ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

朽木(クツキ)街道をゆく … 近江の国紀行3

2022年02月21日 | 国内旅行…近江の国紀行

 (安曇川沿いに国道367号線を北上する)

 京都の街を出て、国道367号線を高野川沿いに北上すれば、やがて八瀬、大原の里へ到る。

 京都~大原間を路線バスが通うようなったのは大正12(1923)年。ただし、戦前も戦後も、昭和の時代のローカルバスは未舗装の凸凹道路を走った。

 京都~大原間が舗装されたのは昭和42(1967)年。「京都 大原 三千院 恋に疲れた女がひとり」がヒットした翌々年である。そして、大原にも観光ブームが訪れる。

 今は、国道367号線は全舗装されて、北陸の若狭まで通じている。

   ★   ★   ★

<比良山系の尾根道から>

 京都大原を出発し、山間の道(367号線)を北上する。

 この道路は一般に「若狭道」と言われるが、古くは「朽木街道」とも呼ばれた。

 もちろん、道幅が広げられ完全舗装された367号線は、旧朽木街道の上をそのままたどっているわけではない。

 進行方向の右手が比叡そして比良の山並み。左手は京都の鞍馬の奥に続く山並みだ。

 現在の国道も、旧朽木街道も、その間の峡谷を行く道であるから、見る景色に大きな違いはないであろう。

 コロナ禍のせいもあるのか、行き交う車は少なく、走りやすい。

 花脊峠へ行く分岐を通り過ぎると、県境を越えて滋賀県に入った。

 いつの間にか高野川の流れも尽きて、見なくなる。

 その名もゆかしい花折峠は、峠の下のトンネルの中を走り抜け、何の風情もない。その昔は峠越えをしたのだろう。

 せせらぎが現れたが、北へ向かって流れている。分水嶺を越えたのだ。安曇(アド)川の上流である。

 車を停めて冒頭の写真を撮った。山裾の、流れが見える所まで枯草を分けて行こうかと思ったが、ズボンが「ひっ付き虫」だらけになるだろうと思ってやめた。(ひっ付き虫は「虫」ではありません。念のため)。

                 ★

 20代の頃、山男の友人に導かれて、一緒に山登りをした時期があった。

 夏、北アルプス、南アルプス、中央アルプスの幾つかの縦走路を歩いた。

 しかし、すでに職を持つ身だから、ふだんは日曜日に、近くの低山を日帰り登山した。暮れから正月の休みには、1、2泊で畿内の冬山に登ったりもした。

 冬の京都・鞍馬の奥の山々は標高千mに足りないが、山が深く、湿気を含んだ積雪で、聳え立つ針葉樹林の暗い山道を黙々と歩いた。

 一方、その東側に聳える比良山系は最高峰が武奈ケ岳の1214mで、やや高山の趣があって好きだった。樹林帯の急峻な山道を登って尾根に出れば、眼下に琵琶湖や遠くの山々を見渡すことができた。無人小屋に泊まって、朝、人けのない積雪の上をアイゼンを付けた登山靴でゆくと、粉雪がギシッギシッと軋む感触が心地よかった。

 その当時、琵琶湖の南岸の浜大津から湖西の近江今津まで単線の江若鉄道が走っていた。この鉄道を利用して、琵琶湖側から比良山系へ登頂し、下山も琵琶湖側に下った。

 だが、琵琶湖の反対側(西側)の峡谷の方へ下山すれば路線バスが通っていることを知っていた。地図を見ると、バスは栃生、坊村、花折峠、途中などというゆかしい名の村落を走り、大原を経て京都市内に到る。そちら側へ下山してみたいと心ひかれたが、尾根から谷筋までの下山にどれくらい時間がかかるかわからない。山道を迷いながらバス停まで下りた時、その日のバスが行ってしまっていたら、野宿しなければならなくなる。明日の勤務を考えれば冒険はしにくかった。

      ★

<信長の朽木越え>

 この山峡の道に、もう一度心ひかれるようになったのは、歴史に興味をもってからである。この峡谷は、信長の「朽木越え」の道だった。

 元亀元(1570)年、織田信長は越前の朝倉氏を攻めようと敦賀に大軍を集結させ、攻撃を開始した。そのとき、北近江を支配する浅井長政の離反を知る。前面に朝倉勢、後方からは浅井勢に挟撃される形になった。信長は全てを放り捨て、湖西の峡谷を通る古道を、ほとんど単騎で走り抜けて京まで逃げ戻った。

 織田信長は中世を終わらせ、近世の扉を開いた人物である。すでに北条早雲や斎藤道三など、古い権威を背負った守護大名を滅ぼしてのし上がった戦国大名たちがいたが、彼らの中から現れた信長が時代を大きく回転させた。

