(テヴェレ川とサンタンジェロ城)
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(つづき)
アヴェンティーノの丘から北へ向かう。とりあえず目指すはナヴォーナ広場だが、朝から歩きづめだ。この辺り、遺跡はあるが、ひと休みできそうな手頃なバールやレストランがない。
「真実の口」や古代劇場の廃墟を経て、毎朝市が立つカンポ・デ・フィオーリ広場(花の広場)へ。やっとレストランに入って、遅い昼食をとった。
ナヴォーナ広場はすぐ先だ。
※ カンポ・デ・フィオーリ広場については、当ブログの2012,10,12付の投稿「ローマの街角で … ヨーロッパを旅する若者たち2」もご覧ください。
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<ローマ時代は競技場だったナヴォーナ広場>
ローマの王政時代(BC753~BC509)に、7つの丘を取り込んだ「セルヴィウスの城壁」が築かれた。城壁の外側、テヴェレ川に至る市の北東部は広々とした原っぱで、ローマ軍の練兵場として使われていた。
王政ローマはおよそ250年続いたあと共和政に移行し、地中海の覇権国家カルタゴとの戦いなどを経て、ローマは大発展していった。(BC509~BC27)。
属州・属国を統治するようになった大ローマは、帝政に移行する(BC27~)。
ローマの発展とともに、ローマ市の人口も膨張していった。「セルヴィウスの城壁」は撤去され、かつて練兵場として使われていた原っぱは新開地として開発されていく。人家が広がり、新たにフォロ(広場)ができ、フォロには神殿や柱廊が造られ、大浴場や競技場などの公共建造物も続々と建造されていった。
だが、パクス・ロマーナも、やがて「蛮族」の襲来と略奪・破壊に苦しむようになり、西ローマ帝国は滅亡(~AD476)する。さらに続く不安定な王国の支配と戦争によって、ローマの市街は破壊され、人口は激減し、かつて中心であったセルヴィウスの城壁の中には人が住まなくなった。残った人々も、テヴェレ川に近いかつての「新開地」の地域で細々と暮らすようになる。
ローマが再生されていくのは、遥か後のルネッサンスからバロックの時期だが、それもローマの北の地域、テヴェレ川に近い「新開地」の地域だった。
午前中はかつてのセルヴィウスの城壁の中の遺跡を見学した。そして、てくてくと歩いて、かつての「新開地」の地域までやってきた。
スペイン階段も、トレヴィの泉も、わがホテルや下院のあるコロンナ広場も、ナヴォーナ広場も、今、ローマの中心となっている地域は、かつてローマの発祥の地であったフォロロマーノなどの地域よりも北側である。
昼食を終え、少し元気を取り戻して、カンポ・ディ・フィオーリ広場から、少し先のナヴォーナ広場へと歩いた。
(ナヴォーナ広場と「ムーア人の泉」)
ナヴォーナ広場は歩行者天国になっている。まだ観光シーズンではないが、ここはさすがに観光客が多い。楽器を演奏する人、手品師、さまざまな芸を見せる人。絵かきもいる。広場を囲む建物には、レストランやカフェやオシャレなショップが軒を連ね、テラス席も設けられて賑わっている。
ここは、もともと、皇帝ドミティアヌス(在位AD81年~96年)が建造させた屋外競技場だった。
楕円形の縦は275m。幅は観客席も含めて106m。中央のアレーナの幅は50m。
競技に使われていた真ん中の楕円形は、そのまま広場になった。
周囲の観覧席にあたる部分は、ローマ帝国滅亡後の長い中世の時代に人々が住みついていき、今、1階部分はレストランやショップとして1等地、上階部分は広場を見下ろす最高級のマンションである。
広場も広場らしく装われ、南に「ムーア人の噴水」、広場の中央にオベリスクと「四大大河の噴水」、北には「ネプチューンの噴水」が造られている。「四大大河の噴水」は、教皇イノケンティウス10世の依頼を受け、1651年にバロックの巨匠ベルニーニが完成させた。
(ナヴォーナ広場)
広場の西側のサンタ・ニューゼ・イン・アゴーネ教会やパンフィーリ宮の建物が印象的だが、これら周囲の建物や3つの泉も含めて、まさにバロックの広場である。
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<ハドリアヌス帝のパンテオン>
ここから路地を少したどるとパンテオンがある。
「古代ローマ時代のままで現代に遺る唯一の建造物」。そう、塩野七生が『ローマ人の物語Ⅸ 賢帝の世紀』に書いている。
