(大原女の里)
三千院から寂光院へ行く小道に、愛らしい大原女の石像が道祖神のように置かれていた。心ある地元の人々の手によって、大原が大原らしくさり気なく装われている。歳月がいつの日か本物の道祖神のようにしてくれるだろう。
都の人々が使う木材や薪炭の供給地として、大原は重要な地であった。近代文明の波が押し寄せるまで、煮炊きをし暖を取るために、薪や薪炭は必需品だった。大原女は、毎朝、薪や薪炭を担いで京までの道のりを歩き、街中で売り歩いて、家計を支えた。
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<遠い日の秋色の京都>
遥かに昔のことで、何十年前のことだったかは忘れてしまったが、大学3年の秋、飛鳥から奈良、京都を2週間ほどかけて巡ったことがある。
気楽な一人旅ではない。教授同伴のクラス旅行で、卒業単位に組込まれていたから、文字どおりの修学旅行だった。
行く前は嫌だと思っていたが、2週間もかけて日本文化の核となった奈良や京都の建物、庭園、絵画や彫刻の数々を見てまわったのである。
初めはたいした興味もなく、飛鳥の野を歩き、奈良とその近辺の寺々を訪ねて仏像を見、住職の話をぼんやりと聴いていたが、3、4日もたつと飛鳥仏だとか、白鳳の仏だとか、平安の仏像だとかが見分けられるようになった。
寺の宿坊に泊まり、早朝、座禅を組んで、仏教の教える境地を会得しようとした日もあった。
京都では、一般観光客には敷居が高い京都御所や桂離宮や修学院離宮も見学した。教授の指導の下、係を引き受けた真面目な級友たちが必要な段取りを全部してくれていた。事後にもたくさんのお礼の文を書いたはずだ。
もちろん詩仙堂や曼殊院、そして、嵯峨野や大原の里なども巡った。
11月の下旬のことで、目の奥まで紅に染まってしまうような美しい紅葉だった。嵯峨野の庵から庵へと訪ねる山の中の小道は、深紅の落ち葉が深々と積もり、まわりの樹木も目に映じるものは全て紅葉ばかりで、こんなに美しい世界に身を置くことは自分の人生でもう二度とないだろうと思いながら、落ち葉を踏みしめて歩いた。
当時は観光客も今より少なく、しんとして寂しい大原の里の三千院の阿弥陀三尊も、『平家物語』のヒロインが余生を送った寂光院のたたずまいも心に残った。
(大原の紅葉)
私の京都はここで終わったと言っていい。
1965(昭和40)年、デューク・エイセスが歌う「京都 大原 三千院 恋に疲れた女がひとり」が大ヒットした。
1970年代になると、高度経済成長の波に乗って、「ディスカバー・ジャパン」 の大キャンペーンが繰り広げられた。各地に「小京都」が生まれ、国鉄の急行の停まる駅には「銀座通り」ができ、海岸や高原の避暑地も観光客であふれた。目に映じるものは日本の美しい自然景観や歴史的・文化的遺産よりも、安普請で作られた土産物屋や食堂や旅館、そして人々の群れとそのゴミで、かつて出家・隠棲の地であった嵯峨野や大原までが商魂たくましい観光地となった。学生時代に感動したあの嵯峨野の小道も、3年後の秋に再訪したときには垣根が張り巡らされて、もうそこがどこであったか、いくら探しても見つからなくなっていた。所有者が防御策を講じるのは仕方のないことだ。
しかし、高度経済成長とバブルの時代が終わり、世紀も変わって、今、日本は落ち着きを取り戻してきているように思われる。
それぞれの地域の歴史、文化、景観が改めて見直され、地元の人々によって環境が再整備され、保存され始めた。例えば、大原の小道に置かれた大原女の石像も、大原を大原らしく保存しようとする取り組みの一つである。
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<晩秋の大原再訪>
かねてから車で走ってみたかった朽木街道(若狭街道)、そしてその先の湖北の「隠れ里」を訪ねる途中、何十年ぶりに大原の里に立ち寄った。
鴨川と分かれて、高野川沿いの国道367号線(若狭街道)に入ると、京の街の喧騒はすっと後ろに消えてしまい、北へ向かう一本道になった。
八瀬(ヤセ)の国道沿いの食堂に寄って、にしん蕎麦を食べた。
昼食を終えて外へ出、あたりの野の風景を眺めたとき、都を捨ててここまでやって来た都人の感慨を感じた。
車を走らせて大原の里に入ると、その感は一層深まった。
大原には里という言葉がよく似合う。ただ、里と言っても、ふつうの農村風景とは違う。鄙びた田舎の景色の中にも、都の雅(ミヤ)びがほのかに感じられる。そこが私の住む大和の風景と違うところだ。
今は行政的には京都市の左京区だが、遡れば山城国愛宕郡小野郷大原だった。
小野は八瀬と大原を含む郷で、『伊勢物語』の主人公・在原業平が仕えた惟喬親王(コレタカノミコ)が、思いがけずも出家隠棲した地である。
「正月にをがみたてまつらむ(拝顔しよう)とて、小野にまうでたるに、比叡の山の麓なれば、雪いと高し」(伊勢物語)。
大原は比叡山の西麓であるから、雪が降る。そして、比叡山天台宗の領域である。「大原」という地名も、比叡山の円仁が修練道場として開山した大原寺(ダイゲンジ)に由来するのではないかという。円仁は最澄の弟子で、天台教学を完成した人である 。
