(寂光院本堂)
<閑話 : 門跡寺院とは>
皇族や公家が住職を務める特定の寺院をいう。寺格が高く、特別の礼遇と特権を与えられた。
宇多天皇(在位877~897)が出家し仁和寺に入って御室御所と称し、御室門跡になったのが始まりとされる。しかし、「門跡」という寺格が制度的に確立したのは室町時代である。
江戸時代には、宮門跡(親王)、摂関門跡、清華門跡(摂関家に次ぐ7家)、公方門跡(将軍家の一族)、準門跡などが制度化された。
真言宗では仁和寺や大覚寺、浄土宗では知恩院、天台宗では円融院(三千院)、青蓮院、妙法院、曼殊院、聖護院、奈良の興福寺では一乗院、大乗院など。
司馬遼太郎は次のように書いている。
「江戸幕府は、天皇家に親王がたくさんうまれることをおそれた。それらが俗体のままでうろうろしていたりすると、南北朝のころのように『宮』を奉じて挙兵するという酔狂者が出ぬとはかぎらず、このため原則として天皇家には世継ぎだけのこし、他は僧にし、法親王としてその身分を保全したまま世間から隔離することにした。江戸期の宮門跡というものの幕府にとっての政治的性格はそういうものであったろう」。
「明治政府によって廃止され、宮門跡である法親王たちは還俗させられて、それぞれ浮世の宮家を創設した。
かれらが出て行った寺のほうはふつうの出身の僧が住職となるようになったが、明治18年、内務省から門跡号を称することをゆるされた。曼殊院の場合、明治後、伝統として天台宗の学問僧のなかからこの寺の門跡が選ばれるようになった」。(『街道をゆく 叡山の諸道』)
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<寂光院への小道をゆく>
(三千院付近の呂川)
三千院を出て、寂光院へ向かった。
樹間の小道に沿って小川が流れている。呂川(リョセン)と言うらしい。文人墨客風の名である。路傍に「呂川の清流」という説明板が立っていた。
呂川は比叡山の山並みを源とし、大原川 → 高野川 → 鴨川 → 淀川と名を変えながら大阪湾に注ぐ。源流である大原の里は、きれいな水を保つように努めている、という趣旨のことが書かれていた。土地の人々の思いが感じられる。
修学旅行らしい男子高校生が、貸衣装の着物を着、マスクをして、ぞろぞろと歩いてきた。私立の男子校なのだろう。みんな大人しい。このコロナ禍、修学旅行を短縮して京都で我慢したのかもしれない。そうだとしても、今は良いタイミングである。
晩秋の紅葉の木蔭の所々に大原女の石像が置かれ、道案内をしてくれる。それとは別に、長い歳月を経て風化した石仏たちもいる。
(大原女の石像)
大学を卒業して大阪に就職した若い頃、大原には2、3度来たことがあった。
土産物屋が並び観光客が小道にいっぱいの三千院と寂光院の間を、飛ぶように一気に往復した記憶がある。もうあのように速く歩くことはできない。それにしても、あの頃はいつも急いでいた。
今回の大原再訪で一番楽しかったのは、コロナで訪れる人も少ないこの鄙びた小道を、ぶらぶらと楽しんで歩いた時間だ。
(大原の里)
樹間の小道が終わり、空が開けて、国道367号の道路に出た。バス停もある。高野川の清流が国道沿いを北から流れてくる。
橋を渡って、また小道に分け入った。今度はやや上りの小道で、寂光院の裏山を源とする草生川という小川沿いをゆく。
やがて、その小道の奥まった所に、寂光院の受付の小さな庵があった。
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<「大原御幸」の寂光院>
受付を済まし、参道の石段を上る。三千院のような格式の高さはなく、山のお寺の風情が感じられた。
(寂光院の石段)
山門をくぐると、苔むした庭があって、正面に小さな本堂が建っていた。
(本堂)
本堂は平成12(2000)年に火災に遭い、新たに復元されたそうだ。放火だったと言われる。
6世紀末に尼寺として創建されたとも、もっとずっと後の創建とも言われる。いずれにしろ、この人里離れた小さな寺の名を今に残したのは、1185(文治元)年に建礼門院徳子が入寺したことによる。
