建造物は古い歴史の町ローマにそぐわないと、ローマ市民には人気がないらしい。確かに、これはベルリンの街的だ。

 イタリアが国家として統一されたのは日本の明治維新と同じ頃。オーストリア(ハプスブルグ)、フランス、スペインなど周囲の大国の大軍に何度も侵入された近世イタリアにとって、統一国家は心ある人々の長年の念願だった。統一のために功績大であったのがサヴォイア家のヴィットリオ・エマヌエーレ2世。この人を国王として、イタリア王国ができあがった。

 第一次世界大戦の後、ファシストのムッソリーニが国民の支持を得て伸長し、ヒトラーと同盟した。第二次世界大戦後、ファシストのムッソリーニと手を組んだとして、王制の廃止が国民投票にかけられた。投票の結果は僅差だったが、王制は廃止される。もともと、王制を否定し、共和制こそ「正義」という人々の勢力があった。だが、戦後75年。イタリアの共和制はあまり機能しているようには見えず、国家財政は破綻状態で、若者は大学を出ても職がない。

 記念堂を回り込むように行くと、ゆったりとした広い石造りの階段があった。その階段を上がると、カンピドーリオ広場。

 この一画は、教皇パウルス3世(在位AD1534~49)の依頼で、あのミケランジェロが設計した区画だ。

 

        (カンピドーリオ広場)

 もともとここは、ローマ時代、7つの丘の中でもローマ人が最も大切にしたカンピドーリオの丘の上だ。

 今はこの丘は北西向きで、ミケランジェロが造った北西側の階段から上がる。

 だが、遠い昔、この階段の側は崖で、裏の南東の側が表だった。丘の上にはユピテル神殿があり、神殿の下がフォロ・ロマーノである。

    今も、正面の建物(市庁舎)の裏に回れば、古代ローマの中心だったフォロ・ロマーノを一望できる(最初の写真)。

 共和制ローマの時代のBC4世紀、強いローマがケルト人の攻勢に敗北し、セルウィルスの城壁も破られ、ローマの市街まで占拠されたことがあった。生き残ったローマ人が最後に立て籠もったのがこの丘だった。カンピドーリオの丘は3方が高い崖で要塞化していて、ここだけは敵の手に陥ちなかったのだ。

 その後、ローマは発展し、ユピテル神殿に向かってコの字型にフォロ・ロマーノが築かれた。

 「凱旋してきた将軍たちの行列も、街中を練りまわした最後にカンピトリーノの丘に登り、そこにあるユピテルの神殿で、ローマの守護神に勝利の報告をするのが通例だった」(塩野七生『黄金のローマ』)。

 しかし、西ローマ帝国の末期には、ヴァンダル族が襲来し、2週間に渡って首都ローマを徹底的に略奪した。

 6世紀の前半の東ゴード族の王トティラの時代には、ローマは3度戦場になって、さらに破壊が進んだ。

 西ローマ帝国崩壊後、約千年の間、ローマの町は治安の極度に悪い、人の住まない、さびれた地方都市となった。

 ローマを荒廃させたのは、実は古代の「蛮族」だけではなかった。中世の時代、ローマ教皇や中世貴族たちがローマの遺跡から石材を運び去り、自分たちの教会や宮殿、城塞の資材として使った。

 ローマの町を再建させようという動きが起こったのは、ルネッサンス時代になってからである。

 このカンピドーリオの丘について、塩野七生は『黄金色のローマ』の中で、登場人物にこのように語らせている。物語はミケランジェロの時代設定である。 

 「まず、カンピドリオへの登り口を、これまでのような南からではなく、北からに変えます。南側には、古代ローマ時代の政治の中心であったフォロ・ロマーノの遺跡があって、とてもだが手をつけるわけにはいかない。それで、かつては崖で囲まれていた、そして今ではそれが崩れ果てて単なる瓦礫の山に変わっている北側に正面をもってくるというわけです。ミケランジェロはカンピドリオとその下を、ゆるやかな勾配の広い石段で結ぼうと考えている。石の階段は、ヴェネツィア宮殿の前の広場に降りることになります。