(大原の里)
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<京都 大原 三千院 >
京の梶井門跡とか梨本門跡と呼ばれていた門跡寺院が大原の里へ移って、名も三千院と改めたのは、明治4年である。「大原三千院」としての歴史は、意外に浅い。
しかし、寺の起源は、天台宗の開祖・最澄が比叡山中に結んだ草庵「円融坊」に遡るという。
やがて、大津の坂本に本拠を移し (円融院、また、梶井宮とも呼ばれた)、その後、火災や戦乱によって京都市内を変遷した(名も梨本門跡、梶井門跡などと呼ばれた)。
平安時代の後期には親王が入って住職を務めたりして、後に門跡寺院となった。
明治4年に門跡制度が廃されたとき、なぜ大原の地が選ばれたかというと、古くからここに当院の政所(事務局)が置かれていたからである。
(三千院の石垣)
それにしても、三千院がもと門跡寺院であったという風格は、正門の両側に巡らされた石垣や白壁からも感じることができる。石垣は近江坂本の穴太(アノウ)衆が築いたものである。
「御殿門」を入り、拝観順路に従って進んだ。
「客殿」はもと大原寺の政所があった所とか。周囲を池泉観賞式の庭園が囲んで、部屋から庭園を観賞することができる。
こういう所を訪ねると、自分も当主になったつもりで庭の見える座敷に坐ってみる。この部屋で読書をし、ものを書き、飽きれば庭を眺め、樹木の陰影に自然の気を感じ、茶を飲み、なお無聊であれば庭をそぞろ歩く。そういう日々を想像すると悪くない。春と秋の自然の移ろいは美しく、夏の蝉の声も風情があるかもしれない。だがしかし、冬の寒さは火鉢ぐらいでは防ぎようがなく、相当に耐えがたいだろう。
客殿に続く「宸殿」は当院の本堂に当たる建物で、宮中の紫宸殿を模して造られているとか。宮中で行われていた声明による法要をここに移した。玉座も設えてある。明治の新政府には国粋主義の人たちも幅をきかせていて、宮中から仏教色を一掃した。
宸殿から庭に出ると、苔の美しい池泉回遊式庭園である。紅葉はすでに盛りを過ぎ、紅はやや茶褐色を帯びてきていた。
苔と高い樹木に囲まれて、小さなお堂がひっそりと建っている。国宝の阿弥陀三尊を収める「往生極楽院」である。
(往生極楽院)
中尊の阿弥陀如来は座像だが、小さなお堂の中で一層大きく見える。左には観音菩薩、右には勢至菩薩が配置され、両菩薩は少し前かがみに跪いた姿勢でわれら衆生を迎えてくれる。
向かって左側の勢至菩薩の像に触れれば万病が治るとされ、学生時代に訪れたとき、多くの人々にさすられてその豊かな右ひざが光沢を帯びて艶めかしい。事前にそう教授に教えられていたが、本当にそのとおりだったので感動した。今はロープが張られて人々との間が仕切られ、いたずらに埃に黒ずんでいる。
往生極楽院は、もとは梶井門跡の政所に隣接した、独立した寺院だった。明治4年に梶井門跡が本拠を大原に移転して三千院となったとき、吸収合併されて境内に取り込まれた。
そう思ってみると、もと門跡寺院として貴族的な風格を感じさせる三千院の中で、ここだけが侘びとか寂びの風情である。
往生極楽院から、高々と樹木の聳えるゆるやかな石段を上がっていくと、奥に「金色不動堂」、さらに上に「観音堂」があった。
境内の散策路を一巡して、最後に収蔵庫の「円融蔵」の中を見学した。ここには往生極楽院の舟底型天井にわずかに残る絵が復元・模写されていた。極楽浄土にもろもろの菩薩が浮かび、天には天女が舞っている光景が、極彩色で描かれていた。
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<日本的な美とは>
何十年ぶりに三千院を拝観して思うに、京都の寺院の魅力は門跡寺院にあり、それは庭園と一体となった貴族的で洗練された美ではないかと改めて思った。それが日本の美の真髄として認識され、日本人にも外国人にも人気がある。
だが、司馬遼太郎は『街道をゆく 叡山の諸道』の中で、天台宗系の門跡寺院の一つである曼殊院を見学したあと、このように書いている。
「…… 寺というよりも、江戸時代の公家の教養人というのは、こういうたたずまいのなかで住みたかったのかということがわかるし、逆算していえば、この建物や庭園にふくまれている思想から、かれらの美意識や教養、人生観などを汲みとることができる」。
国民的作家と言われる司馬遼太郎は、京の貴族的な美意識に必ずしも共感していないようだ。何しろ、鎌倉武士や、戦国時代の斉藤道三や織田信長、幕末の坂本龍馬や土方歳三のような人を、日本の歴史を彩った人々として語ってきた作家だから。
私も若い日には京の美に圧倒されたが、今は大和盆地の中の古代の息吹や、大和の諸寺のもつ学問修養的な簡素さ、或いはまた、吉野の山奥の神仏混淆的な修験の世界の方に親しみを感じる。年のせいだろう。
このあと、寂光院へ向かった。
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