前回のイタリア旅行のとき、ローマで一番感銘を受けたのがここ。中に入ったとき、あっ、これは今まで見て来たキリスト教の聖堂とは全く違う、と思った。杜に囲まれ、小鳥の囀りが聞こえる日本の神社と同質のものを感じた。晴朗。キリスト教の聖堂の中や仏教寺院の中とは全く異なり、暗い建物の中も、晴朗なのだ。
Pantheonは、すべての神々を祀る神殿。
5賢帝の1人ハドリアヌス帝がAD118年に造らせた。上半分は半球。下半分は円筒だが、円筒部の高さは半球の高さと同じ。つまり直径43.3mの球がすっぽりと収まる形になっている。「真円を考えついたときのハドリアヌスは、それこそとびあがる想いではなかったか、と思ってしまう。自分は天才だ、と思ったのではないか」(塩野七生・同上)。
半球の頂上には直径9mの天窓が空に向けて開かれ、太陽の光の束が暗い室内の一カ所に当たって、時間とともに移動していく。
円筒形の内部に序列はない。ここでは、ローマ帝国内のどの民族の神々も同等に尊重された。絶対神のキリスト教やイスラム教やユダヤ教では、ありえないことだ。神々の神殿なのだ。
最初、初代皇帝アウグストゥスの生涯の盟友であったアグリッパが建設した(BC15年頃)。しかし、AD80年に焼失した。石造りといっても多くの木材が使われているらしい。そのことは、近年のパリのノートル・ダム大聖堂の火災を見てもわかる。
これをハドリアヌス帝が再建した。だが、アグリッパのパンテオンは四角形だったらしい。球体を基本にした神殿の構想はハドリアヌスであった。しかし、建物の正面にはアグリッパに敬意を表して、アグリッパの建造と刻まれている。
「パンテオンは、後々の時代まで多くの建築家に影響を与えつづけることになる」(同上)。ルネッサンスの最初の金字塔となったフィレンツェの「花の聖母大聖堂」の大円蓋も、カソリックの本拠サン・ピエトロ大聖堂のミケランジェロの大円蓋も、パンテオンを学ぶところから築かれた。
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<皇帝の墓所だったサンタンジェロ城>
わがホテルはナヴォーナ広場から近い。戻ってひと休みした。
午後もおそい時間になると、日差しは強いまま斜めになり、暖色系の色を帯びて、建物や樹木の陰影が濃くなる。それは日本でもそうかも知れないが、日本ではそういう時間になると、太陽の光がやさしくなり、力を弱め、静かに夕刻へと移動していく。ヨーロッパでは、自然も、人間の文化も、くっきりして、自己主張が強い。
ホテルの窓から外を見て、今日の残りの時間も多くないことを知り、一日の見学の締めくくりにサンタンジェロ城へ向かった。
サンタンジェロ城はローマ皇帝の霊廟として建造され、後世にはローマ教皇の城塞になった。
あまりツアーでは行かない見学先をコースに入れたのは、ほとんど何も残っていないだろうが、元は皇帝の霊廟として造られたその雰囲気を少しでも感じとりたかったから。
また、上階のテラスからのローマの街の眺めは素晴らしいとガイドブックにあった。帰りには、テヴェレ川越しにライトアップされたサンタンジェロ城を撮りたい。
タクシーで向かった。今のところ、ぼったくられたりしていないし、そういう心配をしなければ、ローマのタクシー料金は安い。
サンタンジェロ橋の手前で降り、テヴェレ川に架かるサンタンジェロ橋を渡る。
(サンタンジェロ橋とサンタンジェロ城)
映画『ローマの休日』の中では、この橋の下の川の上に設えたダンスパーティー会場で、王妃を連れ戻そうとする某国の男たちと逃げる2人のどんちゃん騒ぎがあった。
この橋も、ハドリアヌス帝の霊廟へ行くために架けられた。
中世の時代に修復され、17世紀に教皇クレメンス9世の命を受けて、ベルニーニが天使像で装飾した。今はバロック然とした橋である。
サンタンジェロ城は、今は「サンタンジェロ城国立博物館」ということらしい。チケット売り場を見つけてチケットを買い、入場する。
とりあえずは上へ。階段はなく、勾配の緩やかな通路が、らせん状になって上へ上へと上がって行く。多分、この通路は、ローマ皇帝の霊廟時代の名残だ。ほの暗く、飾り気は何もなく、静謐感があり、ここが皇帝の墓所として造られたことを感じながら昇って行った。
ハドリアヌス帝のときには、初代アウグストゥス帝以下の皇帝墓所がいっぱいになっていた。ハドリアヌスが新たに建設を始め、次のアントニウス・ピウス帝のときに完成した(AD139年)。ハドリアヌス帝以下、マルクス・アウレリウス帝など、カラカラ帝までの墓所となっている。