 ローマは、時代によって都市の中心が少しずつ北に移動している。だから、カンピドリオへの登り口を南から北に180度移すのは、今ではそこより北に都心の移っているローマの街に、よりふさわしい変更になる。背中を向けていたのを、こちらに顔を向かせるのです」。

 こうして、丘の上にルネッサンスの広場が造られた。

 広場の中央には、ミケランジェロの構想によって、古代ローマ時代に制作された5賢帝の1人、マルクス・アウレリウスの騎馬像(今はコピー)が置かれている。

 「帝国崩壊時でさえ、記録によれば、皇帝たちのブロンズの騎馬像は22体あったということです。それが、キリスト教徒たちによって、あるものは壊され、あるものは溶解されて何か別の目的のために使われて失われてしまい、1体だけが残されたのです」。

 「残された騎馬像は、マルクス・アウレリウス帝のものですが、ローマ帝国崩壊後のキリスト教徒たちは、この皇帝が哲学者でもあったので破壊から救ったのではない。コンスタンティヌス大帝とまちがえたからです」。「キリスト教を国教と認めたコンスタンティヌス大帝とまちがわれたがゆえに生き残ったのがマルクス・アウレリウスの騎馬像」(『黄金色のローマ』)だったのだ。

 丘の上から望む古代ローマの遺跡群の眺望は、まことに「晴朗」だった。

      ★

<ローマ発祥の地フォロ・ロマーノ>

 カンピドーリオ広場から、市庁舎の建物の裏の階段を下って、フォーリ・インぺリア通りに出た。今日は日曜日で、歩行者天国だった。

    (フォーリ・インぺリア通り)

 観光バスも来ている。大変な人出だ。フォロ・ロマーノもあるが、その先のコロッセウムが世界からやってきた観光客たちのお目当て。ガイドブックに、例の赤ちゃんを抱いた女スリ、それに、子どものスリグループ、さらに、古代ローマ兵の扮装をして一緒に写真を撮らせてカネをぼったくる輩が出没するから気を付けるよう書いてある。だが、観光はローマ市の第一の収入源。しかも今日は日曜日とあって、通りは警察官だらけだ。確かにローマ兵の姿をした男たちもいるが、手書きの看板に書いた定額料金でニコニコと一緒に写真におさまっている。

 道路の左手はクィリナーレの丘の麓にあたり、5賢帝の1人のトラヤヌス帝(在位AD98~117)が開発した一画だ。帝政時代になると、フォロ・ロマーノには、新しい広場や建造物を建てるスペースがなくなり、その近くを再開発した。

 トラヤヌスの記念柱が立ち、フォロ・トライアーノのうしろにトラヤヌスのマーケットが立派に残っている。

  (トラヤヌスのマーケット)

 半円形にカーブした3階建てで、屋根付きの回廊があり、商店や食べ物屋が入っていたらしい。古代の百貨店、或いは、スーパーマーケットだ。

 ローマは一つ一つ見学していたら、1、2週間は滞在しなければならなくなるから、眺めるだけで良しとしなければならない。

 そして、道路の右手がフォロ・ロマーノだ。

 入口で入場券を買って入場し、遺跡の中を歩いた。

 フォロの北はユピテル神殿があったカンピドーリオの丘。西は皇帝の邸宅跡の石積みが残るパラティーノの丘で、双子の赤ちゃんが狼に育てられたというローマ建国の伝説発祥の地。

  

  (フォロ・ロマーノ)

 一つ一つの遺跡については記述を割愛。真っ青な空と、陰影の濃い松の木が、廃墟の広がりのなかに印象的だった。

(コンスタンティヌスの凱旋門とコロッセウム)