 足利義昭を奉じて上洛して以後の信長は、畿内でも、畿内のさらに向こうの東の世界からも、西の世界からも、幾重もの政治的、軍事的包囲網のただ中に置かれた。それは、並みの人間ならば迫りくるものへの恐怖で、破れかぶれになるほどの孤独な戦いだった。しかし信長は、その死までの十数年の間、あの桶狭間の戦いのような無謀ともいえる突撃戦は二度としなかった。迫ってくる敵の軍勢の足音に耐えながら、鉄砲三千丁を揃え、その後に武田軍団を迎え撃った。1年近くもかけて誰も見たことがない巨大な軍船を建造し、毛利水軍を撃破した。ぎりぎりまでしのいで時を稼ぎ、その間に勝つに必要な準備を積み上げ、合理的、かつ周到な準備してから決戦に出た。どこか異国の香りのする安土城の建設を含め、その精神の孤独な強靭性と合理的な天才性は、日本史の上でも稀有な存在と言えるだろう。

 そして、この朽木越えの逃走劇も、いかにも信長らしい合理主義を感じて興趣深い。

 前後を絶たれ、袋のネズミとなった信長は、即座に決断し、全てを放り捨てて、ほとんど単騎で間道を逃走した。

 その結果が、自分の命を救っただけでなく、信長の軍団をほとんど無傷で退却させることにつながった。御大将を守りながらの退却戦は苦しい。包囲され、じりじりと消耗していき、最後は全滅に到る。ところが、御大将が真っ先に命からがら遁走しているのだから、諸将たちも頑張って良いところを見せる必要はない。それぞれに率いる軍をなるべく戦わぬよう、犠牲少なく、粛々と退却させる、言い換えれば、御大将のように逃げることに専念したらよいのだ。

 以下、司馬遼太郎による。

司馬遼太郎『街道をゆく1』(湖西のみち)から

 「信長のおもしろさは桶狭間の奇襲や、長篠の戦いの火力戦を創案し、同時にそれを演じたというところに象徴されてもいいが、しかし、それだけでは信長の凄味がわかりにくい。この天才の凄味はむしろ朽木街道を疾風のごとく退却して行ったところにあるであろう」。

 「包囲されたとはいえ、信長の側は、圧倒的大軍だったから、たとえば上杉謙信のように自分の勇気を恃(タノ)む者は乱離骨灰(ラリコッパイ)になるまで戦うかもしれず、楠木正成なら山中でゲリラ化して最後には特攻突撃するかもしれず、西郷隆盛なら一詩をのこして自分のいさぎよさを立てるために自刃するかもしれない」。

 「信長は中世をぶちやぶって、近世をまねきよせようとした。時代を興す人間というのは、おのれ一己のかっこ悪さやよさなどという些事に、あたまからかまっていないものであるらしい」。

 「 その魅力の最大のものの一つは、元亀元(1570)年4月、この街道を猛烈な勢いで退却したことにあるのではないか と思うのである」。

 信長に朽木越えの道を進言したのは松永久秀だったらしい。彼は京から若狭へ行くのに「朽木谷」という長い渓谷があり、その谷にひとすじの古道が走っていて、人里もあることを知っていた。

 朽木谷には、朽木元綱(クツキ モトツナ)という領主がいた。松永久秀は元綱とは旧知で、先行して元綱と話をつけた。

 このときの朽木元綱の側に立てば、主従数騎に過ぎない信長を討ち取ることもできたはずだ。

 だが、もともと朽木氏は、近江源氏と言われる佐々木氏の分家筋で、同族の京極氏から北近江を奪った新興の浅井氏に敵対的感情を抱いていた。その上、朽木氏は、小なりといえども、遠く足利尊氏の時代から「足利将軍」への思いが深い一族だった。信長は今、将軍・足利義昭を奉じて戦っているのである。

 剛毅な元綱は即座に決断し、その夜は信長を館に泊め、翌日、京まで落ち延びさせたのである。

 元綱はそれ以後、織田家に直属することになり、信長のあとも豊臣政権に従った。その後、関ヶ原の時には危ない橋も渡ったらしいが、ともかく朽木氏は徳川時代を通じて1万石にやや欠けるこの地の領主として生き延び、明治維新を迎えて、今に至る。(参考 : 『街道をゆく1』の「湖西のみち」)

        ★

<日本遺産の鯖寿司>

 安曇川に沿って走り、比良山系の最高峰の武奈ケ岳の西麓、坊村を過ぎる。もうすぐ朽木の村だ。 

 若狭街道は「鯖街道」とも言われた。日本海の鯖を京都に運んだのである。車のなかった時代、丸一日を要したが、京都に着く頃には塩がしみ込んで食べごろになっていたそうだ。ただし、冬の鯖街道は降雪が深く、危険な道だったらしい。

 2015年、文化庁は日本遺産の最初の18件の一つとして、「海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群 ─ 御食国若狭と鯖街道」を選んだ。

 車で走っていると、「鯖寿司」の看板の掛けられた食堂があった。

   山間の道とはいえ国道沿いだから、コロナ下でなければもう少し車の往来もあり、客もいるのだろうが、店内に客はいなかった。

 しかし、ほっぺたが落ちるほど美味かった。安い値段なのに、まさに日本遺産級である。

 ご主人が、うちの裏に旧朽木街道が残っていますよと教えてくれたので、行ってみた。完全舗装された国道ができるまでは、こういうローカルな道だったのだ。

  (元の朽木街道)

 (つづく)

 

 

 

 

 


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