当時は「Hadrianeum(アドリアネウム)」と呼ばれたらしい。
今見るような厳つい城塞の姿ではなかった。円形部分は円柱や彫像で飾られ、壁面には白大理石が貼られて、「白亜の神殿」というたたずまいだった。屋上には、4頭立て2輪戦車を引くハドリアヌス帝の彫像が立っていた。
だが、ローマ帝国の末期に、ローマの防衛のために「アウレリアヌスの城壁」の一部に組み込まれ要塞化された。
ローマはキリスト教を国教とするようになり、AD476年に西ローマ帝国は滅亡した。
6世紀の終わりのランゴバルド王国のとき、イタリア全土をペストが襲い、多くの人々が亡くなった。ある日、この建物の上に大天使ミカエルが現れてペストの終焉を告げたという。それを見たのは、時の教皇とその一行である。ペストは終焉した。
これ以後、ローマ皇帝の墓所の名は「Castel Sant' Angelo(聖天使城)となった。屋上には、ハドリアヌス帝の雄姿に代わって、剣をもつ大天使ミカエルのブロンズ像が設置された。
10世紀には、バチカンの要塞 ── いざというときの教皇の避難場所 ── として整備され、13世紀にはバチカンと直結する避難通路ができた。15世紀には堡塁が増強される。
大河ドラマ「麒麟がゆく」にも出てくるが、室町幕府の最後の将軍足利義昭は、織田信長を倒すよう全国の大名に手紙を送り続けた。16世紀の教皇クレメンス7世も同様である。神聖ローマ皇帝兼スペイン王のカール5世の力を怖れ、フランス王をはじめ諸侯にカールを倒せと手紙を送りまくった。もともとカール5世はカソリックの擁護者だったが、さすがに腹に据えかねて、教皇軍が防衛するローマを攻撃させた。ところが、ローマを包囲していた神聖ローマ皇帝軍には新教徒が多く、しかも緒戦で司令官が戦死して統率を失っていたから、歴史に言う「ローマ劫掠(ゴウリャク)」が起こってしまう。ローマは破壊され、人々は虐殺され、金品は強奪された。このとき、教皇クレメンス7世は堅固なサンタンジェロ城に避難して命拾いした。
16世紀後半には、函館の五稜郭のように、星形の城壁がサンタンジェロ城を囲った。
映画「天使と悪魔」に登場する教皇庁とサンタンジェロ城とを結ぶ秘密の通路もあるらしい。夏の期間、不定期だが、博物館の秘密の通路を歩くツアーもあるという。
博物館として展示物のある部屋もあったが、日本語であってもあまり読まないのに、イタリア語と英語ではパスするしかない。牢獄として使われた部屋もある。教皇が暮らせるように整えられ、絵画、調度で飾られた部屋もあった。
城の上には剣をもつ天使ミカエルの像が立っていた。
今は、すっかりキリスト教化された元教皇の城塞の歴史遺産である。訪れる観光客も、そういうことに興味をもつ欧米系の人たちのようだ。「ローマ」ファンである私は、ローマ皇帝の眠る墓所の静謐感をほんの少し感じることができて良しとした。
上階のテラスからの眺めは絶景だった。
太陽はサン・ピエトロ大聖堂のクーポラの向こうに落ちて、なお世界は明るく、眼下にはテヴェレ川の流れとサンタンジェロ橋をはじめ、橋、橋、橋が続いている。
斜光となった日の光。暖色が濃い。
(サンタンジェロ橋)
(テヴェレ川の橋)
空の色は濃紺となり、風は冷たい。ローマの街に灯が広がっていく。
(サン・ピエトロ大聖堂)
寒くなり、テラスの一角にあるカフェで温かいカプチーノを飲みながら、ライトアップの時間を待った。
やがて、これ以上ないと言うくらい美しい空の濃紺もすっかり失せて、闇のとばりが降りた。
サン・ピエトロ大聖堂の青い天蓋の屋根がライトアップされて印象的だ。ミケランジェロのクーポラである。
(ミケランジェロの青い円蓋)
すっかり暗くなった城内から出て、幾体もの天使像が見下ろすサンタンジェロ橋を渡り、テヴェレ川の上流の方へ歩いて行った。
(サンタンジェロ城と橋)
(サンタンジェロ城と橋)
金色に輝くサンタンジェロ。改めて「ローマはすごいな」と思う。
人間の歴史を「進歩」とみる見方は、単純にすぎる。
(サン・ピエトロ大聖堂)
明日は、この旅の最終日。バチカンへ行く。
よく歩いた。疲れ果てて、ナヴォーナ広場に帰ってくる。
(レストランのテラス席)
透明なガラス(或いはビニール)で覆い、バーナーの火が焚かれるテラス席で食事した。
もう午後8時だ。長い1日の活動を終えた。
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