 「東のローマ」、コンスタンティノープルを建設したコンスタンティヌス帝の凱旋門、その先にコロッセウムがある。

          ★

<15階建てのビルに相当するコロッセウム> 

   フォロ・ロマーノを出ると、コロッセオの巨大さに圧倒される。

 1997年春のツアー旅行のときは、安いツアーだったからコロッセウムには入場せず、観光バスを降りて芝生のような所に坐って、しばらくの間コロッセウムを眺めた。車がハイスピードで行き交う道路の向こうに、2千年前の巨大な廃墟の建造物があって、眺めているだけで感動した。

 皇帝ヴェスパシアヌス(在位AD69~79)のときに着工し、皇帝ティトゥス(在位AD79~81)のときに一応の完成をみた。

  (コロッセウム)

 入口は入場券を買う長蛇の列ができている。ローマ観光で最も人気のある見学地の一つなのだ。だが、コロッセウムほど人気のないフォロ・ロマーノへ先に入って、コロッセウムとの共通券を買っていたので、並ばずにすいっと改札へ。これも事前研究の成果。ヨーロッパ人にとって、ローマはちょっと遠い国内旅行のようなものだ。こちらは遥々とユーラシア大陸を越えてやって来た。並んで時を過ごすのはもったいない。

 以下は、遠野七生『ローマ人の物語Ⅷ 危機と克服』を参照或いは引用する。

 円形競技場はローマ帝国内の各地にあるが、首都ローマに建設された円形競技場は「コロッセウム(コロッセオ)」と呼ばれた。

 野球であろうとサッカーであろうと陸上競技であろうと、現代の競技場は、陽光や雨から観客を守る設備とともに、全てコロッセウムのヴァリエーションである。つまり、「このような様式の野外競技場は、まったくのローマ人の創案である」。 

 「美的にも技術的にも最高の傑作」と言っていい。

 形は楕円形。長径は188m。短径は151m。高さは57m。この高さは、現代の15階建てのビルに相当する。収容能力は座席が約45000人、立見席が5000人。

   「地上部に使われた柱は重厚なドーリア式、2階部の柱はすっきりしたイオニア式、3階部の柱は繊細なコリント式と、階ごとに柱のスタイルを変えることによって、重苦しく単調になるのから救っている」。

 「観客をローマの強い陽射しから守るために、観客席の上部を帆に使う布で広くおおうやり方も行われていた」。

 「開けられた出入口の巧妙な配置によって、事故でも起これば15分で観客全員を外に出すことができた」。

 観客席上部から見ると、剣士が闘ったアリーナは意外に狭く見えた。フロアーは失われている。

 (アリーナ部分)

  「われわれが見るコロッセウムは、ローマ帝国時代のそれの3分の1でしかない。キリスト教が支配するようになってからのローマの公共建築物は、格好の石材提供場に変わってしまう。おかげで、取りはずせるものはすべて持ち去られてしまった。アーチごとに置かれていた数多の立像も、壁面をおおっていた大理石板も、すべてが奪い取られた後に残った「骨格」が、今日のコロッセウムとしても誤りではない」。

 大理石を持ち去られ骨格だけのむき出しの壁面や柱のそばに立つ現代人の姿が、蟻のように小さく見えた。

 (コロッセウムの柱と壁)

       ★ 

<映画「ベン・ハー」のチルコ・マッシモ>

 コロッセウムを出て、パラティーノの丘とその西のアヴェンティーノの丘の間の道を、テヴェレ川の方へテクテくと歩いた。アヴェンティーノの丘へ向かう道路は、やや上りになって、しんどい。横の広い道路を車が猛スピードで走り抜ける。ヒッチハイクしたい気持ちだ。

 しかし、車で走り抜けるのはもったいない。道路の東側の野っ原は、映画『ベン・ハー』の戦車競走のシーンで有名なチルコ・マッシモ(戦車競技場)の跡だ。

 長さ620m、幅120m。観客席は30万人を収容したという。まさにツワモノどもが夢の跡だ。

 今は、子供たちが遊んだり、犬を散歩させたり、アベックがお弁当を食べたり、のどかな風景だ。

 映画『ベン・ハー』の映画監督はウイリアム・ワイラー。この作品で史上最多のアカデミー賞を受賞した。チャールトン・ヘストンの戦車競走の壮絶なシーンだけでも名作と言える。