建礼門院徳子は、平清盛の息女で、高倉天皇の中宮となり、安徳天皇の母となった。国母と呼ばれる女性の最高位である。
しかし、「治承・寿永の乱 (源平の戦い)」 が勃発した。
1180年の源頼政の挙兵に始まり、頼朝の挙兵によって乱は拡大。富士川合戦、倶利伽羅峠の合戦、一の谷の合戦を経て、1185年の壇ノ浦の合戦で平家一門は滅亡。まだ幼かった安徳天皇も祖母に抱かれて西海の海に身を投げた。
徳子だけが海中から助け上げられ、出家して建礼門院となる。そのあとは平家一門とわが子の菩提を弔うため、この人里離れた大原山中の寺に身を置いて、短い生涯を祈りの中に過ごした。
徳子の変転極まりない悲劇的な運命は『平家物語』によって読み継がれ、古今を通じて寂光院を訪ねる人は多い。
明治の歌人・与謝野晶子もその一人である。
ほととぎす治承寿永の御国母三十にして経よます寺 (与謝野晶子)
「ほととぎす」は5月頃に渡ってくる小鳥で、新緑の中から鳴き声が聞こえてくる。「テッペンカケタカ」と聞こえるというが、古人はその鳴き声を帛(キヌ)を裂くような悲痛な声と聞き歌に詠んだ。晶子もここで、悲痛極まりない徳子の心を思った。晶子はいつも女性の味方である。「よます」の「す」は尊敬の助動詞。
徳子が寂光院に隠棲した翌年、後白河法皇が公卿・殿上人らを連れて都から遥々と彼女を訪ねてくる。そのくだりが『平家物語』の中に「大原御幸」として描かれ、能にもなって、コロナ禍の前、私も観賞した。
後白河法皇は、高倉天皇の父で、徳子にとっては義理の父に当たるが、平家追討の院宣を下した人でもある。
法王が寂光院に到着した時、徳子は不在だった。「大原御幸」には、お堂や庵のあたりの侘しい様が細やかに描写されているが、寺でいただいたしおりによると、本堂前西の庭園は『平家物語』の当時のままだという。
後白河法皇の詠んだ歌
池水に汀(ミギワ)の桜散りしきて波の花こそさかりなりけれ (後白河法皇)
池のほとりの桜の花が散り、花びらが水の面を覆って、まるで水面が満開のようであるという歌。
(汀の池)
留守居をしていた老尼に尋ねると、徳子は仏に供える花を摘みに裏山に行ったと言う。法王は、国母であった人が自ら花を摘みに山に入るのかと憐れまれる。
庵の中には徳子の作った歌が置かれていた。
思ひきやみ山のおくに住居(スマイ)して雲井の月をよそに見むとは (建礼門院)
「雲井」は宮中。数年前には華やかな宮中で多くの人々と趣深く眺めた月を、このような山奥の庵で寂しく見ることになろうとは思いもしなかったという意。後白河法皇の淡々とした歌と比べると、その心は痛切である。そこには
「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理を顕す」
という『平家物語』の底流を流れる旋律と通じる。
(諸行無常の鐘)
すべてのものは移ろいゆくというのが、日本列島に生まれ、生きる人々のものの感じ方である。人は自然の小さな一部に過ぎず、自然に包まれ、自然とともに生き、そして滅んでいく。
そういうものだと覚悟を決めることを悟りと言い、そのことを教えるのが日本の仏教である。
「輪廻」だとか、そこからの「解脱」などという思想はインドの風土から生まれたもので、日本の風土の中では、知識として知っても心になじまない。空海も最澄も、自らの中にある土着的な心を大切にし、仏教と融和させて、日本仏教をつくっていった。
寂光院の石段を下り、もとの小道に戻ると、すぐ隣接して美しい石段がまっすぐに空に向かって上がっていた。その上に建礼門院徳子の陵墓がある。
(建礼門院の陵墓)
五輪の塔の仏教式御陵だが、今は宮内庁の所管である。
(建礼門院の陵墓の石段)
陵墓への石段のたたずまいが美しく、印象に残った。
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そのあと、大原から、山あいの国道を北上し、朽木越えの道へと車を走らせた。
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