 だが、製作費から言えば、その何十分の1かもしれない『ローマの休日』も、監督はウイリアム・ワイラー。映画というエンターテイメントの魅力、作り方を知り尽くした人なのであろう。

 (チルコ・マッシモとパラティーノの丘の遺跡)

 チルコ・マッシモの向こうは、パラティーノの丘。ローマの皇帝やその家族の邸宅や庭園などの跡が、廃墟のパノラマとなって広がっている。

 道路を上りつめたオレンジの実るサヴェロ公園のあたりは、アヴェンティーノの丘の一角だ。

   (オレンジの実るサヴェロ公園)

   公園の展望台から、テヴェレ川と、その向こうのヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂の大円蓋を眺望することができた。ミケランジェロの設計したクーポラである。

 近くにヨハネ騎士団団長の邸宅もあった。邸宅の門の鍵穴をのぞくと、ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂のクーポラがすっぽりと鍵穴の枠の中に入って見える。そう何かに書いてあったのが印象に残って、覗いてみたが本当だった。偶然ということはないだろう。意図的に造らせたに違いない。ローマにはいろんなものがあると感心した。

(この項、続く)

 

 

 

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バロックの都市(マチ)ローマ … 早春のイタリア紀行(13)

2021年04月09日 | 西欧旅行…早春のイタリアの旅

  ライトアップされたトレヴィの泉

   夜、宮殿を抜け出し、この泉の前のベンチで眠ってしまった王女を、通りかかったアメリカ人の新聞記者が助ける。オードリー・ヘップバーンとグレゴリー・ペックの出会いのシーンはここ。

 映画『ローマの休日』では、夜のトレヴィの泉のあたりは人通りがほとんどなく、うら若い女性をほおっておけなかった。

 今は、夜でも観光客で大変な賑わいだ。 

   ★   ★   ★

<スペイン階段と『ローマの休日』>

 地下鉄で、ポポロ広場からスペイン広場へやって来た。

 スペイン階段は、世界からやってきた若者たちで占領されている。みんな心から楽しそうだ。

 アイスクリームを片手に映画の中の王女のように階段を降りてみたい、そう思ってやってきたオシャレな若い女性も、これだけ人で埋まっていたらちょっとムリ。それに、ここでは、その類の飲食は禁じられてしまった。

 映画『ローマの休日』は1953年の作品。70年近くも前の白黒映画。

 実は今回のイタリア旅行の前に、ヴェネツィアを舞台にした『旅情』と、ローマを舞台にした『ローマの休日』をもう一度観た。

 オードリー・ヘップバーンは映像の中で今も輝き、新鮮で美しい。相手役のグレゴリー・ペックはずっと「大根役者」の評が付いて回ったが、『ローマの休日』のヘップバーンの相手役は彼しかいないと改めて思った。

 ふと、ここにいる若者たちは、あの映画を観て、感動して、ここにやって来たのだろうか?? と思った。もしかしたら私の勝手な思いで、『ローマの休日』もまた歴史の彼方なのかもしれない。

 (スペイン階段)

 スペイン階段は18世紀の初めに造られたそうだ。それ以前は崖だった。階段が造られることによって、丘の上の2つの塔をもつトリニタ・ディ・モンテ教会とスペイン広場が一幅の絵になった。

 写真に小さな噴水口が写っている。周囲に水が湛えられているが、「バルカッチャの泉」と呼ばれている。残念ながら泉の全体を撮影しなかった。

 泉を制作したのはピエトロ・ベルニーニ。スペイン階段より1世紀ほど前、教皇ウルバヌス8世の依頼を受けて、制作した。

 紅山雪夫さんの『イタリアものしり紀行』によると、「バルカッチャ」とは、破船のこと。石造りの水盤は船の形をしていて、舳(ヘサキ)と艫(トモ)の部分を出し、中心部が水没している。その水没した水の中に、この噴水口がある。まことに奇抜な構図である。

 現代のローマは日本と同じように水道水が各家庭に送られている。ただし、慣れない日本人は生で飲まない方がいいらしい。水道水が各家庭に送られるようになったのは、近代になってからだ。それまでは日本でも井戸水や川の水が使われていた。

 この泉の水は、BC1世紀、初代ローマ皇帝アウグストゥスのとき、ローマ市民の飲料として、野を越え川を越えて20㌔先から引いてきた。その水道は「乙女の水道」と呼ばれ、「バルカッチャの泉」だけでなく、「トレヴィの泉」も、ナヴォーナ広場の「四大河の泉」も、「乙女の水道」の水を引いた泉である。

 その泉が17、8世紀に、このように飾られ、街の装飾となった。

 だが、17、8世紀の時代にも、これらの泉は地域の人々の大切な飲み水であり、生活用水として使われていたのだ。ローマは滅亡しても、水道を残した。

 いや、過去形ではない。塩野七生さんのエッセイを読んでいると、古代ローマの下水道は、今もローマの下水道として使われていると書いてあった。

 ところで、この泉の制作者のピエトロは、教皇に制作を依頼されたときに困った。「乙女の水道」と、この場所との高低差がほとんどなく、モーターのない時代、高低差がないと噴水の形にならないからだ。

 そこでピエトロは、広場の地面を掘り下げて少しでも落差が増えるようにし、舟がそこに半ば沈んでいるという奇抜な形の泉を考え出したのだ。

 それにしても、バロックらしい奇抜な発想である。

 以上は、紅山雪夫さんの『イタリアものしり紀行』からの要約である。紅山さんの文章は雑多な知識の断片の提供ではなく、また、奇を衒った話の紹介でもなく、ローマやイタリアの歴史を重層的に感じさせてくれる。本当のもの識りの書いた本だと感心する。

      ★

<スリにねらわれる>

 アメリカ大使館やブランド・ショップが並ぶ華やかなヴェネト通りの「カフェ・ド・パリ」のテラス席で休憩した。

 このカフェは、イタリアの上流社会を描いた映画『甘い生活』の舞台(ロケ地)として使われた。テーブルクロスが本格的で、グラスワインも上等でよく冷え、歩き疲れた身体にしみとおった。もちろん席に着く前に値段は見た

 共和国広場まで1駅だが、地下鉄に乗った。

 ホームに入ってきた車両は混んでいて、何とかドアの中に入り込んだ。そのとき、若い女たちが3人、走ってきて、後ろから強引に乗り込んできた。発車してしばらくすると、前に密着して立った3人組のうちの1人の女の指がコートの胸の辺りに触ってきた。その手をピシッと叩いたら、手を出さなくなった。乗客をはさんで向こう向きに立つ女は、肩からかけた白布で赤ちゃんに見立てた箱を抱いている。「赤ちゃん」の下から手を伸ばすのだ。「私はスリです」という制服のような格好だ。

 満員の車両に強引に後ろから乗り込んできたのは、日本人と見たからだろう。 カモと思ったのだ。だが、ローマの地下鉄で、内ポケットに財布を入れたりしない。

 日が暮れてきた。ホテルに帰ってひと休みしようと、共和国広場からタクシーに乗った。タクシーはモンテチトーリオ広場に入れないから、手前で降ろされる。

 気軽に降りたが、自分が広場の東西南北のどこにいるのかわからなかった。この界隈は賑やかな路地が錯綜して、どこも同じように見える。

 カンで歩き始めたが迷いに迷い、テヴェレ川に出て、やっと自分の位置がわかった。異郷の旅は、誠に疲れる。

      ★

<バロック様式のトレヴィの泉>

 ホテルでひと休みしたあと、夕食を食べるためにホテルを出た。

 途中、ライトアップされたトレヴィの泉に寄る。

 夜になっても観光客で賑わって、泉に近づけないほどだった。

  (トレヴィの泉)

 上の写真の、泉の後ろは宮殿。その壁面も利用した、巨大で劇的なバロック様式の彫刻だ。

 海神ネプチューン(ポセイドン)が、海馬の引く貝殻の戦車に乗って、今、建物から走り出ようというシーン。左右に立つのは豊穣の女神と健康の女神。左の海馬は横向きに狂奔。右の海馬は前に向かって駆け、クツワを取るトリトーネ(ネプチューンの息子)はほら貝を吹き鳴らしている。

 全てがばらばらだ。噴水の形も、円とか四角ではなく、湾曲し、のたうっている。

 ローマ帝国の滅亡後、「蛮族の侵入」によってローマの街は破壊され、千年の時が流れた。

 今、私たちが見るローマの街並みは、中世の荒廃の後、ルネッサンスの時代からバロックの時代に再開発され、飾られていった街並である。その意味で、ローマの街はヴェネツィアやフィレンツェよりもやや新しい。

 この泉は、バロックの大家ベルニーニが残したデザインに基づき、18世紀になって、コンクールで抜擢された無名の新人が完成させた。

 バロックとは何だろう?? というときは、紅山雪夫さんの『ヨーロッパものしり紀行』の『建築・美術工芸編』を見る。

 「バロックの語源はポルトガル語のbarroca(歪んだ真珠)だろうと考えられている。ルネッサンス式の『整然と調和のとれた美しさ』が飽きられたとき、『わざと調和を乱し、激しい動きを表し、見る者に動的な訴えかけをしよう』として出現したのがバロック式だ」。

 確かに、ルネッサンスの建築物は整然として幾何学的で、我々日本人の目にももの足りなさを感じることがある。ただ、日本人がルネッサンス建築にもの足りなさを感じる感性は、バロックの美術家とは相当に違うと思う。

 たぶん、西洋人は幾何学的な図形に「創造主の意志」を感じる。しかし、日本人はそれを「人工的」と感じる。草や木や山や川に幾何学があるだろうか?? 神々は「自然」の中に存し、日本人はほのかにでも自然や四季を感じさせるものに美を感じる。

 バロック式は、ルネッサンス様式以上に「人工的」だ。私には、バロックは、ルネッサンスのある面を強調していった結果に思える。  

 ともかく、バロック式はルネッサンスに続いてイタリアに現れ、17世紀に本格的に開花した。そのあと西ヨーロッパ全域に広がる。ドイツの教会を訪ねると、バロック様式が多い。

 だが、「18世紀の後半になると……『バロック式は余りに仰々しく、悪趣味で、品がない。もっと典雅な、古典的な美しさに返るべきだ』という考え方が、フランスで主流を占めるようになり、クラッシック式が起こったのである。クラッシック式は、ある意味ではルネッサンス式の復活であった」。

 紅山さんの説明は本当によくわかる

 さて、前回の旅でトレヴィの泉で後ろ向きにコインを投げたお陰で、今回、またローマにやってくることができた。

 今回もコインを投げたが、大勢の人々の後ろから人に当たらないように投げるのは難しい。後ろ向きに投げるのはムリだった。ローマ訪問は今回で終わりかもしれない??

 しかし、私は神社仏閣には参詣するが、この種の縁起はかつがない。ヨーロッパを旅していると、ヨーロッパ人は至る所にこういう縁起かつぎの場所がある。一神教の世界と思えない。日本人のおみくじ好きにどこか通じて面白い。

 すでに9時になった。路地を歩いて、入りやすそうなレストランを探した。

 (ホテル近くの路地)

   上の写真の通りの左側は、レストランのテラス席。夜になり冷え込むので、ストーブ(バーナー)を焚いて暖をとっている。みんな、暖房のきいた室内より、少々冷えてもテラス席を好む。それは私も同じだ。

 まだ宵の口という感じで賑わっているテラス席で食事をとった。陽気なお兄さんが注文を聞き、料理を運んできた。

 生ハムをはさんだメロンとワインが、美味しかった。パスタも最高に旨かった。 

   (ホテルの前のモンテチトーリ広場)

 明日は、「古代ローマ」の面影を求めてローマの街を歩く予定だ。

 

 

 

 

 

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ローマの街のタクシーとデモ … 早春のイタリア紀行(12)

2021年04月04日 | 西欧旅行…早春のイタリアの旅

   ポポロ広場の中央に立つオベリスクは、BC1200年頃にエジプトで造られたものという。高さ36.5m。ローマに運ばれ、戦車競技場であったチルコ・マッシモに置かれた。

 1589年、教皇シクストゥス5世のとき、北からやって来る巡礼者の道標としてここに設置された。

   ★   ★   ★

 3月13日。晴れ。

 アッシジからローカル線に乗って2時間余り。のどかなイタリア鉄道の旅だった。天気が良く、イタリアの野の風景はすっかり春めいていた

<ローマの街のタクシー>

 ローマ・テルミニ駅に到着。人が多い。のどかなアッシジからやって来ると、まるでお上りさんだ。改めて気もちを引きしめた。

 前年の冬、パリの凱旋門の地下道でバッグからカメラを抜き盗られた。後で考えるに、4人組の若者の役割分担とチームワークは見事だった。それでも、身に付けていた財布は盗られなかったし、旅行保険に入っていたから帰国後、カメラも新しく購入できた。だが、深夜のパリの警察署で盗難届を作ってもらうのは大変だった

 ローマのホテルは日本でネット予約。ナヴォーナ広場の近くだ。

 友人Iくんと参加した1997年のイタリア・ツアーのとき、ローマではまる1日、自由時間があった。朝、ヴァチカン美術館を見学し、午後はローマの街をてくてくと歩いた。

 そのとき、もう一度ゆっくりローマを訪れることができたなら、このあたりに泊まって朝夕、街の雰囲気を味わいたいと思った。2路線しかないローマの地下鉄の駅から少し離れている。しかし、ナヴォーナ広場の界隈は、ローマの歴史の積み重なりと、今のローマのもつ庶民的な雰囲気とをあわせて感じさせる一角のように思えた。

 さて、駅前からタクシーでホテルへ向かった。

 たいていのガイドブックに、ローマのタクシーはわざと大回りしたり、料金をぼったくったりすることがあるから気を付けろと書いてある。生き馬の目を抜く街だ。だが、気を付けろとあるが、どう気を付けたらよいのかは書いてない。世界から集まった観光客で賑わう石畳の道路を、大きなスーツケースを引っ張って延々とホテルまで歩くというわけにはいかない。旅はいつもなにがしかのリスクがあり、冒険である。

 しばらく大通りを走っていたタクシーは、途中から狭い横道に入った。

 中世の時代には馬車がすれ違えればよかった道路だったのだろう。そういう路地が迷路のように交錯している。道路の両側には、オシャレな商店やレストランやバールが軒を連ね、その前の道にはみ出してテラス席が設けられている。そこを世界からやって来た観光客の群れが楽し気に歩き、或いは、テラス席に座って食事をして、大変な賑わいだ。

 その賑わいの中へ、タクシーは突っ込んで行った。後ろの座席から、ムリっ!! と叫んだが、運転手は全く意に介さず、たいしてスピードも緩めず、観光客の群れの中を平然と進んで行く。

 古い街路はまっすぐではない。湾曲して見通しがきかない箇所も、道幅狭く直角に曲がる建物の角も、車体をこするでもなく、すいすいと進み、後部座席で思わず目を閉じ、足を踏ん張る。もし日本人が車でこんな道路に入ってしまったら、たちまち立往生して、前にも後ろにも進めなくなるだろう。少なくとも我々には、遠慮とか、車で入って申し訳ないなとか、この群集を怒らせて取り囲まれたら怖いだろうなとか、そういう気持ちがある。

 「ホテルはこの先を左だが、車は入れない」。多分、そう言われ、ぼったくられるどころか、料金が思いのほか安かったので、敬意をこめてチップとともに渡した。礼を言われた。

       ★

<警察官のたむろする広場>

 「コロンナ・パレス・ホテル」は、モンテチトーリオ広場に面して建つ。

 広場のすぐ東側には、ひと続きのようにコロンナ広場がある。その東側を、コルソ通りが南北に通っている。コルソ通りは、旧市街の北の端のポポロ広場と、古代ローマの中心・カンピドーリオの丘を一直線に結んでいる。

 広場を西へ歩けば、すぐにナヴォーナ広場に出る。そのすぐ南には2千年の時を経て建つパンテオン。さらに西へ歩けば、テヴェレ川だ。

  (オベリスクの塔の向こうがホテル)

 モンテチトーリオ広場も、なかなか風格のある広場だ。

 石柱が立っている。ローマの初代皇帝アウグストゥスが、クレオパトラのエジプトから運ばせたという。BC6世紀にエジプトで造られたオベリスクだ。上の写真のオベリスクの向こうの黄色い建物が、これから3泊するホテル。

 ホテルの向かい側には、モンテチトーリオ宮がある。この宮殿は、今はイタリアの下院で、日本で言えば衆議院だ。従って、この広場は警察車両と特別許可の車両以外の侵入は禁止。だから、さっきタクシーから降ろされた。

 宮殿の入口付近は、早朝も、深夜も、24時間、警察官がたむろしていた。日本と違うのは「たむろしている」のである。たむろして、いつも、おしゃべりしている。たまに誰もいなくなるのは、カプチーノでも飲みに行ったのか?? ともかくそのお陰で、この広場にはスリもカッパライも近づかない。

 3泊しているうちに、そういうことがだんだんとわかってきた。

 ネットでこのホテルを選んだのは、ナヴォーナ広場に近いという立地と、それなりの設備、それに、何とか折り合いが付く料金。とにかく、アッシジなどとと比べると、ローマのホテルの料金は高い。

 ちなみに、映画『ローマの休日』のラストシーン。王女が記者会見を開いてさりげなく別れを告げる感動の場面。あのシーンの撮影は、この近くのコロンナ宮殿で撮られたそうだ。

 ローマはいろいろと、わくわくする街である。

         ★

<デモで埋まるポポロ広場>

   ホテルにチェックインしてひと休みしたあと、見学に出た。

 まず、ローマの北の出入口、ポポロ門のあるポポロ広場へ向かう。

 すべての道はローマに通ず。

 古代ローマ時代。ここにあった門から北へフラミニア街道が出ていた。軍団を率いてルビコン川を渡ったユリウス・カエサルも、この門からローマに入ったはずだ。

 中世。ヨーロッパはキリスト教の世界となり、ローマはエルサレムと並ぶ聖地となった。10世紀頃になると世の中は次第に落ち着き、経済的にゆとりもでき、十字軍遠征などで視野も広がり、ヨーロッパの各地から巡礼者が聖地ローマにやって来るようになった。ポポロ広場は、長い道のりを歩いてきた巡礼者たちを迎える聖都ローマの玄関口だった。

 広場の東にピンチョの丘があり、この丘から望むローマの景色、特に夕日が沈む時間は素晴らしいと、ローマの紀行に書いてある。

 ホテルの受付で、市内バスの最寄りの停留所がコルソ通り沿いのサン・シルヴェストロ広場だと聞く。

 隣のコロンナ広場を抜け、コルソ通りを渡って、サン・シルヴェストロ広場へ。だが、広場のどこからポポロ広場行きのバスが出ているかわからず、結局、タクシーに乗った。異邦人が市内バスを乗りこなすのは難しい。

 ところが、タクシーはスペイン広場近くで、デモ隊に遭遇して前へ進めなくなった。あきらめて車を降り、デモ隊の後ろを北へと歩いて行った。

 デモ隊の終点はポポロ広場だった。広場はデモの群集で埋まっていた。

 一昨日のイタリア鉄道のストライキと言い、今日のデモと言い、日本の「春闘」にあたる季節なのだろうか?? 赤地に槌と鎌の旗を持つ人もいる。

 (ポポロ広場の双子教会の前で)

 観光はあきらめ、地下鉄に乗って、スペイン広場に戻った。

 

(この日の記録は次回に続く)       

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